朝日バッシングの動きは、傍観しておられない。バッシングされているのは、「朝日」が象徴する戦後民主々義だからである。
朝日が戦後民主々義の正統な継承者であるかの議論は措く。虚像にもせよ攻撃する側の認識においては、「朝日=唾棄すべき戦後民主々義」なのだ。朝日叩きを通じて、「戦後」と「民主々義」とが叩かれている。叩かれっぱなしとするわけにはいかない。
時代の空気が、安倍のいう「戦後レジームからの脱却」や「(戦後レジーム以前の)日本を取り戻す」に染まりつつある。むしろ、そのような時代の空気が安倍を押し上げたのだろう。
朝日へのバッシングにおいて、戦前から断絶したはずの戦後が意識的に否定されている。具体的に攻撃されているものは、朝日が体現する歴史認識であり、その歴史認識が結実した日本国憲法であり、平和・民主々義・人権という理念にほかならない。だから、「従軍慰安婦問題」がメインテーマとなっているのだ。テーマだけではなく、その主張の乱暴さに驚かざるをえない。とうてい、放置してはおられない。
本日の朝日社会面の「メディアタイムズ」が、朝日バッシングのすさまじさをよく伝えている。
「慰安婦報道にかかわった元朝日新聞記者が勤める大学へ脅迫文が届き、警察が捜査を進めている。インターネット上では、元記者の実名を挙げ、「国賊」「反日」などと憎悪をあおる言葉で個人攻撃が繰り返され、その矛先は家族にも向かう。暴力で言論を封じることは許せないと市民の動きが始まった。」
標的とされた北星学園大学(札幌)は、「9月30日、学生と保護者に向けた説明文書の中で初めて、U氏の退職を求める悪質な脅迫状が5月と7月に届き、北海道警に被害届を出したことを明らかにした。3月以降、電話やメール、ファクス、手紙が大学や教職員あてに数多く届き、大学周辺では政治団体などによるビラまきや街宣活動もあった」という。
「ネット上で、大学へ抗議電話やメールを集中させる呼びかけが始まった。3月、大学側が『採用予定だったU氏との雇用契約は解消されました』とホームページで公表すると、ネットには『吉報』『ざまぁ』の書き込みが相次いだ」とのこと。記事中にあるとおり、「もはやUさんだけの問題ではない。大学教育、学問の自由が脅かされている」
また、「帝塚山学院大(大阪府大阪狭山市)にも9月13日、慰安婦報道に関わった元朝日新聞記者の人間科学部教授の退職を要求する脅迫文が届き、府警が威力業務妨害容疑で調べている。元記者は同日付で退職した」とのこと。
さらに、ネットの書き込み自体も大きな問題だ。「ネットに公開していない自宅の電話番号が掲載されていた。高校生の長女の写真も実名入りでネット上にさらされた。『自殺するまで追い込むしかない』『日本から、出ていってほしい』と書き込まれた。長男の同級生が『同姓』という理由で長男と間違われ、ネット上で『売国奴のガキ』と中傷された」ともいう。これにも、適切な法的措置が必要だ。
北星学園事件と帝塚山学院事件、そしてネットでの中傷。いずれもまことに卑劣な行為。あきらかに、威力業務妨害、脅迫、強要、名誉毀損、侮辱などの犯罪に該当する。徹底した刑事事件としての訴追が必要であり、再発防止には処罰が有効だろう。
五野井郁夫・高千穂大准教授のコメントが適切である。
「民主主義の要である言論の自由を暴力で屈服させるテロ行為と等しく、大変危険だ」「言論を暴力で抑圧してきた過去を日本社会は克服したはずなのに、時代が逆戻りしたかのようだ。私たちはこうした脅しに屈してはいけない」
まったく同感である。一連のバッシングを「言論の自由を暴力で屈服させるテロ行為に等しい」との認識が定着しつつある。産経新聞ですら、「報道に抗議の意味を込めた脅迫文であれば、これは言論封じのテロ」「言論にはあくまで言論で対峙すべきだ」と社説で主張している。
ところが、比喩としての「言論によるテロ」ではなく、本物のテロの実行を煽る言動まで表れている。石原慎太郎「国を貶めて新聞を売った『朝日』の罪と罰」(『週刊新潮』10月9日号)がそれである。何とも驚くべき暴論。
「私と親しかった右翼活動家の野村秋介さんが、朝日新聞東京本社に乗り込んだ事件がありました。九十三年十月のことで、当時の中江利忠社長らに説教して謝罪させたあと、社長の目の前で自分のわき腹に向けて拳銃を放ち、自殺してしまいました。
私は通夜に行って、『野村なんでこんな死に方をしたんだ、なんで相手と刺し違わなかったんだ』と言いました。彼は朝日新聞に対して、命がけで決着をつけるべきだったのです。そうすれば、彼らはもう少しまともな会社になっていたのではないか。朝日が国を売った慰安婦報道をひっくり返した今、なおさらそう思います。
朝日新聞は、これだけ国家と民族を辱めました。彼らがやったことは国家を殺すのと同じことで、国家を殺すというのは、同胞民族を殺すことと同じです。彼らはいつもああいうマゾヒズム的な姿勢をとることで、エクスタシーを感じているのかもしれませんが、朝日の木村伊量社長は、世が世なら腹を切って死ななければならないはずだ。彼らの責任はそれくらい重いと思います。
三島由紀夫は生前、『健全なテロがないかぎり、健全な民主主義は育たない』と言いました。私は、これにはパラドックスとして正しい面があると思います。
野村秋介は六十三年に、当時建設大臣だった河野一郎邸に火をつけました。河野は代議士になる前は朝日新聞の記者で、典型的な売国奴のような男でしたが、那須の御用邸に隣接する上地を持っていて、御用邸との境界線争いが起きたとき、境界をうやむやにするために雑木林に火をつけさせたといわれた。
それで御用邸の森の一部も燃えてしまい、泉も涸れてしまい、天皇陛下も大変悲しまれました。そのことが右翼全体の怒りを招き、結局、児玉誉士夫が騒ぎを収めたのですが、野村はそれでは納得できず、河野邸を燃やしたのです。
野村はそれで十二年間、刑務所に入りました。もちろん放火という行為は推奨できないが、命懸けだった。少なくとも昔の言論人は命懸けで、最近、そういう志の高い右翼はまったくいなくなりました。今は、朝日が何をしようと安穏と過ごせる、結局うやむやにして過ごせる時代です」
これは、殺人と放火と業務妨害とを唆し煽る行為である。犯罪を煽動するものとして言論の自由の範疇を超えるものと言わなければならない。自分は安全な場所にいて、他人にテロをけしかけているという意味において卑劣な言動でもある。社会は、このような言論を許してはならない。筆者も筆者だが、新潮の責任も大きい。
今日の東京新聞「本音のコラム」に鎌田慧「軽率な謝罪」が、石原の記事に触れて正論を語っている。
「右派ジャーナリズムあおりに便乗して、石原慎太郎さんは朝日を廃刊にせよ、不買運動を、とアジっている。邪魔な新聞はつぶせ、という政治家の暴論だ」「盥の水と一緒に赤子(報道の自由と民主々義)を流すな」
石原慎太郎が「朝日の不買を」というのなら、私は定期購読を再開しよう。実は、朝日の姿勢に不満あって、ここしばらく定期購読はやめていたのだ。同じように、他紙に乗り換えた人は私の周りに少なくない。しかし、小異にこだわらず朝日を応援しよう。周囲にも朝日回帰を呼びかけよう。朝日が現場の記者を擁護してバッシングと闘い続ける限り、ささやかながら朝日を支え続けよう。
(2014年10月7日)
各紙の本日(8月27日)夕刊の報道によれば、経団連は来月にも会員企業への政治献金呼びかけを再開する予定という。これは、「政治をカネで買おう」「政策をカネで買いつけよう」という卑しい行為の呼びかけではないか。主権者国民にとって黙っていられることではない。
榊原定征経団連会長は、6月の就任時に「安倍晋三政権との二人三脚で日本経済の再生に取り組む考え」を強調している。二人三脚で実現しようとという政策とは、原発再稼動であり、原発輸出であり、武器輸出であり、消費増税であり、企業減税であり、TPPも、労働基準法のなし崩しも、福祉切り捨ても、企業のための教育再生も…。要するに、庶民泣かせの企業優先政策ではないか。こんな安倍自民党に財界がカネを注ぎこむことは、壮大な「政治の売買」「政策の売買」以外のなにものでもない。
経団連の側からみれば、「大きな儲けのための、ほんのささやかな投資」であり、安倍自民の側からは「スポンサーからのありがたいご祝儀」なのだ。持ちつ持たれつの腐れ縁である。
政治献金とは宿命的に見返りの期待と結びついている。企業はその利益のためにカネを出すのだ。たとえ、目先の利益ではない遠い先の利益であっても、利益と結びつかないカネの支出は株主の許すところではない。中小企業家は中小企業家なりの利益のために、労働組合はその組合員の利益のために。そして、力も名もない庶民は、庶民としての自分のささやかな利益を実現する政党・政策のために貧者の一灯をともすのだ。
大企業や大金持ちが、多額のカネを拠出するとき、政治や政策をカネで買ってはならないと批判しなければならない。一方、庶民の零細な資金が集積されて政治に反映されるときには、民主政治の健全な在り方と積極評価されることなる。それが当たり前のことなのだ。民主主義社会においては、数がものをいうのが当然で、カネの多寡にものを言わせてはならないのだ。
政治資金規正法は、ザル法と言われながらも、世論が厳しくものを言う度に、ザルの目は少しずつではあるが密になってきている。また、これまで5年間も経団連が献金あっせんして来なかったのも、世論に遠慮してのこと。すべては世論次第。
確認しておこう。政治資金規正法は、どこまでザルの目を細かくしてきたか。会社・労働組合から、政治家個人・資金管理団体への献金は禁止されている。企業・労働組合から、政党・政治資金団体への献金は許されているが、その規模に応じて年間750万円?1億円の限度が設けられている。また、法の趣旨は、政治献金を奨励するものではない。積極的に献金を公開することで透明性を確保し、国民の監視と批判を期待しているのだ。
ところがいま、経団連には安倍自民と二人三脚で持ちつ持たれつの取引をしても、世論の風当たりは大したことはないと見えているのだろう。これにきついお灸をしておかないと取り返しの付かないことになる。
大企業や大金持ちから献金を受けている政党に、庶民のための政治を期待することがそもそも無理な話。政治資金の流れに目を光らせ、賢い庶民の投票行動を期待するのが民主政治である。
安倍政権には、思い知らさねばならない。財界との蜜月の関係は、政権与党に潤沢な政治資金をもたらすののかも知れないが、民衆からの支持の離反を招くものであることを。
(2014年8月27日)
今日は処暑。処とは、足と台とを組み合わせて、床几に落ちついている様を表す会意文字だという。処暑とは、暑さ落ち着くの意なのだろう。あるいは、処分・処断の処と解せば、暑さの始末がつくという意味であろうか。
旧暦でのこととはいえ残暑の厳しさも心なし和らいできているよう。夏も終わりに近い。
日本中が自然の猛威になすすべも無く翻弄された今年の夏。報じられている各地の災害はまことに傷ましい。それと較べれば些細な私事であるが、私も自然界による逆襲を受けた。
クロスズメバチの襲撃に遭って、痛い目にあったことは前のブログでお知らせした通り。たいしたことにならず、ホッとしていたら、追い打ちをかけるように、今度はキイロスズメバチに指と上唇の2カ所を刺されてしまった。その痛さはクロスズメバチの比ではない。釘を打ち込まれるようだという表現があるけれど、たしかに釘をバチンと打ち込まれればこんな感じかもしれない。指の付け根を刺されたら、みるみるうちに手全体は無論、前腕の半分ほどがパンパンにふくれあがった。焼き芋に5本のウインナーソーセージをぶらさげたよう。上唇のほうは、鼻の下だけが思いっきりはれあがって、カモノハシのようになり、よほど注意をしないとよだれが垂れるままのだらしない状態となった。
今でこそ余裕をもって報告できるが、刺されたときは深刻だった。これで三回目、合計7匹のスズメバチの毒を受けたことになるのだ。「もうダメかも知れない。アナフィラキシーショックで入院か」という思いが頭をかけめぐった。
しかし、クロスズメバチに刺されたときに学んでいたことが役に立った。水道水で徹底的に洗い流して、氷でひやした。痛いやら怖いやらでビクビクものだったが、またもや、冷静沈着な行動をとった私の勝ち。
3日間はふくれあがったが、後は徐々に回復。2日ほどは食事をするのが嫌になるほど痛かったが、3日以降は痒くて痒くてたいへん。でも、それだけのことだった。
ハチ毒に対するアレルギーは人それぞれ、場合によりけりらしいので、絶対に次回も安心できるとおもわない。油断大敵と厳しく自戒している。
スズメバチといえども、むやみやたらに攻撃するわけでは無い。巣に対する攻撃にたいして自衛の個別的自衛権を発動するするだけのことらしい。私が刺された状況に照らして、その説明は十分納得できる。クロスズメバチの場合はうっそうとしたウツギの大枝を切ってドサリと下に落としたときに刺された。キイロスズメバチの場合はツバキの上にからまったヤブガラシを引っ張りおろすために、ユッサユッサと揺らしたときに刺された。いずれも、一族の城に対する侵略への自衛措置である。
ちょうどイスラエルがガザで虐殺ともいえる攻撃をしている時期だったので、妙にスズメバチに同情する心がわきおこって、憎んだり怒ったりする気持ちにはなれなかった。「突然驚かしてゴメンね」と言ってみたが、通じてはいなかったようだ。
そんな同情心を持つにいたったのにはもう一つ理由がある。前回攻撃されたクロスズメバチの巣を見つけたのだ。愚かなことに、クロスズメバチは地面に直接、直径40センチほどの穴を掘って、その中に巣を作っていたのだ。近づくと兵隊蜂がワンワンと飛び出してきた。これだなと思って、蚊取り線香に火をつけて放り込むと、あたりまえのことだが、ますます大勢で飛び出してくる。位置の確認はできたが、内部構造まではわからない。そうこうしているうちに、台風11号による大雨が降った。土砂が穴を覆ってしまい、スズメバチの巣は閉じ込められてしまった。大雨という自然災害にはさしものスズメバチもなすすべが無かったとみえる。可哀想なことに、全滅した様子。できることなら、私がやったんじゃ無いとスズメバチに伝えて、誤解を解きたいと心から思う。
ところで、巣の作り方の教訓は子孫に伝わるのだろうか。来年は目立たない崖に、横穴を掘るべきであって、垂直に掘り下げる巣作りは危険だという死活的に重要な教訓は伝承できるのだろうか。伝承できなければ、クロスズメバチ一族の未来に希望はない。
人間はスズメバチとちがって、言い伝えたり、本に書き残したり、映像化したり、教訓を残す方法をたくさんもっている。
ところが、戦争に懲りたはずのこの日本が、またもや戦争ができる国になりそうな事態を迎えている。本当に人間はスズメバチより利口なのだろうか。せっかく手にした教訓と教訓伝承の手段は役に立たないのだろうか。
もしかしたら、本当に痛みを体験した者だけにしか、教訓は伝わらないのではなかろうか。スズメバチに刺された痛さだって、人に伝えることは難しい。戦争の悲惨さも同じことなのかも知れない。
しかし、人間が学びを積み重ね、伝承できないスズメバチと同じであってはならない。人間が虫けらのように殺されていくのが戦争だ。どんなに困難なことだとしても、その悲惨さと、繰り返してはならないとする教訓を、あらん限りの知恵を発揮して伝承しなければならない。
まだまだ間に合う。今一度の戦争はなんとしても防がなければならない。痛い目にあって、スズメバチから得たこの夏の「痛い教訓」。
(2014年8月23日)
本日、安倍晋三首相の資金管理団体である晋和会の会計責任者と安倍晋三首相本人の両名を被告発人として、政治資金規正法違反の告発をした。
告発事案は、晋和会の政治資金収支報告書の寄付者の「職業」記載に、16か所の「虚偽記載」があること。「虚偽記載」は、故意だけでなく重過失を含むものと定義されている。会計責任者が刑事責任の対象となった場合、原則として資金管理団体の代表者の監督責任も問われることになる。
監督責任者としての被告発人安倍晋三の刑が確定すれば、公民権停止となる。その場合、公選法99条によって当然に議員としての地位を失う。議員でなくなれば、首相の座も失うことになる。
本日午前11時、醍醐聰さんと私と神原弁護士とで、東京地検に告発状を提出してきた。今後の成り行きを注目したい。
告発状の全文を紹介する。
なお、下記URLを開いてもらえば、同文をクリーンな書式で読むことができる。
http://article9.jp/documents/告発状.pdf
2014年8月18日
告 発 状
東京地方検察庁 御 中
告 発 人 醍 醐 聰
同 湯 山 哲 守
同 斎 藤 貴 男
同 田 島 泰 彦
告発人代理人弁護士 澤 藤 統一郎
同 阪 口 徳 雄
同 神 原 元
同 藤 森 克 美
同 野 上 恭 道
同 山 本 政 明
同 茨 木 茂
同 中 川 素 充
被 告 発 人 ○ ○ ○ 美
同 安 倍 晋 三
告 発 の 趣 旨
被告発人○○○美ならびに同安倍晋三に、それぞれ下記政治資金規正法違反の犯罪行為があるので、この事実を申告するとともに厳正なる処罰を求める。
被疑事実ならびに罰条
1 被告発人○○○美は、2011(平成23)年当時から現在に至るまで政治資金規正法上の政治団体(資金管理団体)である「晋和会」(代表者 安倍晋三、主たる事務所の所在地 東京都千代田区永田町2?2?1 衆議院第一議員会館1212号室)の会計責任者として、同法第12条第1項に基づき同会の各年の政治資金収支報告書を作成して東京都選挙管理委員会を通じて総務大臣に提出すべき義務を負う者であるところ、2012年5月31日に「同会の2011(平成23)年分収支報告書」について、また2013年5月31日に「同会の2012(平成24)年分収支報告書」について、いずれも「寄附をした者の氏名、住所及び職業」欄の記載に後記「虚偽記載事項一覧」のとおりの各虚偽の記載をして、同虚偽記載のある報告書を東京都選挙管理委員会を通じて総務大臣宛に提出した。
被告発人○○○美の以上の行為は同法第25条第1項3号に該当し、同条1項によって5年以下の禁錮または100万円以下の罰金を法定刑とする罪に当たる。
2 被告発人安倍晋三は、資金管理団体「晋和会」の代表者として、同会の会計責任者の適正な選任と監督をなすべき注意義務を負う者であるところ、同会の会計責任者である被告発人○○○美の前項の罪の成立に関して、同被告発人の選任及び監督について相当の注意を怠った。
被告発人安倍晋三の以上の行為は、政治資金規正法25条第2項に基づき、50万円以下の罰金を法定刑とする罪に当たる。
3 虚偽記載事項一覧
2011(平成23)年分 (2012年5月31日作成提出)
・寄付者小山好晴について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「NHK職員」あるいは「団体職員」
・寄付者小山麻耶について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「会社員」
・寄付者周士甫について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「会社員」
(以下略)
2012(平成24)年分 (2013年5月31日提出)
・寄付者小山好晴について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「NHK職員」あるいは「団体職員」
・寄付者小山麻耶について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「会社員」
・寄付者周士甫について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「会社員」
(以下略)
4 本件虚偽記載発覚の経緯
本件の発覚は、NHKの職員(チーフプロデューサー)である小山好晴が有力政治家安倍晋三(現首相)の主宰する政治団体(資金管理団体)に政治献金をしていることを問題としたマスメディアの取材に端を発する。
「サンデー毎日」本年7月27日号が、「NHKプロデューサーが安倍首相に違法献金疑惑」との見出しを掲げて報道した。同報道における「NHKプロデューサー」とは小山好晴を指し、「NHK職員による安倍首相への献金の当否」を問題とするものであった。また、同報道は小山好晴の親族(金美齢)の被告発人安倍晋三への献金額が政治資金規正法上の量的制限の限度額を超えるため、事実と認定された場合は脱法行為となる「分散献金」を隠ぺいするために小山好晴からの名義借りがあったのではないかという疑惑を提示し、さらに、政治資金収支報告書上の寄付者小山好晴の「職業」欄の「会社役員」という表示について、これを虚偽記載と疑う立場から検証して問題とするものであった。
小山好晴が「NHK職員」であることは晋和会関係者の知悉するところである。政治資金規正法(12条第1項1号ロ)によって記載を義務付けられている「職業」欄の記載は、当然に「NHK職員」あるいは「団体職員」とすべきところを「会社役員」と記載したことは、被告発人安倍晋三に対するNHK関係者の献金があることをことさらに隠蔽する意図があったものと推察される。
「サンデー毎日」が上記記事の取材に際して小山好晴らに対して「会社役員」との表示は誤謬ではないかと問い質したことがあって、その直後の7月11日晋和会(届出者は被告発人○○)は小山好晴の「職業」欄の記載を、「会社役員」から「会社員」に訂正した。しかし、小山は「会社員」ではなく、訂正後の記載もなお虚偽記載にあたる。
晋和会(届出者は被告発人○○)は、7月11日に寄付者小山麻耶(小山好晴の妻・金美齢の子)についても、「会社役員」から「会社員」に訂正している。この両者について、原記載が虚偽であったことを自認したことになる。
さらに7月18日に至って、晋和会(届出者は被告発人○○)は、自ら、後記「虚偽記載一覧」に記載したその余の虚偽記載についても訂正届出をした。合計16か所に及ぶ虚偽記載があったことになる。
告発人において虚偽記載を認識できるのは寄付者小山好晴についてのみで、その余の虚偽記載はすべて政治資金収支報告書の訂正によって知り得たものである。当然に、訂正に至らない虚偽記載も、訂正自体が虚偽である可能性も否定し得ないが、告発人らは確認の術を持たない。
5 本件各記載を「虚偽記載」と判断する理由
政治資金規正法第12条第1項・第25条第1項の虚偽記載罪の構成要件は、刑法総則の原則(刑法第38条第1項)に従って本来は故意犯と考えられるところ、政治資金規正法第27条第2項は「重大な過失により第25条第1項の罪を犯した者も、これを処罰するものとする」と規定して、重過失の場合も含むものとしている。
その結果、「虚偽記載」とは行為者が「記載内容が真実ではないことを認識した場合の記載」だけでなく、「重大な過失により誤記であることを認識していなかった場合の記載」をも含むものである。
告発人らは、被告発人○○に、寄付者小山好晴の職業欄記載については、故意があったものと思料するが、構成要件該当性の判断において本件の他の虚偽記載と区別する実益に乏しい。
刑法上の重過失とは、注意義務違反の程度の著しいことを指し、「わずかな注意を払いさえすれば容易に結果回避が可能であった」ことを意味する。本件の場合には、「わずかな注意を払いさえすれば容易に誤記であることの認識が可能であった」ことである。
本件の「虚偽記載」16か所は、すべて被告発人○○において訂正を経た原記載である。小山好晴の職業についての虚偽記載を指摘されて直ちに再調査の結果、極めて容易に誤記であることの認識が可能であったことを意味している。すべてが、「わずかな注意を払いさえすれば容易に誤記であることの認識が可能であった」という意味で、注意義務違反の程度が著しいことが明らかである。
以上のとおり、被告発人○○の行為は、指摘の16か所の記載すべてについて、政治資金規正法上の虚偽記載罪の構成要件に該当するものと思料される。
なお、被告発人○○の犯罪成立は、虚偽記載と提出で完成し、その後の訂正が犯罪の成否に関わるものでないことは論ずるまでもない。
6 被告発人安倍晋三の罪責
政治資金規正法第25条第2項の政治団体の責任者の罪は、過失犯(重過失を要せず、軽過失で犯罪が成立する)であるところ、会計責任者の虚偽記載罪が成立した場合には、当然に過失の存在が推定されなければならない。資金管理団体を主宰する政治家が自らの政治資金の正確な収支報告書に責任をもつべきは当然だからである。
被告発人安倍において、特別な措置をとったにもかかわらず会計責任者の虚偽記載を防止できなかったという特殊な事情のない限り、会計責任者の犯罪成立があれば直ちにその選任監督の刑事責任も生じるものと考えるべきである。
とりわけ、被告発人安倍晋三は、被告発人○○が晋和会の2012(平成24)年分の政治資金収支報告書を提出した約半年前から内閣総理大臣として行政府のトップにあって、行政全般の法令遵守に責任をもつべき立場にある。自らが代表を務める資金管理団体の法令遵守についても厳格な態度を貫くべき責任を負わねばならない。
なお、被告発人安倍晋三が本告発によって起訴されて有罪となり罰金刑が確定した場合には、政治資金規正法第28条第1項によって、その裁判確定の日から5年間公職選挙法に規定する選挙権及び被選挙権を失う。その結果、被告発人安倍晋三は公職選挙法99条の規定に基づき、衆議院議員としての地位を失う。
また、憲法第67条1項が「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する」としているところから、衆議院議員としての地位の喪失は、内閣総理大臣の地位を失うことをも意味している。
そのような結果は、法が当然に想定するところである。いかなる立場の政治家であろうとも、厳正な法の執行を甘受せざるを得ない。本件告発に、特別の政治的な配慮が絡んではならない。臆するところなく、厳正な処罰を求める次第である。
7 本件は決して軽微な罪ではない
政治資金規正法は、政治資金の流れについての透明性を徹底することにより、政治資金の面からの国民の監視と批判を可能として、民主主義的な政治過程の健全性を保持しようとするものである。
法の趣旨・目的や理念から見て、政治資金収支報告書の記載は、国民が政治を把握し監視や批判を行う上において、この上なく貴重な基礎資料である。したがって、その作成が正確になさるべきは、民主政治に死活的に重要といわざるを得ない。それ故に、法は刑罰の制裁をもって、虚偽記載を禁止しているのである。
本件16か所の「虚偽記載」(故意または重過失による不実記載)は、法の理念や趣旨から到底看過し得ない。特に、現首相の政治団体の収支報告は、法に準拠して厳正になされねばならない。
被告発人らの本件行為については、主権者の立場から「政治資金規正法上の手続を軽んじること甚だしい」と叱責せざるを得ない。
告発人らは、我が国の民主政治の充実とさらなる発展を望む理性ある主権者の声を代表して本告発に及ぶ。
捜査機関の適切厳正な対応を期待してやまない。
以上
添 付 資 料
疎明資料(すべて写) 各1通
1 晋和会2011(平成23)年分政治資金収支報告書 訂正以前のもの
2 同上訂正後のもの
3 晋和会2012(平成24)年分政治資金収支報告書 訂正以前のもの
4 同上訂正後のもの
5 「サンデー毎日」2014年7月27日号
委任状 4通
69年前の今日、国民すべての運命を翻弄した戦争が終わった。法的にはポツダム宣言受諾の14日が無条件降伏による戦争終結の日だが、国民の意識においては8月15日正午の天皇のラジオ放送による敗戦の発表の記憶が生々しい。
神風吹かぬままに天皇が唱導した聖戦が終わった日。負けることはないとされた神国日本のマインドコントロールが破綻した日。そして、主権者たる国民の覚醒第1日目でもあった。
69年を経た今日。当時の天皇の長男が現天皇として、政府主催の全国戦没者追悼式で次のように述べている。
「ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」
どうしても違和感を禁じ得ない。
「戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い」はいただけない。戦争は自然現象ではない。洪水や飢饉であれば「再び繰り返されないことを切に願い」でよいが、戦争は人が起こすもので必ず責任者がいる。憲法前文のとおりに、「ふたたび政府の行為によって戦争の惨禍が繰り返されないことを切に願い」というべきだった。「心から追悼の意を表し」は、まったくの他人事としての言葉。天皇制や天皇家の責任が少しは滲み出る表現でなくては不自然ではないか。
また、なによりも、どのように「ここに歴史を顧み」ているのか、忌憚のないところを聞いてみたいものだ。
たまたま本日、憲法会議から、「憲法運動」通巻432号が届いた。私の論稿が掲載されたもの。《憲法運動・憲法会議50年》シリーズの第4号。時事ものではなく、今の目線でこれまでの憲法運動を振り返るコンセプトの論稿である。昨年暮れの首相靖国参拝(12月26日)の直後に書いた原稿だが、わけありで掲載が遅れた。そのための加筆もでき、はからずも終戦記念日の今日の配送となったのは、結果として良いタイミングに落ちついたと思う。
その拙稿から「歴史を顧みる」に関連する一節を引用したい。
「日本国憲法は、一面普遍的な人類の叡智の体系であるが、他面我が国に固有の歴史認識の所産でもある。日本国憲法に固有の歴史認識とは、「大日本帝国」による侵略戦争と植民地支配の歴史を国家の罪悪とする評価的認識をさす。
アジア・太平洋戦争の惨禍についての痛恨の反省から日本国憲法は誕生した。このことを、憲法自身が前文で「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と表現している。憲法前文がいう「戦争の惨禍」とは、戦争がもたらした我が国民衆の被災のみを意味するものではない。むしろ、旧体制の罪科についての責任を読み込む視点からは、近隣被侵略諸国や被植民地における大規模で多面的な民衆の被害を主とするものと考えなければならない。
このような歴史認識は、必然的に、加害・被害の戦争責任の構造を検証し、その原因を特定して、再び同様の誤りを繰り返さぬための新たな国家構造の再構築を要求する。日本国憲法は、そのような問題意識からの作業過程をへて結実したものと理解しなければならない。現行日本国憲法が、「戦争の惨禍」の原因として把握したものは、究極において「天皇制」と「軍国主義」の両者であったと考えられる。日本国憲法は、この両者に最大の関心をもち、旧天皇制を解体するとともに、軍国主義の土台としての陸海軍を崩壊せしめた。国民主権原理の宣言(前文・第1条)と、平和主義・戦力不保持(9条1・2項)である。」
ところで、本日の戦没者追悼式には、「天皇制の残滓」のほかにもう一人の主役がいる。「新たな軍国主義」を象徴する安倍晋三首相。7月1日集団的自衛権行使容認の閣議決定後初めての終戦記念日にふさわしく、彼は過去の戦争の加害責任にも将来の不戦にも触れなかった。「自虐史観」には立たないことを公言したに等しい。
その彼の式辞の一節である。
「歴史に謙虚に向き合い、その教訓を深く胸に刻みながら、今を生きる世代、そして、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓いてまいります。世界の恒久平和に、能うる限り貢献し、万人が、心豊かに暮らせる世の中の実現に、全力を尽くしてまいります。」
私にはこう聞こえる。
「歴史に謙虚に向き合えば、強い軍事力を持たない国は滅びます。その教訓を深く胸に刻みながら、ひたすら精強な軍隊を育て同盟軍との絆を堅持することによって、今を生きる世代、そして、明日を生きる世代のために、北朝鮮にも中国にも負けない強い国の未来を切り拓いてまいります。そうしてこそ世界の恒久平和に能うる限り貢献することができ、日本の国民が他国から侮られることなく、億兆心一つに豊かに暮らせる日本となるのです。その実現に、全力を尽くしてまいります。」「それこそが、戦後レジームから脱却して本来あるべき日本を取りもどすということなのです。」
来年は終戦70周年。こんな危険な首相を取り替えての終戦記念日としなくてはならない。
(2014年8月15日)
戦争の惨禍を思い起こすべき8月も、天候不順のまま半ばに至っている。明日は終戦記念の日。
戦争が総力戦として遂行された以上、戦争を考えることは国家・社会の総体を考えることでもある。政治・軍事・経済・思想・文化・教育・メディア・地域社会・社会意識・宗教・政治運動・労働運動…。社会の総体を「富国・強兵」に動員する強力な装置として天皇制があった。8月は、戦争の惨禍とともに、天皇の責任を考えなければならないときでもある。
本日、「靖国・天皇制問題情報センター」から月刊の「センター通信」(通算496号)が届いた。「ミニコミ」というにふさわしい小規模の通信物だが、一般メディアでは取りあげられない貴重な情報や意見であふれている。
巻頭言として横田耕一さんの「偏見録」が載る。毎号、心してこの辛口の論評を読み続けている。今号で、その42となった。そのほかにも、今日の天皇制の役割を考えさせる記事が多い。
今号のいくつかの論稿に、天皇と皇后の対馬丸祈念館訪問が取りあげられている。初めて知ることが多い。たとえば、次のような。
「戦時遭難船舶遺族会は、『小桜の塔』と同じ公園内にある『海鳴りの像』への(夫妻の)訪問をあらかじめ要請していたが、断られた。海上で攻撃を受けた船舶は、対馬丸以外に25隻あり、犠牲音数は約2千人といわれている。なぜこのような違いが生じるのだろうか。」
『小桜の塔』は対馬丸の「学童慰霊塔」として知られる。しかし、疎開船犠牲は対馬丸(1482名)に限らない。琉球新報は、「25隻の船舶に乗船した1900人余が犠牲となった。遺族会は1987年、那覇市の旭ケ丘公園に海鳴りの像を建てた。対馬丸の学童慰霊塔『小桜の塔』も同公園にある」「太平洋戦争中に船舶が攻撃を受け、家族を失った遺族でつくる『戦時遭難船舶遺族会』は、(6月)26、27両日に天皇と皇后両陛下が対馬丸犠牲者の慰霊のため来県されるのに合わせ、犠牲者が祭られた『海鳴りの像』への訪問を要請する」「対馬丸記念会の高良政勝理事長は『海鳴りの像へも訪問してほしい。犠牲になったのは対馬丸だけじゃない』と話した」と報じている。
しかし、天皇と皇后は、地元の要請にもかかわらず、対馬丸関係だけを訪問して、『海鳴りの像』への訪問はしなかった。その差別はどこから出て来るのか。こう問いかけて、村椿嘉信牧師は次のようにいう。
「対馬丸の学童の疎開は当時の日本政府の決定に基づくものであるとして、沖縄県遺族連合会は、対馬丸の疎開学童に対し授護法(「傷病者戦没者遺族等授護法」)の適用を要請し続けてきたが、実現しなかった。しかし1962年に遺族への見舞金が支給され、1966年に対馬丸学童死没者全員が靖国神社に合祀された。1972年には勲八等勲記勲章が授与された。つまり天皇と皇后は、戦争で亡くなったすべての学童を追悼しようとしたのではなく、天皇制国家のために戦場に送り出され、犠牲となり、靖国神社に祀られている戦没者のためにだけ、慰霊行為を行ったのである。」
また、次のような。
「天皇の来沖を前にして、18日に、浦添市のベッテルハイムホールで、『「天皇制と対馬丸」シンポジウム』が開催されたが、その声明文の中で、「私たちは慰霊よりも沖縄戦を強要した昭和(裕仁)天皇の戦争責任を明仁天皇が謝罪することを要求する。さらに『天皇メッセージ』を米国に伝えて沖縄人民の土地を米軍基地に提供した責任をも代わって謝罪することを要求する。明仁天皇は皇位を継承しており、裕仁天皇の戦争責任を担っている存在にあるからである。そうでなければ、天皇と日本国家は、これらの責任を棚上げして、帳消しにすることになるからである」と表明している。このような声が出てくるのは、当然のことであろう。」
また、村椿は、キリスト者らしい言葉でこう述べている。
「多くの人たちを戦場に送り出し、その人たちの生命を奪った人物が、みずからの責任を明らかにせず、謝罪をせず、処罰を受けることなしに、その人たちの「霊」を「慰める」ことができるのだろうか。そのようなことを許してよいのだろうか」
沖縄の戦争犠牲者遺族の中に、天皇・皇后の訪問を拒絶する人だけでなく、歓迎する人もいる現実に関して、村椿はこう感想を述べている。
「奴隷を抑圧し、過酷な労働を課した主人が奴隷にご褒美を与えることによって、奴隷を満足させようとしている。奴隷がそのご褒美を手に入れて満足するなら、奴隷はいつまでたっても奴隷のままであり、主人はいつまでも奴隷を支配し続けるだろう。」
同感する。天皇制とは、天皇と臣民がつくる関係。これは、奴隷と奴隷主の関係と同じだ。奴隷主は、奴隷をこき使うだけではない。ときには慰撫し、ご褒美も与える。奪ったもののほんの一部を。これをありがたがっているのが、奴隷であり、臣民なのだ。
いま、われわれは主権者だ。奴隷でも、臣民でもない。だが、天皇制はご褒美をくれてやる姿勢を続け、これをありがたがる人も少なくない。慰撫やご褒美をありがたがる臣民根性を払拭しよう。戦後69年目の夏、あらためてそのことを確認する必要がありそうだ。
(2014年8月14日)
8月9日、「祈りの長崎」に、国民すべてが、いや世界の人々が、ともに頭を垂れ心を寄せるべき日。
その「長崎原爆の日」の今日、平和祈念式典が行われ、田上富久市長の平和宣言が集団的自衛権に触れた。つぎのとおりである。
「いまわが国では、集団的自衛権の議論を機に、「平和国家」としての安全保障のあり方についてさまざまな意見が交わされています。
長崎は「ノーモア・ナガサキ」とともに、「ノーモア・ウォー」と叫び続けてきました。日本国憲法に込められた「戦争をしない」という誓いは、被爆国日本の原点であるとともに、被爆地長崎の原点でもあります。
被爆者たちが自らの体験を語ることで伝え続けてきた、その平和の原点がいま揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が、急ぐ議論の中で生まれています。日本政府にはこの不安と懸念の声に、真摯に向き合い、耳を傾けることを強く求めます。」
市長の発言である。安倍首相の面前でこれだけのことを言ったと評価すべきだろう。また、安倍首相を前にしてこれを言わなければ、何のための平和祈念式典か、と問われることにもなろう。
圧巻は、被爆者代表の城臺美彌子さんの発言。ネットで複数の「全文文字化」が読める。ありがたいことと感謝しつつ、その一部を転載させていただく。
「山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。おとなりの同級生、トミちゃんが、『みやちゃーん、遊ぼう』と外から呼びました。その瞬間、キラッ!と光りました。
その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えておりません。暫く経って、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんは、その時何の怪我もしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。
たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなる。たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で、多くの被爆者が命を落としていきました。
原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは、人間の力ではどうすることもできません。今強く思うことは、この恐ろしい、非人道的な核兵器を、世界から一刻も早く、なくすことです。
そのためには核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。しかし、現在の日本政府はその役割を果たしているのでしょうか。今進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です。
日本が戦争ができる国になり、日本の平和を武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。一旦戦争が始まると、戦争が戦争を呼びます。歴史が証明しているではありませんか。
日本の未来を担う若者や、子どもたちを脅かさないで下さい。平和の保障をしてください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないで下さい。
福島には、原発事故の放射能汚染で、未だ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々が大勢おられます。小児甲状腺がんの宣告を受けて、怯え苦しんでいる親子もいます。
このような状況の中で、原発再稼働、原発輸出、行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未解決です。早急に廃炉を検討して下さい。
被爆者は、サバイバーとして残された時間を命がけで語り継ごうとしています。小学1年生も、保育園生さえも、私たちの言葉をじっと聞いてくれます。このこと、子どもたちを、戦場へ送ったり、戦火に巻き込ませてはならないという思い、いっぱいで語っています。
長崎市民の皆さん、いいえ、世界中のみなさん。再び、愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被曝の実相を語り継いで下さい。
日本の真の平和を求めて、共に歩きましょう。私も被爆者の一人として、力の続く限り、被爆体験を伝え残していく決意を、皆様にお伝えして、私の平和への誓と致します。」
この凄まじい迫力。安倍晋三の耳にはどう響いたか。
この日の式典でも安倍は挨拶文を読み上げた。それが、中ごろを除いて、昨年と同じ。今はやりのコピペだと指摘されている。
さすがに、昨年の「せみしぐれが今もしじまを破る」は、今年はなかったという。「式典は昨年は炎天下だったが、今年は雨の中だった。」から(朝日コム)。
6日の広島市での平和記念式典の安倍首相の挨拶文を「昨年のコピペ」と指摘したメーリングリストでの投稿にその日の内に接した。そういうことに気づく人もいるのだと感心していたら、各紙の社会面ネタになって拡散した。これでは、長崎は書き下ろしで行くのだろうと思ったが、さすが安倍晋三、すごい心臓。長崎でもコピペを繰り返した。今年の流行語大賞は「コピペ」で決まりではないか。安倍には、「コントロール」と「ブロック」に加えて、「コピペ」も、イメージフレーズとして定着した。
コピペは、借り物、使い回しの文章。抜け殻で、装いだけの文章。かたちだけを整えたもので、魂のないスピーチ。安倍晋三は、広島も長崎でも、そんなコピペの文字の羅列を読みあげればよいと考えたわけだ。
かたや、自らの体験と情念が吹き出した言葉の迫力。こなた、コピペのごまかし。それでも、支配しているのは迫力に欠けた薄っぺらのコピペ側なのだ。複雑な思いとならざるを得ない。
(2014年8月9日)
お招きいただき、発言の場を与えていただたことに感謝いたします。本日は、学生・生徒に接する立場の方に、私なりの憲法の構造や憲法をめぐる状況について、お話しをさせていただきます。
ご依頼のテーマが、「自民党の改憲草案を読み解く」ということです。この改憲草案は、安倍自民党の目指すところを忌憚なくあけすけに語っているという、その意味でたいへん貴重な資料だと思います。そして、同時に恐ろしい政治的目標であるとも思います。
この草案の発表は、2012年4月27日でした。4月27日は、日本が敗戦処理の占領から解放されたその日。この日を特に選んで公表された草案は、「自主憲法制定」を党是とする自民党による「現行日本国憲法は占領軍の押し付け憲法として原理的に正当性を認めない」というメッセージであると、読み取ることができます。
押し付けられた結果、現行憲法は内容にどのような欠陥があるのか。彼らは、「日本に固有の歴史・伝統・文化を反映したものとなっていない」と言います。これは、一面において、人類の叡智が到達した普遍的原理を認めないという宣言であり、他面、「固有の歴史・伝統・文化」という内実として天皇制の強化をねらうものです。
天皇という神聖な権威の存在は、これを利用する為政者にとって便利この上ない政治的な道具です。国家や社会の固定的な秩序の形成にも、現状を固定的に受容する国民の保守的心情の涵養にも有用です。民主主義社会の主権者としての成熟の度合いは、国王や皇帝や天皇などの権威からどれほど自由であるかではかられます。自民党案は、天皇利用の意図であふれています。
この草案は、なによりも日本国憲法への攻撃の全面性を特徴としています。「全面性」とは、現行憲法の理念や原則など大切とされるすべての面を押し潰そうとしていることです。
日本国憲法の構造は次のように理解されます。日本国憲法の3大原則は、3本の柱にたとえられます。国民主権、基本的人権の尊重、そして恒久平和主義。この3本の柱が、立憲主義という基礎の上にしっかりと立てられています。
堅固な基礎と3本の柱の骨組みで建てられた家には、国民の福利という快適さが保障されます。いわば、国民のしあわせが花開く家。それが現行日本国憲法の基本設計図です。今、自民党の改憲草案は、そのすべてを攻撃しています。
まず、基礎となっている立憲主義を堀り崩して、これを壊そうとしています。つまりは、憲法を憲法でなくそうとしているということです。国家権力と個人の尊厳とが厳しい対抗関係に立つことを前提として、個人の尊厳を守るために国家権力の恣意的な発動を制御するシステムとして憲法を作る。これが近代立憲主義。草案は、このような立ち場を放棄しようとしています。
現行憲法の前文は、こう書き出されています。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
主権者である国民が憲法を作り、憲法に基づく国をつくるのですから、当然のこととして国民が主語になっています。
ところが草案の前文の冒頭は次の一節です。
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。」
国民ではなく、いきなり日本国が主語になっている。国民に先行して国家というものの存在があるという思考パターンの文章です。
国民が書いた、「権力を担う者に対する命令の文書」というのが憲法の基本的性格です。ですから命令の主体である国民に憲法遵守義務というものはありえない。憲法遵守義務は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」(99条)と定められています。
これを立憲主義の神髄と言ってよいでしょう。
草案ではどうなるか。
第102条(憲法尊重擁護義務)「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」となります。主権者である国民から権力者に対する命令書という憲法の性格が没却されてしまっています。
同条2項は公務員にも憲法擁護義務を課します。しかし、「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。」と、わざわざ天皇を除外しています。
立憲主義の理念は没却され、国民に憲法尊重の義務を課し、国民にお説教をする憲法草案になりさがっています。
そして、3本の柱のどれもが細く削られようとしています。腐らせようとされているのかも知れません。
まずは、「国権栄えて民権亡ぶ」のが改正草案。公益・公序によって基本的人権を制約できるのですから、権力をもつ側にとってこんな便利なことはありません。国民の側からは、危険極まる改正案です。
もっとも人権は無制限ではありません。一定の制約を受けざるを得ない。その制約概念を現行憲法は「公共の福祉」と表現しています。しかし、最高の憲法価値は人権です。人権を制約できるものがあるとすれば、それは他の人権以外にはあり得ません。人権と人権が衝突して調整が必要となる局面において、一方人権が制約されることを「公共の福祉による制約」というに過ぎないと理解されています。
そのような理解を明示的に否定して、「公益」・「公序」によって基本的人権の制約が可能とするのだというのが、改正草案です。
9条改憲を実現して、自衛隊を一人前の軍隊である国防軍にしようというのが改正案。現行法の下では、自衛のための最低限の実力を超える装備は持てないし、行動もできません。この制約を取り払って、海外でも軍事行動ができるようにしようというのが、改正草案の危険な内容。
これは、7月1日の閣議決定による解釈改憲というかたちで、実質的に実現され兼ねない危険な事態となっています。
国民主権ないしは民主主義は、天皇の権能と対抗関係にあります。国民と主権者の座を争う唯一のライバルが、天皇という存在です。その天皇の権能が拡大することは、民主主義が縮小すること。
「日本国は天皇を戴く国家」とするのが改正草案前文の冒頭の一文。第1条では、「天皇は日本国の元首」とされています。現行憲法に明記されている天皇の憲法尊重・擁護義務もはずされています。恐るべきアナクロニズム。
その結果として大多数の国民には住み心地の悪い家ができあがります。とはいえ、経済的な強者には快適そのものなのです。自分たちの利潤追求の自由はこれまで以上に保障してくれそうだからです。日本国憲法は、経済的な強者の地位を制約し弱者には保護を与えて、資本主義社会の矛盾を緩和する福祉国家を目標としました。今、政権のトレンドは新自由主義。強者の自由を認め、弱肉強食を当然とする競争至上主義です。自助努力が強調されて、労働者の労働基本権も、生活困窮者の生存権も、切り詰められる方向に。
臆面もなくこのような改正案を提案しているのが、安倍自民党です。かつての自民党内の保守本流とは大きな違い。おそらくは、提案者自身も本気でこの改正案が現実化するとは思っていないでしょう。言わば、彼らの本音における最大限要求としてこの改憲草案があります。
特定秘密保護法を成立させ、集団的自衛権行使容認の閣議決定まで漕ぎつけた安倍自民。最大限要求の実現に向けて危険な道を走っていることは、否定のしようもありません。安倍自民が、今後この路線で、つまりは自民党改憲草案の描く青写真の実現を目指すことは間違いないところです。これを阻止することができるかどうか。すべては私たち国民の力量にかかっています。
老・壮・青の各世代の決意と運動が必要ですが、長期的には次世代の主権者である学生・生徒に接する皆様の役割か大きいと言わざるを得ません。是非とも、平和教育・憲法教育における充実した成果を上げることができますよう、期待しております。
(2014年7月30日)
「国旗・国歌に対する国民としての正しい認識」というものがあるという。いったいどういうものか、想像がつくだろうか。国旗国歌への敬意表明を強制し、懲戒処分を濫発して止まないことで話題の都教委は、堂々と次のとおり述べている(東京『君が代』裁判・第四次訴訟答弁書)。
「国旗及び国歌に対する正しい認識とは、
?国旗と国歌は、いずれの国ももっていること、
?国旗と国歌は、いずれの国もその国の象徴として大切にされており、相互に尊重し合うことが必要であること、
?我が国の国旗と国歌は、永年の慣行により「日章旗」が国旗であり、「君が代」が国歌であることが広く国民の認識として定着していることを踏まえて、法律により定められていること、
?国歌である「君が代」は、日本国憲法の下においては、日本国民総意に基づき天皇を日本国及び日本国統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念した歌であること、
を理解することである。」
私には、そのような理解は到底できないが、上記???は国旗国歌についての考え方の、無限のバリエーションの一つとして存在しておかしくはない。馬鹿げた考え方とも思わない。しかし、これを「国旗国歌に対する正しい認識」と言ってのける無神経さには、愕然とせざるを得ない。こういう無神経な輩に権力を担わせておくことは危険だ。
「公権力は特定のイデオロギーを持ってはならない」。これは民主主義国家における権力の在り方についての原点であり公理である。現実には、完全に実現するには困難なこの課題について、権力を担う者には可及的にこの公理に忠実であろうとする真摯な姿勢が求められる。しかし、都教委にはそのカケラもない。
憲法とは、国民と国家との関係をめぐる基本ルールである。国民と国家との関係とは、国民が国家という権力機構を作り、国家が権力作用を国民に及ぼすことになる。常に暴走の危険を孕む国家権力を、国民がどうコントロールするか、そのルールを形づくるものが憲法にほかならない。
だから、憲法の最大関心テーマは、国家と国民との関係なのだ。国家は目に見えない抽象的存在だが、これを目に見えるものとして具象化したものが、国旗国歌である。国家と国民の目には見えない関係が、国旗国歌と国民との目に見える関係として置き換えられる。
だから、「国民において国旗国歌をどう認識するか」は、「国民において国家をどう認識するか」と同義なのだ。「国家をどう認識するか」は、これ以上ないイデオロギー的テーマである。「正しい認識」などあるはずがない。公権力において「これが正しい認識である」などと公定することがあってはならない。
国家一般であっても、現実の具体的国家でも、あるいは歴史の所産としての今ある国家像としても、公権力が「これが正しい国家認識」などとおこがましいことを言ってはならない。それこそ、「教育勅語」「国定教科書」の復活という大問題となる。
ところが、都教委の無神経さは、臆面もなく「国旗国歌の正しい認識」を言ってのけるところにある。もし、正しい「国旗国歌に対する認識」があるとすれば、次のような、徹底した相対主義の立場以外にはあり得ないだろう。
「国家に対する人々の考え方が無数に分かれているように、国旗国歌に対しても人々がいろんな考え方をしています。民主主義社会においては、このような問題に関して、どの考え方が正しいかということに関心を持ちません。そもそも、「正しい」あるいは「間違っている」などという判断も解答もありえないのです。多数決で決めてよいことでもありません。それぞれの考え方をお互いに尊重するしかなく、決して誰かの意見を他の人に押し付け、強制・強要するようなことがあってはなりません」
上記???を「正しい認識」とするのが、話題の都教委である。悪名高い「10・23通達」を発して懲戒処分を濫発したのは、このようなイデオロギーを持っているからなのだ。
?「国旗と国歌は、いずれの国ももっている」という叙述には、国家や国民についての矛盾や葛藤を、ことさらに捨象しようとする姿勢が透けて見える。いずれの国の成立にも、民族や宗教や階級間の軋轢や闘争の歴史がまつわる。その闘争の勝者が国家を名乗り、国旗・国歌を制定している。「いずれの国も国旗国歌をもっている」では、1910年から1945年までの朝鮮を語ることができない。現在各地で無数にある民族独立運動を語ることもできない。
?国旗と国歌は、「いずれの国もその国の象徴として大切にされており」は、各国の多数派、強者のグループについてはそのとおりだろうが、少数派・敗者側グループにおいては、必ずしもそうではない。「相互に尊重し合うことが必要であること」は微妙な問題である。価値観を同じくしない国は多くある。独裁・国民弾圧・他国への収奪・好戦国家・極端な女性蔑視・権力の世襲・腐敗‥。正当な批判と国旗国歌の尊重とは、どのように整合性が付けられるのだろうか。
?「我が国の国旗と国歌は、永年の慣行により「日章旗」が国旗であり、「君が代」が国歌であることが広く国民の認識として定着している」ですと? 国旗国歌法制定時には、「日の丸・君が代」が国旗国歌としてふさわしいか否かが国論を二分する大きな議論を巻き起こしたではないか。政府は「国民に強制することはあり得ない」としてようやく法の制定に漕ぎつけたではないか。
わが日本国は、「再び政府の行為によって、戦争の惨禍が繰り返されることのないようにすることを決意して…この憲法を確定する」と宣言して建国された。したがって、「戦争の記憶と結びつく、旗や歌は日本を象徴するものとしてふさわしくない」とする意見には、肯定せざるを得ない説得力がある。ことさらに、このことを無視することを「正しい認識」とは言わない。むしろ、「一方的な見解の押し付け」と言わねばならないのではないか。
?「君が代」とは、「かつて国民を膝下に置き、国家主義・軍国主義・侵略主義の暴政の主体だった天皇を言祝ぎ、その御代の永続を願う歌詞ではないか。国民主権国家にふさわしくない」。これは自明の理と言ってよい。これを「日本国民総意に基づき天皇を日本国及び日本国統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念した歌」という訳の分からぬ「ロジック」は、詭弁も甚だしいと切り捨ててよい。
以上の???のテーゼの真実性についての論争は実は不毛である。国民の一人が、そのような意見を持つことで咎められることはない。しかし、公権力の担い手が、これを「正しい」、文脈では「唯一正しい」とすることは噴飯ものと言うだけではなく、許されざることなのだ。
都教委は権力の主体として謙虚にならねばならない。民主主義社会の基本ルールに従わなければならない。自分の主張のイデオロギー性、偏頗なことを知らねばならい。
教育委員の諸君。都教委がこんな「正しい認識」についての主張をしていることをご存じだったろうか。すべては、あなた方の合議体の責任となる。それでよいとお思いだろうか。あらためて伺いたい。
(2014年7月28日)
本日は、神保町の東京堂で、現代書館発行「前夜」の販売促進キャンペーン。著者である私と梓澤和幸君と岩上安身さんのトークセッション。そして、お客様へのサインセール。
私にとっては慣れないことばかり。普段とは別の世界にあるごとくで、調子の出ないこと、この上ない。冒頭に20分の発言の機会を与えられたが、舌がうまく回らない。だいたい、こんな趣旨のことを喋ったはずなのだが‥。以下はうろ覚えの内容。
この本は、自民党改憲草案の全条文を読み解こうという企画として、12回(あるいは13回?)もトークを重ねたもの。その結果、自民党の本音としての全面的な改憲構想をお伝えできたのではないだろうか。2012年4月に当時は野党だった自民党がつくった草案の実現性は考えられなかった。露骨に本音をさらけだしたものだと思っていたが、同年12月の総選挙で安倍自民が政権を奪取するや、その後今日までの進展は、この改憲構想が現実のものになりつつあるとの感を否めない。悪夢が、正夢であったかという印象。
現在進行している「安倍改憲策動」(あるいは、「『壊憲』策動」)とはいったい何なのか、そしてこれをどう阻止できるかについて考えている。
安倍改憲策動の基本性格は、「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」というスローガンによく表れている。その主たる側面は、戦前のレジームである軍事大国化ということであり、復古的なナショナリズムの昂揚にある。しかし、それだけではない。グローバル企業に自由な市場を開放し、福祉において自助努力を強調し、格差拡大・貧困蔓延を厭わない新自由主義に適合する国家のかたちを目指すものとなっている。新旧ないまぜの「富国強兵」路線というべきではないか。
注目すべきは、安倍改憲策動の全面性である。9条改憲をメインとしつつも、それに限られていない。文字通り、「レジーム」の全構造と全分野を変えてしまいたいということなのだ。
教育分野における「教育再生」政策、メディアの規制としての特定秘密保護法の制定そして人事を通じてのNHKの改変問題。さらに、政教分離・靖国問題、福祉、介護、労働、地方自治、農漁業等々の諸分野で、安倍改憲策動が進行しつつある。
最も重要な分野における情報独占と取材報道の萎縮を狙った特定秘密保護法が強引に成立してしまった。教育の自由と独立は徹底して貶められようとしている。歴史修正主義が幅を利かせている。労働法制も税制も、限りなく企業にやさしいものとなりつつある。農漁業はTPPで壊滅的打撃を受けようとしている。福祉も介護も、経済原理に呑み込まれようとしている。
このような安倍改憲策動の手法は、解釈改憲の極みとしての集団的自衛権行使容認閣議決定に表れている。しかし、閣議決定だけで戦争はできない。これから自衛隊が海外で戦争することに根拠を与えるいくつもの個別立法が必要になってくる。そのときに、国会の論戦に呼応して、院外の世論が大きく立ち現れなければならない。
安倍改憲策動の目論見は、解釈と立法による事実上の改憲のみとは考えがたい。当然のこととして、あわよくば96条先行改憲を突破口とする明文改憲も、なのである。改憲手続法の整備はそのことをよくものがたっている。
安倍改憲の担い手となる改憲諸勢力の中心には、安倍自民党がいる。これは、かつての保守勢力ではない。保守本流と一線を画した自民党右派ないしは右翼の政党と言わねばならない。そして、「下駄の雪」とも、「下駄の鼻緒」とも自らに言い続けて来た与党公明党。そして維新やみんななどの改憲派野党。
これらの院内改憲勢力は見かけの議席は極めて大きい。しかし、院外の国民世論の分布とは大きく異なった「水増し・底上げ」の議席数である。これを支えている小選挙区制にメスを入れなければならない。
さらに、院外では右派ジャーナリズム、街頭右翼、ネット右翼などがひしめいている。
改憲に反対する勢力は、重層構造をなしている。旧来の「護憲勢力」といえば、議会内では共・社の少数。しかし、国民世論の中では議席数をはるかに上回る影響力を持っている。これに、旧来の「保守本流」を、非旧来型の護憲勢力に加えてよいだろう。それなくして国民の過半数はとれない。この人たちは、防衛問題では「専守防衛路線」を取ってきた。集団的自衛権行使の容認を認めない保守の良識派は、重要な護憲勢力のとして遇すべきである。
これに、立憲主義擁護重視派も仲間に加えなければならない。この立ち場は、けっして手続さえ全うすれば改憲内容は問わないという人々のものではない。安倍内閣の改憲手法批判にとどまらず、内容においても憲法原則からの安倍改憲批判をすることになる。
安倍改憲策動が全面的であることから、これに対する反撃も全面的にならざるを得ない。脱原発・反TPP・教育・秘密法廃止・NHK問題・反格差反貧困などの諸分野の運動を糾合して、改憲阻止の運動に結実させる意識的な努力が必要となっている。
いま、いくつもの世論調査が、安倍内閣の支持率急落を示している。各分野での運動の成果がようやく表れつつあるのではないか。私自身も、できるだけの工夫と努力をして、大きな運動のささやかな一端を担いたいと思っている。
(2014年7月10日)