澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

憲法問題に関する年頭の辞「アベ政治 対 立憲主義・民主主義・平和主義」

年末には「本郷・湯島9条の会」紙へ原稿を届けたが、年始に「文京9条の会」の機関紙「坂のまちだより」から「年頭の辞」の執筆依頼をいただいた。
「2016年の年頭にあたって、思われることなどありましたら、なんでも結構です。内容はお任せしますので宜しくお願いいたします。」とのこと。近々、根津憲法学習会でも今年の憲法情勢に関して報告しなければならない。さて、「憲法」とりわけ「9条」に関して、年頭に何を語り、何を書くべきだろうか。

日本国憲法とりわけ9条にとって、2015年は重大な試練の年となった。安倍政権と自公両党による解釈改憲の動きの進展は、前代未聞の95日の会期延長の末、違憲の戦争法を成立せしめた。その強引な立法手続によって、憲法9条は大きく傷ついた。残念でならない。しかしその反面、この違憲立法に反対する国民運動が大きな盛り上がりを見せた。そして、「アベ政治を許さない」「野党は共闘」の声が、議事堂を揺るがせた。「立憲主義の危機」「立憲主義の回復」が広く自覚的な国民の共通認識となり、共通のスローガンとなった。これは憲法と平和への光明である。

2016年は、憲法への試練と光明の両側面がさらに厳しくせめぎ合うことになりそうだ。安倍政権は、けっして解釈改憲では満足しない。違憲立法の成功に味をしめ、さらなる軍事大国化と戦後レジームからの脱却を目指した明文改憲が目論まれることになるだろう。国会に改憲派の議席多数のいまこそ明文改憲のまたとないチャンスだと虎視眈々なのだ。

安部晋三は官邸での年頭の記者会見で、「憲法改正については、これまで同様、参議院選挙でしっかりと訴えていくことになります。同時に、そうした訴えを通じて国民的な議論を深めていきたいと考えています」と明言している。そのために、衆参両院の憲法審査会がフル稼働することになるだろうし、そこでの喫緊の焦点は緊急事態条項の新設ということになりそうだ。

他方、立憲主義を取り戻そうとする自覚した国民の側の運動も大きくなりそうだ。「戦争法の廃止を求める2000万人署名」の活動を軸に、多くの市民運動の大同団結が昨年に引き続いて発展している。その運動が背中を押す形で、戦争法廃止・立憲主義の回復・明文改憲阻止のための野党の共闘は、少しずつ形ができようとしている。安全保障をめぐっては、沖縄県民がオール沖縄の団結で安倍政権と激しく対峙している。全国からの支援が沖縄に集中し、全国が沖縄に学ぼうとしている。

昨年に引き続く試練と光明、そのボルテージの高いせめぎ合いが今年7月の参院選で激突する。3分の1の壁をめぐっての攻防である。その結果が今後の憲法状況を占うことになる。アベ政権の改憲野望を挫くか。改憲路線を勢いづかせるか。3月施行となる戦争法の具体的な運用や、自衛隊海外派遣の規模や態様にも大きな影響をもたらすことになる。そして、その前哨戦が1月17日告示24日投開票の宜野湾市長選挙。そして4月の衆院北海道5区補欠選挙。

2015年選挙のない年に、国民は政治を動かす主人公は自分自身なのだということを学んだ。そして、16年には選挙で直接に国政を動かすことができる。仮に7月参院選が総選挙とのダブル選挙となれば、まさしく直接にこの国の方向を決めることになる。

せめぎ合う主要なテーマは、昨年に続いて立憲主義・民主主義・平和主義である。明文改憲でその総体が問われることになる。その明文改憲の突破口が緊急事態条項。来たるべき参院選はまことに重大な位置を占めることになる。7月参院選の闘いは既に始まっている。遠慮せず、臆せず、言論の発信を続けよう。違憲の戦争法を強行したアベの手口を思い起こすだけでなく、口にしよう。黙っていては人を説得出来ない、状況を変えることもできない。憲法擁護を言葉に発しよう。平和の尊さを、民主主義の大切さを語ろう、そして文章に綴ろう。ハガキでも、封書でも、メールでも、ツイッターでも。言論の自由を最大限有効に活用して、ビリケン(非立憲)アベ政権による改憲の野望を打ち砕こう。

こんな骨子を与えられた字数にまとめることにしよう。
(2016年1月9日)

「憲法軽視の反省見えぬ」首相をもつ国であればこそ、国民は北斗を見失ってはならない。

本日の東京新聞「平和の俳句」欄に

  冬北斗心を殺すことなかれ(田中亜紀子・津市)

これを、ふたりの選者それぞれに、金子兜太は「いまこころに決している平和への意思を貫くぞ」と読み、いとうせいこうは「生きて揺らぐなかれ」の意と解する。

北斗は揺るぎのない生き方が目指すかなたにある。誰しも、自分の心のなかに北斗を持ち、北斗を目指す生き方を貫きたいと願う。しかし、それは決して容易なことではない。

北斗は理想の象徴である。冬の夜、凍てつく寒さの中に北斗は高く輝いて動かない。その輝く北斗を見上げては、自らのこころに語りかけ言い聞かせるのだ。いつまでも、この星を目指す心を大切にしよう。理想を曲げ妥協をすること、怯むことは、自分の心を殺すことなのだ、と。

その東京新聞の今日の社説が小気味よい。「安倍首相答弁 憲法軽視の反省見えぬ」というタイトル。ジャーナリズムにとっての北斗は、怯まず臆せず権力への監視と批判に揺るがぬことである。必ずしも容易ではないその姿勢がこの社説には見えて快い。いささかも心を殺すところがないのだ。

「衆参両院での各党代表質問が終わった。野党側は安全保障関連法の成立強行や臨時国会見送りなど、憲法を軽視する安倍晋三首相の政治姿勢をただしたが、首相の答弁には反省が見えなかった」とリードがついている。そうだ、憲法を軽視する安倍晋三には反省が必要なのだ。ところが、反省するどころが、居直り開き直って恥じない。立憲主義を忘れたこの安倍政権の姿勢を徹底して批判しなければならない。

「野党がただしたのは首相の政治姿勢である。安倍政権は昨年9月、多くの憲法学者らが憲法違反と指摘する安保関連法の成立を強行。野党が憲法53条に基づいて臨時国会を開くよう要求しても拒否し続けた。
安保法について、野党側は「憲法違反の法律を絶対に認めない」(岡田克也民主党代表)「安倍内閣には憲法を守る意思がない」(松野頼久維新の党代表)「戦争法廃止、立憲主義回復を求める声が聞こえているか」(穀田恵二共産党国対委員長)などと追及した。
これに対し、首相は「世界の多くの国々から強い支持と高い評価が寄せられている。決して戦争法ではなく、戦争を抑止し、世界の平和と繁栄に貢献する法律だ」などと成立強行を正当化した。臨時国会見送りについても『新年早々に通常国会を召集し、迅速かつ適切に対応している』などと突っぱねた。憲法の規定など、なきがごときである。」
そうだ。忘れるな。ビリケン(非立憲)安倍の憲法無視を。餅を食っても門松がとれても、梅が咲いても桜が散っても、今年の夏の参院選までは、安倍の所業を忘れてはならない。

「首相の答弁からは、憲法と向き合う真摯な姿勢は感じられない。」「自分たちが変えたいと考える現行憲法は軽視する一方、新しい憲法をつくろうというのでは、あまりにもご都合主義だ。」

「憲法は、国民が権力を律するためにある。その原則を忘れ、憲法を蔑ろにする政治家に、改正を発議する資格はそもそもない。」

そうだ。そのとおりだ。国民共通の北斗は立憲主義にある。日本国憲法の理念が、北の空にまばゆいほどに光っているではないか。公権力はその方向に向かなければならない。国民は、権力にその方向を向かせなければならない。

立憲主義をないがしろにする首相を持つ国であればこそ、国民が毅然と北斗を見つめなければならない。メディアは、国民の先頭に立って、方向を踏みはずした政権を厳しく批判し叱咤しなければならない。権力におもねり、あるいは怯むことは、自分の心を殺すことになるのだから。
(2016年1月8日)

新年の伊勢神宮「公式参拝」、そこで首相が祈願したこと

春はあけぼの。冬はつとめて。そして、初春は伊勢神宮だよ。ねえキミ、日本人ならそうだろう。閣僚の仕事始めが伊勢神宮詣で悪かろうはずはない。つべこべ文句を言う奴は、定めし非国民というところだな。

靖国参拝には何かとうるさいメディアだが、閣僚の伊勢詣には何にも言わなくなったから清々しい気分じゃないか。中国も韓国も問題にしていないようだし、ニッキョウソも、ゼンキョウも黙りこくっている。すっかり定着だな。各党の党首も初詣に伊勢まで来りゃあいい。まずは与党の公明党から…、あっ、こりゃ口がすべったかな。

ここはなんたって天つ神の本宗だ。皇室の祖先神。そんじょそこらの神社とは格が違う。権力の頂点にいる私が、神道の総元締めに参拝するのだから、政教分離の問題が起こらないはずはない。しかも首相が、外相やら防衛相ら9閣僚を引き連れての参拝なのだから、これが公式参拝でなかろうはずもない。しかし、それがどうしたってことだ。

三木内閣の時に、私的参拝であるための4原則の基準が打ち出されたね。
 まずは、肩書記帳だ。内閣総理大臣の肩書きを用いないこと。
 次いで、公務の随行者を伴わないこと。
 さらに、交通手段として公用車を用いないこと。
 最後に、玉ぐし料は公費から出費しないこと。

あの三木さんのことだ。律儀に、この4基準を厳守したんだろうな。でも、私はそんなことに頓着しない。昨年、あれだけの反対のあった9条の解釈改憲をやってのけた私だ。20条違反など、ものの数ではない。肩書は堂々と「内閣総理大臣」と記帳した。それで何か? 公務の随行者なくして伊勢詣などできるはずもなかろう。新幹線と近鉄線以外は公用車だよ。玉串料はどこから出したかって? そりゃノーコメントに決まっている。これで何か差し支えがあるのかね。

いまだに、新年の閣僚伊勢神宮参拝は政教分離を定めた憲法20条に違反する、などと執拗に言い続けている連中がいる。最高裁判例では、参拝の目的と効果を吟味することで、政教分離に違反するかしないかを判断するようだ。愛媛玉串料訴訟大法廷判決などではかなり厳格な基準として使われているそうで、判決が合違憲判断にまでいけば違憲となるだろうというアドバイスも受けている。でも、総理大臣の違憲行為は、訴訟では争いにくいそうじゃないか。裁判にもちこむこと自体が難しく、メディアが黙り、政党も騒がないんだから、八方丸く収まっているってことじゃないの。

伊勢神宮参拝で、何を祈願したかって。そりゃ、何よりも皇室の弥栄。そして、世界の平和と、国民の福利。もう一つ特別なのが、6月の伊勢志摩サミットの成功。このあたりが公式見解だね。

でも、ここだけの話だが、ホンネは少し別だ。私は、総理総裁のイスに少しでも長く坐り続けたいのだ。そして、念願の憲法改正をやり遂げたい。なかんずく、自衛隊を堂々の国防軍とする9条改憲を実現することこそが、私がこの世に生を受けた意味なのだ。

そのために私は神宮の祭神に祈願した。「アマテラスよ。日本の守護神よ。なにとぞ今年7月の参院選に我が党を勝利に導きたまえ。思いのとおりの憲法改正発議ができるだけの議席を与えたまえ」。これがメインの願い。

しかし、祈願はそれだけではない。アマテラスは、おそらく選挙情勢に明るくない。だから、もっと具体的なサブ祈願事項が必要だと考えて、次のようにも付け加えた。
「昨年の安保関連法案反対の国民運動が今年は終息しますように」
「あの運動の高揚感を餅を食ったら忘れますように。」「遅くとも、梅が咲く頃には忘れますように」「残った人も、桜の咲くことにはすべて忘れてしまいますように」
「野党が分裂状態を続けて、選挙共闘が成立しませんように。」
「18歳選挙権がわれわれの利益につながりますように。」
「神様、アベノミクスとは結局のところは株価のことなのです。選挙が終われば『あとは野となれ山となれ』で結構ですから、選挙までは東証の株価を維持してください。」
「そして、前哨戦としての選挙が重要です。まずは1月17日告示24日投開票の宜野湾市長選挙です。そして4月の北海道5区補欠選挙。この二つの選挙に勝って弾みをつけさせてください。」
「けっして、我が党の政策が国民の支持を得ることまでは望みません。ともかく、議席が欲しいのです。」
「私は、神道政治連盟に加盟し、神道政治連盟国会議員懇談会でも真面目に活動しています。『国政の基礎に神道を置く』ことを目標に、日々政教分離を掘り崩し、20条改憲の実現を目指す活動に邁進しています。」
「ですから神様。私を嘉して、ご褒美をください。この私の願いを叶えてください。」

なに? 一国の首相としては次元の低過ぎる祈願だと? どうせ私は右翼の軍国主義者、しかも反知性主義で名を売った政治家だ。でもネ、よく言うだろう。国民はそれにふさわしい政府しか持てないってネ。だから、私はキミたちにふさわしい。今のキミたち国民は、私程度の首相しか持てないのさ。
(2016年1月6日)

アベ政権の「緊急事態条項」は、ナチスの「全権委任法」にそっくりではないか

2015年は憲法に大きな傷を負わせた解釈改憲の年だった。明けて16年は、明文改憲が話題の年となりそうな雲行きである。毎日新聞元日号のトップ記事が、「改憲へ緊急事態条項 議員任期特例 安倍政権方針」。そして2面に、「透ける『お試し改憲』 緊急事態条項 他党支持得やすく」という解説記事。見出しだけで内容がよく分かる。改憲勢力にとっても、阻止勢力にとっても、せめぎ合いの正念場が近づきつつあるという緊迫感を持たざるを得ない事態なのだ。

毎日新聞の記事は、「安倍政権は、大規模災害を想定した『緊急事態条項』の追加を憲法改正の出発点にする方針を固めた。」「安倍晋三首相は今年夏の参院選の結果、参院で改憲勢力の議席が3分の2を超えることを前提に、2018年9月までの任期中に改憲の実現を目指す」と、断定調。おそらくそのとおりなのだろう。

政権が目指す改憲の内容は、「衆院選が災害と重なった場合、国会に議員の『空白』が生じるため、特例で任期延長を認める必要があると判断した」というもの。このテーマなら、「与野党を超えて合意を得やすいという期待もある」という。

ニュースソースは「政権幹部」。その政治家が、「首相の描く改憲構想を明らかにした」「首相は在任中に9条を改正できるとは考えていない」「首相は自身が繰り返し述べてきた『国民の理解』を得やすい分野から改憲に着手するとの見通しを示した」という。

また、自民党の保岡興治衆院憲法審査会長が「今後は緊急事態条項が改憲論議の中心になる」と報告したのに対し、首相は「与野党で議論を尽くしてほしい」と応じたこともあげ、「衆院憲法審査会では、衆参両院議員の任期延長や選挙の延期を例外的に認める条項の検討が進む見通しだ」ともいう。

もっとも、毎日のこの記事、ややミスリードの気味もないわけではない。実害あって問題なのは、「一時的な私権の制限」が盛り込まれることで、「政治空白の回避策」(緊急事態における国会議員の任期延長)だけであれば、緊急事態条項提案の合理性を当然の前提としているように読めることである。実は「お試し改憲」などと安閑とはしておられない事態なのではないか。この点、大いに警戒を要する。

毎日の報道は、「自民党の改憲推進派は『最初の改憲で失敗すれば、二度と改憲に着手できなくなる』と懸念しており、首相も国会の議論を見極めながら、改憲を提起するタイミングを慎重に計るとみられる」というもの。これは、誇張ではない常識的な情勢の見方だが、このような情勢判断を含む毎日の記事全体が、政権の観測記事であろうということ。産経や読売ではなく、毎日へのリークであることに意味がある。おそらく、政権はこのような記事への世間の反応を見ているのだろう。

毎日の記事では、緊急事態の内容を《「政治空白の回避策」(緊急事態における国会議員の任期延長》と《「一時的な私権の制限」》とに二分し、前者であれば人畜無害の「お試し改憲」、後者なら「実質的な人権制約改憲」としている。

「政治空白の回避策」とは、衆院が解散後総選挙を経ての国会召集までの間に緊急事態が生じた場合、空っぽの衆院が緊急事態に対応できないではないか、という問題提起への対応策。なに、たいしたことではない。半数ずつ改選の参院が空っぽになることはない。二院制の存在理由の一つはここにある。憲法54条2項但し書きの「内閣は、国に緊急の必要あるときは、参議院の緊急集会を求めることができる」を活用すればよいだけのこと。こんなテーマで、ことさら憲法改正の必要があるわけはない。

憲法は、硬く安定しているところに値打ちがある。現行の規定のままでは耐えがたい不都合が生じており、どうしても条文を変更しなければ不都合を解消できない場合以外には、軽々に変更をすべきではない。東日本大震災においても、事態への対応に憲法が桎梏となった事実はなかった。仮にあの事故が衆院解散中のものであったとしても、事情は変わらない。「54条だけでは大規模災害時の国会対応が不十分になる」という立論は、ためにするものとしか考えられない。要するに、改憲の立法事実が存在しないのだ。

自民党改憲の狙いは、もっと実質的な人権制約にある。「自民党改憲草案」(2012年4月)は、現行憲法にはない「第9章 緊急事態」を設けようと具体的な提案をしている。

そのさわりは、以下のとおりである。

「第98条(緊急事態の宣言)1項 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。

第99条(緊急事態の宣言の効果)1項 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
3項 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、…国その他公の機関の指示に従わなければならない。」

法は「要件」と「効果」で書かれている。緊急事態の要件は、戦争・内乱・政府批判の大行動・自然災害…だけではない。国会で議席の過半数を占めた与党が、「法律の定めるところ」としてどこまでも広げる可能性を残しているのだ。そして、緊急事態の効果。政府の思惑で国民の人権を制約できるのだ。政権にとって、こんなステキな魅力的な魔法のカードはない。

悪名高いヒトラー・ナチスの全権委任法(授権法)は、国会放火事件を口実とする「民族と国家防衛のための緊急大統領令」に続いて登場した、緊急事態に備えての時限立法であった。その第1条「ドイツ国の法律は、憲法に規定されている手続き以外に、ドイツ政府によっても制定されうる」と、アベ・自民党の「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」の近似性に驚かざるを得ない。

大江志乃夫さんはその著「戒厳令」(岩波新書)の前書きで、次の趣旨を述べている。
「緊急事態法制は1枚のジョーカーに似ている。他の48枚のカードが形づくっている整然たる秩序をこの一枚がぶちこわす」

日本国憲法が形づくる、人権と民主主義の整然たる秩序の体系。これを根底からひっくり返すジョーカーが緊急事態条項なのだ。こんな物騒な緊急事態条項改憲を、危険なアベ政権の手に委ねてはならない。後戻りできない、不可逆的な効果を持ちかねないのだから。

さて、明日から始まる通常国会に目を離せない。
(2016年1月3日)

あらたまの年のはじめに

未明、久しぶりに凄味のある金星を見た。やがて薄明。みごとな朝焼けに続く初日。風はなく雲も見えない静かな元日。個人的には何の心配事もない心穏やかな年の初め。啄木の歌を思い出す。

 何となく 今年はよいことあるごとし 元日の空晴れて風なし

もっとも、啄木はこの歌を不幸の中で詠んでいる。また、正月の天気がその年の吉兆を占うものとはならない。「悲しき玩具」所収のこの歌は、2011年の正月の詠であろうが、その年の1月18日には大逆事件の判決が言い渡されている。幸徳秋水以下死刑24名。1月24日には11名の死刑が執行され、翌25日には管野スガが処刑された。「今年はよいことあるごとし」と詠った直後の天皇制の暴虐の極み。啄木が受けた衝撃は大きかった。

本日の朝刊各紙には、今年7月の参院選が総選挙とのダブル選挙となるのでないかとの観測記事が報じられている。解散・総選挙のイニシャチブは政権が握っている。勝算ありと読めば打って出る。勝算読めなければ参院選に集中ということに。もし、安倍政権がダブル選挙に打って出て勝つようなことがあれば、一挙に明文改憲の動きが加速することになろう。とても、穏やかな正月などと言ってはおられない。

1933年3月ヒトラー政権が全権委任法(授権法)を成立させるまで、8か月間に3回の国会選挙を経ている。
 1932年7月31日 ナチ党得票率 37.3%
       11月6日 ナチ党得票率 33.1%
 1933年 3月5日 ナチ党得票率 43.9%

この3度の選挙と国会放火事件の謀略とで、33年3月23日に全権委任法が成立するや、この時点で、憲法改正手続きを経ることなくワイマール憲法は死亡宣告を受けたのだ。

こうしてナチ党の一党支配が確立したあと、1933年11月の「選挙」は、既に選挙ではなかった。有権者は「指導者リスト」と呼ばれたナチ党の単一候補者名簿に賛否を記すことしかできない。投票前の官製選挙キャンペーンでは、「ひとつの民族 ひとりの指導者 ひとつのヤー!(Ja!)」がスローガンとなった(石田勇治)。

選挙は、民意反映の機会ではあるが、民衆が政権に操られたままでは、ファシズムへの手段に転化しうるのだ。

そういえば最近、安倍晋三の顔つきがヒトラーに似てきたのではなかろうか。日本国憲法に、ワイマール憲法の二の舞をさせてはならない。
(2016年1月1日) 

「戦後70周年」のこの年を送る

1945年が「忘れることのできないあの年」であり、「新しい時代の始まりの年」でもあった。2015年は、あの年から70年目。「戦後70年」の「節目」とされた今年には、70年目の記念日が目白押しとなった。

 70年目の3月10日。
 沖縄地上戦戦開始から70年。
 ドイツ降伏70周年。
 沖縄地上戦終了の日から70年。
 広島原爆投下70周年。
 長崎の悲劇から70年。
 ポツダム宣言受諾70年。
 70年目の敗戦記念の日‥‥。

それぞれの「節目」の日々には、思い起こすべきこと、語り合うべきこと、そして語り継ぐべきことが山積していた。もしかしたら、そのラストチャンスとして。

一年を振り返って、歴史は十分に思い起こされ、論議され、教訓として噛みしめられただろうか。戦争の悲惨な体験や、平和の貴重さ脆弱さは、若い世代に語り継がれただろうか。70年前に国民が共有した国の再生の初心は忘却の淵から救われただろうか。

とりわけ大事なこととして、70年前絶望的な戦況であることを十分に認識しながら、つまらぬ「國體の護持」にこだわり続けて、この上なく貴重な国民の生命を犠牲にして恥じないこの国の指導者たちの責任について、十分に語り合えただろうか。戦争の終結をもっと早く決断すべきであったのにこれを怠り、数百万の命を無駄死に追い込み、無数の悲劇をもたらした者たちの責任追求を忘れ去ってはいないだろうか。

國體の護持のために国民の命が犠牲にされた愚かな時代。国民個人よりも国家や天皇が貴重な価値とされた倒錯の時代ゆえの悲劇。今は、個人が国家や社会に優越する根源的価値であるという当たり前の常識が危うい。「日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」はこの時代への再逆転を指向するものではないか。

なんとも心許ない。2015年は、憲法の危機の年として明け、9月19日参議院での戦争法「成立」の日がこの1年を象徴する日となった。アベ政権の罪科であり、これを許した国民の責任でもある。

思い起こせば、今年のキーワードは次のような、なくもがなのものが目につく。
「戦争法」「日米ガイドライン」「沖縄・辺野古」、そして「反知性主義」「反立憲主義」「安倍一強」「慰安婦問題」‥。

しかし、パンドラの箱が開いても希望は残る。戦争法反対デモの群衆こそ希望ではないか。それだけではない。「アベ政治を許さない」「シールズ(SEALDs)」「民主主義って何だ」「安保関連法に反対するママの会」「自民党、感じ悪いよね」と口にした多くの人々。そして、沖縄へのこぞっての世論の支援は、来年に通じる希望である。

不安と希望とが入り交じって、2015年が暮れていく。

(2015年12月31日)

「従軍慰安婦」問題 国家間での合意が真の解決ではない

謝罪は難しい。財産的被害に対する償いであれば、金銭の賠償で済ませることもできよう。しかし、被害者の人間としての尊厳を踏みにじった加害者が、その誠実な謝罪によって被害者の赦しを得ることは、この上ない至難の業である。至難の業ではあっても、道義を重んじる立場を世界に宣言した日本は、その国家の名誉にかけ全力をあげてこの崇高な行為を達成しなければならない。

そのような視点から昨日(12月28日)の「従軍慰安婦」問題に関する日韓外相合意を眺めて、あれが被害者・被害国民への真の謝罪となりうるとは思えない。到底これで問題解決ともならない。その理由をいくつか挙げてみよう。

まずなによりも、韓国政府がこの問題での被害当事者を代理する権限を持っているのか甚だ疑わしい。元「慰安婦」とされた当事者の意向を確認せずに、「最終的かつ不可逆的に解決する」ことなどできようはずはない。これまでも、国家間の戦争責任に関する解決合意が個人を拘束する効力を持つか否かが激しく争われてきた。今回のようなどさくさ紛れの国家間の政治決着で、被害者個人の精神的損害が慰謝されるはずもなく、人間の尊厳が修復されたとして納得できるはずもない。

謝罪には、対象の特定が必要である。何をどのように悔いて謝罪しているのか、その表明における明確さが道徳的悔悟の誠実さのバロメータとなる。今回の合意における謝罪は、そのような誠実さを表明するものにはなっていない。

「最終的かつ不可逆的に解決する」との合意内容は、日韓両国の信じがたい不誠実さの象徴というほかはない。

「これから私はあなたに謝ることにしよう。但し、これ一回限りと心得てもらいたい。二度と謝罪を要求しないという条件がついているから謝罪するんだ。私はこれ以上二度とは謝らないし、あなたの方も蒸し返すなどしてくれるな。」

そう言っているのだ。いったい、こんな謝罪のしかたがあるだろうか。こんな上から目線の謝罪を受け入れる被害者がいるだろうか。国家間の政治決着だからこそ、こんな不条理がまかりとおるのだ。

試されているのは、加害者側の誠実さである。真の宥恕を得るためには、ひたすらに被害者の心に響く誠実さを示し続け、その誠意を受容してもらうよう努力を重ねるしか方法はない。

これまで村山談話や河野談話を否定しようと画策してきた前歴を持つ安倍晋三が、「責任を痛感」「心からのおわびと反省」と口にしても、謝罪の誠意は伝わらないだろう。日本国民が、安倍のような歴史修正主義者を首相としている限りは、真の宥恕を得ることは無理ともいうべきだろう。

戦争と植民地支配とのさなかで生じた、加害・被害の歴史的事件。これは、拭っても拭っても消しようがない事実なのだ。われわれは、その事実を偽ることなく認識し、記憶し、忘却することのないよう語り継がねばならない。それこそが、不誠実な政府しか持ち得ない日本の国民として、われわれが歴史と向き合う誠実な態度だと思う。
(2015年12月29日)

来たる年にこそ、力を合わせてアベ・ビリケン(非立憲)内閣を懲らしめよう。

今年も残すところあと僅か。ちらほらと、フライングの新年の挨拶状が届く。暮れの慌ただしいさなかに場違いな感を否めないが、年越し前の週刊紙誌の新年号配達はやむを得ない。

本日、新宗教新聞の元日号が届いた。一面のトップに、穂積秀胤新宗連理事長による長文の年頭所感が掲載されている。その中見出しが、「絶対非戦の平和活動を推進」「信教の自由、立憲主義を堅持し」となっていることに注目せざるを得ない。「戦後70年の」2015年を振り返っての文章の中に、次の一節がある。

「昨年9月19日、日本の戦後防衛政策の大きな転換となる安全保障関連法が参議院本会議で成立しましたが、先立つ17日の参議院特別委員会では『議場騒然、聴取不能』と議事録に記載される採決でもありました。新宗連はこうした議会制民主主義を揺るがしかねない採決に対して同日、『安全保障関連法案の参議院強行採決に対する声明』を発表いたしました。声明では、法案採決が正規の憲法改正手続きを経ないまま『憲法を根底から揺るがすもの』と危機感を表し、立憲主義が時の政府の『解釈改憲』によって損なわれることがなきよう訴えました。
 今後も解釈改憲が拡大していけば、新宗連の原点である『信教の自由』(憲法20条)をはじめ『個人の尊重』(13条)、『思想・信条の自由』(19条)、『集会・結社・表現の自由』(21条)も歪められる恐れがあります。
 新宗連といたしましては、時代がどう変化しようとも断固として、基本的人権の根幹たる『信教の自由』を守りぬかねばなりません。その決意をあらたにするところでございます。」

政権の解釈改憲に心を痛め、その強引な国会運営に憤り、そして時の政府の解釈改憲手法に将来への危機感を持つ人々がここにもいる。そして、アベ政権の解釈改憲手法の拡大が憲法上の権利を侵害していくことを恐れるだけでなく、断固として憲法原則を守り抜く決意を表明していることに感慨を覚える。

保守か革新か、強引な線引きをすれば新宗連は明らかに保守の側に分類されるだろう。かつて新宗連は、組織内候補を国会に送ったが、その所属は自民党だった。その新宗連も、アベ政権とは一線を画さざるを得ない。立憲主義をないがしろにするアベ政権を、自分たちに牙をむきかねない危険な存在として批判せざるを得ないのだ。アベ政治の基盤は、けっして強固なものではない。

私は、今年9月、新宗連が「安全保障関連法案の参議院強行採決に対する声明」を発表したとき、次のように評した。

「真面目に社会と関わろうする姿勢を持ち、真面目にものごとを考えようとする集団は、必然的にこのような政権批判の声明を出すことになるのだ。かつては、必ずしも『真面目な集団=反自民』ではなかった。しかし今や、宗教団体でも平和団体でも、女性団体でも消費者団体でも、『真面目な集団=反安倍政権』の図式が確立していると考えざるをえない。新宗連がそのよい実例ではないか。願わくは、この姿勢をぜひ来年夏の参院選挙まで持続して、安倍政権の追い落としに力を貸していただきたい。」(9月28日・新宗教新聞1面に「安保法案 強行採決に反対、抗議」の記事)
  https://article9.jp/wordpress/?p=5681

新宗連の年頭所感で、さらに注目すべきは、「平和推進事業の一端として、今年度は『立憲主義の堅持』をテーマとする学習会の開催を検討している」としていることである。立憲主義は、かくも社会に根付き、かくも実践的なテーマとなっているのだ。立憲主義が崩れるとき、政権の専横を止めようのない事態に陥る。人権も、議会制民主主義も、平和も崩壊の危険にさらされる。そのことが、真面目にものを考える人々の間に、浸透し始めているのだ。

今年は、アベ・ビリケン(非立憲)内閣が持ちこたえた。しかし、来年こそはこのビリケン内閣を窮地に追い込まなければならない。
(2015年12月28日)

けっして、「魂の飢餓感」と「澄み切った法律論」の対決ではないー辺野古代執行訴訟法廷

昨日(12月2日)が、辺野古代執行訴訟の第1回口頭弁論。冒頭、翁長知事自身が被告本人として意見陳述を行った。覚悟のほどを見せたわけである。

翁長さんは、那覇市議から、沖縄県議、そして那覇市長の経歴を保守の陣営で過ごし、その後に「オール沖縄」の支援を得て知事になった人。県民の意を体して、国と対峙して一歩も引かないその姿勢はみごとというほかはない。

もともとは保守の陣営に属しながら、辺野古新基地建設反対のスローガンで当選した翁長知事。就任の当初には、行く行くはぶれるのではないか、県民を裏切りはしまいかという心配がつきまとっていた。知事の耳にもはいるこのような懸念に対して、知事は当選直後に「裏切るなら死ぬ」と述べている。

「ボクは裏切る前に自分が死にますよ。それくらいの気持ちを言わないとね、沖縄の政治はできないですよ。今、予測不可能ななかでね、こんな言い方をされるとね。その時は死んでみせますというね、そのくらいの決意」(「荻上チキSession-22」TBSラジオ、2014年11月17日)

さらに、知事の妻・樹子さんの存在も大きい。琉球新報が、本年11月9日付で報道するところでは、
「新基地建設に反対する市民らが座り込みを続ける名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前に7日、翁長雄志知事の妻・樹子さんが訪れ、基地建設に反対する市民らを激励した。
 樹子さんは…市民らの歓迎を受けてマイクを握り、翁長知事との当選時の約束を披露した。『(夫は)何が何でも辺野古に基地は造らせない。万策尽きたら夫婦で一緒に座り込むことを約束している』と語り掛けると、市民からは拍手と歓声が沸き上がった。『まだまだ万策は尽きていない』とも付け加えた樹子さん。『世界の人も支援してくれている。これからも諦めず、心を一つに頑張ろう』と訴えた。座り込みにも参加し、市民らと握手をしながら現場の戦いにエールを送っていた。」

たとえ敗れても、県民とともに抵抗の姿勢を示そうという知事夫妻。県民世論からの絶大な支持を集めて当然であろう。県民世論だけでなく、国民全体の世論の支持も高まっている。政治的には、完全に国に勝っていると言ってよい。国が原告になって裁判に打って出たのは、傲慢なイジメの構図としか見えない。あとは、法廷での勝利を切に期待したい。

その知事が覚悟のほどを見せた法廷の模様は、本日各紙のトップを飾っている。
県と国の双方の主張を手際よくまとめた本日の東京新聞報道を引用したい。
「翁長氏は、住民を巻き込んだ沖縄戦や、米軍に土地を強制接収され、戦後七十年続く基地負担の実態を説明した。『政府は辺野古移設反対の民意にもかかわらず移設を強行している。米軍施政権下と何ら変わりない』と批判し『(争点は)承認取り消しの是非だけではない。日本に地方自治や民主主義はあるのか。沖縄にのみ負担を強いる安保体制は正常か。国民に問いたい』と訴えかけた。」

「国側は主張の要旨を読み上げ、まず『基地のありようにはさまざまな意見があるが、(法廷は)議論の場ではない』と指摘。『行政処分の安定性は保護する必要があり、例外的な場合しか取り消せない』と強調した。移設が実現しなければ普天間飛行場の危険性が除去されず、日米関係が崩壊しかねないなどの大きな不利益が生じるため、取り消しは違法と訴えた。」

朝日も同様に、県と国との主張を要約している。
「翁長氏は陳述で、琉球王国の時代からの歴史をひもとき、沖縄戦後に強制的に土地が奪われて米軍基地が建設された経緯を説明。『問われているのは、埋め立ての承認取り消しの是非だけではない』と指摘。『日本に地方自治や民主主義は存在するのか。沖縄県にのみ負担を強いる日米安保体制は正常と言えるのか。国民すべてに問いかけたい』と訴えた。」

「一方、原告の国は法務省の定塚誠訟務局長が出席し、『澄み切った法律論を議論すべきで、沖縄の基地のありようを議論すべきではない』などと主張。埋め立て承認などの行政処分は「例外的な場合を除いて取り消せない」とし、公共の福祉に照らして著しく不当である時に限って取り消せる、と述べた。」

各紙がほぼ同様の調子で、これに翁長意見陳述の全文を掲載している。「歴史的にも、現在においても、沖縄県民は自由・平等・人権・自己決定権をないがしろにされてきた」として、「魂の飢餓感」を訴えた格調の高いものだ。だがなんとなく、原告国側が法的論点を絞り込み、被告県側は論点を拡散させて背景事情ばかりを述べている、そんな報道の雰囲気がなくもない。そのことが気になる。

しかし、その気がかりは不要なのだ。朝日が要約する訴状請求原因の骨子は以下のようなもの。
(1) 公有水面埋立法の埋め立て承認は、承認を受けた者に権利が生じる『受益的処分』だ。処分した行政庁が自らの違法や不当を認めて取り消すには、維持することが公共の福祉に照らして著しく不当だと認められるときに限られる。
(2) 取り消しによって普天間飛行場の危険性除去ができなくなり、日米両国の信頼関係に亀裂が生じかねず、既に投じた473億円が無駄になるなど計り知れない不利益が生じる。埋め立てによって辺野古地区の騒音被害や自然環境の破壊などが生じるが、その不利益は極めて小さい。
(3) そもそも承認に法的瑕疵はなく取り消せない。また、米軍施設の配置場所など国の存立や安全保障に関わる国の重要事項について、知事に適否を判断する権限はない。

えっ、これが「澄み切った法律論」? ちっとも澄み切ってはいない。公共性は我にあり、という濁りきった傲慢な姿勢。

こうした国側の主張に対し、県側は「『(埋立て承認を国が知事に求めた根拠の)公有水面埋立法には、国防に関する事業を除外する規定はない』とし、知事が埋め立て承認を審査するのは当然だと訴えた」(東京)。

実はここが重大だ。裁判所がこの争点をどうとらえるかで、訴訟の様相はがらりと変わる。そもそも日本国憲法の平和主義の理念からは、軍事や国防の「公共性」を認めることができない。国は、そのホンネにおいて、「県知事の公有水面埋立承認の取消処分」(要するに、辺野古新基地建設阻止)は、「国防上重大な利益を損なう」と主張しているのだ。しかし、憲法訴訟となることを避けて、あからさまにはホンネを語れない。慎重に「普天間飛行場の危険性除去ができなくなり、日米両国の信頼関係に亀裂が生じかねず、既に投じた473億円が無駄になる」としか言えない。

本来は、軍備による平和や、軍事同盟(安保条約)の公共性を問う議論に発展しうるこの訴訟。その点では、砂川事件と同質のものをもっているのだ。「澄み切った法律論」とは、9条や安保の論議を避けた法律論を指しているのだろう。その思惑のとおりとなるかどうか、予断を許さない。

また、沖縄県側は、けっして「魂の飢餓感」を中心に、「背景事情」ばかりを主張しているのではない。原告国の方から、「公共の福祉」論や利益・不利益の「衡量論」をもちだされたのだ。背景としての歴史的経過は単なる事情にとどまらない。小さくない法的な意味をもちうる。

さらに、県側の積極的な法的主張がある。東京新聞の要約では以下のとおり。
? 辺野古移設強行は自治権の侵害で違憲
? 埋め立て承認は環境への配慮が不十分で瑕疵がある
? 代執行は他に手段がない場合の措置で、国は一方で取り消し処分の効力を停止しているため、代執行手続きを取れない

いずれも重い論点だ。裁判所は真摯に向き合わねばならない。
?は、法が知事の権限としたものを、国が軽々に取り上げてよいのか。県民の圧倒的世論を無視しての辺野古建設強行が許されるのか、という問題。

?は、訴訟の中心となる争点だが、法は「都道府県知事ハ埋立ノ免許ノ出願左ノ各号ニ適合スト認ムル場合ヲ除クノ外埋立ノ免許ヲ為スコトヲ得ズ」として「国土利用上適正且合理的ナルコト」「其ノ埋立ガ環境保全及災害防止ニ付十分配慮セラレタルモノナルコト」を挙げている。つまり、「環境保全等に十分配慮されたものであることが確認されるまでは、知事は許可(国に対する場合は「承認」という)してはならないのだ。

そして?。これが一番分かり易い。国が代執行という強権手段をとることができるのは、他にとるべき手段がない場合に限られる。知事が承認を取り消して、「工事を続行するためには、代執行を申し立てる以外に他の手段がない」ことが必要なのだ。ところが、国は行政不服審査法に基づく審査請求申立をし、お手盛りで執行停止まで実現してしまった。現に工事は続行している。結局は、「他に手段がない場合に限る」という要件を欠いている、という指摘なのだ。

これだけの争点があって、証人尋問なしで結論を出せるはずはなかろう。被告の言い分を汲んで、原告の請求を棄却あるいは却下する判決なら証人尋問なしで書ける。しかし、実のある判決を書くためには、証人調べは不可欠だろう。裁判所は、真摯に対応しなければならない。国民はこの訴訟を見守っているのだから。しかも、ぶれない知事と県民の気迫に、エールをおくりつつである。
(2015年12月3日・連続第976回)

アベ政権の反知性主義に毒されてはならない

上村達男(元NHK経営委員)著の「NHKはなぜ、反知性主義に乗っ取られたのか」(東洋経済新報社)が話題となっている。題名がよい。これに「法・ルール・規範なきガバナンスに支配される日本」という副題が付いている。帯には、「NHK経営委員長代行を務めた会社法の権威による、歴史的証言!」。著者は、人も知る「法・ルール・ガバナンス」のプロ中のプロ。その著者が、直接にはNHKのガバナンスについて報告しつつも、「規範なきガバナンスに支配される日本」を論じようというのだ。これは興味津々。

私はこの本をまだ読んでいない。11月29日(日)の赤旗と朝日の両書評を見た限りで触発されての本日のブログである。

NHKの反知性が話題になっているのは、およそ知性とかけ離れた会長のキャラクターによる。元NHKディレクターの戸崎賢二による赤旗の書評の表題が、「衝撃の告発 根源的な危機問う」と刺激的だ。NHK会長の反知性ぶりが並みではなく衝撃的だというのだ。その籾井勝人の「反知性」の言動を間近に見た著者の「衝撃の告発」「歴史的証言」にまず注目しなければならない。

「上村氏は2012年から3年間NHK経営委員を務め、籾井会長時代は経営委員長代行の職にあった。この時期に氏が体験した籾井会長の言動の記録は衝撃的である。自分に批判的な理事は更迭し、閑職に追いやる、気に入らないとすぐ怒鳴り出す、理事に対しても『お前なー』という言葉遣い、など、巨大組織のトップにふさわしい教養と知見が備わっていない人物像が描かれている。」

これは分かり易い。しかし、問題はその先にある。「反知性」の人物をNHKに送り込んだ「反知性主義者」の思惑が厳しく問われなければならない。
「著者は、こうした(籾井会長の)言動を『反知性主義』と断じているが、会長批判に終始しているわけではない。安倍政権が、謙抑的なシステムを破壊しながら、国民の反対を押し切って突き進む姿も『反知性主義』であり、政権のNHKへの介入の中で起こった会長問題もその表れであるという。」「NHK問題の底流には日本社会の根源的な危機が存在している、という主張に本書の視野の広さがある。」

朝日の方は、「著者に会いたい」というインタビュー記事。「揺らぐ『公正らしさ』への信頼」というタイトルでのものだが、さしたるインパクトはない。それでも、著者の次の指摘に目が留まった。

「公正な情報への信頼が揺らげば、議論の基盤が失われ、みんなが事実に基づかずに、ただ一方的に言葉を投げ合うような言論状況が起きかねない。『健全な民主主義の発展』に支障が生じるのではないか、と懸念する。」

民主主義は「討議の政治」と位置づけられる。討議における各自の「意見」は各自が把握した「事実」に基づいて形成される。各自が「事実」とするものは、主としてメディアが提供する「情報」によって形づくられる。公共放送の使命を、国民の議論のよりどころとなる公正で正確な情報の提供と考えての上村発言である。

おそらく誰もが、「あのNHKに、何を今さら途方もない過大の期待」との感をもつだろう。政権と結びつき政権の御用放送の色濃い現実のNHKである。そのNHKに、「議論の基盤」としての公正な報道を期待しようというのだ。それを通じての「健全な民主主義の発展を」とまで。

一瞬馬鹿げた妄想と思い、直ぐに考え直した。反知性のNHKではなく、憲法の理念や放送法が想定する公共放送NHKとは、上村見解が示すとおりの役割を期待されたものではないか。その意味では、反知性主義に乗っ取られたNHKは、民主主義の危機の象徴でもあるのだ。到底このままでよいはずがない。

さて、「NHKはなぜ、反知性主義に乗っ取られたのか」という問について考えたい。この書名を選んだ著者には、「乗っ取られた」という思いが強いのだろう。では、NHKは本来誰のもので、乗っ取ったのは誰なのだろうか。

公共放送たるNHKは、本来国民のものである。国家と対峙する意味での国民のものである以上、NHKは国家の介入を厳格に排した独立性を確立した存在でなくてはならない。しかし、安倍政権はその反知性主義の蛮勇をもってNHK支配を試みた。乱暴きわまりない手口で、まずは右翼アベトモ連中を経営委員会に順次送り込み、その上で反知性の象徴たる籾井勝人を会長として押し込んだ。NHK乗っ取り作戦である。

NHKを乗っ取った直接の加害者は、明らかに安倍政権である。解釈改憲を目指しての内閣法制局長人事乗っ取りとまったく同じ手法。そして、乗っ取られた被害者が国民である。政権が、反知性主義の立場から反知性の権化たる人物を会長に送り込む人事を通じて、国民からNHKを乗っ取った。一応、そのような図式を描くことができよう。

しかし、安倍政権はどうしてこんなだいそれたことができてしまうのか。政権を支えているのは、けっして極右勢力や軍国主義者ばかりではない。小選挙区制というマジックはあるにせよ、政権が比較多数の国民に支えられていることは否定し得ない。自・公に投票しなかった国民も、この間の政権によるNHK会長人事を傍観することで、消極的あるいは間接的に乗っ取りに加担したと言えなくもない。

とすれば、国民が国民からNHKを乗っ取ったことになる。加害者も被害者も国民という奇妙な図。両者は同一の「国民」なのか、それとも異なる国民なのか。

「反知性主義」とは、国民の知的成熟を憎悪し、無知・無関心を歓迎する政権の姿勢である。自らものを考えようとしない統治しやすい国民を意識的にはぐくみ利用しようという政権の思惑といってもよい。反知性主義者安倍晋三がNHKに送り込んだ反知性の権化は、政権の意を体して「政府が右を向けというからいつまでも右」という報道姿勢をとり続けている。今のところ、反知性主義者の思惑のとおりではないか。

ヒトラー・ナチス政権も旧天皇制政府も、実は「反知性の国民」からの熱狂的な支持によって存立し行動しえたのだ。国民は被害者であるとともに、加害者・共犯者でもあるという側面を否定できない。再びの過ちを繰り返してはならない。反知性主義に毒されてはならず、反知性に負けてはならない。

厚顔と蛮勇の前に知性は脆弱である。が、必ずしも厚顔と蛮勇に直接対峙しなければならないことはない。大きな声を出す必要もない。心の内だけででも、政権の不当を記憶に刻んで忘れないとすることで対抗できるのだ。ただ粘り強さだけは必要である。少なくとも、反知性の徒となって、安倍政権を支える愚行に加わってはならない。それは、いつか、自らが悲惨な被害者に転落する道に通じているのだから。
(2015年12月1日・連続第975回)

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