(2022年4月25日)
似合いというものがある。あるいは釣り合いというべきか。鶴には亀、梅に鶯、富士には月見草。翁には嫗、ロミオにはジュリエット、そして、ヒトラーにはヒロヒトである。ウクライナ政府の公式ツイッター上の動画で、せっかくヒトラー・ムソリーニと並べられていた昭和天皇(裕仁)の顔写真が、自民党経由の外務省の要請で削除されたという。おやおや、なんという不粋な。お似合いの仲を裂かれて、ヒトラーもヒロヒトも、泉下でさぞ無念の思いではなかろうか。
ウクライナ政府が、「ファシズムとナチズムは1945年に敗北した」という字幕と共にこの3名の顔写真の動画を掲載したのは、4月1日のことだという。もちろん、プーチン並みの戦争犯罪者としての非難の意を込めてのことである。
戦前の日・独・伊枢軸3国が侵略国家であり、反人権・反民主主義の全体主義だったことも、その各国の象徴たる人物がヒトラー、ムソリーニ、そして紛れもなくヒロヒトであったことも、世界に共通の常識である。その全体主義好戦国家の敗北は世界的に見れば慶事であった。このキャプションも、プーチン非難にピッタリのお似合い3人組写真掲載も、怒る筋合いはなく、謝るべきことでもない。
但し、ウクライナ政府には、ちょっとした誤解があったようだ。ドイツやイタリアと同様に、日本も全体主義の過去を清算した民主主義社会になっていると思い込んでいたのではないか。実はそうではなかったことに今ごろ気が付いて、愕然としているのだろうと思う。え?、日本ってまだ戦前と同じなのか?。
もしかしたら、ウクライナ政府の実務担当者は、ヒロヒトが戦後も天皇として生き延びたことを知らなかったのではないか。また、戦前は神であった天皇が戦後公式には人間となったが、洗脳から逃れられない多くの民衆からいまだに神同然の信仰対象となっていることも。戦前は臣民であった国民が戦後公式には主権者となったが、実は多くの民衆がいまだに臣民根性そのままであることも。さらには、枢軸時代の国旗や国歌だった「日の丸・君が代」を、日本だけが旧態依然として後生大事に護持していることなども。
ヒトラー・ムソリーニの思想を清算し克服してきた今のドイツやイタリアは、ヒトラーを批判してもムソリーニを非難しても、なんの問題も起こらない。両国ともに、世界の常識が通じる国になっているからである。ところが、日本はそうなっていない。天皇をヒトラーと並べれば、キリスト教徒がイエス・キリストを侮蔑されたごとくに、イスラム教徒がマホメットを誹謗されたごとくに、ヒステリックに喚くのだ。神聖な天皇教の教祖を、戦争犯罪人として扱ったなどとして。ヒロヒトの評価によって、日本社会の深層が炙り出される。
このヒステリックな抗議を受けて、ウクライナ政府は昨日、ツイッターに投稿した動画から昭和天皇裕仁の顔写真を削除し、謝罪した。やれやれというところだが、謝罪の言葉は難しい。ウクライナは世界の常識に従っただけ、なにも間違っていないからだ。「誤りを犯したことを心からおわびします。友好的な日本の方々を怒らせるつもりはありませんでした」とだけ述べたという。これが精一杯だろう。「怒らせるつもりはありませんでした」のあとに、「どうして皆さんが怒るのか、理解も納得もできてませんけれど…」という余韻が残る。
ナザレンコ・アンドリーという在日のウクライナ人の幾つかのツィッターが目にとまつた。4月24日付の以下のものが、その典型。正常な神経ではない。
「ウクライナ公式垢(ママ)は、本当に言葉が出ない程失礼なことをやらかした。「日本の教科書だって同じ歴史観」では済まされない。必ず責任者を特定して、直接抗議し、正しい歴史認識を教える。一般的なウクライナ人との感覚はズレがひどすごる。二度と広報に関わるべきではない。売国奴レベル。」
「正しい歴史認識」「売国奴」という言葉づかいは右翼のもの。右翼を代表するこの人物に聞いてみたい。「正しい歴史認識を教える」っていったい何を教えようというのか。まさか、昭和天皇(裕仁)に近隣諸国への侵略の意図も責任もないということではあるまい。それは、「正しい歴史認識」ではなく、「歴史修正主義」というのだから。
それ以外にも、幾つかのツィッターにお目にかかった。
ふざけるのもいい加減にしろ。ヒトラーと一緒にするな!
昭和天皇とアドルフ・ヒトラーを一緒にするな。日本にとってひどい侮辱だ。
(この種のツィートが少なくない。これは、深刻な社会心理学的研究テーマであろう)
金輪際ウクライナは応援しない!
支援を即、止めろ。そして支援した金も全て返してもらえ。
ウクライナを支援する気持ちがまったく失せた。謝罪がなければ、応援しない。
(結局は、ウクライナに対する日本の支援は反ロシアの感情だけからのもので、侵略戦争の被害救援という動機ではないようなのだ)
ゼレンスキーのパールハーバー演説で怒りの声をあげないからこうなるんだよ!
ゼレンスキーのパールハーバー発言を許すからこういうことになる!
(結局、ナショナリズムの呪縛から逃れられず、好戦的日本についての反省のない人々の妄言なのだ)
改めて思う。全ては、戦前の天皇制プロバガンダによるマインドコントロールを脱し切れていないことからの椿事なのだ。天皇制恐るべし、である。
(2022年2月12日)
「建国記念の日」にこだわりたい。昨日付の産経社説(「主張」)が、「建国記念の日 子供たちに意義を教えよ」というもの。この非論理、このバカバカしい論調が危険極まりない。陳腐なアナクロと看過するのではなく、批判や非難が必要である。「現在の滴る細流が、明日は抗しがたい奔流となりかねない」のだから。私も、子どもたちに語りかけてみよう。産経に騙されてはならないと。
皆さん、誰もが自分の意見を言ってもよい社会です。この世にはいろんな意見が入り乱れています。ですから、とんでもない意見も堂々と述べられていることに気を付けなければなりません。自分の頭で考えて、納得できるものでことを選ばなくてはなりません。たとえば、産経のような大新聞の社説を読むときにも、とんでもないことが述べられているのではないかと批判の目を失ってはいけません。もちろん、私(澤藤)の意見についてもです。
「辛(かのと)酉(とり)の年の1月1日、初代の神武天皇が大和の橿原宮で即位した。よってこの年を天皇の元(はじめ)の年となす―と、日本の建国の由来が、日本書紀に記されている。」
ここには、「日本の建国の由来」が書かれていますが、二つのことに気を付けてください。一つは、「日本の建国の由来」が史実に基づくものではなく、神話をもとに語られていることです。そしてもう一つは、初代天皇の即位を「建国」としていることです。
未開の時代にはそれぞれの部族がそれぞれの神話を作りあげましたが、文明が進歩するにつれて、考古学や歴史学に基づく客観的な史実を重視するようになりました。いまだに、国の成り立ちを神話に求めて「これこそ自国のプライドの源泉」とメルヘンを語ることは、独りよがりではありますが微笑ましいとも言えましょう。しかし、神話に基づいて「日本=天皇」と言いたくてならない産経のような主張には警戒を要します。悪徳商法の騙しに警戒しなければならないように、です。
明治維新以来敗戦まで、日本は紛れもなく「天皇の国」でした。そこでは、天皇の天皇による天皇のための政治が行われ、天皇の命令として国民は軍隊に組織され、侵略戦争が行われました。また苛酷な植民地支配も行われたのです。「天皇の国」は、軍国国家、侵略国家でした。戦後の憲法は、その反省から出発しています。
今、強調すべきは、天皇の支配する国であった日本を徹底して清算することで、「平和を望む国民が主権者の日本」の姿をき近隣諸国に見てもらうことではないでしょうか。戦争を起こした天皇(裕仁)はその責任を認めず、謝罪しないまま亡くなりました。いま、「日本=天皇」と繰り返すことは、とんでもない時代錯誤だと言わざるを得ません。
「この日は今の暦の紀元前660年2月11日にあたり、現存する国々の中では世界最古の建国とされる。科学的根拠がないから必要ないという批判はあたらない。大切なのは、日本が建てられた物語を私たちの先祖が大切に語り継いできた積み重ねである。」
「科学的根拠がないから必要ない」の意味上の主語は、「建国記念の日」のようです。しかし紀元節復活反対は、「建国記念の日は科学的根拠がないから必要ないという批判」をしているわけではありません。少なくも私は、「必要ない」ではなく、「有害だから認めない」と批判をしているのです。なぜ有害なのか、天皇という存在、天皇を戴くという制度が、諸悪の根源だと考えるからです。
「日本が建てられた物語を私たちの先祖が大切に語り継いできた」は、大嘘だと思います。神武東征の物語とは架空のものにせよ、勝者が敗者を武力で制圧した物語です。勝者の物語だけが残りましたが、敗者の怨みの物語は消えていったのです。
明治期にまったく新しく作られた近代天皇制は、暴力に支えられたものでした。大逆罪、不敬罪、治安警察法、治安維持法、国防保安法、新聞紙法、出版法…。天皇の権威を認めない者にはいくつもの弾圧法規による重罰が科せられました。正式な裁判を経ることなく、特高警察に虐殺された人も少なくありません。この史実に目を背けることは許されません。
「建国神話を軍国主義と強引に結びつけた批判が一部に残っているのは残念である。日教組などの影響力が強い学校現場でも、建国の由来や意義はほとんど教えられていない。」
「建国神話と軍国主義とは、故なく強引に結びつけられた」ものではありません。「日本書紀」には、神武天皇が大和橿原に都を定めたときの神勅に、「八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為(せ)んこと、またよからずや」とあります。ここから「八紘一宇」(世界を、天皇を中心とする一つの家とする)というスローガンが生まれ、朝鮮・満州・蒙古・中国への侵略を正当化したのです。
正義凛(りん)たる 旗の下
明朗アジア うち建てん
力と意気を 示せ今
紀元は二千六百年
ああ弥栄(いやさか)の 日はのぼる
国民は、これに乗せられました。今、同じことを安倍晋三や産経がやろうとしています。批判の精神が必要なのです。
「中学校学習指導要領は「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家及び社会の形成者として、その発展に努めること」と定めている。国の成り立ちを知らなければ、真に国を愛せようか。」
このような立場を歴史修正主義と言います。あるいは、「愛国史観」と言ってもよいでしょう。本来、大切なのは客観的・科学的に歴史的真実を見つめる姿勢です。ところが、産経の態度はそうではありません。まず、「国を愛する」ことが求められています。そのうえで、「国を愛する」立場から「国の成り立ち」を学べというのです。しかも、その国の成り立ちが、非科学的な架空のものであることは産経とても認めざるを得ません。要するに、史実も科学もどうでもよい。大事なのは、神話を信じて伝承することだ。そうすれば、子どもたちに、天皇制の素晴らしさを植え付けることができる、と言っているのです。
「きょう、子供たちに日本の建国の由来と意義を教えよう。そして私たちに繁栄した祖国、ふるさとをバトンタッチしてくれた先人に感謝しよう。」
産経新聞の立場は、基本的に戦前と変わらないものです。私はこう言うべきだと思います。「きょう、子供たちに、日本の建国の由来とされているものが、実は後の世の政治権力が捏造したまったくのウソであることをしっかりと教えよう。さらに、そのウソが国民を戦争に駆りたてるために利用された危険なものであることも教えなければならない。そして、天皇制政府の暴虐に抵抗して虐殺された先人を悼み、それでも抵抗を続けた人々を讃え感謝しよう。」
(2022年2月11日)
「建国記念の日」である。言わずと知れた旧紀元節。かつて、この日が当てずっぽうに「初代天皇即位の日」とされ、それゆえに「建国の日」とされた。天皇制の発祥と、日本の建国とは同義だった特異な時代でのこと。また、この日は大日本帝国憲法公布の日ともされた。いまどき、こんな日をめでたがってはならない。
ところが、この日を奉祝しようという一群の勢力がある。いまだに、天皇制という洗脳装置によるマインドコントロール状態を脱しきれていない哀れな人々と、この哀れな人々を利用しようとたくらむ輩と。その勢力にとっては、本日こそが「褒むべき天皇制起源の祝祭日」であり、「歴史修正主義奉祝記念日」でもある。
本日を我が国の「建国記念」の日とすることは、我が国を「フェイク国家」と貶め、明治期に急拵えされた天皇制絶対主義のチャチな欺しを容認しているという証しにほかならない。
我が国の近代は珍妙な宗教国家であった。ようやくにして1945年8月に、あるいは遅くとも1947年5月には、旧国家から断絶して国家存立の基本原理をまったく新たにする「普通の価値観国家」となった。が、この断絶にはいくつもの穴があって、往々にして戦前と戦後が相通じている局面に遭遇せざるを得ない。戦前と戦後の断絶を明確に認識する史観と、連続性を強調する史観とがせめぎあっている。本日は、そのことを意識させられる日。
本日、《「建国記念の日」を迎えるに当たっての内閣総理大臣メッセージ》なるものが官邸のホームページに掲載された。その幾つかの節を取りあげたい。
「「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨のもとに、国民一人一人が、遠く我が国の成り立ちをしのび、今日に至るまでの先人の努力に思いをはせ、さらなる国の発展を願う国民の祝日です。」
典型的な連続史観の表白である。「愛すべき国の成り立ちは、連綿たる遠い過去にある」として、そのように位置づけられた国の発展を願う、という。国民主権国家、平和国家、人権尊重国家として生まれ変わったこの国の大原則を大切にしよう、とは言わないのだ。
「長い歴史の中で、我が国は、幾度となく、大きな困難や過酷な試練に直面しましたが、その度に、先人たちは、勇気と希望を持って立ち上がり、明治維新や戦後高度経済成長など、幾多の奇跡を実現してきました。」
これにも驚かざるを得ない。神権天皇制を拵え上げ、その集大成としての欽定大日本帝国憲法制定に至った明治維新を「勇気と希望をもってする奇跡」と全面肯定し、戦後民主主義と日本国憲法の価値には言及しない。「建国記念の日」とは、明治政府がデッチ上げた皇国史観再確認の日のごとくである。
岸田メッセージには、わずかに「自由と民主主義を守り、人権を尊重し、法を貴ぶ国柄を育ててきました」とあるが、いかにも歯切れが悪い。「自由と民主主義を守り」は、自由民主党という党名の枠内のものであろうし、「人権を尊重し、法を貴ぶ」は、大日本帝国憲法の法律の留保を連想させる。たとえば、第29条「日本臣民は法律の範圍?に於て言論?作集會及結?の自由を有す」のように。せっかく「人権を尊重し」と言いながら、これに「為政者の作った法を貴ぶ」をくっつけることによって、人権制約を強調しているのだ。
「先人たちの足跡の重みをかみしめながら、国民の命と暮らしを守り抜き、全ての人が生きがいを感じられる社会を目指す。「建国記念の日」を迎えるに当たり、私は、その決意を新たにしております。」
この岸田の決意の内容が、悪かろうはずはない。しかし、「建国記念の日」を迎えるに当ってのメッセージとなると、どうしても違和感を拭えないのだ。ちょうど、「靖国に詣でて平和を祈念する」「伊勢神宮で民主主義を語る」がごとくの甚だしい場違いなのだ。
言うまでもないことだが、明治政府は天皇の権威を拵えあげ、これをもって国民を統合し統治しようとの設計図を描いた。天皇は神であり、道徳・文化の源泉であり、しかも大元帥であって、それ故に統治権の総覧者とされた。神権天皇制とは、この壮大なデマとフェイクに基づくマインドコントロールの体系であった。このフィクションを国民に対して刷り込むために国家権力が総力をあげた。学問・教育とメディアを徹底して国家統制とした。そのための弾圧法体制を幾重にも整備した。理性を持つ者は、沈黙するか面従腹背を余儀なくされ、あるいは非国民として徹底して弾圧された。
紀元節とは、そのような諸悪の根源であった天皇制の起源と意味付けされた日である。言わば、「天皇制の誕生日」なのだ。とうてい穏やかには迎えられない。
赤旗が、本日の主張で「負の歴史刻んだ過去の直視を」と、紀元節問題を取りあげている。要旨以下の通り。
「きょうは「建国記念の日」です。もともとは戦前の「紀元節」でした。明治政府が1873年、天皇の権威を国民に浸透させるため、「日本書紀」に書かれた建国神話をもとに、架空の人物である神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位した日としてつくりあげたもので、科学的・歴史的根拠はありません。
朝鮮半島の支配をロシアと争った日露戦争の宣戦布告も1904年2月10日におこなわれ、11日に新聞発表されました。国民を侵略戦争に駆り立てるために「紀元節」を利用することは、1941年12月8日に開始されたアジア・太平洋戦争のもとでいっそう強められました。
負の歴史を背負った「紀元節」は戦後、国民主権と思想・学問・信教の自由を定め、恒久平和を掲げた日本国憲法の制定に伴い、48年に廃止されました。ところが佐藤栄作内閣が66年、祝日法を改悪して「建国記念の日」を制定し、「紀元節」を復活させて今日に至っています。
日本政府が侵略と植民地支配の負の歴史を認めようとしないのは、根深い歴史修正主義の考えがあるからです。登録推薦を行うのなら、戦時中の朝鮮人強制労働の歴史を認めるべきです。
今こそ歴史の事実と向き合い、憲法9条にたったアジアの平和外交への転換が求められています。」
ここに間違ったことは書かれていない。まったくそのとおりではある。が、教科書を読ませられるような淡々たる印象はどうしたことか。この文面には、天皇制に対する怒りのほとばしりがない。天皇制に虐殺された多くの共産党員の怨念が感じられない。社会進歩を目指した真面目な活動家たちや、その思想・信条や信仰のゆえに天皇制に弾圧された人々への、苦悩や怒りへの共感が感じられない。
そして、今なお権力の道具として危険な存在である象徴天皇制への警戒心もみられない。本来は、今日こそ天皇制の危険を訴えるべき日ではないか。
(2021年12月25日)
クリスマスである。キリスト教徒にとっては神の子生誕の聖なる日であり、キリスト教文化圏では社会全体が習俗としての安息日となる。香港は長くイギリスの統治下にあって、クリスマスは祝日なのだそうだ。その安息の時期を狙ってコソドロ同然に、各大学の天安門事件関係のモニュメントが撤去された。罰当たりと言うべきだろう。
正確に言えば、直接に撤去したのは各大学当局である。しかし、この時期一斉に各大学が自分の意志で行ったはずはない。香港政庁の差し金と見るべきが当然の判断。そして、香港政庁が北京の指示のままに動いていることは天下周知の事実。つまりは、中国共産党が天安門事件批判の痕跡を、香港から消し去ろうとしてのことなのだ。歴史修正主義は、いまや日本政府の専売特許ではなくなった。中国よ、お前もか。そう嘆かざるを得ない。
AFPやロイターが伝えるところでは、昨24日香港の2大学が天安門事件を象徴する像とレリーフを撤去した。一昨日23日には、香港大学(HKU)が天安門事件で殺害された民主化運動参加者を追悼する記念像「国恥の柱」を構内から撤去している。
香港中文大学(CUHK)当局は、24日未明「民主の女神像(Goddess of Democracy)」像を構内から撤去した。天安門広場に建てられたオリジナルを模して作成されたもので、高さ6.4メートル。香港民主化運動の象徴となっていた。また、嶺南大学(Lingnan University of Hong Kong)も、ほぼ同時刻に天安門事件を象徴するレリーフを撤去した。いずれも、陳維明(Chen Weiming)氏が制作したものだという。
注目すべきは、嶺南大学の撤去理由。「本学に法的、安全面のリスクをもたらす恐れがある構内の物品」として撤去という。権力側の意図を語って分かりやすい。
クリスマスイブのため、両大学とも構内に学生はほとんどいなかった。
ロイターは、元学生の「ショックだ。民主の女神像は大学の自由な雰囲気を象徴していた」とのコメントを紹介している。今さらの「ショック」か、という思いも拭えないが、民主の女神像の撤去は、権力の弾圧が大学の中にまで及び、「大学の自由な雰囲気喪失の象徴」となったと言うことなのだろう。
昨日撤去されたレリーフと民主の女神像の両者を制作した陳維明氏はロイターに対し、「作品に傷が付けば大学を訴える」「残忍な弾圧の歴史を葬り去りたいのだろう。香港に今後もさまざまな見方が存在することを認めないのだろう」と語っている。
香港はかつて、「中国」で唯一天安門事件を語ることができる場であった。毎年6月4日には大規模追悼集会が行われ、天安門事件の資料を集めた「六四記念館」も開かれていた。しかし、香港の自由が北京の専制に飲み込まれる過程で、集会もできなくなり、今年6月「六四記念館」も閉鎖を余儀なくされた。そして、追い打ちをかけての大学構内からのモニュメント撤去なのだ。
北京在住で、香港を現地取材したジャーナリスト宮崎紀秀の今年6月2日付レポートの一部を紹介させていただく。
中国で民主化を求める学生らが武力鎮圧された天安門事件。6月4日で、32周年となるのを前に、事件の資料を集めて公開していた香港の「六四記念館」が、2日、閉鎖を決めた。
六四記念館は、1989年6月4日に、中国の民主化を求める学生らを人民解放軍が武力鎮圧した天安門事件に関する写真や遺品などの資料を集め、公開していた。その目的は事件を記録し、風化させないためだ。
中国本土では、天安門事件についてはいまだにタブー。中でも事件で子供を失った親たちは、事件の真相究明と、公式な謝罪や補償を求めているが、中国政府は、「事件は解決済み」として、その声を無きものとしている。事件を公に語ることが許されない中国で、若い世代は事件の詳細をほとんど知らない。
一方、一国二制度の下で一定の言論の自由が保たれてきた香港では、これまで事件の検証なども比較的自由だった。六四記念館もその1つだが、中国が香港への統制を強め、「香港国家安全維持法」を施行するなど、そうした環境が変わりつつある。
六四記念館は、香港へ観光にくる中国本土の若者らが、天安門事件に触れることのできる数少ない場でもあった。
死亡した19歳学生の(弾痕の)ヘルメット。
事件で、当時19歳の息子を失った張先玲さんは、息子の被っていたヘルメットを記念館に寄贈した。北京に住む張さんは、自由に香港に行けるわけではない。しかし、息子の形見である、(額から左後ろに弾が貫通した)弾丸の跡が残るヘルメットを記念館に寄贈した理由について、こう話していた。
「博物館にあれば、多くの人に見てもらえます。銃を撃って人を殺したのは事実であるという証拠になりますから」
一連の出来事は、殺された事実の証拠を残したいとする犠牲者の側と、殺した証拠を消したいとする権力者の側の争いなのだ。歴史をありのままに見てくれという権力に弾圧された人々と、歴史を修正しなければならないとする権力に連なる人々とのせめぎ合い。民主主義は、歴史の修正を許さないことを原則とする。「中国的民主」はいかに?
(2021年11月16日)
いま振り返って、2019年9月の「あいちトリエンナーレ・表現の不自由展その後」は、日本社会の嘆かわしい現状をあらためて教えてくれた。
問われたのは、この日本の社会に表現の自由がどれほど根付いているかという問題である。天皇を批判する表現の自由はあるのか。従軍慰安婦問題を根底から考えようという表現についてはどうなのか。その困難を知りつつ果敢にこの企画の実行に挑戦した人たち、そして問題が顕在化してからは懸命にこの企画を守ろうとした多くの人たちの真摯さ熱意に讃辞を送らねばならない。
しかし、これを妨害しようという心ない勢力が、我が国の表現の自由の水準を教えてくれた。その勢力の中心に、高須克弥、河村たかし、吉村洋文、田中孝博らの名があった。右翼とポピュリストたちの反民主主義連合である。
彼らが、「不自由展」を主宰した責任を問うとして始めた大村知事リコール運動を担った署名活動団体「愛知100万人リコールの会」の会長が高須克弥であり、その事務局長を務めたのが田中孝博。当時田中は、日本維新の会・衆議院愛知5区選挙区支部長(総選挙予定候補者)であった。
その会が提出した署名のおよそ8割に当たる約36万人分が偽造だったとして、世を驚愕させた。右翼とポピュリストたちの薄汚さを晒して余すところがない。今、田中は地方自治法違反(署名偽造)の罪名で起訴されて公判中であるが、河村や高須がどう関わったかは、まだ明らかにされていない。
かつて中国に「?国无罪」(愛国無罪)というスローガンがあった。河村や高須には、「自分たちは愛国者だ。天皇を誹謗する不逞の輩を糾弾する愛国心の発露に違法の謂われはない」という思い上がりがあるのではないだろうか。
本日の夕刊に、久しぶりに高須克弥の名を見た。「高須院長の秘書ら2人を書類送検 リコール署名偽造の疑い」というタイトル。
毎日新聞は、こう報道している。
「愛知県の大村秀章知事に対するリコール(解職請求)運動を巡る署名偽造事件で、県警が署名活動団体「愛知100万人リコールの会」会長、高須克弥氏(76)の女性秘書(68)と50代女性の2人を地方自治法違反(署名偽造)の疑いで書類送検していたことが16日、関係者への取材で判明した。いずれも容疑を認めているという。
送検容疑は同会事務局長の田中孝博被告(60)=同法違反で公判中=と共謀し、2020年10月ごろ、愛知県内で数人分の署名を偽造したとしている。
署名偽造を巡っては佐賀市内でアルバイトを雇い、署名を書き写したとして田中被告らが逮捕、起訴されているが、佐賀市以外での署名偽造に関して立件されるのは初めて。
女性秘書については田中被告の指示で押印のない署名簿に自身の指印を押していたことが既に判明。県警は5月に女性秘書の関連会社を家宅捜索し、任意で事情を聴いていた。地方自治法は署名偽造について罰則がある一方、他人の署名に押印する行為への罰則や過失規定はないため、立件は見送られていた。
秘書が書類送検されたことについて、高須氏は16日、毎日新聞の取材に「僕はリコールのノウハウもなく、(署名活動団体事務局に)全部丸投げでお願いしますと言っていた。秘書には捜査に協力するようには言ったが、僕には細かいことは全く知らされていない」と自身の関与について否定した。」
また、産経の報道にこうある。
「大村秀章愛知県知事へのリコール(解職請求)運動を巡る署名偽造事件に関わったとして、地方自治法違反(署名偽造)の疑いで書類送検された高須克弥・高須クリニック院長の女性秘書(68)が、自身が役員を務める企業の従業員らにそれぞれ数万円の報酬を支払って署名を偽造させた疑いがあることが16日、捜査関係者への取材で分かった。」
取材に対して、高須は、「秘書には捜査に協力するようには言ったが、僕には細かいことは全く知らされていない(だから、僕には責任はない)」「全く知らなかった。私自身は全く関与していない」と話している。安倍晋三を典型とする政治家に真似た、秘書という尻尾切り捨ての術である。
また、河村たかしも、「報道で知ってびっくりした。とんでもない話ですわ。県警は誰にも遠慮せず、きちんと事実を明らかにしてほしい」と話したという。
私は知らなかったが、愛知県警は今年2月以降、秘書への任意の事情聴取を複数回実施。同5月には、秘書の自宅や秘書が役員を務める関係会社を同法違反容疑で捜索し、パソコンや携帯電話などを押収していたという。
遅々としてではあるが、着実に捜査の手が高須の身辺に迫っている印象を受ける。愛国無罪などあってはなない。厳正な捜査を尽くしてもらいたいと願う。
(2021年10月9日)
NHKを被告とする情報公開請求訴訟に関連して、「NHK情報公開・個人情報保護センター」との文書のやり取りが頻繁である。私どもの窓口は醍醐聰さんで、同センターから醍醐さん宛の文書が入ってくるが、この日付が元号を使わず、すべて西暦表示であることを興味深く眺めていた。
迂闊にも気付かなかったが、この西暦表示は、情報公開センターだけではない。NHKの内部文書は、すべて西暦表示に切り替わっているようである。少なくも、経営委員会関係の文書も、理事会の文書も、すべて西暦表示に統一されている。
情報公開請求で開示された文書の一つに、「監査委員会監査実施要綱」という細則がある。その改正の経過が、「平成28年7月26日」の次が、「2020年1月1日」なのだ。この間のどこかで、元号表示から西暦表示への切り替えが行われている。
この切り替えはいつだったのだろうか。推理すれば、最もあり得るところは元号の替わり目を避けるタイミングではないかということ。元号の替わり目は2019年における、「平成31年4月⇒令和1年5月」という中途半端な時期。だとすると、同年の3月末日で平成という元号の使用をやめて、新年度の始まる4月から西暦表示にしたのではないか。つまり、「平成30年度の末日である平成31年3月末日」までを元号表示とし、その翌日つまり、「2019年度の最初の日である2019年4月1日」から西暦表示を始めたのだろう。
こう見当を付けて調べて見たら、ドンピシャリだった。NHKの最高意思決定機関である経営委員会も、これに附随する監査委員会も、NHKの理事会も、すべての文書議事録は、2019年4月1日以降は西暦表示に統一されている。このことは、あまり話題になっていないが、注目すべき出来事だと思う。
つまり、NHKは少なくとも内部の事務文書では、平成から令和という元号に切り替える煩わしさを避けて、令和は使わないことにしたのだ。
この切り替えの時期の経営委員会議事録も、理事会議録も、西暦表示への切り替えについて語るところはない。ひっそりと切り替えたという印象。おそらく、この変更は周到に練られ準備されてのことだろう。この決断はNHKのビジネスの効率化に役だったものと思われる。
もっとも、NHKは放送ではいまだに元号を使っている様子なのだが、追々と西暦表示に変わって行くことになるだろう。
ところで、情報公開文書の中に、西暦表示に関して次のような興味深い文書がある。
「 確 認 書
2020年4月1日から2021年3月31日までの、日本放送協会の経営委員会委員としての職務執行について、「経営委員会委員の服務に関する準則」に定められた内容を理解し、それに基づき行動したことを報告します。
第6粂(機密保持)については、経営委員会委員の職を退いた後もこれに基づき行動します。」
定型文書の書式が西暦表示であり、これに森下俊三以下の経営委員が年月日を記入して、署名している。経営委員は12名だが、開示されたものは期をまたがって入れ替わった委員を含む14名。森下俊三以下13名が素直に、署名の日を西暦表示にしていることが、印象的。
中で、「令和3年4月6日」と元号表記にこだわっている人がたった一人、おそらくは、その思想の発露と思われる、長谷川三千子委員である。
(2021年9月1日)
8月か終わって本日より秋9月。冷たい雨のそぼ降る肌寒い日となった。9月1日の「国恥の日」にふさわしい陰鬱な天候。
1923年の関東大震災の勃発から98年となる本日、震災の被害を象徴する場所である旧陸軍被服廠跡地に建立された横網町公園(墨田区)の都慰霊堂で、都慰霊協会主催の犠牲者追悼法要が営まれた。同時に同公園で「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」(日朝協会都連などで作る実行委員会が主催)も開かれた。
都慰霊協会主催の犠牲者追悼法要では、都知事小池百合子の追悼の辞を武市敬副知事が代読した。「私たちには災害や戦争の記憶を風化させることのないよう次の世代に語り継いでいく重要な使命がある」との趣旨だったという。小池に聞きたい。「災害の何を、戦争の何を、なんのために、どう次の世代に語り継いでいくべきというのか」と。
まずは戦争である。まさか侵略の栄光や国威発揚、軍人の勇敢さや国に殉じた勲功を語り継ごうということではなかろう。全国民の体験であった戦争の悲惨さを語り合い語り継ぐことこそが、どうしたら再びの戦争とその惨禍を防止することができるかの真剣な議論の出発点である。戦争は人間が起こしたことだ、戦争の悲惨さを全国民が共有することで、戦争を防ぐことが不可能なはずはない。
そして、人間が起こした戦争には反省と責任が論じられなければならない。戦争は国家の意思として準備され、遂行され、絶望的な戦況に至ってもなお国民多数の犠牲が強いられた。戦争を語り継ぐことは、戦争を準備し起こし長引かせた者についての反省と責任を語り継ぐことでもある。
災害はどうだろうか。自然災害の悲惨な記憶を風化さずに次の世代に語り継いでいくことは、災害への備えについての教訓を忘れずに伝えることである。自然の動きを止めることはできないが、その被害を軽減することは可能なのだ。
では、1923年9月1日の震災に端を発した、軍と警察と民衆が数千人規模の朝鮮人(中国人も犠牲になっている)を虐殺した「国恥」というべき事件についてはどうだろうか。これは自然災害ではない。明らかな犯罪である。被害者と加害者が存在するのだ。被害者を追悼するだけでなく、加害の側の反省と責任を明確にしなければならない。殺害された朝鮮人被害者を震災の被害者と同列に置くことは、反省を忘れ加害者を免責することになる。
小池は、「私たちには震災の際に、無辜の朝鮮の人々を虐殺した傷ましい過去と向き合わねばなりません。その加害の事実から目を逸らさず、加害の記憶を風化させることのないよう次の世代に語り継いでいく重要な使命があります」というべきであった。
しかし、小池はそうは言わない。ならば、せめては「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」に歴代知事が寄せていた追悼文を送るべきであったが、ことさらにそれもしない。今年で5年連続となる。歴史修正主義者と面罵されて返す言葉もあるまい。
「国恥」の一面は、この冷厳な歴史的事実を認めようとせず、歴史からこれを抹消しようという策動が続いていることだ。そして、今日に至るまでその策動を克服し得ていない。あれから98年経った今なお、この歴史の隠蔽・修正という「国恥」は続いている。その現在の「国恥」を象徴する人物が小池百合子(都知事)である。小池は「朝鮮人虐殺の事実などは風化させ、できることなら忘れてしまおう」と言っているに等しい。このような人物を首都の知事にしていることこそが、現在の国民の恥辱という意味での「国恥」にほかならない。
(2021年8月20日)
9月1日が近づいてきた。年来、私はこの日を「国恥の日」と呼んでいる。日本人であることが恥ずかしいと思わざるをえない日、そしてその気持ちを忘れてはならないと心に刻むべき日、である。もっとも、まだ明示の賛同者を得てはいない。
1923年9月1日が「国恥」というべき事件の発端である。関東大震災の混乱の直後に、日本の軍と警察と民衆が、数千人の朝鮮人を虐殺したのだ。中国人も犠牲になっている。その犠牲者の数は正確には分からない。当局がこの犯罪の大部分を隠蔽し、調査を怠ったからである。
この朝鮮人虐殺の全貌は、姜徳相『関東大震災』(中公新書)と吉村昭『関東大震災』(文春文庫・菊池寛賞受賞作)との2冊に詳しい。混乱の中で、多くの朝鮮人が文字通り虐殺・惨殺されたのだ。虐殺に直接手を下したのは、軍・警よりは、民間の日本人である。中心に位置したのは退役軍人とも言われるが、決してそればかりではない。ごく普通の人々が自警団を作って、刃物や竹槍などの武器を持ち寄り、「朝鮮人狩」を行い、その虐殺に狂奔したのだ。恐るべき蛮行というほかはない。
この事件についての先進的研究者である姜徳相(元一橋大学教授・滋賀県立大学教授)は、去る6月21日に亡くなった。氏は、この虐殺の本質を端的にこうまとめている。私には、返す言葉がない。
「日本の民衆が流言飛語に乗せられて朝鮮人を虐殺したというのは誤りで、軍隊と警察が率先して朝鮮人虐殺を実行し、朝鮮人暴動のデマを流して民衆を興奮させ、虐殺を煽動した」「国家権力を主犯に民衆を従犯にした民族的大犯罪、大虐殺」
花鳥風月を愛で、もののあわれを詠じるのも日本人だが、後ろ手に縛った朝鮮人を竹槍で惨殺したのも、紛れもない同胞である。この事件は、「国恥」というほかはない。
だが、「国恥」には、もう一面ある。この冷厳な歴史的事実を認めようとせず、歴史からこれを抹消しようという策動が続いていることだ。そして、今日に至るまでその策動を克服し得ていない。あれから98年経った今なお、この歴史の隠蔽・修正という「国恥」は続いている。その現在の「国恥」を象徴する人物が小池百合子(都知事)である。
1974年以降、毎年9月1日に東京都墨田区の都立横網町公園で、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」が開かれている。主催者は、日朝協会が主となった実行委員会。その追悼式には、歴代の知事が追悼文を寄せてきた。あの右翼・石原慎太郎でさえも、追悼文を欠かさなかった。ところが、小池百合子は、度重なる要請を拒否して、追悼文を寄こそうとしない。今年も、である。
日朝協会などの実行委メンバーは7月27日、8月8日と都庁を訪れ、追悼文の送付を求め、8596筆と142団体の署名を渡した。この席で、実行委側は、「内閣府中央防災会議の報告書(08年)も虐殺の事実を踏まえ、背景に『民族的な差別意識』などがあったと指摘したことを紹介。歴代知事が『二度と繰り返すことなく』語り継ぐとしてきたにもかかわらず、小池知事が追悼文送付をやめたことは理解できない」などと述べている。
また、8月17日には、日本共産党都議団(大山とも子団長、19人)が正式申し入れをしている。申し入れの内容は、下記2点。
1、知事は史実を誠実に直視し、今年9月1日に開催される「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」に対して、追悼文の送付を再開すること。
2、「人権条例」審査会が認定したようなヘイトスピーチが二度と行われることのないよう、9月1日の横網町公園の運営に当たり適切な措置を講じるとともに、知事は、ヘイトスピーチが行われることのない東京都を目指し率先して行動すること。
この申し入れの理由は、説得力のある立派なもの。是非下記URLに目を通していただきたい。
https://www.jcptogidan.gr.jp/category01/2021/0817_3247
それでも、小池百合子に、反省の色は見えず、「今年も追悼文を送付しない」というのが東京都の方針である。国恥は、まだまだ払拭できない。
なお、追悼式典は9月1日午前11時開会予定。新型コロナウイルス対策のため、昨年に続いて今年も一般参加は募集せず、オンライン配信される。
(2021年2月26日)
1936年2月26日、東京は雪であったという。降雪を衝いて陸軍青年将校のクーデターが決行された。反乱軍は、首相官邸を襲撃し「君側の奸」とされた政府要人を殺害したが、陸軍上層部の同調を得られなかった。海軍は一貫して叛乱鎮圧に動いた。結局、クーデターは失敗し首謀者の主たる者は銃殺、その他多数が厳罰に処せられた。
歴史の展開はこれで終わらない。この皇道派クーデターを押さえ込んだ統制派の「カウンター・クーデター」を担った統制派の手によって、軍部独裁への道が切り開かれていく。これが「2・26事件」である。
「2・26事件」とは何か。大江志乃夫の簡明な記述を引用しておきたい。
「いわゆる皇道派に属する青年将校が部隊をひきいて反乱を起こした「政治的非常事変勃発」である。反乱軍は、首相官邸に岡田啓介首相を襲撃(岡田首相は官邸内にかくれ、翌日脱出)、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監陸軍大将渡辺錠太郎を殺害し、侍従長鈴本貫太郎に重傷を負わせ、警視庁、陸軍省を含む地区一帯を占領した。反乱将校らは、「国体の擁護開顕」を要求して新内閣樹立などをめぐり、陸軍上層部と折衝をかさねたが、この間、2月27日に行政戒厳が宣告され、出動部隊、占拠部隊、反抗部隊、反乱軍などと呼び名が変化したすえ、反乱鎮圧の奉勅命令が発せられるに及んで、2月29日、下士官兵の大部分が原隊に復帰し、将校ら幹部は逮捕され、反乱は終息した。事件の処理のために、軍法会議法における特設の臨時軍法会議である東京陸軍軍法会議が設置され、事件関係者を管轄することになった。判決の結果、民間人北一輝、西田税を含む死刑19人(ほかに野中、河野寿両大尉が自決)以下、禁銅刑多数という大量の重刑者を出した。「決定的の処断は事件一段落の後」という、走狗の役割を演じさせられたものへの、予定どおりの過酷な処刑であった。」
「実際に起こった二・二六事件は、『国家改造法案大綱』(北一輝)の実現をめざすクーデターが『政治的非常事変勃発に処する対策要綱』(統制派)にもとづくカウンター・クーデターに敗北し、カウンター・クーデター側の手によって軍部独裁への道が切り開かれるという筋書をたどった。」
北一輝『日本改造法案大綱』の冒頭に、「天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為に、天皇大権の発動によりて3年間憲法を停止し両院を解散し、全国に戒厳令を布く」とある。当時の欽定憲法でさえ、軍部にはなくもがなの邪魔な存在だった。この邪魔な憲法を押さえ込む道具として、「天皇大権」が想定されていた。
軍隊は恐ろしい。独善的な正義感に駆られた軍隊はなお恐ろしい。傀儡である天皇を手中に、これを使いこなした旧軍は格別に恐ろしい。
軍事組織は常に民主主義の危険物である。軍隊のない国として知られるコスタリカを思い出す。彼の国では、国防への寄与という軍のメリットと、民主主義に対する脅威としての軍のデメリットを衡量した結果として、軍隊をなくする決断をしたという。軍を維持する費用を、教育や環境保全や、新しい産業に注ぎ込んで、国は繁栄しているというではないか。
かつてのチリ・クーデーが衝撃的だった。1970年代初め、南米各国はアメリカの軛から脱して民主化の道を歩み始めていた。中でも、チリが希望の星だった。アジェンデ大統領が率いる人民連合政権は、世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権と称されていた。それが、ピノチェットが指揮する軍部の攻撃で崩壊した。ピノチェットの背後には、米国や多国籍企業の影があった。憎むべき軍隊であり、憎むべきクーデターである。
今、ミャンマーの事態が軍事組織の危険性を証明している。民主化を求める勢力が選挙で大勝すると、これを看過できないとして、軍部が政権を転覆する。国民の税金が育てた軍が、国民を弾圧しているのだ。
そして本日、旧ソ連構成国アルメニアでクーデターのニュースである。
アルメニアの軍参謀総長らは25日、パシニャン首相の辞任を求める声明を出した。
パシニャン氏は「クーデターの試み」と反発し、参謀総長を解任。辞任を拒否して支持者に団結を呼び掛けた。AFP通信によると、パシニャン氏の支持者は約2万人が集結という。
世界の至る所で、繰り返し、軍事組織が民主主義を蹂躙している。2月26日、日本人にとっての軍隊の持つ恐ろしさを確認すべき日である。
(2021年2月15日)
したたかなはずの資本主義だが、誰の目にもその行き詰まりが見えてきている。環境問題、エネルギー問題、貧困・格差…。とりわけ、新自由主義という資本主義の原初形態の矛盾が明らかとなり、グローバル化が事態の混乱を拡大している。
その反映だろうか、ノスタルジックに「日本資本主義の父」が持ち上げられている。この「父」は、福沢諭吉に代わって間もなく1万円札の図柄になるという。そして、昨日(2月14日)が第1回だったNHK大河ドラマ「青天を衝け」の視聴率も上々の滑り出しだという。
何ともバカバカしい限りではないか。「資本主義の父」とは、搾取と収奪の生みの親であり育ての親であるということなのだ。この「父」は、カネが支配する世の中を作りあげて自らも富を蓄積することに成功した。多くの人を搾取し収奪しての富の蓄積である。搾取され収奪された側が、「資本主義の父」の成功談に喝采を送っているのだ。
資本主義社会は、天皇親政の時代や、封建的身分制社会よりはずっとマシではある。だが、社会の一方に少数の富める者を作り、他方に多数の貧困者を作る宿命をもっている。「資本主義の父」とは本来唾棄すべき存在で、尊敬や敬愛の対象たり得ない。
仮に渋沢栄一に尊敬に値する事蹟があるとすれば、「資本主義の父」としてではなく、「資本抑制主義の父」「資本主義万能論を掣肘した論者」「野放図な資本主義否定論者の嚆矢」「資本主義原則の修正実践者」としてでしかない。彼が、そう言われるにふさわしいかは別として。
この点を意識してか、NHKは、渋沢について「資本主義の父」と呼ぶことを慎重に避けているようだ。番組の公式サイトではこう言っている。
幕末から明治を駆け抜けた実業家・渋沢栄一。豪農に生まれた栄一は、幕末の動乱期に尊王攘夷思想に傾倒する。しかし、最後の将軍・徳川慶喜との出会いで人生が転換。やがて日本の近代化に向けて奔走していく…。
「実業家」「日本の近代化」という用語の選択は無難なところ。
幸田露伴の筆になる「渋沢栄一伝」(岩波文庫)に目を通した。下記のとおり、岩波の帯の文句がこの上なく大仰であることに白ける。
「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一の伝記を、文豪が手掛けた。士は士を知る。本書は,類書中,出色独自の評伝。激動の幕末・近代を一心不乱に生きた一人の青年は、「その人即ち時代その者」であった。枯淡洗練された名文は,含蓄味豊かな解釈を織り込んで、人間・渋沢栄一を活写する。露伴史伝文学の名品(解説=山田俊治)
渋沢の死が1931年で、その後に執筆依頼があり露伴の脱稿は1939年となった。渋沢の顕彰会からの依頼で引き受けた伝記である。稿料の額についての記載はないが、文豪・幸田露伴たるもの、こんな伝記を書くべきではなかった。今ころは、泉下で後悔しているに違いない。
執筆の動機からも、対象を客観視しての叙述ではない。ヨイショの資料を集めてもう一段のヨイショを重ねた決定版。執筆の時期が日中戦争のさなか、太平洋戦争開戦も間近のころ。ヨイショの方向は、尊皇の一点。資本主義の権化に徹した渋沢像がまだマシだったのではないか。下記の記述が、資本主義の権化ではないとする渋沢像の描出である。
商人は古より存在した。しかしそれは単に有無を貿遷し、輜銖(ししゅ・物事の微細なこと)を計較して、財を生じ富を成すを念とせるもののみであって、栄一の如くに国家民庶の福利を増進せんことを念として、商業界に立ったものは栄一以前にはほとんど無い。金融業者も古より存在した。しかしそれも単に母を以て子を招び、資を放って利を収むるを主となせるもののみであって、栄一の如く一般社会の栄衛を豊かに健やかならしめんことを願とせるものは栄一以前にはほとんど無い。各種の工業に従事したり事功を立てたりしたものも古より存在した。しかしこれまた多くは自家一個の為に業を為し功を挙ぐるを念として、栄一の以前には其業の普及、その功の広被を念としたものは少い。
栄一以前の世界は封建の世界であった。時代は封建時代であった。従って社会の制度も経済も工業も、社会事象の全般もまた封建的であった。従って人間の精神もまた封建的であった。大処高処より観れば封建的にはおのずから封建的の美が有り利かあって、何も封建的のものが尽く皆宜しくないということは無いが、しかし日月運行、四時遷移の道理で、長い間封建的であった我邦は封建的で有り得ない時勢に到達した。世界諸国は我邦よりも少し早く非封建的になった。我邦における封建の功果は既に毒爛して、その弊は漸くに人をして倦厭を感ぜしむるに至った。この時に当って非封建的の波は外国より封建的の我国の磯にも浜にも打寄せて来た。我国は震憾させられた。そして漸くにして起って来たものは尊皇攘夷の運動であった。尊皇は勿論我が国体の明顕に本づき、攘夷は勿論我が国民の忠勇に発したのであった。あるいは不純なる動機を交えたものも有る疑も無きにあらずといえども、それは些細のことで、大体において尊皇攘夷の運動は誠心実意に出で、その勢は一世に澎湃するに至って、遂に武家政治は滅び、王政維新の世は現わるるに及んだ。
上記は、切れ目のない文章を二段に分けてみたもの。前段は、私利を貪らぬ実業家としての渋沢に対するヨイショ。後段は、尊皇攘夷運動によって王政維新の世が到来したことの積極評価。露伴の頭の中では、この二つが結びついていたのであろう。
露伴は、戦後まで永らえて、47年に没している。もしかしたら、価値観の転換後は下記のように改作したいと思ったのではないだろうか。
世界諸国は我邦よりも少し早く民主主義的になった。我邦における天皇制の功果は既に毒爛して、その弊は漸くに人をして倦厭を感ぜしむるに至った。この時に当って民主主義の波は外国より天皇制の我国の磯にも浜にも打寄せて来た。我国は震憾させられた。そして漸くにして起って来たものは人民の民主主義を実現せんとする一大運動であった。天皇は勿論我が守旧勢力の傀儡にして、国体は勿論我が一億国民に対する思想統制の手段であり、全ては国民欺罔と抑圧の意図に発したのものであった。敗戦を機とした、民主主義を求むる人民の運動の勢は一世に澎湃するに至って、遂に天皇制は瓦解し、人権尊重と民主主義の「日本国憲法」の世は現わるるに及んだ。