毎日新聞「オピニオン欄・社説を読み解く」は、月初めの火曜日に「前月の社説の主なテーマを取り上げ、他紙とも比較しながらより深く解説します」という論説委員長の署名記事。本日は、「国会審議のあり方」を取り上げて、安保法案審議に関しての自社の社説を解説している。切れ味の鋭さはないが、落ちついた姿勢で、内閣とメディアをたしなめ批判する内容となっている。
記事での言及はないが、各紙の関連社説の標題が掲記されているのが目を引く。
◇安保法案審議に対する社説の見出し
毎日 「大転換問う徹底議論を」(5月15日)
「決めつけ議論をやめよ」(5月26日)
朝日 「この一線を越えさせるな」
「合意なき歴史的転換」(5月15日)
読売 「的確で迅速な危機対処が肝要」
「日米同盟強化へ早期成立を図れ」(5月15日)
日経 「具体例に基づく安保法制の議論を」(5月14日)
「自衛隊の活動域さらに詰めよ」(5月21日)
産経 「国守れぬ欠陥正すときだ」
「日米同盟の抑止力強化を急げ」(5月15日)
東京 「専守防衛の原点に返れ」
「平和安全法制の欺(ぎ)瞞(まん)」(5月15日)
この見出しで、大まかに各紙のスタンスがつかめる。一方に、東京・朝日があり、対極に産経・読売がある。その間に、毎日・日経が位置するという構造。但し、この序列は当該の社説に限ってのこと。毎日の「リベラル度」は朝日と変わるまい。
東京新聞5月15日の社説にあらためて目を通した。熱のこもった、素晴らしい内容だ。読者の気持を動かす筆の力を感じる。
タイトルが「専守防衛の原点に返れ」で、三つの小見出しがついている。「平和安全法制の欺瞞」「憲法、条約の枠超える」「岐路に立つ自覚持ち」というもの。
まずは「平和安全法制」との政府のネーミングを欺瞞と断じている。
「呼び方をいかに変えようとも、法案が持つ本質は変わりようがない」「その本質は、自衛隊の活動内容や範囲が大幅に広げられ、戦闘に巻き込まれて犠牲を出したり、海外で武力の行使をする可能性が飛躍的に高くなる、ということだ」
社説子は熱く訴えている。
「思い起こしてほしい。なぜ戦後の日本が戦争放棄の「平和憲法」をつくり、それを守り抜いてきたのか。思い起こしてほしい。なぜ戦後の日本が「専守防衛」に徹してきたのか。
それは誤った政策判断により戦争に突入し、日本人だけで約三百十万人という犠牲を出した、先の大戦に対する痛切な反省からにほかならない。」
この社説の骨子は、戦後貫いてきた「専守防衛」の原点に返って、「海外での武力の行使に道を開く危うい法案」を批判するもの。「平和憲法を守り、専守防衛を貫いてきた先人たちの思いを胸に刻みたい」「二度と侵略戦争はしない、自国防衛以外には武力の行使や威嚇はしないという戦後日本の原点」に立ち返れ、とも言っている。
この社説の立場には賛意を表する。が、やや違和感を拭えない。我が憲法の平和主義の「原点」は何かという点についてである。
憲法9条を字義のとおりに読み、公開されている制憲議会の審議経過を通覧する限り、「非武装平和」が原点であったことに疑いはない。けっして「専守防衛」ではなかった。
東西冷戦構造の中で、警察予備隊から保安隊、そして自衛隊創設が「押しつけられた」。そのとき、国民世論のせめぎ合いの中で、設立された実力装置は、国防軍ではなく、「自衛のための実力」との位置づけにとどめられた。こうすることで憲法との折り合いをつけたのだ。これが、「専守防衛」路線の出自である。
原点の非武装平和の理念は大きく傷ついたが、専守防衛としてしぶとく生き残ったとも評価し得よう。今、現実的な論争テーマは、「専守防衛路線からの危険な逸脱を許してはならない」というものである。これが、許容ぎりぎりの憲法解釈の限界線を擁護する実践的議論でもあることを自覚しなければならない。
(2015年6月2日)
名は体を表すという。もちろん、「多くの場合には」ということであって、「常に」ではない。狗肉を売るに羊頭を掲げるのは、この「多くの場合には」という常識に付け込んでのこと。不用意に名を軽信すると、あとで悔やむことになる。
狗肉を狗の肉と正直に表示したのでは買い手がつかない。そこで、羊頭の看板を掲げ、偽装表示を施すことが必要となってくる。狗の肉を、あたかも羊の肉と思い込ませるセールストークで売り込もうという悪徳商法。ここでは、羊の肉と名付けられて、実は狗肉が売られることになる。
「他のどんな名前で呼んでもバラはバラ」であるごとく、「他のどんな名前で呼んでも狗肉は狗肉」なのだ。看板ではなく、包装ではなく、名前ではなく、欺罔のセールストークではなく、商品の中身の実体を見極めなければならない。うっかり買ってからでは、取り返しのつかないことになる。
うまい話には裏がある。甘い話には毒が潜んでいる。ゴテゴテと看板を飾り立てるセールストークは、それだけで眉唾物と警戒しなければならない。今まさに、政権が危険な商品を国民に売り付けようとしている。
このブログでは一貫して「戦争法案」と呼称してきた5月16日国会提出の閣法2法案。その正式名称は「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」と、「国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律案」である。「平和」「安全」「国際」「共同」などの好もしいイメージの語でデコレーションされた法案の名称。これが羊頭である。美しいラッピングでもある。端的に言えば、偽装表示にほかならない。
メディアでは、「平和安全法制整備一括法案」「国際平和支援恒久法案」などと呼んでいるが、これは体を表した名ではない。狗肉の実体を隠すことに手を貸しているというべきではないか。トリカブトをバラと呼んではならない。狗を羊と見誤ってはならない。
前者の提案理由に、「国際連携平和安全活動のために実施する国際平和協力業務その他の我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するために我が国が実施する措置について定める必要」が謳われている。後者についても、「国際社会の平和及び安全の確保に資する」という。「国際」「連携」「平和」「安全」「協力」の大安売りである。
私(たち)がその実体から戦争法案と名付けた法案は、他のどんな名前で呼ぼうとも、「平和」や「安全」の名で飾りたてようとも、戦争の腐臭が消えないのだ。眉に唾を付けよう。この法案の売り手は、これまでも平気で嘘をついている男なのだから。
さらに問題は、「専守防衛」にある。
安倍首相は昨日(5月27日)午後の衆院平和安全法制特別委員会で、集団的自衛権の行使を容認する安全保障関連法案について、先制攻撃を排除した「専守防衛」の原則を変更するものではないとの見解を示した。民主党長妻昭代表代行が「専守防衛の定義が変わったのではないか」と問い質したのに対し、「専守防衛の考え方は全く変わりない」と否定した。
専守防衛とは、自衛力の行使を、自国の領土が武力攻撃を受けた場合に限るということだ。しかも、自国民の安全を守るために最小限の実力の行使に限定する。これが、自衛隊の存在を許容する9条解釈の限界とされてきた。自衛隊は、専守防衛に徹するものとして誕生したのだ。1954年自衛隊法成立に際しては、参議院が「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」を成立させている。全会一致でのことだ。
専守防衛は、自衛力の行使の場所は自国領内に限定することを想定している。時間的には、相手国からの攻撃のあとのものとの想定である。遠く、自国を離れた戦地での防衛的な武力行使や、先制攻撃をもっての武力行使をまったく想定していない。海外での武力行使、自国を攻撃していない国に対する武力行使は、専守防衛ではない。
集団的自衛権の行使とは、自国が攻撃されていないときに、同盟国への攻撃に反撃する武力行使なのだから、専守防衛から逸脱することになるのは自明のことである。専守防衛では、つまりは個別的自衛権の行使では不十分だとしての法改正なのだから、あまりに当然のこと。
しかし、専守防衛から逸脱するとあからさまに認めれば、国民に不安の種を植えつけることになる。ここは、集団的自衛権という危険な狗肉に、専守防衛というラッピングをしてしまおう。憲法9条遵守という羊頭の看板も掲げておこう、というわけだ。
着目すべきは、看板でも、ラッピングでもない。商品実体なのだ。戦争法案が想定する集団的自衛権行使を選択肢として許せば、自衛隊は国防軍化することになる。いざというときのために、装備も編成も作戦も、すべては一人前の軍隊として歩き出すことになる。これだけでたいへんに危険なこととなる。
さらに、この上なく危険な同盟国アメリカの先制攻撃で始った戦争のある局面で、アメリカの一部隊が攻撃されたからということから自衛隊が一緒に闘うことになりかねない。これを「巻き込まれた戦争」というか、「日本主導の戦争」というかは問題ではない。日本が戦争当事国となり、全土が攻撃目標となり得るのだ。
くれぐれも用心しよう。暗い夜道と安倍話法。
(2015年5月28日)
日曜日、ゴルフコースの坂道を登りながらこう考えた。説明責任を果たさなければ叩かれる。さりとて、丁寧に説明すれば世論は離れていく。ほんに、政治家も楽ではない。人をたぶらかすのは難しい。
そんな沈んだ気持の週明け。各紙の朝刊に碌な記事が出ていない。とりわけ不愉快なのが、日経だ。1面に「本社世論調査」の結果として「安保法案『今国会で』25%」という大見出し。
「日本経済新聞社とテレビ東京による22?24日の世論調査で、集団的自衛権の行使を可能にする関連法案の今国会成立に『賛成』が25%と4月の前回調査から4ポイント低下し、『反対』が55%と3ポイント上昇した。政府・与党は今国会での法案成立を目指すが、慎重論の強さが改めて浮き彫りになった。」
見出しの付け方も、記事の書き方も、もっと別の言い方があるだろう。産経や読売を見習うように、よく言って聞かせなければならない。
日経記事が癪に障るのはむしろ2面の世論調査詳報だ。見出しが、「安保法案『説明不十分』8割」というもの。「成立への懸念強く」「内閣支持層でも7割」というのだ。
「日本経済新聞社の世論調査で、26日に衆院で審議入りする安全保障関連法案への懸念の強さが改めて浮き彫りになった。8割が政府の説明は不十分だと回答。安倍晋三首相の『米国の戦争に巻き込まれることはない』との発言に『納得しない』も7割を超えた。政府・与党は今国会成立をめざすが、必要性はまだ浸透していない。」
何より頭にきたのは、今年1月から5月までの世論変化のグラフを掲載していること。わざわざ「集団的自衛権行使に関する法案成立には反対が増えつつある」というコメント付きでだ。反対世論は順調に増加して、「49%→55%」となっており、私の愛する賛成派国民は「31%→25%」と着実に減っている。
また、わざわざ目立つように表を拵えて、次のように報じている。
◇集団的自衛権行使に関する法案成立に
賛成 25% 反対 55%
◇首相の『米国の戦争に巻き込まれることはない』との説明に
納得する 15% 納得しない73%
◇政府の安全保障関連法案に関する説明
十分だ 8% 不十分だ 80%
こんな数字は、細かいポイントで目立たないようにすべきが常識ではないか。たかが民間新聞の分際で、政府に楯突こうというのか。
日経だけではない。毎日の世論調査結果もその報道姿勢も不愉快極まる。政権批判が新聞の使命だといわんばかりではないか。父の晋太郎が在籍していた社ではあるが、最近偏っているのではないか。いや、いつまでも昔のままで時代の風を読めていないのではないか。
「毎日」1面の見出しは、「安保法案『反対』53%」というもの。活字が大きすぎる。太すぎる。続いて、「今国会成立『反対』54%」「本社世論調査」というもの。
記事の内容は以下のとおり。
「毎日新聞は23、24両日、全国世論調査を実施した。集団的自衛権の行使など自衛隊の海外での活動を広げる安全保障関連法案については『反対』との回答が53%で、「賛成」は34%だった。安保法案を今国会で成立させる政府・与党の方針に関しても『反対』が54%を占め、「賛成」は32%。公明支持層ではいずれも『反対』が『賛成』を上回った。」
「質問が異なるため単純に比較できないが、3月と4月の調査でも安保法案の今国会成立には過半数が反対している。政府・与党は26日から始まる国会審議で法案の内容を丁寧に議論する姿勢をみせているが、説明が不十分なまま日程消化を優先させれば、世論の批判が高まる可能性がある。」
これが最新の調査結果。これが、昨年7月1日集団的自衛権行使容認の閣議決定後の国民的議論の暫定結果だ。今や、政府が閣議を経て国会に上程した法案に、国民世論の過半が反対しているのだ。賛成派は、4分の1か、3分の1。しかも、説明すればするほど、国民は「分からない」と言い「説明不足だ」という。そして「反対だ」という世論が増えていくのだ。なんとものわかりの悪い国民だろうか。
ここでの国会戦術はよく考えなければならない。強行突破か、一歩後退しての迂回か、いずれの戦術をとるべきか。
我が手には、小選挙区制のマジックで掠めとった圧倒的な国会の議席がある。幸いに、官製相場と悪口を言われながらも株価を維持しているおかげで、まだ安倍政権支持の世論は不支持を上回っている。今のうちなら、強行突破は可能だ。どうせ「丁寧な説明」を重ねたところで、国民が納得するはずはない。むしろ、世論は集団的自衛権反対、戦争法案反対などに固まりつつある。ならば、ジリ貧を避けるのが上策だろう。公明と次世代を語らって、強行に審議入りし、強行採決を重ねても法案成立に漕ぎつけるのが得策ではなかろうか。
とは言うものの、これは大きな賭けだ。リスクはこの上なく大きい。60年安保の教訓を思い起こそう。あの騒ぎは、新安保条約の危険性に国民が反対しただけではない。衆議院の強行採決が民主主義の危機という世論を喚起して、あの盛り上がりとなったのだ。結局は、新安保条約は自然成立となったが、祖父岸信介は政権を投げ出さざるを得なかった。こんな事態の再来は十分に考えられる。まさしく私の政権の「存立危機事態」の到来だ。いや既に、「重要影響事態」の水域には到達していると考えざるをえない。
憂鬱だ。ほんに、政治家も楽ではない。人をたぶらかすのは難しい。
(2015年5月25日)
商売と政治とはよく似ている。どちらも、人を説得し「その気」にさせる技術を伴う。悪徳商法と安倍政治手法とはよく似ている。どちらも、詐欺すれすれ。うっかり乗せられると、どちらも被害甚大である。賢く身を守る術を心得ねばならない。
独立行政法人国民生活センターが、5月21日付で、「高齢者が支払えなくなるまで次々に販売するSF商法」と、悪徳による「次々販売」「過量販売」被害の増加に警告を発した。
http://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20150521_1.html
「SF商法」とは、集団催眠商法と言った方が分かり易い。50年ほども前の「新製品普及会」なる悪徳グループを元祖とするところから、ローマ字の頭文字をとって「SF」。この安直な業界用語がお役所用語としても定着した。会場に顧客を集めサクラが雰囲気を盛り上げる。最初は安物をただ同然で配って消費者の気持をつかんだあとに、本命の高額商品を売り付ける。被害額の大きな悪徳商法の典型のひとつとされる。
売り手は脅すわけではない。明らかな詐欺とも言いにくい。仕掛けは、ウソすれすれの話術とプロとしての演出が作りだす昂揚した雰囲気にある。消費者の心理が完全に操作された状態となり、先を争って我勝ちに商品を買おうとすることになるのだ。
もちろん、「集団催眠状態」から覚醒すれば、消費者は悔やむことになる。なぜあのときはあんなにも、こんなつまらぬものが欲しいと思ったのだろう。どうしてあんな奴の言うことを信用してしまったのだろう。不要なものを買わされた。明らかにたぶらかされた。こんな商品は引き取ってくれ。金を返せ。
商売とは、所詮そんなものだという考え方も根強い。上から目線で消費者の自己責任論が説かれもする。われわれ消費者弁護士は、このような場面での「業者擁護論」「消費者自己責任論」と闘い続けてきた。「あるべき賢い消費者像を想定し、これを基準とするようなことがあってはならない」「消費者被害は、現実の弱い消費者像に寄り添うところから立論しなければならない」というのが、基本の考え方だ。
この理は、実は政治にも当てはまる。悪徳業者は政権を握る政治家に、集団催眠に陥る消費者は煽動された国民にちょうどピッタリなのだ。
安倍晋三の政治手法を「SF政治」と名付けてよいだろう。安倍が国民をあからさまに脅しているわけではない。明確な詐欺とも言いにくい。問題は、ウソすれすれの話術と、プロとしての演出が作りだした政治的雰囲気にある。国民の心理を巧みに操作して、このままでは近隣諸国の不埒な跳梁を許すことになると不安を煽り、国民生活を守るためと信じ込ませて、支持と得票を獲得しているのだ。
もちろん、この先「集団催眠状態」から覚醒すれば、国民が悔やむことは目に見えている。なぜあのときはあんなにも、こんなつまらぬことにこだわったのだろう。どうしてあんな奴の言うことを信用してしまったのだろう。近隣諸国を挑発する不要な法律を作ることに加担させられた。明らかにたぶらかされた。こんな立法は廃止せよ。平和と国際友好を取り戻せ。
政治とは、所詮そんなものだという考え方も根強い。上から目線で国民の自己責任論が説かれもする。そんな、「政権擁護論」「国民の自己責任論」とは、断固闘わねばならない。悪徳政治家の口車に乗せられると、どこまでもっていかれるやら見当もつかない。眉に唾を付けて慎重にかからないと、取り返しのつかないことになる。
だから、私は、次のように警告したい。
最近では、国政選挙が間近にないため、長期政権の兆しとともに、平和の危機と、貧困・格差拡大の被害が目立っています。株価釣り上げに目眩ましされた国民に対し、戦争法案や企業利益確保政策への支持が掠めとられようとしています。初めは警戒していた国民も、与党や政権から、繰りかえし、「あなたのための政治をしている」「平和のためです」「国の安全のためです」「そのうちきっとおこぼれがまわってきますよ」などと思いやるような言葉を掛けられて説得されてしまう。説明を聞いているうちに、良いことをしてくれそうな錯覚に陥って、投票してしまうなどの事情がうかがえます。
最近のこのような手法では、国民が長期間欺されて、たいへん危険な法案が次々と提案され、次々と成立しかねないことが危惧されます。SF政治に欺される人の特徴からは、戦争体験の受継の不十分や、孤独、貧困などからの絶望、判断能力の低下といった問題が関係してくるため、事態はたいへんに深刻です。そこで、国民がSF政治の被害に遭遇して手遅れにならないため次のようにご注意ください。
違憲違法な危険法案は、次々にやって来ます。早期に食い止めないと、切りがありません。放置しておくと、最終的にはリアルな戦争被害が生じるまで続くこことになります。一刻も早く食い止めなければなりません。
次々に法案が提出され、成立していくうちに、何が憲法原則で何が平和なのかが、分からなくなり、気が付いたら平和がなくなってしまい、戦争に突入していたということになりかねません。むしろ、そのような国民意識の混乱が政権の付け目なのですから、しっかり見極めましょう。
安易に為政者の言うことを鵜呑みにしてはいけません。昨日まで神様だった人が、突然「実は私は人間ですよ」と宣言したり、神風の吹くはずが吹かなかったり、鬼畜だった米英が民主主義の先生になったり。最近も「原発は安全」だとか、「完全にブロックされコントロールされている」だの。いくらも身近な実例があるではありませんか。
権力者が甘いことを言うときは、隠れたウソを嗅ぎつけなければなりません。「うまい話には裏がある」「甘い話しには落とし穴」「タダより高いものはない」こういう庶民の知恵を発揮して、政府や与党の嘘を見抜き、支持と票の要求には、きっぱりと断りましょう。大切な平和に関わる問題です。くれぐれも、慎重な対応を。
以下は催眠商法についての識者(社会心理学者)のコメントの私流の解釈
SF政治の個々のテクニックは一般的な政治的言論でも用いられてはいる。しかし、SF政治では、政治家がこれらのテクニックを意識的に合わせ技で国民に働きかけているのが特徴となっている。特に、社会心理学的に根拠のある「承諾誘導」のテクニックが多用されている。このテクニックによって、国民は当該政治判断の必要性や妥当性などといった重要な点に注目を払わないように誘導され、政権からの働きかけに何ら違和感を持つことなく、政治選択をしてしまう。
理性ではなく感性レベルへの訴えかけであり、テクニックによる国民意識操作なのだから、民主主義は完全に形骸化したものとなっている。
問題は、民主主義の成熟度にあるのだが、悠長に自然な熟成を待っておられるほどの時間的な余裕があるかは疑わしい。
(2015年5月23日)
確認しておこう。5月15日政府が国会に提出した新法「国際平和支援法案」と、下記10法の一括改正を内容とする「平和安全法制整備法案」について、当ブログは「戦争法案」と呼ぶ。
・武力攻撃事態法改正案
・重要影響事態法案(周辺事態法を改正)
・PKO協力法改正案
・自衛隊法改正案
・船舶検査法改正案
・米軍等行動円滑化法案
・海上輸送規制法改正案
・捕虜取り扱い法改正案
・特定公共施設利用法改正案
・国家安全保障会議(NSC)設置法改正案
「国際平和」や「平和安全」はまやかしであって、「戦争法案」という呼び名こそがこの法案の本質を表している、そう考える理由を述べておきたい。
私の認識では、憲法9条は1954年自衛隊創設によって「半殺し」の目に遭った。「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」はずの日本が、常識的には治安警察力を遙かに超える軍事力をもったのだ。違憲の状態が生じたことは誰の目にも明らかだった。しかし、このとき憲法9条は死ななかった。しぶとく生き延びた。
このときから、自衛隊は、「国に固有の自衛権を行使する実力部隊であって、憲法にいう戦力には当たらない」とされた。自衛隊の発足と当時に、参議院では全会一致で、「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」が成立してもいる。自衛隊の任務は、専守防衛に徹することとされ、その限度を超えた装備も編成ももたないことが確認されたのだ。
このとき、非武装に徹することによって平和を維持しようとした憲法9条の理念は大きく傷ついたが、「専守防衛」というかたちでは生き残ったと評価することができよう。
その後、「自衛隊を一人前の軍隊にせよ」「そのためには9条改憲を」という外圧は強かった。この「押しつけ改憲」と闘い、せめぎ合って、日本の国民世論は9条を守ってきた。そのため、自衛隊が防衛出動に踏み出せるのは、国土が侵略を受け蹂躙されたときに限られた。だから、自衛隊は、外征や侵略に必要な武器の装備はもてなかった。外国に派遣されたことはあっても、海外での戦闘行為はできなかった。満身創痍の憲法を活用し、9条の旗を押し立てた国民運動とそれを支えた国民世論の成果であったと言えよう。
歴代の保守政権も9条をないがしろにはしてこなかった。「右翼の軍国主義者」が首相に納まるまでは…、のことである。
今までは、自衛隊が武力を行使する局面は、「我が国土における防衛行為」としてのものに限られていた。飽くまでも、必要な限りでの自衛・防衛行為であって、これを戦争とはいわない。しかし、集団的自衛権の行使となれば、まったく話しは違ってくる。他国の戦争の一方当事者に加担して、自らも戦争当事国となるべく買って出て、武力を行使することになる。これは明らかな戦争加担行為にほかならない。
「戦争をしないから9条違反の存在ではない」とされてきた自衛隊に、戦争をさせようという法案だから「戦争法案」。この呼び方が、体を表す名としてふさわしいのだ。かくて、戦争法が成立すれば、これまでしぶとく生き残ってきた「半殺し」状態の9条に、トドメが刺されることになる。
5月14日閣議決定、15日国会に法案を提出。本日(19日)は、衆議院本会議で戦争法案審議のための特別委員会設置が可決された。自民・公明の与党のほかに賛成にまわったのは次世代の党。これで法案の集中審議が可能となった。小さいながらも次世代の党は、与党単独採決と言わせないための「貴重な」役割を演じている。委員は45名。自民28、民主7、維新4、公明4、共産2。委員長に浜田靖一元防衛相、筆頭理事には江渡聡徳前防衛相や長妻昭・民主党代表代行らが就任した、と報じられている。民主と共産に期待するしかない。
子どもの頃を思い出す。父が戦地の苦労を語り、母が銃後の辛酸を口にする。幼い私は、父母の心情をよくは分からないままに、「そんな戦争には反対すれば良かったのに」と言う。母が、「そんなことはとても言えなかった」「言えるような時代ではなかったんだよ」と呟く。父も母も、積極的に戦争に賛成した人ではない。しかし、戦争反対と言った人でもなく、反対と言える時代を作る努力をした人でもなかった。平均的庶民の一人として、応分の責任を持たねばならない世代に属していた。
いま時代は、あの戦争における戦前のターニングポイントあたりにあるのではなかろうか。戦争に反対と今なら言える。が、この言論の自由はいつまでもつか、見通せない。
戦争に反対、戦争を選択肢となし得る国とすることに反対。戦争のための教育に反対、防衛秘密法制に反対。戦争に反対する言論への封殺に反対。声を上げ続けなければならない、と思う。
何よりも、今は「戦争準備の法案に反対」と声を大きくしなければならない。新たな戦後を作らないために。また、次の世代から、「そんな戦争には反対すれば良かったのに」と言われることのないように。
(2015年5月19日)
(内閣広報官)本日は、皆さまからのご要望で、御質問にお答えするかたちで特別に総理がホンネを語ります。オフレコのお約束は厳格にお守りいただくよう、特にご注意ください。違約の社には、官邸から調査がはいることもありますことを事前に警告申し上げます。では、ご質問をどうぞ。
(記者)幹事社から質問いたします。
閣議決定された安全保障関連法案ですが、報道各社の世論調査では、賛否が分かれて、慎重論は根強くあると思います。また、野党からは、集団的自衛権の行使の反対に加えて、先の訪米で総理が議会で演説された「夏までに実現する」という表明についても、反発の声が出ております。総理はこうした声にどうお答えしていく考えでしょうか。
(総理)国民の命と平和な暮らしを守ることが、政府の最も重要な責務であります。我が国を取り巻く安全保障環境が一層厳しさを増す中、あらゆる事態を想定し、切れ目のない備えを行う「平和安全法制」の整備は不可欠である、そう確信しています。ですから、国民のために法案の成立を早期に実現するよう努力いたします。
あらゆる世論調査で、国民が集団的自衛権の行使容認に反対ないしは慎重の結果となっていることはよく心得ています。しかし、国民の命と幸せな暮らしを守るために、この法整備を断固としてやり遂げなければならない。それが政権を預かるものの使命と考えています。
もちろん、国民の皆さまに、しっかりとわかりやすく丁寧に審議を通じて説明をしていきたいとは思います。しかし、いつまでもグズグスしているわけにはまいりません。民主主義のルールに従って、予め予定された期間の議論が終了すれば、粛々と多数決で決着をつけねばなりません。
先般の米国の上下両院の合同会議の演説において、「平和安全法制の成立をこの夏までに」ということを申し上げました。これは、国際公約ですから、国民の納得よりも優先させねばなりません。「夏」とは、常識的に8月末までにということですから、それまでに衆参両院の審議と議決を済ませる覚悟です。国民への説明を丁寧にする、委員会や本会議での審議を尽くすというのも、時間を区切ってのこととならざるを得ません。国民の納得は望ましいことですが、仮にそれが得られなくても、早期にこの法案を成立させることの方が、遙かに重要なことなのです。
こうした私の方針は国民の皆さまよくご存じのはず。私を、改憲論者で、平和は武力によってこそ守られるというイデオロギーの信奉者だと知ってなお、国民の皆さまに支持いただいています。2012年暮れの総選挙以来、私は総裁として、また我が党として、この戦争法制を整備していくことを一貫して公約として掲げています。特に、先の総選挙においては、昨年7月1日の閣議決定に基づいて、「平和安全法制」を速やかに整備することを明確に公約として掲げ、国民の審判を受けました。
皆さまご記憶のとおり、2014年総選挙は、私自身が「アベノミクス選挙」と命名し、「景気回復、この道しかない」とのキャッチフレーズを掲げた選挙でした。確かに、安全保障政策の転換を争点とした選挙ではなかった。しかし、よく読めば公約には安全保障問題も掲げていたのです。これを「争点ずらし」などというのは、負け犬の遠吠え。勝てばこっちのものですから、総選挙の結果を受けて発足した第3次安倍内閣の組閣に当たっての記者会見において、戦争法案は通常国会において成立を図る旨、はっきりと申し上げたはずであります。
国民の皆さまが望んでおられるのは、ものごとをテキパキと決めて前に進む政治であろうと心得ています。決められない前政権の政治に批判があって、安倍政権になったのではありませんか。ですから、私は、特定秘密保護法も、沖縄辺野古基地建設も、NSC設置法も、日米ガイドラインも、テキパキと決めてきました。7月1日閣議決定もその流れです。選挙で信任を得た以上は当然のことと考えています。世論調査の結果を無視するとはいいませんが、その結果で決断を躊躇することはいたしません。もちろん、国民の審判によって弱体化した野党の反対は覚悟の上で、粛々と採決の所存です。
(記者)国民の不安、懸念などについて説明を伺いたいと思います。自衛隊発足後今日まで、紛争に巻き込まれて自衛隊の方が亡くなることはなく、また、戦闘で実弾を使ったりすることもありませんでした。このことが国内では支持されていましたし、国際的な支持でもあったかと思います。今回の法改正で、自衛隊の活動がすごく危険になるとか、リスクな方に振れるのではないかと懸念されますが、この点に関する総理の御説明をお願いいたします。
(総理)まさに自衛隊員の皆さんは、日ごろから日本人の命、幸せな暮らしを守る、この任務のために苦しい訓練を積んで危険な任務に就いているわけであります。これからも同じようにその任務を果たしていくということが基本であります。
自衛隊発足以来、今までに1800名の方々が、様々な任務で殉職をしておられます。こうした殉職者が出ないよう努力はしたいと思いますが、これまでも危険な任務であったことはご理解いただきたいと思います。
自衛隊員は自ら志願し、危険を顧みず、職務を完遂することを宣誓したプロフェッショナルとして誇りを持って仕事に当たっています。その誇りのよってきたる根源は、死をも厭わずにお国のために尽すところにあります。当然のことですが、この法案が成立すれば、海外の戦闘で自衛隊員の死者が出ることは予想されるところですから、その戦闘死の顕彰を考えなければならないことになるでしょう。
私が、靖国神社参拝にこだわっているのは、過去の歴史をどう捉えるかというだけではありません。これからの戦争や武力行使における自衛隊員の犠牲者の顕彰につながるものと考えているからです。国が、戦闘員の死に無関心で、その死に感謝や尊崇の念をもたなければ、いったいだれが命がけの任務に当たることになるでしょうか。
危険な戦闘任務のための特別手当や、遺族に対する特別の補償の用意も必要でしょうが、何よりも全国民に戦闘死を名誉とする国民意識の涵養が不可欠だと思います。その死を誉れあるものとして子どもたちには教えなくてはなりませんし、公共への奉仕としてこれに勝るものはない立派な行為として、道徳の教科書にも是非載せなければならないと思います。
そして、できることなら、靖国神社に戦死した自衛隊員を合祀したい。その合祀の臨時大祭には、戦前の例に倣って、余人ならぬ天皇陛下自らのご臨席を賜ることが望ましいと考えています。
一方、怯懦から敵前において逃亡するなどの卑劣な行為には、旧陸軍刑法や海軍刑法に倣って厳罰を科する法制度を整えなければなりません。軍法会議の新設も必要になりましょう。そのためにも、憲法改正が必要なのです。
ここまで来れば、「非武装」や「専守防衛」という憲法9条を中核にした戦後レジームを放擲し、たるみきったその精神的呪縛からもようやくにして脱却できたことになります。そのとき、念願の精強な我が軍の軍事力によって平和と安全を確立する「あるべき日本の姿を取り戻した」と言えるのではないでしょうか。
(内閣広報官)時間も経過しましたので、記者の皆様からの御質問を打ち切ります。この席での総理発言はホンネのところですから、くれぐれもご内密にお願いいたします。
(2015年5月16日)
70年前、私たち日本人は一つの誓いを立てました。もう二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。この不戦の誓いを将来にわたって守り続けていく。そして、国民の命と平和な暮らしを守り抜く。
このような腑抜けた誓いにもとづく国の在り方を、私は予てから「戦後レジーム」と呼んで、このような考え方の呪縛から脱却すべきことを訴えてまいりました。そして、ついに本日、日本と世界の新たな秩序を確かなものとするための戦争法案を閣議決定いたしました。
もはや武力によらずして、どの国も自国の安全を守ることはできない時代であります。私たちはその厳しい現実から目を背けることはできません。私は、近隣諸国との対話を通じた外交努力を重視していますが、有利な外交を推し進めるためには、どうしても武力が必要になります。口先の外交だけの国とナメられたのでは、一方的な妥協を余儀なくされるばかりです。
総理就任以来、私を歴史修正主義者と騒ぎ立てる中国と韓国は無視し、それ以外の地球儀を俯瞰する視点で積極的な外交を展開してまいりました。その結論は、丸腰外交の限界ということでございます。外交には軍事力の支えが不可欠なのです。しかも、いざというときには、口先の威嚇だけではなく本気になって断固総力戦に踏み切る気概がなくては外交の成功はありえず、平和を守ることもできません。戦前のごとくに、国民すべてが一億一心となって滅私奉公の覚悟を確認し合う、そのような日本を取り戻さねばなりません。
もっとも、本気で戦端を開いた場合、我が国の軍事力はいささか心もとないことは、皆さまご存じのとおりです。そのため、我が国の安全保障の基軸である日米同盟の強化に努めてまいりました。先般のアメリカ訪問によって日米のきずなはかつてないほどに強くなっています。日本が攻撃を受ければ、米軍は日本を防衛するために力を尽くしてくれる…はずです。そうでなくては困るのです。ですから、下駄の雪といわれようと、ポチと蔑まれようと、目上の同盟者アメリカにおもねるしか、我が国には選択の余地はないのです。
安保条約に基づいて、私たちのためその任務に当たる米軍が攻撃を受けても、私たちは日本自身への攻撃がなければ何もできない、何もしない。これがこれまでの日本の立場でありました。本当にこれでよいのでしょうか。もちろん、日本ができることはたいしたことではありません。それでも、ポチとしては、いや目下の同盟者としては、ご主人であるアメリカのためにお役に立てるよう心掛けていますよ、と殊勝なところを見せなければならないのです。
この辺の機微を国民の皆さまにはよくご理解いただきたいのです。もはや、これまでのように、「憲法の制約がありますから」「日本の憲法9条では…」などという弁解が通じる時代ではないのです。端的に申しあげれば、憲法を守ることよりも、アメリカにゴマを摺ることの方がはるかに大切なことなのです。そのようにしてでも、アメリカに擦り寄り、いざというときには拝み倒してもアメリカの軍事力に縋って我が国の平和と安全を守らなければならないのです。集団的自衛権というのは、そのような受益に見合ったリスクの負担なのです。ここをよくご理解ください。
日本近海において米軍が攻撃されるとします。世界の警察をもって任じるアメリカですから、これまでも頻繁にいろんな国と紛争を起こしてきました。もちろんこれからも、ドンパチがあるでしょう。そのとき、日本に対する攻撃はないからと言って、黙って見ているのでは友だち甲斐のない奴と見限られてしまいます。大して役には立たないでしょうが、及ばずながらの一太刀の加勢をしておくこと、一声でも吠えておくことが、後々のために大切なのです。このときが、汗のかきどき、血の流しどきなのです。自衛隊員に貴い犠牲が出たとすれば、それこそアメリカへは高く恩を売ったことになります。おそらくは犠牲になった隊員やご家族にも、お国のための戦死として本望なことでしょう。
もっとも、こうあからさまに本音を申しあげると不快、あるいは不都合とおっしゃる向きもありますので、ここは「集団的自衛権行使の要件をしっかりと定めました」と言っておくことにいたします。「同盟国アメリカが攻撃される状況は、私たち自身の存立にかかわる危機」という強調を前提として、「その危機を排除するために他に適当な手段がない」「なおかつ必要最小限の範囲を超えてはならない」という3つの要件による厳格な歯止めがある、としておきましょう。
集団的自衛権の行使が厳格に過ぎたのでは、アメリカに恩を売ることはできません。当然のことながら、そのあたりは、適宜、以心伝心、魚心あれば水心という腹芸で運用宜しきを得なければ役には立ちません。
それでもなお、アメリカの戦争に巻き込まれるのではないか。漠然とした不安をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。「ここからは、抑揚をつけてゆっくり、はっきりと断言する」。あれっ、カンニングペーパーのト書きを間違って声を出して読んでしまいました。撤回して続けます。
その不安をお持ちの方にここではっきりと申し上げます。そのようなことは絶対にあり得ません。新たな日米合意の中にもはっきりと書き込んでいます。日本が武力を行使するのは日本国民を守るため。これは日本とアメリカの共通認識であります。
あれっ? これだけの説明で、国民の不安を解消することはできないだろうと私も思いますが、原稿にはこれ以上の理由の書き込みはありません。
誰が考えても、本当は危ないことをするんです。日本が攻撃されていないのに、アメリカが攻撃されたら助っ人を買って出ようというのです。その途端に日本は中立国ではなく、戦争当事国になります。ですから、アメリカとの交戦相手国から、日本が攻撃を受けても文句は言えません。とりわけ、日本の軍事施設や原発の近くにいる方には覚悟が必要です。
しかし皆さん、リスクなくしてメリットだけというムシのよい話はありません。このような危険を敢えて冒してこそ、もし日本が危険にさらされたときには、日米同盟は完全に機能する。そのことを世界に発信することによって、抑止力は更に高まり、日本が攻撃を受ける可能性は一層なくなっていくと考えます。正確に言えば、戦争と戦争による被害を覚悟し、敢えて戦争を辞さないとする決意と準備があって初めて、近隣諸国は日本と米国の本気を恐れて、うっかり手を出すことをためらうのです。
ですから、戦争法案という呼称はきわめて正確なのです。集団的自衛権の行使を認めることは、戦争を準備しその覚悟をすることなのですから。ただ、そう言ってしまっては、法案が通りにくいことになりますから、「戦争法案などといった無責任なレッテル貼りは全くの誤りであります。あくまで日本人の命と平和な暮らしを守るため、そのためにあらゆる事態を想定し、切れ目のない備えを行うのが今回の法案です」と言っておくことにします。そして、法案の名称は、正確に「戦争法」とすることは避けて、「平和」や「安全」で飾っておきましょう。
戦後日本は、平和国家としての道を真っすぐに歩んでまいりました。世界でも高く評価されています。その平和は、自衛隊の創設、日米安保条約の改定、度重なる改憲の試みなどの戦争への動きに抗した、国民的な平和運動の努力の結果であると一般には理解されています。しかし、もうこれからは違います。
武力を背景に強い日本を作ること、日本の武力で足りないところは、アメリカの武力を頼ること、集団的自衛権の行使容認を立法化して、日米同盟を現実に戦争のできる実効的な同盟に作り替えること、このことを通じてしか我が国の平和と安全の確立はありません。
私はそのように確信いたします。一見矛盾するレトリックのようですが、戦争の準備と覚悟が、抑止力にもとづく平和を生むのです。時代の変化から目を背けて立ち止まるのはやめましょう。そうして前に進もうではありませんか。
日本と世界の平和のために、精強な軍事力を育てようではありませんか。いざというときには戦争を厭わない強い国民精神を養おうではありませんか。
子供たちに平和な日本を引き継ぐため、自信を持って、声を大にして言いましょう。
「君たち、お国のために海外で戦う気概をもちなさい」「いざというときは、自分を犠牲にしてでも戦う勇気と公共心を持ちなさい」「そうすることで、我が国の平和と安全を守ることができるのですよ」と。
私はその先頭に立って、国民の皆様と共に新たな時代を切り拓いて、今は失われた、本来の強い日本を取り戻す覚悟であります。
(2015年5月15日)
私たちは、「本郷・湯島九条の会」の者です。9条の会は、2004年に井上ひさしさんや大江健三郎さん、澤地久枝さんなど9人の方の呼びかけに応じて全国に立ち上げられました。いま、各地の地域や職域、学園、あらゆる分野に7500もの、単位9条の会が結成されて、それぞれのやり方で「9条を擁護する」「9条の精神を実現する」活動を行っています。私たちの会は、町内会の会長さんが代表者となっている、地域9条の会の一つです。
毎月第2火曜日のお昼の時間に、ここ本郷三丁目交差点「かねやす」前を借りて、「日本国憲法を守れ」「9条と平和を守れ」「あらゆる戦争への動きを根絶しよう」という街頭での訴えを続けています。今日も、しばらくお耳をお貸しください。
今年は、戦後70周年に当たります。1945年8月の敗戦から70年目の節目の年。70年前の東京には空襲が繰り返されました。東京の空襲被害は3月10日の大空襲だけではありません。サイパン・テニアンから飛来したB29の編隊による焼夷弾攻撃は100回にもわたって、東京を焼き払いました。文字どおり、東京を廃墟にしました。ここ、本郷も湯島も例外ではありませんでした。
70年前の今頃、日本と同盟を結んでいたムッソリーニのファシズム・イタリアも、ヒトラーのナチズム・ドイツも降伏し、日本だけが絶望的な戦いを続けていました。沖縄は凄惨な地上戦のさなかにあり、日本の主要都市のほぼすべてが、空襲の対象となっていました。
敗戦は明らかでしたが、戦争はなかなか終わりませんでした。天皇やこれを支える上層部が、「もう一度戦果を挙げてからの有利な講和」にこだわったからです。「有利な講和」とは国体の護持、つまりは天皇制の維持にほかなりません。しかし、最後の最後まで、「もう一度の戦果」はなく、沖縄は徹底して蹂躙され、広島・長崎に原爆が投下され、さらにソ連の対日参戦という事態を迎えて、無条件降伏に至りました。国体の護持、つまりは天皇制の維持にこだわることさえなければ、100万を超す命が助かったはずなのです。
国民は、正確な情報を知らされなかったばかりか、「神国日本が負けるはずはない」「いまに必ず神風が吹いて最後には戦局が好転する」そのように信じ込んでいました。一億総マインドコントロールの状態だったのです。もちろん、神風は吹かず日本は敗けました。70年前の8月のことです。
これ以上はない惨禍の末に戦争は終わり、国民は悲惨な思いの中からたくさんの教訓を学びました。よく考えてみれば、この戦争は侵略戦争であり植民地拡大戦争だったではないか。日本は、被害国ではなく、加害国としての責任を免れないと知りました。再び、戦争の加害者にも、被害者にもなりたくはない。どのような戦争も悲惨この上ないのだから、勝ち負けに拘わらず戦争をしてはならない。これが多くの国民の共通の思いでした。
この平和を願う国民の思いが、新憲法を平和憲法として誕生させます。日本の国民が、憲法の制定を通じて、再びの戦争をしないことを誓約したのです。戦争の被害者にも加害者にもならない。この考えが日本国憲法前文に平和的生存権として書き込まれ、憲法9条の条文にも結実しました。
憲法9条1項が、「国権の発動たる戦争」の放棄を宣言し、さらに念のために「武力による威嚇または武力の行使」をも、永久にこれを放棄しました。戦争の放棄です。
それだけではありません。戦争の放棄を担保する手段として、9条2項で「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と、戦力の不保持を宣言したのです。
9条1項と2項、戦争の放棄と戦力の不保持。この二つを併せて読めば、日本が、自衛の戦争をも含む、いかなる戦争もしないと誓約したことに疑いはありません。
旧憲法下での最後の議会となった第90帝国議会で、新憲法をめぐる改憲論議が行われました。そこでの野坂参三共産党議員と吉田茂首相との有名な「自衛権」論争があります。
野坂は、「古来独立国家として自衛権をもたない例はない。9条も自衛戦争は否定していないはず」と糺しましたが、吉田は「歴史上、侵略を標榜した戦争はない。すべての戦争が自衛の名のもとに行われた。憲法9条はけっして、自衛の戦争を認めるものではない」と、徹底した平和主義を語っています。
こうして制定された日本国憲法ですが、戦後しばらくすると政府の解釈が変わります。自衛隊が創設された1954年、政府は「自衛隊は憲法にいう戦力に当たらないから違憲の問題は生じない」と辻褄を合わせる説明を始めました。「憲法は国に固有の自衛権を否定していない。自衛隊は、敵国が日本の領土に進攻してきた際に自衛権を行使する実力組織に過ぎない。自衛隊は、自衛を超えて海外で武力を行使することはない。自衛の必要を超えた装備や編成をもつこともない。だから9条に違反しない」というのです。いわゆる専守防衛路線です。
この政府解釈は批判されつつも、定着して60年続きました。明らかに憲法の条文に違反はしてはいるものの、自衛隊の装備や編成、あるいは行動を、専守防衛にとどめて、逸脱を防止し、暴走することのないよう自衛隊への歯止めの役割を果たしてきたという側面を見落としてはならないと思います。
安倍政権はこの専守防衛路線を乗り越えようというのです。自衛隊暴走への歯止めを外してしまおうというのです。これは完全に憲法9条の戒めを破ろうということにほかなりません。
集団的自衛権の行使を容認することによって、自国の自衛のために限定されていた実力の行使が歯止めを失うことになります。戦争をする組織ではない、飽くまで敵が国土を蹂躙したときに自衛する実力部隊であったはずの自衛隊が、集団的自衛権行使の名のもとに、同盟国とともに海外で闘う組織になるというのです。
国土を離れた海外での武力の行使を「自衛」とは絶対に言いません。それは憲法が禁じる「戦争」にほかなりません。昨日、自公が合意して、これから閣議決定を経て国会に提出される法案は、自衛隊に海外での武力行使を認める法律案ですから、「戦争法案」と呼ぶのが適切で相応しいのです。
今年1月に亡くなられた9条の会呼びかけ人のお一人、奥平康弘さんの言葉を借りて、私なりの言葉で表現し直せば、「憲法9条は、1954年自衛隊ができたときに『半壊』した。そして、2014年7月1日の集団的自衛権行使容認を認める閣議決定で『全壊』しようとしている」
他国との軋轢は外交で解決すべきとするのが、日本国憲法の立場です。相手国を軍艦で脅し、近くで軍事演習をして、軍事力で威嚇し、ことあれば武力の行使に及ぶという選択肢を完全に捨てたのが日本国憲法の立場です。70年前に、戦争の惨禍を繰り返すまいという国民の願いがそのような憲法を作ったのです。
しかし、安倍政権が目指している国のかたちは明らかに違います。強い国、強い外交を行うためには、いざというときには戦争という選択肢をもたねばならない、というのです。これは危険なことです。何よりも、近隣諸国からの信頼を失う愚行といわざるを得ません。戦後70年間築いてきた、平和ブランドとしての日本をなげうつことでもあります。
今朝の各紙の報道によれば、「戦争法」関連法案は、既存の有事法制10本をまとめて改定する一括法「平和安全法制整備法」と、自衛隊をいつでもどこでも他国軍の戦闘支援に派兵する新法「国際平和支援法」(派兵恒久法)の2本建てだということです。解釈改憲・立法改憲によって憲法9条にトドメを刺そうとするものとして、到底看過できません。
皆さん、2年前の憲法記念日を思い出してください。発足間もない第2次安倍政権は、96条改憲を明言していました。「9条改憲が本丸だが、本丸攻めは難しい」「それなら、まずは外堀を埋めてしまえ」「96条の改憲手続きを変えて、明文改憲のハードルを下げるところから手を付けよう」という構想でした。
ところが、この96条改憲論がたいへんに評判が悪かった。2年前の5月には、「裏口入学に等しい姑息な手段」「卑怯卑劣な手口」として強い世論の反撃を受けました。その結果、安倍内閣はこれを撤回せざるを得ない事態に追い込まれてしまったではありませんか。
今、安倍政権がやろうとしている戦争法案の上程は、裏口入学どころの話しではありません。堂々と、憲法の玄関を蹴破って、憲法の平和の理念を押し潰そうというのです。一昨年同様、再び世論の力で憲法を9条を守り抜こうではありませんか。そして、戦争法の制定を推し進めようとしている安倍政権には、退場願おうではありませんか。憲法9条に成り代わって、皆さまに訴えます。
(2015年5月12日)
本日は68回目の憲法記念日。戦後70周年に当たるこの年の憲法施行記念日でもある。1946年11月3日に公布された新憲法は、国民への周知のための半年の期間を経て68年前の今日が施行日となった。
その日、政府主催の新憲法施行記念式典が催され、記念国民歌「われらの日本」が唱われた。慶祝の花電車が走り、憲法音頭が踊られた。しかし、68年を経て、いま政権は憲法に冷ややかという域を遙かに超えて、敵意を剥き出しにしている。
第1次安倍政権の時期も憲法受難の時代であった。この政権が、2007年7月の参院選挙で与党大敗となり、その直後に安倍晋三がかつてない醜態をさらして政権を投げ出したときには憲法に替わって快哉を叫んだものだ。その後しばらくは、「憲法の安穏」の時期が続いた。しかし、よもやの第2次安倍政権発足以来、毎年の憲法記念日は改憲をめぐって緊張感が高い。
「憲法の危機」は、明文改憲としての危機でもあり、解釈改憲による憲法理念なし崩し抹殺の危機でもある。今、両様の危機の切迫に警戒しなければならない。
本日の赤旗「安倍壊憲政権に立ち向かう」という標題で、森英樹(名古屋大学名誉教授・日民協理事長)がこう述べている。
「容易ならざる事態の中で迎える今年の憲法記念日は、例年と質的レベルを異にするといわざるを得ません。『戦争立法』=壊憲の先に、文字どおりの改憲を公言する安倍政権のもと、それこそ『壊憲から改憲へ』という『切れ目のない』憲法敵視策の中で迎えることになるからです」
ここでは、「壊憲」=解釈改憲・立法壊憲、「改憲」=明文改憲と使い分けられている。その指摘によれば、「改憲」には前科があるという。
「再軍備が54年の自衛隊設置に及ぶや、政府は…憲法を変えようとしました。しかし国民の反撃にあって改憲は失敗します。すると今度は解釈を変えて『必要最小限の個別的自衛権』保持・行使なら憲法に違反しない、と言い始めました。
いま、憲法解釈を変更して集団的自衛権行使を合憲にしようとする『解釈改憲』が問題になっていますが、実はもう前科があるのです。ただ、9条があり、…最初の解釈があるので、これを気にして、せめて海外に出て戦争することはしない、という『専守防衛』の『歯止め』を維持してきました。ここを崩そうとするのが今の解釈改憲です」
森が引用する奥平康弘の言葉が印象に残る。
「1月末に急逝された『九条の会』呼びかけ人で憲法研究者の奥平康弘さんが、生前最後の対談で指摘したように『九条は自衛隊設置を許した「個別的自衛権」で歪められ、「集団的自衛権」で無くされようとしている』(『季論21』26号での堀尾輝久氏との対談)のです」
個別的自衛権という名目で、軍事力の保持を認めたことには二面性がある。わが国が保有できる軍事力を「自衛の範囲のものに限定」し、その活動を専守防衛におしとどめたという一面は確かにある。しかし、森や奥平が鋭く指摘するとおり、一切の軍事力の保持を禁じた9条を解釈と立法で「壊した」もう一面があることは否めない。森は、これを「壊憲の前科」というのだ。
今、安倍政権がたくらむ「壊憲」は、「専守防衛」の「歯止め」まで外して、9条を事実上無にしようというものだという、この重大な警鐘を肝に銘じなければならない。
明文改憲に関しては、今さらの「押しつけ憲法論」が安倍晋三の口から繰り返されている。しかし、戦争と軍国主義、国民監視体制から解放されて、平和と自由を獲得した国民は、明らかに新憲法を歓迎した。この憲法を「押しつけられたもの」と意識したのは、旧体制の支配層の生き残りであったろう。いま、安倍晋三が、その立場と自分を重ねて「押しつけ憲法」というのは、旧憲法体制での「既得権益」の再現を狙うものと解するほかはない。
本日の毎日新聞は、十分なスペースを確保して「日本国憲法制定過程をたどる」「憲法はどう作られ、変えられようとしているか」という、いずれも充実した検証記事を掲載して読み応え十分である。これだけの充実した紙面だと、あらためて「新聞ほど安いものはない」と思わせられる。
憲法制定経過の検証の末の毎日の結論は、「押しつけ(憲法論) 薄い論拠」というもの。そして、社説において「押しつけ改憲にさせぬ」と小見出しを付して、「憲法の根本原理を作りかえ、政治が使い勝手をよくするための『押しつけ改憲』には明確にノーを言いたい」と立場を鮮明にしている。
さらに東京新聞の特集が充実している。
同紙の一面トップは、「平和をつなぐ」と題するシリーズの第1回として、美輪明宏を取り上げている。「憲法や平和について議論を深めよう」などという、中途半端で生温い記事ではない。下記のとおり、改憲の危機意識を露わに、平和と憲法を擁護する立場を鮮明にしてのものだ。
「戦争をしない国」を支えてきた憲法9条は今、危機を迎えている。政府は集団的自衛権が行使できるようにする法整備を着々と進め、その先には改憲も視野に入れる。「これからも憲法を守りたい」。戦争を体験した世代から、20代の若者まで、世代を超えてその思いをつなぎ、広げようと、メッセージを発信する人たちがいる。
三輪を語る記事の標題は、「危機迫る憲法 自作反戦歌 今こそ」というもの。
第2次安倍政権発足以来、三輪のコンサートは、反戦を唱うものに変わったという。それも、徹底した筋金のはいった反戦の姿勢。
ロマンあふれるシャンソンとは趣が違う、原爆孤児の悲しみを描いた歌詞。長崎で原爆に遭った自身の体験を重ねた。70年を経ても拭い去れない悪夢。不戦を誓う憲法を手にした時、「もう逃げ惑う必要がない」と安堵した。その憲法が崩れるかどうかの瀬戸際にある。
「私たちは憲法に守られてきた。世界一の平和憲法を崩す必要はない」。若い世代も多い観客に伝えたくて、反戦歌を歌う。原爆体験や軍国主義への強い嫌悪が美輪さんを駆り立てている。
しかも、三輪の語り口はけっして甘いものではない。「そんな(憲法の危機をもたらしている)政治家を舞台に立たせたのは、国民の選択だった。そのことをもう一度考えてほしいと美輪さんは歌い、語り続けている」とする記事のあと、最後は三輪の次の言葉で締めくくられている。
「無辜の民衆が戦争に狩り出されるのではない。選挙民に重い責任があるのです」
憲法記念日の紙面の、一面トップにこのような記事をもってきた東京新聞の覚悟が伝わってくる。社と記者と、そして三輪明宏に深甚の敬意を表したい。
また、同紙は今日で3日、連続して「戦後70年 憲法を考える」シリーズの社説を掲載している。いずれも読み易く立派な内容である。
戦後70年 憲法を考える 「変えない」という重み (5月1日)
戦後70年 憲法を考える 9条を超える「日米同盟」(5月2日)
戦後70年 憲法を考える 「不戦兵士」の声は今 (5月3日)
戦争と統制に抗う、健全なジャーナリズムを衰退させてはならない。その国家統制や社会的なバッシングによる萎縮を許すとすれば、三輪が言うとおり「無辜の民衆が被害に遭うのではない。国民自身に重い責任がある」のだから。
(2015年5月3日)
明日(4月26日)は、統一地方選後半戦の投票日。安倍自民党の暴走へ歯止めをかけるチャンスである。
憲法9条をないがしろにし、集団的自衛権行使容認だけでなく、戦争法制を整備して、切れ目なく、つまりはいつでもどこでも戦争ができる国を作ろうという安倍自民の目論見が公然化しつつあるこの時期の選挙。その自民党と、下駄の雪の公明党への批判を期待したいのだ。そのような視線で、地元文京区議会議員の選挙公報を眺めている。
定員34に立候補者が46名。14人が落選する選挙。政党別の候補者数は以下のとおりだ。
自民 10
共産 7
公明 5
民主 4
維新 2
社民 1
次世代 1
ネット 1
生活 0
諸派 1
無所属 14
地域に根差した政党としての活動がなければ、立候補者数の確保はできない。民主の4、社民の1、生活の0は寂しい。また、維新2、次世代1は、おそらくは早晩消えていくことになるのだろう。
自民の10人は、公報での訴えを見る限り、政党としてのまとまりがあるとは到底思えない。もっとも、そこが強みなのかも知れない。安倍自民の公約や政権の動向とは無関係に集票して議席を獲得し、自民党議員団としての勢力を誇示して都政と国政の基盤を形成する。柔軟といえば柔軟、したたかといえばしたたかな、草の根からの民意掠めとり構造が透けて見えてくるではないか。
自民の誰一人として、安倍晋三の名も安倍政権中枢に位置する政治家の名も挙げていない。むしろ意識的に避けているのではないかという印象。地元商店街の振興は叫んでも「アベノミクス」は一言も出てこない。教育の充実は語られても、「教育再生」は出てこない。もちろん、戦後レジームも、靖国も、日の丸・君が代も、原発再稼働も、歴史修正主義も、集団的自衛権も一切触れられていない。安倍政権のメインスローガンとは無縁な候補者の当選が、安倍自民の暴走の護符となる。この奇妙さをどう理解すればよいのだろうか。
たとえば、自民党公認の男性45歳候補。公報のスペースには、ラグビー選手であることをアピールする大きなイラスト。意味がある表現はそれだけと言ってよい。殆ど意味のない「政策」が2行だけ並んでいる。そのうちの一つが「不動産業で培った知識とノウハウで暮らしやすい活気あふれる『まちづくり』『都市計画』を進めます!」というもの。もちろんこの人現職の不動産屋さん。生活者の視点からではなく、事業者の視点で「まちづくり」をしようというのだ。どういった区民がこの人に投票するのだろうか。
共産党の10人すべての候補者が、地元の問題とともに、「安倍暴走ストップ! 地方政治で審判を」「戦争立法・原発再稼働反対」と掲げている。もちろんバリエーションはあるが、政党としてのまとまりが目に見える。
公明党の5名は、およそ政権与党の一員であることを押し出すところがない。代わっての押し出しは、「現場第一主義」であり、「生活相談」であり、ひたすらドブ板に徹した姿勢。これも、中央政界とは一線を画したいという意識的なアピールとの印象。
維新の2人は、党の政策を一応掲げてはいる。が、それ以外は、かなりの個性派。その一人の次のような公約に目がとまった。
「武力で他国を守る集団的自衛権の行使を可能にする(事態法)改正反対」
念のため、党の政策を確認してみた。「自国への攻撃か他国への攻撃かを問わず、我が国の存立が脅かされている場合において、現行憲法下で可能な『自衛権』行使のあり方を具体化し、必要な法整備を実施」というもの。
「集団的自衛権行使を可能とする法整備の推進」が党の政策で、この立候補者の公約は、「集団的自衛権の行使を可能にする法整備反対」である。まったく逆。おそらくは、この候補者には「集団的自衛権行使容認反対」が世論にウケが良く、集票に役立つものとの思惑がある。しかし、党の基本政策と真逆のことを掲げて、どうして党の公認候補者なのだろうか。
次世代の党からの立候補者は歯医者さん。元はみんなの党に所属していたようだ。禁煙運動に取り組んでいることをアピールしているので、個人的には好感が持てるのだが、もちろん私はこの政党が大嫌い。「次世代」らしいのは、「文京区を想い、国を想う」というフレーズと、「外国人地方参政権は反対。参政権を行使するためには国籍を取得すべき」という政策。レイシストに落選の憂き目あれ。
やはり、「自・共対決」の時代となりつつあるのだろう。自共以外の政党の存在感が薄い。もっとも、中央政界での一強を誇る自民党も、地域まで下りてくると案外たいした勢力ではない。けっして、イデオロギーや基本政策でまとまった自民党地域組織や集団があるわけではないことがよく分かる。地域では、安倍人気もなければ、安倍政策の魅力も語られてはいないのだ。
地域の自民党とは、意外に何の色も着いていない殆ど透明の存在なのだ。何の色もない候補者に有権者が投票し、当選した議員が区議団自民党を形づくると、かなりの色が着いてくる。これが都議会自民党となると殆ど真っ黒の「自民党色」となる。さらに中央政界では、安倍カラーの戦争色にまでになり、キナくさい臭いまでも撒き散らすことになる。草の根と安倍政権とをつなぐ、魔法の糸が紡がれているのだ。
しかし、安倍政権を支える基盤は存外に脆弱なのだ。安倍政権とは、「実は張り子の虎だった」といわれる時代が早晩訪れるのではないだろうか。そんなことを考えさせられる選挙前日である。
(2015年4月25日)