昨日(10月5日)、文部科学省は「『高等学校における政治的教養と政治的活動について』(昭和44年文部省初等中等教育局長通達)の見直しに係る関係団体ヒアリング」を実施した。
一部のメディアが「高校生のデモ参加容認」と見出しを打っているが、多くの高校生が、「えっ? いままでデモ参加はいけなかったの?」と怪訝な思いだろう。「文科省が18歳選挙権の実施に向けて、高校生の政治的活動を全面禁止してきた1969年通知を廃止し、新通知案を発表した。」「全面禁止は見直したものの、禁止・制限を強調する内容」「ヒアリングのあと、今月中にも正式に通知することになる」と報じられている。ところが、新通知案の全文を掲載するメディアが見つからない。
総じての「新通知案」に対するメディアの評価は、「校外での政治活動は一定条件下で容認する」「校内では引き続き高校側に抑制的な対応を求める内容」(毎日)という代物。高校生を未成熟な保護対象としてのみ見る基本姿勢に変更はない。「現政権を支持する票は欲しいが、政治的な意見表明は抑制して、秩序に従順な態度を訓育する」ことに必死なのだ。
いつの世にも、政権は批判を嫌う。主権者からの権限委託が政権の正当性の根拠なのだが、政治批判をするような主権者は大嫌い。温和しく批判精神のない、従順な主権者を育てたくてしょうがない、そのホンネが窺える。
69年通達(「高等学校における政治的教養と政治的活動について」(昭和44年文部省初等中等教育局長通達)は、いまよく読んでおくべきだ。政府というもののホンネがよく分かる、政治教育の資料として恰好なものではないか。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19691031001/t19691031001.html
「文部省初等中等教育局長通達」として、宛先は「各都道府県教育委員会教育長・各都道府県知事・付属高等学校をおく各国立大学長・各国立高等学校長」となっている。発出の日付は、1969年10月31日。大学紛争影響下の時代、「70年安保」の前年でもあって、「最近、一部の高等学校生徒の間に違法または暴力的な政治的活動に参加したり、授業妨害や学校封鎖などを行なったりする事例が発生しているのは遺憾なことであります」と当時の状況が述べられ、長期的には「このようなことを未然に防止するとともに問題に適切に対処するためには、政治的教養を豊かにする教育のいっそうの改善充実を図る」こと、短期的には「政治的活動に対する学校の適切な指導が必要」と、この通達の動機や趣旨が冒頭に述べられている。
かなりの長文である。「高校生の政治的教養の涵養」について言及しなければならないタテマエと「政治的活動の抑制」のホンネとの結びつけについての苦心の作である。もちろん、ホンネの部分が分厚く語られている。
同通達は「高等学校教育と政治的教養」を教育基本法から説き起こす。
「教育基本法第8条第1項(現行教基法14条1項)に規定する『良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。』ということは、国家・社会の有為な形成者として必要な資質の育成を目的とする学校教育においても、当然要請されていることであり、日本国憲法のもとにおける議会制民主主義を尊重し、推進しようとする国民を育成するにあたつて欠くことのできないものである。」
ここで、「良識ある公民=議会制民主主義の尊重・推進」と矮小化し短絡していることなどは措くとして、国(文科省)も、タテマエとしては高校段階での政治教育を認めざるを得ないことを確認しておく必要がある。
問題は、その政治教育の中身である。ここにホンネが表れる。
「政治的教養の教育は、教育基本法第8条第2項(現行教基法14条2項)で禁止している『特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動』、いわゆる党派教育やその他の政治的活動とは峻別すること。」
「政治的教養教育」と「党派教育・政治活動」との峻別の要求である。おそらく、ここがポイント。教育が、現実の政治を素材とし、生徒の主体性を尊重すれば、「党派教育・政治活動」とレッテルを貼られて非難される。生の素材をことごとく排除し、他人事として授業をすれば、「政治的教養教育」の実践と称賛される。その間に、無限のグラデーションがあることになろう。
同通達は、「高等学校における政治的教養の教育のねらい」を述べている。歯に衣を着せた文章。ホンネの翻訳が必要だ。
「将来、良識ある公民となるため、政治的教養を高めていく自主的な努力が必要なことを自覚させること。」
(将来、従順な被統治者に育つよう、「出る釘は当たれる」「長いものには巻かれろ」と自覚する生徒を育てる)
「日本国憲法のもとでの議会制民主主義についての理解を深め、これを尊重し、推進する意義をじゆうぶん認識させること。」
(直接民主主義的契機の重要性を教えてはならない。選挙の投票日だけが国民が主権者で、そのほかは議員や内閣にお任せしておくのが、議会制民主主義だと叩き込むこと)
「国家・社会の秩序の維持や国民の福祉の増進等のために不可欠な国家や政治の公共的な役割等についてじゆうぶん認識させること。」
(「憲法は権利の体系だ」などと生意気なことは言わせない。大事なのは「秩序の維持」「公共性の尊重」、これが政治教育の核心なのだ)
また、同通達は、「現実の具体的な政治的事象の取り扱いについての留意事項」の項を設けて「特定の政党やその他の政治的団体の政策・主義主張や活動等にかかわる現実の具体的な政治的事象については、特に次のような点に留意する必要がある」と言っている。ここが彼らのホンネのホンネ。ここだけは、全文を掲載しておこう。ホンネ丸見えではないか。
(1) 現実の具体的な政治的事象は、内容が複雑であり、評価の定まつていないものも多く、現実の利害の関連等もあつて国民の中に種々の見解があるので、指導にあたつては、客観的かつ公正な指導資料に基づくとともに、教師の個人的な主義主張を避けて公正な態度で指導するよう留意すること。
なお、現実の具体的な政治的事象には、教師自身も教材としてじゆうぶん理解し、消化して客観的に取り扱うことに困難なものがあり、ともすれば教師の個人的な見解や主義主張がはいりこむおそれがあるので、慎重に取り扱うこと。
(2) 上述したように現実の具体的な政治的事象については、種々の見解があり、一つの見解が絶対的に正しく、他のものは誤りであると断定することは困難であるばかりでなく、また議会制民主主義のもとにおいては、国民のひとりひとりが種々の政策の中から自ら適当と思うものを選択するところに政治の原理があるので、学校における政治的事象の指導においては、一つの結論をだすよりも結論に至るまでの過程の理解がたいせつであることを生徒に納得させること。
なお、教師の見解そのものも種々の見解の中の一つであることをじゆうぶん認識して教師の見解が生徒に特定の影響を与えてしまうことのないよう注意すること。
(3) 現実の具体的な政治的事象は、取り扱い上慎重を期さなければならない性格のものであるので、必要がある場合には、校長を中心に学校としての指導方針を確立すること。
(4) 教師は、その言動が生徒の人格形成に与える影響がきわめて大きいことに留意し、学校の内外を問わずその地位を利用して特定の政治的立場に立つて生徒に接することのないよう、また不用意に地位を利用した結果とならないようにすること。
なお、国立および公立学校の教師については、特に法令でその政治的行為が禁止されている。
(5) 教師は、国立・公立および私立のいずれの学校を問わず、それぞれ個人としての意見をもち立場をとることは自由であるが、教育基本法第六条に規定されているように全体の奉仕者であるので、いやしくも教師としては中立かつ公正な立場で生徒を指導すること。
さらに、同通達は、「生徒の政治的活動が望ましくない理由」を述べている。おそらくは、当局側が生徒や現場教師との「論戦」を想定して、理論付をしたものと思われる。
「生徒は未成年者であり、民事上、刑事上などにおいて成年者と異なつた扱いをされるとともに選挙権等の参政権が与えられていないことなどからも明らかであるように、国家・社会としては未成年者が政治的活動を行なうことを期待していないし、むしろ行なわないよう要請しているともいえること。」
「心身ともに発達の過程にある生徒が政治的活動を行なうことは、じゆうぶんな判断力や社会的経験をもたない時点で特定の政治的な立場の影響を受けることとなり、将来広い視野に立つて判断することが困難となるおそれがある。したがつて教育的立場からは、生徒が特定の政治的影響を受けることのないよう保護する必要があること。」
「生徒が政治的活動を行なうことは、学校が将来国家・社会の有為な形成者として必要な資質を養うために行なつている政治的教養の教育の目的の実現を阻害するおそれがあり、教育上望ましくないこと。」
「生徒の政治的活動は、学校外での活動であつても何らかの形で学校内に持ちこまれ、現実には学校の外と内との区別なく行なわれ、他の生徒に好ましくない影響を与えること。」
「現在一部の生徒が行なつている政治的活動の中には、違法なもの、暴力的なもの、あるいはそのような活動になる可能性の強いものがあり、このような行為は許されないことはいうまでもないが、このような活動に参加することは非理性的な衝動に押し流され不測の事態を招くことにもなりやすいので生徒の心身の安全に危険があること。」
「生徒が政治的活動を行なうことにより、学校や家庭での学習がおろそかになるとともに、それに没頭して勉学への意欲を失なつてしまうおそれがあること。」
これを翻訳すれば、(高校生は子どもじゃないか。そこのところをよく弁えて、おとなしく、役所や校長の言うとおりにお勉強だけをしていればよいのだよ。いま、政治に関心をもつと碌な大人にならないよ)。翻訳するまでもないか。
追い打ちをかけて通達は次のように言う。
「生徒の政治的活動の規制」については、「基本的人権といえども、公共の福祉の観点からの制約が認められるものである」から問題ない。
「教科・科目の授業はいうまでもなく、クラブ活動、生徒会活動等の教科以外の教育活動も学校の教育活動の一環であるから、生徒がその本来の目的を逸脱して、政治的活動の手段としてこれらの場を利用することは許されないことであり、学校が禁止するのは当然であること。なお、学校がこれらの活動を黙認することは、教育基本法第8条第2項(現行14条2項)の趣旨に反することとなる。」
「生徒が学校内に政治的な団体や組織を結成することや、放課後、休日等においても学校の構内で政治的な文書の掲示や配布、集会の開催などの政治的活動を行なうことは、教育上望ましくないばかりでなく、特に、教育の場が政治的に中立であることが要請されていること、他の生徒に与える影響および学校施設の管理の面等から、教育に支障があるので学校がこれを制限、禁止するのは当然であること。」
「放課後、休日等に学校外で行なわれる生徒の政治的活動は、一般人にとつては自由である政治的活動であつても、前述したように生徒が心身ともに発達の過程にあつて、学校の指導のもとに政治的教養の基礎をつちかつている段階であることなどにかんがみ、学校が教育上の観点から望ましくないとして生徒を指導することは当然であること。特に違法なもの、暴力的なものを禁止することはいうまでもないことであるが、そのような活動になるおそれのある政治的活動についても制限、禁止することが必要である。」
この最後がすさまじい。「放課後、休日等に学校外で行なわれる生徒の政治的活動」まで、違法・暴力的でなくても、そのおそれがあれば、「制限、禁止することが必要である」という。無茶苦茶と言うほかはない。さすがにここだけは、18歳選挙権の実施の情勢にふさわしくないと、見直されることになるようだ。それで、「高校生のデモ参加容認」ということになる。
こんな通達が、今どき現実にあることに一驚するしかない。日本ははたして、民主主義国家なのだろうか。欧米諸国から、「価値観を同じくする国」と見てもらえるのだろうか。そして、今回、この通達の全体が、どのように見直されるのだろうか。基本的な理念が見直されるのか否か、しっかりと見極めたい。子どもの権利条約や、国際人権規約など国際水準から見て、日本の民主化度や人権確立の程度が測られ試されている。
(2015年10月6日・連続919回)
以前から内定と報道されていたことだが、宮崎緑(千葉商科大学教授・元ニュースキャスター)が東京都の教育委員になった。昨日(9月30日)「任命に係る議会の同意」を得たことでの正式決定。任期は4年間、本日(2015年10月1日)から2019年9月30日までである。
これで、東京都の教育委員は下記の6人となった。
教育長 中井敬三 ?18年 3月31日
委 員 木村 孟 ?16年10月19日
委 員 乙武洋匡 ?17年 2月27日
委 員 山口 香 ?15年12月20日
委 員 遠藤勝裕 ?18年 3月12日
委 員 宮崎 緑 ?19年9月30日
率直に申しあげて東京都教育委員の評判はきわめて悪い。石原都政時代のお友だち人事で、鳥海厳、米長邦雄、横山洋吉ら札付きの右翼が任命され教育現場を荒廃させてきたからである。石原都政が過去のものになってからも、残滓を引きずって真っ当な姿勢を取り戻していない。
今年、東京都内23区の教育委員会の一つとして、「つくる会」系の中学校歴史・公民の教科書を採択していない。都教委だけが、突出して、歴史・公民ともに、育鵬社版を採用しているのだ。これひとつ見ても、都教委はおかしい。
都立高等学校の歴史教科書の各学校ごとの採択についても、実教出版株式会社の「高校日本史」を採択するなと各校に圧力をかけている。この教科書に、次の記述があるからだというのだ。
「国旗・国歌法をめぐっては、日の丸・君が代がアジアに対する侵略戦争ではたした役割とともに、思想・良心の自由、とりわけ内心の自由をどう保障するかが議論となった。政府は、この法律によって国民に国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし一部の自治体で公務員への強制の動きがある。」
この記述の真実性に疑問の余地はない。しかし、都教委は「一部の自治体で公務員への強制の動きがある。」が、自分への批判だと思い当たって面白くないのだ。バカバカしさに呆れるしかない。
このような都教委ではあるが、乙武洋匡や山口香の任命は明らかに、石原都政の時代には考えられない人事であった。アンシャンレジームからの脱出にひとすじの光明を灯すものとの印象を受けた。しかし、今日まで、その希望は現実とならないままにややもすれば立ち消えそうになっていた。そこに宮崎緑である。
「人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有する」というのが、教育委員の要件である。教育委員の諸氏に、そんなレベルの立派な仕事を期待するものではない。ごく普通の感覚で、教育行政に責任を持ってもらいたい。
私は、新任の教育委員にお願いをしてきた。
明日の主権者を育てる教育環境を整備する重責を担っていることを自覚していただきたい。自分の目で、「日の丸・君が代」強制問題の資料をよくお読みいただきたい。そして、自分の頭でこの問題をよく考えいただきたい。事務局職員の作った要約レジメだけを読んでいたのでは、あなたの職責を全うしたことにはならない。都民への責任を果たしたことにはならない。
長いものではないから、少なくとも、代表的な最高裁判決はよくお読み願いたい。教育庁の事務局に頼らずとも、その程度の検索能力はお持ちだろう。最高裁判決が、都教委の「日の丸・君が代」強制を苦々しく見ていることをよく理解していただけるはず。多数意見でさえ、処分は原則戒告に限り、それ以上の重い処分は違法として取り消している。このことだけでも都教委の恥ではないか。半数を超す最高裁裁判官が補足意見を付して、「日の丸・君が代」強制を都教委のイニシャチブでなんとか解決せよとしてる事実を重く受け止めねばならない。さらに、筋の通った少数意見が「日の丸・君が代」強制は違憲だと厳しく批判していることも知ってもらわねばならない。「日の丸・君が代」強制に反対している弁護団の見解にも耳を傾けてもらいたい。
少なくとも、「日の丸・君が代」強制が真面目な教師を悩ませていることを、憲法や教育基本法が想定している教育のあり方を荒廃させていることをご理解いただきたい。
もう、10年も前のことになるが、関東弁護士会連合会の広報紙「関弁連だより」の「わたしと司法」という欄に、宮崎緑インタビュー記事がある。
そこで、大学での活動を聞かれて、宮崎はこう語っている。
「政策情報学です。20世紀までの学問は,専門化,細分化されて,1つ1つは研ぎすまされたけれど,「木を見て森を見ず」というところがあったと思います。「森」がわしづかみで見えるような学問的な受け皿がなければ新しい時代の対応はできないであろうという考えから今学術会議等でもアカデミズムの再編が課題になっています。そこで,新しく作られたのが政策情報学です。
政策情報学部というのは日本では初めての学部です。物事に対するアプローチが様々な角度から行われ,斬新なことをすることが可能です。「政策」情報学と言っていますが,これは,公的機関の意思決定だけではなくて,企業でもいいし,個人のポリシーでもいいんです。意思決定全てが対象です。」
同氏には、ぜひとも専門としている政策情報学の手法で、10・23通達発出とその後の全過程を対象に分析してしていただきたい。都教委が「日の丸・君が代」強制に踏った意思決定の真の意図・動機をつぶさに検証していただきたい。検証の資料としては、都教委を被告とする山ほどある裁判資料で十分だろう。
そのようにして、「木を見て森を見ず」ということに陥ることなく、「森」をわしづかみで見えるようにして、新しい時代への的確な対応をお願いしたい。それこそ、同氏の任務であり職責ではないか。
たくさんの裁判を抱えていることは、都教委の自慢にはならない。しかも、その多くで都教委は敗訴しているのだ。裁判所からも批判されるその体質を改め、処分の繰りかえしに終止符を打つ努力をお願いしたい。
宮崎緑・新教育委員任用を、石原や石原後継時代とはひと味違ったニュー舛添人事だと思いたい。宮崎新委員の動向に期待しつつ見守りたい。
(2015年10月1日・連続914回)
A アメリカでは、連邦最高裁が今年の6月に同性婚を禁じた州法を違憲と断じて、今や全州が同性婚を認めているそうだね。
B けっこうなことではないか。同性婚の容認は、その社会の寛容度のバロメータだと思うね。個人の精神のあり方やライフスタイルの多様性を尊重するからこその同性婚だ。そんな社会は、個人を縛らない。だから誰にとっても生きやすいのだと思う。
A 何が、非寛容の原因だろうか。
B 一つは社会の多数派の倫理観だろう。これが強固な社会的同調圧力となる。もう一つは一部の宗教的信念だろうね。そのようなものが、政治と結びつくところがやっかいだ。
A 日本では、戦前までは結婚は子をなして家の存続や繁栄をはかるためのものとされた。しかし、現行憲法や戦後の民法は家制度を厳格に廃したじゃないか。いまだに、多数派の強固な倫理観が同性婚に非寛容かね。
B 家制度の残滓はこの社会の至る所にあるではないか。選択的別姓の制度すら、「醇風美俗に反する」という右派の攻撃を受けて実現しない。結婚式は、「ご両家」の主催で誰も怪しまない。女性には、良妻賢母が期待される‥。
A それはともかく、日本では宗教的な理由による強固な反対論は考えにくいが。
B 宗教一般が、同性婚反対というわけではない。しかし、宗教は結婚という制度に深く関わってきた。その宗教が、「神が愛し合うように男女を作り、結婚を祝福した」「同性の愛は神の意に沿わず、祝福の対象とはならない」と説くと、話は面倒になる。
A アメリカでは、法制度としての同性婚は認めても、宗教的信念から個人としては絶対に認めないという、反対派のボルテージも高いようだね。
B それを象徴する事件が起きた。一昨日(9月3日)、ケンタッキー州のある郡の行政担当者が、信仰上の信念から、同性婚に対する結婚証明書発行を拒否したという。連邦地裁からの命令も無視したとして、裁判所は法廷侮辱罪でこの郡の担当者を拘束して収監したとニュースになっている。
A この人、法廷で「神の道徳律と職務上の義務が一致しない。判決に従うことは良心が許さない」と述べたそうじゃないか。「自分の内心が命じる思想や良心」と、「職務上の義務」の不一致は、往々にしてあることではないか。外部からの強制を排して、内心の声に忠実になるというのは立派な行動とは言えないか。
B むずかしい問題を含んでいるが、公務員が明らかに合法で正当な目的をもち、かつ行政に真に必要な自分の職務を拒否することは原則として許されない。結論としては、そう考えざるを得ない。
A たとえば、敬虔なクリスチャン教師が、聖書に書いてあることは真実だという信念から、公立学校の歴史の教科において「天地と生物界は、神が7日かけて創造した」「進化論は間違いである」と教えることはどうなのだ。
B 教員は自己の信念にかかわりなく、文明が真実と確認している事項を生徒に教える義務を負っている。これを教えるべきことは、正当な教員本来の職務だ。それが、教育という営為だし、生徒の学ぶ権利に応えることでもある。たとえ、内心の信念と異なっていてもこれを教える義務を果たさねばならない。
A 要するに、内心の自由よりも、公務員や教員としての職責が優先するということなのか。
B いいや、必ずしもそうではない。上司の明らかに違法な命令には服する必要はない。第三帝国における「ヒトラーの命令だから」、帝国日本の「天皇の命令だから」ということでの残虐行為は免責されない。つまりは、従ってはならない、ということなのだ。
A ジェノサイドや捕虜の虐待の命令なら、内心の良心を優先してこれに従うべきだという話はわかりやすい。しかし、今、そんな極端な違法な命令は考えられない。具体的には、公立校教員の「日の丸・君が代」への起立斉唱命令の拒否について聞きたい。教員としては、公務員である以上は、上司の職務命令に従うべきではないのか。同性婚に結婚証明書発行を拒否することとどこが違うのだ。
B わかりやすい違いは、教員に「日の丸・君が代」を強制することは、教員本来の職務内容ではないということだ。教員は生徒に対して知識と教養を伝える立場にあるが、特定の価値観を注入することは職務内容ではない。「日の丸・君が代」強制とは、教員が率先垂範して生徒に対して国家に対する忠誠や敬意の表明のイデオロギーを注入せよということだ。そのような強制は意識的に排除しなければならない。「従う必要がない」だけでなく、「従ってはならない」と言ってしかるべきなのだ。
A 普通多くの人はそんな大げさなこととは考えずに、軽く立って軽く歌うか、歌うふりをしているんだと思う。日本人なら、当然「日の丸・君が代」を大切にすべきだという考えもあろうに、どうしてそんなに「日の丸・君が代」にこだわるんだろう。
B 同性婚問題と似ているところがある。社会の圧倒的な多数派は、異性間の愛情と結婚を求める。しかし、少数ながら異なる心理や性向をもつ人もいる。「日の丸・君が代」にこだわるグループも少数派だが、少数派の存在も尊重されなければならない。人権とはそういうものだろう。
A そもそも、「日の丸・君が代」とは何なんだ。
B 「日の丸・君が代」という歌と旗はシンボルだ。何を象徴しているかについて、二重の意味がある。一つは、国旗国歌として日本という国家を象徴している。もう一つは、戦前から使われていた大日本帝国の事実上の国旗国歌として、天皇制や軍国主義、侵略戦争や植民地支配という負の歴史を象徴している。
A それで、「日の丸に正対して起立し、君が代を斉唱する」ことをどうとらえるんだ。
B 二重の意味があることになる。一つは、日本国という存在に敬意を表し、尊重するという意味だ。もう一つは、日の丸と君が代が戦意を鼓舞し侵略の小道具となった、あの戦前の歴史を受容するという意味。
A 多くの人はそうまでは思っていないのではないか。
B 真剣にものを考え、熱意ある教育者ほど、この問題にこだわらざるを得ない。少数の考えだから無視してよいということにはならない。
A 職務命令で卒業式や入学式の「日の丸・君が代」が強制され、違反には懲戒処分が続いているそうだが。
B 「日の丸・君が代」の強制とは、国家への忠誠、少なくとも敬意を表明することの強制にほかならない。また、戦前の負の歴史を免罪することへの加担の強制でもある。
ドイツが、学校の生徒にハーケンクロイツへの敬意表明を強制したらどうなると思う? 世界が驚愕するに違いない。実は日本はそれをやっているのだ。国民主権国家になったのに、戦前と同じ「天皇の御代よ、永遠なれ」という「臣民歌」を歌いたくないという人の心情は理解できるだろう。教育の場で、これをすることは子どもたちに、特定のゆがんだ歴史的価値観を押しつけることになる。
A 自分の気持ちにそぐわないから従えないということではないのか。
B もちろん、教員個人の思想良心の核になるところで、受容できないという問題はある。これを受け容れてしまえば、自分が自分でなくなってしまうというぎりぎりのところなのだ。単なる好悪とか気分や好みの問題ではないということだ。
だが、今同性婚証明拒否事件との対比で論じたのは、個人の信条を離れた教員の職責としての問題だ。戦前の臣民教育による洗脳や刷り込みの教育を繰り返してはならないということは、主観的な教員の思いであるよりは客観的な憲法が想定する教員の職務の内容だ。
国家は往々にして間違うものだ。国家のいうことを絶対視してはならない。教育とは、国家に奉仕する人間を育成する場ではない。国家をどう作るかを決める能力のある主権者を育成する場なのだ。
A 理念としては理解できないでもないが、同性婚の証明書発行拒否も、「日の丸・君が代」強制拒否も、同じように自分の思想や信仰を絶対として、公務員としての任務を拒否している感がまだ拭えない。
B 教員が、自分の信念に反するとして進化論を教えることを拒否してはならない。生徒に進化論を教えることは教員の本来的職務に属することなのだから。同様に、同性婚の証明書発行も、その職員の本来的職務に属することなのだから宗教的信念に反するとの理由で拒否することはできない。
しかし、教員に対する「日の丸・君が代」の起立斉唱命令は、教員の本来的職務に属することではないこととして強制し得ない。この理は、憲法の体系と、教育の本質、戦前の教育のあり方に対する戦後教育改革の理念、それが結実した戦後教育法体系によって導かれる結論なのだ。
A 判例はそのことを認めているのかい。
B 最高裁は、今はその半分だけの理解しかない。しかし、やがてはそのことを理解することになるだろう。
(2015年9月5日)
今年(2015年)は、4年に1度の中学校教科書採択の年にあたる。2016年から19年まで使う各教科の教科書を、各地の教育委員会がほぼ決め終わった。
教科書は全15科目。注目は、社会科3科目(地理・歴史・公民)のうちの歴史と公民の両科目。ここに、今回も歴史修正主義者グループの2社が参入しているからだ。「新しい歴史教科書をつくる会」(作る会)から分裂した「教科書改善の会」が教科書の版元として設立した育鵬社(扶桑社の100パーセント子会社)から、本家の作る会は自由社(藤岡信勝らが関与)から、似たような教科書を作って検定には合格している。
もっとも、自由社版の歴史教科書は、「虚構の『南京事件』を書かず、実在した『通州事件』を書いた唯一の歴史教科書が誕生! 自由社の『新しい歴史教科書』が文科省の検定に合格! 『つくる会』教科書の役割はますます重要に」と自賛する代物。
自由社版の、前回2011年公立学校採択は、石原都政下の都教委が特別支援学校10校について100冊(公民のみ)を採択したのが全国でのすべてだった。若干の私立校の採用があって、シェアは歴史が0.07%、公民が0.05%(文科省公表による)と無視しうる数字。今回、国公立校での採択は皆無となった。私立では、常総学院中・東京都市大等々力中・八王子実践中の3校のみの模様。もっとも、私立は集計が進んでいないようで、これからの増はありうる。
これに反して、育鵬社版の前回シェアは、歴史3.7%、公民4.0%と無視しえない。育鵬社は、今回全国で10%のシェアを目指すと豪語して、採択へ向けての運動を展開した。これを阻止しようとするカウンター運動も盛り上がり、この夏は熾烈な歴史・公民教科書採択の戦いでも熱かった。
結果は、まだ全国集計が確定していないが、冊数ペースで育鵬社系教科書が前回4%から6%強にシェアを伸ばした。10%の目標から見ればアチラも不満だろうが、こちらも危機感を持たざるを得ない。育鵬社の歴史・公民教科書は、安倍晋三の歴史修正主義・改憲路線と軌を一にしているからだ。
のみならず、文科大臣が右翼の下村だ。地教行法が改悪されて、首長の意向がストレートに教委に反映する制度ともなっている。その中で6%に押さえたのは、良識派の健闘と言えるかもしれない。
4年前の衝撃は横浜市と大田区だった。この日本最大の都市と大特別区で育鵬社版が採択となった。今年の衝撃は大阪だ。リベラルなはずだった大阪が、維新にかきまわされて、まったくおかしくなってしまっている。橋下・松井らの罪は大きい。
注目地域である東京、神奈川、大阪、愛媛を順に概観する。
まず東京。石原教育行政の遺物である東京都教育行政の右翼精神はいまだ「健在」である。都立の中高一貫校、特別支援学校の歴史・公民教科書に関して、都教委は前回に引き続いて、今年もはやばやと育鵬社版を採択した。しかし、採択は4対2の評決だったとされる。もうひとりが動けば、3対3となるところ。どうにもならないガチガチの都教委体制が、多少の揺るぎを見せてきている。来期に希望をつなぐ経過ではあった。
特筆すべきは、東京23区全部の教育委員会が育鵬社を不採択としたこと。大田区(28校・3500冊)も逆転不採択となった。都教委の動向や日本会議の首長に引きずられるのではないかと懸念されながらも、その他の各区もすべて不採択となった。教員・父母・地域の真っ当な教育を願う声と運動の成果である。
もっとも、都下では武蔵村山市が前回に引き続いて、小笠原村が今回初めて育鵬社を採択した。残念ながら、東京完勝とはならなかった。
次は大阪。前回の育鵬社採択は東大阪市(公民のみ)だけだったが、今回はこれに下記の各市が加わった。
大阪市、河内長野市(公民のみ)、四條畷市、泉佐野市。
これが、市民・府民の意向の反映とは到底思えない。府政・市政を牛耳った維新勢力の教委への影響力行使の結果と見るしかない。もっとも、大阪市教委は、育鵬社版を採用しながら、帝国書院の歴史教科書と日本文教出版の公民教科書を補助教材として使うことも付帯決議している。育鵬社版の問題点や批判は意識してのことなのだろう。
次いで神奈川である。ここは、松沢成文知事(つい先日次世代を離党)、中田宏横浜市長(これも次世代)という保守政治家の影響下に教育委員が選任されたところ。前回は、県立高2校と、横浜市、藤沢市で育鵬社版が採択されていた。
今回、県教委は県立高の歴史・公民についてともに新たに東京書籍版を採用した。教科書使用部数において日本最大の選択地域である横浜市教委では、今回無記名投票で3対3の同数となり岡田優子教育長の職権で育鵬社版を採択したという。藤沢市も前回に引き続いての採択となった。
次いで、以前から問題の愛媛県。今回は、県都松山市と新居浜市が初めて歴史のみ採択となった。四国中央市と上島町が前回に引き続いての歴史・公民の採択。しかし、今治市は、8月28日歴史・公民とも前回の育鵬社版から変更して東京書籍版を採択している。以上、一進一退のせめぎ合いが続いているとの印象が深い。
なお、都県レベルでの採択は、東京・千葉・埼玉・山口・福岡・香川・宮城(歴史のみ)に及んでいる。神奈川が、逆転不採択となったのは前述のとおり。
また、前回に続いて栃木県大田原市、沖縄県石垣市・与那国町(公民のみ)、広島県呉市、山口県岩国市・和木町、防府市の採択があり、今回新規の採択として、石川県の金沢市(歴史のみ)・小松市・加賀市がある。
一方、逆転して両科目不採択となったのが大田区と今治市だが、島根県益田市では歴史だけについて逆転、広島県尾道市では公民についてだけ逆転不採択となった。
なお、私立での採択は清風中(公民のみ)・浪速中・同志社香里中と、これまでのところいずれも大阪府内の学校のようだ。
全国の公立校の採択地区数は580を数えるという。その内、確認される育鵬社版の採択地区数は、30に満たない。微々たるもののようだが、横浜市・大阪市の比重が圧倒的に大きい。冊数単位では、両市だけで4.1%になるそうだ。それあっての全国シェア6%強である。次回の採択は、自ずから横浜・大阪決戦とならざるを得ない。
もう一つ、今年の特徴として「学び舎」の歴史教科書が出たことがある。「学び舎」版歴史教科書とは何か。下記の産経記事が雄弁に語っている。
「来春から中学校で使われる教科書の検定結果が4月6日に公表された。今回の検定では安倍政権の教科書改革が奏功し、自国の過去をことさら悪く描く自虐史観の傾向がやや改善された。だが、そんな流れに逆行するかのような教科書が新たに登場した。『学び舎』の歴史教科書である。現行教科書には一切記述がない慰安婦問題を取り上げ、アジアでの旧日本軍の加害行為を強調する?。」
産経がそう言っているのだから、よい教科書であることは折り紙付き。太田尭さんが推薦し、教育現場からの評価が高い。残念ながら、今年の公立中学校の採択はならなかったようだが、国立の筑波大付属駒場中、東京学芸大付属世田谷中、私立では、麻布中・獨協中・上野学園中・田園調布学園中等部・青稜中・東京シューレ葛飾中・金蘭会中・建国中・大阪桐蔭中・広島女学院中・活水中が「学び舎」版を採択したという。健闘しているといってよいだろう。こちらは教育委員会ではなく、校長が採択の権限をもっている。この動向が大いに注目される。
「フジサンケイグループ育鵬社こそが正統保守教科書です」という育鵬社系のブログでは、「筑駒、麻布といえばわが国有数の進学校で、国家公務員などのエリートを送り出しています。そこが想像以上に左翼体質にむしばまれているのです。教科書改善運動の新たなテーマは学び舎教科書の放逐です」と言っている。彼らなりの危機感である。
4年後の次回採択は、大阪・横浜の大都市地区の奪回と、学び舎版の進出が争点になってくるだろう。教科書が教育のすべてではない。しかし、教科書に何が書かれているかは、すこぶる重要だ。とりわけ、育鵬社の教科書採択運動は、歴史修正主義勢力拡張の運動としてなされていることから、無視し得ない。憲法や民主主義に関心をもつ者にとって、いよいよ歴史教科書・公民教科書の採択は注目すべき運動分野となっている。
(2015年9月3日)
2014年7月の国連自由権規約委員会は、その「勧告22」において、日本に対して「(自由権規約の厳格な要件を満たさない限り)思想・良心及び宗教の自由あるいは表現の自由に対する権利へのいかなる制限を課すことも差し控えることを促す」と勧告した。
同委員会から日本に対して、「思想・良心の自由」に触れた勧告は初めてのことである。当然に「日の丸・君が代」強制問題を念頭においたものである。日本は、この勧告に誠実に対応すべき条約上の義務を負う。
本日は「勧告22」をめぐって、議員会館内で「国連自由権勧告フォローアップ 8・21 三省(文科・外務・法務)交渉」が行われた。必ずしも、各省の態度が誠意あるものであったとはいえないが、それなりの手応えは感じられる内容だった。
とりわけ、文科省の担当者から、卒業式・入学式における「内心の自由の告知」について、「各学校において、内心の自由を告知することが適切な指導方法だと判断される場合には、そのような指導方法も創意工夫のひとつとして許容される」という趣旨の答弁があったことが印象的な大きな収穫だった。
「内心の自由の告知」とは、典型的には式の直前に司会から説明される次のようなアナウンスである。
「式次第の中に君が代斉唱がございます。できるだけ、ご起立の上斉唱されるようご協力をお願いいたしますが、憲法上お一人お一人に内心の自由が保障されております。けっして起立・斉唱を強制する趣旨ではないことをご承知おきください」
「内心の自由の告知」は、10・23通達発出以前には過半の都立校で行われ、同通達以後は一律禁止されてもう12年になる。考えてみれば、学校の判断と責任とで、これくらいのことができるのは当たり前のことだが、今のご時世では、この程度の答弁を引き出すことが大きな収穫なのだ。
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引き続いての記者会見。その席で、私に求められたのは、「日の丸・君が代」強制の何が問題か、という説明。
「日の丸・君が代」強制とは、公権力が個人に対して、国家の象徴である歌や旗に対して敬意の表明を強制する行為です。その問題点は、次の3点にまとめられると思います。
第1点は、そもそも公権力がなし得ることには限界がある。国民に対して「日の丸・君が代」に敬意を表明することの強制は、その限界を超えた行為としてなしえないということ。
第2点は、憲法が保障する思想良心の自由の侵害に当たるということ。
そして第3点が、公権力が教育に介入しナショナリズムを煽る方向での教育の統制にあたることです。
まず第1点です。
立憲主義のもとでは、主権者国民がその意思で国家を作り、国家がなし得る権限を与えたと考えます。公権力はその授権の範囲のことしかなしえません。「日の丸・君が代」は、国家の象徴です。この旗や歌に対する敬意表明を強制する行為は、国家が主権者である国民に対して、自分に敬意を表明せよと命令していることになります。つまりは、被造者が創造主に対して、自己への敬意の表明を強制しているのです。こんなことは背理であり、倒錯としか言いようがありません。
また、一般論としては、公権力は公務員に職務命令を発する権限があります。公務員は上級に従う義務があります。そうでなくては、公務員秩序を保つことができません。しかし、上級は下級に、なんでも命令することができるわけではありません。自ずから合理的な限度があります。公権力が、「我を敬え」と強制するような職務命令はこのような限度を超えるもので、立憲主義の原則からは有効に発することができない、と考えざるをえません。
次いで第2点です。
「日の丸・君が代」は、戦前の天皇崇拝や軍国主義・侵略戦争・植民地支配の負の歴史と、あまりにも深く結びついています。このような旗や歌は、自分の思想や良心において受け容れがたく、それへの敬意表明の強制は、自分の思想、あるいは教員としての良心を深く傷つけるものである場合、強制はできません。これこそ、憲法19条が保障するところです。
第3点は、教育は公権力の統制や支配から自由でなければなりません。この近代市民国家での常識からの逸脱です。主権者国民が国家を作るのであって、国家が国家に都合のよい国民の育成をはかろうとすることは筋違いも甚だしいのです。
国家は教育行政において教育条件整備の義務は負うが、教育の内容や方法に立ち入ってはならない。それは、公権力による教育への不当な支配として違憲違法になります。
教育の場での「日の丸・君が代」強制は、国家が国家主義イデオロギーを子どもたちに注入していることにほかなりません。この強制は直接には教員に向けられていますが、実は教員の背後にいる子どもが被害者です。国家が思想を統制し、教育を支配したときにどのような事態となるか、私たちは、敗戦までその実例をイヤと言うほど、見せつけられたではありませんか。
立憲主義、思想・良心の自由、国家に束縛されない自由な教育を受ける権利。いずれも、戦後に日本国憲法とともに日本の制度となったもので、「戦後レジーム」そのものです。安倍政権のいう「戦後レジームからの脱却」は、まさしく「日の丸・君が代」強制路線であり、教育を国家主義に染め上げようというものにほかなりません。
いま、「日の丸・君が代」強制を許さないたたかいは、憲法を守り民主的な教育を守る運動の一環であって、安倍政権の改憲路線や戦争法案成立強行の動向と対峙する意味を持っているものと考えています。
(2015年8月21日)
本日は、東京「君が代」裁判・4次訴訟の第6回口頭弁論期日。東京地裁527号法廷が、代理人席傍聴席とも満席となった。原告の準備書面(5)の陳述に加えて、原告1名、原告代理人1名が口頭で意見陳述をした。
「日の丸・君が代」強制の職務命令違反を理由とする懲戒処分の効果は、第1次訴訟の最高裁判決が、かろうじて処分の合憲性を認めたが、損害を伴わない戒告のみにとどめるべきとして、減給停職等の実質損害を伴う処分は過酷に過ぎて違法とされている。
石原教育行政の処分の量定は以下のように累積加重するものであった。
1回目不起立 戒告
2回目 減給(10分の1・1か月)
3回目 減給(10分の1・6か月)
4回目 停職1月
5回目 停職3月
6回目 停職6月
おそらくは、7回目で免職を考えていたはず。
この累積加重の懲戒処分の手法を我々は、「転向強要システム」と呼んだ。心ならずも、思想・良心を枉げて、国旗国歌(「日の丸・君が代」)への敬意表明強制の屈辱を受け入れるまで、処分は加重され、それでも拒否し続ければ最終的には失職を余儀なくされる。400年前の、あのキリシタン弾圧の踏み絵と同じ構造だというのが我々の主張である。最高裁は、この点を認めた。最高裁が認める処分の量定は、原則戒告だけなのである。
もちろん、原告団も弁護団も、それで満足していない。違憲の判断を求めて、裁判所を説得する努力を重ねている。訴状と、その後の5本の原告準備書面は、違憲論で埋めつくされている。本日陳述の準備書面(5)も同様である。そして、その中のさわりを弁護団の雪竹奈緒弁護士が語った。
テーマは「儀礼・儀式論」である。最高裁の合憲判断の理由中に、「卒業式の国旗国歌掲揚は儀礼・儀式に過ぎない」と述べられている。「儀礼・儀式に過ぎないものの強制は、直接に思想良心を侵害するものとはならない」との文脈である。これへの反論の仕方には、「儀礼・儀式であっても、その強制は思想良心の自由を侵害しうる」というものもあるが、本日の雪竹弁護士の論旨は、「学校行事における儀礼・儀式こそ、子どもへの特定の思想刷り込みの手段として危険なもの」ということにある。
長文の準備書面の一部の要約だが、短くすることで、ポイントを凝縮した分かり易い意見陳述となった。以下、その原稿を掲載する。
なお、原告本人(数学科教員)の陳述も、教育の場における「日の丸・君が代」強制の問題点を浮かび上がらせて、立派な内容だった。残念ながら、当ブログへの掲載の許諾を得ることを失念していた。後日あらためて掲載したい。
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意 見 陳 述
東京地方裁判所民事第11部乙B係 御中
原告ら訴訟代理人 弁護士 雪竹 奈緒
1 本件で問題となっている国旗掲揚・国歌起立斉唱につき、最高裁判所は、「学校の儀式的行事」における「慣例上の儀礼的な所作」であって、個人の思想良心を直ちに制約するものではない、と述べています。また都教委は、国旗掲揚・国歌起立斉唱は「国際儀礼」である、として、やはり「儀式」「儀礼」であるから思想良心の侵害にはならない、と主張します。
しかし、「儀式である」から、「儀礼である」から、起立斉唱を命令しても思想良心を侵害しない、ということになるのでしょうか。むしろ、「学校儀式」における「儀礼的所作」こそが子どもへの思想注入に利用され、大変恐ろしい結末をもたらしたという歴史的事実があったのだという現実を、私たちは決して忘れてはなりません。
2 戦前の小学校や中学校においては、三大節や四大節といった国家の祝祭日に、学校儀式を挙行することが、小学校令施行規則などによって定められていました。その内容は、時期によって多少の違いはあるものの、おおむね「唱歌君が代合唱」、「天皇・皇后の『御真影』への一同最敬礼」、「学校長教育勅語奉読」等を含むものでした。昭和期にはいって発表された文部省「礼法要綱」では学校儀式の順序・方式等を細かく定め、全国で画一的な学校儀式が挙行されてきました。
戦前の学校教育は総体が、教育勅語を中心として「忠君愛国の志気を興す」国民教化の場でしたが、特に学校儀式については、四大節に関する教材に以下のような教員向け記述があります。「天長節の儀式と緊密に関連させて、最後に右のごとき心構を喚び起こし得るように取り扱う。」その内容として「みんな天長節の式に列して、ほんとうにおめでたい日であると思った。お写真を拝んでありがたいと思った。天皇陛下の御恵みをうける私たちは、みんなしあわせである。天皇陛下が益々お健やかで、日本の国が益々栄えていくことをうれしいと思った。わたしたちも、先生のいいつけをよく守って、りっぱな国民にならなければならない、という覚悟をつよくした。」とあります。
すなわち、学校儀式は、児童生徒にこのような忠君愛国の心構えを植え付ける目的があることを明言しているのです。
実際、戦前の学校儀式を体験した人たちの証言では、「私たちの周囲には国とか天皇とかいうただならぬものがたちこめていて、子供心に私はすくなくともただならなさは感じとっていた」とか、「(御真影は)何かわけが分からぬながら、畏敬すべきもの、この世のほかのものという印象を受けていた」など、厳粛な雰囲気の学校儀式の中で、天皇や国家が神聖化され、「何かわけが分からぬながら」ひれ伏すべきもの、という心情が醸し出されていったことが見てとれます。
国家は目に見えない抽象的なものであり、天皇ははるか遠くの存在です。それを、旗や歌、御真影といった「目に見えるもの」「感得出来るもの」に象徴させ、それらを使った儀式を繰り返し行うことによって、国民に、天皇や国家への絶対服従を刷り込んでいったのです。
このような忠君愛国精神の国民に統合された国家がいかなる悲劇を生んだかは、あらためてここで申し上げる必要もないと思います。
3 10・23通達は戦前回帰だ、というと、「何を大げさな」「この近代民主主義国家で、今さら、あのころのような戦争体制に戻るはずはない」とお思いになる方が多いかもしれません。しかし、つぶさに見ていくと、それが決して杞憂でないことがお分かりいただけると思います。
かつて国家統合の象徴として利用された「君が代」や「日の丸」を中心に据えた儀式。
御真影の位置や式の順序等を詳細に定めた戦前の学校儀式同様、国旗の掲揚位置や式次第、会場設営まで詳細に定めた画一性。
何よりも、「厳粛かつ清新な」雰囲気の中で例外なく全員を起立斉唱させることで、ただなんとなく「全員が起立斉唱するのが当然のもの」「国旗・国歌は敬意を表すべきもの」という雰囲気を醸し出すこと。
なんと、戦前の儀式の光景に似ていることでしょうか。
10・23通達の実施の指導の中で、近藤精一指導部長が次のような発言をしています。「卒業式や入学式について,まず形から入り,形に心を入れればよい。形式的であっても,立てば一歩前進である。」
「形」すなわち儀式から入り、後に「心」を入れる。まさに、戦前の学校儀式と同じ意図を有していることを、都教委自身が告白しているのです。
4 10・23通達について、これは教師や生徒にロボットになれというのと同じことであるとし、ナチスの将校、アイヒマンの例を引いて警鐘を鳴らす学者もいます。アイヒマンは、ナチス・ドイツの占領したヨーロッパ全域からユダヤ人をポーランドの絶滅収容所に移送する責任者で、ホロコーストに大きな責任を負っている人物でした。しかし彼は、上司の命令をただ伝えただけだと裁判で抗弁し、自分が義務に忠実であったわけで、ほめられることはあっても犯罪者ではないと主張しました。
行政や上司の命令について、その内容を吟味することなく無目的に従うことを当然視する教員が多くなってしまえば、皆がアイヒマンになってしまうわけで、その命令が誤っていたときに取り返しのつかない結果をもたらすことになるのです。
5 現在、国会で議論されている、いわゆる安保関連法案について、「戦争できる国家体制づくりだ」と批判する声が上がっています。「戦争できる国家体制」に、「国家に絶対服従する国民」がそろったら、この国はどうなってしまうのでしょうか。いま、この国は重大な岐路に立たされています。
平和国家70年の歴史に恥じないご判断を裁判官の皆様にお願いして、私の陳述を終わります。
(2015年7月10日)
「右翼」の定義は難しい。もしかしたら、不可能かも知れない。あれこれ考えた末の暫定結論は、「アンチ『左翼・リベラル』の立場」というほかはない。月は自身で光らず、太陽光を反射するだけの存在。右翼も同様、自らに積極的な思想らしい思想の体系があるわけではない。左翼・リベラルの主張や発言への反発を口にする反射神経を持ち合わせているだけ。結局はそれだけで、それ以上のなにものでもない。
太陽光がなければ月の存在は目に見えない。社会に左翼・リベラルの行動や発言がなければ、右翼の存在もなきに等しい。不可思議な共棲関係、あるいは片面的な寄生関係というほかはない。なお、私自身はリベラルを徹底した先に左翼が位置するという理解なので、「左翼・リベラル」とひとくくりにすることに抵抗感はない。
左翼・リベラルの特性の一つとして個人主義がある。個人の自立・自立した主体の自由・個性の輝きを基底的な価値とする。ひとくくりに他と束ねられることを拒否して、自分が自分であることを大切にする。右翼はそのアンチを主張して、国家・民族・社会秩序などを重んじるという。
個人の自由に敵対する主要な存在は二つある。一つは、国家権力であり、もう一つは社会の同調圧力である。「個人対国家」、「個人対社会」の自立・自由をめぐるせめぎ合いを象徴するものとして、国旗・国歌の取扱いがある。左翼・リベラルは、個人を束ね、絡めとり、個の自立や自由に敵対する作用をものものとして国旗・国歌を基本的に受け入れがたい。これを受け入れるよう期待する社会の圧力にも反発せざるを得ない。
また、左翼・リベラルは、国家や民族を単位としてものを考えないから、日本の負の歴史を直視することを躊躇しない。その目でみた、「日の丸・君が代」は、旧天皇制とのあまりに深い結びつきを払拭し得ない。天皇主権・軍国主義・超国家主義・権威主義・思想統制と異端に対する弾圧・差別容認・監視国家体制等々の日本の負の歴史を背負った存在として、「日の丸・君が代」を受け入れがたい。右翼は、「左翼・リベラルに反対」だから、「国旗国歌」にも「日の丸・君が代」にも大賛成なのだ。
昨日(6月25日)の産経社説が、《国旗国歌 敬意払うのが自然な姿だ》という社説を掲げている。右翼の心性丸出しである。もう少しまともな議論ができないのだろうかと嘆かざるを得ない。とはいうものの、まともに産経社説を相手にする真っ当な識者もなかろうから、私が反論を認めておくこととしたい。
まず、表題からおかしい。《国旗国歌 敬意払うのが自然な姿だ》というが、自然な姿がよいなら、現状あるがままの大学の自然の姿に放っておけばよいのだ。ところが、大学の自治への権力的介入という不自然をけしかける内容になっているから、きわめて不自然で分かりにくい主張であり表題となっている。
国旗国歌に敬意を払うべきだと考える思想があってもよい。しかし、国家を敬意の対象とすべきとする思想は、けっして「自然」なものではない。むしろ、権力に好都合な思想として、警戒を要する思想と言わねばならない。また、当然のことではあるが、国旗国歌に敬意を払うべきだと考えない人々に、この思想を押しつけることはできない。
《国旗、国歌はその国の象徴として大切にされ、互いに尊重するのが国際常識だ。》
これは不正確。「国家が民意を反映している限りにおいて、あるいは、国家が国民から支持されている限りにおいて、その国の国旗・国歌は、国民によって大切にされる。」というべきである。さらに正確には、「国旗、国歌は国家の象徴として大切にされることもあれば、ないがしろにされることもある。」「国家への抵抗の象徴的行為として、国旗が抗議の対象となることもしばしばある。」「国家への抗議の表現として、国旗が焼かれることも踏みつけられることもあり、分けても人種差別が顕著なアメリカ合衆国では、黒人による国家への抗議行動において星条旗受難の歴史がある」と続けなければならない。
《国旗国歌は、互いに尊重するのが国際常識》であることは、大学における「日の丸・君が代」強制と何の関係も持たない。まったく、これっぽっちも、である。運動会に万国旗を飾ることの理屈に役立つ程度であろう。しかも、《国旗国歌は、互いに尊重するのが国際常識》と言い切るのは実は困難なのだ。独裁国家、極端な人権弾圧国家の国旗国歌の尊重は、人権侵害に手を貸していると見られる恐れを拭えない。また、国旗国歌の尊重が国際紛争の一方当事者への加担と見られることすらある。台湾の国旗・チベット国旗・アイシル国旗、イロコイの国旗、ラコタの国旗、南オセチアの国旗…、その尊重には難しさがつきまとう。要するに、「自国が認めている範囲での相互主義の反映」に過ぎないのだ。
また、産経の文章は、国旗国歌の尊重が、「現実にそうなっている」というのか、「そうなるべきだ」と言っているのかはよく分からない。意識的に避けているようにも読める。
《ましてや国民が自国の旗などに敬意を払うのは自然な姿だ。》
驚いた。これは、一種の信仰告白である。根拠や理由についての一切の説明なく、どうしてかくも安易に断定できるのか。しかも、なにゆえ自分の意見を他人に押しつけることができると考えているのか。まったく理解に苦しむ。
私はまったくの別意見だ。国旗国歌とは国家という人工的組織の象徴である。国家とは暴力に支えられた権力構造体である。うかうかしていると、いつ国民に襲いかかってくるやも知れぬ危険きわまりない代物。暴発せぬよう、押さえつけておくべき警戒の対象でこそあれ、敬意を払うべき対象ではあり得ない。「敬意を払うのは自然な姿だ」とは、アンチリベラルの右翼、あるいは全体主義者・国家主義者に特有の心性でしかない。このような産経流の国家観・国旗国歌観には、70年前の日本国民が別れを告げたはずではなかったか。
《下村博文文部科学相が、国立大の入学式や卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱を適切に行うよう学長会議で要請した。妨げる方がおかしい。学長らは国旗、国歌の重要性を認識し、正常化を進めてほしい。》
ここで論理がとんでもなく飛躍した。《敬意を払うのは自然な姿だ》というなら、それぞれの大学の自然に任せれば良いこと。どうして、札付きの右派である文科大臣が、大学の自治への介入という批判を押し切ってまで、不自然極まる「要請」をしなければならないのか。大学の財布の紐を握っている国の「要請」は、実は「強要」にほかならない。
国家は特定の思想や価値観を持つことを禁止される。国民の多様な思想や価値観に寛容でなくてはならないからである。「カネを出すから、国の言い分に随え」と言ってはならない。これがあらゆる部門にわたっての国家の基本的なルールである。ましてや大学とは、大学の自治、学問の自由が貫徹されなければならない場である。公権力のイデオロギーに左右されることのない、自由な学問の研究と教授の自由こそが、社会に不可欠だと確認されている。これは、憲法原則(憲法23条)ともなっているのだ。恐るべき、文科相と産経のタッグを組んでの憲法原則への挑戦というほかはない。
《文科省によると、国立大86校のうち今春の卒業式で国旗を掲揚したのは74校、国歌斉唱は14校にとどまっている。東大、京大のように国旗掲揚、国歌斉唱とも行っていない大学が10以上ある。下村文科相は要請にあたって「各国立大の自主的な判断に委ねられている」と配慮したうえで、「大学の自治や学問の自由に抵触するようなことは全くない」と述べた。その通りである。》
何とも愚かしい文章である。《各国立大の自主的な判断に委ねられている》のなら、口を出してはならない。文科省がスポンサーとして口を出すことが、「大学の自治や学問の自由に抵触する」ことは自明ではないか。愚かな文部行政を、愚かな右翼メディアが支えているの図である。
《国旗と国歌の適切な取り扱いは、大臣がわざわざ要請する以前に、各大学の学長の判断で行うべきことだ。できないのは一部教職員らの反対を恐れるからだ。》
いやはやとんでもない。大学人とは、知性を持つ集団である。「大学に国旗と国歌を持ち込むことに賛成」などという知性を欠いた人物は、皆無ではなかろうが圧倒的少数にとどまる。戦争法案違憲論が圧倒的な憲法学者の中で、3人だけの合憲論者がいた。このくらいの比率でしかなかろう。にもかかわらず、「国旗掲揚74校」と聞けば、驚かざるを得ない。スポンサーへのおもねりの結果というほかはない。
《スポーツの国際大会で選手、観客とも対戦相手の国旗、国歌を含め敬意を払う態度は自然であり、国旗、国歌に背を向ければ非難される。》
何度も出て来る「自然」。「自然」であるべきことに国が口出しすることはない。「自然」と言いつつ、不自然に口を出し、介入し、さらには強制を合理化しようというのだ。スポーツをナショナリズム高揚の手段に使おうという意図が透けて見える。スポーツを国旗国歌強制の口実とし続ければ、スポーツ自体の問題性が国民的な議論の対象にならざるを得ない。
《ところが日本の教育現場では小中高校などの入学、卒業式で国歌斉唱であえて起立せず、国旗掲揚や国歌斉唱を「強制」などと批判する教師らが相変わらずいる。大学での反発が強いことは予想されたことではある。海外から多くの留学生を受け入れる国立大の節目の式で国旗掲揚、国歌斉唱を行わない大学がある現状は恥ずかしい。》
ようやくのホンネである。要するに、「大学人は、国家に服従する思想に自発的に転向せよ。でなければ、大学に対して徹底して国旗国歌を強制せよ」という産経の主張なのだ。こんな「強制」を行っているのは、人権後進国である北朝鮮と中国しか実例を知らない。人権尊重を掲げる文明国ではあり得ないことなのだ。むしろ、留学生を受け入れる国立大の節目の式で国旗掲揚、国歌斉唱などを行う大学がある現状は、恥ずかしいことこの上ない。
《しかし国際的な常識や儀礼を否定してまで、特定の政治的主張を押し通そうとすることこそ、学問の自由などをゆがめるものではないのか。》
めちゃくちゃな「論理」である。特定の政治的主張を押し通そうとしているのは、文科省であり、産経である。これは水掛け論ではない。国民には多様な思想が許容されており、その多様性を保障するために国家は価値中立でなければならない。そして、国民の多様な思想の共存を妨げる権力の行使が禁止される。だから、国旗国歌に敬意を表明すべきという思想を強制してはならない。明らかに違憲・違法なのだ。
国家は、特定の価値観を持ってはならず、ましてや国民にこれを押しつけることはできようもない。国民個人の思想・良心の自由は保障されている。産経主張は、国家主義者・全体主義者の目から見た、逆さまの世界観である。こんなまやかしの論理で、国家の思想統制を許してはならない。
《さまざまな機会を捉え国旗、国歌を大切にしたい。》
産経のボルテージの高さは、経営政策上このような主張で購読部数は減らない、と読んでのことである。このように思わせている一定の読者層の存在があるのだ。右翼メデイアは右翼購買者に支えら、また右翼を再生産もする。この文科省の愚行を礼賛する産経の論調は、国家主義が危険水域に達しつつあるのではないかとの不気味さを覚える。さまざまな機会を捉えて、国旗・国歌強制の動きにプロテストしなければならない。
たいした問題ではないと高をくくって看過していると、既成事実の積み重ねが取り返しのつかない大変なことになりかねない。ここにも「既に戦前」の影が忍びよっている。
(2015年6月26日)
「安倍政権の教育政策に反対する会」を代表して開会のご挨拶を申し上げます。月曜日の正午スタートという、ご都合つきにくい日程にもかかわらず、参議院議員会館での教育を考える集会に多数ご参集いただきありがとうございます。
本日の集会のメインタイトルは、『いま、教育に起っていること』であります。
まことにさまざまなことが、いま、教育に起こっております。到底見過ごすことができないことばかり。ひとつひとつのできごとをしっかりと見つめ、見極めなければなりません。この教育分野のできごとは、けっして教育分野独自の問題として独立して生じているわけではありません。当然のことながら、教育問題も政治的・経済的・社会的な全体状況の一側面であります。他の政治や経済や社会状況と切り離して論じることはできません。そのような問題意識が、サブタイトル『戦争法とも言われている安保法制下での教育、ふたたび』として示されています。
国会の内外は、戦争法案審議の成否をめぐって、いま騒然たる状況にあります。その騒然たる状況は、全国津々浦々の教育現場の状況と密接に関連しています。初等中等教育に、政権が、あるいはその意を受けた地方権力が、乱暴な介入をしているだけでなく、いよいよ大学教育にも政権の介入が及ぼうとしています。
その政権が、昨年7月1日の集団的自衛権行使容認の閣議決定に続いて、いま戦争法案を国会に上程しました。衆議院での審議は紛糾し、政府与党は本日にも大幅な会期延長で、なんとか今国会での法案の成立を画策しています。これまでは我が国の外交にも内政にも、戦争・参戦という選択肢はありませんでした。自衛隊ありといえども、専守防衛の原則を厳守するというタテマエから踏み出すことはできなかったのです。ところが、いま、世界のどこにでも日本の武装組織が出かけていって戦争をする、戦闘に参加する、そういう選択肢をもつ、国に変えようというたくらみが強引に推し進めらようとしています。
もし、政権の思惑通りにことが成就するとすれば、まさしく憲法の平和主義からの大きな逸脱であり、これこそ「戦後政治の総決算」であり、「戦後レジームからの脱却」というほかはありません。この政権の動きと軌を一にして、教育も、そのような政策に奉仕する人材を育成する内容に変更されようとしている、と考えざるをえません。
戦争を政策選択肢とする国とは、いつもいつも効率よく戦争を遂行できるよう、万全の準備を怠らない国です。いざというときには、政権の呼びかけに応じて全国民が一丸となって戦争に参加しなければなりません。そのような国を支える教育とは、いったいどんなものなのでしょうか。
自らものを考え行動する自立した主権者を育てる教育とは対極にある教育。権力が望む批判精神を欠いた国民を育成する教育。結局のところ、権力の意思を子どもたちに刷り込み、国家の言いなりに動く人材を育成する教育。その政策の根底には、国民個人を軽んじる国家主義ないしは軍事大国化の志向があり、大企業の利益に奉仕する新自由主義があります。
本日は、何よりも教育の分野総体が、いったいどうなっているかを正確に把握したいと思います。そして、その背景を煮詰めて考える手がかりを得たいと思います。冒頭に総論として世取山洋介さん(新潟大学教授)の基調講演をお願いしています。「教育情勢全般の状況について」という世取山さんならではのご報告に耳を傾けたいと思います。そのあと、各論として、まず俵義文さん(子どもと教科書全国ネット21)から重大な局面を迎えている教科書採択状況についてのご報告。また、近時新たに大きな問題となってきました政権の大学の自治への攻撃をめぐる問題について岩下誠さん(学問の自由を考える会事務局長・青山学院大学准教授)から、さらには教育の歪みの端的な表れである学校でのいじめ問題について武田さち子さん(ジェントルハート理事)に、それぞれ20分ずつのご報告をいただき、その後ご参加いただける議員や会場の皆さまを交えての意見交換をいたしたいと存じます。
目指すところは、戦争法案と同じ根っこから顔を出している政権の全面的な教育介入に対する摘発です。戦争法案とともに、政権の教育への不当な介入も吹き飛ばすにはどうすればよいのか。教育を「ふたたび」戦前に戻してしまうような愚かさを繰り返すことのないよう自覚しなければならないと思います。そのために、本日の集会が充実した実りある議論の場となりますように、皆さまのご協力をよろしくお願いいたします。
(2015年6月22日)
舛添要一さん、あなたの都知事としての言動には、注目もし期待もしている。注目しているのは、都政が人権や民主主義あるいは教育・環境・消費生活等々に、とても大きな影響をもっているからだ。とりわけ、私の当面の関心は都立校での国旗国歌強制政策の転換だ。
期待しているのは、あなたの姿勢のリベラルさ故にだ。保守であってもリベラルではありうる。リベラルでさえあれば話し合いも歩み寄りも折れあうこともできる。その点、石原慎太郎とは大違いだ。東京都のホームページ「知事の部屋」で、あなたの記者会見の模様を動画で見ることができる。毎週金曜日午後3時からの定例記者会見の要旨は、各紙が報道もしている。就任以来のあなたの発言の態度も内容も、概ね好感のもてるものだ。もっとも、石原慎太郎との比較をベースにしてのことだから、あなたにはご不満だろうが。
石原記者会見は、やたらに威張りたがるキャラクター丸出しの不愉快な雰囲気だった。威圧的な姿勢に若い記者が気圧されていた。あなたの前任の石原後継知事も「威張りたがりキャラクター」のDNAを受け継いでいた。しかし、あなたは違う。目線を同じくして飾らずフランクに記者諸君と話し合う姿勢の好感度は大だ。やたらと威張らないというそのことだけで、石原時代よりもずっと期待がふくらむのだ。
あなたの言っていることは、常識的でリベラルだ。知性の自信に裏打ちされた余裕を感じる。憲法理念への理解も相当なものだ。都政がいつまでも暗黒の中世から抜け出せないでは困るのだ。あなたに、開明のルネッサンスへの転換の期待がかかっている。
ところが、「日の丸・君が代」問題については、どうもあなたの言うことがおかしい。リベラルでもなければ、知性の片鱗も見えない。ルネッサンスの明るさはなく、キリシタン弾圧や特高警察時代の暗さのままだ。どうなっているのだろう、と首を傾げざるを得ない。
舛添さん、あなたはあまりにも事実の経過を知らない。いや、知らされていない。また、あなたも知ろうとしていない。おそらくは関心が振り向けられていないのだ。教育委員会が独立行政委員会であることを口実に、面倒な問題を避けているとしか見えない。しかし、この問題の発端は石原都知事の国家主義イデオロギーを教育に持ち込んだところにある。あなたには、都知事としてこの右ブレを是正する責任がある。ことは、教育の問題であり、民主主義に大きく関わる問題なのだから、良心と勇気をもっていただきたい。
あなたに関心ないとして放置されては困る。ぜひとも、現状の教育の歪みを是正し、誰が見ても異常な東京都の教育を真っ当なものとする努力をしてもらわねば困るのだ。困るのは、訴訟当事者や教員だけではない。何よりも教育現場の子どもたちが困る。明日の主権者を育てる教育そのものが困り果てている。都民が困る。国民が困る。舛添さん、あなただって、このままでは教育には見識のない不適切知事と指摘されることになって困るはずなのだ。
まずは、もう少し、首都の公立校の教育現場の実情とこれまでの経過について、正確に把握されるようお願いしたい。教育庁幹部の、保身の報告だけを信用していたのでは、無能なお飾り教育委員同様、裸の王様のままとなってしまう。
少なくともこれだけは押さえていただきたい。1989年学習指導要領の国旗国歌条項改定前の「都立の自由」がどのようなものであったか。1999年国旗国歌法の内容はどのようなものであったか。同法案の審議の経過では「国旗国歌を強制するものでない」ことがあれだけ繰りかえし強調されながら、「石原教育行政」はどのようにして強制に踏み切ったのか。2003年10月の「10・23通達」が、どのような経過で出され、どのように教育現場に混乱を持ち込んだか。そして、いくつもの訴訟で、どのような判決が出ているのか。そして、現在なお、多くの訴訟が継続中で、最近の判決は都教委の連戦連敗であること、などである。そして、最高裁判決に付せられた、異例の補足意見の数々をよくお読みいただきたい。最高裁の裁判官諸氏は、けっして「日の丸・君が代」強制を問題ないとはしていない。むしろ、ぎりぎり「違憲とまでは言えない」とはしつつも、都教委の強引なやり方に苦り切った心情を露わにして、なんとか事態を改善しろよ、と言っていることを知ってもらいたい。
これまでの都の教育行政による、反憲法的反教育的な教育への介入に、直接あなたの責任があるわけではない。責任があるのは、石原都知事であり、その提灯持ち教育委員であり、それにつるんだ右翼都議の何人かであり、使い走りをさせられた教育庁の幹部職員である。
その多くは既にその任にはない。幹部職員に若干の残党がいる程度。あなたはいま、英断を下すことができる立場だ。しかし、時期を失すると、あなた自身の責任が出て来る。後戻りが難しくなってくる。早期に、手を打っていただくことが肝要だ。
私は確信している。あなたの感覚なら、経緯さえ正確に把握すれば「日の丸・君が代」不起立の教員の心情を理解できないはずがない。思想・良心の自由(憲法19条)、信教の自由(20条)、個人の尊厳(13条)への洞察の素養があるはずだ。にもかかわらず、あなたは、教育庁の担当職員にブロックされて、これまで都教委がいったい何をやって来たのか、いまどんな問題を抱えているのか、何も知らないことをさらけ出した。それが、6月12日金曜日の定例会見の席上でのことだ。
「週刊金曜日」の記者が、東京都敗訴の最近2判決についてあなたに質問をした。そのやや長い質問自体から、記者が問題に精通していることは明らかだった。ところが、質問を受けたあなたの方はほとんど何も知らないことを明らかにした。何も知らないが、自ら知ろうとはしない。この問題を都教委任せにしていればよいとの姿勢であることが明確になった。
記者の質問は、都(都教委)が1週間に2度の敗訴判決を受けるという異常な事態を踏まえて2点あった。
第1点 東京高裁の都教委敗訴判決がその理由中で、「都教委の国旗国歌問題に関する懲戒処分の量定決定は機械的な累積加重の手法となっている」「これは教員の思想・良心の自由を侵害する」と判示している。ここまで裁判所が明示した以上は機械的累積加重処分はやめるべきだと思うが、この点についての知事の見解を伺いたい。
第2点 これまで10・23通達以後の君が代処分を受けた教師は474人にのぼっている。この教師たちは、都と話し合いで問題を解決したいと望んでいる。教育の正常化のためにこれに応じる意思はないか、知事の見解を伺いたい。
これに対するあなたの回答は、おかしいものとなった。しかし、そのおかしさ自体が貴重な情報だ、削除せずに全部の映像を公開していることを評価したい。あなたは判決を読んでいないだけでなく、判決の内容や要旨の報告さえ受けていない。質問した記者の説明にもかかわらず、機械的累積加重処分の意味も理解できていない。そもそも裁判で、何が争点となり、なぜ東京都が惨めに敗訴したか、担当職員からの説明はなかったと判断せざるを得ない。
質問した記者も指摘をしているが、あなたには基礎事実について、大きな誤解がある。
どうも、あなたは、474人の懲戒処分の根拠が「国旗国歌法違反」にあるとお考えの節がある。
最後は、意味不明となる発言まで拾って、つなげてみると以下のようになる。
「国権の最高機関が法律を作っているわけですね。国旗日の丸、国歌君が代ということで。だから、公務員でありますから、当然それを守らないといけないという義務がある」「だから、これは思想の自由の侵犯だみたいな形では簡単にいかない」「国旗国歌法自体が、それでは憲法違反なのかと、こういう議論にもなるので」「私は国権の最高機関が決めたことなので、今言った問題点があるとしか申し上げません」「国歌って歌うから国歌ではないですか。そうでしょう。だから、そこまで言うと、それは屁理屈の世界になってしまうので、私はやはり国権の最高機関で決められたものは守るべきだと思っています。」
舛添さん、あなたは、「国旗国歌法を守らなければならないのか否か」を争点として訴訟が行われているとのご理解のようだ。知事就任以来、1年半に近い。その間、職員の誰一人として、あなたに訴訟の概要についての説明をする者がなかったということになる。
舛添さん、教育行政に関心をもっていただきたい。石原知事は極右の立場から、過剰に教育と教員行政に干渉した。それを放置していてはならない。都教委が、都知事から独立した立場にあることへの配慮は当然として、6月12日記者会見での質問には、まともに答えられるようにお願いをしたい。
何よりも、事実を知っていただきたい。私に報告を求められれば、喜んで出向きたい。あなたのリベラルな素養が、正確な事実経過についての認識さえあれば、これまでの都の教育行政がいかに無茶苦茶であるかについて共感してもらえるものと思う。そこから、異常な教育現場の現状を変革し、教員の意欲にあふれた教育現場を取り戻すために一歩を踏み出すことが可能となるはずである。くれぐれも申しあげる。今のままでは東京の教育はダメなのだ。
(2015年6月20日)
西南戦争の折りに、「またも負けたか八聯隊(はちれんたい)、それでは勲章九聯隊(くれんたい)」という俗謡が流行ったという。歩兵第8連隊が本当に弱兵であったか史実はともかく、九州人の大阪隊に対する揶揄と反感が窺える。
このところ、東京都教育委員会(訴訟当事者としては東京都)が裁判負け続けである。まるで、大阪府・市と敗訴の数を競い合っているかの趣。「またも負けたか東京都、それで教育委員会(いいんかい)?」と言いたくもなる。処分の連発で教育現場の管理を徹底しようという都教委の無理な手法の破綻が明確なのだ。これで、まともな教育ができるのか、本当に心配しなければならない。
5月25日(月)の東京地裁「再雇用拒否第2次訴訟」判決に続いて、昨日(28日(木))も、都教委敗訴の東京高裁(第14民事部須藤典明裁判長)の判決が言い渡された。今週2度目の都教委敗訴である。原告団は「ダブルパンチ」と言っている。月曜日地裁判決が君が代不起立を理由とする再雇用拒否を違法として5300万円の支払いを命じたもの。そして、木曜日高裁判決が、卒業式での「日の丸・君が代」不起立に対する停職懲戒処分を重きに失して違法と取り消した逆転判決である。処分を取り消しただけでなく、国家賠償まで認めたすばらしい内容。
2007年卒業式での「君が代」斉唱時の不起立を職務命令違反として、Kさん(都立八王子東養護学校・当時)が停職3月、Nさん(町田市立鶴川二中・当時)が停職6月の懲戒処分を受けた。二人はこれを不服として、人事委員会に審査請求をし東京地裁に処分取消と国家賠償(慰謝料の支払い)を求めて提訴した。
2014年3月の一審判決は、次のとおり。
Kさん 停職3月の処分取消請求認容 慰謝料請求棄却
Nさん 停職6月の処分取消請求棄却 慰謝料請求棄却
各原告と東京都が、それぞれの敗訴部分について控訴し、昨日の控訴審判決となった。結果は教員側が「逆転勝訴」の旗出しとなった。以下のとおりである。
Kさん 停職3月の処分取消請求認容 慰謝料請求10万円認容
Nさん 停職6月の処分取消請求認容 慰謝料請求10万円認容
注目すべきは、判決理由が、都教委の機械的な累積加重処分システムを違法と断じていること。これは痛快である。次のくだりは、都知事、教育長、各教育委員、そして橋下徹(現大阪市長)にもよく読んでもらいたい。
「学校における入学式,卒業式などの行事は毎年恒常的に行われる性質のものであって,しかも,通常であれば,各年に2回ずつ実施されるものであるから,仮に不起立に対して,上記のように戒告から減給,減給から停職へと機械的に一律にその処分を加重していくとすると,教職員は,2,3年間不起立を繰り返すだけで停職処分を受けることになってしまい,仮にその後にも不起立を繰り返すと,より長期間の停職処分を受け,ついには免職処分を受けることにならざるを得ない事態に至って,自己の歴史観や世界観を含む思想等により忠実であろうとする教員にとっては,自らの思想や信条を捨てるか,それとも教職員としての身分を捨てるかの二者択一の選択を迫られることとなり,…日本国憲法が保障している個人としての思想及び良心の自由に対する実質的な侵害につながるものであり,相当ではないというべきである。」
また、都側の過失を認定するに際して、国旗国歌法の制定過程での議論を丁寧に紹介し次のように述べていることも注目される。
「国旗国歌に対する起立及び国歌斉唱には,日本国憲法が保障している思想及び良心の自由との関係で微妙な問題を含むものであること…個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求められることとなり,その限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があること…が意識されていたことが認められる。したがって,国旗国歌法制定に当たって,外部的行為は,思想及び良心の自由との関係で微妙な問題を含むものであることにも配慮して,起立斉唱行為を命ずる職務命令に従わず,殊更に着席するなどして起立しなかった者について懲戒処分を行う際にも、その不起立の理由等を考慮に入れてはならないことが要請されているものというべきである。」
月曜日地裁判決も木曜日高裁判決も、最高裁判決の壁に阻まれて、君が代不起立に対する懲戒処分を違憲とまでは言えないが、その制約の範囲内で思想良心の自由保障に精一杯の配慮をした判決と評価することができる。
ところで、都教委は抱えた事件で敗訴を重ねて6連敗であると原告団が発表している。
2013年12月19日の再発防止研修未受講事件(「授業をしていたのに処分」事件)一審判決が控訴なく確定して以来、再任用更新拒否S教諭事件、条件付き採用免職Yさん事件、O教諭懲戒免職処分執行停止申立認容、再雇用拒否撤回二次訴訟、そして昨日のKさん・Nさん停職処分取消事件である。今年1月16日の東京「君が代」裁判三次訴訟の判決(31件・26名の減給・停職処分取り消し認容)を加えれば、7連敗と言ってもよい。都教委のやり方が異常なのだ。
舛添要一都知事、中井敬三教育長に再度申しあげる。すべては旧レジームにおける前任者たちのしでかした過ち。控訴・上告は、その過ちに加担し責任を自ら背負い込む愚行となる。上訴を断念して、不正常な事態を一掃する決断をお願いしたい。
(2015/05/29)