なぜ、「浜の一揆」なのか
控訴理由書の冒頭に、原審での結審期日に、原審原告ら訴訟代理人(弁護士 澤藤大河)が口頭で述べた最終意見陳述を掲記しておきたい。事案の概要と、控訴人(原告)らの考え方が、よくまとめられているからである。
「原告ら訴訟復代理人の澤藤大河から、訴訟の終結に際して、貴裁判所にご理解いただきたいことを、要約して陳述いたします。
原告らは、本件訴訟を「浜の一揆」と呼んでまいりました。ご存じのとおり、旧南部藩は、大規模な一揆が頻発したことで知られています。一揆は、藩政に対する抵抗であり、同時に藩政に癒着した豪農や網元あるいは大商人への抵抗にほかなりません。
原告らは、現在の県の水産行政を、一揆を招いた藩政や領内の身分支配の秩序と変わるところがないではないかと批判し抗議しているのです。
一揆の原因には、まずは生活の困窮がありました。それに藩政の非道への怒りが重なって決死の決起となったのです。本件浜の一揆訴訟も事情は同様です。今のままの漁業では食っていけない。後継者も育たない。廃業者が続出している。とりわけ3・11後は切実な状況になっている。この危機感が、提訴の原因となっています。
さらに、どうして浜の有力者と漁協だけにサケ漁を独占させて、零細漁民には一切獲らせないというのか。こんな不公平は許せない。という理不尽に対する怒りが、漁民100人に提訴を決意させたのです。この原告らの心情と、原告らをこのような心情に至らしめた事情について、十分なご理解を戴きたいと存じます。
本件における原告らの請求は、憲法上の権利としての「営業の自由」を根拠とするものです。
三陸沿岸を回遊するサケは無主の動産です。井田齊証言にあったとおり、大いなる北太平洋の恵みが育てたものであって、誰のものでもありません。養殖による漁獲物とは決定的に異なるものとして、そもそも誰が採るのも自由。これが大原則であり、議論の出発点です。
漁民が生計を維持するために継続的にサケを捕獲することは、本来憲法22条1項において基本権とされている、営業の自由として保障されなければなりません。もちろん、憲法上の権利としての営業の自由も無制限ではあり得ません。合理性・必要性に支えられたもっともな理由があれば、その制約も可能ではあります。その反面、合理性・必要性に支えられた理由がない限り、軽々に基本権の制約はできないということになります。
この憲法上の権利を制約するための、合理性・必要性に支えられた理由を、法は2要件に限定しています。漁業法65条1項の「漁業調整の必要あれば」ということと、水産資源保護法4条1項の「水産資源の保護培養の必要あれば」という、2要件です。
その場合に限って、特定の魚種について、特定の漁法による漁を、「県知事の許可を受けなければならない」と定めることができるとしているのです。
この法律上の2要件を具体化した岩手県漁業調整規則23条1項3号は、固定式刺し網漁には知事の許可を要すると定めたうえ、「知事は、『漁業調整』又は『水産資源の保護培養』のため必要があると認める場合は、漁業の許可をしない。」と定めています。
ということは、固定式刺し網漁によるサケ採捕の許可申請があれば、許可が原則で、不許可には県知事が「漁業調整」または「水産資源の保護培養」の必要性の具体的な事由を提示し根拠を立証しなければなりません。したがって、キーワードは「漁業調整の必要」と「水産資源の保護培養の必要」となります。行政の側がこれあることを挙証できた場合に、不許可処分が適法なものとなり、できなければ不許可処分違法として取り消されなければならず、同時に、許可が義務付けられることにもなります。
このうち、「水産資源の保護培養の必要」は比較的明確な概念で、井田齊証人の解説で、この理由がないことは明確になっています。サケ資源の保護培養のためには、河川親魚の確保さえできればよく、原告らに対する本件許可がそれに影響を与えることはあり得ないからです。
なお、被告は原告らが年間10トンの上限を設けて申請していることについて、「そのような上限が守られるはずはない」と、原告らに対する不必要な不信と憎悪をむき出しにしています。しかし、生業を成り立たせ、後継者を育てるために、資源の確保にもっとも切実な関心をもっているのが、原告ら漁民自身であることは、原告尋問の結果から、ご理解いただけるところです。しかも、これを守らせる法的義務が漁民相互の間にあるわけではなく、許可の条件が守られているかどうかを監視するのは行政の責任です。その業務が煩瑣だから、一律に禁止すべきだというのは、まことに乱暴な本末転倒の論理としか言いようがありません。
一方、「漁業調整の必要」は、はなはだ曖昧な概念ですが、これを行政が曖昧ゆえに恣意的に基本権制約の根拠とすることは許されません。
お考えいただきたいのです。現状が、極端に不公平ではありませんか。けっして適切な漁業調整が行われているとは言えない事態ではありませんか。
「調整」を要する当事者の一方、すなわち大規模な定置網業者がサケ漁を独占しています。もう一方の当事者である原告ら零細漁民には、過酷な罰則をもって、サケ漁が禁止されています。原告らは、定置網漁を禁止せよなどとは言っていません。ほんの少し、自分たちにも獲らせてくれと言っているだけではありませんか。どうして行政は、こんなにも頑なに、現状に固執しなければならないのでしょうか。このことに関する原告らの不信がまさしく、「浜の一揆」の原因となっています。
「漁業調整」の本来の指導理念は、漁業法第1条に、「この法律は…漁業の民主化を図ることを目的とする」という、法が特別に明記した「漁業の民主化」でなくてはなりません。経済的強者に資源の独占を許し、零細漁民に漁を禁止することが、「民主化」の視点から、どうして許されることになるのでしょうか。
また、本件では、定置網漁業者の過半を占める漁協の経済的存立のために漁民のサケ漁を禁止することの正当性が問われてもいます。いったい、漁協優先主義が漁民の利益を制約しうるのでしょうか。
水産業協同組合法第4条は、「組合(漁協)は、その行う事業によつてその組合員又は会員のために直接の奉仕をすることを目的とする」。これが漁協本来の役割です。漁民のために直接奉仕するどころか、漁協の自営定置を優先して、漁民のサケ漁禁止の理由とする、これは法の理念に真っ向から反することではありませんか。
弱い立場の、零細漁民の立場に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは、明らかに「民主化」への逆行と言わざるを得ません。言うまでもなく、「漁民あっての漁協」であって、「漁協あっての漁民」ではありません。
貴裁判所が「漁協栄えて漁民が亡ぶ」という倒錯した被告県側の主張に与することなく、一揆の心意気で本提訴に踏み切った原告らの思いに応える判決を言い渡されるよう、心からお願いして、代理人陳述といたします。」
当審においては、以上の「原告」を「控訴人」に置き換えて十分なご理解をいただきたい。
(2018年5月24日)