澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

靖国神社宮司「不敬発言」が意味するもの

第4次安倍改造内閣をどう呼ぶか。「靖国派内閣」でピッタリではないか。何しろ、「神道政治連盟」の議連には19人全員に加盟歴があり、「日本会議」の議連には15人もが加盟しているからだ。

これを「神政連内閣」とも、「日本会議政権」とも言わず、「靖国派内閣」というのにはそれなりの理由がある。靖国神社こそが、先の大戦を「自存自衛の聖戦」とする歴史修正主義の本宗(仏教用語をつかえば「総本山」)だからだ。靖国神社が、戦死者の慰霊を独占する地位にあると主張して、今なお多くの戦没者遺族との精神的紐帯を保っているからでもある。

靖国神社とは何であるか。歴史的には、天皇制が生み出した軍事的宗教施設であり、宗教的軍事施設でもある。天皇のために死ぬことを美徳とし、戦死者を神として顕彰する装置であって、戦没者顕彰を通じて天皇が唱導する戦争を美化し次に続く戦死者を作る施設でもあった。つまり、軍国神社であり天皇神社なのだ。

戦後、神道指令と新憲法によって政教分離を余儀なくされた宗教法人靖国神社は、軍との関係も国との関係も切断された。しかし、軍国主義と天皇崇敬の思想はまったく変えていない。あの戦争を聖戦とする姿勢は、神社境内に位置する軍事博物館「遊就館」の展示を一見すれば明白である。そして、その出自が天皇神社である以上、天皇崇敬の思想は変えようがない。軍国主義を聖戦思想が支え、聖戦思想は天皇崇敬から導かれる。

だから、靖国神社の神職といえば、定めし天皇崇敬の念が篤い者ばかりであろうと考えるのが常識で、私もそう思い込んでいた。が、常識とは、往々にして根拠に欠ける虚妄であることが少なくない。常識の誤りに遭遇して衝撃を受けることが、間々ある。靖国神社宮司の「不敬発言」は、まさしくそのような衝撃のニュースである。ネトウヨ文化人や評論家諸氏が、ご都合主義の天皇(制)利用者であることには驚かない。しかし、靖国神社の神職、なかんずくそのトップである宮司の天皇批判発言には、少なからぬ驚きを禁じえない。

が、よくよく考えてみれば、近代天皇制とは、藩閥や財閥・右翼・戦争推進勢力の操り人形として創設された。彼らにとって利用できる限りでの天皇制や天皇の神聖性であり崇敬なのだ。けっして心底から天皇を敬しているわけではない。神聖なものと多くの者から信じられている虚妄こそが大切なのだ。言わば、靖国神社の宮司をはじめとする天皇制利用者が、天皇を崇敬しているフリをしているだけのものなのだ。そのことをよく分かるかたちで表わしたのが、このたびの宮司「不敬発言」なのだ。

さて、昨日(10月10日)のこと。靖国神社社務所は報道機関宛てに下記の通知を発した。

?平成30年10月10日

報道関係各位

靖國神社社務所

靖國神社宮司退任について

今般、当神社小堀宮司による会議での極めて不穏当な言葉遣いの録音内容が漏洩いたしました。
この件に関し、宮司が直接、宮内庁へ伺い陳謝するとともに、宮司退任の意向をお伝えしました。尚、後任宮司につきましては10月26日の総代会にて正式決定した後、改めてお知らせいたします。

以上

靖國神社宮司といえば、かつては陸海軍大将が務めた。戦後は、元皇族や元華族が務め、今年の2月までは徳川家の末裔(徳川康久)がその任にあったが、「賊軍合祀」発言で職を退いた。代わって3月1日就任の小堀邦夫は、伊勢神宮禰宜からの転身。手堅い人事のはずが、靖国神社創建150年を直前に、この失態は痛手だ。痛手は、靖国神社だけではなく、靖国派や靖国派内閣にも、代替わりの天皇制にも及ぶことになろう。

「当神社小堀宮司による会議での極めて不穏当な言葉遣い」とは、本年6月20日に靖国神社の社務所会議室で行なわれた「第1回教学研究委員会定例会議」での席のことだという。第12代靖国神社宮司の小堀邦夫が、靖国神社創建150年に向けて「教学研究委員会」を組織。その第1回の会議に、小堀宮司以下権宮司など幹部神職10人が参加して行われた。

その会議の110分に及ぶ録音が漏洩した。週刊ポストがこれを入手したとして、詳細な報道をした。もちろん、ニュースソースは秘匿されているが、この会議出席者10人の幹部神職の一人の内部通報なのであろう。問題とされている具体的な宮司発言の内容は以下のようなものである。

「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ。そう思わん? どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊はないだろう? 遺骨はあっても。違う? そういうことを真剣に議論し、結論をもち、発表をすることが重要やと言ってるの。はっきり言えば、今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ。わかるか?」
「あと半年すればわかるよ。もし、御在位中に一度も親拝なさらなかったら、今の皇太子さんが新帝に就かれて参拝されるか? 新しく皇后になる彼女は神社神道大嫌いだよ。来るか?」

なるほど、天皇を神聖なものとし、天皇崇拝を建前としている者の言葉遣いではない。「極めて不穏当な言葉遣いの録音内容が漏洩いたしました」は、そのとおりなのだろう。そして、「(天皇が)どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊はないだろう? 遺骨はあっても。」というのが、「不敬発言」内容の本領である。靖国参拝を拒絶する天皇に対する不快感の表明である。戦没者霊魂の独占を主張する靖国神社教義の根幹を天皇が意識的に妨害しているという焦慮なのだ。

また、神社本庁では、田中恆清総長の辞意表明やその撤回の背景に不動産不正取引など数々の疑惑があるとの報道もなされている。

リテラは、「有名神社の相次ぐ離脱・後継問題、富岡八幡宮殺人事件、そして、本サイトでも追及してきた「神社本庁・不動産不正取引疑惑」などで、いま、大きく揺れている神社界。全国約8万社を包括する宗教法人・神社本庁の上層部に、その責任が問われている。」と記事にしている。

「靖国」も「神社神道」も大きく揺れて、その権威を失墜している。もちろん、「靖国派内閣」も「神政連」も、元気が出ようはずはない。この事態、落ち目のアベ政権には小さくない手傷だが、日本国憲法改正阻止勢力には望外の敵失。オウンゴールと言うほどのことではないのだが。
(2018年10月11日)

49年前は「司法反動阻止」、今や「安倍改憲阻止」。

10月3日気の置けない友人弁護士10名余と函館に宿泊して旧交を温めた。49年前に司法修習同期をともにした同窓会である。「司法反動阻止」や「阪口君罷免撤回」の運動をともにした親しい仲間だけの集まり。

思いがけなくも、集合は立派な会議室だった。宴会の前にまずは「会議」のスケジュール。その議題は二つ。一つは、「森友事件告発」問題。そして、「安倍改憲阻止」の課題。

なぜ、森友事件関連の諸告発がいずれも起訴に至らなかったのか。どうしたら、検察審査会で起訴相当の決議を得ることができるか。有益な情報交換と議論が交わされた。

そして、「安倍改憲」の情勢をどう見るか。阻止の展望がもてるか。その阻止のために、われわれは何ができるか、何をなすべきか。大幅に時間を超過して宴会の開始が遅れた。

それぞれの近況報告が各自各様で面白い。求道者のごとく(ペイしない)仕事に没頭している者もいれば、仕事は妻と子に任せて主夫業専念者もいる。が、初心を忘れている者はない。今の共通の関心は、徹底してアベを叩くこと。アベを叩くことで改憲の危機を乗り越えなければならないということ。深夜まで久しぶりに青くさい議論が続いた。

宿は、湯の川温泉の立派な旅館だったが、ギョッとするものを見せられた。イヤでも見ざるを得ない場所に誇らしげに飾られた黄綬褒章の額装である。珍しいものでもなかろうが、私には初めて見る物。しげしげと眺めた。

この宿の経営者であろう者が、天皇から「褒められたシルシ」として与えられたリボンと賞状。「農業、商業、工業等の業務に精励し、他の模範となるような技術や事績を有する者」に対して授与されるという「黄綬褒賞」。

芥川の「侏儒の言葉」の一節が思い起こされる。「わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」
私にも実際不思議である。なぜこの旅館主は、酒にも酔わずに、こんなオモチャをありがたがって受け取り、飾って人にまで見せることができるのであろう?? 接客業者のあまりに無神経なオモテナシ。

褒賞授与状の主語は、「日本国天皇」であった。さすがに、今どき「朕」とは言わないのだ。
「日本国天皇は、某が××として、よく職務に精励したことについて黄綬褒章を授与する」という上から目線の、まことに素っ気ない文章。せめて、「あなたが永年職務に精励され多くの人に尽くされたことに敬意を表し、国民を代表してこの章を授与します」くらいのことが言えないのだろうか。もっとも、こんな物をもらってありがたがる者の支えあっての「象徴天皇制」なのだ。

御名すなわち明仁の署名はなく、国璽が押捺されていた。そして、内閣総理大臣安倍晋三と内閣府勲章局長の副書。

もらう人によっては有り難いのだろうが、こんな物を見せつけられて、私は不愉快。この宿には二度と来るまいと決意を固めた。

もう一泊、少人数で白老の虎杖が浜へ。こちらは、天皇も皇族も無関係。素晴らしい好天と、入り日と星空。そして、翌朝の水平線からの日の出。こちらのホテルは、大いにまた来ようという気になった。
(2018年10月7日)

柴山昌彦くん、愚かなキミには文科大臣は務まらない。

第4次安倍内閣への呼称が定まらない。
「もり・かけ反省拒否宣言内閣」「論功行賞内閣」「旧友復活内閣」「旧悪再生内閣」「在庫一掃内閣」「閉店セール内閣」「全員右投げ右打ち野球内閣」「右側エンジン全開内閣」「無適材不適所内閣」「レームダック内閣」…。いずれも一面の真実を衝いて甲乙付けがたい。

呼称は定まらないが、世評の低さは定まった。「信頼挽回内閣」にも、「人気回復内閣」にもなり得ない。提灯持ちメデイアのご祝儀記事も力がない。なにせ安倍商店が国民の前に並べた商品は、まことに魅力に乏しいのだ。早くも欠陥商品が見つかってもいる。

文科大臣就任の柴山昌彦なる人物。アベの候補者公募に応募したのが政治家稼業の始まりという、アベチルドレンの典型だという。宮本岳志から、「また愚かな人が文部科学大臣になった。教育勅語を研究もせずに教育勅語を語るな!」と、みごとな叱責を受けて、これはその評価が定まった。

ほかならぬ文部科学大臣である。「愚かな人」が就くべきポストではない。「愚かな人」とは、日本国憲法の理念を知らぬ人、弁えぬ人のこと。アベ晋三も柴山昌彦もこの範疇。日本国憲法下の教育行政担当官である以上は教育基本法をこそ熱く語るべきであって、大日本帝国憲法とともにあった教育勅語を肯定的に語ってはならない。ましてや、文部科学大臣が、教育勅語を研究もせずに「教育勅語を使える」などと言ってならないのは理の当然。

「普遍性を持っている部分」を取り出すとすれば、ヒトラーの演説からも、スターリンからも、ネロからも、東条英樹からも、アルカポネや石川五右衛門からだって、「道徳的教訓」を得ることができる。それをなぜ、ことごとしく教育勅語を持ち出すのか。意図は見え々えではないか。

柴山は大臣就任記者会見でどう語ったか。この大臣の「愚かな人」ぶりを引き出した質問は、朝日や共同通信や東京新聞ではなく、NHKの記者によるものである。

NHK:大臣はご自身のTwitterで今年の8月17日に、「私は戦後教育や憲法のあり方がバランスを欠いていたと感じています。」とツイートされていますが、戦後教育や憲法や在り方がどのようにバランスを欠いていたと感じていらっしゃるんでしょうか。

柴山:はい。その私のツイートの趣旨は、やはり教育というのは当然のことながら私たちの権利とともに、義務や規律ということについても教えていかなければいけないと、これは当然のことだと思っております。ただ、戦前、その義務とか規律が過度に強調されたことへの、これもまた大きな反動として、個人の自由とか、あるいは権利ということに重きを置いた教育、あるいは個人の自由を非常に最大の核とする日本国憲法が制定をされたということだと思っております。
 そういう中で、憲法についてはわれわれ憲法尊重擁護義務がある公務員ですから、ちょっとここではその在り方について言及をすることは避けたいというふうに思うんですけれども、少なくとも教育においては権利や義務、あるいは規律ということを、しっかりバランスを良く教えていく、こういったことがこれから求められるのではないかと、そういう趣旨でツイートしました。

NHK:関連してなんですけども、教育勅語について、過去の文科大臣は中身は至極まっとうなことが書かれているといった発言をされているわけですけども、大臣も同様のお考えなんでしょうか。

柴山:はい。教育勅語については、それが現代風に解釈をされたり、あるいはアレンジをした形で、今の例えば道徳等に使うことができる分野というのが、私は十分にあるという意味では、普遍性を持っている部分が見て取れるんではないかというふうに思います。

NHK:それはどの辺が十分今も使えるというふうに考えてらっしゃるんでしょうか。

柴山:やはり同胞を大切にするですとか、あるいは国際的な協調を重んじるですとか、そういった基本的な記載内容について、これを現代的にアレンジをして教えていこうということも検討する動きがあるというふうにも聞いておりますけれども、そういったことは検討に値するのかなというふうにも考えております。

このNHK記者の質問は立派なものだ。表面的な回答に満足せず、的確な質問を重ねて、この大臣の重要な内面をえぐり出した。「愚かな人」ぶりをさらけ出させたと言ってもよい。

柴山の教育勅語を語る姿勢における本質的な問題点は措くとして、「愚かな人が、教育勅語を研究もせずに教育勅語を語っている」ことだけに触れておきたい。

柴山が、普遍性ゆえに今の道徳(教育)にも使うことができるという、教育勅語の個所として挙げたのは、「同胞を大切にする」と「国際的な協調を重んじる」の2個所である。

おそらく、柴山は教育勅語を読みこんだことがない。勅語成立の背景事情もそれがどのように使われてきたかに関心をもったこともなかろう。ただ、アベが右翼である以上は、自分も右翼的でなければならないと思い込んでいるに違いない。右翼的であるための証しとして、教育勅語を肯定的に語らねばならないと考えたのだろう。そう考えざるを得ない。

まず、「同胞を大切にする」なんて、教育勅語には出てこない。そもそも、「同胞」という言葉がない。柴山がこうしゃべった根拠の可能性は二つ。

一つは、「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」の「兄弟」を同胞と間違えて記憶していたものと考えられる。いうまでもなく、「同胞」とは、訓読みすれば「はらから」、兄弟姉妹のこと。柴山が、うろ覚えで、「教育勅語には同胞(兄弟)を大切にせよ」という文句があったと間違えていたとしても無学の者にはありがちなことで、「文科大臣たる者が」という肩書を外せば、恥ずかしいというほどのことではない。「ミゾユウ」や「でんでん」「せご」などとは明らかに次元が異なる少々の間違い。

しかし、「兄弟ニ友」を、「同胞ニ友」と読み替えたところで、「兄弟仲良くせよ」でしかなく、「現在なお道徳等に使うことができる普遍性をもった徳目」として抜き出して論じるほどのものではない。

もう一つの可能性は、柴山の頭がナショナリズムに凝り固まっていて、「同胞」を「原義から転じて同じ国民や民族を指す」語彙として使っていること。「教育勅語には民族主義礼賛の言葉がどこかにあっただろう」「同胞すなわち日本民族を、お互い大切にしなさい」という徳目があったに違いない。愚かにも、そのように考えたのではないか。いずれにせよ、いい加減で不正確も甚だしい。戦前なら、「不忠」「不敬」と指弾されたところ。

柴山が言った「今の道徳(教育)にも使うことができる2番目の徳目」は、「国際的な協調を重んじる」だが、これは当てずっぽう。「愚かな人」が無知をさらけ出したと言うしかない。教育勅語にそんな言葉はない。そもそも、そんな理念を国民に教育しようという発想がなかった。

柴山が「国際的な協調を重んじる」ことを大切な徳目として道徳教育で教えたいというのなら、教育勅語を持ち出すことはできない。どんなにアレンジしたところで、教育勅語から導かれるものは「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」に収斂する戦争でしかない。

もちろん、国際協調主義は現行憲法の重要な原則である。国際協調主義を教えるのなら、教育勅語の出る幕はない。現行憲法をそのまま教えればよいのだ。たとえば、次の前文。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる

あるいは9条。

第9条1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

そもそも、教育基本法には教育の目的と目標が書き込まれている。その意味でも教育勅語なんぞの出る幕はない。1947年教育基本法は、崇高な教育の精神を語っていた。第1次アベ内閣が2006年にこれに傷をつけ、そのときから私はアベを民主主義の敵、人権の敵、平和の敵と確信して揺るがない。もっとも、アベに傷つけられた教育基本法だが、教育勅語に比較すれば、格段に立派な内容となっている。引用しておこう。

(教育の目的)
第1条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

(教育の目標)
第2条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

柴山くん、まずは日本国憲法の理念と教育基本法をきちんと学習したまえ。何年か先に、学が成って憲法・教基法の精神を会得するまで、キミには文科大臣は無理だ。務まらない。さらに、「愚かな人」ぶりをさらけ出して恥の上塗りを重ねるよりは、潔く職を辞するが身のためだと思う。キミの身のためであるだけでなく、それが日本国民のためなのだ。お分かりいたたけないだろうか。
(2018年10月6日)

そりゃオカシイ ― 「大嘗祭は宗教行事だが重要な儀式だから公費支出を認める」って?

来年(2019年)、現天皇(明仁)がその職を辞して、長男(徳仁)がその地位を承継する。次期天皇の就任は2019年5月1日と予定され、その後一連の代替わり儀式が行われる。天皇がかつて宗教的権威を体現する者とされていたため、伝統に基づく代替わり儀式に固執するとなれば、どうしても宗教性を帯びることになり、憲法に抵触することになる。その最たるものが、11月に予定されている大嘗祭にほかならない。

その大嘗祭に関して、一昨日(8月25日)の毎日新聞朝刊に、目立つ大きな記事。「大嘗祭『公費支出避けるべきでは』秋篠宮さまが懸念」の見出しで、以下の内容。他紙に後追いのないことも含めて、これは興味深い。

来年5月に即位する新天皇が五穀豊穣を祈る皇室の行事「大嘗祭(だいじょうさい)」について、秋篠宮さまが「皇室祭祀に公費を支出することは避けるべきではないか」との懸念を宮内庁幹部に伝えられていることが関係者への取材で判明した。大嘗祭は来年11月14日から15日にかけて皇居・東御苑での開催が想定されている。政府は来年度予算案に費用を盛り込む。

 宗教色が強い大嘗祭に公費を支出することには、憲法で定める政教分離原則に反するとの指摘がある。政府は今年3月に決定した皇位継承の儀式に関する基本方針で、「宗教的性格を有することは否定できない」としながらも、「皇位が世襲であることに伴う重要儀式で公的性格がある」と位置付けた。費用は平成の代替わりの際と同様、皇室行事として公費である皇室の宮廷費から支出する。

 平成の大嘗祭では、中心的な行事「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」の祭場建設のための約14億円を含めて費用は総額約22億5000万円に上った。関係者によると、同程度の儀式を行った場合、物価の変動などを考慮すると、費用は大幅に増える可能性がある

通常の皇室祭祀は、天皇、皇后両陛下と皇太子ご一家の私的生活費である内廷費で賄われる。これに対して、皇室の公的活動は宮廷費から支出される。政府は大嘗祭について宮廷費で予算措置を講じる方針だが、秋篠宮さまは宮内庁幹部に対して多額の宮廷費が使われることへの懸念を示したうえで「内廷費で挙行できる規模にできないだろうか」とも話しているという。今年度の内廷費は3億2400万円だった。

 秋篠宮さまは、新天皇が即位すると、皇位継承順位第1位の皇嗣となる。同庁幹部は秋篠宮さまの懸念について、毎日新聞の取材に「承知していない」としている。

 皇室祭祀などに詳しい宗教学者の島薗進・上智大学教授は「皇嗣となる方の素直な意見として歓迎したい。大嘗祭に公的な費用が使われることは、国の宗教的な活動を禁じる憲法20条に抵触する恐れがあり、本来好ましくない。政府は多様な意見を踏まえて、慎重に皇位継承儀式を進めてほしい」と話している。

島薗教授のいうとおりだ。真面目にものを考えようという人で、この意見に反対は考えられない。ただ、話者によってニュアンスの違いは避けられない。私なら、「大嘗祭に公的な費用が使われることは、国の宗教的な活動を禁じる憲法20条に抵触する恐れが強く当然に避けるべきだ。政府は違憲の恐れの指摘を無視して、敢えて公的費用を投じての大嘗祭を強行すべきではない」と言いたいところ。

ところで、大嘗祭は秘儀とされ、その内容には諸説ある。これを政府はどう説明しようとしているか。本年(2018年)4月3日、政府は「大嘗祭の挙行については、『「即位の礼」・大嘗祭の挙行等について』(平成元年12月21日閣議口頭了解)における整理を踏襲し、今後、宮内庁において、遺漏のないよう準備を進めるものとする。」と閣議口頭了解している。

日本国憲法施行以来天皇代替わりは1回しかない。その際の「「即位の礼」・大嘗祭の挙行等について」1989(平成元年)年12月21日閣議口頭了解における整理とは以下のとおりである。

大嘗祭の意義
大嘗祭は、稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇が即位の後、初めて、大嘗宮において、新穀を皇祖及び天神地祇にお供えになって、みずからお召し上がりになり、皇祖及び天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である。それは、皇位の継承があったときは、必ず挙行すべきものとされ、皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式である。

儀式の位置付け及びその費用
大嘗祭は、前記のとおり、収穫儀礼に根ざしたものであり、伝統的皇位継承儀式という性格を持つものであるが、その中核は、天皇が皇祖及び天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式であり、この趣旨・形式等からして、宗教上の儀式としての性格を有すると見られることは否定することができず、また、その態様においても、国がその内容に立ち入ることにはなじまない性格の儀式であるから、大嘗祭を国事行為として行うことは困難であると考える。

次に、大嘗祭を皇室の行事として行う場合、大嘗祭は、前記のとおり、皇位が世襲であることに伴う、一世に一度の極めて重要な伝統的皇位継承儀式であるから、皇位の世襲制をとる我が国の憲法の下においては、その儀式について国としても深い関心を持ち、その挙行を可能にする手だてを講ずることは当然と考えられる。その意味において、大嘗祭は、公的性格があり、大嘗祭の費用を宮廷費から支出することが相当であると考える。

以上の政府説明を要約するとこういうことになる。
(1)大嘗祭の宗教的性格は否定しがたい。
(2)しかし、一世に一度の極めて重要な伝統的皇位継承儀式として公的性格がある。
(3)だから、大嘗祭の費用を宮廷費から支出することが相当だ。

そりゃオカシイ。無理だろう。こんな屁理屈を認めると、際限なく天皇の行為の公的性格が広がる。憲法は、政府がこんな無茶を言い出さないように、国事行為を限定し、政教分離規定を置いたのだ。大嘗祭に宗教的性格が認められる以上は、公的な性格のものとしてはならない。公的性格の範囲をズブズブにして公的支出を認めてはならない。政教分離の実効性がここで問われているのだ。

どうしても大嘗祭をやりたければ、天皇家の私的な行事として、内廷費でやればよいだけのことだ。どこの家庭の行事も同じこと、財布の許す範囲でやりくりすればよい。あきらかに、秋篠宮の言い分の方が真っ当だ。案外、手強い人が皇族の中にもいる。
(2018年8月27日)

次の天皇の即位の礼は、国民主権にふさわしい式次第とせよ

昭和天皇と諡された裕仁の死去が、1989年1月7日。即時に現天皇(明仁)がその地位を承継した。「(旧)国王は死んだ。(新)国王万歳!」というわけだ。法的には、天皇の死だけが皇位承継の要件である。法的には、天皇という公職に就いていた公務員が死亡し、その地位を襲うことが予め定められていた候補者が、就位したというだけのこと。

しかし、憲法には規定のない代替わり儀式が麗々しく行われた。儀式は多様ではあるが、大きくは二種類。その一つは、天皇という公務員職を引き継ぐことのお披露目の儀式。謂わば俗の儀式。皇室典範24条が「皇位の継承があつたときは、即位の礼を行う」と言っている「即位の礼」に当たるもの。もう一つが、「天皇としての霊力の承継」という神秘的な宗教行事である。謂わば聖の儀式。秘儀とされる「大嘗祭」を中心とするもの。天皇制とは、この聖と俗とが分かちがたく結びついているからことが面倒となる。本日取りあげるのは、俗の儀式である「即位の礼」についてだけ。

現天皇(明仁)の「即位の礼」は、大袈裟でもったいぶった儀式だった。いい齢をした大人たちが、恥ずかしげもなく、なんと大仰なことを。

王にせよ、天皇にせよ、その役割は被治者に対する虚仮威しにある。生身の人間にはない権威や血統の神聖への信仰に支えられた虚仮威しによって、国民を恐れ入らせ、権威主義的に統合することで、時の政権の政治支配に奉仕する。人間宣言した以後の天皇も同様である。むしろ、政治権力から切り離された天皇は、その機能を純化していると言えよう。

とりわけその代替わりの際には、天皇は、宗教的権威や文化的道徳的権威、あるいは万世一系という神話的な演出の要請に応えなければならない。俗の儀式といえども、虚仮威しの効果十分なものでなくてはならない。だが、これは普遍性を持たない。天皇の権威や神聖を認めないものの目から見れば滑稽な儀式における滑稽な所作となるだけのこと。

その滑稽の極みが、1990年11月12日「即位礼正殿の儀」であった。国事行為として行われたその式次第は、下記のような「今の世に信じがたい」ものだった。
 1.天皇が高御座に昇る。
 2.皇后が御帳台に昇る。
 3.参列者が鉦の合図により起立する。
 4.参列者が鼓の合図により敬礼する。
 5.内閣総理大臣が御前に参進する。
 6.天皇の「おことば」がある。
 7.内閣総理大臣が寿詞を述べる。
 8.内閣総理大臣が即位を祝して万歳を三唱する。参列者が唱和する。
 9.内閣総理大臣が所定の位置に戻る。
 10.参列者が鉦の合図により着席する。

この式次第、日本国憲法下に正気の沙汰とは思えない。天皇が高御座(たかみくら)に昇って、総理大臣以下の群臣を見下ろす。群臣は起立して「敬礼」させられるのだ。天皇は上から、「おことば」を述べ、内閣総理大臣が御前に参進し、天皇を仰ぎ見て「テンノーヘイカ・バンザイ」を三唱した。よくもまあ、恥ずかしげもなくこんな愚行をやったのは海部俊樹という当時の総理大臣。彼の名はこの一事で歴史に残るだろう。なるほど、この日のために、「大臣」という語彙が残されているのだ。

昭和天皇(裕仁)の侍従だった故小林忍の日記が公開されて話題となっている。共同通信の第一報が、「細く長く生きても仕方がない。戦争責任のことをいわれる」(産経見出し)という記事だった。第二報が、現天皇の「即位礼正殿の儀」について、「ちぐはぐな舞台装置」「新憲法下初めてのことだけに今後の先例になることを恐れる」と当時の政府対応を批判する見解を日記に記していた、と共同通信が配信している。

「日記は政教分離の在り方に直接触れていないが、小林氏本人が参列した儀式の所作や内容について、費用も含めて手厳しい意見を記している。」「戦後初めて行われた即位の礼は、政教分離を巡り違憲論議も起きた。政府は宗教色を抑えようと配慮したが、一貫性がないとして宮内庁内に不満があったことがうかがえる。」「政府は、来年十月に予定されている新天皇の「即位礼正殿の儀」も基本的に前例踏襲とする方針で、今回明らかになった小林氏の見解が一石を投じる可能性もある。」という以上の記事だけでは、小林忍が何をどう不満を持ったのか、分からない。

小林が問題としたのは、具体的には以下の2点のようである。
第1点 「陛下が儀式の際に立った高御座(たかみくら)に、三種の神器の剣と勾玉(まがたま)に加え、宗教色を抑えるために国の印の国璽(こくじ)と天皇の印の御璽(ぎょじ)を目立つ位置に置いたことに言及。内閣法制局の幹部が『細かなくちばしを入れてきた』と不快感を示し『持ち込めば十分であって、目立たない所に置くと(中略)目的が達成されないというのだろうが、何と小心なることか』と私見をつづっている。」

これは、宮内庁の愚痴に過ぎない。内閣法制局は「即位礼正殿の儀」から、できるだけ宗教色を薄めることで、政教分離違反という批判を免れようと腐心したのだ。高御座も三種の神器も天皇夫妻の服装も、宗教的色彩夥しい。せめてここに、宗教的色彩の希薄な国璽と御璽を目立つように配置しようとしたのだ。宮内庁側は、これを姑息として不満を表明している。これが、天皇や側近たちの本音なのだろう。来年(2019年)10月とされる、新天皇代替わり儀式に注目せざるを得ない。

第2点 「両陛下や皇族、出席した宮内庁職員の多くが古風な装束を身にまとっていたのに対し、宮殿のデザインや当時の海部俊樹首相ら三権の長がえんび服だったことを「現代調」と表現。「全くちぐはぐな舞台装置の中で演ぜられた古風な式典」と皮肉り、全員が三権の長らと同じ洋装にすれば「数十億円の費用をかけることもなくて終る」と指摘している。

全員洋装で揃えりゃいいじゃないか、という趣旨のよう。たしかに、「両陛下や皇族、出席した宮内庁職員の多くが古風な装束」は、滑稽と言うほかはない。これを全員洋装で揃えることに反対はなかろう。当たり前のことだが、私服でよい。「数十億円の費用をかける」必要はさらさらない。

費用もさることながら、国民主権原理にふさわしい即位の礼でなくてはならない。
来年の10月だれが首相であるにせよ、衆人環視の中で、酔余の所業というでもなく、「テンノーヘイカ・バンザイ」はやめてもらいたい。
(2018年8月25日)

「あの無謀な戦争を始めて、我が国民を塗炭の苦しみに陥れ、日本の国そのものを転覆寸前まで行かしたのは一体だれですか」 ― 天皇(裕仁)の戦争責任を追及する正森成二議員の舌鋒

 人は兵士として生まれない。特殊な訓練を経て殺人ができる心身の能力を身につけて兵士となる。人は将校として生まれない。専門的訓練によって躊躇なく部下を死地に追いやる精神を身につけて将校となる。人は帝王として生まれない。「だれもが自分のために死ぬことが当然」とする人倫を大きく逸脱した帝王学によって育てられて帝王になる。

 兵士は戦場で死ぬことを覚悟しなければならない。将校は作戦の失敗に責任をとらねばならない。帝王は帝国と運命をともにしなくてはなららない。革命や敗戦によって帝国が滅びるとき、当然に帝王も死すべき宿命を甘受する。が、ごくまれにだが、おめおめと生き延びる例外がないでもない。

天皇(裕仁)が、自分の戦争責任についてどう自覚しているかについて、国民に語る機会はほぼなかった。もちろん、詫びることもない。唯一、その肉声が漏れたのは、1975年10月31日皇居「石橋の間」で行われた日本記者クラブ主催の記者会見での発言である。彼が、常に何を考えていたのかが垣間見えて、印象的であった。

その問答の記録の全文が以下のとおりである。
中村康二(ザ・タイムズ):天皇陛下のホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。
天皇:そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。

秋信利彦(中国放送):天皇陛下におうかがいいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲をムダにすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年とつごう三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、おうかがいいたしたいと思います。
天皇:原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。 

戦争責任を「言葉のアヤ」程度の問題と捉え、原爆投下を「戦争中のことですから、…やむを得ない」と言ってのけたのが、敗戦後も生き延びた帝王の見解。こんな人物の名において行われた戦争で、無数の人々が死に、数え切れない悲劇が生まれた。人間らしい感情を持たない鉄面皮な人、というのが彼に対する私の印象だった。

が、その印象とはやや異なる面もあったようだと本日の各紙が伝えている。

昭和天皇(裕仁)85歳時の心情吐露の新資料発掘の記事。「故小林忍侍従の日記」を共同通信の記者が入手し、これを記事にして配信したもの。各紙とも記事の内容は同じで、以下のとおり、見出しだけが多少異なっている。

「昭和天皇『戦争責任のことをいわれる』 侍従が発言記す」(朝日)
「晩年の昭和天皇吐露『戦争責任言われつらい』」(毎日)
「『長く生きても…戦争責任いわれる』 昭和天皇85歳 大戦苦悩」(東京新聞)
「戦争責任『言われつらい』 晩年の昭和天皇が吐露」(日経)?
「細く長く生きても仕方がない。戦争責任のことをいわれる」(産経)

 昭和天皇が85歳だった1987(昭和62)年4月に、戦争責任を巡る苦悩を漏らしたと元侍従の故小林忍氏の日記に記されていることが分かった。共同通信が22日までに日記を入手した。昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記述している。

 日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった。小林氏は昭和天皇の側近として長く務め、日記は昭和後半の重要史料といえる。

 87年4月7日の欄に「昨夕のこと」と記されており、昭和天皇がこの前日、住まいの皇居・吹上御所で、当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減策を検討していた。この年の2月には弟の高松宮に先立たれた。

 小林氏はその場で「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と励ました。
 
 既に公表されている先輩侍従の故卜部亮吾氏の日記にも、同じ4月7日に「長生きするとろくなことはないとか 小林侍従がおとりなしした」とつづられており、小林氏の記述と符合する。

 日記には昭和天皇がこの時期、具体的にいつ、誰から戦争責任を指摘されたのかについての記述はない。直近では、86年3月の衆院予算委員会で共産党の衆院議員だった故正森成二氏が「無謀な戦争を始めて日本を転覆寸前まで行かしたのは誰か」と天皇の責任を追及、これを否定する中曽根康弘首相と激しい論争が交わされた。88年12月には長崎市長だった故本島等氏が「天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、波紋を広げるなど晩年まで度々論争の的になった。

 昭和天皇は、87年4月29日に皇居・宮殿で行われた天皇誕生日の宴会で嘔吐し退席。この年の9月に手術をし、一時復調したが88年9月に吐血して再び倒れ、89年1月7日に亡くなった。

 小林氏は人事院出身。昭和天皇の侍従になった74年4月から、側近として務めた香淳皇后が亡くなる2000年6月までの26年間、ほぼ毎日日記をつづった。共同通信が遺族から日記を預かり、昭和史に詳しい作家の半藤一利氏とノンフィクション作家の保阪正康氏と共に分析した。
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以上の記事中にある、故正森成二の天皇の戦争責任追及の質疑は、天皇(裕仁)在位60周年祝賀行事の是非を巡っての論争である。該当部分の全文を引用しておきたい。

第104回国会 予算委員会 1986年3月8日(土曜日)午前9時開議(委員長 小渕恵三)

正森委員 次の質問に移ります。天皇在位六十年と恩赦の問題については、川俣委員がきょう午前中御質問になり、総理は明確に、恩赦は行わないということを答弁されましに。私どもはそれは当然のことであると考えております。
しかし総理は、我が党の不破議員の本会議答弁でも、あるいは松本議員に対する予算委員会の答弁でも、天皇在位六十年祝賀行事について、国民の自然の感情である、自然の感情を持たない人は不自然である、疑う方が不自然であるという旨の答弁をされております。私は、天皇の戦前二十年の地位と戦後四十年の地位というのは憲法上全く異なりますから、こういう理論的な問題を感情の問題にすりかえて事を行おうとするのは正しくないと考えております。けれども、もし国民の自然な感情と言われるなら、我々の方にも国民の自然な感情はどのようなものであったか、また現在あるかということについて申し上げなければなりません。
あの太平洋戦争が昭和十六年の十二月八日に始まりましたとき、私は中学校三年生の学生でありました。そのときに、我々は学校で宣戦の大詔を繰り返し読むことを教師から慫慂せられ、私どもはそれを暗記しました。現在、四十数年たった今でも、その大半は暗記しております。宣戦の大詔にはこう言っております。

 天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭二忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海将兵ハ全力ラ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家の総力ヲ挙ケデ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ

私は、四十数年たってもこの宣戦の大詔を覚えております。
そして我々の先輩は、
  海行かば水漬くかばね
  山行かば草むすかばね
  大君の辺にこそ死なめ
と言って戦争に行き、死んでいったのであります。だれ一人、東条総理大臣のために、その辺にこそ死なめと考えた者はありません。
これが総理、自然な感情であり、国民は皆、天皇の御命令だから戦い、天皇のために死んでいく、こう思って戦ったのではありませんか。これが自然な感情ではないですか。
中曽根内閣総理大臣 立憲君主制下における天皇は、やはり内閣総理大臣あるいは国会というようなもので決めたことについては、君臨すれども統治せずという考え方に基づいて、それに従っていかれたのである。天皇陛下はあくまで平和主義の方であられ、戦争を回避するために全面的にも努力をされたと国民は知っております。しかし、それを持っていったのは、当時の主として軍部の開戦派の連中が持っていった、そのことを国民は知っております。また、終戦に際しましても、陛下の御英断によって終戦がもたらされたということも記憶しております。そしてその後においても、全国をお回りになって傷ついた人たちを慰められた、あるいは食糧がなかったときにも、またマッカーサー元帥のところへ行って食糧を要請した、あるいは今回の戦争についてこれは自分の責任である、そういうことを言って、国民諸君についてはぜひその点を了承してほしいとおっしゃった。
この間、朝日新聞の何とか三太郎という漫画がありましたね。あのときの漫画を見て、あれは国民がそういうふうに考えているからああいう漫画が出てくるので、つまり、マルコスさんがフィリピンからハワイへ行かれたのと対比して、日本の天皇はマッカーサーに対して自分の責任である、そう言っておられたと、あれは、朝日新聞がああいう漫画を出したということは画期的なことではないかと私は見ておるのであります。
しかし、それだけそのように国民感情があるということなのであって、その陛下の六十年の御在位をお祝いをし、かつまた、今まで最も長い御在世の天皇であられたということをお祝いするということは最も自然な感情であって、それに逆らうということは、私は不自然であると今でもかたく信じてやまない。これを聞いている全国民の皆さんも、そのとおりであるとお考えになっていらっしゃると思います。

正森委員 総理はそういうように言われましたが、もちろん明治憲法下でも、総理以下国務大臣に輔弼の責任があったということはそのとおりであります。けれども、歴史の事実はそれ以上のものを示しております。総理あるいは法制局長官も御存じでありましょうが、その総理大臣を任命する人事権は、憲法上いかなる制約もなく天皇の任命によって行われたわけであります。近衛内閣の後、即時対米開戦を主張する東条陸相に組閣を命じたのもまた天皇ではないでしょうか。近衛氏でさえ、天皇が平和的対米交渉で頼りにならなかったと、次のように述べております。これは、「敗戦日本の内側――近衛公の思い出」と題する時の内閣書記官長富田健治氏の著書であります。

 それから陛下のことだが、陛下は勿論、平和主義で、飽く迄戦争を避けたい御気持であったことは間違いないが、自分が総理大臣として陛下に、今日、開戦の不利なることを申し上げると、それに賛成されていたのに、明日御前に出ると「昨日あんなにおまえは言っていたが、それ程心配することもないよ」と仰せられて、少し戦争の方へ寄って行かれる。又次回にはもっと戦争論の方に寄っておられる。つまり陸海の統帥部の人達の意見がはいって、軍のことは総理大臣には解らない。自分の方が詳しいという御心持のように思われた。従って統帥について何ら権限のない総理大臣として、唯一の頼みの綱の陛下がこれではとても頑張りようがない。(中略)こういう状態では自分の手の施しようもなかったのだ
こう言っています。

 あるいはここに「近衛文麿」という伝記を持ってまいりました。これは近衛文麿伝記編纂刊行会のあらわしたものであります。そこには、近衛内閣が辞表を提出したときに陛下にこのことを率直に訴えだということが、辞表の中に載っております。

 然るに最近に至り、東条陸軍大臣は、右交渉はその所望時期(概ね十月中――下旬)までには、到底成立の望みなしと判断し、乃ち本年九月六日御前会議の議を経て、勅裁を仰ぎたる「帝国国策遂行要領」中、三の「我要求を貫徹し得る目途なき」場合と認め、今や対米開戦を用意すべき時期に到達せりと為すに至れり。(中略)国連の発展を望まば、寧ろ今日こそ大いに伸びんが為に善く屈し、国民をして臥薪嘗胆、益々君国のために邁進せしむるを以て、最も時宜を得たるものなりと信じ、臣は衷情を披瀝して、東条陸軍大臣を説得すべく努力したり。
? 之に対し陸軍大臣は、総理大臣の苦心と衷情とは深く諒とする所なるも、(中略)時期を失せず此の際、開戦に同意すべきことを主張して己まず、懇談四度に及びたるも、終に同意せしむるに至らず。
? 是に於て臣は遂に、所信を貫徹して、輔弼の重責を完うすること能わざるに至れり。是れ偏えに臣が非才の致す所にして、洵に恐懼の至りに堪えず。仰ぎ願はくは聖慮を垂れ結い、臣が重職を解き給わんことを。臣文麿、誠惶誠忠謹みて奏す。
こう言って辞任をしております。

 それにもかかわらず、この戦争を主張する東条内閣総理大臣に対して組閣の大命を下したのは、何物にも人事権を制約されない天皇ではありませんか。
あるいはまた総理は、戦争が終わったのは天皇の御意思によって行われた、だからあの朝日新聞の漫画のようなことになるのだ、こう言われました。けれども、これもまた史実に反します。例えば「終戦史録」の重光文書というのがあります。その重光文書を見ますと、

 結局、時機到来を見極めて天皇の絶対の命令(鶴の一声と当時吾々はこれをいっていた。)として終戦を行うの外に途はない。

あるいは「近衛日記」の十五ページを見ますと、

 いよいよ戦争中止と決定せる場合は、陸海官民の責任の塗り合を防止するため陛下が全部御自身の御責任なることを明らかになさせらるる必要ある事。

 こういうぐあいになっております。ほかにも文献があります。
つまり、天皇は決して開戦において平和主義者でなく、戦争終結においても、天皇が聖断を下されたというのは、一年も前から宮中あるいは外務大臣あるいは元老が、そういうようにしなければ軍部が反乱を起こしてまとまらないというようになっていた筋書きに基づいて行われたのであって、それのみをもって陛下が平和主義者であるというようなことは、私は断じて言えないのではないかというように言わざるを得ません。
総理、私はあなたが、国民全体の意思であり、我々のような主張は不自然であると言われましたが、そうではありません。戦争で被災し、夫や子供を死なせた国民は、政府だけでなく、天皇についても感情を持ちました。近衛文麿が昭和二十年七月十二日、宮中で天皇に会ったときに、天皇みずからこれを認めております。(発言する者あり)
○小渕委員長 御静粛に願います。
正森委員 例えば、七月十二日に近衛文麿氏がソ連へ和平のための使節に行くことを天皇に話し合ったとき、近衛文麿が、「『今や皇室をお怨み申上げる事態にさえなって居ります』と申上げたるところ、全く御同感にあらせられた。」つまり天皇も、国民が恨みに思っておる、こういうことに同感されたということが、歴史の事実として明白に載っているわけであります。
だからこそ、戦争が終わったとき、南原繁東大総長は、天皇退位を国民感情とし、「私は天皇は退位すべきであると思う、これは私一人ではなく全国の小学教員から大学教授に至るまでの共通意見となっている、」昭和二十三年六月十三日、これは朝日新聞であります。
あるいは昭和二十三年の五月十六日の週刊朝日では、当時の三淵最高裁判所長官も週刊朝日の誌上で、「終戦当時陛下は何故に自らを責める詔勅をお出しにならなかったか、ということを非常に遺憾に思う。」こう述べ、佐々木惣一法学博士は、「まったくそうだ。」こういうように言っています。そして、三淵長官は、「公人としては自分の思慮をもって進退去就を決するわけにはいかないんだ。」「だけど、自らを責めることは妨げられない。だから、自分の不徳のいたすところ、不明のいたすところ、国民にかくの如き苦労をかけたということを、痛烈にお責めになれば、よほど違ったろうと思う」、こういうように最高裁長官が言っております。これが国民の自然な感情ではないでしょうか。
私どもは、こういう感情を無視して、戦前の二十年と戦後の四十年を無視して天皇の在位六十年を祝う、いわんや恩赦を行うなどということはもってのほかであると思います。恩赦については、総理はこれをしないということを明言されました。私どもは、在位六十年の記念行事についても、これを中止されることを心から総理に希望したいと思います。御答弁を願います。
中曽根内閣総理大臣 今のお話を聞いておりまして、共産党はそういう考えを持っているのかと今感じた次第でございます。大部分の国民の考えていることとはまるきり違うことを考えているということを発見いたしました。
当時の歴史でも明らかになっておりますが、開戦前におきましては、陸軍を抑えられる者でなければこの戦争を回避することはできない、そういう木戸さん等の助言があって、陸軍の一番の統率力があったと言われている東条氏を首相に任命して戦争回避を最後に考えられた、そういうことが言われておる。あるいは近衛・ルーズベルト会談を行って戦争回避をしようと一番期待して、まだ行われないのかまだ行われないかと言われておったのが陛下である、そういう記録も残っております。終戦に際しましては、軍部のあのような一部の過激な連中からいかに重臣を守りつつ、そして和平に順調に持っていこうかということをお考えになって、鈴木貫太郎氏を総理大臣に任命した。鈴木貫太郎氏を任命したのは、終戦を行うために陛下がおやりになったことです。そして、あうんの呼吸であの終戦をおやりになったという厳然たる事実があります。
そういう諸般のことを考えれば、一貫して陛下は平和主義者であって、この戦争を回避されるために最後まで努力をした。しかし、やはり当時は立憲君主制のもとにありまして、総理大臣の輔弼することについては、大体君臨すれども統治せずという原則でいかれた。そういうことで、しかし国が滅亡するという危機に瀕しては、御聖断を発せられた。そういうことで今日の日本があり得るんだと私は確信してやまない。そういう国民の大多数の考えを無視して、あえて異を立てるというものは、国家を転覆するという気持ちを持っておる人でないと出てこないのではないかとすら私は疑うのであります。そういう疑いを国民は持ってあろうということを私は申し上げたいのであります。

正森委員 国家を転覆する疑いがあるなどと言いますが、あの無謀な戦争を始めて、事実上我が国民を塗炭の苦しみに陥れ、日本の国そのものを転覆寸前まで行かしたのは一体だれですか。それに対して、死刑も牢獄も恐れずに、断固として反対して平和を守り抜いたのは一体どの党ですか。それは自民党の教科書さえ、だから共産党は他の党にない権威を持っていたと書いているじゃないですか。
私どもは、時間が参りましたので、これで終わりますが……(発言する者あり)いろいろ当事者間の発言以外に発言するのではなく、お互いに本当に日本国家の将来のためにも、天皇の在位六十年について歴史を真剣に考えてみる必要があると思います。
私の質問を終わります。
○中曽根内閣総理大臣 正森君、御答弁を申し上げますが、ともかく大部分の……(発言する者あり)
○小渕委員長 御静粛に願います。
中曽根内閣総理大臣 大部分の国民は、大多数の国民は、この二千年に近い伝統と歴史と文化を持っておる日本の国を愛惜し、そしてその一つの中心であった日本の天皇制というものを守っていきたい、それでそのためにあの終戦、あるいは終戦後みんな努力して天皇制を守ろうということで、今日日本があるわけであります。あのときに天皇制を破壊しよう、あるいは天皇制というものをこれで廃絶しようと考えたのは共産党でしょう。今でも共産党でしょう。しかし、そういうような国民はほんのわずかであって、それは絶無とは言いません。しかし大多数の、もう九九%の国民、九九%に近い国民は、やはり二千年近いこの伝統と文化を持っておる日本、及び天皇を中心に生きてきた日本のこの歴史とそれから我々の生活を守っていこうと考えておる。これは戦争に勝っても負けても、一貫して流れてきている氏族の大きな太い流れであります。私は、その流れを大事にしてきているがゆえに、今日の日本の繁栄があると思っておる。この繁栄がどこから来ているかということを考えれば、そういう国民の団結心にある。もしマルクス共産主義によって日本が支配されておったら、今日本はどうなっておるであろうか。これだけの繁栄があり得るであろうか。あるいはどこかの国の衛星国になっているのではないかとすら我々は考えざるを得ない。そのことをよくお考え願いたい、また御反省も願いたいと思うのであります。

正森委員 委員長、委員長。
○小渕委員長 時間でございますので、論議は尽きないと思いますが、これにて質疑を終わらしていただきたいと思います。
正森委員 私が終わると言っておるその後から、私が終わると言ってから総理が五分間も答弁したじゃないか。それに対して言うのは当たり前じゃないか。そんな不公平なことがあるか。
○小渕委員長 質疑者、委員長は、論議は尽きないとは思いますが、時間が参りましたので、以上をもって質疑を終わっていただきたいと思います。
これにて正森君の質疑は終了いたしました。
これにて締めくくり総括質疑は終了いたしました。
以上をもちまして、昭和六十一年度予算三案に対する質疑はすべて終了いたしました。

正森成二は先輩筋の弁護士である。その論理と気迫を見習いたいと思う。
(2018年8月23日)

日本国憲法は、敗戦を契機に不再戦の決意から生まれた。

本日(8月15日)は73回目の「敗戦の日」。私には、「終戦の日」でもさしたる違和感はない。韓国では「光復節」という祝日。北朝鮮では「祖国解放記念日」だそうだ。

政府の呼称に従えば、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」。恒例の政府主催全国戦没者追悼式が日本武道館で開かれた。全国から参集した遺族約5500人が、国内の戦争犠牲者310万人を悼んだ。軍人・軍属だけの戦死者だけでなく、民間人の犠牲者も対象にする追悼式だが、残念ながら加害責任についての問題意識はない。

「1993年の細川護熙氏以降、歴代首相は式辞でアジア諸国への加害責任に触れ、『深い反省』や『哀悼の意』などを表明してきたが、安倍首相は第2次政権発足後、6年連続で加害責任に言及しなかった(朝日)」と報じられている。

日本国憲法は、まぎれもなく敗戦を契機に、再び戦争の惨禍を繰り返さぬ決意を以て制定された。あの戦争をどうかえりみるか、悲惨な戦争をもたらした戦前の体制の欠陥をどうみるか。戦争の惨禍の記憶から何をどう反省したのか。本日は、それを再確認すべき日である。戦没者追悼式は、それにふさわしいものであっただろうか。

安倍首相の式辞全文は以下のとおり。

 天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表、多数のご列席を得て、全国戦没者追悼式をここに挙行いたします。

 苛烈を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に斃れた御霊、戦禍に遭い、あるいは戦後、遠い異郷の地で亡くなった御霊、いまその御前にあって、御霊安かれと心よりお祈り申し上げます。

 今日の平和と繁栄が、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを私たちは片時たりとも忘れません。改めて衷心より敬意と感謝の念を捧げます。

 未だ帰還を果たしていない多くのご遺骨のことも脳裡から離れることはありません。一日も早くふるさとに戻られるよう全力を尽くしてまいります。

 戦後、我が国は平和を重んじる国として、ただ、ひたすらに歩んでまいりました。世界をより良い場とするため、力を尽くしてまいりました。

 戦争の惨禍を二度と繰り返さない。歴史と謙虚に向き合い、どのような世にあっても、この決然たる誓いを貫いてまいります。争いの温床となる様々な課題に真摯に取り組み、万人が心豊かに暮らせる世の中を実現する、そのことに不断の努力を重ねてまいります。今を生きる世代、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓いてまいります。

 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を心よりお祈りし、式辞といたします。

幾つかの感想を述べておきたい。
天皇皇后には「ご臨席を仰ぎ」と最大限敬語を使い、主役であるはずの国民(遺族)については「ご列席を得て」。国民主権の今の世にこれでよいのか。言葉遣いに、もっと工夫があってしかるべきだろう。

首相式辞には、御霊(みたま)が4度出てくる。
「…亡くなった御霊(みたま)、いまその御前(みまえ)にあって、御霊(みたま)安かれと心よりお祈り申し上げます」。まるで、靖国神社の祝詞ではないか。耳障りであるし、宗教色を払拭するよう、意識的な批判が必要だと思う。

「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。歴史と謙虚に向き合い、どのような世にあっても、この決然たる誓いを貫いてまいります。争いの温床となる様々な課題に真摯に取り組み、万人が心豊かに暮らせる世の中を実現する、そのことに不断の努力を重ねてまいります。今を生きる世代、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓いてまいります。」は、具体性はともかく、まことにそのとおりだと思う。

この文章の内容にまったくふさわしからぬ人物が朗読していることが悲しい。この人には、「歴史と謙虚に向き合え」「あらゆる差別をなくせ」「格差と貧困をなくす政治を志せ」「近隣諸国との緊張を煽るな」「老にも幼きにも十分な福祉政策を」、そして「9条改憲の策謀をやめよ」と言わねばならない。

「今日の平和と繁栄が、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを私たちは片時たりとも忘れません。」は、常套句だが違和感を抑えることができない。戦死は、あるいは戦没は、はたして「尊い犠牲」だったのだろうか。圧倒的多数の戦死は、「強いられた、悲惨な死」であったはずではないか。遺族への慰めとなる美辞麗句を探して「強いられた、悲惨な死」を美化することで、この死をもたらした者の責任を糊塗する意図が透けて見えるように思える。

式典での天皇の追悼文は、以下のとおり。
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来既に73年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

昨年に続いての、天皇の「深い反省」に注目せざるを得ない。「誰が」、「何を」「どのように」反省しているのか、である。
「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願(う)」という文脈なのだから、「深い反省」は「過去を顧み」てのものである。しかも、その過去とは、「戦後の長きにわたる平和な歳月」に対比されるもので、「今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬ」切なる願いを伴うものでもある。

平和ならざる、戦争の惨禍が繰り返された、軍国主義・侵略主義が横行した野蛮な時代。天皇の命令で臣民が徴兵され、上官の命令は天皇の命令として「強いられた、悲惨な死」を余儀なくされた、その「過去を顧み」て、現天皇が「深い反省」と言っているのだ。

さて、当然のことながら、「深い反省」には「深い責任」がともなうことになる。この点が、「どのように」反省しているのかという問題である。この短い式辞では窺い知ることができない。現天皇にとっては最後の戦没者追悼式。これを知る機会は、もうなかろう。
(2018年8月15日)

真夏の真昼時、暑いさなかの平和を守ろうという熱いアピールです。

ご近所の皆様、ここ本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま。こちらは平和憲法を守ろうという一点で連帯した行動を続けています「本郷・湯島九条の会」です。私は近所に住む者で、憲法の理念を大切にし、人権を擁護する立場で、弁護士として仕事をしています。
真夏の真昼時、暑いさなかですが、平和を守ろう、憲法9条を大切にしようという熱い訴えに、少しの時間耳をお貸しください。

73年前の今日、1945年8月14日午前10時に千代田区内某所で「特別御前会議」なる戦争指導者全員が参集した会議が開かれ、その席でポツダム宣言受諾を決定しました。そしてこの日、天皇(裕仁)の名で連合国(米・英・中・ソ)にその旨を通告し、法的には日中戦争・太平洋戦争が日本の無条件降伏で終了しました。調印式が9月2日横浜沖のミズーリ号上で行われたのは、ご存じのとおりです。既に、ムソリーニは虐殺され、ヒトラーは自殺して、イタリア・ドイツは敗北していましたから、最後の枢軸国日本の敗戦は、第2次大戦の終了でもありました。

そして、翌8月15日正午、天皇が読み上げた「大東亜戦争終結に関する詔書」の録音がNHKのラジオで放送されて、国民に敗戦を知らせました。国力を傾け尽くし、310万人の自国民死者と、2000万人にも及ぶ近隣諸国の犠牲者を出した末に、ようやくにして悲惨な侵略戦争は終わりました。

8月15日正午の天皇の放送は、1億国民からさまざまな思いで受けとられ、さまざまな記録が残されています。名古屋の武田徳三郎さんと志津さん夫妻の場合はこうでした。

夫妻の息子二人は、学徒動員で軍需工場に働いていましたが、名古屋の大空襲で、二人とも亡くなりました。夫妻は、必死になって、夜昼となく遺体を探しますが、ついに肉のカケラも服の端切れさえ見つからなかった。80キロあった徳三郎さんの体重は50キロまで減ったということです。「死のう」「いや、ワシらが死ねば、弔いをする者がなくなる」と思う日々が続いて、8月15日を迎えます―。

天皇陛下の玉音放送があった。「一億玉砕」とばかり信じていた。…だが、四球のラジオから流れる玉音は、ザァザァという雑音の中で無条件降伏を伝えた。…「そんなバカな! 手をあげてやめられる戦争なら、なぜもっと早くやめてくれなんだ。陛下さま、ワシの息子らは、これで犬死になってしもうたがや―」徳三郎さんは泣き崩れた。(毎日新聞社編『名古屋大空襲』)

これを引用した近代史研究者の色川大吉は、1975年にこう書いています。
私はこの部分を天皇(註・裕仁)に読んでもらいたいと思う。「手をあげてやめられる戦争なら、なぜもっと早くやめてくれなんだ!」 この悲痛な叫びは、ポツダム宣言の受諾をめぐって天皇制の存続を条件にグズグズ日を延ばしていたあいだにも、50万人以上の民衆を殺し、徳三郎さん夫妻のような、もはや永久に救われない運命を負った庶民を無数に生み出してしまったのである。

無数の悲劇を重ねて、長い長い戦争が終わりました。再び、この戦争の惨禍を繰り返してはならない。多くの人々の切実な思いが、平和憲法に結実しました。とりわけその9条が、再びの戦争を起こさないという国民の決意であり、近隣諸国への誓約でもあります。

大日本帝国憲法は戦争を当然の政策と考え、軍隊の組織編成や、国民を戦争に動員する手続を定めています。戦争を抑制しようという憲法ではなく、主権者である天皇の名による戦争を煽った憲法と言ってもよいと思います。きっぱりとこの好戦憲法は捨て去られ、平和憲法が採択されました。

日本国憲法は、戦争を放棄し戦力を保持しないことを憲法に明確に書き込みました。それだけではなく、この憲法には一切戦争や軍隊に関わる規定がありません。9条だけでなく、全条文が徹頭徹尾平和憲法なのです。戦争という政策の選択肢を持たない憲法。権力者が、武力の行使や戦争に訴えることのないよう歯止めを掛けている憲法。それこそが平和憲法なのです。

ところが、歴代の保守政権は、この憲法が嫌いなのです。とりわけ、安倍政権は憲法に従わなければならない立場にありながら、日本国憲法が大嫌い。中でも9条を変えたくて仕方がないのです。

彼が言う「戦後レジームからの脱却」「日本を、取り戻す」とは、日本国憲法の総体を敵視するという宣言にほかなりません。「戦後」とは、1945年敗戦以前の「戦前」を否定して確認された普遍的な理念です。人権尊重であり、国民主権であり、議会制民主主義であり、なによりも平和を意味します。戦後民主主義、戦後平和、戦後教育、戦後憲法等々。戦前を否定しての価値判断にほかなりません。安倍首相は、これを再否定して「戦前にあったはずの美しい日本」を取り戻そうというのです。

戦後73年、日本国憲法施行以来71年、国民は日本国憲法を護り抜いてきました。それは平和を守り抜くことでもありました。そうすることで、この憲法を自らの血肉としてきました。平和は、憲法の条文を護るだけでは実現できません。国民の意識や運動と一体になってはじめて、憲法の理念が現実のものとして生きてきます。平和憲法をその改悪のたくらみから護り抜き、これを活用することによって恒久の平和を大切にしたいと思います。

そのため、安倍9条改憲を阻止して、「戦後レジームからの脱却」などというふざけたスローガンを克服して行こうではありませんか。夏、8月、暑いさなかですが、そのような思いを新たにすべきとき。憲法9条と平和を大切にしようという訴えに、耳をお貸しいただき、ありがとうございました。
(2018年8月14日)

石破茂の天皇教信仰告白

自民党総裁選とは、政権与党のトップ人事というだけでなく、事実上の次期首相予備選挙である。コップの中の争いとして無関心でいることはできない。そこで何が争われているのか、とりわけ憲法問題がどのように論じられているのかに、耳を傾けざるを得ない。

三選を目指すアベに対抗して、石破茂が立候補を表明し、両候補の一騎打ちとなるだろうとの報道である。願わくは、両候補に、自民党支持者だけにではなく、国民にとって傾聴に対する論戦を期待したいところだが、無いものねだりだろうか。

論戦の内容は、【政治姿勢】(ないしは政治手法)と【政策】の両面において行われることになる。この事態である。国民から「嘘つき」「人柄が信頼できない」「国政私物化」「行政を歪めた」「隠蔽・改ざん体質」「忖度政治横行」…デンデンと、ミゾユウの政治不信を肥大化させてきたアベ政治の政治姿勢が問われざるを得ない。

だから、石破第一声のキャッチフレーズが、「正直、公正、石破茂」である。「国民と正面から向き合い、公正で正直、そして丁寧な、信頼される政治が必要なのだと信じます」ともいう。もちろん、「嘘つき、隠蔽、アベ政治」を意識しての批判である。「アベ政治は、国民と正面から向き合おうとはせず、オトモダチ優遇の国政私物化に堕しており、不公正で欺瞞と隠蔽に満ち、ごまかしと取り繕いによって、いまや国民からの信頼を失っている」との含意にほかならない。まことにそのとおりではないか。

政策での対決よりは、アベ一強の驕慢、国政私物化の政治姿勢批判が前面に出ている。自民党という不可思議な柔軟体は、これまで国民の信頼を失いそうになると、その批判勢力がトップの座を襲って国民からの信頼を繋いできた。

自民党が再生して永らえるためには、おそらくは石破の当選が望ましいのだろう。それが自民党の自浄能力を示すことになろうが、大方の予想はそれは非現実的だという。つまりは、自民党に自浄能力などないことを証明する総裁選となるということなのだ。

ところで、石破茂とは何者か。憲法にしても、国防問題にしても、タカ派のイメージが強すぎるが、さらに遡って彼の政治家としての感性の基盤はどこにあるのだろうか。「石破茂オフィシャルサイト」にアクセスして驚いた。天皇陛下の ご生前ご譲位についてと題する石破の天皇観・皇室観がよく表れている文章。戦前の保守政治家と変わるところはない。この点は、アベと石破、右の位置を競い合って、兄たりがたく弟たりがたし。丙・丁つけがたい。かなり長い文章だが、彼の感性を表す冒頭だけを抜粋引用しておきたい。

平成29年1月31日 衆議院議員 石破 茂

亡父・石破二朗は生前、先帝陛下のことを「石破二朗個人として誇り得るこれだけの方はいない」と語っていた。昭和11年10月17日、北海道において実施された大演習に山形県地方警視として消防団を引率して参加した際、霙降る中、長時間微動だにされず演習をご覧になっておられた先帝陛下のお姿に深い感銘を受けてからのことという。
 私自身亡父から「天皇陛下を敬え」と言われたことは一度もなかったが、幼少の頃から「旗日(国民の祝日)に朝一番に玄関に国旗を掲げるのは子供の仕事」と躾けられ、自然に天皇陛下ならびに皇室に崇敬の念を抱くようになっていたように思う。
 昭和61年7月に衆議院に議席を頂いてからその気持ちはさらに強くなった。昭和天皇崩御を告げる竹下総理の勤話を、地元での新年会出席のため夜行列車を降り立った倉吉駅のホームに流れる構内放送で聞き、東京へ取って返す列車の中で号外を読みながら涙が止まらなかった。

 平成21年6月、全国植樹祭にご臨席のため福井県を訪問された陛下は、前夜のレセプションにもお出ましになった。植樹に功労のあった福井県の林業関係者やボーイスカウトなど諸団体の人々が陛下にご挨拶すべく、御前に長い列を作ったのだが、陛下はそのー人一人に、丁寧にお言葉をおかけになっておられた。農林水産大臣として陪席していた私は侍従を通じて、どうかお椅子をお使いくださるよう申し上げたのだが、陛下は微笑されたまま、最後の一人まで、予定の刻限を超えてもお心を込めてご対応になられた。私は自分の浅はかさを心から恥じたことであった。

 「日本国の象徴」であるだけなら富士山や桜の花のように存在そのものに意義もあろう。しかし今上陛下は「日本国民統合の象徴」たりうるために、積極的・能動的に、地域、年齢、思想信条などあらゆる相違を問われることなく、すべての日本国民に等しく対応され、そしてすべての国に等しく対応されるという、普通の者には決して為しえない、想像を絶する責務を自らに課され、おことば(正式名は「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」)の中でそれを「幸せなことでした」とまで仰せになられた。ひたすら恐懼し、自らの思いが足りなかったことをただ悔いる他はない。

 この(生前退位)問題は、先人たちが生命に代えても護ろうどしてきた日本国の国体そのものに関わることであるいつの間にか国民は、天皇陛下のご存在を当たり前のものとして考えるようになってしまったのではあるまいか。平和がそうであるように、大切なもの、貴重なものは不断の努力なくして維持できるものではない。その大切さを忘れ、護る努力を怠った時、消えてなくなってしまうものであることと、残された時間は長くはないことに我々は深い怖れと強い危機感を持たねばならない。

これには驚ろかざるを得ない。人類が普遍的なものと確認したグローバルな到達点とあまりにもかけ離れた認識。「日本国の国体そのもの」が平和と同格の大切なもの貴重なものというのだ。およそ、理性や知性ある人間の言葉ではない。主権者としての自覚をもつ国民の声でもない。天皇制が、いかなる意図で作られ、いかなる役割を果たし、いまその残滓がどのような政治的機能を有しているかについての歴史的な考察を抜きにした、ひたすらの天皇礼賛。偏頗とか平衡感覚を欠いたなどというレベルではない。憲法のコアの理念に理解なく、大日本帝国憲法時代と変わらない天皇教の信仰にどっぷり浸かった精神構造を吐露している。オウム信徒並みの、教祖への信仰告白と評するほかはない。

欺瞞に満ちたアベ政治の対抗馬が、天皇教の信者なのだ。推して知るべし、自民党に未来はなかろう。
(2018年8月12日)

正木ひろしが語る「家畜主義帝国」の牛馬羊豚の思想

昨日に引き続いて、下記は正木ひろしの一文。孫引きだが、正木の死後に編まれた『正木ひろし著作集』(1983年・三省堂)第4巻に所収のもの。書かれたのは1945年11月3日、明治節の日だという。天皇制批判の一文ではあるが、天皇そのものの批判ではなく、天皇制を支えてきた民衆の意識に対する痛烈な批判である。そして、後半に、官吏・職業軍人・御用学者等の天皇制の走狗への批判が付け加えられている。

正木は、天皇制日本を家畜主義帝国と揶揄し、天皇を家畜主、民衆を牛馬羊豚に喩えている。そして、その中間にある番犬層の存在とその役割の大きさを語っている。

私はこの十数年間日本人を観察した結果、日本人の大部分は既に家畜化していることを発見した。人間の家畜化ーそれを諷刺的に書いた前記の東京新聞の文章を再録すれば

家畜の精神(1945年10月8日)
家畜と野生の動物との相違点は、外形ではなく、その思想、その精神であると云ったら、人は変に思ふかも知れないが、家畜は立派な思想家であり、精神家なのである
1.野生の動物は、之を捕へて柵の中に入れて置いても、絶えず自由を求めて埒外へ出ようとするが、家畜は、与へられた自由の範囲に満足し、決して之より出ようとしない。出ようとする試みが、如何に恐ろしい鞭に値するかを知っている。即ち家畜は、反自由主義の思想家である
2.野生の動物は、なにびとにも所有されない自主的の動物であるが、家畜は恒に自己の所有者の厳存することを、半ば遺伝的に知っている。即ち家畜は祖先伝来の反民主主義者だ
3.野生の動物は、餌を与へんとする人間にすら刃向って来るが、家畜は残忍無比な所有者に、如何に虐待されても決して抵抗しない。そしてまた、如何に重い荷を背負はされても、之を振り落さうともしないし、怨みも抱かない。即ち家畜は、無限の忍耐心を持つ無抵抗主義者であり、大義名分をわきまへたる精神家である
4.野生の動物は、決して無意味な争闘は開始しないが、家畜は錬成によって、何の怨みも無い同類と死闘する。闘犬、闘牛、闘鶏はその例だ.「武士道とは死ぬことと見つけたり」といふ葉隠精神を、最もよく不言実行するのは日本犬である

この文章は、600字を以て書き上げねばならなかったので、大事なことが抜けている。それは家畜主義帝国に於ける番犬の位置についてである。死んで食用に供されるか、死ぬまで働いて奉仕するか、何れにせよ家畜主に生命を捧げることによって使命を果たし、それによって家族主義的の生活を保証されている牛馬羊豚的の民衆に対し、官吏・職業軍人・御用学者等は番犬的の存在である。番犬は牛馬を守護するがそれは牛馬の為に守護するのでなく、家畜主の為に牛馬を守護し、之を錬成し、大御宝として保存するのである。官吏は天皇陛下の官吏であり、軍は天皇の股肱であるが、民衆は民草である。民主主義国に於ては、官吏も軍人も民衆の為の番犬であり、公僕であって決して上下の階級ではない。然るに家畜主義国に於ては、政府はお上であり、上意下達、下情上通の段階に置かれる

従って、徹底せる家畜主義帝国における番犬の位地は、非常に魅力的である。何となれば、如何に下僚と雖も、民衆に対し、家畜に対する如き優越感情を持ち、且つ下賤なる労役や日々の生活の為の不安を免かれるのが原則だからである。人間が家畜を使用するに至ったことは人間としての進化であり、未開国に於ては、その所有する家畜の数によって社会的の尊卑が定められるほどだ。況んや最も有能なる人間を家畜として監督する位置に立つことが、如何に人生享楽として上乗なものであるかを考へよ

欧米文明諸国に於ては、人間を大御宝とする代りに、自然力を生活享楽化の資源とする段階にまで進化した。日本が人間の肉体的エネルギーを極度に発揮させるために、青少年に禁欲主義を説き、死の讚美を鼓吹し古人の歌を訓へ、天皇の名による機械的服従を強迫観念にまで培養せんと努力していた時、米国では科学者をして原子爆弾を研究せしめていたことは、進化論的に見て真に極端な対比である

日本の番犬階級が如何に無知無能であり、天皇は単に看板にしたる利己的な存在であったかは、戦前から終戦に至る経緯が最も之を雄弁に物語っている

この戦争が、その目的の不分明にして矛盾し、その方法が拙劣にして不真面目なりしに拘はらず一億国民を玉砕の瀬戸際までひっぱって行った所以のものは、日本の国体がこの番犬の繁殖に最も適したからである。而して明治維新以来、牛馬階級がたやすく番犬階級に躍進できる様になったため、番犬道が堕落し、今日の如き刹那的、不道徳的にして且つ無謀なる戦争が始まったのである。国体明徴論者の一派は、この番犬的存在を除去したる肇国の精神に基く大家族的国体を夢想しているが、それは歴史を逆行することが出来ぬ故に無理なる注文である

今や職を奪はれんとする番犬が狂犬となり、職を奪はれた番犬が野犬となって、国体護持に狂奔するであらう

終戦直後のこの立論に表れた憂いが、今もなお克服されていない。民衆は、相変わらず、「反自由主義の思想家」で、「祖先伝来の反民主主義者」「無限の忍耐心を持つ無抵抗主義者」でもあり、場合によっては「怨みも無い同類と死闘させられる」存在でもあるように見える。番犬階級の無知無能・無軌道はここに極まれりで、民衆は狂犬・アベをだに追い払うことを得ない。

そして、最大の疑問である。この家畜主義帝国の真の主はいったい誰なのだろうか。
(2018年8月8日)

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