卑劣な匿名言論ー都議会「セクハラ野次」
一昨日(6月18日)都議会本会議での「セクハラ野次」が大きな話題となっている。野次の議員を指弾する世論の盛り上がりには救われる思いがするものの、都議会議場の情けなさと事後処理のお粗末さには目を覆わんばかり。
「妊娠や出産に悩む女性への支援策について都側に質問していた女性都議に対し、『自分が早く結婚したらいいじゃないか』『産めないのか』などのやじが飛び、議会内外に波紋を広げている。女性を蔑視し議会の品位をおとしめる内容の発言に、業を煮やした超党派の女性都議25人全員が19日、再発防止を徹底するよう議長に異例の申し入れをした」(東京新聞)と報じられている。
同議員のツイッターに「リツイート」の数は2万件を超え、都の議会局には19日だけで、1000件を超える意見が電話や電子メールで寄せられ、ほとんどが「女性に対して失礼な内容だ」などの苦情や批判だったという。
議場の不規則発言をすべて封じ込めよという主張には与しがたい。議事を活性化させる野次はありうる。寸鉄人を刺す気の利いた野次もあろうし、議場を和ませるユーモアの発言もある。しかし、問題の野次は、議場の発言であろうとなかろうと許される類のものではない。複数の発言者だけでなく、「やじに同調する人がいたのが悲しい」と言った塩村都議にまったくの同感であり、都民の一人として恥ずかしい限り。都議会というところは、そのレベルでしかない品位に欠ける多数が巣くう場所なのだ。国会の野次も似たりよったり。おそらくは、これが日本の社会全体の縮図と受けとめなければならない。
朝日の報道では、「ヤジの議場 知事も笑み」との見出しで次のように報道されている。
「問題のヤジがあったのは18日の都議会。晩産化について質問した塩村氏に『お前が早く結婚すればいいじゃないか』『産めないのか』とヤジが相次いだ。議場に笑い声が広がるなか、働く女性の支援を掲げる舛添要一知事も笑みを浮かべ、塩村氏は議席に戻ってハンカチで涙をぬぐった。」
「やじは男性の声だったが、発言者は特定されておらず、名乗り出てもいない。『自民党議員席から聞こえた』との証言が複数会派からあり、塩村氏が所属するみんなの党は、幹部が抗議したが、自民幹部は『確認できていない』と取り合わなかった。」
自民党議員団と舛添知事とは、恥を知らねばならない。実は、このところの舛添知事の堅実な姿勢に、それなりの評価をしていたのだが、この「笑みを浮かべ」報道でご破算だ。これでは、石原慎太郎都知事と変わるところがない。
なにより問題なのは、「自民の吉原修幹事長は『自民の議員が述べた確証はない。会派で不規則発言は慎むように話す』と述べるにとどまり、発言者を特定しない意向を明らかにした」という自民党の姿勢だ。発言者の責任もさることながら、発言者の特定をしようとしない都議会自民党の姿勢が糾弾されなければならない。
表現の自由は最大限の保障を受けなければならない。「表現の自由が保障される」ということの意味は、当該の表現によって、誰かのあるいは何らかの価値を損なうことが許容されるということにほかならない。無意味なつぶやきや、誰かへの讃辞だけの言論について「表現の自由を保障する」意味はない。「表現の自由」とは、お上品に誰かを褒める自由ではなく、言論によって誰かを傷つける自由のことなのだ。そうでなくては、法がわざわざ自由を保障するとした意味が無くなる。
だから、言論には責任が伴う。責任の所在が明らかでない「無責任言論」「言いっぱなし言論」は、それだけで「表現の自由の保障」を受ける資格を欠くことになる。この原則を確認しておきたい。責任の所在を不明確にしたままの匿名言論は、無責任の極み、卑怯卑劣。無責任なヤジを飛ばしておいて名乗り出ることなく逃げ切ろうとは、選挙で選出された議員としてあるまじき態度。
仮にも有権者の信任を得ての都議たる者、自分の言論に無責任であってはならない。「お前が早く結婚すればいいじゃないか」「産めないのか」とヤジを飛ばした輩よ。まずは名乗り出よ。名乗り出でることによって責任の所在を明らかにせよ。その上で、堂々と所信を釈明し開陳せよ。そして、都民のあるいは国民の再批判に耳を傾けよ。選挙区の有権者は、あらためてヤジ議員の議員としての適格性を判断せよ。都議会自民党よ、調査して発言者を特定せよ。誠実に対応しなければ、卑劣な匿名ヤジを容認するものと指弾されざるを得ない。世論から同罪と見なされることを覚悟しなければならない。
付言しておきたい。「言論には責任が伴う」「匿名の言論は無責任」の原則は例外を伴う。その典型が、公益通報(内部告発)である。圧倒的な強者を指弾する言論においては、匿名言論を許容しなければならない。強者とは、権力者や経済的強者のこと。権力や企業に腐敗があり、あるいは経済的な強者に不正不当の言動があるときに、意を決してこれを社会に告発しようとする者に対して、「まずは告発者の氏名を明示して責任の所在を明らかにせよ」などと言うことは馬鹿げている。社会は、このような告発によって恩恵を被る。社会全体で告発者に不利を被らせることなく擁護し通さねば、次に続く有益な告発を期待することができなくなる。言論の場や内容によって、顕名言論の原則には例外が伴うことを確認しておかねばならない。
なお、今日(20日)の朝日朝刊の報道で意外な記事にぶつかった。
「ツイッターで『うやむやにするつもりか』と批判した都教育委員で作家の乙武洋匡さんは『今回のヤジはおもてなしと正反対。本当にこの街で五輪を開催できるのか』と述べた。」というのだ。驚かざるをえない。
乙武教育委員よ。あなたにも良識の持ち合わせがあるのだ。あなたも、自民党都議の卑劣な言論を指弾する意欲をお持ちなのだ。しかし、あなたご自身が、『うやむやにするつもりか』と批判されていることを自覚しておられるだろうか。
多くの都民、都立校の教員、被処分者、そして教育庁勤務経験者らが、「都教委の日の丸・君が代の強制は、思想や信仰の転向を求めるもの」「教育が国家主義のイデオロギーを教師と生徒に注入している」「信仰や民族・国籍が多様化している生徒の思想・良心を掣肘している」「10・23通達以来、都立高は教育の場としての活力を失っている」「国家ではなく生徒を主人公とした教育を取り戻すために、教育委員諸賢には現場の訴えに耳を傾けていただきたい」とくり返し要請している。しかし、これを一顧だにせず、無視し続けている都教委の在り方に大きな批判の声があがっている。このことをどうお考えか。
生徒・子どもに最善の利益を保障すべき都教委が、その正反対なことをしているのだ。そのことをくり返し指摘されながら、「うやむやにして、逃げ通すつもりつもりなのか」と批判されているのだ。あなたご自身が、高給を食んでいる教育委員の一人として批判されていることを自覚し、責任を明確にして応えなければならない。当然のことながら、地位ある者には、相応の責任が伴う。他人を批判するだけでなく、自らを省みて、批判に耳を傾けて欲しい。せめては、あなたの肉声で要請や請願に対するご回答をいただきたい。
(2014年6月20日)