澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

国会の開会式に、なぜ天皇なのか。

戦前の話だ。天皇が神であり統治権の総覧者でもあったころにも、貴衆両院からなる帝国議会というものがあった。が、帝国議会は立法権の独立した主体ではなかった。当然のこととして、立法権は天皇に属し、帝国議会はその協賛機関に過ぎないとされた。
そのことを、臣民どもによく分からせるために、会期の冒頭には貴族院で開院式が行われ、ここで毎回天皇が勅語を述べた。貴族院本会議場の正面、議長席真後ろの奥、一段と高いところに天皇の玉座がしつらえられた。天皇が議員を見下ろす位置にである。勅選の貴族院議員も、選挙を通じて議員となった衆議院議員も、天皇を仰ぎ見、天皇に低頭して拝謁した。

その開院式における勅語。その典型的な一例を引用しておこう。第79回帝国議会(1941年12月26日)太平洋戦争勃発直後の時期におけるものである。

 朕茲に帝國議會開院の式を行ひ貴族院及衆議院の各員に告く
 朕か外征の師は毎戰捷を奏し大に威武を中外に宣揚せり 而して友邦との盟約は益益固きを加ふ朕深く之を欣ふ 朕は擧國臣民の忠誠に信倚し速に征戰の目的を達成せむことを期す 朕は國務大臣に命して昭和十七年度及臨時軍事費の豫算案を各般の法律案と共に帝國議會に提出せしむ卿等克く時局の重大に稽へ和衷審議以て協贊の任を竭さむことを期せよ

 これが、帝国議会開会式での天皇の発言。天皇制の時代の雰囲気がよく伝わってくるではないか。あれは、昔のことか。いや、実は今もたいして変わってはいないのだ。
貴族院が参議院に変わり、勅語が「お言葉」に変わりはした。その余は、今も昔も大きくは変わっていない。

昨日(8月1日)が臨時国会開会。その開会式で、新任の天皇が原稿を読みあげて発語した。その朗読原稿は、下記のとおりと報道されている。

 本日、第199回国会の開会式に臨み、参議院議員通常選挙による新議員を迎え、全国民を代表する皆さんと一堂に会することは、私の深く喜びとするところであります。
 ここに、国会が、国権の最高機関として、当面する内外の諸問題に対処するに当たり、その使命を十分に果たし、国民の信託に応えることを切に希望します。

 これは、開会宣言ではない。開会の式辞でもない。開会式に参加して、一言感想と希望を述べたという発言に過ぎない。なぜ、こんなものが必要なのだろうか。

通常の言語感覚からは、やや奇妙な物言いである。公的な場では「全国民を代表する皆様」と言うのが普通の日本語だろうが、天皇たるもの、国民に「様」付けはできないようだ。おそらくは、「さん」までが許容範囲なのだろう。「私の深く喜びとするところであります」も、もってまわった、ヘンな言い方。単に「皆さんと一堂に会する」程度のことを、「深く喜びとする」というのが、いかにもわざとらしくて不自然。勅語の時代の「朕深く之を欣ふ(これをよろこぶ)」の名残なのかも知れない。

後半の「国権の最高機関として、当面する内外の諸問題に対処するに当たり、その使命を十分に果たし、国民の信託に応えることを切に希望します」というのは、この上なく徹底した無内容。

もちろん、内容のある発言では、あちこちに問題が生じることになるから、無内容に徹することにならざるを得ない。ならば、こんな無内容なことをなぜ言わねばならないか、聞かされなければならないか、また見せつけられなければならないのか。それが大きな問題なのだ。

憲法には、天皇のなし得る行為が限定列挙されている。そのなかに、国会の開会式への出席も、そこでの発言も書かれてはいない。当然のことながら、天皇は憲法に書かれていないことをするべきではない。

憲法第4条1項には、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」と明記されている。「この憲法の定める国事に関する行為」というのが、憲法第6条と7条に列挙されている国事行為のことであって、天皇がなし得るのはこれのみ。これ以外のことをしてはならない。だから、本来は国会の開会式に出かけたり、発言したりしてはいけないのだ。内閣が呼び出してはいけないわけだ。

もちろん、天皇にも人格はあり、制約・制限は大きいが一応人権の保障もある。天皇の私的な生活は認められ、そのための金銭の支給もなされている。国の関与と切り離されたところでなら、家代々の宗教儀式だってできるのだ。たとえば、大嘗祭だって、政府と関わりなくひっそりと、私的な収入と貯金を使ってやる分には問題はない。

つまり、天皇の行動には、「国事行為」「私的行為」の2種類だけがある。それが原則のはずだった。ところが、その中間領域があるという解釈がある。解釈があるというのは不正確で、そのような既成事実が積み重ねられて、これを追認する解釈が生まれたのだ。

この、私的領域の行為ではないが国事行為でもないという、中間領域の天皇の行為を「公的行為」とか「象徴としての行為」と名付けられている。前天皇(明仁)は「象徴としての行為」の実績作りに熱心だった。見方によれば、違憲行為の実績作りに熱心だったことになる。

問題の核心は、天皇という存在の位置づけにある。大日本帝国時代と同様に、天皇が議会正面上階の玉座から、国民の代表を見下して、無内容なことを述べることが、国会の開会式に権威を付与することになる、という考え方がある。これが、時代錯誤の危険な考え方だといわなければならない。

かつて、人の理性が覚醒に至っていなかった時代、権力の正当性の根拠は宗教的権威に求められた。あるいは、血統への信仰にである。古代エジプトでも、ヨーロッパ近世の絶対主義王政でも。近代市民社会の理性は、このような蒙昧を排して、統治の正当性を人民の意思のみに求めるに至った。

大日本帝国憲法は神聖なる万世一系の天皇が統治した宗教国家であった。統治の正当性の根拠は、8世紀に成立した神話に求められ、神なる天皇の権威に臣民らがこぞってひれ伏すことによって成立した。これに対して、日本国憲法は、神なる天皇の権威を否定し、主権者国民の意思のみを統治の正当性の根拠とした。が、徹底していない。その不徹底の部分が、歴史の産物としての、象徴天皇制である。

日本国憲法下の日本社会の歴史は、この象徴天皇制という曖昧模糊なるものの肥大化を許すか、極小化してゆくか、常にその岐路に立ち続けてきたのだ。

無内容でも国会の開会式に天皇を招いて発言させることが、有権者の意思のみによって成立したはずの国会に、有権者の意思を凌駕する天皇の権威を国会に付与することになるというのが、今の国会開会式の慣行を支える思想なのだ。天皇が上から目線で国民代表を見下ろし、国民代表が天皇に頭を下げる。どうして、こんなとんでもない構図が、戦後からこれまでも生き続けているのだろうか。

少なくとも、私が一票を投じた議員や政党には、こんな開会式に出席して、天皇に頭を下げてもらいたくはない…のだが。
(2019年8月2日)

「法と民主主義」6月号《特集・アベノミクス崩壊と国民生活》のお薦め

梅雨空ぐずつく中、本日で6月が終わる。天皇交替とそれに伴う新元号騒ぎはやや落ち着き、通常国会が会期の延長なく閉幕し、鳴り物入りの大阪G20もさしたる話題なくスケジュールを消化した。

ところで、大阪に集まった各国首脳の顔ぶれ。知性ある人の影は薄く、知性の欠けた人物ばかりが我が物顔の振る舞い。およそ人類の理想とは無縁で、人権や民主主義、格差の是正などになんの関心もなさそうなトランプ、習近平、プーチン、そしてトランプにものが言えない安倍晋三。もうひとり、カショギ殺害の犯人と名指しされているサウジの皇太子など。なるほど、これが今の世界の縮図なのだ。

週明けの明日、7月1日からは本格的な参院選挙戦。日本国憲法の命運にかかわる選挙だが、自ずと焦点はアベノミクスの評価となり、具体的には「消費増税」の可否と「年金問題」が争点となる。憲法改悪阻止のために、政権与党の経済政策の失敗を論じなければならない。

このほど発刊となった、日本民主法律家協会の機関誌「法と民主主義」6月号は、そのような問題意識から、「アベノミクス崩壊と国民生活」を特集した。
https://www.jdla.jp/houmin/index.html

下記のとおり、緊急の特集に素晴らしい執筆者を得ることができた。

特集★アベノミクス崩壊と国民生活
◆特集にあたって … 編集委員会・南 典男
◆今、一番心配すべきことは何か グローバル経済と日本 … 浜 矩子
◆アベノミクスを歴史の文脈でとらえる … 山本義彦
◆安倍政権による「全世代型社会保障」への軌跡 … 二宮厚美
◆アベノミクスと増税・消費税 … 浦野広明
◆アベノミクスと漁業… 加瀬和俊
◆アベノミクスと日本の財政 … 醍醐 聡

■連続企画●憲法9条実現のために〈23〉
安倍改憲を吹っ飛ばせ!自民党改憲Q&A徹底批判
(改憲問題対策法律家6団体連絡会・安倍9条改憲NO!全国市民アクション主催 院内集会より)
・集会で明らかにされた「自民党改憲Q&A」の嘘とごまかし … 大山勇一
◆司法をめぐる動き
・冤罪救済と誤判の防止に向けて … 高見澤昭治
・5月の動き … 司法制度委員会
◆メディアウオッチ2019●《選択の季節に》
トランプ、年金、イージスはつながっている 政府がウソを言うのは当たり前か? … 丸山重威
◆あなたとランチを〈№46〉
さあこれから飛ぶぞ … ランチメイト・大久保賢一先生×佐藤むつみ
◆改憲動向レポート〈№15〉
「憲法9条改正など私たちにはありえない。世界の真珠だ」(国文学者・中西進先生) … 飯島滋明
◆トピックス●いまなぜ西暦併用アピールなのか … 稲 正樹
◆時評●「裁判所にだけは行きたくない!」「弁護士のお世話にはなりたくない!」 … 今 瞭美
◆ひろば●不便にして、かつ有害。日常生活からの元号排除を … 澤藤統一郎

「法と民主主義」(略称「法民」)は、日民協の活動の基幹となる月刊の法律雑誌です(2/3月号と8/9月号は合併号なので発行は年10回)。毎月、編集委員会を開き、全て会員の手で作っています。憲法、原発、司法、天皇制など、情勢に即応したテーマで、法理論と法律家運動の実践を結合した内容を発信し、法律家だけでなく、広くジャーナリストや市民の方々からもご好評をいただいています。定期購読も、1冊からのご購入も可能です(1冊1000円)。

お申し込みは、下記のURLを開いて、所定のフォームに書き込みをお願いいたします。なお、2019年6月号は、通算539号になります。

https://www.jdla.jp/houmin/form.html

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◆特集にあたって

 内閣支持率を支えてきたアベノミクスは、崩壊する過程に入ったと思う。
 内閣府が公表する景気動向指数が2019年1?3月期、4月期と連続して「悪化(景気後退の可能性が高い)」になった。株価や不動産価格が高かったのは、日本銀行が莫大な国債を買って金融緩和を続け、株、不動産信託を購入して買い支えてきたからだ。国の借金は鰻登りに増加したが、成長戦略は失敗し、名目GDPは停滞したままである。膨大な財政負担だけが残った。
他方、アベノミクスは国民生活に深刻な危機をもたらしている。
老後の資金形成で「およそ2000万円必要になる」などとした金融庁の審議会がまとめた報告書が国民に大きな不安をもたらしている。
 社会保障制度だけでなく、実質賃金及び家計消費の低下、地域経済の衰退、地銀・信金の経営悪化、内需の衰退、貿易収支の赤字化など、国民生活全般に深刻な危機が生じている。戦後憲法のもと築かれてきた社会保障制度、雇用・賃金を保障する労働基本権制度、所得再分配機能を持った税制度、地域を活性化させる地方自治制度などが、アベノミクスによって加速度的に壊されている。

 本特集は、本年7月に予定されている参議院議員選挙を前にして、アベノミクスが日本経済と国民生活の深刻な危機をもたらしていることを明らかにし、アベノミクスから抜本的に転換する経済政策を展望しようというものである。

 浜矩子氏(同志社大学教授)は、グローバル経済の中でのアベノミクスの特異性として、?国家主義を標榜する最もたちの悪い「ディグローバル」(国境を越えた人々のつながりの破壊)であること、?キャッシュレス化(実は、物理的現金から電子的現金に現金決済の形態を切り替えること)を推進し、権力が市民の現金取引を捕捉しようとしていること、?ギグエコノミー化(フリースタイルで働くこと)と称して、働く人々の人権を蔑ろにし、生産性向上のために使おうとしていること、そしてこの三つが関連し合っていることを指摘している。
 山本義彦氏(静岡大学名誉教授)は、ナチスが経済を安定させてナチズム体制を構築したのと同様に、第二次安倍政権が経済の浮揚によって改憲を実行しようとしていることを喝破した上で、アベノミクスの6年間が給与水準の低下、消費税増税や年金給付の低下をもたらして国内市場を制約していると指摘し、給与条件の向上、正規労働力の本体化、中小企業の生産活動の強化、法人税の適切な負担、介助労働の条件向上など、アベノミクスと真反対の方向に舵を切ることを展望している。
 二宮厚美氏(神戸大学教授)は、安倍政権7年間で社会保障費の削減が4兆2720億円に及び、圧縮されたのが医療・年金・介護の高齢者向けの福祉(「高齢者三経費」)であること、削減の理由として「高齢者三経費」の対応に消費税率10%への引き上げが必要(「社会保障・税一体改革」)と述べていたことを明らかにした上で、安倍政権はその後「一体改革」に代えて「全世代型社会保障」のキャッチフレーズを持ち出し、消費税増税後も高齢者三経費に回さないで済まし、社会保障費削減を基調とする政策を続けるとしており、ペテンであると鋭く問題を指摘している
 浦野広明氏(立正大学法学部客員教授)は、安倍政権の消費増税8%によって、?消費支出が減って今に続く深刻な不況を引き起こしたこと、?消費税収入の大部分が法人税減税の穴埋めと軍事費に消えたこと、?消費税は企業の(利益+賃金)にかかるので、企業の外注化を促してリストラを促進したことなどを指摘した上、消費税増税を中止して人権を基軸とした税制(応能負担の原則・税金を福祉に使う)に転換することを展望する。
 加瀬和俊氏(帝京大学教授)は、安倍内閣による漁業・農業の「成長産業化」方針の下で、漁業法が大幅に改変され、企業的経営体が優良漁場を優先的に確保し、免許された海面を私有地のように排他的に占有し続ける仕組みが作られ、?小規模漁業者を排除し、?都道府県行政を国の付属物とみなし、?現場の実情を軽視していると指摘している。アベノミクスによって、漁業のみならず地域経済全体が壊されようとしている。
 醍醐聡氏(東京大学名誉教授)は、アベノミクスにおける財政について、防衛関係費の後年度負担残高の伸びが大きいこと、装備品の価格や納期は米政府が主導しており、米側の納品書と精算書の記載に食い違いがあったこと、その一方で、市民生活に直結する社会保障関係費と地方交付税ののびが大幅に抑制されてきたことなどを指摘している。

 アベノミクスからの政策転換を、広く訴え、安倍内閣を追いつめ、日本国憲法がかがげる人間らしい生活を取り戻す闘いのために、ともに頑張りましょう。
〈「法と民主主義」編集委員会・南典男(弁護士)〉

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「ひろば」(執行部関係者の巻末コラム)欄は、私(澤藤)が書いた。「不便にして、かつ有害。日常生活からの元号排除を」という標題。

4月1日に新元号が発表され、5月1日新天皇就任となった。だからといって世は何も変わらず、また変わってはならない。にもかかわらず、メディアは浮き足立ち、これに乗せられた人々の「代替りフィーバー」「令和フィーバー」現象である。政権の思惑どおりであったろう。
30年前は下血報道が長く続いた後の天皇の死に伴う交替劇だった。国民に前天皇の死に対する弔意が求められ、日本社会の少なからぬ部分が唯々諾々とこれに従った。歌舞音曲の自粛が申し合わされ、大きな社会的同調圧力が可視化された。
あのとき、よく分かった。天皇を「国民統合の象徴」としている憲法規定は、ナショナリズム喚起の有用な道具なのだ。対内的・対外的な国民統合の道具は、政権にとって便利な統治の装置なのだ。
今回の新天皇就任には、天皇の死が伴っていない。国民主権原理を逸脱した前天皇のメッセージが生前退位容認の特例法となったからだ。そのために、今度は祝意強制の圧力が蔓延した。新天皇就任祝意一色のメディアの垂れ流し、前天皇礼賛の提灯記事・提灯番組の羅列が大きな役割を果たした。その提灯メディアに乗せられて、戦前・戦中を彷彿とされる提灯行列までが行われたという。
「住民たちがちょうちんを振ったり万歳三唱をしたりして歓迎の気持ちをあらわすと、両陛下は、上下左右にちょうちんを振ってこたえられました。…… 両陛下の姿が見えると住民から歓声があがり、両陛下は、何度も手を振ってこたえられていました。」というのが、NHKの報道である。ここに、主権者の姿はなく、臣民の残滓が見えるのみ。
あらためて、象徴天皇制礼賛ないし受容のイデオロギーとの対峙が課題となっているが、その課題は、象徴天皇制を支える小道具との日常生活での対決として具体化する。その中で最重要のテーマが、「日の丸・君が代」強制への抵抗と、元号使用の拒否であろう。
元号という紀年法は、天皇の在任期間と緊密に結びつけられた天皇制の付属制度であることから、その表記が通用する地域は限定され、存続期間も有限である。明らかな欠陥紀年法。ビジネスには、不便極まりなく、国民生活にも元号は廃れつつある。先年、ある皇族女子の婚約記者会見での発言が、すべて西暦で語られていたことが話題となった。
ところが、裁判所は5月1日以後文書の日付に新元号を使い始めた。当然に、事件番号もである。訴状や準備書面の主張部分はすべて西暦を用いても、固有名詞である事件番号は元号を用いるしかない。そこで、裁判所を孤立させたい。弁護士はすべからく、西暦を使おうではないか。そうすれば、やがては法律文書も、判例検索もすべて西暦表記に統一せざるを得なくなる。
もっとも、現状は楽観できない。人権派と思しき弁護士の元号使用に愕然とすることがある。本誌への寄稿にも、時に元号表記があって戸惑わざるをえない。
時代遅れの元号表記、不便というだけではない。国民の主権意識覚醒の障害として有害なのだ。日常性から排除しなければと思う。(弁護士 澤藤統一郎)

(2019年6月30日)

平成29年から令和2年まで何年? すぐわかりますか?

何度も繰り返すことになるが、元号という代物。使用期間限定、使用地域限定という致命的欠陥をもった紀年法。日常生活にもビジネスにも、不便極まりない。こんな欠陥製品、みんなでボイコットするに如くはない。

ところが、国家は国民に、こんな不便な欠陥製品を使わせたくてしょうがない。事実上の使用強制である。なぜか。元号が天皇制と結び付いているからだ。天皇制という、統治の道具の一部として極めて有用だからなのだ。権力にとっての有用性は、被治者国民にとっての有害物である。

だから、元号とは、不便であるだけでなく、有害なのだ。国民主権に、民主主義に、精神の自由保障に有害なのだ。

大上段に、天皇制イデオロギーの危険やナショナリズムへの警戒を前面に出しても、通じない人には通じない。そのような人にも、元号の欠陥性、元号を使用することの不便は、よくわかってもらえる。

本日(6月26日)、ある消費者関係の弁護団メーリングリストに、こんな投稿が掲載された。その弁護団で共通に使用している書式の日付欄を、「平成」から「令和」に変更するという事務手続に関しての意見。

 △▼先生、お疲れ様です。茨木です。
 書式の微修正の中味は「平成」を「令和」に変更したということのようですが、純粋に合理的に考えれば、元号表記より西暦表記の方が容易(4桁の数字だけだ)且つ便利ですから、元号部分を省いたらどうでしょうか。4桁の数字では、何か不都合がありますか。
 例えば、平成29年に受任した事件が、令和2年に解決したという場合、何年かかったんだ、とすぐわかりますか。頭の中で「平成29年を西暦に換算すると2017年だな、令和2年を西暦に換算すると2020年だな、すると2020から2017を引くと3だから、3年もかかったんだ」と、無駄な作業を強いられるのではないですか。西暦をつかわないことを徹底するならば、何年かかったんだということを、頭の中といえども、西暦に換算することなく算出する必要があります。面倒ではないですか。元号表記を徹底するという人は、多分、「2020年オリンピック」と言わず、本年4月迄は「平成32年五輪」、5月からは「令和2年五輪」とでも言ってるのでしょうが、そこまでこだわる意味がわかりません。
 書式の話に戻ると、上記の意見は、純粋に合理性の観点からの意見であって、ここでは、その観点からだけで決めても特に不都合はないのではないか、西暦表示にすれば△▼先生がわざわざ時間と神経を使って微修正作業をする必要もないのではないか、と愚考するものです。
 年の前を空白にしておけば、どうしても元号を使いたい人は、4桁の数字の代わりに、2文字の元号と1又は2桁の数字も記載できますから、不都合はないでしょう。
ちなみに、みずほ銀行の預金口座の入出金年月日の表記も、元号から西暦に移行しました。三菱UFJ銀行は、依然、元号ですから、31年から1年に戻りました。ある程度時間がたった時点で、三菱UFJ銀行の預金口座入出金年月日を見ただけでは、平成なのか令和なのか判断に迷う事態が生ずる可能性があります。

 なるほど、分かり易い。わざわざ、「上記の(私の)意見は、純粋に合理性の観点からの意見」と強調するなど、心憎い。投稿者は、親しい茨木茂さん。私も見習いたい。

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茨木さんの発言は、端的に「不便な元号使用を止めよう」というもの。似て非なるものに、「国の機関は『西暦併用を認めよ』」とする要求の運動もある。そのような運動体から、6月23日に次のような連絡があった。

 「西暦併用を求める会」は、「西暦併用を求めるアピール」を2019年6月6日に議員会館において記者会見して発表し、東京新聞、しんぶん赤旗、クリスチャン新聞、社会新報でその模様は広く報道されました。  

 「元号さよなら声明」への賛同者は833人に及びました。当初は賛同者数が数万のオーダーで増えていくと思っていましたが、なかなか賛同者数が伸びない結果となりました。

 しかしながら、私たちの以下の3項目要求は2番目の項目が眼目であるという理解がじわじわと広まっていき、多くの仲間を得て、新たに「西暦併用を求める会」として出発していくことになりました。

1.届出や申し込みの用紙、Web上のページなどにおける年の記載は、利用者が元号を用いなくても済むものとし、また利用者に元号への書き直しを求めないこと。

2.公の機関が発する一切の公文書、公示における年の記載は、元号を知らない者・使わない者にも理解できる表示とすること。

3.不特定多数を対象とする商品における年の記載は、元号を知らない者・使わない者にも理解できる表示とすること。

 立法・行政・司法の三権の国家機関、地方公共団体の元号のみの年表示をやめさせ世界標準の西暦表示にさせていくことを最終目標にしながら、まず西暦の併用を実現していくことを、粘り強く、様々な団体や市民の有志のみなさんとともに運動を今後とも進めていきたいと思います。

 Changeキャンペーンによって、みなさまのご賛同をいただいたことは大きな支えです。今後の運動の発展と継続を決意することができました。特定の立場や団体をベースにしたものではない、市民発の運動を作っていく契機や基盤が構築できたという面では、今回のキャンペーンは成功を収めたと考えます。

 何十年もの間元号のみを年表示として恬として恥じない公的機関(国会・内閣・政府・裁判所や諸々の地方自治体)の頑な姿勢を改めさせ、西暦表記もあわせてすることを実現していくという私たちの運動はまだまだ多くの方々の協力と知恵が必要です。

 引き続き、「西暦併用を求める会」として活動していきますので、「西暦併用アピール」へのご賛同・ご支援をお願いします。

 Changeキャンペーンも、「西暦併用を求めるアピール」として続けていきます。よろしくお願いします。

いろんな人が、いろんな場で、いろんなやり方で、「元号不使用」の声を上げていくことを期待する。

なお、「西暦併用を求める会」は、賛同署名を継続している。趣旨に賛同していただける方は、下記の西暦併用を求める会ブログをご覧になっていただき、ネット署名を。
https://seirekiheiyo.blogspot.com/p/blog-page.html

(2019年6月26日)

戦争は絶対に厭だ。われら庶民、儲けと権力欲の「戦争屋」にだまされてなるものか。

「戦争屋にだまされない厭戦庶民の会」から、厭戦庶民』の32号と33号が届いた。小さなパンフだが、とても面白い。充実している。肩肘張らないつぶやきもあれば、肩肘張った論文もある。石川逸子さんの詩もあり、みごとな替え歌もあり、言葉遊びもある。肩書を「弁護士・平和委員会代表理事」として内藤功さんも書いている。多くは、神奈川県内の活動家、それも元気溢れる高齢の方の発言集。

この会は、名物活動家・信太正道さんが主宰していた。元特攻隊員だったが出撃寸前に敗戦となって命ながらえた方。戦後は海上保安庁職員、海上自衛隊、航空自衛隊をへて日航機長となった。徹底した非戦論者で、9条改憲阻止の信念と活動に揺るぎがなかった。

信太さんは2015年11月10日に亡くなられたが、その遺志を継ぐ人々が「戦争屋にだまされない」とする、「厭戦庶民の会」の活動を続けているのだ。ひとりの人の熱意が、その人の死後にも他の人に受け継がれる好例。

この会の会則は、9か条ある。その第9条が、以下のとおりである。
「(不戦の誓い)私たちは、戦争を放棄し、軍備および交戦権を認めません」

「改憲的護憲論」には反対を明確にしたうえ、反アベ政権の運動においては、そういう人とも批判的に共闘を、という学習会の報告もなされている。

時節柄、天皇や天皇制、元号に関わる論稿が多い。象徴天皇制を厳しく指弾する意見もある。こんな記事が目を惹いた。

「私は天皇制は勿論、天皇の存在そのものに絶対反対なのです。」という立場を明確にした方の、かなり長い論文の次の一部分。

「戦直後、当時の共産党を中心に、天皇制打倒が叫ばれた。しかし、そこには天皇制の捉え方について、二つの意見があった。
 一つは、徳田球一書記長のとらえ方=天皇とは、どう言い繕っても、排他的民族主義・侵略性の思想を秘めた国のトップである。今こそ(この敗戦という大転換期に)即これを無くさないかぎり、いかなる共和的民主国家も出来得ない。というもの。
 今一つは、野坂参三に代表されるとらえ方=天皇には二つの側面がある。一つは絶対的天皇制権力機構であり、他方は宗教的側面である。天皇制権力機構は即廃絶すべきであるが、他の天皇の宗教的側面は国民が天皇を慕っているのだから、今、それをも即打倒というべきでなく、後の、国民投票によるべきだ。        そして結果的に…いろんな経緯はあるとしても日本の新憲法に、この野坂泰三氏の思想が取り入れられた。
 天皇の制度権力機構は廃止する。しかし日本国の象徴として天皇を残す。である。」

 「天皇制の忌まわしさにおいて、その独裁的権力機構と、その宗教的といえる精神的なもの象徴天皇制とどちらが恐ろしいか、私に言わせれば後者です。」

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そして、紹介したいのが、疎開世代の「戦争体験」。

美空ひばり「一本の鉛筆」と
「日米安保闘争」
私の「厭戦」の原点です
長谷川徑弘(84歳)

 毎年5月の「平和のための戦争展inよこはま」に「美空ひぱり?一本の鉛筆」の展示を担当して久しくなります。
         ◇
 これには、私が「太平洋戦争」下、横浜から箱根に集団疎開していた時に、母親が「粗末な便箋に鉛筆書きの手紙」を毎月1通出してくれた思い出があるからです。
 今年(2019年)6月24日は美空ひぱり没後30年です。
 新聞・TVなどで、回顧番組があるでしょうが、「一本の鉛筆」の紹介があるかどうか。若い人たちには、「ひぱり」が、忘れられてきているかも、気がかりです。
         ◇
 「一本の鉛筆」のメロディも歌詞も、淡々としていますが、共に彼女の心情をこめた最高のものです。メロディは低音域でゆったりした3拍子。
 歌詞には
 「一本の鉛筆があれば戦争はいやだと私は書く」
 「一枚のザラ紙があれば あなたをかえしてと私は書く」
 「一本の鉛筆があれば 8月6日の朝と書く」
 「人間の命と書く」

 「ザラ紙」は「わら半紙=上質紙に対して下等紙」の事。
          ◇
 こうした歌詞が、私が疎開先で受け取った母からの「便箋に鉛筆書き」の手紙とダプルのです。
 その母は、5・29横浜大空襲の後の6月9日、産後の体を壊して他界。赤子も後を追う。私と妹は集団疎開先に居て、母の死に顔を見られなかった。
 「母を返して」。

 こんな事も。戦後、親戚預けになった弟2人が、他人様への気苦労人生でか、数年前に病み他界。今、残りは、年長組の兄・私・妹の3人。人生が逆さまになった。
         ◇
 「戦争体験者」は、「戦争体験」を語り続けなければなりません。「過去」の先に「現在と未来」があるから。
 ひばりさんは、横浜大空襲の前、4月16日の磯子地区の“はみ出し爆撃”で被災して。
         ◇
 私の住まいの玄関脇に「一本の鉛筆?ひばり」の手製ボード、メーデーなどには手製プラカー
ドを抱えて出かけます。どこかで見かけたら、私です。
 私のもう一つの。“厭戦”は、「日米安保条約」です。
?1952年「旧安保」(「起ちあがれ(安保破棄の歌)」、
?1960年「新安保」(子ども遊び「アンポハンタイ」/6・23全国統一行動)、

?1970年「10年固定期限終了・安保廃棄6・23集会各地で盛り上がる」。
         ◇
この後、「安保闘争」は影が薄くなって、はや50年・半世紀になろうとしています。
 私は、「諸悪の根源・日米安保条約」と指摘する畑田重夫先生(95歳)からいただいた「生涯学習・生涯青春」の直筆色紙を、机前に貼りつけ、がんぱっています今、84歳。

今、このような無数の先輩たちが、「改憲阻止」「安倍ヤメロ」の運動の先頭にいる。
(2019年6月25日)

えっ? 「沖縄全戦没者追悼式」での平和の詩に「令和時代」?

昨日(6月23日)は、「沖縄・慰霊の日」。本土決戦の時間稼ぎのためとされる旧日本軍の組織的戦闘が終結した日である。これで戦争が終わったわけではない。多くの悲劇がこのあとに起こる。沖縄県民にとっは、新たな形の悲劇の始まりの日でもあった。

あれから74年。糸満市摩文仁の平和祈念公園で、恒例の「沖縄全戦没者追悼式」(主催は沖縄県)が挙行された。敵味方なく、軍民の隔てなく、すべての戦争犠牲者を追悼するという次元の高いコンセプト。未来の平和を指向するものでもあり、国民感情にピッタリでもあろう。この点、「皇軍の戦没者だけを、天皇への貢献故に神として祀る」という、偏狭な軍国神社靖国の思想と対極にある。

全戦没者名を刻する「平和の礎」には、新たに韓国籍2人を含む42人の名前が刻銘された。二重刻銘による削除者も1人いて、総刻銘数は24万1566人となったという。24万1566人の一人ひとりに、それぞれの悲劇があり、その家族や友人の悲劇があったのだ。

玉城デニー知事の「平和宣言」は、うちなーぐちと英語を交えてのスピーチ。辺野古新基地建設を強行する政府を強く批判し、「県民投票の結果を無視して工事を強行する政府の対応は民意を尊重せず、地方自治をもないがしろにするものだ」とまで言っている。

そして、今年も「平和の詩」の朗読があった。糸満市兼城小6年山内玲奈さんの「本当の幸せ」と題するもの。次いで、これまた恒例の安倍晋三の首相としての官僚作文の朗読である。

安倍晋三の参列と式辞は、明らかにこの式典のトーンと異なるもので、違和感に包まれていた。案の定、首相挨拶の途中、会場から野次というレベルではない怒声が飛んだ。
「安倍は帰れ!」
「安倍はやめろ!」
「(近年の沖縄の発展は)あんたがやったわけじゃないよ」
「(基地負担軽減は〕辺野古を止めてから言え」
「戦争屋!」

式辞の朗読が進むとともに、ヤジは大きくなり、安倍首相が「私が先頭に立って、沖縄の進行をしっかり前へ進めたいと思います」と述べた途端に、やめてくれー」と大声が上がり、会場がどよめいたという。チヤホヤされるのが大好きで、忖度文化の頂点に立つ居心地を満喫している彼には、不愉快な体験だったろう。

日本は民主主義国家だという。民主的な手続で選任された日本のトップが首相であって、今その地位に安倍晋三がいる。しかし、日本の首相とは不思議な存在だ。国民を代表する立場で重要な式典に臨んで、来るな」「帰れ」と猛然と野次られ罵られる。警察が式場を取り巻いて威圧し監視する中でのことだ。ウソとごまかしにまみれ、国政私物化の疑念を払拭できない人物が、長期政権を継続している。この「来るな」「帰れ」と野次られるトップを国民自身が選んでいることになっている。日本の民主主義が正常に作動していないのだ。

6月23日、8月6日、8月9日は、いずれも国民が記憶すべき日として、式典が行われる。晴れやかな日でも、勇ましい想い出の日でもない。民族や国家が、独立した日でも戦勝の日でもない。自ら起こした侵略戦争に破れて、多くの国民が犠牲になったことを改めて肝に銘記すべき日である。

安倍晋三個人としては、そんなところに出たくはない。しかし、いやいやながらも出席せざるを得ない。その席で、辺野古新基地建設強行を語ることもできず、悪役ぶりを披露し、じっと野次に耐えるしかない。「安倍は帰れ!」と野次られても、帰るわけにはいかないのは、あたかも安倍とその取り巻きが日本国憲法大嫌いでありながらもこれに従わざるを得ないごとくである。安倍は6・23、8・6、8・9の各式典に、「帰れ!」と野次られつつも、出席を続けなくてはならない。そう、「悔い改めて、方針を転換します。新基地建設強行は撤回しました」と報告できるその日まで。

さて、いつも話題の平和の詩の朗読。今年も素晴らしいものではあった。引用しておきたい。

本当の幸せ (沖縄県糸満市立兼城小学校6年 山内玲奈)

青くきれいな海
この海は
どんな景色を見たのだろうか
爆弾が何発も打ちこまれ
ほのおで包まれた町
そんな沖縄を見たのではないだろうか

緑あふれる大地
この大地は
どんな声を聞いたのだろうか
けたたましい爆音
泣き叫ぶ幼子
兵士の声や銃声が入り乱れた戦場
そんな沖縄を聞いたのだろうか

青く澄みわたる空
この空は
どんなことを思ったのだろうか
緑が消え町が消え希望の光を失った島
体が震え心も震えた
いくつもの尊い命が奪われたことを知り
そんな沖縄に涙したのだろうか

平成時代
私はこの世に生まれた
青くきれいな海
緑あふれる大地
青く澄みわたる空しか知らない私

海や大地や空が七十四年前
何を見て
何を聞き
何を思ったのか
知らない世代が増えている
体験したことはなくとも
戦争の悲さんさを
決して繰り返してはいけないことを
伝え継いでいくことは
今に生きる私たちの使命だ
二度と悲しい涙を流さないために
この島がこの国がこの世界が
幸せであるように

お金持ちになることや
有名になることが
幸せではない
家族と友達と笑い合える毎日こそが
本当の幸せだ
未来に夢を持つことこそが
最高の幸せだ
「命どぅ宝」
生きているから笑い合える
生きているから未来がある

令和時代
明日への希望を願う新しい時代が始まった
この幸せをいつまでも

 素晴らしい詩だとは思う。しかし、引っかかるところがある。平成時代」「令和時代」というフレーズである。沖縄の小学生が、こんなにもあたりまえのように、無抵抗に元号を使わされているのだ。

昨年(2018年)12月13日の毎日新聞に、沖縄と元号」という興味深い記事が掲載されていた。「代替わりへ」という連載の第1回。1960……昭和35年!4月1日!」 という表題。米占領下、センバツ出場 宣誓、西暦で言いかけ」という副見出しがついている。

 兵庫県の甲子園球場で1960年4月1日にあった第32回選抜高校野球大会の開会式。戦後初めてセンバツに沖縄勢として出た那覇高主将の牧志清順(まきしせいじゅん)さんは、選手宣誓で日付を西暦で言いかけ、すぐに元号で言い直した。当時、米国統治下の沖縄の住民の多くは西暦で年代を考えていた。

 本土復帰(72年)後の80年に膵臓(すいぞう)がんのため37歳で亡くなった牧志さん。大会直後の手記に、本田親男・大会会長(毎日新聞社会長)の「いまだ占領下にある沖縄から参加した諸君たちに絶大な拍手を送ろうではないか」とのあいさつを聞き、「感激の涙がとめどもなく流れた」と記していた。その日の毎日新聞夕刊は「七万の観衆の万雷の拍手。那覇ナインはひとしお深い感激にひたっているようだった」と描写している。

 牧志さんの妻愛子さん(70)は「このあいさつの後の宣誓でしょ。いろんな感情がこみ上げて、緊張と感動で素に戻っていつもの西暦がスッと出てきたんじゃないの?」と推測する。愛子さんが大切に保存するアルバムには牧志さんの自筆コメントが残る。出場校の整列写真には「チョット恐ろしかった」との感想も。数カ所ある開会式の日付は「1960……!!昭和35年」と記され、言い直しを意識していたようだ。

 当時、アルプススタンドで応援した同級生の伊藤須美子さん(76)は「友達と『そもそも、なんで昭和と言わなきゃいけないの』と話していた。言い直しを聞き、沖縄と本土は違うと実感した」と語る。法政大の上里隆史・沖縄文化研究所研究員(42)は「元号は、その土地が元号を定めた主体に支配されているという目印」と指摘する。西暦か元号か。米国か日本か。牧志さんの宣誓は、当時の沖縄の状況を浮き彫りにしていた。

なるほど、復帰前の沖縄にとっては、「西暦か元号か」は、「米国か日本か」であったろう。しかし、復帰を実現してから47年の今、事情は異なる。「西暦か元号か」は、象徴天皇制の本土体制を容認するか否かではないか。

「『戦争終わったよ』投降を呼び掛けた命の恩人は日本兵に殺された 沖縄・久米島での住民虐殺」という記事が、6月22日の琉球新報(デジタル)に掲載されている。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190622-00000006-ryu-oki

 沖縄戦で本島における日本軍の組織的戦闘の終了後、久米島に配備されていた日本軍にスパイ容疑で虐殺された仲村渠明勇さんに命を救われた少年がいた。現在、東京都練馬区で暮らす渡嘉敷一郎さん(80)だ。渡嘉敷さんは久米島に上陸した米軍に捕らわれるのを恐れて池に飛び込んで命を絶とうとしたところ、仲村渠さんの呼び掛けで思いとどまった。
? 当時、島では日本軍の隊長からは「山に上がって来ない者は殺す」との命令が下されていた。上陸してきた米軍からは、日本兵が軍服を捨てて住民にまぎれこんでいることから「家に戻りなさい。戻らなければ殺す」と投降の呼び掛けが出ていたという。どちらを選択しても死を迫られるという苦しい状況に住民は置かれていた。
 渡嘉敷さんは「明勇さんは案内人として米軍に連れてこられていた。村人が隠れているところを回って、投降を説得するのが役割だった。明勇さんに命を助けられた。島の人にとっては恩人。それを、逃げるところを後ろから日本刀で切って殺されたと聞いた」と悔しそうな表情を浮かべた。

「一番怖かったのは日本兵だった」という述懐が、印象に残る。沖縄を本土防衛の捨て石とし、県民の4人に一人を殺した戦争を唱導したのが皇国日本だった。独立後も沖縄の占領を続けるようアメリカに提案したのが、天皇(裕仁)だった。そして今、本土復帰後も続く保守政治の中で、沖縄の人権も平和も蹂躙され続けている。その本土の保守政権は、象徴天皇制と積極的に結び付き、これを積極的に利用しようとしている。客観的に見て、天皇制は沖縄民衆の敵というべきであろう。しかも沖縄は、一度は元号離れの経験をしているのだ。

国民生活のレベルへの象徴天皇制の浸透が元号である。元号の使用は象徴天皇制の日常化と言ってよい。「平成の時代」「令和の時代」という言葉が、小学生の詩の中に出てきて、これが平和の式典に採用されるこの状況を深刻なものと受けとめなければならない。
(2019年6月24日)

大阪市立泉尾北小学校での『「天皇陛下ご即位記念」児童朝礼』への抗議署名に賛同を

複数の友人から、教えられた。子どもたちに渡すな!あぶない教科書 大阪の会》が、ネットで次の訴えをしている。
憲法を無視した大阪市立泉尾北小学校での『「天皇陛下ご即位記念」児童朝礼』に対する抗議文に賛同をお願いします!
https://blog.goo.ne.jp/text2018

確かにこれはひどい。こんな事態を看過して極右ナショナリズム勢力をのさばらせてはならない。しかも、こういうバカげたことの中心にいるのが、維新政治の申し子というべき「民間人校長」(小田村直昌)である。広く、抗議の声を集約して、インターネット署名を集めたい。ぜひご協力を。以下は、拡散・転載大歓迎というネット記事の転載である。

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  抗議文への団体・個人賛同をお願いします!
  憲法を無視した大阪市立泉尾北小学校での
  『「天皇陛下ご即位記念」児童朝礼』に対する抗議文
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 5月8日(水)、大阪市立泉尾北小学校において全校の子どもたちが参加する『「天皇陛下ご即位記念」児童朝礼』(以下、「児童朝礼」)が行われました。「児童朝礼」では、まず小田村直昌校長が代替わりと新元号の説明をしました。なんと新天皇を「126代目」とまで紹介しています。
 その後、「愛国の歌姫」と呼ばれている山口采希(あやき)氏(「教育勅語」を歌にし、塚本幼稚園でも歌ったことがある)がゲストとして登場しました。そこでは、明治時代の唱歌「神武天皇」「仁徳天皇」を歌いました。どちらも神話上の天皇を賛美し、「万世一系」を印象づける国民主権に反する歌です。さらに「仁徳天皇」を歌う前には、教育勅語児童読本(1940年)や修身教科書に登場する「民のかまど」の話をしました。
 さらには、自身のオリジナル曲「行くぞ!日の丸」「令和の時代」も歌いました。「行くぞ!日の丸!」は、「日の丸」を先頭にしてアジア諸国に侵略した戦前の日本軍の姿を彷彿とさせます。外国籍の子どもたち、中でもかって日本が侵略・植民地支配した国々にルーツを持つ子どもたちは、この歌によって深く傷つくのではないかと私たちは憂慮します。
 小田村校長は同校のHPで山口氏の歌や話を「とてもいいお話」「とても素晴らしいゲストでした」と絶賛しました。このような「児童朝礼」は、戦前の教育勅語教育を小学校に露骨に持ち込もうとした森友学園の「瑞穂の國小學院」に通じるものがあり、明らかに憲法違反です。公立学校でこのような集会が行われていること自体、全国的に例を見ません。
 私たちは、憲法に反する内容を子どもたちに押しつけた「児童朝礼」を行った小田村校長と、同校長を任命した大阪市教育委員会に対して厳しく抗議したいと思っています。そして同校の保護者・子どもに対してはもちろんのこと、大阪市民に対する説明と謝罪を求めたいと思います。

 大阪市教委に対して抗議の申し入れを行いたいと思っています。
それまでに出来るだけ多くの団体・個人賛同を集めたいと思っています。
ぜひ、ご協力をお願いします。

■下記の要望書への団体・個人賛同を呼びかけます。
◇団体賛同の場合
団体名をお知らせください。
◇個人賛同の場合
お名前
お立場(教職員、保護者、生徒、学生、研究者、弁護士、市民など)
できればで結構です。
お名前の公表(インターネットを含む)の有無
◇締め切りは7月7日(日)
◇送り先
メール iga@mue.biglobe.ne.jp
◇PC・スマホ用署名ページ
http://form01.star7.jp/new_form/?prm=6a6b423%2F2–21-0583fb*********************************

■憲法を無視した大阪市立泉尾北小学校での『「天皇陛下ご即位記念」児童朝礼』に対する抗議文

5月8日(水)、大阪市立泉尾北小学校において全校の子どもたちが参加する「5天皇陛下ご即位記念」児童朝礼(以下、「児童朝礼」)が行われました。「児童朝礼」では、小田村直昌校長が「天皇陛下がお代りになった話と126代目であること、元号も日本古来から続いているお話」(泉尾北小HP)をしています。新天皇を「126代」とすることは、神話上の神武天皇なども含む数え方をしており、歴史的事実に反し皇室が「万世一系」であるかのように教えることに他なりません。
その後、「児童朝礼」では「愛国の歌姫」と呼ばれている山口采希(あやき)氏(「教育勅語」を歌にし、塚本幼稚園でも歌ったことがある)がゲストとして登場しました。そこで山口氏は、明治時代の唱歌「神武天皇」「仁徳天皇」を歌いました。どちらも神話上の天皇を賛美し、「万世一系」を印象づける国民主権に反する歌です。さらに「仁徳天皇」を歌う前には、教育勅語児童読本(1940年)や修身教科書に登場する「民のかまど」の話をしました。これは、戦前の皇国臣民化教育の定番教材で、子どもたちを「臣民」に仕立て上げていったものです。2015年2月、愛知県一宮市教育委員会は、「建国記念の日」を前にした全校朝会で「民のかまど」の話をした市立中学校校長を注意をしたこともありました。
しかし、大阪市立泉尾北小学校のHPには、この「児童朝礼」の様子が紹介されており、小田村校長は山口氏の歌・話を「とてもいいお話」「とても素晴らしいゲストでした」と絶賛しました。HP記事の最後には、小田村校長が山口氏の書いた色紙をもった写真も掲載されています。その色紙には、「皇紀2679」と書かれています。「皇紀」は神話上の天皇である神武天皇に由来するもので、戦後は公教育でも行政文書でも一切使用されていません。「皇紀」を使った色紙の画像を公立小学校のHPに載せることは不適切です。
山口氏は、自身のオリジナル曲「行くぞ!日の丸」「令和の時代」も歌いました。「行くぞ!日の丸!」は、「日の丸」を先頭にしてアジア諸国に侵略した戦前の日本軍の姿を彷彿とさせます。外国籍の子どもたち、中でもかって日本が侵略・植民地支配した国々にルーツを持つ子どもたちは、この歌によって深く傷つくのではないかと私たちは憂慮します。大阪市がめざす「多文化・多民族共生教育」に反するものです。
公立学校の児童朝会での山口氏の歌や話は、戦前の教育勅語教育を小学校に露骨に持ち込もうとした森友学園の「瑞穂の國小學院」に通じるものがあり、明らかに憲法違反です。公立学校でこのような集会が行われていること自体、全国的に例を見ません。
泉尾北小に山口氏を呼び、「天皇陛下ご即位記念」児童朝礼を行ったのは小田村校長です。小田村校長は大阪市の民間人校長として5年目(泉尾北小では2年目)で、任命したのは市長と教育委員会です。小田村校長は、大阪市立小学校校長になってから、右派団体である「学ぼう会北摂」で講演をしたり、龍馬プロジェクト会長の神谷宗幣氏のインターネット番組に登場し、大阪市の人権教育や歴史教育を「偏向教育」と批判している人物です。今回の「児童朝礼」は、小田村校長が意図的に実施したことは明らかです
私たちは、憲法に反する内容を子どもたちに押しつけた「児童朝礼」を行った小田村校長に対して抗議します。小田村校長を任命し、「児童朝礼」を実施させた大阪市教委の責任を追及します。小田村校長と大阪市教委は、同校の保護者・子どもに対してはもちろんのこと、大阪市民に対する説明と謝罪を行ってください。

(資料)
■山口采希氏が歌った曲
「行くぞ!日の丸!」
喜びと悲しみに
情熱が肩を組む
うつむいた日は過ぎた
時が来た まっしぐら
行くぞ!行くぞ!日の丸が行くぞ!
ああ勇ましく 日の丸が行くぞ
ひたぶるに駆け抜けた
根こそぎのなにくそで
どん底も手を伸ばし
風一つ 掴んだる!
行くぞ!行くぞ!日の丸が行くぞ!
揺るがぬ魂 日の丸が行くぞ
行くぞ!行くぞ!日の丸が行くぞ!
ああ勇ましく 日の丸が行くぞ
行くぞ!行くぞ!日の丸が行くぞ!
白地に赤く 日の丸が行くぞ

□「令和の御代
春の訪れ 風も和やかに
薫り高く 梅の花のように
うるわしき日々を
ありのままに
咲き誇る
令和の御代に
和らぎの日々を
それぞれの心
満ち足りて
咲き誇る
令和の御代に
心寄せ合う
令和の御代に

**************************************************************************

いやはやなんとも、というほかはない。
大阪市教委は、事態を把握していないのだろうか。見て見ぬふりなのだろうか。府教委はどうなのだろう。

内閣が天皇賛美一色であり、それを可視化した儀式を行うから、こんな校長が出て来るのだ。衆参両院が、全会一致で天皇就任の賀詞決議などするから、こんなことが許されると思う輩が出てくる。

この公立小学校の天皇礼賛行事。ごく例外的な跳ね上がりの孤立した行動と軽視できないのではなかろうか。これを許す時代の空気の反映とすれば、怖ろしいことなのかも知れない。
(2019年6月23日)

「天皇の存在は、民主的な改革に障害とはならないのか」 ― 象徴天皇制についての徹底した議論を

昨日(6月5日)の「しんぶん赤旗」を開いて驚いた。
一面トップに、「天皇の制度と日本共産党の立場」「志位委員長に聞く」というインタビュー記事である。聞き手は、小木曽陽司・赤旗編集局長。なんだか、とても物々しい。これは、共産党にとっての重大テーマだというシグナル。しかも、このインタビュー記事は、第1面だけでは終わらない。第6面から第9面のほぼ全頁を費やした、5面にわたっての長大記事なのだ。

「政権と闘おう。」「資本の横暴を許すな。」「アメリカの覇権主義に抵抗を。」「沖縄の運動と連帯しよう。」「平和や民主主義を擁護しよう。」「格差や貧困をなくそう。」「理不尽な差別や不平等をゆるさない。」などという、共産党ならではの呼びかけではない。天皇制についての共産党の立場の説明に、これだけの大きなスペースが必要ということなのだ。

もしかしたら、「私のブログでの批判を意識しての弁明なのかな」「私のように共産党の立場や政策の転換を批判する多くの人の意見を無視し得ないのだな」などと思いつつ目を通した。論文と違ってこのインタビュー記事は読み易い。共産党が何を考えているのか率直で分かり易いとは思う。しかし、「この機会に大本から考えたい――日本国憲法と改定党綱領を指針に」という、「大本」についてどうも納得はしかねる。最後まで、違和感を払拭できない。

赤旗をお読みでない人のために、インタビュー全体の構成をご紹介しておきたい。
下記の赤い太字が章立てで、青字が小見出しである。章立ての番号は、便宜わたしが付けたもの。

1 「この機会に大本から考えたい――日本国憲法と改定党綱領を指針に」
2 なぜ「君主制の廃止」という課題を削除したか
 日本国憲法の天皇条項をより分析的に吟味した結果
 根本的な性格の変化――主権者・国民のコントロールのもとにおく
 改定綱領で「天皇の制度」という言い方をしていることについて
 社会進歩の事業とのかかわりでも、戦前のような障害にはなりえない
 前の綱領の規定には歴史的背景もあった

3 天皇の制度の現在と将来にどのような態度をとるか
 「制限規定の厳格な実施」「憲法の条項と精神からの逸脱の是正」が中心課題
 「民主共和制の政治体制の実現」―日本共産党の「立場」の表明
 どうやって解決をはかるか―主権者である「国民の総意」にゆだねる

4 天皇の制度についての綱領改定がもたらした積極的意義について
 現行憲法の「全条項をまもる」とスッキリと打ち出せるようになった
 「制限規定の厳格な実施」をより強い立場で打ち出せるようになった

5 制限規定を厳格に実施し、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する
 天皇の政治利用を許さない―憲法違反の無法ぶりを示した「主権回復の日」式典
 天皇の「公的行為」―憲法からの逸脱、問題点はないかを、きちんと吟味を
 国会での「賀詞」決議について― 二つの原則を堅持して対応してきた

6 元号について―どう考え、どう対応するか
 元号に対する日本共産党の基本的態度について
 慣習的使用に反対しないが、使用の強制に反対する
 元号が変われば世の中が変わるか―社会を変えるのは主権者である国民のたたかい

7 「皇室典範」にかかわる問題―天皇の退位、女性・女系天皇について
 憲法の条項と精神に適合する改正には賛成する
 天皇の退位―「個人の尊厳」という憲法の最も根本の精神にてらして賛成した
 女性・女系天皇について―憲法にてらして認めることに賛成する

8 憲法9条改定への天皇の政治利用を許してはならない

この小見出しはよくできている。この問題にいささかの関心をもってきた人であれば、上記の章立てと小見出しを読むだけで、大方は共産党の主張の内容を理解できるだろう。最近の同党の意見を集大成したものなのだ。

インタビューの冒頭にこうある。
小木曽 天皇の制度については、議論を避けるという傾向も強いですね。
志 位 そう思います。でも思考停止、議論停止になってはいけません。タブーをもうけず、この制度について、この機会に大本から考え、議論していくことが大切だと思います。

「議論していくことが大切」という志位意見に大賛成だ。明確になった共産党の立場に対して、私も自分の意見を述べていこうと思う。

もちろん、このインタビュー記事のすべてがおかしいとか、全部が間違っているなどと極論するつもりはない。しかし、重要なところで納得しがたいのだ。

問題の発端は、天皇の代替わりに伴う国会の「賀詞決議」に共産党が賛成したことだった。反対でも棄権でもない賛成。多くの人が「まさか共産党が、新天皇就位に賀詞を表明するなどあり得ない」という思いをもっている中でのこと。当然に、納得し得ない人々からの批判が集中し、その結果共産党の象徴天皇制に対する基本姿勢を釈明するものが今回のインタビュー記事である。問題は二層にわたってある。まず、政策としての「賀詞決議」賛否の問題。そして、さらに重要なのが、象徴天皇制に対する基本姿勢の問題である。

本年(2019年)5月10日のブログで、衆院で成立した賀詞決議に共産党議員までが賛成したことを私は批判した。共産党の支持者としての、共産党批判である。

「賀詞」とは、慶事に対する祝意の表明ではないか。象徴天皇が憲法上の存在であることは自明の前提として、新天皇の就位をどんな理由で慶事というのだろうか。為政者やその追随者にとっての演出された慶事ではあっても、国民主権や民主主義の大義から見ての慶事ではあり得ない。少なくとも、私にとっての慶事ではなく、共産党とその支持者にとっての慶事でもありえない。国会は、「国民を代表して」賀詞を述べることはできない。また、国民誰にも、新天皇への祝意を強制される筋合いはない。

この点についての私の意見は、5月10日付ブログで尽きている。ぜひ、再度お読みいただきたい。象徴天皇制に対する基本姿勢の問題も、多少は触れている。

おそるべし天皇制。衆院全会一致の阿諛追従決議。
https://article9.jp/wordpress/?p=12582

このブログに付け加えれば、インタビュー記事には、体系としての憲法の把握のありかたに違和感があるということだ。象徴天皇制の位置づけや、天皇制の民主主義への危険性について、私は下記の志位見解のような楽観論には立てない。新元号や新天皇即位に伴う、社会的なフィーバーと、その政権の利用を見せつけられた直後であるだけに一入である。

「天皇の制度の性格と役割が憲法によって根本的に変わりました。この制度をなくさないと、私たちが掲げる民主的な改革――日米安保条約の廃棄や「ルールある経済社会」をつくるといった改革ができないということはありません。」

また、憲法に書いてあることが、目的や理想ではなく、既に実現しているごとき認識にも違和感を禁じえない。志位インタビューでは、憲法本来の理念体系に、天皇の存在が背反した存在となっているというとらえ方が希薄なのが気にかかる。

なお、2004年改定の新綱領は、こう述べているという。
「党は、一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」

この第1文に異論はない。ところが、第2文には大いに違和感がある。これは、積極的に社会を変革していこうとする立場ではない。この第1文に述べられた基本理念から論理的に演繹される方針としての第2文は、こうでなくてはならない。
「天皇の制度が憲法上の制度である以上、その廃止には国民の総意によって憲法改正を要することになるが、党は漫然と情勢が熟したときに解決されるという待機主義の立場を採らず、天皇制を美化するあらゆる策動に反対し、民主共和制の政治体制の実現をはかるべく可能な努力を重ねる」

ところで、「思考停止、議論停止になってはいけません。タブーをもうけず、この制度について、この機会に大本から考え、議論していくことが大切だと思います」という志位見解を歓迎して、ぜひとも実践していただきたいと願う。ついては、提案を申し上げたい。この機会に、赤旗を舞台に、「タブーをもうけず、天皇制について、大本から考える議論」を巻き起こすための、企画を練っていただけないだろうか。

たとえば、共産党自身の公式見解をもタブーとすることなく、それへの賛否両論の言論を歓迎するという姿勢での「天皇制議論のコーナー」の創設。タブーのない赤旗ならではの言論空間の設定は、有益なものと思うのだが。

なお、やや古いが、2015年12月25日付の下記ブログも、併せてお読みいただきたい。

共産党議員が、玉座の天皇の「(お)ことば」を聴く時代の幕開け

https://article9.jp/wordpress/?p=6112
(2019年6月5日)

東京「日の丸・君が代」強制拒否訴訟報告

どこの国にも国旗がある。日本には「日章旗」、韓国は「太極旗」、北朝鮮は「共和国旗」である。台湾は「青天白日旗」を国旗として、「五星紅旗」に対抗している。
国家は、その象徴として国旗を制定する。国家という抽象物は目に見えないが、国家を象徴する国旗は、国民の目の前で翻ってみせる。国民の目の前で翻る国旗は、国民のナショナリズムを刺激する。おなじ旗に集う者として国民を束ね、束ねた国民を国家に結びつけるよう作用する。
国家(より正確には国家を掌握している権力者)は、より強い国民の国家統合を求めて、国民に対して「国旗を尊重せよ」「国旗に敬意を表明せよ」と要求する。国家への忠誠を国旗に対する態度で示せということなのだ。場合によっては、国旗への敬意表明が国民の法的義務となる。わざわざ法的義務としなくても、国民多数派の社会的同調圧力が、全国民に国旗尊重を事実上強いることになる。
全国民が、無理なく受け入れられる国旗をどうデザインするかは難しい。東京朝鮮中高級学校のホームページを開くと、まず目に飛び込んでくるのは、「統一旗」である。在日の皆さんが求める国家的アイデンテティをよく表している。かつての枢軸3国の内、ドイツもイタリアも敗戦後の再出発にあたっては、国旗を変えた。国家が生まれ変わったのだから、国旗も国歌も変えるのが当然なのだ。しかし、日本だけが旧態依然である。あの神権天皇制の日本。侵略戦争と植民地支配に狂奔した軍国主義日本と、あまりにも深く一体化した旗と歌とが今なおそのまま国旗となり国歌となっている。
天皇代替わりの今、あらためて、敗戦と日本国憲法制定にもかかわらず、この国の変わり方が不徹底であったことを噛みしめざるを得ない。多くの国民が、天皇の戦争責任追及をしなかった。自らの侵略戦争や植民地支配への加害責任の自覚が足りない。旧体制を支えた天皇の権威への盲従に、反省がまことに不十分なのだ。そのことが、歴史修正主義者を跋扈させ、今日に至るも近隣諸国に対する戦後補償問題が未解決な根本原因となっている。
学校での「日の丸・君が代」強制も、主には歴史認識問題である。旧体制批判に自覚的な教員の多くが、「日の丸・君が代」強制に抵抗してきた。
「日の丸・君が代」は、あまりに深く旧体制と結びついた歴史をもつ。天皇主権・天皇の神格化・富国強兵・滅私奉公・軍国主義、そして侵略戦争と植民地支配である。「日の丸に向かって起立し、君が代を唱え」と強制することは、新憲法で否定されたはずの旧価値観を押し付けることではないか。一人ひとりの思想・良心の自由を蹂躙して、国家が良しとする秩序を優先することは受容しがたい。それが、圧倒的な教員の思いであった。
しかし、国は徐々に「日の丸・君が代」強制強化に布石を打っていった。文部省は1989年に「学習指導要領」を改訂し、従前は「指導することが望ましい」とされていた表記を、「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」とあらためた。さらに1999年8月には、国旗国歌法を制定して「日の丸・君が代」を国旗・国歌とした。
こうして、制度が整うと、強制の徹底を買って出る自治体が現れる。まずは、石原慎太郎都制下の東京都教育委員会が、2003年10月に、悪名高い「10・23通達」を発出した。以来、都内の公立学校では、式のたびに全教職員への起立斉唱の職務命令が発せられ、不起立の職員には懲戒処分が強行されることになった。今日まで、戒告・減給・停職の処分が延べ480名余に強行されてきた。これに関連するいくつもの訴訟が提起され、最高裁判決も積み重ねられている。
残念ながら、教員側は、最高裁で「いかなる処分も違憲」という判決を獲得し得ていない。しかし、最高裁は、戒告を超えて減給以上の実質的な不利益を伴う重い処分量定は苛酷に過ぎ、懲戒権の逸脱濫用にあたるとして、都教委の暴走に歯止めを掛けてきた。
今回、3月28日に最高裁は、都教委の上告受理申立を不受理として、現役教員の4回目・5回目の不起立に対する各減給処分(いずれも減給10分の1・1月)を違法とする原判決を容認した。不起立回数に関わりなく、君が代・不起立の処分は戒告にとどまることになった。
「日の丸・君が代」強制反対訴訟は、まだまだ続く。この訴訟と支援の運動は、児童・生徒のために自由闊達で自主的な教育を取り戻すための闘いとともにある。本来が、教育とは、国家の強制や政権の思惑からは独立した自由なものでなくてはならない。教育への公権力の介入を象徴するこの訴訟への関心と、ご支援を心からお願いしたい。

(日朝協会機関誌「日本と朝鮮」東京版・2019年6月号掲載)

(2019年5月29日)

 

言論の自由は、権力と権威を批判するためにこそある。

本日は、「ちきゅう座」第14回総会にお招きいただき、冒頭発言の機会を得ました。「ちきゅう座」には、私の拙いブログを、毎日掲載していただいていることに感謝申し上げ、そのブログに関連して、短い時間ですが、私流のブログ作法のようなものをお話しさせていただきます。

私がブログを書く基本姿勢は、「当たり障りのないことは書かない」「すべからく、当たり障りのあることだけを書く」ということに尽きます。「当たり障りのあること」とは、誰かを傷つけると言うこと。誰かを傷つけることを自覚しながら、敢えて書くということです。

「誰かを傷つける」言論は、当然にその「誰か」との間に、軋轢を生じます。それは、面倒を背負い込むことであり、けっして快いことではありません。場合によっては「裁判沙汰」にさえなります。それでも書かねばならないことがあります。

近代憲法を学ぶ人は、典型的な近代市民革命の成果としてのフランス人権宣言(「人および市民の諸権利の宣言」・1789年8月)に目を通します。その第4条に、有名な「自由の定義」が記載されています。
「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることである。」という有名な一文。私は、これにたいへん不満です。えっ? たった、それだけ? 自由ってそんな程度もの?

「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうること」という文言では、論理的に「誰も、他人を害する自由を持たない」「他人を害することは、自由の範囲を越えている」ことになります。私には、到底納得できない「中途半端な人権宣言」でしかありません。

他人を害しない、当たり障りのない言論には、「自由」や「権利」として保護を与える必要はありません。「当たり障りのある言論」であってはじめて、保護しなければならないことになる。戦前、國體と私有財産制を擁護し、富国強兵や滅私奉公を鼓吹する言論は誰憚ることなく垂れ流されました。当時は、これが「権力に従順で、他人を害しない、当たり障りのない言論」でした。その反対の、天皇の権威を傷つけ、生産手段の私有制を非難して資本家を排撃し、軍部・軍人を揶揄し、侵略戦争や植民地主義の国策を批判する言論は、多くの国民の耳に心地よいものではなく、当たり障りのある言論として徹底的に取り締まられました。

いま横行している、天皇を賛美し、アベノミクスを礼賛する言論。人をほめるだけの「当たり障りのない言論」は、ことさらに自由や権利として保護する必要はありません。他人を批判し、他人を傷つけ、他人との間に軋轢を生じる言論の有用性を認めることが、文明の到達した、表現の自由を筆頭とする自由や人権の具体的内容でなければなりません。

もっと端的に言えば、表現の自由とは、権力と権威を批判するためにあります。いうまでもなく、権力は批判されなけれ腐敗します。権力を担う者は、いかに不愉快でも、傷つけられても、批判の言論を甘受しなければなりません。批判さるべきは政治権力に限らず、社会的な強者、経済的な強者として君臨する者も同様。付け加えるなら、社会的多数者もです。

そして、今問題とすべきは権威です。あらゆる権威が、批判に晒されなければなりません。とりわけ、批判が大切なのは、権力と癒着する恐れある権威です。そのような権威が今われわれの眼前にあって、それに対する批判が極めて弱い。表現の自由の危うさを危惧せざるを得ません。

表現の自由とは、多様に根拠付けすることができるかと思いますが、究極のところ、権力と権威の批判の手段として有用であり必要なのです。すべての権力は血塗られた実力で獲得されますが、これを維持するためには権威の調達が必要となります。宗教的権威であったり、文化的権威であったり、神話であったり、いずれウソとゴマカシで練り上げられた権威。

戦前、天皇は権力と権威を兼ねていました。荒唐無稽な神話に基づく国家神道が、天皇を神とし教祖ともしたのです。その天皇の宗教的権威が、天皇の統治権の総覧者としての権力を支えていました。

日本国憲法は、天皇から権力を剥奪しましたが、象徴天皇というかたちで、天皇制自体は残存し、その権威の払拭は不徹底のまま現在に至っています。日本国憲法の政教分離は、天皇を再び神とすることを阻止するための歯止めですが、これさえ十分には働いていません。しかも、天皇の権威とは、必ずしも宗教的権威にとどまらない、文化的、社会心理学的なものがあると考えざるをえません。

一連の天皇代替わり儀式において、国民主権原理違反、政教分離原則違反が明らかになりつつありますが、これは象徴天皇制そのものが内在的にもつ矛盾であり、「権力と癒着する権威」という天皇制の本質の表れというほかはありません。

権力と権威に対する仮借ない批判の言論が今こそ必要な時期だと思います。「ちきゅう座」が、そのような立場で大きな役割を果たされるよう期待の言葉を述べて、「当たり障りのないご挨拶」といたします。
(2019年5月25日)

おそるべし天皇制。衆院全会一致の阿諛追従決議。

衆議院は,昨日(5月9日)午後の本会議で、天皇の即位に祝意を示す「賀詞」を全会一致で議決した。共産党も出席して賛成した。残念でならない。

共同配信は「平成の際の賀詞は昭和天皇逝去に伴う1989年1月の皇位継承時ではなく、90年11月に行われた『即位礼正殿の儀』に合わせて議決した。当時、天皇制廃止を掲げていた共産党は反対した」とし、産経は「平成の御代替わりの際の賀詞に反対した共産党も、今回は賛成した」と書いている。

その「賀詞」なるものの全文は次の通り。
「天皇陛下におかせられましては、この度、風薫るよき日に、ご即位になりましたことは、まことに慶賀に堪えないところであります。
天皇皇后両陛下のいよいよのご清祥と、令和の御代の末永き弥栄をお祈り申し上げます。
ここに衆議院は、国民を代表して、謹んで慶祝の意を表します。」

「陛下」「おかせられましては」「風薫るよき日」「ご即位」「慶賀に堪えない」「天皇皇后両陛下」「ご清祥」「令和の御代」「末永き弥栄」「お祈り申し上げます」「国民を代表して」「謹んで慶祝の意を表します」。一言々々が、耳にざらつく。天皇制に阿諛追従のこんな決議が議院の全会一致で成立とは、これは悪夢だ。一人の議員の反対もないのか。嗚呼、共産党までが…。

戦前の大政翼賛下の議会を彷彿とさせる。同時に、9・11直後に、たった一人反対票を貫いた米下院のバーバラ・リー議員を思い起こさせる。
2001年9月14日、9・11同時多発テロ事件3日後のこと。米連邦議会の上下院は、ブッシュ大統領に対しテロへの報復戦争について全面的な権限を与える決議を成立させた。これに対し、上下両院を通じてただ一人これに反対票を投じたのが、カリフォルニア選出のバーバラ・リー(Barbara Lee)民主党下院議員だった。私は、この一票を、議会制民主主義に生命を吹き込んだものとして高く評価する。

その「ただ一人反対を貫いた下院議員」の議会での発言の一節がこうであったという。

私は確信しています。軍事行動でアメリカに対する更なる国際的なテロを防ぐことは決して出来ないことを。この軍事力行使決議は採択されることになるでしょう。(それでも、)…誰かが抑制を利かせなければならないのです。誰かが、しばし落ち着いて我々が取ろうとしている行動の意味をじっくり考えなければならないのです。皆さん、この決議の結果をもっと良く考えて見ませんか?

昨日の衆院では、非力でも、孤立してでも、誰かがこう言わなければならなかった。

私は確信しています。天皇制を賛美することが、国民主権や民主主義と相容れないものであることを。この賀詞決議は多数決で採択されることになるでしょう。それでも誰かが、抑制を利かせなければならないのです。誰かが、しばし落ち着いて、新天皇の即位に祝意を述べるという議会決議の意味をじっくり考えなければならないのです。皆さん、過熱している新元号制定や新天皇即位の祝賀ムードが、国民の主権者意識とどう関わるものなのか、もっと深くよく考えて見ませんか?

現実には、こう発言する議員も政党もなく、あたかも国民は、新天皇即位に祝賀一色のごとく後世に記録されたことを残念に思う。

本日(5月10日)の赤旗が、党委員長の記者会見記事を掲載している。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-05-10/2019051002_04_1.html
以下に、志位委員長発言のポイントを抜粋して、これにコメントしておきたい。

志位 天皇の制度というのは憲法上の制度です。この制度に基づいて新しい方が天皇に即位したのですから、祝意を示すことは当然だと考えています。私も談話で祝意を述べました。国会としても祝意を示すことは当然だと考えます。

いつもの理路整然たる共産党の発言とは思えない、驚くべき非論理ではないか。「われわれは現行憲法を尊重する立場であり、天皇が憲法上の制度である以上、新天皇即位を妨害しない」なら、論理として分かる。しかし、「祝意を示すことは当然」とは論理的にあり得ない。

内閣総理大臣は憲法上の制度ではあるが、安倍首相就任に祝意は当然だろうか。最高裁長官や下級審裁判官についてはどうだろうか。これに、いちいち「国会としても祝意を示すことは当然」はなりたちえない。

「現行憲法を丸ごと擁護する立場から、憲法上の制度とされている天皇を認める」としても、その天皇の役割を制約し存在感を極小化しようとする立場に立つのと、天皇の役割の拡大を容認する立場に立つことの間には、天と地ほどの差異がある。政党は、とりわけ共産党は、自らの立場を明確にしなければならない。

志位 ただ、(賀詞の)文言のなかで、「令和の御代」という言葉が使われています。「御代」には「天皇の治世」という意味もありますから、日本国憲法の国民主権の原則になじまないという態度を、(賀詞)起草委員会でわが党として表明しました。

そのことは知らなかったが、共産党も、少なくとも賀詞の文言の問題点は認識していたわけだ。それならば、「『令和の御代』との文言を削除しない限り、日本国憲法の国民主権の原則になじまないのだから、わが党としては反対」という選択はありえたのだ。文言をそのままで、賛成をしてしまったのは、どうしたことか。

志位 (前天皇の即位の賀詞に反対した)当時の党綱領は「君主制の廃止」を掲げていました。その規定は2004年の綱領改定のさいに変えたわけです。改定した綱領では、天皇条項も含めて現行憲法のすべての条項を順守する立場を綱領に明記し、「君主制の廃止」という規定は削除しました。そういう綱領の改定に伴って、こういう態度を取ったということです。

「現憲法下で、憲法のすべての条項を順守する立場」と、「新天皇即位への賀詞決議に賛成」という態度とは、必ずしも結びつかない。むしろ、「現行憲法を順守する立場」は、国民主権や人権という憲法体系の基軸部分と、天皇制という周辺部分とに、ことの軽重のメリハリをつけてしかるべきではないのか。新天皇の賀詞決議に反対したところで、新綱領違反になるわけはない。

志位 私たちの綱領では、将来の問題として、日本共産党としては、天皇の制度は「民主主義および人間の平等の原則と両立するものではない」として、「民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ」と明記しています。同時に、天皇の制度は憲法上の制度ですから、その「存廃」は「将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきもの」だということを綱領では書いています。

全体の論理は分からないではない。しかし、「その『存廃』は『将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきもの』」というのは、「前衛」を自負する共産党の姿勢として、あまりに第三者的・傍観者的なものの言い方ではないか。社会を、歴史の発展の方向にリードしていこうという主体性に欠けることにはならないか。

志位 そして同時に、憲法上の制度である以上、「その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべき」だと述べているわけですから、綱領のこの規定は、「私たちの立場はこうです」――つまり将来的にこの制度の存廃が問題になったときには、そういう立場に立ちますと表明していますが、同時に、わが党として、この問題で、たとえば運動を起こしたりするというものではないということです。

えっ? これは一大事だ。「共産党として、天皇制廃止問題で運動を起こしたりはしない」というのだ。天皇制に関連する、元号使用反対運動、「日の丸・君が代」反対運動、紀元節復活反対などなどはどうなるのだろう。まさか、こうした運動のすべてが、「将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべき」というわけではあるまい。

あらためて思う。天皇とは、まぎれもなく日本社会の旧態依然たる保守勢力の社会意識に支えられた「権威」である。その対極の進歩の陣営における「権威」が永く共産党であった。共産党の権威は、果敢に天皇制の権力と権威に対峙して闘ったことによって勝ち得たものである。天皇制と闘わない共産党は、自ら権威を捨て去ることにならないか。残念でならない。

天皇制と闘わない共産党とは、形容矛盾に見える。大衆運動をリードしようとしない「前衛」も同様である。泉下の多喜二が嘆いている。そしてこう呟いているのではないか。「天皇制とは、時の権力に使い勝手よく利用されるところに危険性の本質がある。いつの時代も甘く見てはならない」と。
(2019年5月10日)

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