日本国憲法の古稀を寿ぐー憲法こそ「千代に八千代に」
ちょうど70年前の今日、1946年11月3日に「日本国憲法」が公布された。人間にたとえれば、今日が日本国憲法の誕生日であり、古稀の祝賀の日でもある。
誕生日は目出度い。日本国憲法に限りない祝福の意を表しよう。そして、古稀を寿ごう。日本国憲法の古稀は、格別の意味を持っていると思うからだ。
よく知られているとおり、この日の憲法公布は明治節(明治天皇・睦仁の誕生日)を特に選んでのもの。旧憲法が、紀元節(2月11日)を選んで公布された事情とさしたる違いはない。
70年前の今日、天皇裕仁は、午前8時50分宮中三殿において憲法公布を「皇祖皇宗」に「親告」し、次いで午前11時、国会議事堂貴族院本会議議場において、日本国憲法公布の勅語を読みあげた。その全文は以下のとおり。
「本日、日本國憲法を公布せしめた。
この憲法は、帝國憲法を全面的に改正したものであつて、國家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された國民の總意によつて確定されたものである。即ち、日本國民は、みづから進んで戰爭を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が實現することを念願し、常に基本的人權を尊重し、民主主義に基いて國政を運營することを、ここに、明らかに定めたものである。
朕は、國民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化國家を建設するやうに努めたいと思ふ。」
主権者に向かって、なんという上から目線の物言い。しかも、何とも歯切れの悪い文章。「国民主権」という言葉が出て来ない。「主権の存する国民」の言葉はなく、「天皇が国政に関する権能を失った」という宣言もない。「朕が、全力をあげ、この憲法を正しく運用するやうに努めたいと思ふ」のであれば、なすべきことは主権者たる国民に敬意を払うべきことであったろう。そして、その余のことには沈黙を守ることであったはず。
これに対する総理大臣吉田茂の「奉答文」も奇妙なものだった。
「まことにこの憲法は,民主主義に基いて国家を再建しやうとする日本国民の意によつて,確定されたものであります。そして,全世界に率先し,戦争を放棄することをその条項に明らかにしたことにつきまして,私どもは,かぎりない誇りと責務とを感ずるものでござゐます。」
この敬語の使い方は、天皇に向かっての語りかけを表している。それでも、その内容はここまでは良しとしよう。これに続く一文が、次のとおりまったくいけない。情けない。
「今後私どもは,全力をあげ,相携へて,聖旨に添ひ奉る覚悟でござゐます。」
なんということだ。ここに主権者としての矜持はなく、「臣・吉田茂」としてのおもねりがあるのみ。これが、国民を代表しての首相の発言なのだ。国民は、「臣民」から脱皮していなかったというべきだろう。
この日、午後2時より、皇居前で東京都主催による新憲法公布の祝賀会が開催され、天皇夫妻が参加、約10万人の民衆が参集した。翌日の各紙は、「群衆は両陛下の周りに殺到し、帰りの馬車は群衆の中を左右に迂回しつつ二重橋に向かった」と報じている。
こうして公布された日本国憲法には、前文の前に以下のとおりの「上諭」と御名御璽が付せられている。「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」というもの。
何とも珍妙な光景ではないか。また、何とも形容しがたいパラドックスではないか。徹底した国民主権原理に基づく日本国憲法が、天皇主権の帝国憲法第73条による改正手続として行われたのだ。昨日までは主権者であり、神聖な現人神でさえあった天皇が、「ここにこれを公布せしめる。」と国民主権憲法を裁可し、主権者の代表であるはずの内閣総理大臣が「私どもは,全力をあげ,聖旨に添ひ奉る覚悟でござゐます。」と奉答している。そして、民衆は、天皇を糾弾するでもなく、戦争責任を追及するでもなく、天皇の馬車の周囲に蝟集している。これが、70年前の現実であった。
人民が勝ち取った憲法制定権力が日本国憲法を確定したとは言いがたい。しかし、旧天皇制権力もこの憲法を拒否するだけの力量を持っていなかった。それゆえの、70年前の11月3日における天皇と首相と群衆の珍妙な光景だったといえよう。
当時、日本国憲法が、人類普遍の原理に基づいた民主々義憲法として定着するか、それとも日本固有の歴史・伝統・文化にそぐわない借り物として廃棄されることになるか、憲法公布の日には定まってはいなかった。この、混沌とした憲法の運命を確固たるものとしたのは、ひとえに国民の憲法意識と憲法運動とであった。
あらためていうまでもないことだが、この国の保守政権や政権を支えた財界は日本国憲法を桎梏と認識し続けてきた。冷戦の本格化とともにアメリカの態度も豹変した。日米両政府が改憲勢力となったのだ。日本国民はこれに抵抗し続けた。奪われそうになった憲法を、これまで70年間守り抜いた結果としての日本国憲法の古稀である。
あれから70年。国民自身が、憲法を日々選びとってきた歴史に誇りをもってよい。今日まで一度の改憲も許さず、憲法を国民自身のものとして定着させてきたのだ。だから、日本国憲法の古稀は格別の意味を持ち、今日は特別の祝意を述べるべき日なのだ。
佐藤功の「憲法が君たちを守る。君たちが憲法を守る」は至言である。「憲法が国民を守る」からこそ、国民にとって守るに値する日本国憲法なのだ。だから「国民が憲法を守ってきた」。そのような憲法擁護の運動の始まりの日が70年前の今日である。今も続く、改憲対護憲のせめぎあいである。
70年前に、「聖旨に添ひ奉る」と言った為政者の民主々義感覚はほとんどそのままである。支配の道具としての天皇制の利便を捨てようとはしない。平和主義は明らかに後退している。また、国民の憲法意識も盤石ではない。70年前に天皇を囲んだ群衆の末裔の一定部分は、今なお、「陛下、おいたわしや」と言い続けている。
せめぎあいが厳しいだけに、古稀を寿ぎたい。日本国憲法にこそ、「千代に八千代に苔のむすまで」変わらずにあって欲しいと思う。ますます壮健な日本国憲法の喜寿も米寿も見たいものと思う。そして、遅くも白寿のころには、天皇制を廃止して徹底した民主々義を実現するとともに、形式的な平等ではなく実質的な平等を国民に保障し、この国に住むすべての人に無償の医療や教育を給付する理想の憲法に発展していることを願う。
改めて日本国憲法憲法の理念を確認するとともに、これを堅持する決意を固めたいと思う。
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NHK経営委員会宛ネット署名(11月4日締切り)のお願いー「次期NHK会長選考にあたり、籾井現会長の再任に絶対反対し、推薦・公募制の採用を求めます」
NHK経営委員会 御中
来年1月に籾井現会長の任期が満了するのに伴い、貴委員会は目下、次期NHK会長の選考を進めておられます。
私たちは、放送法の精神に即して、NHKのジャーナリズム機能と文化的役割について高い見識を持ち、政治権力からの自主・自立を貫ける人物がNHK会長に選任されることを強く望んでいます。
籾井現会長は、就任以来、「国際放送については政府が右ということを左とは言えない」、「慰安婦問題は政府の方針を見極めないとNHKのスタンスは決まらない」、「原発報道はむやみに不安をあおらないよう、公式発表をベースに」など、NHKをまるで政府の広報機関とみなすかのような暴言を繰り返し、視聴者の厳しい批判を浴びてきました。このような考えを持つ人物は、政府から自立し、不偏不党の精神を貫くべき公共放送のトップにはまったくふさわしくありません。
次期会長選考にあたっては、視聴者の意思を反映させる、透明な手続きの下で、ジャーナリズム精神を備え、政治権力に毅然と対峙できる人物が選任されるよう、貴委員会に対し、以下のことを強く要望いたします。
1. 公共放送のトップとして不適格な籾井現会長を絶対に再任しないこと
2. 放送法とそれに基づくNHKの存在意義を深く理解し、それを実現できる能力・見識のある人物を会長に選考すること
3. 会長選考過程に視聴者・市民の意思を広く反映させるよう、会長候補の推薦・公募制を採用すること。そのための受付窓口を貴委員会内に設置すること
署名数はもう一押しで3万に到達します。
詳細は以下を参照ください。
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/nhk-1e91-1.html(注)紙の署名用紙はこちら→http://bit.ly/2aVfpfH(注)この署名運動についてのお問い合わせは
メール:kanjin21menso@yahoo.co.jp または、
お急ぎの場合は 070-4326-2199 (10時?20時受付)までお願いします。
(注)以下のネット署名でNHK経営委員会に提出する名簿にはメールアドレス以外の項目すべてが記載されます。ネット上に集計結果を公開するときは「お名前」「お住まい(市区町村名)」は削除します。
→ 集計結果の公開URLは https://goo.gl/GWGnYc
*署名の第3次集約は11月4日(金)です。
11月7日、NHKに提出予定です。
(2016年11月3日)