澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

戦没者追悼の名で、戦死者の利用を許してはならない

8月15日を何の日と呼ぶべきだろうか。迷いはするが、大勢に随って「終戦記念日」ということにしたい。「終戦」は当時の人々の実感であったろう。貴重な平和を希求し忌むべき戦争を繰り返さない決意を新たにするべき日。

「終戦」のそのときまで、夥しい死が積み重ねられた。近親や身近な人の死への哀悼の念は厳粛なものとして受け止めるべきが当然である。しかも、「終戦」を境に、死を免れた国民が、心ならずもの死を余儀なくされた戦没者を追悼する心情も自然な発露として共感せざるを得ない。軍人軍属の戦死であろうと、民間人の空襲による死であろうと、追悼に異論があろうはずはない。

同胞の死を悼む気持は自然の感情である。しかし、戦争相手国の民衆の死を悼む気持は必ずしも自然なものではない。敵国兵であり敵国民であった人の死、言葉も解せずどのような生活をしていたのか想像しがたい人々の死、ことさらの蔑称をもって敵意や差別感情を煽るように仕向けられていた人々の死。その死に心を痛め追悼する気持は、理性や想像力を必要とする。自分だけではない、他人も自分と同様に近親の死は辛い。自国だけでない、相手国の人々も自国と同様に戦争被害は国民的な惨事なのだ。戦争による同胞の死の痛みを、敵国や敵国民への憎悪のままとするのではなく、相手国の人々も同様の痛みを体験しているのだという理解への努力は、平和のために不可欠である。

さらに、先の戦争は、我が国の近隣諸国に対する侵略としてなされた戦争であった。大義のない戦争を仕掛けた加害者として被害国への謝罪が必要なのだ。このことは、辛いことだが認めざるを得ない。我が国は、今次の戦争が侵略戦争であることを前提とした東京裁判の判決を全面的に受け入れることを公式に認めて、国際社会に復帰したという事情もある。

近隣諸国の民衆の悲惨は、我が国の戦争の惨禍の何層倍ものものであり、しかもその被害は我が国の侵略によるものである。この侵略戦争の加害責任を認めるか否か、これが「歴史認識」問題である。加害の罪は謝罪し清算しなければならない。被害者の心情を癒すにたりる衷心からの謝罪をし、これを受け入れてもらうところから近隣諸国との友好の関係が始まる。

戦死者の遺族には辛くとも、その戦死をもたらした戦争を美化してはならない。戦死者の死を意義あらしめる唯一にして最高の方途は、その死をもたらした戦争をありのままに見つめることを通じて、再びの戦争をなくし再びの戦死者を出さないことなのだ。

終戦記念日恒例の全国戦没者追悼式においては、天皇のことばにも、安倍首相の式辞にも、加害責任に触れるところはなく、近隣諸国の民衆に対する一言の謝罪もなかった。ひたすらに、内向きの戦没者追悼に終始し、近隣諸国の厳しい目からは、平和への決意を疑わざるを得ないものとなっている。

政府の姿勢は、首相の靖国神社参拝にも表れている。安倍首相は、内外の批判の高まりの中で自身の参拝は見送ったが、代理人によって参拝し私費で玉串料奉納をした。記帳の肩書きは、「自民党総裁」だったという。

靖国神社とは、もともとが天皇軍の戦死者の霊を神として祀り、その霊に天皇に仇なす敵への報復を誓う軍事的宗教施設であった。日本が対外戦争を重ねるようになってからは国を挙げての軍国主義鼓吹の道具としての宗教的軍事施設となった。天皇への忠誠を尽くしての戦死者を「英霊」と美称して褒め称えるき、戦争の性格を問うことは許されない。戦後靖国神社が一宗教法人となってからも、靖国神社の思想にいささかの変更もない。A級戦犯を含む戦死者を英霊として合祀する靖国神社は、先の大戦を自尊自衛の戦争として、侵略戦争であることをけっして認めない。国や自治体の代表者の靖国への参拝は、英霊を生んだ戦争を公式に肯定することに繋がる。

けっして、戦死者の利用を許してはならない。戦死者を哀悼する痛切な遺族の念を戦争の合理化のために利用してはならない。戦死を美化する死者の利用や、遺族の気持ちの利用への反対に怯んではならない。

憲法の危機の中で迎えた終戦の日の決意である。

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  『さしもの猛き夏も・・』
夏日、真夏日、連日の猛暑日。さらに今年は酷暑日という言葉も飛び交う。去年、新記録で意気が大いに上がた熊谷市が今年はがっかりしている。高知県の四万十市の41℃には完敗してしまったからだ。そんなことで「暑く」ならなくてもいいのにとおかしい。

桁外れの猛暑なのに、「電力がなくなって大変だ、大変だ」と電力会社が、去年のように騒がない。消費者が上手に節電できるようになって、東京電力も当てがはずれているようだ。9月15日には大飯原発4号機も止まって、再び原発ゼロが実現する。

終わりなき夏にうんざりしていたら、今朝、今年初めてのツクツクボウシが鳴いた。ツクツクオシイという声を聞くと、耐えがたいこんな暑い夏でも終わるのが「惜しい」気分になる。夜になると窓の外では、コオロギもリッリッリッと鳴き始めている。秋ももうすぐだ。

とは言え、天気予報では、もう少し炎暑は続きそう。世界ではイラクのバスラというところで、58.8℃(計測が怪しいという声もある)、日本では東京足立区で42.7℃という記録があるそうだから、まだまだ油断は禁物。ぜひ、ご自愛を。
(2013年8月16日)

終戦の日の各紙社説を読む

本日は8月15日。戦争が日常であった時代が終わって、平和が訪れた日。軍国日本が滅びて平和国家としての日本が再生した日。今日こそ、各紙が平和について、また、平和を支える民主々義と人権について、渾身の社説を書かねばならない。でなくして、社会の木鐸としての存在意義はない。

そんな思いで、各紙に目を通した。普段は一顧だにすることもない産経にまで。その結果、残念ながら、期待は裏切られた。この憲法の危機のときに、各紙の平和や民主々義への危機意識がまるで伝わってこない。戦争の禍根と平和の希求を語る気迫に欠けていると言わざるを得ない。

まず、日経。「戦争と平和を考え続ける覚悟を持とう」という標題の社説を一応は書いている。しかし、文字通り、「一応は書いてみた」のレベル。この社説には、何の「覚悟」もない。「通り一遍のおざなり社説」と評するほかはない。いやしくも日本「経済新聞」ではないか。経済合理主義にもとづいた憲法論、平和論の展開が期待されるところ。今日こそ、憲法の平和主義と民需中心の経済の関係を語るべきではないか。戦後68年の平和あるが故の経済発展の歴史を書くべきではないか。石原慎太郎の尖閣都有化という愚行に端を発した日中の政治緊張が、いかに日本の経済に悪影響を及ぼしているか、さらには、今後の日本経済の発展は近隣諸国との平和なくしてあり得ないことを、堂々と書いてみてはどうか。それなくして、感想文程度のおざなり社説で紙幅を埋めて新聞を売るのは、商品価値と代金額との等価性を大きく損なうことになる。これは消費者問題だ。

続いて読売。標題は「中韓の『反日』傾斜を憂えるー歴史認識問題を政治に絡めるな」というもの。内容を読む必要なく、タイトルだけで何を言わんとしているのかがよく分かってしまう。ところが、真面目に内容を読み込むと、何を言っているのか分からなくなる。おそらく、読売論説子は、まともに社説を読む新聞購読者を想定していない。大学入試の小論文なら、「論旨不明確」「論旨に一貫性なし」として不合格になること間違いない。この社説は、読み手に焦躁感を与えることにおいて、日経よりも罪が深い。日経は「紙代を返せ」のレベルだが、読売には「慰謝料も支払え」と言わねばならない。

その点、毎日の「8・15を考えるー積み重ねた歴史の重さ」は、さすがに読売よりは数段マシ。書き出しなどは手練れの文章として洗練もされている。しかし、これも結論として何を言いたいのかは良く分からないで終わってしまう。
長く政権にあった穏健保守の一貫した「中国への侵略」という認識にゆらぎが生じ、現政権によって変更されようとしていることを憂慮してはいる。村山談話を外交資産とすべきであって、新たな談話を出すよりも、過去の談話を変えないことが大切と言っている。靖国や、領土問題を論じるときに、「内向きの論理」ではなく、「世界史的、客観的な視点」で判断する必要がある、とも言う。ところが、唐突に「韓国で日韓合意に反する賠償判決が相次いだ。中国は尖閣付近の領海侵犯を繰り返す。歴史と外交をからめ、過去の積み重ねを一方的に変えようとする動きだ」と、読売まがいの「一方的に相手が悪い」トーンに転じる。そのあとは歯切れが悪く、まとめがまとめになっていない。結局、人をうなずかせるものがなく、心に響くものとなっていない。起・承・転・結を別々の人が書いて無理につなげたような印象さえのこる。

次いで、東京新聞。標題は「哀悼の誠尽くされたかー68回目の終戦記念日」というもので、終始、靖国問題を論じている。論旨に破綻はない。社の立ち場を明快に述べている。それだけに、内容は心底がっかりさせられる。予想とのギャップという点では、この社説が一番。戦後68年経ってなお、昭和天皇の立ち場からの靖国論なのだ。「A級戦犯合祀への昭和天皇の不快感やその後の不参拝が私憤であるはずがありません。戦死者と死を命じた戦争指導者を同じ神として祀ることへの国民の反発や違和感へ配慮したかもしれませんが、それにもまして合祀が問う戦後日本のあり方の是非への根源の認識があったと思われるのです」には驚く。ここには、靖国問題をA級戦犯合祀問題に矮小したうえで、天皇のA級戦犯合祀への不快感を深慮に基づくものと肯定して見せている。恥ずかしいほどに、天皇の戦争責任を追求する姿勢に欠ける。また、「A級戦犯合祀さえなければ、天皇にも参拝していただけるのに」というニュアンスさえ窺える。天皇への責任追及を避けようと健気な努力をしながら、死刑になった後にまでこれだけ天皇から裏切られたA級戦犯に、同情の一つもしたくなる。

朝日「戦後68年と近隣外交ー内向き思考を抜け出そう」は、さすがにすぐれた社説。読ませるし、品よく穏やかで、鋭い内容となっている。
「戦前戦中の日本の責任を問う声がアジアから湧き起こるまでには時間がかかった。70年代までに終えた近隣との国交正常化は、冷戦構造の産物でもある。日本への賠償請求権は消えたとされたが、当時の近隣諸国では外交に民意が反映される状況ではなかった。やがて冷戦は終わる。グローバル経済の時代、韓国は先進国へ、中国は大国へと成長した。日本と国力の差がなくなるにつれ、歴史問題に由来する大衆感情が噴き出している。日本はもはや軍国主義は遠い遺物と思っても、隣の民衆にとっては戦争を問う時が今やってきた。そこには歴史観の時差ともいえる認識のズレがある」。やや長い引用だが、重要な指摘だと思う。加害者側には責任を忘れるに十分な時間が経過したときに、ようやく被害者が責任追及の声をあげることのできる条件が整ったというのだ。だから、「今の時代こそ、じっくり考えよう。お隣は今なおなぜ、怒り続けているのか、と」が締めくくりの文章となる。
さらに、「中韓首脳にとって、歴史は、貧富の格差など国内問題から国民の目をそらす手段にもなる。だとしても、そんな思惑に対抗するかのように日本もナショナリズムの大衆迎合に走ってしまえば悪循環は止まらない」というのは、良識に満ちた姿勢である。ナショナリズムを煽動して部数と売上げを伸ばそうというさもしさはなく、このような冷静な良識を、国内他紙にも、中・韓のメディアにも期待したい。
さはさりながら、すぐれた社説と認めつつも、今ひとつ物足りなさを禁じ得ない。格調高さの反面現実の課題への切り込みがないからだ。総論的に歴史認識・外交問題を論じるにとどまって、明文改憲問題、立法改憲・解釈改憲、軍事大国化、靖国問題等々への泥臭い、焦眉の急につながる問題提起となっていないことの物足りなさである。これが、「朝日らしさ」なのであろうか。

最後は産経。私はこの新聞をジャーナリズムとして認めていない。街宣右翼と自民党右派の宣伝紙に過ぎないと思っている。だから、無視してもよいのだが、せっかく年に1度のこととして産経紙を購入した以上は、これへの批判をしておきたい。また、歴史修正主義者や靖国参拝推進勢力の真意がどこにあるかを考える材料ともしたい。

産経「主張」のタイトルは、「終戦の日 憲法改正で「靖国」決着を 参拝反対論は根拠を失った」というもの。自信ありげに「参拝反対論は根拠を失った」と断定しているので一瞬戸惑うが、「産経新聞が今春発表した『国民の憲法』要綱」という、ほとんど誰にも相手にされることのない改憲案に基づく憲法改正が実現すれば、ということのようだ。なるほど、タイトルの付け方からしていかにも産経らしい。

「国に命を捧げた人々の霊は静かに追悼したい」
この一文から引っかかる。戦没者のすべてが「国に命を捧げた人々」なのか。実は、心ならずも戦争に狩り出されて「国に命を奪われた人々」ではないのか。国に命を捧げることなく亡くなった人には追悼したくないというのか。上官抗命や敵前逃亡で処刑された人についてはどうなのだ。軍人・軍属ではない民間戦死者をどう思っているのだ。「静かに追悼したい」のであれば自宅で毎日すればよいではないか。クリスチャンの戦死者になぜ神社なのだ。仏教徒になぜ靖国なのだ。なぜ、なぜ…。
ここでのキーワードは、「国」である。「霊」ではなく、ましてや「人々」でもない。国の、国による、国のための戦没者慰霊独占システム。それが靖国なのだ。憲法20条3項の政教分離は、まさしく天皇や閣僚の靖国参拝を禁止するための規定である。
念のため申し添えれば、憲法が戦没者に対する追悼に干渉するところはない。宗教法人靖国神社の存在も教義にも容喙するところはない。ただ、公的立場にある者の参拝や宗教的意味合いをもつ金銭の奉納という形での関わりを禁じているに過ぎない。

「後世の指導者がぬかずくことを憲法違反とする議論は、国民感情と乖離している。」
これは憲法の何たるかを理解しない者の妄言に過ぎない。憲法とは、主権者国民から「後世の指導者」に対する作為・不作為の命令である。その命令は、「国民感情」というものを徹底して無視せよという内容を含むものなのだ。なぜなら、憲法とは究極のところ、少数者の人権を擁護することが目的だからである。「国民感情」という多数派の意見は、人権擁護のためにことさらに排除されなければならない。もっとも、内容において曖昧模糊で、あるのかないのか、多数のものであるか否かする不明の「国民感情」などが憲法解釈に介在する余地はない。

「戦後68年も経て、なお続く論争の決着を急がなければならない。産経新聞が今春発表した『国民の憲法』要綱がその解決への道筋になることを期待したい」
政治・外交論としての論争については、その性格上決着はつけがたい。しかし、憲法論としては決着は当初からついている。敗北を認めているからこそ、それを不都合として、自民党の改憲草案が出てきたり、産経案が出てきたりしているのだ。

「違憲論はそもそも、国は『いかなる宗教的活動もしてはならない』という日本国憲法第20条3項を根拠としている。条文を厳格に解釈し、参拝はそれに抵触するとみる原理主義的な考え方だ」
この主張の本気度を疑う。憲法の条文を厳格に解釈しなければならないことは当然のこと。ユルユルの解釈で結構というのは、立憲主義を理解しようとしない反憲法的立場。とりわけ、政教分離条項は、戦前の国家神道跳梁の苦い経験と、靖国神社という軍国主義跋扈の歴史体験に鑑みて、その解釈に格別の厳格性を要する。産経主張は、憲法に敵意むき出しの反立憲主義であり、憲法敵視原理主義にほかならない。

「産経新聞の『国民の憲法』要綱第26条3項は、『国および地方自治体は、特定宗教の布教、宣伝のための宗教的活動および財政的支援を行ってはならない』と規定し、曖昧さを排した。これに照らせば、「布教」などの意図がないことが明らかな首相参拝は合憲、儀礼的な玉串料の公金からの支出も可能になる」「憲法改正が実現し、この規定が生命を得るなら、長年の議論は一夜にして解決をみるだろう」

恐るべき、政教分離破壊への改悪案である。おそらく、産経は政教分離の理念についてほんの少しも考えたことがない。「解釈の曖昧さを排する」ことが唯一の憲法的価値であるなら、政教分離そのものをなくしてしまうことが最善の方策ではないか。産経案は、96条改正限界を超えるものとして許容しがたいが、現実性がないので、これ以上取りあう必要は無い。ただ、仮に産経案の憲法改正が実現しこの規定が生命を得るなら、憲法は死文化し、戦前の復活という事態を招くことになるだろう。産経がそのような提案をしているという事実だけは押さえておかねばならない。

「最高裁で参拝自体への憲法判断が示されたことはない重い事実を指摘しておきたい」
最高裁でも高裁判決でも、参拝の合憲判断が示唆されたことすらない。高裁判決として重要なのが、私も関わった岩手靖国訴訟の仙台高裁判決。曖昧さを残さずに、天皇と首相の公的資格による参拝を、違憲と断じている。

「反対論の論拠の一つに、いわゆる「A級戦犯」14人の合祀がある。昭和天皇がそれを機に親拝を中止されたのだから、総理大臣も参拝を控えるべしとの主張だ」
A級戦犯14人の合祀問題も、天皇が合祀に不快感を示していたかどうかも、憲法論のレベルではまったく無関係。政治・外交レベルの問題としては、論者によっては大きな問題だが、「天皇も参拝しないのだから、首相もおやめなさい」という意見があることを私は知らない。あったとしても説得力のないつまらない意見に過ぎない。なお、A級戦犯合祀は靖国神社のなんたるかを象徴するものではあるが、分祀が実現したとしても、合憲にはならないし、外交的にも問題解決にはならない。

「朝日新聞の調査を紹介しよう。同紙が非改選を含む全参院議員に聞いたところ、『首相の靖国参拝』に賛成が48%、反対は33%だった。憲法改正の是非では『賛成』『どちらかといえば賛成』が計75%と改正の発議に必要な3分の2を超えた。憲法改正、公式参拝の道は開けた、とみるべきだろう」
朝日の調査を信用しての引用だがおそらくそのとおりの危機的状況なのだ。参院選の結果、「衆参のネジレ」は解消したが、「民意と、議席とのネジレ」は解消していない。「憲法的良心と議席とのネジレ」はさらに大きい。これから、熾烈な綱引きをしなければならないが、もちろん、その綱引きが続いている限り、つまりは改憲が実現するまでは公式参拝はできない。それが、法治主義の帰結である。

「残るは近隣諸国の干渉だが、その不当性について、今さらあらためて論じる必要はあるまい。」
おやおや、論じないのですか。もっとも、近隣諸国の不当を論じるよりは、近隣諸国の言い分にじっくりと耳を傾けた方が良いと思いますよ。国際的に孤立しているのは、わが国の方なのですから。

産経「主張」の最後は、次のように締めくくられている。
「安倍晋三首相がきょう、予想を裏切って大鳥居の下に現れることを望みたい。さもなければ秋の例大祭は、ぜひ参拝してほしい」

問題は、なぜ、安倍晋三や産経という右翼連中が、かくも靖国参拝にこだわるのかである。せっかく100円支払って購入した8月15日付けの産経。隅々まで目を通してみたが、「靖国公式参拝は違憲ではない」「公式参拝は国内問題だから外国が口を出すのは不当」は書き連ねられているが、積極的に公式参拝が必要な理由はどこにも書いていない。「国に命を捧げた人を国が追悼するのは当然」程度のことなのだろうか。

目に留まったのは、「産経抄」というコラム。ここで宮崎駿の新作アニメ「風立ちぬ」への批評に関して、「ある指摘が気になった。主人公に、戦争に協力することへの葛藤がみられない、というのだ」という。また、「『まど・みちお全詩集』のあとがきを読んだときも、似たような違和感を覚えた。この詩集には、まどさんが「戦争協力詩」と呼ぶ2編も収められている。まどさんは自分を責めてやまない。『懺悔も謝罪も何もかも、あまりに手遅れです。慚愧にたえません、言葉もありません』…何がいけないというのだろう。戦闘機の設計者や詩人だけではない。当時の日本人は、それぞれ自分の持ち場で精いっぱい戦った」「国家の再建に失敗すれば、英霊たちに申し訳が立たない」

ここには、「国民がそれぞれの立場で精いっぱい戦争協力することは賞賛されるべき素晴らしいこと」「国家の再建に失敗すれば英霊たちに申し訳が立たない」という二つの命題が、脈絡不明確なまま語られている。この二つを繋げるように論理を補えば次のようになるだろうか。

 ?国家の隆盛は文句なく価値のあることである
 ?国家がその隆盛のためにする戦争は正しい
 ?正しい戦争に、国民が協力することは賞賛されるべき素晴らしいこと
 ?国民みんなで闘った戦争での犠牲はこの上なく尊い
 ?生き残った国民は犠牲者を英霊として尊崇しなければならない
 ?戦争目的であった国の隆盛を実現せねば英霊に申し訳ない

産経抄は、?と?を語り、公式参拝は?と?に関わる。その前提として、?と?がある。
「戦没者の尊崇」や「戦死者の遺志」を口実に、生者が戦争を美化し聖化して次の戦争を画策し、あるいは国の隆盛に国民意識を動員するため装置が靖国神社であり、その靖国神社と国家との結びつきを国民にアピールするための演出として閣僚の参拝があるのだ。

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  『かわいそうなぞう』(土家由岐雄著)と
  『ぞうれっしゃがやってきた』(小出隆司著)

上野動物園で3頭の象が死んだ。象は利口で、毒も注射も受け付けず、最後に餓死させるしか殺す方法がなかった。餌をもらおうとして、飼育員に懸命に芸をしてみせるやせ衰えた象たちの話は、子どもたちだけでなく、親も涙なしには読みすすむことができない。

これは太平洋戦争たけなわの70年前のちょうど今頃の夏の話。戦況悪化著しいシンガポールの軍政官から東京都長官に転任した大達茂雄は、全猛獣の1カ月以内の殺処分を上野動物園に厳命した。空襲による猛獣の市街地逃走を恐れてのことである。それ以前から、園側は懸命に動物を地方に疎開させようとしていたが、努力は報われず、結局、ライオン、ヒョウ、ニシキヘビなど14種27頭の貴重な動物たちが殺された。象は「かわいそうなぞう」の話のとおり、30日間の絶食の後に、ガリガリにやせて死んでいった。

これを「戦時猛獣処分」という。上野動物園を皮切りに全国の動物園で同じ事が行われた。わざわざ殺さなくても、燃料不足のために暖房が切れて、熱帯地方の動物は死んだ。飼料不足で、草食動物も死んだ。無論、肉食動物に与える肉などあろうはずもなく、食糧不足でたくさんの動物が死んでいった。街路樹の枝葉集め、畑の草刈り、空き地での芋作りなど飼育員の餌づくりの努力と工夫は焼け石に水だった。
これらの動物は「時局捨身動物」と称されて慰霊されたが、言葉が話せるなら「納得できない、恨めしい」といっているに違いない。

そんな時局のなか、すべての動物が処分されたわけではない。名古屋東山動物園では、北王英一園長の努力と懇願が通じて、2頭の象が戦争を生き抜いた。当時東山動物園は軍の兵糧庫とされていたが、飼育員が兵糧の中から象の餌を盗んでいたのを、わざと見逃してくれた獣医大尉がいたお陰でもあった。戦後、そのうちの1頭を東京の子どもたちのために上野動物園に送ろうとしたが、泣き叫ぶ仲良しの2頭を引き裂くことができなかった。
日本中でたった1カ所象のいる、名古屋東山動物園へ「ぞう列車」で全国の子どもたちがやってきた。木下サーカスで育ったマカニーとエルドは人なつこく、子どもたちに触られたり、乗せたり大サービスをした。子どもたちは無論のこと、苦しい戦争を生き延びた2頭の象の喜びはいかばかりだったろう。飼育員たちの得意さやうれしさが伝わってくる話である。アメリカ軍占領下の当時、国鉄、私鉄関係者の並々ならぬ努力によって仕立てられた「特別専用ぞう列車」は6万人もの子どもたちを東山動物園に運んだ。

そのことを教訓に、1950年の朝鮮戦争激化にあたって、上野動物園は「非常事態計画」を策定した。「戦時猛獣処分」の再現や空襲による動物の死を避けるため、伊豆大島への疎開を計画したのだ。しかし、本当に動物園関係者は、再び日本が戦争に巻き込まれることを考えたのだろうか。

動物園の動物の命と子どもたちの笑顔や喜びを踏みにじってまで、起こして価値のある戦争などありはしない。憲法第9条を変えさせてはならないと改めて思う、8月15日である。
(2013年8月15日)

地方各紙の「良識」と、読売の「不見識」

「法制局長官の首のすげ替えで集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更」という、安倍流解釈改憲の「手口」。これに反対の各紙の社説を集めてみよう、と思っていた。96条問題の先例に倣ってのこと。

この春、96条先行改憲の策動を断念させた大きな要因として、地方紙の主張がある。とりわけ、5月3日憲法記念日の各紙の社説が、こぞって反対姿勢を明確にしたことが大きなインパクトをもった。各紙それぞれの角度から個性豊かに、96条改憲の非道理と危険性に警鐘を鳴らすものであった。

国会図書館で、全国53紙の5月3日社説を調査したのは、ジャーナリストの岩垂弘さん。その結果を、5月13日付ネットマガジン「リベラル21」に発表した。「新聞各紙の8割近くが憲法96条の改定に反対ー憲法記念日の社説を点検する」という標題である。

「全国の新聞各紙の大半は、5月3日の憲法記念日にこの問題を論じたが、その8割近くが『96条改定』に反対であった。とりわけブロック紙・地方紙の間で改定反対が強いことが浮き彫りとなった」「その論調を大まかに分類すると「改定賛成」が6紙、「論議を深めよ」といった、いわば中立的な立場が5紙、「改定反対」が35紙であった。つまり、「改定賛成」13%、「中立」10%、「改定反対」76%という色分けだった。」

注目すべきは、「改定賛成」の少数派6紙のうち、読売・産経・日経と3紙までが中央紙であること。中央各紙と地方紙の歴然たる温度差が報告されている。今や、ジャーナリズムの良識は地方紙の論説にあって、中央紙にはない。産経・読売・日経は、いずれも自民党や経団連の主張と変わるところがない。不見識というほかはない。朝日もこれに近いと言わざるを得ない。

解釈改憲については、各紙の8月15日社説を調べて比較してみよう、などと思っていたところ、本日の赤旗に「地方紙から批判相次ぐー集団的自衛権容認に向けた法制局人事」の記事。残念、先を越された。

見出しに、「法治主義揺らぐ」「あまりに強引」とある。ここら辺りが、現状の世論であろうか。

引用された各地の社説は以下のとおり。
  宮崎日日新聞(11日)
  沖縄タイムス(10日)
  福井新聞(10日)
  愛媛新聞(5日)
  東京新聞(9日)
  京都新聞(9日付)
  徳島新聞
  山陰中央新報
  熊本日日新聞

赤旗に紹介されている主要な論調は以下のとおりである。
「憲法解釈を容易に覆せるのなら、法治主義、議会制民主主義の根幹が揺らいでしまう」(宮崎日日新聞)
「歴代の首相や内閣法制局長官らの答弁を積み重ねて構築した憲法解釈が覆されるようなら法治国家とはいえない」(沖縄タイムス)
「ハードルが高い憲法改正を回避する形での解釈変更は大きな問題をはらむ。…日本はあくまで『平和主義』追求の中心軸であるべきだ」(福井新聞)
「過去に日本が積み上げてきた国際的信頼と平和主義は貴重な財産だ。それを崩し、後世に負の歴史として刻まれる愚を犯してはなるまい」(愛媛新聞)
「なし崩し変更許されぬ」(東京新聞)
「容認できぬ強引な手法」(京都新聞)
「憲法解釈の変更は、対中韓関係を一層悪化させる恐れがある」(徳島新聞など)。

やはり、「良識の地方紙」だ。安倍内閣がこの手口を断念するまで、くり返しの主張を期待したい。

それに引き換え、「不見識紙」の代表格である読売の社説について一言しておきたい。
読売も、以前から今のようだったわけではない。本日配送された、「自由と正義」(日弁連機関誌)8月号に、孫崎享さんの講演録が掲載されている。標題は「日本の生きる道ー平和的手段の模索」。
その講演の冒頭で、1979年5月31日の読売新聞社説の一部が紹介されている。「尖閣問題を紛争のタネにするな」という堂々たる正論。本当にこれが読売の社説かと見まごうばかり。私も、我が目を疑う。

「尖閣諸島の領有権問題は、1972年の国交正常化の時も、昨年夏の日中平和友好条約の調印の際にも問題になったが、いわゆる『触れないでおこう』方式で処理されてきた。つまり、日中双方とも領土主権を主張し、現実に論争が“存在”することを認めながら、この問題を留保し、将来の解決に待つことで日中政府間の了解がついた。
それは共同声明や条約上の文書にはなっていないが、政府対政府のれっきとした“約束ごと”であることは間違いない。約束した以上は、これを順守するのが筋道である。鄧小平首相は、日中条約の批准書交換のため来日した際にも、尖閣諸島は『後の世代の知恵にゆだねよう』と言った。日本としても、領有権をあくまで主張しながら、時間をかけてじっくり中国の理解と承認を求めて行く姿勢が必要だと思う。」

この社説の全文は、下記のサイトで読むことができる。
www005.upp.so-net.ne.jp/mediawatching/yomiurieditorial19790531.htm?
「『小さな岩』で争うよりも、日中両国が協力する方向に、双方の雰囲気を高めていくことが大事だ」「こんごとも、尖閣諸島問題に対しては慎重に対処し、けっして紛争のタネにしてはならない」と結んでいる。良識があふれた社説ではないか。

それから30年余を経た、2013年8月13日の「日中条約35周年『平和友好』の精神はどこへ」と題する社説の変貌ぶりは正視するに耐えない。

一方的に相手の非を鳴らし、「日本は警戒を怠れない。政府は尖閣諸島を全力で守り抜く姿勢を示し続けねばならない。」という好戦的姿勢。良識のカケラも見えない。戦前もかくやと思わせる大新聞の扇動的な論調に、背筋が寒くなる。

指摘したいのはその「姿勢」や「論調」ではない。79年社説との明らかな「変節」についてである。

「習政権は、途絶えている日中首脳会談開催の前提として、日本側が尖閣諸島を巡る領土問題の存在を認めた上で、双方が棚上げすることを求めている。
だが、尖閣諸島は日本固有の領土であり、棚上げすべき領土問題は存在しない。安倍首相が中国側の要求に応じないのは、当然である。政府は、国際社会に日本の立場を訴え、粘り強く理解を求めていかねばなるまい。
安倍首相は『対話の窓は常に開けている』と中国側に呼びかけている。習政権はいつまで会談の前提条件を掲げ続けるつもりか。」

かつては、「触れないでおこう」方式での処理を、「政府対政府のれっきとした“約束ごと”であることは間違いない。約束した以上は、これを順守するのが筋道である」と言いながら、今になって、「尖閣諸島は日本固有の領土であり、棚上げすべき領土問題は存在しない。安倍首相が中国側の要求に応じないのは、当然である」というのは、食言ではないのか。

今や、産経とともにナショナリズムを煽る読売。かつては、「『小さな岩』で争うよりも、双方の雰囲気を高めていくことが大事」「尖閣諸島問題に対しては慎重に対処し、けっして紛争のタネにしてはならない」と言ったことを思い起こしていただきたい。そのうえで、地方各紙の良識に倣っていただきたいと切に思う。

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   『三光作戦の新証拠』
本日(8月14日)の毎日新聞は、1938年日中戦争初期、上海近郊の村における「抗日ゲリラ」掃討作戦の様子を写した写真46枚が見つかったと報じている。「銭家草」という村を日本軍部隊が急襲し、村民をとらえ、ゲリラとしてその場で40人を処刑する一連の写真だ。撮影助手をしていたとおもわれる兵士が、内地の妻らに宛てて手紙と一緒に送ったもの。

それぞれの写真には、ていねいなキャプションが書き込まれている。「戦地ならではできない放火の光景、面白いでしょう」「静かにして居ろ あばれるとタタッ切るぞ」「自分の這入る穴を一生懸命に掘って居ます」(処刑前の写真)などというおぞましい内容。

日清、日露、第一次大戦は天皇の宣戦の詔書に「国際法規ノ遵守」がうたわれていた。近代文明国家として認められたいため、せいぜい見栄を張っていたのだ。しかし、日中戦争については、宣戦布告を行う戦争ではなく、事変だといいはった。見栄も外聞もかなぐり捨てた戦争だったのだ。陸軍省から派遣軍にあてて「今次事変ニ関スル交戦法規ノ適用ニ関スル件」として「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ」という通牒が繰り返し出されている。「戦利品、俘虜等ノ名称」は使うなとも指示された。俘虜収容所は作らなかったので、捕虜の大量虐殺は黙認された。

日本軍はこの通牒に従って、見せしめのために、「燼滅掃討作戦」と称して、「銭家草」のような村をたくさん焼き尽くして無人地帯にした。いわゆる「三光作戦」である。三光とは殺光・焼光・搶光をいい、人を殺し尽くし、家を焼き尽くし、物を奪い尽くすの意である。三光作戦などというのは中国側の宣伝であり、そんなむごいことを皇国の兵士が行ったはずはないと認めようとしない日本人もいる。従軍慰安婦問題を否定した人たちは同じように「三光作戦」の存在も否定する。たとえ本日の毎日新聞に掲載された写真のような揺るぎない証拠を突きつけられようとも。毎日新聞は中国における取材もし、この写真の真実性の検証に3年をかけたそうだ。

この写真と一緒に内地に送られた手紙は「頭目以下を殲滅せしめ我隊には何等の損傷なく凱歌を奏して帰営致し候事は将兵一同痛快を覚え申候」といっている。また、写真に同封の便せんには「内地に持ち帰ることは軍でも許しません。秘密写真として取締がうるさいですからやたらの人には御覧に入れないで下さい。殺すところや穴掘りは絶対にいけないのです」と書いている。

内容のおぞましさにかかわらず、文面からは、この書き手が「通常の社会人」であることがうかがえる。戦地にさえ行かなければ、達者な読み書きの能力で社会生活を送っていただろう人。そんな人が、戦場の狂騒に巻き込まれると、愛する妻にとくとくと、このような想像を絶する凶悪さを誇る手紙を書くようになる。受け取った妻はどう思ったことだろうか。

次なる戦争を画策している安倍首相は妻になんと言うのだろうか。「当時は戦国時代から連綿と続く『野蛮な首狩り』の伝統がまだ生きていたんだ。今度の戦争は家にいてボタンひとつで決着がつく。血の一滴も見ることはないから心配することはない」と、優しく説得するのだろうか。
(2013年8月14日)

戦争にならないための一票、その投票先は…

愛読している「毎日・仲畑流万能川柳」。本日、7月の月間大賞が発表となった。
   戦争にならないように投票す(東京 かもめ)
簡潔なこの句、なかなかに考えさせる。

ある詩の1節を思い出す。
   彼の国が、戦争を始めたので、彼も兵隊になった。(竹内浩三「愚の旗」)
竹内は、1945年4月ルソン島の戦場で23歳の生涯を終えた天性の詩人。この上なくやさしい性格で、このうえなく戦争と軍隊をきらいながら、結局は招集されて戦争に命を奪われた人。いかに個人が「戦争にならないように」願っても、「彼の国が戦争を始め」れば如何ともしがたいことを、身をもって教えている。だからこそ、戦争を始めるような国にしてはならない。今ならできる。その手段は、選挙である。さて、かもめ氏は、どの党どの候補者に投票したのだろうか。

かもめ氏の「戦争にならないように」は、時代の声である。私たちには何の違和感もない。しかし、かつては、そのようなつぶやきすら許されなかった。ましてや、反戦・非戦の党に投票しようという呼びかけの川柳が一般紙に掲載され、賞賛されるなどとは思いもよらなかった。

近代日本の歴史は侵略と戦争の歴史である。明治維新後の内戦が終わると、帝国日本は対外侵略と戦争を重ねた。台湾侵略・朝鮮侵略、日清・日露戦争、第一次大戦参戦、「満州」事変・日中戦争、そして太平洋戦争である。その他にも、北清事変・シベリア出兵・張鼓峰事件・ノモンハン事件…等々。侵略と戦争に明け暮れたと言って過言でない。

政府は「富国強兵」をスローガンとし、すべての国策に軍事を優先させた。国民は「戦争は国富を生む」ものと信じ込んだ。戦争が悪であると語られることはなく、侵略は英雄的行為であると教えられた。国定教科書「国語」の第1頁が、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」とさえ書かれた。

天皇は統治権と統帥権の主体とされ、「戦ヲ宣シ、和ヲ講ジ」る権限を握っていた。神なる天皇が主導する聖なる戦争に異を唱えることは許されず、敢えてこれを行ったものには、徹底した野蛮な弾圧が加えられた。

しかし、すべては虚妄であった。1945年8月に、累々たる内外の犠牲を代償として、ようやくの平和が訪れた。国民は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定」した。

さらに、その憲法には、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」 と書き込まれている。8月、改めて背筋を正して精読すべきである。

なにゆえ、日本は遠くない過去に、侵略と戦争に明け暮れたか。民主々義がなかったからであり、人権が確立されていなかったからであり、権力が教育を掌握して国民に軍国主義を鼓吹したからであり、平和を希求する政党や政治勢力の弾圧を合法化したからであり、権力が情報を独占し権力によるマスメディアの統制を許容したからであり、国家神道が国民精神を操作したからであり…。現行日本国憲法は、その反省のすべてを総括するものとして生まれた。まさしく、再びの戦争をなくするための「平和憲法」として制定されたのだ。

その後、68年間、日本は戦争を起こしていない。自衛隊はできたが、政府解釈によっても外国での戦闘行為は禁じられ、一人の「敵」兵を殺したことも、殺されたこともない。平和憲法が存在したからこその平和であったと言って良い。

ところがいま、政権与党は、その平和憲法を改悪しようと躍起になっている。天皇を元首化し、国防軍と軍法会議を作り、表現の自由ほかの人権を抑制しようとしている。情報を独占して、再び心おきなく戦争のできる国作りを目指しているのだ。集団的自衛権の容認、秘密保全法の制定、敵基地攻撃能力と海兵隊機能の整備、そして国家安全保障基本法の制定、武器輸出三原則のなし崩し空洞化…、すべてが戦争の準備ではないか。

本日の毎日に、安倍晋三が地元の山口県長門市でこう語って、「より踏み込んだ表現で改憲への意欲を表明した」と報じられている。
「将来に向かって憲法改正に向けて頑張っていく。これが私の歴史的な使命だ」「厳しい批判も恐れずに決断しなければならない」「私はまだ志を果たしたわけではない。これからが私の仕事の正念場になってくる」

舌足らずを補って翻訳すれば、彼のホンネは次のとおりである。
「私の志は、日本の文化伝統歴史を取り戻すこと。そして、強い軍事大国日本を取り戻すこと。具体的には、天皇を戴く日本という国家体制を整備し、国防軍をつくって他国の侵略を防ぐだけでなく、場合によっては敵地に攻め込んで敵を殲滅するだけの強力な戦力をもとうということだ。それこそが平和を守る抑止力になるのだ。その国作りのためには、反戦だの平和だのと言う、不埒な連中をのさばらせない法整備が必要だ。マスメディアに勝手なことを言わせておいてはならない。教育にもきちんと目を光らせて、まずは国旗国歌への忠誠を教え込まなければならない。もちろん、戦争準備は、極秘に進めなければならないから、秘密保全法が必要だし、当面はアメリカと一緒になって戦争するのだから、集団的自衛権容認の解釈変更も喫緊の課題だ。最終的には、憲法96条を改正して、その先9条を変えなければならないが、なかなか道は遠い。
幸い選挙戦術がうまく当たり、かなりの国民をアベノミクスの疑似餌で釣ることができたし、右翼国民の支持を得て、参院選では勝てたが、まだまだ志を果たしたわけではない。
これからが、戦争のできる国作りのための私の仕事の正念場になってくる。一路戦前の軍事優先国家を目指して断固勝ち抜く、これが私の歴史的な使命だ。厳しい批判も恐れずに決断していく覚悟なのだ」

月間大賞のかもめさん、平和を願う一票はまさか自民党への投票ではなかったでしょうね。「改憲3人組」の維新やみんなの党へもダメですよ。その票を最も有効に平和に役立てたいのなら、戦前から野蛮な弾圧に屈することなく反戦平和の主張を貫いてきた、日本共産党への投票が正解だったと思います。

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   『同行二人ーイザベラと伊藤』
イザベラ・バードは「日本奥地」へ行くときに、召使い兼通訳を募集し18歳の日本人青年「伊藤」を選んで連れて行く。面接の日、何人かの見栄えのよい応募者の最後に、なんの推薦状ももたない頑健そうながに股の若者がやってきた。容貌はハンサムなところは全くない。一見愚鈍そうだが、目つきにはしこそうなところがみえる。イザベラが彼を雇うことにすると、思いがけなくも伊藤は「約束の給料に対して、神仏に誓って忠実に仕える」と書いた契約書を作ってきた。イザベラもこれに署名する。

旅行の準備をテキパキ行い、役どころを心得た行動をする伊藤に、イザベラは一安心する。旅のはじめに、「この先3カ月間、彼は守り神として、あるいは悪魔として一緒にいることになる」と言っている。幸いに、彼は守り神であって悪魔ではなかった。

1ヶ月半もするとイザベラは「日ごとに彼を頼りにしているように思う。夜になると彼は、私の時計と旅券、金の半分を預かる。もし彼が夜中に逃亡したらどうなることだろうかと、時々考える」ほどになる。
伊藤は、毎日日記を細かくつけて、イザベラに読んで聞かせる。宿泊と運行、請求書と受取書を整理する。駅逓係や警官から必要な情報を集めて記録する。外国人に臆さず、遠慮しない。酒は飲まず、給料の大部分を母親に送る。英語はメキメキ上達し、上品な語彙か、俗語か、口語か、しっかり確かめ、メモをとる。礼儀作法をたしなめると、少しも怒らず、態度を改めますと答え、「しかし、私はただ宣教師のまねをしただけです」とケロリとしている。

伊藤自身も初めて見る、地方住民の貧しさや服装について、「こんな場所を外国人に見せるのは恥ずかしい」と恥じ入る。村長や病院や師範学校などを訪問するときは、通訳官として正装する。イザベラが礼儀に叶った行動をするよう注意して、侮られたり、笑いものにならないようにと気を遣う。

3カ月間の旅が終わったときは、「たいへん残念であった。彼は私に忠実に仕えてくれた。最後の日にもいつものように私の荷物を詰めるといってどうしてもきかず、私の身の回りの品物をすべてキチンと片付けてくれたのだが、彼がいないと、もうすでに私は困ってしまっている。」と別れを惜しんでいる。また、「伊藤は去る前に、私に代わって室蘭の長官宛てに一通の手紙を書いてくれた。人力車の使用その他私に親切にしてくれたことに対する礼状である。」と結んでいる。47歳の婦人と18歳の青年の3カ月は、いつか、母親と息子のような関係を作っていたのかもしれない。

この青年のフルネームは伊藤鶴吉。後に、横浜通訳協会会長となり、通訳の第一人者として活躍したということぐらいしか分かっていない。詳細につけていた日記が見つかったら、たいへん面白いものだろう。イザベラとは違った、若い日本人の「日本奥地」見聞録となっていようし、外国人女性への感想も興味深い。もしかしたら、こんなことが書いてあるかも知れない。

「最初は、身体が弱いくせに、困難なところへばかり行きたがる、口うるさくて我が儘なおばさんにはうんざりだと思ってた。それに、女なんて知能が低いんだと軽蔑もしていたけど、どうしてどうして、なかなかたいしたもんだよ。いや、すごいと言ってもいいんじゃない。知らない土地で、言葉もわからないのに、よくやるのには感心。ついつい、悪い人から守ってやらなきゃというだけでなく、この人の役に立ってあげたいという気持になっちゃったよ」
(2013年8月13日)

共産党と市民運動ー新たな共同のあり方

村岡到という不思議な御仁に最近知り合った。同年配だが、どうラベルを貼ったらよいのか良く分からない。ご自分では肩書を「社会主義者」「雑誌編集者」としているが、人からは、社会評論家、運動家、思想家とも呼ばれているようだ。いくつもの市民運動を主宰する立場で、一昔前の言葉だが「奔走家」というのが似つかわしい。

この人が「活憲左派の共同行動をさぐる」とのテーマで集会を企画している。その集会に昨年の東京都知事選の私的な総括について報告を求められた。この人が企画する集会なら枠を嵌められることなく、遠慮なくものが言える雰囲気になるのだろう。食指は動いたが、残念ながら日程の都合が付かない。

何度かいただいた企画への参加要請連絡に、参院選後の状況についての村岡見解をまとめた文章が添えてあった。論旨は、選挙で躍進した共産党は、「自共対決」が鮮明になった状況の中で重大な責務を負っている、というもの。示唆に富むもので、ほとんど異論がない。

村岡さんは、予てから「社・共・新左翼の共同行動」提案者だそうだ。「共産党への投票」を呼びかけてきたともいう。その立場から、今回選挙の「共産党の躍進」を、ややほろ苦く「歓迎すべきこと」と肯定評価する。

『(参院選の結果は)或る意味では「共産党の勝利」として喜ぶこともできる。だが、誰に勝利したのか。自民党に勝利したと思う人はいない。戦後一貫して対立・抗争してきた社会党・社民党や新左翼に対しては「勝利」した。長年の抗争は決着がついたとも言える』という。私も、そのとおりだと思う。

続けて彼は言う。
『この「勝利」によって、共産党はかつてない重大な責務を負うことになった。共産党は、社会党・社民党や新左翼に期待を寄せた多くの人びとの願いと要求をも代弁して、ともに実現する、さらに広く視野を拡げ、大きな度量を発揮しなければならない。そのためには、自らの弱点や限界についても真摯に向き合い、克服することが不可欠の課題である』
『安倍晋三政権による改憲策動に対して、恐らく次の結節点となる2016年の参院選挙(総選挙とのダブル選挙の可能性も高い)に向けて、共産党との協力を明確にした〈活憲左派〉の共同行動を真剣に追求しなければならない。共産党もその方向で脱皮することが強く求められている』

〈活憲左派〉とは、聞き慣れない言葉だが、言わんとするところは良く分かる。「護憲」というスローガンは余りに受動的で消極的ではないか、「現行憲法典を改悪から擁護する」にとどまらず積極的に活用して実効あるものとして社会に定着させる運動をこそ目指すべきだ、というものであろう。「左派」とは、そのような課題を担うことを意識している「社会党・社民党・新左翼」支持者を指すと思われる。

ここでは、民主党や生活の党、緑の風などという「保守諸党」は、共闘・共同運動の対象としては出てこない。「勝つためには、右にウィングを広げなければ」というさもしさがない。この点、清々しささえ感じさせる。

そして、共闘・共同運動の基軸になるテーマは、〈活憲〉すなわち「憲法問題への姿勢」である。原発でも貧困問題でも、あるいはTPPでもオスプレイでもない。やはり憲法という総括課題なのだ。派生的にはすべての個別課題を含むテーマとも言える。

村岡さんの共産党へのスタンスは、「概ね賛意と敬意を表するが、批判と注文を忘れない」というもの。共産党への不満点と、注文とが具体的に書き連ねられている。この点も、当然といえばあまりに当然。

私も似たようなもの。日本共産党には大いに敬意を表するが、「無謬の党」であるなどという幻想は毛ほども持たない。信仰ではないのだ。また、共産党が個人崇拝とは無縁であるからこその支持でもある。さらに、基本的人権や民主主義の諸原理を徹底して尊重し擁護する姿勢に共鳴しての支持・支援なのだ。日本国憲法を護り生かす立ち場において、理論と実践的に、最も優れた政治勢力としての信頼に基づく支持・支援である。

村岡さんの意見に表れているとおり、参院選の結果を経て、共産党の権威が飛躍的に高まった。今後の革新共闘(ないし共同行動)の図式も自ずと変らざるを得ない。あらゆる個別課題について、共産党と市民運動との新しい形の連携の模索が試みられ、定着していくことになるだろう。その集積として、新たな形の選挙共闘が試みられることになる。

市民運動がその個別要求をもって積極的に共産党に接近し、議会内外での運動を共にすることの活発化が大いに期待される。市民運動は、要求を獲得するために政権党に擦り寄るよりは共産党を強くする選択肢を現実性あるものとして意識することになるだろう。村岡意見に述べられているとおり、共産党は、独善に陥ることなく、市民運動を尊重しつつ各分野の個別課題において市民との連携を深める努力を尽くさねばならない。

共産党自身は、今回の選挙結果を「第三の躍進」と言っている。第一の躍進、第二の躍進が、どのような攻勢に曝されて退潮に至ったか思い起こしての予防措置が必要である。これから大規模な反共宣伝・反共攻撃が予想される。そのとき「自らの弱点や限界についても真摯に向き合い、克服」しておかなければ、「第三の退潮」を招きかねない。具体的な課題は、市民運動との緊密な連携である。そのことを通じて、反共宣伝を跳ね返すだけの世論を形成しなければならない。

今回参院選の結果は、自民圧勝による閉塞感ばかりではない。着実に新たな希望の芽吹きも感じられる。

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   「セミ」につづいて「蚊」
都心ではあるが、ここ本郷の界隈に「セミ」と「蚊」はそれこそ佃煮にするほどたくさんいる。セミなら「自然がいっぱい」などと気取ってられるが、蚊の方は対応がたいへんだ。「日本奥地紀行」のイザベラ・バードも蚊と蚤には、終始悩まされ、蚊帳と蚤取り粉は必需品だった。蚊に刺されてもかゆいだけなら「30分の我慢」ですむが、本当に怖いのは日本脳炎やマラリア。

現代日本ではマラリアは撲滅されたが、明治時代には、とりわけ北海道の開拓地などでは、土着マラリアでたくさんの死者が出ている。古く、「瘧(おこり)」といったのはマラリア熱であったようだ。太平洋戦争中に、栄養失調や負傷して弱った日本兵が、マラリアに罹って、ガダルカナルで1万5千人、インパールで4万人、ルソンで5万人もが死亡したといわれている。どうにか帰還した兵士のなかにも、戦後長い間、マラリアの治療に悩んだ人がたくさんいた。

「蚊」をあまく見てはいけない。現在でも世界中では年間累計8億人がマラリアに罹り、100万から150万人が死亡している。マラリアのワクチンは存在しない。マラリアにも色々な種類があり、マラリア原虫は日々耐性を強め、抗マラリア剤が効かなくなってもいるらしい。

そこで、マラリア原虫を媒介するハマダラカを退治すればいいと誰でも思いつく。しかし、蚊はゴキブリと同じく中生代からしぶとく生き続け、人間様の「蚊」撲滅研究はいまだ効果をおさめていない。「蚊」は、地球上北から南まで、どこにでもいる。いない場所は南極大陸だけらしい。世界中で、マラリアだけでなく色々な感染症を引き起こしている。

蚊は、何とか撲滅しようとしてもできない。せいぜい増加を防ぐための消極策しかない。水たまりや低湿地をなくす。「蚊」を食べてくれる小鳥やカエルやトンボ、クモなどの昆虫をふやす。ボウフラを食べてくれるカダヤシ、メダカ、フナなどの魚をふやすなど。殺虫剤を下手に使えば、「沈黙の春」を引き起こしてしまう。

あとは網戸と蚊帳で人間から遠ざける。一番効果的なのは日本の「蚊取り線香」。世界中でひっぱりだこらしい。除虫菊の成分「ピレスロイド」は昆虫には神経毒が作用し、殺虫効果がある。ほ乳類は解毒ができるので、喘息などを患っていなければ、人間には安全とされている。

日本では毎日うんざりするような猛暑が続いている。この調子だと日本は亜熱帯化して、「蚊」の生息条件は改善されて、1年中「蚊」が生息できるようになる。デパート、スーパーマーケット、本屋さんなどじっくり立ち止まって、商品の品定めが必要な場所に行くには、携帯用蚊取り線香が必需品になる日も遠くない。とりわけ古書店は、蚊取り線香の臭いでむせることになるだろう。
(2013年8月12日)

「良いナショナリズム」など存在しない

本日(8月11日)の東京新聞社説が、ナショナリズムを論じている。
標題が「ナショナリズムを超えて」であり、結論が『「ナショナリズムよりヒューマニズム」「海洋資源の共同開発、共同利益」。この二つが中韓両国との関係打開へのキーワードに思えますが、いかがでしょうか。』というものなのだから、穏当で常識的な内容ではある。しかし、『「良いナショナリズム」と「悪いナショナリズム」があります』という一節に合点がいかない。かねてから、中日新聞社の姿勢には敬意をもっていただけに、一言せねばならない。

問題の箇所は、全体の論旨とは無関係な次の文章である。
『ナショナリズムには「良いナショナリズム」と「悪いナショナリズム」があります。オリンピックのような国際試合で自国選手を懸命に応援し、国旗掲揚や「君が代」斉唱で身が引き締まるのは「良いナショナリズム」です。だが相手国への反感から過激デモや破壊活動に走るのは「悪いナショナリズム」です。』

果たしてそうだろうか。こんなにあっさりと「良いナショナリズム」の存在を肯定して良いのだろうか。オリンピックのような国際試合で自国選手を懸命に応援し、国旗掲揚や「君が代」斉唱で身が引き締まるのは、本当に「良いナショナリズム」なのだろうか。

社会主義や共産主義が理念であるのに対して、資本主義は現実である。同じような意味で、インターナショナリズムは理念であるが、ナショナリズムは現実である。良くも悪くも、社会的政治的パワーとして実在する。ときに暴走し、暴発もする。煽動者にとって好都合の火種であり、燃料である。

ナショナリズムの厳密な定義は困難でもあり不要でもある。「国民を単位とする共同体的帰属意識」程度の認識でよい。現実の国民は、階級対立や、経済格差や、政治的思想的諸グループ間の亀裂を抱えている。深刻な地域間紛争もあり、文化的差別もある。各世代や性差の軋轢もある。ナショナリズムは、そのすべてを覆い隠す役割を果たす。典型的には経済格差の下層で呻吟する階層に、擬似的なアイデンティティを付与することによって、国民内部の諸矛盾を糊塗する。

ナショナリズムの対語の一つはインターナショナリズムである。感性によっては、インターナショナリズムは生まれないし育たない。理性的な他国民との交流と、意識的なナショナリズム克服の努力によって初めて、インターナショナリズムの存在が可能となる。相互理解のために、経済的発展や文化交流の進展のために、なによりも平和の構築のために、インターナショナリズムが価値をもつことは自明ではないか。翻って、ナショナリズムにいったいどのような価値があろうか。

もう一つのナショナリズムの対語はインディビジュアリズムである。国民一人ひとりの自立と個人の尊厳の自覚とが、それ自体価値を有することは自明である。ナショナリズムはその価値の対立物でしかない。
ナショナリズムに特有の被覆を剥ぎ落とし、インディビジュアリズムを純化し徹底することが、ナショナリズムを克服してインターナショナリズムを獲得する道程にほかならない。

ナショナリズムは、容易に排外主義となり侵略主義に転化する。他への攻撃を正当化し、攻撃の意欲を鼓舞する役割を果たす。これは、本質的作用と言って過言ではない。歴史的に「侵略のナショナリズム」があり、これに対抗する「抵抗のナショナリズム」もまた存在する。侵略が「悪」であることが自明である以上、悪への抵抗として有効に機能する側のナショナリズムを肯定的に評価するにやぶさかではないが、ナショナリズム自体に価値があるのではなく、ある局面では「善」の機能を発揮しうると見るべきだろう。

しかし、「オリンピックのような国際試合で自国選手を懸命に応援」することに、いったいどのような評価すべき価値があるというのだろうか。現実には多くの国民が自国選手を応援している。それがナショナリズムの作用である。だからといって、「それがよいこと」と評されるべきものでも、奨励されるべきものでもない。むしろ、危険性を孕むものとして警戒されなければならない。

試合をするのはあくまで選手個人でありチームである。自国選手と他国の選手、どちらを応援してもよいし、スポーツなどつまらんことと無視してもよい。「自国選手を懸命に応援する」のが正しくよいこと、などと押しつけてはいけない。マスメディアがナショナリズムを煽ってはならない。選手やチームと自分を同化して、選手が勝てば自分が勝利したような幻想に酔うことができるのが、この種のカラクリ。さらに、チームを通した国家と自分との共同幻想を生み出すことで、扇動的な為政者には格好この上ない仕掛けと映る。

『国旗掲揚や「君が代」斉唱で身が引き締まるのは「良いナショナリズム」』というのには唖然とするしかない。掲載紙が産経ではなく東京新聞であることを、改めて確認せねばならない。ここに、ナショナリズムの危険の本質が表れている。

もっとも、オリンピックでの国旗掲揚や「君が代」斉唱は当然のことであり推奨さるべきこととする考えは、おそらく圧倒的な社会的多数派のものであろう。しかし、多数派に対して少数者がいる。言うまでもなく、歴史認識や政治信条における理由から、また信仰上の理由から、あるいは日本という国家そのものや天皇制への批判から、日の丸・君が代の拒絶者は、少数ではあっても、確実に存在する。私もその一人だ。
閉じられた空間における多数派のナショナリズム発露としての示威の行為は、少数者に対する強力な同調要求圧力になる。「国旗掲揚や「君が代」斉唱に和するのは当然のことではないか」「どうして社会人として当然の態度を取らないのだ」「国際人としての常識にもとづいた行動をすべきだろう」「君の空気を読めない姿勢が全体の和を乱す」と。

問題は、このような社会的同調圧力を容認するのかどうかにある。かつて、「八紘一宇」「一億一心火の玉」とのスローガンが叫ばれた時代には、社会的同調圧力に応じない少数者は、非国民とされ、敵国のスパイとされた。人権とは、思想良心の自由とは、少数者に保障されなくてはならない。社会的多数派には不愉快であっても、国旗掲揚や「君が代」斉唱を強要することは許されない。これは、人権感覚の「キホンのキ」である。

オリンピックをダシにした日の丸・君が代強制許容の論調には我慢をしかねる。国際競技は、純粋に個人対個人、チーム対チームの競技の場とすべきであって、ナショナリズム昂揚の場とすべきではない。

私は、「良いナショナリズム」はないと思う。ナショナリズムが「比較的無害な作用」にとどまる場合や、ときには「侵略のナショナリズムに対峙する、抵抗のナショナリズム」として作用する場合があることは認めても、である。
右翼的立場を標榜するディアは格別、新聞倫理綱領の遵守を方針とする社の新聞が、『国旗掲揚や「君が代」斉唱で身が引き締まる』などと、社会の多数派と国家権力におもねった俗流記事を書くべきではない。このような記事の集積が権力に利用され、日の丸・君が代強制という思想良心の弾圧に手を貸していることこそを自覚すべきである。
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  『外国人の見た、明治の子どもの幸せ』
夏休みになって、子どもたちの元気な声が聞こえる。

明治期に来日した外国人には、日本人はよほど子どもを可愛がると思われたようだ。1878(明治10)年、イザベラ・バードは日光で、「これほど自分の子どもを可愛がる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手を取り、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。他人の子どもに対しても、適度に愛情をもって世話をしてやる。父も母も、自分の子に誇りをもっている。見て非常におもしろいのは、早朝、12,3人の男たちが、低い塀の下に集まって腰を下ろしているが、みな自分の腕の中に2歳にもならない子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵をみせびらかしていることである。」と感心している。これは都会だけでなく、田舎の碇ヶ関でも同じだ。

英国の母親は子どもを脅したり、騙したりして服従させるが、日本の親は穏やかで、子どもは親のいうことをよく聞き、菓子を与えても、親の許しを得てからでなければ受け取らない。子どもたちだけで、遊びを工夫して、仲良く遊ぶ。水車を作ったり、たこ揚げをしたり、竹馬をしたり、「いろはがるた」で遊ぶ。晩になると、学課のおさらいをする声が町中に聞こえる。

カブトムシに糸をつけて、荷物を引っ張らせる遊びをしているのをみて、こう言っている。「英国であつたら、われがちに掴みあう子どもたちの間にあって、このような荷物を運んでいる虫の運命がどうなるかよくお分かりでしょう。日本では、たくさんの子どもたちは、じっと動かず興味深げに虫の働きを見ている。『触らないでくれ』などと懇願する必要もない。」 

イザベラとほぼ同じ時期に来日した、アメリカ人生物学者の「御雇外国人」モースも同じことを言っている。「外国人が異口同音に指摘することがある。それは日本が子どもたちの天国だということだ。・・赤ん坊のときは始終、母親か誰かの背中に乗っている。罰もなく、咎めもなく、叱られることもなく、ガミガミ小言をいわれることもない。日本の子どもが受ける寵愛と特典を考えると、確かに彼らは甘やかされて駄目になってしまいそうに思えるが、とんでもない。日本の子どもほど両親を敬愛し、老人を尊敬するものは世界中どこを探してもいない。」「子どもたちのニコニコ顔から察すると、朝から晩まで幸福であるらしい。彼らは朝早く学校に行くか、家にいて親を助けて家内の仕事をするか、父親とともに何らかの商売をしたり、店番をしたりする。彼らは満足げに幸せそうに働く。私はすねている子どもや体罰を見たことがない。」

さて、今の世。夏休みに元気な声を出している子どもたちは、150年前の子とくらべて幸せだろうか。塾や習い事に追い立てられてはいないか。学校では、いじめや体罰が横行してはいないだろうか。
また、子どもの幸せは実は大人の幸せでもある。私たちの社会は、150年前にくらべてどれだけ幸せになっているだろうか。

(2013年8月11日)

ノーモア「ヒロシマ・ナガサキ・ウォー・ヒバクシャ」

「8月は、6日9日15日」
句というほどのものではない。しかし、なるほど、言われてみればまったくそのとおり。誰がいつころ最初に呟いたのやら。

「原水爆禁止2013年世界大会」は、6日をメインに「広島集会」、9日をメインに「長崎集会」として開催された。今年の大会は、9条改憲、原発再稼動、オスプレイ配備などの反対運動と呼応して、大きな盛り上がりを見せたと報じられている。初参加の若者が多かったとのことが、まことに心強い。

また、8月9日には、恒例の長崎市主催「平和祈念式典」が行われた。そこで田上富久市長が読み上げた平和宣言がこの上なく素晴らしい。

すぐれた文章には力がある。人を感動させ、人を動かす力。疑いなく、「平和宣言」はそのような力をもっている。聴く者に感動を与えてやまない。読む者に、核廃絶のために何かをしなければという気持を湧き起こさせる。

「宣言」は、1発の原子爆弾投下による被害の悲惨さを語ったあと、「このむごい兵器をつくったのは人間です。広島と長崎で、二度までも使ったのも人間です。核実験を繰り返し地球を汚染し続けているのも人間です。人間はこれまで数々の過ちを犯してきました。だからこそ忘れてはならない過去の誓いを、立ち返るべき原点を、折にふれ確かめなければなりません。」

「宣言」は、「忘れてはならない過去の誓い」「立ち返るべき原点」を抽象的な教訓として述べているのではない。式典に列席して、耳を傾けざるを得ない立ち場の安倍首相に向かって、堂々とこう言っている。

「日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。
今年4月、ジュネーブで開催された核拡散防止条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に80カ国が賛同しました。提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。
しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。
インドとの原子力協定交渉の再開についても同じです。
NPTに加盟せず核保有したインドへの原子力協力は、核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めたNPTを形骸化することになります。NPTを脱退して核保有をめざす北朝鮮などの動きを正当化する口実を与え、朝鮮半島の非核化の妨げにもなります。
日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます。」

そのとおり。日本政府は既に数々の過ちを犯している。忘れてはならない被爆国としての原点を忘れてしまっている。9条を改悪して戦争のできる国にしたいというのが安倍のホンネだ。そのホンネは、そもそも核廃絶という発想になじまない。その安倍の耳に2度繰り返された、「日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます」とのフレーズ。さぞかし左右とも耳の痛みは大きかったことだろう。

また、市長は若者に向かって、こう呼び掛けている。
「若い世代の皆さん、被爆者の声を聞いたことがありますか。「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と叫ぶ声を。
68年前、原子雲の下で何があったのか。なぜ被爆者は未来のために身を削りながら核兵器廃絶を訴え続けるのか。被爆者の声に耳を傾けてみてください。そして、あなたが住む世界、あなたの子どもたちが生きる未来に核兵器が存在していいのか。考えてみてください。互いに話し合ってみてください。あなたたちこそが未来なのです。」

「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」は、なによりも「ノーモア・ウォー」と緊密に結びついている。被爆者の願いは、「報復の核兵器を持たねばならない」ではない。「惨めな敗戦ではなく、戦いには勝利を」でも、「抑止力としての武力を蓄えよう」でもない。報復でも抑止でもなく、広島・長崎の悲劇をこの世からなくすことなのだ。核もなくし、戦争もなくする。一切の軍事力を根絶した平和な世界をつくること。憲法9条の指し示す平和の実現、それこそが被爆者の祈りである。

そして、「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」は、いま「ノーモア・ヒバクシャ」ともしっかりと結びついている。被爆者は、被曝者でもあり、「ヒバクシャ」でもある。核兵器による放射線被害も、原発事故による放射線被害も変わるところがない。反核と反原発、ともに国民的課題である。

2013年の「8月は、6日9日」までが終わった。印象的な暑さの中で。

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  『渚にて?人類最後の日』(ネヴィル・シュート著 創元SF文庫)
1957年作。米ソだけでなく、核爆弾をもってしまった小国が入り乱れて、偶発事故から核戦争を起こしてしまう。北半球で4700発もの核爆弾が使われ、1年もたたないうちに、北半球の人類は死滅する。かろうじて残ったオーストラリアでの話。座して死の運命を待つ人々の物語。

たまたま潜水していたがために汚染を免れたアメリカの原子力潜水艦が、オーストラリア軍の指揮下に入り、迫り来る放射能禍と壊滅した北半球の放射能被害状況を偵察に出かける。目標は、謎のラジオ電波が発信されてくるシアトル。万難を排して上陸してみると、打電キーに風に揺れた窓枠がふれていただけとわかる。2年間もメンテナンスされていない、電源やキーが生き延びていたということ。テーブルを囲んでパーティーの最中の人々がそのまま死んでいるのに。

潜水艦に乗り組むオーストラリア軍士官たちの家族、アメリカ軍の原潜艦長を通して、刻々と近づく放射能の風と、避けられない死が語られる。
希望も闘いもない。そんなとき、この人たちは、子どもの成長を喜び、ベビーサークルを手に入れ、来年のために家庭菜園を計画し、たくさんの水仙を植える。飲んだくれていた女性はタイプを習い始める。ガソリンが不足するので、自転車や馬車に乗る。原潜艦長はアメリカのコネチカットに残してきた家族に、絶対に生きていないことは解っているのに、妻にアクセサリ、子どもにおもちゃを入手する。
一時の感情に溺れることはない。理性的で自制的で物静かに、周りの人々を思いやる。最後は、配られた薬を服用して、自死していく。

そして地球上に人間はひとりもいなくなった。

以前に読んだときは、あまりの恐ろしさと寂しさに、これは人間の尊厳について語られた物語だと読んで慰めを見いだそうとした。今回は、絶望だけが残った。
安倍首相が長期休暇をとってゴルフをしている姿が報道されている。広島でも長崎でも「核爆弾は絶対悪」ということをどうしても認めようとしない安倍首相にこそ、読んでもらいたい物語りである。

 このいやはての集いの場所に
 われらともどもに手さぐりつつ
 言葉もなくて
 この潮満つる渚につどう

 かくて世の終わり来たりぬ
 かくて世の終わり来たりぬ
 地軸くずれるとどろきもなく ただひそやかに
T・S・エリオット(井上勇訳)
(2013年8月10日)

この薄汚い手口は「改憲クーデター」ではないか

内閣法制局長官に外務省から小松一郎氏起用という異例の人事は、昨日(8月8日)の閣議で本決まりとなった。発令は、今月20日の予定という。小松氏は、第一次安倍内閣で安保法制懇の事務方を務めた人物。「法制局長官の首のすげ替えによる集団的自衛権容認への解釈変更」という、薄汚い解釈改憲「手口」の工程がいよいよ始動である。

この安倍流「手口」のうす汚さは際立っている。先に、96条先行改憲論では、「本末転倒」「姑息」との批判噴出で、安倍も譲歩を余儀なくされた。心強いのは、その運動の過程で、国民もメディアも立憲主義や憲法が硬性であることの意味について学んだことだ。ならば、96条改憲にもまして遙かに汚い今回の「手口」を、学びの成果を踏まえた国民運動で挫折させ、再度安倍の意図を封じることができないはずはない。

96条先行改憲論に対する「本末転倒」「姑息」という批判は、今回の「手口」に対するものとしては生温く不適切と言わざるを得ない。本日の赤旗に躍った見出しは「改憲クーデター」であり、「裏口改憲」である。朝日には、「解釈改憲は邪道」。そして、毎日のインタビュー記事の中から、「法治ではなくて人治だ」という指摘。

9条改憲の手続には、96条所定の改憲手続に則った発議と国民投票が必要とされている。これが憲法改正の正道であり、表口の攻防でもある。しかし、その困難なことは、誰の目にも明らかだ。そこで、まず96条を先行改憲して改憲手続のハードルを下げておいての改憲が試みられた。安倍自民と橋下維新との合作の「手口」である。ところが、「本末転倒」「姑息」と大きな批判を浴びて撤退を余儀なくされている。次の手口は、国家安全保障基本法制定による「立法改憲」である。これで、憲法9条を事実上死文化させることができるという思惑。しかし、これだって衆参両議院での論戦と各議院過半数の賛成を得なければならない。ところが、法制局長官の首のすげ替えでこれまでの憲法解釈を変えてしまうことによる実質改憲は、国会の承認すら不必要。内閣限りで可能なことなのだ。

各議院の3分の2も、国民投票の過半数も、そして議会過半数の議決すら不要にしての「内閣限りでの実質9条改憲」は、まさしく「改憲クーデター」であり、「邪道」と言わざるを得ない。表口を避けた「裏口改憲」でもあり、安倍と小松による「人治」でもある。うまい手というよりは、この上ないあきれた薄汚い「手口」。しかも、危険極まる。「改憲クーデター」「裏口改憲」「邪道」「人治」。いずれも本質を衝いて批判のネーミングとして素晴らしい。著作権などはありえない。みんなで大いに使って、これをはやらせよう。

ところで、ときに硬骨漢に出会う。大言壮語はしないが、節を曲げず、理不尽には昂然と顔を上げてものを言う。敢えて、火中の栗を拾うことを厭わないその姿勢が清々しい。

本日の朝日と毎日両紙に、阪田雅裕元内閣法制局長官のインタビュー記事が掲載されている。言葉は穏やかだが、内閣法制局の憲法解釈の見直しの動きを真っ向批判する内容の発言。朝日では、集団的自衛権の行使容認と9条2項の整合性について、「憲法全体をどうひっくり返してもその余地がない」と言っている。毎日でも、「集団的自衛権を認めると、9条の意味がなくなる。国民の考える平和主義と整合するか疑問」と言う。
本質的な批判であって、しかも分かりやすく、徹底している。「元法制局長官」の発言として、このインパクトは大きい。

朝日の記事の末尾に次の阪田氏発言がある。
??法制局は首相の意向に沿って新たな解釈を考えざるを得ないのでは?
「そうですね。僕らも歴代内閣も全否定される」

さもありなん。それでよかろうはずはない。阪田氏だけではなく、他の歴代長官も、歴代総理もそれぞれに発言あってしかるべきではないか。なにしろ、この「改憲クーデター」によって、「僕らも歴代内閣も全否定される」ことになるのだから。

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  『セミの声』
いま、ニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミが我がちに鳴いてうるさいこと限りがない。暑さをいっそうかき立てるように、ジージーという声とミーンミーンという声が混ざり合って、ひっきりなしに聞こえる。夜中にだって、網戸に取り付いて鳴いている。窓のすぐそばの枝にミンミンが止まって鳴き始めると最悪だ。7日間の短い命に対する哀れ心はなくなって、思わず「うるさい」と怒鳴って木を揺すって追い払う。

どうしてあの小さな体から、あんな大きな声が出るんだろう。それより、何のために必死に鳴くのか。ファーブル大先生も興味をかき立てられた。「それはつれを招き寄せる雄の訴えであり、恋い焦がれるもののカンタータであると」いう説には納得できない、と言っている。プラタナスの幹に雄と雌がたくさん集まって樹液を吸っているときに、大音声で鳴く雄の歌はまったく雌を魅了しない。「求婚者のあのひっきりなしの告白は、何の足しにもならない」。

そこで実験をしてみた。セミが止まって鳴いているプラタナスの木の下で、村役場の大砲をぶっ放したのだ。「上の方では何の騒ぎも起こらない。演奏者の数は同じであり、律動も同じであり、音量も同じである。・・強大な爆音もセミの歌に何の変化も起こさなかった」「発砲に少しも驚かず、動ずることもない、このオーケストラの変わらぬ態度をどう見たらよいのか。セミは耳が聞こえないのであると推論したものであろうか」。結局「もしも誰かが、セミはただ生きていると感じる喜びのためだけに、その音を立てる機関を動かすのであって、自分の出す音には無頓着だ、ちょうど我々が満足しているときに両手をすりあわせるのと同じである、と主張したとしても私は別に反対はしないであろう」とあきれている。

雄の耳が聞こえないなら、雌の耳にも恋の歌は届くはずはなく、ただただはた迷惑も考えず、生を謳歌しているだけなのだろうか。ファーブル先生にも解けない謎はある。

そして、ファーブル先生も知らないことはある。「素数ゼミ」のことだ。アメリカには、北部に17年ゼミ、南部に13年ゼミが生息する。幼虫として各々17年、13年のあいだ、土の中で過ごす、一番長生きな昆虫だ。2種類のセミが一緒に羽化するのは、17×13=221年に一回しかない仕組みになっている。今年は17年前の1996年に17年ゼミが発生した北部の町(地域)が、セミだらけになる。何十億匹のセミが羽化して、7日間の生を楽しむ。木の下にうっかり立っていれば、セミのオシッコでびしょ濡れになる。一斉に鳴くとジェット機の爆音のようだという。でもその町の住人は、一生に何回も会えない風物詩として、楽しみにしているらしい。

いたるところを埋め尽くすセミは鳥やネズミの餌になるだけではなく、人間様のおなかにもおさまる。幼虫はフライパンで蓋をして、バターで煎って、ポップコーンになる。ある昆虫学者は「セミはステーキより高タンパクで低脂肪でおいしい」と絶賛している。セミをコーティングしたチョコレート菓子も期間限定で売り出される。

うちの庭のセミは7年ゼミで毎年毎年はやけてくるので、ありがたみが薄い。今度は、「あんまりうるさいと食っちゃうぞ」と言ってみようか。
(2013年8月9日)

労働者は朝礼の唱和を拒否できないのか?

TPPや消費税、あるいはNHK問題などで師と仰ぐ醍醐聰さんから、「従業員は朝礼の唱和を拒否できないのか?」という問題提起のメールをいただいた。詳細は、下記の醍醐さんのブログをご覧いただきたい。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-d072.html

大要は、「職場の朝礼で『唱和』を拒否した労働者が懲戒解雇され、その解雇の無効を訴えた裁判で労働者は勝訴した」「しかし、勝訴の理由は業務への支障の有無という企業側の観点からの評価に終始している」「どうして、労働者の側の『自分の意に沿わない言動を拒む』という人格権を認め、人間としての尊厳を尊重するという視点からの問題把握とならないのか」という怒りのご指摘。判決を言い渡した裁判官だけでなく、サイトで労働者の立ち場で判例解説をした弁護士を含め、「法曹界の体質もまた、ブラック企業をまかり通らせる一因になっているのではないか」とのきついお叱り。

「まことにおっしゃるとおり」と申し上げるよりほかはない。法曹界にそのようなご指摘、ご叱声をいただくことにも感謝したい。確かに、「勝訴したから、十分ではないか」では済まない。何がしかをコメントせねばならないが、労働契約に関する解説や意見は敬して遠ざけ、憲法上の観点だけを述べてみたい。

その事例で使用者が強制した唱和の内容は、「理事長の下に固く結束し」というもの。労働者はどうしてもこれを口にすることができずに解雇された。「使用者がこのような唱和の強制をする権限があるか」「労働者がこのような唱和を拒否できるか」の両面についての考察が必要となる。

使用者側から見れば、「職場の結束の重要性について労働者に自覚を促す」ことが使用者の権限として許されないはずはない。労務指揮権の具体的な内容として認められて当然との思い込みがあろう。「職場にチームワークが必要なのは自明なこと」「そもそも、『以和為貴(和を以て貴しとなす)』は普遍的真理ではないか」と考えていたとも思われる。

聖徳太子非実在説が通説化しつつあるようだが、「十七条の憲法」は我が国最古の法典として史書(日本書紀)に名をとどめている。ここでの「憲法」は近代以後の、立憲主義に基づく憲法とはおよそ別もので、「公務員心得」程度のものでしかない。権力者の立ち場から臣従する者の心得を説いて、今の世の規範としては読むに耐えない。とりわけ「和を以て貴しとなす」は、続けて「無忤為宗(逆らうことなきを旨とせよ)」と言っているとおり、「上から押しつける秩序」の維持を目的とするもので、近代憲法から見て到底許容しがたい代物。これを現代においても、「便利な規範」として使おうというアナクロの不心得者が後を絶たず問題を起こしている。

自民党改憲草案の前文に、「日本国民は、…『和を尊び』、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」という不気味な一節がある。党の公式解説である「改正草案Q&A」では、「党内議論の中で『和の精神は、聖徳太子以来の我が国の徳性である。』という意見があり、ここに『和を尊び』という文言を入れました」と明記している。

自民党にとっても、使用者にとっても、『和の精神』、『和を貴び』は、自明の徳目であるようだが、彼らが考える「和」とは、強者が形成した秩序に弱者が抵抗せずに従順に服することを意味している。「十七条の憲法」に通底する「和」とは、一読すれば分かるとおり、天皇制政府が百卿群臣の自発的服従を得て秩序が確立されている状態を理想とするもの。強者が弱者に対して強制する「和」とは、強者の想定する秩序を維持する「和」でしかなく、対等者間の「和」には強制の要素がはいりこむ余地がない。

「固く結束する」という唱和の強制は、使用者から労働者に対してなされる「企業秩序としての和」への服従の強制にほかならない。換言すれば、「文句をいわずに、企業主の利益のために働きます」という精神を一斉に口頭表現することの強制である。私は、そのような強制は、対等者間の労働契約の本質にはずれた強制として効力をもたないと信じて疑わない。

法的な意味において、人と人とは対等であり、本来人は他者に対して強制する権限を持たず、何人も他者から強制されることはない。強制力は、国民が権限を与えた権力の作用と、契約の効果としてのみある。強制権限のあるところ、強者の横暴を許容することはできず、弱者には法的保護が与えらなければならない。

往々にして、「共同で行動する以上は、中心に立つ者に強制の権限が必要」とか、「組織である以上は、強制力がなければ運営はできない」などという不見識が軽々に語られる。こういう心根が「ブラック企業をまかり通らせる一因になっている」ことに疑いがない。人の人に対する強制という作用が、人を傷つける側面を軽んじてはならない。権力にも企業にも、そして社会のあらゆる場面で厳格に強制力の行使を監視し制約しなければならない。

労働者各人において、「理事長の下に固く結束し」の唱和の捉え方は一様ではない。ある人にとっては、そのような唱和は自己の精神活動に何の影響も感じられない。また、ある人には、不愉快だが我慢ができる範囲であると感じられる。しかし、自分のプライドに懸けてそのような唱和はできないとする人もあろう。

強制される内容が、被強制者の信仰を傷つけるものであれば憲法20条の信教の自由を根拠とし民法90条(公序良俗違反の法律行為の無効)や民法1条3項(濫用された権利の効果否定)を媒介とした救済が可能である。また、被強制者の思想・良心を傷つけるものであれば憲法19条を根拠とすることになる。しかし、「理事長の下に固く結束し」の唱和は、一般的には、信仰や思想良心の自由を侵害しているとは言いにくいだろう。とすれば、憲法13条の個人の尊厳ないしは幸福追求権を根拠に、『自分の意に沿わない言動を拒む』ことが認められないかが問題となる。

憲法13条の幸福追求権は、通説的には「個人の人格的生存に不可欠な利益を内容とする権利の総体を言う」(人格的利益説)とされている。この「権利の総体」を具体化したものが、名誉権、肖像権、プライバシー権、環境権、日照権、平和的生存権等々という新しい権利となる。「みだりに自分の意に沿わない言動を拒む権利」も、「個人の人格的生存に不可欠な利益」である限り、幸福追求権の一環として認められてよい。

また、「個人の人格的生存にかかわる重要な私的事項については、公権力の介入干渉なしに各自が自律的に決定できる自由」を自己決定権ないし人格的自立権と呼ぶ。『自分の意に沿わない言動について、強者の強制を拒む権利』は、人格的自立権の範疇でとらえることが可能である。

もっとも、まだそのような判例があるわけではない。訴訟では、実務家は確実に勝つ手段を選ぶ。困難な一般的権利の創造よりは、目の前の労働者の生活の救済が優先する。やはり、解雇権濫用の法理で勝訴判決を得る努力にもそれなりの敬意をはらうべきだとは思う。

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  『止まってください、原発の汚染水』
悪いもの、汚れたものは「水」に流す。「水」はなんでも飲み込んで、無いものにしてくれる。日本人は昔からそう思っていたし、そうしてきた。でもそんな手品はできやしない。
製紙工場が垂れ流した「田子の浦ヘドロ公害」、あちこちの川や湖を魚も鳥も住めなくした中性洗剤や農薬、足尾銅山の鉱毒を沈殿した渡良瀬遊水池、チッソの垂れ流した有機水銀による水俣病などなど。思いだしただけでも、吐き気がする。これらは氷山のほんの一角。

我々は懲りずに、反省もせずに、次から次と有害なものを「水」に流して、経済成長を追い求めてきた。そして行き着いた先が、にっちもさっちもいかない「原発汚染水」。
事故を起こした福島第1原発。最初は原子炉内の溶けた核燃料を冷やすためにかけ続けなければならない「水」。そこへ地下水が毎日400トン流れ込む。これはみんな汚染水になって海に流せないので貯めざるをえない。あっという間に、タンクはいっぱい。そこで地下貯水槽を掘った。13000トンを7つ。ところが、その水槽の防水ポリエチレンシートに穴が開いていて、汚染水は漏れ出した。慌てて、容量1000トンの金属タンクを作って移した。見上げるような大きなタンクだけれど、2日半でいっぱいになる。タンクは作っても作っても間に合わない。もうすぐ40万トン、小学校のプール1000杯分に迫っている。原発の敷地の木を切り倒して、置き場を作っても、すぐに満杯。写真で見てもすごい量のタンクがずらりと並んでいて、息をのむ情景だ。それが、ついこの間までの状態。

それだけでも大変なのに、海側の敷地の地下に張り巡らされたトンネルのなかの高濃度(ハンパじゃない。23億ベクレルなどという数字が出ている。)汚染水問題が明らかになった。7月22日東電は、そこに地下水が流れ込んでいて、その汚染水が海に流出していることをしぶしぶ認めた。8月7日には、政府の原子力対策本部も、その流出量は1日300トンと試算した。経産省の担当者は「事故直後から流出している可能性を否定できない」と認めた。今までの400トンでも手に余っていたのに、700トンになったらどうしたらいいのだろう。

今まで東電任せで見て見ぬふりをしていた政府も、事ここにいたって、やっと汚染水対策に乗り出した。2014年度予算に盛り込む方針だとのこと。大手ゼネコン鹿島が提案している、凍土遮水壁方式を採用するらしい。福島第一原発の敷地をぐるりと囲んで、地中に凍った氷の壁を築いて、地下水の流入を防ぐというのだが、本当にそんなことができるのだろうかと思う。工事費は400億円ぐらい。これで止まるなら安いものだ。1日も早く着手してほしい。費用は政党助成金の1年分とちょっと。これを充てればよかろうと思うのだが。
(2013年8月8日)

政権が交代しても、憲法解釈は一貫しなければならない

本日の朝日「声」欄は読み応え十分。標題だけを拾えば、「与党の民意のねじれが問題だ」「米軍ヘリ墜落 日本は属国か」「欧州で知ったナチスへの反省」「医薬品業界の利権体質改めよ」「『赤紙』で帰らなかった若者」「仕事優先の35年を振り返る」「パラリンピックにもっと注目を」というもの。いずれも、日本の良識はいまだに健在と意を強くさせてくれる。

中でも出色なのが、「新法制局長官 平和国家危うく」という、西川慎一さん(大学教員)のご意見。大意は、小松一郎駐仏大使の法制局長官起用という伝えられた人事の異例さを指摘の上、「安倍首相は、小松氏起用で集団的自衛権の解釈を都合よく変えようというのだろうが、短絡的な手法ではないか」と批判し、「集団的自衛権の行使を認めないことで、自衛隊を辛うじて軍隊とは異質の存在とし、日本が平和国家としての対外的信用を得てきた事実を忘れてはならない」と結論するもの。

とりわけ注目すべきは、「内閣法制局の誇りは、『いかに政権が変わっても解釈は不変である』というものだ。法令解釈が政権におもねって決められてはならない」という、いかにも研究者らしいご指摘。

官僚に「誇り」あることは当然。立法や法解釈に携わる専門職であればなおさらのこと。「誇り」は、命じられるとおりの解釈をしてみせる技術からは生まれない。憲法や法律の理念を見極め、その理念にしたがった解釈を貫くことこそが「誇り」の源泉である。そのような、「誇り」を伴った法解釈は、必然的に「政権が変わっても不変」となる。誇りをもってする解釈だから不変でもあり、不変であることが誇りにもなる。

ところが、なんとなく、「政権が変われば、法の解釈も変わるのが当然」という論法に巻き込まれてしまいかねない。とりわけ、「憲法解釈などは大きな幅がある。民意を獲得した政権が、民意を踏まえて法の解釈を変更することに不都合はない」という開き直りの一般論に反論を躊躇しがちだ。

西川慎一意見は、政権の交替を超えた憲法解釈の不変性・一貫性こそが内閣法制局の任務であることを喝破している。憲法制定権力によって制定された成文憲法にいささかの変更もない以上、交代した政権の恣意的な解釈による実質的な改憲を許してはならない。行政全体の法解釈をつかさどる立ち場にある内閣法制局は、いまこそ自らの任務を深く自覚しなければならない。

憲法に矛盾する立法によって、実質的に憲法を無力化する「立法府による改憲」が法の下克上として許容しえないことは自明である。ましてや、行政府の憲法解釈の変更によって、憲法の根幹を揺るがす「行政府による実質的改憲」が許されてよかろうはずはない。

先に、「96条先行改憲論」が立憲主義をないがしろにする姑息な手法として、大きな世論の叱責を受けた。この度の内閣法制局長官の交代人事による解釈改憲の「手口」は、姑息さという点では、遙かにこれを凌ぐ。西川意見に続いて、法制局長官の首のすげ替えによる解釈改憲を糾弾する大きな声を上げよう。至るところで、自分の言葉で、自分流に。
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   『手に負えない、水の反乱』
「水は天からもらい水」。だから、鷹揚にジャブジャブ使うか、有り難がって大切に使うか。日本は降水量が多いというのは間違いらしい。年平均1700?と世界平均の2倍雨が降るのは正しい。しかし、国土が狭くて人口が多いので、ひとり当たり降水量は5000?で世界平均の3分の1という計算になる。たいして恵まれているわけではない。やっぱり、水は大切に使わなくてはならないのが正解。

100ミリ豪雨が都心を急襲した翌日、7月24日から関東6都県で10%の取水制限が始まった。隅田川花火中止の土砂降りを思い出しても、雨がよく降っている印象なのにと、首をかしげたくなる。

首都圏は利根川と荒川と多摩川の3水系を水源としている。そのなかで最もたくさん水を恵んでくれるのは利根川だ。その上流にある矢木沢ダムなど、8つのダムの貯水率が6割ちかくまで落ちている。東京に雨が降っても、群馬県に降ってくれないと、東京が渇水する。暖冬で雪解けが早かったことと、関東の梅雨明けが早かったことも、ダムに水が貯まらない原因らしい。そのうえ、気象庁の予報では8月前半、雨が少ないということなので、取水制限が給水制限になる恐れが充分ある。

ダムの水は生活だけでなく、農業にも工業にも使われている。キャベツやレタスをはじめとして、野菜全般値上がりをしている。田圃に水が不足すると、受粉ができず、お米がしいな米になって収量が減ってしまう。農業の一大事だ。

東京都民は生活用水として、1人1日240リットル使っている。2年前、放射能含有を恐れて、飲み水、炊事用水に困った。今回、給水制限になれば、炊事ぐらいはできるだろうが、トイレ、風呂、洗濯が制限される。ひさしく経験したことのない非常事態だ。

生活に欠かせない水道光熱のなかで、なくなったら命に関わるほど困るのは「水」。原発の停止で、電気代はうなぎ登り。円安のせいで、ガス代も値上げ。そこへいくと、水は安くて値上げもない優等生だ。大切に使わないと、水がストライキを起こすかもしれない。いやもう、大暴れをはじめたのかもしれない。福島原発で放射能汚染水になって。どうしたらいいか解らないほど恐ろしい。
(2013年8月7日)

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