澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

漁業法改正は対決法案に ― アベ政権の水産改革批判(その3)

昨夕(11月14日)NHKラジオ「Nらじ」に、二平章さん(JCFU全国沿岸漁民連絡協議会事務局長・茨城大学客員研究員)が出演し、今回の水産改革について沿岸漁民の立場からの解説をされた。19時30分からの約25分間。落ち着いた語り口で分かり易く説得力があった。下記のURLで、2か月間聞けるという。
http://www4.nhk.or.jp/nradi/24/

「アベ様のNHK」という揶揄は、最高幹部や政治部には当てはまっても、その決め付けが必ずしも常に正しいわけではない。一緒に出演していたNHKの専門解説委員も司会者も、公平な態度だった。

先日、TBSラジオ・荻上チキの「セッション22」が、このアベ水産改革を手放しで礼賛していたのに驚いたが、これに較べてNHKの姿勢が遙かに真っ当なのだ。

また、NHKは下記のURLで聴取者の意見を募集している。ネトウヨの世界とは違った、真面目な意見が寄せられている。反響が大きければ、また「Nらじ」は水産改革関連問題をとりあげたいとの意向だという。
http://www6.nhk.or.jp/nradi/bbs/commentlist.html?i=54038

そして、本日(11月15日)衆院本会議で、漁業法改正案が審議入りした。

本日衆院本会議で各党の代表質問質問に立ったのは以下の議員。

細田健一(自由民主党)  
神谷裕(立憲民主党・市民クラブ)  
緑川貴士(国民民主党・無所属クラブ)
金子恵美(無所属の会)
田村貴昭(日本共産党)
森夏枝(日本維新の会)

下記のURLで、動画を見ることができる。
http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=48459&media_type=fp

維新を除く全野党が、明確に漁業法「改正」案に反対の立場からの質問。立憲民主党の神谷裕などは迫力十分。緑川貴士もなかなかのもの。そして、田村貴昭の質問も鋭い。

メディアはこう報道している。

日経の見出しが、「漁業法、企業参入で与野党対決 衆院審議入り」というもの。
「企業が新規参入しやすいように漁業権制度などを見直す漁業法改正案が15日、衆院本会議で審議入りした。漁業権を地元の漁業協同組合に優先する仕組みなどを見直し、漁業を成長産業に育てる狙いがある。野党は小規模漁業者への影響が大きく拙速だと批判しており、今国会で対決型法案となりそうだ。」

「企業の参入規制を緩和して漁業を成長産業に」がアベ水産改革のスローガンだ。これに対して、野党が「小規模漁業者への影響」の立場から反対という図式。明らかに法案の狙いは、「漁民のための漁業法」から、「資本のための漁業法」に、というものだ。

この構図、一見すると「漁民」対「企業」の角逐のごとくである。多くの国民にとっては、「『漁民』の獲った魚も『企業』が獲った魚も、味に変わりはなさそうだ」「それなら、どちらでも廉い方がよい」のだろうか。実はそうではない。

多くの国民は、消費者であると同時に勤労者でもある。かつ勤労者はそれぞれの分野で、企業と共存しつつも対峙している。労働者として、自営業者として、商店主として、農民として、そして漁民として。あるいは、小規模経営者として、より大きな企業と。資本の放縦に対する規制においては、利害を共通にしているのだ。

労働に関する規制をなくして企業が小児労働を雇用すれば、その企業の商品は安価となる。しかし、消費者がこのような商品を安価だからとして歓迎することはできない。アンフェアーな企業の商品流通を許せば、たちまち多くの労働者の賃金の引き下げ圧力として波及する。大店法の規制があった時代には、各地の商店街が賑わった。いま、その規制がなくなって大規模スーパーとショッピングモールに席巻されて、商店街のにぎわいが消えた。多くの商店主の稼働の場が失われたのだ。

規制の緩和ないし撤廃は、一面効率と生産性を向上させるが、他面多くの勤労者の生計の場を奪う。消費者は、市場における適正な競争原理の働きを歓迎はするが、規制の撤廃や過度の緩和は望まない。結局、それは自分の首を絞めることにつながるのだから。漁業の参入規制を緩和して企業に漁業を営ませる。それは、けっして多くの消費者(=勤労市民)にとって歓迎すべきことではない。

いずれにせよ、アベ政権とその取り巻きの思惑のとおりにはことが運んでいない。漁業法改悪問題は、対決法案となってきた。
(2018年11月15日)

「漁民のための漁業法」から、「資本のための漁業法」に ― アベ政権の水産改革批判(その2)

経済という言葉の語源は、「世経済民」《世を經(おさ)め民を濟(すく)う》なのだという。むべなるかな。経済政策は、常に民の生活の安定を第一義とするものでなければならない。

しかし、いま世は資本主義の時代である。この社会の主は、資本ないし企業であって、民ではない。資本の恣の利潤追求の衝動に、政治的な民主主義がどれだけの掣肘を課することが可能か。そのことによって、民衆の福利をどれだけ向上させることが可能か。それが、この社会の最も中心的で基本的な課題である。

もし、法による規制をまったくなくして資本の放縦を許せば、この世は資本という怪獣が民を食い尽くす修羅の巷とならざるを得ない。「世経済民」とは、資本に規制を課することによって「民を済う」ことにほかならない。

規制緩和・規制撤廃とは基本的にそのような、資本の欲求による修羅の巷への一歩である。労働分野や消費生活の分野における規制とその緩和が分かり易いが、至るところに資本対民(生身の人)との対立構造の中で、どこにも規制があり、規制緩和との闘いがある。

漁業法「改正」問題も同様だ。漁業法は戦後の経済民主化策の賜物である。財閥解体と農地解放に続いた、漁業分野の民主化が漁業法に結実した。その目的に「漁業の民主化を図ること」が明記された意味は重い。

1949年の制定当時、「漁業調整」と「水産資源の保護培養」が漁業法の2本の柱であった。その後、「水産資源の保護培養」の課題は水産資源保護法に移され、漁業法と水産資源保護法の両者が漁業を規制してきた。

「漁業調整」が漁業法の最大課題である。農業と異なり、不可避的に水面の総合的利用が必要な漁業においては、他の水面利用者との利害関係の調整が不可欠である。しかし、どのように漁業調整をなすべきかを法自体は語っていない。

法が語るものは、漁業調整の究極理念としての「漁業の民主化」と、「漁業者及び漁業従事者を主体とする漁業調整機構の運用」である。この漁業調整機構は、海区漁業調整委員会として具体化されている。つまり、法はそれぞれの地元に設けられた「各海区漁業調整委員会」の運営によって漁業調整をすることにより、漁業の民主化を達成せよというのだ。

「漁業の民主化」という目的規定、そして「海区漁業調整委員会」という漁民の意思反映手続の制度、これが漁業法の眼目、言わば「両目」である。今回の漁業法『改正』は、この両目を共に潰そうというものなのだ。納得できるはずがない。

改正法案では、「漁業の民主化」という目的規定の文言はなくなる。そして、「海区漁業調整委員会」は公選制から知事の任命制になる。

「民主化」とは、弱い立場の者が強い者と同等に権利主張ができることではないか。政治的、社会的、経済的な弱者が堂々と権利主張をし、相応の権利主張が認められるべきことである。海区漁業調整委員会は、零細漁民、少数派漁民が堂々と権利主張できる場でなくてはならない。その活性化こそが課題なのに、改正法案は、この「民主化」を潰して、弱い立場の者の権利主張を抑えて、強い者の権利を通しやすくしようとするものである。

「民主化」は効率化を意味しない。零細漁民の漁法の生産性は、大規模な企業的漁業に劣ることになるだろう。効率や生産性を規準にすれば、企業的漁業が勝ることは当然のことだろう。しかし、農業も漁業も市場原理だけに任せておくべき産業分野ではない。

なによりも、零細漁業者の経営の安定が第一である。まさしく「経世済民」を優先しなければならないのだ。

大切なことは、効率でも生産性でも、資本の利益でもない。漁民が生計を維持し次世代に繋げる漁業経営を可能にすることこそ大切なのだ。そのような漁業政策を手続的に保障するものが海区漁業調整委員会である。これを骨抜きにしてはならない。

経済原則に任せることでよいのか。外部資本の参入規制を緩和して零細漁民の経営を潰し、浜の地域経済を潰し、漁民の生活を窮地に追いやってよいのか。効率の名で、人の生活を奪うことが許されるのか。

今次水産改革は、そのような問題を提起している。
(2018年11月14日)

「漁民のための漁業法」から、「資本のための漁業法」に ― アベ政権の水産改革批判(その1)

11月6日、政府は「漁業法等の一部を改正する等の法律案」を閣議決定するとともに、国会に上程した。

次のように「改正の趣旨」が説明されている。

「漁業は、国民に対し水産物を供給する使命を有しているが、水産資源の減少等により生産量や漁業者数は長期的に減少傾向。他方、我が国周辺には世界有数の広大な漁場が広がっており、漁業の潜在力は大きい。適切な資源管理と水産業の成長産業化を両立させるため、資源管理措置並びに漁業許可及び免許制度等の漁業生産に関する基本的制度を一体的に見直す。」

私には、次のように読めてしまう。

「漁業は、国民の水産物需要に対する供給産業として魅力的な利潤追求の場であるところ、現行の規制だらけの水産行政では参入が不自由だし魅力に乏しい。しかし、資源の減少等により生産量や漁業者数は長期的に減少傾向にある今こそ、規制緩和による資本参入の絶好のチャンス。我が国周辺には世界有数の広大な漁場が広がっており、儲けのための漁業の潜在力は大きい。参入規制を排して、《適切な資源管理》と《水産業の成長産業化》を両立させるとの名目をもって資本が自由に活動できるよう、資源管理措置並びに漁業許可及び免許制度等の漁業生産に関する基本的制度を、外部資本のために抜本的かつ一体的に見直す。」

これは、「アベノミクス」の一端としての「水産改革」における法的整備である。資源管理措置、漁業許可・免許制度等の基本的制度を見直すって? いったい何をどう見直すというのか。誰のために、何を目指して? 貫く理念はなんなのか? 問題は根が深く大きい。「アベ政権が出してくる法案だ。どうせ碌なものではない」という程度では看過し得ない。重大な危険を孕んだ法案として、反対の立場を明確にしておきたい。

私は、「浜の一揆」訴訟を担当する中で、漁民と接し漁業の実態に触れる機会を持つようになって驚いている。あまりに急速な浜の衰退に、である。漁業人口の減少と、漁家の収入の低下、そしてそれがもたらす後継者不足。漁業自体は魅力的な職業であっても生計の維持すら困難になりつつあるのだ。2018年11月1日を基準日として5年ぶりの漁業センサスの作成作業が始まっている。その統計が明らかになれば、世の耳目を惹くことになるだろう。

日本の沿岸漁業を守るための改革が必要なことは明らかだ。だが、それは飽くまで漁民・漁家・漁村・地域社会を守るという方向の改革でなくてはならない。効率の悪い現行の漁業をご破算にして、効率重視の大資本の儲け口とすることこそが漁業の再生」という規制緩和政策の餌食にしてはならない。

今回の水産改革法案は、漁業法・水産業協同組合法・水産資源保護法をメインに、48の法改正を伴う大規模なものとなっている。しかし、なによりも留意すべきは、これだけの改革が、漁民・漁家からの要望で出てきたものではないことである。水産物の消費者の要求でもない。いや、漁民を支持母体とする保守政治家からの提案ですらない。

この改革の出所は、例の如く「規制改革推進会議」である。つまりは、財界の要求であり、財界の走狗たる「有識者」の発案なのだ。その発想の基本に新自由主義がある。資本ないしは企業利益最優先の立場。

昨年(2017年)11月17日、規制改革推進会議水産ワーキング・グループが、この問題についての「議論の整理」を公表している。

「漁業の成長産業化と漁業者の所得向上に向けた担い手の確保や投資の充実のための環境整備」という項目があり、下記のようにあけすけに語られている。

・漁業資源管理や調整を目的とする漁業許可制等について、意欲と能力があり将来の成長産業化に向けた担い手が円滑に漁業に参加し得る制度とその運用を実現する観点から、全面的に検証し改革することが重要。
・近隣諸国漁業者に比肩する競争力の維持・強化の観点から、現在のインプットコントロールを重視する漁業許可制度のあり方について検証し改革することが重要。
・船舶職員及び小型船舶操縦者法、船舶安全法など、船舶に関する一般的なルールに関し、海技士の数や、トン数、船の長さなどに関連する基準や閾値について、漁業の競争力強化の観点から、実態に即した検証、評価をすることが重要。
・区画漁業権、定置漁業権など、大型の設備投資を行い、相当程度の事業規模となる漁業を営む権利について、資金調達時の担保としての利用や、より付加価値の高い漁業を営む能力を有する担い手への引継ぎなどを円滑に行う観点から、検討することが重要。

回りくどい言い方をやめ、修飾を排して直截・端的に言えばこういうことだ。

「現行の漁業は、意欲も能力も欠ける担い手によるものとなっている。だから、能率が悪く、生産性が低い。その結果、競争力も弱く、投資の対象としての旨味はない。漁業の外部から、新たな資本と経営を参入させ、企業に魅力ある制度に変えてしまうことが重要」

その規制緩和の意図が法案になった。漁業法の第1条の目的規定はこう書き換えられようとしている。

現行法 (この法律の目的)

第1条 この法律は、漁業生産に関する基本的制度を定め、漁業者及び漁業従事者を主体とする漁業調整機構の運用によつて水面を総合的に利用し、もつて漁業生産力を発展させ、あわせて漁業の民主化を図ることを目的とする。

改正法案

第1条 この法律は、漁業が国民に対して水産物を供給する使命を有し、かつ、漁業者の秩序ある生産活動がその使命の実現に不可欠であることに鑑み、水産資源の保存及び管理のための措置並びに漁業の許可及び免許に関する制度その他の漁業生産に関する基本的制度を定めることにより、水産資源の持続的な利用を確保するとともに、水面の総合的な利用を図り、もつて漁業生産力を発展させることを目的とする。

よくお読みいただきたい。新自由主義者たちはどこをどう変えようというのか。
現行漁業法の制定は、戦後経済改革の目玉の一つだった。財閥解体と農地解放につづく、「漁民中心の経済民主化」を顕現したもの。だから、「漁業者及び漁業従事者を主体とする漁業調整」との文言があり、「漁業の民主化」が輝かしい理念として掲げられた。

改正法案からは、漁業者及び漁業従事者を主体とする」との文言が消え、「漁業の民主化」も抹殺された。その結果、「漁業生産力を発展させること」だけが究極の目的となったのだ。

アベ政権。その主要な政治手法は、「隠し」と「欺し」である。まずは「隠し」。これまで漁民にはひた隠しにされていた漁業法「改悪」案。いつまでも隠してはおられない。これからは「欺し」のテクニックが駆使される。私も、眉に唾付けながら、漁民の立場からこの「漁業法改悪」に対する見解を書き連ねて行きたい。
(2018年11月10日)

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?「森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」からの訴えです。
「会」は、麻生財務大臣の辞任を求める<署名運動>と<財務省前アピール行動+デモ>を呼びかけています。

財務省前アピール行動+デモ
11月11日(日)
13時? 財務省前アピール行動
14時  デモ出発

■<署名>と<財務省前アピール行動+デモ>の資料一式をまとめたサイト■
http://sinkan.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/1111-5336-1.html
ぜひ、これをメールやツイッタ?で拡散してください。

■できるだけメッセージを添えてネット署名を■
上記の「まとめサイト」の右サイド・バーの最上段に、
1.署名用紙のダウンロード http://bit.ly/2ygbmHe
2.ネット署名の入力フォーム http://bit.ly/2IFNx0A
3.ネット署名のメッセージ公開 http://bit.ly/2Rpf6Pm
が貼り付けられています。

なお、署名の第1次集約は11月7日で締めきり、9日に財務省へ出向いて麻生財務大臣の罷免を求める10,699筆の署名簿を提出しました。

引き続いて署名を重ね、11月28日(水)を最終締め切り日と予定しています。

ぜひとも、ご協力をよろしくお願いします。
なお、署名の文面は以下のとおりです。
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財務大臣 麻生太郎 様

無責任きわまりない麻生太郎氏の財務大臣留任に抗議し、即刻辞任を求めます

森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会

10月2日に発足した第4次安倍改造内閣で麻生太郎氏が財務大臣に留任しました。しかし、第3次安倍内閣当時、財務省では、佐川宣寿氏が理財局当時の国会での数々の虚偽答弁、公文書改ざんへの関与の責任をとって国税庁長官の辞任に追い込まれました。また、福田淳一氏は女性記者への破廉恥なセクハラ発言を告発され、事務次官の辞職に追い込まれました。いずれも麻生氏が任命権者の人事でした。
しかし、麻生氏は厳しい世論の批判にも居直りを続け、事態を放置しました。それどころか、森友学園への国有地の破格の安値売却について、録音データなど動かぬ証拠を突きつけられても、なお、「処分は適正になされた」「私は報道より部下を信じる」と強弁し続けました。
福田次官のセクハラ行為については、辞任が認められた後も「はめられたという意見もある」などと暴言を吐きました。
なによりも、第3次安倍内閣当時、財務省では公文書の隠蔽、決裁文書の改ざんという前代未聞の悪質きわまりない国民への背信行為が発覚しましたが、それでも麻生氏は、会見の場で記者を見下す不真面目で下品下劣としか言いようがない答弁を繰り返しました。
こうした経歴の麻生氏が私たちの税金を預かり、税金の使い道を采配する財務省のトップに居座ることに、私たちと大多数の国民は、もはや我慢の限界を超えています。
麻生氏を留任させた安倍首相の任命責任が問われるのはきわめて当然のことですが、任命権者の意向以前に私たちは、麻生氏自身が自らの意思で進退を判断されるべきだと考え、次のことを申し入れます。

申し入れ

麻生太郎氏は財務省をめぐる数々の背任、国.に対する背信の責任をとって直ちに財務大臣を辞任すること

私は上記の申し入れに賛同し、以下のとおり、署名します。

(2018年11月10日)

「浜の一揆」訴訟、仙台高裁の法廷で ― 「漁業の民主化」とは何か

控訴人ら訴訟代理人弁護士澤藤大河から口頭で意見を申しあげます。

本日陳述の準備書面(1)は、本件の主たる争点である漁業調整のあり方に関して下記4点の主張を行うものです。
第1 漁業調整の基本理念は漁業法の目的規定にある「漁業の民主化」にこそあって、「漁業民主化」の観点から適切な漁業調整が行われるべきであること。
第2 漁協の立場には、対外的に行政や大企業などの強者と対峙する側面と、対内的に弱者である組合員に対する側面との二面性があって、本件は後者の局面における問題として、弱者である零細漁民保護の漁業調整が行われるべきであること。
第3 漁業統計は、岩手県内の個人漁業が崩壊の危機にあることを示しており、控訴人らの本件サケ刺し網漁許可の必要性は喫緊の切実なものであること。
第4 公開されている限りでの県水産行政幹部職員の県内漁業団体への天下りの実情。

第1 アジア太平洋戦争の敗戦は、わが国の制度と文化を根底から変革しました。大日本帝国憲法時代の「旧体制」は崩壊し、あらゆる分野の「民主化」が進展しました。漁業法も戦後改革立法のひとつとして、民主化を高く掲げたものです。
その第1条は、「漁業生産力を発展させ、あわせて漁業の民主化を図ることを目的とする。」と定めています。周知のとおり、終戦直後GHQは日本政府に対して、わが国の民主化のための5大改革指令を発しました。そのなかに「経済の民主化」があり、財閥解体と農地解放が断行され、続いて漁業の民主化が実行されました。
「経済民主化」とは、政治的社会的強者の利益独占を許さぬことであり、利益の平等配分を意味しています。零細漁民にも、漁獲による生計の維持を保障することこそが、権利の実質的平等に支えられた「民主化」の理念にほかなりません。漁業調整とはこのような漁業者相互間の権利関係の調整の理念なのです。そのことが甲21の漁業法法案審議における農林大臣の答弁によく表れています。
また、漁業経済学者である二平章氏の意見書(甲22)では、漁業調整の具体的理念として、「弱小漁民の保護」の原則が強調されています。強大な事業者と零細な漁民の軋轢があれば、零細漁民を優先することが想定されているのです。これは、戦後の一時期の特別な政策ではなく、近時国連が積極的に押し進めている「家族農漁業の保護」「小規模伝統漁業の保護」など、零細漁民の経営の保護は今日的な世界の潮流でもあります。
いま、岩手県のサケ漁は、大規模定置網漁業者に独占され、零細漁民が排除されています。強者の利益を全面的に擁護して弱者の側を切り捨てた現状。法的正義が要求する「漁業の民主化」という視点からは、倒錯した漁業調整の現状というほかありません。

第2 次に漁協の二面性について述べ、ご理解をいただきたいと思います。
岩手県内の定置網漁の過半が漁協の経営するものです。したがって、漁民と漁協との漁業調整が問題とならざるを得ません。もちろん、漁協は保護しなければならない大切な組織です。しかし漁協が大切なのは、漁民の利益を実現するための自主組織であるからであって、漁民の利益と相反する局面で漁民に優越して保護を受けるべき立場にはありません。
漁協の根拠法である水産業協同組合法第4条は、「組合は、その行う事業によってその組合員のために直接の奉仕をすることを目的とする」と定めています。水協法は、漁業法とともに漁業民主化を担う法律ですが、その法案審議における水産庁の法案の趣旨説明が、甲23の衆議院水産委員会議事録です。「協同組合というものは、その組合員が組合の経営に参加をし、組合員がその組合の営む事業から直接に便宜を受けるような組織、それが協同組合の本質であります」と解説しています。
また、二平章氏の意見書(甲22)は次のように「漁協の二面性」を強調しています。
「漁協には二面性があります。漁民が、国家や自治体と対峙する局面では、個々の漁民は無力です。多くの漁民が漁協に結集することで要求を実現させることができるのです。また、公害を垂れ流す企業や、資源を取り尽くす巨大事業者と対峙する場合にも、漁協や漁連は、漁民にとって頼りになる存在です。しかし、中間団体の常として、構成員に対しては権力的な側面があります。漁協も漁民と対立する存在となり得るのです」「組合員の漁業を直接侵害する自営事業を行うことは、法的な目的に反するというほかありません」
漁協の自営定置漁の漁獲高を確保するために、組合員の刺し網漁を禁止するなどは、法の想定するところではなく、本末転倒も甚だしいと言わざるを得ません。

第3 次に、漁業統計から見た、岩手県沿岸漁業の実態について述べます。
「2013年漁業センサス(岩手県分)」(甲20)によれば、2013年の県内個人経営漁業者数は2008年に比較して、実数にして1926人の減、減少率37%となっています。さらに注目すべきは、県内漁業者の高齢化と後継者不足の実態です。20代の個人漁業者は全県でわずかに24人。0.7%に過ぎません。70歳以上が28.6%、60代が33.6%。県内漁民の62.2%が60歳以上なのです。しかも、高齢化している漁業者に後継者がありません。調査に後継者なしと回答した者が76.7%です。
その原因となっているのが、漁民の低所得です。漁獲物・収穫物の販売金額の規模別調査の結果では、年間売上高100万円以下が46.6%。また、売上高500万円?1000万円の中堅クラスに当たる漁民層が、2008年の989人から2013年には325人と、実数にして664人、率にして67%も激減しています。岩手県の沿岸漁業崩壊の危機を物語る数値と言わざるをえません。
この事態を打開する最も有効で現実的な危機回避策が、サケの固定式刺し網漁の許可にほかなりません。これは、漁業調整判断の重要な公益的要素であって、岩手県は、控訴人ら零細漁民の本件許可申請に対しては、積極的に許可をしなければなりません。大規模定置網漁者の操業を禁止するのではありません。まさしく、利害の「調整」なのです。

第4 最後に岩手県水産行政幹部職員の、県内漁業団体への天下りについて述べます。
大規模な定置網漁によるサケ漁の独占こそが、県漁業界最大の権益です。零細漁民をサケ漁から閉め出して、合法的にその利益を独占するには県政の協力が不可欠であるところ、長年の業界と県政との癒着がこれを可能としたものと指摘せざるを得ません。
岩手県内の漁業界と県水産行政との癒着を象徴する事象が、水産行政幹部職員の県内各漁業関係団体の要職への天下りです。岩手県水産行政のトップが、農林水産部・水産振興課総括課長職です。昨年3月末までその職にあった職員は同年6月岩手県内水面漁業協同組合連合会の専務理事に天下りしています。その前任者は、2013年3月末に総括課長の職を辞して同年5月社団法人岩手県漁港漁村協会の専務理事に就任し、さらにその2年後の2015年5月には、社団法人岩手県さけ・ます増殖協会の専務理事となって現在に至っています。なお、両氏とも、県漁連理事または監事を経験しています。
その余については、控訴人らにおいては調査しがたいので、最近5名の元総括課長について、県職員を離職後の職歴について明らかにするよう、被控訴人に求めます。

以上です。

(2018年10月2日)

国連「家族農業の10年」と「小規模伝統漁業・養殖業に関する国際年」

「浜の一揆」訴訟の控訴審。第2回法廷が来週火曜日。10月2日(火)午後1時30分、仙台高裁101号法廷である。

当方(控訴人・漁民側)が準備書面を提出し主張を述べることになる。この法廷で、二平章氏(北日本漁業経済学会会長)の意見書を提出する。

この訴訟の主要な論点は、漁業調整の名のもとに、「大規模定置網漁業者の利益を確保するために、弱小零細な漁民のサケ刺し網漁業の許可申請を排斥してよいのか」ということに尽きる。二平氏は、「弱小零細な漁民をこそ保護すべき」という立場から、立論している。そのうちの一節をご紹介したい。

 より弱小零細な漁民を保護するべきとの第2の理念は、憲法学でいう実質的平等の考え方と同様です。
経済活動の自由を保障さえすれば、すべてがうまくいくというのは、既にあやまった考えであることが明らかになっています。合理的な制約と介入を権力が行わないと、大変な不公平が社会に生じることは公知の事実です。
漁業法は、漁業の「民主化」を目的に掲げています。強大な事業者と零細な漁民がいれば、零細漁民を優先することを想定しているのです。
これは、戦後の一時期の特別な政策という訳ではありません。2017年12月20日、国連総会は、2019年から2028年までを「家族農業の10年」とすることを採択しました。この「家族農業」とは、農場の運営から管理までの大部分を、1戸の家族で営んでいる農業のことです。現在、世界の食料のうち約8割が家族農業による生産でまかなわれており、世界中の食糧共有の中で重要な役割を担っています。持続可能性の観点からも、自然を収奪する大規模農業ではなく、自分や自分の子孫が耕し続けると考えながら自然に働きかける家族農業こそ鍵だと考えられるようになったのです。
実は、国連が掲げるこの「家族農業」には家族漁業も含まれています。国連では、「家族農業」を「農業労働力の過半を家族労働力が占めている農林漁業」と定義しています。必ずしも血縁によって結びついた家族による農林漁業のみではなく、非血縁の家族も、一人で営む個人経営も、家族農業に準じて議論されています。資本的つながりによって結合した企業的農業に対置する概念として理解されています。
さらに国連は2022年を「小規模伝統漁業・養殖業に関する国際年」と定め、各国が小規模家族漁業者の重要性を認識し、その保護政策を確立するよう訴えようとしています。
持続可能性という観点からも、零細な家族漁業を保護することは極めて現代的で正しい政策といえるのです。

 国連「家族農業の10年」は家族漁業も含むのか。知らなかった。2022年が国連の「小規模伝統漁業・養殖業に関する国際年」。これもまったく知らなかった。これこそが、国際潮流なのだ。心強い。

この国際潮流は、生産性至上主義とはまったく無縁の思想に基づくもの。人は、人を搾取し収奪するために生くるにあらず。もちろん、人は搾取され収奪されるために生くるにもあらず。どちらの生き方も、結局は資本の奴隷としての生き方ではないか。

搾取・収奪とは無縁の「家族労働による農林漁業」。これこそ人間本来の生き方ではないか。国連による零細な農林漁業の支援は、豊かな人生観・社会観に満ちている。
(2018年9月25日)

「浜の一揆」訴訟控訴審の始まりに当たって ー 仙台高裁101号法廷で

控訴人ら漁民側の訴訟代理人となっている弁護士の澤藤大河です。

漁民が「浜の一揆」訴訟とネーミングした、本件サケ刺網漁不許可取消・許可義務付け請求控訴事件控訴審の審理開始に当たり、貴裁判所に控訴人らの主張をご理解いただきたく、控訴人らを代表して瀧澤英喜さんと、代理人の私から、口頭で意見を申しあげます。

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 大船渡市三陸町越喜来の瀧澤英喜です。
 私たち、この訴訟の原告は、岩手県沿岸全域の小型漁船漁業者です。東日本大震災の津波で、たくさんの漁師仲間を亡くしました。そして、原告団の漁師たちも、船や漁具・住まいなど、それぞれに大きな被害を受けました。私自身、住まいは津波をまぬがれたものの、船3艘と倉庫・養殖施設・資材がすべて被害をうけました。
 津波を機に、漁業をやめざるをえなかった漁師もたくさんいます。ですが、私たちは「復興のかなめは、沿岸の漁業だ」と考えています。船をつくり、漁具を入手して、漁を再開しています。
 私は今、ホタテ養殖を通年、そして季節ごとのカゴ漁をやっています。サケ刺網漁が認められれば刺網漁も再開したいと考えて、準備をしています。
 私たちの仲間も、同じようにカゴ漁や刺網などをやっています。春先はイサダ、5月はシラス、夏場はタコ、1月はタラ刺網など、季節ごとにかわる魚種をくみあわせて、一年間の生計をたてています。
 毎年、苦労するのが9月から11月です。獲れる魚が激減します。唯一、頼りになるのがサケです。サケのように値段がしっかりしていて、魚体が大きいものをとることができれば、漁業者の意欲にもつながります。
 ところが、岩手県では刺網でサケをとることが許可されていません。とってしまうと「6カ月以下の懲役、もしくは10万円以下の罰金」に処せられます。「漁業許可の取り消し」、「漁船・漁具の没収」といった制裁もあります。ですから、網にサケがかかれば、海に捨てなければなりません。しかも捨てれば不法投棄ということになります。
 網を入れればサケが入る時期ですので、実質的に、他の魚種をねらった刺網漁も秋はやれないというわけです。秋から冬にかけての収入が断たれてしまっています。
隣の宮城県ではサケ刺網漁が認められており、小型漁船漁業者が堂々と刺網でサケをとっており、私たちはずっと悔しい思いをしてきました。
 「サケ刺網漁を認めてほしい」という私たちの声に、県はまったく耳を貸そうとしません。サケ刺網漁を認めれば、「獲りつくされて資源がなくなる」「孵化放流と一体にすすめてきた定置網でとるはずのサケがなくなる」と言うのです。そして、その根拠としているのが「定置網に比べて、刺網漁は攻撃的な漁法だ」という誤解です。
 サケ資源をめぐって、むしろ問題が大きいのは定置網漁です。定置網は、海底から海面までを水深70mから100mぐらいにわたって覆います。長さは1?ぐらいに及ぶものもあります。これを、春と秋の入れ直しはありますが、基本的に数か月の間、ずっと設置しています。
 いっぽうで、刺網漁は海底に高さ5m、長さは上限でも1800mの網を立てるというものです。これを早朝に数時間入れたら引き上げるというものです。
 このように、刺網漁はまったく攻撃的な漁法ではありません。定置網のほうがはるかに大規模に長期間、海域を遮断して資源を多くとる漁法です。その結果、「本来は獲ってはならない魚種が定置網にかかっている」という話は、浜では常識となっています。定置網にかかってしまうのは、例えばサケの稚魚や、いま話題のマグロから、クジラまで、挙げればきりがありません。「それを海に捨てている」という話が、あちこちの浜できかれます。資源保護をはかるうえでは、むしろ定置網のありかたを改めることのほうが必要です。
 また、サケを狙って刺網を入れる場合、沖合の水深が深い200m前後のところに設置することになります。遡上をひかえて陸に近づいてきたサケを狙う定置網とは、獲る魚の群れも、獲る時期も異なります。定置網の漁獲を大きく損なうものではありません。
 
 刺網でサケをとりたいというのは、岩手の漁師にとって長年の悲願です。以前は、県による規制はありながらも、実態として刺網にサケがかかっても見逃されてきました。ところが徐々に規制が強まり、これに抗議して1990年11月に漁師たちがサケをいっせいに大船渡漁港にあげ、県庁に陳情するという行動を起こしました。2011年2月、震災の直前にも、「岩手県沿岸漁船漁業組合かご漁業部会」で県へ要請しました。このほかにも、何度も県に対してサケ刺網漁の許可を求めています。しかし、いずれも県からまともな回答はありませんでした。
 そもそも県の漁業政策は、現場の漁師の声をきいてつくるものになっていません。たとえば、数年前にもイカ釣り船漁業をめぐって、岩手・宮城境界の見直しがありました。漁船漁業者にとっても、漁具を壊されかねない大きな問題です。ところが、現場の漁師に対しても、漁師の集まりである「岩手県沿岸漁船漁業組合かご漁業部会」に対しても、なんのことわりもなく県は話を進めてしまいました。ことごとく、この調子なのです。
 一審の証人尋問で、県側の証人が、サケ刺網許可をめぐる論議を「水産課3人でやった」と証言しました。大事なことをそんな一部で論議しているのかと、おどろくと同時に、「やっぱり」という感じです。
 県の海区漁業調整委員会も、漁師の意見を反映してきませんでした。この間に原告団の一員である藏?平さんと菅野修一さんが入って積極的に発言していますが、それまでは漁協の代表がほとんど論議もなく議題をこなしていくというのが実態でした。
 そしてその漁協は、漁船漁業にたずさわっていない一部の幹部の意向で、多くのことを決めています。現場の漁師の声を代表する漁協になっていません。理事会や総代会で声をあげても、論議されません。漁協直営の定置網など、一部の利益を優先するものになってしまっています。そのうえ、漁船漁業にとっても定置網にとっても問題が大きい、トロール船や巻き網船による乱獲など、大きな問題に対しては声をあげられない組織になってしまっています。 
 このように、漁師の意見が反映されない県政、漁協によって、「サケ刺網漁をしたい」という私たちの要求は排除されているのです。

 東日本大震災のあと、海の様子はすっかり変わってしまいました。資源が減り、魚がとれなくなってしまっています。赤字ギリギリの漁師がほとんどです。「船は来たが魚をとれない」というのが実態です。
 サケ刺網漁をやれれば、一定の収入ができ、別の魚種・漁法にも手を付ける可能性が開けます。しかし、これがなければこのまま経営は先細りです。次世代につなぐことができません。震災前後に、決意をして浜に帰って来た若者もいます。この世代が希望をもって漁業をやれるようにする責任が私たちにはあります。
 漁船漁業がなければ浜の未来はありません。漁船漁業は、「船にのる青壮年」そして「それを岡でサポートする経験豊かな高齢者」や、「選別・加工などで活躍する女性」など、幅広い雇用を生んでいます。そして浜の環境に常に目を配っているのが漁船漁業者です。
 いま、県の漁業政策は定置網と養殖に偏っています。しかし貝毒などのリスクがある養殖だけではなく、通年で魚種・漁法をかえながら多様な資源を生かす小型漁船漁業はやはり必要です。
 岩手の漁業にいま求められているのは三陸の海の幸をアピールし、浜に活気を取り戻すことです。そのためには、量をとる定置網だけではなく、特色のある魚種,高い品質の魚をとる小型漁船漁業を育成することが欠かせません。とりわけ、サケ資源が減っていることは明らかです。だからこそ、遡上を控えたサケを定置網でとるだけではなく、よい品質のサケをとる刺網漁も活かすことが大事なのです。そうやって、高品質な岩手のサケを消費者に届けることを本気になって考えなければなりません。
 
 私たちが漁師として生きていくために、豊かな浜を次世代につないでいくために、サケ刺網漁の許可を私たちは切に求めています。裁判官の皆様の最善のご判断を心からお願いしまして、私の意見陳述といたします。

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訴訟代理人の澤藤大河です。

本件訴訟の、最大の争点は「漁業調整」のあり方です。ですから、まず何よりも「漁業調整の現状」の極端なまでの不平等・不合理を正確にご認識いただきたいのです。
本件で問われている「漁業調整」とは、三陸沿岸におけるサケの採捕について、「大規模定置網漁業者」と「控訴人ら零細な小型船漁民」との間の利害調整を行政処分庁である岩手県知事がどう判断すべきかの問題です。
被控訴人岩手県は、本件許可をすれば、「両者に摩擦が生じる」。だから、「漁業調整」のために、本件固定式刺し網によるサケ漁は許可できない、と言います。
しかし、大きな摩擦が既に生じているのです。そして、その現状は沿岸漁民に耐えきれないものとまでになって、訴訟提起となったのです。だから、本件を「浜の一揆」訴訟と形容するにふさわしいのです。
現状、岩手県では刺網でのサケ漁は厳しく禁止されています。違反には、「6月以下の懲役、もしくは10万円以下の罰金」が科せられます。「漁業許可の取り消し」「漁船・漁具の没収」といった制裁もあります。いったい、こうまでして、大規模定置網漁者を保護し、零細漁民の要求に背を向ける必要があるのでしょうか。
瀧澤さんの意見陳述にもあったとおり、3・11の被災以来、漁民の生活は苦しい。廃業者が続出し、後継者が育たないというこの現状が、到底「漁業調整」ができている状態ではあり得ません。
しかも、漁民の要求は、「刺し網漁の邪魔になるから、定置網はやめろ」などと乱暴なものではありません。本件許可をしても、定置網漁の継続は可能なのです。許可された区域での漁獲の独占になんの支障も生じません。
定置網漁と刺し網漁、大規模業者と零細漁民、その共存を図るべきこと、適正な利益配分を実現すべきが常識的な水産行政のありかたではありませんか。
ところが被控訴人は、「定置網漁の邪魔になるから、刺し網漁で一匹のサケを獲ることもまかりならん」というのです。こんな不平等・不公正が納得を得られるはずはありせん。法が予定する「漁業調整」とは到底言えない。従って、不許可処分は違法で取り消されなければならないのです。

問題は、この明らかに不平等・不公正な漁業調整の現状を合理化する何らかの理由があり得るか、と問題設定がなされることになります。結論から申しあげれば、それはあり得ない、と言わざるを得ません。

まず、控訴人らの請求は、憲法上の基本権として保障されている「営業の自由」を根拠とするものです。軽々に制約されてよいはずはありません。原判決には誤解があるようですが、三陸沿岸を回遊するサケは無主の動産です。井田齊証言が明らかにしているとおり、サケは大いなる北太平洋の恵みが育てたものであって、誰のものでもありません。養殖による漁獲物とは決定的に異なるものとして、そもそも誰が採捕するののも採るのも自由。これが大原則であり、議論の出発点です。
この基本権を制約しうるものとして、法が定めたのが、漁業法における「漁業調整の必要」と、水産資源保護法における「水産資源の保護培養の必要」の2点にほかなりません。
「漁業調整」の本来の指導理念は、漁業法第1条に、「この法律は…漁業の民主化を図ることを目的とする」という、漁業法が特別に明記した「漁業の民主化」でなくてはなりません。経済的強者である定置網漁業者にサケ資源捕獲の独占を許し、零細漁民にこれを禁止することは、明らかに「民主化」に逆行することではありませんか。
また、控訴人ら漁民と調整を要する関係にある87ケ統の大規模定置網業者のうち、過半は漁協が経営する自営定置です。水産業協同組合法第4条は、「組合(漁協)は、その行う事業によつてその組合員又は会員のために直接の奉仕をすることを目的とする」と定めます。これが漁協本来の役割です。定置網漁の自営はその本来の役割ではありません。漁民のために直接奉仕するどころか、漁協の自営定置を優先して、漁民のサケ漁禁止の理由とする、これは法の理念に真っ向から反することではありませんか。
では、水産資源の保護培養の必要を理由に不許可とできるか。これは、実はできないことは決着済みです。原審における専門家証人井田齊の証言とその意見書(甲12)を虚心にお読みいただけば、自ずから明らかです。孵化事業で求められる卵を採取するためには、河川親魚をどれだけ確保できるかが問題なのであって、誰がどのように成鮏を採捕するかは、サケ資源の保護培養の観点からは実は問題となりません。本件訴訟との関係で述べるならば、申請を許可することがサケ資源の保護培養に支障をきたすかどうかだけですが、支障をきたすことはありません。
残る問題は、孵化事業の主体に成鮭を採捕させることの合理性をもって本件申請を不許可とすることができるか、につきます。原判決は、結論先にありきの思い込みから、これを肯定しました。しかし、あきらかに誤っています。

判決要旨に、原審裁判所のこの点についての考え方が要約されています。
「県沖合で採捕されるサケはほぼすべて、手間と費用を要する人工ふ化事業に起因する資源であり、これを同事業と無関係の固定式刺し網漁業者が採捕することは、著しく不公平である」というのです。これは、率直に申しあげて一驚に値する判断というほかはありません。明らかに、幾重にも間違っています。
まず、原判決は養殖事業と人工増殖事業の区別を理解していません。甲12に目を通していないからです。人工増殖である孵化放流事業では、放流された以後は、太平洋の自然の恵みで育ちます。養殖ならば、自分を育てた魚を自分で捕るのは当然ですが、増殖はそうではないのです。育成全過程を人間の管理下で「養殖」とは異なり、「増殖」では人間の関与は限定的なものに過ぎません。
また、孵化放流事業とサケの採捕とはそれぞれ独立した別事業なのです。「手間と費用を要する人工ふ化事業者だけに採捕の権利がある」との理屈は立てようがありません。そもそも、現在定置網漁業の許可を得ている事業者全てが人工孵化事業に関与している訳ではありません。「人工ふ化事業」だけを行って、サケの採捕を行わない事業者もいれば、「人工ふ化事業」とは無関係の定置網漁業者もいます。
「人工ふ化事業者と無関係の者が採捕することは、著しく不公平である」もあり得ません。「人工ふ化事業者」の事業は、毎年稚魚を孵化放流することで完結します。親魚の確保から採卵し、これを孵化して稚魚を成育し、河川に放流するサイクルで事業として成立するよう経済設計ができればよいだけのことです。控訴人らは人工孵化事業にただ乗りしようとしているのではなく、水揚げに応じた分担をすることは当然だと考えています。

是非とも、貴裁判所には、虚心に丁寧に、控訴人らの主張と立証に耳を傾けていただくよう、お願いいたします。

(2018年7月24日)

なぜ、「浜の一揆」なのか

控訴理由書の冒頭に、原審での結審期日に、原審原告ら訴訟代理人(弁護士 澤藤大河)が口頭で述べた最終意見陳述を掲記しておきたい。事案の概要と、控訴人(原告)らの考え方が、よくまとめられているからである。

「原告ら訴訟復代理人の澤藤大河から、訴訟の終結に際して、貴裁判所にご理解いただきたいことを、要約して陳述いたします。

原告らは、本件訴訟を「浜の一揆」と呼んでまいりました。ご存じのとおり、旧南部藩は、大規模な一揆が頻発したことで知られています。一揆は、藩政に対する抵抗であり、同時に藩政に癒着した豪農や網元あるいは大商人への抵抗にほかなりません。
原告らは、現在の県の水産行政を、一揆を招いた藩政や領内の身分支配の秩序と変わるところがないではないかと批判し抗議しているのです。

一揆の原因には、まずは生活の困窮がありました。それに藩政の非道への怒りが重なって決死の決起となったのです。本件浜の一揆訴訟も事情は同様です。今のままの漁業では食っていけない。後継者も育たない。廃業者が続出している。とりわけ3・11後は切実な状況になっている。この危機感が、提訴の原因となっています。
さらに、どうして浜の有力者と漁協だけにサケ漁を独占させて、零細漁民には一切獲らせないというのか。こんな不公平は許せない。という理不尽に対する怒りが、漁民100人に提訴を決意させたのです。この原告らの心情と、原告らをこのような心情に至らしめた事情について、十分なご理解を戴きたいと存じます。

本件における原告らの請求は、憲法上の権利としての「営業の自由」を根拠とするものです。
三陸沿岸を回遊するサケは無主の動産です。井田齊証言にあったとおり、大いなる北太平洋の恵みが育てたものであって、誰のものでもありません。養殖による漁獲物とは決定的に異なるものとして、そもそも誰が採るのも自由。これが大原則であり、議論の出発点です。

漁民が生計を維持するために継続的にサケを捕獲することは、本来憲法22条1項において基本権とされている、営業の自由として保障されなければなりません。もちろん、憲法上の権利としての営業の自由も無制限ではあり得ません。合理性・必要性に支えられたもっともな理由があれば、その制約も可能ではあります。その反面、合理性・必要性に支えられた理由がない限り、軽々に基本権の制約はできないということになります。

この憲法上の権利を制約するための、合理性・必要性に支えられた理由を、法は2要件に限定しています。漁業法65条1項の「漁業調整の必要あれば」ということと、水産資源保護法4条1項の「水産資源の保護培養の必要あれば」という、2要件です。
その場合に限って、特定の魚種について、特定の漁法による漁を、「県知事の許可を受けなければならない」と定めることができるとしているのです。

この法律上の2要件を具体化した岩手県漁業調整規則23条1項3号は、固定式刺し網漁には知事の許可を要すると定めたうえ、「知事は、『漁業調整』又は『水産資源の保護培養』のため必要があると認める場合は、漁業の許可をしない。」と定めています。

ということは、固定式刺し網漁によるサケ採捕の許可申請があれば、許可が原則で、不許可には県知事が「漁業調整」または「水産資源の保護培養」の必要性の具体的な事由を提示し根拠を立証しなければなりません。したがって、キーワードは「漁業調整の必要」と「水産資源の保護培養の必要」となります。行政の側がこれあることを挙証できた場合に、不許可処分が適法なものとなり、できなければ不許可処分違法として取り消されなければならず、同時に、許可が義務付けられることにもなります。

このうち、「水産資源の保護培養の必要」は比較的明確な概念で、井田齊証人の解説で、この理由がないことは明確になっています。サケ資源の保護培養のためには、河川親魚の確保さえできればよく、原告らに対する本件許可がそれに影響を与えることはあり得ないからです。

なお、被告は原告らが年間10トンの上限を設けて申請していることについて、「そのような上限が守られるはずはない」と、原告らに対する不必要な不信と憎悪をむき出しにしています。しかし、生業を成り立たせ、後継者を育てるために、資源の確保にもっとも切実な関心をもっているのが、原告ら漁民自身であることは、原告尋問の結果から、ご理解いただけるところです。しかも、これを守らせる法的義務が漁民相互の間にあるわけではなく、許可の条件が守られているかどうかを監視するのは行政の責任です。その業務が煩瑣だから、一律に禁止すべきだというのは、まことに乱暴な本末転倒の論理としか言いようがありません。

一方、「漁業調整の必要」は、はなはだ曖昧な概念ですが、これを行政が曖昧ゆえに恣意的に基本権制約の根拠とすることは許されません。

お考えいただきたいのです。現状が、極端に不公平ではありませんか。けっして適切な漁業調整が行われているとは言えない事態ではありませんか。
「調整」を要する当事者の一方、すなわち大規模な定置網業者がサケ漁を独占しています。もう一方の当事者である原告ら零細漁民には、過酷な罰則をもって、サケ漁が禁止されています。原告らは、定置網漁を禁止せよなどとは言っていません。ほんの少し、自分たちにも獲らせてくれと言っているだけではありませんか。どうして行政は、こんなにも頑なに、現状に固執しなければならないのでしょうか。このことに関する原告らの不信がまさしく、「浜の一揆」の原因となっています。

「漁業調整」の本来の指導理念は、漁業法第1条に、「この法律は…漁業の民主化を図ることを目的とする」という、法が特別に明記した「漁業の民主化」でなくてはなりません。経済的強者に資源の独占を許し、零細漁民に漁を禁止することが、「民主化」の視点から、どうして許されることになるのでしょうか。

また、本件では、定置網漁業者の過半を占める漁協の経済的存立のために漁民のサケ漁を禁止することの正当性が問われてもいます。いったい、漁協優先主義が漁民の利益を制約しうるのでしょうか。

水産業協同組合法第4条は、「組合(漁協)は、その行う事業によつてその組合員又は会員のために直接の奉仕をすることを目的とする」。これが漁協本来の役割です。漁民のために直接奉仕するどころか、漁協の自営定置を優先して、漁民のサケ漁禁止の理由とする、これは法の理念に真っ向から反することではありませんか。

弱い立場の、零細漁民の立場に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは、明らかに「民主化」への逆行と言わざるを得ません。言うまでもなく、「漁民あっての漁協」であって、「漁協あっての漁民」ではありません。

貴裁判所が「漁協栄えて漁民が亡ぶ」という倒錯した被告県側の主張に与することなく、一揆の心意気で本提訴に踏み切った原告らの思いに応える判決を言い渡されるよう、心からお願いして、代理人陳述といたします。」

当審においては、以上の「原告」を「控訴人」に置き換えて十分なご理解をいただきたい。

(2018年5月24日)

石割り桜の開花は遠く ー 「浜の一揆」判決報告

本日、盛岡地裁にて、「浜の一揆」訴訟の判決言い渡し。残念ながら、思いもかけない「完敗」である。裁判所構内の石割り桜、蕾も堅く開花は遠かった。

事案は、「サケ」「刺し網」許可申請を不許可とした岩手県知事の行政処分に対する取消請求訴訟である。判決は、訴訟の形式面では、原告側の言い分をほぼ全面的に認めた。被告が「そのような許可の制度は想定されていない」とした、原告らの「年間漁獲量を年間10トンに限定した」「サケ」「刺し網」漁業許可申請を適法なものと認めた。つまり、門前払いとはせずに、適法な訴えとして行政訴訟(取消請求訴訟)の土俵には乗っけたのだ。

その上で、裁判所は、本件申請を不許可とする実質的理由が認められるとして、取消請求を棄却した。

固定式刺し網漁業によるサケの採捕を禁止することについては,
(1) 漁業調整上の必要性が認められる。
(2) サケ資源の保護培養上の必要性も認められる。
というのだ。

到底納得しがたく、原告らとともに控訴審を闘う決意だが、本日の感想のいくつかを述べておきたい。

原告らは「浜の一揆」の心意気でこの訴訟を提起した。このネーミングは、幕末の南部三閉伊一揆を意識したものである。三閉伊一揆は、「弘化の一揆」と「嘉永の一揆」の2度の蜂起からなる。「弘化の一揆」は大きな成果を上げて収束したかに見えたが、やがて南部藩は、一揆衆への約束を反故にする。弘化の一揆を「失敗」と総括した農民たちが、再度結集し作戦を練り上げて7年後に「仙台藩への強訴」を敢行し、今度は一揆の犠牲者を出すことなく、49か条の要求のほとんどを実現させたという。いわば、「弘化の失敗を嘉永で挽回した」のだ。

また、思い出す。私は、岩手靖国訴訟を担当して盛岡地裁で敗訴した。「最悪にして最低」の判決だった。あの敗訴判決には足が震える思いをした。その後、2年を経て、仙台高裁で「天皇や内閣総理大臣の靖国神社公式参拝は違憲」という、実質勝訴の判決を得た。「盛岡の仇を仙台で討った」のだ。

あのときもそうだったが、幸いにも、原告らが代理人の無念と失意を慰めて意気軒昂である。再び、「盛岡の仇を仙台で返したい」と思う。

「弘化の一揆」の指導者として知られるのが、浜岩泉村牛切の牛方・弥五兵衛(またの名を万六)。彼は、老齢の身を押して三閉伊一帯を再度の蜂起のために単身オルグして歩く途上で、身元が割れて捕らえられる。藩都盛岡の牢内で、法によらず斬首されたと伝えられている。「嘉永の一揆」の指導者として知られるのが、田野畑村の太助。彼は明治期になって、維新政府に再び蜂起を試みて失敗。新政府に拷問され、自ら命を断っている。

文字どおりに命を懸けた、彼ら一揆指導者の決意の凄まじさに、たじろがざるを得ない。原告たちは、まさしくその子孫である。今の時代、裁判に負けても命に関わることはないが、「浜の一揆」と言うにふさわしい、気合いのはいった控訴審にしなくてはならない。
(2018年3月23日)

「浜の一揆」訴訟結審の法廷での意見陳述ー漁業の「民主化」こそが指導理念だ

本日は、盛岡地裁「浜の一揆」訴訟第10回の法廷。最終準備書面の交換があって結審した。その結審の法廷で、原告側が最終準備書面を要約した下記の意見陳述を行った。

判決言い渡しは2018年3月23日(金)15時と指定された。手応え十分とは思うが、判決は言い渡しあるまで分からない。しばらくは、まな板の上の鯉にも似た心境である。

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原告ら訴訟復代理人の澤藤大河から、訴訟の終結に際して、貴裁判所にご理解いただきたいことを、要約して陳述いたします。

原告らは、本件訴訟を「浜の一揆」と呼んでまいりました。ご存じのとおり、旧南部藩は、大規模な一揆が頻発したことで知られています。一揆は、藩政に対する領民の抵抗であり、藩政に癒着した豪農や網元あるいは大商人への抵抗にほかなりません。
原告らは、現在の県の水産行政を、一揆を招いた藩政や領内の身分支配の秩序と変わるところがないではないかと批判し抗議しているのです。
一揆の原因には、まずは生活の困窮がありました。それに藩政の非道への怒りが重なって決死の決起となったのです。本件浜の一揆も事情は同様です。今のままの漁業では食っていけない。後継者も育たない。廃業者が続出している。とりわけ3・11後は切実な状況になっている。これが、提訴の原因となっています。
さらに、どうして浜の有力者と漁協だけにサケ漁を独占させて、零細漁民には一切獲らせないというのだ。こんな不公平は許せない。という理不尽に対する怒りが、漁民100人に提訴を決意させたのです。この原告らの心情と、原告らをこのような心情に至らしめた事情について、十分なご理解を戴きたいと存じます。

 本件における原告らの請求は、憲法上の権利としての「営業の自由」を根拠とするものです。
三陸沿岸を回遊するサケは無主の動産です。井田齊証言にあったとおり、大いなる北太平洋の恵みが育てたものであって、誰のものでもありません。養殖による漁獲物とは決定的に異なるものとして、そもそも誰が採るのも自由。これが大原則であり、議論の出発点です。

 漁民が生計を維持するために継続的にサケを捕獲することは、本来憲法22条1項において基本権とされている、営業の自由として保障されなければなりません。

もちろん、憲法上の権利としての営業の自由も無制限ではあり得ません。合理性・必要性に支えられたもっともな理由があれば、その制約も可能ではあります。その反面、合理性・必要性に支えられた理由がない限り、軽々に基本権の制約はできないということになります。

 この憲法上の権利を制約するための、合理性・必要性に支えられた理由を、法は2要件に限定しています。漁業法65条1項の「漁業調整の必要あれば」ということと、水産資源保護法4条1項の「水産資源の保護培養の必要あれば」という、2要件です。
その場合に限って、特定の魚種について、特定の漁法による漁を、「県知事の許可を受けなければならない」と定めることができるとしているのです。

この法律を具体化した岩手県漁業調整規則は、サケの刺し網漁には知事の許可を要すると定めたうえ、「知事は、『漁業調整』又は『水産資源の保護培養』のため必要があると認める場合は、漁業の許可をしない。」と定めています。

ということは、申請があれば許可が原則で、不許可には、県知事が「漁業調整」または「水産資源の保護培養」の必要性の具体的な事由を提示し根拠を立証しなければなりません。

 したがって、キーワードは「漁業調整の必要」と「水産資源の保護培養の必要」となります。行政の側がこれあることを挙証できた場合に、不許可処分が適法なものとなり、できなければ不許可処分違法として取り消されなければならず、同時に、許可が義務付けられることにもなります。

このうち、「水産資源の保護培養の必要」は比較的明確な概念で、井田齊証人の解説で、この理由がないことは明確になっています。サケ資源の保護培養のためには、河川親魚の確保さえできればよく、原告らに対する本件許可がそれに影響を与えることはあり得ないからです。

なお、被告は原告らが年間10トンの上限を設けて申請していることについて、「そのような上限が守られるはずはない」と、原告らに対する不必要な不信と憎悪をむき出しにしています。しかし、生業を成り立たせ、後継者を育てるために、資源の確保にもっとも切実な関心をもっているのが、原告ら漁民自身であることは、原告尋問の結果から、ご理解いただけるところです。

一方、「漁業調整の必要」は、はなはだ曖昧な概念ですが、これを行政が曖昧ゆえに恣意的に基本権制約の根拠とすることは許されません。

 お考えいただきたいのです。現状が、極端に不公平ではありませんか。「調整」を要する一方、すなわち大規模な定置網業者がサケ漁を独占しています。一方、原告ら零細漁民には、過酷な罰則をもって、サケ漁が禁止されています。原告らは、定置網漁を禁止せよなどと言っていません。ほんの少し、自分たちにも獲らせてくれと言っているだけではありませんか。どうして頑なに、現状に固執しなければならないのか。これに対する原告らの不信がまさしく、「浜の一揆」の原因となっています。

「漁業調整」の本来の指導理念は、漁業法第1条に、「この法律は…漁業の民主化を図ることを目的とする」という、法が特別に明記した「民主化」でなくてはなりません。経済的強者に資源の独占を許し、零細漁民に漁を禁止することが、「民主化」の視点から、許されることでしょうか。

また、本件では、定置網漁業者の過半を占める漁協の経済的存立のために漁民のサケ漁を禁止することの正当性が問われています。いったい、漁協優先主義が漁民の利益を制約しうるのでしょうか。

 水産業協同組合法第4条は、「組合(漁協)は、その行う事業によつてその組合員又は会員のために直接の奉仕をすることを目的とする」。これが漁協本来の役割です。漁民のために直接奉仕するどころか、漁協の自営定置を優先して、漁民のサケ漁禁止の理由とする、これは法の理念に真っ向から反することではありませんか。

 弱い立場の、零細漁民の立場に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは、明らかに「民主化」への逆行と言わざるを得ません。言うまでもなく、「漁民あっての漁協」であって、「漁協あっての漁民」ではありません。

貴裁判所が「漁協栄えて漁民が亡ぶ」という倒錯した被告県側の主張に与することなく、一揆の心意気で本提訴に踏み切った原告らの思いに応える判決を言い渡されるよう、お願いして、代理人陳述といたします。

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閉廷後の報告集会に、当ブログを見て参加という方が現れて驚いた。毎日書いている苦労が報われる思い。

昨日も、「「憲法日記」読んでいます」という方にお目にかかった。そのあとに、「長い文章で読むのがたいへんだけど」と付け加えられた。そうなのだ。短く、的確な表現は難しいのだ。そんな難しい技をこなせるようになるには、あと10年もかかるのではないだろうか。
(2017年12月1日)

「浜の一揆」訴訟 ― 12月1日(金)結審へ

盛岡地裁での「浜の一揆」訴訟は、いよいよ大詰め。12月1日(金)13時30分開廷の口頭弁論期日で原被告双方の最終準備書面を陳述して結審となる予定。その次の期日には判決言い渡しである。

この訴訟は、サケ漁の許可をめぐってのもの。岩手の河川を秋に遡上するサケは、三陸沿岸における漁業の主力魚種。「県の魚」に指定されてもいる。沿岸漁民がこのサケで潤っているだろうと思うのは早とちりで、実は三陸沿岸の漁民は、県の水産行政によって厳格にサケの捕獲を禁じられている。うっかりサケを網にかけると、最高刑懲役6月。漁船や漁具の没収という罰則まで用意されている。

では誰がサケを獲って潤っているのか。大規模な定置網業者なのだ。漁協であったり、漁協幹部のボスであったり、株式会社だったり。零細漁業者は閉め出されて、大規模業者だけがサケを獲っている。これっておかしくないか。

岩手沿岸の漁民の多くが、この不合理を不満として、長年県政にサケ捕獲の許可を働きかけてきた。とりわけ、3・11被災後はこの不合理を耐えがたいものと感じることとなり、請願や陳情を重ねたが、なんの進展も見ることができなかった。

そこで漁民が「浜の一揆」に立ち上がったのだ。嘉永・弘化の昔なら、「小○」のむしろ旗を先頭に藩庁を目指して押し出したところだが、今の時代のそれに代わる手段が行政手続であり行政訴訟の提起である。だから、この訴訟は「一揆」の心意気なのだ。

原告が本訴訟を「浜の一揆」と呼んでいるのは、岩手県の行政を、かつての南部藩の苛斂誅求になぞらえてのことだ。また、漁業の民主化とは名ばかりのこと、実は浜の社会構造は藩政時代の身分的秩序と変わらないではないか、との批判もある。当然に、県政にとっては面白くない批判である。県政の庇護のもと既得権益をむさぼっている浜の有力者や漁協の幹部たちにとっても愉快なことではなかろう。

このことについて、被告の最終準備書面で一言あった。やっぱり気にしているのだ。このネーミング、多少は効いているんだ。

原告らが本訴訟を「一揆」と呼んでいることについて、被告岩手県は最終準備書面において、こう述べている。
「原告は、本件訴訟を『県当局が漁民らを不当弾圧していることへの浜の一揆』だと主張している」。「仮に、原告らが『地域の漁業関係者の理解のもと固定式刺し網漁業によりサケの採捕を自由に行い地域に貢献しつつ幸せに暮らしている光景』なるものが過去に存在し、それを被告が不当な事情で踏みにじったなどという事情が存在するのなら、それを改めようという紛争は、『一揆』と表現するに相応しいのであろう。」「しかし、固定式刺し網漁業によるサケの採捕の禁止は、かつて漁民らが自由に行っていたものを禁止したのではなく、何十年も前から漁業者内部で行われるべきではないものという共通認識がなされていたものを当時の漁業者の総意を受けて明文化したものに過ぎない」

私流に被告の言い分を翻訳すれば、次のようなことだ。
「仮に、三陸の漁民が『漁業界のボスたちの了解のもとにサケの捕獲を自由に行い、県政からも咎められずに幸せな漁民としての暮らしを送っているという光景』なるものが過去に存在し、それを県政がぶち壊したというのなら、それを「元に戻せ」という紛争は、『一揆』と表現するに相応しい」。しかし、「そんな過去の光景はなかったではないか。」「零細漁民は、何十年も前から、ずっと漁協やボスの支配下にあって、大っぴらにはサケを獲ってはならないとされていたのだ。」「県政のサケの採捕の禁止は、それを明文化したものに過ぎない。」「だから、一揆というのは怪しからん」

また、この点についての原告最終準備書面の一節を引用しておこう。
「被告は『原告らは、固定式刺し網によるサケの採補が認められていないせいで本県の漁業後継者の育成及び漁業の継続が不可能になると主張するが、本県では従前から固定式刺し網によるサケの採補は認められていないから、原告らの主張をあてはめると本県漁業関係者はすでに壊滅的な状態になっているはずで、そうした非現実性に照らしても、原告らの主張は理由がない。』という。

しかし、被告(岩手県)作成の漁業センサス確報2013年版によれば、1988年岩手県の漁業経営体の数は8129であった。これが、10年後の1998年は6080になった。2008年には5313に、そして2013年には3365に減少している。

25年間で経営主体数の6割が減少しているのである。もはや、「壊滅的」と表現するほかはない。経営が成り立たず、後継者もいないことから、多くの漁師が毎年廃業している現実を、被告県は、全く重大視していないのである。原告らは、原告本人尋問などで、その苦しい経営状況を明らかにした。…貴裁判所には、現実を凝視した上での判断を要望する。」

かつての一揆の原因には、まず困苦があった。そして藩政の非道への怒りがあった。さらに、多数人の反骨と組織力があっての決起である。浜の一揆も同様である。今のままの漁業では食っていけない。後継者も育たない。どうして、漁協と浜のボスだけにサケを獲らせて、零細漁民には一切獲らせないというのだ。こんな不公平が許せるかとの怒りだけではない。原告らには知恵も団結力もあるのだ。こうして成立した浜の一揆なのだ。

一揆の参加者は、ちょうど100人である。沿岸漁民が、2014年に3次にわたって岩手県知事に対してサケの固定式刺し網漁の許可申請をし、これが不許可となるや所定の手続を経て、岩手県知事を被告とする行政訴訟を盛岡地裁に提起した。その提訴が2015年11月のこと。以来、2年で結審となる。

訴訟の請求の趣旨は、不許可処分の取消と許可の義務付け。許可の義務付けの内容である、沿岸漁民の要求は、「固定式刺し網によるサケ漁を認めよ」「漁獲高は無制限である必要はない。各漁民について年間10トンを上限とするものでよい」というもの。

請求の根拠は次のようなものだ。
三陸沿岸を泳ぐサケは無主物であり、そもそも誰が採るのも自由。これが大原則であり、議論の出発点である。漁民が生計を維持するために継続的にサケを捕獲しようというのだから、本来憲法22条1項において基本権とされている、営業の自由として保障されなければならない。

この憲法上の権利としての営業の自由も無制限ではあり得ない。合理性・必要性に支えられたもっともな理由があれば、その自由の制約も可能となる。その反面、合理性・必要性に支えられた理由がなければ制約はできないということになる。

この合理性・必要性に支えられた理由を法は2要件に限定している。漁業法65条1項は「漁業調整」の必要あれば、また水産資源保護法4条1項は「水産資源の保護培養」の必要あれば、特定の魚種について特定の漁法による漁を、「知事の許可を受けなければならない」とすることができるとする。それ以外にはない。

これを受けた岩手県漁業調整規則は、サケの刺し網漁には知事の許可を要すると定めたうえ、「知事は、『漁業調整』又は『水産資源の保護培養』のため必要があると認める場合は、漁業の許可をしない。」と定めている。

ということは、申請があれば許可が原則で、不許可には、県知事が「漁業調整」または「水産資源の保護培養」の必要性の具体的な事由を提示し根拠を立証しなければならない。

したがって、キーワードは「漁業調整の必要」と「水産資源の保護培養の必要」となる。行政の側がこれあることを挙証できた場合に、不許可処分が適法なものとなり、できなければ不許可処分違法として取り消されなければならない。

このうち、「水産資源の保護培養の必要」は比較的明確な概念で、この理由がないことは明確になったといってよい。問題は、「漁業調整の必要」という曖昧な理由の有無である。その指導理念は、漁業法に特有の「民主化」でなくてはならない。本件では、漁協存立のために漁民のサケ漁を禁止することの正当性が問われている。いったい、漁協優先主義が漁民の利益を制約しうるのか。

定置網漁業者の過半は漁協。被告の主張は、「漁協が自営する定置営業保護のために、漁民個人の固定式刺し網によるサケ漁は禁止しなければならない」という。県政は、これを「漁業調整の必要」と言っている。しかし、「漁業調整の必要」は、漁業法第1条が、この法律は…漁業の民主化を図ることを目的とする」という、法の視点から判断をしなければならない。

弱い立場の、零細漁民の立場に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは「民主化」への逆行ではないか。漁民と漁協、その主客の転倒は、お国のための滅私奉公と同様の全体主義的発想にほかならない。

また、水産業協同組合法第4条は、「組合(漁協)は、その行う事業によつてその組合員又は会員のために直接の奉仕をすることを目的とする」。これが漁協本来の役割。漁民のために直接奉仕するどころか、漁協の自営定置を優先して、漁民のサケ漁禁止の理由とする、法の理念に真っ向から反することではないか。

「漁民あっての漁協」であって、「漁協あっての漁民」ではない。万が一にも、裁判所が「漁協栄えて漁民が亡ぶ」などという倒錯した主張を採用してはならない。
12月1日(金)結審の「浜の一揆」訴訟にご注目いただきたい。
(2017年11月28日・連日更新第1703回)

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