昨日(5月25日)の東京地裁「再雇用拒否第2次訴訟」判決。法廷から出てきた仲間の弁護士から第一報のメールがはいった。肉声のように、生々しい。
「全面勝訴! 裁量権逸脱で、その余の点は判断するまでもなく(憲法判断もなし)。 1年分の収入を損害賠償として認めた。
『正義は勝つ・・・とはかぎらない。でも、たまに勝つことがある』
いやあ、ほんとうに、希望がもてるような気がしてきました。がんばりましょう。」
率直な心情の吐露である。実は、事案の内容をほぼ同じくする「第1次訴訟」では、一審において同様の「勝訴判決」(2008年2月)を得たものの、高裁で逆転敗訴(2010年1月)となり、上告棄却(2012年6月)で確定している。「第1次訴訟」のほかにも、前例となる類似事案3件で最終的には教員側の敗訴が確定している。
昨日の判決は、そのような数件の判決があることを双方十分に意識した上での攻防を経て言い渡された原告勝訴なのだ。だからこそ、「必ずしも常に勝つとは限らない正義実現への、今回こそはの希望」という実感が湧いてくる。
この事件は、私は直接には関与していない。弁護団長は川越の田中重仁さん。彼を支えて埼玉の弁護士が中心になって担ってくれた。東京弁護団の重荷を分担していただいたのだ。提訴が2009年9月だから、6年近いご苦労。その成果に敬意を表したい。
各紙の報道を眺めてみる。見出しに微妙な差がある。
君が代訴訟、東京都に賠償命令 不起立で再雇用拒否は違法 共同
再雇用拒否、都に賠償命令=君が代不起立、元教諭ら勝訴 時事
君が代不起立で再雇用拒否は違法、都に賠償命令 地裁 朝日
君が代不起立訴訟:再雇用拒否の都に5300万円賠償命令 毎日
国歌斉唱で不起立、再雇用せず…都に賠償命令 読売
君が代訴訟、東京都に賠償命令 不起立で再雇用拒否は違法 東京(共同配信)
君が代訴訟で都に賠償命令 「再雇用拒否は違法」 日経
国歌不起立で教員再雇用せず 都に賠償命令 東京地裁判決 産経
ネットで配信されている「弁護士ドットコム」の報道がやや詳しく分かり易い。
「君が代を歌わないだけで『再雇用拒否』は違法ー東京地裁が東京都に『賠償命令』判決」
東京地裁(吉田徹裁判長)は5月25日、卒業式・入学式で「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱しなかったこと」だけを理由にして、東京都立高校を定年退職した教職員を「再雇用」しなかったことが「違法だ」とする判決を下した。2007年?09年にかけて再雇用されなかった元都立高校教職員の原告たち22人に賠償金(211万円〜260万円)と利息を支払うよう、東京都に命じた。賠償金は、もし再雇用されていたら支払われていたはずの1年分の給与にあたる額。
判決は、教職員の90%?95%が採用される再雇用制度の実態などから、教職員には再雇用されることを期待する権利(期待権)があり、その期待権は「法的保護に値する」とした。そして、都教委が「不起立」のみをもって原告たちを再雇用をしなかったことは、原告たちの期待権を「大きく侵害」し、違法だと判断した。
注目すべきは、毎日の判決理由の要約。
「判決は、都教委が再雇用を拒否した理由は『不起立』だけだと指摘。『起立斉唱命令は原告らの思想の自由を間接的に制約している。命令違反は再雇用拒否の根拠としては不十分』と述べた。その上で22人全員に、1年分の報酬211万〜259万円の支払いを命じた。
末尾に裁判所が配布した「判決骨子」を貼り付けておく。これをお読みいただけば論旨明快な判決理由がよくわかる。
判決が都教委の裁量権逸脱濫用を認定した決め手は、「再雇用制度の意義・趣旨」と「再雇用制度運用の実態」である。自らの思想・信条と教員としての良心に忠実であろうとしたために、国旗国歌の強制に従えないとした者に、懲戒処分を超えた過当な不利益を科することを違法と認めたのである。
周知のとおり、石原慎太郎・横山洋吉・米長邦雄・鳥海厳・内舘牧子などの面々が悪名高き「10・23通達」を発して、東京都の教育現場に踏み絵を再現させた。彼らは、「日の丸・君が代」強制の職務命令違反が重なるごとに処分の量定を加重する手法を編み出し、過酷にこれを実践した。明らかに、「日の丸・君が代」受容の思想への転向強要システムというほかはない。
しかも、「日の丸・君が代」不起立への制裁は懲戒処分だけでは終わらない。一度着けられたマイナス評価は職業生活の最後まで、いや定年後まで生涯にわたってついて回る。その陰湿なイヤガラセの中で、最たるものが定年後の再雇用(再採用・嘱託採用)拒否なのだ。元々再雇用制度は、定年制導入の際に年金受領年齢までの間隙を埋める制度としてできたもので、全員採用が制度の趣旨であり運用実態でもあった。ところが、他の理由の被懲戒経験者は採用されても、「日の丸・君が代」関連の被処分者だけは頑なに差別されて採用を拒否されているのだ。
それにしても、都教委の手口はひどい。ようやくにして、関連訴訟での都教委の敗訴が続いている。日本の司法の行政への甘さはよく知られているところ。法律用語でいえば、「行政裁量」の範囲は広すぎるほど広いのだ。だから、よほど目に余ることでもない限り、行政裁量が違法とされることはない。最近の諸判決は、司法が都教委のやり方を「到底看過できない」としているということだ。
都教委は本件の判決について、「大変遺憾。内容を精査して、今後の対応を検討する」と、中井敬三教育長のコメントを発表している。何が「遺憾」なのだろうか。指摘された自分の違法行為を反省して遺憾と言っているのではなさそうだ。東京地裁の裁判官を怪しからんと言っているように聞こえる。傲慢としか評しようがない。
都教委に猛省を促すと同時に、特に中井敬三教育長に一言申しあげておきたい。
あなたはこれまでの都教委の違法の積み重ねに責任がない。すべて、あなたの前任者がしでかした不始末で、「これまでの都教委のやり方がよくなかった」と言える立場にある。あなたの手は今はきれいだ。まだ汚れていないその手で、不正常な東京の事態を抜本解決するチャンスだ。
この度の判決への対応を間違えると、あなた自身の責任が積み重なってくる。あなた自身の手が汚れてくれば、抜本解決が難しくなってくる。一連の最高裁判決に付された補足意見の数々をよくお読みいただきたい。この不正常な事態を解決すべき鍵は、権力を握る都教委の側にあることがよくお分かりいただけるだろう。
「トンデモ知事」の意向で選任された「トンデモ教育委員」による「10・23通達」が問題の発端となった。今や、知事が替わった。当時の教育委員もすべて交替している。教育畑の外から選任された中井敬三さん、あなたなら抜本解決ができる。今がそのチャンスではないか。大いに期待したい。
(2015年5月26日)
**************************************************************************
平成27年5月25日午後1時30分判決言渡1 0 3号法廷
平成21年(ワ)第34395号損害賠償請求事件
東京地裁民事第36部 吉田徹裁判長 松田敦子 吉川健治
判 決 骨 子
1 当事者
原告 ○○ほか21名 被告 東京都
2 事案の概要
本件は、東京都立高等学校の教職員であった原告らが、東京都教育委員会(以下「都教委」という。)が平成18年度、平成19年度及び平成20年度に実施した東京都公立学校再雇用職員採用選考又は非常勤職員採用選考等において、卒業式又は入学式の式典会場で国旗に向かって起立して国歌を斉唱することを命ずる旨の職務命令(以下「本件職務命令」という。)に違反したことを理由として、原告らを不合格とし、又は合格を取り消した(以下、これらの選考結果等を「本件不合格等」という。)のは、違憲、違法な措置であるなどとして、都教委の設置者である被告に対し、国家賠償法1条1項に基づき損害賠償金の支払を求めた事案である。
3 主文(略)
4 理由の骨子
(1)再雇用制度等の意義やその運用実態等からすると、再雇用職員等の採用候補者選考に申込みをした原告らが、再雇用職員等として採用されることを期待するのは合理性があるというべきであって、当該期待は一定の法的保護に値すると認めるのが相当であり、採用候補者選考の合否等の判断に当たっての都教委の裁量権は広範なものではあっても一定の制限を受け、不合格等の判断が客観的合理性や社会的相当性を著しく欠く場合には、裁量権の範囲の逸脱又はその濫用として違法と評価され、原告らが有する期特権を侵害するものとしてその損害を賠償すべき責任を生じさせる。
(2)原告らに対する不合格等は、他の具体的な事情を考慮することなく、本件職務命令に違反したとの事実のみをもって重大な非違行為に当たり勤務成績が良好であるとの要件を欠くとの判断により行われたものであるが、このような判断は、本件職務命令に違反する行為の非違性を不当に重く扱う一方で、原告らの従前の勤務成績を判定する際に考慮されるべき多種多様な要素、原告らが教職員として長年培った知識や技能、経験、学校教育に対する意欲等を全く考慮しないものであるから、定年退職者の生活保障並びに教職を長く経験してきた者の知識及び経験等の活用という再雇用制度、非常勤教員制度等の趣旨にも反し、また、平成15年10月に教育長から国旗掲揚・国歌斉唱に関する通達が発出される以前の再雇用制度等の運用実態とも大きく異なるものであり、法的保護の対象となる原告らの合理的な期待を、大きく侵害するものと評価するのが相当である。
したがって、本件不合格等に係る都教委の判断は、客観的合理性及び社会的相当性を欠くものであり、裁量権の範囲の逸脱又はその濫用に当たる。
よって、都教委は、その裁量権の範囲を逸脱し、又はこれを濫用して、再雇用職員等として採用されることに対する原告らの合理的な期待を違法に侵害したと認めるのが相当であるから、他の争点について検討するまでもなく、都教委の設置者である被告は、国家賠償法に基づき、期特権を侵害したことによる損害を賠償すべき法的責任がある。
(3)再雇用職員等の運用実態、雇用期間等を考慮すると、原告らが再雇用職員等に採用されて1年間稼働した場合に得られる報酬額の範囲内に限り、都教委の裁量権の範囲の逸脱又はその濫用による原告らの期待権侵害と相当因果関係にある損害と認めるのが相当である。
本日(3月20日)の朝日「耕論」に、宮川光治さんの聞き書きが掲載されている。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11659534.html
一票の格差問題についての、昨日(3月19日)の東京高裁合憲判決を素材とするもの。元最高裁裁判官のものの考え方の枠組みを示すものとして興味深く読んだ。
宮川さんは、こう言っている。
「わが最高裁は、先進国の最高裁判所や憲法裁判所と比べて、国会や内閣に対し最も敬譲を示してきたと思います。ある米国の学者は、『世界で最も保守的な憲法裁判所であるとみなされている』と言っていますが、少なくとも近年まではそのような評価を受けても仕方がありませんでした。」
なるほど、ものは言いようだ。「わが最高裁は、国会や内閣に対して弱腰」とか、「過度に遠慮がある」とか、あるいは「違憲判断に臆病」などとは言わない。「敬意を表し謙譲の姿勢を示している」というわけだ。さすがに、品のよい物言い。
これに続く一文が、いかにも宮川さんらしい。
「『緩い打ちやすいボールを投げれば、的確に打ち返してくれるだろう』という信頼を最高裁が政治の側に持ち続けたからだと、私は考えています。」
わが最高裁の国会や内閣に対する礼節を尽くした接し方は、相手に対する信頼があってのことというわけだ。あからさまに違憲判決を出して立法や行政を批判せずとも、穏当なものの言い方で、最高裁の意のあるところを忖度して呉れるだろう。その上で適切な対応がなされるに違いない。そう思って違憲判断を控えてきた。
このことが「剛速球ではなく、緩い打ちやすいボールを投げてきた」、と表現されている。違憲判決という剛速球で国会や内閣をねじ伏せることは好ましくない。むしろ、結論は違憲判決になってはいなくても、その判決理由に柔らかく問題を指摘しておけば、立法も行政も司法の意を汲んで、的確な反応をしてくれるはず。これが、「最高裁の投げたボールを的確に打ち返してくれるだろう」という表現になっている。
にわかに全面的賛意を表明しがたいが、なるほど上手な説明の仕方だと思う。もちろん、説明がこれで終わっては何の意味もない。宮川さんの真骨頂は、これに続く次の言葉。
「しかし、そのボールが見送られたり、弥縫策というファウルを打たれたりすることが長く続く中で、司法への失望や侮りが生まれました。」
最高裁は、国会や内閣が打ち返しやすいような、バッティングピッチャー役を務めていたというわけだ。きちんと打ち返してもらうように期待を込めて投げた打ち返しやすい球を、打者である立法や行政は打とうともせずに見送ったり、見当違いの方向に打ち返したり、最高裁の期待に外れた対応が長く続いた。まったくそのとおりだろう。その結果、何が起こったか。
何よりも、国民の司法への「失望」である。「最高裁は憲法と人権の守り手」であるはずが、「最高裁は権力の番犬」と揶揄される事態になっている。国民は、「どうせ裁判所へ行っても、政権の言うとおりの腰の引けた判決しか期待できない」と、司法に失望しているのだ。これは裁判所が本質的な意味で国民に見捨てられたことを意味する。この事態は、人権の危機であり、民主主義の危機でもある。
そして、国会や内閣の司法に対する「侮り」である。何をやっても、最高裁が違憲判断をすることはない。立法裁量、行政裁量に歯止めなどないのだ。という、侮りである。これも人権と民主主義の危機である。
宮川さんは、以上のことを意識して、最高裁自身が変わろうとしているという。
「国民の主体意識が高まり、権利のための闘争が広がる。そして、グローバル社会の進展は、普遍的価値を基準とする社会の構築を司法に求める。そうした時代の大きな変化を背景として、明らかに最高裁は様々な課題について積極的に憲法判断をする方向にかじを切りつつあります。『一票の価値』についても、司法の役割を積極的に果たそうという方向性が揺らぐことはないと思います。」
是非、そうであって欲しい。期待したい。
フランス人権宣言第16条が、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」と定式化して以来、人権を守るための三権分立が、自由主義憲法統治機構の基本構造となった。しかし、三権相互の関係の在り方は、各国それぞれである。我が国の最高裁が、ゆるいボールを投げ続けている間に、立法と行政の侮りとそのことによる司法の劣位が定着してしまったのではないか。ゆるいボールは、はたして的確に打ち返すことを期待してのものであったかにも疑問が残る。
悪名高い「10・23通達」にもとづいて教員に対する「日の丸・君が代」の強制が許されるか。この問題について最高裁は、確かに「緩いボール」を投げる判決を言い渡した。東京都の教育行政に敬譲を示して違憲判断は回避した。しかし、間接的には思想良心の侵害になることまでは認め、戒告を超える懲戒処分は懲戒権の濫用として違法とした。ここには、教育の場に相応しからざる都教委の強圧的姿勢に対する批判を読み取ることができる。多数の補足意見において、その批判はさらに明確である。宮川さんは、これを「的確に打ち返してくれるだろう」との信頼を前提とした判決だというのだろう。10・23通達体制派は、最高裁によって違憲判断はかろうじてまぬがれたが、褒められてはいない。見直しを求められている。
ところが、都教委はこの期待にまったく応えるところはない。そもそも信頼に足りる相手ではない。品格とかディーセントとはまったく無縁の存在。「緩いボール」を投げたところで、投手の意図を忖度できない愚かな打者には意味がない。こんな輩に対しては、剛速球でねじ伏せるしかない。それ以外に都教委のごとき行政の無頼を矯正する手段はないというべきだろう。
次のイニングには都教委にストライク・アウトの宣告をしなければならない。それこそが、国民の司法への信頼を取り戻し、行政の侮りをなくする唯一の道である。
(2015年3月20日)
本年2月2日の当ブログに、東京弁護士会の役員選挙事情を掲載した。「弁護士会選挙に臨む三者の三様ー将来の弁護士は頼むに足りるか」というもの。投票日(2月6日)直前の記事だったので、選挙結果の報告もしなければなるまい。
下記は、東京弁護士会の役員選挙についての、同会ホームページの紹介である。公式の報告だから無味乾燥。外部から注目を惹くところは皆無。せいぜい、「公式ホームページで元号ではなく西暦が使用されているのか」という程度だろう。
2015年度東京弁護士会役員選挙結果について(2015年2月9日)
2015年度東京弁護士会役員等選挙の投票及び開票が2015年2月6日(金)に行われました。同日、東京弁護士会選挙管理委員会において開票結果を確定し、以下の者を当選者と決定しました。
2015年度東京弁護士会役員選挙 結果
会長選挙 当選者
伊藤 茂昭 (いとう しげあき)
副会長選挙 当選者(弁護士登録年月日順)
森 徹 (もり とおる)
佐藤 貴則 (さとう たかのり)
渡辺 彰敏 (わたなべ あきとし)
大森 夏織 (おおもり かおり)
中嶋 公雄 (なかじま きみお)
湊 信明 (みなと のぶあき)
監事選挙 当選者(無投票・弁護士登録年月日順)
吉村 誠 (よしむら まこと)
鹿野 真美 (しかの まみ)
**************************************************************************
これに、もう少し情報を加えると、弁護士会事情が多少は見えてくる。
? 会長選挙
当選 伊藤茂昭 3665票 (法友会)
落選 武内更一 758票
? 副会長選挙
当選 1 湊 信明 909票 (法友会)
当選 2 大森夏織 795票 (期成会)
当選 3 渡辺彰敏 718票 (法友会)
当選 4 森 徹 635票 (法曹親和会・東京法曹会)
当選 5 佐藤貴則 593票 (法曹親和会・二一会)
当選 6 中嶋公雄 522票 (法曹親和会・大同会)
落選 赤瀬康明 305票
法友・親和が東弁の二大会派である。会派とはインフォーマルな派閥のこと。選挙人事は派閥が取り仕切っている。二大派閥による人事壟断に異を唱え、東京弁護士会民主化を掲げて誕生したのが期成会。私もその会員の一人だが、今では既成派閥の一つになったと見る人が多いようだ。各派閥は、それぞれに研修もし親睦も重ねて親密化している。そして、微妙なバランスで、役員選挙を取り仕切っている。会長候補の武内と副会長候補の赤瀬が、この微妙なバランスの外にある。もっとも、この両者はイデオロギー的には正反対の存在。
2月2日ブログに書いたとおり、私が最も注目していたのは、赤瀬康明候補の当落だった。落選したことは、まずは目出度い。しかし、この305という得票数をどう見るべきか。歯牙にかける必要もない少数集団と見てよいのか、泡沫候補と看過し得ないと危機感をもつべきなのだろうか。微妙なところ。
会長・副会長立候補者9名のうち、赤瀬を除く8名は、とにもかくにも弁護士や弁護士会の理念を語っている。会長戦に敗れた武内更一がその熱さにおいて筆頭であるが、いずれも弁護士の使命を語り、その弁護士の使命を全うするための弁護士会のあり方について所信を述べている。赤瀬だけにそれがない。むしろ、「弁護士会を任意加盟にせよ」「弁護士自治など必要はない」「弁護士会の公益活動など無用」「人権擁護活動よりは、会費を安くせよ」という。理念派ではなく、非理念派。真面目派に対して非真面目派。彼と、これを支持した300名にとっては、弁護士とは公益業務ではなく、ビジネスなのだ。弁護士の役割や使命への自覚はなく、専ら経営の安定だけが関心事と見える。
2009年には、赤瀬が所属する弁護士法人(「アデイーレ」)の所長・石丸幸人が東弁会長選挙に立候補して惨敗している。それから6年、弁護士は増員となったが、赤瀬の票は殆ど増えていない。今のところは、理念派が持ちこたえている。
今の世を席巻している新自由主義の波は、司法界にも押し寄せている。全てを市場原理に委ねて何が悪い、という開き直りである。1999年7月、内閣に「司法制度改革審議会」が設置されて本格化した「司法改革」の基調は、この新自由主義にあるというべきであろう。
企業が求めているのは、面倒な理念など持たない、使い勝手のよい安価な「法技術提供者」である。そのような弁護士の大量創出こそが「司法改革」の名で語られた。いま、その需要に応えた弁護士群が育ちつつあるのだ。主観的にはともかく客観的には、彼らは司法改革を推進した財界に弁護士会の内側から公然とこれに呼応する勢力である。警戒を緩めてはならない。
(2015年2月15日)
早春は弁護士会選挙の季節。今週金曜日2月6日が、私の所属する東京弁護士会の会長・副会長・監事・常議員各選挙の投票日となっている。日本最大のマンモス単位会7000人の選挙。いま、その選挙運動がたけなわである。例年のとおり、選挙公報に目を通してみる。
弁護士会の役員たらんとする者、弁護士会運営の理念を語らねばならない。その理念とは、弁護士の使命である人権擁護をいかにして実現せしめるかを中心に据えたものでなくてはならない。現実の社会のあり方や政権の動向から遊離して人権擁護実現の課題はありえない。だから、弁護士会選挙の公約やスローガンは、現実の社会や政権と切り結ぶものとならざるを得ない。
主流会派から今回会長選に立候補している候補者のメインスローガンは、「頼りがいのある弁護士会を」というもの。弁護士にとっての頼りがいではなく、「市民にとって頼りがいのある弁護士会を」という内容である。
選挙公報で彼は次のように語っている。
「…目を国政に転じてみると、立憲主義と恒久平和主義が危機にさらされています。また市民の中には高齢者や障がいのある人などまだまだ弁護士へのアクセスが困難な方がいます。弁護士・弁護士会に期待される、憲法の基本原理を守り、さまざまな人権を擁護する活動は、このような困難な中でも若手会員の参加を得て継続・強化してゆく必要があります」
「基本的人権の擁護は、弁護士の使命です。これまで弁護士会は再審無罪事件の支援など、歴史的に数多くの社会的弱者の人権救済や、人権擁護に資する立法活動に携わってきました。この伝統を受け継ぎ、多分野の人権擁護活動に継続的に取り組んでいきます。特に戦争はあらゆる意味で多くの犠牲者を出す国家の人権侵害です。その危険を除くことも重要な弁護士の使命です。また昨今の人種差別を煽るヘイトスピーチによる人権侵害の救済にも取り組みます」
「集団的自衛権行使容認反対と憲法改正問題」との標題で次の公約もある。
「昨年の閣議決定による集団的自衛権の行使容認は認めることができません。手続き的に立憲主義に反するものであり、恒久平和主義とも相容れません。この閣議決定に基づく関連諸法の改正に対して憲法の基本原理を維持する立場から対応します。また、恒久平和主義を根底から変えようとする憲法改正の動きに対しては断固として反対いたします」
会内の保守的穏健派の良識が表明されていると見てよいだろう。
これに対立して「革新派」候補が立候補している。反権力・反政権の旗幟が鮮明である。「盗聴を容認する日弁連を東弁から変えよう」「 改憲と戦争を阻止する行動に立ち上がろう」などがメインスローガン。
彼は、情勢認識から語る。「再び世界戦争が惹き起こされようとしています。フランスの銃撃・人質殺害事件と、それに対する各国政府の「反テロ戦争」宣言は、そのことを強く危惧させます。銃撃事件の実行者は、それを「イスラム国」に対するフランスの空爆に対する報復・反撃と言っています。結局、アメリカを中心とし、フランス、イギリス、ドイツその他の国が行った中東地域の石油支配をめぐる争奪戦に起因するものであることは間違いありません。
日本も、「集団的自衛権行使」を容認する7.1閣議決定以来、こうした欧米各国に遅れまいとして突き進んでいます。安倍首相は、新たに「存立事態」などという概念を創り出し、「自衛」の名のもとに、日本の軍隊を世界のどこにでも送り込めるようにするため、今通常国会で法整備をすることを言明し、8月15日には「戦後70年談話」を発表し、日本国憲法体制を転覆するつもりです。
戦争は、それによって利益を挙げる一部の富裕層が起こすものであり、民衆にとっては、相手国の民衆との殺し合いを国家から強要され、失うものばかりで益するものは何もありません。
「政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起ることのないようにする」と誓った私たちは、この国の圧倒的多数を占めている労働者民衆とともに力をあわせて、政府の改憲・戦争政策と治安強化立法の制定を阻止することが、今どうしても必要です。私は、東弁会長としてその先頭に立ちます。」
「圧倒的多数を占めている労働者民衆とともに力をあわせて、政府の改憲・戦争政策と治安強化立法の制定を阻止することが、今どうしても必要」だという認識が、革新派たる所以。個別政策テーマでは、刑事司法のあり方に過半の紙幅を割いて、日弁連の妥協的姿勢を厳しく叱正している。
この対向関係が弁護士選挙の基本パターンといってよい。定員6名に7名が立候補した副会長選挙でも大方がこの基本パターンに属する。保守中道的な姿勢で在野精神と反権力を語るか、革新的に明確な政権批判運動へのコミットを口にするか、なのだ。
ところが、副会長候補者の一人だけが、まったく色合いを異にする「マニフェスト」を掲げている。弁護士や弁護士会の理念を語るところがない。むしろ、理念を払拭することをもって、「新たなる弁護士会の幕開け」「『新』世代が起ち上がる、時が来た」という。64期・36歳だという。
彼のいう「弁護士会の変革」とは、「弁護士をサラリーマン化し、弁護士会を会社化すること」にほかならない。公益活動から手を引いて、徹底して会財政をスリム化して、会費を半減しようという。さらに、「任意加入制でよいではないか。弁護士会から受ける利益よりも参加することの負担が大きい人には、弁護士会に参加しない権利も認められるべきです」という。一昔前までは、恥ずかしくてとても公の場では言えないことを、あっけらかんと言ってのけている。彼のいう「新たなる弁護士会の幕開け」は、「恐るべき弁護士会の幕開け」にほかならない。
政治信条が保守であろうと革新であろうと、拠って立つ基盤が財界であろうと労働者であろうと、弁護士は弁護士である。弁護士が弁護士である所以は、在野性にある。権力に縛られることがなく、仲間以外の誰からも監督も指導も受けることはない。その意味では、弁護士会は公的存在でありながら、監督官庁からの指揮監督を受けない国内唯一の組織である。弁護士の懲戒権を弁護士会が有していることの意義を軽んじてはならない。
「あっけらかんマニフェスト」の文中に、こんな言がある。
「現在、弁護士会は強制加入の団体です。しかし、既存の弁護士会には高すぎる会費の問題や政治性の高い活動を行っていることなど強制加入の団体にふさわしくない点があります。懲戒や公益活動についても裁判所や行政の関与で代替可能であり、弁護士会が自ら行う必要はありません」「所得の二極化が進んでいると言われている現状では、若手弁護士は、弁護士会に所属する意味を見出すことができません」「会員利益にならない活動、公益上必要不可欠でない活動、強制加入団体にそぐわない過度に政治的な活動について廃止・縮小を検討し、会費や会務活動の無駄を省きます」
彼が、積極的に何かの課題に取り組むという言及は皆無である。刑事司法制度についても、民事司法制度についても関心があるようには見受けられない。関心は、ただひとつ、弁護士自身が喰っていけるようにせよ、ということ。
なるほど、弁護士会の人権活動や公益活動を費用の無駄と考え、弁護士自治に関心なく、稼ぎに汲々としている若手弁護士が群をなして存在しているのだ。志のない弁護士たち、会社員と同じノリで法律事務所に就職したとの意識の弁護士たち。こんな弁護士が増えつつあることは、保守政権や財界にとっては、確かに「希望の幕開け」といってよい。彼らは、つべこべ言わずに、ひたすら高額の稼ぎを求めて、強者の利益のために働くことを恥と思わない弁護士となるのだろうから。
歌を忘れたカナリヤのごとく、公益性も志も忘れた「資格だけの弁護士群」の拡大は、由々しき問題だと思う。国民から「後ろの山に棄てましょか」とされかねない。いま、人権や平和などの憲法理念の有力な担い手としての弁護士層の役割を頼もしいと思う立場からは、志を失った弁護士の将来像を思うとき、暗澹たる気分とならざるをえない。
(2015年2月2日)
本日の朝刊に掲載された小さな記事。朝には見落として、夕方に気が付いた。世間の耳目を引かないようだが、私にはいささかの関心がある。
「慰安婦報道:『朝日新聞は名誉毀損』8749人が賠償提訴」というベタの見出し。
「朝日新聞の従軍慰安婦報道によって『日本国民の名誉と信用が毀損された』などとして、渡部昇一・上智大名誉教授ら8749人が26日、同社を相手取り、1人1万円の賠償と謝罪広告掲載を求めて東京地裁に提訴した。訴状によると、原告側が問題視しているのは、朝日新聞が1982〜94年に掲載した『戦時中に韓国で慰安婦狩りをした』とする吉田清治氏(故人)の証言を取り上げた記事など13本。『裏付け取材をしない虚構の報道。読者におわびするばかりで、国民の名誉、信用を回復するために国際社会に向けて努力をしようとしない』などと訴えている。
朝日新聞社広報部の話 訴状をよく読んで対応を検討する。」(毎日)
世の中は狭いようで広い。こんな訴訟の原告団に加わる「名誉教授」や、こんな提訴を引き受ける弁護士もいるのだ。この奇訴にいささかの興味を感じて、訴状の内容を読みたいものとネットを検索したが、アップされていない。靖国関連の集団訴訟などとの大きな違いだ。
それでも、「『日本国民の名誉と信用が毀損された』として、朝日を相手取り、賠償と謝罪広告掲載を求めて東京地裁に提訴した」というメディアの要約が信じがたくて、当事者の言い分で確かめたいと関連サイトを検索してみた。
「頑張れ日本!全国行動委員会」という運動体が提訴の委任状を集めており、姉妹組織「朝日新聞を糺す国民会議」が訴訟の運動主体のようでもある。これらを手がかりに検索を重ねても訴状を見ることができないだけでなく、請求原因の要旨すら詳らかにされていない。法的な構成の如何にはまったく関心なく、原告の数だけが問題とされている様子なのだ。勝訴判決を得ようという本気さはまったく感じられない。
ようやく3人で結成されている弁護団のインタビュー動画にたどり着いた。3人の弁護士が語ってはいるが、その大半は「訴訟委任状の住所氏名は読めるようにきちんと書いてください」「郵便番号をお忘れなく」「収入印紙は不要です」「委任の日付は空欄にしてもかまいません」などと細かいことには熱心だが、請求原因の構成については語るところがない。「朝日がいかに国益を損なったか」という政治論だけを口にしている。ここにも、真面目な提訴という雰囲気はない。
永山英樹という右派のライターが、次のように提訴記者会見での原告団の言い分をまとめている。おそらくは、訴状を読んでのことと思われる。
「日本の官憲による慰安婦の強制連行という朝日の宣伝により、旧軍将兵、そして国民は集団強姦犯人、あるいはその子孫という汚名を着せられ、人格権、名誉権が著しく損なわれた。日本の国家、国民の国際的評価は著しく低下して世界から言われなき非難を浴び続けている。たしかに虚報を巡って朝日は「読者」に対し反省と謝罪の意は表明した。しかし捏造情報で迷惑を被ったのは「読者」だけではないのである。国際社会における国家、国民の名誉回復の努力も一切していない。そこで朝日新聞全国版で謝罪に一面広告を掲載することと、原告に対する一万円の慰謝料の支払いを求めるのがこの訴訟なのだ」
どうやらこれがすべてのようだ。これでは、そもそも裁判の体をなしていないといわざるを得ない。
この提訴は、訴権濫用により訴えそのものが却下される可能性が極めて高い。訴訟の土俵に上げてはもらえないということだ。訴え提起が民事訴訟制度の趣旨・目的に照らして著しく相当性を欠き信義則に反する場合には、訴権濫用として、訴えを却下する判決は散見される。このような信義則に反する場合としては、?訴え提起において、提訴者が実体的権利の実現ないし紛争の解決を真摯に目的とするのでなく、相手方当事者を被告の立場に立たせることにより訴訟上または訴訟外において有形・無形の不利益・負担を与えるなどの不当な目的を有すること、および?提訴者の主張する権利または法律関係が、事実的・法律的根拠を欠き権利保護の必要性が乏しい、ことが挙げられている。
今回の集団による対朝日提訴は、まさしくこの要件に該当するであろう。
さらに、提訴が訴権の濫用に当たることは、却下の要件となるだけでなく、提訴自体が朝日に対する不法行為を構成する可能性もある。そのときは原告すべてに不法行為による損害賠償責任が生じることになる。通常8749人に損害賠償の提訴をすることは事務の繁雑さと郵送料の負担とで現実性がないが、本件では反訴なのだから好都合だ。反訴状は正副各1通だけで済むし、送達費用はかからない。当事者目録は原告側が作ったものをそのまま利用すればよい。朝日にとってはお誂え向きなのだ。
朝日を被告としたこの訴訟は不法行為構成であろうが、何よりも各原告に、「権利または法律上保護される利益の侵害」がなくてはならない。「国益の侵害」や「日本国民の名誉と信用が毀損された」では、そもそも訴えの利益を欠くことになって、私的な権利救済制度としての民事訴訟に馴染まないことになる。この点で訴訟要件論をクリヤーできたとしても、法律上保護される利益の侵害がないとして棄却されることは目に見えているといってよい。
さらに誰もが疑問に思うはずの、時効(3年)と除斥期間(20年)について、原告側はどのようにクリヤーしようとしているのか、とりわけ除斥期間は被告の援用の必要はない。訴状に何らかの記載が必要だし、原告を募集するについて重要な説明事項でもある。しかし、この点についてはなんの説明もないようだ。
この訴訟は新手のスラップだ。勝訴判決によって権利救済を考えているのではない。ひたすらに朝日に悪罵を投げつける舞台つくりのためだけの提訴ではないか。本来の民事訴訟制度は、こんな提訴を想定していない。
朝日は、早期結審を目指すだけでなく、提訴自体を不法行為とする反訴をもって対抗すべきではないか。負けて元々の提訴で、相手を困らせてやれ、という訴訟戦術の横行を許してはならないと思う。
(2015年1月27日)
本日(1月15日)午後1時10分、東京地裁611号法廷で、民事第30部(本多知成裁判長)が「DHCスラップ訴訟」での第1号判決を言い渡した。この事件の被告は、横浜弁護士会所属弁護士の折本和司さん。私同様の弁護士ブロガーで、私同様に8億円を政治家に注ぎこんだ吉田嘉明を批判して、2000万円の損害賠償請求を受けた。
予想のとおり、本日の「DHC対折本」訴訟判決は、請求棄却。しかも、その内容において、あっけないくらいの「原告完敗」「被告完勝」であった。まずは、目出度い初春の贈り物。判決を一読すれば、裁判所の「よくもまあ、こんな事件を提訴したものよ」という言外のつぶやきを行間から読み取ることができよう。「表現の自由陣営」の緒戦の勝利である。スラップを仕掛けた側の大きな思惑外れ。
判決は争点を下記の4点に整理した。この整理に沿った原被告の主張の要約に4頁に近いスペースを割いている。
(1)本件各記述の摘示事実等による社会的評価の低下の有無(争点1)
(2)違法性阻却事由の有無(争点2)
(3)相当因果関係ある損害の有無(争点3)
(4)本件各記述削除又は謝罪広告掲載の要否(争点4)
そして、裁判所による「争点に対する判断」は実質2頁に過ぎない。その骨子は、「本件各記述が原告らの社会的評価を低下させるとの原告らの主張は採用できない」とし、「そうすると、原告らの請求は、その余の争点について判断するまでもなく、いずれも理由がないから、これらを棄却する」という、簡潔極まるもの。4つのハードルを越えなきゃならないところ、最初のハードルでつまずいて勝負あったということ。第2ハードル以下を跳ぶ権利なし、とされたわけだ。原告側には、さぞかしニベもない判決と映ったことだろう。
折本弁護団は勝訴に際してのコメントを発表した。要旨は以下のとおりである。
折本弁護士のブログは、「DHCの吉田会長が、みんなの党代表渡辺喜美氏に8億円を渡した」という、吉田氏自身が公表した事実を摘示した上で、日本における政治と金の問題という極めて公益性の高い問題について、弁護士の視点から疑問を指摘し、問題提起を行ったものにすぎない。
その記載が名誉毀損にならないものであることは、ブログを読めば一目瞭然であるし、本日の判決も名誉毀損に当たらないことを明確に判断した。
もしもこの記載に対する反論があるならば、正々堂々と言論をもってすれば済むことであるしそれは週刊誌という媒体を通じて自らの見解を公表した吉田氏にとっては容易いことである。にもかかわらず、吉田氏は、言論をもって反論することを何らしないまま、同氏及び同氏が会長を務める株式会社ディーエイチシーをして、折本弁護士に対していきなり合計2000万円もの慰謝料請求を求める訴訟を提起するという手段に出たものである。これは、自らの意見に批判的な見解を有するものに対して、巨額の慰謝料請求・訴訟提起という手段をもってこれを封じようとするものであると評価せざるを得ず、言論・表現の自由を著しく脅かすものである。
かかる訴訟が安易に提起されること自体、言論・表現活動に対する萎縮効果を生むのであり、現に、同氏及び同社からブログの削除を求められ、名誉毀損には当たらないと確信しつつも、不本意ながらこれに応じた例も存在する。
吉田氏及び株式会社ディーエイチシーは、折本弁護士に対する本件訴訟以外にも、渡辺氏に対する8億円の「貸付」について疑問・意見を表明したブログ等について、10件近くの損害賠償請求訴訟を提起している。これらも、自らの意見に沿わない言論に対して、自らの資金力を背景に、訴訟の脅しをもってこれを封じようとする本質において共通のものがあると言わなければならない。
当弁護団は、吉田氏及び株式会社ディーエイチシーが、本日の判決を真摯に受け止めるとともに、同種訴訟についてもこれを速やかに取り下げ、言論には言論をもって応じるという、言論・表現活動の本来の姿に立ち返ることを求めるものである。
2時半から、記者クラブで折本さんと折本弁護団が記者会見を行った。
小島周一弁護団長から、「原告からは人証の申請もなく、判決言い渡しの法廷には原告代理人の出廷もなかった。訴訟の進行は迅速で、第3回口頭弁論で裁判長から結審の意向が明示され、慌てた被告側が原告本人の陳述書を出させてくれとして、第4回期日を設けて結審した。この訴訟の経過を見ても、本件の提訴の目的が本気で勝訴判決をとることにあったとは思えない。表現行為への萎縮効果を狙っての提訴自体が目的であったと考えざるをえない」
「DHCと吉田氏は本日の判決を真摯に受け止め、同種訴訟についても速やかに取り下げるよう求める。」
折本さんご自身は、「弁護士として依頼者の事件を見ているのとは違って、自分が当事者本人となって、この不愉快さ、気持の重さを痛感した」「DHC側の狙いが言論の封殺にあることが明らかなのだから、これに負けてはならないと思っている」とコメントした。
引き続いて、山本政明弁護士の司会で澤藤弁護団の記者会見。山本さんの外には、光前幸一弁護団長と神原元弁護士、そして私が出席し発言した。光前弁護士から、澤藤事件も折本事件と基本的に同様で、言論封殺を目的とするスラップ訴訟であることの説明がなされた。そして最後を「これまでの表現の自由に関する最高裁判例の主流は、判決未確定の刑事被告人の罪責を論じる言論について、その保護の限界に関するものとなっている」「本件(澤藤事件)は、純粋に政治的な言論の自由が擁護されるべき事案として判例形成を目指したい」と締めくくった。
私が事件当事者としての心情を述べ、最高2億から最低2000万円の10件のDHCスラップ訴訟の概要を説明した。神原弁護士からは、植村事件との対比でDHCの濫訴を批判する発言があった。
澤藤弁護団の記者会見は初めての経験。これまで、フリーランスの記者の取材はあっても、マスメディアに集団で報告を聞いてもらえる機会はなかった。
私がまず訴えたのは、「今日の折本事件判決が被告の完勝でよかった。もし、ほんの一部でも原告が勝っていたら、言論の自由が瀕死の事態に陥っていると言わなければならないところ。私の事件にも、その他のDHCスラップ訴訟にも注目していただきたい。
ぜひ、若手の記者諸君に、自分の問題としてお考えいただきたい。自分の記事について、個人として2000万円あるいは6000万円という損害賠償の訴訟が起こされたとしたら…、その提訴が不当なものとの確信あったとしても、どのような重荷となるか。それでもなお、筆が鈍ることはないと言えるだろうか。権力や富者を批判してこそのジャーナリズムではないか。金に飽かせての言論封殺訴訟の横行が、民主主義にとっていかに有害で危険であるか、具体的に把握していただきたい。
スラップ訴訟は、今や政治的言論に対する、そして民主主義に対する恐るべき天敵なのだ。
(2015年1月15日)
12月19日、韓国憲法裁判所が「統合進歩党」(統進党、あるいは進歩党と略称)の解散を命じる決定を下した。裁判官は9名、うち認容8対棄却1の圧倒的多数での政党解散命令であった。
意外にも、韓国のメディアはこの憲政史上初の判決に好意的なようだ。「中道や進歩的と言われる裁判官まで統進党の目的と活動が民主的な基本秩序を深刻に害していると判断した」「自由民主体制を揺るがす憲法破壊政党に寛容ではないという峻厳な憲法守護の審判」などと報道されている。
私は、これまで韓国憲法裁判所を高く評価してきた。日本の極端な司法消極主義に比較して、果敢に体制に切り込むその積極姿勢を好もしいとし、羨望まで感じていたいたものだ。しかし、この度の政党解散命令には大いに戸惑うばかり。このような権力行使の権限を司法に与えてよいのだろうか。「日本国憲法を改正して、わが国にも憲法裁判所の創設を」という提唱は古くからある。一面魅力的な提案にも見えるが、韓国憲法裁判所のこの事態に接した以上は、「憲法裁判所設置には反対」と姿勢を明確にせざるを得ない。
一昨年(2012年)の5月、日民協は「韓国司法制度調査団」をつくって、韓国憲法裁判所を訪問した。きっかけは、前年(2011年)8月30日の「政府の不作為が違憲であることを確認する」という憲法裁判所の認容決定報道。その事件の請求人(原告)は「元日本軍慰安婦として被害を受けた女性たち」、事件名は「韓日請求権協定第3条不作為違憲確認請求訴訟」という。
請求人ら元日本軍慰安婦とされた女性の日本に対する損害賠償請求権が存続しているのか、それとも1965年「日韓請求権協定」に基づいて消滅してしまったかの解釈上の紛争に関して、憲法裁判所は「韓国政府は解釈上の疑義を条約に定められた手続きに従って解決すべき義務を負っている」と認定した上、その不作為を違憲と判断したというのだ。
高邁な憲法理念と高邁ならざる最高裁判決との落差に臍を噛んでばかりの日本の弁護士には、韓国憲法裁判所の判決は驚嘆の内容。行政に対する厳格なこの姿勢はいったいどこから生まれてきたのだろう。どのようにしてこのような「裁判所」が実現したのだろうか。その疑問ゆえの韓国憲法裁判所訪問であった。
韓国憲法裁判所では、見学者に対する応接の親切さと説明の熱意に驚いた。まずは15分ほどの憲法裁判所のプロモーションビデオを見た。みごとな日本語版であったが、英語、中国語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語版まであるという。そのタイトルが「社会を変える素晴らしい瞬間のために」というもの。憲法裁判所の、国民一人ひとりの幸福に直接つながる活動をしているのだという強い自負が伝わってくる。
その後、われわれの手許には、案内のリーフレットだけでなく、大韓民国憲法と憲法裁判所法の全文(英文)の小冊子が配布され、最高裁調査官にあたる憲法研究員から憲法裁判所の理念や仕組みそして、その運用の実態や社会的評価について2時間にわたって懇切な説明と充実した質疑応答があった。研究員のお一人は、日本に留学(東北大学)の経験ある方で、完璧な日本語での説明だった。その気取らない応対の姿勢にいたく感心し、わが国の最高裁のあの権威主義的な横柄な対応との懸隔を嘆いたものだった。
その憲法裁判所による政党解散の強権発動である。一院制の韓国国会の議席数は300のところ、統進党は国会議員5名をもつ。地方議員は37名だそうだ。選挙によって、これだけの国民の支持を得ている政党が強制的に解散させられた。
伝えられる決定の内容は、「統進党の真の目的と活動は、一次的に暴力によって進歩的民主主義を実現し、最終的に北朝鮮式の社会主義を実現するためのもの」「北朝鮮の対南革命戦略に追従し、自由民主主義体制を転覆しようとする統進党の隠れた意図が李石基議員内乱事件で現実のものとなった」「民主的な基本秩序に実質的な害悪を及ぼす恐れがある具体的な危険を招いた」というもので、さらに「北朝鮮という反国家団体と対立している大韓民国の特殊な状況も考慮しなければならない」と強調されているという。
日本国憲法に政党についての定めはないが、韓国憲法第8条は、政党について下記の定めをしているという。
第8条
? 政党の設立は自由であり、複数政党制は保障される。
? 政党は、その目的、組織及び活動が民主的でなければならず、国民の政治的意思形成に参与するのに必要な組織を有しなければならない。
? 政党は、法律が定めるところにより、国の保護を受け、国は、法律が定めるところにより、政党運営に必要な資金を補助することができる。
? 政党の目的又は活動が、民主的基本秩序に違背するときは、政府は、憲法裁判所にその解散を提訴することができ、政党は、憲法裁判所の審判により解散される。
日本国憲法に馴染んだ感覚からは、1項は当然として、2項はなくもがな、3項は異様、4項は恐るべき規定である。政党に対する強権的解散命令の制度と憲法裁判所の存在とがセットになっていることが注目される。
政党は議会制民主主義の展開過程において、民意と議会をつなぐ不可欠の組織である。民主主義の基礎をなす組織と言ってよい。反憲法的スローガンをもつ政党と言えども、選挙によって淘汰されるのが本来のあり方で、解散命令には原理的に馴染まないと思えるのだ。憲法裁判所としては、もっと抑制的な対応の仕方があったのではないだろうか。
たとえば、ここでは日本の最高裁に倣って、悪評さくさくの司法消極主義採用の智恵を働かせてもよかったのではないだろうか。
「民主主義的基盤を持たない憲法裁判所が、有権者の一定の支持を得ている政党に解散を命じるに当たっては、有権者の意思を尊重して可及的に抑制的であるべきで、当該政党の基本理念とその基本理念が表出された外形的行為の両面において、違憲性が一見明白と言えない限りは解散命令を避けるべきである」
というふうに。
以下は、衆議院の憲法調査会での議論のまとめ(2005年)の一部として紹介された見解である。傾聴に値するのではないだろうか。
「憲法裁判所による抽象的審査には、『裁判所が政治的判断を迫られる』、『人権保護より秩序維持に走りやすい』などの問題点があるのに対し、付随的違憲審査制は、具体的事件において深い議論の下で司法審査が行われる、立法作業の抽象的側面を補完するなど優れた制度と考える」
「憲法裁判所を導入しても司法が積極主義に転ずる保証はなく、また、憲法裁判所は政治的に利用されやすいため人権保護の点からも好ましくない」
「抽象的違憲判断の効力が当該法令の改変にまで及ぶとすれば、正に立法権を裁判所が行使することになる」
要は三権分立のバランスの問題としてある。人権の擁護のために、国家機関の権限を分立しなければならないとする自由主義的要請を貫徹するには、どのようなバランスが望ましいのだろうか。民主主義的な基盤を持たない司法(憲法裁判所も含むと理解する)が、過度に積極的に立法や行政の一部の権限を侵蝕することはけっして望ましいものではない。ましてや、政党活動の自由・結社の自由という重要な基本権を否定する方向での積極性の発揮であればなおさらのことである。
私は、ネオナチや極右に対する批判の言論は極めて重要だと思う。しかし、ネオナチ政党だから、あるいは極右だから極左だからという理由で、その主張を理念とする政党の存在が否定されるようなことがあってはならないと思う。日本国憲法の用語で表現すれば、結社の自由を否定してはならない。その政党や政党の主張への批判の言論の保障は、批判対象の政党の存立否定を意味するものではない。司法は、いかなる政党についてであるにせよ、その結社の自由侵害に手を貸すようなことがあってはならない。
なお、韓国憲法裁判所のこの度の統進党解散決定理由の中に、「合法的な政党を装い、税金である政党補助金を受け取って活動した。民主的基本秩序を破壊しようとする危険性を除去するには解散決定のほかに代案はない」との一節があるという。前記の韓国憲法8条3項の「政党に対する国の保護」「政党運営に必要な資金の補助」に絡む問題である。「政党に対する保護」「政党運営への資金補助」は、明らかに国の政党介入の根拠を確保するための制度である。「カネを出すからには口も出す」ことが了解されているのだ。この度の韓国憲法裁判所の決定は、そのことを露骨に語っている。
我が国においても、政党助成金は、国家による政党統制の根拠とされる恐れが濃厚というべきであろう。国家から独立した健全な政党政党政治の発展のため、政党助成金制度はできるだけ早期になくするに越したことはない。
(2014年12月29日)
昨日(11月15日)、日本民主法律家協会の秋の行事として定着している司法制度研究集会(「司研集会」)が開催された。今年で45回目となる。
今回のテーマは、「憲法の危機と司法の役割」。まさしく今にふさわしい。いささかなりとも憲法や司法に関心のある者にとって、ほかならぬこの今の憲法状況の危うさを正確に認識すること、司法がどのようにしてこの危機を制御可能であるのか、この実践的課題に興味をもたないはずはない。
長丁場の集会の中で繰り返された問いかけは、「反知性の政治に、法の知性をどのように対峙させるか」「どうすれば、政治の暴走を司法が制御できるか」ということ。「法は権力を制御する」という命題よりはやや広く、「憲法を危うくしている政治の暴走に歯止めをかける手段として、法の実現機関である司法が有効に活用されなければならない」という実践的な問題意識なのだ。
憲法は、改正手続きを経ることなく次第に全体として壊されつつあるというのが、共通した危機意識。9条だけが標的とされているのではない。民主主義システムの総体、主権者を育てる教育、精神的自由をはじめとする人権一般が、「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」という乱暴なスローガンのもと、全面的な危機にある。
このようなときにこそ、司法本来の役割に期待せざるを得ない。どうすれば、反憲法的な暴走政治をコントロールできるだろうか。理論と法実践との結合を目指す、日本民主法律家協会ならではの課題設定ではないか。
集会案内には、次のように集会の趣旨が語られている。
「特定秘密保護法の制定、集団的自衛権行使容認の閣議決定、盗聴法の大幅拡大を盛り込んだ法制審の答申など、今、まさに歴史の曲がり角なのではないかと思えるような、緊迫した時代状況になっています。悪法反対運動の重要性は言うまでもありませんが、同時に、戦争への動きや深刻な人権侵害に歯止めをかける重大な役割を担うのが三権分立の一翼を担う司法です。
1960年代から70年代にかけて、自衛隊の違憲性、公務員の労働基本権制限や政治活動禁止の違憲性を断ずる裁判が相次いだことを契機として、青法協攻撃、裁判官の再任拒否など『司法反動』の嵐が吹き荒れ、その後、司法は、国家の根本問題に関する立法や行政の行為について司法判断を回避し、あるいは合憲のお墨付きを与える傾向が顕著になりました。司法改革によってこの傾向は変わったでしょうか?
『壊憲』の動きに反対する国民の運動は広がり、司法に対する国民の期待は高まっています。今年は、元裁判官の著書『絶望の裁判所』が話題になる一方で、袴田再審開始、大飯原発差止、厚木基地自衛隊機飛行差止、原発事故と自殺の因果関係を認めた判決など、勇気ある下級審の判断も生まれ、国民を励ましています。
危機の時代に、司法はその役割を果たせるのか、果たさせるために私たちは何をすべきなのか。そのことを今、改めて考える集会を企画しました」
このような法実践に関わるテーマについて全面的にものを語ることができる理論家は世に稀である。最適任者として第一に指を折るべきは、ひいき目ではなく、森英樹協会理事長を措いてない。今日は、森講演に耳を傾けようと人が集まった。
学会の研究会ではなく日民協の集会である。実務家の報告も欠かせない。集会では、自衛隊イラク派兵差止訴訟弁護団全国連絡会の佐藤博文弁護士(札幌弁護士会)と、裁判官懇話会の活動に長年取り組んでこられた石塚章夫元裁判官(現在、埼玉弁護士会会員)のお二人も、それぞれの立場から「司法が何をなしうるか」「いかにすれば司法本来の役割を果たさせることができるか」を存分に語られた。
森講演の内容は、期待通りのさすがなものだった。その全文が「法と民主主義」12月号に掲載される。楽しみにしたい。森講演の満足度は当然として、意外にというと失礼に当たるが、石塚章夫元裁判官の講演がひどく面白かった。
長い講演を私の関心で要約すれば、テーマは裁判官の「感性」である。
最高裁事務当局が裁判官をイデオロギー的に統制した「司法の危機」の時代は過去のものではないか。代わって、今は意識的な裁判官統制が不必要な時代となってしまっているのではないか。いまや、事件数をこなすことだけに明け暮れ、事件や当事者を記号としか認識しようとしない裁判官で満たされた「絶望の裁判所」と嘆かざるを得ない時代となっている一面を否定できない。
しかし、現実の下級審判決の中には、紋切り型の法律家の文章としては異質の、血の通った文章と判断を垣間見ることができる。多くは、深刻な被害を訴える事件で、被害実態を丁寧に事実認定しているものが多い。これは、裁判官の中に残された感性が、当事者の感性と共鳴してできた判決と言えるだろう。
おそらく、このような共鳴を可能とする感性は、集団としての裁判官群の中に一定の割合で存在する。また、裁判官個々人の中にも一定の割合で残存しているのではないか。訴える主体の側の感性をもって、裁判官の感性の共鳴を引き出すような訴訟のあり方を工夫することが大切だろうと思う。それは決して不可能ではない。
これが、裁判官生活38年、地裁所長も高裁総括も務めた人の貴重なアドバイスなのだ。同感するところが多々ある。別の機会に、どうすれば裁判官の感性との共鳴ができるか、具体的な続きの話を聞かせていただきたい。そう、お願いしてきた。
(2014年11月16日)