日本国憲法は、敗戦を契機に不再戦の決意から生まれた。
本日(8月15日)は73回目の「敗戦の日」。私には、「終戦の日」でもさしたる違和感はない。韓国では「光復節」という祝日。北朝鮮では「祖国解放記念日」だそうだ。
政府の呼称に従えば、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」。恒例の政府主催全国戦没者追悼式が日本武道館で開かれた。全国から参集した遺族約5500人が、国内の戦争犠牲者310万人を悼んだ。軍人・軍属だけの戦死者だけでなく、民間人の犠牲者も対象にする追悼式だが、残念ながら加害責任についての問題意識はない。
「1993年の細川護熙氏以降、歴代首相は式辞でアジア諸国への加害責任に触れ、『深い反省』や『哀悼の意』などを表明してきたが、安倍首相は第2次政権発足後、6年連続で加害責任に言及しなかった(朝日)」と報じられている。
日本国憲法は、まぎれもなく敗戦を契機に、再び戦争の惨禍を繰り返さぬ決意を以て制定された。あの戦争をどうかえりみるか、悲惨な戦争をもたらした戦前の体制の欠陥をどうみるか。戦争の惨禍の記憶から何をどう反省したのか。本日は、それを再確認すべき日である。戦没者追悼式は、それにふさわしいものであっただろうか。
安倍首相の式辞全文は以下のとおり。
天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表、多数のご列席を得て、全国戦没者追悼式をここに挙行いたします。
苛烈を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に斃れた御霊、戦禍に遭い、あるいは戦後、遠い異郷の地で亡くなった御霊、いまその御前にあって、御霊安かれと心よりお祈り申し上げます。
今日の平和と繁栄が、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを私たちは片時たりとも忘れません。改めて衷心より敬意と感謝の念を捧げます。
未だ帰還を果たしていない多くのご遺骨のことも脳裡から離れることはありません。一日も早くふるさとに戻られるよう全力を尽くしてまいります。
戦後、我が国は平和を重んじる国として、ただ、ひたすらに歩んでまいりました。世界をより良い場とするため、力を尽くしてまいりました。
戦争の惨禍を二度と繰り返さない。歴史と謙虚に向き合い、どのような世にあっても、この決然たる誓いを貫いてまいります。争いの温床となる様々な課題に真摯に取り組み、万人が心豊かに暮らせる世の中を実現する、そのことに不断の努力を重ねてまいります。今を生きる世代、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓いてまいります。
終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を心よりお祈りし、式辞といたします。
幾つかの感想を述べておきたい。
天皇皇后には「ご臨席を仰ぎ」と最大限敬語を使い、主役であるはずの国民(遺族)については「ご列席を得て」。国民主権の今の世にこれでよいのか。言葉遣いに、もっと工夫があってしかるべきだろう。
首相式辞には、御霊(みたま)が4度出てくる。
「…亡くなった御霊(みたま)、いまその御前(みまえ)にあって、御霊(みたま)安かれと心よりお祈り申し上げます」。まるで、靖国神社の祝詞ではないか。耳障りであるし、宗教色を払拭するよう、意識的な批判が必要だと思う。
「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。歴史と謙虚に向き合い、どのような世にあっても、この決然たる誓いを貫いてまいります。争いの温床となる様々な課題に真摯に取り組み、万人が心豊かに暮らせる世の中を実現する、そのことに不断の努力を重ねてまいります。今を生きる世代、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓いてまいります。」は、具体性はともかく、まことにそのとおりだと思う。
この文章の内容にまったくふさわしからぬ人物が朗読していることが悲しい。この人には、「歴史と謙虚に向き合え」「あらゆる差別をなくせ」「格差と貧困をなくす政治を志せ」「近隣諸国との緊張を煽るな」「老にも幼きにも十分な福祉政策を」、そして「9条改憲の策謀をやめよ」と言わねばならない。
「今日の平和と繁栄が、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを私たちは片時たりとも忘れません。」は、常套句だが違和感を抑えることができない。戦死は、あるいは戦没は、はたして「尊い犠牲」だったのだろうか。圧倒的多数の戦死は、「強いられた、悲惨な死」であったはずではないか。遺族への慰めとなる美辞麗句を探して「強いられた、悲惨な死」を美化することで、この死をもたらした者の責任を糊塗する意図が透けて見えるように思える。
式典での天皇の追悼文は、以下のとおり。
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来既に73年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。
昨年に続いての、天皇の「深い反省」に注目せざるを得ない。「誰が」、「何を」「どのように」反省しているのか、である。
「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願(う)」という文脈なのだから、「深い反省」は「過去を顧み」てのものである。しかも、その過去とは、「戦後の長きにわたる平和な歳月」に対比されるもので、「今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬ」切なる願いを伴うものでもある。
平和ならざる、戦争の惨禍が繰り返された、軍国主義・侵略主義が横行した野蛮な時代。天皇の命令で臣民が徴兵され、上官の命令は天皇の命令として「強いられた、悲惨な死」を余儀なくされた、その「過去を顧み」て、現天皇が「深い反省」と言っているのだ。
さて、当然のことながら、「深い反省」には「深い責任」がともなうことになる。この点が、「どのように」反省しているのかという問題である。この短い式辞では窺い知ることができない。現天皇にとっては最後の戦没者追悼式。これを知る機会は、もうなかろう。
(2018年8月15日)