(2020年11月17日)
共同通信が「五輪反対派が都庁前で抗議」という記事を配信し、ロイターがこれを記事にした。東京オリンピック反対運動も、その抗議行動も巷にあふれている。バッハ訪日に合わせての都庁前での抗議行動というだけではニュースとしてのインパクトに欠ける。なぜ、大きな記事になったか。
この、ごく小さな抗議行動にニュースバリューを与えたのは、バッハ自身である。IOC会長自らが身体を張って、小さな抗議行動に大きなニュースバリューを進呈したのだ。言わば、価値あるオウンゴールである。
記事は以下のとおり。
「国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長が東京都の小池百合子知事との会談に訪れた都庁前で16日、五輪反対派の市民数人が「オリンピックやめろ」「これ以上オリンピックに税金を使うな」などと声を上げる場面があった。
バッハ氏は都庁に到着した際と出発する際、横断幕を持って抗議する反対派に自ら歩み寄る場面も。開催に反対の立場の人もいることを伝えにきたという女性は「優先すべきは人の命だと伝えにきたが、そこまで伝わったかどうか。五輪をやめると決断してほしい」と話した。」
さすがに共同通信は、バッハの行動について、「都庁に到着した際と出発する際(の2度にわたって)、抗議する反対派に自ら歩み寄る場面も(あった)」と、品良く書いているが、反対派(「反五輪の会 NO OLYMPICS 2020」)のツィッターでは、「歩み寄る」が、「詰め寄ってきて」「突っかかってきた」と書かれている。
「都庁から出てきたIOCバッハ会長と一触即発!1メートルの距離まで詰め寄ってきて『おまえら意見を言いたいのか叫びたいのかどっちだ』的なことを言ってきた。どっちもだよ、オリンピックいますぐ止めろ!」
「今日11/16都庁で反五輪の会を見つけ突っかかってきたIOCバッハ会長のこの顔つき、このふるまい、写真見てください。「対話を求めた」とか記者会見で言ったらしいがどの口が?さっさと五輪中止しろ!」
「街宣を続けていると、再びバッハと他関係者が玄関からゾロゾロと出てきた。そびえ立つ都庁に反響したAbolish IOC! No Olympics anywhere! のコールが直撃。バッハは車に誘導されるが、苛立った表情でSPの静止も振り切り反五輪の会にズカズカ詰め寄ってきた! 1mの距離で一触即発! 後ろから小池百合子が慌てて止めに入る。…」
バッハという人、過剰に血の気の多い人なのだろう。東京都民の、「東京五輪反対」には心穏やかではおられないのだ。あるいは、どうしてもIOC会長にしがみついてなければならない裏の事情があるのかも。いずれにせよ、都民や日本人のオリンピックに対する醒めた気分を理解していない。
もう一つ、バカげたオウンゴールがある。16日、バッハは安倍晋三に、五輪運動への貢献をたたえる「五輪オーダー」なるものを授与した。「五輪運動への貢献」の具体的内容については、特に報道されていない。
こんなことをすれば、日本人がよろこぶだろうとでも舐めたカン違いをしているようなのだ。アンダーコントロールという、あの大嘘を思い出す。安倍晋三の嘘とゴマカシの数々を、あらためて反芻せざるを得ない。安倍の薄汚いイメージが、東京オリンピックの薄汚さにピッタリ重なる。反東京オリンピック世論の高揚に貢献することだろう。
バッハにも、菅にも、小池にも、「これ以上オリンピックに税金を使うな」「優先すべきは人の命だ」という当たり前の訴えに耳を傾けてもらいたい。
(2020年11月15日)
ネットを漂流していると、人々のつぶやきに絶望的な気分になる。日本人の知性や理性や矜持は、どこへ行ってしまったのだろう。人は、かくもたやすく権力の情報操作に欺され操られてしまう愚かな存在なのか。また、かくも権力になびきへつらうみっともない存在なのだろうか。
鈴木宗男という日本維新の会の参議院議員がいる。自ら「私は国策捜査によって逮捕されました」「437日間勾留され」「(刑の確定後)丸1年塀の中におりました」と述べている人。身をもって権力の恐ろしさを体験した人だ。
過日(10月4日)、この人の学術会議会員任命拒否問題についての政権寄りのブログを目にして、以下の記事を掲載した。
鈴木宗男さん、菅義偉政権の学術会議人事介入問題、考え直していただけませんか。
https://article9.jp/wordpress/?p=15743
しかし、効果はなかったようだ。この人が、一昨日(11月13日)のブログに、最高裁裁判官任命問題について、菅官房長官(当時)を擁護するこんな記事を掲載している。
毎日新聞朝刊5面に「最高裁でも人事圧力 前政権『複数人示せ』」という見出し記事がある。正確を期すために一部活用したい。
「2012年12月の第2次安倍政権発足以降、退官する最高裁判事らの後任人事で、首相官邸への説明方法が変わった。『なんで1人しか持ってこないのか。2人持ってくるように』。官邸事務方トップの杉田和博官房副長官が、最高裁の人事担当者に求めた。
最高裁は以降、2人の後任候補を官邸へ事前に届けるようになった。2人のうち片方に丸印が付いていたのは、最高裁として優先順位を伝える意図があった。しかし、当時の官房長官、菅義偉首相は突き返した。『これ(丸印の方)を選べと言っているのか。今までの内閣がなぜこんなことを許してきたのか分からない』」
最高裁判事は、任命は政府がし、国会同意人事で決める。当然任命する側の判断があって当然でないか。
当たり前の事を言っていると考えるが、この当たり前の事にクレームをつける頭づくりはどこからくるのか。
これまでメディアが報じてきたことは、すべて正しかっただろうか。19年前、メディアスクラムによる事実でない、真実でない「ムネオバッシング」を経験した者として、厳しく指摘したい。(以下略)
この人は、保守派の議員として、権力から欺されるだけの立場ではなく、国民を欺す立場でもある。本気でこのとおり考えているのか、このように考えているフリをしているのか、よく分からない。
この「鈴木宗男見解」は、社会科授業のよい教材ではないか。高校あるいは中学校の公民の教師の方にお勧めする。三権分立という統治機構の大原則について、教科書的解説をしたあとに、生徒にこう問いかけてみてはどうか。
「最高裁裁判官の選任・任命の実態について、毎日新聞がこのようになっていると報道しています。毎日新聞は、《最高裁でも人事圧力 前政権『複数人示せ』》と批判する立場で見出しを掲げていますが、鈴木宗男さんという国会議員は、《当然任命する側の判断があって当然でないか》という立場を明らかにしています。本日学習した三権分立という原則に照らして、あなたの意見を述べてください」
想定の典型解答例は、こんなところだろうか。
「私は、毎日新聞の立場が正しいと思います。権力が集中すると行政権が強くなり過ぎて人権を侵害する恐れが大きくなります。これを防ぐのが三権分立で、とりわけ、司法が行政や立法をチェックできなければなりません。でも、行政権の長が、自分の意思のとおりに最高裁裁判官を任命できるということでは、三権分立も司法の独立も形式だけのものになってしまうからです」
「ボクは、鈴木さんの立場が正しいと思います。どうしてかというと、国会議員が間違ったことを言うはずはないからです。それに、『毎日新聞は、反日的な立場が強すぎる』と父が言っていました。だから、毎日新聞は、菅義偉首相の名前を出して、日本を弱くするような記事を書いているのだと思います」
「私は、鈴木宗男さんがきちんと考えて意見を言っているとは、とても思えません。『最高裁判事は、任命は政府がし、国会同意人事で決める。』は、明らかに間違いです。最高裁判事の任命権が内閣にあるとしても、その任命権の行使には三権分立や司法の独立を保障するような工夫が必要だと思います。行政権内部の公務員と同じように、『任命する側の判断があって当然』という態度は、憲法を良く理解していないからだと思います」
「ボクは、国益を守るということが何よりも大切だと思います。そのためには、強い政府が必要なのですから、司法の役割などはどうでもよいのではありませんか。だから、三権分立は形だけでよいと考えるべきです。きっと、菅首相も、鈴木宗男さんも、ボクと同じ考えのはずです。弱い政府を作るための三権分立は無意味ですから、最高裁裁判官は政府が自分の都合で決めたら良いと思います」
「最高裁裁判官をどう選ぶかは、難しい問題だと思います。内閣は、自分にとって都合の良い、言うことを聞くおとなしい人を裁判官に任命したいと思うでしょうが、それでは三権分立の精神に背くことになります。ですから、内閣の思惑よりは、最高裁の判断を尊重しなければならないと思います。最高裁の推薦を突っ返したという『当時の官房長官、菅義偉首相』は恐ろしい人だと思います。鈴木宗男さんの意見は、菅さんにゴマを摺っているだけではないでしょうか」
(2020年11月12日)
昨夜(11月11日)の時事配信記事のタイトルが、「中国、『忠誠』なき議員を排除 香港民主派は抗議の辞職表明」である。権力がその本性を剥き出しに、権力に抵抗する者の排除を断行したのだ。中華人民共和国、さながら臣民に忠誠を求めた天皇制の様相である。しかし、果敢に抵抗する人々がいる。
民主主義社会では、民衆が権力をつくり、民衆の承認ある限りで権力の正当性が保たれる。だから、権力は民衆に「忠誠」を誓う立場にある。権力が民衆に「忠誠」求めることは背理である。権力が「反忠」の人物を排斥してはならない。
原理的に権力には寛容が求められる。民衆を思想・信条で選別し差別してはならない。政治活動の自由を奪ってはならない。権力に抵抗する思想や表現や政治活動を弾圧してはならない。いま、天皇制ならぬ、「人民」の「共和国」がそれをやっているのだ。
「今ごろ何を騒いでいるのだ。中国ではごく当たり前のこと」「香港が中国並みになったというだけのこと」という訳知りの声もあろうが、かくもたやすく、かくも堂々と、権力がその意に沿わない民主主義者を排除する図に衝撃を受けざるを得ない。
報道では、民主派議員19人が11日夕に会見し、4人以外の15人も抗議のため一斉辞職すると表明。定数70の立法会で21人いた民主派は2人に激減することになり、今後は親中派の独壇場になるという。
この民主派議員たちの抗議の辞職は、香港社会だけでなく、国際社会に向けての捨て身のアピールなのだ。この香港民主派の抵抗を支持する意思を表明しよう。
時事は、こんな報道もしている。
《「独立思想広めた」教師失職 当局、現場への介入強化―香港》(20年10月06日20時48分)
香港政府の教育局は6日までに、「香港独立思想を広めた」として、九竜地区の小学校教師1人の教師登録を取り消したと発表した。独立派の主張を授業で扱ったことによる登録抹消は異例で、教育現場に対する当局の介入強化や教員への萎縮効果が懸念されている。
この教師は、昨年、小学5年生の授業で独立派の活動家である陳浩天氏が出演したテレビ番組を紹介。「番組によると、独立を訴える理由は何か」「言論の自由がなくなれば香港はどうなってしまうか」などと尋ねる質問用紙を配布した、という。教師自身が独立を主張したとは報じられていない。
それでも、教育局は「教材が偏っており、生徒に害を与えた」と指摘。この教師は既に離職しているが、今後他の教師による「問題行動」が確認された場合、同様に処分はあり得ると表明した、と報じられている。
強権とたたかっている香港の人々に敬意を評したい。こんな社会はごめんだ。中国のようにはなりたくない。
いや、日本も危うい。菅政権は、政権批判の立場を堅持する日本学術会議を快く思わず、政権批判の発言をした6名の任命を拒否した。思想・良心の自由、表現の自由、学問の自由を侵害する行為だとの批判を覚悟しての強権の発動である。中国共産党の香港に対する強権的姿勢と、本質において変わるところはない。
まだ、私たちは声を上げることができる、政治活動もできる、選挙運動もできる。選挙で政権を変更することもできる。三権分立も何とか守り続けている。この自由や民主主義を錆び付かせないように、大切にしたい。まずは、粘り強く学術会議任命拒否を撤回させねばならない。
(2020年11月6日)
我が国の首相は、我が国の言語で会話する能力があるのだろうか。政治家に不可欠なコミュニケーションの能力をもっているのだろうか。予算委員会の質疑を聞いていると、まことに心もとない。質問の意味が理解できないのではないか。
官僚起案のとおりに発語する以外の答弁ができない。質問と答弁が噛み合っているのかいないのか、おそらくはまったくわかっていない。まことに「壊れたレコード」そのものなのだ。のみならず、民主主義や人権の理念を欠いてもいるようだ。
この人は、学術会議に対する政府の人事介入問題を理解しているのだろうか。ことの重大性が理解されているだろうか。質問する野党議員との間に議論が成立しない。本当に必要な議論は、学問の自由や、学術会議の自律性・独立性、権力が学問の自由に踏み込むことの危険についての議論にまで到達しようがないのだ。
憲法の「学問の自由」の趣旨、学術会議法の法意、歴史的な意味、今回の事件の萎縮効果、その影響の射程距離…。理念的な議論がこの人と成立するとは思えない。これが一国の行政府の長なのかと思うと、情けなくもあり、恐ろしくもある。
しかも、応援団がよくない。自民党の長老格に伊吹文明という人がいる。元衆院議長、この人がスガ首相応援のつもりで、「学問の自由は水戸黄門の印籠なのか」と言ったことが話題になっている。学術会議問題で、スガに代わっての「反論」ということのようである。
報道では、首相の学術会議会員任命拒否について「学問の自由と言えば、何かみんな水戸黄門さんの印籠の下にひれ伏さなくちゃいけないのか」と疑問を呈したという。
舌足らずな発言だが、この人、「学問の自由」尊重の姿勢のないことを広言して恥じない人なのだ。つまりは、憲法尊重の姿勢のないことを自ら吹聴しているということだ。
憲法上の一つの理念が、別の理念と衝突して、どちらを優越するものと考えるべきか悩まざるを得ない局面はあり得る。そんなとき、一方の理念だけの肩をもつことは難しく、「水戸黄門の印籠の下にひれ伏さなくちゃいけないのか」という疑問が出てくる場合も考えられる。
しかし、今回の事態はまったく事情が異なる。6人の研究者の任命拒否が、「学問の自由」「学術会議の自治」の侵害であることは明々白々である。それを正当化する論理は考え難い。「学問の自由」「学術会議の自治」と拮抗する憲法上の理念や価値がおよそ想定しがたいからなのだ。正当化の論理は、スガの口から説明すらできていない。
こういうときは、まさしく、憲法こそが「水戸黄門の印籠」なのだ。「権力は、憲法に定められた「学問の自由」という印籠の下にひれ伏さなくちゃいけない」のだ。それが立憲主義である。それが法の支配というものだと言ってもよい。
実は、水戸黄門は御三家の一つ水戸家の隠居。葵の家紋の印籠は、徳川幕府の権力と権威の象徴なのだ。だから、伊吹議員の比喩は、ややトンチンカンではある。しかし、近代社会では、「憲法こそが、越後屋と結託した悪代官を懲らしめる印籠である」点では、正鵠を射たものと言ってもよい。
この場合、「越後屋」とは大資本であり、とりわけ軍需産業である。そして、悪代官とは、政治権力であり、とりわけアベスガの憲法ないがしろ政権のことである。軍需産業もアベスガ政権も、平和憲法を尊重しなければならない。
また、伊吹議員は、「一方的に政治的な問題に声明を出すとか、学術会議の肩書を持って政治的な発言をすることは自粛しないといけない」とも語り、学術会議が2017年に軍事研究に反対する声明を出したことなどを批判した、とも報じられている。批判を恐れてスガが口にできないホンネを代わりに語っている。
この文脈での「政治的な発言」とは、政権に批判的な発言という意味である。政権を批判する組織は人事で萎縮させろ、予算で締め上げろ、と言語能力に乏しい首相の肚の中を解説しているのだ。
しかし、スガも伊吹も大きく間違っている。権力にひれ伏す組織や人間ばかりでは、国家は間違うのだ。痛恨の経験から、我が国憲法と学術会議法は、わずか年間10億円の予算で、国家を再び誤らすことのないよう、自然科学・人文・社会科学の教えるところを聞こうというのだ。政権を批判するから怪しからんというのは、愚かこの上ない態度と知るべきである。
(2020年11月3日)
11月3日、憲法公布記念日。1946年11月3日に日本国憲法は公布され、6か月を経た翌47年5月3日が憲法施行の記念日となった。74年目の記念日に、思いがけなくも学問の自由を保障した憲法23条が注目されている。
私の手許に、「はじめて学ぶ日本国憲法」(2005年3月1日)がある。スガ政権によって、学術会議会員に推薦を受けながら任命を拒否された小澤隆一さん(慈恵医科大学教授)の著作。題名ほどには読み易い書物ではない。憲法条文の解説書ではなく、「憲法を学ぶことを、社会科学を学ぶことのなかに自覚的に位置づけようという」試みとしての体系書なのだ。なるほど、政権におもねる姿勢はいささかもない。忖度期待の輩には、耳が痛い内容。
その第2章「日本・日本人と憲法ー明治憲法を通じて考える」に「5. 明治憲法体制の崩壊」という項がある。その一部を紹介させていただく。
(1)天皇制のファシズム化と天皇機関説事件
……1932年5月15日、犬養毅(1855-1932年)首相が海軍の青年将校らに暗殺され(5・15事件)、いわゆる政党内閣の時代が幕を閉じます。その前年には、満州事変が始まり、日本は急速に軍事体制を固めていきました。すなわち、対外的には侵略体制を強めると同時に、国内では、強権的な戦時動員体制が、思想や言論統制、弾圧もまじえながら構築されていきました。…
1930年代から敗戦にいたる日本の政治体制を、「天皇制ファシズム」と呼ぶことがあります。…こうした「天皇制フアシズム」の特徴を象徴的に示す事件として、1935年の天皇機関説事件があります。この事件は、それ以前の時代に支配的な憲法学説であった美濃部達吉の天皇機関説が、議会での糾弾と「国体明徴決議」、在郷軍人会などが主体となった「国体明徴運動」、政府による「国体明徴声明」などを通じて排撃され、美濃部は、最終的に大学で機関説の講義ができず、著書を絶版にするところまで追い込まれます。
1937年に文部省が編纂し、全国の学校に配布したパンフレツト「国体の本義」では、明治憲法によれば、「天皇は統治権の主体である」こと、その根本原則は「天皇の御親政である」こと、三権の分立は「統治権の分立ではなくして、親政輔翼機関の分立に過ぎ」ないことなどをうたっており、天皇機関説は、「西洋国家学説の無批判(な)踏襲」として完全に否定されました。
(2) 総動員体制と敗戦
日本の戦争は、中国大陸への侵略から、アメリカ・イギリスなどとの東南アジア・太平洋を舞台としたものへと展開していきます。そうしたなかで、政治、経済、社会、文化のすべてを戦争に動員する「総力戦体制」がしかれ、憲法にもとづく統治は、いっそう破壊されていきます。1938年には、「国家総動員法」が制定され、国民の経済、生活が政府の一元的統制の下に置かれ、統制に関する権限は政府に白紙委任されます。1940年には、当時の議会内政党が解散し大政翼賛会に合流します。また翌年に、治安維持法が改正され(処罰対象の拡大、予防拘禁制度の新設など)、政治弾圧法規としての機能が強化されました。
このようにして、日本が、1941年にアメリカやイギリスなどとの戦争を開始する頃には、明治憲法体制は、その立憲主義的要素はほとんど残さないような状態にまでなっていました。明治憲法の体制が最終的に崩壊するのは、敗戦を待つことになりますが、「政治を規律する法」という憲法本来の役割を、明治憲法は、すでに敗戦以前に失っていたといえるでしょう。
戦前の天皇制政府による学問の自由弾圧が戦争準備と一体であったことを簡潔に解説したものである。天皇機関説事件に代表される歴史的体験が、戦後の制憲国会において憲法23条「学問の自由は、これを保障する」に結実した。この著作を上梓した当時、小澤さんご自身が美濃部と同じ立場に立つことになるとは夢にも思わなかったに違いない。その意味では、今、非常に危険な時代を迎えていることを、74年後の憲法公布記念日に噛みしめなければならない。
しかし、学者もいろいろだ。『御用』と冠を付けた「学者」も、一人前に発言の場が与えられている。NHK(デジタル)が「【学術会議】憲法専門の百地氏『首相の任命権 自由裁量ある』」と掲載している(10月29日 21時08分)。
「日本学術会議」の会員候補6人が任命されなかったことについて、憲法が専門の百地章国士舘大学特任教授は、「総理大臣の任命権は、ある程度の自由裁量はある」などと述べ、政府の対応に理解を示しました。
この中で、百地特任教授は、「私は結論的には任命拒否はあり得ると考えている。菅総理大臣はいろいろなバランスとか総合的に考えたと言っており、総理大臣の任命権は、学術会議の推薦に拘束されるものではなく、ある程度の自由裁量はある。法律の解釈は変わらない。運用で少し変化が出たと私は理解している」と述べ、政府の対応に理解を示しました。
その上で百地氏は、「学術会議そのものにも問題があるようだと考える人たちも増えている。本来のあり方に持っていこうということで、改革の動きが出てきているのは当然ではないか」と述べました。
また、百地氏は、「学問の自由を侵し、萎縮を招く」といった批判が野党などから出ていることについて、「私から言わせるとナンセンスだ。学術会議の会員になれなかったからと言って、学問の自由は侵害されないのではないか」と述べました。
以上の叙述に強烈な違和感を禁じえないが、とりわけ、「『学問の自由を侵し、萎縮を招く』といった批判が野党などから出ていることについて、『私から言わせるとナンセンス』」は、法を学んだ人の言ではない。少なくも、法の神髄を知らず、法を社会科学として把握する姿勢に欠け、法の歴史も法の機能も法常識の弁えもなく、ひたすらに権力へのへつらいに徹した人の言でしかない。
NHKは、いったいどんな思惑あって、こんなコメンテーターを取りあげたのだろうか。社会は、74年前に公布された憲法が想定しているようには動いていない。時代は危ういといわなければならない。
(2020年10月29日)
本日の衆議院本会議。共産党の志位和夫が代表質問に立った。日本学術会議会員任命拒否問題での切り込みは実にみごとだった。誰が起案するのかは知らないが、分かり易く具体的に問題点を浮かび上がらせた質問内容は秀逸。志位の気合いも十分だった。
これに対して、スガ答弁のお粗末はこの上ない。誰が起案するのかは知らないが、よくもまあ、こんな支離滅裂な情けない原稿を作るものだと呆れる。その説得力のなさが志位質問における任命拒否違法の指摘を際立たせることとなった。もしかしたら、スガ答弁の起案者はスガに、ひそかな怨みをもつ人物ではないかとさえ思わせる。
国民の誰もが、この質疑答弁をじっくりと視聴すべきだと思う。スガの言い分の破綻は、誰の目にも明白ではないか。こんな、いいかげんな人物に国政を任せておくことはできない。そう、みんなが思うだろう。
お粗末な原稿を棒読みして恥じないことで、「菅義偉という人物の教養のレベルが図らずも露見した」と言ってよい。川勝平太静岡県知事が言ったとおりだ。
もっとも、「教養」も「教養のレベル」も、突き詰めて考えればその定義は難しい。もちろん、教養とは学歴でも知識の量でもない。人間の生き方や精神の在り方の問題である。人類が積み上げてきた叡智に謙虚な態度とでもいうべきであろうか。
「思想・良心の自由」、「表現の自由」や「学問の自由」が、どのように個人や社会に必要なもので、どのような運動を経て獲得されてきたのか。学術会議の独立や自由がなぜかくも重要なのか、スガ答弁にはその理解が欠けているのだ。これをもって、「菅義偉という人物の教養のレベルが図らずも露見した」と私も思う。川勝平太はこの言を撤回したようだが、本日のスガ答弁はあらためて、スガの教養のレベルを露わにした。
昨日の衆院本会議では、スガに対して「独裁者」という野次が飛んだ。「独裁」「強権」「説明拒否」「支離滅裂」「答弁原稿棒読み」は、教養とは正反対の姿勢であり評価である。また、川勝は、こうも言っている。
「ともかく、おかしなことをしたと思うが、周りにアドバイザーはいるはず、こういうことをすると、自らの教養が露見しますと、教養の無さが、ということについて、言う人がいなかったのも、本当に残念です」
「本当に残念です」を除いて、まったく同感である。まずは任命拒否が「やってはならない、おかしなこと」なのだ。その認識を欠いたスガに、「周りにいるはずのアドバイザー」たちは、なぜ適切なアドバイスをしなかったのだろう。そして、本日のお粗末なスガ答弁の原稿。これが、「優秀な官僚」たちが鳩首相談して練り上げたものだろうか。結果として、国民にはスガの、精神的自由に関する理解の欠如、「教養の無さ」が強く印象づけられた。
早くも、「菅義偉という人物像」が露呈している。菅義偉、こんな人物を我が国の首相にしておいてよいものだろうか。
(2020年10月28日)
臨時国会は、本日からスガ総理に対する代表質問の始まりである。これを報じる主要各紙の見出しは、首相答弁が学術会議新会員任命拒否の理由を説明していないことに、最大の関心を寄せている。もっとも、何かしら理由を語ったとの印象を与える見出しの記事もある。
首相、学術会議の任命理由「答え差し控える」 代表質問(朝日)
学術会議、人選見直し必要=任命拒否の理由明かさず―代表質問で菅首相(時事)
菅首相、任命拒否「私が判断 変更しない」 学術会議問題で初論戦(東京)
菅首相、就任後初の代表質問 学術会議「多様性確保で判断」(産経)
代表質問トップバッター、立憲・枝野幸男の質問は気合い十分だった。学術会議問題だけでなく、スガの貧弱な国家観を衝いて、自らの政治の理想を語った。明確に「新自由主義」を非難して、「共生」の理念を語ったことが印象的だった。これに対するスガの答弁の貧しさは、これが我が国の首相の言かと恥ずかしいほどに貧相なものだった。与党の議員は、スガ答弁を何と聞いたろう。
枝野は、任命を拒否された学術会議会員候補6名について、「総理自身の判断ではないのか。誰がどんな資料や基準をもとに判断したのか。任命しなかった理由は何なのか」と切り込み、その上で「一刻も早く6名を任命して、違法状態を解消する以外、この問題の解決はあり得ません」と強調した。
これに対するスガ答弁に新しいものはなかった。
A まずは、「憲法第15条第1項は公務員の選定は国民固有の権利と規定している」「だから、必ず推薦通りに任命しなければならないわけではない」。これが「内閣法制局の了解を得た政府としての一貫した考え」。
B その上で、「個々人の任命の理由については人事に関することで答えを差し控える」と改めて説明拒否を正当化した。
C さらに、任命にあたり「総合的・俯瞰的な活動、すなわち、専門分野にとらわれない広い視野にたってバランスのとれた活動を行い、国の予算を投じる機関として国民に理解される存在であるべきということ、さらにいえば、たとえば若手が少なく、出身や大学にも偏らないことも踏まえて多様性を念頭に、私が任命権者として判断を行ったものだ」とした。
詰まるところは、任命拒否の理由は以下のA・B・Cである。
A(憲法15条1項を論拠とする任命義務否定論)
B(人事問題だからとする、説明責任免責論)
C(総合的・俯瞰的な諸理由)
この問題が表面化したのは10月1日。以来、官邸官僚は、どう辻褄を合わせるか知恵を絞ってきたはずである。そして、最も注目される場で、この程度のことしか言えなかった。おそらく今後は、このABCをめぐる論争に集約されることになる。注意すべきは、このABCとも、スガ側の防御線だということだ。防御線には後がない、破られれば総崩れだ。
A(憲法15条1項を論拠とする任命義務否定論)は、「全ての公務員人事には、内閣総理大臣の任命諾否の自由な裁量にまかされている」という、粗雑で幼稚な議論である。「国民固有の権利」は、決して、そのままに「内閣総理大臣固有の権利」ではないのだ。法が定めるそれぞれの公務員の在り方によって、総理大臣の裁量がある場合もあればない場合もある。当然のことだ。スガは「内閣法制局の了解」があると言い添えたが、片腹痛い。アベ政権下で、トップの人事を入れ替えられて、集団的自衛権を合憲化する解釈変更を容認した、あの醜態を天下にさらした内閣法制局である。今や、何の権威付けにもならない。
B(人事問題だからとする、説明責任免責論)は、実は何の根拠もない。床屋談義のレベルの主張と言って差し支えない。曲がりなりにも、Aについては、憲法15条が引用されていたが、Bについては、憲法や法律上の根拠として示されていいるものはない。「個々人の任命拒否の理由」について、「人事に関することだから説明責任は免除」という理屈はあり得ないのだ。公務員人事が、政権の恣意に任されてよいはずはない。しかも、これまでの法解釈を一方的に変更しての任命拒否である。説明責任を負うべきが当然である。仮に、プライバシーに関する理由があるとすれば、少なくも本人には説明しなければならない。民主主義の根幹を揺るがすほどの行政の行為に説明責任の放棄を許してはならない。
C(総合的・俯瞰的な諸理由)とは、いずれも、取って付けたごとくの枝葉の議論に過ぎない。
C1 「国の予算を投じる機関として国民に理解される存在であるべき」とは、なんたる傲慢、なんたる屁理屈。むしろ、「法にもとづいて国の予算を投じる機関の任命人事には、法の趣旨を正確に生かして恣意を許さず、透明性を確保することを通じて、国民に理解される政権であるべき」と反省するべきなのだ。
C2 「たとえば若手が少なく、出身や大学にも偏らないことも踏まえて多様性を念頭に判断」は、任命拒否に論理的に結びつかない。理由らしい理由となっていないのだ。後付けの理屈だが、この程度のことしか言えないと言うことに意味がある。また、この理由を朗読したスガは明らかに法に目を通していない。日本学術会議法17条は、「日本学術会議は、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考…」と明記する。会員候補の選考基準は、「優れた研究又は業績がある科学者」のみであってほかはない。スガは、敢えて違法な選考基準を持ち出している。何かしゃべれば、違法を積み重ねることになるのだ。
(2020年10月26日)
一昨日(10月24日)、国連が、核兵器禁止条約の批准国数が、条約の発効に必要な50ヶ国・地域に達したと発表した。同条約は、90日後の来年(2021年)1月22日に発効することになった。
同条約は、核兵器の開発から使用までの一切を全面禁止する内容だが、非批准国を拘束する効力はない。周知のとおり、米・英・仏・ロ・中の五大核保有国とその核の傘の下にある諸国は条約への参加を拒否している。インド・パキスタン・イスラエル・北朝鮮も。
しかし、国連で成立した条約が核兵器の存在自体を違法としたことの意味は大きい。これが国際規範なのだ。これからは、この条約を論拠として、全世界からの核廃絶を求める運動が可能となる。
問題は、日本である。正確にいえば日本政府の態度である。唯一の戦争被爆国である日本が、米国の「核の傘」に安住した形で、核廃絶に無関心である。この日本政府の姿勢は、核廃絶を求める国際世論にとって理解し難いものであろう。しかし、多くの日本国民が核廃絶を自分の問題として希求している。だから、政府も核廃絶反対とは言えない。そこで、詭弁を弄することになる。
核廃絶を訴える原水禁運動体や被爆者団体の切実や批准要求の声を拒み続けたアベスガ政権である。本日(10月26日)の臨時国会冒頭におけるスガ首相の所信表明演説にも、核禁条約への言及はまったくなかった。
もしもの話だが、スガがこのタイミングで被爆者の思いを語って核廃絶を訴え、核禁条約の発効に祝意を表したうえ、批准の方針を示したとしたなら…、議場は万雷の拍手に包まれたであろう。政権の支持率は20ポイントも上昇したに違いなかろうに。
決して冗談ではない。米中両大国対立時代における日本の立ち位置として、両国への等距離外交選択の余地は十分にあろう。その第一歩としての、日本の核禁条約批准はあってしかるべきではないか。政権が交代したら実現することになるだろう。
もちろん、現実は「批准NO」の一点張りだ。本日の首相所信表明に先立つ、午前の加藤勝信官房長官会見は、「核禁条約は、我が国のアプローチとは異なる。署名は行わない考え方には変わりない」とニベもない。スガの腹の中を忖度すれば、こんなところだろう。
「核兵器禁止条約ね。あれは困るんだ。だってね、あの条約は、核兵器の「使用」や「保有」だけでなく、核による「威嚇」も禁じている。「威嚇の禁止」ということは、「核抑止力を原理的に否定する」と同じことだ。北朝鮮だけでなく中国の核も、我が国を標的にしている。米国の核抑止力に依存せざるを得ないじゃないか。そんな、非現実的なトンデモ条約を受け入れられるはずはない。
この度の条約発効で、日本政府に条約批准を求める圧力は強まるだろう。それが困るんだ。つまり、ホンネは核廃絶なんて時期尚早と一蹴したいところ。でも、国際世論にも国内世論にも配慮しなけりゃならない。対外的にも、対内的にもそんなホンネは口にできないのが辛いところ。そこで、「条約が目指す核廃絶というゴールは我が国も共有している」「ただ、我が国のアプローチが条約とは異なる」「抑止力の維持・強化を含めて現在の安全保障上の脅威に適切に対処しながら、地道に現実的に核軍縮を前進させる道筋を追求していくことが適切だ」「我が国としては、地道に核兵器国と非核兵器国の橋渡しをする」と繰り返し言ってきた。もちろん、口先だけのこと。
ちょっと困っているのが、締約国会議へのオブザーバー参加問題だ。批准して参加国とならないまでも、オブザーバー参加をしたらどうかという問題。そのことを公明党の山口代表が茂木外相に申し入れている。無碍にもしにくいところが悩みのタネだ。ここは、「会合のあり方が明らかになっていないなか、具体的に申し上げる状況にはない。この条約に対する我が国の立場に照らし、慎重に見極めていく」としておこう。
今日の所信表明演説でも、「わが国外交・安全保障の基軸である日米同盟は、インド太平洋地域と国際社会の平和、繁栄、自由の基盤となるものです。その抑止力を維持しつつ、沖縄の基地負担軽減に取り組みます」と言っておいた。
なんと言っても抑止力。抑止力のためには新基地建設を強行しなけりゃならんだろう。沖縄の人々に寄り添うと言いながらも、辺野古の海は埋立てる。核廃絶も同じ。被爆者の声に耳を傾けると言いながら、核禁条約に署名はできない。公明党には、格好つけて本気になってもらっては困るんだ。」
(2020年10月24日)
スガ政権による日本学術会議新会員任命人事介入問題は、今の社会の政治勢力や言論界を二分する大きなせめぎ合いとなっている。
一方に、ゴリ押しする権力と権力にベッタリへばりつく親権力勢力がある。他方に、権力の横暴を許さないとする反権力の勢力がある。親権力勢力のデマと無法は甚だしい。明らかに反権力の勢力に理があるが、せめぎ合いの勝敗はわからない。
それでも、何が問題かは浮かび上がってきている。10月21日にスガ首相は、ジャカルタの記者会見で「前例踏襲でよいのか考えた結果」だと、「説明」し、翌22日に出た日弁連会長声明が、みごとにスガ会見を反駁する内容となっている。その会見と、会長声明は下記のとおりである。
代表的なメディアの報じ方は、「菅義偉首相は21日、訪問先のインドネシア・ジャカルタで記者会見し、日本学術会議の会員候補6人を任命しなかったことについて、『現在の会員が後任を推薦することも可能な仕組みになっていると聞いている。こうしたことを考え、推薦された方々がそのまま任命をされてきた前例踏襲をしてよいのか考えた結果だ』と改めて語った。具体的な理由は明らかにしなかった。」というものである。
スガのキーワードは、「前例踏襲」だ。この言葉の持つマイナスイメージを否定してみせることによる印象操作を狙ったものなのだ。「前例踏襲をしてよいのか考えた結果だ」というのは、敢えて前例を踏襲しなかったということだ。では、前例とはなんだ。「学術会議が推薦したとおりに会員候補の全員を任命すること」にほかならない。その前例をスガは、自ら破ったと述べたのだ。その重大性をスガは認識していない。
その前例こそが、学問の自由や学術会議の独立を尊重した、日本学術会議法の解釈として正しく、これに従わなかったスガの6名に対する任命拒否は明らかに違法である。
それだけでなく、日弁会長声明が重大事として指摘するところは、スガ独断による法解釈の恣意的変更という問題である。
学術会議会員の公選制が廃止され推薦制に移行した1983年の法改正審議においては、改正法案の提案者である政府自身が、「そこから210名出てくれば、これはそのまま総理大臣が任命するということでございまして、(中略)私どもは全くの形式的任命というふうに考えて…現在の法案になっているわけでございます。」「政府が行うのは形式的任命にすぎません。政府の行為は形式的行為であるとお考えくだされば、学問の自由独立というものはあくまで保障されるものと考えております。」と答弁した。かかる前提で国会が当該改正法案の審議を行い、国会は、そのような内容の任命制の導入を是とした法改正を行ったのだ。
ところが「前例踏襲」の拒否とは、行政府による一方的法解釈変更であって、立法府に対する反逆であり、「だまし討ち」にほかならない。このことについて、会長声明は、「内閣が解釈の範囲を逸脱して恣意的な法適用を行うとすれば、それは内閣による新たな法律の制定にほかならず、国権の最高機関たる国会の地位や権能を形骸化するものである。今回、政府は、人事の問題であるとして、任命拒否についての具体的説明を避けている。しかし、問われているのは人事にとどまる問題ではなく、憲法の根本原則である三権分立に関わる問題である。」という。そして、この構図は、例の黒川検事長の勤務延長問題と同様と指摘している。
アベもひどかったが、スガも負けていない。国会への欺瞞を恥じない、あからさまな国会軽視の姿勢である。そのスガが「立法府の長」気取りで「前例踏襲」を否定した途端に、三権分立を突き崩す暴挙を自白したことになったのだ。下には下があるものだ。
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首相記者会見(10月21日・ジャカルタ)
(朝日新聞 伊澤記者)
内政についてお願いします。総理は帰国後、週明けから臨時国会に臨まれることになると思います。臨時国会では日本学術会議の問題が論戦の大きなテーマの一つになるかと思います。野党側が求めている6人の推薦をしなかったという点について今後どのように御説明をされていくのか、お考えを聞かせていただければと思います。
(菅総理)
私が日本学術会議において申し上げてきたのは、まず、年間10億円の予算を使って活動している政府の機関であるということです。そして、任命された会員の方は公務員になります。ですから、国民に理解される存在であるべきだということを申し上げています。
また、会員の人選は、出身やそうしたものにとらわれずに広い視野に立ってバランスのとれた活動を行っていただきたいということ、そういう意味から私自身は「総合的、俯瞰(ふかん)的」と申し上げております。国の予算を投じる機関として国民に理解される、このことが大事だと思います。
また、会員の人選は、最終的に選考委員会などの仕組みがあるものの、まずは現在の会員の方が後任を推薦することも可能な仕組みになっているということも聞いています。
今回の件は、こうしたことを考えて、推薦された方々がそのまま任命をされてきた前例踏襲をしてよいのかどうか、考えた結果であります。
先週梶田新会長とお会いしましたが、各分野の研究者の英知を集めた団体なのだから、国民に理解されるように、日本学術会議をより良いものにしていこうと、こういうことで会長と合意しました。今後、科学技術担当の井上大臣に窓口になっていただき、議論を続けていきたい、このように思っています。
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日本学術会議会員候補者6名の速やかな任命を求める会長声明
菅義偉内閣総理大臣は、2020年10月1日から任期が始まる日本学術会議(以下「会議」という。)の会員について、会議からの105名の推薦に対し、6名を任命から除外した。この任命拒否について、具体的な理由は示されていない。
会議は、「わが国の科学者の内外に対する代表機関」(日本学術会議法第2条)である。同法前文においては、「科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命」とするとされ、同法第3条には職務の独立性が明定されている。
さらに、その会員選出方法について、設立当初、全国の科学者による公選制によるものとされた。すなわち、職務遂行のみならず、会員選出の場面においても、名実ともに政府の関与は認められていなかった。会議が、一方では内閣総理大臣が所轄する政府の諮問機関とされながら、政府からの高度の独立が認められていたことは、学問の神髄である真理の探究には自律性と批判的精神が不可欠だからであり、学問の自由(憲法第23条)と密接に結び付くものである。会議の設置が、科学を軍事目的の非人道的な研究に向かわせた戦前の学術体制への反省に基づくと言われる所以でもあろう。
かかる会議の会員選出について、1983年の法改正により、公選制が廃止され、推薦された候補者を内閣総理大臣が任命するという方法に変更された。その際、同年5月10日の参議院文教委員会において、政府は、「そこから210名出てくれば、これはそのまま総理大臣が任命するということでございまして、(中略)私どもは全くの形式的任命というふうに考えており、法令上もしたがってこれは形式的ですよというような規定、(中略)書く必要がないと判断して現在の法案になっているわけでございます。」と答弁した。さらに、同月12日の同委員会においては、当時の中曽根康弘内閣総理大臣も、「政府が行うのは形式的任命にすぎません。したがって、実態は各学会なり学術集団が推薦権を握っているようなもので、政府の行為は形式的行為であるとお考えくだされば、学問の自由独立というものはあくまで保障されるものと考えております。」と答弁した。かかる前提で国会が当該改正法案の審議を行い、当該任命制の導入を是とした法改正がなされた。
しかるに、政府は、今回の任命拒否について、会議の推薦に内閣総理大臣が従わないことは可能とした上で、任命制になったときからこの考え方が前提であって、解釈変更を行ったものではないとしている。この説明が、前述した法改正の審議経過に反していることは明らかである。
内閣が解釈の範囲を逸脱して恣意的な法適用を行うとすれば、それは内閣による新たな法律の制定にほかならず、国権の最高機関たる国会の地位や権能を形骸化するものである。今回、政府は、人事の問題であるとして、任命拒否についての具体的説明を避けている。しかし、問われているのは人事にとどまる問題ではなく、憲法の根本原則である三権分立に関わる問題である。この構図は、当連合会が本年4月6日に公表した「検事長の勤務延長に関する閣議決定の撤回を求め、国家公務員法等の一部を改正する法律案に反対する会長声明」で指摘した解釈変更と同様である。
今回任命を拒否された候補者の中には、安保法制や共謀罪創設などに反対を表明してきた者も含まれており、政府の政策を批判したことを理由に任命を拒否されたのではないかとの懸念が示されている。このような懸念が示される状況自体が、まさしく政府に批判的な研究活動に対する萎縮をもたらすものである。そして、任命を拒否された科学者のみならず、多くの科学者や科学者団体が今回の任命拒否に抗議の意を表明している。当の科学者らが自ら萎縮効果に強い懸念を示していることからすると、そのおそれは現実的と言えるのであって、今回の任命拒否及びこれに関する政府の一連の姿勢は、学問の自由に対する脅威とさえなりかねない。
以上により、当連合会は、内閣総理大臣に対し、速やかに6名の会議会員候補者を任命することを求めるものである。
2020年(令和2年)10月22日
日本弁護士連合会会長 荒 中
(2020年10月17日)
コロナ禍の終熄がいっこう見えてこぬうちに、なんと厳しい寒さの到来である。冷たい雨が降り止まない、陰鬱なこの時代を象徴するかのごとき暗い日である。
まさかとは思ったが、一応、東大本郷キャンパスの赤門・正門・農学部門とまわってみた。幸い、大勲位への弔意を示す半旗は出ていない。他の大学はどうなのだろう。土曜日の裁判所はどうなっているのだろうか。敢えて、叛旗を翻す大学や裁判所はないものだろうか。
本日の各紙が、この時代の危うさを批判して充実している。いくつか、ご紹介したい。まずは、毎日新聞「読者の広場」(投書欄)の「説明責任果たさぬ姿知る」無職・森則子・64(名古屋市)の投稿である。
菅義偉首相に厚くお礼申し上げます。その趣旨は、日本学術会議から推薦された新会員候補6人の任命を拒否したことです。
これにより、菅首相は政府からの高い独立性が保障されるべき同会議に政治介入したことを明らかにしました。さらに、どれだけ求められても、その理由を明言していません。
マスメディアからは当初、「苦労人」とか「たたき上げ」などと報道され、私はつい良いイメージを作ってしまいがちでした。しかし、実相はそうではありませんでした。冷淡な表情で説明責任も果たさず、学術会議を権力の傘下に置こうともくろんだ、一連のあなたの言動。おかげさまで、本当の姿を知ることができました。
したがって、これからはもっと政権の動き、あなたの一挙手一投足を注視していかなければいけないと思っています。政治への関心を高めてくださり、ありがとうございます。
なんとも、みごとな文章である。論旨明快で無駄がなく、起承転結しっかりしているから読み易い。ウイットも利いて、ピリリと辛い。「当初、『苦労人』とか『たたき上げ』などと、つい良いイメージを作ってしまいがちでした。しかし、冷淡な表情で説明責任も果たさず、学術会議を権力の傘下に置こうともくろんだ、一連のあなたの言動。本当の姿を知ることができました。」という思いは、多くの人の共感を呼ぶことだろう。
東京新聞の時事川柳も、同じ思いの秀句がならんでいる。
たたき上げ異論の学者たたき出し (四街道 小林修)
理由なし六名の顔に墨を塗り (世田谷 富山茂雄)
理由など言えぬ勝手に忖度を (横浜 高田正夫)
お家芸「解釈変更」継承す (三島 茶っかり娘)
巨費葬儀香典返しは国民に (相模原 関口実)
「退院だ」患者が言って医者が「はい」(相模原 関野春雄)
最後の句だけが、「スガネタ」ではないが、面白い。本日の朝日川柳も立派なものだ。
文科省いつ葬儀社になったやら(東京 根本勲)
大磯の時は黙って頭下げ(三重 植原みのる)
菅は安倍 加藤は菅に輪をかけて(三重 山本武夫)
「すがすがし」言うのこのごろ避けている(東京 堀江昌代)
「すがすがし」などとは、とても言えない。言う気にならない。敢えて言えば、正反対の意味になる。言葉が、「迷惑だ」と怒っている。
そして、朝日の「(多事奏論)」に、「日本政治のドタバタ シェークスピア劇に重ねたら」(郷富佐子)とのタイトルの論稿があり、中に次の一幕。
〈照明がつくと、城内の小部屋に重臣、哲学者、王女の3人〉
重臣 だから、言ったはずだ。新国王はお前たち6人を任命しなかったのだと。
哲学者 なぜだ。総合的か、俯瞰的(ふかんてき)か、それが問題……、なのではない。きちんと明確な理由を言え。
重臣 (メモを棒読みして)個人情報だから言えない。でも、直ちに学問の自由の侵害にはつながらない。以上。
哲学者 意味がわからん。あんたは何か隠しているか、ウソをついているだろう。
王女 ふふふ、ウソつきの者よ、汝(なんじ)の名は女。女性はいくらでもウソをつける。
重臣 馬鹿な、おれは男だ。そもそも、新しい従臣連中に女は2人しかおらん。
哲学者 たったの2人か! (首を振って)この国は何も変わらぬ。〈暗転〉
そして、毎日の毎月第3土曜日の連載コラム「近代史の扉」で、当事者となった加藤陽子(東大教授)が、冷静な筆致で[学術会議「6人除外」]問題を語っている。表題は「『人文・社会』統制へ触手」というもの。私には、意外な視点からの切り込み。やや長いので、要点だけをご紹介したい。物足りない方は、ぜひ毎日新聞で、全文をお読みいただきたい。
発足直後の世論調査で6?7割超の支持を得た菅義偉内閣。行政改革やデジタル庁など重要案件が待つ今、なぜわざわざ、日本学術会議の新会員候補名簿から6人を除外して決裁するという批判を浴びるまねをしたのか。目的と手段の点で整合的ではなく見え、政治分析の玄人筋も首をひねる事態となった。
今回の人文・社会系研究者6人の任命除外をめぐっては、「世の役に立たない学問分野から先に、見事に切られた」との冷笑もSNS上に散見された。だが、実際に起きていたのは全く逆の事態なのだ。人文・社会科学が科学技術振興の対象に入ったことを受け、政府側がこの領域に改めて強い関心を抱く動機づけを得たことが、事の核心にあろう。
菅内閣は、行革やデジタル庁創設を掲げ、先例打破の改革者イメージをまとって発足した。最重要課題の一つが、1995年の科学技術基本法(旧法)を今夏25年ぶりに抜本改正した「科学技術・イノベーション基本法」(来年4月施行)の着々たる執行であるのは明らかだ。
実は、今回の改正の重要な目玉の一つが、除外された学者の専門領域に直接関係していた。日本学術会議は、第1部(人文・社会科学)、第2部(生命科学)、第3部(理学・工学)からなる。名簿から除外された6人全員が第1部の人文・社会科学を専門とする。安倍晋三政権下で成立した新法は、旧法が科学技術振興の対象から外していた人文・社会科学を対象に含めたのだ。
25年ぶりの抜本改正は、解決すべき重要課題を国家が新たに設定し、走り始めたことを意味しよう。現状は、日本の科学力の低下、データ囲い込み競争の激化、気候変動を受けて、「人文・社会科学の知も融合した総合知」を掲げざるをえない緊急事態である。新法の背景には、国民の知力と国家の政治力を結集すべきだとの危機感がある。
このたび国は、科学技術政策を刷新したが、最も大切なのは、基礎研究の一層の推進であり、学問の自律的成長以外にない。
時代は厳しいが、これに対抗する真っ当な国民の側の力量にも自信をもってよい。異論の学者をたたき出したつもりであろう「たたき上げ」だが、国民からは、「すがすがし」と言葉を発することさえ憚られる事態。近々、国民が「すがすがし」からぬ政権をたたき出すことになろう。