澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「南無十万の火の柱」 ? 東京大空襲70周年

本日の東京新聞「平和の俳句」を心して読む。
    三月十日南無十万の火の柱

70年前の今日、東京が地獄と化した惨状をつぶさに目にした古谷治さん(91歳)の鎮魂の一句。
東京新聞は、古谷さんを取材して、「黒焦げの骸 鎮魂の一句」「戦争を知る世代の使命」という記事を掲載している。その記事の中に、「古谷さんは戦後、中央官庁の役人として働き、政治家を間近で見てきた。今、戦争を知らない世代の政治家たちが国を動かすことに『坂道を転げ落ちていくような』不安を覚える。」とある。そして、古谷さん自身の次の言葉で結んでいる。

「戦争を知っているわれわれが、暴走しがちな『歯車』を歯を食いしばって止めないとどうなるのか。その使命の重大さ、平和のありがたさをかみしめて、鎮魂の一句をささげた」

日露戦争後、3月10日は陸軍記念日であった。1945年の陸軍記念日の早暁、テニアン・サイパンから飛来した325機のB29爆撃機が東京を襲った。超低高度で人家密集地に1600トンの焼夷弾の雨を降らせた。折からの春の強風が火を煽って、人と町とを焼きつくした。死者10万、消失家屋27万、被災者100万に上ったと推計されている。これが、3時間足らずのできごとである。防空法と隣組制度で逃げれば助かった多くの人命が奪われた。

東京大空襲訴訟の証言で、早乙女勝元さんが甚大な被害の理由をこう解説している。
「1番目は退路のない独特の地形です。東京の下町は荒川放水路と、隅田川に挟まれて無数の運河で刻まれた所。2番目はその夜の気象状況にあったと思います。春先の猛突風が9日の夜から吹き荒れていて、火が風を呼び、風が火を呼ぶという乱気流状態になったことが挙げられましょう。そして3番目は防空当局のミスであります。ミスといいますのは、空襲警報が鳴らないうちに空襲が始まっております。4番目は‥、昭和18年に内務省が改訂版で『時局防空必携』というのを各家庭に配りました。それを守るべしということですが、1ページ目を開きますとこう書いてあります。『私たちは御国を守る戦士です。命を投げ出して持ち場を守ります』と。国は東京都民を戦士に仕立てあげたんではないのでしょうか。そういうことが大きな人的被害を生む理由になったのではないかと考えます。」

多くの都民が、命令され洗脳されて、文字どおり「持ち場を守って命を投げ出した」のだ。

同じ証言で、早乙女さんはこうも述べている。
「3月10日の正午になりますと、焼け残りの家のラジオは大本営発表を告げました。公式の東京大空襲の記録といっていいのですが、翌日の新聞にももちろん出ております。その中でたいそう気になりますのは、次の1節であります。『都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮(しゅめりょう)は2時35分其の他は8時頃までに鎮火せり』。100万人を超える罹災者とおよそ10万人の東京都民の命は、『其の他』の三文字でしかありませんでした。戦中の民間人は民草と呼ばれて、雑草並みでしかなかったと言えるかと思います。残念ながら、大本営発表の、『其の他』は戦後に引き継がれまして、今、被災者遺族の皆さんは私を含めて高齢ですけれども、旧軍人、軍属と違って、国からの補償は何もなく、今日のこの日を迎えています。国民主権の憲法下にあるまじき不条理であります。法の下に平等の実現を願っております。」

大日本帝国の公式発表は、10万の都民の命よりも皇室の馬小屋の方に関心を示したのだ。こうして、1945年の陸軍記念日は、「我が陸軍の誉れ」の終焉の日となった。それでも、この日軍楽隊のパレードは実行されたという。

無惨に生を断ち切られた10万の死者の無念、遺族の無念に、黙祷し合掌するしかない。空襲の犠牲者は、英霊と呼ばれることもなく、顕彰をされることもない。その被害が賠償されることも補償されることもない。それどころか、戦後の保守政権はこの大量殺戮の張本人であるカーチス・ルメイに勲一等を与えて、国民の神経を逆撫でにした。広島・長崎の原爆、沖縄の地上戦、そして東京大空襲‥。このような戦争の惨禍を繰り返してはならないという、国民の悲しみと祈りと怒りと理性が、平和国家日本を再生する原点となった。もちろん、近隣諸国への加害の責任の自覚もである。2度と戦争の被害者にも加害者にもなるまい。その思いが憲法9条と平和的生存権の思想に結実して今日に至っている。安倍政権がこれに背を向けた発言を繰り返していることを許してはならない。今日は10万の死者に代わってその決意を新たにすべき日にしなければならない。

たまたまドイツのメルケル首相が来日中である。共同記者会見でメルケルと安倍がならんだ。同じ敗戦国でありながら、罪を自覚し徹底した謝罪によって近隣諸国からの信頼を勝ち得た国と、しからざる国の両首相。それぞれが国旗を背負っている。

1940年、日独伊三国同盟が成立したとき、並んだ旗はハーケンクロイツと日の丸であった。戦後、ドイツは、ハーケンクロイツから黒・赤・金の三色旗に変えた。日本は、時が止まったごとくに70年前の「日の丸」のままである。変えた旗と変えない旗。この旗の差が、日独両国の歴史への対峙の姿勢の差を物語っている。

さて、東京大空襲70年後のこの事態である。火の柱となった十万の魂は鎮まっておられるのだろうか。
(2015年3月10日)

建国記念の日 「国家主義との対決」の覚悟を

昨年の2月11日、当ブログは「去年までとは違う『建国記念の日』」と題して、歴代首相として初めて、安倍晋三がこの日にちなんだメッセージを発表したことを取り上げた。是非ご一読いただきたい。
   https://article9.jp/wordpress/?p=2086

今年は、右翼メディアの代表格としての産経の本日付社説を解説してみたい。「建国記念の日 『よりよき国に』の覚悟を」と標題するもの。もちろん、産経のいう「よりよき国」には独特な意味合いが込められている。安倍政権が曖昧にしか言えないことをズバリと言っている点において、産経とは貴重な存在なのだ。

「わが子の誕生を喜ばない親はまず、いまい。その後の子供の成長を願わない親もいないはずで、「這えば立て、立てば歩めの親心」とはまことにもって至言である。国家についてもまったく同じことが言えるのではなかろうか。」

冒頭の一節。こういう比喩の使い方が、騙しのテクニックの基本であり典型でもある。まったく異質の「わが子」と「国家」を、等質のものと思わせようという魂胆。うっかり、この手の論法に乗せられると、国家の誕生を祝わない国民は、子を虐待する非道の親のごとくに貶められてしまう。「非国民」概念をつくり出そうという発想なのだ。

「日本書紀によれば日本国の誕生(建国)は紀元前660年で、その年、初代神武天皇が橿原の地(奈良県)で即位した。明治6年、政府はその日を現行暦にあてはめた「2月11日」を紀元節と定め、日本建国の日として祝うことにしたのである。」

騙しのテクニックはさらに続く。日本書紀に書かれている紀元前660年に誕生した日本国と明治政府と日本国憲法下の日本国とを、何の論証もなく「連綿と同一性を保った国家」と言いたいのだ。ことさらに2月11日を選んで祝おうという狙いは、「連綿と続いた国家」を強調することにある。

当然のことながら紀元前660年の頃の日本は縄文晩期と弥生とが重なる時代、いまだ統一国家の萌芽もない。8世紀に編まれた日本書紀に、1400年も前の神武即位の年月日が特定されているわけでもない。どこの国ももっている建国神話を日本書紀が書き留め、明治政府が荒唐無稽な解釈によって、紀元前660年2月11日と擬制しただけの話。元祖歴史修正主義の所業というべきであろう。わが子の誕生日ははっきりしているが、日本国の誕生日など、歴史の見方次第でどうにでもなること。どうにでもなることだが、紀元前660年ではあり得ない。

「西欧列強による植民地化の脅威が迫るなか、わが国は近代国家の建設に乗り出したばかりで、紀元節の制定は、建国の歴史を今一度学ぶことで国民に一致団結を呼びかける意義があった。」

「意義があった」は偏頗なイデオロギーによる決め付け。冷静には、「紀元節の制定こそは、嘘で塗りかためた建国神話を徹底利用して、薩長閥が作り上げた政権の神聖性を臣民に刷り込むための小道具」「天皇制の始まりとされる日を拵え、その日の祝意を強制することによって国民に国家との一体感をつくり出すための演出」というべきなのだ。

「先の敗戦で紀元節は廃止されたものの昭和41年、2月11日は「建国記念の日」に制定され、祝日として復活した。「建国をしのび、国を愛する心を養う」と趣旨にうたわれているように、国家誕生の歴史に思いをはせる大切さは、今ももちろん変わっていない。」

「祝日としての復活」は、国民を二分するイデオロギー対立の暫定決着としてのことである。明治百年論争、元号法制化、国旗国歌法制定そして憲法改正論議なども同じ問題。一方に復古主義的な、「天皇中心の国体護持論+国家主義+軍国主義+歴史美化派」のイデオロギー陣営があり、他方に「国民主権論+個人の人権尊重+平和主義+歴史修正反対派」の陣営がある。両陣営の長いせめぎ合いの末に、両陣営とも不満足ながらの「名前を変えた祝日としての復活」に至った。そして、このせめぎ合いは今も続いている。国家主義への警戒の大切さは、今ももちろん変わっていない。

「ただ忘れてはならないのは、親心と同様に、誕生以後の日本を少しでもよい国にしようと、先人らが血のにじむ努力を重ねてきたことである。現在を生きる国民もまた、さらによい国にして次の世代に引き継がねばならない。」

これも、欺瞞のテクニック。「誕生以後の日本を少しでもよい国にしようと、先人らが血のにじむ努力を重ねてきたこと」などという抽象的な文章は、情に訴えようとするだけで実は何も語っていない。次に控えている危険な毒物を飲み込みやすいようにする準備の一文なのだ。

「日本を少しでもよい国にしようと、血のにじむ努力を重ねてきた先人」とは、何を指しているのだろうか。悲惨な戦争を画策し指導したA級戦犯たちを含んでいるのだろうか。政・商結託して大儲けをした明治の元勲たちはどうだろう。あるいは天皇制の野蛮な弾圧を担った特高警察や憲兵や思想検事たちも「少しでもよい国にしようと努力を重ねた先人」なのだろうか。一方、野蛮な天皇制の暴力に抗して平和や民主主義を目指した不屈の闘いを試みた人々はどうなのだろうか。

「現在を生きる国民もまた、さらによい国にして次の世代に引き継がねばならない」は、空疎空論の見本である。めざすべき「さらによい国」とは、声高に「国」の存在や権威を振りかざす者のいない国ではないか。

「慶応義塾の塾長を務めた小泉信三は昭和33年、防衛大学校の卒業式で祝辞を述べた。その中で小泉は、先人の残したものをよりよきものとして子孫に伝える義務を説いたうえで、こう続けた。「子孫にのこすといっても、日本の独立そのものが安全でなければ、他のすべては空しきものとなる。然らば、その独立を衛るものは誰れか。日本人自身がこれを衛らないで誰れが衛ることが出来よう」(小泉信三全集から)

ようやくここで本音が出て来る。「先人らの血のにじむ努力」とは国防の努力、「さらによい国」とはさらに軍備を増強した国のことなのだ。要するに、防衛力を増強したいのだ。もう一度富国強兵を国家的スローガンに掲げたいということなのだ。そのために「国の誕生」から説き起こし、「国の誕生日への祝意」を大切なものとし、「先人の努力」と「国をよくする」とまで論理をもってきたのだ。

「57年前の言葉がそのまま、目下の国防への警鐘となっていることに驚かされる。中国の領海侵入などで日本の主権が脅かされているばかりか、国際的なテロ組織によって国民の命が危険にさらされてもいる。だが、わが国の現状は、自らの国防力を高めるための法整備も十分ではなく、その隙をつかれて攻撃される恐れもある。」

まったくの驚きだ。57年前も今日と同じ言葉で国防への警鐘がなされていたのだ。いつの時代にも同じ言葉が繰りかえし語られるということなのだ。いつもいつも、仮想敵と敵による危機が叫ばれてきた。ソ連の脅威であり、李承晩の脅威であり、赤い中国の脅威であり、北朝鮮の脅威であり、今またイスラムの脅威であり、テロの脅威である。日本を取り巻く国際環境の厳しさは、際限なく無限に進行しているのだ。

「紀元節制定時に倣って今こそ、国を挙げ「日本人自身が日本を衛る」覚悟を決めなければならない。」

これが産経社説の締めくくり。社説子の頭の中は、今日は「建国記念の日」ではなく、完全に「紀元節」である。そして、かつての紀元節が、天皇中心の国家主義的イデオロギー鼓吹の小道具であったように、「建国記念の日」を国家主義、軍国主義思想浸透のきっかけにしようというのだ。「2月11日は富国強兵思想の記念日」というわけだ。

本日の産経社説。何のことはない。「わが子はかわいい」「かわいいわが子の誕生日を祝おう」「同様にかわいい国の誕生日も祝おう」「かわいい国には武装をさせて守ろうではないか」。だから「国民よ、国防国家となるべく覚悟を決めよ」と言っているだけのこと。

個人よりも国家が大切で、国防が何よりも重要で、歴史の真実よりは国家への誇りが大切だとするイデオロギーが、メディアの一角でこうまで露骨に語られる時代を恐ろしいと思う。しかし、萎縮してはおられない。憲法や人権・平和の理念を護る覚悟が要求されているのだ。

昨年のブログの最終節はこうだった。
「建国記念の日」とは、国家主義との対峙に決意を新たにすべき日。そうしなければならないと思う。

ほとんど同じだが、産経社説の標題に倣って、今年は次のように締めておこう。

「建国記念の日 『国家主義との対決』の覚悟を」
(2015年2月11日)

「徹底した死者の差別」ーそれこそが靖国の思想だ

本日の [産経・正論]欄に、「『和諧』を良しとする日本を誇る」という一文が掲載されている。著者は平川祐弘という相当のお歳の比較文化史家。東京大学名誉教授とのこと。「正論」の常連執筆者の一人である。

もちろん国民誰にも表現の自由は保障されている。だから、目くじら立てるほどのこともないではないか、と言われればそのとおり。が、この人のトンデモ憲法論に幻惑される被害が発生せぬよう、最低限の反論が必要と思われる。

1年ほど前に、彼は、「新しい憲法について国民的な議論を高めたい。比較文化史家として私も提案させていただく」として、やはり「正論」に寄稿している。「『和を以って貴しとなす』。この聖徳太子の言葉を私は日本憲法の前文に掲げたい。‥このような憲法改正には文句のつけようがないだろう」「憲法はそのように日本の歴史と文化に根ざす前文であり本文でありたい」との内容。今回の寄稿はその焼き直し。

よく知られているとおり、自民党改憲草案の前文には、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概をもって自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」と書き込まれている。ここでの「和を尊び」は、現実に存在する権力や経済力による支配と被支配の対立構造、あるいは社会的な貧困や格差を隠蔽し糊塗する役割を担っている。

そもそも、十七か条の冒頭に位置する「以和爲貴」は、「無忤爲宗(逆らうことなきを旨とせよ)」や、「承詔必謹」とセットをなしている。「和」とは、対等者間の調和ではなく、「天皇を頂点に戴く権力構造の階層的秩序」と理解するほかはない。本気になって「憲法に『以和爲貴』を書き込もう」と言っているとすれば、甚だしい時代錯誤。近代立憲主義も現代立憲主義も、いや法の支配も、法治主義すらも理解していない人の言としか思えない。

その平川さんが本日の「正論」で靖国の祭神について述べている。未整理の文章で論旨不明瞭といわざるを得ないが、結論だけが「…だから日本は素晴らしい」というもの。どんな結論でもけっこうだが、靖国について「敵味方を超えて行われる鎮魂」と言っている点で、反論しておかねばならない。

平川さんの文章は、平将門を祭神とする神田明神への参拝の隆昌から説き起こされている。そして、次のように展開する。
「祟ると崇めるとは字も似るが、祟りが怖ろしいから崇めたのだ。だが、そんな荒ぶる御霊が鎮魂慰撫されて今では利生の神(平将門を指す)、学問の神(菅原道真を指す)として尊崇される。神道では善人も悪人も神になる。本居宣長は「善神にこひねぎ…悪神をも和め祭る」と『直毘霊』で説いた。鎮魂は正邪や敵味方の別を超えて行われてこそ意味がある」。ここまでの文意は明瞭で、敢えて異を唱えるほどのこともない。

その次からが突然の転調となる。
「読売新聞の渡辺恒雄氏は宗教的感受性が私と違うらしく、絞首刑に処された人の分祀を口にした。私は『死人を区別していいのか』と感じる。解決の目途も立たぬまま大陸に戦線を拡大した昭和日本の軍部は愚かだと思うが、だからといって政治を慰霊の場に持ち込むのは非礼だ。靖国神社は日本軍国主義の問題と決めてかかる人が国内外にいるが、そうした狭い視野で考えていいことか」

文意を繋げると、「神道では善人も悪人も神になる」のだから、「絞首刑に処された東條英樹以下の悪人も神になった」。「分祀とは神に区別を設けること」なのだから、「いかなる悪人であろうとも神になった死人を区別することはよくない」。こう言いたいのだと推測するよりほかはない。なお、それまでの説明と、「靖国神社」「日本軍国主義」「狭い視野」とは関連不明としか評しようがない。

文意がわかりにくいのは、論者が世の常識とは違うことを言っているからなのだ。
日本人の伝統的な死生観が「怨親平等」という言葉に表される死者の平等にあったことはよく知られている。例えば、蒙古襲来の際の犠牲者を、日本の民衆は敵味方の区別なく手厚く葬った。その象徴として円覚寺の存在が語られる。

この日本的伝統を真っ向から否定して死者の差別を公然化したのが、招魂社であり、靖国神社である。維新期の西南雄藩連合は、自軍を皇軍(すめらみいくさ)として、荒ぶる寇(あらぶるあだ)である賊軍との戰に斃れた自軍の戦死者だけを祀った。要するに、徹底した死者の差別であり、魂の差別である。ここには怨親平等のヒューマニズムはかけらもない。政治的な思惑から、天皇への忠誠故の死者を褒めそやし、未来永劫賊軍の死者を侮辱さえしたのである。

戊辰戦争の最大の山場は会津戦争であった。官軍の死者の遺体はこの地に埋葬され、「天皇のために闘った、忠義の若者たちがいたことを後世に伝えるために」石碑が建てられた。一方、賊軍側3000の戦死者には、埋葬自体が禁じられた。死体はみな、狐や狸や野鳥に食われ腐敗して見るも無惨な状態になった。(「明治戊辰殉難者之霊奉祀の由来」・高橋哲哉「靖国問題」による)

この天皇への味方か敵かを峻別し、死者をも徹底して差別することが靖国の思想である。明治維新が、国政運営にこのうえない便利な道具として神権天皇制を拵え上げたその一環として、靖国神社は天皇制政府の軍事におけるイデオロギー装置となった。天皇へ忠誠を尽くして死ぬことを徹底して美化し、その反対に天皇に敵対することを徹底して貶める、死の意味づけにおける差別の体系と言ってよい。この魂の差別については、既に古典と言ってよい「慰霊と招魂」(村上重良・岩波新書)に詳しい。

戊辰戦争で賊軍とされた奥羽越列藩同盟の戦死者も、西南戦争で敗れた西郷軍も、未来永劫靖国の祭神の敵として靖国神社に合祀されることはない。この内戦における死者への差別は、皇軍が対外戦争をするようになってからは排外主義の精神的基盤ともなり、また戦死者を「天皇への忠義を尽くしての戦死」か「しからざる(捕虜や逃亡兵としての)死」かに差別することにもなった。

平川「正論」が、日本人の伝統に反してまで徹底した「死者の差別」をしている靖国神社を引き合いに、祭神の平等、死者の平等を説くから、話がこんがらかってしまうのだ。
(2015年2月4日)

小気味よいピケティの叙勲辞退

ピケティ「21世紀の資本」をパラパラめくっている。文京区立図書館への借入申込み予約順位は、現在357人中の72番である。この浩瀚な書物の予約の順番を待っていたのでは、今年中に読むことは絶対に無理。来年中も危うい。

手許にあるこの本は、知人が貸してくれたもの。とても読んだなどとはいえないが、ページをめくって、なんとなく「まあ、こんなものか」とつぶやいている。

この本を手にとると袴に「r>g」と大書されている。rとは資本の収益率、gとは所得の成長率を表す。一握りの者の私的所有となっている「資本」の増加と、社会全体の「所得」の増加との比較がテーマだ。だから、「r>gという法則がある」というのなら、分かり易い。資本の所有者が社会全体の成長に抜きん出て富を増やしていくことになり、格差は拡がることになる。

ところが、この不等式の下に、「資本収益率が産出と所得の成長率を上回るとき、資本主義は自動的に、恣意的で持続可能な格差を生み出す」と書かれている。ピケティの頭が悪いのか翻訳が下手なのか、この命題は意味をとりにくい。というか、こんな不完全な日本語では読み手が理解できるはずはない。「r>g」は、結論ではなく仮定条件とされている。この仮定が真ならば、「資本主義は格差を生み出す」というのが結論のようだ。しかし、「自動的に」も、「恣意的で持続可能な格差」も何を言っているのか、さっぱりわからない。

本文28ページに次の記載がある。
「もし資本収益率が長期的に成長率を大きく上回っていれば、富の分配で格差が増大するリスクは大いに高まる」

「この根本的な不等式をr>gと書こう(rは資本の平均年間収益率で、利潤、配当、利子、賃料などの資本からの収入を、その資本の総価値で割ったものだ。gはその経済の成長率、つまり所得や産出の年間増加率だ)。…この不等式が私の結論全体の論理を総括しているのだ」
こうして、この書物はこの命題の証明のためのものという体裁なのだ。

わかりにくいのは、r>gを、資本主義が固有に持つ法則とはしていないことだ。
「私が提案するモデルでは、格差拡大は永続的ではないし、富の配分の将来の方向性としてあり得るいくつかの可能性のひとつでしかない」と言っているのだから。

r>gは、資本主義生成以来今日までのありとあらゆる時代と地域の「現象」として語られる。r>gは、統計的に語られ、その差は大きくも小さくもなってきたが、歴史的には常になり立つものであったという。しかし、その必然性や法則性が語られることはない。

マルクスが、資本主義の「本質」として剰余価値を語り、これを資本主義社会における格差・貧困の源泉とした鮮やかさはない。ピケティ流を実証主義あるいは統計学的手法というのだろうか。天体運航の観察からニュートンが到達したごとき、原理や法則の提示はない。「傾向」が語られるだけなのだ。

脚気の原因についての陸海軍論争を彷彿とさせる。吉村昭が「白い航跡」で描くところの海軍軍医高木兼寛は、英国留学中にヨーロッパに脚気がないことを見聞する。そのことをヒントに、日本海軍将兵の脚気対策ととして、強い反対を押し切って艦内の兵食を白米から麦飯に切り替えて脚気を撲滅した。機序や学理についてはわからないままに、「現象」を「統計的に」把握しての対処に成功したのだ。一方、当時世界に冠たるドイツ医学を修めた陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)は、海軍の方策を「学理の伴わない謬論」と斥け、結局日露戦争の陸戦では脚気の兵の大量死をもたらす。

おそらくピケティ流は、海軍高木兼寛派に親和的なのだ。マルクスやニュートンの切れ味はなくとも、陸軍森林太郎派の間違いは犯していないのだろう。パラパラとめくった限りでのピケティ論である。

なお、既に旧聞に属するが、ピケティはフランス政府からの叙勲を辞退した。私には、それだけで好感をもつに十分である。

仏政府は勲章レジオン・ドヌールの授章を今月1日付の官報で発表した。しかし、ピケティは受章辞退を表明して、フランスで大きな話題となった。「だれが名誉に値するかを決めるのは政府の役割ではない」というのが辞退の弁。オランド政権の経済政策への批判も込められているという。

我が国では、天皇制の残滓として、国事行為・公的行為・皇室外交・宮中祭祀などが重要であるが、国民生活への浸透においては、「日の丸・君が代」、元号、休日、国体などとならんで、叙勲や褒賞が大きな意味を持つ。どういうわけか、勲章を欲しい人たちはたくさんいるのだ。そのさもしさが、天皇制の付け入る隙となる。

富の格差の拡大を語るピケティが喜んで勲章を受けていたのでは、学者としての姿勢のホンモノ度が疑われることになるだろう。皇帝や国王のいない共和国でのことだが、批判の対象とする政府からの叙勲を辞退したとは小気味がよい。もう少し時間の余裕ができたら読み通して、ピケティの姿勢も学んでみたいものと思う。
(2015年1月24日)

イスラム批判の言論を天皇制批判に置き換えて「表現の自由」を語ろう

表現の自由は、その内容がどうであれ、これと切り離して保障されなければならない。当然といえば当然のこの理だが、これを貫徹することの難しさを痛感させられる。

「私は貴方の意見には反対だ、だが貴方がそれを主張する権利は命をかけて守る」という箴言は、ヴォルテールが述べたとされながら、実は誰も出典を特定できない。それでも人口に膾炙しているのは、その内容が名言中の名言だからだ。具体的な場においてこの原則を貫徹することはなかなかに困難である。実践困難だが正しいからこその名言である。

「シャルリー・エブド」に対するテロ事件の続報に考え込んでいる。街頭にくり出したヨーロッパやアメリカの民衆との連帯に違和感はない。しかし、オランドや安倍晋三、あるいは産経や読売とまで一緒に「言論の自由を守れ」の大合唱の輪の中にいることの居心地の悪さを感じざるを得ない。

我が国の戦後史において、今回のシャルリー襲撃事件に最も近似した事件は何であったろうか。「悪魔の詩」の訳者であった筑波大五十嵐一助教授の殺人事件(1991年7月)ではない。我が国におけるイスラムへの揶揄の言論がもつ社会的なインパクトは、フランス社会とは比較にならないからだ。

おそらくは、中央公論嶋中事件(1961年2月)がシャルリー攻撃に近似するものではないか。雑誌『中央公論』に発表された深沢七郎の小説「風流夢譚」の中に、皇太子・皇太子妃が斬首される記述があった。斬首された首が「スッテンコロコロ」と転がると描写された。これを不敬であるとして右翼の抗議の声があがり、加熱する批判と擁護の論争のさなかに、右翼団体に所属する17歳の少年が中央公論社の社長宅に押しかけ、社長不在で対応した家政婦を殺害した。

まぎれもなく、天皇制の神聖を揶揄する当代一流作家の言論への野蛮なテロ行為である。しかしこのとき、街頭に「私は中央公論」の声は起きなかった。ペンを立てた群衆の行動もなかった。むしろ、この事件を機に、ジャーナリズムの皇室に関する言論は萎縮した。中央公論社は右派に屈服し、「世界」と並んでいたそれまでのリベラルな姿勢を捨てた。

「シャルリー」は、イスラムの神と預言者の神聖を冒涜する言論によって、テロの報復を受けた。これに抗議し、「私はシャルリー」と声を上げることは、イスラムの神や預言者の神聖が尊重に値するものとしつつも、ヴォルテール流に神聖を冒涜する薄汚い言論の自由を尊重すると立場を明らかにすることなのだ。「シャルリーのイスラムを揶揄し冒涜する立場には反対だ、だがシャルリー紙がそのような立場の主張をする権利は命をかけて守る」ということなのだ。

敢えて、安倍晋三に問い糺したい。読売や産経にも聞いてみたい。天皇制の神聖を冒涜し、靖国の祭神を揶揄する言論についても、「そのような主張をする権利は命をかけて守る」と言う覚悟があるのか、と。

1月9日付産経社説は、「信教に関わる問題では、侮辱的な挑発を避ける賢明さも必要だろう。だが、漫画を含めた風刺は、欧州が培ってきた表現の自由の重要な分野である」と、表現の自由の肩をもっている。この原則を「天皇制や靖国に関わる問題では、侮辱的な挑発を避ける賢明さも必要だろう。だが、天皇や靖国を標的にしたものにせよ、批判や風刺は文明が培ってきた表現の自由の重要なその一部である」と、貫くことができるだろうか。ここにおいてこそ、ヴォルテール的な民主主義のホンモノ度が問われることになる。

今回テロに遭遇した言論はマジョリティのキリスト教を批判するものではなくマイノリティのイスラムを標的とするものであった。フランス社会では恵まれない側の人々が信仰する宗教への冒涜の言論であったようだ。かつての植民地支配を受けた末裔の宗教への揶揄でもある。マジョリティの側が「言論の自由を守れ」と言いやすい条件が揃っているように思える。

もし、ヨーロッパでキリストを冒涜する表現について、日本で天皇を揶揄する言論について、群衆が街頭を埋めつくして「マジョリテイの心情を傷つける言論であればこそ、より厳格にその自由を保障せよ」と叫ぶ時代が到来するそのとき、ヴォルテールがはじめて笑みを浮かべることになるだろう。
(2015年1月11日)

安倍首相の年頭伊勢神宮参拝に異議あり

昨日1月5日の月曜日が、どこも仕事始めであったろう。
歳時記に
   何もせず坐りて仕事始めかな (清水甚吉)
とある。なるほど、情景が目に浮かぶ。

本郷三丁目の駅から、サラリーマン軍団が神田明神に向かっていた。「何もせず」ではなく、神事で結束を確認する儀式に参加なのだろう。もしかしたら、上司の強制かも知れない。報道では、この日お祓いを受けた会社数は3000を超えたという。恐るべし、神道パワーいまだ衰えず。

もっとも、神田明神は天つ神の系統ではない。典型的な国つ神と賊神を祀る。天皇制との結びつきは希薄だ。自らを新皇と名乗った平将門を祭神とする神社として印象が深いが、実は3柱の祭神を祀っているという。一ノ宮に大国主を、二ノ宮に少彦名を祀って、平将門は三ノ宮に祀られているという。大国主が大黒、少彦名が恵比須信仰と習合して、産業の神となり、とりわけ恵比須信仰が商売繁盛に霊験あらたかと、資本主義的利潤拡大祈願の集客に成功したようだ。

それでも、神田明神とは将門の神社と誰もが思っている。天皇に弓を引いて、賊として処刑され首をさらされたと伝えられる反逆の将を祀る神社である。ここに、仕事始めのサラリーマンが押し寄せる図は、なかなかに興味深い社会現象ではないか。

一方、天つ神系の総本山、伊勢神宮では安倍晋三クンが仕事始め。参拝しただけでなく、ここで記者会見を行い年頭談話とやらを発表している。安倍クン、そんなところで、そんなことをしてちゃいけない。官邸で、「何もせず坐りて仕事始め」をしていた方が、ずっとマシなのだ。

安倍首相の年頭談話の冒頭が次の一節。
「皆様あけましておめでとうございます。先ほど伊勢神宮を参拝いたしました。いつもながら境内のりんとした空気に触れますと、本当に身の引き締まる思いがいたします。先月の総選挙における国民の皆様からの負託にしっかりと応えていかなければならない、その思いを新たにいたしました。」

各紙が、首相の伊勢参拝は新春恒例のこと、と異を唱えずに見過ごしているのが気になる。確かに、伊勢には靖国と違って、軍国主義や戦争のきな臭さがない。だから、近隣諸国からの抗議の声も聞こえてこない。しかし、外圧があろうとなかろうと違憲なものは違憲なのだ。

伊勢こそは国家神道の本宗であった。最高の社格・官幣大社の中でも特別の存在。憲法20条の政教分離とは、国家神道の復活を許さないとする日本国憲法制定権力の宣言である。とすれば、「政」(国家権力)の最高ポストにある内閣総理大臣が、伊勢神宮という「教」(神道)の最高格式施設に参拝することを許容しているはずもない。明らかな違憲行為として、首相の年頭参拝に「異議あり」と声を上げずにはおられない。

違憲・違法は、回数を重ね、時を経ても変わらない。労基法違反も男女差別賃金も、「これまでずっとやって来たことだから、今さら違法と言われる筋合いはない」などという会社側の開き直った言い訳は通らない。「毎年のこと。恒例だから問題ない」と言っても、伊勢参拝が合憲にはならない。ダメなものはダメ。違憲は違憲なのだ。

安倍晋三クン、キミの悪癖だ。憲法をないがしろにしてはいけない。8月の戦後70周年談話をどうするかは先のこととして、まずは伊勢神宮への参拝を反省したまえ。これも、天皇を神の子孫とする天皇制を支えた制度の歴史認識の問題であり、憲法遵守義務の重要な課題でもあるのだから。
(2015年1月6日)

新年の社説に、戦争に対する真摯な反省のあり方を考える

いまや、日本のジャーナリズムの良心は地方紙が担っている。事実と歴史に真摯に向き合う姿勢において、地方紙の良質さが際立っている。とても地方紙のすべてに目を通すことはできないが、紹介されたいくつかの地方紙社説を読んでみてその感を強くした。昨日(1月4日)の高知新聞社説「70年目の岐路ー日独に見る戦後の歩み」は、その典型。良質だし、語っていることの水準が高い。「自由は土佐の山間よりいづ」という伝統が息づいているからだろうか。

以下は、かなり長文の同社説の要約紹介。
同社説は、ワイツゼッカーの演説から説き起こす。「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも、目を閉ざすこととなります」「非人間的な行為を心に刻もうとしないものは、またそうした危険に陥りやすいのです」。この言葉は、ヒトラーを選挙という合法的手法で生み出したドイツの人々の頭から離れなかった。そして、「戦後の思想、哲学、文化などの分野での、かんかんがくがくの議論によって、かの国は過去の記憶、戦争責任、そして未来を語り、過去を克服しようと努めてきた」と評価する。
戦後25年目の1970年、旧西ドイツのブラント首相がポーランドを訪問し、ゲットー跡でひざまずき、痛恨の過去について許しを請うた。ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ氏は昨年10月、高知新聞記者らと会談。氏は旧西ドイツ首相の謝罪を評価し、国のリーダーが果たす役割と記憶の風化を防ぐことの大切さを語った。ドイツは統一後も政府や企業が基金を積み立て、戦後賠償を続けた。何より彼らはナチス犯罪の時効をなくし、今も自ら戦争を裁いている。」

同社説は、読者に「被害と加害見つめよ」と語りかける。
日独両国とも敗戦国だが、戦後の典型戦争体験として国民に語り継がれたものが、日本では広島・長崎の「原爆体験」であり、ドイツでは「アウシュビッツ体験」ではないか。前者は「被害」の体験であり、後者は「加害」の体験となろう。

戦後の歩みの中で、ドイツは加害者として謝罪と反省を徹底して繰り返すことによって、近隣諸国からの信頼を回復し、今や欧州の盟主という地位にある。

ワイツゼッカー演説があった1985年、日本では「戦後政治の総決算」を掲げる中曽根首相による靖国神社への公式参拝があった。「英霊」の名の下に戦争の指導者をもまつる一宗教法人への参拝は、憲法の政教分離の原則からいっても果たして許されるのだろうか。安倍首相の靖国神社参拝も、中韓との「トゲ」をあえて刺激した。日独の大きな差異となっている。

社説の最後は次のように結ばれている。
「私たちはあの戦争の被害者意識にとらわれ過ぎていたのではないか。8月の全国戦没者追悼式の式典で安倍首相は、歴代首相が踏襲してきたアジア諸国への『加害責任』に2年続けて触れなかった。日本は今年、どのような戦後70年談話を出すのだろうか。」

強調されていることは2点ある。
まずは、戦争体験における「加害者意識」自覚の重要性である。ドイツでは深刻な加害者意識にもとづく国民的議論があったのに比して、日本では被害者意識が優り加害者意識が稀薄化されている。その姿勢では近隣諸国からの信頼回復を得られない。まずは、ドイツの徹底した反省ぶりをよく知り、参考にしなければならない。安倍政権の靖国参拝などは、信頼回復とは正反対の姿勢ではないか。それでよいのか、という叱正である。

次いで、ドイツの反省が、「ヒトラーを選挙という合法的手法で生み出したドイツの人々の責任」とされていることである。つまりは、ヒトラーやナチス、あるいは突撃隊や親衛隊だけの責任ではなく、ヒトラーを民主的な選挙で支持し政権につかせた全ドイツ国民の責任とし、国民的な「かんかんがくがくの議論」によって過去を克服しようとしたということである。この真摯さが、近隣被侵略国民の評価と許しにつながったということなのだ。

日本でも同じことではないか。天皇ひとりに、あるいは東條英機以下のA級戦犯だけに戦争責任を帰せられるだろうか。国民すべてが、程度の差こそあれ、被害者性と加害者性を兼ね備えている。天皇制の呪縛のもと煽られた結果とは言え、戦争を熱狂的に支持した国民にも、相応の戦争責任がある。再びの戦争を繰り返さないためには、戦前の過ちの原因についての徹底した追求と対応とについての国民的な「かんかんがくがくの議論」の継続が必要なのだ。

その議論においては、侵略戦争を唱導した天皇の責任の明確化と、天皇への批判を許さず戦争へ国民を総動員した天皇制への批判を避けては通れない。天皇の戦争責任をタブーとして、あの戦争の性格や原因を論じることはできない。

皇軍の兵士を英霊と称える姿勢は、加害者意識の対極にあるものだ。ここからは、あの戦争を侵略戦争と断罪し反省する意識は生まれない。皇軍が近隣諸国で何をしたのかについて、真摯に事実と向かい合いその責任を問うことができない。靖国神社とは、公式参拝とは、そのような重い意味をもつものである。

戦後70年。遅いようでもあるが、「被害者意識から脱却して、加害者としての責任の認識へ」国民的議論を積みかさねなければならない。

ところで、東京新聞は「東京の地方紙」として、全国各紙に比較してその良識を際立たせている。これも、元日付け「年のはじめに考える 戦後70年のルネサンス」という気合いのはいった長文の社説を書いている。全体の論調に異論はない。が、どうしても一言せざるをえない。

末尾を抜き書きすれば、次のとおり。新聞の戦争責任に触れたものとなっている。
「◆歴史の評価に堪えたい
戦争での新聞の痛恨事は戦争を止めるどころか翼賛報道で戦争を煽り立てたことです。その反省に立っての新聞の戦後70年でした。世におもねらず所信を貫いた言論人が少数でも存在したことが支えです。政治も経済も社会も人間のためのもの。私たちの新聞もまた国民の側に立ち、権力を監視する義務と『言わねばならぬこと』を主張する責務をもちます。その日々の営みが歴史の評価にも堪えるものでありたいと願っています。」

その言やよし。しかし、天皇が唱導した戦争を煽り立てたことを反省する、その同じ社説の中に、次のような一節がある。
「81歳の誕生日に際して天皇陛下は『日本が世界の中で安定した平和で健全な国として、近隣諸国はもとより、できるだけ多くの世界の国とともに支え合って歩んでいけるよう願っています』と述べられました。歴史認識などでの中韓との対立ときしみの中で、昭和を引き継ぎ国民のために祈る天皇の心からのお言葉でしょう。」

一瞬我が目を疑った。これが、私がその姿勢を評価してやまない東京新聞の意識水準なのだろうか。この姿勢では、天皇や天皇制に切り込んで戦争責任を論ずることなど、できようはずもない。

私は、「陛下」や「殿下」「閣下」などの「差別語」は使えない。「お言葉」もそうだ。「陛下」や「お言葉」をちりばめた紙面で、「権力を監視する義務と『言わねばならぬこと』を主張する責務」を果たせるだろうか。本当に、「その日々の営みが歴史の評価にも堪えるものでありたい」と言えるのだろうか。

魯迅の「故郷」の中の名言を思い出そう。
「希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えぬ。
それは地上の道のようなものである。
地上にはもともと道はない。
歩く人が多くなれば、それが道となるのだ。」

「天皇の権威などというものは、もともとあるものではない。
それは地上の道のようなものである。
天皇の権威を認め敬語を使う人が多くなれば、
それが集積して天皇の権威となるのだ。」

だから、「陛下」や「お言葉」を使うことは、自覚的にせよ無自覚にせよ、天皇の権威の形成に加担することであって、戦争の惨禍への反省とは相反することとなる。とりわけ言論人がこの言葉を使うことは、自らの記事の価値をおとしめ、センスを疑われることになろう。
(2015年1月5日)

道徳の教科化に反対するー文科省記者クラブにて

本日(11月27日)、弁護士や学者、子どもの権利に関する市民運動家ら有志205名が、「道徳『教科化』に関する中教審答申への反対声明」を発表した。私もその呼びかけ人のひとりとして、記者会見に臨んだ。

「東京・君が代強制拒否訴訟」の弁護団という立場で教育問題に関わっている澤藤から申し上げます。
本日の声明は、多くの反対理由に触れ相当にボリュームの大きなものになっています。とりわけ、道徳教育必要の口実にされているいじめ問題について、「いじめの構造を分析しての適切な対応になっていない、むしろ逆効果である」との切り口に紙幅が割かれています。ここには十分にご留意ください。

私自身は、この声明のなかの「日本国憲法は、『個人の尊厳』を中核的価値と位置づけ幸福追求権を保障し(13条)、思想良心の自由(19条)、信教の自由(20条)、教育を受ける権利(26条)を保障している」という部分に強く共鳴する者です。

国家よりも社会よりも、「個人の尊厳」こそが根源的な憲法価値です。その尊厳ある個人の主体を形成する過程が教育です。公権力は、教育という個人の人格形成過程に国家公定の価値観をもって介入をしてはならない。これが当然の憲法原則であるはず。国民の価値観は多様でなければなりません。学校の教科として特定の「道徳」を子どもたちに教え込むことが許されるはずはありません。

とりわけ、多様な考え方が保障されなければならない国家・集団と個人との関係について、道徳の名の下に特定の価値観を公権力が子どもたちに刷り込むことには警戒を要します。

国家は、統御しやすい従順な国民の育成を望みます。「国が右といえば右。けっして左とは言わない人格」がお望みなのです。国民を主権者としてみるのではなく、被治者と見て、愛国心や愛郷心、社会の多数派に順応する精神の形成を望んでいるのです。このような、権力に好都合な価値観の注入が道徳教育の名をもって学校で行われることには反対せざるを得ません。

戦後民主主義の中で、道徳教育は、修身や教育勅語の復活に繋がるものとして忌避されてきました。それが、少しずつ、しかし着実に、進行しつつあります。今回の中教審答申もその一歩。学習指導要領における国旗国歌条項も同じように、一歩一歩着実に改悪が進み、今や「日の丸・君が代」強制の時代を迎えています。道徳教育も、このような道を進ませてはならないと思います。

記者から、質問が出た。「学校で特定の価値観の注入を強制してはならないという、その主張は分かりましたが、では子どもたちはどのようにしてあるべき道徳を身につけるべきだとお考えなのでしょうか」

私見ですが、子どもたちは、家庭で地域であるいは学校という集団で、大人と子どもを含めた人と接する内から自ずと市民的道徳を学び取り価値観を形成するのだと思います。旭川学テ最高裁大法廷判決は、十分な内容とまでは思いませんが少なくとも真面目に教育というものを正面から向かい合って考えた内容をもっていると思います。その判決理由では、教員を、教育専門職であるとともに良質の大人ととらえています。教育とは、そのような教員と子どもとの全人格的な触れあいによって成立する、「内面的な価値形成に関する文化的な営為」とされています。道徳についても、子どもに教科として教え込むのではなく、教師との触れあいのなかから子どもが自ずと学びとるものということでしょう。子どもは、教師からだけではなく、友だちとの触れあいのなかからも市民道徳を学び取っていくものと考えられます。基本的には、これで十分ではないでしょうか。

これを超えて、学校で教科として道徳を教え込むことについては、二つの極端な実践例を挙げることができます。そのひとつが戦前の天皇制国家において、臣民としての道徳を刷り込んだ教育勅語と修身による教科教育です。天皇制権力が、自らの望む国民像を精神の内奥にまで踏み込んで型にはめて作り上げようとした恐るべき典型事例と言えましょう。

もう一つが、コンドルセーの名とともに有名な、フランス革命後の共和国憲法下での公教育制度です。ここでは、公教育はエデュケーション(全人格的教育)であってはならないと意識されます。インストラクション(知育)であるべきだと明確化されるのです。インストラクションとは客観的な真理の体系を次世代に継承する行為にほかなりません。真理教育と言い換えることもできると思います。意識的に「徳育」を排除することによって、一切の価値観の注入を公教育の場から追放しようとしたのです。価値観の育成は家庭や教会あるいは私立学校の役割とされました。公教育からの価値観注入排除を徹底することによって、根深く染みついている王室への忠誠心や宗教的権威など、アンシャンレジームを支えた負の国民精神を一掃しようとしたものと考えられます。

おそらく、この天皇制型とコンドルセー型と、その両者を純粋型として現実の教育制度はその中間のどこかに位置づけられるのでしょう。私自身は、後者に強いシンパシーを感じますが、戦後の現実は、一旦天皇制型教育を排斥してコンドルセー型に近かったものが、逆コース以来一貫して、勅語・修身タイプの教育に一歩一歩後戻りしつつあるのではないか。そのような危機感を持たざるを得ません。

とりわけ、第1次安倍内閣の教育基本法改悪、そして今また「戦後レジームからの脱却」の一環としての「教育再生」の動きには、極めて危険なものとして強い警戒感をもたざるを得ません。
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以下は独白。以前にも書いたが、この機会に要点を繰り返しておきたい。私は「道徳」という言葉の胡散臭さが嫌いだ。多数派の安定した支配の手段として、被支配層にその時代の支配の秩序を積極的に承認するよう「道徳」が求められてきた歴史があるからだ。

強者の支配の手段としての道徳とは、被支配者層の精神に植えつけられた、その時代の支配の仕組みを承認し受容する積極姿勢のことだ。内面化された支配の秩序への積極的服従の姿勢といってもよい。支配への抵抗や、権力への猜疑、個の権利主張など、秩序の攪乱要因が道徳となることはない。道徳とは、ひたすらに、奴隷として安住せよ、臣下として忠誠を尽くせ、臣民として陛下の思し召しに感謝せよ、お国のために立派に死ね、文句をいわずに会社のために働け、という支配の秩序維持の容認を内容とするのだ。

古代日本では、割拠勢力の勝者となった天皇家を神聖化し正当化する神話がつくられ、その支配の受容が皇民の道徳となった。支配者である大君への服従だけでなく、歯の浮くような賛美が要求され、内面化された。

武士の政権の時代には、「忠」が道徳の中心に据えられた。幕政、藩政、藩士家政のいずれのレベルでも、お家大事と無限定の忠義に励むべきことが内面化された武士の道徳であった。武士階級以外の階層でもこれを真似た忠義が道徳化された。強者に好都合なイデオロギーが、社会に普遍性を獲得したのだ。

明治期には、大規模にかつ組織的・系統的に「忠君愛国」が、臣民の精神に注入された。その主たる場が義務教育の教室であった。また、軍隊も権力の片棒を担いだマスメディアもその役割を担った。荒唐無稽な「神国思想」「現人神思想」が、大真面目に説かれ、大がかりな演出が企てられた。天皇制の支配の仕組みを受容し服従するだけではなく、積極的にその仕組みの強化に加担するよう精神形成が要求された。個人の自立の覚醒は否定され、ひたすらに滅私奉公が求められた。

恐るべきは、その教育の効果である。数次にわたって改定された修身や国史の国定教科書、そして教育勅語、さらには「国体の本義」や「臣民の道」によって、臣民の精神構造に組み込まれた天皇崇拝、滅私奉公の臣民道徳は、多くの国民に内面化された。学制発布以来およそ70年をかけて、天皇制は臣民を徹底的に教化し臣民道徳を蔓延させた。今なお、精神にその残滓を引きずっている者は恥ずべきであろう。この経過は、馬鹿げた教説も大規模に多くの人々を欺し得ることの不幸な実験的証明の過程である。

戦後も、「個人よりも国家や社会全体を優先して」「象徴天皇を中心とした安定した社会を」などという道徳が捨て去られたわけではない。しかし、圧倒的に重要になったのは、現行の資本主義経済秩序を受容し内面化する道徳である。搾取の仕組みの受容と、その仕組みへの積極的貢献という道徳といってもよい。

為政者から、宗教的権威から、そして経済的強者や社会の多数派からの道徳の押しつけを拒否しよう。そもそも、国家はいかなるイデオロギーももってはならないのだ。小中学校での教科化などとんでもない。
(2014年11月27日)

今日は「憲法公布記念日」

1946年11月3日に、日本国憲法は公布された。今日が、68年目の憲法の誕生日となる。その憲法の第100条に、「この憲法は、公布の日から起算して六箇月を経過した日から、これを施行する」との定めがあって、翌47年5月3日が施行の日となった。「憲法記念日」として国民の祝日とされたのはこちらの施行日である。

憲法公布の日として特に11月3日が選ばれたのは、この日が明治節(明治天皇睦仁の生前には天長節)だったから。旧時代の遺物を払拭し切れていない「新憲法」の中途半端さを象徴する日取りの設定である。もっとも、当初は紀元節(2月11日)を憲法施行記念日とすることが吉田内閣の腹案だったようだ。ところが、政権議会が意外に長引いたため、明治節の公布という日取りを選んだとされている。

たまたま、ウィキペディアで、入江俊郎『日本国憲法成立の経緯原稿』の次の抜粋を目にした。
「新憲法は昭和二十一年十一月三日に公布された。 この公布の日については二十一年十月二十九日の閣議でいろいろ論議があつた。公布の日は結局施行の日を確定することになるが、一体何日から新憲法を施行することがよかろうかというので、大体五月一日とすれば十一月一日に公布することになる。併し五月一日はメーデーであつて、新憲法施行をこの日にえらぶことは実際上面白くない。では五月五日はどうか。これは節句の日で、日本人には覚えやすい日であるが、これは男子の節句で女子の節句でないということ、男女平等の新憲法としてはどうか。それとたんごの節句は武のまつりのいみがあるので戦争放棄の新憲法としてはどうであろうか。それでは五月三日ということにして、公布を十一月三日にしたらどうか、公布を十一月三日にするということは、閣議でも吉田総理、幣原国務相、木村法相、一松逓相等は賛成のようであつたが、明治節に公布するということ自体、司令部の思惑はどうかという一抹の不安もないでもなかつた。併し、結局施行日が五月一日も五月五日も適当でないということになれば、五月三日として、公布は自然十一月三日となるということで、ゆく方針がきめられた。
公布の上諭文は十月二十九日の閣議で決定、十月三十一日のひるに吉田総理より上奏御裁可を得た。」

さて、この文書がどれほど真実に近いか、私は検証の能力を持たない。しかし、「公布は自然十一月三日となる」というこの文章の弁解がましさに注目されるべきだろう。実は積極的に11月3日を選んだのだが、その選択は消極的だったと弁明を試みているように思える。入江自身のこの文章によっても、メーデーの日は「実際上面白くない」と意識的にさけられている。5月5日を避ける理由は薄弱である。5月2日、4日、6日は検討もされていない。まさか、4月29日はあるまいが、30日の検討もない。11月3日公布は、4月29日(天長節)や2月11(紀元節)に次ぐ、保守政権のホンネの選択肢だったのではないだろうか。

なお、日本国憲法の制定は、以下の大日本帝国憲法73条の改正手続きを経る形式を借りて行われた。
1項 将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
2項 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス

要するに、憲法改正の発議権は天皇にのみあり、改正の議決をする議会が成立するためには議員数の3分の2以上の出席を要し、貴衆両院で出席議員の3分の2以上の賛成を要するとされていた。国民投票の制度はないが、普通選挙制度の下ではなかなかの硬性憲法と言ってよい。

50年間、明治憲法は一度の改正を経ることもなかった。最初から天皇制に不都合にはできていなかったからでもあり、そもそも憲法とはフレキシブルなものだからでもある。

この条文に則って、4月17日天皇の詔書の形で、「帝国憲法改正案」が発表され、同日枢密院に諮詢。6月3日枢密院の可決を経て、衆議院上程は6月25日だった。衆院が政府原案を修正可決したのが8月24日。貴族院に回付された修正案は、ここでも追加修正があって、再度衆議院に回付されて、10月8日衆議院で可決成立。しかし、これだけでは手続きは終わらない。再度枢密院への諮詢を経て、ようやく11月3日の公布となった。

天皇の「憲法改正案」発議に対して、貴衆両院(3分の2の特別決議)だけでなく、枢密院を含めた3機関全部が修正同意してようやく成立となったのだ。衆議院も貴族院も、それなりの独自性を発揮している。政権議会の議論は活発だった。議論の質の水準も高かった。しかし、それでも、11月3日の天皇による公布が象徴するとおりの中途半端さは否定し得ない。国民主権と天皇主権との狭間における中途半端である。

この中途半端な「日本国憲法」という存在を、国民主権・人権・平和の方向に解釈を進めて生かすのか、その反対方向へ後退させてしまうのか。天皇の権威を復活し、国家主義や軍国主義の「日本を取り戻す」動きを許すのか、阻止するのか。日々の「憲法の再選択」が国民の課題となっている。11月3日は、そのような課題を再確認すべき日だと思う。
(2014年11月3日)

憲法に、「和をもって貴しと為す」と書き込んではならない

自民党の「日本国憲法改正草案」(2012年4月27日)は、安倍内閣のホンネを語るものとしてこのうえなく貴重な資料である。これが、彼らの頭の中、胸の内なのだ。このことについて、私もものを書き発言もしてきた。もう一つ付け加えたい。「和をもって貴しと為す精神」が、立憲主義にそぐわないことについて。

「草案」の前文は、皇国史観のイデオロギー文書となっている。
冒頭「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって‥」と始まり、その末尾は「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」と結ばれる。

どうやら、「日本国の長く良き伝統と固有の文化」とは、天皇を戴き、天皇を中心として国民が統合されていることにあるというごとくなのである。自民党の憲法は、この「良き伝統」と、「天皇を中心とする我々の国家」を末永く子孫に継承するために制定されるというのだ。

「君が代は千代に八千代に細石の巌となりて苔のむすまで」が、憲法前文に唱われているのだ。これではまさしく、自民党改憲草案は、「君が代憲法」ではないか。ジョークではなく、本気のようだから恐れ入る。

その前文第3段落を全文紹介する。次のとおりである。
「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」

ここには、「日本国の長い良き伝統」あるいは、誇るべき「固有の文化」の具体的内容として、「和を尊び」が出て来る。
和を尊ぶ」→「家族や社会全体が互いに助け合う」→「国家を形成する」
という文脈が語られている。

この「和」については、自民党の改正草案「Q&A」において、こう解説されている。
「第三段落では、国民は国と郷土を自ら守り、家族や社会が助け合って国家を形成する自助、共助の精神をうたいました。その中で、基本的人権を尊重することを求めました。党内議論の中で『和の精神は、聖徳太子以来の我が国の徳性である。』という意見があり、ここに『和を尊び』という文言を入れました。」という。舌足らずの文章だが、言いたいことはおよそ分かる。

自民党の解説では、「自助、共助」だけに言及して、ことさらに「公助」が除外されている。「和」とは「自助、共助」の精神のこと。「和」の理念によって形成された国家には、「自助、共助」のみがあって「公助」がないようなのだ。どうやら、「和」とは福祉国家の理念と対立する理念のごとくである。

そのこともさることながら、問題はもっと大きい。憲法草案に「聖徳太子以来の我が国の徳性である『和の精神』」を持ち込むことの基本問題について語りたい。

「十七条の憲法」は日本書紀に出て来る。もちろん漢文である。その第一条はやや長い。冒頭は以下のとおり。
「以和爲貴、無忤爲宗」
一般には、「和を以て貴しと為し、忤(さから)うこと無きを宗とせよ」と読み下すようだ。「忤」という字は難しくて読めない。藤堂明保の「漢字源」によると、漢音ではゴ、呉音でグ。訓では、「さからう(さからふ)」「もとる」と読むという。「逆」の類字とも説明されている。順逆の「逆」と類似の意味なのだ。従順の「順」ではなく、反逆の「逆」である。続く文章の中に、「上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」とある。

要するに、ここでの「和」とは、「上(かみ)と下(しも)」の間の調和を意味している。「下(しも)は、上(かみ)に逆らってはならない」「下は、上に従順に機嫌をとるべし」と、上から目線で説教を垂れているのである。これは、近代憲法の国民主権原理とは無縁。むしろ、近代立憲主義に「反忤」(反逆)ないしは「違忤」(違逆)するものとして違和感を禁じ得ない。

なお、些事ではあるが、「和爲貴」は論語の第一「学而」編に出て来る。「禮之用和爲貴」(礼の用は和を貴しとなす)という形で。論語から引用の成句を「我が国固有の徳性」というのも奇妙な話。また、聖徳太子の時代に十七条の憲法が存在したかについては江戸時代以来の論争があるそうだ。今や聖徳太子実在否定説さえ有力となっている。記紀の記述をありがたがる必要などないのだ。

ほとんど無視され、世間で話題となることは少ないが、産経も昨年、社の創設80周年を記念して改憲草案を発表している。「国民の憲法」要綱という。その前文に、やはり「和を以て貴し」が出て来る。次のとおりである。

「日本国民は建国以来、天皇を国民統合のよりどころとし、専断を排して衆議を重んじ、尊厳ある近代国家を形成した。‥‥よもの海をはらからと願い、和をもって貴しとする精神と、国難に赴く雄々しさをはぐくんできた。」

(解説)「四方を海に囲まれた海洋国家としてのありようは、聖徳太子の十七条憲法や明治天皇の御製を織り込んで、和の精神と雄々しさを表した。とくに、戦後の復興や東日本大震災後に示した日本人の高い道徳性を踏まえ、道義立国という概念を提起している」

右翼は「和」がお好きなのだ。この「和」は、天皇を中心とする「和」であり、下(しも)が上(かみ)に無条件に従うことをもってつくり出される「和」なのである。

憲法改正の試案に「和を以て貴し」が出て来るのは、私の知る限りで、本家は日本会議である。
日本会議の前身である「日本を守る国民会議」が「新憲法の大綱」を公表したのが1993年。日本会議・新憲法研究会は、これをたびたび改定している。その2007年版は次のとおりである。

「前文<盛り込むべき要素>(抜粋)
?国の生い立ち
・日本国民が、和の精神をもって問題の解決をはかり、時代を超えて国民統合の象徴であり続けてきた天皇を中心として、幾多の試練を乗り越え、国を発展させてきたこと。」

ここでも、「和」とは天皇中心主義と同義である。現在も日本会議ホームページでは、
「皇室を敬愛する国民の心は、千古の昔から変わることはありません。この皇室と国民の強い絆は、幾多の歴史の試練を乗り越え、また豊かな日本文化を生み出してきました‥」「和を尊ぶ国民精神は、脈々と今日まで生き続けています」
「戦後のわが国では、こうした美しい伝統を軽視する風潮が長くつづいたため、特に若い世代になればなるほど、その価値が認識されなくなっています。私たちは、皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、『同じ日本人だ』という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています。私たちはそんな願いをもって、皇室を敬愛するさまざまな国民運動や伝統文化を大切にする事業を全国で取り組んでまいります。」

ここでは「和」とは、明らかに「皇室を敬愛する日本人」の間にだけ成立する。それ以外は、「非国民」であり、もしかしたら「国賊」である。外国人との「和」はまったくの想定外でもある。ということは、内向きの「和」とは、外に向かっては排外主義を意味する言葉でもあるのだ。

決して憲法に「和を以て貴しと為す」などと書きこんではならない。それは、一握りの特殊な人々の間にだけ通じる、特殊な意味合いをもっているのだから。また、近代憲法の原理には、根本的に背馳するものなのだから。

大切なのは「和」ではない。権力に対する徹底した批判の自由である。また、天皇を崇拝する人たち内部の「和」は、排外主義に通じるものとして危険ですらある。憲法に盛り込むものは、もっと普遍的な理念でなくてはならない。
(2014年10月26日)

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