皆さん、明けましておめでとうございます。
アベ・シンゾーから、新年のご挨拶を申しあげます。
憲法学界や宗教界からは、憲法20条3項に定める政教分離原則に違反ではないかという強いご指摘あることは重々承知の上で、今年も年頭には伊勢神宮に参拝し、内閣総理大臣としての年頭記者会見は、ここ伊勢神宮で行います。内閣記者クラブの皆様方には、一言のイヤミも問題提起もなく、快くこの地まで足を運んでいただきましたことに、厚く御礼を申し上げます。
昨年は、災害が相次いだ年でした。被災された皆様には心よりお見舞いを申し上げます。本年は、どうか平穏で、豊かな一年を過ごせるように、との思いで、先ほど伊勢神宮を参拝してまいりました。私の理想とするところは、まさしく天皇を戴く国をつくることにあります。その国では、国家・国民の幸せと皇室の弥栄とが不即不離一体の美しい形をなし、皇室の祖先神をはじめとする神々のご加護が満ちあふれるのです。ですから、年頭の伊勢神宮参拝と、この地での記者会見は私にとって欠かせないものであることをご理解ください。
世の中には、社会のためにあるいは恵まれない人々のために、献身的な活動をされている多くの立派な人々がいます。しかし、この際そのような方を一切無視して、自衛隊の諸君にだけ敬意と感謝を表したいと思います。遠く離れたアフリカの地には、PKO5原則が整わぬままに送り出された国連PKO部隊参加の自衛隊員がいます。その駆けつけ警護の任務では、明日にもなにが起こるか分からない事態なのですから、その強い使命感と責任感に感謝しなければなりません。今に、すべての学校で、日の丸を掲げ君が代を唱うだけではなく、「兵隊さんのおかげです。兵隊さんよありがとう」と歌う日が来るよう、願うものです。
さて、本年は酉(とり)年であります。酉年は、しばしば政治の大きな転換点となってきました。本年も、変化の一年となることが予想されます。そうした先の見えない時代にあって、大切なことは、ぶれないこと。頑迷固陋に最初の方針を変えないことが大事なのです。大日本帝国も軍部も、大東亜戦争を始めたら戦局不利となっても、ぶれずに最後までよく闘ったではありませんか。
アベノミクスは失敗だという声が巷に満ちていますが、けっしてぶれることなく、金融政策、財政政策、そして成長戦略の三本の矢をうち続けてまいります。刀折れ矢が尽きても、アベノミクスをふかしつづけます。
また、内政だけでなく、外交も失敗続きだという悪評にめげることなく、積極的な地球を俯瞰する外交を展開してまいります。ときどき、自分でも何をやっているのか分からなくなりますが、一枚も二枚も上手の鵺どもを相手にしているのですから、まあ、成果のないのもいたしかたないと自分を慰めています。
あの昭和20年も酉年でありました。我が国の戦後が始まった年です。戦争で全てを失い、見渡す限りの焼け野原が広がっていました。しかし、先人たちは決して諦めませんでした。廃墟と窮乏の中から敢然と立ち上がり、戦後、新しい憲法の下、平和で豊かな国を、今を生きる私たちのため、創り上げてくれました。
本年は、その日本国憲法の施行から70年という節目の年に当たります。この70年間で経済も社会も大きく変化しました。かつては素晴らしかった日本国憲法も、完全に時代遅れのものとなりました。日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増しています。こうした困難な課題から、もはや目を背けることはできません。戦後を創り上げた70年前の先人たちに倣って、今を生きる私たちもまた、こうした課題に真正面から立ち向かわなければなりません。未来への責任を果たさなければなりません。
そのために何をなすべきか。いうまでもなく、憲法を変えなくてはなりません。どのように変えるべきか。いうまでもなく、戦後レジームから脱却して、美しい明治憲法の精神に立ち返ることです。そのようにして、億兆国民が元首たる天皇陛下のもとに心を一つにして、どこの国にも負けない強い日本をつくることが肝要です。
国防こそが、政治の要諦です。次なる70年を見据えながら、未来に向かって、今こそ辺野古にも高江にも、強力な米軍基地を作らねばなりません。それだけではなく、産業も学問も教育もメディアも、すべての国民の営みが強い国家を作るため、国防のためのものでなくてはなりません。今年こそは、そのよう観点から新しい国づくりを進めるべきときです。
私は、積極的平和主義の旗を高く掲げます。私の言う「積極的平和主義」を、憲法の平和主義と同じものだと誤解する向きもあるやに聞いていますが、とんでもないことです。憲法の平和主義とは、いかなる事態においても闘うことを放棄した敗北主義ではありませんか。これは私の採るところではありません。積極的に、軍備を充実し戦争を辞さないとする構えを崩さないこと。これが平和を守ることになるのです。本気になった戦争の準備こそが、平和を守ることになります。軍備を充実し戦争ができるよう法制を整える。これが、私の言う積極的平和主義なのですから、くれぐれもお間違えなきよう願います。
こうして、日本を世界の真ん中で輝かせる。そのような輝く国の子供たちこそが我が国の未来そのものではありませんか。子供たちの誰もが、家庭の事情にかかわらず、尊敬される軍人になって国家に貢献するという夢と希望を持ち、それぞれの夢に向かって頑張ることができる、そういう日本を創り上げていく決意であります。
私たちの未来は人から与えられるものではありません。私たち日本人が自らの手で自らの未来を切り拓いていく、その気概が今こそ求められています。私たちの子や孫、その先の未来を見据えながら、本年安倍内閣は、国家主義原理の憲法改正を見据え、国民の皆様が具体的に改憲の論議のできる環境作りを本格的に始動してまいります。
最後となりましたが、本年が国家と皇室と政権と、そして憲法改正のために素晴らしい一年となりますことを心から祈念いたしまして、年頭における所感とさせていただきます。
(2017年1月5日)
本日(12月29日)午前、イナダ防衛相は靖国神社を参拝した。防衛省によると、2007年1月の省昇格後、防衛相の靖国参拝は初めてだという。防衛庁時代からだと、2002年8月15日の中谷元・防衛庁長官の参拝以来のこと。言うまでもなく靖國神社は戦前の国家神道における軍国主義の側面を代表する軍事的宗教施設である。その宗教施設への防衛相の参拝が、近隣諸国の国民の神経を刺激することになるのは当然のことだ。
多くのメディアが、「中国、韓国両政府は稲田氏の対応を批判。北朝鮮の核・ミサイル開発をにらんだ韓国との防衛協力や、中国との防衛交流にも影響」と報道している。共同通信に至っては、「稲田朋美防衛相による靖国神社参拝について、オバマ米政権は公式な反応を示していないが、日米首脳が連れ立って真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊する歴史的なハワイ・真珠湾訪問の直後に、中韓などが軍国主義礼賛の象徴と見なす靖国を重要閣僚が訪問したことに、強い不快感を抱いているとみられる」「稲田氏の参拝は米国側には、両首脳の真珠湾訪問に冷や水を浴びせる行為と映りかねない」と配信している。
参拝後、イナダは記者団に「今の平和な日本は祖国のために命をささげられた方々の尊い命の積み重ねの上にある。未来志向に立ってしっかりと日本と世界の平和を築いていきたいという思いで参拝した」「家族とふるさとと国を守るために出撃した人々の命の積み重ねのうえに今の平和な日本があるということを忘れてはならないし、忘恩の徒にはなりたくないと思っています」などと語っている。
自衛隊員からも公然と、「少々頼りない」と言われるイナダである。国会で野党議員からの追及にべそをかく醜態も演じている。「少々頼りない」の批判に過剰に反応して、「強い防衛大臣」という姿勢を見せようと、結局暴走してしまったようだ。記者団へのコメントも、ナショナリズムの感情だけは語られているが、そのことがなぜ靖国参拝に結びつくかの論理に欠け、説得力も迫力もない。
それより問題は、違憲・違法の点にこそある。イナダは弁護士だというではないか。自分の行為が違憲でも違法でもないことをきちんと説明すべきだろうが、情緒的な語り口に終始して、違憲を回避する法的根拠を語りえていない。
イナダが玉串料を私費で支払ったと言っていることからすると、参拝は私的なもので、閣僚としての公的な資格に基づくものではない、と主張したい如くである。
しかし、記者団が確認したところでは、「防衛大臣 稲田朋美」と記帳がなされているというではないか。これは、イナダが「防衛大臣」という公的資格をもって靖國神社に参拝したことにほかならない。肩書記帳とは、そのようなものだ。
人は、私人であるだけでなく、幾つもの立場をもっている。肩書の記帳とは、参拝を受け入れる側である宗教法人靖國神社に対して、参拝者の立場を明示するものだ。私人としての参拝であれば、氏名だけでよい。私人としてでなく、特定の団体のメンバーとしての立場であれば、その団体名を書くことなる。公的な資格での参拝であれば、その資格を明記する。靖國神社はその肩書きにしたがった参拝として遇することになる。宗教的な意味合いからは、靖國神社の祭神にどのような立場、資格でまみえるかは、肩書き記帳以外にはないのだ。
イナダは、「防衛大臣」の肩書を記帳することで、「防衛大臣」の公的資格をもって参拝することを靖國神社に伝えたのだ。私的な参拝であれば、肩書は不要である。この一事で、私的参拝でないことは明らかと言ってよい。
イナダは、「防衛大臣である稲田朋美が一国民として参拝したということだ」と弁明したそうだが、姑息千万。「防衛大臣である稲田朋美」は私人でない。「一国民としての私的な」立場であるためには、「防衛大臣」という肩書を外すことが必要条件である。もちろん、肩書を外せば私的参拝になるわけではないが、「防衛大臣」の肩書を記帳して、「実は私人としての参拝」とは、見苦しいにもほどがある。通用する言い訳になっていないではないか。自分を支援する右翼団体に向けて、涙を浮かべた今夏の醜態を挽回のつもりだろうが、かえって恥の上塗りだ。「頼りない」レベルではない。「到底信用のおけない卑怯な振る舞い」と言わねばならない。
かつて、自民党内閣は、「私的参拝4条件」を明確にしていた。政教分離に違反した違憲の公的参拝であるとの批判を避けるためには、「公用車不使用」「玉串料を私費で支出」「一切の肩書きを付けない」「職員を随行させない」の全部が必要というものであった。不十分ではあれ、それなりに真面目に違憲を避けようとの配慮が感じられる。今の政権には、このような真面目さがない。とりわけ、今回のイナダの参拝はひどい。
総理や閣僚の靖國神社公式参拝について、その合違憲判断の基準に関する最高裁判決はまだない。高裁レベルでは、1991年1月10日の岩手靖国違憲訴訟控訴審判決が詳細な検討の結果、違憲と断じている。長大な判決理由の、結論部分だけを引用する。
靖國神社の宗教性
「靖国神社は明らかに宗教法人法における宗教団体であり、また、憲法上の宗教団体である。そして、神社は神祇(神霊あるいは祭神)を奉祀し、祭典を執行して、公衆の参拝に供するものである。また、祭神は神社の主体、根本をなす中心的要素であって、祭神に対する拝礼は、神の存在を認め、神に対する畏敬崇拝の念を表す行為であるというべきである。靖国神社の祭神は、多数にのぼること前記のとおりであるが、それは、靖国神社が戦時事変の殉難戦死者を祭神としているからであって、そのことによって、靖国神社の宗教団体性が他の神社と区別されるいわれはない」
参拝行為の宗教性
「参拝の宗教的意義ないし宗教性について考えてみるに、神社参拝という行為は、祭神を奉斎した神社に赴いて、祭神に対して拝礼することを意味する行為であるから、まさに、宗教的行為そのものというべきである。」
私的参拝は自由だが、公的参拝は許されない
「参拝は、祭神に対する拝礼であるから、もともと参拝者の内心に属する宗教的行為というべきであり、したがって、それが私的なものとして行われる限り、何人もこれに容喙することは許されないが、右参拝が公的資格において行われる場合には、右参拝によって招来されるであろう国家社会への波及的効果を考慮しなければならないから、憲法20条3項の規定する宗教的活動の該当性が吟味されるべきものと考える。」
追悼又は慰霊を目的とする公式参拝も許されない
「追悼又は慰霊を目的とする公式参拝は非宗教的行為といえるかどうかについて検討することとする。内閣総理大臣等が公的資格において参拝することは、その主観的意図ないし目的が戦没者に対する追悼(それ自体は非宗教的なものとして世俗的なものと評価されよう。)であっても、これを客観的に観察するならば、右追悼の面とともに、特定の宗教法人である靖国神社の祭神に対する拝礼という面をも有していると考えざるをえない。(略)公式参拝については、その主観的意図が追悼の目的であっても、参拝のもつ宗教性を排除ないし希薄化するものということはできないといわざるをえない。」
結論
「天皇、内閣総理大臣の靖国神社公式参拝は、その目的が宗教的意義をもち、その行為の態様からみて国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり、しかも、公的資格においてなされる右公式参拝がもたらす直接的、顕在的な影響及び将来予想される間接的、潜在的な動向を総合考慮すれば、右公式参拝における国と宗教法人靖国神社との宗教上のかかわり合いは、我が国の憲法の拠って立つ政教分離原則に照らし、相当とされる限度を超えるものと断定せざるをえない。したがって、右公式参拝は、憲法20条3項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為といわなければならない。」
イナダは、謙虚に、心してこの判決を熟読せねばならない。この判決は、天皇と内閣総理大臣の公式参拝について触れているが、閣僚についてもまったく同様である。以下のとおりに読み替えができるのだ。
「防衛大臣の靖国神社公式参拝は、その目的が宗教的意義をもち、その行為の態様からみて国の機関として、特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり、しかも、公的資格においてなされる右公式参拝がもたらす直接的、顕在的な影響及び将来予想される間接的、潜在的な動向を総合考慮すれば、右公式参拝における国と宗教法人靖国神社との宗教上のかかわり合いは、我が国の憲法の拠って立つ政教分離原則に照らし、相当とされる限度を超えるものと断定せざるをえない。したがって、イナダ防衛大臣の防衛大臣として肩書を付した靖國神社参拝は、憲法20条3項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為といわなければならない。」
(2016年12月29日)
パールハーバーでのアベ晋三の、なんとも面妖な17分間の演説。朝、ラジオで聞いていて、神経に障った。不愉快極まりない。
なるほど、詐欺師と総理大臣とは、平気で嘘をつかねば務まらない。「アンダーコントロールでブロック」のときも呆れたが、今度は戦争と平和についての問題として、さらに深刻だ。
演説の内容は、3つの部分からなる印象。
(1) どうでもよい、情緒的で無内容なつまらぬ部分。
(2) それ自体間違ってはいないが、「そんな演説をする資格があるのか」と突っ込まねばならない部分。
(3) そして、本音の問題発言部分。
(1) 「耳を澄ますと、寄せては返す、波の音が聞こえてきます。降り注ぐ陽の、やわらかな光に照らされた、青い、静かな入江。」「耳を澄まして心を研ぎ澄ますと、風と、波の音とともに、兵士たちの声が聞こえてきます。」「あの日、爆撃が戦艦アリゾナを二つに切り裂いたとき、紅蓮の炎の中で、死んでいった…」
誰が書いた文章なのかは知らないが、こんな浮わついた駄文の朗読を聞かされる身にもなって見よ。耳が痒くなる。尻が落ち着かない。それが、「日本国民を代表して」と繰り返されての発言なのだから、目から火が出るほどに恥ずかしい。日本とは、この程度の首相しか出せない国なのだ。
それはともかく、驚いたのは次のくだりだ。
(2) 戦争の惨禍は、二度と、繰り返してはならない。私たちは、そう誓いました。そして戦後、自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました。戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は、静かな誇りを感じながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。この場で、戦艦アリゾナに眠る兵士たちに、アメリカ国民の皆さまに、世界の人々に、固い、その決意を、日本国総理大臣として、表明いたします。
「日本国総理大臣として」の部分を除けば、このように演説のできる人、このような演説を口にして違和感のない人物は、保守革新の立場を問わず、日本に少なからずいる。しかし、そのような人は、アベ政権とその周囲にはいない。「不戦の誓いを貫いてまいりました」と言える人は、例外なくアベ晋三の批判者である。政敵であるといってもよい。
「戦争の惨禍は、二度と、繰り返してはならない」とは日本国憲法の根幹の理念である。一貫して憲法を敵視し、とりわけ九条改憲に執着してきたアベの口から出れば、デマゴギーである。あるいはマヌーバーなのだ。教育基本法を改悪し、特定秘密保護法や戦争法の制定を強行し、日本を戦争のできる国にしたばかりか、非核三原則や武器輸出三原則をないがしろにして、防衛予算だけを聖域化してきたアベではないか。どの口からどの舌をもって「平和国家としての歩みに静かな誇りを感じ、この不動の方針をこれからも貫いてまいります」などと言えるのか。
(3) さらに、「勇者は、勇者を敬う」の引用が愚かしくも危険極まりない。アベは、奇襲した側の皇軍の兵士も、奇襲を受けたアメリカ軍の兵士も、ともに「勇者」として称えているのだ。靖国の思想に通底する。戦争を徹底して愚かなものと見ないのだ。それぞれの祖国のために勇敢に闘った勇者と勇者。そのように美化する戦没兵士観。これは同盟国同士の戦意高揚演説ではないか。
最大の問題点は、平和を語っていたのが、いつの間にか日米の同盟の賛美を語りはじめる点だ。この演説の本音はここにある。同盟(alliance)とは、軍事に関わる用語ではないか。共通の仮想敵国を想定しての軍事同盟(military alliance)を意味しているのだ。そのような理解で読めば、文意が明瞭になる。
「歴史に残る激しい戦争を戦った日本と米国は、歴史にまれな、深く、強く結ばれた(軍事的)同盟国となりました。」「それは、いままでにもまして、世界を覆う幾多の(共通の仮想敵国がもたらす)困難に、ともに立ち向かう(軍事)同盟です。明日を拓く、『(軍事的勝利という)希望の同盟』です。」というもの。
こんな軍事同盟はやめて、どこの国とも積極的に友好関係を結ぶべきではないか。そうすれば、特定国との軍事同盟の必要は無くなる。そのような姿勢こそ、「不戦の誓いを貫く」ものとして、誇るに足りるものではないか。
ところで、この演説の中に何度も出て来る「日本国民」とは、はたして沖縄県民を含んでいるのだろうか。いや、沖縄県民に共感してアベ政権を批判する多くの全土の国民を含んでいるのだろうか。アベ政権は、「不戦の誓いを貫く」とは正反対の行動として、沖縄に新軍事基地を建設しようと狂奔している。アベのパールハーバー行の最中に、名護市辺野古大浦湾埋め立て承認の「取り消し処分」が取り消され、日米軍事同盟を強化して、戦争のための基地建設工事が再開された。
こうしてアベ政権と沖縄県民との基地建設の工事をめぐる攻防も再開された。到底、ここに「自由で民主的な国」の姿はない。「法の支配を重んじ、ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました」とは、ぬけぬけとよくも言ったもの。「平和国家としての歩みに静かな誇りを感じ」る事態とはほど遠い。
翁長知事は今後も、あらゆる手段で辺野古新基地建設を阻止する考えに変わりないことを強調している。地元の理解や協力なくして、防衛も安全保障もあり得ない。
これを見れば、米軍とアベ政権のパールハーバーでの共同セレモニーは、結局のところ、国民を無視しての支配層同士・軍部同士の、日米軍事同盟強化のパフォーマンスだったと言うべきではないか。
(2016年12月28日)
ワタクシ、おなじみのアベです。いま、パールハーバーを訪問しています。
「右翼の軍国主義者と呼びたいのなら、そう呼んでいただきたい」と大見得を切ったこともあるワタクシです。歴史修正主義グループの頭目と批判され続けてきたワタクシでもあります。何ゆえ、今頃、パールハーバーへ。いったい何をしに来たのか、と不審に思われるのももっともでゴザイマス。これには深いわけがあるのでゴザイマスが、なかなか自分でも上手にお話しできません。アチラを立てればコチラが立たずなのでゴザイマス。その辺はお察しください。
ワタクシの歴史認識においては、中国との戦争は五族協和の大東亜を作るための聖戦であり、アメリカとの戦争は自存自衛のやむを得ざる防衛戦争だったのでゴザイマスから、パールハーバーが卑怯なだまし討ちだったとしても、その犠牲者に謝罪の必要は認めません。ワタクシは、東条内閣の商工大臣だったお祖父さまの教えのとおり、東京裁判史観全面否定を貫く覚悟なのです。靖国派と言われる人々からのご支援あればこその今のワタクシであることをよく心得て、飽くまでも靖國神社参拝にこだわらざるを得ないこともご承知のとおり。そのワタクシが、よりにもよって、なぜパールハーバーなのか。
「真珠湾の前に、まず南京だろう」「柳条湖ではないか」「平頂山にせよ」「いやタプコル公園にこそ行くべきだ」。いろいろ、ご意見のあるところでゴザイマショウ。いろんな疑問や議論の全部にお答えすることは到底できません。たまたま、日米の著名な歴史学者ら53人が、12月25日付でワタクシの歴史認識を問いただす「公開質問状」を発表しています。質問は、かなり意地の悪い3点。これにお答えすることで責めを塞ぐことといたします。
公開質問状質問事項(1)
あなたは、1994年末に、日本の侵略戦争を反省する国会決議に対抗する目的で結成された「終戦五十周年議員連盟」の事務局長代理を務めていました。その結成趣意書には、日本の200万余の戦没者が「日本の自存自衛とアジアの平和」のために命を捧げたとあります。この連盟の1995年4月13日の運動方針では、終戦50周年を記念する国会決議に謝罪や不戦の誓いを入れることを拒否しています。1995年6月8日の声明では、与党の決議案が「侵略的行為」や「植民地支配」を認めていることから賛成できないと表明しています。安倍首相、あなたは今でもこの戦争についてこのような認識をお持ちですか。
これはまた、政治家に思想・信条をお訪ねになろうという野暮なご質問。普段は、大嫌いな日本国憲法ですが、こういう場合には19条をしっかりと援用させていただきましょう。
「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」とは、内面の思想や良心の表白を強要されない権利と考えられています。ワタクシの歴史認識を問い質そうということが憲法違反の野暮というものなのです。
ワタクシは政治家ですから、自分の思想や信条のままに動くことはありません。状況次第で、右ともいい、左とも言うのです。第1次アベ内閣の時代には、ワタクシは未熟だった。ワタクシの歴史認識や信条を前面に出すことに性急で、結局失敗したわけでゴザイマス。で、今は当時と比べれば老成し柔軟になっていることはお認めいただけるものと自負しております。政治家などというものは、結局は国民次第。ワタクシが、皇国が反省すべき「侵略的行為」や「植民地支配」を行ったと認めるわけはありませんが、今そのようなことを口にして支持率を落とすがごとき愚をおかすこともいたしません。
仮にワタクシが侵略戦争や植民地支配の誤りを認めて謝罪したとしましょう。たちまちワタクシは、強固な支持層である右翼・国家主義者たちの離反によって、今の地位を危うくします。もし、ワタクシがその反対に、反省も謝罪も不必要と明言すれば、国民の過半を占めるリベラル層からの厳しい指弾を受けざるを得ません。
結局のところは、「謝罪」「反省」「責任」などの言葉を禁句とし、「未来指向の和解による平和の構築」とか、「両国の戦没者を慰霊し、その尊い犠牲を無にすることなきよう不戦を誓う」くらいの無難なことをいうしかないのです。
繰り返しますが、ワタクシの本心などは問題ではありません。飽くまで、ワタクシが何を言うか、何を言えるかだけが問題であって、それはひとえに国民の意識にかかっているのです。
質問事項(2)
2013年4月23日の国会答弁では、首相として「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と答弁しています。ということは、あなたは、連合国およびアジア太平洋諸国に対する戦争と、すでに続行していた対中戦争を侵略戦争とは認めないということでしょうか。
前問の回答とも関連しますが、この問にイエスかノーのどちらかで答える愚は避けたいと思います。風姿花伝の世阿弥の言葉を引用しましょう。「秘すれば花」ではありませんか。まさしく、「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」なのです。この分け目を知ることが、政治の要諦なのです。
同行のイナダ防衛大臣は、ワタクシに劣らぬ靖國神社参拝推進派として知られていましたが、秘することなく露骨に靖國神社参拝強行を説いていたばかりに、野党議員から「閣僚になった途端に信条を曲げて靖国参拝を見送るのは言行不一致」と追及されて泣きべそをかいたことは皆さまご存じのとおりです。ですから、勢いに任せて勇ましいことは言わぬが花なのです。
なお、この質問は、過去の戦争を侵略と認めて反省することなしには、将来の平和の構築はないというドグマを前提とするものの如くです。しかし、はたして「過去に目をつむるものは現在に盲目」でしょうか。過去は不問に付して、将来を見つめることだって、できないはずはない。それがワタクシの信念です。今回のパールハーバー行も、それでよいのだという事前の確認があつたからこそ実現したことを申しあげておきます。
このくらいで、十分なお答えになっていると思います。あとはどのように忖度していただいても結構です。
質問事項(3)
あなたは、真珠湾攻撃で亡くなった約2400人の米国人の「慰霊」のために訪問するということです。それなら、中国や、朝鮮半島、他のアジア太平洋諸国、他の連合国における数千万にも上る戦争被害者の「慰霊」にも行く予定はありますか。
これも、ワタクシではなく、主権者である国民が決めることです。ワタクシの身体は私のものであって私のものではない。国民の意思が、明確に望むことであれば、そのようにしたいと思いますが、いま、必ずしもそのような判断には躊躇せざるを得ません。国民は、何よりも日本人戦没者の英霊に尊崇の誠を捧げることを望んでいると思います。
靖國神社が軍人軍属の死者だけを祀るものとなって、民間の戦争犠牲者には何の儀礼もなく、死者の遺族にも補償もないことが著しい差別と批判されますが、これも国民が選択してきたことではありませんか。
今回の「慰霊行」が、アメリカだから国民に違和感がないという側面は否定し得ないと思います。なにしろ、ヘイトスピーチの横行を許している国民ではありませんか。中国や韓国・北朝鮮の戦争被害者の「慰霊行」を国民感情が許すかどうか。ワタクシには見極めがつきかねます。
要は、正しいか否かではなく、国民の支持を取り付けられるかどうかだけが、メルクマールなのです。それがナニカ?
なお、53氏の質問状の最後はこう締めくくられています。
首相としてあなたは、憲法9条を再解釈あるいは改定して自衛隊に海外のどこでも戦争ができるようにすることを推進してきました。これがアジア太平洋戦争において日本に被害を受けた国々にどのような合図として映るのか、考えてみてください。
考えてみましたよ。その結論は、「日本による被害を受けた国々の国民」よりは、日本国民の感情を優先しなければならないということでゴザイマス。「アジアへの侵略を認めて謝罪をする」ことは、ワタクシの拠って立つ政治基盤を自ら掘り崩すこと。到底できることではありません。これだけは明確に申しあげておきます。だいたい、アメリカに頭を下げるのは昔から慣れていることでもありますしね。えっ? それがナニカ?
(2016年12月27日)
本日(12月22日)、沖縄県名護市の万国津梁館で、日米両政府が主催する米軍北部訓練場の返還式・祝賀会が行われた。この返還面積(4010ヘクタール)は、1972年に沖縄が本土復帰して以降最大規模のもの。日本側からは菅義偉官房長官やイナダ防衛大臣らが、米国側からはケネディ駐日米大使やマルティネス在日米軍司令官らが出席した。
もちろん、沖縄県知事も県議会議長も出席していない。名護市長もだ。知事はこの式典には出ずに、同じ名護市で行われたオスプレイ不時着事故の抗議集会に参加した。ここで、オスプレイ配備撤回だけでなく、普天間基地の早期返還と辺野古基地建設反対を4200人の聴衆に熱く語りかけた。
翁長知事が、返還式と祝賀会に「出席見合わせ」を発表したのは12月12日夜のこと。欠席の理由は、訓練場内のヘリパッド建設の強引で拙速な進め方と、宜野座村城原区で県などの抗議にもかかわらずオスプレイつり下げ訓練が継続されていることなどにあった。「高江周辺でもこのようなことが起こり得ることが容易に予想され、県としては到底容認できない。北部訓練場の返還には私のみならず、多くの県民が理不尽な思いを抱いている」と述べている。オスプレイの墜落事故は、その翌日、12月13日のことである。
県議会議長の欠席決定は、オスプレイ墜落事故のあとのこと。自民党議員団だけが出席を主張し、各会派で意見がまとまらないため議長が欠席を判断したとのこと。
この返還の記念式典には在沖米軍トップのニコルソン四軍調整官が出席している。オスプレイの墜落事故について、「沖縄県民は住民への事故を回避したパイロットに感謝すべきだ」と発言して、物議を醸した人物。当日のスピーチは伝えられていないが、忌憚なくしゃべらせたらどんなことを言ったか。興味津々。たとえば、以下のようなものだったろう。
「この返還は、沖縄の住民にとって、とても重要なもので、沖縄の状況を改善して負担を軽減するものだ。
基地が、住民にとっていかに危険で、不安のタネとなっているかはよく知っている。もちろん騒音もひどい。とりわけオスプレイの騒音が耐えがたいのは分かりきったこと。私の家族には、基地の側には絶対に住まわせたくはない。
だから、このたびの広大な訓練場の返還に対しては、沖縄の住民は『沖縄の負担軽減』としてアメリカに感謝すべきではないか。にもかかわらず、知事は式典出席を拒否して、抗議集会に出席だとのことではないか。せっかく返してやったのに、ありがとうとも言えないのか。無礼きわまる態度ではないか」
「もっとも、大きな声では言えないが、本当のところこの返還は私たち在沖米軍にとっては、痛くも痒くもない。問題は基地の面積ではなく、基地機能の強弱にある。その点、今回の『返還』は明らかに基地機能の強化をもたらすものとして我々にとっても、ハッピーなのだ。なにしろ、『北部訓練最大で51%の使用不可能な土地を返還し、新たな施設を設け、土地の最大限の活用が可能になった』のだから。実のところ、お祝いは、米軍にとってのものなのだ」
「北部訓練場の半分の引き換えに我々は、新たな着陸帯6カ所の提供を受けた。MV22オスプレイの使用は、その6カ所の合計で年間2520回が見込まれている。また、東村高江周辺の新設ヘリパッドは、宇嘉川の河口部に設けた訓練区域と連動する形で、海からの上陸作戦や人員救助などの訓練を実施できるようになる。世界唯一のジャングル戦闘訓練施設として重用されてきた北部訓練場に、新たな上陸作戦訓練機能が加わるのだ」
「これまで、北部訓練場内では既設22カ所と2015年に米側に引き渡したN4の新設2カ所を合わせ24カ所のヘリパッドがあった。このうち、今回の返還に伴って閉鎖されるのが7カ所。新たに、N1(2カ所)とG、Hの計4カ所を新たに提供することで、ヘリパッドは21カ所になる。その21カ所の内の15カ所でオスプレイを運用。年間の使用回数は計5110回に上る。高江集落6カ所のヘリパッドの発着数2520回は確かに多いが、訓練の実施は必要不可欠なものだ。もちろん、あらゆる必要な訓練が予定されている。オスプレイの低空飛行ルートも設定され、地上15?60メートルの地形追従飛行を年25回実施する」
「だからまあ、翁長知事が祝賀式典を欠席して、抗議集会に出席する気持もわからなくもない」
菅官房長官はこう語った。
「今回の返還は沖縄の本土復帰後、最大規模のもので、アメリカ軍専用施設のおよそ2割が減少し、沖縄の基地負担軽減に大きく資するものだ。ヘリコプター発着場の移設で地元には引き続き負担をかけることになるが、両村から強い要請があった、返還後の財政措置や地域振興策は確実に実施することを約束する」
以上の発言は、「私は地元に対し、カネの問題についての約束はできるがそれ以上はできない。オスプレイの騒音の軽減もできないし、墜落の不安への対処もできない。」との含意と理解すべきなのだ。また、「もうすぐ、佐賀にも木更津にも、そして横田の上空にもオスプレイが飛ぶことになる。その場合も同様に、『騒音の軽減もできないし、墜落の不安への対処もできない』」と言っているのだ。
翁長知事は、オスプレイ墜落後わずか6日での飛行全面再開のときに、「言語道断」に続けて「政府はもう相手にできない」との姿勢を明らかにした。本日、知事の姿が返還祝賀式になく、抗議集会にあったことが、「沖縄県民は、日本政府を相手にせず」の姿勢を印象づけた。
米軍とアベ政権とは、オール沖縄との全面対決を強いられている。仮想敵国との戦争準備の前に、沖縄県民との闘いを余儀なくされているのだ。周囲を「敵」なる住民に包囲されて、基地が機能できるはずはない。防衛や安全保障政策の実行ができるはずもなかろう。
(2016年12月22日)
オスプレイ飛んだ
名護まで飛んだ
名護まで飛んで
浅瀬に墜ちた
オスプレイ墜ちた
やっぱり墜ちた
撃たれもせぬに
こわれて無惨
オスプレイ墜ちた
墜ちてもけろり
風、風、吹くな
日本中飛ばそ
日本を震撼させたオスプレイの墜落が12月13日の夜9時半。現地の不安と恐怖が癒える間もなく、本日(19日)在沖米軍はオスプレイの飛行を全面的に再開した。防衛大臣や官房長官は「防衛省・自衛隊の知見、専門的見地などから、合理性があるということだ」と言い、地元沖縄知事は「事前の説明がないまま一方的に飛行再開を強行した日米両政府の姿勢は、信頼関係を大きく損ねるもので、到底容認できない」(沖縄タイムス)と述べている。米軍と日本政府が、緊密なタッグを組んでの沖縄県民いじめの図ではないか。
この上なく頼りないだけでなく邪悪なイナダよ。おまえはどこの国の防衛大臣なのだ。米軍の言い分鵜呑みがおまえの仕事なのか。アベ政権よ、日本の主権はどこに行ったのか。県民感情は踏みにじっても、米軍へのおもねりが大事だということか。
翁長知事の最初の言葉が「言語道断だ」であった。この事態にまことにふさわしいが、痛切な響きをもつ。次いで、「そういう(オスプレイ飛行是認の)政府はもう相手にできない。法治国家ではない」と言っている。知事の会見では、「日本政府は県民に寄り添うと繰り返しながら、米側の考えを優先して再開を容認した」「県民不在で、日米安保に貢献する県民を一顧だにしていない。強い憤りを感じる」「あらゆる機会を通じてオスプレイの配備撤回と飛行停止を求める」と厳しい。
名護の稲嶺市長も、記者団に「言語道断」と言っている。
「まだ十分な検証ができていない中、政府が、飛行再開について『わかりました』というのが理解できない。沖縄県民の生命と財産を軽んじている。言語道断だ」
イナダは15日午後に、上京した翁長知事と防衛省で会っている。知事が「不安が現実のものとなり大きな衝撃を受けている。配備に強く反対してきたオスプレイが、このような事故を起こしたことに怒りを禁じ得ず、直ちに飛行中止と配備撤回を強く要請し、強く抗議する」と述べ、イナダは、「在日アメリカ軍の司令官と電話会談し、沖縄県や国民が安全性に重大な関心を寄せているオスプレイの事故は非常に遺憾だと伝え、政府や国民に透明性を持った情報開示をしてほしいと申し入れている」「住民の住んでいる近くで起きたことなので、防衛省としてもしっかり情報収集や公表を行い、安全確認や理解を頂くことが前提だと思っている」応じている。
その舌の根も乾かぬ内の、オスプレイ飛行再開是認の発言であり、自らが県民をしっかり説得しようとまで言っている。開いた口が塞がらない。よくもまあ、恥知らずなことを言えるものと、呆れるほかはない。
翁長知事の反論が厳しい。「安全を確認するのならば、しっかりと中身を含めて具体的に説明するべきで、『アメリカから丁寧な説明があり、日本政府が検証した結果理解した』という報告ではとても納得がいかない。これだけ安全保障を沖縄が背負っているのに、県民に説明しない形で物事にふたをするのはありえない」
この沖縄の怒りのなか、明日(20日)に辺野古訴訟最高裁判決が言い渡される。
(2016年12月19日)
親分<自民・駄右衛門>
問われて名乗るもおこがましいが
その名もゆかしき「自由」と「民主」
企業と強者の「自由」を唱い
選挙で勝っての「民主」主義。
水清ければ魚棲まず
汚濁のこの世を立ち回り
利権を漁って肥え太り
危ねえ橋も乗り越えて
人の定めは五十年
もはや六十の坂を越え
六十余州に隠れのねえ
悪名とどろく
賊徒の総元締め 自民駄右衛門。
出自をたどれば玉石の
戦後の保守の寄せ集め
次第に戦犯はば利かせ
官僚これに追随し
改憲目指して六十年
いまだ悲願はならないが
せめてバクチは解禁し
賊徒の大義を顕わさん?。
一の子分<公明・下駄小僧雪之助>
知らざあ言って聞かせやしょう
話せば長いことながら
我が身は法蓮華経の申し子で
王仏冥合実現のお努め励んで人となり
政教分離に敵対の
憲法違反と叩かれて
忍ぶ姿も傷ましく
あまたの言論妨害の
悪名背負った幾星霜。
ついには、世論の糾弾を
自民駄右衛門に助けられ
以後は親分には逆らえぬ
哀れなこの身となりはてぬ。
子分に加えていただいて、
「どこまでもついて行きます」と
おかしら忠義の下駄の雪。
かつては「平和」の「福祉」のと
理想を語ったこともある。
今じゃ、かしらの言いなりで
「右と言われれば、まさか左とは言えない」ていたらく
与党の蜜を吸い続け
ズッポリはまった悪の道
いまさらに足抜けできない身の辛さ。
バクチ解禁法案は
賛成すれば、義賊の化粧がはげ落ちて
反対すれば、かしらの怒りを忍びかね
アチラを立てればこちらが立たぬ
ここが思案のしどころで、
両方の顔を立てての自主投票。
小細工あたらず、もしや両者の機嫌を損ねたか。
あっち見こっち見、優柔不断、二股膏薬の
下駄小僧雪之助?。
二の子分<維新・ポピュ太郎>
さてどん尻に控えしは
政界三悪党の新参で
庶民泣かせの法案を
自民に加担で押し通す
その名も「維新・ポピュ太郎」
以前を言やあ大阪で
八百八橋を股にかけ
薄汚い人の心根に付け込んで
闇のホンネを引き出した
弱者イジメの政治が大ウケで
地方政治を乗っ取った
あのおもしろみを忘られず
今度は国をねらっての
重ね重ねの大ばくち。
自民は風除け必要で
公明抱き込む戦略で
自公政権の悪だくみ。
オレから見りゃあ、生温い。
自民を右から引っ張って
自民の悲願の改憲を
オレの力で助けると
ここは恩のウリどころ。
大阪万博夢洲での賭博開帳のそのときは
大金儲けるバラ色の夢をばらまいて
がっぽりゼニを巻きあげる
あとは野となれ山となれ
恥を知らない
ワイが維新・ポピュ太郎だ?。
〈議会の三悪党〉
我等三人団結し、切磋琢磨でがんばれば
庶民の願いを蹂躙し、
なんでも実現できそうだ。
年金カットにTPP
賭博の解禁だけでなく
労働法制締めつけて
元気に原発再稼働
産軍学の共同も
海外派兵や武器輸出
沖縄新基地押し進め
悲願の憲法改悪も
けっして夢ではなくなった。
韓国見てればたいへんだ。
民衆決起は恐ろしい。
幸い日本の民衆は
欺され方がお上手だ。
さあ、今日も悪政に精出すぞ。
ぼくらは「悪・党」三人組。
(2016年12月14日)
アベ・シンゾーでございます。何をやっても国民の怒りが政権批判に向かない、この不思議な国の内閣ソーリ大臣で、ご存じのとおり立法府のチョーでもございます。賭博解禁法案について、ワタクシの忌憚のないところをご披露申しあげます。最後まで、ご静聴ください。
議員立法として提出されております「特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律案」でございますが、提案者諸君は「IR法案」と言っておるようでございます。しかし、ご指摘のとおり、この法案眼目は賭博の解禁にあるわけでございます。ですから、正確に申しあげれば「賭博解禁法案」、あるいはもっと端的に「賭場開帳御免法案」「バクチ法案」というべきでありましょう。
これを「カジノ法案」だとか、「IR法案」というのは、呼び方をマイルドにして実態をごまかそうという姑息なやり方。これは、不必要に国民世論の反発を恐れた、政治家として恥ずべき愚かな姿勢と言わねばなりません。お隣の韓国とは、我が国は国柄が違うのです。天皇陛下を戴くこの国は、どんな法案が出てきても、どんな強行採決をしようとも、「政府が右といえばまさか左とは言えない」ということでことが収まる「美しい国」ではありませんか。この国民性を徹底して信頼して真実を述べるべきが当然ではありませんか。
はっきりと申しあげます。アベ政権は、維新とともに、賭博解禁の法律制定を行おうとしています。で、それがナニカ?? 文句があったら、次の選挙でアベ政権を倒せばよろしいのではございませんか。
ご存じのとおり、賭博は犯罪です。刑法185条は単純賭博罪を定め、「賭博をした者は、50万円以下の罰金又は科料に処する」とし、同186条は、常習賭博と賭博場開張等図利の罪を定めて、「常習として賭博をした者は、3年以下の懲役に処する。」「賭博場を開張し、又は博徒を結合して利益を図った者は、3月以上5年以下の懲役に処する」と定めています。
しかし、こんな法律は日本国憲法よりも古い、時代遅れの法律というべきではありませんか。時代が変わり、人々の生活環境が変わり、経済環境が変われば法律の改正や廃止は当然のことではありませんか。
いま、アベ政権は、愚かな賭博禁止に、合理的な風穴を開けようというのです。「IR法案」などと呼称しようという卑屈な姿勢はとりません。堂々と、数の力で審議も省略して強行突破させていただこうというのです。国民の皆さまから、いただいた議席を有効に活用しようというのです。それがナニカ?
このバクチ解禁法案につきましては、我が党の議員にも後ろめたさが感じられまして、「外国人観光客の集客を見込んでいる」とか、「ビジネスや会議だけではなく、家族でそうした施設を楽しむことができる施設」とか言っていますが、誰が聞いてもみっともない態度。わざわざ法案を作るのは「バクチ」を解禁するからであって、「入場者の大半は国民を、しかも地元民」を見込んでいます。それがナニカ?
皆さん、今国民が望んでいる政治の役割とはなんでしょうか。言うまでもなく、働く場を作り、雇用を創出することではないでしょうか。いま、アベ政権は雇用を作り、税収を増やしています。でも、まだ十分とは言えません。その目玉が、賭博なのです。
賭博にこそ大きな投資があるわけで、それこそが雇用の創出にもつながっていくのです。今回のこの賭博解禁法案こそが様々な投資を起こし、大きな雇用を作っていくということになるのです。だから、採決を強行しても、この法律の成立が必要なのです。それがナニカ?
何よりも経済振興が大切です。投資と雇用の創出。そのためには、徹底した規制の緩和、いや規制の撤廃で、儲けのために自由に事業ができるようにしなければなりません。
まずは賭博禁止の規制の緩和ですが、もちろんこれだけに終わらせてはなりません。いろんな規制に切り込んでいかなくてはなりません。
大阪の橋下徹さんは、「米兵に風俗の活用でも検討したらどうだ、と言ってやった。まあこれは言い過ぎたとして発言撤回したけど、やっぱり撤回しない方がよかったかも。きれいごとばかり言わず本気で解決策を考えろ!」などと発言していました。卓見だと思います。
今、管理売春は犯罪(十年以下の懲役及び三十万円以下の罰金)ですがこの規制も緩和ないし撤廃して売春を公認すれば、一大産業になります。大きな投資を呼び込み、雇用の創出と税収の増加を見込むことができます。アベ政権は、維新とともに真剣に検討課題といたします。えっ、それがナニカ?
事業成功の要諦は、みんなが望むことを的確に把握し、その要望に応えた商品やサービスを提供することににあります。ですから、政治を預かる者にとっての経済活性化の要諦は、国民が望む商品やサービスの提供を可能とするよう規制を緩和し撤廃することにほかなりません。そのような観点から、アベ内閣は、まず賭博を、次いで売春を、そしてその次には大麻を、麻薬を、覚せい剤の販売許容を検討します。日本が麻薬・覚せい剤を公認すれば、世界中からカネと人が集まります。投資が増え、雇用が飛躍的に増大すること間違いなし。銃砲刀剣類所持等取締法を抜本的に見直して、全国民が自由に銃や刀剣類を購入できるようにすることも経済政策として魅力満点です。「投資と雇用創出のため」と呪文を唱えれば、日本国民は抵抗しませんよ。それから、サラ金復活政策もありますね。これも大きな投資と雇用の創出。多重債務者の激増は、司法書士や弁護士業界の雇用創出にもつながります。
そして、言うまでもなく究極の投資は軍事費であり、最大の雇用創出は軍隊です。ワタクシ・シンゾーが、投資を呼び込み雇用を創出するために、まず手はじめに賭博解禁法案を強行しようとしていることについての深謀遠慮をよくご理解いただきたいと願う次第です。えっ、それがナニカ?
(2016年12月10日)
12月8日。再びの戦争を起こさない決意を確認すべき日。そのためには、戦争に至る歴史を振り返って、戦争の原因を再確認しなければならない。いま、あの大戦の前と同様の危険な動きはないだろうか。悪夢の歴史を繰り返す徴候はないだろうか。そのことに鋭敏でありたいと思う。
あからさまに「戦後レジームからの脱却」を語り、「戦後の歴史から『日本』という国を日本国民の手に取り戻す」と広言する「トンデモ首相」が君臨する今の世である。立憲主義も人権も平和も国民主権もなげ捨てようという憲法改正草案を掲げる政党が政権与党となっているこの時代。平和の危うさは、誰の目にも明らかではないか。
政権は憲法を壊すことに血道を上げ、自衛隊という名の実力組織は次第に攻撃用の武器を装備し、海外での武力活動に道を開きつつある。学校は日の丸・君が代を強制し、大学では軍学共同が大手を振るう。NHKは「政府が右と言えば左とは言えない」体質を露わにし、政権は停波の脅しまでしてメディアを統制する。しかも、権力への忖度と自己規制の空気が瀰漫している。新聞・雑誌・出版界には排外的な右翼論調があふれ、巷にはヘイトデモが闊歩する。インターネットには醜悪なネトウヨ族が棲息して歴史の捏造に喝采を送る。あの活気に満ちた戦後民主主義は、いつからこんなふうにねじ曲がってしまったのだろうか。
しかし、まだ言論の自由はなくなっていない。軍国主義の本格的な復活にも至っていない。それぞれの分野で民主主義や平和を守るために努力を重ねている少なからぬ人々の献身によって、今の平和はようやくにして保たれている。この人々の力量に期待し自信をもちたいと思う。
ところで、日本国憲法は、戦争の惨禍をもたらしたものを抉りとってこれと訣別した。軍隊、軍国主義、国家主義、滅私奉公、経済の集中、政治弾圧、軍機保護、家父長制、男女差別、民族差別、国民間にも貴賤の差別、人権の軽視…。その中で最も重大なものが、旧天皇制である。それは、国民に大きくのしかかった政治権力であり権威でもあった。民主主義の敵対物であり、人権の抑圧者であり、しかも天皇制こそが平和の障害であった。
天皇制が戦争をもたらした大きな要因であっただけでなく、昭和天皇個人が戦争に直接の責任を有していた。太平洋戦争の開戦に重大な責任があり、終戦を遅らせて戦禍を拡大させたことにも大きな責任を負っている。12月8日には天皇の開戦の責任を、8月15日には終戦遅滞の責任を問い返さねばならない。
この問題意識に、最も明瞭に回答を出しているのが、「天皇の戦争責任」(井上清・現代評論社、後に岩波)である。その「第?章 天皇裕仁が対英米開戦を決定した」において、天皇(裕仁)がいかに積極的に深く開戦に関与していたかが活写されている。紹介したいのは、その章の末尾にある次の指摘。「宣戦の詔書は国際法を無視」という小見出しの叙述である。戦争の違法を天皇が認識していたことを明らかにしている。
「12月8日、日本海軍は、政府の対米最後通牒が先方にとどく前に、真珠湾を奇襲攻撃して対米英戦の火ぶたを切った。海軍の対米不意打ちが、国際法違反とか、日本の侵略性の証拠とか、いってさわがれる。だが私は、これはたいした問題ではないと思う。アメリカがわが上手に日本を挑発して先に発砲させただけのことである。
真珠湾奇襲とは質的にちがう、日本の国際法違反は、12月8日未明、日本が軍隊をタイ国の同意なしに同国領に進駐させ、同国南部を占領して、そこからマレー半島に南下していったことである。またそれとは別に、日本は8日正午にはタイ国政府を軍事的に脅迫して、日本軍のタイ国通過を認めさせたが、これほど明白な公然たる侵略がまたとあろうか。タイ国はこれまでどんな小さな対日挑発もしなかったし、日本の敵国と同盟してもいなかった。そのタイ国に日本は不意打ちをかけ、さらに12月21日には日泰軍事同盟を強制した。天皇と軍部は、本章の前節でのべたように大義名分をすて、国際法をもふみにじり、奇襲の成功を選んだ。」
「天皇裕仁は開戦の日、日本国民に「米英両国に対する宣戦の詔書」を発した。裕仁はこの詔書で、「朕が陸海軍将兵」、「朕が百僚有司」、「朕が衆庶」がそれぞれの持場で全力をつくし戦争目的を達成せよと、全国民に号令した。この詔書こそ、日本国民にこの戦争は日本の自存自衛のためにやむをえない戦争であると信じさせ、国民を戦争にかりたてた最大の原動力であった。
この詔書は、これまでに明治天皇と大正天皇が発したすべての対外宣戦の詔書とくらべて、きわだった相違がある。以前の詔書は必ず「国際法に俘らざる限り」(日清戦争)、「凡そ国際条規の範囲に於て」(日露戦争、日独戦争のさいも同文言)、いっさいの手段をつくして勝利をかちとれというが、裕仁天皇の宣戦の詔書には、そのような限定が一字もない。裕仁は詔勅に何を書くかはとくに慎重に配慮したことは前にものべた(第?章第三節)。その慎重な裕仁が、この詔書で日本の軍隊・国民の戦争行為を従来のすべての宣戦詔書とはちがって、国際法のゆるす範囲内に限定しなかったのは、意味深いことである。天皇も政府も国際法をふみにじって宣戦以前に奇襲攻撃をかけることを予定していたのだから、「国際法に俘らざる限り」とか「凡そ国際条規の範囲に於て」とか、詔書に書きこむことはできなかったのである。」
なお、井上清は、その書全体の末尾に、「天皇の戦争責任を問う現代的意味」という項を設けて次のように結んでいる。
「天皇は輔弼機関のいうがままに動くので責任は輔弼機関にあり、天皇にはないという論法に、何の根拠もない。
東条首相はそのひんぴんたる内奏癖によって、天皇の意向をいちいち確かめながら、それを実現するように努力したのであって、天皇をつんぼさじきに置いて、勝手に戦争にふみ切り、天皇にいやいやながら裁可させたのではない。」
「占領軍の極東国際軍事法廷は、天皇裕仁の責任をすこしも問わなかった。それはアメリカ政府の政治的方針によることであったとはいえ、われわれ日本人民がその当時無力であったためでもある。降伏決定はもっぱら日本の支配層の最上層部のみによって、人民には極秘のうちに、『国体』すなわち天皇制護持のためにのみ行なわれた。人民は降伏決定に何ら積極的な役割を果すことがなかった。そして降伏後も人民の大多数はなお天皇制護持の呪文にしばりつづけられた。日本人民は天皇の戦争責任を問う大運動をおこすことはできなかった。
アメリカ帝国主義は、天皇の責任を追及するのではなく、反対に天皇をアメリカの日本支配の道具に利用する道を選んだ。しかも現代日本の支配層は、自由民主党の憲法改定案の方向が示すように、天皇を、やがては日本国の元首とし、法制上にも日本軍国主義の最高指揮者として明確にしようとしている。」
「この状況のもとで、1931?45年の戦争における天皇裕仁の責任を明白にすることは、たんなる過去のせんぎだてではなく、現在の軍国主義再起に反対するたたかいの、思想的文化的な戦線でのもっとも重要なことである、といわざるをえない。」
立憲主義を破壊したアベ政権下、天皇責任論タブー視の言論状況の中で、井上清が1975年に発した警告を一層深刻に受け止めなければならない。天皇制とは、国民主権・民主主義の対立概念である。主権者国民の自立意識と民主主義の成熟が、国際協調と平和に親和的である。天皇制と天皇の責任を歴史の中に確認することが、再び権力や権威に操られない自立した国民の自覚を形成する上で必要不可欠だと思う。
アベ首相のパールハーバー参りは「謝罪抜き」だということである。戦争の原因や責任を語ることもないのだろう。自然災害による死者に対しては、「慰霊」で十分であろう。しかし、天皇と東条内閣がたくらんだ不意打ちの奇襲による戦死者に、謝罪抜きの「慰霊」で向き合うことがはたして可能であろうか。安倍晋三は、東条内閣の商工大臣であった岸信介の孫でもある。どうしても責任はまとわりついて離れない。戦没者は、戦争の悲惨とその原因を重く問いかける。戦争を反省しようとしない安倍晋三は、はたしてパールハーバーで亡くなった米軍の兵士たちに届く言葉を発することができるだろうか。
(2016年12月8日)
読売と言えば、正力松太郎以来戦後の保守陣営を支えてきた政権御用達メディアと言って差し支えなかろう。政治的な対決テーマでは、常に政権の側に立って保守与党の側を支持し、野党を批判し続けてきた。いち早く、「読売新聞社・憲法改正試案」を発表して改憲世論をリードしてきた改憲勢力の一角でもある。
その読売の12月2日朝刊社説が話題を呼んでいる。「カジノ法案審議 人の不幸を踏み台にするのか」というタイトル。話題を呼んでいる理由は、政権与党の応援団であるはずの読売が、議員立法とはいえ、明らかに政権と与党が推進する法案に、鋭く反対論を展開したからだ。おざなりの反対論ではない。ボルテージの高い反対論として立派な内容となっている。しかも、本文中では、法案の名称を「IR法案」とも「カジノ法案」ともいわず、「カジノ解禁法案」と明示していることにも注目せざるを得ない。
カジノの合法化は、多くの重大な副作用が指摘されている。十分な審議もせずに採決するのは、国会の責任放棄だ。
自民党や日本維新の会が今国会で法案を成立させるため、2日の委員会採決を求めていることには驚かされる。審議入りからわずか2日であり、公明、民進両党は慎重な審議を主張している。
この社説の掲載は、12月2日朝のこと。総務委員会の「審議入り即審議打切り採決強行」がささやかれる中で、「もし、そんなことをしたら、国会の責任放棄だ」と警告を発したのだ。自・維は、この読売の警告を無視して、その日の内に「国会の責任放棄」をやってのけたのだ。
読売は、審議入りしたばかりでの、問題点に目をつぶった採決強行だけを問題にしたのではない。読売社説は次のように法案の問題点を指摘している。
自民党は、観光や地域経済の振興といったカジノ解禁の効用を強調している。しかし、海外でも、カジノが一時的なブームに終わったり、周辺の商業が衰退したりするなど、地域振興策としては失敗した例が少なくない。
そもそもカジノは、賭博客の負け分が収益の柱となる。ギャンブルにはまった人や外国人観光客らの“散財”に期待し、他人の不幸や不運を踏み台にするような成長戦略は極めて不健全である。
さらに問題なのは、自民党などがカジノの様々な「負の側面」に目をつぶり、その具体的な対策を政府に丸投げしていることだ。
公明党は国会審議で、様々な問題点を列挙した。ギャンブル依存症の増加や、マネーロンダリング(資金洗浄)の恐れ、暴力団の関与、地域の風俗環境・治安の悪化、青少年への悪影響などだ。いずれも深刻な課題であり、多角的な検討が求められよう。
だが、法案は、日本人の入場制限などについて「必要な措置を講ずる」と記述しているだけだ。提案者の自民党議員も、依存症問題について「総合的に対策を講じるべきだ」と答弁するにとどめた。あまりに安易な対応である。
カジノは、競馬など公営ギャンブルより賭け金が高額になりがちとされる。客が借金を負って犯罪に走り、家族が崩壊するといった悲惨な例も生もう。こうした社会的コストは軽視できない。
与野党がカジノの弊害について正面から議論すれば、法案を慎重に審議せざるを得ないだろう。
さらに、本日(12月5日)の読売は、「カジノ解禁に『反対』57%…読売新聞世論調査」(2?4日の全国世論調査)という記事を掲載している。この記事は「自民党は、カジノなどの統合型リゾート(IR)を推進するための法案(カジノ解禁法案)について、6日に衆院を通過させる考えだが、国民の間では依然として慎重論が多い」とまとめられている。読売はカジノ解禁法案反対の姿勢を崩していないのだ。
読売のこの姿勢は、「カジノ解禁強行は、政権に対するレッドカードとなりうる」という保守の側かららの深刻な警告と見るべきではないか。読売にしてなお、政権のこの傲慢なやり口を看過し得ないのだ。このままでは、「驕れるアベも久しからず。ただ春の夜の夢のごとし」に終わるという危機感の反映がこの社説というべきだ。野党にも、市民運動の言い分にも、そして保守メディアの警告にも耳を貸さないこの政権。読売は、このままでは危ういと見ているのだ。
カジノ解禁に関して、各紙の社説の中で舌鋒の鋭さで目を惹くのが本日(12月5日)の琉球新報である。<社説>「カジノ解禁法案 国民不在の成立認めない」という標題。
唐突かつどさくさ紛れに、国民生活に悪影響を与えかねない重要法案を数の力で成立させるのか。
刑法が禁じる賭博にほかならないカジノを地域振興などに活用することを狙う、統合型リゾート施設(IR)整備促進法案(カジノ解禁法案)がわずか2日間の審議で衆院内閣委員会を通過した。
自民党と日本維新の会などの賛成多数で可決された。参考人質疑や公聴会は一切ない。国民不在そのものである。
年金制度改革法案や環太平洋連携協定(TPP)関連法案の成立をにらみ国会会期を延長したはずなのに、安倍政権と自民党が先に強行突破を図ったのはカジノ法案だった。詐欺的行為にさえ映る。
数の力に頼った強引な国会運営は1強のおごりである。自民党は国会を「言論の府」と標榜することをやめた方がいい。慎重姿勢を貫いていた公明党は自主投票にした。腰砕けではないか。法案成立は断じて認められない。(以下略)
この社説の指摘を深刻に受けとめざるを得ない。まさしく、議会制民主主義の形骸化の事態が進行しているのだ。私たちの国の民主主義はどこに行ったのか。いったいどこの国と価値観を同じくしようというのだ。
(2016年12月5日)