本日(10月10日)が、戦後25回目となる総選挙の公示日。憲法の命運を左右しかねない政治戦のスタート。アベ政権という国難除去が主たる課題だ。その主役は有権者であって、けっして政党でも政治家でもない。
当然のことながら、候補者もメディアも、そして選挙管理行政も、有権者が正確な政治的選択に至るように清潔で自由な環境を整備しなければならない。カネや利益誘導で民意を歪めてはならない。嘘とごまかしで、有権者をたぶらかしてはならない。虚妄の政権を作りあげてはならない。
強調したいことは、選挙という制度において投票はその一半に過ぎないということである。多様な国民の言論戦の結果が有権者の投票行動に結実する。投票の前には、徹底した言論戦が展開されなければならないのだ。今回の選挙では、まずはアベ政権という国難の実態が徹底した批判に曝されなければならない。それに対する防御の言論活動もあって、しかる後に形成された民意が投票行動となる。
論戦の対象とすべきものは、
アベ政権の非立憲主義。
アベ政権の反民主主義。
アベ政権の好戦姿勢。
アベ政権の政治と行政私物化の体質。
アベ政権の情報隠匿体質。
アベ政権の庶民無視の新自由主義的経済政策。
アベ政権の原発推進政策。
アベ政権の対米追随姿勢。
アベ政権の核の傘依存政策。
アベ政権の核廃絶条約に冷ややかな姿勢。
アベ政権の沖縄新基地対米追随姿勢。
………
いまここにある、アベという存在自体の国難を、具体的に指摘し摘除しなければならないとする壮大な言論戦において、有権者は積極的なアクターでなくてはならない。「よく見聞きし分かる」ことを妨げられない「知る権利」だけでなく、自分の見聞きしたこと考えたことを発信する権利も最大限保障されなければならない。まさしく、憲法21条の表現の自由が、最大限に開花しなければならないのが、選挙における言論戦なのだ。
ところが、公職選挙法は基本構造が歪んでいる。憲法が想定する建て付けになっていないのだ。だから、総選挙公示とともに、さまざまな不都合が生じる。
私たちは、地域で「本郷湯島九条の会」を作って、ささやかながらも地道な活動を続けている。毎月第2火曜日を、本郷三丁目交差点「かねやす」前での、護憲街頭宣伝活動の日と定めて4年以上になる。この間、厳冬でも炎天下でも、街宣活動を続けてきた。ところが、たまたま本日が10月の第2火曜日となり、予定の「本郷湯島九条の会」街頭宣伝行動が選挙期間と重なった。
その結果、奇妙な政治活動規制がかかることになる。その根拠は、「公選法201条の5」。まことに読みにくい条文だが、そのまま引用すれば、以下のとおり。
(総選挙における政治活動の規制)
第201条の5 「政党その他の政治活動を行う団体は、別段の定めがある場合を除き、その政治活動のうち、政談演説会及び街頭政談演説の開催、ポスターの掲示、立札及び看板の類(政党その他の政治団体の本部又は支部の事務所において掲示するものを除く。以下同じ。)の掲示並びにビラ(これに類する文書図画を含む。以下同じ。)の頒布(これらの掲示又は頒布には、それぞれ、ポスター、立札若しくは看板の類又はビラで、政党その他の政治活動を行う団体のシンボル・マークを表示するものの掲示又は頒布を含む。以下同じ。)並びに宣伝告知(政党その他の政治活動を行う団体の発行する新聞紙、雑誌、書籍及びパンフレットの普及宣伝を含む。以下同じ。)のための自動車、船舶及び拡声機の使用については、衆議院議員の総選挙の期日の公示の日から選挙の当日までの間に限り、これをすることができない。」
分かり易く要約すると、
「(政党に限らず)政治活動を行う団体は、その活動のうち、街頭政談演説の開催、ポスターの掲示、立札及び看板の類の掲示並びにビラ頒布並びに宣伝告知のための自動車及び拡声機の使用については、総選挙期間中に限り、これをすることができない。」
つまり、「本郷湯島九条の会」も、政治的な主義主張をもって活動している以上「政治活動を行う団体」と見なされるとすれば、これまで4年間やってきた街頭宣伝行動のスタイルをとることができない。
私たちは、会の横断幕を掲げ、会のポスターを掲示し、毎回会が作成した手作りのビラを配布し、スピーカーを使い、場合によっては宣伝カーを借りて訴えをしてきた。条文を素直に読む限り、これが違法というのだ。
念のために付言しておくが、本郷湯島九条の会が、特定政党や特定候補の応援をしたことはない。もちろん、投票依頼などしたこともなければする意思もない。それでも、公選法第201条の5が介入してくる。これは、「選挙運動」規制ではなく、選挙期間中に限ったことだが、「政治活動」を対象とする規制なのだ。
そこで、対策を相談した。
第1案 急遽日程を繰り上げて、街宣行動をしてはどうか。これなら、予定の通り、いつものとおりの憲法擁護の宣伝活動が可能だ。
第2案 「九条の会」としてではなく、徹底して個人として行うことなら、201条の5が介入してくる余地はない。スピーカーは使える。。署名活動もできる。しかし、そうすれば、会の名のはいったビラは一切撒けない。横断幕もないことになる。
第3案 「九条の会」として街宣活動をし、合法主義を貫く。ビラなし。横断幕なし。スピーカーなし。肉声ないしメガホンでの宣伝活動をする。
第4案 公選法第201条の5の「政治活動を行う団体」を限定して解釈する。あるいは条文を無視する。憲法に違反している法が有効なはずはない。また、現実的に逮捕や起訴はあり得ないのだから、警告や指導が入るまで予定の通りにやればよい。
**************************************************************************
結局、第2案を採用することとなった。たまたま、このとき、ここに集まった個人が、それぞれ個人としての意見を表明するということ。このことに、文句を付けられる筋合いはない。
冒頭、私がマイクを握って、次のような発言をした。
ご近所のみなさま、ご通行中の皆さま、私は、本郷5丁目に在住する弁護士です。
日本国憲法とその理念をこよなく大切なものと考え、いま、憲法の改悪を阻止し、憲法の理念を政治や社会に活かすことがとても大切との思いから、志を同じくする地域の方々と、本郷湯島九条の会というささやかな会を作って、憲法を大切しようという運動を続けて参りました。
会は、毎月第2火曜日の昼休み時間を定例の街頭宣伝活動の日と定めて、これまで4年以上にわたって、ここ本郷三丁目交差点「かねやす」前で、護憲と憲法理念の実現を訴えて参りました。とりわけアベ政権の憲法をないがしろにする姿勢を厳しく糾弾しつづけまいりました。この4年間、厳冬でも炎天下でも続けてきた、「本郷湯島九条の会」街頭宣伝行動ですが、本日は理由あって中止いたします。
会は、毎回会の名を明記したビラを作成し配布してきましたが、本日はビラはありません。毎回、「九条の会」の横断幕と、幟を掲げてきましたが、本日横断幕も幟もないのはそのためです。
会としての街頭宣伝活動を中止するのは、本日総選挙の公示がなされたからです。公職選挙法にはまことに奇妙な規定があります。
公職選挙法201条の5は、「(政党に限らず)政治活動を行う団体は、その活動のうち、街頭政談演説の開催、ポスターの掲示、立札及び看板の類の掲示並びにビラ頒布並びに宣伝告知のための自動車及び拡声機の使用については、総選挙期間中に限り、これをすることができない。」としています。
つまり、選挙期間中は、団体としての政治活動のうち、看板の掲示やビラの配布、スピーカーの使用が禁じられているのです。私は、これは明らかに憲法に違反した無効な規定だと考えますが、「本郷湯島九条の会」としては違法とされていることはしないことにいたしました。
ですから、今私は「本郷湯島九条の会」の会員としての発言をしていません。飽くまで個人としての意見を表明しています。
選挙期間中といえども、個人として政治的見解を表明することに何の制約もありません。むしろ、選挙期間中は、有権者が最大限に表現の自由の享受を発揮しなければならないと思います。本日、ここに幾つかのポスターがあります。「いまこそ、9条守るべし」「核廃絶運動にノーベル平和賞」などのもの。中にはやや大型のポスターもありますが、すべて個人の意見表明としてなされているもので、団体の意思表明ではありません。
そして、たまたまこの場に居合わせた方が、ご自分の個人的な意見を表明したいとおっしゃっています。その方々に、順次マイクをお渡しします。
今日が大事な総選挙の公示日で、10月22日が投票日となります。このスピーカーを通じて流れる個人的なご意見は、その選挙の意義に関わる訴えになろうかと思いますが、あくまで本郷湯島九条の会としての発言ではないことをご理解ください。
(2017年10月10日)
激動の臨時国会冒頭解散の一日(9月28日)が明けて。メデイアの報道は、《アベ与党》対《小池新党》対立の構図で充ち満ちている。あたかも、有権者の選択肢はこの二者しかないかのごとくだ。しかし、どちらを選んでも、改憲勢力である。どちらも働く市民の味方ではない。どちらも、平和と民主主義を目指す勢力ではない。
かたや、《アベ与党》は虎である。これまで大企業の利益をもっぱらにして勤労市民に犠牲を強いてきた凶暴な虎。自分勝手なトランプとの同盟関係の堅固を誇る危険な虎。傍若無人に密林に君臨するようになって5年に近く、今や「9条改憲」と吠えている老虎である。
こなた、《小池新党》は狼である。前門の虎から逃れようとする人々を後門で待ち構える若い狼。小池百合子の権力欲に形を与えるとまさしく狼の姿となる。「日本のこころ」の代表を原始メンバーに加えておいて、民進の護憲リベラル派の参加には牙をむいて排除しようという、その心根が既に狼である。有権者は、火を避けて水に陥る愚を犯してはならない。
目前の総選挙の争点はなによりも「憲法」。対抗軸は「改憲か護憲か」である。警戒すべきは明文改憲だけではなく、解釈改憲も、なし崩し壊憲も、である。「虎」も「狼」も改憲勢力であり、平和主義・民主主義・立憲主義・人権原理に背を向けるからこそ危険な存在なのだ。どちらを勝たせても、特定秘密保護法も戦争法も共謀罪もなくなることはない。もしかしたら、改悪される恐れすらある。
選挙の主人公は、政党でも候補者でもない。もちろんメディアでもなく、飽くまでも有権者こそが主人公である。主権者が国政の進路を決定するために、このときに有権者として立ち現れるのだ。主権者が自らを主権者として自覚する機会でもある。
その主権者は、けっして改憲も壊憲も望んではいない。平和と人権と民主主義の確立と堅持とを望んでいる。その主権者の意を体する市民と野党が、護憲勢力として結集し、共闘の条件整備の努力を積み重ねてきた。政党は、その共闘の主体としての市民をけっして裏切ってはならない。
勤労市民にとっては、虎と狼とどちらを選んでも後悔することになる。改憲指向の保守2党しか選択肢がないとすれば、大政翼賛状況に等しい。10月10日の公示までには全選挙区に主権者の選択肢として、虎でも狼でもない護憲の鳩が羽ばたくことになるだろう。
いま、目の前に繰り広げられた突然の事態に、メデイアも有権者も戸惑いを隠せない。劇場型の政治の流れに翻弄されてメディアの誤導が甚だしいが、これに惑わされてはならない。もう少し落ちつけば、虎と狼の本性が暴かれることになるだろう。まだ時間はある。一時的な暗転に目を眩まされることなく、落ちついて政策や候補者を見極めよう。とりわけ、小池百合子とはこれまで何をし、どんな発言をしてきた人物なのかを見据えよう。
そのうえで、ぜひとも、前門の虎でも後門の狼でもない、護憲の鳩をこそ選択するよう呼びかける。
(2017年9月29日)
日曜日。久しぶりに小石川植物園で寛ぐ。喧噪とは無縁の16万?。生き返るような解放感。本日初めて見たもの。タヌキノカミソリ、センコウハナビの花。莢にはいったハナキササゲ、ハナズオウ(いずれも豆科)の実。そして、蚊取り線香を焚きながら日本で最も古いとされるスズカケノキの幹を描く画家。
帰りの道すがら、「こんにゃくえんま」に立ち寄った。浄土宗の寺院で、正式な寺号は常光山源覚寺だというが、源覚寺では地元の人にもなじみがないのではなかろうか。
この寺に、鎌倉時代の作とされる像高100センチほどの木造閻魔大王坐像があって、文京区有形文化財に指定されている。これが、「こんにゃくえんま」となったのは、「宝暦のころに眼病を患った女性が、好物のこんにゃくを断って一心に眼病が治りますようにと祈願したところ、夢枕に現れた閻魔が自ら一眼を盲目にし眼病を回復させると言い、そのとおりとなった」という言い伝えからだという。以来、一眼を損なっているこの閻魔にこんにゃくを供えて眼病快癒の願をかける習わしが今日まで続いているという。確かに、いつ行っても閻魔堂にはコンニャクが山と積まれて供えられている。
この寺に戦争に関わるものが多い。まず、鐘楼に「汎太平洋の鐘」がある。この鐘は1660年(元禄年間)に当寺に奉納されたものだったが、1937年に当時日本領だった「サイパン島の南洋寺に転出」したものだという。時期は、日中戦争の時期で、太平洋戦争勃発の前。「転出」の理由は分からない。
1944年太平洋戦争で、サイパン島軍民は玉砕してこの鐘も行方不明になっていた。ところが、1965年に米国・テキサス州オデッサ市においてこの鐘が発見された。その後、1974年になって当寺院に寄贈された、という。
鐘楼の傍らに、小ぶりだが立派な白鳳仏風の菩薩立像ある。「南洋群島物故者慰霊像」と名付けられているもの。サイパンなど南洋群島で犠牲になった人たちを追悼する場として、サイパンに由緒ある当寺に建てられたと、碑文がある。
また、その側には「雲がハシル 学徒が征ク 空ニ 同期ノ華 参千六百」(昭和63年8月15日 二四世徳誉発願)という石碑がある。由緒は定かではないが、当寺の住職が、学徒出陣者の生き残りなのだろうか。「お百度石」も残されている。これも戦時中には、出征した兵士の家族が無事を願って、お百度を踏む者が多かったことだろう。探せば、身近に戦争との関わりの跡は、数多く残されているのだ。
こんにゃくえんまを出ると、すぐ側に古書店があった。大亜堂書店という。なんとなく店名が大東亜共栄圏や大アジア主義などを彷彿させる。これまでは、敬して素通りだった。その店が本日休業だったが、閉まっていたガラス戸に何枚もポスターを張り出していた。これが面白い。絵はお伝えできない、気の利いたキャッチコピーだけをご紹介しよう。
・「たった70年だったな とは言わせない」1947年施行 日本国憲法
・安倍晋三の顔を大きく描いて、「一般の国民とは 私に逆らわない 人たちのことです 共謀罪」
・小池百合子の顔をあしらって、「あたしの いちぞんで決めたから 自分ファースト」
・バラの花の画面に「NO NUKES」
・そして、「9条タグカード 無料配布中!」「身につけてくれる方に。どうぞお声をおかけください」「一人一枚限り 対面手渡し」 次の機会にこれをもらおう。そして、身につけることにしよう。
犬も歩けば棒に当たる。戦争の傷痕にも、憲法擁護の声にもあたる。植物園では蚊に食われもしたが、出かけた甲斐(カイイ)もあったというもの。
(2017年8月20日)
吉田博徳さんは、どんな会議でも大集会でも、背筋を伸ばしてはっきりと発言される。声量豊かで滑舌にくぐもりがないというだけではなく、論旨が明快なので聞き取りやすい。だから、吉田さんが話を始めれば、自ずと聞く姿勢になる。私も、襟をただして聞く。
吉田さんは、1921年6月23日のお生まれだという。沖縄戦終結の日が24歳の誕生日だったことになる。60年安保のころが39歳だ。今年の誕生日で96歳。まったくお齢を感じさせない矍鑠ぶりには脱帽するしかない。もと、全司法労働組合の委員長、そして昨年まで日朝協会都連会長。いつも、新しい話題を提供される。
先週土曜日の午後。日民協の総会で、吉田さんのとなりに席を占めた。
「今年は、ロシア革命100周年ですからね、11月にペテルスブルクへのツアーを企画しているんですよ。レーニンの活躍の跡を訪ねる旅です。澤藤さん、ご一緒しませんか。10泊の日程で少し長いから現役の弁護士さんにはちょっと無理かな」「寒さは、そりゃ寒いですよ。でも、きちんと着るものを着ていけば大丈夫。心配するほどではありません」
11月のロシアの寒さに怖じ気づいて、結局事前の学習会だけには参加することを約束した。
その吉田さんが、総会ではマイクを持って発言された。大要次のとおり(と理解した)。
「今、安倍内閣による憲法改正の策動が本格化していますが、これを阻止する運動の中心に、本来は組織労働者が存在感を示していなければなりません。市民が立ち上がっているのはけっこうなことだけれど、労働組合が憲法運動にしっかりと取り組めていないことを真剣に考えなければなりません。
昨年の統計で、労働者の組織率は17.3%、1970年代の初めころが35%の水準でしたから、ジリジリ下がり続けて半減したことになります。しかも、低い組織率の労働組合が、憲法問題や平和運動に取り組めていないという現実があります。
かつて労働組合は、組合員のよりよい生活を求めて人権課題にも、平和問題にも、基地闘争にもそして憲法擁護運動にも取り組みました。いま、そのような組合はまことに少ない。安倍改憲に反対運動が必要なこの時期に、残念でなりません。
もう一つ、安倍政権の支持率を年齢別に調べると若い層ほど支持率が高いということで、これも大きな問題ではないでしょうか。本来、雇傭も労働条件も、労働組合運動が勝ち取るべきものであるはずなのに、若者たちにその視点がない。多少求人倍率が上がると、「内閣のおかげ」だと思い込んでしまうのが若者たちの現実ではありませんか。
いったい、どうして今日、労働組合の組織率が低下の一途をたどっているのか。どうして労働組合が憲法運動や平和問題に取り組めていないのか。どうすれば労働組合の加入率を高めることができるのか。どうすれば、労働組合が憲法運動や平和問題に取り組むように変えていけるのか。そして、若者の労働組合加入率を高め、若い組合員に憲法問題に関心をもってもらうためにはどうすればよいのか。是非お考えいただきたい。知恵を絞り、できることからやっていただきたい。」
なるほど、そのとおりだ。改憲阻止運動をはじめとする諸運動の最前線に労働組合の存在感が希薄である。そして、各大学の学生自治会の姿が見えない。学生がクラスやサークルで議論し意見を集約して集団で参加するというかたちも見えない。言わば組織性に支えられた正規軍の姿がなく、パルチザンだけで闘っているのが運動の現状ではないか。
労働者とは、生活をする市民の職場での姿。労働者は、職場を出れば消費者であり、政治的には有権者であり、地域住民でもある。場合によっては、株主でもあり、協同組合員でもあり、NPO活動家でもある。
ということは、必然的に労働者の要求が単に労働条件の維持改善だけではないことを意味する。平和も人権も民主主義も、そして日本国憲法堅持も労働者の要求である。とりわけ、労働基本権を明記する憲法擁護は切実な労働者の要求である。さらに、税金を下げろ、教育や社会福祉を充実せよ、医療を改善せよ、格差をなくせ、安心して暮らせる社会を作れ、公害も消費者被害もない生活を保障せよ…。労働者の利益のための政策を実現せよ。これらのすべてが労働者の要求なのだ。
労働組合の基本的任務が使用者に対する関係での労働条件の改善であることは当然としても、労働組合の課題はそれにとどまらない。市民としての労働者の諸要求は、政治や政策と密接に結びつかざるを得ない。労働者の地位の向上のためには、個別の企業や資本への直接の要求とは無関係の政治的な課題に取り組むことは必然となってくる。これを政治主義とレッテルを貼って排除するのは、イデオロギー闘争における敗北にほかならない。
昨日(7月14日)の「法と民主主義」編集会議に、吉田さんが「憲法と日本の労働組合運動」と表題する特集案を提出していた。
幾つかの論点の中に、「労働組合組織率の現状をどう見るか。―日本の支配層の労働組合政策。特に安保闘争以後の対策」という項目がみえる。
今秋、しかるべき専門家の執筆を得て、以上の問題意識をもっての「法と民主主義」の特集が組まれることになるだろう。もしかしたら吉田さんは、その特集号をペテルスブルクの旅先で読むことになるかも知れない。
(2017年7月15日)
あらたまの年の初めである。目出度くないはずはない。街は静かで人は穏やかである。誰もが、今年こそはという希望をもっている。欠乏や飢餓や恐怖は、見えるところにはない。が、その目出度さも、「ちう位」というしかない。
今年(2017年)の5月3日に、日本国憲法は施行70周年の記念日を迎える。この70年は、私の人生と重なる。振り返れば、その70年の過半は、希望とともにあった。漠然したものではあれ、昨日よりは今日、今日よりは明日が、よりよくなるという信念に支えられていた。「よりよくなる」とは、すべての人の生活が豊かになること、人が拘束から逃れて自由になること、そして貧困が克服されて格差のない平等が実現し、人が個性を育み自己実現ができること、その土台としての平和が保たれることであった。
敗戦ですべてを失った戦後の歩みは、平和を守りつつ豊かさを取り戻す過程であった。自由や平等や人権保障の不足は、「戦前の遅れた意識」のなせる業で、いずれは克服されるだろうと考えられていた。楽観的な未来像を描ける時代が長く続いた。しかし、明らかに今は違う。今日よりも明日がよりよくなり、上の世代よりも若い世代が、よりよい社会を享受するだろうとは思えない。いつから、どうしてこうなったのだろうか。
私が物心ついて以来、民主主義信仰というものがあった。戦前の誤りは、一握りの、皇族や軍部、藩閥政治家や財閥、大地主たちに政治をまかせていたからである。完全な普通選挙を実施したからには、同じ過ちが繰り返されるはずはない、というもの。天皇を頂点とする差別の構造も、官僚や資本の横暴も、民主主義の政治過程が深化する中でやがてはなくなる、そう考えていた。
しかし、経済格差のない男女平等の普通選挙制度が実現して久しい今も、多くの人が政権や天皇批判の言動を躊躇している。官僚や資本の横暴もなくなりそうもない。それどころか、平和さえ危うくなってきた。民主主義信仰は破綻した。少なくとも、懐疑なしに民主主義を語ることはできなくなった。
政治や制度が多数派国民の意思に支えられていることを民主主義と定義すれば、民主主義的な搾取や収奪の進行も、民主主義的な戦争もあり得るのだ。人種差別も思想差別も優生思想もなんでも「民主主義」とは両立する。トランプの登場やアベの政治は、そのことに警鐘を鳴らしている。
格差と貧困が拡がり深まる社会にあって、「お目出度とう」とは言いがたい。国民一人ひとりの尊厳が大切にされて、こころから「おめでとう」と言い合える、「ちう位」ではない目出度い正月をいつの日にかは迎えたいと思う。
立憲主義大嫌いのアベ政権である。今年の憲法記念日に、憲法施行70年を盛大に祝うとは到底思えない。このことは、一面「怪しからん」ことではあるが、権力によって嫌われる憲法の面目躍如でもある。日本国憲法は、政権から嫌われ、ないがしろにされ、改悪をたくらまれていればこそ、民衆の側が護るに値する憲法なのだ。
今年も、憲法改悪を阻止と、憲法の理念を実現する運動の進展を願う。その運動の進展自身が、民主主義を支える自立した市民を育むことになる。微力ではあるが、当ブログもその運動の一翼を担いたいと思う。
(2017年1月1日・元旦)
ご近所の皆さま、ご通行中の皆さま。こちらは「本郷湯島九条の会」です。「平和憲法を守ろう」、「平和を守ろう」、「日本を、再び戦争する国にしてはならない」。そのような思いで、活動している小さなグループです。小さなグループですが、同じ思いの「九条の会」は全国に7500もあります。
安倍内閣の改憲策動を許さない。平和憲法を壊してはならない。政策の選択肢として戦争をなし得る国にしてはならない。全国津々浦々で、7500の「九条の会」が声を上げています。しばらくご静聴ください。
日本国憲法は、70年前に公布されました。言わば、今年が古稀の歳。人間と違って、年老いるということはありません。ますます元気。ますます、役に立つ憲法です。私たちは、これを使いこなさなくてはなりません。
しかし、この憲法が嫌いな人がいます。なんとかしてこの憲法を壊したい。別のものに変えてしまいたい。その筆頭が、今の総理大臣。最も熱心に、最も真面目に、憲法を守らなければならない立場の人が、日本中で一番の憲法嫌い、最も熱心に日本国憲法を亡き者にしようと虎視眈々という、ブラックジョークみたいな日本になっています。
皆さまご存じのとおり、この人は「戦後レジームから脱却」して、「日本を取り戻す」と叫んでいます。「戦後レジーム」とは、日本国憲法の理念による社会のあり方のこと。日本国憲法の理念とは、国際協調による平和、民主主義、そして一人ひとりがかけ替えのない個人として人格を尊ばれる人権擁護のこと。
総理大臣殿は、そんな社会が大嫌いなのです。そのホンネが、2012年4月に自民党が公式に発表した「日本国憲法改正草案」に生々しく書かれています。
この改憲草案は、102条1項に、「すべて国民はこの憲法を尊重しなければならない」と書き込みました。これはおかしい。憲法とは、本来主権者である国民が権力を預けた者に対する命令の文書です。だから現行憲法は、「天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」に憲法を尊重し擁護する義務を課しています。「国民に対する憲法尊重義務」を書き込むことは、憲法の体系を壊すこと、憲法を憲法でなくしてしまうことにほかなりません。
そして、自民党改憲草案は、現行憲法の「第2章 戦争の放棄」を、「第2章 安全保障」と標題を変えます。これは極めて示唆的です。日本は、戦争を放棄した国ではなくなるということです。今の自衛隊では戦争ができない。戦争するために差し支えのない国防軍を作ろうというのです。軍法会議も憲法に明記しようというのです。こうして、戦争を国の政策の選択肢のひとつとして持ちうる、戦争のできる国に変えようというのです。
もちろん、政権は、国民の権利も自由も大嫌いです。言論の自由をはじめとする国民の権利は大幅に切り下げられます。国民の自由に代わって、責任と義務が強調されることになります。「公益と公の秩序」尊重の名の下に国家・社会の利益が幅を利かせることになります。
それだけではありません。緊急事態条項というとんでもない条文まで紛れ込ませました。日本国憲法制定のための議会の審議では「権力に調法だが、それだけに危険だから憲法には置かないことにした」という代物です。戦争・内乱・自然災害などの「緊急事態」においては、国会を停止させようというのです。その代わりを内閣がする。法律でなければできないことを政令でできるようにする。予算措置も、内閣だけで可能というのです。
そして、自民党改憲草案の前文は、日本を「天皇を戴く国」とし、天皇を元首としています。憲法に、国旗国歌条項を書き入れるだけではもの足りないと、国民に国旗国歌尊重義務を課するという徹底ぶり。これが、安倍晋三が称える、「日本を取り戻す」というものの正体ではありませんか。
元首たる天皇が権威を持ち、国防軍が意のままに行動でき、反戦平和の運動や政府批判の言論が弾圧される。個人主義などもってのほか、人権ではなくお国のために尽くしなさいと教育がなされる国。それが、自民党・安倍政権が目指す「取り戻すべき日本」というほかはありません。
政権や自民党は、「憲法は外国から押しつけられたものだから変えましょう」という。これもおかしい。この70年の歴史を曇りない目で見つめれば、アメリカと日本の軍国主義者たち、日本国憲法は邪魔だという権力者たちが、日本国民からこの憲法を奪い取ろうとしてきた70年であったというべきではありませんか。
私たち国民にとっては、押しつけられたのではなく、守り抜いた日本国憲法ではありませんか。このことを私たちは、誇りにしてよいと思います。
憲法への評価は、立場によって違うのが当然のこと。一握りの権力に近い立場にいる者、経済的な強者には、邪魔で迷惑な押しつけかも知れません。しかし、大部分の国民にとっては、嫌なものの押しつけではなく、素敵なプレゼントだったのです。
もし、仮に日本国憲法を押しつけというのなら、押しつけられたものは、実は日本国憲法だけではありません。財閥解体も、農地解放も、政治活動の自由も、言論の自由も、労働運動の自由も、政教分離も、教育への国家介入禁止も、みんなみんな「押しつけられた」ことになるではありませんか。「押しつけられたものだから、ともかくいったんは、ご破算にしてしまえ」ということになりますか。
今年は、女性参政権が実現してから70年でもあります。46年4月の歴史的な衆議院議員選挙で、はじめて女性が選挙に参加しました。憲法を押しつけというなら、男女平等も押しつけられたもの。「外国から押しつけられた女性の参政権は、日本の醇風美俗を失わしるもの。だからご破算にして元に戻せ」などというおつもりですか。日本国憲法押しつけ論は、もうバカバカしくて何の説得力もありません。
憲法の制定にも携わった憲法学者である佐藤功が、こう言っています。
「憲法が君たちを守る。君たちが憲法を守る」
ここでいう「君たち」とは私たち、一般国民です。政治権力も経済権力もない圧倒的多数の相対的弱者のこと。「憲法は弱い立場の国民を守る」からこそ、国民にとって守るに値する日本国憲法なのです。だから「弱い立場にある私たち国民が憲法を守ってきた」のです。憲法を都合よく変えたいとする強い立場にある人たちとのせめぎあいを凌いでのことなのです。
これまで、日本国憲法を守り抜いて、自分たちのものにしてきたからこそ、憲法の古稀を目出度いものとしてお祝いしようではありませんか。
なお、一点付け加えます。日本国憲法は、国家よりも個人を大切にしています。ところが、今東京都の教育現場では、都教委が教員に国旗国歌(日の丸・君が代)に敬意を表するよう「起立・斉唱」の職務命令を発し、これに従わなかった教員に懲戒処分を濫発しています。これは、個人よりも国家を貴しとする思想にもとづくもの。しかも、教員の思想良心の自由を侵害する権力の行使であり、教育の内容に公権力が介入してはならないとする教育基本法が定める大原則の侵害でもあります。これではまるで戦前の日本。あるいは、まるでどこかの独裁国家のよう。到底自由な国日本の現象ではありません。
このことについては、幾つもの訴訟が提起されていますが、今最も大きな規模の「東京「君が代」裁判・4次訴訟」での原告本人尋問が、11月11日(金)に行われます。どなたでも、98席が満席になるまで、手続不要で傍聴できますので、ぜひお越しください。
時 11月11日(金)午前9時55分?午後4時30分
所 東京地裁103号法廷
6人の原告の皆さんが、いま、この社会で、東京の教育現場で起こっている現実が生々しく語られます。きっと、感動的な法廷になります。そして、石原都政以来の憲法蹂躙の都政と東京都の教育行政に、ご一緒に怒ってください。よろしくお願いします。
ご静聴ありがとうございました。
(2016年11月8日)
ちょうど70年前の今日、1946年11月3日に「日本国憲法」が公布された。人間にたとえれば、今日が日本国憲法の誕生日であり、古稀の祝賀の日でもある。
誕生日は目出度い。日本国憲法に限りない祝福の意を表しよう。そして、古稀を寿ごう。日本国憲法の古稀は、格別の意味を持っていると思うからだ。
よく知られているとおり、この日の憲法公布は明治節(明治天皇・睦仁の誕生日)を特に選んでのもの。旧憲法が、紀元節(2月11日)を選んで公布された事情とさしたる違いはない。
70年前の今日、天皇裕仁は、午前8時50分宮中三殿において憲法公布を「皇祖皇宗」に「親告」し、次いで午前11時、国会議事堂貴族院本会議議場において、日本国憲法公布の勅語を読みあげた。その全文は以下のとおり。
「本日、日本國憲法を公布せしめた。
この憲法は、帝國憲法を全面的に改正したものであつて、國家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された國民の總意によつて確定されたものである。即ち、日本國民は、みづから進んで戰爭を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が實現することを念願し、常に基本的人權を尊重し、民主主義に基いて國政を運營することを、ここに、明らかに定めたものである。
朕は、國民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化國家を建設するやうに努めたいと思ふ。」
主権者に向かって、なんという上から目線の物言い。しかも、何とも歯切れの悪い文章。「国民主権」という言葉が出て来ない。「主権の存する国民」の言葉はなく、「天皇が国政に関する権能を失った」という宣言もない。「朕が、全力をあげ、この憲法を正しく運用するやうに努めたいと思ふ」のであれば、なすべきことは主権者たる国民に敬意を払うべきことであったろう。そして、その余のことには沈黙を守ることであったはず。
これに対する総理大臣吉田茂の「奉答文」も奇妙なものだった。
「まことにこの憲法は,民主主義に基いて国家を再建しやうとする日本国民の意によつて,確定されたものであります。そして,全世界に率先し,戦争を放棄することをその条項に明らかにしたことにつきまして,私どもは,かぎりない誇りと責務とを感ずるものでござゐます。」
この敬語の使い方は、天皇に向かっての語りかけを表している。それでも、その内容はここまでは良しとしよう。これに続く一文が、次のとおりまったくいけない。情けない。
「今後私どもは,全力をあげ,相携へて,聖旨に添ひ奉る覚悟でござゐます。」
なんということだ。ここに主権者としての矜持はなく、「臣・吉田茂」としてのおもねりがあるのみ。これが、国民を代表しての首相の発言なのだ。国民は、「臣民」から脱皮していなかったというべきだろう。
この日、午後2時より、皇居前で東京都主催による新憲法公布の祝賀会が開催され、天皇夫妻が参加、約10万人の民衆が参集した。翌日の各紙は、「群衆は両陛下の周りに殺到し、帰りの馬車は群衆の中を左右に迂回しつつ二重橋に向かった」と報じている。
こうして公布された日本国憲法には、前文の前に以下のとおりの「上諭」と御名御璽が付せられている。「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」というもの。
何とも珍妙な光景ではないか。また、何とも形容しがたいパラドックスではないか。徹底した国民主権原理に基づく日本国憲法が、天皇主権の帝国憲法第73条による改正手続として行われたのだ。昨日までは主権者であり、神聖な現人神でさえあった天皇が、「ここにこれを公布せしめる。」と国民主権憲法を裁可し、主権者の代表であるはずの内閣総理大臣が「私どもは,全力をあげ,聖旨に添ひ奉る覚悟でござゐます。」と奉答している。そして、民衆は、天皇を糾弾するでもなく、戦争責任を追及するでもなく、天皇の馬車の周囲に蝟集している。これが、70年前の現実であった。
人民が勝ち取った憲法制定権力が日本国憲法を確定したとは言いがたい。しかし、旧天皇制権力もこの憲法を拒否するだけの力量を持っていなかった。それゆえの、70年前の11月3日における天皇と首相と群衆の珍妙な光景だったといえよう。
当時、日本国憲法が、人類普遍の原理に基づいた民主々義憲法として定着するか、それとも日本固有の歴史・伝統・文化にそぐわない借り物として廃棄されることになるか、憲法公布の日には定まってはいなかった。この、混沌とした憲法の運命を確固たるものとしたのは、ひとえに国民の憲法意識と憲法運動とであった。
あらためていうまでもないことだが、この国の保守政権や政権を支えた財界は日本国憲法を桎梏と認識し続けてきた。冷戦の本格化とともにアメリカの態度も豹変した。日米両政府が改憲勢力となったのだ。日本国民はこれに抵抗し続けた。奪われそうになった憲法を、これまで70年間守り抜いた結果としての日本国憲法の古稀である。
あれから70年。国民自身が、憲法を日々選びとってきた歴史に誇りをもってよい。今日まで一度の改憲も許さず、憲法を国民自身のものとして定着させてきたのだ。だから、日本国憲法の古稀は格別の意味を持ち、今日は特別の祝意を述べるべき日なのだ。
佐藤功の「憲法が君たちを守る。君たちが憲法を守る」は至言である。「憲法が国民を守る」からこそ、国民にとって守るに値する日本国憲法なのだ。だから「国民が憲法を守ってきた」。そのような憲法擁護の運動の始まりの日が70年前の今日である。今も続く、改憲対護憲のせめぎあいである。
70年前に、「聖旨に添ひ奉る」と言った為政者の民主々義感覚はほとんどそのままである。支配の道具としての天皇制の利便を捨てようとはしない。平和主義は明らかに後退している。また、国民の憲法意識も盤石ではない。70年前に天皇を囲んだ群衆の末裔の一定部分は、今なお、「陛下、おいたわしや」と言い続けている。
せめぎあいが厳しいだけに、古稀を寿ぎたい。日本国憲法にこそ、「千代に八千代に苔のむすまで」変わらずにあって欲しいと思う。ますます壮健な日本国憲法の喜寿も米寿も見たいものと思う。そして、遅くも白寿のころには、天皇制を廃止して徹底した民主々義を実現するとともに、形式的な平等ではなく実質的な平等を国民に保障し、この国に住むすべての人に無償の医療や教育を給付する理想の憲法に発展していることを願う。
改めて日本国憲法憲法の理念を確認するとともに、これを堅持する決意を固めたいと思う。
**************************************************************************
NHK経営委員会宛ネット署名(11月4日締切り)のお願いー「次期NHK会長選考にあたり、籾井現会長の再任に絶対反対し、推薦・公募制の採用を求めます」
NHK経営委員会 御中
来年1月に籾井現会長の任期が満了するのに伴い、貴委員会は目下、次期NHK会長の選考を進めておられます。
私たちは、放送法の精神に即して、NHKのジャーナリズム機能と文化的役割について高い見識を持ち、政治権力からの自主・自立を貫ける人物がNHK会長に選任されることを強く望んでいます。
籾井現会長は、就任以来、「国際放送については政府が右ということを左とは言えない」、「慰安婦問題は政府の方針を見極めないとNHKのスタンスは決まらない」、「原発報道はむやみに不安をあおらないよう、公式発表をベースに」など、NHKをまるで政府の広報機関とみなすかのような暴言を繰り返し、視聴者の厳しい批判を浴びてきました。このような考えを持つ人物は、政府から自立し、不偏不党の精神を貫くべき公共放送のトップにはまったくふさわしくありません。
次期会長選考にあたっては、視聴者の意思を反映させる、透明な手続きの下で、ジャーナリズム精神を備え、政治権力に毅然と対峙できる人物が選任されるよう、貴委員会に対し、以下のことを強く要望いたします。
1. 公共放送のトップとして不適格な籾井現会長を絶対に再任しないこと
2. 放送法とそれに基づくNHKの存在意義を深く理解し、それを実現できる能力・見識のある人物を会長に選考すること
3. 会長選考過程に視聴者・市民の意思を広く反映させるよう、会長候補の推薦・公募制を採用すること。そのための受付窓口を貴委員会内に設置すること
署名数はもう一押しで3万に到達します。
詳細は以下を参照ください。
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/nhk-1e91-1.html(注)紙の署名用紙はこちら→http://bit.ly/2aVfpfH(注)この署名運動についてのお問い合わせは
メール:kanjin21menso@yahoo.co.jp または、
お急ぎの場合は 070-4326-2199 (10時?20時受付)までお願いします。
(注)以下のネット署名でNHK経営委員会に提出する名簿にはメールアドレス以外の項目すべてが記載されます。ネット上に集計結果を公開するときは「お名前」「お住まい(市区町村名)」は削除します。
→ 集計結果の公開URLは https://goo.gl/GWGnYc
*署名の第3次集約は11月4日(金)です。
11月7日、NHKに提出予定です。
(2016年11月3日)
明日(9月3日)、下記のとおり「壊憲か、活憲か」(ブックレットロゴス)の出版記念討論集会がある。
と き 2016年9月3日(土)午後1時30分
ところ 明治大学リバティタワー6F(1064教室)
司 会 平岡 厚
参加費 700円
小さな集会だが、お越しいただけたらありがたい。
なお、同書は次の4編から成る。
「〈友愛〉を基軸に活憲を」
村岡 到(季刊『フラタニティ』編集長)
「訴訟を手段として『憲法を活かす』─岩手靖国訴訟を振り返って」
澤藤統一郎(弁護士)
「自民党は改憲政党だったのか」─「不都合な真実」を明らかにする
西川伸一(明治大学教授)
「日本国憲法の源流・五日市憲法草案」
鈴木富雄(五日市憲法草案の会事務局長)
集会では、各執筆者が30分ずつの持ち時間で各テーマにしたがって報告し、「壊憲か、活憲か」について意見交換する。
同書は、四六判128頁、価格は1100円+税。
詳細は、下記URLをご覧いただきたい。
http://logos-ui.org/booklet/booklet-12.html
お申し込みは、下記まで。
ロゴス〒113-0033東京都文京区本郷2-6-11-301
tel 03-5840-8525
fax 03-5840-8544
**************************************************************************
さて、「改憲」とは憲法の改正手続に則って憲法典を改正することである。天皇制を廃止したり、生存権規定を具体化したり、形式的な平等ではなく実質的な平等原理を導入するなど、主要な憲法理念を深化させる真の意味での「改正」もあり得るが、今の力関係ではその実現はなかなかに困難と言わざるをえない。
日本国憲法誕生以来、政治日程に上った「憲法改正」の試みのすべては実質的に「改悪」の提案であった。大日本帝国憲法への復古であったり、9条2項を改変して軍事力を保持する提案であったり、統治機構における権力分立から統合への試み。あるいは、民族の歴史・伝統・文化を憲法に盛り込もうというもの。国民の側からの発想ではなく、権力を握るグループの側からの仕掛け。
だから、「改憲」の対語が「護憲」となる現実がある。「護憲」とは、「憲法改悪阻止」とほぼ同義となり、国民意識を一歩抜きん出た水準にある憲法を改悪させることなく精一杯守ろう、という守勢のイメージを払拭しえない。
ところで、憲法はあくまで手段である。社会が目指すべき理念を確認しこれを実現するための手段。だから、大切なものは憲法典それ自体ではなく、その理念が政治や社会にどう生きるかということである。
「改憲か、護憲か」の対抗軸だと、憲法典の改正手続の有無にばかり目が行って、肝心の社会に憲法理念がどう根付き、どう生かされるかが見えなくなるおそれがある。典型的には、改憲が実現せず憲法典の字句は護りえたが、憲法の解釈はすっかり変えられ、本来の憲法の理念は逼塞してしまうという事態。アベ政権の戦争法成立とその運用が典型事例といってよい。
だから今、立憲主義をないがしろにし、憲法の解釈をねじ曲げて、憲法の理念をことごとくぶちこわす「壊憲」と対置した、「活憲」の理念を打ち立てたい。「護憲」の守勢のイメージよりは、随分と積極性が感じられるではないか。
「活憲」は、解釈改憲を許さない、というだけでなく、日々の暮らしの中に、あるいは政治に、社会に、地方自治に、司法に、教育の場に職場に家庭に、憲法の理念を活かそう、という呼びかけでもある。そうすることによって、憲法は人びとに身近で大切な存在となり、活憲の試みの積み重ねが、護憲=憲法改悪阻止にも結実するものと思う。
明日(9月3日)の討論集会は、そのような問題意識の集いになる…はずである。
ブックレットの執筆者4人が、それぞれに報告する。持ち時間は各30分。
なお、同社は、「友愛を基軸に活憲を!」をテーマに、季刊『Fraternity フラタニティ』(友愛)を発刊している。最新号は、No.3 2016年8月1日。
ここにも、「私が携わった裁判闘争」を連載している。
下記のURLを開いていただいて、出来れば定期購読していただけたらありがたい。
http://logos-ui.org/fraternity.html
(2016年9月2日)
憲法訴訟の実践は、私の職業生活における究極のテーマ。
このほど、「壊憲か、活憲か」(ブックレットロゴス№12)に「訴訟を手段として『憲法を活かす」─岩手靖国訴訟を振り返って」の小論を収めた。
同書は、次の4編から成る。
「〈友愛〉を基軸に活憲を」
村岡 到 (季刊『フラタニティ』編集長)
「訴訟を手段として『憲法を活かす』─岩手靖国訴訟を振り返って」
澤藤統一郎(弁護士)
「自民党は改憲政党だったのか」─「不都合な真実」を明らかにする
西川伸一(明治大学教授)
「日本国憲法の源流・五日市憲法草案」
鈴木富雄(五日市憲法草案の会事務局長)
四六判128頁、価格は1100円+税。
案内は下記URLをご覧いただきたい。
http://logos-ui.org/booklet/booklet-12.html
お申し込みは、下記まで。
ロゴス〒113-0033東京都文京区本郷2-6-11-301
tel 03-5840-8525
fax 03-5840-8544
そして、小著には過分の出版記念討論会が予定されている。
と き 2016年9月3日(土)午後1時30分
ところ 明治大学リバティタワー6F(1064教室)
報 告 村岡 到 澤藤統一郎 西川伸一 鈴木富雄
司 会 平岡 厚
参加費 700円
執筆者が4人が、それぞれに報告する。持ち時間は各30分。下記に、私の報告のレジメを掲載する。論旨の要約だけでは芸がない。「憲法訴訟を手段とした活憲」にテーマを絞った報告をしたい。お越しいただけたらありがたい。
なお、同社は、「友愛を基軸に活憲を!」をテーマに、季刊『Fraternity フラタニティ』(友愛)を発刊している。最新号は、No.3 2016年8月1日。
ここにも、「私が携わった裁判闘争」を連載している。
下記のURLを開いていただいて、出来れば定期購読していただけたらありがたい。
http://logos-ui.org/fraternity.html
**************************************************************************
2016・9・3
訴訟を手段として憲法を活かす
ー憲法訴訟としての政教分離訴訟
弁護士 澤藤統一郎
※「憲法を活かす」とは
☆憲法典それ自体は紙に書いた文字の羅列に過ぎない。
その理念を社会に活きたものとして活用しなければならない⇒(活憲)。
☆憲法の構造は、「人権宣言+統治機構」となっている。
・憲法とは何よりも人権の体系である。これが憲法の目的的価値。
・統治機構は、人権保障を全うするための国家の秩序を定めている。
平和・民主主義などは重要ではあるが、飽くまで「手段的価値」。
☆「憲法の理念を活かす」とは、
・究極的には人権という「目的的価値」を実現すること。
同時に、統治機構規定における「手段的価値」を実現すること。
・人権という「目的的価値」と、統治の理念としての「手段的価値」とは
緊密に結びついている。
☆緊密な両者の関係
・平和(⇔平和的生存権)
・国民主権(⇔参政権・選挙権)
・政教分離(⇔信教の自由)
・検閲の禁止(⇔表現の自由)
・大学の自治(⇔学問の自由)
・福祉政策(⇔生存権)
・教育の独立(⇔教育を受ける権利)
・象徴天皇制(⇔個人の尊厳)
☆「憲法を活かす」場
・立法 ・行政 ・地方自治 ・企業 ・地域 ・家庭
・教育 ・メディア
・司法権は、違憲審査権(憲法76条)をもって憲法保障機能を司る。
☆司法権の限界
・三権分立のバランス 非民主的な司法が強すぎてはならない
・日本国憲法では、付随的違憲審査制(憲法裁判所とは異なる)
・人権を侵害されたもののみが、その回復の限りで訴権を認められる。
・主観訴訟だけが可能。客観訴訟は不適法・却下となる。
※政教分離訴訟における「憲法を活かす」試み
☆政教分離とは、象徴天皇を現人神に戻さないための歯止め。
国家に対して「国家神道(=天皇教)の国民マインドコントロール機能」
利用を許さないとする命令規定である。
・従って、憲法20条の眼目は、「政」(国家・自治体)と「教」(国家神道)
との「厳格分離」を定めたもの
・「天皇・閣僚」の「伊勢・靖國」との一切の関わりを禁止している。
・判例は、政教分離を制度的保障規定とし、人権条項とはみない。
このことから、政教分離違反の違憲訴訟の提起は制約されている。
・住民訴訟、あるいは宗教的人格権侵害国家賠償請求訴訟の形をとる。
☆運動としての岩手靖国訴訟
(求めたものは、公式参拝決議の違憲、県費の玉串料支出の違憲確認)
靖国公式参拝促進決議は 県議会37 市町村1548
これを訴訟で争おうというアイデアは岩手だけだった
県費からの玉串料支出は7県 提訴は3件(岩手・愛媛・栃木)同日提訴
☆訴訟を支えた力と訴訟が作りだした力
戦後民主主義の力量と訴訟支援がつくり出した力量
神を信ずるものも信じない者も 社・共・市民 教育関係者
☆政教分離訴訟の系譜
津地鎮祭違憲訴訟(合憲10対5)
箕面忠魂碑違憲訴訟・自衛隊員合祀拒否訴訟
愛媛玉串料玉串訴訟(違憲13対2)
中曽根靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟
滋賀献穀祭訴訟・大嘗祭即位の儀違憲訴訟
小泉靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟
安倍首相靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟(東京・大阪で現在進行中)
☆岩手靖国控訴審判決の意義と影響
・天皇と内閣総理大臣の靖国神社公式参拝を明確に違憲と断じたもの
・県費からの玉串料支出の明確な違憲判断は愛媛とならぶもの
・目的効果基準の厳格分離説的適用
目的「世俗的目的の存在は、宗教的目的・意義を排除しない」
効果「現実的効果だけでなく、将来の潜在的波及的効果も考慮すべき」
「特定の宗教団体への関心を呼び起こし、宗教的活動を援助するもの」
☆政教分離国家賠償訴訟の経験は、戦争法違憲訴訟等に受け継がれている。(2016年8月25日)
本郷にお住まいの皆さま、三丁目交差点をご通行中の皆さま。こちらは地元の「本郷・湯島九条の会」です。憲法を守ろう、憲法の眼目である平和を守ろう。憲法9条を守り抜いて、絶対に戦争は繰り返してはいけない。アベ自民党政権の危険な暴走を食い止めなければならない。そういう志を持つ仲間が集まってつくっている小さな団体です。私たちは小さいけれど、全国に7500もの「九条の会」があります。全国津々浦々で、9条を守る活動をしています。
猛暑の8月です。71年前、敗戦の年の8月も暑かったといいます。8月こそは戦争を思い出し語らなければならない季節です。あの戦争で、310万人の日本人が命を失いました。2000万人といわれるアジアの人々が侵略戦争の犠牲となりました。あの廃墟のなか、私たちは、再び戦争の惨禍を繰り返してはならないと誓いました。その誓いが、日本国憲法に結実したのです。
憲法9条は、おびただしい戦争犠牲者を含めた日本人全体の決意であるとともに、アジアの人びとへの不戦の誓約でもあります。夏、8月は、そのことを思い起こす日としなければなりません。
しかし、日本の現状はどうでしょうか。憲法を破壊し、9条を形骸化しようという危険なアベ政治の暴走が続いています。先程来、お話しがあったとおり、参院選と都知事選が終わりました。憲法を守ろうという旗を立てている私たちにとっては、けっして納得のいく結果ではありません。
案の定、選挙前には控えられてきたアベ政権のホンネの動きが、選挙が終わるや否や、無遠慮に始まっています。小池百合子都政も同じです。
思想家ルソーが言っていることを思い出します。「イギリスの人民は自分たちが自由だと思っているようだが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する投票のそのときだけのことで、選挙が終わるやいなや、次の選挙までの間はイギリス人民は奴隷となってしまう」。現状、まさしくそのとおりではありませんか。
あんなに国民から反対を受けながら強行成立した戦争法は、選挙が終わるまでは身を潜め、今動き出そうとしています。南スーダン情勢が緊迫し内戦状態になっているのに、11月派遣予定の自衛隊員は、駆けつけ警護の訓練を始めようとしているのです。
PKO5原則の遵守によって、これまでは、けっして戦地での紛争には巻き込まれないはずの自衛隊でした。今、350人の現地隊員は、営舎の外に出ることなく、ひっそりと身を潜めています。ところが、11月以後はこれが変わるのです。今度は、紛争のまっただ中に駆けつけてでも味方の援護をします。これは内戦の一方に荷担する宣言にほかなりません。紛争に巻き込まれることを覚悟しなければ駆けつけ警護はできないこと。紛争に巻き込まれるとは、史上初めて自衛隊員の命が奪われ、あるいは自衛隊員が誰かの命を奪う事態となることです。戦後71年間、平和憲法の下、日本が一人の戦死者も出さなかったという原則が崩れることでもあります。
イナダ防衛大臣の就任記者会見では、記者から「自衛隊員の戦死の持つ意味について」質問が飛んでします。イナダは何と答えたか。「自衛権の行使の過程において、犠牲者が出る事も、考えておかなきゃいけないことだろうとは思います。非常に、重たい問題だと思います。」あまりに率直。戦争法の発動は、「自衛権行使の過程において、犠牲者が出る事もある」と防衛大臣が認識しているのです。
私たちは、投票箱が閉まっても主権者であり続けなければなりません。けっして奴隷になってはならない。アベ政権にも、小池都政にも、しっかりと主権者としての目を光らせてまいりましょう。平和を守り続けるために。
月1回、第2火曜日と決めた定例街宣活動は4年目にはいった。今日は、37℃のクラクラする炎天下、6人がマイクを取って思い思いに平和を語った。今後も、雨にも負けず、風にもまけず、雪にも夏の暑さにも負けることなく、日本の平和を崩すまいとにぎやかに元気に続けていこうと、意気軒昂。
(2016年8月9日)