2013年4月1日から毎日連続更新を続けてきた当ブログは、本日で丸3年となった。この間、36か月。1096日(365日+365日+366日)である。1日1記事を書き続けて、本日が連続1096回目、明日のブログから4年目にはいる。
「三日坊主」という揶揄の言葉はあるが、「三年坊主」とは言わない。むしろ、「石の上にも三年」というではないか。その三年間の途切れない継続にいささかの達成感がある。とはいうものの、このブログを書き始めた動機からは甚だ不満足な現下の政治状況と言わざるを得ない。
今次のブログ連載は2013年1月1日から書き始めた。正確には、日民協ホームページの一隅を借りて以前にも連載していた「憲法日記」の再開であった。第2次安倍政権の発足に危機感を持ったことがきっかけ。安倍流の改憲策動に抵抗する一石を投じたいとのことが動機である。案の定、この政権は「壊憲」に余念なく、危険きわまりない。しかも、日本全体の右傾化によって発足したこの政権は、この3年余で、保守陣営全体を極右化しつつある。
当ブログ再開当時「当たり障りのあることを書く」と宣言しての気負いから、直ぐさま間借り生活の窮屈を感じることとなった。そのため、自前のブログを開設して引っ越し、連続記録のカウントを始めたのがその年の4月1日。以来、あちこちに問題を起こしつつの「憲法日記」の連続更新である。
安倍内閣がまだ続いていることに焦慮の思いは強いが、他方この間のブログの威力とさらなる可能性を実感してもいる。「保育園落ちた。日本死ね」の1本のブログが、政治を動かしている現実を目の当たりにしたばかりでもある。以前、当ブログでは「ブロガー団結宣言」を掲載したが、あらためて、その修正版として「リベラル・ブロガー団結宣言」を再掲載したい。
「すべてのリベラル・ブロガーは、事実に関する情報の発信ならびに各自の思想・信条・意見・論評・パロディの表明に関して、権力や社会的圧力によって制約されることのない、憲法に由来する表現の自由を有する。
リベラル・ブロガーは、市井の個人の名誉やプラバシーには最善の配慮を惜しまない。しかし、権力や経済的強者あるいは社会的権威に対する批判においていささかも躊躇することはない。政治的・経済的な強者、社会的な地位を有する者、文化的に権威あるとされている者は、リベラル・ブロガーからの批判を甘受しなければならない。
無数のリベラル・ブロガーの表現の自由が完全に実現するそのときにこそ、民主主義革命は成就する。万国のリベラル・ブロガー万歳。万国のリベラル・ブロガー団結せよ。」
現代的な言論の自由を語るとき、ブロガーの表現の自由を避けては通れない。憲法21条は、「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。日本国憲法に限らず、いかなる近代憲法も、その人権カタログの中心に「表現の自由」が位置を占めている。「表現の自由」の如何が、その社会の人権と民主主義の到達度を示している。文明度のバロメータと言っても過言でない。
しかし、人がその思想を表明するための表現手段は、けっして万人のものではない。この表現手段所有の偏在が、個人の表現の自由を空論としている現実がある。「言論、出版その他一切の表現の自由」における、新聞や出版あるいは放送を典型とする言論の自由の具体的な担い手はマスメディアである。企業であり法人なのだ。基本的人権の主体は本来個人であるはずだが、こと表現の自由に限っては、事実上国民は表現の受け手としての地位にとどめられている。メディアの自由の反射的利益というべき「知る権利」を持つとされるにすぎない。
そもそも、本来の表現の自由は個人のものであったはず。その個人には、せいぜいがメディアを選択する自由の保障がある程度。いや、NHKの受信にいたっては、受信料支払いを強制されてなお、政権御用のアベチャンネルを押しつけられるありさまではないか。
その事情を大きく変革する可能性がネットの世界に開けている。IT技術の革新により、ブログやSNSというツールの入手が万人に可能となって、ようやく主権者一人ひとりが、個人として実質的に表現の自由の主体となろうとしている。憲法21条を真に個人の人権と構想することが可能となってきた。まことにブログこそは貧者の武器というにふさわしい。個人の手で毎日数千通のビラを作ることは困難だ。これを発送すること、街頭でビラ撒きすることなどは不可能というべきだろう。ブログだから意見を言える。多数の人に情報を伝えることが可能となる。ブログこそは、経済力のない国民に表現の自由の主体性を獲得せしめる貴重なツールである。ブログあればこそ、個人が大組織と対等の言論戦が可能となる。弱者の泣き寝入りを防止し、事実と倫理と論理における正当性に、適切な社会的評価を獲得せしめる。ブログ万歳である。
この「個人が権利主体となった表現の自由」を、今はまだまだ小さな存在ではあるが大きな可能性を秘めたものとして大切にしたい。反憲法的ネトウヨ言論の氾濫や、匿名に隠れたヘイトスピーチの跋扈の舞台とせず、豊穣なリベラル言論の交換の場としたい。この新しいツールに支えられた表現の自由を手放してはならない。
ところが、この貴重な表現手段を不愉快として、芽のうちに摘もうという動きがある。その典型例がDHCスラップ訴訟である。経済的な強者が、自己への批判のブログに目を光らせて、批判のリベラル・ブロガーを狙って、高額損害賠償請求の濫訴を提起している現実がある。もちろん、被告として標的にされた者以外に対しても萎縮効果が計算されている。
だから、全国のリベラル・ブロガーに呼び掛けたい。他人事と見過ごさないで、リベラル・ブロガーの表現の自由を確立するために、あなたのブログでも、呼応して声を上げていただきたい。さらに、全ての表現者に訴えたい。表現の自由の敵対者であるDHCと吉田嘉明に手痛い反撃が必要であることを。スラップ訴訟は、明日には、あなたの身にも起こりうるのだから。
(2016年3月31日・「憲法日記」連続3年更新の日に)
「季刊フラタニティ(友愛)」(発行ロゴス)の宣伝チラシの惹句を起案した。6人が分担して、私の字数は170字。最終的には、下記のものとなった。
経済活動の「自由」が資本主義の本質的要請。しかし、自由な競争は必然的に不平等を生み出す。「平等」は、格差や貧困を修正して資本主義的自由の補完物として作用する。「フラタニティ」は違う。資本主義的な競争原理そのものに対抗する理念ととらえるべきではないか。搾取や収奪を規制する原理ともなり得る。いま、そのような旗が必要なのだと思う。
いかにも舌足らずの170字。もう少し、敷衍しておきたい。
典型的な市民革命を経たフランス社会の理念が、『リベルテ、エガリテ、フラテルニテ』であり、これを三色旗の各色がシンボライズしていると教えられた。日本語訳としては、「自由・平等・博愛」と馴染んできたが、今「フラテルニテ」は、博愛より友愛と訳すのが正確と言われているようだ。この雑誌の題名「フラタニティ」は、その英語である。
「自由・平等」ではなく、「友愛」をもって誌名とした理由については、各自それぞれの思いがある。市民革命後の理念とすれば、「民主」も「平和」も「福祉」も、「共和」も「共産」も「協働」もあるだろう。「共生」や「立憲主義」や「ユマニテ」だってあるだろう。が、敢えて「フラタニティ(友愛)」なのである。
自由と平等との関係をどう考えるべきか、実はなかなかに難しい。「フラタニティ」の内実と、自由・平等との関係となればさらに難解。されど、「フラタニティ」が漠然たるものにせよ共通の理解があって、魅力ある言葉になっていることは間違いのないところ。
「フラタニティ」は、この社会の根底にある人と人との矛盾や背離の関係の対語としてある。競争ではなく協同を、排斥ではなく共生の関係を願う人間性の基底にあるものではないか。多くの人が忘れ去り、今や追憶と憧憬のかなたに押しやられたもの。
市民革命とは、ブルジョワの革命として、所有権の絶対と経済活動の自由を最も神聖な理念とした。市民革命をなし遂げた社会の「自由」とは、何よりも経済活動の「自由」である。その後一貫して、経済活動の「自由」は資本主義社会の本質的要請となった。経済活動の自由とは、競争の自由にほかならず、競争は勝者と敗者を分け、必然的に不平等を生み出した。そもそも持てる者と持たざる者の不平等なくして資本主義は成立し得ない。
したがって、資本主義社会とは、不平等を必然化する社会である。本来的に自由を重んじて、不平等を容認する社会と言ってもよい。スローガンとしての「平等」は、機会の平等に過ぎず、結果としての平等を意味しない。しかし、自由競争の結果がもたらす格差や貧困を修正して、社会の矛盾が暴発に至らないように宥和する資本主義の補完物として作用する。一方、「フラタニティ」は、資本主義的自由がもたらした結果としての矛盾に対応するものではなく、資本主義的な競争原理そのものに対抗する理念ととらえるべきではないだろうか。
人が人を搾取する関係、人が人と競争して優勝劣敗が生じる関係、そのような矛盾に対するアンチテーゼとしての、人間関係の基本原理と考えるべきではないだろうか。いま、貧困や格差が拡がる時代に、貧困・格差を生み出す「自由」に対抗する理念となる「旗」が必要なのだと思う。
なお、「博愛」か「友愛」か。
「愛」は、グループの内と外とを分けて成立する。外との対抗関係が強ければ強いほど、内なる「愛」もボルテージの高いものとなる。社会的には許されぬふたりの仲ほどに強い愛はない。家族愛も、郷土愛も、民族愛も、愛国心も、排外主義と裏腹である。外に向けた敵愾心の強さと内向きの愛とは、常に釣り合っている。
「友愛」は、「仲間と認めた者の間の愛情」というニュアンスが感じられる。最も広範な対象に対する人類愛は「博愛」というに相応しい。もっとも、「博愛」には慈善的な施しのイメージがつきまとう一面がある。ならば「友愛」でもよいか。訳語に面倒がつきまとうから、「フラタニティ」でよいだろう。
(2016年3月30日)
本日、天気晴朗なれども、空気が重い。
2016年3月29日零時。戦争法が施行となった。その第一日目の今日、昨日とは違う日本である。これまでは、「専守防衛の立場からの個別的自衛権発動は例外としても」、戦争を政策の選択肢に入れてはならないとする日本であった。今日からは、政権による「存立危機事態」の判断さえあれば、世界中のどこででも戦争を行うことができることになったのだ。駆けつけ警護も、他国軍への武器運搬等の支援もできることになった。日本に敵対をしていない第三国への開戦は、当然のことながら、当該国からの反撃を覚悟の上でのことになる。その場合、日本国内のどこもが標的目標となる。
この戦争法は明らかに平和憲法に違反している。しかし、最高裁がこれを違憲と判断しうるだろうか。心もとないといわざるを得ない。よもや合憲と宣言することはありえないが、敢えて判断を避けることになる公算が高い。もっともらしい理由を付けながらも責任を放棄して判断を回避する、結局は逃げるのだ。
できることなら、違憲の法律を国民の意思の表明として廃止したい。国会は唯一の立法機関だが、「立法」とは、法律の制定だけでなく、改正も廃止も含むことになる。国民世論が選挙結果に結実して、「戦争法違憲派」が国会の過半数を制すれば、戦争法の廃止が可能となる。来たるべき参院選をそのような選挙にしなければならないと思う。
その戦争法施行第一日目に、文京区革新懇が中心となって企画した浜矩子講演会があった。演題が、「グローバル時代の救世主、それが日本国憲法」というもの。
冒頭に、日本国憲法前文の「諸国民との協和による成果を確保し」というフレーズを引用して、「これこそ、21世紀のグローバル時代を見通した」名言であって、今や「誰もが世界とつながり、だれもがひとりでは生きてゆけない時代となっている」ことが強調された。
安倍首相が唱える「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」のスローガンは、「大日本帝国」時代への復古にほかならない。当時の経済政策は強兵のための富国であり、植民地侵略の経済戦略としての大東亜共栄圏構想であって、グローバル時代のものではあり得ない。
昨年4月、安倍首相は笹川平和財団アメリカ支部での講演で「アベノミクスと私の外交政策は表裏一体」と語っている。経済政策の目的を外交安全保障と一体と位置づけることの危険は国際的に確認されていること。本来の経済政策の目的とは、経済の均衡が破綻したときの回復と、経済的弱者救済の二つに限定されなければならない。経済の均衡破綻とは、極端なデフレとハイパーインフレを典型とし、これによって傷つくのはまさしく弱者だ。アベノミクスは、弱者の救済ではなく、「富国強兵」を目的とするものなのだ。
今回、新3本の矢で、GDP2割増の600兆円にするというのも、国防費を増やすことが目的。TPPも防衛戦略が目的とされている。アメリカ議会での安倍演説では「その経済効果には、戦略的価値がある」と言っている。これは、TPPではなく、TYP(とっても、やばいパートナーシップ)と呼ぶべきだろう。
強調されたことは、「アベノミクスを政権維持のための民心収攬手段」と考えるのは大きな間違いで、「危険な富国強兵策そのもの」ととらえなければならない、ということ。
経済の講演を期待したものの、むしろ憲法の話しとなった。印象的だったのは、やや年齢層の高い聴衆の真剣さである。戦争法施行第一日目にふさわしい講演会となった。
(2016年3月29日)
私も、依頼あれば学習会の講師を務める。テーマは、スラップ・「日の丸君が代」・政教分離・消費者・医療・教育、そして改憲問題。最近改憲問題は、ほとんどが緊急事態条項についてのもの。今年になってから緊急事態条項をテーマの講師活動は6回となった。そのレジメを掲載しておきたい。参考になるところもあろうかと思う。
訴えの骨格は、次の諸点。
☆今、安倍政権は、解釈改憲を不満足として明文改憲をたくらんでいる。
☆その突破口が「緊急事態条項」とされている。
☆しかし、緊急事態条項は必要ない。
☆いや、緊急事態条項(=国家緊急権条項)はきわめて危険だ。
☆現行憲法に緊急事態条項がないのは欠陥ではない。
憲法制定者は緊急事態条項を危険なものとして意識的に取り除いたのだ。
☆意識的に取り除いたのは、戦前の旧憲法下の教訓から。
☆それだけでなく、ナチスがワイマール憲法を崩壊させた歴史の教訓からだ。
☆緊急事態条項(=国家緊急権条項)は、
整然たる憲法秩序をたった一枚でぶちこわすジョーカーなのだ。
レジメ《緊急事態条項は、かくも危険だ》
本報告(レジメ)の構成 同じことを3回繰り返す。骨格→肉付→化粧
第1章 骨格編 ビラの見出しに、マイクでの呼びかけに。
第2章 肉付編 確信をもって改憲派と切り結ぶために。
第3章 資料編 資料を使いこなして説得力を
第1章 スローガン編
いま、緊急事態条項が明文改憲の突破口にされようとしている。
しかし、緊急事態条項は不要だ。「緊急事態条項が必要」はデマだ。
緊急事態条項は不要と言うだけではない。危険この上ない。
緊急事態条項の導入を「お試し改憲」などと軽視してはならない。
自民党改憲草案9章(98条・99条)が安倍改憲の緊急事態条項。
98条が緊急事態宣告の要件。99条が緊急事態宣告の効果。
緊急事態条項は、立憲主義を突き崩す。人権・民主々義・平和を壊す。
緊急事態とは、何よりも「戦時」のことである。⇒戦時の法制を想定している。
「内乱等社会秩序の維持」の治安対策である。⇒大衆運動弾圧を想定している。
緊急事態においては、内閣が国会を乗っ取る。政令が法律の役割を果たす。
⇒議会制民主主義が失われる。独裁への道を開く。
緊急事態条項は、国家緊急権を明文化したもの。
国家緊急権は、それ一枚で整然たる憲法秩序を切り崩すジョーカーだ。
国家緊急権は、天皇主権の明治憲法には充実していた。
その典型が天皇の戒厳大権であり、緊急勅令(⇒行政戒厳)であった。
ナチスも、国家緊急権を最大限に活用した。
ヒトラー内閣はワイマール憲法48条で共産党を弾圧して議会を制圧し、
制圧した議会で、悪名高い授権法(全権委任法)を成立させた。
授権法は、国会から立法権を剥奪し、独裁を完成させた。
最も恐るべきは、緊急事態条項が憲法を停止し、
緊急時の一時的「例外」状況が後戻りできなくなることだ。
第2章 肉付編
1 憲法状況・政権が目指すもの
☆解釈改憲(閣議決定による集団的自衛権行使容認から戦争法成立へ)だけでは、
政権は満足し得ない。
彼らにとって、戦争法は必ずしも軍事大国化に十分な立法ではない。
⇒現行憲法の制約が桎梏となっている。⇒明文改憲が必要だ。
☆第二次アベ政権の明文改憲路線は、概ね以下のとおり。
96条改憲論⇒立ち消え(解釈改憲に専念)⇒復活・緊急事態条項から
改憲手続(国民投票)法の整備⇒完了 各院に憲法審議会
そして最近は9条2項にも言及するようになってきている。
2 なぜ、緊急事態条項が明文改憲の突破口とされているのか。
☆東日本大震災のインパクトを利用
「憲法に緊急事態条項がないから適切な対応が出来なかった」
☆「緊急事態への定めないのは現行憲法の欠陥だ」
仮に、衆院が構成がないときに「緊急事態」が生じたら、
☆政権側の緊急事態必要の宣伝は、「衆院解散時に緊急事態発生した場合の不備」 に尽きる。「解散権の制限」や「任期の延長」規程がないのは欠陥という論法。
しかし、現行憲法54条2項但し書き(参議院の緊急集会)の手当で十分。
☆それでも「お試し改憲」(自・公・民・大維の賛意が期待できる)としての意味。
☆あわよくば、人権制約制限条項を入れたい。
3 政権のホンネ
☆国家緊急権(規程)は、支配層にとって喉から手の出るほど欲しいもの
大江志乃夫著「戒厳令」(岩波新書)の前書に次の趣旨が。
「緊急事態法制は1枚のジョーカーに似ている。他の52枚のカードが形づく る整然たる秩序をこの一枚がぶちこわす」
☆自由とは権力からの自由と言うこと。人権尊重理念の敵が、強い権力である。
人権を擁護するために、権力を規制してその強大化を抑制するのが立憲主義。
立憲主義を崩壊せしめて強大な権力を作るための恰好の武器が国家緊急権。
☆戦時・自然災害・その他の際に、憲法の例外体系を形づくって
立憲主義を崩壊させようというもの。
4 天皇制日本とナチスドイツの国家緊急権
☆明治憲法には、戒厳大権・非常大権・緊急勅令・緊急財政処分権限などの
国家緊急権制度が手厚く明文化されていた。
☆最も民主的で進歩的なワイマール憲法に、大統領の緊急権限条項があった。
ナチス政権以前に、この条項は250回も濫発されていた。
☆ナチス政権は、この緊急事態法を活用して共産党の81議席を奪い、
授権法(全権委任法)を制定して国会を死滅させた。
☆その反省から、日本国憲法は、国家緊急権(条項)の一切を排除した。
戦争放棄⇒戦時の憲法体系を想定する必要がない。
徹底した人権保障システム⇒例外をおくことで壊さない
5 自民党改憲草案「第9章 緊急事態」の危険性
☆旧天皇制政府の戒厳・非常大権規程が欲しい⇔「戦後レジームからの脱却」
ナチスの授権法があったらいいな⇔「ナチスの経験に学びたい」
しかも、緊急事態に出動して治安の維持にあたるのは「国防軍」である。
☆自民党改憲草案による「緊急事態」条項は
濫用なくても、「戦争する国家」「強力な権力」「治安維持法体制」をもたらす。
しかも、濫用の歯止めなく、その危険は立憲主義崩壊につながる。
☆草案では、内閣が国会を乗っ取り、政令が法律の代わりを務める。
内閣が、人身の自由、表現の自由を制約する政令を発することができる。
予算措置もできることになる。
6 まずは、徹底した「緊急事態条項必要ない」の訴えと
次いで、「旧憲法時代やナチスドイツの経験から、きわめて危険」の主張を
第3章 資料編
☆日本国憲法54条2項
「衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。」
☆自民党改憲草案(2012年4月27日)「第9章 緊急事態」
98条 緊急事態の宣言
1項 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる
99条 緊急事態宣言の効果
1項 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
3項 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。
☆自民党「Q&A」(99条3項関連)
現行の国民保護法において、こうした憲法上の根拠がないために、国民への要請は全て協力を求めるという形でしか規定できなかったことを踏まえ、法律の定める場合には、国民に対して指示できることとするとともに、それに対する国民の遵守義務を定めたものです。
☆民主党「憲法提言」(民主党憲法調査会 2005 年10 月31 日)
違憲審査機能の強化及び憲法秩序維持機能の拡充
国家非常事態における首相(内閣総理大臣)の解散権の制限など、憲法秩序の下で政府の行動が制約されるよう、国家緊急権を憲法上明示しておくことも、重ねて議論を要する。
国家緊急権を憲法上に明示し、非常事態においても、国民主権や基本的人権の尊重などが侵されることなく、その憲法秩序が確保されるよう、その仕組みを明確にしておく。
☆公明党憲法調査会による論点整理(公明党憲法調査会、2004 年6 月16 日)
「ミサイル防衛、国際テロなどの緊急事態についての対処規定がないことから、あらたに盛り込むべしとの指摘がある。ただ、あえて必要はないとの意見もある。」
☆大日本帝国憲法の国家緊急権規程
第14条(戒厳大権)
1項 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
2項 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
第8条(緊急勅令)
1項 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
第31条(非常大権)
本章(第2章 臣民権利義務)ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ
第70条(緊急財政処分)
1項 公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ需用アル場合ニ於テ内外ノ情形ニ因リ政府ハ帝国議会ヲ召集スルコト能ハサルトキハ勅令ニ依リ財政上必要ノ処分ヲ為スコトヲ得
☆戒厳令(明治15年太政官布告第36号)
第一条 戒厳令ハ戦時若クハ事変ニ際シ兵備ヲ以テ全国若クハ一地方ヲ警戒スルノ法トス
第二条 戒厳ハ臨戦地境ト合囲地境トノ二種ニ分ツ
第三条 戒厳ハ時機ニ応シ其要ス可キ地境ヲ区画シテ之ヲ布告ス
第十四条 戒厳地境内於テハ司令官左ニ記列ノ諸件ヲ執行スルノ権ヲ有ス
但其執行ヨリ生スル損害ハ要償スルコトヲ得ス
第一 集会若クハ新聞雑誌広告等ノ時勢ニ妨害アリト認ムル者ヲ停止スルコト
第二 軍需ニ供ス可キ民有ノ諸物品ヲ調査シ又ハ時機ニ依リ其輸出ヲ禁止スルコト
第三 銃砲弾薬兵器火具其他危険ニ渉ル諸物品ヲ所有スル者アル時ハ
之ヲ検査シ時機ニ依リ押収スルコト
第四 郵便電報ヲ開緘シ出入ノ船舶及ヒ諸物品ヲ検査シ並ニ陸海通路ヲ停止スルコト
第五 戦状ニ依リ止ムヲ得サル場合ニ於テハ人民ノ動産不動産ヲ破壊燬焼スルコト
第六 合囲地境内ニ於テハ昼夜ノ別ナク
人民ノ家屋建造物船舶中ニ立入リ検察スルコト
第七 合囲地境内ニ寄宿スル者アル時ハ時機ニ依リ其地ヲ退去セシムルコト
☆1923年9月3日 関東戒厳令司令官通知
(同司令部は、9月2日緊急勅令による「行政戒厳」によって設置されたもの)
一 警視総監及関係地方長官並ニ警察官ノ施行スベキ諸勤務。
1 時勢ニ妨害アリト認ムル集会若ハ新聞紙雑誌広告ノ停止。
2 兵器弾薬等其ノ他危険ニ亙ル諸物晶ノ検査押収。
3 出入ノ船舶及諸物晶ノ検査押収。
4 各要所ニ検問所ヲ設ケ
通行人ノ時勢ニ妨害アリト認ムルモノノ出入禁止又ハ時機ニ依り水陸ノ通路停止。
5 昼夜ノ別ナク人民ノ家屋建造物、船舶中ニ立入検察。
6 本命施行地域内ニ寄宿スル者ニ対シ時機ニ依リ地境外退去。
二 関係郵便局長及電信局長ハ時勢二妨害アリト認ムル郵便電信ヲ開緘ス。
☆ワイマール憲法 第48条2項
ドイツ国内において、公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはそのおそれがあるときは、大統領は、公共の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることができ、必要な場合には、武装兵力を用いて介入することができる。
この目的のために、大統領は一時的に第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の自由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、および第153条(所有権の保障)に定められている基本権の全部または一部を停止することができる。
☆ナチスドイツの授権法(全権委任法)全5条
正式名称 「民族および国家の危難を除去するための法律」1933年3月23日成立
1.ドイツ国の法律は、ドイツ政府によっても制定されうる。
2.ドイツ政府によって制定された法律は、憲法に違反することができる。
3.ドイツ政府によって定められた法律は、首相によって作成され、官報を通じて公布される。特殊な規定がない限り、公布の翌日からその効力を有する。
4.ドイツ国と外国との条約も、本法の有効期間においては、立法に関わる諸機関の合意を必要としない。政府はこうした条約の履行に必要な法律を発布する。
5.本法は公布の日を以て発効する。本法は1937年4月1日までの時限立法である。
☆日本国憲法制定時の、対GHQ「3月2日」案
明治憲法下の緊急命令及び緊急財政措置に代わるものとして、76 条において、「衆議院ノ解散其ノ他ノ事由ニ因リ国会ヲ召集スルコト能ハザル場合ニ於テ公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ必要アルトキハ、内閣ハ事後ニ於テ国会ノ協賛ヲ得ルコトヲ条件トシ法律又ハ予算ニ代ルベキ閣令ヲ制定スルコトヲ得」と規定されていた。GHQ側は、国家緊急権に関する英米法的な理解を根拠に、「非常時の際には、内閣のエマージェンシー・パワー(emergency power)によって処理すべき」としてこれを否定したが、その後の協議の結果、日本側の提案に基づき、参議院の緊急集会の制度が採り入れられることになった。(衆議院憲法審査会「緊急事態」に関する資料)
☆制憲国会(第90帝国議会)における政府(担当大臣金森徳次郎)答弁
「緊急勅令及ビ財政上ノ緊急処分ハ、行政当局者ニ取リマシテハ実ニ調法ナモノデアリマス、併シナガラ調法ト云フ裏面ニ於キマシテハ、国民ノ意思ヲ或ル期間有力ニ無視シ得ル制度デアルト云フコトガ言ヘルノデアリマス、ダカラ便利ヲ尊ブカ或ハ民主政治ノ根本ノ原則ヲ尊重スルカ、斯ウ云フ分レ目ニナルノデアリマス、ソコデ若シ国家ノ仲展ノ上ニ実際上差支ヘガナイト云フ見極メガ付クナラバ、斯クノ如キ財政上ノ緊急措置或ハ緊急勅令トカ云フモノハ、ナイコトガ望マシイト思フノデアリマス」
「民主政治ヲ徹底サセテ国民ノ権利ヲ十分擁護致シマス為ニハ、左様ナ場合ノ政府一存ニ於テ行ヒマスル処置ハ、極力之ヲ防止シナケレバナラヌノデアリマス言葉ヲ非常ト云フコトニ藉リテ、其ノ大イナル途ヲ残シテ置キマスナラ、ドンナニ精緻ナル憲法ヲ定メマシテモ、口実ヲ其処ニ入レテ又破壊セラレル虞絶無トハ断言シ難イト思ヒマス、随テ此ノ憲法ハ左様ナ非常ナル特例ヲ以テ――謂ハバ行政権ノ自由判断ノ余地ヲ出来ルダケ少クスルヤウニ考ヘタ訳デアリマス、随テ特殊ノ必要ガ起リマスレバ、臨時議会ヲ召集シテ之ニ応ズル処置ヲスル、又衆議院ガ解散後デアツテ処置ノ出来ナイ時ハ、参議院ノ緊急集会ヲ促シテ暫定ノ処置ヲスル、…コトガ適当デアラウト思フ訳デアリマス」
☆法律による「緊急事態」への対処について(『改憲の何が問題なのか』(岩波、2013年)所収の水島朝穂「緊急事態条項」)水島さんのブログ「直言」から
「日本の場合、憲法に緊急事態条項はないが、法律レヴェルには「緊急事態」という文言が随所に存在することである。例えば、「警察緊急事態」(警察法71条)、「災害緊急事態」(災害対策基本法105条)、「重大緊急事態」(安全保障会議設置法2条9号)である。これに「防衛事態」(自衛隊法76条)、「武力攻撃事態」(武力攻撃事態法2条)、「治安出動事態」(自衛隊法78、81条)が加わる。憲法9条の観点から合憲性に疑義のあるものもあるが、ここでは立ち入らない。」
☆東北弁連会長声明
災害対策を理由とする国家緊急権の創設に反対する会長声明
現在、与党自民党において、東日本大震災時の災害対応が十分にできなかったことなどを理由として、日本国憲法に「国家緊急権」の新設を含む改正を行うことが議論されている。
国家緊急権とは、戦争や内乱、大災害などの非常事態において、国民の基本的人権などの憲法秩序を一時停止して、権限を国に集中させる制度を言う。この制度ができると国は強大な権限を掌握することができるのに対し、国民は強い人権制約を強いられることになる。災害対応の名目の下に、国家緊急権が創設されることは、非常に危険なことと言わざるを得ない。
そもそも、日本国憲法の重要な原理として、権力分立と基本的人権の保障が定められたのは、国家に権力が集中することによって濫用されることを防ぎ、自由・財産・身体の安全など、国民にとって重要な権利を守るためである。大日本帝国憲法(以下「旧憲法」という)時代には国民の人権が不当に侵害され、戦争につながった経験に鑑みて、日本国憲法はかかる原理を採用している。また、旧憲法には国家緊急権の規定があったが、それが濫用された反省を踏まえて、日本国憲法には国家緊急権の規定はあえて設けていない。
確かに、東日本大震災では行政による初動対応の遅れが指摘された事例が少なくない。しかし、その原因は行政による事前の防災計画策定、避難などの訓練、法制度への理解といった「備え」の不十分さにあるとされている。例えば、震災直後に被災者に食料などの物資が届かなかったこと、医療が十分に行き渡らなかったことなどは、既存の法制度で対応可能だったはずなのに、避難所の運営の仕組みや関係機関相互の連絡調整などについての事前の準備が不足していたことに原因があるのである。東京電力福島第一原子力発電所事故に適切な対処ができなかったのも、いわゆる「安全神話」の下、大規模な事故が発生することをそもそも想定してこなかったという事故対策の怠りによるものである。つまり、災害対策においては「準備していないことはできない」のが大原則であり、これは被災者自身が身にしみて感じているところである。
そもそも、日本の災害法制は既に法律で十分に整備されている。例えば、災害非常事態等の布告・宣言が行われた場合には、内閣の立法権を認め(災害対策基本法109条の2)、内閣総理大臣に権限を集中させるための規定(災害対策基本法108条の3、大規模地震対策特別措置法13条1項等)、非常事態の布告等がない場合でも、防衛大臣が部隊を派遣できる規定(自衛隊法83条)など、災害時の権限集中に関する法制度がある。また、都道府県知事の強制権(災害救助法7?10条等)、市町村長の強制権(災害対策基本法59、60、63?65条等)など私人の権利を一定範囲で制限する法制度も存在する。従って、国家緊急権は、災害対策を理由としてもその必要性を見出すことはできない。
他方で、国家緊急権はひとたび創設されてしまえば、大災害時(またはそれに匹敵する緊急時)だけに発動されるとは限らない。時の政府にとって絶対的な権力を掌握できることは極めて魅力的なことであり、非常事態という口実で濫用されやすいことは過去の歴史や他国の例を見ても明らかである。国民の基本的人権の保障がひとたび後退すると、それを回復させるのが容易でないこともまた歴史が示すとおりである。
よって、当連合会は、東日本大震災において甚大な被害を受けた被災地の弁護士会連合会として、災害対策を理由とする国家緊急権創設は、理由がないことを強く指摘し、さらに国家緊急権そのものが国民に対し回復しがたい重大な人権侵害の危険性が高いことから、国家緊急権創設の憲法改正に強く反対する。
2015年(平成27年)5月16日
東北弁護士会連合会 会長 宮本多可夫
以 上
(2016年3月28日)
本日は、三題噺である。お題は、3人の人名。古舘伊知郎と菅孝行、そして忌野清志郎。
まずは、古舘伊知郎。3月18日の報道ステーションの内容が大きな話題を呼んでいる。キャスター古舘本領発揮の熱い語りかけ。歴史に残る放送ではないか。古舘流に「これぞ全国民必見」と評して過言でない。友人に教えられていくつかのURLで録画を見た。下記がそのひとつ。完全なものではないが、URLが短い。是非ともの視聴をお勧めし、拡散をお願いしたい。
https://www.dailymotion.com/embed/video/x3ym0kc
番組の表題は、「憲法改正の行方…『緊急事態条項』ーワイマール憲法が生んだ『独裁』の教訓と緊急事態条項」。ヒトラーの台頭を許したワイマール憲法の陥穽と、自民党改憲草案「緊急事態条項」とを対比して、安倍自民の危険な動向に警鐘を鳴らすものとなっている。
古舘自身がワイマールに飛び、ナチス台頭ゆかりの故地を訪ね、強制収容所跡で記録映像を重ね、ナチスから弾圧を受けた犠牲者の家族を取材し、ドイツの法律家や憲法研究者の意見を聞く。構成がしっかりしており、映像に訴える力がある。そして、古舘の情熱の語り口が聞かせる。影響は大きいのではないか。
この番組が抉ったものは、ワイマール憲法の「国家緊急権」条項がどのように使われて、ナチスの暴発を許したのかという問題性である。「最も民主的な憲法のもとでも、独裁が生じうる」そのメカニズムを検証して、安倍自民が準備している「自民党改憲草案」における「緊急事態条項」と重ねて、その類似性・危険性を警告している。
ドイツの憲法学者に自民党改憲草案の緊急条項部分を読んでもらうと、「これはワイマール憲法48条(国家緊急権条項)を思い起こさせる」「内閣が法律と同じ効力を持つ政令を制定することは危険」「財政措置まで議会の関与なく内閣の一存で決められる」「災害などには法律で適切に対処している日本で、このような憲法条項があるだろうか」という指摘は重い。
最後は、スタジオで長谷部恭男が「法律と同じ効力を持つ政令が制定できるとは、緊急時には令状なしの逮捕や捜索もできるという危険を残すこと」と、オーソドックスな解説をして締めくくっている。
当時、最も民主的で進歩的と言われたワイマール憲法であったが、その憲法の欠陥を衝いてヒトラーの独裁が成立した。これを許したのが、ワイマール憲法の「国家緊急権」条項である。緊急事態に名を借りて、ナチスは全権委任法を成立させた。その結果、1933年からドイツ敗戦の1945年まで、ドイツの議会は事実上死んだ。議会制民主主義は崩壊し、法律は議会に代わってヒトラーの内閣が作った。
自民党改憲草案の緊急事態条項はこの悪夢の再現に道を開くもの、という危機感に溢れた番組構成となった。古舘は、「いまの日本で、ドイツで起こったようなこととなるわけはありません。」と繰り返している。もちろん、このフレーズに「しかし、…」と続くことがある。その語り口は、付け入る隙を与えない見事なものだ。古舘の意識的な否定にかかわらず、誰が見ても安倍がヒトラーに重なる。緊急事態条項を準備した自民党がナチスだ。
この番組の映写を集会や学習会で活用することが考えられないだろうか。ほぼ30分。これを借り出して使えるようにできないか。関係者にお考えいただきたい。
スタッフ一丸となった使命感に溢れた番組作りの姿勢に敬意を表したい。それだけでなく、古舘個人にも讃辞を惜しまない。彼には怒りのエネルギーが充満しているはず。安倍内閣やこれを支える右翼連中からの圧力への怒り。番組担当はもうすぐ終わりというこの時期に怒りのほとばしりを見事に冷静にやってのけている。
私は先日のブログに、「憤怒の思いあるときに、上品な文章は書けない。品のよい文章では、怒りの気持が伝わらない。『保育園落ちた。日本死ね』の文章は、怒りが文体に表れて、多く人の心に響いたのだ。私もこの文体を学びたいと思う。」と書いた。古舘は、品良く怒りを表した。これがあっぱれ。
その反対に「憤怒の思いを、これ以上は考えられない品の悪さで表現した」典型例を引きたい。
お題の二つ目。菅孝行という人物がいる。何者とも言い難いが、彼の若き日を回想する次の一文をお読みいただきたい。
「舞芸一年目の秋には砂川基地拡張のための測量が強行され騒然となった。私たち舞芸自治会は全学連に加入して砂川町に泊りこみ、歌と踊りのバラエティーショーを仕こんで、闘争の合間のひとときを、隊列のあちこちや神社の境内でやった。
数千のデモ隊と機動隊とが対峙した夕刻の一触即発の時、「赤とんぼ」の歌が湧き起こった隊列の只中に私はいたが、あの歌の意味はなんだったのか。次々と歌でも歌ってなきゃ間ももたなかった。全くの素手でスクラムを組んでいたデモ隊には、次にくる機動隊の暴力の予感にふるえる悲鳴だったか、あるいはアメリカ軍の基地拡張への、日本人のナショナルな心情の吐露だったのか。おっちょこちょいの舞芸の連中が、折からの夕焼けシーンに乗って歌いはじめたのかもしれぬが、とても奇妙な情景だった。『赤とんぼ』の歌を打ち消すように機動隊が襲いかかり、引きずり出されては、機動隊の乱打のトンネルに次々と送りこまれていった。機動隊の暴力行為で多数の負傷者を出したこの日の流された血の代償として、政府は強制測量無期延期を決定しなくてはならなかった。」
私がこの人の文章に目を留めたのは、「歌に刻まれた歴史の痕跡」の一章として書かれた三木露風「赤とんぼ」2番の歌詞についての解釈。私の記憶では、彼は大意次のように述べている。
「十五でネエヤが嫁に行ったはずはない。ネエヤは身を売られたのだ。本当に嫁に行ったのなら、お里のたよりが途絶えることはない。当時、貧しい家の女児は幼いうちから裕福な家の子守に出され、長じては身を売られる例がすくなくなかった。露風は、子ども心に漠然とそのことを感じていたのだろう。そのことがこの歌詞のものかなしさの根底にある」
まったく自分には見えていないことの指摘を受けて、うろたえた憶えがある。
この人が、最近の「靖國・天皇制通信」に、「闘争の歌の〈品格〉とはなにか」という一文を寄稿している。これが面白い。ここに出て来る忌野清志郎が、お題の三つ目だ。
先年亡くなった忌野清志郎という過激な歌手がいた。
RCサクセションの「いけないルージュマジック」はいわれもなく挑発的に聴こえた。彼は、おかしなことを一杯やった。その一つが、タイマーズの結成である。《清志郎に「よ〈似た男」》ゼリーが率いる覆面バンドが結成され、アン・ルイスのライブとか、あちこちのコンサートに乱入して飛び入りで歌った。タイマーズとは「大麻」のことだというから、入を食っている。彼らは広島平和コンサート、パレスチナ独立記念パーティなどにも出演した。
1989年10月フジテレビのヒットスタジオR&Nに出演して、リハーサルとは全く道う、放送禁止用語に溢れたFM東京を罵倒するうたを歌って物議をかもした。奇しくも司会は、先ごろ朝日放送の報道番組のキャスターを下ろされた古舘伊知郎たった。タイマーズが罵倒ソングを歌った理由は、山口富士夫との共作「谷間のうた」、COVERS収録の「サマータイム・ブルース」、「土木作業員ブルース」などの放送禁止や放送自粛への抗議だった。因みに「土木作業員ブルース」を歌う時のいでたちは、ヘルメット、覆面姿の「武装」学生のパロディだった。
♪FM東京腐ったラジオ FM東京 最低のラジオ
何でもかんでも放送禁止さ!
FM東京汚ねえラジオ FM東京 政治家の手先
なんでも勝手に放送禁止さ!
FM東京バカのラジオ FM東京
こそこそすんじゃねえ○○○○野郎! FM東京
♪FM東京腐った奴らFM東京気持ち悪いラジオ
何でもかんでも放送禁止さ!
FM東京汚ねえラジオFM東京政治家の手先
○○○○野郎! FM東京
※(セリフ)ばかやろう!
※(加筆)なにが27極ネットだおらあ!FM仙台おらあ!
○○○○野郎! FM東京!
※(セリフ)ざまあみやがれい! (註 菅の文章に伏せ字はない)
これ以上品の悪いうたを歌うのは難しい。しかし、YouTubeで聞いてみると、凛としていて、少なくとも私には、爽やかなプロテストソング以外のものではない。
たかがFM東京の放送禁止や放送自粛への抗議といって楼小化してはならない。権力のラジオやテレビヘの表現弾圧、メディアの自主規制という、いまでは全然珍しくなくなってしまった事態への、本質的なプロテストの姿勢がそこにはあった。タイマーズというRCサクセションを一皮剥いたマトリューシュカのようなバンドが結成されたのが、天皇代替わりの自粛蔓延の年、このFM東京罵倒ソングの誕生が、その翌年であることは決して偶然ではない。
忌野清志郎の「FM東京腐ったラジオ」のYouTubeを私も聞いてみた。なるほど菅のいうとおり「爽やかなプロテストソング」である。からっと痛快なのだ。このとき司会の古舘は、確かに「不適切な表現」を謝罪してはいる。が、まったく恐縮した様子はない。もちろん、止めにはっいてもいない。プロテストをおもしろがっている気持が伝わってくる。古舘を含む当時の業界人の暗黙の支援あっての清志郎のパフォーマンスであったろう。
菅孝行の文章は、もう少し続く。
「昨年、国会前で、茂木健一郎が、この歌の替え歌を歌った。勿論、罵倒対象は安倍と政府と与党に置き換えられていた。茂木という人物は、アヤシイ奴である。もし、茂木ではなくデモ隊本体が、腐った政府、キタネエ政府、アメリカの手先、経団連の手先、こそこそすんじゃねえと歌ったら、本歌の精神を引き継ぐ見事なリバイバルだったのに、と思う。生きていれば恐らく、忌野清志郎は、反原発の首相官邸前行動や、戦争法制反対の国会包囲の群衆の中にいて、新しいうたを作ったに違いない。」(抜粋)
プロテストの新しい歌が欲しい。プロテストの精神を大切にしたい。そのような目で「日本死ね」の文章の後半ををもう一度読み直してみよう。
不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増やせよ。
オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。
エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ。
有名なデザイナーに払う金あるなら保育園作れよ。
どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。
ふざけんな日本。
保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。
保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。
国が子供産ませないでどうすんだよ。
金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。
不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。
まじいい加減にしろ日本。
これ、歌になる。古舘ほどの品はないものの、「闘争の歌」としての品格十分。立派な歌詞だ。誰か曲を付けないだろうか。
(2016年3月21日)
話題の書「奇妙なナショナリズムの時代ー排外主義に抗して」(岩波書店)に一通り目を通した。
これから、この書を手に取る方には、まず305頁の「おわりに」から読み始めることをお勧めする。この「おわりに」に、編者山?望の問題意識と立場性が鮮明である。何よりも、この部分は平明で分かり易い。編者であり自らも巻頭(序論)と巻末に2論文を執筆している山?が、ヘイトスピーチデモの風景に驚愕した心情を率直に語り、その違和感が本書のナショナリズム論の契機となったことが記されている。
ここで山?は、現在の政治状勢に触れて、こう言っている。
「安倍政権は『奇妙なナショナリズム』の時代に生まれた政権であり、また『奇妙なナショナリズム』を促進する政権でもある。」
「安倍政権は『日本固有』とする道徳・伝統・文化・歴史認識を国民に浸透させる意図を持つが、それは戦後の日本という国民共同体が醸成してきた道徳・伝統・文化・歴史認識とは異なる。その断絶性は「戦後レジームからの脱却」や「日本を取り戻す」といったキャッチフレーズに集約されている。被害者意識を背景にした歴史修正主義(侵略、戦争責任、敗戦の軽視もしくは否定)、排外主義やレイシズムを組み込んだ文化、国家主義的な伝統・道徳の復権は、戦後に形成されてきた国民共同体を堀り崩す。時代の区切りをめぐる意見の相違はあるにしても、安倍政権は戦後日本における従来の政権とは異質であり、「奇妙なナショナリズム」に完全に符合している政権であることは確認しておきたい。」
戦後民主主義を「戦後に形成されてきた国民共同体」とほぼ同義なものとして評価し、安倍政権と安倍政権を支えるものをそれとは断絶した異質なものとして警戒する立場を鮮明にしている。その「異質」が、「奇妙なナショナリズムの奇妙さ」となるものだが、ここでは、「歴史修正主義、排外主義やレイシズム」とされている。この基調が、この書の全編を貫いている。
以上の文章にも明らかなとおり、山?はけっして「革新」の側に立つ論者ではない。ナショナリズムを否定的で清算すべきものとは見ていない。「戦後に形成されてきた国民共同体」に親和感をもち、「奇妙ではない・ナショナリズム」には肯定的な論調である。その山?にして、安倍政権下のナショナリズム模様の奇妙さ・異様さは看過できないのだ。そのことは、次の結びの言葉にいっそう鮮明である。
「従来のナショナリズムと密接に結びついてきた立憲民主主義、自由主義、平和主義、国民主権が危機にさらされている情況において、われわれは、ナショナリズムの在り方を考えることなくして、現状に対峙することはできない。戦後日本のナショナリズムヘの郷愁や全面肯定を警戒しつつも、人々が自らのものとしてきた立憲民主主義、自由主義、平和主義、国民主権をナショナリズムとの関係で、いかに「保守」もしくは発展させていくべきか。本書がこうした問いを考え、行動するための一助となれば幸いである。」
この一文は、山崎の「日本国憲法の憲法価値を、従来のナショナリズムが支えてきた」という構図を鮮明にしている。この書の全体を通じて、「保守」や「従来のナショナリズム」は肯定的に語られている。私は、「普遍性をもった日本国憲法の憲法価値に、戦前を引きずるナショナリズムが敵対してきた」という認識をもっている。ずいぶん違うようにも思われるが、いま「奇妙なナショナリズム」が跋扈して安倍政権を生み、安倍政権がこれまでの保守政権や国民意識からは断絶して、「突出した反憲法的ナショナリズム」に依拠していることにおいては異論がない。言わば、邪悪な敵出現によって、「戦後民主主義を支えた保守」も「そのイデオロギーとしての従来のナショナリズム」も、論争の相手方ではなくなった。むしろ、頼もしい味方のうちなのだ。
では、「従来のナショナリズム」とは異なる「奇妙なナショナリズム」の、奇妙さとは何か。従前には、安定的な「国民国家」が存在し、これを支えるものとして従来のナショナリズムがあった。いま「国民国家」に揺れが生じ、これまで「国民国家」を支えてきたナショナリズムも大きく揺れて変容している。
その出発点は、「グローバル化」(情報と金融の分野を中心に国境を越えて人々を結びつけるもの)と「新自由主義」(国家や共同体から人々を解放し、人間を等価な市場的存在とするもの)だという。国民国家の境界も内実も曖昧・不安定になって、再定義が求められている。これに伴ってナショナリズムも変容しつつある。山崎は、「国民国家は先進諸国を中心に、他国との境界線で明確に区切られた安全保障、社会保障、国民共同体、民主主義の四つの層(レイヤー)の結合によって形成されてきた。」と立論し、いま、その4層のすべてでこれまでの国民国家では自明であったものが掘り崩されている、とする。
だから、「(かつては)国民国家システム形成の原動力となったナショナリズムが、(いま)グローバル化と新自由主義の中で、どのように境界線を引き直し、「われわれ」を模索しているのか、多層的な単位(政治的決定の単位、安全保障の単位、社会保障の単位、経済的な単位、文化的な単位)の間にいかなる関係を構築しようとしているのか。いかなる境界線についての正当化の論理を掲げているのか。」その問いかけが必然化しているのだという。
山崎は、これまでのナショナリズムと比較して、グローバル化と新自由主義という背景を持つナショナリズムの「奇妙さ」をいくつか挙げているが、その内の興味を惹くものを要約して紹介したい。
■「被害者としてのマジョリティ」という「奇妙さ」
少数派ではなく、マジョリティこそがむしろ様々な層における「被害者」(もしくは潜在的な被害者)であり、マジョリティが「力のない者」へ、さらには「マイノリティ」化しつつある、という自己定義をしている点に、このナショナリズムの「奇妙さ」がある。
ナショナリズムが自らの集団の危機を訴えること自体はたびたび観察されるものであるが、マジョリティでありつつも「想像された強者であるマイノリティ」によって被害を受けているという「被害者意識」を強く特つ点に特徴がある。この背景には、グローバル化による国民国家の融解が、既存の「力のあるマジョリティ」と「力のないマイノリティ」という図式が不明確になっているという認識がある。
マジョリティの側がその要因を外部に求めるとき、「われわれ」の権利を侵害し「権利を得ている(と想像する)マイノリティ」や「マジョリティと同等の権利を持つ(と想像する)マイノリティ」を立ち上げ、彼らが「われわれマジョリティの権利を奪っている」という感情を高めることになる。
■レイシズムに重点を置く奇妙さ
人々の同化による拡大ではなく、排除による国民の範囲の縮小を志向する点において、ナショナリズムの観点からは「奇妙さ」がある。従来のナショナリズムにおいても、レイシズムや排外主義の要素は存在していた。しかし既存の制度化されたナショナリズムによる国民像を逸脱して、それを解体する強度のレイシズムや排外主義が前面化し、普遍化の契機に乏しい歴史修正主義を強調する点において「奇妙さ」がある。レイシズムに基づく純化、排除や浄化を志向し、同化や統合もしくは拡張の思想ではないナショナリズムは、国民統合や国家建設を重視するナショナリズムや帝国主義的なナショナリズムの観点からは「奇妙さ」を醸し出す。その結果としてナショナリズムの特徴とも言うべき両義性が失われ、片方の要素(特殊性、排除、自然の強調)のみが重視されている点において「奇妙さ」が際立つことになる。
■「敵」とする外部の安定性の欠如という「奇妙さ」
「敵」という外部の設定によって定義すべき「友であるわれわれ」の輪郭と内容が定まるとするならば、「敵」の不安定さは、「友であるわれわれ」の不安定さを招いてしまう。とりわけ領域主権国家システムからなる国際関係のナショナリズムにおいては「敵」とされる「外部」は一定の継続性を特つことが多いが、現代のナショナリズムにおける「敵」は「変易性」が高く多岐にわたる。とりわけ日本における事例では、外国人労働者や観光客、少数民族、近隣諸国のみならず国際機関、政府、政党、マスメディア、官僚、警察、女性、若者、生活保護受給者、原爆被災者、東日本大震災の被災者、脱原発運動、フェミニスト、他のナショナリスト、学校関係者、地域住民、障害者、反レイシストなど「敵」は多岐にわたり、その変易性も高い。その点において従来のナショナリズムとは異なる「奇妙さ」を持っている。
なるほど、安倍内閣の支持勢力も、その持って生まれた歴史修正主義も、ヘイトスピーチの蔓延も、橋下徹の政治手法の一定の「成功」も、そして米大統領予備選挙におけるトランプ現象も、このような説明枠組みで思い当たることが多い。注目すべきは、「奇妙なナショナリズム」の敵としては、多国籍企業もアメリカも政権も意識されないことだ。本当の奇妙さは、このあたりにあるのではないか。
グローバル化と新自由主義⇒国民国家の揺らぎ⇒ナショナリズムの変容
という構図自体は分かるものの、一般論と具体論との連結はよく見えてこない。何が、どのように、ネトウヨに代表されるような奇妙なナショナリズム変容をもたらしたのか、このあたりの丁寧な説明が欲しいと思う。そのような診断があってこそ、安倍や橋下やヘイトスピーチを克服するにはどうすればよいのか、処方も書けることになるだろう。次を期待したい。
なお、山?望論文の紹介で手一杯だが、この書の全体の構成(目次)は以下のとおりである。山?の問題意識で下記の9論文が並んでいる。
序 論 奇妙なナショナリズム? 山崎 望
第1章 ネット右翼とは何か 伊藤 昌亮
第2章 歴史修正主義の台頭と排外主義の連接 清原 悠
―読売新聞における「歴史認識」言説の検討
第3章 社会運動の変容と新たな「戦略」 富永 京子
―カウンター運動の可能性
第4章 欧州における右翼ポピュリスト政党の台頭 古賀 光生
第5章 制度化されたナショナリズム 塩原 良和
―オーストラリア多文化主義の新自由主義的転回
第6章 ナショナリズム批判と立場性ポジショナリティ 明戸 隆浩
―「マジョリティとして」と「日本人として」の狭間で
第7章 日本の保守主義 五野井 郁夫
―その思想と系譜
第8章 「奇妙なナショナリズム」と民主主義 山崎 望
―「政治的なもの」の変容
おわりに
著者のほとんどが、1970年代・80年代生まれ。若い気鋭の研究者(政治学・社会学・社会運動論・比較政治学など)らの意欲を頼もしいと思う。
(2016年3月20日)
「放送法遵守を求める視聴者の会」なるものがある。
「国民主権に基づく民主主義のもと、政治について国民が正しく判断できるよう、公平公正な報道を放送局に対して求め、国民の『知る権利』を守る活動を行う任意団体です」と自ら称している。「国民主権」「民主主義」「公平公正な報道」そして、「知る権利の擁護」というのだから、一瞬これはリベラル派の市民運動組織かと思い込みはしないだろうか。
「政府が『右』というときに、『左』とは言えない」と、歴史に残る名言を吐いた「国営」放送局の会長を糾弾して、「公平公正なNHK報道を求め、国民の『知る権利』を守る活動を行うリベラル市民団体」のことではないかと、いかにも間違いが起こりそうではないか。
もちろん、呼びかけ人や賛同者の名前を見れば、誤解は吹っ飛ぶ。すぎやまこういちであり、渡部昇一であり、西修、東中野修道、呉善花、小堀桂一郎、西岡力等々のおなじみの面々。なるほど、ものは言いよう。「公平公正」とはアベ政権擁護の立場のこと、「国民の知る権利を守る」とはアベ政権の言い分を国民に浸透させること、「国民主権」も「民主主義」も政権の正当性の根拠の説明限りのもの。権力から独立してこそのジャーナリズム、という認識はない。
これまで3度この会の名で、「私たちは違法な報道を見逃しません」という例の新聞広告を出した。昨年(2015年)11月、読売と産経に各1度。そして、今年(2016年)2月13日に再び産経に。この3度目の広告には、呼びかけ人だけでなく、賛同者の名が掲載された。
変わり映えのしない狭い右派人脈の名の羅列だが、その中で、たった一人、思いがけない名前を見つけて驚いた。「溝口敦」という名。これはインパクトがある。
この会のホームページを閲覧すると、13人の「賛同者」がメッセージを寄せている。そのなかの一人として、顔写真付きで溝口敦の次のコメントがある。
「NHK、民放を問わず、局の体質はゼイ弱です。ともすれば、権力と多数陣営に迎合しがちです。せめて放送法を盾に民主主義を守り、戦前への回帰を阻止せねば、と思います。」
私は、溝口について特に知るところがあるわけではない。とりわけ彼の政治信条や政治的人脈については、何も知らない。右翼人脈との付き合いあって、こんな所に名前を出したのだろう。単純にそう思っていた。
溝口敦の名を知らぬものとてなかろう。ノンフィクション作家といってもよいし、ルポライター、ジャーナリストと言ってもよい。私の知る限り、最も危険な立場に身を置いてその姿勢にブレのない、稀代の物書きである。暴力団・創価学会・同和・サラ金・食の安全等々タブーに切り込む姿勢の果敢さにおいて、驚嘆すべき人物である。
暴力にも圧力にも筆を鈍らせることのない、不屈の姿勢においてジャーナリストの鑑のごときこの人物と、政権応援団右翼組織の奇妙な組み合わせ。奇妙ではあるが現実と受け止めざるを得ない残念な気持を印象にとどめた。
ところが、本日(3月18日)の毎日夕刊で、この「奇妙」の謎が解けた。この謎解きをしてくれた毎日の記者に感謝したい。
記事は、「特集ワイド」の「続報真相 改憲急ぐ安倍首相を応援する人々 『美しい日本の憲法』とは」という読み応えのある調査報道。
「安倍晋三首相が憲法改正を『参院選で訴える』と前のめりだ。この姿に喝采を送るのが、改憲を支持する『安倍応援団』とも呼べる人たちだ。首相に近いとされる彼らがどんな憲法観を持っているのか、有権者は知っておくべきだろう。一般には知られていない発言などを掘り起こしてみた。」というリードでその姿勢はお分かりいただけよう。記事の全文は下記URLでお読みいただける。
http://mainichi.jp/articles/20160318/dde/012/010/017000c
記事中の「安倍応援団」の一つとして、「放送法遵守を求める視聴者の会」が出て来る。そして、記者も溝口に注目して、溝口を取材している。その結果が以下の記事だ。「溝口敦さん『不注意で視聴者の会賛同』」と小見出しが付いている。
最後に意外な人物に登場してもらおう。暴力団問題に詳しいジャーナリスト、溝口敦さん(73)である。
「国民の会」代表発起人でもある小川氏やすぎやま氏らが呼びかけ人となり、「公平公正な報道を放送局に対して求め、国民の『知る権利』を守る活動を行う任意団体」として昨年設立した「放送法遵守(じゅんしゅ)を求める視聴者の会」の賛同者に名前を連ね、多くの人を驚かせた。呼びかけ人の7人全員が、安倍氏と近かったり、改憲を支持したりしている人たちだったからだ。
… …
溝口さんに真意を尋ねると『不注意でした』と意外な答えが返ってきた。「『放送法遵守』というから、どういう人たちが作った団体か確認せずに『賛同する』としてしまったんです」。昨秋、前触れなく届いた封書に記入し、返送しただけだという。
改めて自身の意見を聞くと、こう語るのだ。「問題報道どころか、最近は安倍首相を立てるような報道やニュースばかりですよ。もっと批判しなきゃ。キャスターが特定の立場で批判的発言をしたっていいじゃないですか。放送法1条は放送の自律の保障をうたっている。これが前提です。高市早苗総務相の『停波』発言はそれこそナンセンス。真実と自律を保障する放送法を盾に、政治権力と戦わなきゃ」
溝口さんは同会に寄せたメッセージで「民主主義を守り、戦前への回帰を阻止せねば、と思います」と記していた。改憲論議についても同じことが言えるだろう。
この記事を読んで、私は胸のつかえが降りた。今日は良い気持ちだ。さすが正義漢・溝口敦の言である。「問題報道どころか、最近は安倍首相を立てるような報道やニュースばかりですよ」「政治権力と戦わなきゃ」とは、視聴者の会の主張とは正反対ではないか。それにしても、最近は右翼の言説がこれまでリベラル派が言ってきたことと紛らわしい。溝口でさえも間違うことを教訓としなければならない。
ジョージ・オーウェルの「1984年」に出て来る、真理省のスローガンを想い起そう。
戦争は平和なり
自由は隷従なり
無知は力なり
積極的平和主義とは平和憲法破壊のこと。
公平公正とは政権批判抑制のこと。
知る権利擁護とは政権の言い分を伝えること、なのだ。
あらためて、「視聴者の会」賛同者のコメントを見直してみる。もしかしたら、間違えた賛同者が、溝口の外にもいるのではないだろうか。たとえば、次のようなコメントに考え込まざるを得ない。
「特定の立場からの報道であるのであれば、その立場を明確に表し反論の機会を提供すべきです。中立公正を装って、特定の立場からの意見を表明することは、許されることではありません。」
「国民一人一人が、借りものの思想や価値観で判断するのではなく、自分の頭で考え判断できるようにするためには、放送内容の公平性と公正さを守ることが必須です。」
「1.マスコミは権力者である 2.権力者は国民がチェックできなければならない。」
「NHKの分割・民営化、少なくとも視聴料禁止、娯楽番組に限り双方向性で課金するようにすべし」
(2016年3月18日)
これ以上はない大きな反響を呼んだ話題のブログの冒頭の一節。
保育園落ちた日本死ね!!!
何なんだよ日本。
一億総活躍社会じゃねーのかよ。
昨日見事に保育園落ちたわ。
どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。
子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?
国会で取り上げられ、アベとその取り巻きのことさらの無視が、同じ境遇の女性を中心に大きな反発を招いた。「保育園落ちたの私だ」デモとなり、署名活動が行われて、署名簿提出にはカメラの前で厚労大臣が直接受領せざるを得なくなった。その後、アベ内閣はこの問題に真剣に取り組んでいる姿勢をとらざるを得ない事態となっている。野党も世論も、重大なテーマとしてこの問題に関心を向けている。市井のひとりのブログが、これだけのインパクトをもった例は他にないだろう。
そのインパクトの根拠は、何よりもテーマにある。多くの人が、このブログを我が身のこととしてとらえ、自分の心情を代弁したものと認識した。共感の輪を広げようと当事者意識をもったのだ。
さらに、このブログは、必ずしも「我がこと」でない多くの人にも、広く共感を得るテーマでもあることを示した。アベ政権が本気になって働く女性の立場に立とうとしてはいないことを、みんなが知っている。実のところアベの関心は、企業にとっての安上がりの労働力と、財政にとっての安上がりの保育。そして、なおざりの政策で女性の立場に立っているようなフリのパフォーマンスが成功しているか否かだけなのだ。「保育園落ちた日本死ね!!!」は、その虚妄を厳しく衝いた。「日本死ね」の本心は、「アベ政権つぶれろ」と読まなくてはならない。
それだけではない。私は、このブログが大きなインパクトをもった理由として、テーマや内容だけでなく、一見乱暴な文体も大いに寄与していると感心している。あらためて読み直してみると、怒り心頭の気持にふさわしいみごとな表現ではないか。
このブログは、間違いなく普段よくものを考えている人の文章である。知識も豊富で、論理的な思考にも長けている。別の場面では、きちんとした文章を書く能力の持ち主だ。その人が、半分は怒りのほとばしりとして、また半分はインパクトを計算して、為政者のタテマエとホンネの懸隔にみごとに切り込んだのだ。
品格だの、文体の美しさだの、日本語の奥ゆかしさだの、そんなことを言いたい人には言わせておけ、という突き放した気持ちが表れている。私は、怒りの表現にふさわしい、怒れる文体を、立派なものと称賛したい。
憤怒の思いあるときに、上品な文章は書けない。品のよい文章では、怒りの気持が伝わらない。「保育園落ちた。日本死ね」の文章は、怒りが文体に表れて、多く人の心に響いたのだ。私もこの文体を学びたいと思う。
お元気だった頃の大江志乃夫さんから聞いた話。大江さんの父君は、陸軍大佐大江一二三。日中戦争で戦死した部下の遺品に胸が痛んだという。その兵士が身につけていた母親の写真の裏面に母を恋う長歌が書き込まれ、その最後に「お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん」と24回。繰りかえして「お母さん」が書き連ねてあったそうだ。
私は、この話を思い起こすたびに目頭が熱くなる。なまじの整った文章よりも、思いを書き連ねた率直さこそが、人の胸を打ち、心をとらえる。母を想う心情でも、政策への怒りでも同じことだろう。
などと思っていたところに、言わずもがなのことを言って水を差す人物が表れた。やはりこの人、と言ってよかろう。曾野綾子である。産経新聞に曽野綾子のコラムが連載されている。連載コラムの標題が、「小さな親切、大きなお世話」。3月13日のこのコラムに、曾野が例の如く、アベ政権擁護の立場からの記事を書いた。
今回の記事は「貧しい表現力が招く不幸」という見出し。「このブログ文章の薄汚さ、客観性のなさをみていると、私は日本人の日本語力の衰えを感じる。言葉で表現することの不可能な世代を生んでしまったのは教育の失敗だ」「SNSに頼り、自分の思いの丈を長い文章で表す力をついに身につけなかった成人は、人間とは言えない」というのだ。こんな右翼作家のくだらぬ世迷い言にまともに反論するのも大人げない。曾野の時代錯誤の文章には、「何をえらそうに、ちゃんちゃらおかしい」。「大きなお世話だ」。そう言っておけばよいだけのこと。
しかし、少しだけ気になるところがある。右翼曾野が、「日本死ね」の言い回しに過剰反応していることだ。「自分に都合の悪いことがあると、『日本死ね』である。別に大人げなく反論する気もないが、日本を有数のいい国だと思っている私のような人間もいるのだから、この人の方が嫌いな日本を捨てて、今すぐもっと上等な他国に移住なさればいい。」というものの言い方。
曾野の日本語力が、「日本人の日本語力の衰え」を嘆くに値するほどのものとも思えないが、それは別問題。曾野の文章の虚飾を剥ぎ取れば、「保育園落ちたくらいで政権を批判する輩は日本から出て行け」と言っているのだ。ネトウヨ言葉を借りれば、「反日非国民は日本から出ていけ」ということ。
曾野コラムに対するまともなネットの反応は、「『日本から出ていけ』とか『文章の書けない成人は人間とは言えない』とは自分が多少書けるからと言って、底辺に生きる人に思いを馳せることない随分思い上がった見解」「私はこの文書を投稿した人の悲痛な気持ちが痛いほど伝わってきましたし、自分の思いをきちんと表現していると思いました。」「実際にこの匿名の投稿がネットで話題になり、国会で話題になり、子育て世代の保護者を動かしました。ということは、多くの人を動かした文章だった…ということですよね?」というのが代表的なもの。しかし、当然のことながら、産経・右翼グループは曾野に賛意を表して一群を形成している。
曾野の言にみられるような、
「政権批判」⇒「非国民」「反日」のレッテル⇒日本から出て行け
の反知性的短絡論法蔓延の危険を過小評価してはならない。攻撃的な同調圧力や排外・排斥主義には警戒を要する。
とはいえ、「保育園落ちた日本死ね」のこのブログ。アベとその取り巻きに無視されたことがきっかけで天下の注目を浴びることとなり、さらに今度は、産経・曾野綾子コラムの「大きなお世話」で再びの話題に。政権と右翼のおかげでの知名度アップ。今年の流行語大賞は、もう決まりだべ。「保育園落ちた日本死ね」か、それとも「保育園落ちたのは私だ」のどちらかだろう。
(2016年3月15日)
第83回自由民主党々大会にあたり、党総裁としてごあいさつを申し上げます。
大変お忙しい中、こうしてたくさんのおカネをいただいているスポンサーのみなさまにお集まりいただきました。党を代表して厚く厚くお礼を申し上げます。
厳しい時も困難な時も、我が党をカネで支え続けていただいたみなさまのお力でわれわれは昨年60年の歴史を刻むことができました。そのことを決して忘れずに、スポンサーの信頼あっての我が党であることを胸に刻み、これからも国民には上から目線で説明が足りないなどと批判はされようとも、スポンサーの皆さまには謙虚にしっかりと寄り添って歩みを進めて参ります。
先ほど友党の代表から、温かいごあいさつをいただきました。本当にありがとうございます。風雪に耐えた、我が党と御党の連立政権の基盤の上に今後も着実に財界奉仕と憲法破壊の実績を積み重ねてまいりましょう。
そしてスポンサーを代表して今年も、経団連の榊原会長から力強いごあいさつをいただきました。本当にいつもありがとうございます。末永く、持ちつ持たれつ。ますますのご支援をお願いするとともに、前もってのお礼を申し上げたい(会場:笑)、こう思う次第です。
昨年は敗戦から70年の節目の年でありました。先の大戦では、帝国の行く末を案じ皇室の弥栄を念じつつ、300万余の日本人が尊い犠牲となりました。この尊い犠牲の上に、現在の私たちの平和と繁栄があります。近隣諸国の民衆の死については、私がとやかく申しあげる立場ではございません。我が党は、けっして自虐史観には立たないのです。私は靖國に合祀されている死者の無念をかみしめ、靖國の神々の言葉に耳を傾けて、再び日本人の命と幸せな暮らし、日本の領土と領空、そして美しい海を、敵の手から守り抜いていくという大きな責任を再確認しなければなりません。そのための平和安全法制であり、戦争準備法制なのです。
日米安全保障条約改定時、またPKO法制定時、昨年の平和安全法制制定時には、相も変わらず「日本は戦争に巻き込まれる」「徴兵制が始まる」などという無責任な批判が展開されました。しかし、皆さん、私はけっして「日本が戦争に巻き込まれる」事態にはならないことをお約束します。巻き込まれるは、受動的に、心ならずも戦争に参加するという意味ではありませせんか。私は、必要なときには主体的に、そして積極的に、果敢に勇躍して戦争を始めることを躊躇しません。それが、1億総国民の命と安全に責任を持つ指導者のありかたであると確信いたします。
政財界の皆さまのなかには、我が党の議論にお詳しい人ほど、「徴兵制が復活するのではないか」「そんなことになったら、身内の者にも赤紙が来る」とご心配あるやに伺っていますが、けっして、徴兵制の復活はあり得ません。私が保障します。
広く知られているとおり、我が党の経済政策は、国民に格差と貧困を甘受させるものです。幸いに、日本国民は「格差と貧困」の進展にさしたる違和感なく、我が党の支持率は落ちていません。制度としての徴兵制を敷くことなくとも、格差と貧困の底辺には、必ずや軍役で糊口を凌ごうという十分な兵役希望の予備軍が沈殿しているのです。兵役に従事するものは、この層から十分にリクルートが可能なのです。けっして、我が党のスポンサーの皆さま方の大切なご子息を戦場に送るような愚をおかすことはありません。党総裁のワタクシが、完全にブロックすることを明言申しあげます。
なお、率直に反省の気持を込めて申し上げます。これまで私たちの先輩方は、毅然として日本国憲法の平和主義を壊滅させることに不十分でした。憲法を壊そうとして国民の抵抗に遭って果たせず、十全の戦争体制を構築することにおいて不徹底の誹りは免れません。そのため、日本国憲法は70年間一字も手を付けることができないまま生き残り、これを支持する国民世論も健在です。ですから、残念ながらいまだに我が国は、主権国家として戦争の一つもできない状態が続いているのです。これでは近隣諸国から侮られてもやむを得ないではありませんか。平和安全法制という名の戦争法が制定されても然りなのであります。
それでも、先般北朝鮮が弾道ミサイルを発射した際、日米は従来よりも増して緊密にしっかりと連携して対応することができました。戦争準備もやむなしとする世論も多少は大きくなったような気がして心強い限りです。北の指導者には、よいタイミングで行動を起こしていただいたことに、御礼を言いたい気持なのであります。
日本を守るためにお互いが助け合うことができる日米の軍事同盟は、その絆を間違いなく強くしたんです。この平和安全法制を、民主党は共産党とともに廃止しようとしています。みなさまご承知のように、共産党が一番悪い。共産党が諸悪の根源なのです。ナンデモハンタイ、キョーサントー。
共産党は、平和を守るなどと言います。けっして戦争はしない。そのために、軍隊の存在は危険だ、などと平気で口にします。「憲法9条は非武装中立を求めている」「安保条約は軍事同盟だから、日本をアメリカの戦争に巻き込む危険がある」などと、彼らの主張はとんでもないことなのです。それだけではありません。格差も貧困もあってはならないなどと、これも本気になって危険なことを口走っています。こんな危険な政党と、民主党は野党共闘をしようというのです。
共産党の目標は自衛隊の解散です。直ちに解散という方針はもっていないようですが、自衛隊は存在する間は活用しつつも、いずれは災害援助隊などに再編成していく方針ではありませんか。量的にも質的にも軍事力を拡大強化しようという我が党の方針とは明らかに真逆な立場です。そして、共産党は日米安保条約を廃棄しようというのです。その上で、軍事同盟ではない、対等平等で平和な日米関係を構築しようなどと怪しからんことを言っています。
先に私は、国会で民主党議員に、「ニッキョーソ」「日教組はどうした」と野次を飛ばして、世の顰蹙を買いました。しかし、それくらいのことに怯む私ではありません。今度は民主党議員に「キョーサントー」「キミは共産党か」と、悪口を言ってやりたいと思っています。
ホントのことを言うと、野党共闘が成立したら、我が党に脅威であることは誰が見てもお分かりのこと。我が党は、スポンサーの皆さまとその息のかかった方々にはウケがよろしいのですが、広範な勤労者や農漁業者、経済的苦境にある地方、ママの会などの女性にはまことに評判が悪うございます。ですから、常に薄氷を踏むが思いで、どうしても野党共闘を切り崩さねばなりません。そのための切り札として、私自身が反共攻撃の先頭に立つことをお誓いいたします。
たとえば、こんなふうではいかがでしょうか。
(拳を振り上げて)「選挙のためだったら何でもする。誰とも組む。こんな無責任な勢力に私たちはみなさん、負けるわけにはいかないんです。」(拍手)
今年の戦いの構図は固まりつつあります。軍備を整えて戦争も躊躇することのない気概を内外に示すことで国家と国民を守ろうという「自・公連立政権」と、近隣諸国との友好関係を発展させて平和を守ろうなどと甘いことを言っている「民共の野党勢力」との戦いなのです。
昨年の9月時点では、我が党も内閣も、大きく支持率を下げてヒヤッとしましたが、何よりも賢い国民の忘却と無関心が我が党の強い味方。なんとか持ち直しそうではありませんか。
最後に強調しておきたいと思います。今年18歳、19歳の若いみなさんが、初めて1票を投じます。この若い皆さんたちご自身の未来のために、戦争も軍役も辞さない覚悟をさせることができるのは、私たち、自由民主党だけなのであります(大きな拍手)。ともにがんばろうではありませんか。
(2016年3月14日)
さて、今日はクイズである。
ある識者が、政治と運動の情勢について、次のとおりの発言をしているという。この発言をお読みになって、発言の主が誰だか当てていただきたい。
この問題の正解者はたいへんな知恵者だ。尊敬に値する。このクイズの出題者は、さらに高い知性の持ち主。もちろん私ではない。憲法学者の横田耕一である。
「強行採決をめぐって、これだけ広範な層からこれだけの批判が高まっているのに、何故、政府与党は馬の耳に念仏の態度で押し通そうとするのでしょうか。…むろんそこには種々の背景があります。しかし根本の由来はここ数年来の政府の相つぐ憲法じゅうりんのやり方を私達国民が結局のところ黙って見過ごして来たところにあると私は考えます。一たび既成事実をさえ作ってしまえば、一時は世論がわきたっても、やがては権力の無理押しが通って行くという事態がこれまでに重なってきたからこそ、ああいう議会政治の常識では考えられないやり方をして政府は平然としているのです。権力はもし欲すれば何事でも強行してそれに法の衣をかぶせることができるということになれば、それは民主主義の基本原則の破壊にほかなりません。私たち国民は今こそこうしたやり方にストップをかけなければ、人民主権も、したがって私たちの幸福追求の権利も、政府の万能の権力の前に否定される結果になるでしょう…。政府の権力濫用にたいして憲法や法律は本当に歯どめとして効いているのかいないのか、私たち主権者としての国民がそうした権力の歯どめとして憲法を生かす力をもっているのかいないのか、それがいままさに試されようとしております。これが現在の根本の問題点です。」
多くの人が、昨年9月の戦争法の強行採決を思い浮かべたはず。この発言の時期は、まさしく今であろう。樋口陽一さんの発言ではないか、あるいは中野晃一さんかと思った人が多かったのではないか。残念、みんなハズレだ。
正解は丸山眞男なのだという。60年安保闘争のさなか、「民主主義をまもる音楽家の集いへのアピール」として書かれた一文だそうだ。多分正解者はいないだろう。
私も、まさかこの一文が、半世紀前の60年安保の際の運動体への語りかけとは思わなかった。いまとなんとよく似た状況での、よく似た問題提起ではないか。
本日郵送された「月刊 靖国・天皇問題情報センター通信」(通算510号)の巻頭言「偏見録」として横田が書いた論文である。題して「既視感(デジャビュー)」。
横田は、上記丸山の論説を引いて、「60安保闘争は『狭義の安保闘争』ではなかった。」という。むしろ、「強行採決を境に、『安保に賛成の者も、反対の者も』含めた、『国会解散・岸を倒せ!』をスローガンとする『民主主義を守れ!』で、運動は飛躍的に拡大した」という。このことは、「『安保法制』強行採決に9条改正論者も含めて『立憲主義を守れ!』で反対している状況に似ていはしないか。」という。これが、表題を「既視感」としている所以だ。
さらに問題は、この先にある。
「60年安保の盛り上がった運動も、6月19日の『自然承認』によってほとんど終息し、学生たちが行なった『帰郷運動』は厚い土着の人びとの壁に跳ね返された」そして、「12月の衆院選挙では296議席を獲得して自民党が大勝した」と指摘する。さて、いまはどうだろうか。
横田の現状の見方は次のようなものだ。
「各地で運動は継続されているものの、残念ながら一時期の熱気は冷めつつあり、諸調査機関が示す安倍内閣の支持率は、世論調査のはらむ欠陥を認めても、低下しないばかりか増加傾向すら示しており、自民党の支持率は他党を圧倒している。選挙では、「立憲主義・安保法制」のみが争点にならないことも加味すれば、今夏の参院選挙(衆参同日選挙?)で、与党に打撃を与えることはかなり困難であり、60年末の衆院選挙の敗北が目にちらつく。」
シビアな現状認識である。60年には高揚した運動は「厚い土着の人びとの壁」に跳ね返された。いま、同じことが繰り返されはしないか。そのような無力感や敗北感に陥って「60年」の二の舞に陥ってはならない、と警告されている。しかし、たどうすればよいのか、簡単に答が見つかる問題ではない。
60年の丸山の言葉を振り返ってみよう。
「ここ数年来の政府の相つぐ憲法じゅうりんのやり方を私達国民が結局のところ黙って見過ごして来た」「私たち主権者としての国民がそうした権力の歯どめとして憲法を生かす力をもっているのかいないのか、それがいままさに試されようとしている」。これが、当時の運動の前に立ちはだかった壁だ。「主権者としての力量(不足)の壁」である。そして、今、当時と同様の立ち向かうべき壁があり、乗り越えなければならない壁となっている。
横田はいう。「この壁を崩さない限り個々の運動は実を結ばないように思われる」。この壁とは、かつて帰郷運動の学生たちをはね返した「厚い土着の人びとの壁」と等質のもの。
おそらくは、運動が後押ししての野党共闘の成立こそが、「この壁を突き崩す」唯一の切り札である。それなくしては、再び厚い土着の壁に阻まれてしまうことになる。まさしく、「既視感(デジャビュー)」である。
(2016年3月13日)