澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

日野市は「消された理念」を復活せよ

ある日目が覚めて、なにもかにもが茶色の世界だったとしたら…。茶色新聞や茶色放送が、「ペットはすべて茶色でなければならない」「不適切な犬あるいは猫の飼育は国家侮辱罪である」と言いたて、茶色の制服を着た男たちが乱暴に取り締まる…。そんな朝は、金輪際ご免だ。

寓話ではなく、こちらは現実の話。ある日役所から通知が来る。公用封筒に印字された「日本国憲法の理念を守ろう」という12文字が、フェルトペンでわざわざ黒く塗りつぶされている。これにはギョッとせざるを得ない。昨日までは「日本国憲法の理念を守ろう」が当たり前の世の中だった。しかし、今日からは違うのだ。それを思い知らせるための墨塗り、文字消しなのだ。いったんは、そう考えざるを得ない。

安倍政権が、日本国憲法大嫌い内閣であることは天下周知の事実だ。しかも安倍政権は、政権に迎合しない名護市には交付金をストップしたまま、久辺3区にはつかみ金をばらまこうという露骨な利益誘導型政権。大学の自治すら金の力で蹂躙できると信じている反知性・金権体質。さては、日本中の自治体が、金のほしさに政権に擦り寄って、「日本国憲法の理念を守ろう」に墨を塗り始めたのか。そう勘ぐってもおかしくはない時代状況なのだ。こうして迎える朝は、茶色を通り越した、黒い朝だ。

昨日(10月31日)の東京新聞社会面トップの記事が詳しい。見出しが、「憲法順守 消された理念」「日野市封筒黒塗り」となっている。
「東京都日野市が、公用封筒に印字された『日本国憲法の理念を守ろう』という文言を黒く塗りつぶし、市民らに七百?八百枚を発送していたことが分かった。市側は『封筒は古いデザインで、現行型に合わせるため』と釈明しているが、市民から抗議の声が寄せられ、大坪冬彦市長が市のホームページ(HP)で『誤った事務処理で市民の皆さまに誤解を与えた』と対応のまずさを認めた。」(東京新聞)

その記事には日野市役所庁舎の写真が掲載されている。皮肉なことに、「核兵器廃絶・平和都市宣言」の大きな標柱が玄関前に建っている。「核兵器廃絶・平和都市宣言」はまさしく、日本国憲法の具体的理念。いつまで、この標柱の文字が生き抜けるのだろうか。心配せざるを得ない。

東京新聞の報道は、日野市側の弁明を詳しく紹介している。
「問題となったのは、長形3号の縦長の郵便用茶封筒で、大きな『日野市』の文字の左下に『憲法の理念を守ろう』の文言が印字されている。2010年度のモデルで、4月1日からの1年間、全庁的に使われた。」「憲法の文言が何年度から採用されたかは分からないが、長い間、印字されてきたという。」「この文言は10年度モデルを最後に消えたが、その理由について市は『把握できない』としている。」

「黒塗りを命じた課長は、「当時は見た目のことばかり考えてしまい、短絡的だった。憲法の文言をあえて消す必要はなく、メッセージ性を持った行動と受け取られても仕方ない」と話し、手元に残った黒塗り封筒五百枚は、全て処分する方針を示した。」

この課長のコメントも不可解だが、日野市のホームページに掲載された市長のコメントもよく分からない。
「このたび誤った事務処理により、市民の皆様に誤解を与えてしまったことについて遺憾に思います。憲法をはじめとする法令を遵守することは、市政の基本であり、これまでも、そして今後も、憲法をはじめとする法令を遵守して市政を運営することに、いささかも揺るぎがないことを改めて表明します。
日野市長 大坪冬彦」

朝日の記事では、「市は『憲法を軽んじる意図はない。何か圧力があったわけでもない』と説明。多くの人は『それなら良かった』と納得するという。」となっている。

「多くの人」とは誰のことか分からぬが、少なくとも私は納得しない。何よりも、かつてあった『憲法の理念を守ろう』の封筒に印字された文言がなぜ消えたのか、その理由を聞きたい。

市長の言い分は、明らかに論点のすり替えである。「憲法をはじめとする法令を遵守して市政を運営する」べきことは理の当然である。いまは、そんなことが問題になっているのではない。安倍政権やヘイトスピーチグループなどから憲法が痛めつけられている受難の時代である。「消された理念」を消しっぱなしにしていたのでは、日野市は客観的に改憲勢力に与したことになる。改憲に与するものでないとすれば、立憲主義・人権尊重・民主主義・平和主義という「憲法の理念」を守ろうと、声を上げなければならない。

市長よ、「市民の皆様に誤解を与えてしまったことが遺憾」「憲法遵守に、いささかも揺るぎがない」のであれば、「消された理念」12文字を復活せよ。改めて、「日本国憲法の理念を守ろう」の標語を入れた封筒を作成して使用を継続していただきたい。それあってこそ初めて、市民は「誤解」を解き、市の「憲法遵守の姿勢」に信を措くことになるだろう。それ以外に、「誤解」を解く方法はない。
(2015年11月1日・連続第945回)

今日を「前夜」にしてはならない。ーそのための精一杯の抵抗を

私と梓澤和幸君とIWJの岩上安身さんとの、自民党改憲草案批判をめぐる12回の鼎談を一冊にした「前夜」(現代書館)が初版本を完売したという。今なら、古本市場で相当の高値がついているとか。情勢が動いているから、増刷するよりは版を改めようということになった。今日(10月27日)は、そのために久しぶりで3人顔合わせをして、戦争法を中心に延々4時間にも及ぶ「前夜・増補改訂版」作成のための再鼎談となった。

過去12回の鼎談は、司会の岩上さんの問に私と梓澤君が答えるという形式だった。今日は憲法問題を語るというよりは、情勢を語り運動を語る場となった。さすがに、ジャーナリストとしての岩上さんの発言が冴え、出番も多かった。知らないことを教えてもらって有益だったがいささかくたびれた。

意見が一致したことは、来夏に行われる参院選の重要性である。岩上情報では、安倍政権はこの選挙で本格的に改憲発議を訴える予定だという。この選挙の結果如何では、改憲の具体的なスケジュールが動き出すことになりかねない。2014年は解釈改憲閣議決定の年、15年は解釈改憲による違憲の戦争法が成立した年として記憶されることになろうが、ビリケン安倍は、さらに16年を明文改憲元年としようとしているのだ。

「前夜」とは、開戦の前夜、ファシズム成立の前夜、あるいは憲法が蹂躙される恐るべき時代到来の前夜を意味している。今こそ「前夜」の危険に満ちた時代と自覚せよ、という編集者の警世の思いが書名に表れている。戦争法が「成立した」とされる今、時代が「前夜」のタイトルに追いついてしまった感がある。

茶色の朝が明けてはじめて、昨夜こそが「前夜」であったと気付くことになるが、そのときは既に遅い。その以前に、鋭敏に「前夜」に至る多くの徴候を、嗅ぎわけ、見逃さず、放置せず、ひとつひとつを克服していきたい。

この鼎談の中で、私は「戦争法案成立阻止のたたかいについての私的総括」を語った。そのレジメを抜粋して掲載しておこう。だいたいのところは、察していただけるだろう。

※「戦争法」という呼称について
 「平和安全法」か「戦争法」か。
 運動を統一する呼称の成立が喜ばしいこと。
 あるいは、メディアのいう「安保法制」「安保関連法」「安保法」か。
※戦争法案攻防は、どのような理念をめぐるたたかいであったか
 ☆立憲主義をめぐるたたかい
   民主主義の限界を意識 政権の権限の制約
   選挙での勝利は万能ではない
 ☆民主主義をめぐるたたかい
   「民主主義って何だ?」との問自体の重さ 市民の政治参加の権利と責務
 ☆平和主義をめぐるたたかい
   非武装平和主義→専守防衛路線(安保自衛隊法)→集団的自衛権行使容認へ
   いま、あらためて「平和憲法」(前文を含む全条文が平和主義)の確認
※味方の政治的立場はどうだったか
 A 形式的立憲主義派 集団的自衛権行使は改憲してから
 B 戦後の保守本流 安保も自衛隊も合憲 専守防衛路線
 C 伝統的護憲派 安保も自衛隊も違憲
※たたかいの特徴
 ☆上記Cだけの陣営の狭さを、A・Bが補った。
   幅広い連帯 → これが大きな運動の言動力になった
(共闘はBの見解を押し出した。しかし、運動の核はC陣営だったのでは)
 ☆かつての組織動員型運動から、非組織の市民中心型に(ネット社会化)
   しかし、現実には、政党・市民団体の役割は大きい。
 ☆運動の拡大→新しい参加者の獲得→拡大 の好循環
 ☆戦争法と、原発・TPP・靖国・「日の丸・君が代」・教育問題等との結びつき
※敵は誰だったか
  政権 自公与党 右翼 右派メデイア 財界 ナショナリスト
※敵のイデオロギーは
  我が国を取り巻く防衛環境の変化(=中国脅威論)
  米軍との軍事同盟関係強化による抑止力期待論
※たたかいに負けた原因    
  数の暴力+安倍政権の求心力⇔小選挙区制
  中国脅威論・北朝鮮脅威論・嫌韓論の一定の影響力
※戦争法が成立したことを軽視してはならない
  特定秘密保護法+戦争法 競合症の脅威
  「9条ブランド」の喪失は復元不可能
  戦地への自衛隊員派遣⇒戦死者の靖国合祀問題
  ナショナリズム高揚の危険性
※これからの課題
 ☆本流 選挙協力⇒安倍政権打倒⇒立憲派政権の樹立⇒戦争法廃止
 ☆傍流 ビリケン与党の戦争法賛成議員に対する落選運動
     適切なシチュエーションを選んでの違憲訴訟の提起
※闘い続けるために
  社会的同調圧力に負けずに、ナショナリズムに声を上げることの重要性。
  表現の自由とその行使の重要性。萎縮、自主規制の風潮への警鐘。
  教育・教科書・大学の自治への攻撃を軽視してはならない。「日の丸君が代」も。
  弁護士自治の重要性。その喧伝を。
  政党・労組・民主団体の役割についての正当な評価を。
  真っ当な政権対抗勢力を作る必要。政党嫌いや野党への揶揄の姿勢の克服を。

本日の鼎談を終えて、思う。今なら、まだ間に合う。本当の「前夜」にしないために、表現の自由とその行使の重要性を再確認しよう。政権や大勢に順応することをやめよう。萎縮や自己規制の風潮は危険だ。覚悟を決めて抵抗しよう。このことを大いに発言し続けよう。
(2015年10月27日・連続940回)

「新九条論」は連帯への配慮を欠いた提言として有害である

10月14日付東京新聞「こちら特報部」が「平和のための新九条論」を大きく取り上げた。今井一、小林節、伊勢崎賢治らの名を上げて、専守防衛に徹する自衛隊の存在を明記した新九条案を紹介している。個別的自衛権も交戦権も軍事同盟も容認を明記した新憲法を制定しようというのだ。

「憲法の条文に照らして自衛隊合憲論は欺瞞であるとし、歴代政府も護憲派もその欺瞞性を逆手にとられた」とするところから、条文と現実との乖離を最小化して「解釈の余地を政権に与えない」憲法を制定しようとの発想だという。

「自衛隊も安保も容認」したとされている共産党の国民連合政府構想が、「新九条論」者を勢いづかせている一因になってはいないだろうか。気がかりで警戒すべき事態と言わざるを得ない。

東京新聞は、リードで「安倍政権の暴走に憤る人たちの間からは、新九条の制定を求める声が上がり始めた。戦後日本が平和国家のあるべき姿として受け入れてきた『専守防衛の自衛隊』を明確に位置づける。解釈でも明文でも、安倍流の改憲を許さないための新九条である。」と言っている。肯定評価という域を超えて、この方向に意見と運動を誘導しようという意図が見える。

しかし、東京新聞のこのリードはおかしい。「新九条の制定」とは、明文改憲にほかならない。当然に明文改憲を拒否し解釈改憲も許さないとしたのが、今回の戦争法反対の世論であり運動であった。今、この時点で、唐突な明文改憲の主張は明らかに政権側に塩を送る動きである。安倍流でなければ「明文改憲けっこう」とはあまりに、短絡的な発想。「戦後日本が平和国家のあるべき姿として受け入れてきた『専守防衛の自衛隊』」との速断も安易に過ぎる。

この種の論争も見解も昔からあった。憲法は現実を批判する規範として理想を語る。現実との乖離は永遠の課題である。この乖離を理由に、現実を理想に近づける努力を放棄し、理想を現実に合わせて引きずり下ろそうということには賛成しかねる。

少しも新しくない「新九条論」だが、いま「新」を冠し、「平和のための」との装いでの登壇は、議論も運動も攪乱しかねない。理想を一歩現実の方向に動かせば、現実は二歩も三歩も逃げていく。現実に近づけられた「専守防衛」は、先制的防衛にも予防的防衛にも限りなく拡散していくことになるだろう。

ところで、戦争法成立の今、なぜ「戦争法廃止」に集中するのではなく、「新九条論」の提起なのだろうか。
今回の安倍流解釈改憲への反対運動は、「自衛隊は違憲、安保も違憲。自衛権の発動としても一切の武力行使はできない」という伝統派護憲陣営(A)と、「自衛隊は合憲、安保も合憲。集団的自衛権の行使は違憲だが、個別的自衛権の行使としてなら武力行使は可能」という旧来の保守本流の専守防衛陣営(B)との連合だった。A陣営は、B陣営との連携のために、Bの主張を前面に押し出した。安倍政権と自公両党が、現状を大きく変えようと強権の発動をしている以上、現状を維持しこれ以上悪化させないためにはB論で一致することとなる必然性があったからだ。その逆の連携のあり方は非現実的で、あり得ることではなかった。一見すると(A+B)の全体が、あたかもBの見解で統一されたかのごとき観を呈したが、実際にはA陣護憲派は、その見解を留保していたのだ。

共闘とは、小異を捨てて大同に就くこと。自説を曲げることでも捨てることでもない。A陣営の多くが、安倍流の解釈改憲に対抗するための有効な運動体形成のために、一致点を前面に立てていたということを深く認識すべきである。これまでのこととしてだけでなく、これからの「戦争法廃止」「明文改憲反対」を中心とする運動にも重要なこととして。

新九条論は、B陣営の一部の心ない動きである。A論に配慮するところなく、A論を真っ向否定したB論での明文改憲提案なのだから。運動の統一や連帯に配慮を欠いた独走というほかはない。

私見では、今井案も伊勢崎案も「普通の国の普通の憲法」に過ぎない。保守派が大喜びで、こぞって賛成するに違いない。こうして、具体的な修正案に照らすと九条の価値が浮かび出る。九条の価値は飽くまで理想としてのその存在自体にある。この理想を貶めるあらゆる明文改正案が光を失う。これ以上の新九条論の跋扈なからんことを願う。九条については、理想を堅持しつつ、営々と現実を理想に近づける努力を重ねるべきことが大切なのだ。性急な明文改憲など愚策でしかない。
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Blog「みずき」様
先日(10月20日)の私のブログ「放送大学の『表現の自由の抑圧』に抗議するー再び戦争をするための体制作りに加担してはならない」をご紹介いただきありがとうございます。

http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-1593.html#more
2015.10.21 今日の言葉 ――政権の思惑を忖度して、大学までが追随し萎縮して振り回される時代に危機意識を感じざるを得ない。時代と切り結ぶ生きた学問の実践とはなにか。

「弁護士・金原徹雄のブログ」様
私のブログの末尾に「放送大学の中から、教員や学生の間から、澎湃たる抗議の声が起こることを期待したい」とあるのに応えて、書いていただいたとのこと。感謝申し上げます。

10月22日「放送大学「日本美術史(’14)」単位認定試験にかかわる見過ごせない大学の措置について」
http://blog.livedoor.jp/wakaben6888/archives/45780419.html

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「公表された議事録作成の経緯の検証と当該議事録の撤回を求める申し入れ」への賛同署名のお願い

そもそも存在しない安保関連法案の「採決」「可決」を後付けの議事録で存在したかのように偽るのは到底許されません。私たちは、このような姑息なやり方に強く抗議するとともに、当該議事録の撤回を求める申し入れを提出します。ついては多くの皆様に賛同の署名を呼びかけます。

ネット署名:次の署名フォームの所定欄に記入の上、発信下さい。
     http://goo.gl/forms/B44OgjR2f2

賛同者の住所とメッセージを専用サイトに公開します。
     https://bit.ly/1X82GIB

第一次集約日 :10月27日(火)22時とします。なお、詳細は、下記ブログをご覧ください。
       http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-fb1b.html
       https://article9.jp/wordpress/?p=5768

(2015年10月23日・連続936回)

奴らを通すな。奴らを落とせ。

スペイン内戦で、反ファシズム陣営の合い言葉となったのが、「No Pasarán(奴らを通すな!)」。国会前の集会でも、たびたび演説者の決意として引用もされ、コールもされた。

そうだ。奴らを通してはならない。奴らはファシストなのだ。立憲主義をないがしろにし、民主主義を踏みにじり、教育の国家統制をはかり、労働法制をずたずたにして貧困と格差を生み出している。それだけではない。沖縄に新たな恒久的米軍基地をつくり、全国にオスプレイを配備しようとしている。この国を軍事大国にしようとしているではないか。明日にはいよいよ明文改憲にも手を付けかねない。

国会内では、奴らは数の力を押し通したが、今度は押し戻さねばならない。選挙の関門を通してはならない。奴らを通すな。奴らを落とせ。たたき落とせ。

奴らとは、今国会で戦争法案に賛成した自・公の与党議員全員だが、当面の目標は来夏の参院選だ。参議院議員として、戦争法案に賛成した、自・公・次世代・元気・改革の議員の中で、来年7月に6年の任期が満了して、「選挙区」から立候補しようとしている者が下記の42名だという。これがターゲットだ(党名記載ないのはすべて自民)。堂々たる市民主体の落選運動を展開して、奴らを落とそう。そうして、立憲主義と民主主義を回復しよう。

 北海道 長谷川岳
 青森  山崎力
 宮城  熊谷太
 秋田  石井浩郎
 山形  岸宏一
 福島  岩城光英
 茨城  岡田弘
 栃木  上野通子
 群馬  中曽根弘文
 埼玉  関口昌一 西田実仁(公明)
 千葉  猪口邦子 
 東京  竹谷とし子(公明)中川雅治 松田公太(元気)
 神奈川 小泉昭男 
 新潟  中原八一
 富山  野上浩太郎
 石川  岡田直樹
 長野  若林健太
 岐阜  渡辺猛之
 静岡  岩井茂樹
 愛知  藤川政人
 京都  二の湯智
 大阪  北川イッセイ 石川博宗
 兵庫  末松信介
 和歌山 鶴保康介
 鳥取  浜田和幸(次世代)
 島根  青木一彦
 広島  宮澤洋一
 山口  江島潔
 徳島  中西祐介
 香川  磯崎任彦
 愛媛  山本順三
 福岡  大家敏志
 佐賀  福岡資麿
 長崎  金子原二郎
 熊本  松村佑史
 宮崎  松下新平
 鹿児島 野村哲郎
 沖縄  島尻安伊子

具体的にどうするか。大きくは二つの柱がある。一つは、直接に奴らの票を減らすこと。そしてもう一つは、統一候補者を擁立して反安倍陣営全体で押し上げることだ。

奴らの票を減らす方法の王道は言論戦である。何よりも、言論戦を重視しなければならないことは言うまでもない。しかし、王道だけでは芸が無い。できることはなんでもやろう。何かないか。

弁護士・研究者・公認会計士などの専門家集団から成る「政治資金オンブズマン」が、たいへん興味深い運動の準備を始めているという。私もこれに参加しよう。
http://blog.livedoor.jp/abc5def6/archives/1040526008.html

政治資金オンブズマンは、政治とカネにまつわる問題で、多くの政治家を刑事告発し、あるいは大きくマスコミ公表するなどの経験を積み重ねている。この経験を生かして市民運動体の落選運動に役立てようというのだ。

具体的な最初の取り組みとしては、次のようなアウトライン。
? 奴らが所属する政党からの寄付金(政策推進費、交付金)などの調査、及び奴らが代表を務める政党支部や資金管理団体、後援会の各収支報告書の収入と支出、及びそれに添付している領収書類のコピーを徹底して調査する。(調査方法はHPに公表するが、同時に運動団体に弁護士などを無料で派遣することを検討中)

? そこから違法事実が判明すれば、政治資金規正法違反、公職選挙法違反などで告発することのアドバイス、告発状の作成なども無料で行うことも検討中。(なお政治とカネ問題だけでなく、どこかの議員のように未公開株式などの問題もおこれば法的なアドバイスも行う)

? 仮に違法でなくても、不当、不透明な収入や支出などが判明すればその情報をHPなどに公表し拡散することで、落選運動に寄与する。

奴らと言論でたたかうだけでなく、叩いてホコリを出そうというアイデアだ。徹底した身体検査をこちらでやって、不合格者をはねつけようという企画なのだ。非立憲・反民主の議員を叩くことが、同時に政治とカネとのつながりを断って政界を浄化することにもなる。一石二鳥ではないか。

もう一つ。奴らを落とすには、対抗馬として強力な反ファシズム統一候補が必要となる。完勝したオール沖縄方式、善戦もう一歩だったオール山形市方式だ。少なくとも、候補者調整が必要だ。

憲法が決壊し、日本の立憲主義と民主主義の危機なのだ。市民が一丸となって、奴らと闘い、奴らを叩き、そして強力な対抗候補を押し上げる。こうして、奴らを落とさねばならない。No Pasaránだ。
(2015年9月19日・連続902回)

平和憲法の原点は「非武装平和」

毎日新聞「オピニオン欄・社説を読み解く」は、月初めの火曜日に「前月の社説の主なテーマを取り上げ、他紙とも比較しながらより深く解説します」という論説委員長の署名記事。本日は、「国会審議のあり方」を取り上げて、安保法案審議に関しての自社の社説を解説している。切れ味の鋭さはないが、落ちついた姿勢で、内閣とメディアをたしなめ批判する内容となっている。

記事での言及はないが、各紙の関連社説の標題が掲記されているのが目を引く。
◇安保法案審議に対する社説の見出し
毎日 「大転換問う徹底議論を」(5月15日)
    「決めつけ議論をやめよ」(5月26日)
朝日 「この一線を越えさせるな」
    「合意なき歴史的転換」(5月15日)
読売 「的確で迅速な危機対処が肝要」
    「日米同盟強化へ早期成立を図れ」(5月15日)
日経 「具体例に基づく安保法制の議論を」(5月14日)
    「自衛隊の活動域さらに詰めよ」(5月21日)
産経 「国守れぬ欠陥正すときだ」
    「日米同盟の抑止力強化を急げ」(5月15日)
東京 「専守防衛の原点に返れ」
    「平和安全法制の欺(ぎ)瞞(まん)」(5月15日)

この見出しで、大まかに各紙のスタンスがつかめる。一方に、東京・朝日があり、対極に産経・読売がある。その間に、毎日・日経が位置するという構造。但し、この序列は当該の社説に限ってのこと。毎日の「リベラル度」は朝日と変わるまい。

東京新聞5月15日の社説にあらためて目を通した。熱のこもった、素晴らしい内容だ。読者の気持を動かす筆の力を感じる。

タイトルが「専守防衛の原点に返れ」で、三つの小見出しがついている。「平和安全法制の欺瞞」「憲法、条約の枠超える」「岐路に立つ自覚持ち」というもの。

まずは「平和安全法制」との政府のネーミングを欺瞞と断じている。
「呼び方をいかに変えようとも、法案が持つ本質は変わりようがない」「その本質は、自衛隊の活動内容や範囲が大幅に広げられ、戦闘に巻き込まれて犠牲を出したり、海外で武力の行使をする可能性が飛躍的に高くなる、ということだ」

社説子は熱く訴えている。
「思い起こしてほしい。なぜ戦後の日本が戦争放棄の「平和憲法」をつくり、それを守り抜いてきたのか。思い起こしてほしい。なぜ戦後の日本が「専守防衛」に徹してきたのか。
それは誤った政策判断により戦争に突入し、日本人だけで約三百十万人という犠牲を出した、先の大戦に対する痛切な反省からにほかならない。」

この社説の骨子は、戦後貫いてきた「専守防衛」の原点に返って、「海外での武力の行使に道を開く危うい法案」を批判するもの。「平和憲法を守り、専守防衛を貫いてきた先人たちの思いを胸に刻みたい」「二度と侵略戦争はしない、自国防衛以外には武力の行使や威嚇はしないという戦後日本の原点」に立ち返れ、とも言っている。

この社説の立場には賛意を表する。が、やや違和感を拭えない。我が憲法の平和主義の「原点」は何かという点についてである。

憲法9条を字義のとおりに読み、公開されている制憲議会の審議経過を通覧する限り、「非武装平和」が原点であったことに疑いはない。けっして「専守防衛」ではなかった。

東西冷戦構造の中で、警察予備隊から保安隊、そして自衛隊創設が「押しつけられた」。そのとき、国民世論のせめぎ合いの中で、設立された実力装置は、国防軍ではなく、「自衛のための実力」との位置づけにとどめられた。こうすることで憲法との折り合いをつけたのだ。これが、「専守防衛」路線の出自である。

原点の非武装平和の理念は大きく傷ついたが、専守防衛としてしぶとく生き残ったとも評価し得よう。今、現実的な論争テーマは、「専守防衛路線からの危険な逸脱を許してはならない」というものである。これが、許容ぎりぎりの憲法解釈の限界線を擁護する実践的議論でもあることを自覚しなければならない。
(2015年6月2日)

ご近所の皆さま、ご通行中の皆さま。近寄ってくる戦争の足音が聞こえませんか。

私たちは、「本郷・湯島九条の会」の者です。9条の会は、2004年に井上ひさしさんや大江健三郎さん、澤地久枝さんなど9人の方の呼びかけに応じて全国に立ち上げられました。いま、各地の地域や職域、学園、あらゆる分野に7500もの、単位9条の会が結成されて、それぞれのやり方で「9条を擁護する」「9条の精神を実現する」活動を行っています。私たちの会は、町内会の会長さんが代表者となっている、地域9条の会の一つです。

毎月第2火曜日のお昼の時間に、ここ本郷三丁目交差点「かねやす」前を借りて、「日本国憲法を守れ」「9条と平和を守れ」「あらゆる戦争への動きを根絶しよう」という街頭での訴えを続けています。今日も、しばらくお耳をお貸しください。

今年は、戦後70周年に当たります。1945年8月の敗戦から70年目の節目の年。70年前の東京には空襲が繰り返されました。東京の空襲被害は3月10日の大空襲だけではありません。サイパン・テニアンから飛来したB29の編隊による焼夷弾攻撃は100回にもわたって、東京を焼き払いました。文字どおり、東京を廃墟にしました。ここ、本郷も湯島も例外ではありませんでした。

70年前の今頃、日本と同盟を結んでいたムッソリーニのファシズム・イタリアも、ヒトラーのナチズム・ドイツも降伏し、日本だけが絶望的な戦いを続けていました。沖縄は凄惨な地上戦のさなかにあり、日本の主要都市のほぼすべてが、空襲の対象となっていました。

敗戦は明らかでしたが、戦争はなかなか終わりませんでした。天皇やこれを支える上層部が、「もう一度戦果を挙げてからの有利な講和」にこだわったからです。「有利な講和」とは国体の護持、つまりは天皇制の維持にほかなりません。しかし、最後の最後まで、「もう一度の戦果」はなく、沖縄は徹底して蹂躙され、広島・長崎に原爆が投下され、さらにソ連の対日参戦という事態を迎えて、無条件降伏に至りました。国体の護持、つまりは天皇制の維持にこだわることさえなければ、100万を超す命が助かったはずなのです。

国民は、正確な情報を知らされなかったばかりか、「神国日本が負けるはずはない」「いまに必ず神風が吹いて最後には戦局が好転する」そのように信じ込んでいました。一億総マインドコントロールの状態だったのです。もちろん、神風は吹かず日本は敗けました。70年前の8月のことです。

これ以上はない惨禍の末に戦争は終わり、国民は悲惨な思いの中からたくさんの教訓を学びました。よく考えてみれば、この戦争は侵略戦争であり植民地拡大戦争だったではないか。日本は、被害国ではなく、加害国としての責任を免れないと知りました。再び、戦争の加害者にも、被害者にもなりたくはない。どのような戦争も悲惨この上ないのだから、勝ち負けに拘わらず戦争をしてはならない。これが多くの国民の共通の思いでした。

この平和を願う国民の思いが、新憲法を平和憲法として誕生させます。日本の国民が、憲法の制定を通じて、再びの戦争をしないことを誓約したのです。戦争の被害者にも加害者にもならない。この考えが日本国憲法前文に平和的生存権として書き込まれ、憲法9条の条文にも結実しました。

憲法9条1項が、「国権の発動たる戦争」の放棄を宣言し、さらに念のために「武力による威嚇または武力の行使」をも、永久にこれを放棄しました。戦争の放棄です。

それだけではありません。戦争の放棄を担保する手段として、9条2項で「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と、戦力の不保持を宣言したのです。

9条1項と2項、戦争の放棄と戦力の不保持。この二つを併せて読めば、日本が、自衛の戦争をも含む、いかなる戦争もしないと誓約したことに疑いはありません。

旧憲法下での最後の議会となった第90帝国議会で、新憲法をめぐる改憲論議が行われました。そこでの野坂参三共産党議員と吉田茂首相との有名な「自衛権」論争があります。

野坂は、「古来独立国家として自衛権をもたない例はない。9条も自衛戦争は否定していないはず」と糺しましたが、吉田は「歴史上、侵略を標榜した戦争はない。すべての戦争が自衛の名のもとに行われた。憲法9条はけっして、自衛の戦争を認めるものではない」と、徹底した平和主義を語っています。

こうして制定された日本国憲法ですが、戦後しばらくすると政府の解釈が変わります。自衛隊が創設された1954年、政府は「自衛隊は憲法にいう戦力に当たらないから違憲の問題は生じない」と辻褄を合わせる説明を始めました。「憲法は国に固有の自衛権を否定していない。自衛隊は、敵国が日本の領土に進攻してきた際に自衛権を行使する実力組織に過ぎない。自衛隊は、自衛を超えて海外で武力を行使することはない。自衛の必要を超えた装備や編成をもつこともない。だから9条に違反しない」というのです。いわゆる専守防衛路線です。

この政府解釈は批判されつつも、定着して60年続きました。明らかに憲法の条文に違反はしてはいるものの、自衛隊の装備や編成、あるいは行動を、専守防衛にとどめて、逸脱を防止し、暴走することのないよう自衛隊への歯止めの役割を果たしてきたという側面を見落としてはならないと思います。

安倍政権はこの専守防衛路線を乗り越えようというのです。自衛隊暴走への歯止めを外してしまおうというのです。これは完全に憲法9条の戒めを破ろうということにほかなりません。

集団的自衛権の行使を容認することによって、自国の自衛のために限定されていた実力の行使が歯止めを失うことになります。戦争をする組織ではない、飽くまで敵が国土を蹂躙したときに自衛する実力部隊であったはずの自衛隊が、集団的自衛権行使の名のもとに、同盟国とともに海外で闘う組織になるというのです。

国土を離れた海外での武力の行使を「自衛」とは絶対に言いません。それは憲法が禁じる「戦争」にほかなりません。昨日、自公が合意して、これから閣議決定を経て国会に提出される法案は、自衛隊に海外での武力行使を認める法律案ですから、「戦争法案」と呼ぶのが適切で相応しいのです。

今年1月に亡くなられた9条の会呼びかけ人のお一人、奥平康弘さんの言葉を借りて、私なりの言葉で表現し直せば、「憲法9条は、1954年自衛隊ができたときに『半壊』した。そして、2014年7月1日の集団的自衛権行使容認を認める閣議決定で『全壊』しようとしている」

他国との軋轢は外交で解決すべきとするのが、日本国憲法の立場です。相手国を軍艦で脅し、近くで軍事演習をして、軍事力で威嚇し、ことあれば武力の行使に及ぶという選択肢を完全に捨てたのが日本国憲法の立場です。70年前に、戦争の惨禍を繰り返すまいという国民の願いがそのような憲法を作ったのです。

しかし、安倍政権が目指している国のかたちは明らかに違います。強い国、強い外交を行うためには、いざというときには戦争という選択肢をもたねばならない、というのです。これは危険なことです。何よりも、近隣諸国からの信頼を失う愚行といわざるを得ません。戦後70年間築いてきた、平和ブランドとしての日本をなげうつことでもあります。

今朝の各紙の報道によれば、「戦争法」関連法案は、既存の有事法制10本をまとめて改定する一括法「平和安全法制整備法」と、自衛隊をいつでもどこでも他国軍の戦闘支援に派兵する新法「国際平和支援法」(派兵恒久法)の2本建てだということです。解釈改憲・立法改憲によって憲法9条にトドメを刺そうとするものとして、到底看過できません。

皆さん、2年前の憲法記念日を思い出してください。発足間もない第2次安倍政権は、96条改憲を明言していました。「9条改憲が本丸だが、本丸攻めは難しい」「それなら、まずは外堀を埋めてしまえ」「96条の改憲手続きを変えて、明文改憲のハードルを下げるところから手を付けよう」という構想でした。

ところが、この96条改憲論がたいへんに評判が悪かった。2年前の5月には、「裏口入学に等しい姑息な手段」「卑怯卑劣な手口」として強い世論の反撃を受けました。その結果、安倍内閣はこれを撤回せざるを得ない事態に追い込まれてしまったではありませんか。

今、安倍政権がやろうとしている戦争法案の上程は、裏口入学どころの話しではありません。堂々と、憲法の玄関を蹴破って、憲法の平和の理念を押し潰そうというのです。一昨年同様、再び世論の力で憲法を9条を守り抜こうではありませんか。そして、戦争法の制定を推し進めようとしている安倍政権には、退場願おうではありませんか。憲法9条に成り代わって、皆さまに訴えます。
(2015年5月12日)

各紙調査に見る「9条改憲反対」世論の定着

毎年、憲法記念日には、各紙(社)の改憲への賛否を問う世論調査結果が気になる。もちろん、世論なる複雑なものを厳密に把握することは不可能であって、いずれの世論調査も科学的というにはほど遠く、客観的なものでもありえない。さはさりながら、各紙それぞれの客観的であろうとする姿勢や努力の差異は見て取れる。また、世論の傾向を解することは可能といえよう。

まずは産経の調査結果である。下記は今年の憲法記念日直前の世論調査の報道(デジタル版4.27 11:50更新)である。見出しは、「【本紙・FNN合同世論調査】戦後70年談話 “未来志向”を60%が「評価」 TPPの交渉進展「期待する」52%」というもの。見出しでは、憲法改正問題については、触れられていないことに注目しなければならない。
http://www.sankei.com/politics/news/150427/plt1504270035-n1.html

この記事は、「産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)が25、26両日に実施した合同世論調査」についての報道だが、テーマとしては「戦後70年談話」と「ドローン」と「TPPの交渉」問題について結果を述べ。最後に次のように述べる。

「一方、憲法改正に賛成は40・8%で、反対は47・8%。賛成者のうち9条改正に60・3%、緊急事態条項の新設に88・2%、環境権の新設に82・8%、財政規律条項の新設に72・3%がそれぞれ賛意を示した。」

つまり、産経の調査によっても、明文改憲賛成派は40・8%にとどまり、改憲反対派の47・8%に水をあけられているのだ。しかも、改憲賛成と回答した内「9条改正に賛成した者は60・3%」に過ぎないという結果は衝撃的ですらある。回答者全体を分母としての「9条改憲賛成者」の割合は、24・6%(47・8%×0・603)に過ぎないというのだ。

「(当然のこととして9条改憲反対を含む)改憲反対」派47・8%と、「改憲には賛成だが、9条改憲には与しない」というグループ(40・8×(1?0・60)=16・3%)を合計すれば、64・1%である。つまり、「分からない(DN)」「無回答(NA)」を除外して、明示の「9条改憲賛成派」が24・6%なのに対して、明示の「9条改憲反対派」が64・1%である。その比率は2・6倍。これは大差だ。勝負あったと言ってよいだろう。

ところが、産経はこの「自ら調査した民意」を「不都合な真実」として、直視しようとしない。見出しではまったく触れないこと、記事の末尾でしか触れていないことは既に見たとおりである。できるだけ、読者の印象を薄めようとしているのだ。

それだけではない。上記の記事に続く、同日の世論調査の追加報道(4.27 20:29更新)をご覧いただきたい。見出しは、「【本紙・FNN合同世論調査】民主党支持層は憲法改正『反対』多数」というもの。敢えて全文を引用する。
http://www.sankei.com/politics/news/150427/plt1504270049-n1.html

産経新聞社とFNNの合同世論調査で、自民、公明、維新の3党の支持層では憲法改正への賛成が多数を占めたのに対し、民主党支持層では反対が6割を超えた。平成24年12月の第2次安倍晋三政権発足で憲法改正の機運は高まったが、各党との改憲論議に後ろ向きな民主党の姿勢に拍車がかかりそうだ。
憲法改正に賛成したのは自民党支持層で57・3%、維新の党支持層で54・3%に上り、公明党支持層でも42・0%が賛成した。反対はそれぞれ3割台だった。
民主党は現行憲法に関し「GHQ(連合国軍総司令部)が短期間で作った代物」とする安倍首相の見解を問題視し、衆院憲法審査会での議論に難色を示してきた。こうした民主党の態度を反映するかのように、同党支持層では改憲賛成は26・9%にとどまった。
一方、全体でみると25年4月には6割を超えていた賛成は徐々に減り、昨年3月は反対が賛成を上回る結果に。その傾向は今回も続いた。船田元自民党憲法改正推進本部長は「憲法改正の議論の中身が十分理解されていないため」と分析。「国民のみなさんが十分理解できるような分かりやすい議論を心がける」と述べた。

ごく一般的な言語感覚の持ち主が、この見出しを読めば、「民主党支持層という特殊な範疇の人々の中では憲法改正『反対』の意見が多数」なので、「国民全体では憲法改正『反対』は少数だという世論調査結果が出た」と思い込むだろう。いや、そのような思い込みで全文を読んだあとでも、最初の印象は消せないのではないか。

この記事に拾われている数字は、調査結果を正確に伝えようとするものではない。明らかに読者の誤読を誘おうとするもので、「捏造」とまでは言い難いが、「過剰な演出」の域を遙かに超えている。真実に誠実ならざる報道姿勢がよく表れている。読者に対して罪深いといわざるを得ない。

これに較べて、さすがに朝日の世論調査結果の報道は誠実な姿勢に徹している。しかも、格段に全面的で本格的なものである。産経に比較すること自体が非礼ではあろうが、メディアとしての力量の差は覆いがたい。また、ジャーナリズムの在り方として当然ではあろうが、まったく作為を感じさせるところがない。これは本格的な国民の憲法意識の調査結果として、今後多方面で引用されることになるだろう。
http://www.asahi.com/articles/ASH4H4KBCH4HUZPS003.html

朝日の見出しは、「憲法改正不要48%、必要43% 朝日新聞社世論調査」(15年5月1日21時53分)というもので、結論は産経と大差ない。

冒頭のリードは、以下のとおり。
憲法記念日を前に朝日新聞社は憲法に関する全国郵送世論調査を実施し、有権者の意識を探った。憲法改正の是非を尋ねたところ、「変える必要はない」が48%(昨年2月の調査は50%)で、「変える必要がある」43%(同44%)をやや上回った。

調査手法や質問文が異なり単純に比較できないが、…改憲の是非を聞いた97年の調査以降は賛成が反対を上回ってきたが、安倍政権が憲法解釈を変えて集団的自衛権を使えるようにする議論を進めていた昨年の調査から再び逆転していた。

厖大なアンケート結果の報道量となっているが、とりあえずの重要テーマは「9条改憲」の是非を巡るものである。

◇9条「変えない方がよい」63%
 憲法9条については「変えない方がよい」が63%(昨年2月は64%)で、「変える方がよい」の29%(同29%)を大きく上回った。女性は「変えない方がよい」が69%に及んだ。
◇憲法第9条を変えて、自衛隊を正式な軍隊である国防軍にすることに賛成ですか。反対ですか。
 賛成 23          反対 69
これも、産経と大差ない。

そして本日(5月4日)の毎日が同様の世論調査結果を発表した。
http://mainichi.jp/select/news/20150504k0000m010056000c.html(最終更新5月3日23時06分)
「本社世論調査:9条改正、反対55%…昨年より増」というもの

毎日新聞が憲法記念日を前に実施した全国世論調査によると、憲法9条を「改正すべきだと思わない」が55%で、「思う」の27%を大きく上回った。昨年4月の調査では「改正すべきだと思わない」51%、「思う」36%だった。政府・与党が集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案の準備を進める中、9条改正慎重派は増えている。
一方、憲法を「改正すべきだと思う」は45%、「思わない」は43%でほぼ拮抗した。

産経、朝日・毎日の各調査の主要な調査結果と、その差を比較してみよう。
憲法9条の明文改正について
  朝日  賛成29%    反対63%   2・17倍
  (自衛隊を国防軍とすることに
       賛成23%    反対69%   3倍)
  毎日  賛成27%    反対55%   2・03倍
  産経  賛成24・6%  反対64・1% 2・60倍
である。

昨日の当ブロクは、「危機感に溢れた憲法記念日」とした。政権の動きや国会情勢を見る限りでは危機感を持たざるを得ないが、世論調査の結果は、9条明文改憲に反対する、「9条擁護」の世論が確実に国民に根付いていることを明らかにしている。
(2015年5月4日)   

危機感溢れる中の憲法記念日

本日は68回目の憲法記念日。戦後70周年に当たるこの年の憲法施行記念日でもある。1946年11月3日に公布された新憲法は、国民への周知のための半年の期間を経て68年前の今日が施行日となった。

その日、政府主催の新憲法施行記念式典が催され、記念国民歌「われらの日本」が唱われた。慶祝の花電車が走り、憲法音頭が踊られた。しかし、68年を経て、いま政権は憲法に冷ややかという域を遙かに超えて、敵意を剥き出しにしている。

第1次安倍政権の時期も憲法受難の時代であった。この政権が、2007年7月の参院選挙で与党大敗となり、その直後に安倍晋三がかつてない醜態をさらして政権を投げ出したときには憲法に替わって快哉を叫んだものだ。その後しばらくは、「憲法の安穏」の時期が続いた。しかし、よもやの第2次安倍政権発足以来、毎年の憲法記念日は改憲をめぐって緊張感が高い。

「憲法の危機」は、明文改憲としての危機でもあり、解釈改憲による憲法理念なし崩し抹殺の危機でもある。今、両様の危機の切迫に警戒しなければならない。

本日の赤旗「安倍壊憲政権に立ち向かう」という標題で、森英樹(名古屋大学名誉教授・日民協理事長)がこう述べている。
「容易ならざる事態の中で迎える今年の憲法記念日は、例年と質的レベルを異にするといわざるを得ません。『戦争立法』=壊憲の先に、文字どおりの改憲を公言する安倍政権のもと、それこそ『壊憲から改憲へ』という『切れ目のない』憲法敵視策の中で迎えることになるからです」

ここでは、「壊憲」=解釈改憲・立法壊憲、「改憲」=明文改憲と使い分けられている。その指摘によれば、「改憲」には前科があるという。

「再軍備が54年の自衛隊設置に及ぶや、政府は…憲法を変えようとしました。しかし国民の反撃にあって改憲は失敗します。すると今度は解釈を変えて『必要最小限の個別的自衛権』保持・行使なら憲法に違反しない、と言い始めました。
 いま、憲法解釈を変更して集団的自衛権行使を合憲にしようとする『解釈改憲』が問題になっていますが、実はもう前科があるのです。ただ、9条があり、…最初の解釈があるので、これを気にして、せめて海外に出て戦争することはしない、という『専守防衛』の『歯止め』を維持してきました。ここを崩そうとするのが今の解釈改憲です」

森が引用する奥平康弘の言葉が印象に残る。
「1月末に急逝された『九条の会』呼びかけ人で憲法研究者の奥平康弘さんが、生前最後の対談で指摘したように『九条は自衛隊設置を許した「個別的自衛権」で歪められ、「集団的自衛権」で無くされようとしている』(『季論21』26号での堀尾輝久氏との対談)のです」

個別的自衛権という名目で、軍事力の保持を認めたことには二面性がある。わが国が保有できる軍事力を「自衛の範囲のものに限定」し、その活動を専守防衛におしとどめたという一面は確かにある。しかし、森や奥平が鋭く指摘するとおり、一切の軍事力の保持を禁じた9条を解釈と立法で「壊した」もう一面があることは否めない。森は、これを「壊憲の前科」というのだ。

今、安倍政権がたくらむ「壊憲」は、「専守防衛」の「歯止め」まで外して、9条を事実上無にしようというものだという、この重大な警鐘を肝に銘じなければならない。

明文改憲に関しては、今さらの「押しつけ憲法論」が安倍晋三の口から繰り返されている。しかし、戦争と軍国主義、国民監視体制から解放されて、平和と自由を獲得した国民は、明らかに新憲法を歓迎した。この憲法を「押しつけられたもの」と意識したのは、旧体制の支配層の生き残りであったろう。いま、安倍晋三が、その立場と自分を重ねて「押しつけ憲法」というのは、旧憲法体制での「既得権益」の再現を狙うものと解するほかはない。

本日の毎日新聞は、十分なスペースを確保して「日本国憲法制定過程をたどる」「憲法はどう作られ、変えられようとしているか」という、いずれも充実した検証記事を掲載して読み応え十分である。これだけの充実した紙面だと、あらためて「新聞ほど安いものはない」と思わせられる。

憲法制定経過の検証の末の毎日の結論は、「押しつけ(憲法論) 薄い論拠」というもの。そして、社説において「押しつけ改憲にさせぬ」と小見出しを付して、「憲法の根本原理を作りかえ、政治が使い勝手をよくするための『押しつけ改憲』には明確にノーを言いたい」と立場を鮮明にしている。

さらに東京新聞の特集が充実している。
同紙の一面トップは、「平和をつなぐ」と題するシリーズの第1回として、美輪明宏を取り上げている。「憲法や平和について議論を深めよう」などという、中途半端で生温い記事ではない。下記のとおり、改憲の危機意識を露わに、平和と憲法を擁護する立場を鮮明にしてのものだ。

「戦争をしない国」を支えてきた憲法9条は今、危機を迎えている。政府は集団的自衛権が行使できるようにする法整備を着々と進め、その先には改憲も視野に入れる。「これからも憲法を守りたい」。戦争を体験した世代から、20代の若者まで、世代を超えてその思いをつなぎ、広げようと、メッセージを発信する人たちがいる。

三輪を語る記事の標題は、「危機迫る憲法 自作反戦歌 今こそ」というもの。
第2次安倍政権発足以来、三輪のコンサートは、反戦を唱うものに変わったという。それも、徹底した筋金のはいった反戦の姿勢。

ロマンあふれるシャンソンとは趣が違う、原爆孤児の悲しみを描いた歌詞。長崎で原爆に遭った自身の体験を重ねた。70年を経ても拭い去れない悪夢。不戦を誓う憲法を手にした時、「もう逃げ惑う必要がない」と安堵した。その憲法が崩れるかどうかの瀬戸際にある。
「私たちは憲法に守られてきた。世界一の平和憲法を崩す必要はない」。若い世代も多い観客に伝えたくて、反戦歌を歌う。原爆体験や軍国主義への強い嫌悪が美輪さんを駆り立てている。

しかも、三輪の語り口はけっして甘いものではない。「そんな(憲法の危機をもたらしている)政治家を舞台に立たせたのは、国民の選択だった。そのことをもう一度考えてほしいと美輪さんは歌い、語り続けている」とする記事のあと、最後は三輪の次の言葉で締めくくられている。
「無辜の民衆が戦争に狩り出されるのではない。選挙民に重い責任があるのです」

憲法記念日の紙面の、一面トップにこのような記事をもってきた東京新聞の覚悟が伝わってくる。社と記者と、そして三輪明宏に深甚の敬意を表したい。

また、同紙は今日で3日、連続して「戦後70年 憲法を考える」シリーズの社説を掲載している。いずれも読み易く立派な内容である。
 戦後70年 憲法を考える 「変えない」という重み (5月1日)
 戦後70年 憲法を考える 9条を超える「日米同盟」(5月2日)
 戦後70年 憲法を考える 「不戦兵士」の声は今 (5月3日)

戦争と統制に抗う、健全なジャーナリズムを衰退させてはならない。その国家統制や社会的なバッシングによる萎縮を許すとすれば、三輪が言うとおり「無辜の民衆が被害に遭うのではない。国民自身に重い責任がある」のだから。
(2015年5月3日)

憲法の暗殺を許すなー与党合意の立法を成立させてはならない

70年前に、未曾有の敗戦の惨禍から日本を再生させた国民は、平和を誓ってこの理念を憲法に刻み込んだ。今度は負けない強い軍事国家をつくろうとしたのではない。誰もが平和のうちに生きる権利のあることを確認し、戦争を放棄し戦力の不保持を宣言したのだ。国の方針の選択肢として戦争を除外する、非軍事国家として再出発した。そのことが、日本を平和愛好国家として権威ある存在としてきた。

それが、今大きく揺るぎかねない事態を迎えている。安倍内閣と、自公両党によってである。憲法に刻み込んだはずの誓いが、憲法改正の手続ないままにないがしろにされようとしている。

人に上下はないが、法形式には厳然たる上下の階層秩序がある。上位の法が下位の法を生み、その妥当性の根拠を提供するのだから、法の下克上は許されようはずもない。

法の階層秩序の最高位に憲法がある。憲法を根拠に、憲法が定める手続で、法律が生まれる。法律が憲法に反することはできない。このできないことをやってのけようというのが、「安全保障法制整備に関する与党合意」にほかならない。しかも、法律ですらない閣議決定を引用し、これに基づいて違憲の立法をしようというのだ。

憲法を改正するには、憲法自身が定める第96条の手続によらなければならない。内閣や国会が憲法の内容に不満でも、主権者が憲法を改正するまではこれに従わなければならない。むしろ、立憲主義は、憲法の内容をこころよしとしない為政者に対峙する局面でその存在意義が発揮されるというべきである。

改憲手続きを経ることなく、閣議決定で許容される範囲を超えて憲法解釈を変更することは、憲法に従わねばならない立場にある内閣が憲法をないがしろにする行為であって、言わば反逆の罪に当たる。憲法の範囲内で行使されるべき立法権が、敢えて違憲の立法をすることは、主権者の関与を抜きにした立法による改憲にほかならない。

解釈改憲や立法改憲が憲法の核心部分を破壊するものであるときは、違法に憲法に致命傷を与えるものとして、憲法の暗殺と言わねばならい。

閣議決定による集団的自衛権行使容認と、その違憲の閣議決定にもとづく安保法制の立法化のたくらみは、まさしく平和憲法の暗殺計画ではないか。立憲主義、平和主義、そして民主主義を擁護する立場からは、この憲法の暗殺を許してはならない。

昨日公表された与党合意、正確には「安全保障法制整備の具体的な方向性について」に関して、本日の各紙が問題の重要性に相応しく大きく取り上げている。報道、解説、社説がいずれも充実している。なかでも、東京新聞の全力投球ぶりが目を惹く。朝日も、さすがと思わせる。

朝日の社説は「安保法制の与党合意―際限なき拡大に反対する」という見出しで、「米軍の負担を自衛隊が肩代わりする際限のない拡大志向」に懸念を表明している。また、「抑止力の強化」の限界を指摘して、「抑止力への傾斜が過ぎれば反作用も出る。脅威自体を減らし紛争を回避する努力が先になされなければならない。」とも主張している。結論は、「戦後日本が培ってきた平和国家のブランドを失いかねない道に踏み込むことが、ほんとうに日本の平和を守ることになるのか。考え直すべきだ。」というもの。異論のあろうはずはない。

しかし、気になる一節がある。
「肝要なのは、憲法と日米安保条約を両立させながら、近隣諸国との安定した関係構築をはかることだ。」という。日米安保条約を「憲法と両立させるべきもの」と位置づけている点。かつて、好戦的なアメリカとの軍事同盟は、我が国を戦争に巻き込む恐れの強いものとして、「アンポ、ハンタイ」の声は津々浦々に満ちた。いま、安倍政権と自公両党がやってのけようという乱暴な企図に較べると日米安保などはおとなしいものということなのだ。

本日の東京新聞の見出しを拾えば、「戦争参加の懸念増す」「事実上の海外武力行使法」「国民不在の『密室安保』」「戦える国作り 加速」「海外派遣 どこへでも」「政府判断でいつでも」などというもの。東京新聞の姿勢が歴然である。

その東京新聞の社説の標題は、「『専守』変質を憂う」となっている。与党合意の内容が、これまでの政府の方針であった「専守防衛路線」から大きく逸脱するものと考えざるをえないと批判するトーンである。「『専守防衛』は、日本国民だけで310万人の犠牲を出した先の大戦の反省に基づく国際的な宣言であり、戦後日本の生き方そのものでもある」とまで言っている。

米の軍事力で我が国の安全を守ろうというコンセプトの日米安保条約も、自衛権の発動以上の戦力を持つことのない専守防衛の自衛隊も、かつては違憲とする有力な論陣があって、政府が専守防衛は違憲にあらずとする防戦に務めていた。ところがいま、安倍政権と自公の与党は、自衛隊を専守防衛のくびきから解放して、世界のどこででも戦うことができる軍事組織に衣替えしようというのだ。

今、自衛隊違憲論者と専守防衛合憲論者とは、力を合わせスクラムを組まねばならない。安倍政権と自公両党による、憲法暗殺計画を共通の敵とし、憲法を暗殺から救出するために。
(2015年3月21日)

東京新聞の「九条の会」討論集会報道

昨日(3月15日)、「九条の会」が都内で全国討論集会を開いた。さすがに、よいタイミングでの企画。集団的自衛権行使容認の「閣議決定」を法律レベルで具体化する安保法制整備の阻止が焦眉の急の課題。法案の大綱は、現在進行中の与党協議の結論として、今月末までに明らかになる。自・公が真剣に議論しているのか、それとも出来レースで議論しているふりをしているのかも。

「九条の会」のこの集会の呼びかけは、1月29日に公表された。以下のような内容。

「安倍政権は、通常国会で、憲法9条の破壊につながる戦争関連法制の改定案や自衛隊海外派兵恒久法案などを提出しようとしています。私たちは、先般の集団的自衛権の政府解釈見直しの不当な閣議決定に沿ったこれらの憲法違反の諸法制を断じて容認できません。これを許せば、日本はまさに『戦争する国』になります。安倍政権のこの危険な企てに対して、九条の会はどのように活動するべきかを語り合うため、『全国討論集会』を開催します。全国からの参加を期待します。声をかけあってご参加ください。

単位「九条の会」は、全国の地域や職域や学園に7500も結成されているという。昨日はその内の280の「九条の会」から452人が参加し、34人が発言したと報じられている。

今朝の赤旗が、この集会を一面トップと、社会面の中段で記事にしている。これは驚くに当たらない。驚いたのは、東京新聞である。1面の左肩で扱っただけでなく、社会面の半分以上の紙幅を割いての、発言内容にまで立ち入った本格的な報道。

しかも、その姿勢が真っ直ぐだ。見出しが、「改憲反対に若い力を」「『九条の会』世論盛り上げ」「いま9条守る」というもの。その報道姿勢が、まことに新鮮な印象。
これまで、大手メディアは、護憲派の運動を報じることに臆病ではなかったか。改憲派の報道と抱き合わせでなくては、護憲派の集会はなかなか記事にならなかったのではないか。今朝の東京新聞の記事は、吹っ切れたという感じがある。同紙が原発報道において脱原発派に正当な地位を認めたように、憲法をめぐるせめぎ合いにおいても護憲派の運動に同様の対応をすることを決意したように見える。

東京新聞は、1面では「憲法九条を守る活動をしている市民団体『九条の会』は15日、全国の会員による討論集会を東京都内で開き、若者へのPRや地域に根差した活動で改憲に反対する世論を盛り上げていく方針を確認した。創設時の呼び掛け人の作家沢地久枝さん(84)と、同じく作家の大江健三郎さん(80)も登壇し『歴史を繰り返さないために』と訴えた」と公式的な報道内容だが、社会面では無名の5人の発言を写真入りで報じている。暖かい報道姿勢だ。

同紙がつけたこの5人の発言のタイトルがよい。
「改憲派にも言葉届けよう」「平和へ保守とも協力を」「東アジアの草の根で連帯」「改憲阻止へ大きなうねり」「障害者こそ平和が必要」というもの。この発言の選択とタイトルの付け方が、記者の共感を物語っている。

「運動の対象を改憲派にも拡げて、改憲派とも語り合おう」「革新・リベラル派だけの内向き運動だけでは勝てない。平和を希求する保守陣営とも協力して憲法を守ろう」「国内だけではなく、東アジアの草の民衆とも連帯しよう」「そして、8月15日には100万人大集会を成功させて改憲阻止へ大きなうねりを作っていこう」という、運動の拡がりを提案する発言が主流となったようだ。そして、「戦争の時代には弱い立場の人権が真っ先に切り捨てられる。障害者自身が弱者にこそ平和が必要だと訴えていきたい」という平和の尊さについての言及。まさしく、草の根の護憲運動が発言している。

なお、毎日もスペースは大きくないが、きちんと報道はしている。共同通信の配信で北海道新聞などの地方紙も報道をしている様子。朝日には関連記事がみあたらない。読売については言わずもがな。産経については「ことさらに『九条の会』を批判する記事」の掲載はないようだとだけ言っておこう。

各紙の報道での私の印象。
当然ではあるが、まずは、護憲派の危機感がとても強いということ。一歩一歩積み重ねられてきた、「戦争のできる国作り」が、いよいよ瀬戸際まで来ているという危機感である。これまでの運動の壁を乗り越えて、あらたな質と規模の護憲を求める国民的大運動を、という声が強い。

その危機感は、とりわけ戦前と戦争を知る世代に強い。「今が戦前に似ている」と語る高齢世代からの緊張感が伝わってくる。その高齢世代の危機感が、若い世代への運動継承の必要の強調となっている。

そして、これまで結束の対象としていた革新リベラルの域を超えて、その外の多くの人々に、改憲阻止の運動に参加を呼びかけようと訴えられている。共闘とは、無理に意見を一致させることではない。一致点での共同行動が第一歩である。

とりあえずは、専守防衛容認派も、瓶のフタとしての安保条約容認論者も、アベノカイケンだけには反対という論者も、閣議決定で実質改憲を許してはならないという一点護憲派も、「いまの安倍政権による改憲には反対」という一致点での共闘は可能であり、それこそが多数を味方に結集して大きな国民的運動を起こせるし、起こさねばならないのだ。

私も、自分の考え方は大切にしながらも、改憲阻止の大きな国民運動のうねりを作るためにはどうすればよいかを意識しつつ、当ブログを書き続けていきたい。
(2015年3月16日)

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