澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

江川紹子さんに声援を送る

いわゆる「PC遠隔操作事件」の成り行きに驚かざるをえない。
これまで無罪を主張していた片山祐輔被告が、起訴された4事件すべてを自身の犯行と認めた。主任弁護人も今後の公判では無罪主張は撤回する方針という。東京地裁は本日保釈を取り消す決定を出し、同被告人は東京拘置所に再び勾留されることとなった。

真摯な弁護活動をしていた弁護人の気持ちが、痛いほどよく分かる。こんなに劇的な事例ではないにせよ、私にも何度か似たような経験がある。「これまで俺を欺していたのか」「裏切られたのか」という思いは払拭しえないだろう。しかし、その点にはプロとしての対応が求められている。

通常、弁護人が被告人の無罪主張に疑問を呈するごとき言動をしてはならない。被告人の立ち場で、被告人の主張に寄り添わねばならない。弁護人として、無罪判決を勝ち取るべく弁護活動をしなければならない。そうでなくては、被告人との信頼関係の形成はない。しかし、事態が本件のごとき展開を遂げたあとでは、自ずから話しは別と言わねばならない。

本来、有罪立証は訴追側の責務である。弁護側はその立証活動から被告人を防御する。検察官の立証を吟味し、立証の不足を指摘することが基本的な活動内容なのだ。事態が急展開した今も、検察官の立証を吟味し防御する弁護人としての基本活動に変わりはない。しかし、現実には、公訴事実を否認して積極的に無罪を主張することと、公訴事実自体は認めて情状を争うことは、訴訟戦術として一貫しない。戦術の曖昧さは被告人の不利を招く。だから、一見明白に客観的事情と矛盾し、虚偽としか見てもらえない無理筋の無罪主張の展開は慎まねばならない。その観点から、弁護人には被告人への説得の努力が求められる。本事例では、被告人が先に無罪撤回の方針変更をしたようだ。よほどの事情がない限り、弁護人もこれに追随するしかない。方針の転換は、不名誉なことでも、非難されるべきことでもない。

弁護人に、被告人の主張について真実か否かを見極めるべき義務を押し付けてはならない。過剰な真実義務の要請は、弁護活動を萎縮させ、被告人の無罪を争う権利を侵害する。公正な裁判を受ける権利を侵害することにもなる。弁護人が無罪主張を撤回した場合に、撤回以前の無罪主張を責められるようなことがあってはならないのだ。

似たようなことが犯罪を報道し論評するジャーリズムにも言える。
本日の毎日夕刊に、ジャーナリストのお二人が、コメントを寄せている。大谷昭宏さんは、「冤罪被害者傷つけた」として、「一連の片山被告の行為は、本当の冤罪被害者を傷つけるもので罪深い」という常識的で無難な内容。誰にも納得できる落ちついたコメント。

もう一人の江川紹子さんのコメントが、いわれなき論難の対象となりかねない内容。「捜査の問題 見逃せず」と標題されたコメント全文は次のとおり。
「片山被告が犯人だとすれば何でそんなことをしたのか不明だ。ただ、一連の事件で誤認逮捕などの問題が出てきたのは事実。捜査側の問題がスルーされたらそれは違うと思う」

「片山被告が犯人だとすれば何でそんなことをしたのか不明だ」というのは、被告人本人と弁護人が無罪主張を撤回した今もなお、有罪立証や動機の解明に納得はしていないことの表明。その姿勢は責められるべきものではない。「一連の事件で誤認逮捕などの問題が出てきたのは事実」は、まったくおっしゃるとおり。そして、「捜査側の問題がスルーされたらそれは違うと思う」は、正論である。

私は、この江川さんのコメントを全面的に支持する。意気悄然とすることなく、問題提起をし続ける姿勢を示している点において立派なものと思う。決して、「負け惜しみではないか」「これまでの不明を反省しないの?」などと揶揄してはならない。

これまで江川さんが片山被告有罪説に疑問を呈して発言を重ねてきたことは、天下周知の事実。しかし、ジャーナリストにも、訴追された被告人の主張について真実を見極めるべき義務が課せられるわけはない。基本的に、訴追側の立証の不備や証拠を点検して、疑問を提起することが基本任務と言えよう。この点において、弁護人の立ち場と同様なのは、ジャーナリズムも弁護士とならんで、在野の立ち場から権力作用を監視すべきことを基本任務にしているからだ。

いま、警察も検察も昂揚した心理状況にある。不謹慎でも「やった」という気持ちになっていることだろう。そのようなときに、敢えて「捜査側の問題がスルーされたらそれは違うと思う」と堂々と正論を述べる江川さんに声援を送りたい。
(2014年5月20日)

世論は集団的自衛権容認に与していない

今朝の毎日に、集団的自衛権に関する世論調査の結果が出ている。
見出しは、「毎日新聞世論調査:集団的自衛権 憲法解釈変更 反対56%」「行使54%反対」というもの。この見出しが言わんとしている世論調査の結果は、「集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈の変更に反対意見が56%(賛成意見は37%)」「集団的自衛権を行使することに反対意見が54%(賛成意見は39%)」ということ。

この全国調査は、15日に安倍首相が集団的自衛権の行使容認に向けた検討を指示したことを受けて、17、18の両日に実施されている。安倍晋三テレビ演説や北岡伸一などの解説を経た最新の世論状況を示すものとして重要なものである。毎日の解説が、「首相は今夏にも集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈変更を閣議決定したい考えだ。公明党は慎重姿勢を崩しておらず、行使容認と解釈変更への反対がいずれも過半数となったことは与党協議にも影響しそうだ」と言っている。そのとおりだ。あるいは、それ以上の影響があるかもしれない。安倍政権孤立の萌しさえ、みることができるのではないか。

また、注目すべきは「日本が集団的自衛権を行使した場合、他国の戦争に巻き込まれる恐れがあると思うかについては、『思う』と答えた人が71%となり、『思わない』と答えた人の25%を大きく上回った。巻き込まれる恐れがあると『思う』と答えた人のうち64%が行使に反対だったのに対し、恐れがあると『思わない』と答えた人のうち反対は29%にとどまった」という点。

このことに関連して、本日の神奈川新聞第3面に、元内閣法制局長官の阪田雅裕さんの「安全脅かす『他衛』権」という寄稿に注目したい。いずれ全文がネットで読めるようになるだろうが、さすがにたいへんな説得力。安倍の「怪説」などは吹き飛んでしまう。上記の毎日世論調査質問事項への回答を読むについて、次の指摘が重要だと思う。

「A国とB国との間で、戦争が始まったとしたら、それぞれ自国の方が正しいと主張するだろう。日本は第三国の立ち場のままだったら、戦争をやめなさいと言えるが、A国とともにB国に対し集団的自衛権で武力を行使すれば、わが国は戦争当事国になり、B国が日本の領土を攻撃することが認められることになる」「集団的自衛権の行使を容認すれば、むしろわが国、国民の安全を脅かす結果を招く可能性がある。」

ありていに言えば、「たとえば、中国とアメリカが諍いを起こしたとする。その場合、日本が中立を保って第三国の立ち場のままだったら、戦争をやめなさいと言える。しかしが、米国とともに中国に対し集団的自衛権を行使すれば、日本は戦争当事国になり、中国から日本の全土を攻撃されることを覚悟しなければならない」ということ。だから、「集団的自衛権の行使を容認すれば、むしろわが国、国民の安全を脅かす結果を招く可能性がある」のだ。

集団的自衛権の行使とは、「他国の戦争に巻き込まれる恐れ」ある行為ではなく、「他国の戦争に巻き込まれることを承知で、日本の全土が攻撃されるリスクを敢えて冒す」行為なのだ。「戦争への参加を買って出る行為」と言ってもよい。

毎日調査の前記質問事項に関し、「日本が集団的自衛権を行使した場合、他国の戦争に巻き込まれる恐れがあるとは『思わない』と答えた25%」は、まったくの認識不足というべきなのだ。この人たちの多くが、「集団的自衛権の行使があっても、まさか戦争に巻き込まれる恐れがあるとは思えないから、集団的自衛権の行使を容認してもよいのでは」と考えているようだが、根本から考え直してもらわねばならない。

もちろん、戦争のリスクを自覚し覚悟したうえで、集団的自衛権行使を容認せよという好戦的な見解はあり得よう。安倍晋三らはそう考えているに違いない。しかし、「日本が集団的自衛権を行使したとしても、他国の戦争に巻き込まれる恐れがあるとは思わない」という、迂闊な認識で安倍政権の世論誘導に乗せられてはならない。それこそ、戦前の轍を踏むことにほかならない。

なお、その神奈川新聞、他の地方紙と同様に、一面トップに、共同通信の世論調査結果を発表している。これも、17、18の両日に実施されたもの。大見出しは、「憲法解釈変更 反対51%」「集団的自衛権、賛成39%」というもの。この見出しは、神奈川新聞独自のもの。同じ世論調査を報じた、東京新聞の「集団的自衛権 反対48% 賛成上回る」「解釈改憲反対過半数」よりも歯切れがよい。

世論は政党や議員を動かす。自民党は、「戦争に巻き込まれるとの不安との疑問に一つ一つ丁寧に答える努力をする」(石破幹事長)というが、その努力が実ることはあり得ない。明らかなウソなのだから。国民の議論が深まり、理解が浸透すれば、集団的自衛権行使の危険は全国民に自明のものとなる。

さて、議員諸公よ、諸政党よ。安倍晋三の妄想に付き合っていて、次の選挙を闘うことができるのか、世論の動向を真剣に見極めたまえ。山が動くときは、目前かも知れないのだ。
(2014年5月19日)

集団的自衛権行使容認問題のポイント

5月15日に安保法制懇の報告が出て、安倍首相や法制懇メンバーが集団的自衛権の行使を容認すべきだと喧伝している。彼らの解説には、喉がざらつくような違和感を禁じ得ない。その感覚的な違和感が、問題の本質につながっているのだと思う。

首相の会見も、法制懇メンバーの言説も、憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認する論理は次のようなもの。

「憲法よりも国民の生命や安全の方が大切ではありませんか」「硬直な憲法解釈にこだわっていては、国民の生命や安全を守ることに不都合が生じます」「だから、政府が責任をもって憲法解釈を変更して、国民の生命や安全をしっかりと守ろうというのです」「皆さんから選任された政府が、そう言っているのですから安心して、この安倍政権にお任せ下さい」

ここで言われている、「憲法よりも国民の安全が大切」というものの言い方、「政府を信頼して任せておけばよい」という姿勢に、おおきな違和感がある。

「憲法よりも国民の安全が大切」というものの言い方は、憲法の理解、分けても平和主義への理解に欠けるものと言うほかはない。憲法こそが、国民の生命と安全を守るために制定されたのだから。

先の大戦でこの上ない辛酸をなめた日本国民は、再びの戦争を繰り返さない決意を込めて、自らに戦争を禁じた日本国憲法を制定した。だから、日本国憲法は、「平和」を基本に据えた。憲法前文に「再び政府の行為によって、戦争の惨禍が繰り返されることのないようにすることを決意して…この憲法を確定する」と宣言し、憲法9条をおいて、その2項で「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と決めた。日本国民が憲法を制定したというのはフィクションだという見解もありえよう。しかし、敗戦後今日まで日本国民は平和憲法を守り続けてきた。日々新たにこの憲法を選択し続けて定着させたと言ってよい。この事実は重い。決してフィクションではない。

その憲法は、国民の生命や安全を無視しあるいは軽視して制定されたものではない。「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と定め、そのとおり実行することこそが、最も有効に国民の生命や安全を守る方法であると確信して選択している。そして、そのような主権者の選択を、政権を担当するものに対して命令しているのだ。それが、憲法を制定するという意味ではないか。

戦争の惨禍から学ぶべきを「軍事力が不足だったこと」と反省して、国の安全を保つためには近隣諸国を圧倒する軍事力をもつべきだ、という意見もあろう。しかし、それこそ戦前の過ちの轍を踏むことであるとして、憲法はそのような考え方を愚かなこととして斥けたのだ。軍事力の増強は、近隣諸国に無用の不信感を増大させ、デメリットがはるかに大きい。場合によっては、相互の不信と相互の軍拡の無限のループに陥る危険さえある。

少なくとも専守防衛に徹すべきことが、これまでの我が国のコンセンサスであった。個別的自衛権を認めるにせよ、憲法上集団的自衛権の行使は容認し得ないということが、政府・与党を含む国民的な合意であったと言ってよい。にもかかわらず、今安倍政権は、憲法解釈を変更して集団的自衛権行使を容認しなければならない場合を必死で探し出そうとしている。非現実的な事例の想定は、何が何でも集団的自衛権行使容認に一歩でも踏み出そうとの誘導策でしかない。

さらに、「政府を信頼して任せておけばよい」という要求は、民主主義や立憲主義をないがしろにするものとして、認められようはずもない。

健全な民主主義は、国民の権力に対する猜疑によって保たれる。いかなる権力も信頼してはならない。まして、安倍政権のごとき危険な権力であればなおさらのことである。国民が権力に対して手渡す、権力行使の手順マニュアルが憲法であって、このマニュアルから逸脱せずに権力を行使しなさい、と命令されているのだ。命令された側が勝手にその指示書の内容を書き換えてはならない。憲法は権力を縛るためにある。縛られる立ち場にある者が、勝手に縛りを外すことは許されない。とりわけ安倍政権のような危険な権力はしっかり縛っておかねばならない。

安倍政権を危険というのは、対中、対韓関係において領土ナショナリズムを鼓吹し、歴史修正主義の立場を露わにし、敢えて靖国参拝をし、河野談話を検証し直すとし…。要するに、同じ立ち場にあったドイツと対照すれば、侵略戦争や植民地支配に真摯な反省や謝罪をしていないのが顕著である。その姿勢は歴代保守内閣に比して突出している。これを縛らずして、何のための立憲主義であろうか。憲法が安倍政権を縛らねばならないのであって、安倍政権が憲法を籠絡し解釈を変更して縛りを解くなどとはもってのほか、と言わねばならない。
(2014年5月18日)

「法と民主主義」をお読みください

本日は、日民協の機関誌「法と民主主義」の宣伝。
長年私も編集委員を務めているが、このところ毎号の出来がよいと思う。ひいき目ではなく、読むに値する誌面となっている。下記の一冊でも、目を通していただきたい。その上で、定期講読をしていただけたらとても嬉しい。

  3月号 特集「原発災害を絶対に繰り返させないために パート?
              ー3年目のフクシマは いま」
  4月号 特集「憲法9条で真の平和を
              ー徹底検証・安倍流『積極的平和主義』」
5月号 特集「安倍政権の『教育再生』政策を総点検する
              ー『戦後レジームからの脱却』に抗して」
注文フォームは下記のとおりである。
http://www.jdla.jp/kankou/itiran.html#houmin

最近刊が4月号(№487)。4月下旬の発刊で、予想される安保法制懇の報告を予想して、安倍政権の「積極的平和主義」、「集団的自衛権行使容認問題」を本格的に取りあげている。浅井基文・剣持久木・浦田一郎・大内要三・稲正樹・山田健太・岡田俊宏などの執筆陣。この問題に関心を持つ人にとって、読み応え十分だと思う。
以下は、同号の紹介文。

「今号は、〈憲法9条で真の平和を──徹底検証・安倍流「積極的平和主義」〉と題する特集を組みました。安倍政権の外交姿勢ならびに歴史認識に対し、国際政治学者の浅井基文先生の「日米中関係と東アジアの平和」と題する論稿を筆頭に、歴史学者の剣持久木先生からは、日本を含めたアジアで今日、平和を構想する際に、「ヨーロッパの歴史和解」から何を学ぶのかについてお書きいただきました。そして、今年の2月に開催された当協会主催のシンポジゥム「徹底分析・安倍政権の『積極的平和主義』」でのご発言を改めて書き下ろしいただくかたちで、浦田一郎先生からは、予想される安保法制懇報告の内容とその論理、安倍政権の「積極的平和主義」の意味などについて「集団的自衛権容認─『必要最小限度』論と『積極的平和主義』」と題する論稿を。大内要三先生からは、昨年12月17日の3つの閣議決定などからうかがえる安倍政権の安保・防衛政策や日米共同演習、訓練等の先取り状況を分析、「安保政権の安保・防衛政策と自衛隊の動向」と題してお書きいただきました。
 今特集は、安倍首相のいう『積極的平和主義』の問題点を各方面からえぐり出しています。真の平和をめざす運動に、役立つ内容となっています。
 特集とセットで、特別企画として、去る3月5日に開催した法律家7団体共催によるシンポジゥム「秘密保護法廃止へ」から、平和・憲法9条の観点から、稲正樹先生より「安倍政権の進める戦争する国づくりと特定秘密保護法」と題し、山田健太先生からは、「国民の知る権利と特定秘密保護法─国際的観点から」と題し、適性評価制度の問題性と公務員労働者の人権の観点から、岡田俊宏先生は「秘密保護法と公務員論同社の権利・義務」と題する論稿を、そして、海渡双葉先生からは、結成された「秘密保護法対策弁護団」の活動についてご報告いただきました。「秘密保護法」の廃止を求める共同運動に役立てていただけるよう願ってやみません。」

私が編集を担当した5月号(№488)が、もうすぐ刷り上がって5月下旬に発刊の予定。特集は、「安倍政権の『教育再生』政策を総点検するー『戦後レジームからの脱却』に抗して」。そのコンセプトは以下のとおり。

安倍政権は、「戦後レジームからの脱却」を掲げ、「日本を取り戻す」と呼号している。その「脱却すべきレジーム」「取り戻すべき日本」の内実には、教育の在り方が深く関わっている。このことを政権側も強く意識して、憲法改正と並ぶ政策の柱に「教育再生」が据えられている。

本特集は、安倍政権が急ピッチで推し進めている、教育再生政策の全体像を総点検しようとする試みである。冒頭の堀尾輝久論稿がいみじくも述べているとおり、日本の国のかたちとしてのレジームは戦前の「帝国憲法・教育勅語体制」から、戦後の「日本国憲法・教育基本法体制」に大きく転換した。その戦後レジームの内実を再確認し再評価することが本特集の主眼のひとつである。

「よみがえり」を意味する再生には、復古のイメージが強い。しかし、安倍政権の教育政策は、そのような戦前回帰の復古主義的側面のみをもつものではない。明らかに、「グローバル時代」の経済体制を支える新自由主義に奉仕する教育が目指されている。臆面もない選別と差別、そして競争万能の教育である。一握りのエリートの人材と、その他の従順な労働力提供者育成の教育でもある。

「国家主義」と「新自由主義」、これが政権のめざす教育政策の二側面と言ってよいだろう。両者は、矛盾するものとしてでなく、相互に補完し合うものとして、教育政策を形づくっている。戦後教育改革が、民主的な社会の創造者として主権者にふさわしい平和で民主的な人格の完成を目的とした教育の理想の影もない。教育を公権力や政治勢力の支配から切り離し、民主的国家の明日の主権者を育てるにふさわしいものとする理念や制度は、いま危殆に瀕している。

巻頭の、堀尾輝久「安倍政権の教育政策ーその全体象と私たちの課題」は、以上の問題意識を総論として、論じ尽くしている。とりわけ、憲法問題と教育問題との関連について行き届いた論述がなされており、時代の背景状況から安倍政権の教育政策の全体像を把握するについての好個の解説となっている。

川村肇「戦後教育改革の内容とその後の変遷」は、本特集の問題意識に欠かせない歴史的背景についての論説である。戦後教育改革から説き起こして、安倍教育改革まで叙述して、その掉尾に、「既に旧教育基本法を葬った安倍は、新自由主義政策のさらなる遂行と、…日本の極右的改造をはかっているが、教育改革の内容も手法もこれらの一環である。今私たちは、国民窮乏と戦争への道の岐路に立っている。」と警告されている。

村上雄介「安倍政権の教育改革プランの全体像」は、自民党「教育再生実行本部」の「中間とりまとめ」の提言から、具体的な立法が実行に移されていることを述べ、焦眉の急の問題である地方教育行政法の改正問題や、教科書検定問題、教育再生推進法案(仮称)などの内容を明らかにしている。

俵義文「教科書問題の最近の動向と竹富町への『是正要求』」は、トピックについての報告にとどまらず、「究極の教科書国家統制をめざす検定制度の大改悪」強行を述べて、採択制度を詳細に論じて学ぶところが大きい。

村山裕「安倍政権の教育成策・競争と選別の思想」は、筆者が日弁連での取り組みを通じて見えてきたものとして、「国の経済的発展のための教育」の実態を解き明かしている。

齋藤安史「大学における教育・研究体制への影響」は、地方教育行政法改正に続いて国会上程となった、学校教育法改正(大学の自治骨抜き法案)の背景事情を詳細に論じている。

中村雅子「国立市教育委員の経験から」は、自身の経験から、教育委員会の活性化にヒントを与えるものとなっている。

竹村哲也報告は、「日の丸・君が代」反対のビラ配りの実践の中から見えてきた市民や生徒の反応のレポート。

安倍政権の教育政策と切り結ぶためには、その全体像を正確に把握することが不可欠である。本特集はそのための第一歩にふさわしいものと確信し、活用を期待したい。
(2014年5月17日)

怒りの15人、とある街角の宣伝行動

本日正午から、文京区の本郷3丁目交差点で、集団的自衛権行使を容認に反対する街頭宣伝行動を行った。昨日の夜になってからの呼び掛けに、「本郷湯島9条の会」を中心に、地元から15名が参加した。なかなかの規模ではないか。

初めて参加したという人が、「皆さんお知り合いなんですか」と聞く。改めて見渡すと、私が知らない顔も少なくない。私と妻は、急遽つくった手製のプラカードを持参した。出来合いのビラや、今日の新聞切り抜きを自分でコピーして多数枚持参した人もいる。それぞれが持ち寄りの「にわか手作り行動」。昨日の安保法制懇の報告書や安倍首相の改憲に、怒り心頭の人々が駆けつけたのだ。おそらくは、今日はこのような小さな規模の活動が、日本中の街々で行われたものと思う。

通行人のビラの受け取りはよい。マイクでの訴えに聞き入る人の手応えも十分だ。時代のキナ臭い空気に人々が不安を感じていることが伝わってくる。しかし、反対の立場から文句を言いたげな人もちらほら。印象に残った人が2人。

1人は、初老のサラリーマン風。「ひとつだけ聞きたい。中国が沖縄を侵略したときには、どうするんだ」とおっしゃる。これには驚いた。「今、問題にしているのは、個別的自衛権ではなくて、集団的自衛権の問題なんです。沖縄に武力攻撃があった場合というのは、明らかに個別的自衛権の問題ですから…、専守防衛の範囲で…」と説明が終わらぬうちに、「なんといわれても納得できない」と逃げるように行ってしまった。ひと言で、なんと説明すればよかったのだろう。「今問題になっているのは、『日本の領土が攻撃を受けたら』ではなく、たとえば『アラスカに武力攻撃があった場合にも、日本がアメリカと一緒に戦争してもよいのか』という問題なんです」というべきだったか。

もう1人。私の話をしばらく聞いていた若者が、「戦争に賛成、という意見があってもいいじゃないですか」と言った。これにも少々驚いた。戦争を肯定する意見というものを聞いてみたいと思って、「ちょっと待っててくれないか」と言ったが、立ち去ってしまった。せめぎ合いのボルテージが高くなりつつあることを実感する。

そのような雰囲気の中で、私の前にマイクを握った女性がこう訴えた。みんな、一人一人が、自分の言葉で語っている。
「集団的自衛権という言葉自体がごまかしです。自衛というのは、自分が攻撃されたときだけにあてはまる言葉。自国に攻撃がなく、他の国が攻撃されたときに一緒に戦うことを自衛戦争とはいいません。自分の国に武力行使がないのに他国に武力を行使することは、侵略ではありませんか。安倍政権が行使しようとしているのは、集団的自衛権ではなく、正確には集団的侵略権というべきです。わたしは、この集団的侵略権に断固反対します」

私は、マイクの話者が途切れれば、間をつなぐ役割。いくつかのスピーチをした。

☆昨日は、もしかしたら歴史の転換点として記憶されることになるかも知れません。安保法制懇が、安倍首相に「集団的自衛権行使の憲法解釈は可能」という報告書を提出し、これを受けた安倍首相が、集団的自衛権の行使を容認する解釈改憲に踏み出すことを宣言したのです。憲法にとっても、平和にとっても、民主主義にとっても、極めて危うい事態と言わざるを得ません。

☆安保法制懇とはいったい何でしょうか。何の法的根拠にも基づかない、私的な懇談会でしかありません。その人選は、安倍首相自身がしたもの。自分の言うとおりの報告書を書いてくれる人を14人探し出して任命しただけのこと。初めから結論は、分かりきっていました。いわば、自作自演にすぎないのです。
この報告を受けたかたちで、安倍首相が容認しようという集団的自衛権とはなんでしょうか。自分の国が攻撃されたときにやむを得ず反撃するのが自衛権ですが、集団的自衛権はまったく違います。自分の国が攻撃されてはいないのに、親密な国が攻撃されたら、攻撃された国と一緒になって、攻撃国との戦争に参加する権利というのです。アメリカが攻撃されたら、アメリカと一緒になってアメリカの敵対国と戦争することを意味します。これはたいへんなことです。個別的自衛権と違って、日本の外で、世界中のどこででも戦争ができるということにならざるを得ません。こうなれば、憲法9条が完全に死んでしまいます。

☆これまで、集団的自衛権はどう使われてきたか。集団的自衛権を行使してきたのは大国です。とりわけアメリカ。ベトナム戦争も、カンボジア出兵も、パナマ侵攻も、グラナダ侵略も、湾岸戦争も、アフガン戦争も、すべてが「同盟国が攻撃された。攻撃された同盟国から派兵の依頼があった」として、集団的自衛権の行使として行われました。世界中で戦争をすることの口実が集団的自衛権の行使なのです。日本には憲法9条があって、その効果として、集団的自衛権の行使はできないとされてきた。だから、朝鮮戦争にも、ベトナム戦争にも、日本は派兵しないで済んだ。イラクには自衛隊を派遣はしたが、武力行使は一切しなかった。9条が歯止めになったからです。

☆憲法とは、大切なものです。権力という危険なものを縛るためにある、歯止めのため、タガを嵌めるため、ブレーキをかけるためだと言ってもよい。とりわけ、安倍政権のような危険な権力者を縛るためにある。その政権を縛る縄は、われわれ国民がつくったもの。これが邪魔だとして、かってにこの縄を外してはならない。

☆憲法という権力を縛る縄は、変更は可能です。その手続きは、憲法96条に明記されているとおりです。両院の3分の2以上の賛成で発議し、国民投票で過半数の承認が必要。もし、政権が集団的自衛権行使が本当に必要だと思えば、正々堂々と国会と国民に訴えるのが筋。しかし、いま、どのような世論調査も、集団的自衛権行使を容認する意見は少数派でしかありません。筋を回避して、国会にも、国民にも諮らず、安倍内閣限りで解釈を変えてしまおう。そうすることによって実質的に憲法を変えてしまえるではないか。これが安倍政権のやり口。これが「解釈改憲」と言われるもの。姑息、裏口入学、禁じ手と評判が悪いのは当然です。

☆憲法9条は、けっして死文化していません。これまでの自民党政権が築いてきた解釈のしかたで9条は生きています。ひと言で言えば、9条の命じるところを「専守防衛に徹せよ」と理解する解釈。憲法9条は自衛権を否定するものではない。自衛のための最小限の実力は9条に禁止された「戦力」ではなく、自衛のために必要な最小限度の実力行使も9条の禁止するところではない。最小限度とは、現実に我が国が攻撃されたときに、国民を守るために必要な最小限のこと。つまりは専守防衛に徹する限りの実力をもつことと、行使することは可能ということ。裏返せば、専守防衛をはずれたら違憲ということでもあります。集団的自衛権は、当然のこととして専守防衛からはずれる行為、自衛のために必要な最小限度の実力行使とはいえません。したがって、集団的自衛権の行使が合憲として容認される余地はないのです。

☆今の安倍政権は、かつての幅広い自民党とはまったく違います。極右政党といって差し支えありません。しばらく、国政選挙がない。小選挙区制のマジックで掠めとった大量の議席を奇貨として、今が好機、できることは何でもやってしまえというのが、危険な安倍自民です。

☆集団的自衛権の論議は、これから本格化します。平和を守るため、子や孫の将来のため、戦争を招き寄せる安倍政権に批判の世論を大きく盛り上げていこうではありませんか。
(2014年5月16日)

「コントロールとブロック男」に欺されてはならない

今日、「14名の曲学阿世の徒」から、「コントロールとブロック男」に、阿諛追従の報告書が手渡された。この両者の見え透いた出来レース、茶番に過ぎないと笑って見過ごすわけにはいかない。ことは一国の憲法の命運に関わる。日本国憲法の平和主義が規範としての実効性を保つのか、失うのか。憲法の命運は一国の命運でもある。一国の命運は、一国の国民の命運を決する。一国が大事なのではない。この国の国民一人一人の生命や自由が危うい。いや、この国の国民の命運を超えて、国際的な悲劇や惨禍を生じかねない。

「コントロールとブロック男」は、またまたペテンの発言を繰り返している。こんな男の、こんな軽薄発言に欺されてはならない。オリンピック誘致程度の詐欺行為はさしたる実害を伴わない。しかし、集団的自衛権行使容認ともなれば、そのペテンの影響の重大性は比較にならない。この地とこの世に、憎悪と殺戮を招きかねないのだ。

今日、この男がこう言ったと報道されている。

集団的自衛権見直しをめぐり、「『日本が再び戦争をする国になる』といった誤解がある。しかし、そのようなことは断じてありえない。憲法が掲げる平和主義はこれからも守り抜いていく」と強調した。「あらゆる事態に対処できる法整備によってこそ抑止力が高まり、我が国が戦争に巻き込まれなくなる」と訴えた。(読売)

この男は、「平和は、限りなく武力を増強することによってコントロールされます」「集団的自衛権行使容認によって戦争は完璧にブロックされています」というのだ。「仮想敵国を上回る武力を装備することによって平和が保たれる」。「好戦的国家と同盟を強めることが、日本国憲法の平和主義を守り抜くことになる」というのである。なんたるペテン師。でなければ愚か者。

自国は限りない善、自国の武力は何をやっても自衛の武力。相手国は限りない悪、相手国の武力は危険極まりない侵略のためのもの。一国のトップが、そのような発想から抜け出せない。日本国憲法が、15年戦争の惨禍の反省から生まれたことについて自覚がない。歴史的には我が方こそが危険な国家であった客観的事実を「自虐史観」として認めようとしない。これでは、近隣諸国に、軍備増強の口実を与えようとしているに異ならない。

さらに、この男、「自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争に参加するようなことはこれからも決してないと明言した」(読売)そうだ。これこそ、見え透いたウソ。

見え透いてはいても、ウソを言わざるを得ない事態であることは重要である。この男、開き直って、「これからは湾岸戦争やイラク戦争のようなチャンスがあれば、自衛隊が武力行使を目的としてじゃんじゃん参加していきます」「それこそが積極的平和主義」「それこそが我が国の平和を守る行動なのですから」と言いたいところなのだが、そうは言えない。本音を隠し爪を隠して、精いっぱいの笑顔をつくらざるを得ないのだ。

結局のところは、「集団的自衛権行使容認は違憲」という大原則に穴をこじ開けることがこの男の今の狙いなのだ。どんなに小さい穴でも開けてしまえば、あとはどうにでもなる。蟻の一穴から洪水に至るまでは、一瀉千里だ。ワーワー騒がず、小さく産んで大きく育てる。そのための、作り笑いでお為ごかしの「平和のための集団的自衛権」。そう、これが例のナチスの手口。

またこの男、こんなことも言ったという。
「武力攻撃に至らない侵害」として、漁民を装った武装集団が離島に上陸してくる「グレーゾーン事態」を挙げ、早急に立法措置を講じる考えを強調した。(読売)

相接する両国が、ともにこんな想定をし合い実行していれば、相互の不信と軍備の増強を必然化し、いずれは衝突せざるを得ない。憲法が想定する隣国間ではあり得ない。

憲法がないがしろにされること、平和主義が傷つけられることを、恐ろしいと思う。日本の国民は、本当にこんな男に、こんな政権に、権力を託したのだろうか。背筋が寒くなる不安を感じざるを得ない。

日本ペンクラブが、真っ先に反応した。
「安倍晋三首相が憲法9条が禁じてきた集団的自衛権の行使を検討する考えを表明したことについて、日本ペンクラブ(浅田次郎会長)は15日、『民主的な手順をまったく踏まない首相の政治手法は非常識』との声明を出した。声明では、『国会の議論も閣議決定もしないまま個人的に集めた「諮問機関」なるものの報告を受けて、憲法の解釈とこの国のあり方の根本を一方的に変更しようとしている』と批判。浅田会長は記者会見で、『このような手法でなにもかもできあがることになったら民主主義の危機であり、法治国家の危機』と話した」(朝日)。

この迅速な姿勢に学ぼう。腹を据えてこの問題に向かいあわねばならない。よし、明日の昼休みの時間には、街頭に立とう。

あす、16日(金)お昼の12時15分、ビラやプラカードの用意はないが、ハンドマイクだけはある。地元の「本郷湯島九条の会」として、本郷3丁目交差点「かねやす」前で街宣活動をする。どなたでも、ご参加を。
(2014年5月15日)

憲法会議との「和解」成立のご報告

本日、私と憲法会議との間に「和解」が成立した。私と憲法会議との間に紛争が継続していることを心配してくださる方もいらっしゃるので、経過をご報告しておきたい。

午後4時半、憲法会議の平井正事務局長と対席した。同氏から「一連の対応でご迷惑をお掛けしました。申し訳ありませんでした」との発言があり、私はこれを受けて陳謝の意の表明を評価して「了解しました」と応答した。

同じ席で、平井さんから私に、憲法会議の機関誌である「月刊憲法運動」7月号への靖国問題についての寄稿の依頼があり、私がこれを受諾した。これで、私と憲法会議との間のトラブルに関して「和解」の運びとなった。

なお、「和解」を斡旋した仲介役の弁護士が立ち会い、場の雰囲気がとげとげしくならぬよう巧みに配慮していただいた。

私にとっては、「宇都宮君おやめなさい」問題から派生した異なる次元での看過し得ない問題。看過し得ないとはいえ、「憲法改悪阻止・憲法理念を社会に生かす」ことにおいては、共通する立ち場。できることなら、関係を修復したいのは当然のこと。今日、それが実現したことを素直に喜びたい。そして、お骨折りいただいた方、心配しながらも励ましていただいた方に感謝申し上げたい。

「和解」を必要とした紛争の経過についての詳細は繰り返さないが、私から憲法会議への最後の通知となった下記の部分だけを再掲しておきたい。

「貴信には、貴会が憲法の理念を擁護することを使命とする運動体でありながら、自らが憲法理念を蹂躙したことへの心の痛みや反省を感じ取ることができません。
 また、私の憲法上の権利を侵害したことへの謝罪の言葉もありません。むしろ、『8000円の送付で問題解決』と言いたげな文面を残念に思います。私は、国家権力だけではなく、私的な企業や団体における憲法理念の遵守が大切だと思ってまいりました。本件は、その問題の象徴的な事例だと捉えています。
 繰り返しますが、貴誌への掲載論稿は岩手靖国訴訟に関わるものであって、宇都宮君批判の論稿ではなかったのです。貴会は周囲を説得して、私の表現の自由を擁護すべきだったのです。私は、貴会に反省していただきたいという気持を持ち続けます。この問題はけっして終わっていないことをご確認ください。」

私の問題意識が一貫して以上のとおりなのだから、今回の陳謝の内容についての私の理解は「憲法の理念を擁護することを使命とする運動体自らが、個人の憲法上の権利を侵害したことに対する陳謝」というものである。

もっとも、和解に際しての陳謝文言は予め合意ができていた。「一連の対応でご迷惑をお掛けしました」という内容を、具体的にギリギリ詰めたりはしていない。それでも、陳謝することの痛みは察することができた。痛みを伴うことではあっても、陳謝のうえ和解に至ったのは、憲法会議が自浄能力を備えた真っ当な組織であったからだ。「過ちては即ち改むるにはばかることなかれ」とは誰もが知る言葉だが、陳謝を伴うともなれば、「行うは難い」こと。それをしたことは評価に値する。

3月上旬に開催された憲法会議総会の席で、「澤藤問題」が話題になり、その議論にかなりの時間を費やしたという。そのとき、「憲法会議の発展を願う立ち場から」「憲法会議は問題解決のために誠意をもって澤藤と話し合うべきだ」「それこそが、憲法の理念を守ろうという憲法会議のあるべき姿ではないか」という、強い意見が述べられたという。発言は一人だけでなく、何人もの意見になったとも聞いている。その結果、事務局長が「事態の収拾をはかる」と誓約したとのことだ。

この組織では、メンバーに自由な発言の権利が保障されている。民主的な討論の結果が組織の意思となって実行に移されている。執行部批判の発言が無視されることなく、執行部に陳謝までしての行動の是正をさせている。さすがというべきではないか。事務局長は、そのような会員の声を受けて、憲法会議に参加している弁護士を仲介役に私と接触して、今日の和解に漕ぎつけたのだ。

総会での発言をリードされたのは、私とはまったく面識のない方。「澤藤を擁護する」のではなく、憲法運動団体としての在り方に鑑みて筋を通さねばならないとの思いからの発言であったのだろう。世の中には、稀にこのような方がいる。私だけではなく、憲法会議も、そのような方がいたことを幸運とした。お骨折りいただいた仲介役の弁護士の人柄にも恵まれた。

組織の中にきちんと「筋を通す」人たちがいることの大切さを思う。そして、組織の執行部に、会員の声に耳を傾ける姿勢があることも。私もこのような人の姿勢に学んで、どこにいてもきちんと筋を通す人にならねばと思う。そして、人の意見には謙虚に耳を傾けようとも思う。とりわけ、何らかの権限をもつ立ち場になった場合には。

なお、紛争の経過や内容を知りたい方は、下記3件のブログをご覧ください。
http://article9.jp/wordpress/?p=1926
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその26(2014年1月15日)
http://article9.jp/wordpress/?p=1936
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその28(2014年1月17日)
http://article9.jp/wordpress/?p=1987
「憲法を暮らしに生かす」ことの意味(2014年1月24日)
(2014年5月12日)

高村正彦さん、卑怯な振る舞いはおやめなさい

本日の東京新聞は、集団的自衛権問題に関する記事が満載。論旨明快で読み応え十分。この新聞にこそ講読部数の伸びを期待したい。

一面トップが、「安保法制懇 空白3ヵ月」「報告時期 政権の意のまま」という大見出し。来週火曜日(5月13日)に提出とされている同懇談会の集団的自衛権容認提言について、「政治情勢に配慮し、安倍政権の都合に合わせて提出時期をずらしてきた」「諮問会議がもつべき客観性や第三者の視点は見えない」「議論は初めから容認ありきだった」「政権の意向を実現するための『舞台装置』としての役割が大きい」と、遠慮なく真実をついて手厳しい。

関連記事として、3面「核心」欄に、国民投票法改正案の衆院通過について「改憲手続きのみ先行」の記事。「『18歳成人・選挙権』棚上げ」だけでなく、他の課題についても先送りされている事情が手際よく解説されている。

24・25面が看板の「こちら特報部」、今日は集団的自衛権についての「『密接国』の見方」。米・韓は、日本の集団的自衛権行使容認論をどう見ているか、に迫っている。米での歓迎勢力は武器商人だけだ、オバマ政権はリップサービスで「歓迎」とまでは言ったが決して「必要」とは言っていないことに注意せよ、という論調。また、韓国は、朝鮮半島有事で日本とともに集団的自衛権行使を望むどころか、自衛隊の軍事活動の拡大には拒否感・警戒感が強い、という当然の指摘。

特報部の「デスクメモ」が、次のように呟いている。本質を衝く鋭さをもっている。
「憲法9条により、集団的自衛権は行使できない。どんなに解釈を変更してもできないものはできない、というのが歴代政権の姿勢だ。安倍政権は『変更』というが、『逸脱』にほかならない。改憲できないからといってあまりにひどいごまかし。本当に必要なら堂々と改憲を議論したらいい」

さらに、27面(社会面)に、砂川事件の元弁護団員が、「砂川判決 政府援用に抗議」「集団的自衛権と無関係」と、声明発表の報道記事。

この件は、他紙も報道している。
赤旗は、次の記事。
「旧米軍立川基地(東京都)の拡張に反対するデモ隊の一部が基地内に立ち入ったとして起訴された砂川事件(1957年)にかかわった弁護士らが9日、都内で記者会見し、自民党の高村正彦副総裁らが唱える砂川事件最高裁判決を援用した集団的自衛権の行使容認論について「牽強付会の強弁に過ぎない」と厳しく批判した声明を発表しました。
 会見したのは砂川事件弁護団の内藤功氏、新井章氏、山本博氏、神谷咸吉郎氏ら。声明は首相の諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」が、集団的自衛権の行使を容認する報告書を提出する前に取りまとめたものです。
 このなかでは、裁判の「主要な争点」は日米安保条約に基づく米軍駐留の憲法9条適否であって、わが国固有の自衛権問題ではなかったことなど、砂川事件最高裁判決のとらえ方を説き、集団的自衛権行使の可否について判断も示唆も示していないと指摘しています。
 会見で弁護士らは「国民世論を惑わそうとしているとしか評価できない言説」(新井氏)などと厳しく批判しました。弁護士らは声明を各政党に届け、自民党の高村副総裁にも面会を求めたいとしています。」

朝日は、
「安倍政権が集団的自衛権の行使を容認する根拠として、1959年の砂川事件の最高裁判決を引用していることについて、当時の弁護団が9日、都内で記者会見し、『砂川判決は集団的自衛権について判断を示しておらず、断固として抗議する』との声明を出した。
 砂川判決は「自衛権」について、「自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置」と定義。この部分について、自民党の高村正彦副総裁は「判決は必要最小限の集団的自衛権を排除していない」として、行使容認の根拠になるとの見方を示している。
 この日の声明には、当時の弁護団276人のうち21人が賛同。裁判の争点について「日米安全保障条約に基づく米軍駐留の合憲性であり、わが国固有の自衛権の問題ではなかった」と指摘した。判決が定義した「自衛権」についても、「わが国をめぐる『個別的自衛権』の問題であり、集団的自衛権の問題では全くない」と訴えている。
 声明文を起案した新井章弁護士(83)は「事件の当事者として、裁判で何が判断されたのか多くの人に知ってほしい」と訴えた。弁護団は今後、各政党に声明文を送り、高村副総裁に面会を求めるという。」

東京も同内容だが、自民・高村副総裁の「反論不必要という『反論』」が記事になっている。タイトルは「否定された主張 反論の必要ない」。記事の核心は、高村氏の「弁護団の主張は全面的に砂川判決で否定された。そういう人たちがなんと言っているかあまり興味がない」という発言。

そりゃおかしいよ。高村さん。
自分に都合のよいようにつまみ食いの発言をしておいて、批判されたら論戦は避けて、「あまり興味がない」ですか。元弁護団の皆さんの抗議の声明は、当時の法廷での弁護団主張を展開しているわけじゃない。この刑事裁判において、何が問題となって、最高裁がどんな文脈で何を語ったのかだけを問題にしていることが明らかではありませんか。弁護団が最高裁判決に異論あることは当然として、今問題になっているのは、「判決で否定された弁護団の主張の当否」ではない。砂川事件最高裁判決が、何を言ったのかを正確に読み解こうと言っているのではありませんか。

高村さん、論戦を仕掛けたのはあなただ。反論されて、尻尾を巻いて逃げてはいけない。面会を求められたら、あなたには、これに応じる義務がある。堂々と公開の場で論争しなければならない。「興味ない」なんて、言い訳は卑怯千万。あなたが言い出したことが、本当で正しいのか、それともごまかしのインチキに過ぎないのか、ことは憲法の解釈に関わる重大問題。たとえ、あなたに興味が無くとも、既に国民は大きな興味を抱いているのですよ。
(2014年5月10日)

5月18日(日)午後1時30分? 私が喋ります

親しくなった村岡到さんは、「NPO日本針路研究会」という団体を主宰して、ほぼ毎月「討論集会」を企画している。今月18日には、「法律・弁護士・市民運動」というタイトルでの集会。レポーターは私。村岡さんから、「貴ブログでも告知してください」との要請があった。以下に、まず集会の概要を告知した上で、何をレポートしたらよいか、レジメを綴ってみよう。

ちなみに、6月15日(日)が、「討論会:都知事選挙の教訓を探る」。場所は同じ。報告・発言は、西川伸一さん、河合弘之さんら。こちらの方が面白そう。
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日時 2014年5月18日(日) 午後1時30分? 
場所 文京区民センター3C(地下鉄「後楽園」「春日」下車直ぐ)
集会名 「討論会:法律・弁護士・市民運動」
    報告 澤藤統一郎(弁護士)
資料代 700円 
主催  「NPO日本針路研究会」(電 話 03?5840?8525)
              集会の趣旨
この法治主義の社会では、どんな課題にせよ要求を実現するためには、法律問題に関わらざるをえません。市民運動の展開においてもさまざまな法律と直面します。法律と直面するときに、出会うのが弁護士。その弁護士、実はこの社会が真っ当であるために、さまざまな役割を果たしています。現役のベテラン弁護士に、弁護士の役割についての話しを聞いたうえで、この社会の在り方や、市民運動における法や弁護士との関わり方を考えて見ませんか。
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                 レ ジ メ
※法とはなんだろう。なんのために法はあるのか。
 *法の二面性  A面「弱者の権利擁護」と、
            B面「体制的秩序の維持」と。
   この世の弱者(労働者・市民)は、法のA面を最大限に使おうとする。
   この世の強者である権力と企業とは、法のB面をもって応戦する。
 *法は、弱者と強者のせめぎ合いにおける暫定的休戦協定
   進歩の勢力が法の改革を望み、
   保守の勢力が改革に抵抗する。
 *法体系の頂点に日本国憲法が存在する戦後日本の特殊事情
   今の時代、「憲法の理想」が「現実」をリードする意義は大きい。
   憲法は、単なる「理想」ではない。実定法として裁判規範でもある。
※弁護士(=実務法律家)とはなんだろう。なんのために弁護士はいるのか。
 *法は、法の担い手としての弁護士をつくった。
 *弁護士法1条の使命(社会正義と人権の擁護)をどう読むか
 *弁護士の在野性の必然性 人権擁護は反権力に徹してこそ
 *弁護士の自由業としての特性 社会的支配からの自由
※弁護士の活動領域
 *法廷(民事・刑事・家事)
 *企業や団体個人のコンプライアンス
 *弁護団活動(弁護士個人の業務の枠を超えて)
*弁護士会 会はどう運営され、何をしているか。
*共同法律事務所
 *弁護士の任意団体 人権派弁護士の再生産組織
 *弁護士の収入 人権派弁護士の収入に関するテーゼ
※市民運動と法・弁護士
 *法に支えられた運動
 *訴訟を利用する運動
 *立法運動
 *市民運動の中で弁護士の役割

ここまで書いて読み直して、「これではダメだ」と思う。四角四面、ちっとも面白みがない。話しを聞いてもらおうという姿勢に乏しい。そのためのサービス精神に欠ける。全面的に書き直そう。

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                 レ ジ メ(第2案)
※法とはケンカの武器である。
 *実力で劣る弱者が、強者と対等に渡り合うための武器が法である。
 *法体系の頂点に「日本国憲法」がある心強さ。
 *法は新しく生まれ改廃される。解釈も一義的には決まらない。
 *既存の法を使いこなすことだけでなく、鋭利な法をつくることも視野に。
※弁護士とは、ケンカの助っ人である。
 *弁護士は、法という武器の使い手であるが、
 *金で雇われる者もあり、心意気で働く者もある。
※弁護士の自由は社会から与えられたもの
 *弁護士の自由は権力や金力に縛られずにケンカができるためにある。
 *弁護士の自由は「反権力」「反資本」の立場で弱者のために行使すべき。
※弁護士の諸相
 *アンビュランスチェイサー、悪しき隣人としての弁護士たち
 *目立ちたがり屋の弁護士たち
 *資本の側にあっても、弁護士は弁護士
※弁護士と市民運動(私の体験から)
 *労働運動と弁護士 ジャンボを止めた争議の現場での弁護士
 *政教分離運動と弁護士 岩手靖国訴訟10年を闘って
 *平和運動と弁護士 平和的生存権を武器とした市民平和訴訟
 *消費者運動と弁護士 冷凍庫が火を吹いたーPL訴訟と立法運動
            先物取引被害・証券被害・悪徳商法と弁護士
 *漁協民主化と弁護士 「浜の一揆」訴訟の成果
 *医療・薬害と弁護士 スモン・未熟児網膜症、専門家責任
 *「日の丸・君が代」強制反対運動の中の弁護士
※弁護士会の権力からの独立・この貴重なるもの

「レジメ第2案」でやってみよう。できるだけ具体的に、リアリティあふれる報告をしてみたい。乞うご期待。
(2014年5月8日)

毎日新聞「記者の目」をお勧めする

物心ついたころから、毎日新聞を読みつづけてきたような気がする。その昔、毎日小学生新聞も読んでいた。その毎日が最近元気がよい。ライバル紙に勢いがなくなったことからの印象であれば、少しさびしいが。
本日(5月6日付)の紙面も、気骨にあふれた記事が多い。

社説は、「憲法と秘密保護法」。「国民主権なお置き去り」とのタイトルで、特定秘密保護法を「いったん廃止すべき」と結論している。国民主権原理から説き起こし、「国の持つ重要情報が幅広い行政の裁量で『秘密』とされ、国民の目に届かない仕組みができれば国民主権の基盤は大きく崩れる」と原則論を述べた上、政権にはこの法律の運用において行政の恣意をチェックする手立てを講じようとする熱意が見えないことを具体的に指摘している。そういえば、今日でこの悪法が成立してちょうど5か月。あきらめずに、異議申し立てを続けようというジャーナリストの心意気に共感する。

毎月第1火曜日の「社説を読み解く」が、「竹富町VS文科省」として、教科書採択問題を取りあげている。「毎日新聞はこの間、4度にわたってこの問題を社説に取りあげてきた。論説委員たちの議論で共通したのは、この問題を教科書選びの在り方を見直す機会にすべきだという提案と、是正要求にまで及んだ文科省の姿勢を厳しく批判する視点である」という。私も当ブログで何度か取りあげたが、毎日の立ち場は、確かに「竹富町の自主性を尊重すべき」ものと一貫している。

この解説記事のとおり、我田引水でなく毎日社説が各紙をリードしていたと思う。東京の社説がこれに続き、朝日はまことにヌルかった。読売・産経の2紙は、政権の機関紙かと見まごうばかり。本日の「読み解く」は、中央5紙と琉球新報・沖縄タイムスの地元2紙の各社説の内容を客観的に紹介して、その意見の違いの拠って来たるところを解説している。姿勢がしっかりしているから、読み応え十分。

毎日に勢いがあるのは、おそらくは第一線の記者に、とりわけ若い記者に、制約なく書かせているからなのだろう。その象徴が「記者の目」。本日は、静岡支局の平塚雄太記者が「第五福竜丸・ビキニ事件60年」という記事を書いている。これも読み応えがある。

第五福竜丸やビキニ水爆実験は、核兵器の恐怖の象徴として語られた。その目指すところは原水爆の廃絶となる。しかし、3・11以後は放射線被曝に焦点が当てられることが多くなっている。本日の「記者の目」も、専ら福島原発事故に重ねての被曝問題を論じている。焼津というローカルな地域を見つめる確かな「目」が、歴史的にも地理的にも、大きく拡がった世界の大きな問題を捉えることができるということを教えている。

平塚記者の記事の大意は、以下のとおり。
「60年前のビキニ事件での放射線被害は、第五福竜丸だけではなかった。日本の貨物船や漁船1000隻近く(厚生省調査では漁船856隻)が被ばくした可能性がありながら、日米両国は当時、被害を第五福竜丸だけに矮小化した」「米国は、ビキニ事件をきっかけに日本で反米、反核感情に火が付くのを恐れ、日本はこれに追随して、被ばく者を切り捨てた」「本来なら国の責任で、被ばくが疑われる関係者をきちんと調べるべきで、今からでもビキニ事件の被ばく実態を調査し、放射線被害の教訓とすべきだ」

記者は、「事件翌年の55年日米原子力協定が結ばれ、原子力基本法が成立。日本の原発開発はビキニ事件にふたをする格好で国策として走り出した」ことを指摘して、「都合の悪いものを消し去ろうとした核大国・米国の身勝手さ」と「それに追従した日本政府の情けない姿勢」に憤っている。まったく、そのとおりだ。

しかも、ことは過去の問題ではない。「東京電力福島第1原発事故に見舞われても住民被ばくを過小評価し、原発再稼働を急ぐ日本政府の姿勢を見ると、『国策優先』という歴史が繰り返されているように見える」と、福島原発事故に重なる国の姿勢を批判している。

その視点から、記者は広島市立大広島平和研究所の高橋博子講師の次の言を紹介している。
「日本政府は安全保障や経済的な理由で米国の原子力政策に追随し、自国民の被ばくから目を背けた。福島の原発事故でも住民の被ばく線量などを積極的に公表しておらず、その姿勢はビキニ事件から変わっていない」

記事は、「久保山さんは『原水爆の被害者は私を最後にしてほしい』と言い残して絶命した。その遺志をかなえるためにも、ビキニ事件の真相を解明しなければならない」と結ばれている。その言や良し。

不幸にも、第五福竜丸の存在が福島原発事故によって脚光を浴びている。平塚記者には、核を操る人間の傲慢さと、核の被害に蓋をしようという国策とに、憤りを持ち続けて、第五福竜丸にまつわる記事を地元から発信していただきたい。その記者の正義感からする憤りの記事を制約なしに掲載する毎日であって欲しい。一人の毎日ファンからの要望である。

なお、以上の3本の記事は、以下のURLで読める(と思う)。
http://mainichi.jp/opinion/news/20140506k0000m070086000c.html
http://mainichi.jp/shimen/news/20140506ddm004070017000c.html
http://mainichi.jp/shimen/news/20140506ddm005070014000c.html
(2014年5月6日)

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