本日の参院選の争点をめぐるNHK党首討論に耳を傾けた。
はからずも「自共対決」の構図が明確となっている。これまで、メディアでは「自民対民主」という二大政党対立の論議がお約束だったはず。ところが、民主党の存在感が希薄となってNHKの司会者も自共対立を軸とした進行をせざるを得ない。確実に空気は変わっている、との印象。
もう一つ。自民党の右からの応援団として維新とみんなのあることも明瞭となっている。安倍自民の危険は言うまでもないが、維新・みんなも恐るべき政党。ホンネでは思っていても、さすがに自民では口にできないことを堂々と(むしろ、ぬけぬけと)言う役回りなのだ。新自由主義政党というよりは、資本の強引な新分野進出を後押しする、新たな利権集団というべきだろう。その批判は、いずれまとめてみたい。
主要論点の一つとして、改憲問題についても議論が行われた。共産党・志位さんと、民主党・海江田さん、社民党・福島さんが、自民党改憲草案を批判したのに対して、安倍晋三が次のように言い訳をしている。
「我が党の改憲草案を誤解している。草案は、国民主権・平和主義・基本的人権の3本の柱については尊重することを明記している」「徴兵制などは考えていない」「『公益および公の秩序』によって人権が制約されるというが、現行憲法の『公共の福祉』による制約をわかりやすく書き換えただけ」
安倍は、改憲の必要性を積極的に語ることができない。今、憲法を変えようとしている政党の党首として、現行憲法の不都合と、改正の方向とを熱く語るべき機会にそれができない。改正案の危険性を突っ込まれて、いや大綱において現行憲法と変わらないと言い訳をしているようでは、それだけで議論の大局において「負け」である。
しかも、その言い訳も無力である。現行憲法と変わらないものなら、改憲の必要はない。明らかに、変える必要があるから改憲案を策定しているのであって、異なるものとなっていればこその「憲法改正草案」ではないか。
確かに、草案の前文には、「国民主権」・「平和主義」・「基本的人権」という言葉が、この順序で出てくる。しかし、その内実は日本国憲法が熱く語っているものとは、明らかに異なる。国民主権は、元首たる天皇を戴いたものとしての「萎縮した国民主権」となり、平和主義は創設された国防軍と共存する「軍国主義下の平和」となり、基本的人権は公益・公序優先の下、切り縮められたものとして「人権の名に値しないもの」となっている。
安倍晋三の法的知識のレベルについては、大学で学生に憲法を教えている研究者から、次のように指摘されている。
「安倍首相は法学部(成蹊大学法学部政治学科)出身なのに、立憲主義も国連決議も国連憲章もよく理解していないように見えます。その無知ぶりは法学部出身者として恥ずかしいレベルですし、憲法尊重擁護義務がある首相として、国民からすると大変危険です。安倍首相にはきちんと勉強し直してほしいですし、国民も国会議員を選ぶ際にきちんと見極めて選んでほしいものです。メディアも問題点を指摘しないのは困ったものですが。」(清水雅彦日体大准教授7月5日ブログ)
私は学生のレベルを知らないが、この指摘には肯ける。
「『公益および公の秩序』によって人権が制約されるというが、現行憲法の『公共の福祉』による制約をわかりやすく書き換えただけ」は、明らかなウソである。そもそも、自民党の公式解説である「Q&A」は次のとおり書いている。全文を引用する。
Q14 「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えたのは、なぜですか?
答 従来の「公共の福祉」という表現は、その意味が曖昧で、分かりにくいものです。そのため学説上は「公共の福祉は、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するものであって、個々の人権を超えた公益による直接的な権利制約を正当化するものではない」などという解釈が主張されています。
今回の改正では、このように意味が曖昧である「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです。
なお、「公の秩序」と規定したのは、「反国家的な行動を取り締まる」ことを意図したものではありません。「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、他人に迷惑を掛けてはいけないのは、当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません。
キモは、「憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにした」という点にある。人権とは至高の価値である。本来、人権は衝突する人権との調整によってしか制約し得ない。これは公理である。にも拘わらず、これまで人権は、常に秩序維持を名目として権力によって抑圧されてきた。だから、軽々に、国家秩序や社会秩序によって人権を制約してはならない。堂々と「社会秩序」維持のための人権制約を憲法に書き込もうという自民党草案は歴史に逆行するものというほかはない。
なお、このような議論の席では、必ず、自民党改正草案21条2項を取りあげていただきたい。これが、自民党の危険なホンネを語ってわかりやすい。
第21条1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2項 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
2項をわかりやすく展開すれば、
「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行うことは認められない」
「公益及び公の秩序を害することを目的として結社をすることは認められない」
治安維持法の自民党版にほかならない。共産党のみならず、すべての市民運動もリベラル派も宗教者も、ことあるごとに、これを問題にしなければならない。
なお、安倍は、憲法改正案をつくるのに、自民党案にはこだわらないと発言した。「政治は現実ですから」とも言った。自民党がやりたいことも、他党の支持がなければできない現実がある、という意味なのだろう。そのとおり。大切なのは現実だ。到底改憲などはできない現実をつくり出そう。まずこの参院選を第一歩として。
****************************************************************
『尖閣想定の強襲上陸訓練 「ドーン・ブリッツ」(夜明けの電撃戦)』
自衛隊が、「海兵隊」機能の装備を着々と準備しつつある。アメリカのサンクレメンテ島で米海兵隊の指導のもと、陸海空の自衛隊員1000人が参加して島の奪回訓練が行われた。6月10日から26日までのこと。習近平・オバマ会談が行われた同月7日・8日の直後のことになる。
「ドーン・ブリッツ」という言葉でネット検索すると、映画「プライベイト・ライアン」さながらの場面を見ることができる。イージス艦「あたご」、揚陸艦「しもきた」、護衛艦「ひゅうが」のご活躍だ。「ひゅうが」にはオスプレイが着艦し、羽を折ってエレベーターで滑走路の下に収納される。「しもきた」から放たれた、LCAC(ホバークラフト型揚陸艇)は砂煙を上げて島に上陸し、そこからは武器弾薬をつんだ大型トラックや自衛隊員が出てきて、作戦行動を展開する。
防衛省は今年12月に改訂しようとしている「防衛大綱」に「海兵隊」機能を盛り込もうとしている。尖閣諸島が武力侵攻される事態を想定し、奪われた離島を奪還する機能が必要だとして、そのための部隊、兵員、装備が増強される。
第一次安倍内閣で安全保障担当の内閣官房副長官補だつた柳澤協二氏は「尖閣の取り合いなんて本当にあるのか。陸上自衛隊の生き残りにすぎない。冷戦当時の大規模侵攻に備えた戦車、大砲を捨てることもせず、手を広げている」(東京新聞7月6日)と批判している。
「ドーン・ブリッツ」のサンクレメント島はカリフォルニア州。習近平・オバマ会談が行われた同州パームスプリングスとは目と鼻の先。尖閣問題を意識しての軍事演習が、中国首脳の訪米時期に接近して、しかも首脳同士の会談の場所のすぐ近くで行われたのだ。明らかに挑発行為・威嚇行為というべきだろう。同じことを日本がやられたら、黙ってはおられまい。外国との紛争は軍事力の威嚇によってではなく、政治、外交交渉で解決すべきだ。それを、軍事的に威嚇し挑発している。相当に危険だ。
しかも、自衛隊とは軍隊ではなく、あくまでも自衛のための実力部隊である。したがって、外国への攻撃や上陸を任務とする装備や編成はあり得ない。それが、日米合同で強襲上陸訓練が行われている事態を迎えているのだ。「改憲阻止の壁」構築の緊急性を物語っている。
参院選では「海外にまで出て行く国防軍」創設へ道を開く改憲勢力と「憲法9条を守って平和外交」をめざす護憲勢力のどちらを選ぶのか、国民のひとりひとりが選択を問われている。
(2013年7月7日)
参議院の議席総数は242。憲法改正の発議に必要な、その3分の2は162議席である。
非改選議員121人のうち、自民・維新・みんなの「積極改憲3派」議員数の合計は、自50・み10・維1の合計62人。今回参院選で、これに100議席を加えれば、162議席となって参議院の「3分の2ライン」に到達する。
さて、本日の朝日・毎日・読売・日経などが、「世論調査による序盤の選挙情勢」を報じている。調査結果はいずれもよく似た内容。
朝日は、各政党の予想獲得議席を「下限?中心?上限」で表している。その中心値で、自民68・みんな7・維新6の合計81である。上限値でも合計92で、100議席のラインには届かない。この改憲3派だけでは3分の2ライン到達の現実性はなさそう。
もっとも、自民と連立を組む公明を改憲勢力に入れて「改憲4派」となれば、話しはちがってくる。非改選の公明議員が9人いるから、非改選の改憲派合計議席は71。改憲4派が今回改選で91議席とれば、「3分の2ライン」に到達する。朝日の中間値は自民68・みんな7・維新6・公明10の、ぴったり91議席。「3分の2」の発議要件をクリヤーする人数となる。
読売は、このことを「自民党、公明党、日本維新の会、みんなの4党で、非改選議員を合わせると参院の3分の2(162議席)に届く可能性がある」と報道している。心なしか、「嬉しげに」である。議員の数だけに単純化できる問題ではないが、容易ならざる事態ではある。
かつては、両院に日本社会党を中心とする「3分の1の護憲の壁」が築かれていたが、今その壁はあとかたもない。これから、新しく築かねばならないが、今回参院選をその第一歩としたいもの。その観点から注目すべきは、共産党の健闘ぶりである。各紙とも、共産党の大幅な議席増を予測している。
朝日は「4?6?8」、毎日は「5?8」、読売も「倍増の可能性」、日経は「維新、みんな、共産の3党はしのぎを削る」との表現。この党の、この議員が、改憲阻止の壁の土台となり、芯をつくる。
この情勢は参院選の前哨戦と位置づけられた、都議選の結果からの勢いである。震源地の東京での政党支持率調査は以下のとおり。
「毎日」 自民32、共産7、民主6、公明6、みんな5、維新4
「読売」 自民40、共産7、民主7、公明4、みんな5、維新3
首都だけをとってみれば、共産党は自民党に対抗すべき第2党の地位を固めている。この勢いは、他の地域に伝播していくことになるだろう。政策の内容においては以前から自共対決であった。のみならず、支持の勢力の大きさにおいても、自共対決の時代の到来を予感させる。
今、改憲を阻止する最も確かな保障は共産党を強く大きくすることである。議会内に確呼たる共産党の存在があって初めて、院外の諸運動も勢いづくことになろう。
(2013年7月6日)
一昨日(7月3日)、参院選公示前日の与野党党首討論会の席上で、共産党の志位委員長が、自民党から日本建設業連合会宛に献金要請があることを暴露した。その金額は4億7100万円。これは、大事件である。にも拘わらず、メディアの取り上げ方があまりに小さい。どう考えても不自然。
敏感に反応したのは、畏友阪口徳雄君。早くも昨日付のブログで、「参議院選挙に関しての寄付要請であると認められ、公職選挙法違反!!」と指摘している。本日の私のブログは、阪口意見を補充するもの。
赤旗の記事によると、志位さんの発言は以下のとおり。
「志位: 安倍さんに質問いたします。ここに今年2月、自民党の石破幹事長をはじめ三役連名で出された文書があります。ゼネコンなどで構成する「日本建設業連合会」にあてた政治献金の要請文です。私たちの「しんぶん赤旗」日曜版が入手したものです。要請文には、自民党の政治資金団体である国民政治協会の文書が添えられております。そこでは、自民党は「『強靱な国土』の建設へと全力で立ち向かっており」、こうした「政策遂行を支援するため」献金をお願いしたいと述べ、「一、金 四億七千壱百萬円也」と金額まで明示しております。まるで請求書です。「国土強靭化」とは10年間で200兆円という巨額の公共事業を進めるものですが、その見返りに金額まで明示して政治献金を求めるーこれは文字通り政治を金で売る、最悪の利権政治だと思いますが、見解を求めます。」
共産党も志位さんも品がよいから、「自民党のやったことは犯罪だ」と決め付けはしない。自民党が文書で要請した献金を「政治献金」だとして、極めて押さえた発言となっている。押さえてなお、「政治を金で売る、最悪の利権政治だと思います」との指摘となっている。この献金要請にゼネコン側が応じたとすれば、こちらの方は「政治を金で買う、最悪の利権行為」と指弾されなければならない。
企業とは利潤追求を目的とする存在である。企業がする政治献金は、自社の利益のためにする支出でなければならず、企業利益を目的とした手段としての政治利用の対価にほかならない。基本的に賄賂と異なるところがないのだ。ところが、政治をゆがめる企業献金も、政治資金規正法は全面禁止とはしておらず、自民党は政党助成金も企業献金も、両方を手にしている。これでは、労働法制も企業税制も、企業の望むとおりとなることは必定ではないか。自民党が政権を担っている限りは、実質において、「企業の企業による企業のための」政治となるざるを得ない。「政治を金で売買する、最悪の利権屋政治」の横行である。
以上は、要請の献金を政治資金と理解した場合の話し。要請の献金が特定の選挙との関連性ありと認定されれば、公職選挙法上の「特定の寄附の禁止」条項に該当して犯罪となる。要するに「金で選挙を買う」悪質な実質犯の一つである。関連条文は以下のとおり。
第199条 衆議院議員及び参議院議員の選挙に関しては国と…請負その他特別の利益を伴う契約の当事者である者は、当該選挙に関し、寄附をしてはならない。
第200条1項 何人も、選挙に関し、第199条に規定する者に対して寄附を勧誘し又は要求してはならない。
2項 何人も、選挙に関し、第199条に規定する者から寄附を受けてはならない。
第248条1項 第199条第1項に規定する者(会社その他の法人を除く。)が同項の規定に違反して寄附をしたときは、3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
2項 会社その他の法人が第199条の規定に違反して寄附をしたときは、その会社その他の法人の役職員として当該違反行為をした者は、3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
第249条 第200条第1項の規定に違反して寄附を勧誘し若しくは要求し又は同条第2項の規定に違反して寄附を受けた者(会社その他の法人又は団体にあつては、その役職員又は構成員として当該違反行為をした者)は、3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
日建連の正会員たるゼネコン各社が、「国と請負その他特別の利益を伴う契約の当事者である」ことは自明と言って差し支えなかろう。すると、犯罪の成否は、本件4億7100万円の寄付要請が、「選挙に関しての」ものであったと言えるか否かにかかっている。強要も利益誘導も要件ではない。
自民党3役と財務委員長・経理局長の5名と国民政治協会の会長は248条で、この寄付要請に応じた各社の役職員は249条で、「3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金」に処せられることになる。
4日付の赤旗に、2通の献金要請書の全文が掲載されている。その一通が、「財団法人国民政治協会から社団法人日本建設業連合会宛の、4億7100万円という金額を明記したもの」。もう一通が、「自民党(幹事長石破茂以下5人の連名)から社団法人日本建設業連合会宛の金額の記載ないもの」。いずれにも、「寄付」「寄金」「献金」という言葉はない。金額だけを記載して、「何卒よろしくご協力を賜りますようお願い申し上げます」でわかり合える間柄なのだ。
2通の要請文書の日付は、いずれも「平成25年2月」である。その時期と、要請の文言、金額、そして自民党とゼネコンという当事者の関係から、選挙との関連性を見極めなければならない。
文書の文言は、「本年夏には、参議院選挙が行われます。ねじれ状態を解消してこそ、はじめて安定した政治を行うことが可能となります」「国民国家のために、我々はこれに勝利し、安定政権を打ち立てなければなりません」。そう明記したうえで、「御協力方につきましては、わが党の政治資金団体であります一般財団法人国民政治協会より別途お願いを申し上げていることころでございますが、何卒御高配賜りますよう重ねてお願い申し上げます」というものである。
5か月先の参議院選挙を明示し、「ねじれ状態を解消してこそ、はじめて安定した政治を行うことが可能となります」「これに勝利し、安定政権を打ち立てる」ために、「御協力をお願い」というのである。これで、「参院選に関しての寄付要請」と認定することになんの躊躇が必要であろうか。これは、「最悪の利権政治」という道義的責任のレベルではない。明らかに公選法上の犯罪というべきである。
なお、4億7100万円という切りの悪い金額は、何らかの基準によって計算し算出した金額であることを窺わせる。おそらくは寄付金の総枠規制を考慮した個別企業への割付を行ったものであろう。背景に算定根拠がある以上は、「1円も欠けてはならない」とする迫力を感じさせる。当然のこととして、他の業界にも同様の寄付要請があろうことも推察させる。
自民党は、今進行している参院選を、このような汚い金を潤沢に注ぎこんで有利に展開している。妥協のない徹底した追求が必要である。
(2013年7月5日)
いよいよ、本日参院選公示。憲法の命運を決することになるかも知れない選挙戦がスタートした。選挙の争点は、数々あるだろうに、どの新聞にも「ねじれ解消」という大きな活字が踊っている。
もちろん、紙面すべてがそうではない。「青森の大間原発の近くで、エコエネルギーで暮らす漁業手伝い小笠原厚子さんは、与党が強調する衆参の『ねじれ解消』に異議を唱える。『ねじれがあるからこそ、原発問題が慎重に論議されてきた。』」(朝日新聞)と「ねじれ」を評価する。
全くその通りだ。「ねじれ」を解消すべきだと騒いでいるのは、自・公の与党とマスコミだけのこと。そもそも「ねじれ」が無かったら、大政翼賛ではないか。むしろ、二院制の下で、「ねじれ」は健全な現象。下院との「ねじれ」がなければ、上院は無用の長物と化す。マスコミが与党の尻馬に乗って「ねじれ解消」などと言っているのは言語道断、役目放棄だ。
普通の生活者は「アベノミクス」はうさんくさいと思っている。インフレ、消費税増税、社会保障の切り下げはごめんだ。96条などもちだす憲法改悪なんかにだまされない。安保条約のうえにTPPにまで加入して、これ以上アメリカにがんじがらめにされたくない。
そんな思いの生活者は自民党と公明党が衆議院で我が世の春を謳歌しているのを見ながら、なんかおかしいと思っている。「ねじれ」というなら、そうした人々の思いと衆議院の議席数の齟齬こそ正真正銘の「ねじれ」ではないか。
小選挙区制がつくり出す、国民の意思と議席とのねじれ。世論と政権とのねじれ。憲法の理念と政権与党の政策とのねじれ。解消すべき本物の「ねじれ」と、解消する必要のない「ねじれ」とを見極めねばならない。
今回の参院選で、与党のいっている「ねじれ」の解消とは、多数派政党のほしいままの横暴を許せと言っているのだ。こんな「ねじれ」の解消は絶対にさせてはならない。
みんなで「ねじれよねじれもっと大きくなあれ」と力を合わせることこそ必要だ。
日経新聞は「『待ちに待った一票』13万6000人が対象に 成人後見付いた人に選挙権」という記事を載せている。「浅見寛子さんは意中の候補の名前を書く練習をして投票に臨む。姉で成人後見人の豊子さんは妹の選挙権を回復するための訴訟を続けてきた。投票後『両親の墓前に報告するつもり』という」。こうした人たちの思いが反映する、「十分にねじれた」選挙結果にしたいと思う。
毎日新聞で、コラムニスト辛酸なめ子さんは今回の選挙を「自民党の勢いが増すばかりで、これに乗るしかないみたいな空気だ」といって、『オラオラ選挙』と名付けている。「オラオラ」邪魔だ邪魔だと、弱いものをけちらし、せき立てるような選挙であってはいけないと思う。よくよく考えて、与党をギャフンと言わせてやるような、おおきな「ねじれ」を作り出そうじゃありませんか。
(2013年7月4日)
参院選公示日の前夜である。この参院選が、もしや、憲法の命運を決める選挙となるかも知れない。明日も雨天の予報。重苦しさは拭えない。
前哨戦としての都議戦では、悲観の一面が大きかった。自公は確かに強さを見せた。アベノミクスの馬脚が露顕するまでは、この基本情勢に変化はないかと思われる。
他面、自公の政策に対決する受け皿として、共産党の存在が俄然注目されるようになった。これは貴重なことだと思う。いくつもの調査結果において、これまでなく無党派層の投票先が共産党になったと報告されいる。
大局的に国民の投票行動を見れば、次のようなことと言えるだろう。
2009年の総選挙が時代を画するものであった。それまで、自公政権の新自由主義的政策は格差を拡げ貧困を蔓延させた。安倍一次内閣の保守的姿勢にも国民の不安は募った。こうして、自公政権はジリ貧となり、自公政治にアンチテーゼを掲げた民主党が09年に政権を獲得した。ところが、その民主党は、経済・外交・雇傭・福祉・原発問題等々で国民への公約を裏切り、急速に信頼を失った。こうして、2012年12月総選挙で、民主は大敗し再び自公に政権を明け渡した。しかし、自公の勝利は、民主の大敗の裏返しでしかなく、09年の得票を上回る得票獲得はは成らなかった。09年の民主の大量票の多くが、棄権と「第3極」に流れた。
自民に欺され、民主に裏切られた、そう考える人々の多くは、「自民回帰」「第3極」「棄権」の3選択肢が意識された。総選挙までは。
その様子が変わって、都議選では共産党という新たな受け皿が、現実的な選択肢として意識されるようになった。理由はいろいろあろうが、政策が一貫し、明快で、しかもぶれないことが評価されてきたのだろう。
「共産党の理論や政策はもっとも筋が通っていてるが、投票しても当選しそうにない。死票にするのはもったいないから、アンチ自民で当選しそうな政党に投票する」という一群の投票行動があったと思う。
しかし、事態は変化してきた。そもそも、自公に対決する政治勢力の本流が共産党となったではないか。まともなアンチ自民勢力は共産党を措いてないに等しい状況ではないか。憲法・原発・福祉・雇傭・教育・格差貧困・経済・財政・外交・安全保障…、いかなる分野でも、自公対共産の対抗軸で政策が争われている。
共産党の政策はよいけど、投票はそれに近い中間政党に、という途中下車の必要はない。途中下車こそがもったいない。大切な一票を生かしきるためには、「第3極」や中間政党に途中下車することなく、目的地までのご乗車をお薦めする。そうでなくては、せっかくの乗車の甲斐もなくなる。
この1年、自民党の「日本国憲法改正草案」をサンドバッグのごとくに叩き続けてきた。保守政党から右翼政党に変身した自民党のホンネをさらけ出したものとして、突っ込みどころ満載。自民党とは何物であるのか、これ以上に雄弁に語るものはない。ようやくにして、その内容は多くの人々に知られるようになって、参院選の争点として恰好のターゲットとなるはずだった。
ところがどうだ。本日の「毎日」一面に、「自民、改憲草案見直しへ」「発議要件・表現の自由焦点」の見出し。記事の内容は「党内の不満が96条の改正にとどまらず、草案全般へ波及している」「参院選後に本格的な作業に着手する見通し」という。おいおい、サンドバッグを引っ込めようというのか。では、今回選挙では、改憲問題をどう訴えようというのか。
同紙2面の「憲法改正考/上」というコラムには「『野党・自民』草案右傾化」「党内に異論・不満も」という見出し。いったいなにゆえに、かような右寄り草案となったかの事情が書かれている。どうやら、下野した自民党が「政権奪還を目指し、選挙で保守層に呼びかける意図」からのものということのようだ。いずれにせよ、自民党のコアな支持層にフィットしようとすれば、このような古色蒼然たる右翼的改正草案の形とならざるを得ないのだ。
政権に復帰して、事情は変わったということらしい。「自民党中堅議員は『地元の支持者には自民党の改正草案を、最近、初めて知った、という人が多い。あまりに保守色が強すぎて評判はよくない』とこぼす」とのことで、そのような中堅層の意見を容れて保守色を薄めようというものらしい。とはいえ、具体的にどのような案になるのかは、今のところ見当もつかない。
さて、一面、批判は通じるものだという感慨を禁じ得ない。多くの人の声は、確実に政権政党にも届くものとなるのだ。政権政党とて、正論には耳を傾けざるを得ない。そのような小さな勝利感はもってもよかろうと思う。
他面、自民党の変わり身の早さに驚かざるを得ない。選挙に勝つためであれば、何でもやる。何でもありなのだ。選挙を目前に、上手に本心を隠そうという票遁の術。これに欺されてはならないと思う。
私は心から思う。この改憲草案は、記念碑的存在である。消し去るにはまことに惜しい。無形文化遺産として永遠に残しておくべきである。21世紀に入っての我が国の政権政党のホンネを語る資料として。また、その知的水準を示すものとして。
**************************************************************
『元防衛官僚の反省』
今話題になっている「検証 官邸のイラク戦争 元防衛官僚による批判と自省」(柳澤協二著 岩波書店)を読んだ。
著者は防衛審議官、防衛庁長官官房長を経て、02年に防衛研究所所長となり、04年から09年まで内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)を歴任した。「小泉、阿部、福田、麻生4代の総理に仕え、官邸の安全保障戦略を実施する立場で政権を支えてきた」人である。
「国際法的に乱暴とも見えるイラク戦争を支持し」たのはルール無視のイラク以外の国の思惑を放棄させるためであったという。ところが、その後イランも北朝鮮も、核戦争の野望を捨てないどころか、着々とその能力を高めている。「自分のやってきたことは意味があったのだろうか、との疑問がこの本を書いた動機」だと述べている。
以下要旨。
「そもそもイラク戦争は、『国際紛争を解決するための武力行使』として、日本国憲法によって禁止され、政府が一貫して否定してきた類いの戦争であった。それなのに同盟維持や防衛力強化を任務としていた自分たちは、『アメリカの真の同盟国』となりたいがために、不安を無視してイラク戦争への積極加担を選択してしまった。
しかしその後、日本を取り巻く東アジア情勢は劇的な変化を遂げている。世界はグローバル化し、軍事的な抑止より、技術、貿易、資源、金融、文化交流が紛争解決の有効な手段となっている。国家間の対立要因もイデオロギーではなく、歴史と伝統に根ざした多様なアイデンティティーに変わった。これを軍事的に解決するのは不可能で、相互の認識の違いを理解し、受け入れるしかない。アメリカはイラク戦争、アフガン侵攻をとおして、これを深く理解した。
アメリカは、今回の日中、日韓の領土問題に不介入のメッセージを送っている。アメリカは今後とも「日本を守る」抑止力を提供するだろうが、それは、アメリカの国益にかなう場合に、国益にかなうやり方で守るのであって、日本が守ってほしい場合に、日本が望むような方法で「守ってくれる」わけではない。
日米同盟は自由と民主主義という共通の価値観での結びつきとして、常にアメリカにすがりつこうとしても、とうてい通用しない。アメリカお任せではない、日本独自の国際秩序、安全保障の考え方をもたなければアメリカのお荷物になってしまう。」
全くもってその通り。国家の中枢からほど遠く、格別の情報に接する機会のない、私のような一市民だってずつと一貫してそう思ってきた。憲法違反の無駄なイラク戦争に莫大な税金を使うのは間違っている。日本を守ってくれるはずもないアメリカと、日本国憲法にそぐわない「日米安保条約」にいつまで引きずられていなければならないのか。そもそも自衛隊の存在自体が憲法違反ではないか。日本は軍事にお金を割く余裕はない。
著者はこの本の出版について「ともに政策を立案し、実行した上司、同僚は不愉快に感じられるかもしれない」と述べている。しかし、心配は無用。こうした考えに到達できて良かったねと祝福してくれる人の方が多いはずだ。だからこの本が話題になっているのだ。
惜しむらくは、著者が自衛隊と日米安保条約の存在自体の合理性や合憲性についてどう考えているのか、曖昧なままであることだ。この点については、先輩の教えであるという「自分なりの論理をつきつめること」に躊躇しているようにすら見える。
印象に残るのは、イラク戦争中に人質となった日本人に対して、「自らの良心に従ってイラク人救済の活動をしようとしていたことは否定できない。そういう国民をどう評価するかは、民主主義を標榜する国家の真価を問われる問題であった。『善意の日本国民に対するテロは許せない』というのが、政府の出すべき最初のメッセージでなければならなかったのだと思う」と自省していること。
あのときの「人質を救え官邸デモ」の緊張感を思い出しつつ、私たちのあのときの思いは、時を経て政府の中枢に位置する人にも伝わったのかと、感慨を新たにした。
(2013年7月2日)
7月になった。今年の元日にブログを再開して以来半年。間借りしていた日民協のホームページから独立して3か月。毎日更新を続けてきた。現実化しつつある「改憲の危機感」に駆られてのこと。自力で可能な抵抗の試みである。
このブログの設定も維持もまったく費用はかからない。だれにでもできる、社会への発信手段としてこれで十分だ。飾りもなく、衒いもない、シンプルなこのブログのスタイルは、だんだんと気に入っている。
「憲法日記」として、読むに値するものとなっているのでないだろうか。自分なりに快調に飛ばしているという思いがある。
まず、テーマに困ることはない。むしろ、ありすぎて困るほどだ。
「石川や浜の真砂は尽きるとも、世に憲法問題のタネは尽きまじ」なのだ。
そして、何でも書ける。だれにも、何の遠慮も要らない。精神衛生的には絶好調である。
一次情報に接する機会あれば、できるだけ提供するように心掛けている。二次情報をネタにしたものでも、その取扱いの切り口には自分らしさを出すようにしている。素人の感想文では読むに値しない。さりとて、研究者の論文では読ませるものとならない。読むに値し、読ませる内容で、継続したいと思っている。
しかし、問題はいくつかある。まず、長文に過ぎるという苦情がある。「文章の長さだけで、辟易する」「読んでもらいたければ短く収めること」そう言われるのが悩みのタネ。さて、どうするか。ここが思案のしどころである。
**************************************************************
ときどき、まったく知らないことを教えられて、「さすが記者」と感心することがある。その一例。6月28日の毎日・「金言」(金曜日の言)というコラムに西川恵編集委員が次のように指摘している。
「この半年、安倍晋三首相は精力的な首脳外交を展開しているが、目を引くのは外国訪問で「慰霊」を意識的に日程に組み込んでいると思われる点である。首相の日々を新聞で拾うと、13カ国のうち5力国で、無名戦士の墓や追悼記念碑に献花し、黙とうする儀式に臨んでいる」「米ワシントンのアーリントン墓地(2月)を皮切りに、露モスクワ(4月)、トルコ・アンカラ(5月)、ミャンマー・ヤンゴン(同)、ポーランド・ワルシャワ(6月16日)。これほど「慰霊」を行っている首相は過去いないのではないか」
この指摘は、同首相の靖国神社参拝の布石との疑念を生じさせる。「外国では当たり前のこと。我が国でも」と言う口実にもなるし、相互主義の名のもと、外国の首脳をともなっての靖国参拝を目論んでいるのではないかという「邪推」もせざるを得ない。
しかし、西川記者は次のエピソードを紹介している。
「西独(当時)を訪問したレーガン米大統領が、同国のコール首相の求めでルクセンブルクに近い国境の独軍将兵らの墓に詣でたことがある(85年)。ところが直前にナチス親衛隊員が合まれていることが分かり、米世論が反対し、米上下両院も墓参反対を決議した。同大統領はユダヤ人の強制収容所も訪問し、墓参も短縮してバランスをとった。こうしたリスクをとった外国首脳を私は他に知らない。」
つまりは、A級戦犯を合祀したままでは、外国首脳の靖国参拝は困難なのだ。「A級戦犯が合祀されている靖国神社への参拝は、過去の戦争の正当化だ」との批判に曝されることになり、「1978年、靖国神社がA級戦犯を合祀して以降、来日する外国首脳は議論の多い同神社に足を踏み入れるのを避けている」ことにならざるを得ない。
しかし、「安倍のリスク」は、経済ばかりではない。中・韓・米・英・蘭などとは異なる、我が国による戦争犯罪被害とは無縁の国の首脳をともなっての参拝の強行はありうるのではないか。また、安倍自身が外国での慰霊を積み重ねて、自国では戦没者慰霊をせぬことの不自然さを演出しようとしているのではないか。油断をすると、危険極まりないことになる。
西川記者は、ドイツの例などに倣って、日本でも、外国首脳が戦没者を慰霊する仮の場所を設けるべきと提案して、「慰霊の非対称解消を」唱道する。たとえば千鳥ヶ淵墓苑を、そのような「外国首脳が戦没者を慰霊する仮の場所」とする具体的な提案である。この提案が「靖国派」から大きな反発を受けることは必定だが、それだけではない。おそらくは「反靖国派」からも、疑問符を突きつけられることになろう。
靖国問題の本質は、A級戦犯合祀にあるのではない。靖国神社という宗教性にあるのですらない。国家が戦没者の魂の管理を独占するところにある、という考え方が広範にある。A級戦犯分祀によっても、靖国神社という宗教性の払拭によっても、国家の名による戦没者の魂の管理の独占がある限り、「靖国問題」の真の解決はない。
(2013年7月1日)
私は日本国憲法。日本国民を親として66年前に誕生し、国民に育まれて今日に至った。幸いにして、これまで身体髪膚の毀傷なく、親への不幸はない。
しかし、私は、必ずしも国民全てから等しく愛され慈しまれてきたわけではない。一部の人からは、蛇蝎のごとく嫌われ、公然と悪口を言われてもきた。そのことは私の宿命であり、私にとっては覚悟のこと。私のもっとも重要な役割は、一部の人の権力や富や権勢を抑制することにあるのだから、この世で権力や富や権勢に近い人ほど、私を疎ましいと思うことは当然なのだ。だから、私を嫌う人がいればこその私の存在価値である。だれからも等しく歓迎される私であっては、私が私でなくなってしまう。
私は、恒久の平和を宣言している。多くの国民は、これを歓迎している。だが、戦争を歓迎する国民もけっして少なくない。古来戦争は、一部の人に莫大な富をもたらした。過剰な権力欲や名誉欲をもつ者にとってはこの上ないチャンスである。激情に駆られた民衆が敵国への憎悪をたぎらせて戦争を支持したのはつい先頃のことだったではないか。いま、あからさまには戦争を欲すると言えない。「武力なくしては近隣諸国になめられる」「いざというときのために武力の備えをしておかねば外交もうまく行かない」という口実で、私は攻撃されている。
私は、なによりも個人の尊厳を重んじ、国民の人権を保障することを宣言している。これも多くの国民が歓迎しているところだが、「個人よりは国家」「自由よりも秩序」を重んじるべきだ、と叫ぶ人もけっして少なくはない。「権利を主張するばかりで義務を重んじないことが怪しからん」、と私は攻撃を受けている。
天皇を軽んじすぎる。日本の歴史・文化・伝統に配慮が足りない。家族の価値を軽視している。自助努力を重視せよ。憲法改正の要件が厳格に過ぎる。‥いくつもの批判や非難がなされている。批判や非難を自由に言えることは、私が認めていること。存分に、私が保障する表現の自由を享受していただきたい。
とはいうものの、その私も選挙の度に考えこむ。長く、この国で政権を取ってきた自民党という政党は、私を嫌う勢力の中心に位置する。結党以来一貫して「自主憲法制定」を党是としてきた。私自身が定める憲法改正手続によってではなく、私とは無関係のまったく別の新たな憲法を作ろうというのだ。2010年の新綱領でも、憲法改正ではなく「新憲法の制定」が目標として謳われている。そして昨年、この政党は到底私が容認し得ない、「憲法改正草案」を公表している。この政権政党が両議院において3分の2を超えることになったら、私の運命はどうなるのだろうか。
私は、多元的な価値を容認する立ち場で一貫している。その立ち場こそが、人類の叡智が到達した普遍性をもつ公理であると宣言している。しかし、この普遍性を攻撃する立ち場から私にレッドカードを突きつけられるようになったら、これは大事件だ。取り返しのつかないことになる。
かつて、私を大切に思う国民の意思は、国会内に、日本社会党を中心とした「3分の1の壁」を築いた。そのためもあって、自民党も本格的な改憲の動きに出ることは長くあきらめていた。ところが、今、その壁はあとかたもない。そして、自民党も変わった。なによりも、私を邪魔にし、私を追い落とそうと執念を燃やす人物を総裁とし、首相としたのだ。その名を安倍晋三という。
いつの選挙も重要である。重要でない国政選挙などあろうはずもない。しかし、7月4日公示21日投票の今回参院選は、私の運命を占う意味で、格別の重要性をもつものとなっている。昨年12月16日総選挙の結果、衆議院は既に自民党が294議席を獲得し、連立政権を組む友党公明と併せて325議席となった。この2党で、3分の2(320議席)を超えている。それだけではない。維新という極右政党が54議席をもっている。公明を上回る勢力だ。みんなの党という積極改憲派も、18議席。このような、衆院の改憲派優勢下での参院選なのだ。私の心配も杞憂でないことがお分かりいただけよう。
価値中立であるはずの私が選挙を語ることはおかしい。そう、自分ながら思わないわけではない。しかし、既に緊急事態である。私にも「自衛権」「正当防衛権」を認めていただきたい。人権や、民主々義や、平和を大切にする人々に訴えたい。私の退場を求める自民党とその同盟者には投票を差し控えていただきたい。維新や、「みんな」という明確な改憲諸党にもである。
投票前には、是非とも各党の憲法政策をよくお読みいただきたい。改憲阻止・憲法擁護を明確にしている政党への投票をお願いしたい。民主党は明確な改憲政党ではないが、しっかりした改憲阻止政党でもない。かつては論憲を言い、創憲とも言った。今は「未来志向の憲法を構想する」と言っており、その中身は不明確である。
自民党の改憲主張と対極をなすのが日本共産党である。憲法論争も、自共対決となっている。現行憲法のあらゆる条項を厳格に守るとの姿勢において、共産党の態度は揺るぎなく一貫している。私を守るのか、換えてしまうのか。政党レベルでは、共産党と自民党が、太い対決軸をつくっている。自民の改憲策動が本格化すれば、対抗関係にある共産党の議席が伸びる、得票数が伸びる、選挙結果がこのようになれば、改憲の策動に大きなブレーキがかかることになる。はからずも、現時点では、私の命運は共産党の消長とともにある。
日本共産党が、唯物弁証法の哲学を持つとか、コミュニズムの未来社会を構想しているとか、そのようなことへの賛否はさて措いてよい。私は、私の命運を懸けて、改憲阻止の一点で、信頼に値する共産党の健闘に期待したい。
(2013年6月30日)
けんぽうってなにかな。
ぼくは、かんがえたよ。
いばるひとがいない。
えらい人もいない。
みんながのびのび、
そしてげんき。
たんぼはみどりで、
みなとには、フェリーがとまっていて、
たのしくはたらいて
おなかがいっぱい。
たすけあって、
こどももえがお。
おとなもえがお。
ねこもわらう。
やぎがのんびりあるいてる。
はんげしょうがあめにひかって、
うみには、かめやかじきがおよいでる。
やさしいこころがにじになる。
けんぽうっていいね。
けんぽうってうれしいね。
どこのくにともなかよし。
せんそうはしない。
せんそうは、おそろしい。
「ドドーン、ドカーン。」
ばくだんがおちてくるこわいおと。
おなかがすいて、くるしむこども。
かぞくがしんでしまってなくひとたち。
ああ、ぼくは、
このけんぽうがあって、
けっしてせんそうをしない、
このくににうまれてほんとうによかったよ。
このけんぽうが、ずっとつづいてほしい。
みんなのえがおがずっと、つづいてほしい。
けんぽうがかがやくぼくのまち、
けんぽうがかがやくこのくに。
けんぽうってすてきだね。
これからもずっと、
いまのけんぽうがつづくように。
ぼくも、ぼくのできることからがんばるよ。
*******************************
『ハンゲショウ(半夏生)』
半夏生は72候の一つ、夏至から11日目。ちょうど今頃にあたる。
同じ名前をつけられた、ドクダミ科の植物がある。細いひものような蕾が茎のてっぺんのほうにつく。そうすると不思議なことに、その花茎の下から出る葉っぱの基部から半分くらいが真っ白に変わる。暗い梅雨のせいで、この時期に一段と目を引く。これが「半化粧(ハンゲショウ)」の名の由来であろう。「片白草(カタシログサ)」の別名もある。
細いひもの回りにこびりついた芥子粒のように、薄黄色に咲く花は目立たないけれど、大きな白い花弁のような葉っぱが受粉を助けてくれる昆虫を引きつける。ドクダミの仲間だけあって、繁殖力は旺盛で、ほかの植物を押しのけて、湿った日陰を占拠する。春先出てくる、親指ほどの太さの新芽は、おひたしにでもしたら美味しそうな感じがするが、独特の強い臭気にひるんでまだ食べたことはない。
花が咲く頃、葉っぱが白くなるのは「マタタビ」も同じ。夏に近くの山はだを見ていると、白い花が咲いているように見えるのが、白変したマタタビの葉っぱ。その場所を良く覚えておけば、晩秋に実を収穫できる。果実酒に作ったり、猫に喜ばれたりする。
ハンゲショウもマタタビも実が結ぶと、葉っぱはもとの緑色に戻って、魅力的な白さは影も形もなくなる。こんな変わり身の、人とか政党とか、思いあたりませんか? 気をつけましょうね。
またまた、都教委の暴挙。私は怒りが治まらない。
昨日(6月27日)の都教委定例会は、下記の議決を採択した。少し長いが、全文をお読みいただきたい。これが、「委員の総意の下の議決」と発表されている。傍聴者の報告では、司会者の木村孟委員長を除いて、誰の発言もないままの議決だったとのこと。
標題「平成26年度使用都立高等学校(都立中等教育学校の後期課程及び都立特別支援学校の高等部を含む。)用教科書についての見解」
本文「都教育委員会は、各学校において、最も有益かつ適切な教科書が使用されるようにしなければならない責任を有しており、教科書の採択に当たっては、採択権者である都教育委員会がその責任と権限において適正かつ公正に行う必要がある。
平成26年度使用高等学校用教科書のうち、実教出版株式会社の「高校日本史A(日A302)」及び「高校日本史B(日B304)」に、「国旗・国歌法をめぐっては、日の丸・君が代がアジアに対する侵略戦争ではたした役割とともに、思想・良心の自由、とりわけ内心の自由をどう保障するかが議論となった。政府は、この法律によって国民に国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし一部の自治体で公務員への強制の動きがある。」という記述がある。
平成24年1月16日の最高裁判決で、国歌斉唱時の起立斉唱等を教員に求めた校長の職務命令が合憲であると認められたことを踏まえ、都教育委員会は、平成24年1月24日の教育委員会臨時会において、都教育委員会の考え方を、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」(別添資料)にまとめ、委員総意の下、議決したところである。
上記教科書の記述のうち、「一部の自治体で公務員への強制の動きがある。」は、「入学式、卒業式等においては、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導することが、学習指導要領に示されており、このことを適正に実施することは、児童・生徒の模範となるべき教員の責務である。」とする都教育委員会の考え方と異なるものである。
都教育委員会は、今後とも、学習指導要領に基づき、各学校の入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱が適正に実施されるよう、万全を期していくこととしており、こうした中にあって、実教出版株式会社の教科書「高校日本史A(日A302)」及び「高校日本史B(日B304)」を都立高等学校(都立中等教育学校の後期課程及び都立特別支援学校の高等部を含む。以下「都立高等学校等」とする。)において使用することは適切ではないと考える。
都教育委員会は、この見解を都立高等学校等に十分周知していく。
都教育委員会は、委員総意の下、以上のことを確認した。
平成25年6月27日 東京都教育委員会」
要するに、実教出版教科書の「日の丸・君が代強制」に関する記述が気に食わないから、都立校では使用させないというのだ。なんという、「日の丸・君が代強制」問題へのこだわりようだろうか。なんという、思い上がった非民主的な権力体質。これでは日本国憲法下での教育を語る資格はない。国定教科書時代の教育への逆戻りではないか。「人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有する」という教育委員の要件が泣いている。
いうまでもなく、実教出版の教科書は検定を合格している。しかも教科書調査官の修正意見に応じてのこと。
「実教出版の日本史Aには11年度の検定で『政府は国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし現実はそうなっていない』との記述に文部科学省の意見がつき、後半を『公務員への強制の動き』などと書き換えて合格。文科省によると、日本史Aの全国シェアは約14%という。」(毎日)
もう一度、都教委が不適切とした記述をお読みいただこう。
「国旗・国歌法をめぐっては、日の丸・君が代がアジアに対する侵略戦争ではたした役割とともに、思想・良心の自由、とりわけ内心の自由をどう保障するかが議論となった。政府は、この法律によって国民に国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし一部の自治体で公務員への強制の動きがある。」
まずは、この記述の正確さを確認しよう。資料にあたるまでもなく、誰が読んでもその正確性は明白だ。国会の審議経過がこのとおりであることも、「一部の自治体」が東京都や大阪府を指していることも自明のこと。
ところが、「都教委幹部は、『公務員への強制』という表現は明らかに間違っており採用するわけにはいかない、と話している」というのが毎日の報道。いったい、この教科書のどこに間違いがあるというのか。どんな不正確があるというのか。言えるものなら、具体的に言ってみろ。さすがの文科省検定調査官さえ、これ以上は一字一句文句の付けようもないとして、検定合格とした記述だ。
都教委の10・23通達と、それに基づく各校長の起立・斉唱・伴奏の職務命令、そしてこれに従わないとしての苛酷な懲戒処分、これを『公務員への強制』と言わずして何というのだ。東京都だけで、懲戒処分件数は450件に達している。「強制は間違い」という都教委幹部の言は、嘘も甚だしい。恥を知れ。
もっとも、この教科書の記載が正確なことは、実は都教委もよく知っている。正確な記述であればこそ、骨身に沁みて痛い。痛いからこそ、教科書として使われることを拒絶したのだ。
先に見たとおり、都教委の決議は教科書を排斥する理由を「都教育委員会の考え方と異なるものである。」と明言している。つまりは、都教委には、特定の考え方がある。この考えとは異なる教科書の使用は不適切である。たとえ検定に合格した教科書でも都教委の考え方と異なるものは認めない、というのである。これでは、子どもたちの真実を知る道を閉ざすことになる。
公権力が特定のイデオロギーをもってはならない。特定の考え方を押しつけてはならない。だから、国定教科書がなくなった。にもかかわらず、都教育委員会の考え方と異なるものであることを理由に特定の教科書排除を広言していることに驚かざるを得ない。これを国定教科書時代への逆戻りというのだ。こんな代物が「委員の総意の下の議決」とされている。民主々義のイロハも弁えぬ教育委員諸氏よ、恥を知れ。
なお、前掲議決中に引用されている「平成24年1月24日の教育委員会臨時会議決」とは、同月16日の最高裁判決に動転した都教委が急遽臨時会を開いて校長らの動揺を鎮めようとしたもの。
「国歌斉唱時の起立斉唱等を教員に求めた校長の職務命令が合憲であることは、平成24年1月16日の最高裁判決でも改めて認められたところである。都教育委員会は、この最高裁判決の趣旨を踏まえつつ、一人一人の教員が、教育における国旗掲揚及び国歌斉唱の意義と教育者としての責務を認識し、学習指導要領に基づき、各学校の入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱が適正に実施されるよう、万全を期していく」という内容。
この1・16最高裁判決は二面性を持っている。その一面は、10・23通達とこれに基づく起立・斉唱等の職務命令を違憲とまでは判断しなかった。この点は、教員側に不満の残るところである。しかし、同判決は都教委を厳しく指弾するもう一面を有している。すなわち、「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する行為や君が代の伴奏をする行為」が、客観的に国家に対して敬意を表明する行為であることを認め、その行為の強制が命じられた教員の思想・良心を侵害する側面をもつことを明瞭に認めた。そのうえで、懲戒処分のうちもっとも軽い戒告は、実害のないものとして処分有効であるが、減給・停職など実害を伴うものについては、これを処分違法として取り消したのである。
以前にもこのブログに書いたが、懲戒処分は、軽い方から戒告・減給・停職そして極刑としての免職まで4段階ある。1・16判決以前には、都教委は処分量定を累積加重の取扱いとしていた。初回の不起立で直ちに戒告、2回目は減給(10分の1)1か月、3回目は減給6か月、4回目となると停職1か月、5回目停職3か月、6回目停職6か月。そして、おそらく7回目は免職を予定していた。
われわれは、都教委が発明したこの累積加重の処分方式を、「思想転向強要システム」と名付けた。信仰者には「背教強要システム」でもある。不起立・不斉唱は思想・良心に基づく行為である以上、思想や良心を都教委の望む方向に変えない限り、処分は際限なく重くなり最後には教壇から追われることになるのだ。
行政に大甘の最高裁も、さすがにこれはひどいと思ってくれた。1・16最高裁判決は、都教委の「思想転向強要システム」「背教強要システム」を断罪した点で、都教委には痛恨の判決であったのだ。しかも、補足意見に見るべきものがある。都教委をたしなめ、強制を排して現場を正常化せよとの裁判官の肉声が聞こえる。
このような自らに不都合な判決内容はことさらに無視して、あたかも都教委の暴走を最高裁が容認したかのごとく描き出す、その破廉恥な態度も不愉快極まる。もう一度、申し上げよう。東京都教育委員の諸氏よ、恥を知りたまえ。
(2013年6月28日)