セクハラ野次ー自民党都議団の責任を問う
「いじめ」という現象は、社会の縮図だ。個別の「いじめ」は、社会がもっている病理の表れである。
いじめの構造は、「加害者」と「被害者」だけで成り立っているのではない。周囲の「傍観者」の存在が不可欠な構成要素となっている。加害の実行者は、多数傍観者の暗黙の支持を得ることによって加害行為に踏み切る。明示黙示の支援を得つつエスカレートする。傍観者グループと加害者との距離は、わずかに一歩、あるいは半歩のものでしかない。加害者は傍観者からリクルートされて膨張する。傍観者は実行犯予備軍でもある。
もとより、傍観者の色合いは一様ではない。自らは実行犯にならないが背後から積極的にけしかける者もあれば、消極的に「笑みを浮かべる」程度で加担する者もあり、無関心を装う者もある。内心ではいじめを止めたいと望みながらも力及ばずとして何も出来ない者も多くいることだろう。しかし、それぞれの濃淡のレベルはありながらも、客観的にはいじめへの加担をしていることを自覚しなければならない。声を上げるべきときには黙っていること自体が罪となることもあるのだ。
さて、東京都議会でのセクハラ野次の事件である。問題なのは、この卑劣な野次に議場が凍りつかなかったことだ。むしろ「周りで一緒に笑った」者がいたと報道されている。いじめの構造と同じく、社会がもっている病理が端的に表れている。
世論の批判に耐えられず、遅まきながら自民党の鈴木章浩都議が「加害者」として名乗り出て謝罪した。しかし、これで問題が解決したわけではない。分けても、自民党都議団は、いじめの傍観者と同質の責任を問われている。暗黙の支持のレベルの責任ではない。加害実行者を生みだした集団としての責任であり、卑劣な野次を許す議場の雰囲気を積極的に作りだした集団としての責任である。自民党自身がその責任のとりかたを考えなければならない。そのことが、自らの体質を深く抉る作業となるだろう。
納得しかねるのは、鈴木都議が責任のとり方として議員辞職ではなく、会派からの離脱を表明していることだ。彼は、都民に対して責任をとろうというのではなく、自民党都議団に責任をとろうと言っているのだ。「組にご迷惑をお掛けしました。盃をお返しいたします」という博徒のノリではないか。
自民党都議団は、被害者の対極にある。その体質からセクハラ議員を生みだした責任母体であり、セクハラ野次に「周りで一緒に笑った」セクハラ助長責任集団でもある。その自民党という責任集団に謝罪し会派離脱することは、そちらの世界の掟なのかも知れないが、都民に対しては責任をとったことになっていない。
この鈴木議員の責任のとりかた表明も、社会の縮図。民主主義の未成熟を反映している。
なお、この鈴木議員は、「2012年8月19日には、尖閣諸島の魚釣島沖に戦没者の慰霊名目で洋上から接近した日本人団のうち10人が、船から泳いで魚釣島に上陸し、灯台付近で日の丸を掲げたり、灯台の骨組みに日の丸を貼り付けたりした。この10人のうち1人が鈴木氏だった。鈴木氏はYouTubeで、『支那』という言葉を使い、『ここで上陸できなければ日本人としての誇りが保てない』などと説明し、石原慎太郎・東京都知事(当時)の尖閣諸島購入方針などへの支持を表明していた」(ハフイントンポスト)と解説されている人。なるほど、そういう人なのか。日本の保守派・民族派には、両性の平等についての理解なく、保守固有の伝統的性別役割分担論にもとづく女性観がある。セクハラ発言もむべなるかな。
彼のウエブサイトを覗いてみて、憲法の欠陥を論じる一文を読んだ。再び、なるほど。彼には、人権の重みについての理解がない。国家権力後生大事の人なのだ、
次の彼自身の文章の「主権」は、国家権力という意味である。
「法治主義に則った通常の社会秩序の維持が不可能になった状態、国民の生命、財産の安全が脅かされる事態、また著しく国民に不利益を与える状況において、『主権』の役割が決定的になるのであります。このことから、非常事態の法的秩序が欠落した日本国憲法は、社会生活が一定の秩序を保って営まれている時のみ有効な憲法であり、政治権力の正統性のすべてを規定する『憲法』として、重大な欠陥があるのです。
『主権』を欠いた国家はあり得ず、『憲法』は国民の名のもとに付託を受けた、国家の『主権』(に)おいて作り出されるものでなければならないのです。言い換えれば、『主権』が『憲法』を生み出し、『主権』が『憲法』を停止することもできるのです。それは『主権』という絶対的な権力が、人々の生命や財産を守るものだからであり、これが西洋近代国家の理論になっているのです」
法学部で憲法を学ぶ学生諸君。彼のこの文章を採点してみてはいかがかな。
(2014年6月24日)