澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

靖国神社A級戦犯分祀論の危険な側面

たまたま内田雅敏さんと弁護士会で出会った。待っていましたというがごとくに、刷り上がったばかりという自著を手渡された。「第一級の靖国論だから読め」とのたまう。サラリとこう言えるところが、いかにも内田さんらしい。

「天皇を戴く国家」という主書名に「歴史認識の欠如した改憲はアジアの緊張を高める」という長い副題がついている。内田雅敏著・株式会社スペース伽耶発行、初版第1刷の発行日が2013年6月15日。この日付は特に選んでの設定なのだろう。定価は800円+消費税。奥平康弘さんの推薦文という折紙付きである。

頷くところがほとんど。達者な文章だし、個性的な切り口に感心するところも少なくない。が、見解を異にする一点がある。

「無断合祀による戦死者の独占という虚構こそが靖国神社の生命線」という内田さんの論述にはまったく同感だ。だから、靖国神社はいったんした合祀の取り下げには絶対に応じない。取り下げを認めると、戦死者の独占という虚構が崩れてしまうから。これも指摘のとおりだろう。

内田さんは、さらに進んで「だから、東條英機らA級戦犯を合祀した以上は、靖国神社はA級戦犯の合祀取り下げはできない」という。「靖国神社の歴史認識からすれば、A級戦犯こそ靖国神社にふさわしいのであって、同神社はA級戦犯の分祀をなすことはできない」と結論する。ここにいささかの異議がある。

今のところ、靖国神社は「教義のうえから分祀はできない」という。しかし、靖国神社に格別の拠るべき教義がある訳ではない。信教の自由を盾にし、教義を口実にして分祀論の圧力に抵抗しているだけのことである。

陸・海軍省の共管であった宗教的軍事施設・靖国神社は、敗戦時、宗教法人となるか、国立メモリアルとなるかの選択肢があった。後者であれば、全面的に宗教色を払拭しなければならない。で、前者の道を選んだ。

こうして靖国神社は一宗教法人にはなったが、国との関係を断ち切ることはしなかった。国と靖国神社と両者の思惑の一致があったからである。共犯関係となったと表現してもよい。厚生省援護局が戦没者名簿を調製して靖国神社に渡し、神社がこれに基づいて「祭神名票」をつくって合祀の対象とする。この関係が続いた。

A級戦犯についても、同様に厚生省が調製して靖国神社に渡された名簿に記載されているのだ。当初は東條英機元首相ら12人、後に松岡洋右と白鳥敏夫が追加されて14人となっている。これについて、神社の総代会では合祀が了承されたものの、当時の筑波藤麿宮司の在職中は実施されなかった。

筑波に代わって松平永芳が宮司となってA級戦犯合祀が強行された。1978年の10月とされている。しかし、神社はこれを秘密とした。人の知るところとなったのは翌79年4月の新聞報道においてである。同神社はこれを「昭和殉難者」と呼んでいる。なお、後に明らかにされた「富田メモ」では、この合祀を知って天皇に不快の発言があったという。

A級戦犯の合祀を問題視し、これを祭神から分祀して合祀を取り下げるべしとの意見は一貫して存在した。水面下では、具体的な動きもあった。板垣正元参院議員は、その著書『靖国公式参拝の総括』(展転社2000年6月刊)において、同氏が官邸からの要請で水面下でA級戦犯の合祀取り下げについて遺族や靖国神社との折衝にあたった経過を明らかにしている。これによると、「白菊遺族会(戦犯者遺族の会)」の会長の同意をえることまではできたが、東條英機元首相の長男(東條英隆氏)の反対で頓挫したという。

「A級戦犯」分祀論は、主として国外からの靖国神社公式参拝批判をかわす目的から出てきている。国外だけでなく、国内世論としても、「戦争の加害者と被害者の同列合祀には釈然としないものが残る」という趣旨の批判の声が高い。そして、「天皇の靖国神社親拜を実現するには、なによりもA級戦犯の合祀取り下げが必要だ」という論調まである。

この問題の本質は戦争責任観にあると思う。「一般の戦没将兵は戦争の被害者で、14名のA級戦犯が加害者」という観点からは、分祀あってしかるべきとなる。しかし、一億総懺悔の立ち場からも、一億総加害者論の立ち場からも、分祀は些細な問題でしかないこととなる。

私は、戦争責任はなによりも天皇にあると考えている。天皇の戦争責任追求をタブーとし国民自身で明確にできなかったことが、戦後国民精神史の諸悪の根源と思っている。分祀問題においても、A級戦犯の戦争責任は論じられるが、天皇の責任は看過される。「A級戦犯を分祀すれば、国外からの批判もなく、天皇の親拜も可能となる」では本末転倒も甚だしい。

「靖国神社の歴史認識からすれば、A級戦犯こそ靖国神社にふさわしい」という内田さんの指摘には、全面的に賛意を表する。しかし、「同神社はA級戦犯の分祀をなすことはできない」との結論には異議を述べざるを得ない。靖国神社が教義や信念を持っていて、それに忠実であろうとしているというのは、買いかぶりではないだろうか。

突然、あるときにA級戦犯14名について、「分祀と遷座が完了した」と発表される日が来るのではないか。そして、多くの閣僚や議員が堂々と「A級戦犯合祀のない靖国神社」を参拝し、この輩が「外国の批判もなくなった。天皇の参拝を要請する」と言い出すことになるのではないか。その確率は、次の原発事故が起こるよりも遙かに高い。

A級戦犯合祀批判は、重要ではあるが靖国神社批判の一部にしか過ぎない。靖国神社批判の本質は、A級戦犯を祀っていることにあるのではない。むしろ、庶民出身の兵士の戦没者を祭神として祀り顕彰しているところにある。その戦死の意味づけを通じて戦争を肯定していることにある。その視点を明確にしておかなければならない。

**********************

  『グミ(茱萸)とザクロ(石榴)』
グミというと今の子どもは、多分、ゼラチンで出来たお菓子のグミを思い浮かべるだろう。あのグニュグニュしたガムのようなお菓子ではなくて、木に成るグミ(茱萸)という実がある。梅雨が始まる今頃、種が透き通って真っ赤に実る。年配の人は、庭や近所に赤い実のなる木のあったことを懐かしく思い出すだろう。お菓子などなかつた子どもの頃は、グミが赤く色づくのを待ちかねて食べたものだ。
2年ほど前に値落ちの鉢植えを買って庭におろしておいたグミの木に、たわわに実がなった。大きな実のなる「ビックリグミ」という種類だと説明がついていた。とても成長の早い木だ。スラリと伸びた枝にプランプランと重いほどの実を付けている。実を結んだ順に、赤、オレンジ、黄色、グリーンと実の色が違っているのが美しい。透き通るように赤く熟れて、触るとポロリと落ちそうなのを選んで口に入れてみる。ああこんなものだったのかと納得する。トロリと甘いけれど、舌の上に苔でも生えたように渋みが拡がる。試しにオレンジ色が残った堅めの実を食べてみると、口中がシブシブに麻痺したようになる。グミは葉っぱにも白い花にも赤い実の表面にもザラザラした細胞がついている。青柿と同じく、タンニンという渋みで全身武装している。これでは今の子どもは食べないだろうと思う。今の私も、昔のように、たくさんは食べられない。やっぱり観賞用だ。茂った緑のなかのルビーのような実の美しさを楽しめばいい。しばらくすれば小鳥が訪れて、渋みなんか何のその、喜んで食べてくれる。
万緑叢中紅一点のザクロの赤い花もいま盛りの季節。秋になると丸い手投げ弾のような形をした実がなる。硬い皮の中に透き通ったルビーのような小さな実がギッシリつまっている。こちらは甘くて渋みはないけれど、種がいっぱいで食べるのに苦労する。グレナディンジュースを作ったり、果実酒を作る人もいる。形が面白いので、机の上にでも転がしておいて楽しんだり、絵を描く人には良い画材になる。木にそのまま冬まで残しておけば、メジロやヒヨドリがご執心で通ってくる。
両方ともかなり原始的な植物で、実がよく成る。種の多いザクロなどは多産の象徴になっている。しかし、日本では品種改良はあまり取り組まれていない。商品価値がないのだろうか。渋みのないグミや種のないザクロを作ったところで、正体不明として退けられ、人気が出そうにない。美味しいものが身の回りにあふれている時代には、歓迎されそうにもない。贅沢なことだけれど、少し寂しい。
(2013年6月6日)

呉市・鯛乃宮神社における佐久間艇長追悼式の憲法問題

昨日のブログに掲載の第六潜水艇沈没・佐久間艇長事件は、過去形だけで語ることができない。事故の起こった日の4月15日には、毎年追悼式が行われることで、現在に尾を引く問題となっているからだ。しかも、式には自治体がからみ、公立学校の子どもたちが動員されている。

追悼式は、潜水艇の基地のあった呉市の鯛乃宮神社と、事故現場に近い山口県岩国市、そして佐久間の出身地である福井県三方町の佐久間記念館の3か所で行われている。今年が104回目だという。

誰が誰の追悼式を行おうと、我が国の憲法では自由である。しかし、それは私人が自分の意思で行動する範囲でのこと。自治体が絡んだり、事実上の強制が行われれば、憲法問題となりうる。とりわけ、子どもの教育に関わって、授業を潰して参加させられた参列の子どもに特定のイデオロギーを吹き込むとなると問題は俄然大きくなる。

以下は、政教分離問題での情報の収集者であり、発信者ともなっている辻子実さんからの情報。今年の鯛乃宮神社での追悼式の模様は、問題意識を持って今年初めて参加したという奥田和夫市議会議員(日本共産党)の報告に拠れば下記のとおりであったという。

この式の主催は『呉海上自衛隊後援会』、会長は神津善三朗氏(商工会議所会頭)です。第6潜水艇追悼式には呉中央小学校6年生が参加します。式が土、日の場合は希望者が、平日は全員が参加し、代表が言葉を読み上げています。
式が始まり、銃を持った自衛官が整然と行進して入ってきて「旗揚げ」の合図で日の丸を掲揚、その間「敬礼」まさに軍隊と同じです。追悼文を主催者が読み、中で、「参加した生徒の生きた教育になる」と述べました。市長も「人が責任を果たすとき生死を超える。先人の労苦で今の平和がある。遺志を引き継ぐ」
児童代表も作文を朗読しました。
「4年の時に授業で学習した。厳しい訓練や学習をを通し”強い心”を持った。最後まで持ち場を離れなかったのはすごいことだと思う」先生から「あなたたちならどうしましたか」と聞かれ、「逃げる」「我先に逃げる」自分も逃げると思った。家族などのために命尽きるまでがんばるのはすごいこと。自分のことばかり考えるのはよくないと思った。最後まで責任をもつことの大切さをを学んだ」
その後に献花、遺書奉読、献詠、追悼の演奏、国旗降下。間には10人の自衛官が空に向け、銃を3発撃つ場面もありました。

このような形で、自衛隊が旧軍との精神的なつながりを堅持していること自体が信じがたい。憲法の想定するところではない。天皇の軍隊において、天皇の軍人として殉職した者の追悼式を、日本国憲法の下にある自衛隊が執り行う。しかも、かつて天皇を神とした国家神道を支えた神社においての追悼式である。日本国憲法の平和主義・政教分離・教育を受ける権利・個人の尊厳等々の憲法的視点から望ましからざることは一見明白である。厳格な批判がないと、たちまちこのような形になってしまうという見本といってよい。

さて、この行事、「神社」と「自衛隊」と「市長」と「公立学校の児童」の4者が会しており、この組み合わせが憲法問題を引きおこしている。神社は、自衛隊・市長・児童のいずれとも親和性を欠き、公的な接触は憲法問題となりうる。神社における旧軍人の追悼式への市長の列席と、児童生徒の事実上の参加強制の2点が大きな憲法問題となり得る。関係者が飽くまで神社の敷地でこのような行事を続けたければ、呉市を切り離し、公立学校の行事とは無関係にし、さらに自衛隊とも袂を分かって、純粋に私的な行事として行うことだ。

まず追悼式への市長の参加である。憲法20条3項は「国及びその機関は、…いかなる宗教的活動もしてはならない」とさだめる。戦前の国家神道が国民の精神の内奥にまで立ち入ってこれを支配したことを許さない趣旨である。したがって、式が宗教的な行事であれば、市長が公的資格においてこの式典に参列したことは、「国の機関の宗教的活動」となって違憲違法な行為となる。

何が宗教的活動かについて、最高裁は津地鎮祭大法廷判決以来、「行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるか否かをもって」その限界を画するという目的効果基準を採る。しかし、これも「伸び縮みする物差し」であって、これで一義的に決まるわけではない。神社で行われたという「場所の性格」がもっとも重要な要素であろう。これに、職業的宗教者の式への関与の有無、神道形式の採用の有無、玉串料や神饌料・供物料その他の宗教的な献金がなされているか、などを詳細に検討しなくてはならない。

ついで、児童への出席強要の問題。これは戦前の天皇制政府による児童への宮城遙拝や神社参拝の強制を想起せざるを得ない。今どきの世に、児童生徒に対して戦前同様の強制をすることはできない。教職員に対する日の丸・君が代強制は、職務命令をもってなされた。教育委員会も校長も、特定のイデオロギーの教化を目的とした生徒への式典出席強制はできない。

この場合も、追悼式が宗教性を帯びるものである場合には、憲法第20条2項の「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」によって、論理は簡明となる。そして、20条2項の宗教性のハードルは、3項のハードルよりも格段に低いものとされている。

また、神社内で挙行される追悼式典への参加は憲法20条3項が禁じる宗教教育にあたる可能性もある。さらに、児童には憲法26条による「教育を受ける権利」が保障されている。特定のイデオロギーに基づく教育を拒絶する権利がある。

20条2項は、強制されない権利だから、保護者の意に反して強制することが違法になる。仮に、場所が神社でなく、しかも「宗教性を厳格に排した殉職旧軍人の追悼式」であったとしても、19条(思想良心の自由保障)の問題になりうる。19条には、20条2項に相当する規定がないが、やはり「何人も、自らの思想良心の侵害となる、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」権利の保障は当然にある。

声を出し、批判していくことが大切だと思う。政教分離、信仰の自由、教育の自由、そして平和と思想良心の自由を守るために。
(2013年6月5日)

軍国美談の真実と自衛隊

美談には、宿命的に胡散臭さがつきまとう。軍国美談となればなおさらのこと。
かつての国定教科書「修身」は数々の軍国美談で満ちているが、そのほとんどは荒唐無稽、胡散臭さが鼻について読むに耐えず、現代に通用するものはごく少ない。その中で、佐久間勉艇長の第六潜水艇沈没事件は、例外中の例外。今にしてなお、「責任感」や「使命感」、「勇気」「沈着」「集団の統率」などという徳目を語るに値する内容をもっている。‥そう思っていた。昨年までは。

昨年ある会合で、この分野の専門家である藤田昌士さんと同席する機会があってこの事件が話題になった。そのとき、「実はあの潜水艇事故は艇長の初歩的なミスから生じたものであり、しかも、上官の指示に違反しての航行だった」「海軍は、直後に徹底した事故調査をしており、その分析は厳格で軍国美談とは異質のもの」「最近の防衛庁の紀要に優れた研究論文がある」と教えられた。無能で独善的な若い将校が重大事故を起こした責任の部分は覆い隠しての軍国美談と理解した。同時に、海軍の事故調査の内容には関心を持ち、その紀要の論文を読んでみたいと思った。

本日、読みたいと思っていたその論文を読む機会を得た。なんと、インターネットで容易に手に入るのだ。山本政雄氏(2等海佐、戦史部第1戦史研究室所員)の「第六潜水艇沈没事故と海軍の対応ー日露戦争後の海軍拡張を巡る状況に関する一考察」というもの。これを読んで、驚きもし、感心もし、考えさせられた。

戦前の小学校六年生用「修身」の教科書に「沈勇」という標題で掲載されていた内容は以下のとおり。
「明治四十三年四月十五日、第六潜水艇は潜航の演習をするために山口県新湊沖に出ました。午前十時、演習を始めると、間もなく艇に故障が出来て海水が侵入し、それがため艇はたちまち海底に沈みました。この時艇長佐久間勉は少しも騒がず、部下に命じて応急の手段を取らせ、出来るかぎり力を尽しましたが、艇はどうしても浮揚りません。その上悪ガスがこもって、呼吸が困難になり、どうすることも出来ないようになったので、艇長はもうこれまでと最後の決心をしました。そこで、海面から水をとほして司令塔の小さな覗孔にはいって来るかすかな光をたよりに、鉛筆で手帳に遺書を書きつけました。
 遺書には、第一に艇を沈め部下を死なせた罪を謝し、乗員一同死ぬまでよく職務を守ったことを述べ、又この異変のために潜水艇の発達の勢を挫くような事があってはならぬと、特に沈没の原因や沈んでからの様子をくわしく記してあります。次に部下の遺族が困らぬようにして下さいと願い、上官・先輩・恩師の名を書連ねて告別の意を表し、最後に十二時四十分と書いてあります。
艇の引揚げられた時には、艇長飫以下十四人の乗員が最後まで各受持の仕事につとめた様子がまだありありと見えていました。遺書はその時艇長の上衣の中から出たのです。
格言  人事ヲ尽クシテ天命ヲ待ツ。」

最後の格言は取って付けたようで拙劣だが、ここで伝えられている限りでは佐久間の行動は感動的である。アメリカもイギリスも、軍人の鑑として賞賛を惜しまなかったという。漱石のような近代人をすら感動させたという逸話すらある。

その遺書は手帳39頁にわたるもの(原文はカタカナ)で、以下は抜粋。
 小官の不注意により
 陛下の艇を沈め
 部下を殺す、
 誠に申し訳なし、

 されど艇員一同、
 死に至るまで
 皆よくその職を守り
 沈着に事をしょせり

 我れ等は国家のため
 職に倒れ死といえども
 ただただ遺憾とする所は
 天下の士は
 これの誤りもって
 将来潜水艇の発展に
 打撃をあたうるに至らざるやを
 憂うるにあり、

 願わくば諸君益々勉励もって
 この誤解なく
 将来潜水艇の発展研究に
 全力を尽くされん事を
 
 さすれば
 我ら等一つも
 遺憾とするところなし、

 謹んで陛下に申す、
 我が部下の遺族をして
 窮するもの無からしめ給わらん事を、
 我が念頭に懸かるものこれあるのみ、

もちろん、マスコミが大いにもてはやした。大々的に公葬が行われ、天皇からの下賜金や贈位も行われた。

驚いたのは、山本政雄氏の筆の冷静・沈着さ。当時の軍国主義的風潮を肯定するところが微塵もない。艇長に共感を寄せるところすらまったくない。科学者が対象を見つめる、そのような冷厳な姿勢に徹している。

山本氏が共感を寄せていると思われる、加藤友三郎(呉鎮守府長官、後の首相)の以下の文章が引用されている。呉の神社の顕彰碑に遺言を刻することに賛成しがたいとする内容である。

「該遺書ガ一面世間より非常ナル同情ヲ得タルノ一大源因タリシハ申迄モ無之、眼前死ノ迫リツツアル如此場合ニ於テ該遺書ヲ認メタル艇長ノ慎重ナル態度ニハ何人モ異議可無之候得共、一面ニ於テハ遺書ヲ認ムル丈ケノ余裕アラハ先ツ艇ヲ浮揚クルノ手段ニ於テ尚ホ尽スヘキ事ハアラサリシカ、又該遺書ニあまり同情ヲ表スル時ハ将来如此場合ニハ先ツ以テ遺書ヲ認メ、然ル后ニ本務ニ取懸ルト云フガ如キ心得違ノ者ヲ生スルノ恐レハナキヤ(中略)永久的石碑ニハ何等アタリサハリナキ文句ヲ彫シ置ク方隠當ナランカト存候」(平仮名と片仮名の書き分けは原文のママ)

なんという徹底した合理主義であろうか。「遺言を書くヒマがあったら、最後まで脱出の努力をしろ」と言う。「このような遺書を持ち上げては、ヒロイズムから真似をする者が出ると困る」とも言うのだ。

事故の原因調査の査問委員会の経過も厳密に科学的に行われている。これには感心させられた。事故調査は佐久間艇長の人物像を偶像化することをしない。その調査結果は、世間の雑音に耳を貸すことなく、容赦なく事故の原因にせまり、佐久間艇長の責任はすこぶる大きいとする。旧海軍には、このような合理主義的伝統があったのだ。山本政雄氏は、言外に自分もその潮流にあると言いたげである。

そして、読後に考えさせられた。この修身の軍国美談における精神主義と、査問における合理主義との落差についてである。軍事は、科学であり技術であるからには、精神主義では勝てない。しかし、精神主義の鼓舞までを計算に入れての旧海軍の軍国美談作りだったのだろうか。そして、今、自衛隊は山本氏のような合理主義派が主流に位置しているのだろうか。あるいは、精神主義派が圧倒しているのだろうか。

佐久間の遺書は、天皇への詫びであり、天皇への要望である。天皇への忠誠という徳目作りが、軍の統率という点で有効であったことが十分に窺える。旧軍の合理主義は、天皇というシンボルを操作することの効果を計算して、軍と国民の精神的な統合をはかっていたと言えるだろう。

では、いま、自衛隊の合理主義は、軍と国民の精神的統合を何に求めているのだろうか。私は、自衛隊存在の憲法適合性を根底から否定する立場だが、当の自衛隊がどう考えているかについて興味を持たざるを得ない。

自民党改憲草案のごとくに、再び「天皇を戴く国家」を目指すものではあるまい。今の日本において、天皇がそのようなシンボルとして有効性を持つとは考えがたい。では、代わって何を。国民・民族・民主々義・自由…。どれも、軍事的な意味での国民統合のシンボルたりうるとは到底考えられない。日の丸・旭日旗・君が代、しかり。本来、彼らが忠誠を誓うべきは日本国憲法であるが、さて‥。

最も合理主義的な思考は、軍事的な意味での統合のシンボルを不要とする結論だろうとおもう。軍事的な忠誠対象として何らかのシンボルを設定することを、積極的に拒絶する考え方である。それこそが、専守防衛に徹した自衛組織にふさわしいあり方ではないか。理念やイデオロギーを持った軍事組織としてではなく、純粋に合理主義的技術主義的な自衛組織に徹してこそ初めて国民の信頼を得る地歩を獲得することができよう。自衛隊の合理主義派は、そのように考えているのではないだろうか。その意味で、旧軍にこそ軍国美談がふさわしく、自衛隊に美談は一切無用である。
(2013年6月4日)

「落語の歴史 江戸・東京を舞台に」  (本の泉社)の著者に

柏木新さま、著書をお送りいただきありがとうございます。しかも、ご署名と落款まで付けていただいて。たいへん面白く拝読させていただきました。

落語大好き人間の私は、「落語の歴史 江戸・東京を舞台に」が、東京民報連載中から充実した連載と注目して愛読していました。「好評連載」の惹句に偽りも掛け値もないことをよく知っています。

先年、たまたま東京民報の荒金編集長とお話しする機会があって、この連載を話題としたことがあります。筆者が同社のスタッフだと伺って驚きました。しかも、「話芸史研究家」の肩書だけでなく、護憲の落語を演じることもされるとか。世の中には、器用なお人もいらっしゃるものと感嘆しました。

この書は、江戸落語の通史として信頼できる力作だと思います。
鹿野武左衛門から江戸落語の始まりを説き起こし、江戸期の寄席や噺家の歴史を追って、明治期の円朝、珍芸四天王、三代目小さんと漱石に触れ、青い目の落語家や女流を語って、震災とラジオ放送開始のここまでが、いわば「歴史編」でしょうか。

後半の戦前編以後が「同時代史編」として緊張した内容になります。戦争を目前にした時代の落語の試練と、落語家の戦争被害の悲劇を描いて、戦後の平和のありがたさと庶民文化としての落語の再生が描かれます。志ん生、圓生、金馬、文楽、正蔵など、私にもなじみの名人上手が出てきて隆盛の時代を迎えますが、けっして順風満帆ではない。団体の分裂や席亭との軋轢など深刻な事態の経過も語られています。

その中で、愛好家がさまざまに落語をもり立てる努力を重ねていることが明るい話題として提供されています。これだけの歴史を重ねた落語はけっして柔なものではない、庶民とともにしたたかな生命力を持っている、そのようなメッセージが伝わってきます。

時代背景をしっかりと書き込み、「笑いの文化は平和であってこそ花開く」「時の権力に翻弄されながらも、したたかさを失わなかった」という観点からの落語の通史として本書は意義があるものと思います。そして、多くのゆかりの地の写真が、落語散策の手引きとしても好個の書となっています。

この書で、知らなかったことをたくさん教えていただきました。前半、圓朝の解説に相当の紙幅が費やされています。そこでは圓朝を持ち上げるだけでなく、政府の方針に迎合したこと、井上馨との交友が体制順応の傾向を加速させたことが的確に指摘されています。

私は、落語こそが近世以来の庶民文化の華だと思っています。反体制とまでいえずとも、少なくも「非体制」が真骨頂。圓朝の墓を探して初めて全生庵を訪れたときには驚きました。圓朝が、山岡鉄舟だの、井上馨だのという胡散臭い体制派人物と深く交流していたことを、そこで初めて知ったからです。天皇の「ご養育係」であった鉄舟も、三井などの政商と癒着していた薄汚い井上も、圓朝と明治落語の双方にとって疫病神でしかなかったと思っています。上品ぶらず、市井の人物のありのままを活写する、落語の伝統が生き続けてほしいものです。

ところで、私は、毎日欠かさず就寝時に名人上手のCDを聞いています。なんたる贅沢の極みと毎夜幸福感に浸っています。圓朝の録音は世にありませんが、漱石が「彼と時を同じくして生きているわれわれは仕合わせである」と言わしめた三代目小さんの「粗忽長屋」は手許にあります。もっとも、これを聞いても漱石の絶賛は理解できませんが。

そして、たまに鈴本や池袋演芸場に出かけます。プロの芸は凄い。いつも満足して帰ってきます。落語という庶民文化は確実に生きています。

いつか、貴兄の、護憲落語、九条落語、平和落語、民主落語、人権落語、革新落語、を聞かせてください。私も非才を顧みず、いつか憲法落とし話のシナリオ作りに挑戦してみたいと思います。

さらに、充実した次作を楽しみにしています。

************************

  『後発白内障と「鎌倉権五?」』
2年前の真夏、黄斑前膜剥離術をうけた。眼球の網膜の中心部にある黄斑に細胞が増殖して膜がかかった状態になって目が見えにくくなる。厄介な症状ではあるが、その膜をはがす手術をすれば、視力が回復するということであった。
その手術のついでに白内障の手術もうけた。日常生活に適したレンズを入れてもらったので、眼鏡の必要もなくなり、物も鮮明に見えるようになり、室内のほこりが目について困るほどだった。しかし、左右の視力差が改善されなかったため、読書用と遠景用の2つの眼鏡を作ることにはなった。
ところが近ごろどうも、またまた物がよく見えなくなっているような気がしてきた。少しづつ進行する事態はどうも自覚しずらい。担当医師によると「後発白内障」で、年齢相応、平均的な発症状況だという。「2年前、白内障手術をした時、眼内レンズを入れるあたって、レンズを固定するため、水晶体の袋を残しておいた。その袋に徐々に混濁した細胞が増殖して、光を通さなくなったためものがすべて霞んで見えるようになっている。だから、レーザーでその袋の真ん中を破って、濁りのつく袋の部分を取りのぞく。そうすれば、もう再発はない。手術は痛みもないし、数分で終わる」とのこと。2年前の手術の時にも立ち会ってもらっているこの主治医には全幅の信頼をおいている。即、レーザーによる手術をお願いする。
目の玉の手術というのは不思議なものだ。2年前の剥離術の時は、さすがに局部麻酔をかけての施術だったが、手術の経過がすべて見えるのがおかしい。小さなピンセットが膜をはがそうとして、ガサガサさぐりまわり、膜の端をつまんで一生懸命引っ張る。麻酔は効いているけれど、それを見ているだけでひりひり痛くなる。
今回は、レーザーで何カ所かカットして、袋の膜を丸く(たぶん)切ると、サランラップのようなものがクシャクシャになって、目の下の方に落ちていくのが見えた。麻酔はしていないけれど、ひとつも痛くない。でもいい気分はしない。
ところで、鎌倉権五郎景政は16歳で、八幡太郎義家に従い、奥州後三年の役に出陣した(1083年)。戦いのさなか右目に矢をいられたけれど、敵を討ち取って帰陣した。このとき、味方の三浦為次が権五郎の顔を足で踏んで矢を抜こうとした。ところが、五郎は刀を抜いて「弓に当たって死ぬのは武士の本望だが、生きながら足で顔を踏まれるのは武士の恥辱である。おまえを切って自分も死ぬ」と言ったそうだ。為次は畏れいって謝罪し、膝をかがめて矢を抜いた。これを多くの者が賞賛し、権五郎は鎌倉党の要になった。今でも彼は鎌倉御霊神社に祀られている。
とうてい私は権五?の足元にも及びもつかないが、目の手術をする時は「かまくらごんごろうさま」と唱えることにしている。目の玉の中に落ちたサランラップがなくなるまで「飛蚊症」どころか「飛ゴキブリ症」になっているけど、「鎌倉権五?」のことを考えれば、たいしたことではないと思える。
(2013年6月2日)

売春防止法の視点からの橋下徹の責任

風俗業活用発言と、飛田の料理組合顧問問題に限って、橋下徹の弁護士としての責任を考えて見たい。いずれも、売春防止法の視点からの検討である。

売春防止法第3条は、「何人も、売春をし、又はその相手方となつてはならない」と定める。売春をすることも、その相手方となる(買春する)ことも、法は明確に禁止している。まずもってその原則を確認しなければならない。

なぜ、売春は禁止されているのか。
売春防止法の目的規定である第1条に、次の文言がある。「売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものであることにかんがみ、売春を助長する行為等を処罰する…」
法は、売春を
人としての尊厳を害するものであり、
性道徳に反するものであり、
社会の善良の風俗をみだすものである、
ととらえている。実定法上の定めだからそのように考えなければならない、というのではなく、よく考えぬかれた納得できる規定ではないだろうか。通常の感覚からは首肯するしかなく、反論はなし難い。

ここまでは分かりやすい。問題は、売春とはなんぞやにある。何が「法において禁止された売春」なのか。
同法は、定義規定である第2条で、「この法律で『売春』とは、対償を受け、又は受ける約束で、不特定の相手方と性交することをいう」と定める。この定義は、かなり厳格なもので、禁止される売春は限定され、あるいは立証を困難としている。別の角度から見れば、悪智恵の発揮次第では脱法が可能となる。

売春防止法は、処罰を伴う特別刑法に属する以上、罪刑法定主義が貫徹されなければならない。したがって、処罰対象行為が厳格に定められることを要する。そのため、性交類似行為などという曖昧な概念を処罰対象としていない。そのことから、橋下の言う「風俗業の活用」論が出てくる。

「売春」とは性行為のみに限定される。たとえ、「対価を受けて不特定の相手方に性的サービスを行った」としても、性交を伴うものでない限りは売春にならない。売春でなければ犯罪ではない。だから大いに活用したらよい、との論法につながりうる。

橋本の言を朝日から引用すれば、次のとおり。
「だから僕はあの、沖縄の海兵隊、普天間に行ったときに、司令官の方に、もっと風俗業を活用してほしいっていうふうに言ったんです。そしたら司令官はもう凍り付いたように苦笑いになってしまって」「米軍ではオフリミッツだと。禁止って言ってるもんですからね。そんな建前みたいなことを言うからおかしくなるんですよと。法律の範囲内で認められてるね、中でね。」「いわゆるそういう性的なエネルギーをある意味合法的に解消できる場所は、日本にあるわけですから、もっと真正面からそういう所を活用してもらわないと、海兵隊のあんな猛者の性的なエネルギーをきちんとコントロールできないじゃないですか。」

法は、売春の定義を厳格化した。犯罪の範囲は、限定されたものになった。
しかし、「性風俗産業における対価を受けて不特定の相手方に対してする性的サービスの提供」は、性交を伴わないものとはいえ、
人としての尊厳を害するものであり、
性道徳に反するものであり、
社会の善良の風俗をみだすものである、
とは言えないだろうか。通常の感覚からは首肯するしかなく、反論はなし難い。

売春防止法は、売春の助長行為を犯罪とする。風俗業活用の勧めは、確かに売春の助長行為でない。しかし、「人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだす」行為の助長ではないのか。犯罪でないことは当然としても、弁護士としての品位にもとる行為というべきではないか。

弁護士法56条は、「職務の内外を問わずその品位を失うべき非行」を懲戒事由としている。性風俗産業の活用を勧めることは、売春を勧めたものではないにせよ、懲戒事由たりうる。橋下の「僕は政治家の立場として発言した。懲戒請求権の乱用で、政治活動に対する重大な挑戦だ」は、噛み合わない反論である。法が、職務の内外を問わずと明定しているのだから、問題は「品位を失うべき非行」にあたるか否かの判断に尽きる。

その際、「風俗業」の所管法である「風俗営業等取締法」の立法趣旨をも勘案すべきであろう。
同法は、「本法の風俗営業は、風俗犯罪の予防という見地を特に入れて、これに関係あるものに範囲を限った。風俗犯で最も実質的内容をなすものは、売淫と賭博であって、こうした犯罪がこの種の営業にはとかく起こりやすいので、これを未然に防止するために、防犯的な見地からこの種の営業を規制する」(立法時の政府説明員の委員会答弁)との見地からの立法である。

橋下の発言は、人としての尊厳を蹂躙する行為の勧めであるだけでなく、「直接に売春を勧めてはいないが、とかく売春に陥りやすい風俗業の活用を積極的に勧めた」点でも、品位に欠ける発言というべきである。

ところで、飛田新地の営業の実態は、性交を伴う点において売春の要件を具備している。となると、橋下が顧問をしていたという料理組合加盟の各「料亭」には、売春の場所の提供者として以下の各条の犯罪該当行為があったことになる。

第11条(場所の提供) 情を知つて、売春を行う場所を提供した者は、三年以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。
2  売春を行う場所を提供することを業とした者は、七年以下の懲役及び三十万円以下の罰金に処する。
第12条(売春をさせる業) 人を自己の占有し、若しくは管理する場所又は自己の指定する場所に居住させ、これに売春をさせることを業とした者は、十年以下の懲役及び三十万円以下の罰金に処する。

飛田新地の営業を「売春ではない」と強弁するためには、知恵を絞らなければならない。「性交との対価関係に立つ対償の授受がない」「金銭の授受はあったが、それは料理の対価に過ぎない」「不特定の相手方との性交ではない」「場所は提供したけど売春が行われるなどの事情は知らなかった」…などという苦しい言い訳をしなければならない。形ばかりの料理を出して、料亭、料理屋、料理組合などと称する必要も出てくる。顧問弁護士の役割は、そのような智恵を求められての法的アドバイスであることが推認される。あるいは、警察の取締りへの牽制の役割を期待されてのことなのかも知れない。

いずれにせよ、彼が飛田料理組合顧問の時代に飛田の営業態様が抜本的に変わったとの話しを耳にしない以上は、
法が禁圧する売春を覆い隠し、
売春を持続させることによって、
人としての尊厳を害する営業を助長し、
性道徳に反する行為を助長し、
社会の善良の風俗をみだすことを助長した、
と認定される可能性が極めて高い。

犯罪者も違法業者も弁護士の法的助言を受けることができる。弁護士も犯罪者や違法業者に法的助言をすることができる。しかし、犯罪を隠蔽し助長する内容の助言については、この限りでない。弁護士は、依頼人の正当な権利の実現には誠実に努力する義務を負うが、違法、不当な目的に利用されてはならない。法の抜け道を探すことが弁護士の仕事であってはならないのだから。
(2013年6月1日)

「戦争当時は公娼制度があった。だから慰安婦は合法だった」のではない

「日本維新の会の幹部が、『大戦当時は公娼制度があって、慰安婦は合法の存在だった』と言っています。これについてご意見を伺いたい」

先日、IWJの憲法鼎談のさなかでの突然の質問。「当時の売春に関する法制度についてはまったく知らない。制度がどうであろうとも、女性の自由を奪って性的サービスを強要することが許されるはずがない」としか答えられなかった。で、少し調べてみた。以下の出典は主として、「注解特別刑法7『売春防止法』」(青林書院新社・佐藤文哉著)。

江戸期の遊郭制度は、「傾城町の外傾城屋商売致すべからず」(1617(元和3)年幕府掟書)として、一定地域(傾城町)の公娼を認めるとともに、それ以外の私娼による密売淫(傾城屋商売)を禁止するものだった。明治期になって、人身売買としての売春を禁ずる1872(明治5)年の芸娼妓解放令(太政官布告)が発せられたが、基本的に遊郭制度はそのまま維持されたという。

1900(明治33)年内務省令として「娼妓取締規則」が制定され、敗戦まで制度を形づくる根拠法となった。「大戦当時の公娼制度」はこの行政法規に基づく以外にない。

この法規は、いわば、「売春の登録制である」という。娼妓を所轄警察官署に備え付けた名簿に登録して警察の監督に服せしめる。娼妓への監督は次のように徹底している。これでは、まさしく「籠の鳥」である。
「第七条 娼妓は庁府県令を以て指定したる地域外に住居することを得ず
娼妓は法令の規定若くは官庁の命令により又は警察官署に出頭するが為め外出する場合の外警察官署の許可を受くるに非ざれば外出することを得ず但し庁府県令の規定に依り一定の地域内に於て外出を許す場合は此限に在らず」(原文はカタカナ)

そして、重要なことは、売春営業(娼妓稼)の場所が「貸座敷」内に限定されての公許であること。
「第八条 娼妓稼は官庁の許可したる貸座敷内に非ざれば之を為すことを得ず」

つまり、公許の売春は、「公許された貸座敷における、登録された娼妓の娼妓稼」に限られ、それ以外の「密淫売」は、違法であって警察犯処罰令で「30日未満の拘留」に処せられた。

軍慰安所の始まりは、第一次上海事変(1931年)の際に海軍が作ったものとされる。陸軍は翌年これを追った(吉見義明「従軍慰安婦」)。しかし、これが「官庁の許可した貸座敷」において「登録された娼妓の娼妓稼」としてなされたものとは考えがたい。少なくとも、内務省令「娼妓取締規則」は戦地における遊郭制度・公娼制度を想定してはいない。前記「注解特別刑法」における「売春防止法の沿革」の記事も、戦時における記載は一行もない。

戦争の激化と戦線の拡大に伴って、中国のみならず東南アジア、南方各地に広がった軍や軍周辺の慰安所が、「娼妓取締規則」に則ったものとしての合法性を獲得した公許の営業であったはずはなかろう。

日本維新の会の幹部が、「大戦当時は公娼制度があった」というのは、そのとおりである。しかし、その「公娼制度」でさえも売春一般を合法としたものではない。むしろ、警察的取締りと監督の制度を整えて、監督に服する公許の売春のみを合法とした。公許されていない売春一般は、違法であり犯罪であった。

「大戦当時は公娼制度があって、慰安婦は合法の存在だった」は、明らかに間違い。「公許の貸座敷で、登録娼妓が稼働していることを資料をもって立証できた限りにおいて、合法」の存在だったのだ。

なお、念のために付言しておくが、仮に当時は「合法」だったとしても、人倫において許されるものではない。また、刑法典においても、当時日本が加盟していた国際条約においても、強制を伴う売春が違法であったことは言うまでもない。

**************************

  『梅雨とアジサイ』
5月29日、関東地方が早々と梅雨入りした。もっとも、65年には5月6日梅雨入りという記録もあるそうだから、驚くほどではない。天保年間の随筆には「花葵の花咲きそむるを入梅とし、だんだん標(すえ)のかたに花の咲き終わるを梅雨の明くるとしるべし」とあるそうだ。子どもの頃にはあちこちでよく見た「タチアオイ」の花が、下の方から上の方に、だんだんに咲き上がっていくあいだが梅雨だといっている。今では「タチアオイ」を見るのは難しい。2メートル以上にまで丈高く育つので、狭い場所向きではないからだろう。そういえば「カンナ」も見なくなった。「ヒマワリ」も30センチほどの丈でで花をさかせるように改良されてしまった。陽の当たる広い庭がなくなり、植えられる植物の流行も変わってしまった。
変わらぬものもある。梅雨に付きものの「アジサイ」だ。あちこちの垣根の隙間から顔を出している。今は早咲きの「ヤマアジサイ」系が咲いている。全体に小ぶりで、茎も細く、せいぜい1メートルぐらいにしか育たない。花は真ん中に粟粒のような両性花をこんもりと付け、そのまわりに四弁の装飾花がちらばり、径10センチくらいにまとまる。ブルーか薄いピンクで、いかにも風通しが良さそうで、涼しげである。
本格的な梅雨時になると、「ヤマアジサイ」を一回り大きくしたような「ガクアジサイ」が咲き始める。装飾花も大きく、茎や葉もがっちりして、背丈も2メートルほどにもなる。公園などに広く植えられている、ブルーがかったボールのような、いわゆる「アジサイ」も色づいてくる。「アジサイ」には両性花はなく、装飾花だけが集まって、手まりのようにまるく咲く。咲き進むにつれて、色が七変化するので、見飽きることはない。
西洋で品種改良されて、日本に里帰りした西洋アジサイ(ハイドランジア)にいたっては、「アジサイ」とは別物のような豪華絢爛さだ。「ガクアジサイ」の粟粒のような両性花を人工授粉して、品種改良する。 毎年新しい花が園芸カタログに紹介されている。時々、庭にアジサイの実生がはえていることがある。花の咲くまで四,五年待ってみよう。びっくりするような花が咲くかもしれない。とにかくアジサイ類は種類が多いので、欲張りな私でも、集めようという気力がわかない。
そんななかで一番のおすすめは、草と木の中間のような「ヤマアジサイ」系だ。日陰でも、数多くは望めないが、かならず花を付ける。花は雨に打たれてもしっかり形が保たれて、次第に変わる色の変化が楽しめる。秋までほうっておけばドライフラワーが出来る。ほとんど害虫がいない。元々小ぶりなので、小さく育てられる。湿度の高い少々日当たりの悪い都会の庭にピッタリだ。水を切らさないように注意すれば、鉢植えでも花を咲かせられる。日当たりのよい場所に置けば、花がたくさんつく。香りがないのもかえってサッパリしていい。
ブルーの小ぶりの花の爽やかさは、梅雨時のうっとうしさを振り払ってくれる。うっとうしさは梅雨時だからというだけではない、モヤモヤとした世の中の、先行きの見えないうっとうしさの中で、この花は鬱屈した気分を慰める清涼剤となってくれている。
(2013年5月31日)

議会制民主々義下の人権としての選挙権ー成年後見選挙権判決

本日は、日本民主法律家協会・憲法委員会の例会。「成年被後見人の選挙権訴訟」の主任代理人である杉浦ひとみさんをお招きしての学習会だった。

「法の実現における私人の役割」の大きさと貴重さが、具体的な判決において、改めて認識されることがある。本年3月14日東京地裁民事38部(城塚誠裁判長)が言い渡した「成年被後見人の選挙権訴訟・違憲判決」がその典型。

公職選挙法11条1項1号は、「成年被後見人は選挙権を有しない」と定めている。この規定によって選挙権を剥奪された原告が、「投票をすることができる地位にあることを確認する」との判決を求めた訴訟において、裁判所はその確認請求を認容した。しかも、判決は公職選挙法11条1項1号を違憲で無効と断じた。ひとり原告のみならず、全成年被後見人の選挙権回復に道を開く判決となって、国会はこの判決に実に素早く反応し、全会一致で公職選挙法11条1項1号を削除する法改正を行った。

学説において指摘されていた権利について判決が追認し実現した事例ではない。成年被後見人とその家族が制度の欠陥を指摘して、弁護士に権利救済の援助を求めての提訴実現だったという。関与した学者が異口同音に、「どうして今までこの不合理に気付かなかったのだろう」と言ったそうだ。このような判決の獲得こそ、弁護士冥利に尽きるというもの。

判決は、「さまざまな境遇にある国民がその意見を、自らを統治する主権者として、選挙を通じて国政に届けることこそが、国民主権の原理に基づく議会制民主々義の根幹」として、議会制民主々義の根本理念から、「国民」のひとりである成年被後見人の選挙権を憲法上の権利としてその重要性を認める。そして、国民の選挙権またはその行使の制限が許されるのは「そのような制限をすることなしには選挙の公正を確保することが事実上不能、ないし著しく困難という『やむを得ない事由』がある極めて例外的な場合に限られる」とする。

判決は、その「やむを得ない事由」があるか否かを検討するが、選挙権を行使する者には一定の知的な能力が必要、という一般論は認めながらも、財産管理のための保護規定である成年後見制における被後見人の能力判断を選挙権の有無に連動させる不合理を指摘する。

議会制民主々義の理念から説き起こして、人権としての選挙権の重要性を確認し、これを軽々に制限し得ないとする判断の枠組みに異論はない。ときどき、このような「憲法良識を体現する判決」があるから、司法への信頼を断ち切れない。この判決は、国民の司法への信頼をつなぐ貴重な判決と評しなければならない。

これに比して、一昨日の「夫婦別姓・国賠訴訟」の一審判決は、対極の内容となった。婚姻による同姓(氏)の強制を違憲違法とする主張を排斥し、そのことから生じた精神的損害の賠償請求を棄却した。寛容な社会をつくるにふさわしい、ステキな判決を期待したが、そうはならなかった。

両判決を分けるものは、原告の主張の根拠が、憲法上の権利と認められるか否かである。選挙権訴訟で請求の根拠とされた原告の選挙権が、その位置づけはともかく、憲法上の権利であることに疑問の余地はない。これに対して、同姓(氏)の強制を拒否する人格権が、憲法13条から紡ぎ出される権利と言えるかが問題とされ、ノーと結論された。ここでイエスと判断されれば、判決の全体象が変わってくる。

日民協・憲法委員会の次の例会は、別姓訴訟の弁護団をお招きして、選挙権訴訟判決と比較しながら5月29日東京地裁別姓訴訟判決を学ぶこととした。
(2013年5月30日)

ボクの大誤算ー橋下徹内心のつぶやき

なんだか変だ。今までチヤホヤしてくれたマスコミが、手の平を返したよう。天まで持ち上げておいて放り出す。いったいどうなっているんだ。ボクと一緒にイジメを楽しんでいた輩が、今度ばかりは敵にまわって、ボクをイジメにかかっている。ボクにだって、人権があるんだぞ。

もっとも、ボクは他人の人権に関心はない。これまで他人のことは容赦なく攻撃してきた。労働組合の権利も組合員の思想良心の自由も無視し続けてきた。だって、小気味よく他人を攻撃して人気をとるのが、たったひとつのボクの取り柄。人気の源泉なんだもん。だから、他人への攻撃のためなら、マスコミだって法律だって裁判だって利用できるものはなんでも使ってきた。それで、これまではうまく行ってきたんだ。どうして、突然に風向きが変わっちゃったんだ。ひどいじゃないか。

しゃべるときは思いきりよく、自信たっぷりに、躊躇なく、そして断定的に。そのやり方で、これまでは喝采を博してきた。だから堂々と言ってやったんだ。「従軍慰安婦が必要だったことは誰にだって分かる」「沖縄の米軍は風俗業を活用しなさい」ってね。今どき「堅気の女を守るために風俗業が必要だ」。そんなホンネを言える奴、ボク以外にいるか。話題の発言を繰り返していないとボクの存在感なくなっちゃう。これは、話題にもなり、受けるはず…と思っていた。

ボクになんの思想も主義主張もあるわけはない。面白そうだから、政界に出てきただけさ。国民なんて通俗テレビ番組の視聴者のレベル。あれが相手なら、説得もできる票も取れる。楽なことだ。分かり易くて面白そうなことを、切れ味良い言葉で語りかければよいだけなのだから。

政治家としての立ち位置をどうするか。自分の信念からなどではなく、世の風を見て決めた。今の世、風は右風と見た。右からの風に乗るからには、スタンスは一番右に位置しておこう。そのうえで、小気味の良い、本音を語る政治家として売り出そう。これで成功してきた。

ところが最近賞味期限が切れたといわれて少々焦っていた。議会運営もうまく行かない。そこで起死回生の従軍慰安婦発言。なんと、これが受けるどころではない。非難囂々、反撃の嵐だ。だから、いつものやり方でかわそうとしたんだ。そう、責任転嫁の術。「マスコミの大誤報だ」「真意が伝わっていない」「日本人の読解力不足が原因だ」とかね。ところが、これもなんだかうまく行かない。火に油を注いだ結果になっちゃった。

では次の手だ。少し火の手が拡がりすぎたからには、ちょっぴり折れて、真意はこうだと釈明しておこうか。「表現が不適切だった」「その事実を指摘しただけで、ボク自身が容認してるわけじゃない」。これまでは、これくらい言えば大丈夫。甘いメディアも世論も追及緩めたんだけどね。「ボクは女性の人権は充分尊重しているけれど、戦時下は別でしょう」「河野談話は否定するつもりないけれど、核心的部分に信憑性がない」「慰安婦は日本軍だけじゃない。世界中どこの軍隊だってやっている」。どうです。そうでしょ。あら、ほんとに怒らせちゃった?

せっかく「慰安婦になってしまった方への心情を理解して優しく配慮すべきだ」とか「精神的に高ぶっている集団に休息をさせてあげる」なんて、使い慣れない表現したのに、かえって誤解を招いたのかしら。それじゃ仕方ない。一番強そうなところには謝っちゃおう。「アメリカには撤回してお詫びします」

えっ?それでもだめ?
どうも雰囲気違うみたい。ついこの間までは、ボクが何をやっても、言ってもヤンヤの拍手。マスコミなんてボクの腰巾着だったんだ。あんまり冷たいじゃないか。言い訳しても、開き直ってもだめなようだ。それじゃ、カワイコちゃんぶって、横目を使って、泣きべそかいてみようかな。結構これって効き目があったんだよ。

何だか応援団も静かになっちゃった。石原代表も黙っちゃった。去年の夏には「大変勇気ある発言だと高く評価している。戦いにおける同志だ」と焚きつけた安倍さん、盾になって代弁してやったのに引いちゃった。裏切っちゃってずるいよ。

でもいいさ、最後は投げ出せばいい。大阪市長も「維新の代表」も、たいした未練があるわけじゃなし。風俗業界の顧問弁護士やってりゃ食ってはいけるさ。
(2013年5月29日)

再び、「取り消せ、謝れ、辞めろー橋下」

まずは、取り消せ
 品性下劣な恥ずべき妄言を
 人間の尊厳を蹂躙する暴言を
 歴史を偽るその虚言を
  どうして、いまだに取り消さないのか。
  今さら取り消しても既に遅いが、
  人を傷つけた言葉をそのまま残しておくことは許されない。

そして、謝れ
 この上ない侮辱を受けた女性に対し
 愚弄された沖縄に対し
 貶められた平和と人権と歴史の真実に対して
  どうしていまだにあやまらないのか。
  強いアメリカとアメリカ国民には謝罪したのに、
  本当に謝罪しなければならない相手にそのままとは何ごとぞ。

そのうえで、辞めろ
 大阪市長も政治家も弁護士も
 思想良心の侵害も不当労働行為も
 そして歴史の改ざんも改憲策動も
  どうして、いまだに辞めないのか。
  大阪市民は肩身が狭い、弁護士仲間も恥ずかしい。
  維新にはお似合いだが、政治家としては失格だ。

しかし、たったひとつ。取り消さない、謝らない、辞めない、橋下徹の功績がある。公平な立ち場から、その功績を述べておきたい。
日本国憲法が硬性で96条の改正手続が厳格なことの理由として、改憲には国民の熟慮が必要とされていることが挙げられる。一時的な国民的熱狂が過半数を超えたとしても、その勢いで憲法を変えてはいけない。冷静な熟慮とそのための期間が必要なのだ。

今、あらゆる世論調査で、維新の会の支持率の低下が続いている。その理由は、橋下徹の薄汚い正体が明らかになってきたからだ。国民が情報を集積し熟慮を重ねて、橋下のみっともなさに愛想をつかしてきた。今度ばかりは、国民の目は節穴ではない。

冷静に熟慮をするには一定の時間がかかる。この熟慮期間をおくことが大切だ。ボロを出さないうちの橋下人気で96条先行改憲などしていたら、それこそ肌に粟立つホラーな事態であった。維新の人気凋落が、冷静な熟慮とそのために必要な期間の重要性を教えてくれている。これが、橋下の唯一の功績。

もう一つ、提案したい。橋下の醜悪さは、実は安倍晋三の醜悪さでもある。歴史修正主義者として、人権感覚の鈍さにおいて、大戦後の世界の秩序に仲間入りするための条件だった戦争に対する真摯な反省を覆そうとしている悪質さにおいて。橋下から安倍批判に的を変えよう。橋下を批判した論法の多くはそのまま安倍晋三批判に使える。

****************************
 『関口芭蕉庵』
文京区関口に松尾芭蕉の旧跡がある。神田川に面した目白台の緑のなか、広大な「椿山荘」と「新江戸川公園(細川藩下屋敷あと)」に挟まれて、肩身が狭そうにちんまりとした「関口芭蕉庵」である。芭蕉はここで1677年から3年間を過ごした。出身の藤堂藩が神田浄水の改修工事にたずさわり、その帳付け役をしていたらしい。詳細はわからないが、心楽しい日々ではなかったはずだ。ところがこの場所は、青年芭蕉が糊口を凌ぐため、しばし住まいしてくれたお陰で、「芭蕉庵」の名を冠した名所になって残っている。1726年の33回忌に、門人たちの手で、芭蕉と其角・去来らの像を祀った「芭蕉堂」が急な狭い丘の上に建てられた。その脇には真筆の短冊を埋めて作った石碑「さみだれ塚」がある。眼下の早稲田田圃を琵琶湖畔に見立てて、「五月雨にかくれもせぬや瀬田の橋」とある。
初めて知ったことだが、芭蕉を「俳人」というのは間違いらしい。正しくは「俳諧師」。古く、貴族の優雅な遊びとして、一首の短歌を上の句と下の句にわけて、二人以上で詠み合い鎖のようにつなげていく「連歌」があった。それが江戸時代には、武士町人のあいだで諧謔味がつけくわえられて「俳諧」といものに変化していった。その最初の五七五を発句といい、脇句、第三と次々つなげて最後を挙句と名付けて楽しんだ。
発句のみを独立した作品としたのは芭蕉に始まるもののようだが、俳諧は連綿として続いた。そして明治時代、正岡子規が発句だけを俳諧から独立させて「俳句」と名付けた。だから芭蕉の時代には「俳句」という言葉はなかったし「俳人」もいなかった。

古池やかわず飛び込む水の音(芭蕉)
芦のわか葉にかかる蜘蛛の巣(其角)

五月雨を集めて涼し最上川(芭蕉)
岸にほたるを繋ぐ舟杭(一栄)

むざんやな甲の下のきりぎりす(芭蕉)
ちからも枯れし霜の秋草(享子)

これらの有名な芭蕉の句は連綿と続くストーリー性のある「俳諧」の一部を切り取ったもの(らしい)。

ところで、プロの「俳諧師」を「業俳」といい、アマを「遊俳」と言った。芭蕉は業俳の典型だが、業俳稼業は楽ではない。まず、文句のない教養と才能と実力がなければ続かない。要求されるそのレベルを、「はるかに定家の骨をさぐり、西行の筋をたどり、楽天が腸をあらひ、杜子が方寸に入るやから」と門人の曲水へ書いている。実力をもって門人の尊敬と献身を勝ち得なければならない。蕉門の門人は十哲をはじめとして2000人ともいわれた。その中には「俳諧の連句を興業」して「出板費」を引き受けたり、紀行行脚の企画立案をしてくれたり、日々の生活の面倒を見てくれたり、庵を提供してくれるようなスポンサーが全国各地に数多くいた。次々と「歌仙を巻いて」連句の座を興業し世間の耳目をひきつけておくのは、才能あふれる門人の協力なくしてはできないこと。才気煥発で、我が儘な門人たちの喧嘩の仲裁もうまくしなければならない。自分の才能を枯渇させないためには、病気味でも「奥の細道」への旅にも出なければならない。
忙しく、清貧の51年の生涯を終える時、「木曽殿と塚をならべて」(其角の「終焉記」)と残した言葉どおり、芭蕉は大津の義仲寺の木曾義仲の墓の隣に葬られた。生前芭蕉は義仲が好きであった。31歳の若さで、瀬田で討たれた義仲の心が哀れでならなかったのだ。
40歳の頃でも60歳に見え、気詰まりで面白くないと、敬して遠ざけられた大先生の「義仲好き」を門人たちはどう思っただろうか。
墓の下で「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」の脇句を付けてくれよと義仲にせがんでいるのでなかろうか。いや、もう相当な俳諧ができあがっているのかも知れない。
(2013年5月28日)

梅原猛も「平和憲法擁護」論者である

本日(5月27日)の東京新聞夕刊文化欄に、梅原猛が「平和憲法について」と題した論稿を寄せている。話題とするに値する。

書き出しはこうなっている。
「改憲論議が盛んであるが、私は、‥『九条の会』の呼びかけ人に名を連ねたほどの頑固な護憲論者である」

ところが、この「頑固な護憲論者」の9条論は戦力の不保持を主張しない。護憲勢力とは見解を異にして、「自衛隊という軍隊」の存在を当然とする。次のように、である。
「外国からの攻撃に対しては万全の備えをするがけっして外国を攻撃しない軍隊を持つことこそ日本の名誉ある伝統である。それゆえ、自衛隊こそまさに日本の伝統に沿う軍隊であろう」

東アジアの一触即発の危機も、平和憲法の下で解決を図るべきではないかとはするのだが、その根拠については次のように語られる。
「平和の理想を高く掲げ、内に死を賭してたたかう強い軍隊をもつ国には容易に外国が攻めてくるとは思われない」

要するに、侵略戦争と自衛戦争とは峻別できることを前提として、平和の維持のためには、自衛力たる強い軍隊が必要だというのである。死を賭してたたかう強い軍隊をもつことによって、他国からの侵略を防止することが可能とまで言うのだ。

梅原は、侵略する他国があり得ることを前提に、自衛のための軍隊が必要だという。が、同時に、その軍隊はけっして外国を攻撃しない、専守防衛に徹するというのだ。梅原流の解釈では、「専守防衛に徹する自衛のための軍事組織」は憲法9条2項に反せず、合憲合法の存在なのである。

その梅原が、「九条の会」呼びかけ人9人のひとりである。梅原こそが、九条の会の幅の広さを示している。梅原の論稿の立場は、我が国の多くの良心的保守派の人々の考えを代表するものと言えるだろう。自衛隊なくして国や国民の安全が守れるだろうか、安保と自衛隊あればこその平和ではないか、というものである。しかし、この人たちは同時に、戦争はご免だ。自衛隊を平和共存のバランスを崩すような強大なものにはしたくない。軍国主義の跋扈もまっぴらだ。そう考えてもいる。このような多くの人々を味方にしなくてはならない。

「九条の会」は国民の多数世論を結集して、9条改憲阻止を目標とする。ならば、専守防衛の自衛力容認論者を味方に付けずして、多数派の形成はあり得ない。9条改憲阻止の課題の焦点は、自衛隊違憲論でも自衛隊解体論でもない。自衛隊縮小論ですらない。9条2項の改憲阻止とは、自衛隊を外国で戦争できる軍隊にしないということなのだ。専守防衛からの逸脱を防ごうということである。

憲法9条2項の現実の機能は、自衛隊がかろうじて合憲であるためには、専守防衛に徹する組織であることを必須の要件とするところにある。政府見解をして、「自衛のために必要最小限度の実力を保持することを憲法は否定していない」「自衛隊は専守防衛に徹する組織であるから「戦力」にあたらない」と言わしめているのは、9条2項あればこそなのだ。

憲法9条2項は、けっして死文化していない。これあればこそ、自衛隊は専守防衛を逸脱して他国で戦争することができない。たとえ、アメリカという大親分の命令でも。

その9条2項は、守るに値する。自衛隊の存在を合憲とする者にとっても、専守防衛でなければならないとするかぎりは。

だから、梅原猛は頑固な9条2項擁護論者であり、「九条の会」の呼びかけ人のひとりであり、貴重な「平和憲法擁護」の同盟の一員なのだ。

澤藤統一郎の憲法日記 © 2013. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.