本日(8月11日)の東京新聞社説が、ナショナリズムを論じている。
標題が「ナショナリズムを超えて」であり、結論が『「ナショナリズムよりヒューマニズム」「海洋資源の共同開発、共同利益」。この二つが中韓両国との関係打開へのキーワードに思えますが、いかがでしょうか。』というものなのだから、穏当で常識的な内容ではある。しかし、『「良いナショナリズム」と「悪いナショナリズム」があります』という一節に合点がいかない。かねてから、中日新聞社の姿勢には敬意をもっていただけに、一言せねばならない。
問題の箇所は、全体の論旨とは無関係な次の文章である。
『ナショナリズムには「良いナショナリズム」と「悪いナショナリズム」があります。オリンピックのような国際試合で自国選手を懸命に応援し、国旗掲揚や「君が代」斉唱で身が引き締まるのは「良いナショナリズム」です。だが相手国への反感から過激デモや破壊活動に走るのは「悪いナショナリズム」です。』
果たしてそうだろうか。こんなにあっさりと「良いナショナリズム」の存在を肯定して良いのだろうか。オリンピックのような国際試合で自国選手を懸命に応援し、国旗掲揚や「君が代」斉唱で身が引き締まるのは、本当に「良いナショナリズム」なのだろうか。
社会主義や共産主義が理念であるのに対して、資本主義は現実である。同じような意味で、インターナショナリズムは理念であるが、ナショナリズムは現実である。良くも悪くも、社会的政治的パワーとして実在する。ときに暴走し、暴発もする。煽動者にとって好都合の火種であり、燃料である。
ナショナリズムの厳密な定義は困難でもあり不要でもある。「国民を単位とする共同体的帰属意識」程度の認識でよい。現実の国民は、階級対立や、経済格差や、政治的思想的諸グループ間の亀裂を抱えている。深刻な地域間紛争もあり、文化的差別もある。各世代や性差の軋轢もある。ナショナリズムは、そのすべてを覆い隠す役割を果たす。典型的には経済格差の下層で呻吟する階層に、擬似的なアイデンティティを付与することによって、国民内部の諸矛盾を糊塗する。
ナショナリズムの対語の一つはインターナショナリズムである。感性によっては、インターナショナリズムは生まれないし育たない。理性的な他国民との交流と、意識的なナショナリズム克服の努力によって初めて、インターナショナリズムの存在が可能となる。相互理解のために、経済的発展や文化交流の進展のために、なによりも平和の構築のために、インターナショナリズムが価値をもつことは自明ではないか。翻って、ナショナリズムにいったいどのような価値があろうか。
もう一つのナショナリズムの対語はインディビジュアリズムである。国民一人ひとりの自立と個人の尊厳の自覚とが、それ自体価値を有することは自明である。ナショナリズムはその価値の対立物でしかない。
ナショナリズムに特有の被覆を剥ぎ落とし、インディビジュアリズムを純化し徹底することが、ナショナリズムを克服してインターナショナリズムを獲得する道程にほかならない。
ナショナリズムは、容易に排外主義となり侵略主義に転化する。他への攻撃を正当化し、攻撃の意欲を鼓舞する役割を果たす。これは、本質的作用と言って過言ではない。歴史的に「侵略のナショナリズム」があり、これに対抗する「抵抗のナショナリズム」もまた存在する。侵略が「悪」であることが自明である以上、悪への抵抗として有効に機能する側のナショナリズムを肯定的に評価するにやぶさかではないが、ナショナリズム自体に価値があるのではなく、ある局面では「善」の機能を発揮しうると見るべきだろう。
しかし、「オリンピックのような国際試合で自国選手を懸命に応援」することに、いったいどのような評価すべき価値があるというのだろうか。現実には多くの国民が自国選手を応援している。それがナショナリズムの作用である。だからといって、「それがよいこと」と評されるべきものでも、奨励されるべきものでもない。むしろ、危険性を孕むものとして警戒されなければならない。
試合をするのはあくまで選手個人でありチームである。自国選手と他国の選手、どちらを応援してもよいし、スポーツなどつまらんことと無視してもよい。「自国選手を懸命に応援する」のが正しくよいこと、などと押しつけてはいけない。マスメディアがナショナリズムを煽ってはならない。選手やチームと自分を同化して、選手が勝てば自分が勝利したような幻想に酔うことができるのが、この種のカラクリ。さらに、チームを通した国家と自分との共同幻想を生み出すことで、扇動的な為政者には格好この上ない仕掛けと映る。
『国旗掲揚や「君が代」斉唱で身が引き締まるのは「良いナショナリズム」』というのには唖然とするしかない。掲載紙が産経ではなく東京新聞であることを、改めて確認せねばならない。ここに、ナショナリズムの危険の本質が表れている。
もっとも、オリンピックでの国旗掲揚や「君が代」斉唱は当然のことであり推奨さるべきこととする考えは、おそらく圧倒的な社会的多数派のものであろう。しかし、多数派に対して少数者がいる。言うまでもなく、歴史認識や政治信条における理由から、また信仰上の理由から、あるいは日本という国家そのものや天皇制への批判から、日の丸・君が代の拒絶者は、少数ではあっても、確実に存在する。私もその一人だ。
閉じられた空間における多数派のナショナリズム発露としての示威の行為は、少数者に対する強力な同調要求圧力になる。「国旗掲揚や「君が代」斉唱に和するのは当然のことではないか」「どうして社会人として当然の態度を取らないのだ」「国際人としての常識にもとづいた行動をすべきだろう」「君の空気を読めない姿勢が全体の和を乱す」と。
問題は、このような社会的同調圧力を容認するのかどうかにある。かつて、「八紘一宇」「一億一心火の玉」とのスローガンが叫ばれた時代には、社会的同調圧力に応じない少数者は、非国民とされ、敵国のスパイとされた。人権とは、思想良心の自由とは、少数者に保障されなくてはならない。社会的多数派には不愉快であっても、国旗掲揚や「君が代」斉唱を強要することは許されない。これは、人権感覚の「キホンのキ」である。
オリンピックをダシにした日の丸・君が代強制許容の論調には我慢をしかねる。国際競技は、純粋に個人対個人、チーム対チームの競技の場とすべきであって、ナショナリズム昂揚の場とすべきではない。
私は、「良いナショナリズム」はないと思う。ナショナリズムが「比較的無害な作用」にとどまる場合や、ときには「侵略のナショナリズムに対峙する、抵抗のナショナリズム」として作用する場合があることは認めても、である。
右翼的立場を標榜するディアは格別、新聞倫理綱領の遵守を方針とする社の新聞が、『国旗掲揚や「君が代」斉唱で身が引き締まる』などと、社会の多数派と国家権力におもねった俗流記事を書くべきではない。このような記事の集積が権力に利用され、日の丸・君が代強制という思想良心の弾圧に手を貸していることこそを自覚すべきである。
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『外国人の見た、明治の子どもの幸せ』
夏休みになって、子どもたちの元気な声が聞こえる。
明治期に来日した外国人には、日本人はよほど子どもを可愛がると思われたようだ。1878(明治10)年、イザベラ・バードは日光で、「これほど自分の子どもを可愛がる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手を取り、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。他人の子どもに対しても、適度に愛情をもって世話をしてやる。父も母も、自分の子に誇りをもっている。見て非常におもしろいのは、早朝、12,3人の男たちが、低い塀の下に集まって腰を下ろしているが、みな自分の腕の中に2歳にもならない子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵をみせびらかしていることである。」と感心している。これは都会だけでなく、田舎の碇ヶ関でも同じだ。
英国の母親は子どもを脅したり、騙したりして服従させるが、日本の親は穏やかで、子どもは親のいうことをよく聞き、菓子を与えても、親の許しを得てからでなければ受け取らない。子どもたちだけで、遊びを工夫して、仲良く遊ぶ。水車を作ったり、たこ揚げをしたり、竹馬をしたり、「いろはがるた」で遊ぶ。晩になると、学課のおさらいをする声が町中に聞こえる。
カブトムシに糸をつけて、荷物を引っ張らせる遊びをしているのをみて、こう言っている。「英国であつたら、われがちに掴みあう子どもたちの間にあって、このような荷物を運んでいる虫の運命がどうなるかよくお分かりでしょう。日本では、たくさんの子どもたちは、じっと動かず興味深げに虫の働きを見ている。『触らないでくれ』などと懇願する必要もない。」
イザベラとほぼ同じ時期に来日した、アメリカ人生物学者の「御雇外国人」モースも同じことを言っている。「外国人が異口同音に指摘することがある。それは日本が子どもたちの天国だということだ。・・赤ん坊のときは始終、母親か誰かの背中に乗っている。罰もなく、咎めもなく、叱られることもなく、ガミガミ小言をいわれることもない。日本の子どもが受ける寵愛と特典を考えると、確かに彼らは甘やかされて駄目になってしまいそうに思えるが、とんでもない。日本の子どもほど両親を敬愛し、老人を尊敬するものは世界中どこを探してもいない。」「子どもたちのニコニコ顔から察すると、朝から晩まで幸福であるらしい。彼らは朝早く学校に行くか、家にいて親を助けて家内の仕事をするか、父親とともに何らかの商売をしたり、店番をしたりする。彼らは満足げに幸せそうに働く。私はすねている子どもや体罰を見たことがない。」
さて、今の世。夏休みに元気な声を出している子どもたちは、150年前の子とくらべて幸せだろうか。塾や習い事に追い立てられてはいないか。学校では、いじめや体罰が横行してはいないだろうか。
また、子どもの幸せは実は大人の幸せでもある。私たちの社会は、150年前にくらべてどれだけ幸せになっているだろうか。
(2013年8月11日)
「8月は、6日9日15日」
句というほどのものではない。しかし、なるほど、言われてみればまったくそのとおり。誰がいつころ最初に呟いたのやら。
「原水爆禁止2013年世界大会」は、6日をメインに「広島集会」、9日をメインに「長崎集会」として開催された。今年の大会は、9条改憲、原発再稼動、オスプレイ配備などの反対運動と呼応して、大きな盛り上がりを見せたと報じられている。初参加の若者が多かったとのことが、まことに心強い。
また、8月9日には、恒例の長崎市主催「平和祈念式典」が行われた。そこで田上富久市長が読み上げた平和宣言がこの上なく素晴らしい。
すぐれた文章には力がある。人を感動させ、人を動かす力。疑いなく、「平和宣言」はそのような力をもっている。聴く者に感動を与えてやまない。読む者に、核廃絶のために何かをしなければという気持を湧き起こさせる。
「宣言」は、1発の原子爆弾投下による被害の悲惨さを語ったあと、「このむごい兵器をつくったのは人間です。広島と長崎で、二度までも使ったのも人間です。核実験を繰り返し地球を汚染し続けているのも人間です。人間はこれまで数々の過ちを犯してきました。だからこそ忘れてはならない過去の誓いを、立ち返るべき原点を、折にふれ確かめなければなりません。」
「宣言」は、「忘れてはならない過去の誓い」「立ち返るべき原点」を抽象的な教訓として述べているのではない。式典に列席して、耳を傾けざるを得ない立ち場の安倍首相に向かって、堂々とこう言っている。
「日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。
今年4月、ジュネーブで開催された核拡散防止条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に80カ国が賛同しました。提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。
しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。
インドとの原子力協定交渉の再開についても同じです。
NPTに加盟せず核保有したインドへの原子力協力は、核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めたNPTを形骸化することになります。NPTを脱退して核保有をめざす北朝鮮などの動きを正当化する口実を与え、朝鮮半島の非核化の妨げにもなります。
日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます。」
そのとおり。日本政府は既に数々の過ちを犯している。忘れてはならない被爆国としての原点を忘れてしまっている。9条を改悪して戦争のできる国にしたいというのが安倍のホンネだ。そのホンネは、そもそも核廃絶という発想になじまない。その安倍の耳に2度繰り返された、「日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます」とのフレーズ。さぞかし左右とも耳の痛みは大きかったことだろう。
また、市長は若者に向かって、こう呼び掛けている。
「若い世代の皆さん、被爆者の声を聞いたことがありますか。「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と叫ぶ声を。
68年前、原子雲の下で何があったのか。なぜ被爆者は未来のために身を削りながら核兵器廃絶を訴え続けるのか。被爆者の声に耳を傾けてみてください。そして、あなたが住む世界、あなたの子どもたちが生きる未来に核兵器が存在していいのか。考えてみてください。互いに話し合ってみてください。あなたたちこそが未来なのです。」
「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」は、なによりも「ノーモア・ウォー」と緊密に結びついている。被爆者の願いは、「報復の核兵器を持たねばならない」ではない。「惨めな敗戦ではなく、戦いには勝利を」でも、「抑止力としての武力を蓄えよう」でもない。報復でも抑止でもなく、広島・長崎の悲劇をこの世からなくすことなのだ。核もなくし、戦争もなくする。一切の軍事力を根絶した平和な世界をつくること。憲法9条の指し示す平和の実現、それこそが被爆者の祈りである。
そして、「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」は、いま「ノーモア・ヒバクシャ」ともしっかりと結びついている。被爆者は、被曝者でもあり、「ヒバクシャ」でもある。核兵器による放射線被害も、原発事故による放射線被害も変わるところがない。反核と反原発、ともに国民的課題である。
2013年の「8月は、6日9日」までが終わった。印象的な暑さの中で。
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『渚にて?人類最後の日』(ネヴィル・シュート著 創元SF文庫)
1957年作。米ソだけでなく、核爆弾をもってしまった小国が入り乱れて、偶発事故から核戦争を起こしてしまう。北半球で4700発もの核爆弾が使われ、1年もたたないうちに、北半球の人類は死滅する。かろうじて残ったオーストラリアでの話。座して死の運命を待つ人々の物語。
たまたま潜水していたがために汚染を免れたアメリカの原子力潜水艦が、オーストラリア軍の指揮下に入り、迫り来る放射能禍と壊滅した北半球の放射能被害状況を偵察に出かける。目標は、謎のラジオ電波が発信されてくるシアトル。万難を排して上陸してみると、打電キーに風に揺れた窓枠がふれていただけとわかる。2年間もメンテナンスされていない、電源やキーが生き延びていたということ。テーブルを囲んでパーティーの最中の人々がそのまま死んでいるのに。
潜水艦に乗り組むオーストラリア軍士官たちの家族、アメリカ軍の原潜艦長を通して、刻々と近づく放射能の風と、避けられない死が語られる。
希望も闘いもない。そんなとき、この人たちは、子どもの成長を喜び、ベビーサークルを手に入れ、来年のために家庭菜園を計画し、たくさんの水仙を植える。飲んだくれていた女性はタイプを習い始める。ガソリンが不足するので、自転車や馬車に乗る。原潜艦長はアメリカのコネチカットに残してきた家族に、絶対に生きていないことは解っているのに、妻にアクセサリ、子どもにおもちゃを入手する。
一時の感情に溺れることはない。理性的で自制的で物静かに、周りの人々を思いやる。最後は、配られた薬を服用して、自死していく。
そして地球上に人間はひとりもいなくなった。
以前に読んだときは、あまりの恐ろしさと寂しさに、これは人間の尊厳について語られた物語だと読んで慰めを見いだそうとした。今回は、絶望だけが残った。
安倍首相が長期休暇をとってゴルフをしている姿が報道されている。広島でも長崎でも「核爆弾は絶対悪」ということをどうしても認めようとしない安倍首相にこそ、読んでもらいたい物語りである。
このいやはての集いの場所に
われらともどもに手さぐりつつ
言葉もなくて
この潮満つる渚につどう
かくて世の終わり来たりぬ
かくて世の終わり来たりぬ
地軸くずれるとどろきもなく ただひそやかに
T・S・エリオット(井上勇訳)
(2013年8月10日)
内閣法制局長官に外務省から小松一郎氏起用という異例の人事は、昨日(8月8日)の閣議で本決まりとなった。発令は、今月20日の予定という。小松氏は、第一次安倍内閣で安保法制懇の事務方を務めた人物。「法制局長官の首のすげ替えによる集団的自衛権容認への解釈変更」という、薄汚い解釈改憲「手口」の工程がいよいよ始動である。
この安倍流「手口」のうす汚さは際立っている。先に、96条先行改憲論では、「本末転倒」「姑息」との批判噴出で、安倍も譲歩を余儀なくされた。心強いのは、その運動の過程で、国民もメディアも立憲主義や憲法が硬性であることの意味について学んだことだ。ならば、96条改憲にもまして遙かに汚い今回の「手口」を、学びの成果を踏まえた国民運動で挫折させ、再度安倍の意図を封じることができないはずはない。
96条先行改憲論に対する「本末転倒」「姑息」という批判は、今回の「手口」に対するものとしては生温く不適切と言わざるを得ない。本日の赤旗に躍った見出しは「改憲クーデター」であり、「裏口改憲」である。朝日には、「解釈改憲は邪道」。そして、毎日のインタビュー記事の中から、「法治ではなくて人治だ」という指摘。
9条改憲の手続には、96条所定の改憲手続に則った発議と国民投票が必要とされている。これが憲法改正の正道であり、表口の攻防でもある。しかし、その困難なことは、誰の目にも明らかだ。そこで、まず96条を先行改憲して改憲手続のハードルを下げておいての改憲が試みられた。安倍自民と橋下維新との合作の「手口」である。ところが、「本末転倒」「姑息」と大きな批判を浴びて撤退を余儀なくされている。次の手口は、国家安全保障基本法制定による「立法改憲」である。これで、憲法9条を事実上死文化させることができるという思惑。しかし、これだって衆参両議院での論戦と各議院過半数の賛成を得なければならない。ところが、法制局長官の首のすげ替えでこれまでの憲法解釈を変えてしまうことによる実質改憲は、国会の承認すら不必要。内閣限りで可能なことなのだ。
各議院の3分の2も、国民投票の過半数も、そして議会過半数の議決すら不要にしての「内閣限りでの実質9条改憲」は、まさしく「改憲クーデター」であり、「邪道」と言わざるを得ない。表口を避けた「裏口改憲」でもあり、安倍と小松による「人治」でもある。うまい手というよりは、この上ないあきれた薄汚い「手口」。しかも、危険極まる。「改憲クーデター」「裏口改憲」「邪道」「人治」。いずれも本質を衝いて批判のネーミングとして素晴らしい。著作権などはありえない。みんなで大いに使って、これをはやらせよう。
ところで、ときに硬骨漢に出会う。大言壮語はしないが、節を曲げず、理不尽には昂然と顔を上げてものを言う。敢えて、火中の栗を拾うことを厭わないその姿勢が清々しい。
本日の朝日と毎日両紙に、阪田雅裕元内閣法制局長官のインタビュー記事が掲載されている。言葉は穏やかだが、内閣法制局の憲法解釈の見直しの動きを真っ向批判する内容の発言。朝日では、集団的自衛権の行使容認と9条2項の整合性について、「憲法全体をどうひっくり返してもその余地がない」と言っている。毎日でも、「集団的自衛権を認めると、9条の意味がなくなる。国民の考える平和主義と整合するか疑問」と言う。
本質的な批判であって、しかも分かりやすく、徹底している。「元法制局長官」の発言として、このインパクトは大きい。
朝日の記事の末尾に次の阪田氏発言がある。
??法制局は首相の意向に沿って新たな解釈を考えざるを得ないのでは?
「そうですね。僕らも歴代内閣も全否定される」
さもありなん。それでよかろうはずはない。阪田氏だけではなく、他の歴代長官も、歴代総理もそれぞれに発言あってしかるべきではないか。なにしろ、この「改憲クーデター」によって、「僕らも歴代内閣も全否定される」ことになるのだから。
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『セミの声』
いま、ニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミが我がちに鳴いてうるさいこと限りがない。暑さをいっそうかき立てるように、ジージーという声とミーンミーンという声が混ざり合って、ひっきりなしに聞こえる。夜中にだって、網戸に取り付いて鳴いている。窓のすぐそばの枝にミンミンが止まって鳴き始めると最悪だ。7日間の短い命に対する哀れ心はなくなって、思わず「うるさい」と怒鳴って木を揺すって追い払う。
どうしてあの小さな体から、あんな大きな声が出るんだろう。それより、何のために必死に鳴くのか。ファーブル大先生も興味をかき立てられた。「それはつれを招き寄せる雄の訴えであり、恋い焦がれるもののカンタータであると」いう説には納得できない、と言っている。プラタナスの幹に雄と雌がたくさん集まって樹液を吸っているときに、大音声で鳴く雄の歌はまったく雌を魅了しない。「求婚者のあのひっきりなしの告白は、何の足しにもならない」。
そこで実験をしてみた。セミが止まって鳴いているプラタナスの木の下で、村役場の大砲をぶっ放したのだ。「上の方では何の騒ぎも起こらない。演奏者の数は同じであり、律動も同じであり、音量も同じである。・・強大な爆音もセミの歌に何の変化も起こさなかった」「発砲に少しも驚かず、動ずることもない、このオーケストラの変わらぬ態度をどう見たらよいのか。セミは耳が聞こえないのであると推論したものであろうか」。結局「もしも誰かが、セミはただ生きていると感じる喜びのためだけに、その音を立てる機関を動かすのであって、自分の出す音には無頓着だ、ちょうど我々が満足しているときに両手をすりあわせるのと同じである、と主張したとしても私は別に反対はしないであろう」とあきれている。
雄の耳が聞こえないなら、雌の耳にも恋の歌は届くはずはなく、ただただはた迷惑も考えず、生を謳歌しているだけなのだろうか。ファーブル先生にも解けない謎はある。
そして、ファーブル先生も知らないことはある。「素数ゼミ」のことだ。アメリカには、北部に17年ゼミ、南部に13年ゼミが生息する。幼虫として各々17年、13年のあいだ、土の中で過ごす、一番長生きな昆虫だ。2種類のセミが一緒に羽化するのは、17×13=221年に一回しかない仕組みになっている。今年は17年前の1996年に17年ゼミが発生した北部の町(地域)が、セミだらけになる。何十億匹のセミが羽化して、7日間の生を楽しむ。木の下にうっかり立っていれば、セミのオシッコでびしょ濡れになる。一斉に鳴くとジェット機の爆音のようだという。でもその町の住人は、一生に何回も会えない風物詩として、楽しみにしているらしい。
いたるところを埋め尽くすセミは鳥やネズミの餌になるだけではなく、人間様のおなかにもおさまる。幼虫はフライパンで蓋をして、バターで煎って、ポップコーンになる。ある昆虫学者は「セミはステーキより高タンパクで低脂肪でおいしい」と絶賛している。セミをコーティングしたチョコレート菓子も期間限定で売り出される。
うちの庭のセミは7年ゼミで毎年毎年はやけてくるので、ありがたみが薄い。今度は、「あんまりうるさいと食っちゃうぞ」と言ってみようか。
(2013年8月9日)
TPPや消費税、あるいはNHK問題などで師と仰ぐ醍醐聰さんから、「従業員は朝礼の唱和を拒否できないのか?」という問題提起のメールをいただいた。詳細は、下記の醍醐さんのブログをご覧いただきたい。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-d072.html
大要は、「職場の朝礼で『唱和』を拒否した労働者が懲戒解雇され、その解雇の無効を訴えた裁判で労働者は勝訴した」「しかし、勝訴の理由は業務への支障の有無という企業側の観点からの評価に終始している」「どうして、労働者の側の『自分の意に沿わない言動を拒む』という人格権を認め、人間としての尊厳を尊重するという視点からの問題把握とならないのか」という怒りのご指摘。判決を言い渡した裁判官だけでなく、サイトで労働者の立ち場で判例解説をした弁護士を含め、「法曹界の体質もまた、ブラック企業をまかり通らせる一因になっているのではないか」とのきついお叱り。
「まことにおっしゃるとおり」と申し上げるよりほかはない。法曹界にそのようなご指摘、ご叱声をいただくことにも感謝したい。確かに、「勝訴したから、十分ではないか」では済まない。何がしかをコメントせねばならないが、労働契約に関する解説や意見は敬して遠ざけ、憲法上の観点だけを述べてみたい。
その事例で使用者が強制した唱和の内容は、「理事長の下に固く結束し」というもの。労働者はどうしてもこれを口にすることができずに解雇された。「使用者がこのような唱和の強制をする権限があるか」「労働者がこのような唱和を拒否できるか」の両面についての考察が必要となる。
使用者側から見れば、「職場の結束の重要性について労働者に自覚を促す」ことが使用者の権限として許されないはずはない。労務指揮権の具体的な内容として認められて当然との思い込みがあろう。「職場にチームワークが必要なのは自明なこと」「そもそも、『以和為貴(和を以て貴しとなす)』は普遍的真理ではないか」と考えていたとも思われる。
聖徳太子非実在説が通説化しつつあるようだが、「十七条の憲法」は我が国最古の法典として史書(日本書紀)に名をとどめている。ここでの「憲法」は近代以後の、立憲主義に基づく憲法とはおよそ別もので、「公務員心得」程度のものでしかない。権力者の立ち場から臣従する者の心得を説いて、今の世の規範としては読むに耐えない。とりわけ「和を以て貴しとなす」は、続けて「無忤為宗(逆らうことなきを旨とせよ)」と言っているとおり、「上から押しつける秩序」の維持を目的とするもので、近代憲法から見て到底許容しがたい代物。これを現代においても、「便利な規範」として使おうというアナクロの不心得者が後を絶たず問題を起こしている。
自民党改憲草案の前文に、「日本国民は、…『和を尊び』、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」という不気味な一節がある。党の公式解説である「改正草案Q&A」では、「党内議論の中で『和の精神は、聖徳太子以来の我が国の徳性である。』という意見があり、ここに『和を尊び』という文言を入れました」と明記している。
自民党にとっても、使用者にとっても、『和の精神』、『和を貴び』は、自明の徳目であるようだが、彼らが考える「和」とは、強者が形成した秩序に弱者が抵抗せずに従順に服することを意味している。「十七条の憲法」に通底する「和」とは、一読すれば分かるとおり、天皇制政府が百卿群臣の自発的服従を得て秩序が確立されている状態を理想とするもの。強者が弱者に対して強制する「和」とは、強者の想定する秩序を維持する「和」でしかなく、対等者間の「和」には強制の要素がはいりこむ余地がない。
「固く結束する」という唱和の強制は、使用者から労働者に対してなされる「企業秩序としての和」への服従の強制にほかならない。換言すれば、「文句をいわずに、企業主の利益のために働きます」という精神を一斉に口頭表現することの強制である。私は、そのような強制は、対等者間の労働契約の本質にはずれた強制として効力をもたないと信じて疑わない。
法的な意味において、人と人とは対等であり、本来人は他者に対して強制する権限を持たず、何人も他者から強制されることはない。強制力は、国民が権限を与えた権力の作用と、契約の効果としてのみある。強制権限のあるところ、強者の横暴を許容することはできず、弱者には法的保護が与えらなければならない。
往々にして、「共同で行動する以上は、中心に立つ者に強制の権限が必要」とか、「組織である以上は、強制力がなければ運営はできない」などという不見識が軽々に語られる。こういう心根が「ブラック企業をまかり通らせる一因になっている」ことに疑いがない。人の人に対する強制という作用が、人を傷つける側面を軽んじてはならない。権力にも企業にも、そして社会のあらゆる場面で厳格に強制力の行使を監視し制約しなければならない。
労働者各人において、「理事長の下に固く結束し」の唱和の捉え方は一様ではない。ある人にとっては、そのような唱和は自己の精神活動に何の影響も感じられない。また、ある人には、不愉快だが我慢ができる範囲であると感じられる。しかし、自分のプライドに懸けてそのような唱和はできないとする人もあろう。
強制される内容が、被強制者の信仰を傷つけるものであれば憲法20条の信教の自由を根拠とし民法90条(公序良俗違反の法律行為の無効)や民法1条3項(濫用された権利の効果否定)を媒介とした救済が可能である。また、被強制者の思想・良心を傷つけるものであれば憲法19条を根拠とすることになる。しかし、「理事長の下に固く結束し」の唱和は、一般的には、信仰や思想良心の自由を侵害しているとは言いにくいだろう。とすれば、憲法13条の個人の尊厳ないしは幸福追求権を根拠に、『自分の意に沿わない言動を拒む』ことが認められないかが問題となる。
憲法13条の幸福追求権は、通説的には「個人の人格的生存に不可欠な利益を内容とする権利の総体を言う」(人格的利益説)とされている。この「権利の総体」を具体化したものが、名誉権、肖像権、プライバシー権、環境権、日照権、平和的生存権等々という新しい権利となる。「みだりに自分の意に沿わない言動を拒む権利」も、「個人の人格的生存に不可欠な利益」である限り、幸福追求権の一環として認められてよい。
また、「個人の人格的生存にかかわる重要な私的事項については、公権力の介入干渉なしに各自が自律的に決定できる自由」を自己決定権ないし人格的自立権と呼ぶ。『自分の意に沿わない言動について、強者の強制を拒む権利』は、人格的自立権の範疇でとらえることが可能である。
もっとも、まだそのような判例があるわけではない。訴訟では、実務家は確実に勝つ手段を選ぶ。困難な一般的権利の創造よりは、目の前の労働者の生活の救済が優先する。やはり、解雇権濫用の法理で勝訴判決を得る努力にもそれなりの敬意をはらうべきだとは思う。
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『止まってください、原発の汚染水』
悪いもの、汚れたものは「水」に流す。「水」はなんでも飲み込んで、無いものにしてくれる。日本人は昔からそう思っていたし、そうしてきた。でもそんな手品はできやしない。
製紙工場が垂れ流した「田子の浦ヘドロ公害」、あちこちの川や湖を魚も鳥も住めなくした中性洗剤や農薬、足尾銅山の鉱毒を沈殿した渡良瀬遊水池、チッソの垂れ流した有機水銀による水俣病などなど。思いだしただけでも、吐き気がする。これらは氷山のほんの一角。
我々は懲りずに、反省もせずに、次から次と有害なものを「水」に流して、経済成長を追い求めてきた。そして行き着いた先が、にっちもさっちもいかない「原発汚染水」。
事故を起こした福島第1原発。最初は原子炉内の溶けた核燃料を冷やすためにかけ続けなければならない「水」。そこへ地下水が毎日400トン流れ込む。これはみんな汚染水になって海に流せないので貯めざるをえない。あっという間に、タンクはいっぱい。そこで地下貯水槽を掘った。13000トンを7つ。ところが、その水槽の防水ポリエチレンシートに穴が開いていて、汚染水は漏れ出した。慌てて、容量1000トンの金属タンクを作って移した。見上げるような大きなタンクだけれど、2日半でいっぱいになる。タンクは作っても作っても間に合わない。もうすぐ40万トン、小学校のプール1000杯分に迫っている。原発の敷地の木を切り倒して、置き場を作っても、すぐに満杯。写真で見てもすごい量のタンクがずらりと並んでいて、息をのむ情景だ。それが、ついこの間までの状態。
それだけでも大変なのに、海側の敷地の地下に張り巡らされたトンネルのなかの高濃度(ハンパじゃない。23億ベクレルなどという数字が出ている。)汚染水問題が明らかになった。7月22日東電は、そこに地下水が流れ込んでいて、その汚染水が海に流出していることをしぶしぶ認めた。8月7日には、政府の原子力対策本部も、その流出量は1日300トンと試算した。経産省の担当者は「事故直後から流出している可能性を否定できない」と認めた。今までの400トンでも手に余っていたのに、700トンになったらどうしたらいいのだろう。
今まで東電任せで見て見ぬふりをしていた政府も、事ここにいたって、やっと汚染水対策に乗り出した。2014年度予算に盛り込む方針だとのこと。大手ゼネコン鹿島が提案している、凍土遮水壁方式を採用するらしい。福島第一原発の敷地をぐるりと囲んで、地中に凍った氷の壁を築いて、地下水の流入を防ぐというのだが、本当にそんなことができるのだろうかと思う。工事費は400億円ぐらい。これで止まるなら安いものだ。1日も早く着手してほしい。費用は政党助成金の1年分とちょっと。これを充てればよかろうと思うのだが。
(2013年8月8日)
本日の朝日「声」欄は読み応え十分。標題だけを拾えば、「与党の民意のねじれが問題だ」「米軍ヘリ墜落 日本は属国か」「欧州で知ったナチスへの反省」「医薬品業界の利権体質改めよ」「『赤紙』で帰らなかった若者」「仕事優先の35年を振り返る」「パラリンピックにもっと注目を」というもの。いずれも、日本の良識はいまだに健在と意を強くさせてくれる。
中でも出色なのが、「新法制局長官 平和国家危うく」という、西川慎一さん(大学教員)のご意見。大意は、小松一郎駐仏大使の法制局長官起用という伝えられた人事の異例さを指摘の上、「安倍首相は、小松氏起用で集団的自衛権の解釈を都合よく変えようというのだろうが、短絡的な手法ではないか」と批判し、「集団的自衛権の行使を認めないことで、自衛隊を辛うじて軍隊とは異質の存在とし、日本が平和国家としての対外的信用を得てきた事実を忘れてはならない」と結論するもの。
とりわけ注目すべきは、「内閣法制局の誇りは、『いかに政権が変わっても解釈は不変である』というものだ。法令解釈が政権におもねって決められてはならない」という、いかにも研究者らしいご指摘。
官僚に「誇り」あることは当然。立法や法解釈に携わる専門職であればなおさらのこと。「誇り」は、命じられるとおりの解釈をしてみせる技術からは生まれない。憲法や法律の理念を見極め、その理念にしたがった解釈を貫くことこそが「誇り」の源泉である。そのような、「誇り」を伴った法解釈は、必然的に「政権が変わっても不変」となる。誇りをもってする解釈だから不変でもあり、不変であることが誇りにもなる。
ところが、なんとなく、「政権が変われば、法の解釈も変わるのが当然」という論法に巻き込まれてしまいかねない。とりわけ、「憲法解釈などは大きな幅がある。民意を獲得した政権が、民意を踏まえて法の解釈を変更することに不都合はない」という開き直りの一般論に反論を躊躇しがちだ。
西川慎一意見は、政権の交替を超えた憲法解釈の不変性・一貫性こそが内閣法制局の任務であることを喝破している。憲法制定権力によって制定された成文憲法にいささかの変更もない以上、交代した政権の恣意的な解釈による実質的な改憲を許してはならない。行政全体の法解釈をつかさどる立ち場にある内閣法制局は、いまこそ自らの任務を深く自覚しなければならない。
憲法に矛盾する立法によって、実質的に憲法を無力化する「立法府による改憲」が法の下克上として許容しえないことは自明である。ましてや、行政府の憲法解釈の変更によって、憲法の根幹を揺るがす「行政府による実質的改憲」が許されてよかろうはずはない。
先に、「96条先行改憲論」が立憲主義をないがしろにする姑息な手法として、大きな世論の叱責を受けた。この度の内閣法制局長官の交代人事による解釈改憲の「手口」は、姑息さという点では、遙かにこれを凌ぐ。西川意見に続いて、法制局長官の首のすげ替えによる解釈改憲を糾弾する大きな声を上げよう。至るところで、自分の言葉で、自分流に。
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『手に負えない、水の反乱』
「水は天からもらい水」。だから、鷹揚にジャブジャブ使うか、有り難がって大切に使うか。日本は降水量が多いというのは間違いらしい。年平均1700?と世界平均の2倍雨が降るのは正しい。しかし、国土が狭くて人口が多いので、ひとり当たり降水量は5000?で世界平均の3分の1という計算になる。たいして恵まれているわけではない。やっぱり、水は大切に使わなくてはならないのが正解。
100ミリ豪雨が都心を急襲した翌日、7月24日から関東6都県で10%の取水制限が始まった。隅田川花火中止の土砂降りを思い出しても、雨がよく降っている印象なのにと、首をかしげたくなる。
首都圏は利根川と荒川と多摩川の3水系を水源としている。そのなかで最もたくさん水を恵んでくれるのは利根川だ。その上流にある矢木沢ダムなど、8つのダムの貯水率が6割ちかくまで落ちている。東京に雨が降っても、群馬県に降ってくれないと、東京が渇水する。暖冬で雪解けが早かったことと、関東の梅雨明けが早かったことも、ダムに水が貯まらない原因らしい。そのうえ、気象庁の予報では8月前半、雨が少ないということなので、取水制限が給水制限になる恐れが充分ある。
ダムの水は生活だけでなく、農業にも工業にも使われている。キャベツやレタスをはじめとして、野菜全般値上がりをしている。田圃に水が不足すると、受粉ができず、お米がしいな米になって収量が減ってしまう。農業の一大事だ。
東京都民は生活用水として、1人1日240リットル使っている。2年前、放射能含有を恐れて、飲み水、炊事用水に困った。今回、給水制限になれば、炊事ぐらいはできるだろうが、トイレ、風呂、洗濯が制限される。ひさしく経験したことのない非常事態だ。
生活に欠かせない水道光熱のなかで、なくなったら命に関わるほど困るのは「水」。原発の停止で、電気代はうなぎ登り。円安のせいで、ガス代も値上げ。そこへいくと、水は安くて値上げもない優等生だ。大切に使わないと、水がストライキを起こすかもしれない。いやもう、大暴れをはじめたのかもしれない。福島原発で放射能汚染水になって。どうしたらいいか解らないほど恐ろしい。
(2013年8月7日)
1945年8月6日午前15分、ヒロシマに「絶対悪」が姿をあらわし、人類は滅びの淵に至ったことを自覚した。
私は、その広島の爆心地付近の小学校に入学した。1950年4月のこと。幟町小学校、牛田小学校、三篠小学校と市内の学校を転々とした。原爆ドームにはいりこみ、その瓦礫の中で遊んだ記憶がある。町の人は、原爆をピカと呼んだ。なぜか、ピカドンという言葉の記憶はない。土地の記憶から、広島の原爆被害の悲惨さには生々しく迫るものを感じる。
本日、68回目の原爆の日に、平和記念公園で平和祈念式典が挙行された。平和を願う被爆者の声を代弁した松井一実広島市長の「平和宣言」には核廃絶の熱情ほとばしるものがあった。また、憲法改悪と集団的自衛権の容認を目論む安倍晋三首相は、いかにも気の乗らない風に式辞を読み上げた。心ならずも、安倍も原爆の日には広島に来て、「非核3原則堅持」「原爆症認定に全力」と言わねばならない。そうさせるだけの世論の大きさと力関係を大切にしたい。
松井市長の「宣言」を聞いて、次のくだりに考えさせられた。
「世界の為政者の皆さん、いつまで、疑心暗鬼に陥っているのですか。威嚇によって国の安全を守り続けることができると思っているのですか。広島を訪れ、被爆者の思いに接し、過去にとらわれず人類の未来を見据えて、信頼と対話に基づく安全保障体制への転換を決断すべきではないですか。ヒロシマは、日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現する地であると同時に、人類の進むべき道を示す地でもあります。」
この言葉が、安倍晋三にどう響いたろうか。ルース米大使は、どう受け止めただろうか。
ここで対比されているのは、「威嚇によって国の安全を守り続ける方法」と、「信頼と対話に基づく安全保障」とである。威嚇によって国の安全を確保するとは、武力による抑止論の効果としての平和と安全を確保しようとする考え方である。「相手国は危険でいつ攻撃してくるか分からない」「だから、攻撃には直ちに反撃できるだけの十分な態勢を整えておくことが平和を守る手段である」ことになる。当然に、相手国も同様のことを考える。安心できるためには、相手国を上回る武力を整えるしか手段がない。だから、武力は相互に拡大し続けることになる。ときに、「攻撃こそ最大の防御」とか、「先制的自衛権の行使」という、凄まじい発想に飛躍する。明らかな挑発が、思いがけない事態を生むことになりかねない。
松井市長宣言は、被爆者の心、ヒロシマの心を「信頼と対話に基づく安全保障」という平和憲法の思想としてとらえている。武力行使の威嚇によってではなく、「信頼と対話に基づいて」平和を築き、核廃絶に至る道を切りひらこうというのだ。これこそ、憲法9条の精神ではないか。安倍は、さぞかし耳が痛かったことだろう。
安倍晋三の「式辞」を聞いて、次のくだりに考えさせられた。
「犠牲と言うべくして、あまりに夥(おびただ)しい犠牲でありました。しかし、戦後の日本を築いた先人たちは、広島に斃(たお)れた人々を忘れてはならじと、心に深く刻めばこそ、我々に、平和と、繁栄の、祖国を作り、与えてくれたのです。」
「亡くなった人のお蔭で、戦後の繁栄がある」。この論法は、靖国参拝と同じだ。安倍は、原爆による死者の霊を「我々に、平和と繁栄の祖国を作り、与えてくれた人々の魂」として、「御霊」と呼んだ。しかし、「英霊」という言葉は、靖国に独占されたものとして、民間戦没者の霊は「英霊」にはなれない。原爆による戦没者は単なる「御霊」で、靖国に祀られる軍人の霊だけが特別に英雄・英傑・英邁・英姿の「英」を冠した「すぐれた霊」とされる。言うまでもなく、皇軍の将兵の戦死者だからだ。天皇への忠誠を誉めて死者を「英」霊というのだ。
安倍の脳裏に、霊爾簿に登載される靖国の祭神と、原爆慰霊碑下の奉安箱に納められる原爆死没者名簿登載の戦没者との差別の意識がなかったかを聞いてみたい。
その名簿登載者数は、28万6818人になったと報じられている。合掌。
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『イザベラ・バードの日本旅』
毎日毎日暑い。そしてひどく雨が降る。135年前、イザベラが東北、蝦夷を旅したのは、ちょうど今頃。なぜ彼女は、むしむし暑く、ビシャビシャ雨の降る、泥濘のなかを泥だらけになって旅したのだろう。通訳の伊藤は文句ばかり言って、足を引っ張る。食べるものは米と黒豆と卵と豆腐ぐらい。宿屋についても不潔で、蚤と蚊に攻められ、穴を開けてのぞく人が群がって障子は押し倒される。こんなふうにプライバシーはないけれど、安全については、「私は1200マイルにわたって旅をしたが、まったく安全で心配もなかった。世界中で日本ほど、婦人が危険にも不作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている」と言っている。
都市のまわりは人力車で、あとは徒歩か馬が移動手段。その馬も、馬勒やはみは付けない小さくて貧弱な雌馬。荷物運搬用で、乗馬には適さない。蹄鉄をつけず、草鞋を履かせるので、すぐに歩けなくなる。道中、何度も振り落とされ、噛みつかれて苦労している。
しかし、街道に張り巡らされた駅逓の制度には感心している。「日本には陸地運送会社がある。本店が東京に、各地の町村に支店がある。旅行者や商品を一定の値段で駄馬や人夫によって運送する仕事をやり、正式に受領証をくれる。農家から馬を借りて、その取引で適度に利益を上げるが、旅行者が難儀をしたり、遅延をしたり、法外な値段を吹っかけられたりすることがなくてすむ。」
理不尽なところのない合理性と安全性がイザベラの不満をはるかに凌駕したのだろう。彼女に対して畏敬の念を覚えて遠巻きにしながら、さりげなく日本人がしめす親切心がイザベラを魅了したのかもしれない。
「ヨーロッパの国々や我がイギリスでも、外国の服装をした女性のひとり旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすり取られるのであるが、ここでは一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金を取られた例もない。群衆に取り囲まれても、失礼なことをされることはない。馬子は、私が雨に濡れたり、びっくり驚くようなことのないように絶えず気を遣い、革帯や結んでいない品物が旅の終わるまで無事であるように、細心の注意を払う。旅が終わると、心づけを欲しがってうろうろしていたり、仕事を放り出して酒を飲んだり、雑談をしたりすることもなく、彼らはただちに馬から荷物を下ろし、駅馬係から伝票をもらって家へ帰るのである。」
彼女を困らせた駄馬に対しても、日本人は「馬に荷物をのせすぎたり、虐待するのを見たことがない。馬は蹴られることも、打たれることもない。荒々しい声でおどされることもない。馬が死ぬと、立派に葬られ、その墓の上には墓石がおかれる。」
イザベラが見て取った、日本人の穏やかさや優しさや細やかさが彼女の興味をかき立て、旅を続けさせたのだろう。風景や自然ではなく、人間が面白かったのだと思う。
「人も馬も道行きつかれ死ににけり旅寝かさなるほどのかそけさ」
「道に死ぬる馬は仏となりにけり。行きとどまらむ旅ならなくに」(釈超空)
道の辻つじに馬頭観音や野仏が祀られる、鄙びた田舎を旅することは、イザベラならでも現代日本人の憧れるところかもしれない。しかし、できることなら、その旅は春か秋にしたいものだ。
(2013年8月6日)
日中相互の国民意識についての「共同世論調査」の結果が話題となっている。毎年の調査で今回は9回目だそうだが、昨年まではさしたる話題にならなかった。今回調査結果の話題性は、両国間の国民感情の軋轢が危険水域にまで達していることを如実に物語っている。同時に、この調査結果は、平和を破壊する方法と平和を維持する方法を示唆するものともなっている。
同世論調査は、「言論NPO」と「中国日報社」との日中共同作業として、今年5月から7月にかけて両国で実施されたもの。調査の目的を「日中両国民の相互理解や相互認識の状況やその変化を継続的に把握すること」によって、「両国民の間に存在するコミュニケーションや認識のギャップの解消や相互理解の促進のための対話に貢献すること」という。その意図や良し。
調査結果は、日中両国民とも、相手国に対する印象をこれまでになく悪化させていることを浮き彫りにした。以下、日本側調査主宰者によるコメントを〔〕で紹介する。
〔今回の調査では、日本人と中国人の相手国に対する印象はともに昨年よりも大幅に悪化し、日本人の中国に対する「良くない印象」は90.1%、中国人の日本に対する「良くない印象」は92.8%と、いずれも9割を超え、過去9回の調査で最悪の状況になっている〕
この「いずれも9割を超え」という数値には驚かざるをえない。両国の経済交流も人的交流も確実に拡大している。相互に触れあう機会が増大しながら、相手国に対する印象を急激に悪化させているのだ。国民的規模における好悪の感情は、一方的にではなく相互作用として形成される。いま、その相互作用が悪循環に陥っている。仔細に見ると、中国人の対日感情がより厳しい。
〔日本人の7割近くは中国を「社会主義・共産主義」と理解し、「全体主義(一党独裁)」や「軍国主義」が3割台で続いている。一方、中国人で今年最も多かったのは、現在の日本を「覇権主義」と見る人の48.9%で昨年の35.1%から大幅に増加した。また、「軍国主義」とみる人も昨年(46.2%)よりは減少したものの、41.9%と4割を超えている。日本を「平和主義」の国とみる中国人は6.9%しかいない。〕
我々は、近隣の民衆からどう見られているかについて、鈍感に過ぎるのではないだろうか。「平和憲法をもち、軍事大国とはほど遠い穏やかな日本」とのイメージはまことに希薄。中国から見た日本は、「覇権主義・軍国主義国」であって、「平和主義国家」ではない。これは、深刻な事態ではないか。
〔日本人の半数程度は、中国人を「勤勉だが、頑固で利己的、非協調的で信用できない」などと見ている。中国人の7割は、日本人は「好戦的で信用できず、利己的」と見ており、半数以上が「怠慢で、頑固で不正直で非協調的」と思っている。両国民ともに相手国への印象の悪化に伴い、国民性に対する評価を全面的に悪化させている。〕
これも、深刻な調査結果。お互いが人格的な悪罵の交換にまで至っている。戦争を起こすには、相手国とその国民への憎悪が必要だ。根拠のない悪印象・侮蔑が憎悪にまでいたって、その温度が紛争に着火する。頑固・利己的・非協調的・信用できない・好戦的・怠慢・不正直…どれも何の根拠もない決め付け。精一杯の悪意だけが飛び交っている。危険な兆候と言わざるをえない。
〔日本人は半数が、「日本と中国の間で軍事紛争は起こらないと思う」と見ているが、中国人の半数以上は日中間で軍事紛争がいずれ起きると思っている。〕
詳しく見ると、中国世論では、「数年内に軍事紛争が起こると思う」が17.4%、「将来的には起こると思う」が35.3%。これも、衝撃的な数値である。対して、日本世論は、「数年内に軍事紛争が起こると思う」が2.4%、「将来的には起こると思う」が21.3%。中国ほどではないが、この数値も危険を警告するものと言えよう。到底無視しえない。
問題の焦点である日中関係悪化の原因については次のとおりとされている。
〔日本人が中国に「良くない印象」を持つ最も大きな理由は「尖閣諸島を巡り対立が続いているから」で5割を超え、昨年よりも増加している。その他、「歴史問題などで日本を批判する」、「資源エネルギー、食料の確保などでの中国の自己中心的な行動」などが半数近くで続いている。中国人は「日本が魚釣島、周辺諸島の領土紛争を引き起こし、強硬な態度を取っている」が77.6%で最も多い。「中国を侵略した歴史をきちんと謝罪・反省していない」も63.8%で6割を超えており、昨年(39.9%)を大きく上回っている。〕
日中両国民が考える日中関係の最大の懸念材料は「領土問題」である。が、これだけではない。非常に興味深いのは、共同調査が「懸念材料」とした16項目についての重要度が、日中両国国民でみごとに整合していることである。領土問題に次いでは、「中国の反日教育」対「日本の歴史認識歴史教育」、「中国のナショナリズムや反日感情」対「日本のナショナリズムや反中感情」、「中国メディアの反日報道」対「日本メディアの反中報道」、「中国の政治家の反日感情を煽る言動」対「日本の政治家の反中感情を煽る言動」がそれぞれ対応している。
どちらの国民も、相手側が不当な加害者で自国が被害者と思い込んでいる。相手国側が先制的で攻撃的であり、自国側は防御的な態度と考え、ともに被害感情が大きい。関係悪化の原因は、すべて相手国側にあると考えてもいる。さらに注目すべきは、自国民のみが信頼できる正確な情報に接しており、相手国の国民は不正確な情報に操られている、と考えている。
おそらくは、このあたりに平和の維持と崩壊の分岐がある。平和を築くためには国民間相互の信頼関係が必要だ。信頼関係の形成には、相手の言い分に耳を傾ける姿勢が必要である。我々も、尖閣問題についての日本側の言い分は、耳にタコができるほど聞かされてきたが、中国側の言い分を生で聞く機会には恵まれない。しかし、中国側に言い分がないはずはない。中国のメディアの日本報道の内容についても良くは知らない。立場を代えてみれば、おそらくは中国の民衆も同じことだろう。日本のことを十分には知らないはずだ。
このままでは、相手国の言動の片言隻句をとらえて、軍事的な防衛行動をとらざるを得ないとし、その悪循環から一触即発の事態を迎えかねない。愚かなこととではないか。
まずは、相互に相手の置かれた状況をよく知ること。相手の言い分を理解すること。相手の説明や弁明に耳を傾けること。相手を尊重するところから、相互理解と相互の信頼が生まれ、友好関係を築くことができる。近隣諸国との友好関係を抜きにして日本の未来はない。おそらくは、中国にもそれがあてはまるのだと思う。
(2013年8月5日)
第184臨時国会は、8月2日に開会、会期は8月7日までである。院の構成だけが行われ、実質的な審議は秋の臨時国会でのこととなる。そこが、改憲・国民審査法・国家安全保障基本法・集団的自衛権に関する政府解釈の変更・秘密保全法等々の本格審議の正念場となる。
注目の参議院憲法審査会の新委員が決まった。総数45人の内訳は以下のとおり。
自民21、民主11、公明4、みんな3、共産2、維新2、社民1、改革1
護憲派は、仁比聡平と吉良佳子の共産2人と、社民の福島瑞穂。この3人の肩に、ずっしりと日本の民主々義が乗っかっている。さぞや重かろう。肩も凝ることだろう。健闘を期待したい。
ところで、2日の開会式の模様が参議院のホームページで閲覧できる。国民の代表が、玉座に着いた天皇に平身低頭している、あの奇妙な光景を。
開会式の主宰は衆議院議長だが、参議院本会議場において行われる。かつて、帝国議会は貴衆両院で構成されていた。天皇の臨席の場は貴族院本会議場の正面壇上とされた。天皇は、統治権の総覧者として、立法の協賛者である帝国議会の各議員を睥睨した。いま、同じ場所が参議院本会議場となり、同じ玉座から「象徴である天皇」が、「主権者である国民の代表」に「おことば」を発している。いったい、敗戦を挟んで、我が国は変わったのか、変わっていないのか。
「国会を召集すること」は天皇の国事行為の一つである。しかし、「国会の召集」は書類に判を押せば済むことで、国会まで出てきて開会式に臨席し「おことば」を述べるなどは憲法に記されたことではない。
天皇の行為には、憲法に厳格に規定された国事行為と、純粋に私的な行為とがある。本来、この2類型しかなく、「おことば」や儀式参加はそのどちらでもない。憲法上の根拠を欠くものである以上、行うべきものではない。
ところが、天皇の国事行為と、純粋に私的な行為とは別に、天皇の「公的行為」という中間領域の範疇を認める立ち場があり、開会式のお言葉はこの範疇に属するものとして行われている。皇室外交や、園遊会の主催、国民体育大会への出席等々も同様。当然に、憲法違反だという批判がある。
日本共産党は違憲論者の代表格。「帝国議会の儀式を引き継ぐもので、憲法の国事行為から逸脱するもの」として現行の開会式を批判し、「憲法と国民主権の原則を守る立場」から天皇臨席の開会式には出席しないとしている。当然のことながら、今回もその原則を貫いている。
憲法上の存在である象徴天皇制を認めない立ち場からではなく、憲法を厳格に遵守する立ち場から、象徴天皇の行動範囲を拡大してはならないとするもの。国民主権の理念からは、国会の開会式に天皇が臨席する必要は毫もない。天皇の臨席は、帝国議会時代の名残でしかないのだ。こんなことは慣習とは言わない。払拭を要するる因習と言うべきだろう。また、開会式直前には、議員が国会正門前に整列して、天皇の出迎えをする慣例もあるのだという。嗚呼、国民主権が泣きはしないか。
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『イザベラ・バードの見たアイヌ』(「日本奥地紀行」より)
7月29日のブログのつづき。
岩木川の支流平川の橋も道路も流され、前進不能になったイザベラは、碇ヶ関(青森と秋田の境、秋田杉の切り出し製材拠点)で4日間を過ごさなければならなかった。その後、何とか無事に、青森に出て汽船に乗り、函館へ渡る。
函館(8月13日)、森、室蘭、苫小牧、平取、その後函館(9月12日)まで戻る旅をする。北海道の南東部海岸沿い部分を少々旅しただけである。とはいっても、道なき道をたどる困難な旅には違いない。
平取ではアイヌの家庭に4日間滞在し、克明なアイヌの生活、文化の観察、聞き取りを行った。言語、食事、衣服(樹皮を裂いて布を織る女性の仕事、毛皮)、家屋、入れ墨、祭祀(クマ祭りなど)、酋長中心の社会生活、結婚(男女の役割)、親子関係、トリカブト毒を使った狩猟(毛皮がほとんど唯一の収入源)など、イザベラの残したアイヌ文化の記録は文化人類学上の貴重なものとされている。
アイヌ人については「(我が西洋の大都会にいる堕落した大衆と較べ)、アイヌ人の方がずっと立派な生活を送っている。アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある。」「清潔ではない。彼らは決して着物を洗わず、同じものを夜昼着ている。私は彼らの豊かな黒髪がどういう状態になっているかと考えると心配である。彼らは非常に汚いと言ってもよいだろう。故国の我が英国の一般大衆とまったく同じく汚い。彼らの家屋には蚤がいっぱいいるけれども、この点では日本の宿屋ほどひどくない。」故国の英国についても公平に言及している。アイヌ人は体格がよく力強いので、一見どう猛そうだが、「その顔つきは明るい微笑に輝き、女のように優しい微笑みとなる」「容貌も、表情も、全体として受ける印象は、アジア的というよりはむしろヨーロッパ的である」としている。それに比して、日本人については「黄色い皮膚、弱々しい瞼、細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、男たちのよろよろした歩きぶり、女たちのよちよちした歩きぶり」と酷評している。その日本人に「先祖は犬である」と言われ蔑まれているアイヌ人は日本政府を大変恐れているが、イザベラは「日本の開拓使庁はアメリカ政府が北米インディアンを取り扱っているより遙かに勝る」と言っている。
また、イザベラはアイヌ人が毛皮を売った収入をほとんど「日本の酒」に変えて、飲んだくれている姿をみて心を痛めている。「アイヌ人が日本人と接触することは有害であり、日本文明との接触によって益するところはなく、ただ多くの損をするばかりであったことは明らかである。」と断じている。日本人と混じって住むものほど、生活は貧しく惨めになっている様が語られている。ただ若者の中には、イザベラに積極的な興味を示し、日本語を解し、断酒を主張する者がいて、未来にほのかな希望が見える。
この平取は、イザベラが訪れた100年後に、アイヌ民族の聖地を守るために、ダム建設反対運動のあった二風谷地区にかさなる。後に参議院議員を務めた、アイヌ人であり、アイヌ文化研究者菅野茂さんが、土地強制収容に反対し、ダム建設差し止め訴訟を提起した地である。ダムの差し止めは叶わなかったけれど、判決はアイヌ民族を先住民と認め、悪法「北海道土人保護法」の撤廃、「アイヌ文化振興法」の制定につながった。
その後のアイヌ民族の運命はイザベラの予感通りになってしまったが、聡明な若者たちの血脈は現在に受け継がれている。アイヌ民族の100年の喪失を引き起こしてしまった日本人は、「過去の歴史を忘れる事」のないように、真実を伝えていかなければならないと思う。
(2013年8月4日)
麻生太郎副総理が7月29日、東京都内でのシンポジウムにおいてした、「ナチスの憲法改正手口学んだら」発言は以下の〔〕内のとおりだとのこと(朝日)。これを当の本人が、「真意と異なり、誤解を招いたことは遺憾だ」として、8月1日に発言を撤回している。いったい、「真意」とは何だったのだろうか。そして、どう「誤解」されたものだろうか。「失言仲間」の橋下徹が、「行きすぎたブラックジョークというところもあるが、ナチスドイツを正当化したような趣旨では全くない」と麻生擁護にまわっているが、どこにジョークがあって、なにゆえ「ナチスドイツを正当化したような趣旨ではない」と言えるのだろうか。普通の国語力を有すると自負する私の能力で、その読み解きに挑戦してみたい。とてつもなく、困難な課題と知りつつ、敢えて…。
〔僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。〕
これは何だろう。日本国憲法の改正発議要件の話題から、突然にヒトラーに飛ぶ。常人には到底ついていけない話題の転換。ここで彼が言いたいことの真意は分かりにくいが、文脈上理解できることは、「ヒトラーは民主主義によって出てきた」、「きちんとした議会で多数を握って出てきた」「ヒトラーは国民によって選挙で選ばれたんだ」ということ。「出てきた」とは政権を獲得したということであろうから、麻生がいいたいことは、「ヒトラーの政権獲得は民主主義的正当性に支えられたもの」ということであろう。ヒトラーの政権奪取への謀略的手法や敵対勢力への苛酷な弾圧は語られず、「選挙で選ばれたんだから」という幼児的な一言で、民主主義的正当性が語られる。通常の感覚では、論者の並々ならぬ「ヒトラーへの肯定的親和性」を見て取るしかない。なお、あとの文脈との関係においても、ここにはヒトラーへの否定的な評価の文章は収まりがたい。ヒトラーの手法を肯定しておく必要があるところ。
〔そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、そうしたものが最終的に決めていく〕
今、命題の真偽を問題にしない。批判も反論もしない。もっとも、反論を試みようにも、意味不明の文章への批判や反論ほど難しく、事実上不可能というほかはない。ともかく、純粋に彼が何を言いたいのかだけを追求することに専念したいのだが、その観点から、以上の文章は難解極まるものである。
文脈を追えば、「憲法はよくても、そういうことはありうる」とは、「憲法はよくても、その良い憲法下における民主的手続が、ヒトラーのような邪悪な政権を生み出す危険性がある」ということであろうか。とすれば、「私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが」、「よい政権を生むか、邪悪な政権を生むかは、実は、憲法の良し悪しと何の関係もないこと」と言いたいようなのだ。分からないのは、憲法を改正したところで、どのような政治になるかは、結局議員が決めることで憲法の良し悪しとは無関係ならば、無理して憲法を改正する必要はなさそうであるが、さて、この点についてどう話が続くのかと聞き耳を立てると、たちまちはぐらかされることになる。
〔私どもは、周りに置かれている状況は、極めて厳しい状況になっていると認識していますから、それなりに予算で対応しておりますし、事実、若い人の意識は、今回の世論調査でも、20代、30代の方が、極めて前向き。一番足りないのは50代、60代。ここに一番多いけど。ここが一番問題なんです。私らから言ったら。なんとなくいい思いをした世代。バブルの時代でいい思いをした世代が、ところが、今の20代、30代は、バブルでいい思いなんて一つもしていないですから。記憶あるときから就職難。記憶のあるときから不況ですよ。
この人たちの方が、よほどしゃべっていて現実的。50代、60代、一番頼りないと思う。しゃべっていて。おれたちの世代になると、戦前、戦後の不況を知っているから、結構しゃべる。しかし、そうじゃない〕
えっ? 何だこりゃ。またまた、常人には理解しえない大展開。これ、改憲問題やヒトラーとどう関係するの? 常識的に、起・承・転・結という話しの流れを想定している身には、起・転・々・々は、チト辛い。
〔しつこく言いますけど、そういった意味で、憲法改正は静かに、みんなでもう一度考えてください。どこが問題なのか。きちっと、書いて、おれたちは(自民党憲法改正草案を)作ったよ。べちゃべちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて、作り上げた。そういった思いが、我々にある。〕
さあ、分からない。「しつこく言いますけど」って、何をこれまでしつこく言ってきたというの? 「そういった意味」とはどんな意味なのだろう。「べちゃべちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて、(改憲草案を)作り上げた」というのは、静かに議論した形容なの? それとも静かにはできなかったということ? 「憲法改正は静かに、みんなでもう一度考えてください。どこが問題なのか。」このセンテンスだけは、文意明瞭でよく分かる。でも、「真に意図するところ」は少しも分からない。「静かに、どこが問題なのか、みんなでもう一度考えてください」は、そうすればどうなるというのだ?
〔そのときに喧々諤々(けんけんがくがく)、やりあった。30人いようと、40人いようと、極めて静かに対応してきた。自民党の部会で怒鳴りあいもなく。『ちょっと待ってください、違うんじゃないですか』と言うと、『そうか』と。偉い人が『ちょっと待て』と。『しかし、君ね』と、偉かったというべきか、元大臣が、30代の若い当選2回ぐらいの若い国会議員に、『そうか、そういう考え方もあるんだな』ということを聞けるところが、自民党のすごいところだなと。何回か参加してそう思いました。〕
「喧々諤々」はよくする間違いだが、騒がしいほどに議論したと言いたいのだろう。「喧々諤々、騒がしくやりあった」のか、「極めて静かに対応してきた」のか、どっちなの? 「喧々諤々極めて静かに対応してきた」ってどういうこと?
〔ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。騒ぎにするのがおかしいんだって。静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かに、きちっとお参りすればいい。何も、戦争に負けた日だけ行くことはない。いろんな日がある。大祭の日だってある。8月15日だけに限っていくから、また話が込み入る。日露戦争に勝った日でも行けって。といったおかげで、えらい物議をかもしたこともありますが。僕は4月28日、昭和27年、その日から、今日は日本が独立した日だからと、靖国神社に連れて行かれた。それが、初めて靖国神社に参拝した記憶です。それから今日まで、毎年1回、必ず行っていますが、わーわー騒ぎになったのは、いつからですか。〕
唐突に靖国参拝が出てくる。ここは論点からはずれるので飛ばすことにしよう。
〔昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。〕
さあ、問題はここだ。論旨は、「静かにやろうや」である。総理の靖国参拝も静かにやればよい。ドイツのワイマール憲法もナチス憲法へと静かに変わった。「ある日気づいたら、だれも気づかないで変わっていた」。それほど静かに変わった。この静かさが素晴らしい。だから、ヒトラーの改憲問題における「あの手口学んだらどうかね」という提案になる。
歴史的事実の認識の正確さ如何は問題にしない。問題なのは、麻生がヒトラーの手口を肯定的に評価しているのか、否定的評価なのかということ。わざわざヒトラーに言及して、その手口の成功を評価し、その手口を学べと言っているのだから、肯定評価であることに疑問の余地はない。もし、「真意は別だ」というのなら、まったく文意と離れて真意が隠されていることとなる。そんな「真意」を忖度する余地はない。同じく、ジョークも、ブラックジョークもあり得ない。「静かな憲法改正を評価し、その手口を学べ」というのが、「ナチスドイツを正当化した趣旨」であることは明白である。念のため申し添えるが、麻生は、ナチスがワイマール憲法を葬り、『ナチス憲法』に変えたその手口の鮮やかさを肯定評価しているのだ。「ナチスドイツを正当化した趣旨」であることは自明ではないか。特異な日本語能力の持ち主でない限り、橋下のごとく麻生を庇うことはできない。
〔わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。〕
これが麻生発言の結句。言葉を補って、彼を言いたいことを整理すれば、こうなる。「ドイツでの、ワイマール憲法から『ヒトラー憲法』への改憲は、国民みんなが騒がず静かに、いい憲法と納得して行われている」「ぜひ、そういった意味で、日本の憲法も、ヒトラーの手口を真似てある日気がついたら変わっていたというくらい、静かにやればよい」。これが善解した彼の真意である。文脈を正確に理解する限り、これ以外の真意などあり得ない。
なお、「僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが」と言っているのは、論旨がヒトラーの手口肯定で、「民主主義を否定するつもり」と論難されることを覚悟していることの証左である。
普通の人が、普通の感覚で、麻生の発言を聞き、麻生の発言を起こした文章を読めば、疑いなく麻生はナチスの手口の肯定的評価者で、その手口を真似ようとしている。そして、許せないのは、国民を愚弄し、改憲阻止の熱い議論をすり抜けて、「国民が気がつかないうちに、憲法が変わっていた」という手口を理想としていることだ。改憲論議にもいろいろあるが、その低劣さにおいて、麻生の論法は、まさしく未曾有だ。
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『日本共産党参院選当選議員8人の初登院』
本日8月3日付「しんぶん赤旗」の第一面トップの写真。思わず笑いがこぼれてしまう。初登院8人ひとりひとりの弾む気持が、読者に伝染してくるようだ。
吉良さんの初々しい笑顔、辰巳さんの若武者ぶりの豪快笑い、倉林さんの酸いも甘いもかみ分けた豊かな表情、紙さんの知性あふれたお姉さんぶり、仁比さんの臥薪嘗胆の心意気、小池さんの堂々たる貫禄、山下さんの頼もしさ、井上さんの優しさ沈着さ。みんな満面に笑みで、すぐにでも駆け出しそう。この写真は当分見飽きない。
8人それぞれの決意は次のとおり。
「数が増え、キラッと光る個性豊かな皆さんがそろったことで、ほんとうに素晴らしいチームができました」(山下)。「今後はベストイレブンとして得点も稼げる強固なチームとしてがんばり抜きたい」(井上)。「3年ぶりに参院本会議場にはいり、自公政権の暴走とたたかいぬく闘志がわいてきました」(小池)。「さまざまな課題が山積のなか、集中審議、あるいは閉会中審議などを求め、ただちに行動していかないといけない」(紙)。「京都の窓口になったことを生かして、地元のすべての首長にしっかり挨拶をしながら『使い勝手よろしいで』と、宣伝をして実績を上げて、がんばりたいと思います」(倉林)。ともに定数2の激戦区を勝ちぬいた「西の倉林」さんは「東の東京都議の小竹」さんに選挙応援のお礼のエールを送っている。「『ブラック企業なくしてほしい』、『原発再稼働反対』と一緒に声を上げてきた仲間の思いがつまった議員バッチです」(吉良)。「大阪の『消費税増税は絶対にしてほしくない』『維新の会の暴走も止めてほしい』こういう声をいただいて当選させていただきました」(辰巳)。
仁比さんを忘れちゃいけない。仁比さんは議院運営委員として、初日から、「幡随院長兵衛」顔負けの活躍。副議長選出選挙で紛糾する場内協議を「犯人捜しをするのではなく、参議院の規則に基づいて再投票を行うべきだ」と全員が納得できる、弁護士らしい提案をして、議事を正常化したのだ。「9年ぶりに議運理事を取り戻した日本共産党の議席の値打ちを実感した」と語っている。
「赤旗」記者さんの「JR代々木駅の階段を『不屈だ。不屈だ。共産党は不屈なんだ』と心の中でつぶやきながら上がるのが、これまでの選挙翌日の出勤時のありようでした。今回は、足取り軽く、心も軽く上がることができました。」というつぶやきには共感ひとしお。
8人の笑顔は、そのまま日本国憲法の笑顔であり、憲法制定権者の笑顔でもある。「自民圧勝」の受難の中、明日への期待の詰まった、輝く希望が芽吹いたことへの平和や民主々義の明るい笑みでもある。
(2013年8月3日)
麻生太郎発言にはおどろいた。「(ドイツでは)ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった。あの手口を学んだらどうかね。ワーワー騒がないで、みんないい憲法と納得して、あの憲法変わっているからね」という、閣僚発言としてのトンデモ度において未曾有のもの。まるで橋下徹並みだ。
なるほど、これが安倍内閣の方針なのだ。できれば「誰も気づかないうちに」、少なくとも「ワーワー騒がれないうちに」、「ある日気づいたら日本国憲法が変わっていた」という手口をナチスに学ぼうということなのだ。
同じ手口が、注目の内閣法制局長官人事についても実行されようとしている。法制局経験のない外務官僚が8日の閣議で「抜擢」される予定という。これも、未曾有のこと。
最高裁第二小法廷の竹内行夫裁判官が7月20日定年退官となった。元外務事務次官でイラク戦争支持派として知られた人。その後任人事の決まらないことを不審に思っていたら、ここに内閣法制局長官の山本庸幸氏が充てられるとのこと。そして、後任の内閣法制局長官に小松一郎駐仏大使をあてる方針を固めたとの報道。
総理が内閣法制局長官に解釈変更を命じるのでは角が立つ。言うことを聞かないからと強引に首をすげ替えれば、益々ワーワー騒がれる。ならば、長官を最高裁に栄転させて、その後釜に、言うことを聞く人物を送り込もう。そうすれば、「ワーワー騒がれることなく、ある日気づいたら、『集団的自衛権行使違憲』の憲法解釈が、『集団的自衛権行使容認』に変わっていた」とすることができるじゃないか、これがナチス伝授の安倍政権流「手口」というわけ。どうだ、未曾有だろう。
小松一郎駐仏大使は、各紙が「集団的自衛権行使容認派」と指摘している人物。「安倍首相が第1次内閣で行使容認に向けて立ち上げた私的諮問機関『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会』(安保法制懇)の事務作業に関わった。法制局長官は次長から昇格するのが通例で、法制局経験のない小松氏の起用は異例(朝日)」などと報道されている。その前歴から、人事の意図は見え見えバレバレなのだ。
これまで積み重ねられてきた政府の憲法解釈を、トップの人事一つで変更してはならない。そんな未曾有なことを許してはならない。
(2013年8月2日)