澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「権力は、憲法に定められた『学問の自由』という印籠の下にひれ伏さなくちゃいけない」のだ。

(2020年11月6日)
我が国の首相は、我が国の言語で会話する能力があるのだろうか。政治家に不可欠なコミュニケーションの能力をもっているのだろうか。予算委員会の質疑を聞いていると、まことに心もとない。質問の意味が理解できないのではないか。

官僚起案のとおりに発語する以外の答弁ができない。質問と答弁が噛み合っているのかいないのか、おそらくはまったくわかっていない。まことに「壊れたレコード」そのものなのだ。のみならず、民主主義や人権の理念を欠いてもいるようだ。

この人は、学術会議に対する政府の人事介入問題を理解しているのだろうか。ことの重大性が理解されているだろうか。質問する野党議員との間に議論が成立しない。本当に必要な議論は、学問の自由や、学術会議の自律性・独立性、権力が学問の自由に踏み込むことの危険についての議論にまで到達しようがないのだ。

憲法の「学問の自由」の趣旨、学術会議法の法意、歴史的な意味、今回の事件の萎縮効果、その影響の射程距離…。理念的な議論がこの人と成立するとは思えない。これが一国の行政府の長なのかと思うと、情けなくもあり、恐ろしくもある。

しかも、応援団がよくない。自民党の長老格に伊吹文明という人がいる。元衆院議長、この人がスガ首相応援のつもりで、「学問の自由は水戸黄門の印籠なのか」と言ったことが話題になっている。学術会議問題で、スガに代わっての「反論」ということのようである。

報道では、首相の学術会議会員任命拒否について「学問の自由と言えば、何かみんな水戸黄門さんの印籠の下にひれ伏さなくちゃいけないのか」と疑問を呈したという。

舌足らずな発言だが、この人、「学問の自由」尊重の姿勢のないことを広言して恥じない人なのだ。つまりは、憲法尊重の姿勢のないことを自ら吹聴しているということだ。

憲法上の一つの理念が、別の理念と衝突して、どちらを優越するものと考えるべきか悩まざるを得ない局面はあり得る。そんなとき、一方の理念だけの肩をもつことは難しく、「水戸黄門の印籠の下にひれ伏さなくちゃいけないのか」という疑問が出てくる場合も考えられる。

しかし、今回の事態はまったく事情が異なる。6人の研究者の任命拒否が、「学問の自由」「学術会議の自治」の侵害であることは明々白々である。それを正当化する論理は考え難い。「学問の自由」「学術会議の自治」と拮抗する憲法上の理念や価値がおよそ想定しがたいからなのだ。正当化の論理は、スガの口から説明すらできていない。

こういうときは、まさしく、憲法こそが「水戸黄門の印籠」なのだ。「権力は、憲法に定められた「学問の自由」という印籠の下にひれ伏さなくちゃいけない」のだ。それが立憲主義である。それが法の支配というものだと言ってもよい。

実は、水戸黄門は御三家の一つ水戸家の隠居。葵の家紋の印籠は、徳川幕府の権力と権威の象徴なのだ。だから、伊吹議員の比喩は、ややトンチンカンではある。しかし、近代社会では、「憲法こそが、越後屋と結託した悪代官を懲らしめる印籠である」点では、正鵠を射たものと言ってもよい。

この場合、「越後屋」とは大資本であり、とりわけ軍需産業である。そして、悪代官とは、政治権力であり、とりわけアベスガの憲法ないがしろ政権のことである。軍需産業もアベスガ政権も、平和憲法を尊重しなければならない。

また、伊吹議員は、「一方的に政治的な問題に声明を出すとか、学術会議の肩書を持って政治的な発言をすることは自粛しないといけない」とも語り、学術会議が2017年に軍事研究に反対する声明を出したことなどを批判した、とも報じられている。批判を恐れてスガが口にできないホンネを代わりに語っている。

この文脈での「政治的な発言」とは、政権に批判的な発言という意味である。政権を批判する組織は人事で萎縮させろ、予算で締め上げろ、と言語能力に乏しい首相の肚の中を解説しているのだ。

しかし、スガも伊吹も大きく間違っている。権力にひれ伏す組織や人間ばかりでは、国家は間違うのだ。痛恨の経験から、我が国憲法と学術会議法は、わずか年間10億円の予算で、国家を再び誤らすことのないよう、自然科学・人文・社会科学の教えるところを聞こうというのだ。政権を批判するから怪しからんというのは、愚かこの上ない態度と知るべきである。

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