本日(12月29日)午前、イナダ防衛相は靖国神社を参拝した。防衛省によると、2007年1月の省昇格後、防衛相の靖国参拝は初めてだという。防衛庁時代からだと、2002年8月15日の中谷元・防衛庁長官の参拝以来のこと。言うまでもなく靖國神社は戦前の国家神道における軍国主義の側面を代表する軍事的宗教施設である。その宗教施設への防衛相の参拝が、近隣諸国の国民の神経を刺激することになるのは当然のことだ。
多くのメディアが、「中国、韓国両政府は稲田氏の対応を批判。北朝鮮の核・ミサイル開発をにらんだ韓国との防衛協力や、中国との防衛交流にも影響」と報道している。共同通信に至っては、「稲田朋美防衛相による靖国神社参拝について、オバマ米政権は公式な反応を示していないが、日米首脳が連れ立って真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊する歴史的なハワイ・真珠湾訪問の直後に、中韓などが軍国主義礼賛の象徴と見なす靖国を重要閣僚が訪問したことに、強い不快感を抱いているとみられる」「稲田氏の参拝は米国側には、両首脳の真珠湾訪問に冷や水を浴びせる行為と映りかねない」と配信している。
参拝後、イナダは記者団に「今の平和な日本は祖国のために命をささげられた方々の尊い命の積み重ねの上にある。未来志向に立ってしっかりと日本と世界の平和を築いていきたいという思いで参拝した」「家族とふるさとと国を守るために出撃した人々の命の積み重ねのうえに今の平和な日本があるということを忘れてはならないし、忘恩の徒にはなりたくないと思っています」などと語っている。
自衛隊員からも公然と、「少々頼りない」と言われるイナダである。国会で野党議員からの追及にべそをかく醜態も演じている。「少々頼りない」の批判に過剰に反応して、「強い防衛大臣」という姿勢を見せようと、結局暴走してしまったようだ。記者団へのコメントも、ナショナリズムの感情だけは語られているが、そのことがなぜ靖国参拝に結びつくかの論理に欠け、説得力も迫力もない。
それより問題は、違憲・違法の点にこそある。イナダは弁護士だというではないか。自分の行為が違憲でも違法でもないことをきちんと説明すべきだろうが、情緒的な語り口に終始して、違憲を回避する法的根拠を語りえていない。
イナダが玉串料を私費で支払ったと言っていることからすると、参拝は私的なもので、閣僚としての公的な資格に基づくものではない、と主張したい如くである。
しかし、記者団が確認したところでは、「防衛大臣 稲田朋美」と記帳がなされているというではないか。これは、イナダが「防衛大臣」という公的資格をもって靖國神社に参拝したことにほかならない。肩書記帳とは、そのようなものだ。
人は、私人であるだけでなく、幾つもの立場をもっている。肩書の記帳とは、参拝を受け入れる側である宗教法人靖國神社に対して、参拝者の立場を明示するものだ。私人としての参拝であれば、氏名だけでよい。私人としてでなく、特定の団体のメンバーとしての立場であれば、その団体名を書くことなる。公的な資格での参拝であれば、その資格を明記する。靖國神社はその肩書きにしたがった参拝として遇することになる。宗教的な意味合いからは、靖國神社の祭神にどのような立場、資格でまみえるかは、肩書き記帳以外にはないのだ。
イナダは、「防衛大臣」の肩書を記帳することで、「防衛大臣」の公的資格をもって参拝することを靖國神社に伝えたのだ。私的な参拝であれば、肩書は不要である。この一事で、私的参拝でないことは明らかと言ってよい。
イナダは、「防衛大臣である稲田朋美が一国民として参拝したということだ」と弁明したそうだが、姑息千万。「防衛大臣である稲田朋美」は私人でない。「一国民としての私的な」立場であるためには、「防衛大臣」という肩書を外すことが必要条件である。もちろん、肩書を外せば私的参拝になるわけではないが、「防衛大臣」の肩書を記帳して、「実は私人としての参拝」とは、見苦しいにもほどがある。通用する言い訳になっていないではないか。自分を支援する右翼団体に向けて、涙を浮かべた今夏の醜態を挽回のつもりだろうが、かえって恥の上塗りだ。「頼りない」レベルではない。「到底信用のおけない卑怯な振る舞い」と言わねばならない。
かつて、自民党内閣は、「私的参拝4条件」を明確にしていた。政教分離に違反した違憲の公的参拝であるとの批判を避けるためには、「公用車不使用」「玉串料を私費で支出」「一切の肩書きを付けない」「職員を随行させない」の全部が必要というものであった。不十分ではあれ、それなりに真面目に違憲を避けようとの配慮が感じられる。今の政権には、このような真面目さがない。とりわけ、今回のイナダの参拝はひどい。
総理や閣僚の靖國神社公式参拝について、その合違憲判断の基準に関する最高裁判決はまだない。高裁レベルでは、1991年1月10日の岩手靖国違憲訴訟控訴審判決が詳細な検討の結果、違憲と断じている。長大な判決理由の、結論部分だけを引用する。
靖國神社の宗教性
「靖国神社は明らかに宗教法人法における宗教団体であり、また、憲法上の宗教団体である。そして、神社は神祇(神霊あるいは祭神)を奉祀し、祭典を執行して、公衆の参拝に供するものである。また、祭神は神社の主体、根本をなす中心的要素であって、祭神に対する拝礼は、神の存在を認め、神に対する畏敬崇拝の念を表す行為であるというべきである。靖国神社の祭神は、多数にのぼること前記のとおりであるが、それは、靖国神社が戦時事変の殉難戦死者を祭神としているからであって、そのことによって、靖国神社の宗教団体性が他の神社と区別されるいわれはない」
参拝行為の宗教性
「参拝の宗教的意義ないし宗教性について考えてみるに、神社参拝という行為は、祭神を奉斎した神社に赴いて、祭神に対して拝礼することを意味する行為であるから、まさに、宗教的行為そのものというべきである。」
私的参拝は自由だが、公的参拝は許されない
「参拝は、祭神に対する拝礼であるから、もともと参拝者の内心に属する宗教的行為というべきであり、したがって、それが私的なものとして行われる限り、何人もこれに容喙することは許されないが、右参拝が公的資格において行われる場合には、右参拝によって招来されるであろう国家社会への波及的効果を考慮しなければならないから、憲法20条3項の規定する宗教的活動の該当性が吟味されるべきものと考える。」
追悼又は慰霊を目的とする公式参拝も許されない
「追悼又は慰霊を目的とする公式参拝は非宗教的行為といえるかどうかについて検討することとする。内閣総理大臣等が公的資格において参拝することは、その主観的意図ないし目的が戦没者に対する追悼(それ自体は非宗教的なものとして世俗的なものと評価されよう。)であっても、これを客観的に観察するならば、右追悼の面とともに、特定の宗教法人である靖国神社の祭神に対する拝礼という面をも有していると考えざるをえない。(略)公式参拝については、その主観的意図が追悼の目的であっても、参拝のもつ宗教性を排除ないし希薄化するものということはできないといわざるをえない。」
結論
「天皇、内閣総理大臣の靖国神社公式参拝は、その目的が宗教的意義をもち、その行為の態様からみて国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり、しかも、公的資格においてなされる右公式参拝がもたらす直接的、顕在的な影響及び将来予想される間接的、潜在的な動向を総合考慮すれば、右公式参拝における国と宗教法人靖国神社との宗教上のかかわり合いは、我が国の憲法の拠って立つ政教分離原則に照らし、相当とされる限度を超えるものと断定せざるをえない。したがって、右公式参拝は、憲法20条3項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為といわなければならない。」
イナダは、謙虚に、心してこの判決を熟読せねばならない。この判決は、天皇と内閣総理大臣の公式参拝について触れているが、閣僚についてもまったく同様である。以下のとおりに読み替えができるのだ。
「防衛大臣の靖国神社公式参拝は、その目的が宗教的意義をもち、その行為の態様からみて国の機関として、特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり、しかも、公的資格においてなされる右公式参拝がもたらす直接的、顕在的な影響及び将来予想される間接的、潜在的な動向を総合考慮すれば、右公式参拝における国と宗教法人靖国神社との宗教上のかかわり合いは、我が国の憲法の拠って立つ政教分離原則に照らし、相当とされる限度を超えるものと断定せざるをえない。したがって、イナダ防衛大臣の防衛大臣として肩書を付した靖國神社参拝は、憲法20条3項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為といわなければならない。」
(2016年12月29日)
インターネットとは便利なもの。メールとはありがたいものだ。友人たちが貴重な情報や意見を寄せてくれる。
2016年12月11日付の「ヤスクニ通信」(第743号)をメールで受信した。日本キリスト教会靖国神社問題特別委員会が発行するもの。複数の牧師が立派な記事を書いている。
私は、無神論者である。しかし、かつて天皇制による弾圧を受けた宗教者、そして今、国家権力や社会的圧力からの精神的自由侵害の恐れに敏感な宗教者には、敬意と連帯の気持を抱いている。アベ改憲阻止の課題をともにする人たちである。そのような共感できる記事をご紹介したい。下記は、鎌田雅丈(宝塚売布教会牧師)という方の、いかにも牧師さんらしい寄稿の抜粋である。
〈祈りのために〉彼はまた像、彫像を造り、神殿に置いた。(歴代誌下33章7節)
上記の御言葉にありますように、マナセ王は神殿に彫像を置きました。物は増えますが、しかしそれはある意味で、神殿を破壊することでもあります。…いつのまにか、礼拝の対象が増えているのです。真の礼拝が崩されているのです。神殿は、唯一なる神を礼拝する場所であります。そこに偶像が加えられることは、神聖な場所を破壊することにもなります。
この牧師の信仰において「唯一なる神」以外の偶像を崇拝することは、神への冒涜であり信仰の堕落なのだ。「像・彫像を造り、神殿に置いた」は、「唯一なる神」とともに崇めるとしても、それは許されざる罪となる。もちろん、聖書を引用して語られていることは、「天皇や天皇にまつわる一切のもの」を偶像として崇拝することである。「天皇教の像・彫像を作」り、これを「神殿に置く」一切の行為が、信仰に反する。一神教とは、そのように厳格なものなのだ。
マナセの時代に生じた出来事は、私たちの時代にも起こりうることかもしれません。実際のところ、それほど遠くない昔に、唯一なる真の神を礼拝すべき場所で、別なものを礼拝するように強要されたことがありました。礼拝の対象が増えてしまったのです。そのことを考えると、私たちは今、礼拝の再建の時代を生きていることになるのかもしれません。そうであれば、私たちはしっかりと再建していかなければなりません。気が付いたらいつの間にか、礼拝の対象が増えていたというようなことにならないようにしていかなければなりません。
これは、天皇制の圧力に妥協して信仰を曲げた苦い教訓の再確認であり、同様のことを繰り返さないとする決意でもある。天皇制権力が信仰に介入した忌まわしい歴史的事実を、宗教学者が次のように解説している。
神社対宗教の緊張関係は、国家神道の高揚期を迎えて、様相を一変した。満州事変勃発の翌一九三二年(昭和七)四月靖国神社では、「上海事変」等の戦役者を合祀する臨時大祭が挙行され、東京の各学校の学生生徒が、軍事教官に引率されて参拝した。そのさい、カトリック系の上智大学では、一部の学生が信仰上の理由で参拝を拒否した。文部省と軍当局は事態を重視し、とくに軍当局は、管轄下の靖国神社への参拝拒否であるため態度を硬化させ、同大学から配属将校を引き揚げることになった。軍との衝突は、大学の存立にかかわる重大問題であったから、大学側は、天主公教会(カトリック)東京教区長の名で、文部省にたいし、神社は宗教か否かについて、確固たる解釈を出してほしいむね申請した。カトリックとしては、神社がもし宗教であれば、教義上、礼拝することは許されない、というのが、申請の理由であった。文部省は内務省神社局と協議し、九月、天主公教会東京大司教あての文部次官回答「学生生徒児童ノ神社参拝ノ件」を発し、「学生生徒児童ヲ神社ニ参拝セシムルハ、教育上ノ理由ニ基クモノニシテ、此ノ場合ニ、学生生徒児童ノ団体カ要求セラルル敬礼ハ、愛国ト忠誠トヲ現ハスモノニ外ナラス」との正式見解を示した。神社参拝は、宗教行為ではなく教育上の行為であり、忠誠心の表現であるから、いかなる宗教上の理由によっても、参拝を拒否できないというのである。この次官回答によって、学校教育においてはもとより、全国民への神社参拝の強制が正当化されることになった。カトリックでは、神社は宗教ではないという理由で、信者の神社参拝を全面的に認め、国家神道と完全に妥協した。しかしプロテスタントでは、翌年、岐阜県大垣の美濃ミッションの信者が、家族の小学生の伊勢神宮参拝を拒否して、二回にわたって同市の市民大会で糾弾されるという事件がおこったのをはじめ、教職者、信者による神宮、神社の参拝拒否事件が続発した。(村上重良・「国家神道」から)
以上の牧師さんの記事は、諒解可能なよく分かる叙述である。しかし、次の部分の意味をどうとるべきか、正確には私にはよく分からない。
偶像崇拝の危機は、私たちにとって完全に過ぎ去ってしまったわけではありません。それは今もまだ起こり得ることです。象徴であるものが、あたかも実体であるかのように議論が進められているようです。結局どうなるのか。それ以前に、その議論の前提にあるものが、私たちの生命を脅かしています。偶像にされるものも、それを拝まされるものも、命の尊厳を脅かされています。
真の礼拝を再建していくことは、命あるものたちの命を回復していくことでもあります。
<祈り>わたしたちがいつも、ただあなただけを礼拝する者であることができるように、守ってください。
「象徴であるものが、あたかも実体であるかのように議論が進められているようです。」とは、現天皇(明仁)の象徴天皇のあり方についての見解をめぐる議論のことを指しているのだろう。「象徴に過ぎない天皇の行為」あるいは、「天皇の象徴としての公的行為」が、憲法が想定する本来の姿を逸脱して肥大化していることの批判かと読めるが、断定せずに読む人にまかせる書き方となっている。論者の関心は、「象徴」であるはずのものが、いつの間にか、戦前の如くに「偶像」となりはすまいかという危惧にある。
「偶像にされるもの(天皇)も、それを拝まされるもの(国民)も、命の尊厳を脅かされています。」とは、信仰者の立場からの切実な心情の吐露であろう。ここで論じられているのは、天皇の「象徴から偶像へ」の転化である。かつて天皇は、統治権の総覧者であるばかりでなく、「神聖にして侵すべからず」とされた「偶像」であった。日本国憲法は、その天皇の地位を剥奪し、礼拝の対象としての「偶像」性を剥奪した。しかし、新たな天皇の属性である「象徴」とは曖昧な概念である。しかも、現天皇(明仁)は、積極的精力的に象徴としての行為の範囲を拡大してきた。宗教者の立場からは、このことに大きな危惧を感じざるを得ないのであろう。
天皇の権威をできるだけ小さなものとすべきことについては、私は宗教者とまったく同じ立場にある。このような宗教者と視点を同じくし連帯する立場で、天皇制や政教分離や、そしてヤスクニ問題に接したいと思う。
(2016年12月13日)
東京新聞に、「ドナルド・キーンの東京下町日記」という毎月1回掲載の連載コラムがある。これが毎回なかなかに読ませる。本日(12月4日)は「玉砕の悲劇 風化恐れる」という標題。彼が戦争中通訳として付き合いのあった軍医の思い出を通じて、「戦争がもたらす狂気」の一端を記している。必要なところだけを抜粋して紹介したい。
「太平洋戦争時、米海軍の通訳士官だった私(キーン)がハワイの日本人収容所で知り合った、元日本兵の恩地豊さんが亡くなった。享年百三歳。戦後、敵味方のわだかまりを越えて付き合った元捕虜は何人かいた。一人減り、二人減り、恩地さんが最後の一人。」「戦争末期、恩地さんが陸軍の軍医として派遣されたパラオ諸島ペリリュー島は、最悪の激戦他の一つだった。兵力、装備で米軍は圧倒的。日本軍は押されながらも徹底抗戦して、最後は玉砕した。一万人以上が戦死。恩地さんは奇跡的に生き残り、捕虜になった。」
「収容所は不思議な場所だ。命を懸けて戦った敵国から、戦地よりも快適な生活環境が与えられる。『生きて虜囚の辱めを受けず』と洗脳されていた捕虜のほとんどは『死にたい』『日本には戻れない』と頭を抱えた。だが、恩地さんは堂々としていた。戦前から、海外の医学論文を読んでいたインテリだから、海外事情に通じ、捕虜の扱いを定めたジュネープ条約も知っていたのだろう。尋問にも冷静に応じた。」
「(恩地さんは、戦後)『何であんな戦争をしたのか。国力、科学力の差からして勝てるはずがなかった』『少しでも海外事情を知っている人は、戦争を始めた東条英樹を嫌っていた』とつぶやくことが多かった。同島の激戦は狂気の沙汰だった。日本軍には、本土への攻撃拠点にさせまいとの防戦だったが、より本土に近いフィリピンの島が米軍に占領された段階で戦略的に抵抗は無意味になった。それでも日本兵は『バンザイ』と突撃して、散った。」「その矛盾を恩地さんは頭で理解しながらも、自らの戦いは肯定した。『三日で決着する、と言っていた米軍相手に、三カ月粘った』『捕虜になるまでの二カ月は飲まず食わずで頑張った』」
キーンの筆は冷静に最後を次のように締めくくっている。
「目の前で多くの僚友を失った彼の複雑な心境は分からないではない。だが、そう思ってしまうのも狂気の一部なのだろう。私たちは先の戦争から多くを学んだ。恩地さんのような体験者の死で、それが少しでも風化することを私は恐れる。」
「狂気」は、戦略的に無意味で勝ち目のない戦闘での突撃だけをいうのではない。「粘った」「頑張った」「よく闘った」と自らの戦いを肯定するその姿勢をも「狂気の一部」というキーンの見解が重い。東条を嫌い、国際事情にも通じているインテリにおいて、この「狂気」から逃れられないというのだ。
このキーンのいう「狂気」こそが、実は靖國を支える心情なのだ。戦没者の遺族だけでなく、その戦いでの生存者も、戦死者を貶めたくはない。その死を無意味な犬死とはしたくない。できれば、大義のある死であって欲しいとの思いが、戦闘をあるいは戦争をも意味づけせずにはおかれぬことになる。戦死者を英霊と称えるには、戦争を美化するしかない。歴史を歪曲する心情がここから生まれる。
私は、日本兵の捕虜といえば、盛岡の柳館与吉さんを思い浮かべる。
私の父と同世代で、私が盛岡で法律事務所を開設したとき、「あんたが盛祐さんの長男か」と手を握ってくれた。戦後最初の統一地方選挙で、柳館さんも私の父(澤藤盛祐)も、盛岡市議に立候補した間柄。二人とも落選はしたが善戦だったと聞かされてはいる。柳館さんは共産党公認で、私の父は社会党だった。
その後、柳館さんと親しくなって、戦時中のことを聞いて仰天した。
彼は、旧制盛岡中学在学の時代にマルクス主義に触れて、盛岡市職員の時代に治安維持法で検束を受けた経験がある。要注意人物とマークされ、招集されてフィリピンの激戦地ネグロス島に送られた。絶望的な戦況と過酷な隊内規律との中で、犬死にをしてはならないとの思いから、兵営を脱走して敵陣に投降している。
戦友を語らって、味方に見つからないように、ジャングルと崖地とを乗り越える決死行だったという。友人とは離れて彼一人が投降に成功した。将校でも士官でもない彼には、戦陣訓や日本人としての倫理の束縛はなかったようだ。デモクラシーの国である米国が投降した捕虜を虐待するはずはないと信じていたという。なによりも、日本の敗戦のあと、新しい時代が来ることを見通していた。だから、こんな戦争で死んでたまるか、という強い思いが脱走と投降を決断させた。
柳館青年は、国家のために命を捨てるか国家に叛いて自らの生を全うするか、国家と個人と極限的な状況で二者択一を迫られた、という葛藤とは無縁だったようだ。
戦争とは、ルールのない暴力と暴力の衝突のようではあるが、やはり文化的な規範から完全に自由ではあり得ない。ヨーロッパの精神文化においては、捕虜になることは恥ではなく、自尊心を保ちながら投降することが可能であった。19世紀には、俘虜の取扱いに関する国際法上のルールも確立していた。しかし、日本軍はきわめて特殊な「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓のローカルなルールに縛られていた。
しかも、軍の規律は法的な制裁を伴っていた。1952年5月3日、新憲法施行の日に正式に廃止となった陸軍刑法(海軍刑法も同様)は、戦時中猛威を振るった。その第7章「逃亡罪」は以下のとおりである。
第七章 逃亡ノ罪
第七十五条 故ナク職役ヲ離レ又ハ職役ニ就カサル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
一 敵前ナルトキハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
二 戦時、軍中又ハ戒厳地境ニ在リテ三日ヲ過キタルトキハ六月以上七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
三 其ノ他ノ場合ニ於テ六日ヲ過キタルトキハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第七十六条 党与シテ前条ノ罪ヲ犯シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
一 敵前ナルトキハ首魁ハ死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ死刑、無期若ハ七年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
二 戦時、軍中又ハ戒厳地境ニ在リテ三日ヲ過キタルトキハ首魁ハ無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ一年以上十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
三 其ノ他ノ場合ニ於テ六日ヲ過キタルトキハ首魁ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ六月以上七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第七十七条 敵ニ奔リタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮ニ処ス
第七十八条 第七十五条第一号、第七十六条第一号及前条ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
(以上はhttp://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hm41-46.htm「中野文庫」で読むことができる)
敵前逃亡は「死刑、無期もしくは5年以上の懲役または禁錮」である。党与して(徒党を組んで)の敵前逃亡の首謀者は「死刑または無期の懲役もしくは禁錮」とされ、有期の選択刑はない。最低でも、無期禁錮である。さらに、「敵に奔(はし)りたる者」は、「死刑または無期懲役・禁錮」に処せられた。単なる逃亡ではなく、敵に投降のための戦線離脱は、個人の行為であっても、死刑か無期とされていたのだ。未遂でも処罰される。もちろん、投降現場の発覚は即時射殺であったろう。
世の中が「鬼畜米英」と言い、「出て来い。ニミッツ、マッカサー」と叫んでいた時代のことである。刷り込まれた戦陣訓や軍の規律への盲従が、死の恐怖にも優越する選択をさせていた「玉砕」の時代のこと。インテリの軍医ですら、最後まで闘ったその時代。当時20代の若者が、迷いなく国家よりも個人が大切と確信し、適切に状況を判断して生き延びたのだ。見つかれば、確実に死刑となることを覚悟しての、文字通り決死行だった。
「予想のとおり、米軍の捕虜の取扱いは十分に人道的なものでしたよ」「おかげで生きて帰ることができました」と言った柳館さんの温和な微笑が忘れられない。ドナルド・キーンのいう、「戦場の狂気」から逃れることは難しいことだ。しかし、一億一心が狂気となった時代に、柳館さんはこの狂気に染まることはなかった。
私は、「貴重な体験を是非文章にして遺してください」とお願いした。その柳館さんも今は亡い。さて、「ネグロス島・兵営脱走記」は書かれているのだろうか。
(2016年12月4日)
知り合いから、前田朗さん(東京造形大学)の「救援」(11月号と12月号にまたがるもの)への寄稿を教えていただいた。内容は、去る10月24日、韓国国会議事堂内の会議室で行われたという「靖国神社問題シンポジウム」の件。反靖国の運動がこのような形で展開されていることはまったく知らなかった。前田さんの長い論稿の中から、要点のみをご紹介したい。
シンポジウムのタイトルは、「靖国問題を国連人権機関に提訴するための国際会議―国際人権の視点からヤスクニを見る」だったという。主催はヤスクニ反対共同行動韓国委員会、民族問題研究所、太平洋戦争被害者補償推進協議会である。
開会の辞は姜昌一(韓国国会議員)、木村庸五(安倍首相靖国参拝違憲訴訟弁護団団長)、李海学(ヤスクニ反対共同行動韓国委員会共同代表)。
報告は次の七つであった。
徐勝(立命館大学)「国際人権の視点から靖国を見る」
前田朗「罅割(ひびわ)れた美しい国――移行期の正義から見た植民地主義」
南相九(東北亜歴史財団)「靖国神社問題の国際化のための提言」
浅野史生(靖国訴訟弁護団)「国際人権の視点からみたヤスクニ訴訟」
辻子実(平和の灯を!ヤスクニの闇へキャンドル行動・共同代表)「ヤスクニ反対運動の現況と課題」
矢野秀喜(植民地歴史博物館と日本をつなぐ会事務局長)「日本国憲法『改正』とヤスクニ」
金英丸(ヤスクニ反対運動韓国委員会事務局長)「韓国のヤスクニ反対運動、その成果と課題」
各報告の紹介がそれぞれに興味深いものなのだが、割愛する。が、一つだけ。
南相九報告は、まず「靖国神社問題とは」として、「日本の侵略から国家の独立を守るために戦った韓国の義兵戦争を『暴動』と蔑み、義兵を弾圧・虐殺した加害者を顕彰する施設」であり、「日本の侵略戦争に強制的に動員されて死亡した韓国人を『日本のための死』と歪曲する施設」であり、「侵略戦争と植民地支配を正当化し、国家に対する無条件の忠誠を教育する施設」であると位置づける。
これは苛烈な見解だ。そのとおりで反論はできないが、日本人の立場からはなかなかこうまでは言い切れない。戦没者遺族への配慮が、このようにきっぱりとものを言うことを躊躇させる。侵略戦争と植民地支配の被害者の立場でこその峻厳な正論というべきであろう。
さて、紹介しなければならないのは、メインテーマである「靖国問題を国連人権機関に」である。諸報告と討論を経て、前田は次のようにまとめている。
第一に「普遍的定期審査」である。国連人権理事会においてすべての国連加盟国の人権状況を審査する普遍的定期審査であるが、日本についてはこれまで二回実施された。二〇一七年一〇月?一一月に日本政府についての第三回審査が行われる。
第二に「宗教の自由特別報告者」である。国連人権理事会のテーマ別特別報告者の中に、宗教の自由を取り扱うハイナー・ビーレフェルト特別報告者がいるので、特別報告者への情報提供である。人権理事会の通常の討論の際にNGOとして発言することも可能である。
第三に「補償・真実・再発防止特別報告者」である。パブロ・デ・グリーフ特別報告者に、日本は植民地支配終了後も補償するどころか、被害者に対する人権侵害を継続し、植民地主義を正当化している事実を報告できる。
第四に「国際自由権規約に基づく自由権委員会への情報提供」である。二〇一七年七月、自由権規約委員会は日本政府報告書審査のためにリスト・オブ・イッシューを作成する。日本審査は二〇一八年七月以降になる見込みである。
第五に国連人権機関以外に世界各国のNGOや宗教者への情報提供である。靖国神社問題の基本を理解しやすい文書を作成して広め(それを国連に持ち込むこともできる)、各国の市民・NGO・宗教者と連帯してシンポジウムを開催することも検討するべきであろう。
こうした活動は、反ヤスクニ運動の国際的展開を図るとともに、世界の市民・NGO・宗教者の自由を求める闘いと連帯して行われる必要がある。
こうした発想には、意表を突かれた思いがする。私などは、靖國とは日本固有の問題であり、歴史認識との関わりで日本人自身が解決しなければならない問題との意識が強い。外圧をたのむ姿勢には批判的見解をもっていた。しかし、靖國を戦争や植民地支配の問題ととらえれば、明らかに国外に被害者がいることになる。その靖國神社とこれを支持する勢力が反省なく、今も平和や国際友好を障害して被害感情を傷つけ、近隣諸国民の平和に生きる権利を侵害しているとの観点からは、国際化の方向の追求、つまりは「世界に訴えよう」「国連のしかるべき機関に問題を持ち出そう」ということになるのだ。
ここまで進んだ反ヤスクニでの日韓連携。次は、中国・台湾・シンガポール・マレーシァということだろうか。
なお、ほぼ同旨の詳細を下記の前田朗ブログで読むことができる。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2016/11/blog-post_2.html
(2016年11月29日)
過日、ある著名な宗教学者をお訪ねして、お話しを伺う機会を得た。
当方の思惑は、入学式・卒業式での国旗国歌強制を必ずしも違憲とは言えないとする最高裁判決の論理を覆す材料がほしい。憲法学や教育学以外の分野での学問的成果の教示を得たいということである。
キーワードは、「『儀式的行事』における『儀礼的所作』」。最高裁判例は、入学式・卒業式を「儀式的行事」と言い、その式次第の中の国歌斉唱を「(慣例上の)儀礼的所作」という。
判決の当該個所の要旨は、次のようなもの。
「(国旗国歌についての)起立斉唱行為は、学校の儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作として外部からも認識されるものであって、特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり、上記職務命令は、当該教諭に特定の思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものともいえない。」
最高裁は、何の説明もないまま自明のこととして、「起立斉唱行為=儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作」とし、それゆえ、「特定の思想とは関係性をもたない」というのだ。本当だろうか。これでよいのか。
もちろん、多くの教員が「そんなはずはない。自分にとって国旗国歌(あるいは日の丸・君が代)は、自らの思想・良心に照らして受け入れがたい。とりわけ、教員である身であればこそ、児童・生徒の前での起立斉唱はなしがたい」という。しかし、最高裁は、これを主観的なものに過ぎないとして結局は切り捨てる。思想・良心は、すべからく主観的なものである。これを「主観的なものに過ぎない」と軽く見て、ごく形式的な基準で切り捨てられては、日本国憲法が思想・良心の自由を保障した意味がなくなる。
が、いま問題にしているのは、その前のこと。「儀式」・「儀礼」とは何を意味するのだろうか。「儀式・儀礼だから、これを強制しても、思想・良心とは関わりない」などと言えるものだろうか。
「儀式」・「儀礼」といえば、宗教と密接に関連するものではないか。宗教学者から意見を聞きたい、予てからそう考えていた。
悪名高い「自民党改憲草案」の第20条3項(政教分離条項)は、次のとおりである。
「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない」
自民党は、20条3項に但書きを付することで、政教分離の壁に大穴を開けようとしている。その穴は、「社会的儀礼又は習俗的行為」である。おそらくは、神社参拝も玉串料や真榊奉納も、あるいは大嘗祭や即位の礼関連行事への参加も「社会的儀礼又は習俗的行為」としたいのだ。
自民党の「社会的儀礼又は習俗的行為」、最高裁の「儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作」。前者は20条(政教分離)の問題、後者は19条(思想・良心の自由)の問題として語られているが、さて、両者はどう関わるのだろう。
こんな問題意識で伺った宗教学者のお話しは、歯切れよくたいへん有益だった。幾つも、知らないことを教えていただいた。まとめると以下のとおりだ。もっとも、私が理解した限りでのことだから、正確性は期しがたいことをお断りしておく。
「文科省の調査で、卒業式に国旗国歌を持ち込んでいるのは、中国と韓国と日本だけ。これは東アジア文化圏特有の現象。儒教文化の影響と考えてよい。
儒教の宗教性をめぐっては肯定説・否定説の論争があるが、儒教の中心をなす概念「孝」とは直接の親を対象とするものではなく祖先崇拝のことで、祖先の霊を神聖なものとして祀るのだから宗教性を認めるべきだろう。
その儒教では、天と一体をなす国家を聖なるものとみる。国家は宗教性をもつ神聖国家なのだから、国旗を掲げて国歌を奏することは、神聖国家の宗教儀式にほかならない。これが、中国の影響下の儒教文化圏の諸国だけで、教育現場に国旗国歌が持ち込まれる理由だと思われる。
宗教には、幾つかのファクターがある。「律法・戒律」「教義」「帰依の信念」などとならんで、「儀礼」は重要なファクターである。祭りという神事も典型的な儀式・儀礼であって、神道は儀礼を重視する宗教である。儀礼だから宗教性がない、などとは言えない。
儀礼には宗教的なものと世俗的なものがあり、その境界は微妙である。ハーバート・フィンガレットという宗教学者が、直訳すれば「孔子ー世俗と聖」という書物を著している。邦訳では、「孔子 聖としての世俗者」となっているようだ。この書に、儒教における神聖な国家像が描かれている。
日の丸・君が代の強制は、儒教圏文化の所産である神権的天皇制国家の制度として作られた儀礼。とりわけ、参列者が声を合わせて一斉に聖なる国家を讃えて唱うという行為は宗教儀式性が高い。同調して唱うことに抑圧を感じる人にまで強制することが神聖国家を支える重要なシステムとなっている。
明治維新を準備した思想の柱は、国学ではなく儒学だと考えられる。その中でも水戸学といわれるもの、典型は会沢正志斎の「新論」だが、ここで國體が語られている。國體とは神なる天皇を戴く神聖国家思想にほかならない。これが、明治体制の学校教育と軍隊内教育のバックボーンとなった。戦後なお、今もこれが尾を引きずっているということだ。」
なるほど、骨格としてはよく分かる。これをどう咀嚼し、肉付けして、憲法論とし、裁判所を説得する論理として具体的に使えるものとするか。それが、私たち実務法律家の仕事になる。
(2016年10月20日)
8月31日の当ブログで紹介した、2008(平成20)年8月靖國神社社頭掲示の立山英夫「遺書」には後日談がある。
陸軍歩兵見習士官立山英夫は、日中戦争開始直後の1937年8月、初陣での斥候任務の途中で戦死した。その血まみれの軍服のポケットから出てきた母の写真の裏に書き付けられたメモには、天皇陛下も万歳も、「大君の辺にこそ死なめ」もなく、ひたすら「母恋し」の心情に溢れた歌が書き込まれ、そのあとに「お母さん お母さん お母さん…」と24回書き付けてあった。撃たれてから書いたのではなく、書き付けたものをポケットに忍ばせていたのだ。我が子の戦死の報せを聞かされた母の嘆きはいかばかりのものであったろう。
死んだ兵の上官は、大江一二三(後に大佐)。この「遺書」に心を揺さぶられた大江は、立山の葬儀に弔電を送る。この弔電が、「ヤスクニノミヤニミタマハシヅマルモヲリヲリカヘレハハノユメヂニ(靖国の宮にみ霊は鎮まるも をりをりかへれ 母の夢路に)」という歌になっていた。これに、当時の著名作曲家である信時潔が曲をつけて国民歌謡となり、全国で歌われた。
この歌の意味は、当時の国民にはよく分かったのだろうが、今では解説なくしては理解しえない。
野暮は承知で解釈してみれば、
「故人の魂は神となって靖国の宮に鎮座してはいるが、ときどきは恋しい母のもとに帰って、その夢にあらわれたまえ」
というところであろうか。
靖国の祭神となった子の魂は母の許にはない。国家が魂を独占し管理しているのだ、母の夢路に「をりをり帰れ」と言うのが精一杯なのだ。
わたしはこの話を、大江一二三の長男である大江志乃夫さんから聞いた。岩手靖国訴訟で、大江さんに学者証人として盛岡地裁の法廷に立っていただいた1983年夏のこと。このことは、法廷に提出された陳述書をもとに上梓された大江志乃夫『靖国神社』岩波新書(1984年3月)の終章にまとめられている。抜粋して引用しておきたい。
この歌は、太平洋戦争中の日本放送協会(NHK)国民歌謡のひとつである。国民歌謡は1936(昭和11)年6月から放送がはじめられ、翌年10月からさらに国民唱歌の放送がはじめられた。
現在でも多くの人に親しまれている島崎藤村の詩「椰子の実」が大中寅二作曲で国民歌謡として電波にのったのは、国民歌謡開始の年のことである。太平洋戦争の記憶とわかちがたく結びついている「海行かば」は、万葉集にある大伴家持の歌に信時潔が作曲したもので、国民唱歌第一号であった。これらのシリーズには、戦時中の作品では、北原白秋の詩に井上武士が作曲した「落葉松」、吉田テフ子作詞・佐々木すぐる作曲「お山の杉の子」、戦後の作品には、土屋花情作詞・八洲秀章作曲「さくら貝の歌」、横井弘作詞・八洲秀章作曲「あざみの歌」などがある。
「靖国の」は信時潔の作曲である。作詞は大江一二三となっている。大江一二三つまり私の亡父である。私の父は陸軍の職業軍人であった。1937年日中戦争がはじまった当時、九州の第六師団に属しており、戦争が開始された直後の7月27日に動員が下命され、ただちに出動した。おなじ部隊に若い見習士官立山英夫がいた。出征わずか三週間後の8月20日、将校斥候として偵察に出た初陣で戦死した。母親思いの立山の血まみれの軍服のポケットには彼の母親の写真があり、裏に「お母さんお母さんお母さん……」と二四回もくりかえし書かれていた。
立山の遺骨が郷里に帰り、葬儀がおこなわれたとき、私の父は転勤して宮崎県の都城市にいた。父の打った弔電の文面が冒頭に紹介した短歌である。電報の配達局の消印は「12・11・17」の日付となっている。…
作曲家の信時潔は1963年11月に文化功労者となった。そのときのNHK「朝の訪問」の番組で「今まででいちばん印象に残る作曲は?」と質問したインタビューアーにたいして?彼は当然「海行かば」という答を予期していたようであるが、?信時は「大江さんという軍人さんの歌ですが」と言い、自分でピアノに向かって「靖国の」を歌ったという。
父が歌にこめた思いもおなじであろうが、私がいだいた素朴な疑問は、一身を天皇に捧げた戦死者の魂だけでもなぜ遺族のもとにかえしてやれないものか、なぜ死者の魂までも天皇の国家が独占しなければならないのか、ということであった。
あれほど母親思いの青年の魂だけでも「をりをり」ではなく、永遠に母親の許に帰ることをなぜ国家は認めようとしないのであろうか。父の友人でもあったある歌人はこの歌を「全国民の唱和に供した悲歌」と評したが、そのとおりであると思う。父のこの歌の存在が私に靖国神社への関心を呼び起こした。
「をりをりかへれ」としか言わせない靖国神社の存在とはいったい何なのか、国家は戦死者の魂を靖国神社の「神」として独占することによって、その「神」たちへの信仰をつうじて何を実現してきたのか、あるいは実現することを期待したのか。
「戦死者の魂を国家が独占する」ことについては、敗戦まで靖国神社の宮司であった鈴木孝雄(陸軍大将)がこう言っている。(「偕行社記事 特別号」)
「人霊をそこへお招きする。此の時は人の霊であります。いったんそこで合祀の奉告祭を行います。そうして正殿にお祀りになると、そこで始めて神霊になるのであります。…遺族の方は、其のことを考えませんと何時までも自分の息子という考えがあっては不可ない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのです」「遺族の心理状態を考えますというと、どうも自分の一族が神になっている。…一方に親しみという方の点が加わるものですから、なんとなく神様の前の拝礼あたりも敬神というような点に欠けていることがまま見られるのであります。…それは確かに、自分の一族の方が神になっておられるんだという頭があるからだと思います。そうではなく、一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないかと思います。」
これが靖国を通じて、国家が戦死者の魂を独占し管理するということなのだ。大江一二三は「せめて、をりをりは母の許に」と言ったが、靖国の宮司はこれをも、「何時までも自分の息子という考えがあっては不可ない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのです」「一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないか」と叱責の対象にしかねない。
「九段の母」とは、子の命を国家に取られ、さらにはその魂までも国家に取られた「二重の悲劇」の母なのだ。
(2016年9月4日)
8月も今日でおわる。戦争と平和を語るべき月の最後には、やはり靖國を語りたい。
靖國神社には、月毎の「社頭掲示」というものがある。「多くの方々に、祖国のために斃れられた英霊のみこころに触れていただきたいと、英霊の遺書や書簡を毎月、社頭に掲示しています。社頭にこれまで掲示した遺書や書簡は、『英霊の言乃葉』に纏めて刊行、頒布していますので、是非ご覧下さい」とのこと。
今月(2016年8月)の社頭掲示は、以下のとおりの「英霊の遺言状」。
遺言状 陸軍大尉 岡研磨命
(戦死による2階級特進での「大尉」。生前は少尉であったことになる。「命」は、祭神であることの敬称で「(の)みこと」と読む。なお、霊爾簿には、祭神の氏名の外、戦没年月日・出身地・軍における階級・勲等・金鵄勲章の等級が記される)
昭和十九年九月二十一日 西部ニューギニア方面にて戦死
福井県福井市手寄上町出身 四十七歳
人生草露の如し。
今栄ゆる御代に会ひ、醜の御楯となる本懐これに過ぐる事なし。
母上に対し孝養足らず。遺族の幸福を願ひつつもその及ばざりしは余の不徳なり。深くこれを謝す。
人生の行路平坦ならず。
一同力を合はせ御国の為勇往邁進せよ。
吾、御身等の身辺にありて必ず守護せん。(原文のまま)
見方によっては、紋切り型の典型というべきだが、死後に、遺族だけでなく軍にも郷里の人びとにも読まれることを意識しての遺言である。到底率直な心情をつづることはできない。末尾3行は、既に護国の神としての言葉となっている。これ以外には、書きようがなかったのだろう。
「栄ゆる御代」「醜の御楯」「本懐」「御国の為」「勇往邁進」などの常套語句の羅列の中に、「人生草露の如し」「母上に対し孝養足らず」「遺族の幸福を願ひつつ」と無念さを読み取ることもできよう。
これとは対極のものをご紹介したい。2008(平成20)年8月の靖國神社社頭掲示である。
遺 書
陸軍歩兵中尉 立山英夫命
昭和十二年八月二十二日
歩兵第四七聯隊
支那河北省辛荘附近にて戦死
熊本県菊池郡隈府町出身
若し子の遠く行くあらば 帰りてその面見る迄は
出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず
己生あるその中は 子の身に代わらんこと思い
己死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ
あゝ有難き母の恩 子は如何にして酬ゆべき
あはれ地上に数知らぬ 衆生の中に唯一人
母とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝む
母死に給うそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きておろがむ手のあらば
生きませるとき肩にあて 誠心こめてもみまつれ
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
これは、「覚悟の遺書」ではない。母にも他人にも読まれることを想定して書いたものではない。斥候として偵察に出た初陣で戦死した若い見習い士官のポケットから出てきた母の写真の裏に書き付けられたメモである。
メモ前半の長歌は、当時よく知られていた「感恩の歌」の一部をとって、独自の創作を付け加えたもの。そして、24回繰り返された「お母さん、お母さん、お母さん……」。母を思う子の心情が溢れて胸を打つ。ここには、「大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ」というタテマエや虚飾が一切ない。
私は、このメモを読むたびに、不覚の涙を禁じ得ない。我が子の死の報せを聞かされた母の嘆きはいかばかりのものであったろう。
靖國神社には二面性がある。その一面は、上から見た、国家が拵え上げ国民に押しつけた側面。戦没将兵を顕彰することで、戦争を美化し国民を鼓舞して、君のため国のための戦争に国民精神を総動員する装置としての側面。飽くまでこちらがA面である。
だがそれだけではない。国家によって拵え上げられた擬似的「宗教」装置ではあっても、夥しい戦没者の遺族にとっては、故人の死を意味づけ、これを偲ぶ場となっている。確実に民衆が下から支える側面がある。こちらがB面。B面あればこそのA面という関係ができあがっている。
「醜の御楯となる本懐これに過ぐる事なし」とは、A面を代表する遺言状。「お母さん、お母さん…」のメモは、B面に徹した遺品。A面だけではなく、B面も靖國にとっては、なくてはならない存在なのだ。
私は、B面に涙する。同時に、この涙する心情をA面に利用させてはならないとの痛切の思いを新たにする。A面は宗教的に構成されているのだから、政教分離とはA面の国家利用を絶対に許さないとする法原則と理解してよい。
戦争の犠牲者は自国民だけではない、軍人軍属だけでもない。戦没者の追悼のあり方は、祭神として靖國の社頭に祀ることだけではない。「お母さん…」と書き付けて亡くなった子と母の痛切な心情を、国家や靖國に囲い込ませてはならない。
戦死者を顕彰したり戦争を美化するのではなく、再びの戦争犠牲者を絶対につくらないと決意すること。いかなる理由による、いかなる戦争も拒否すること。国際協調と平和主義を貫徹する誓約をすること。これこそが本当に戦死者を悼み、戦死者と遺族の心情を慰めることになるのだ。
(2016年8月31日)
戦争と平和を語るべき8月が、もうすぐ終わろうとしている。
新日本宗教団体連合会(新宗連)の機関紙である「新宗教新聞」(月刊紙・8月26日号)が届いた。さすがに8月号。紙面は「平和」「非戦」で埋め尽くされている。トップの見出しが、「世界平和、絶対非戦の誓い新た」というもの。新宗連青年部が主催する「第51回戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典(8・14式典)」を通じて、「世界平和と絶対非戦への誓いを新たにした」と報じられている。
千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われた同式典では、「平和へのメッセージ」が発表され、参列者全員で「平和の祈り」を捧げ、戦争犠牲者への慰霊と世界平和の実現への誓いを新たにした、という。
「絶対非戦」を標榜する8・14式典の戦没者慰霊は、靖國での英霊顕彰とは異質のものである。
靖國神社は、「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社」(靖國神社の由緒)と自らを規定する。ここに祀られるものは、戦争の犠牲者ではない。戦没者ですらない。「国家のために尊い命を捧げられた」とされる軍人軍属に限られる。もちろん、交戦相手国の戦死者・戦争被害者は、「国家のために尊い命を捧げられた人々」ではありえない。ここにいう「国家」とは、大日本帝国ないしは天皇の国のことなのだ。
靖國神社は、皇軍軍人の御霊を「慰める」だけではない。「国家に命をささげた、事績を永く後世に伝える」つまり、英霊として顕彰するのだ。靖國には、戦争を悪として忌避する思想はない。君のため国のために闘うこと、闘って命を落とすというのは、崇高な称えるべき事蹟なのだ。
靖國には、客観的に戦争を見つめる視点は欠落している。創建の由来からも、軍国神社としての歩みからも当然のことなのだ。ひたすらに「忠死」を顕彰する盲目的な評価があるだけである。だから、日清日露は皇国の御稜威を輝かせた褒むべき戦争であり、植民地支配や日支戦争は五族協和のための戦争で、大東亜戦争は自存自衛のやむを得ざる正義の戦争であった、ことになる。靖國史観が歴史修正主義の代名詞となっているわけだ。皇軍がなくなり、旧陸海軍の管轄から脱して一宗教法人となって久しい現在においてなお旧態依然なのだ。
これに対して、新宗連の「すべての命を尊ぶ」「絶対非戦」論には、戦争肯定の思想がはいりこむ余地がない。主催者挨拶の中では、40年余にわたる「アジア青年平和使節団」の活動が紹介されている。現地での、日本軍によるアジアの人びと、連合軍捕虜の犠牲者への慰霊供養が語られている。すべての戦没者を悼み、霊を慰め供養をするが、けっして闘ったことを褒め称えることはない。戦争は「すべての命を尊ぶ」という教えに反する悲しいことで、いかなる理由をつけようとも、絶対に繰り返してはならないという姿勢が貫かれている。
靖國とは現実に戦争の精神的側面を支えてきた軍事的宗教施設であって、平和を祈るにふさわしい場ではない。新宗連が「すべての命を尊ぶ」「絶対非戦」という立場から、意識的に靖國とは異なる戦没者慰霊の行事を行っていることに敬意を表したい。
新宗教新聞の同号には、新宗連が8月8日付で内閣総理大臣安倍晋三宛に、「靖國神社『公式参拝』に関する意見書」を提出したとの記事があり、その意見書全文が掲載されている。
やや長いものだが、靖國神社への「公式参拝」自重を求める部分よりは、伊勢志摩サミットの際の、伊勢神宮参拝を問題にしている点が目を惹く。当該部分を抜粋して紹介する。
「総理は、本年5月26日、伊勢志摩サミットに出席した先進七ヵ国首脳を伊勢神宮にご案内されました。政府は、これを伊勢神宮への「訪問」であり、「参拝」ではない、と説明されました。しかし、伊勢神宮が正式参拝としている「御垣内参拝」を主要国首脳とともになされた総理の行動は、純然たる宗教行為であります。これを「訪問」とすることは、伊勢神宮の宗教性を踏みにじるものと、深く憂慮いたします。同時にそれは、「政府がどのような行為が宗教活動に該当するのかを価値判断する」ことを意味し、わが国の「政教分離」原則は、重大な危機を迎えるものといわざるを得ません。
戦前から戦中にかけて、わが国では、多くの宗教団体が過酷な宗教弾圧を被りました。そのきっかけは、近代国家において「政教分離」原則がないがしろにされたことに始まったことを、私たち宗教者は忘れてはおりません。」
まったくそのとおりで、全面的に賛意を表したい。
また、同紙は、同じ8月8日、新宗連が自民党総裁安倍晋三宛に、憲法改正草案についての意見書(二)を提出したことを伝えている。
この点についての新宗連の意見書は、先に2015年6月26日付で、自民党宛に提出されている。本格的で体系的な内容となっており、下記5点の問題を指摘して、「強く要望いたします」「削除を求めます」「強く反対いたします」などとされている。
一、憲法に国民の義務を記さないこと
二、「個人」を「人」と書き変えないこと
三、「信教の自由」を保障し、「政教分離原則」を堅持すること
四、「公益及び公の秩序」を憲法に盛り込まないこと
五、平和主義を守ること
意見書(二)は、その後の議論を踏まえて、改憲案の中の「緊急事態条項」についての意見となっている。内容は、「緊急事態条項」に関する一般的意見にとどまらない。独自性のポイントは次のとおりだ。
「私たちは、貴党・憲法改正推進本部が公表した九十九条『緊急事態の宣言の意味』三項において、緊急事態の宣言が発せられた場合においても最大限尊重されなければならない基本的人権に関して、十四条、十八条、十九条、二十一条が記されていながら、何故に二十条の「信教の自由」が明記されていないのか、未だに理解に至っておりません。」
緊急事態宣言下での信教の自由(憲法20条)の取り扱いに関わることで、細かいといえばかなり細かい。宗教者であればこその問題提起である。それぞれの分野で、自民党改憲草案を徹底して叩く見本というべきだろう。
また、同紙は、多くの宗教団体の「戦争犠牲者慰霊・平和祈願」の式典を紹介している。「大平和社会実現のための献身誓う」というPL教団の「教祖祭」が大きく扱われている。立証校正会の「平和祈願の日」式典は扱いが小さいが、その中で、庭野日敬開祖の次の言葉の紹介に注目せざるを得ない。
「危険をおかしてまで武装するよりも、むしろ平和のために危険をおかすべきである」
これこそ、憲法9条の精神ではないか。武装することによるリスクもあり、当然に武装しないリスクもある。憲法9条は、武装することによる相互不信頼のスパイラルから戦争に至るリスクを避けて、ありったけの知恵を働かせて平和のために非武装を貫くリスクをとったのだ。
宗教者のいう「絶対非戦」。これは、憲法9条の理念そのものではないか。「近代戦遂行に足りるものとならない限りは実力を持てる」「国家に固有の自衛権行使の範囲であれば戦力とは言わない」などという「解釈」を弄することなく、「自衛隊は違憲」でよいのだ。
私自身は神を信じるものではないが、真面目な宗教家の言には耳を傾けたいと思う。新宗連は政治的に革新の立場でもなければ、思想的に進歩の立場でもない。しかし、真面目に宗教者として生きようとすれば、アベ政権との確執は避けられないのだ。このような人たちとは、しっかりと手を結び合うことができるはずと思う。
(2016年8月30日)
フランスの憲法事情や司法制度には馴染みが薄い。戦前はドイツ法、戦後はアメリカ法を受継したとされる我が国の法制度には、フランス法の影が薄いということなのだろう。しかし、リベラルの本場であり、元祖市民革命の祖国フランスである。1789年人権宣言だけが教科書に引用ではすこし淋しい。ニュースに「ライシテ」(政教分離)やコンセイユ・デタ(国務院)が出てくると、呑み込むまでに一苦労することになるが、できるだけ理解の努力をしてみたい。
昨日(8月27日)の時事配信記事がこう伝えている。
【マルセイユAFP=時事】イスラム教徒女性向けの全身を覆う水着「ブルキニ」(全身を覆う女性イスラム教徒の衣装「ブルカ」と水着の「ビキニ」を掛け合わせた造語)をめぐり、フランスの行政裁判で最高裁に当たる国務院は26日、南部の町ビルヌーブルベが出したビーチでの着用禁止令を無効とする判決を下した。
これを受け、保養地のニースやカンヌなど約30の自治体による同様の禁止令も、無効となる見通し。
国務院は判決で、当局が個人の自由を制約するのは公共の秩序への危険が証明された場合に限られるが、ブルキニ着用にそのような危険は認められないと指摘。禁止令について「基本的自由に対する深刻かつ明白な侵害だ」と断じた。」
先月には、「『イスラム水着』リゾート地禁止 人権団体反発」との見出しで、「地中海に面するカンヌのリナール市長は7月28日、『衛生上、好ましくない』として、ブルキニ着用の禁止を発表した。また、『公共の秩序を危険にさらす可能性がある』ことも理由に挙げた。」と報道されていた。
私の理解の限りだが、イスラム世界には女性は他人に肌を露出してはならないとする戒律がある。この戒律に従う女性が海水浴をしようとすれば、ブルキニを着用せざるを得ない。ところが、フランスの30もの自治体が、条例でブルキニ着用を禁止した。違反者には、カンヌの場合38ユーロ(4300円)の罰金だという。罰金だけでなく、警察官が脱衣をするよう現場で強制までしている。常軌を逸しているとしか思えない。
ブルキニ禁止の理由として、「衛生上、好ましくない」「公共の秩序を危険にさらす可能性がある」があげられているが、いずれも根拠は薄弱。実は、イスラム過激派による相次ぐテロを受けて蔓延した反イスラム感情のなせる業だろう。驚くべきは、下級審の判断ではこの条例が有効とされたことだ。このほどようやく最高裁に相当するコンセイユ・デタ(国務院)で効力凍結となったというのだ。
フランスでは、2004年の「スカーフ禁止法」があり、2011年には「ブルカ禁止法」が成立している。公共の場でブルカを着用することは禁じられているのだ。違反すれば、着用者本人には罰金150ユーロ(約1万7千円)か、フランス市民教育の受講を義務づけられる。更に、女性が着用を夫や父親に強制されていたとすれば、強制した夫などには最高で禁固1年か罰金3万ユーロが科せられるという。こちらは、条例ではない。サルコジ政権下で成立した歴とした法律である。
一見、フランスは女性の服装にまで非寛容な、人権後進国かと見えるが、実は事態はそれほど単純ではない。ことは、フランス流の政教分離原則「ライシテ」の理解にかかわる。
ライシテとは、「私的な場」と「公共の場」とを峻別し、私的な場での信仰の自由を厚く保障するとともに、公共の場では徹底して宗教性を排除して世俗化しようとする原則、と言ってよいだろう。
このライシテは、共和政治から、フランスに根強くあったカソリックの影響を排除する憲法原理として、厳格に適用された。カソリックという強大な多数派との闘いの武器が、少数派イスラム教徒にも同じように向けられたとき、当然に疑問が生じることとなった。
その最初の軋轢が、1989年パリ郊外の公立学校で起こった「スカーフ事件」である。イスラム系女生徒がスカーフを被ったまま公立学校に登校することの是非をめぐって、「ライシテ原理強硬派」と「多文化主義寛容派」が激しく争ったのだ。
樋口陽一著「憲法と国家」に、この間の事情と法的解説が手際よくまとめられている。
事件の経過
「パリ近郊のある公立中学校で、イスラム系住民の3人の女生徒が、ヴェール(チャドル)をまとったままで授業に出席した。女性はヴェールで顔を蔽わなければならぬ、というイスラム教の戒律のシンボルを公教育の場にもちこむことの是非が、こうして問題となった。校長はその行為をやめさせようとし、女生徒と親は強く反撥した。
これまでの、政教分離という共和主義理念からすれば、校長の措置は当然であった。フランス社会で圧倒的な多数を占めるカトリック教の影響力をも、執拗に公的空間から排除しようとしてきたからである。しかし、当時の社会党政権の内部では、異文化への寛容のほうを重んずべきだという主張が出てきた。国際人権擁護の運動家であるダニエル・ミッテラン夫人の立場は、そうだった。それに対しては、やはり同じ運動のなかから、「SOSラシスム」(人種差別SOS)のように、ヴェール着用の戒律こそ、一夫多妻制や女性の社会進出を許さない、差別のシンボルではないか、という再反論が返ってくる。」
コンセイユ・デタの「意見」
「当時文相をつとめていたジョスパン(後に首相)は、コンセイユ・デタ(国務院)の法的見解を求め、諮問に答えた同院の意見(1989年11月27日)は、ライシテ(政教分離)の原則と、各人の信条の尊重および良心の自由とがともに憲法価値を持つものであることを、条文上の根拠をあげてのべたうえで、こう言う。―「学校施設の内部で、ある宗教への帰属を示そうとするための標識を生徒が着用することは、宗数的信条の表明の自由の行使をなす限度において、そのこと自体でライシテ原則と両立しないものではない」。
この「意見」は、それにつづけて、「この自由」の限界を画す一般論をのべ、「具体的事件での標識着用がそのような限界をこえているかどうかは、裁量権を持つ校長の認定により、その認定は事後に行政裁判所のコントロールに服する」、とつけくわえている。
コンセイユ・デタの「判決」
「意見」が一般論をのべたうえで想定していた問題処理の手順は、そのとおり現実のものとなる。3年あと、行政最高裁判所として判決を書くことが、コンセイユ・デタに求められたからである。同院は、1989年に「意見」のかたちで示した原則的見解を確認したうえで、同種の具体的事案について、女生徒を退校させた処分を取り消した(1992年)。
校長の処分の根拠となった校則は、「衣服またはその他の形での、宗教的、政治的または哲学的性質を持つ目立つ標識の着用は、厳格に禁止される」、と定めていた。判決は、この規定を、「その一般性のゆえに、中立性と政教分離の限界内で生徒に承認される表現の自由…を侵害する一般的かつ絶対的な禁止を定めている」から無効だとし、「ヴェール着用の状況が…圧力、挑発、入信勧誘、宣伝…の行為という性格を持つこと」を処分者側は立証していないと指摘して、処分を取り消したのである。
樋口解説
ここではまず、一方で政教分離、他方で信条・良心の自由という、ともに憲法価値をもつ二つの要素が対抗関係に立つという論理が、前提にされている。日本でのこれまでの圧倒的に多くの事例は、「信教の自由をまもるための政教分離」という図式で説明できるようなものだった。しかし、もともとライシテは、カトリック教会、およびそれと一体化した親たちが自分たちの信仰に従って子どもを教育しようとする「自由」の主張に対抗して、公教育の非宗教性を国家が強行する、というかたちで確立してきたのである。
政教分離の貫徹よりも「寛容」と「相違への権利」を、という方向は、時代の流れではある。アメリカ合衆国では、「生徒と教師のいずれもが、校門に入るや憲法上の表現の自由を放棄したと論ずるのは不当」という判断を、生徒のヴェトナム反戦の言動に関して、最高裁がのべていた(1969)。
フランス共和制の大原則であるライシテは、強大なカトリックの支配から、あらゆる少数派信仰(無宗教者を含む)の自由を防衛する役割を果たした。ところが今、そのライシテが、多数派国民による民族的少数派への偏見を正当化する道具とされている。これに対抗する「寛容」「多様性」の価値を重んじるべきが当然と思うのだが、衡量論を超えた原理的な考察については整理しかねる。
とはいえ、ブルキニ禁止条例に関する、今回のコンセイユ・デタの「意見」は至極真っ当なものと言えよう。「ヴェール着用禁止が正当化されるためには、その状況が…圧力、挑発、入信勧誘、宣伝…の行為という性格を持つこと」という1992年判決踏襲の当然の結論でもある。反イスラム感情に駆られた多数派が民族差別的な人権規制をするとき、これに歯止めをかけたのだから、彼の国では立憲主義が正常に機能しているのだ。
振り返って日本ではどうだろう。違憲の戦争法が成立し施行となり、今や運用に至ろうとしている。これは立憲主義が正常に機能していないことを表している。嗚呼。
(2016年8月28日)
憲法訴訟の実践は、私の職業生活における究極のテーマ。
このほど、「壊憲か、活憲か」(ブックレットロゴス№12)に「訴訟を手段として『憲法を活かす」─岩手靖国訴訟を振り返って」の小論を収めた。
同書は、次の4編から成る。
「〈友愛〉を基軸に活憲を」
村岡 到 (季刊『フラタニティ』編集長)
「訴訟を手段として『憲法を活かす』─岩手靖国訴訟を振り返って」
澤藤統一郎(弁護士)
「自民党は改憲政党だったのか」─「不都合な真実」を明らかにする
西川伸一(明治大学教授)
「日本国憲法の源流・五日市憲法草案」
鈴木富雄(五日市憲法草案の会事務局長)
四六判128頁、価格は1100円+税。
案内は下記URLをご覧いただきたい。
http://logos-ui.org/booklet/booklet-12.html
お申し込みは、下記まで。
ロゴス〒113-0033東京都文京区本郷2-6-11-301
tel 03-5840-8525
fax 03-5840-8544
そして、小著には過分の出版記念討論会が予定されている。
と き 2016年9月3日(土)午後1時30分
ところ 明治大学リバティタワー6F(1064教室)
報 告 村岡 到 澤藤統一郎 西川伸一 鈴木富雄
司 会 平岡 厚
参加費 700円
執筆者が4人が、それぞれに報告する。持ち時間は各30分。下記に、私の報告のレジメを掲載する。論旨の要約だけでは芸がない。「憲法訴訟を手段とした活憲」にテーマを絞った報告をしたい。お越しいただけたらありがたい。
なお、同社は、「友愛を基軸に活憲を!」をテーマに、季刊『Fraternity フラタニティ』(友愛)を発刊している。最新号は、No.3 2016年8月1日。
ここにも、「私が携わった裁判闘争」を連載している。
下記のURLを開いていただいて、出来れば定期購読していただけたらありがたい。
http://logos-ui.org/fraternity.html
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2016・9・3
訴訟を手段として憲法を活かす
ー憲法訴訟としての政教分離訴訟
弁護士 澤藤統一郎
※「憲法を活かす」とは
☆憲法典それ自体は紙に書いた文字の羅列に過ぎない。
その理念を社会に活きたものとして活用しなければならない⇒(活憲)。
☆憲法の構造は、「人権宣言+統治機構」となっている。
・憲法とは何よりも人権の体系である。これが憲法の目的的価値。
・統治機構は、人権保障を全うするための国家の秩序を定めている。
平和・民主主義などは重要ではあるが、飽くまで「手段的価値」。
☆「憲法の理念を活かす」とは、
・究極的には人権という「目的的価値」を実現すること。
同時に、統治機構規定における「手段的価値」を実現すること。
・人権という「目的的価値」と、統治の理念としての「手段的価値」とは
緊密に結びついている。
☆緊密な両者の関係
・平和(⇔平和的生存権)
・国民主権(⇔参政権・選挙権)
・政教分離(⇔信教の自由)
・検閲の禁止(⇔表現の自由)
・大学の自治(⇔学問の自由)
・福祉政策(⇔生存権)
・教育の独立(⇔教育を受ける権利)
・象徴天皇制(⇔個人の尊厳)
☆「憲法を活かす」場
・立法 ・行政 ・地方自治 ・企業 ・地域 ・家庭
・教育 ・メディア
・司法権は、違憲審査権(憲法76条)をもって憲法保障機能を司る。
☆司法権の限界
・三権分立のバランス 非民主的な司法が強すぎてはならない
・日本国憲法では、付随的違憲審査制(憲法裁判所とは異なる)
・人権を侵害されたもののみが、その回復の限りで訴権を認められる。
・主観訴訟だけが可能。客観訴訟は不適法・却下となる。
※政教分離訴訟における「憲法を活かす」試み
☆政教分離とは、象徴天皇を現人神に戻さないための歯止め。
国家に対して「国家神道(=天皇教)の国民マインドコントロール機能」
利用を許さないとする命令規定である。
・従って、憲法20条の眼目は、「政」(国家・自治体)と「教」(国家神道)
との「厳格分離」を定めたもの
・「天皇・閣僚」の「伊勢・靖國」との一切の関わりを禁止している。
・判例は、政教分離を制度的保障規定とし、人権条項とはみない。
このことから、政教分離違反の違憲訴訟の提起は制約されている。
・住民訴訟、あるいは宗教的人格権侵害国家賠償請求訴訟の形をとる。
☆運動としての岩手靖国訴訟
(求めたものは、公式参拝決議の違憲、県費の玉串料支出の違憲確認)
靖国公式参拝促進決議は 県議会37 市町村1548
これを訴訟で争おうというアイデアは岩手だけだった
県費からの玉串料支出は7県 提訴は3件(岩手・愛媛・栃木)同日提訴
☆訴訟を支えた力と訴訟が作りだした力
戦後民主主義の力量と訴訟支援がつくり出した力量
神を信ずるものも信じない者も 社・共・市民 教育関係者
☆政教分離訴訟の系譜
津地鎮祭違憲訴訟(合憲10対5)
箕面忠魂碑違憲訴訟・自衛隊員合祀拒否訴訟
愛媛玉串料玉串訴訟(違憲13対2)
中曽根靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟
滋賀献穀祭訴訟・大嘗祭即位の儀違憲訴訟
小泉靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟
安倍首相靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟(東京・大阪で現在進行中)
☆岩手靖国控訴審判決の意義と影響
・天皇と内閣総理大臣の靖国神社公式参拝を明確に違憲と断じたもの
・県費からの玉串料支出の明確な違憲判断は愛媛とならぶもの
・目的効果基準の厳格分離説的適用
目的「世俗的目的の存在は、宗教的目的・意義を排除しない」
効果「現実的効果だけでなく、将来の潜在的波及的効果も考慮すべき」
「特定の宗教団体への関心を呼び起こし、宗教的活動を援助するもの」
☆政教分離国家賠償訴訟の経験は、戦争法違憲訴訟等に受け継がれている。(2016年8月25日)