澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「行政による規制」は果たして悪か。「規制緩和」は果たして善か。

先週の金曜日(5月30日)、名古屋高裁(筏津順子裁判長)が言い渡した判決が注目されている。タクシー会社・名古屋エムケイが原告になって、国(国土交通大臣)を相手にした行政訴訟でのもの。判決文が手に入らないので隔靴掻痒の感があるものの、原告は運輸行政における規制の不合理を主張し、一審に続いて控訴審判決も規制を違法と認めたという。

争われた「規制」の内容は、中部運輸局が2009年に公示した、「名古屋市を中心とする交通圏で運行するタクシーについて、運転手は1回の乗務の走行距離の上限を270キロメートルまでと制限する」という乗務距離制限。「名古屋高裁判決は、一審名古屋地裁判決に続き、運転手の走行距離制限を違法とした。」と報じられている。

行政訴訟の主要なアクターは、私人と国(行政機関)である。私人が国による規制を不当として争うのだから、一般論として私人の勝訴は国民の自由の範囲を拡大することになる。しかし、この二大アクターの争いに、影響を受けるステークホルダー(利害関係者)の存在を忘れてはならない。真に誰と誰の間のどのような利益が衝突し調整が求められているのかを見極めなければならない。

本件の場合、規制はタクシー会社に対するものではあるが、本件規制は、消費者(タクシー利用者)と労働者(タクシー会社勤務者)の利益を擁護するためのものとしてなされている。会社の利益(利潤の獲得を目的とする企業経営)に優越する、消費者の利益(乗客の安全)・労働者の利益(過酷な労働からの保護)に支えられた規制でなければならない。規制の目的や手段の妥当性が裏付けられなければ、規制権限の逸脱または濫用として、違法とされる。

タクシーやバスの運転者に過酷な労働を容認するようでは、労働者の利益に反するだけでなく、事故につながり一般乗客の安全を害することになる。乗務時間や距離の規制が一般論として不合理と言うことはできない。にもかかわらず、なぜ、規制は違法とされたのか。

一審判決時のやや詳細な報道では、「『旅客自動車運送事業運輸規則』は、各地の運輸局が実情に応じて距離を制限できると定めている。タクシー業界は02年の道路運送法改正で新規参入が自由化されて競争が激化し、労働環境の悪化も指摘された。これを受け、09年前後に1日の走行距離に制限を設ける地域が相次いだ。(名古屋地裁の)福井裁判長は、『当時の名古屋市周辺地域は不況でタクシーの需要が減っており、無理な運転をしてまで走行距離を伸ばす傾向はなかった』と述べ、国が制限を設ける必要はなかったと判断した。原告側は公示の取り消しも求めたが、公示は行政訴訟法で取り消し請求の対象となる行政処分とは異なるとして、この部分の請求は却下した」という。

結局、判決は「タクシー運転手の一日当たりの乗務距離を国が制限したことの目的には合理性がない」「安全や過労防止のため既に労働時間が制限されており、あらためて規制する合理性がない」として、当該の規制を裁量権の濫用で違法にあたると判断した。報道によれば、乗務距離制限をめぐっての高裁判決はこれが初めてとのこと。

言うまでもなく、タクシー会社には営業の自由(憲法22条)がある。利潤の追求を目的に企業を経営する自由である。原告・エムケイから見れば、自らがもっている憲法上の営業の自由を、行政が不当に制約していることになる。企業の経営の自由を制約する規制は少なければ少ない方がよい。望むべくは、まったく無いに越したことはない。

しかし、国の立ち場からすれば、乗務距離制限は決して企業活動の制約そのものを目的としたものではなく、消費者や労働者の利益を目的としたものとして合理性があり、当然に規制は許容されるとの主張になる。タクシー業界の過当競争の防止策は、結局のところ共倒れを防止して企業の利益にもつながるという主張にもなる。

双方の主張のどちらに軍配を上げるべきか。憲法上の権利の制約は、いかなる場合に許容されるのか。その基本的な枠組みとして、学説においては、二重の基準論が説かれている。二重の基準とは、精神的自由に対する規制の在り方と、経済的な自由に対する規制の在り方とで、許容基準の厳格さが異なるというもの。元々は、アメリカ合衆国の連邦最高裁が採用してきた考え方。

精神的自由権(表現の自由・信仰の自由など)の規制の許容可否については厳格な基準をもって判断し、経済的自由権(所有権・企業経営の自由)の規制においては立法や行政の裁量を尊重して緩やかな基準をもって、目的・手段などの合理性を審査する、というもの。

要するに、「精神的自由権」と「経済的自由権」に、制約の可否に関して寛厳の差を設けようということ。その理論的根拠は、「経済的自由を規制する立法の場合は、民主政の過程が正常に機能している限り、それによって不当な規制を除去ないし是正することが可能であり、それがまた適当でもあるので、裁判所は立法府の裁量を広く認め、無干渉の政策を採ることも許される。これに対して、精神的自由の制限又は政治的に支配的な多数者による少数者の権利の無視もしくは侵害をもたらす立法の場合には、それによって民主政の過程そのものが傷つけられているため、政治過程による適切な改廃を期待することは不可能ないし著しく困難であり、裁判所が積極的に介入して民主政の過程の正常な運営の回復を図らなければ、人権の保障を実現することはできなくなる。」(芦部信喜)などと説かれる。なお、立法による規制の説明は、行政による規制にもあてはまる。

精神的自由権が、経済的自由権に比べて優越的な権利と理解されていると言って差し支えないだろう。ところが、このような一般論と、現実の判例は正反対なのだ。精神的自由権に対する制約の合憲性は厳格に判断しなければならないところ、現実にはそのような判決は極めて乏しい。反対に、緩やかな判断がなされるはずの経済的自由権について、規制を違憲違法とした判決が目につく。今回の名古屋高裁判決もそのような一事例に加えられることになる。

エムケイの青木信明社長は判決後に記者会見し、「規制緩和に逆行する政策がタクシー業界を衰退させている。高裁の判断は本当にありがたい」と話したという。個別企業の立場としては、「高裁の判断は本当にありがたい」は本音だろう。しかし、「規制緩和に逆行する政策がタクシー業界を衰退させている」は、当たらないと思う。

行政による規制は企業にとって望ましからぬものではあっても、消費者の利益、労働者の利益、地域住民の利益、環境の保護、公正な競争環境の形成等々の観点からの合理性ある規制には服さざるをえない。企業は社会と調和し、社会が許容する在り方でしか活動を継続できないのだ。もとより不必要で有害な規制は拒否できるが、規制一般を「既得権益の保護のためのもの」と決めつけることはできない。規制緩和の要求は、実は企業のエゴの発露でもありうる。

安易に、「規制は悪。規制緩和こそが善」などと言わずに、規制の目的や手段における、必要性・合理性を具体的に吟味しなくてはならない。そうでないと、飽くなき利潤追求のために徹底した規制の緩和や解除を要求して、労働者の利益や消費者の利益を顧みない勢力に乗じられることになりかねない。誰だって、過労運転による事故に泣く目には会いたくないのだから。
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(2014年6月2日)

「伊勢」と「出雲」 勝者と敗者の歴史的因縁

三笠宮の長男故高円宮次女と、出雲大社宮司長男との婚約が発表された。皇室と出雲国造家の結婚。これが、「両性の合意のみ」で成立したとすれば、ご同慶の至りである。

皇室の祖先神と出雲大社の祭神とは、「天つ神・国つ神」の関係にある。征服者である天皇の祖先神が高天原なる「天つ神」。その神を祀っているのが伊勢神宮。被征服者として、天つ神に地上の国を譲ったのが「国つ神」たる出雲の神。世俗的な理解では、善神としての「天つ神」と、抵抗勢力としての「国つ神」。出雲なる国つ神の「国」は、譲られたものであろうか、それとも略奪されたものであろうか。いずれにしても記紀神話の成立は、出雲に対する伊勢の勝利を物語っている。

しかし、出雲は滅びたわけではない。出雲大社の祭神としての須佐之男・大国主の信仰は、大社とともに生き延び、本居宣長の「顕幽」説に至る。顕界(うつし世)の王が天皇であり、幽冥界(かくれ世)の王が大国主だというもの。さらに、平田篤胤は、大国主を善神とし、死者の魂を審判し、その現世での功罪に応じて褒賞懲罰を課す神としている。この大国主命の幽冥界主宰神説が、復古神道の基本的な教義だとされる。

明治維新は、神々の争いでもあった。神道と仏教が争い、神道各派も正統を巡って争った。かつて、地上の勢力間の争いが神々の争いとして神話に仮託され語り継がれた如くにである。出雲は官弊大社への列格を不服とし、伊勢と同等の格式を当然として、官社のうえに列すべく要求した。その運動の旗手は、復古神道の教義を携えた、第80代出雲国造千家尊福である。

原武史の「出雲という思想」(原武史・講談社学術選書)は私の愛読書。読み応えがあるだけでなく、読みやすくすこぶるおもしろい。原の現代語訳では、尊福は教部省宛て請願書でこう言っている。
「オホクニヌシが幽冥の大権を握り、この国土に祭っている霊魂や、幽冥界に帰ってきた人の霊魂を統括なさるのは、天皇が顕界の政治を行って万民を統治なさるのと違わない」「このようにオホクニヌシが幽冥の大権をお取りになるからには、神の霊魂も人の霊魂も、みなオホクニヌシが統治なさるわけであるから、すべての神社を統括するのもまた出雲大社であるべきなのは、議論するまでもないことである。」

さらに尊福の筆は激しくなり、密かに書かれたという「神道要章」には、次の文章があるという。
「大地の支配者であられるオホクニヌシのおかげによらなければ、天つ神の高い徳を受けることができないゆえんを明らかにして、天つ神を崇敬するにしても、まず大地の恩が大切であることを謹んで感謝しなければならない」

原は「このようにして尊福は、わかかりやすい言葉で、信徒に対してアマテラスよりもオホクニヌシをまず第一に尊敬しなければならないことを主張した」と解説している。

尊福の言は、表向き「顕幽」同格のごとくではあるが、幽冥界の王こそが真の王であり、顕界の天皇を凌ぐものとの気概を感じさせる。伊勢派は、尊福の説を危険思想として、「皇位を軽んずるもの」「わが国体を乱るもの」「国体上に大関係ありて、民権家の説に類似す」と攻撃した。「出雲の神は、かつて天孫系のため圧迫されて譲国したので、その数千年来の宿怨を霽らすために、今度出雲が立ったのである。それならばこそ出雲系の直系が、皇室を凌ぐような議論も出て、その点で千家を暗殺せんとする騒ぎもあった」と当時の雰囲気を知る人の回顧録も残されているという。

尊福の説は大いに振るって伊勢派を追い詰めたが、時あたかも自由民権運動の勃興期。天皇制の拠って立つ教説の正統性批判の強大化を恐れた中央政府は、1881(明治14)年に、勅裁によって「祭神論争」の決着をつける。ここに、出雲は伊勢に2度目の敗北を喫した。原の言葉を借りれば、「『伊勢』による『出雲』の抹殺」である。

さらに、原の理解によれば、大国主信仰は大本に受け継がれ出口王仁三郎によって民衆信仰として復活する。しかし、2度にわたる天皇制政府の大本弾圧によって、この教義も息の根が止められることになる。出雲の3度目の敗北である。原は、この事態を「『伊勢』による『出雲』の2度目の抹殺」とする。

このたびの「伊勢」と「出雲」との婚約は、一見有史以来の「数千年来の宿怨」を抱えた因縁を乗り越えたもの如くであるが、実はそうではない。今、両家はモンタギューとキャピュレットの関係になく、婚約者どおしはロミオとジュリエットの悲劇性とは無縁である。その遠因は、「祭神論争」のあとの千家尊福の「転向」にある。彼は、かつての「顕幽」論の内容を変えて国体の尊厳を説くに至り、明治政府に忠誠を誓って政治家へと転身した。伊藤博文の推挙によって「元老院」の議官となり、貴族院議員、埼玉県知事、静岡県知事、そして東京府知事にもなり、司法大臣まで経験している。この尊福の時代に、「伊勢」と「出雲」との蜜月の関係が形成された。

祭神論争は、国家神道・国体思想の形成史において重要な意味をもっているとされる。このとき、明治政府は、天皇の権威を相対化するすべての神々を一掃する姿勢を明瞭にしたのだ。「出雲の抹殺」は、その象徴的なできごとであった。

「国体論議の主な源泉としては、二つあります。一つが平田派国学ですが、もう一つは後期水戸学です。この二つが合流して近代日本の国体概念の歴史的背景になったと見ていいと思います」(原が引用する丸山眞男)と言われる。しかし、平田派の流れを汲む千家尊福の教説も、天皇制を支える教説の純化のために切り捨てられたのだ。

今回の婚約発表は、祭神論争勅裁から130年を経てのもの。既に、両家因縁の歴史は風化していると言うべきなのだろうか。
(2014年6月1日)

安倍政権の改憲路線を阻止するには

私も講演をお引き受けする。月に2度くらいのペース。大きな集会は少ない。たいていは少人数の会合。時間の都合がつく限りは、せっかくの要請に応じたいと思っている。

私は職人として、常に依頼の趣旨に応えたいと思っている。依頼を受けたテーマで、考えをまとめてみる。レジメをつくり、お話しをし、質疑に応答する中で、自分の考えを再整理する。自分の考え方の浅さや、弱点を知ることもできる。講演は、自分に有益なこと。だから、できるだけ同じことの繰りかえしはしないようにと心掛けている。

かつては消費者問題や労働・医療・薬害・司法などかなり広範な分野で講演依頼を受けたが、今は憲法と教育の分野以外にはお呼びがかからない。憲法学者や教育法学者の緻密な講演はできないが、実務家としての経験からお話しすることは、それなりの意味もあろうかと思っている。

このところ、面識のない人から、ブログを見たというだけのつながりで講演依頼を受けることがある。本日も、典型的なそのような小集会での講演。約2時間半を喋らせてもらった。

本日の講演のタイトルは、「安倍政権の改憲戦略を点検する?自民党改憲草案・96条先行改憲論・解釈変更による集団的自衛権行使容認?」というもの。

安倍政権は「戦後レジームから脱却」して、「日本を取り戻そう」という。政権がそこからの脱却をめざすという「戦後レジーム」とは、「日本国憲法にもとづく国のかたち・その基本理念」にほかならない。それは、取り戻そうとされている「戦前レジーム」とは対極の価値観から構成されている。

現行の「戦後レジーム=日本国憲法体制」とは、いかなる理念にもとづくいかなるかたちであるかを戦前の天皇制レジームとの比較において再確認することを第1部とし、安倍政権の憲法攻撃の戦略と戦術の概要を第2部とするレポート。

第1部は、今トピックとなっていることよりは、少しベーシックな、近代立憲主義・権利章典と統治機構の関係・個人主義・自由主義・そして福祉国家論に基づく現代立憲主義論…。日本国憲法の中の近代憲法・現代憲法としての普遍的な側面と、近代天皇制がもたらした戦争の惨禍への徹底した反省にもとづく固有の側面。戦後の逆コースの中の憲法の受難の歴史と、憲法を支えた歴史。そして、これまでの保守政権とは明らかに異なる安倍政権の性格。

そして、第2部。安倍政権の本音は、2012年4月公表の自民党改憲草案と7月の国家安全保障基本法案に明らかであること、これを実現すべく96条先行改憲を目論んだが、意外に強硬な世論の反撃に一歩退いて、解釈改憲に主力を注いでいること。しかし、96条先行改憲論への批判の理由とされた、「立憲主義に悖る」・「姑息なやり方」・「裏口入学的手口」などはより強く妥当する。

解釈改憲の対象は憲法9条2項。その解釈を変更して、集団的自衛権行使容認を認めようという策動。限定的容認も憲法の歯止めを外すことにおいて許してはならない。だいたいが、6項目の条件は憲法上限定の意味をなさない。15事例は、牽強付会にリアリティを欠くというだけでなく、法的には集団的自衛権行使の瞬間に、「敵」となった勢力から、日本の領土を攻撃されることを甘受しなければならないことになる。54基の原発を抱えた日本のどこもが標的となるのだ。その危険を負うことは到底できない。結局は、現実に戦争加担する選択肢はないものと考えざるを得ない。

立憲主義は必然的に憲法を硬性とする。明文改憲ができないから解釈で事実上の改憲を行うなどは、本末転倒も甚だしい、あるまじきこと。

講演後、的確な質問が相次いだ。

まずは、「私には、憲法9条を素直に読んで、専守防衛の範囲であれば軍事力を持てるというこれまでの政府解釈が可能だとは到底思えない。だから、『自衛隊を専守防衛の実力組織として守れ』とか、『その変質を許してはならない』などというスローガンに抵抗を感じる。これまでの自民党政府や内閣法制局の解釈を擁護しようという運動が正しいのでしょうか」という、あまりに真っ当なご質問。

「私(澤藤)も、憲法9条を字義のとおりに素直に読んでの理解はご質問の方と同じです。日本は、戦争の惨禍の反省から、『陸海空軍その他の戦力を持たない』という方法で不再戦を実行しようとしたはずで、警察力として必要以上の武力をもつことは違憲だと思います。また、憲法が命じる武力をもたないことが平和を守ることにつながるとも思っています。軍事力を持つことによって、平和を守れるということの方がリアリティーに乏しい。
しかし、そのような主張や論争は今重要ではない。自衛隊違憲論者も、専守防衛論者と一緒になって、集団的自衛権行使容認には反対という共通のスローガンで世論を喚起しなくてはならない、そう思っています。それは、『自衛隊違憲の考えを撤回せよ』ということではなく、考え方の違いは認めつつ、戦争防止の歯止めを外してしまおうとする危険な策動に対して、共同して闘うことがより重要だということです。それが、『共闘』というものの基本的な在り方ではないでしょうか。」

続いて、ズバリ核心に触れるご質問。「憲法の解釈というのは、時代により、事情の変化によって、どこまで許容されるものでしょうか。また、その可否はいったい誰が最終判断をするのですか」というもの。逃げたいが、逃げられない。

「憲法の解釈には、なによりも国語としての文理の限界があるはずです。国語としての意味の通常の理解を超える解釈は、無理な解釈として法的安定性を損なうことになります。9条2項に関するこれまでの政府解釈は、かろうじて可能な解釈の範囲と言えるかも知れません。しかし、集団的自衛権の行使まで認めるとなったら、明らかに許容される解釈の限界を超えることになるといわざるを得ません。

憲法解釈の最終判断は、最高裁大法廷がする建前です。しかし、最高裁はおそらく判断はしない。逃げるでしょう。『そんな国の運命に関わる重要な判断は、自分たちには荷が重すぎて判断するに適当ではないから辞退する』というのが逃げ口上。これが、砂川事件の大法廷判決が示した統治行為論です。任務放棄の司法消極主義として批判されてはいますが、要は三権分立のバランスをどうとるべきかの考えによるもので、荒唐無稽なことを言っているわけでもない。

では、内閣が強引に閣議決定をしてしまえばそれまでのことか、といえば必ずしもそうでもない。国民的な批判、非難による弾劾はあり得ます。結局は、最終的には国民自身の判断によるとしか言えない。国会の論戦。メディアの批判。規模は小さくても今日のような学習会の積み重ね。そのことによって形成された世論が、選挙を通じて政権を動かし得るとなったら、事態は劇的に変わるのだと思います。

安倍政権は、事実上96条先行改憲論を引っ込めざるを得なくなっています。国家安全保障基本法も今は国会に出せるような状況ではない。集団的自衛権行使容認の提案撤回も、もう一歩のところと思います。あらゆる世論調査が、安倍政権の解釈改憲提案に反対意見が多数であることを示しています。地道に世論を積み重ねる努力をする。これ以外に王道はないと思います。

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憲法解釈変更への閣議決定に反対するネット署名への協力のお願い

桜美林大学の阿部温子さんご提案の署名運動です。要請文を転載します。是非ご協力ください。また、拡散もよろしく。サイトのURLは以下のとおりです。

http://www.avaaz.org/jp/petition/petition_537ae73e1c8ad/?launch

『日本国内閣総理大臣 安倍晋三氏へ:閣議決定による憲法解釈変更は絶対に認めない』

安倍政権は、集団的自衛権の行使容認という、過去6年以上にわたって行われてきた憲法解釈の変更を閣議決定で行う最終段階に入ろうとしています。良識ある市民、学者、研究者から見れば、この行為はまさしく民主主義の放棄に他なりません。
戦後70年近く日本が歩み続けてきた民主政の根底にあるのは、法の支配や人権と言った普遍的価値であり、その普遍的価値を一時的な熱狂を追い風にした時の権力が踏みにじることを防ぐための装置が権力分立や立憲主義であったはずです。
三権分立原則という義務教育の中でも徹底されているはずのことが、行政権力の長によっていとも簡単に覆されようとしているのです。本来であれば、最終憲法解釈は憲法裁判所が担うところを日本の場合は最高裁判所がその役を兼務する構造になっています。しかし現政権は司法府の権限であるべき最終憲法解釈まで、行政府の長が行うものと豪語しているのです。なぜなら自分は国民の信託を受けているからと。ならば解散総選挙を行って真に国民の総意を問うのかというわけではなく、または国会という国権の最高機関で審議を行うでもなく、過去の裁判例をむりにねじ曲げて最高裁判所の権威を愚弄し、「ひっそりと静かに」内閣という行政部内のみで決定してしまおうというのです。このような三権分立の否定は、民主主義を蹂躙するものに他なりません。

なによりもその決定しようとしている事項は、戦後67年にわたって日本が平和であり続け経済的繁栄を享受できたその礎にあったルールに関わるものです。
そのような国家のあり方を根本から変えようとする事項を、立法府にも司法府にも無断で行政府だけで勝手に弄べてしまっては、もはや国家は完全にたがの外れた怪物として国民にはどうにも制御できなくなります。ルールが不都合だから、ルールを迂回しよう・無視しようというのは、ことにそのルールが国家のあり方の根幹に関わるような重要原則である場合、ありとあらゆるルールの信用を失わせ国家の道筋を見失わせることになり、果てしのない破滅への道を転がり落ちていく定石といえます。先に憲法96条改正という卑怯なやり口が失敗したがために、新たな手段に出たわけですが、この「都合の悪いルールは勝手に変えよう」というのが現政権の基本姿勢のようです。

集団的自衛権自体については様々な意見があるでしょう。ですが、私が皆さんに訴えたいのは、この手続きは間違っている、このやり方は私たちが20世紀前半の過ちを忘れて繰り返していることなのだということです。ですから、この訴えはあくまでも閣議決定で憲法解釈の変更は絶対にしてはならない点を主眼としています。国民として、市民として、あの時何もしなかったから、日本は民主主義国家ではなくなってしまったということにならないよう、どうか、閣議決定による集団的自衛権行使容認という憲法解釈変更に反対する署名をお願いします。
(2014年5月31日)

割れて砕けて裂けて散るかも

  大海の磯もとどろに寄する波  割れて砕けて裂けて散るかも
ご存じ、金槐和歌集に所載の鎌倉第三代将軍・源実朝の歌。今の日本維新の会の状況を的確に歌い上げている。

訳解すれば、次のようなところであろうか。
「これまでは一見威勢よろしく磯もとどろに押し寄せてはみたが、今まさに、進退窮まって、割れて砕けて裂けて散ろうとしているのだ。石原慎太郎も橋下徹も、割れたあとには、砕けて裂けて散るのみ。栄枯盛衰ははかりがたく、世はまことに儚い」

石原慎太郎は、結いの党との合併交渉において、自主憲法制定というスローガンに固執して、党を割る提案をした。分裂といわずに「分党」「党の分割」というのは、政党助成金の配分をめぐっての思惑のなせる業。

自主憲法制定が反憲法の無法者のスローガンであることについては、5月26日の当ブログで論じたところ。下記URLを参照されたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=2712

日本維新の会は、地方政党「大阪維新の会」と「太陽の会」が合併してできた。右翼化した安倍自民党を、さらにその右から引っ張ることを役割とした。割れた一方の「太陽」は沈んで、また陽が上ることはあるまい。次の選挙ではたして生き残ることができるだろうか。

もう一方の橋本維新は、結いの党や民主党の一部も巻き込んだ野党再編をめざすとされているが、かつての勢いはない。なによりも、地元で孤立を深めている。

以下は昨日(5月28日)の赤旗の報道。見出しは、「橋下補正予算8.5億円削減」「大阪市議会 校長公募・『都構想』広報費など」というもの。

「大阪市議会は27日の本会議で、橋下徹市長が提出した今年度補正予算案を修正し、民間人校長が相次いで不祥事を起こしている校長公募の関連経費(約2800万円)など歳出約8億5000万円を削減しました。
 修正には、維新の会を除く全会派が賛成。校長公募関連の他にも、橋下氏肝いりの東京裁判をテーマにした展示会の開催費や『大阪都』構想の広報費などを全額削除し、家庭系ごみ収集事業の民営化に向けた予算などを削減しました。」
「また本会議では、橋下市長が再提出した市立幼稚園14園を廃止・民営化する条例案を維新以外の会派で再び否決しました。」

大阪都構想が事実上破綻し、強引な政治姿勢は、住民から見放されつつある。市民らが漠然とした期待から喝采を送った時代は終わった。いま、選挙をし直したら、あらゆるところで維新の凋落は目を覆うばかりとなるにちがいない。

維新の存在の客観的な役割は、安倍政権を極右と見せないことにあった。割れた両者とも、これまで同様の役割を担おうとしている。「寄する波」が、割れただけでは無害にならない。「砕けて裂けて散る」までの末路をしっかりと見届けよう。
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(2014年5月29日)

国民感情に配慮する海自トップと、国民感情を逆撫でする元海自トップ

「たちかぜ」裁判の劇的な高裁逆転認容判決が4月23日。上告期限が徒過して判決が確定したのが5月8日。判決確定を受けた13日の河野克俊海上幕僚長記者会見が、なかなかのものだった。「判決を正面から重く受け止め、再発防止に万全を期す」とした上で「個人的な気持ちとしては直接、出向いて遺族におわびしたい」とまで述べた。また、内部告発した3等海佐については「処分する考えがない」と明言もしている。

そして、25日には、先の自らの言葉のとおり、自身が宇都宮市のいじめ被害者遺族宅を訪れて謝罪した。遺族が弁護士を通じて「真摯に謝罪していただいた」とコメントしているところからみて、おざなりのものではなかったことが窺える。

しかも、同幕僚長は遺族への謝罪を終えたあと、報道陣の取材に応じ、「長年おかけしたご苦労とご心痛におわびしたいという気持ちでやってきた。いじめをなくすことが大前提だが、周囲もいじめを見過ごさないような組織にしていきたい」と再発防止に取り組む考えを示したと報道されている。「周囲もいじめを見過ごさないような組織にしていきたい」と海自の体質改善に言及したのは、内部告発をした3等海佐について単に「処分する考えがない」という以上に一切の差別をしないという強いメッセージと解すべきだろう。事件を起こした海自の体質は責められるべきだが、判決確定後に海自の最高幹部がここまでの謝罪のコメントをしていることは評価に値するというべきではないか。

私は、自衛隊の存在が違憲との立ち場である。しかし、現実にある武力組織が、法とシビリアンコントロールに服し、理性的な集団でなければならないことは当然である。その側面からの自衛隊の在り方に大きな関心を寄せている。

旧軍の新兵いじめは半端なものではなかった。私の年代の誰もが、子どもの頃に多くの大人たちから聞かされたことだ。人間性を抹殺しなければ使い物になる兵隊は育たず、精強な軍隊は作れない。そのような考え方が浸透していたのであろう。軍事組織である以上、所詮は自衛隊も同じようなものに違いない。そう思っていた。

だから、最初に「たちかぜ・いじめ自殺」事件を知ったときには、「やはり、自衛隊よおまえもか」という受けとめ方だった。ところが、訴訟の進展の中で、堂々と真実を内部告発する現役自衛官がいることを知って仰天した。「たちかぜ・内部告発」事件は、旧軍とは異質のものを自衛隊に見ざるを得ない。

内部告発者は組織から疎まれることが通り相場である。村八分にさえなる。奮闘の末に結局は組織から追い出されるのがありがちな結末。ところが、本件では3等海佐が針のむしろにいる様子は伝わってこない。実は、海上自衛隊なかなかの開明的組織のごとくである。

旧軍ではこうはいくまい。旧軍で横行していたいじめが表沙汰になり問題視されることはなかった。いじめによる自殺があっても、闇に葬られた。天皇の軍隊にあるまじきものは、ないことにされたのだ。いじめ自殺についての遺族の責任追及提訴などは考えられるところではなく、現役軍人の内部告発も、軍のトップが遺族に謝罪するなどもあり得ないこと。旧軍と比較して自衛隊は確実に変わっているというべきなのだろう。

以上のとおり、海自トップの遺族への謝罪の真摯さと再発防止の努力を評価して、海自について好印象を受けた。昨日までは。しかし、今朝の紙面で、また評価は逆戻りとなった。「元海自トップ」の言動によってである。

毎日新聞東京朝刊5面に、「元海自トップ 国民の了解取らなくても」という記事が掲載されている。集団的自衛権問題についての連載調査記事。

「『どこかの党が民意、民意と言っているが、外交・防衛は皆さんに任せたんです』
 集団的自衛権の行使容認をめぐり、自民党が26日開いた安全保障法制整備推進本部の会合。古庄幸一・元海上幕僚長は、国民は外交・防衛政策を政権党に全権委任したといわんばかりの理屈を語り、こう踏み込んだ。『国民にいちいち了解を取ると言わなくても問題ない。世論調査にうんぬんされる必要はない』」

これはひどい。こんな幹部が統率している自衛隊では危険極まる。自衛隊に甘い言葉をかけるわけには行くまい。この人、「小泉政権当時の2003〜05年、海上自衛隊トップを務め」、その当時には「政府・自民党が目指す自衛隊の活動範囲の拡大を後押しする発言を続けた」と紹介されている。

旧軍は、「天皇の軍隊」という建前を最大限に利用して軍への批判を封じた。「玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へ」た姿勢は、全軍のものだった。自衛隊には、それがない。だから、海自トップの遺族への真摯な謝罪ができることになる。ところが、天皇に代わる「政権」に盲従するとなると、旧軍と同様の批判拒否の体質になりかねない。

すべての行政機関は、その権能を主権者国民から信託を受けたものとして、その権限行使に慎重でなくてはならない。政権与党の会合において、「国民にいちいち了解を取ると言わなくても問題ない」という、国民軽視の傲慢な姿勢は到底容認できない。遺族の感情をおもんばかり誠実に謝罪の意を表明する現役の海自トップと、「世論調査にうんぬんされる必要はない」と与党を焚きつける元海自トップ。やはり、軽々に海自を評価すべしなどと言ってはならないようである。
(2014年5月27日)

「自主憲法制定」とは無法者のスローガンである。

わが国では、「護憲派」と「改憲派」が熾烈に争っている。この二つの勢力とはべつに、改憲派から距離を置いた「自主憲法制定派」なるグループがある。ここに、ごく小数の穏やかならざる人々がいる。

「改憲」とは、現行憲法の根幹は認めたうえで、枝葉の刈り込み方を変えること。これに飽きたらぬとするのが「自主憲法制定」。現行憲法を根こそぎ変えてしまおうということなのだ。穏やかならざる所以である。

憲法改正には、「手続きにおける制約」と「内容における限界」とがある。現行憲法が定めた手続にしたがってでなくては改正はできないし、現行憲法が想定している限界を超えない範囲での改正しかできない。根幹を変えてしまうことを「改正」とは言わない。根幹を根こそぎ変えてしまおうとの魂胆あればこその「自主憲法制定」なのだ。現行憲法の普遍性に挑戦して根幹を変えてしまうことは、極端に危険なことと指摘せざるを得ない。日本国憲法が根幹としている人権尊重・国民主権・平和主義を変更しようなどとは、まことに穏やかではない。

「押し付けられた憲法に無効を宣言して、われら日本民族が自主的に新しい憲法を作るのだ」「改憲手続にこだわる必要はない。憲法改正の限界など無視せよ」という勇ましい主張が、自主憲法制定派の本音である。憲法改正の限界を突破しようという意図がなければ「憲法改正」のスローガンで十分。わざわざ、「自主憲法制定」というのは、人権よりも秩序が大好き、国民主権は嫌いで天皇主権にノスタルジーをもち、隣国に舐められる平和よりは勇ましく戦争ができる国にしたい、と考えているからなのだ。

「自主憲法制定」は、長く自民党の「立党の精神」、ないしは「党是」とされてきた。現在なお、自民党のホームページには、保利耕輔・憲法改正推進本部長の「今こそ自主憲法の制定を」というコラムが掲載されている。その冒頭の一句が「自主憲法制定は立党以来のわが党の党是だ」というもの。

しかし、厳密にみると立党宣言にも綱領にも「自主憲法制定」の用語はない。1955年11月15日付の「党の政綱」に「平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う」との文言をみるだけである。これが、立党当時の自民党の姿勢。安倍政権の現状に比較して、なんと温和しいものであったか。

以上のとおり、「自主憲法制定」は自民党全体の党是というよりは、自民党極右派のスローガンに過ぎなかった。自民党主流は、国民世論の動向を慮って、長く憲法改正には手を付けないという現実的対応をしてきた。これを不満とする右派も、改憲を叫んでも自主憲法制定にこだわりを見せてはいない。自主憲法制定は、一握りの極右のスローガンとみるべきだろう。

その「自主憲法制定」という古色蒼然たるスローガンが、自民党ではなく日本維新の会から持ち出され、友党と位置づけられている結の党にこれを呑むよう突きつけられている。いま、これが両党合併のネックになっているとして、にわかのクローズアップである。

報道されているところでは、日本維新の会が、結いの党との合流後の共通政策に「自主憲法の制定」を盛り込む方針を決めた。石原慎太郎、橋下徹両共同代表が21日に名古屋市内で会談して一致したという。結い側は、今のところこれを拒否して合併協議は難航している。維新の会側の現時点における提案内容は、政策合意案に「憲法改正手続きを踏まえた自主憲法制定による統治機構改革」と明記することだという。結いの江田憲司代表は、「野党再編の芽を摘む『自主憲法制定』の言葉はのめない」と述べ、削除を求めている。

「維新の執行役員会で石原慎太郎共同代表は『(自主憲法制定は)政治をやってきた中でものすごく大事な言葉だ』と主張した。これに対し、松野頼久国会議員団幹事長らが『自主憲法制定は党是ではない。他党議員も受け入れられないと言っており、野党再編にプラスにならない』と再考を迫った」(朝日)。また、「石原共同代表が『私が国会に戻ってきたのは、自主憲法制定を実現するためだ』と持論を繰り返し、橋下共同代表も同調」という空気で、これに対し、「結いの江田代表は『(自主憲法制定は)現行憲法の破棄という意味があり、絶対に受け入れられない』と強調した」(産経)などとも報道されている。

このような、憲法問題の根幹をめぐる認識の齟齬は、「言葉の表現だけの問題」ではない。「大した問題ではない」「大人げない」で済ませてはならない。維新と結い、いざ合併の協議において、これだけの基本見解の隔たりを明確にした。今回の協議を玉虫色に乗りきったとしても、合併後の党運営で水と油のグループ間対立を招くことが必定というべきだろう。

今ですら、維新の会が「両頭の鷲」状態で、統一した政党の体をなしていないのは周知の事実。憲法問題不一致のままの合併では、「三頭のカラス」になってしまうだろう。

維新の会は、明言すべきである。「わが党は、自主憲法制定のスローガンを立て、基本的人権・国民主権・平和主義には手を付けてはならないとする憲法改正の限界に果敢に挑戦する」と。
有権者は、明瞭に認識すべきである。「維新の党とは、基本的人権・国民主権・平和主義という憲法原則を廃棄する魂胆をもつ危険な政党であること」を。

「自主憲法制定」のスローガンは、それだけの重みをもっている。これを奉じる論者は現行憲法秩序を根底から否定するアウトロー、つまりは無法者の立ち場なのだから。
(2014年5月26日)

タイのクーデターは他人事ではない

このところ政情不安定だったタイで、軍が全土を戒厳下においたのが5月20日。22日にはクーデター宣言となって憲法が停止された。タイでは8年前にも同様の事態があって、タクシン政権が倒れた。8年前には、「他人事に眉をひそめる事態」に過ぎなかったが、安倍政権下で軍事国家への萌芽を危惧せねばならない昨今、日本にもあり得ないことではないと深刻に受けとめざるをえない。

選挙ではなくクーデター。国民の合意形成の手順と面倒を省いた軍事力での秩序回復。手っ取り早い秩序と治安維持の担い手として軍が前面に出て来る危険な事態の進行。それが決して他人事ではない。

タイでは、国王の権威に関するものを除いて、憲法全条項の停止が宣言されているという。デモと集会は一切禁止、夜間外出禁止令も出されている。メディアの自由は一切なくなった。放送局は、軍の厳重な管理下にある。ソーシャルネットワークの規制まで行われているようだ。その状況下で、前首相を含む政治家の拘束が報じられている。

これが他人事でないのは、2012年4月に公表された「自民党憲法改正草案」が戒厳と実質を同じくする事態までは想定しているからだ。もちろん、クーデターは憲法が想定する範囲を超える非合法なできごとだが、戒厳からクーデターまでは、ほんの一歩の距離でしかないことを今回のタイの実例が教えている。

いまさら言うまでもないが、自民党改憲草案は自衛隊とは基本性格を異にする「国防軍」を創設することを公言している。国防軍の秘密保持を憲法事項とし、国防秘密漏示の裁判は国防軍内の軍法会議で行おうというのだ。さらに、「公の秩序を維持」することを国防軍の憲法上の任務として明記する。その国防軍は、草案第9章に新設される「緊急事態」において、秩序維持のために重要な任務を遂行することになる。

「緊急事態」が宣言されれば、国会の機能が停止される。戒厳と同様なのだ。国会に代わって、「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」「内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い」「地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる」と改正案に明記されている。緊急事態とは、名を変えた戒厳と読み込まざるをえない。

大日本帝国憲法第14条は、1項で「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」とし、2項で「戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」とした。憲法にはこれだけの定めがあれば良い。あとは法律を制定することになる。また、第31条(非常大権)は「本章ニ掲ケタル條規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」。この規定は当時の多数説において、戒厳とは別に臨機応変の処分を為すことができるとの解釈がなされていた。少数説は戒厳の結果として軍の権能を定めたものと解していたとのことである。

自民党改正草案は、「内閣総理大臣は、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる」ことを定めている。これは、現行日本国憲法には存在しない規定。大日本帝国憲法第14条と31条の復活なのだ。「天皇」が「首相」となり、「戒厳」・「戦時又ハ国家事変」が「緊急事態」に変わっている。これだけで十分なのだ。あとは法律の書きぶり次第で、災害やテロを口実に「緊急事態宣言」が可能となる。緊急事態となれば、治安の維持のために国防軍が前面に出て来る。そして、状況次第で、軍が政治の実権を掌握する事態を生じかねない。クーデター誘発のお膳立てと言わねばならない。

「戸締まり論」華やかなりしころ、「ソ連が攻めてきたらどうする」「北海道に上陸したらどうする」「それでも、無防備でよいというのか」「そんなとき9条で国民を守れるのか」いう問が発せられた。今なら、「北朝鮮がミサイルを撃ってきたら…」「中国が先島の離島に上陸したら…」となるのだろう。

その発問自体の胡散臭さが問われなければならないのだが、タイの現実を見せつけられると、「国防軍がクーデターを起こしたらどうなる」「国防軍が政権を掌握するようなことになったらどうなる」「国防軍こそ民主主義に政治への敵対者として危険な存在ではないのか」と発問せざるをえない。

前田朗さん(東京造形大学・憲法)に、「軍隊のない国家ー27の国々と人びと」という著書(日本評論社)がある。初稿は「法と民主主義」連載だった。その中で、クーデター防止のために軍を廃絶した国の実例が載っている。軍隊が度々のクーデターを起こしてきた歴史をもつ国では、軍隊こそが政情不安の元凶であり、民主主義の敵でもある。また安全な国民生活の障害物でもある。だから、その根本的な解決のために直接の元凶である軍隊を解散させた。コスタリカやハイチ、ドミニカなどがこれにあたるという。

軍が強ければ本当に国民は安心なのだろうか、自国の軍は侵略戦争を起こさないのだろうか、自国の軍の強大化は近隣諸国の軍事力の強大化と軍事的緊張関係を呼び起こさないのだろうか。軍は国内の政治的安定の攪乱要因とならないのだろうか。
経済関係緊密で人的交流も頻繁なタイの動向に無関心ではおられない。到底他人事ではない。
(2014年5月24日)

「大飯原発差止」「厚木基地飛行差止」両判決非難の読売社説に反論する

昨日(5月22日)の読売社説が、大飯原発再稼動差し止めを命じた福井地裁判決を論難している。タイトルが「大飯再稼働訴訟 不合理な推論が導く否定判決」というもの。「不合理な推論」とは何を指しているのかが不明。「否定判決」は、さらに意味不明。「読売において否定すべき内容の判決」との意味らしい。判決に不快感を表明していることだけはよく分かるが、その根拠や理由の記載は極めて乏しい。「大飯再稼働訴訟判決批判 不合理な推論が導く否定社説」となっている。出来の悪い社説の典型というほかはない。

冒頭の一文が、「『ゼロリスク』に囚われた、あまりに不合理な判決である」という断定調。しかし、判決の論理のどこがどのように不合理なのかの指摘に欠ける。タイトルと冒頭の一文に期待して、読み進むと中身がすかすかで、肩すかしに終わる。「『再稼動ありき』に囚われた、あまりに不合理な社説」なのだ。

同社説は、判決の「不合理な推論」については指摘するところがない。判決の判断を論難する根拠として挙げるところは、「昨年7月に施行された原発の新たな規制基準を無視し、科学的知見にも乏しい」と、「福井地裁判決が最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである」の2点のみである。さて、この論難は当を得ているだろうか。

同社説は、「規制委の安全審査が続いていることを考慮すれば、その結論の前に裁判所が差し止めの必要性を認めるのは相当ではない」との趣旨を述べている。しかし、行政基準の妥当性を判断することは裁判所の主たる任務のひとつである。規制委の審査基準を尊重することがあってもよいが、それは納得しうる安全基準として十分な内容をもっていればこそのことであって、規制委の審査基準であるが故に裁判所を拘束するものではありえない。原爆症認定訴訟においても、水俣病認定訴訟においても、行政が決めた審査基準そのものの当否が争われた。裁判所は行政の審査基準の妥当性を否定して被爆者や患者を救済してきたではないか。公害でも、薬害でも、労働災害でも同様である。「規制基準にとらわれず、原告らの人格権侵害を予防した」判決は褒むべきではあっても、読売のいう論難の根拠にはならない。

また、「科学的知見にも乏しい」の内容に具体的指摘がなく、「科学的な新たな規制基準を無視していること」をもっての非難のごとくであるが、実は「社説子の論理的知見に乏しい」だけのことと言わざるをえない。

また、同社説は、「最高裁は1992年の伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、『極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている』との見解を示している」「原発の審査に関し、司法の役割は抑制的であるべきだ、とした妥当な判決だった」という。これは、読者を誤導するものだ。けっしてそうではない。

伊方原発訴訟(1号炉訴訟)は、わが国初の原発訴訟として注目された。最高裁判決第1号(1992年10月29日・第一小法廷)としても注目され、その判決はそれなりの重みをもっている。しかし、この判決は、「原子炉設置許可処分の取消を求める行政訴訟」におけるものである。今回の「人格権にもとづく差し止めを求める民事訴訟」とは、訴訟形態が大きく異なる。しかも、20年余も以前のもの。その間に科学的知見や原子炉の安全性に関する知見の積み重ねがあり、福島第1原発の事故もあった。伊方原発最判を引用するなら、もっと丁寧な論拠を示さねばならない。

読売社説の指摘部分は、最高裁はこう言っている。
「原子炉施設の安全性に関する被告行政庁の判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟における裁判所の審理、判断は、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門技術的な調査審議及び判断を基にしてされた被告行政庁の判断に不合理な点があるか否かという観点から行われるべきであつて、現在の科学技術水準に照らし、右調査審議において用いられた具体的審査基準に不合理な点があり、あるいは当該原子炉施設が右の具体的審査基準に適合するとした原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の調査審議及び判断の過程に看過し難い過誤、欠落があり、被告行政庁の判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、被告行政庁の右判断に不合理な点があるものとして、右判断に基づく原子炉設置許可処分は違法と解すべきである。」

要するに、「判決時の科学技術水準に照らし、審査基準に不合理な点があれば、原子炉設置許可処分は違法」というのが最高裁の立場かのだ。到底、大飯原発差し止め判例を批判する論拠たりえない。

しかも、伊方判決は、次のような判断をつけ加えて、挙証責任の転換をはかっている。
「原子炉施設の安全性に関する被告行政庁の判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟においては、右判断に不合理な点があることの主張、立証責任は、本来、原告が負うべきものであるが、被告行政庁の側において、まず、…審査基準…に不合理な点のないことを主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証を尽くさない場合には、被告行政庁がした判断に不合理な点があることが事実上推認される」

行政訴訟と民事訴訟、被告が国であるか電力会社であるか。判決時期の20年余のへだたり。慎重に違いを見極め、また共通する論理も見極めなければならない。読売社説は、性急に自説の結論を導こうとするあまり、牽強付会に最高裁判決をつまみ食い援用をするものとして説得力を欠く。社説として出来が悪いと言う所以である。

また、読売は、本日(5月23日)の社説に、厚木基地騒音訴訟で自衛隊機の夜間飛行差し止めを認めた横浜地裁判決にもブーイング。「厚木騒音訴訟 飛行差し止めの影響が心配だ」というタイトルで、「自衛隊の活動への悪影響が懸念される」と論じている。

「こうした判断は、嘉手納、普天間、小松、岩国、横田の5基地に関して係争中の騒音訴訟にも影響する可能性がある。基地の運用に支障が生じないとも限らない」とまで、国の立場にたってのご心配。

生活の快適を求める国民の声を抑えて、権力への迎合を優先する姿勢はジャーナリズムとはいいがたい。御用新聞というにふさわしい。拠って立つイデオロギーは、国家主義、軍国主義、国防最優先主義といわざるを得ない。国家あっての国民、国防あっての人権、軍隊なくして平和も国民の平穏な生活もないという考え方。だから、国民生活の不便は我慢させて、自衛隊の訓練を優先させるべきというのだ。ひと昔以前のスローガンの蒸し返しに等しい。連日の、恐るべき両社説。
(2014年5月23日)

原発運転差し止めの認容と、米軍機飛行差し止めの棄却

昨日(5月21日)、原発問題と基地問題に関して、特記すべき判決が続いた。関西電力大飯原発3,4号機運転差し止め訴訟と、厚木基地騒音差し止め訴訟の両判決。とりわけ、大飯原発の運転差し止めを認めた判決の衝撃はこの上なく大きい。判決直後に福井地裁前に掲げられた「司法は生きていた」の弁護団の垂れ幕が誇らしげに輝いていた。弁護団長佐藤辰哉さんは旧知の人、ご苦労をねぎらいたい。

両訴訟に共通するキーワードは、「人格権」である。人格権が現実に侵害されている場合には「侵害排除請求権」、侵害の危険に瀕している場合には「侵害予防請求権」が生じる。

大飯原発訴訟は民事的に、「原告らが有する人格権侵害予防請求権」を行使して、「原発稼働差し止め」を求めたもの。判決書の引用によれば、「原告らは、…人間の生命、健康の維持と人にふさわしい生活環境の中で生きていくための権利という根源的な内実をもった人格権に基づいて本件原発の差し止めを請求する…」「人が健康で快適な生活を維持するために必要な良い環境を享受する環境権に基づいて本件原発の差し止めを請求する」というもの。

この請求が全面的に認容された。大飯原発3、4号機の設計基準は、その運転によって「人間の生命、健康の維持と人にふさわしい生活環境の中で生きていくための権利という根源的な内実をもった人格権」を侵害するものと認定されて、運転は許さないと判決されたのだ。

判決は格調が高い。裁判官らが渾身の気力で書いたものだ。中でも、次の点に感動を覚える。

「原発の稼働は法的には電気を生み出す一手段である経済活動の自由に属し、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきだ。自然災害や戦争以外で、この根源的な権利が極めて広範に奪われる事態を招く可能性があるのは原発事故以外に想定しにくい。具体的危険性が万が一でもあれば、差し止めが認められるのは当然だ。」

人間の尊厳をこそ最重視すべきであって、経済活動の自由が最優先ではない、というのだ。原発事故が大規模な人格権の侵害をもたらすものである以上、経済活動の自由を抑制することにはなっても、原発の安全性には最大限のものが求められ、万が一にでも危険が考え得るのであれば差し止めが認められて当然、というのだ。

この考え方は、次のようにも表現されている。
「被告(関西電力)は原発稼働が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いという問題を並べて論じるような議論に加わり、議論の当否を判断すること自体、法的には許されない。原発停止で多額の貿易赤字が出るとしても、豊かな国土に国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の損失だ。」

ここに述べられているのは、人格権的利益(多数の人の生存そのものに関わる問題)と、経済的利益(電気代の高い低いという問題)を比べることなど愚か極まることというのだ。欣快の至りというしかない。これが、我が日本国憲法の憲法的な価値序列なのである。よくぞ、判決文の中に、憲法の精神を吹き込んでくれたものと、感慨一入である。福島第1原発事故の教訓を真摯に受けとめた判決。後に続く判決も、こうなって欲しいものと切に望む。

夕刻の日民協の会合でも、ひとしきりこの判決が話題となった。元裁判官の発言が印象に残った。
「真面目な裁判官はたくさんいる。しかし、この人たちが良心に従った判決を書けるかは、環境にかかっている。原発問題では、先の都知事選で二人の元首相がコンビを組んで脱原発を訴えた。このような社会背景が、裁判官に良心に従った判決を書く勇気を与えているのだと実感する」
判決の内容も、世論の動向と大きく関係してくるのだ。そして、判決が世論に大きく影響を与えることになる。

同じ日に、横浜地裁が厚木基地の夜間飛行差し止めを一部認める判決を言い渡した。これも大きな前進面をもった判決。

厚木基地の飛行差し止め請求の対象は、自衛隊機と米軍機があり、差し止め請求の根拠は「行政訴訟における差し止め」と「民事訴訟における人格権に基づく差し止め」の2本立て。このうち、行政訴訟による自衛隊機の飛行差し止めが認められた。その意義は大きい。その点は評価を惜しまないが、しかし米軍機の飛行差し止めは、行政訴訟では却下、民事訴訟では棄却となった。原告住民の要求は、圧倒的にうるさい米軍機の差し止めだったはず。納得し得ない感情が残って当然。

とりわけ、人格権に基づく米軍機の飛行差し止め請求が一蹴されていることの理由が分からない。どこの国の飛行機であろうと、騒音被害が著しい人格権侵害となれば、差し止め請求が認容されてしかるべきではないか。偶然、同じ日に、福井地裁では原発運転差し止め請求が認容され、横浜地裁では米軍機飛行差し止め請求が棄却となった。注目の2判決のこの結果の不整合と不合理は、いずれ是正されねばならない。
(2014年5月22日)

新内閣法制局長官は、安倍政権に抵抗できるだろうか

昨日(5月20日)の参院外交防衛委員会で、横畠裕介内閣法制局長官が就任後初めて国会答弁した。アントニオ猪木委員(日本維新の会)の集団的自衛権の行使に関する質問に対して、集団的自衛権の定義については「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず実力をもって阻止することが正当化される権利」とした上、「他国に加えられた武力攻撃を実力で阻止することを内容とするものであるため、そのような武力の行使は憲法上許されない」と述べた旨報道されている。

「憲法上許されない」とは、単に、「政府はこれまでそのように解釈してきた」という文脈で述べられたのか、あるいは憲法解釈上論理必然的に「許されない」という趣旨なのか、報道では判然としない。質問者の猪木委員も詰めてはいないようだ。

横畠氏の次長から長官への昇格は5月16日。昇格以前の次官時代にも答弁には立っている。たとえば、2月6日の参院予算委員会。「内閣法制局次長が初答弁 入院中の長官代理で」とのタイトルで、次のように報道されている。

「体調不良で検査入院中の小松一郎・内閣法制局長官の代理を務める横畠裕介次長が今国会で初めて6日の参院予算委員会で答弁した。横畠氏は現行の憲法解釈を堅持してきた内閣法制局出身だが、この日は安倍晋三首相が前向きな憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認をめぐる質問で「現時点では意見は差し控える」と答弁。行使容認に前向きな小松氏の代役に徹した。
 この日、社民党の福島瑞穂前党首が現行解釈の確認を求めたが、横畠氏は『意見を差し控える』と3度にわたって繰り返し、質疑が中断。再開後に『政府としては、行使は許されないと解してきた』と答弁した。
 なお、小松氏は同様の質問に答弁する際、『集団的自衛権をめぐる憲法解釈は現時点では従来通りだ』と前置きしていた。」(朝日)

横畠氏は山本庸幸前々長官の次の長官候補だった。順当に行けば、長官になれるところを、安倍政権の思惑で、異例の外務省からの横滑り長官人事の割を食った。誰がみても、憲法解釈を変更するための不自然で強引な人事の犠牲者。安倍政権に疎まれたのだから立派な人物なのだろう。硬骨漢なのだろうとのイメージがあった。小泉政権当時の国会で、集団的自衛権は行使できないとする現行解釈に沿う見解を示していたともいう。

さて、この点がどうなのだろうか。5月16日の東京夕刊は、新長官記者会見を「法制局新長官 横畠氏、容認前向き」と報道している。
「政府は16日の閣議で、小松一郎内閣法制局長官(63)を退任させ、横畠裕介内閣法制次長(62)を昇格させる人事を決めた。体調不良で職務続行が困難と判断した。横畠氏は解釈改憲に関し記者団に『およそ不可能という前提には立っていない。遅れることなく、しっかり研究していきたい』と集団的自衛権の行使容認をにらみ前向きに検討する考えを示した」という記事。

まだこの記事だけでは分からない。政権は、横畠氏が安全パイであることを確認して新長官に据えたと考えるべきなのかも知れない。いや、人の信条はそんなにたやすく変えられるものではないというべきなのかも知れない。また、所詮官僚機構の中で抵抗は無理だと考えるべきか、この地位の大きさから政権への抵抗を期待可能と言うべきか。官僚機構の中の一個人の資質や健闘に期待するのではなく、世論の大きなうねりをつくることが大切ではないか。

思いは多様で、いま結論は出せない。固唾をのんで見守るばかり。
(2014年5月21日)

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