明後日(9月2日)東京地裁で、私自身が被告にされている「DHCスラップ訴訟」の判決が言い渡されます。報道に値する判決になるはずですので、ぜひ取材のうえ報道されるよう要請いたします。
そして、この判決を契機として、表現の自由保障の重要性や、経済的強者が民事訴訟を濫発して自分に不都合な言論を封殺しようという「スラップ訴訟」の弊害と防止策などについて、ぜひ掘り下げて言論界の話題にしていただくようお願いいたします。
この件で被告になっているのは私ですが、実は私だけでなく「政治的言論の自由」「政治とカネにまつわる問題についての批判の自由」「消費者利益の擁護に向けた言論の自由」なども、私と一緒に被告席に立たされています。その意味では、すべてのディアがご自分の問題としても関心をもたざるを得ない訴訟であり判決だと思います。
《当日の予定》は以下のとおりです。
午後1時15分 判決言い渡し(631号法廷)
午後1時30分 判決勝利報告集会(一弁講堂・弁護士会館12階)
午後3時30分 記者会見(司法記者クラブ)
《判決を迎える事件の特定》
東京地方裁判所民事第24部合議A係
平成27年(ワ)第9408号
原告 吉田嘉明 DHC(株)の両名
被告 澤藤統一郎(職業・弁護士)
裁判長裁判官 阪本勝
陪席裁判官 渡辺達之輔 大曽根史洋
原告代理人弁護士 今村憲 木村祐太 山田昭
被告代理人弁護士 光前幸一 外110名(計111名)
《この事件が持つ意味》
*政治的言論が保障されなければならないこと。
*「政治とカネ」をめぐる論評の自由が特に保障されねばならないこと。
論評の内容は「カネで政治を買う」ことへの批判。
*消費者利益をめぐる論評の自由が強く保障されねばならないこと。
論評の内容はサプリメント販売の規制緩和(機能性表示食品問題)への批判。
*公権力だけでなく、経済的社会的強者も言論による批判を甘受すべきこと。
*高額損害賠償請求訴訟を提起しての言論妨害が許されないこと。
《予想される判決の内容》
この日の判決は、DHC・吉田嘉明の自己に不都合な言論を封殺しようとした不当な意図を挫いて、政治的言論の自由を再確認し、市民や消費者の立場からの、企業や行政や経済的強者への批判の権利を保障する内容になるはずです。判決の主文もさることながら、理由がより注目されるところ。
《DHCスラップ訴訟経過の概略》
2014年3月31日 違法とされたブログ(1)掲載
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
2014年4月2日 違法とされたブログ(2)掲載
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
2014年4月8日 違法とされたブログ(3)掲載
政治資金の動きはガラス張りでなければならない
同年4月16日 原告ら提訴(当時 石栗正子裁判長)
5月16日 訴状送達(2000万円の損害賠償請求+謝罪要求)
6月 4日 答弁書提出(本案前・訴権の濫用却下、本案では棄却を求める)
6月11日 第1回期日(被告欠席・答弁書擬制陳述)
7月11日 進行協議(第1回期日の持ち方について協議)
7月13日 ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズ開始
第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
16日 第4弾「弁護士が被告になって」
以下本日の第50弾まで
7月22日 弁護団発足集会(弁護団体制確認・右崎先生講演)
8月20日 10時30分 705号法廷 第2回(実質第1回)弁論期日。
8月29日 原告 請求の拡張(6000万円の請求に増額) 書面提出
新たに下記の2ブログ記事が名誉毀損だとされる。
7月13日の「第1弾」ー違法とされたブログ(4)
「いけません 口封じ目的の濫訴」
8月8日「第15弾」ー違法とされたブログ(5)
「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務だ
参照 https://article9.jp/wordpress/?cat=12
『DHCスラップ訴訟』関連記事
2015年7月 1日 第8回(実質第7回)弁論 結審
2015年9月 2日 判決言い渡し期日
《本日の勝訴報告集会》
13時30分?15時 第一東京弁護士会講堂
弁護団長 経過と判決内容の説明 今後の展望 質疑応答
常任弁護団から、あるべきスラップ訴訟対策提言試案
弁護団・支援者・傍聴者 意見交換
スラップ常習提訴者や提携弁護士に対する抑止・制裁のあり方
スラップ対策の制度つくり など
被告本人 お礼とご挨拶
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《関連他事件について》
DHCと吉田嘉明が連名で原告となって提起した同種スラップ(いずれも、吉田嘉明の渡辺喜美に対する8億円提供を批判したもの)は合計10件あります。その内の1件はDHC・吉田が自ら取り下げ、9件が現在係属中です。
最も早く進行したDHC対折本和司弁護士事件は、
本年1月15日に地裁判決(請求棄却)、
6月25日の控訴棄却判決(控訴棄却)、
その後上告受理申立がなされ最高裁に係属中。
2番目の判決となったS氏(経済評論家)を被告とする事件は
本年3月24日に地裁判決(請求棄却)、
8月5日に控訴審判決(控訴棄却)、
やはり、その後上告受理申立がなされ最高裁に係属中。
私の事件が、3番目の地裁判決になるようです。
DHC・吉田は、同種2事件で各一審と控訴審計4回の判決を受けてすべて敗訴となっています。
DHC・吉田は、関連して仮処分事件も2件申し立てていますが、いずれも却下。両者とも抗告して、抗告審も敗訴。これで、合計8連敗です。
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《スラップに成功体験をさせてはならない》
私は、多くの人の支援や励ましに恵まれた「幸福な被告」です。しかし、被告が常に法的、財政的、精神的な支援に恵まれる訳ではありません。スラップの被害に遭った者がペンの矛先を鈍らせることも十分にあり得ることと言わざるを得まらん。だから、恵まれた立場にある私は、声を大にして、DHC・吉田の不当を叫び続けなければならない。そして、スラップの根絶に力を尽くさなければならない、そう思っています。
その思いを、下記のとおり結審法廷の被告陳述書で述べています。
《被告本人意見陳述》(2015年7月1日結審の法廷で)
口頭弁論終結に際して、裁判官の皆さまに意見を申し述べます。
私は、突然に被告とされ、応訴を余儀なくされています。当初は2000万円、現在は、6000万円を支払え、とされる立場です。当然のことながら、心穏やかではいられません。このうえなく不愉快な体験を強いられています。理不尽極まる原告らの提訴を許すことができません。
私は、憲法で保障された「表現の自由」を行使したのです。本件で問題とされた私の言論の内容は、「政治をカネで歪めてはならない」という民主主義社会における真っ当な批判であり、消費者利益が危うくなることに関しての社会への警告なのです。むしろ私は、社会に有益で有用な情報や意見を発信したのだと確信しています。被告とされる筋合いはありえません。この点について、ぜひ十分なご理解をいただきたいと存じます。
関連してもう一点お願いいたします。原告の訴状では、私の書いた文章がずたずたに細切れにされ、細切れになった文章の各パーツに、なんとも牽強付会の意味づけをして、「違法な文章」に仕立て上げようとしています。細切れにせずに、各ブログの文章全体をお読みください。そうすれば、私の記事が、いずれも非難すべきところのない真っ当な言論であることをご理解いただけると存じます。
私は、45年の弁護士生活を通じて、政治とカネ、あるいは選挙とカネをめぐる問題を、民主主義の根幹に関わるものととらえて、関心を持ち続けてきました。また、消費者事件の諸分野で訴訟実務を経験し、東京弁護士会の消費者委員長を2期、日本弁護士連合会の消費者委員長2期を勤めています。消費者問題に取り組む中で、「官僚規制の緩和」や「既得権益擁護の規制撤廃」などという名目で、実は事業者の利益のために、消費者保護の制度や運用が後退していくことに危機感を募らせてきました。そのことが本件各ブログに、色濃く反映しています。
私の「憲法日記」と表題するインターネット・ブログは、弁護士としての使命履行の一端であり、職業生活の一部との認識で書き続けているものです。現在のものは、2013年4月1日に開設し毎日連続更新を宣言して連載を始めたもので、昨日で連続更新821日を記録しています。このブログは権力者や社会的強者に対する批判の視点で貫かれていますが、そのような私の視界に、「DHC8億円裏金事件」が飛び込んできたのです。
昨年3月「週刊新潮」誌上に吉田嘉明手記が発表される以前は、私はDHCや原告吉田への関心はまったくなく、訴状で問題とされた3本のブログは、いずれも純粋に政治資金規正のあり方と規制緩和問題の両面からの問題提起として執筆したものです。公共的なテーマについての、公益目的での言論であることに、一点の疑義もありません。
原告らは、私の言論によって社会的評価を低下した、と主張しています。しかし、自由な言論が権利として保障されているということは、その言論によって傷つく人のあろうことは、法が想定していることなのです。誰をも傷つけることのない人畜無害の言論には、格別に「自由」だの「権利」だのと法的な保護を与える必要はありません。仮に原告両名が、私の憲法上の権利行使としての言論によって、名誉や信用を毀損されることがあったとしても、これを甘受しなければならないのです。
そのことを当然とする根拠を3点上げておきたいと思います。
その第1は、原告らの「公人性」が著しく高いことです。もともと原告吉田は単なる「私人」ではありません。多数の人の健康に関わるサプリメントや化粧品の製造販売を業とする巨大企業のオーナーです。行政の規制と対峙しこれを不服とする立場にもあります。これに加えて、公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を拠出して政治に関与しました。さらに、そのことを自ら曝露して、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立ったのです。自らの意思で「私人性」を放棄し、積極的に「公人性」を獲得したのです。自分に都合のよいことだけは言っておいて、批判は許さないなどということが通用するはずはありません。
その第2点は、私の言論の内容が、政治とカネというきわめて公共性の高いテーマであることです。「原告吉田の行為は政治資金規正法の理念を逸脱している」というのが、私の批判の内容です。仮にもこの私の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となり、民主主義の政治過程がスムーズに進行するための基礎を失うことになってしまいます。
さらに、第3点は、私の言論が、すべて原告吉田が自ら週刊誌に公表した事実に基づくものであることです。本来、真実性の立証も、相当性の立証も問題となる余地はありません。私は、その事実に常識的な推論を加えて論評しているに過ぎないのです。意見や論評を自由になしうることこそが、表現の自由の真髄です。私の論評がどんなに手痛いものであったとしても、原告吉田はこれを甘受しなければならないのです。
にもかかわらず、吉田は私をいきなり提訴しました。しかも、私だけでなく10人の批判者を被告にして同じような訴訟を提起しています。カネをもつ者が、カネにものを言わせて、裁判という制度を悪用し、自分への批判の言論を封じようという試みが「スラップ訴訟」です。本件こそが、典型的なスラップ訴訟にほかなりません。原告吉田は、私をだまらせようとして、非常識な高額損害賠償請求訴訟を提起したのです。私は、「黙れ」と恫喝されて、けっして黙ってはならない、と決意しました。もっともっと大きな声で、何度でも繰りかえし、原告吉田の不当を徹底して叫び続けなければならない、これも弁護士としての社会的使命の一端なのだ、そう自分に言い聞かせています。
その決意が、私のブログでの「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズの連載です。昨日(6月30日)までで46回書き連ねたことになります。原告吉田は、このうちの2本の記事が名誉毀損になるとして、それまでの2000万円の請求を6000万円に拡張しました。この金額の積み上げ方それ自体が、本件提訴の目的が恫喝による言論妨害であって、提訴がスラップであることを自ら証明したに等しいと考えざるを得ません。
本件は本日結審して判決を迎えることになります。
その判決において、仮にもし私の言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治批判の言論は成り立たなくなります。原告吉田を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行する事態を招くことになるでしょう。そのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされるでしょう。そのことは、権力と経済力が社会を恣に支配することを意味します。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。スラップに成功体験をさせてはならないのです。
貴裁判所には、本件のごとき濫訴は法の許すところではないことを明確に宣言の上、訴えを却下し、あるいは請求を棄却して、司法の使命を果たされるよう要請申し上げます。
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なお、メディア関係者以外の一般の方に訴えます。
法廷傍聴も、法廷後の勝訴報告集会も、どなたでも参加ご自由です。言論の自由を大切に思う多くの皆さま、政治とカネの問題や、消費者問題に関心のある方、ぜひご参加ください。
(2015年8月31日)
8月には戦争について、思い、語り、考えなければならない。一億国民のすべてを巻き込んだだけでなく、その10倍を遙かに超える近隣諸国の民衆に計り知れない悲惨をもたらしたあの戦争。まずは、事実を曲げることなくその実態を掘り起こし、記録し、けっして風化させない努力を継続しなければならない。
それだけではない。なぜあの戦争がおきたのか、誰にどのような責任があるのか、を厳しく問わなければならない。そのようにして過去と向かい合ってこそ、ふたたびの愚行と惨禍を繰り返さないことが可能となる。
戦争の責任はすべての国民にあったという一億総懺悔論がある。けっして、荒唐無稽な考え方ではない。あの戦争を多くの国民(当時は「臣民」だった)が熱狂的に支持し積極的に加担したことは否定し得ない。多くの国民が近隣諸国の植民地支配や侵略戦争を待望し、他国民衆の犠牲において自らの繁栄を望んだ歴史的事実を消すことができない。傍観した国民はその姿勢に責任を持たねばならないし、戦争に反対した国民さえもが力量不足の責任を問われるべきという立論がある。
しかし、一億総懺悔では、各々の立場や役割に応じた責任の質や大小を明らかにすることができない。不再戦の反省の糧とはならない。それぞれの立場や実際に演じた役割に応じた戦争責任の大小を考えるとすれば、その第一に責任を問われるべきが、昭和天皇裕仁であることはあまりに明白である。
真摯に戦争を考え、ふたたびの戦争を起こさぬようにと戦争の原因と責任に思いをめぐらすときに、A級戦犯の上に君臨していた天皇の戦争責任に論及すべきは当然である。東条英機以下のA級戦犯の戦争責任には論及しながら、天皇の責任に言及することをタブー視する風潮はまことに危険である。戦前の民主主義の欠如が、大きな戦争の原因だったのだから。再びの天皇の権威確立はふたたびの戦争への道となりかねないのだ。天皇こそは、誰もがもっとも批判の対象としなければならない存在である。天皇への批判を躊躇させるこの社会の空気に、敢えて抗わねばならない。
8月15日が近づくと、「終戦のご聖断」を天皇の功績の如くにいう神話が繰り返される。このような言論は、愚かなものというだけでなく、歴史を偽る危険なものと考えなければならない。
本日の東京新聞は、全2面を割いて「逃し続けた終戦機会 負の過去に向き合え」という特集記事を掲載している。加藤陽子東大教授の「語り」を中心とする企画で、労作と評価できるものではある。が、向き合うべき「負の過去」として加害責任が述べられていない。「逃し続けた終戦機会」における天皇裕仁の責任についてもまったく言及がない。リベラル派を以て任じる東京新聞が、いったいなにを遠慮しているのだ。そのようなメディアの姿勢が、天皇タブーを作りだし拡大していくのではないか。
「天皇の戦争責任」という井上清(京都大学名誉教授)の名著がある。私の手元にあるのは、1975年8月15日初版の現代評論社本だが、著者没後の2004年に「井上清・史論集〈4〉天皇の戦争責任」として岩波現代文庫所収となっている。
この書で明解にされていることは、天皇が単なる捺印ロボットではなかったということである。積極的に東条を首相に据えて、周到に開戦を準備した天皇の開戦責任に疑問の余地はない。
「聖断をもって終戦を決意し、平和をもたらした天皇」というストーリーは天皇自身が語っているところだが、「遅すぎた聖断」であることは明白な事実である。東京新聞企画も、「逃し続けた終戦機会」として、終戦の決断の可能性あった機会6時点をとらえて解説している。その最初の機会が、1943年2月のガダルカナル撤退。2番目が44年7月のサイパン陥落、3番目が44年9月26日天皇が初めて終戦に言及したことが記録として確認できるこの日だという。そして4番目が45年3月10日の東京大空襲の被害のあと。そのあと5月にも6月にも、終戦のチャンスがあったとされている。
それでも東京新聞である。政権の御用新聞ではない。この企画の末尾の記事を転載しておきたい。
「岩手県の軍人の戦死時期を調べた研究によれば、その9割近くが最後の1年半に集中していた。310万人の日本人が死亡し、アジアに与えた惨禍は計り知れない太平洋戦争。やめ時は何度もあった。」
直接には天皇の責任に触れていないが、「やめ時は何度もあったが、遅れたために多くの命が失われたこと」は明記されているのだ。
なぜやめられなかったか。いうまでもなく、国体の護持にこだわったからである。国民の命よりも天皇制擁護を優先した結果が、遅すぎた敗戦を招いてあたら多くの命を失うことになった。それが、310万人の9割の命だという。
米軍による本土空襲は200以上の都市におよび、死者100万人といわれる。1945年8月にはいってからだけでも、水戸、八王子、長岡、富山、前橋、高崎、佐賀、広島、豊川、福山、八幡、長崎、大湊、釜石、花巻、熊本、久留米、加治木、長野、上田、熊谷、岩国、光、小田原、伊勢崎、秋田と、8月15日の終戦当日まで及んでいる。累々たる瓦礫と死傷者の山。国体護持にこだわった一人の男の逡巡が奪った命と言って過言ではない。
井上清は、その書の末尾に、「天皇の戦争責任を問う現代的意味」という項を設けて次のように結んでいる。
「天皇は輔弼機関のいうがままに動くので責任は輔弼機関にあり、天皇にはないという論法に、何の根拠もない。
東条首相はそのひんぴんたる内奏癖によって、天皇の意向をいちいち確かめながら、それを実現するように努力したのであって、天皇をつんぼさじきに置いて、勝手に戦争にふみ切り、天皇にいやいやながら裁可させたのではない。そして東条は、赤松秘書官の手記によれば、天皇親政の問題に関連して、つぎのように語っている。
『憲法で「天皇は神聖にして侵すべからず」とあるのを解して、学者は、天皇には何の責任もないと論じている。然し、自分は大東亜戦争開戦前の御決断に至る間の御上の御心持をお察しして、天皇は皇祖皇霊に対し奉り大いなる御責任を痛感せられておる御模様を拝察できた。臣下たる我々は戦争に勝てるかということのみ考えていたのである。それに比べて比較にならぬ程の大きな御責任の下で、御決断になったものである。これは開戦1ヵ月余になって始めて拝承できた払の体験である』。
ほかでもない内奏癖の東条首相が、天皇はいかに重大な責任感をもって開戦を『御決断になった』かを述べている。
対米英戦争の開始も、天皇の責任をもった「御決断」によって行なわれた。同様に1931年9月開始の中国東北地方侵略いらいの不断に拡大した中国侵略戦争も、天皇の主体的な「御裁可」とその前段の「御内意」により実現されたのであった。
占領軍の極東国際軍事法廷は、天皇裕仁の責任をすこしも問わなかった。それはアメリカ政府の政治的方針によることであったとはいえ、われわれ日本人民がその当時無力であったためでもある。降伏決定はもっぱら日本の支配層の最上層部のみによって、人民には極秘のうちに、『国体』すなわち天皇制護持のためにのみ行なわれた。人民は降伏決定に何ら積極的な役割を果すことがなかった。そして降伏後も人民の大多数はなお天皇制護持の呪文にしばりつづけられた。日本人民は天皇の戦争責任を問う大運動をおこすことはできなかった。
アメリカ帝国主義は、天皇の責任を追及するのではなく、反対に天皇をアメリカの日本支配の道具に利用する道を選んだ。しかも現代日本の支配層は、自由民主党の憲法改定案の方向が示すように、天皇を、やがては日本国の元首とし、法制上にも日本軍国主義の最高指揮者として明確にしようとしている。
この状況のもとで、1931?45年の戦争における天皇裕仁の責任を明白にすることは、たんなる過去のせんぎだてではなく、現在の軍国主義再起に反対するたたかいの、思想的文化的な戦線でのもっとも重要なことである、といわざるをえない。」
憲法を壊し戦争法案を上程した安倍政権のもとで、しかも天皇責任論タブー視の言論状況の中で、井上清が1975年に発した警告を受け止めなければならない。民主主義の欠如こそが最大の戦争の要因なのだから。
(2015年8月5日)
私が被告とされているスラップ(言論封殺目的)訴訟。7月1日に結審して、判決言い渡しは9月2日となった。その日のスケジュールをお伝えします。
9月2日(水)
13時15分 東京地裁631号法廷 判決言い渡し
(東京地裁庁舎南側(正面入口から入構して右側)6階)
13時30分 勝訴判決報告集会 第一東京弁護士会(弁護士会館12階)
この日を祝賀の日として集おうではありませんか。
判決は、DHC・吉田嘉明の言論封殺の意図を挫いて、
政治的な言論の自由を確認し、
市民や消費者の立場からの、企業や行政への遠慮のない批判を保障する
そのような内容になるはずです。
法廷傍聴も報告集会も、どなたでも参加ご自由です。言論の自由を大切に思う多くの皆さまに、ご参加されるようお願いいたします。
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判決言い渡しとなる訴訟は、以下のとおり。
東京地方裁判所民事第24部合議A係平成27年(ワ)第9408号
原告 吉田嘉明 DHC(株)
被告 澤藤統一郎
裁判長裁判官 阪本勝 陪席裁判官 渡辺達之輔 大曽根史洋
原告代理人弁護士 今村憲 木村祐太 山田昭の3名
被告代理人弁護士 光前幸一以下111名
請求内容は、当初2000万円の損害賠償請求。私の3本のブログが、DHCと吉田嘉明の名誉を傷つけたというもの。この提訴を言論封殺目的の不当訴訟だと当ブログで反撃(今日まで48本)したところ、その内の2本が、さらに名誉を毀損するものとして請求を拡張。6000万円の請求となった。提訴時には、ブログ3本で2000万円。請求拡張では、提訴批判のブログ1本が2000万円である。信じがたいことが現実に起こるのだ。
なお、経過は本ブログに全部掲載している。1本2000万円の値がついたブログもぜひお読みいただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?cat=12 『DHCスラップ訴訟』関連記事
前回、7月1日の結審法廷で、私は10分間の意見陳述をした。「スラップに成功体験をさせてはならない」という主旨である。
仮に、本件で私の言論が、いささかでも違法と判断されるようなことがあれば、およそ政治批判の言論は成り立たなくなる。原告吉田嘉明に成功体験を与えたら、吉田自身が図に乗るだけではない。本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行する事態を招くことになる。そのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされることになる。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはない。
DHC・吉田は、名誉や信用を毀損されることがあったとしても、これを甘受しなければならない。強調すべき根拠が3点ある。
第1 原告らの「公人性」が著しく高いこと。もともと吉田は単なる「私人」ではなく、多数人の健康に関わるサプリメントの製造販売を業とする巨大企業のオーナーで、行政の規制と対峙しこれを不服とすることを公言する人物である。これに加えて、公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を拠出して政治に関与し、さらにそのことを自ら曝露して、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立った。自らの意思で「私人性」を放棄し、積極的に「公人性」を獲得したというべきである。
第2 私(澤藤)の言論の内容が、政治とカネというきわめて公共性の高いテーマであること。「原告吉田の行為は政治資金規正法の理念を逸脱している」というのが、私の批判の核心。もしも、この私の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となり、民主主義の政治過程がスムーズに進行するための基礎を失うことになってしまう。
第3点は、私の言論が、すべて原告吉田が自ら週刊誌に公表した事実に基づくものであること。真実性の立証も、相当性の立証も問題となる余地がない。私は、その事実に常識的な推論を加えて論評しているに過ぎない。意見や論評を自由になしうることこそが、表現の自由の真髄。私の論評がどんなに手痛いものであったとしても、吉田はこれを甘受しなければならない。
吉田は私を含む10人の批判者を被告にして同じような訴訟を提起した。カネをもつ者が、カネにものを言わせて、裁判という制度を悪用し、自分への批判の言論を封じようという典型的なスラップ訴訟である。吉田は、私をだまらせようとして、非常識な高額損害賠償請求訴訟を提起したのだ。私は、「黙れ」と恫喝されて、けっして黙ってはならない、と決意した。もっともっと大きな声で、何度でも繰りかえし、原告吉田の不当を徹底して叫び続けよう。これも弁護士としての社会的使命の一端なのだ、そう自分に言い聞かせている。
前回結審後の報告集会では、光前弁護団長の経過と争点についての解説があった。光前さんは、「本格的に、政治的な言論の自由と切り結んだ判決を期待する」ことを表明した。勝訴判決であればよいというのではなく、勝ち方を問題としているのだ。
そして、何人かの弁護団員から、「請求棄却の勝訴判決を得ただけでは不十分ではないか」「DHCに対する効果的な制裁を考えるべきだ」という意見が相次いだ。
勝訴判決のあと、「DHC・吉田やその取り巻きに対する効果的な制裁」を考えよう。言論の自由のための闘いの一環として。
(2015年7月23日)
じん肺と闘う運動の中から生まれた名フレーズが、
「あやまれ、つぐなえ、なくせ。じん肺」 というもの。
「あやまれ、つぐなえ、なくせ。公害」 とも使われる。
思想弾圧にも、侵略戦争にも、植民地支配にも、対内的な戦争責任にも、戦時の人権侵害にも、加害・被害の関係のあるところ、責任追及と関係修復のスローガンとして、普遍性を持つものとなっている。
交通事故でも、学校事故でも、医療過誤や消費者被害でも、イジメ事件でも傷害事件でも同様だ。被害者の求めるものは、まずは加害責任を明確にしての真摯な反省に基づく謝罪である。これあればこその「つぐない」となり、さらに「なくせ」の徹底となる。これがそろって、被害者は加害者を宥恕することができることになり、関係は修復される。
まず何よりも、求められているのは真摯な謝罪である。真摯ならざる開き直りの似非謝罪は、被害者の心情をさらに傷つけ、加害被害関係の修復を困難にする。
安倍首相が7月3日の衆院平和安全法制特別委員会で枝野議員の質問に答える中でしたとされる自民党「報道圧力勉強会」暴言についての「陳謝」は、そのような似非謝罪の典型といえよう。「一応、謝っておきます」「謝ったんだからもういいだろう」「謝りついでに、言いたいことも言っておこう」という、真摯ならざる思惑が芬々なのだ。
だから、安倍自身はなんの償いもしようとはしない。口先以上の責任はとらない。自民党と安倍政権の体質から出たこの事件。「真摯なあやまり」がないのだから、「つぐない」も「なくせ」にもつながるはずはない。
この安倍謝罪について、大方の報道と解説は次のようなものである。
「自民党の若手勉強会で報道機関への圧力を求める発言や沖縄への侮辱的な発言が出たことについて『党を率いる総裁として国民に心からおわびを申し上げたい』『国民の皆様に申し訳ない気持ちだ。党の長年の沖縄振興、基地負担軽減への努力を水泡に帰すものであり大変残念だ』などと繰り返した。」
「先月25日の勉強会開催から約1週間、自民党総裁としての責任をようやく認めた形だ。首相側には当初、危機感はなかったが、安全保障関連法案の衆院通過に向けた環境整備に向け、方針を転換。明確に陳謝することで騒動を幕引きしたい考えだ。」(毎日)
委員会議事録(速報版)では、首相の発言は次のとおりである。
「先般の自民党の若手勉強会における発言につきましては、党本部で行われた勉強会でございますから、最終的には私に責任があるもの、このように考えております。
報道の自由、そして言論の自由を軽視するような発言、あるいはまた沖縄県民の皆様の思いに寄り添って負担軽減、沖縄振興に力を尽くしてきたこれまでの我が党の努力を無にするかのごとき発言が行われたものと認識をしております。
これは大変遺憾であり、非常識な発言であり、国民の信頼を大きく損ねる発言であり、看過することはできないと考え、そのため、谷垣幹事長とも相談の上、関係者について、先週土曜日、直ちに処分することとしたところでございます。」
「沖縄県民の皆様の思いに寄り添って負担軽減、沖縄振興に力を尽くしてきたこれまでの我が党の努力」とはよくも言ったり。その鉄面皮ぶりも腹立たしいが、「党本部で行われた勉強会でございますから、最終的には私に責任がある」という言いまわしにも引っかかる。あたかも、本来自分には無関係のことだが、立場上責任を認める、と言わんばかり。潔さの誇示さえ感じさせる。
いったい、どんな「勉強会」だったのかAERA最近号の記事が話題となっている。「自民党若手が開く『報道圧力』勉強会の真相 企業と法制局にも圧力」という表題。
会出席の衆院議員が、匿名を条件に取材に応じ、こう明かした。「会の本来の目的は(秋の総裁選での)安倍再選の雰囲気づくりだった」
発起人は党青年局長の木原稔衆院議員だが、背後の「プランナー」は会合にも出席していた安倍首相の側近である萩生田光一・党総裁特別補佐と加藤勝信官房副長官だったという。
同じ日に予定されていた「反安倍」議員の勉強会を中止させ、同じ週に放送される討論番組「朝まで生テレビ!」への議員の出演も、党本部の要請で出席を見送らせたとも伝えられている。万全の準備で臨んだ安倍応援の会合のはずだった。
私的勉強会といいながら、自民党を担当する記者でつくる「平河クラブ」に開催の案内が届いた。しかも、「終了後に、代表の木原稔より記者ブリーフィングをさせていただきます」とある。ひっそり勉強する会ではないことは、誰の目にも明らか。期待通り、大勢のメディアが集まり、会合の最中には「壁耳」と呼ばれる取材が行われた。
勉強会では、実際に報道されている以上に激しい言葉が飛び交った。
「(沖縄)タイムス、(琉球)新報の牙城の中で、沖縄の世論、ゆがみをどう正しい方向に持っていくか。(中略)沖縄はもう左翼勢力に乗っ取られちゃってる」
「朝日、毎日、東京新聞を読むと、もう血圧が上がって、どうしようもない。あれに騙されているんですよ、国民は」
「青年会議所も経団連も商工会議所も、子どもたちに悪影響を与えている番組ワースト10とか発表して、これに広告を出している企業を列挙すべきだ」
「法制局は法の番人とか言われているが、内閣法制局で法律家の資格を持っているのは6人だけ。言ったら、80人の医者のなかで免許を持っているのが6人だけの病院なんですよ。そういう人たちの解釈をずっと持ち続けないといけないのか」
よく分からない例えだ。最後に百田氏がこう締めくくった。
「政治家は言葉が大事。戦争と愛については何をしても許されるという部分はあるんです。その目的のためには、負の部分はネグったらええんです、はい。学術論文ではないのだから、いかに心に届くかです」
また、朝日(7月8日)は、次のようにも報じている。
そもそも、懇話会の目的は「保守思想の発信」にあった。懇話会代表の木原稔青年局長(当時)は周辺に「保守的な国家観や政策を国民に理解してもらうため、国民の心に響く言葉を学びたい」と語っていた。憲法改正に反対する「九条の会」を意識し、作家の大江健三郎氏や作曲家の坂本龍一氏らに対抗できる保守的な文化人を発掘することも念頭にあった。
しかし5月初旬、党内にリベラル系の若手議員が「過去を学び『分厚い保守政治』を目指す若手議員の会」を立ち上げたことで、「首相応援団」の性格が一層強まった。
9月の総裁選を無投票で乗り切りたい首相側はリベラル系の動きを警戒。首相側近の加藤勝信・官房副長官と萩生田光一・党総裁特別補佐が「顧問格」で入り、懇話会の人数集めに加わった。
何のことはない。問題暴言は「安倍の身内による安倍のための会合」でのことだったのだ。首相が他人事のように、「党本部で行われた勉強会でございますから、最終的には私に責任があるもの」などという謝り方で済む問題ではない。到底、真摯な反省に基づく謝罪ではない。安倍の陳謝の相手方は国民である。こんな謝り方で、国民が自民党や安倍政権を宥恕する気持になれるはずもない。
制服向上委員会のあの歌の歌詞が、妙にリアリティをもって響く。
「諸悪の根源 自民党」「大きな態度の安倍総理」
「本気で自民党を倒しましょう!」という以外に、加害・被害を清算する解決の途はなさそうである。
(2015年7月9日)
DHCスラップ訴訟は本日結審。次回判決言い渡し期日は9月2日午後1時15分と指定された。
賑やかな結審法廷となった。満員の傍聴席に顔をそろえたのは、私の家族、妹、姪、学生時代の同級生、昔の依頼者、今戦いを共にしている仲間たち、30名の弁護団、そして私のブログを読んで駆けつけていただいた初対面の人たち。なんとも心強く、ありがたい。
私は、意見陳述で思いの丈を吐露した。いくつかのバージョンを経て、本日アップするものが、法廷での私の発言。10分間で朗読できるよう贅言を殺いだ最終版が、まとまりの良い意を尽くした文章になったと思う。なお、朗読しているうちに、「スラップに成功体験をさせてはならない」という言葉が突然出てきた。まことにそのとおりである。
報告集会は、光前弁護団長の解説で始まり、私の挨拶で終わった。
光前さんは、「本格的に、政治的な言論の自由と切り結んだ判決を期待する」ことを表明した。そして、何人かの弁護団員から、「請求棄却の勝訴判決を得ただけでは不十分ではないか」「DHCに対する効果的な制裁を考えるべきだ」という意見が相次いだ。
なお、本年1月15日1審判決があったDHC対折本弁護士事件の控訴審は、4月23日に東京高等裁判所第24民事部で一回結審し、6月25日控訴棄却判決となった旨の報告があった。折本さんは、「粛々と勝ちに行く方針」を実践されて勝訴した。仮にDHC側が上告受理申立をしても逆転はあり得ない。これで、DHC・吉田は、仮処分と本訴を併せて、7戦7敗である。既にDHC・吉田の濫訴は明白になったと言うべきであろう。
私は、多くの人の支援や励ましに恵まれた「幸福な被告」である。しかし、被告が常に法的、財政的、精神的な支援に恵まれる訳ではない。スラップの被害に遭った者がペンの矛先を鈍らせることも十分にあり得ることと言わざるを得ない。だから、恵まれた立場にある私は、声を大にして、DHC・吉田の不当を叫び続けなければならない。そして、スラップの根絶に力を尽くさなければならないと思う。
次回、判決法廷と、その後の報告集会については、後刻お知らせします。皆さま、ぜひまた、傍聴と集会参加をお願いします。
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被 告 本 人 意 見 陳 述
弁論終結に際して、裁判官の皆さまに意見を申し述べます。
私は、突然に被告とされ、応訴を余儀なくされています。当初は2000万円、現在は、6000万円を支払え、とされる立場です。当然のことながら、心穏やかではいられません。このうえなく不愉快な体験を強いられています。理不尽極まる原告らの提訴を許すことができません。
私は、憲法で保障された「表現の自由」を行使したのです。本件で問題とされた私の言論の内容は、「政治をカネで歪めてはならない」という民主主義社会における真っ当な批判であり、消費者利益が危うくなることに関しての社会への警告なのです。むしろ私は、社会に有益で有用な情報や意見を発信したのだと確信しています。被告とされる筋合いはありえません。この点について、ぜひ十分なご理解をいただきたいと存じます。
関連してもう一点お願いいたします。原告の訴状では、私の書いた文章がずたずたに細切れにされ、細切れになった文章の各パーツに、なんとも牽強付会の意味づけがされ、「違法な文章」に仕立て上げられようとしています。細切れにせずに、各ブログの文章全体をお読みください。そうすれば、私の記事が、いずれも非難すべきところのない真っ当な言論であることをご理解いただけると存じます。
私は、45年の弁護士生活を通じて、政治とカネ、あるいは選挙とカネをめぐる問題を、民主主義の根幹に関わるものととらえて、関心を持ち続けてきました。また、消費者事件の諸分野で訴訟実務を経験し、東京弁護士会の消費者委員長を2期、日本弁護士連合会の消費者委員長2期を勤めています。消費者問題に取り組む中で、「官僚規制の緩和」や「既得権益擁護の規制撤廃」などという名目で、実は事業者の利益のために、消費者保護の制度や運用が後退していくことに危機感を募らせてきました。そのことが本件各ブログに、色濃く反映しています。
私の「憲法日記」と表題するインターネット・ブログは、弁護士としての使命履行の一端であり、職業生活の一部との認識で書き続けているものです。現在のものは、2013年4月1日に開設し毎日連続更新を宣言して連載を始めたもので、昨日で連続更新821日を記録しています。このブログは権力者や社会的強者に対する批判の視点で貫かれていますが、そのような私の視界に、「DHC8億円裏金事件」が飛び込んできたのです。
昨年3月「週刊新潮」誌上に吉田嘉明手記が発表される以前は、私はDHCや原告吉田への関心はまったくなく、訴状で問題とされた3本のブログは、いずれも純粋に政治資金規正のあり方と規制緩和問題の両面からの問題提起として執筆したものです。公共的なテーマについての、公益目的での言論であることに、一点の疑義もありません。
原告らは、私の言論によって社会的評価を低下した、と主張しています。しかし、自由な言論が権利として保障されているということは、その言論によって傷つく人のあろうことは、法が想定していることなのです。誰をも傷つけることのない人畜無害の言論には、格別に「自由」だの「権利」だのと法的な保護を与える必要はありません。仮に原告両名が、私の憲法上の権利行使としての言論によって、名誉や信用を毀損されることがあったとしても、これを甘受しなければならないのです。
そのことを当然とする根拠を3点上げておきたいと思います。
その第1は、原告らの「公人性」が著しく高いことです。もともと原告吉田は単なる「私人」ではありません。多数の人の健康に関わるサプリメントや化粧品の製造販売を業とする巨大企業のオーナーです。行政の規制と対峙しこれを不服とする立場にもあります。これに加えて、公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を拠出して政治に関与しました。さらに、そのことを自ら曝露して、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立ったのです。自らの意思で「私人性」を放棄し、積極的に「公人性」を獲得したのです。自分に都合のよいことだけは言っておいて、批判は許さないなどということが通用するはずはありません。
その第2点は、私の言論の内容が、政治とカネというきわめて公共性の高いテーマであることです。「原告吉田の行為は政治資金規正法の理念を逸脱している」というのが、私の批判の内容です。仮にもこの私の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となり、民主主義の政治過程がスムーズに進行するための基礎を失うことになってしまいます。
さらに、第3点は、私の言論が、すべて原告吉田が自ら週刊誌に公表した事実に基づくものであることです。本来、真実性の立証も、相当性の立証も問題となる余地はありません。私は、その事実に常識的な推論を加えて論評しているに過ぎないのです。意見や論評を自由になしうることこそが、表現の自由の真髄です。私の論評がどんなに手痛いものであったとしても、原告吉田はこれを甘受しなければならないのです。
にもかかわらず、吉田は私をいきなり提訴しました。しかも、私だけでなく10人の批判者を被告にして同じような訴訟を提起しています。カネをもつ者が、カネにものを言わせて、裁判という制度を悪用し、自分への批判の言論を封じようという試みが「スラップ訴訟」です。本件こそが、典型的なスラップ訴訟にほかなりません。原告吉田は、私をだまらせようとして、非常識な高額損害賠償請求訴訟を提起したのです。私は、「黙れ」と恫喝されて、けっして黙ってはならない、と決意しました。もっともっと大きな声で、何度でも繰りかえし、原告吉田の不当を徹底して叫び続けなければならない、これも弁護士としての社会的使命の一端なのだ、そう自分に言い聞かせています。
その決意が、私のブログでの「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズの連載です。昨日までで46回書き連ねたことになります。原告吉田は、このうちの2本の記事が名誉毀損になるとして、それまでの2000万円の請求を6000万円に拡張しました。この金額の積み上げ方それ自体が、本件提訴の目的が恫喝による言論妨害であって、提訴がスラップであることを自ら証明したに等しいと考えざるを得ません。
本件は本日結審して判決を迎えることになります。
その判決において、仮にもし私の言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治批判の言論は成り立たなくなります。原告吉田を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行する事態を招くことになるでしょう。そのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされるでしょう。そのことは、権力と経済力が社会を恣に支配することを意味します。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。スラップに成功体験をさせてはならないのです。
貴裁判所には、本件のごとき濫訴は法の許すところではないことを明確に宣言の上、訴えを却下し、あるいは請求を棄却して、司法の使命を果たされるよう要請申し上げます。
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『DHCスラップ訴訟』第8回弁論について
東京地方裁判所民事第24部合議A係
平成27年(ワ)第9408号
原告 吉田嘉明 DHC(株)
被告 澤藤統一郎
裁判長裁判官 阪本勝 陪席裁判官 渡辺達之輔 大曽根史洋
原告代理人弁護士 今村憲 木村祐太 山田昭
被告代理人弁護士 光前幸一 外110名
《前回期日から本日までの経過》
4月22日 第7回(実質第6回)口頭弁論
5月11日 被告準備書面(6) 被告「主張対照表・補充改訂版」提出
6月12日 原告準備書面6・原告吉田陳述書提出、被告本人陳述書提出
7月 1日 (本日)15時? 631号法廷 第8回(実質第7回)弁論 結審
15時30分? 東京弁護士会508号・報告集会
《本日の法廷》
15時00分? 東京地裁631号法廷 第7回口頭弁論期日。
被告本人(澤藤)意見陳述(10分)。
その後に弁論終結、判決期日指定。
《本日の報告集会》
15時30分?17時 東京弁護士会508号会議室
弁護団長 本日までの経過説明(常任弁護団から補充)
弁護団・支援者・傍聴者 意見交換
☆判決報告集会の持ち方
☆他のDHCスラップ訴訟被告との連携
☆原告や幇助者らへの制裁など
被告本人 お礼とご挨拶
《この事件の 持つ意味》
*政治的言論に対する封殺訴訟である。
*言論内容は「政治とカネ」をめぐる論評 「カネで政治を買う」ことへの批判
*具体的には、サプリメント規制緩和(機能性表示食品問題)を求めるもの
*言論妨害の主体は、権力ではなく、経済的社会的強者
*言論妨害態様が、高額損害賠償請求訴訟の提訴(濫訴)となっている。
※争点 「表現の自由」「訴権の濫用」「公正な論評」「政治とカネ」「規制緩和」
《具体的な争点》
※名誉毀損訴訟では、言論を「事実摘示型」と「論評型」の2類型に大別する。
本件をそのどちららのタイプの事案とするかが問題となっている。
☆原告は、ブログの記事のひとつひとつを「事実の摘示」と主張。
☆被告は、全てが政治的「論評」だという主張。
※事実摘示型の言論は原則違法とされ、
(1)当該の言論が公共の事項に係るもので、(公共性)
(2)もっぱら公益をはかる目的でなされ、(公益性)
(3)その内容が主要な点において真実である(真実性)
(あるいは真実であると信じるについて相当の理由がある)(相当性)
が立証された場合に違その言論の法性が阻却される。
(被告(表現者)の側が、真実性や真実相当性の立証の責任を負担する)
※論評型は、「既知の事実を前提とした批判(評価)が社会的評価を低下させる言論」
真実性や真実相当性は前提事実については必要だが、論評自体は、「人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱」していない限りは違法性がないとされる。
《事件の発端とその後の経過》(問題とされたのはブログ「澤藤統一郎の憲法日記」)
ブログ 3月31日 「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
4月 2日 「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
4月 8日 政治資金の動きはガラス張りでなければならない
参照 https://article9.jp/wordpress/?cat=12 『DHCスラップ訴訟』関連記事
4月16日 原告ら提訴(係属は民事24部合議A係 石栗正子裁判長)
事件番号平成26年(ワ)第9408号
5月16日 訴状送達(2000万円の損害賠償請求+謝罪要求)
6月 4日 答弁書提出(本案前・訴権の濫用却下、本案では棄却を求める)
6月11日 第1回期日(被告欠席・答弁書擬制陳述)
7月11日 進行協議(第1回期日の持ち方について協議)
7月13日以後 ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない・第1弾」
第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
第2弾「万国のブロガー団結せよ」
第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
第4弾「弁護士が被告になって」 現在第46弾まで
7月22日 弁護団発足集会(弁護団体制確認・右崎先生提言)
8月20日 10時30分 705号法廷 第2回(実質第1回)弁論期日。
被告本人・弁護団長意見陳述。
8月29日 原告 請求の拡張(6000万円の請求に増額) 準備書面2提出
新たに下記の2ブログ記事が名誉毀損だとされる。
7月13日の「第1弾」と、8月8日「第15弾」
9月17日 第3回(実質第2回)弁論期日。
11月12日 第4回(実質第3回)口頭弁論
12月24日 第5回(実質第4回)口頭弁論
1月15日 東京地裁民事第30部 DHC対折本弁護士事件判決 DHC完敗
2月25日 第6回(実質第5回)口頭弁論
3月24日 東京地裁民事第23部 DHC対宋文洲氏事件判決 DHC完敗
4月22日 第7回(実質第6回)口頭弁論 裁判長交代 阪本勝判事
7月 1日 第8回(実質第7回)口頭弁論 結審 判決日指定
9月 2日 13時15分 631号法廷 判決言渡し
その後、報告集会(場所未定)と記者会見を予定
(2015年7月1日)
平家物語の名文句「驕れる人も久しからず。ただ春の夜の夢の如し」は、いくつものバリエーションで語られる。そのなかに、「驕る平家は内より崩る」というものがある。奢侈に慣れ驕慢が染みついた一族の愚行から、さしもの権勢も滅びた。滅びの原因は外にではなく内にあったのだという戒めとされる。
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高・漢の王莽・梁の周伊・唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政にも従はず、楽みをきはめ、諌をも思ひいれず、天下の乱れむ事をさとらずして、民間の愁る所を知らざッしかば、久しからずして、亡じにし者ども也。
異朝の故事ではなく今の世のこととして置き換えて読めば、「憲法の定めるところに従わず、議席の数に驕って学者やメディアの提言を無視し、戦争を準備して近隣諸国との軋轢・緊張関係を高めながら、これを世論の憂いと受け止める自覚に欠け、結局は民意と乖離して政権は崩壊する」と示唆している。既に安倍政権は、「偏に風の前の塵に同じ」状態ではないか。平家物語作者の洞察力や恐るべし。
「内より崩る」を「一族の中の突出した愚か者の行為を発端にして瓦解する」と読むこともできよう。平家一族の権勢を笠に着た一門の愚行の例は、その末期症状としていくつも語られている。安倍政権でも、いくつもの末期症状が窺えるではないか。
一昨日(6月25日)の、自民党若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」の席上発言は、典型的な末期症状の露呈だ。失言としても冗談としても、到底看過し得ない。むしろ、非公開だからとしてホンネが語られたとみるべきだろう。こういう本性をもった輩が、勇ましく先頭に立って戦争法案成立に旗を振っているのだ。
勉強会出席の議員数は、37人だという。この「37人+百田尚樹」の38人衆が、「内より崩る」の愚行の尖兵だ。「安倍政権の内側からの墓堀人」にほかならない。そして、大切なことは、内側からだけでなく外側からも大いに働きかけて、内外相呼応して戦争法案を葬りさるとともに安倍内閣を早期に崩壊させねばならない。
朝日・毎日・東京だけでなく、さすがに読売までもが本日(6月27日)社説を掲げて、自民党・安倍内閣の「異常な異論封じ」「批判拒絶体質」を批判し、報道規制発言に苦言を呈している。産経だけが様子見である。明日の社説を注視したい。メディアとしての矜持を保つか、あるいは自ら墓堀人グループの一員として名乗りを上げるか。
「異常な『異論封じ』―自民の傲慢は度し難い」と題する朝日の社説は最近珍しく、ボルテージが高い。「これが、すべての国民の代表たる国会議員の発言か。無恥に驚き、発想の貧しさにあきれ、思い上がりに怒りを覚える。」と言葉を飾らない。毎日も、東京も遠慮するところがない。
この3紙の社説を読んだあと、百田のツイッターを見て驚いた。「炎上ついでに言っておくか。私が本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞です(^_^;)」と言っている。開き直りも甚だしい。さすがに、内側からの墓堀人の名に恥じない。
当事者性から言えば、まずは「沖縄の2つの新聞はつぶさないといけない」(読売だけは、「あの二つの新聞社はつぶさなあかん」と表現している。録音を持っているのではないか)と言われた、沖縄タイムスと琉球新報とである。
沖縄タイムス編集局長・武富和彦、琉球新報編集局長・潮平芳和両名による「百田氏発言をめぐる沖縄2新聞社の共同抗議声明」は、押さえた筆致で、ジャーナリズムの基本姿勢を語って格調が高い。「戦後、沖縄の新聞は戦争に加担した新聞人の反省から出発した。戦争につながるような報道は二度としないという考えが、報道姿勢のベースにある。」という一節が印象深い。ジャーナリストとしての理念を立派に貫いているからこその権力側からの逆ギレ批判であることが良くわかる。
「百田氏の発言は自由だが、政権与党である自民党の国会議員が党本部で開いた会合の席上であり、むしろ出席した議員側が沖縄の地元紙への批判を展開し、百田氏の発言を引き出している。その経緯も含め、看過できるものではない。」とは正鵠を射たもの。安倍政権全体の問題であることが明らかではないか。
そして、本日の両紙の社説の舌鋒が鋭い。憤懣やるかたないという怒りがほとばしり出ている。
琉球新報は、「ものを書くのをなりわいとする人間が、ろくに調べず虚像をまき散らすとは、開いた口がふさがらない。あろうことか言論封殺まで提唱した。しかも政権党の党本部でなされ、同調する国会議員も続出したのだ。看過できない。」と言い、沖縄タイムスは「政権与党という強大な権力をかさにきた報道機関に対する恫喝であり、民主的正当性を持つ沖縄の民意への攻撃である。自分の気に入らない言論を強権で押しつぶそうとする姿勢は極めて危険だ。」「一体、何様のつもりか。」といずれも手厳しい。
政府に批判的な2紙を潰せと言っただけではない。「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番。」「文化人が経団連に働きかけてほしい」「悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを列挙すればいい」「広告を取りやめるように働きかけよう」とまで、政権政党の議員が発言したのだ。報道の自由侵害の問題として、全マスコミの怒りが沸騰しなければならない。たとえば、北海道新聞が「自民の勉強会 マスコミ批判は筋違い」「耳を疑う発言が、また自民党から飛び出した。」というが如く。
愚かな読売社説のように、「地元紙に対する今回の百田氏の批判は、やや行き過ぎと言えるのではないか。」などと、生温く政権におもねっていてはならない。
そして、メディアの怒りを国民全体の怒りとして受け止めなければならない。メディアの自由は、国民の知る権利に奉仕するためにあるのだから。
沖縄は渾身の怒りを表現するだろう。この沖縄の怒りを孤立させてはならない。日本全土の国民が沖縄の怒りを我が怒りとしなければならない。沖縄の平和は、そのまま日本全土の平和なのだから。
自民党・安倍政権は、まぎれもなく2本の虎の尾を踏んだ。一本はジャーナリズム、もう一本が沖縄である。その痛みは、虎の本体としての日本国民全体のものである。国民の圧倒的な怒りの風を起こして、安倍政権を塵として吹き飛ばそうではないか。
(2015年6月27日)
カネをもつ者が、そのカネにものを言わせて、自分への批判の言論を封じようという濫訴がスラップ訴訟である。はからずも、私が典型的なスラップ訴訟の被告とされた。私の口を封じようとしたのはDHC会長の吉田嘉明。彼が不愉快として封じようとした私の言論は、私がこのブログに書いた3本の記事。政治とカネにまつわる政治的批判の言論。そして吉田の政治資金提供の動機を規制緩和を通じての営利追求にあるとして、消費者問題の視点からの問題指摘である。社会的に有用な言論であることに疑問の余地はない。
吉田は私をだまらせようと、2000万円の損害賠償請求訴訟を提起した。私は、吉田から「黙れ」と恫喝されたのだ。だから私は、さらに大きな声で繰りかえし吉田の不当を叫び続けなければならないと決意した。その結果が、本ブログの「DHCスラップ訴訟」を許さないシリーズ。本日で、44回書き連ねたことになる。読み直してみるとなかなかに、貴重な問題提起になり得ていると思う。吉田は、このうちの2本の記事が名誉毀損になるとして、請求原因を追加し、2000万円の請求を6000万円に拡張した。自らスラップの目的を証明したに等しい。
その「DHCスラップ訴訟」が提訴以来約1年を経て、7月1日に結審になる。この日、私が意見陳述をして弁論が終結する。そして、判決言い渡しの日が決まる。ぜひ、ご注目いただきたい。法廷にも報告集会にもご参集をお願いしたい。
7月1日(水)の予定は以下のとおり。
15時00分? 東京地裁631号法廷 第7回口頭弁論期日。
被告本人(澤藤)意見陳述。その後に弁論終結。
15時30分?17時 東京弁護士会508号会議室 報告集会
弁護団長 経過説明
田島泰彦上智大教授 ミニ講演
本件訴訟の各論点の解説とこの訴訟を闘うことの意義
弁護団・傍聴者 意見交換
判決報告集会の持ち方
他のDHCスラップ訴訟被告との連携
原告や幇助者らへの制裁など
被告本人 お礼と挨拶
DHCと吉田嘉明は、私と同じテーマの言論を封じるために、計10件のスラップ訴訟を提起した。その内1件は取り下げ、残る9件のうちの2件で一審判決が出ている。もちろん、DHC吉田側の全面敗訴である。そのほかに、関連する2件の仮処分申立事件があって、それぞれに申立の却下決定(東京地裁保全担当部)と抗告却下決定(東京高裁)がある。判決2件とこの4件を合計して計6件。DHC吉田は連戦連敗なのだ。私の件が本訴での3件目判決となる。経過から見て、DHC吉田の連敗記録が途切れることはありえない。
本年3月24日に東京地裁民事第23部の合議体(宮坂昌利裁判長)の、請求棄却判決が、私のブログなどに比較して手厳しいツイッターでの発言について、なんの躊躇もなく、名誉毀損も侮辱も否定して、原告の請求を棄却している。注目すべきはこの判決の中に次のような判示があること。
「そもそも問題の週刊誌掲載手記は、原告吉田が自ら『世に問うてみたい』として掲載したもので、さまざまな立場からの意見が投げかけられるであろうことは、吉田が当然に予想していたはずである」「問題とされているツイッターの各記述は、この手記の公表をきっかけに行われたもので、その手記の内容を踏まえつつ、批判的な言論活動を展開するにとどまるもので、不法行為の成立を認めることはできない」
私の事件での被告準備書面は、吉田が週刊新潮に手記を発表して、「自ら政治家(みんなの党渡辺喜美)にカネを提供したことを曝露した」という事実を捉えて、「私人性の放棄」と構成している。これに対して宮坂判決は、吉田が「自ら積極的に公人性を獲得した」と判断したのだ。
この一連の判決・決定の流れの中で、私の事件が万が一にも敗訴になることはありえない。しかし、烏賀陽弘道さんの指摘では、スラップ訴訟提起の重要な狙いとして、「論点すりかえ効果」と「潜在的言論封殺効果」があるという。
本来は、吉田嘉明が小なりとはいえ公党の党首(渡辺喜美)に8億円もの政治資金を拠出していたこと、しかもそれが表に出て来ないで闇にうごめいていたことこそが、政治資金規正法の理念に照らして問題であったはず。私の指摘もそこにあった。ところが、その重要な問題が、いまは澤藤のブログの記載が吉田に対する名誉毀損にあたるか否かという矮小化された論点にすり替えられてしまっている。この論点すりかえの不当を声を大にして、問題にし続けなければならない。
さらに、本件スラップ訴訟は、けっして澤藤の言論だけを封殺の標的にしているのではない。澤藤に訴訟を仕掛けることによって、同じような発言をしようとした無数の潜在的表現者を威嚇し萎縮させて、潜在的言論封殺効果を狙っているのだ。だから私は、自分ひとりが勝訴の見通しをもつに至ったというだけで喜ぶことはできない。
このような不当訴訟を仕掛けたことに対して、DHC・吉田やその取り巻きに対する相応のペナルティがなければ、スラップ訴訟は「やり得」に終わってしまう。やり得を払拭し、再発の防止の効果を挙げるために何をなすべきか。反撃について、知恵を絞りたいし、大いに汗もかきたい。心ある多くの方と、この点についてよく相談し、実効性のある対応策をとりたいと考えている。
皆さま、7月1日(水)15時の法廷(東京地裁631号)とその後の報告集会(東弁508号)に足を運んでください。よろしくお願いいたします。
(2015年6月5日)
確認しておこう。5月15日政府が国会に提出した新法「国際平和支援法案」と、下記10法の一括改正を内容とする「平和安全法制整備法案」について、当ブログは「戦争法案」と呼ぶ。
・武力攻撃事態法改正案
・重要影響事態法案(周辺事態法を改正)
・PKO協力法改正案
・自衛隊法改正案
・船舶検査法改正案
・米軍等行動円滑化法案
・海上輸送規制法改正案
・捕虜取り扱い法改正案
・特定公共施設利用法改正案
・国家安全保障会議(NSC)設置法改正案
「国際平和」や「平和安全」はまやかしであって、「戦争法案」という呼び名こそがこの法案の本質を表している、そう考える理由を述べておきたい。
私の認識では、憲法9条は1954年自衛隊創設によって「半殺し」の目に遭った。「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」はずの日本が、常識的には治安警察力を遙かに超える軍事力をもったのだ。違憲の状態が生じたことは誰の目にも明らかだった。しかし、このとき憲法9条は死ななかった。しぶとく生き延びた。
このときから、自衛隊は、「国に固有の自衛権を行使する実力部隊であって、憲法にいう戦力には当たらない」とされた。自衛隊の発足と当時に、参議院では全会一致で、「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」が成立してもいる。自衛隊の任務は、専守防衛に徹することとされ、その限度を超えた装備も編成ももたないことが確認されたのだ。
このとき、非武装に徹することによって平和を維持しようとした憲法9条の理念は大きく傷ついたが、「専守防衛」というかたちでは生き残ったと評価することができよう。
その後、「自衛隊を一人前の軍隊にせよ」「そのためには9条改憲を」という外圧は強かった。この「押しつけ改憲」と闘い、せめぎ合って、日本の国民世論は9条を守ってきた。そのため、自衛隊が防衛出動に踏み出せるのは、国土が侵略を受け蹂躙されたときに限られた。だから、自衛隊は、外征や侵略に必要な武器の装備はもてなかった。外国に派遣されたことはあっても、海外での戦闘行為はできなかった。満身創痍の憲法を活用し、9条の旗を押し立てた国民運動とそれを支えた国民世論の成果であったと言えよう。
歴代の保守政権も9条をないがしろにはしてこなかった。「右翼の軍国主義者」が首相に納まるまでは…、のことである。
今までは、自衛隊が武力を行使する局面は、「我が国土における防衛行為」としてのものに限られていた。飽くまでも、必要な限りでの自衛・防衛行為であって、これを戦争とはいわない。しかし、集団的自衛権の行使となれば、まったく話しは違ってくる。他国の戦争の一方当事者に加担して、自らも戦争当事国となるべく買って出て、武力を行使することになる。これは明らかな戦争加担行為にほかならない。
「戦争をしないから9条違反の存在ではない」とされてきた自衛隊に、戦争をさせようという法案だから「戦争法案」。この呼び方が、体を表す名としてふさわしいのだ。かくて、戦争法が成立すれば、これまでしぶとく生き残ってきた「半殺し」状態の9条に、トドメが刺されることになる。
5月14日閣議決定、15日国会に法案を提出。本日(19日)は、衆議院本会議で戦争法案審議のための特別委員会設置が可決された。自民・公明の与党のほかに賛成にまわったのは次世代の党。これで法案の集中審議が可能となった。小さいながらも次世代の党は、与党単独採決と言わせないための「貴重な」役割を演じている。委員は45名。自民28、民主7、維新4、公明4、共産2。委員長に浜田靖一元防衛相、筆頭理事には江渡聡徳前防衛相や長妻昭・民主党代表代行らが就任した、と報じられている。民主と共産に期待するしかない。
子どもの頃を思い出す。父が戦地の苦労を語り、母が銃後の辛酸を口にする。幼い私は、父母の心情をよくは分からないままに、「そんな戦争には反対すれば良かったのに」と言う。母が、「そんなことはとても言えなかった」「言えるような時代ではなかったんだよ」と呟く。父も母も、積極的に戦争に賛成した人ではない。しかし、戦争反対と言った人でもなく、反対と言える時代を作る努力をした人でもなかった。平均的庶民の一人として、応分の責任を持たねばならない世代に属していた。
いま時代は、あの戦争における戦前のターニングポイントあたりにあるのではなかろうか。戦争に反対と今なら言える。が、この言論の自由はいつまでもつか、見通せない。
戦争に反対、戦争を選択肢となし得る国とすることに反対。戦争のための教育に反対、防衛秘密法制に反対。戦争に反対する言論への封殺に反対。声を上げ続けなければならない、と思う。
何よりも、今は「戦争準備の法案に反対」と声を大きくしなければならない。新たな戦後を作らないために。また、次の世代から、「そんな戦争には反対すれば良かったのに」と言われることのないように。
(2015年5月19日)
私は、国のつく言葉が嫌いだ。国威・国体・愛国・憂国・国士・国粋・挙国・国富・国益・国母・国是・国策・国論・国賊・売国・国禁…。どれもこれも嫌なイメージがつきまとう。
中でも、「国辱」が大嫌い。「我が誇るべき国家の名誉を傷つけた。許せぬ」という、思い込み激しい罵り言葉として使われる。多くの場合、ウルトラナショナリストが激情赴くままに議論を拒絶した発語だから始末に悪い。
しかしときに、なるほどこれこそは「国の恥」にあたる「国辱的行為」ではないかと思いあたることがある。それが国自身のなせるわざで、政権に強く突き刺さる鋭さをもつのであれば、敢えてこれは「国辱もの」と言ってよいのではなかろうか。
本日(4月28日)の朝日が報道する「特派員『外務省が記事を攻撃』 独紙記者の告白、話題に」という記事の内容がまさしくそれ。安倍政権と外務省が挙国の態勢で、憂国の志から碧眼の賊徒を懲らしめ、国威を発揚せんとした愛国美談の一幕。しかし、これこそまぎれもなく国恥であり国辱ではないか。そのような批判の語として用いるのが、「国辱」の正しい使い方であろう。
その記事には、メインの見出しのほかに4本のサブの見出しがついている。「政権批判 総領事が独本社訪れ抗議」「東京滞在5年 離日に際し告白」「記者『昨年あたりから変化』」「識者の人選にも注文」というものだ。紙面に勢いがあふれている。権力批判のジャーナリズム健在を示す記事だ。これは下記のURLで読める。是非とも拡散して、多くの人に読んでもらおうではないか。再びの「国辱」が繰り返されることのないように。
http://www.asahi.com/articles/ASH4P6GZ3H4PUHBI02T.html?iref=comtop_6_06
記事は「昨年来、日本の外務官僚たちが、日本に批判的な外国特派員の記事を大っぴらに攻撃している」と指摘するもの。有り体に言えば、日本の国家総掛かりでの言論への介入である。それも、ドイツやアメリカの有力紙へのもの。おそらくは氷山の一角として明らかになった、ドイツ有力紙元東京特派員の驚くべき告白がメイン。そして、「米主要紙東京特派員」への在米日本大使館からの批判メール事件を紹介している。さすがに、よく行き届いた直接取材で信憑性はきわめて高い。由々しき問題と、憂国せざるを得ない。
主要部分を引用しておきたい。
注目されているのは、独紙フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)のカルステン・ゲルミス記者(56)が書いた英文の寄稿「外国人特派員の告白」だ。日本外国特派員協会の機関誌「NUMBER 1 SHIMBUN」4月号に掲載された。これを、思想家の内田樹(たつる)さんがブログに全文邦訳して載せ、ネット上で一気に広がった。
ゲルミス氏は2010年1月から今月上旬まで東京に5年余り滞在した。発端となる記事をFAZ紙に掲載したのは昨年8月14日のこと。「漁夫の利」と題し、「安倍政権が歴史の修正を試み、韓国との関係を悪化させているうちに、中韓が接近して日本は孤立化する」という内容の記事だった。これに対し、中根猛・駐ベルリン大使による反論記事が9月1日付のFAZ紙に掲載された。
ここまではよくある話だが、寄稿が明かしたのは、外務省の抗議が独本社の編集者にまで及んでいた点だった。記事が出た直後に、在フランクフルト日本総領事がFAZ本社を訪れ、海外担当の編集者に1時間半にわたり抗議したという。
寄稿によると、総領事は、中国が、ゲルミス氏の記事を反日プロパガンダに利用していると強調。さらに、総領事は「金が絡んでいると疑い始めざるを得ない」と指摘した。また、総領事は、ゲルミス記者が中国寄りの記事を書いているのは、中国に渡航するビザを認めてもらうために必要だからなのでしょう、とも発言したという。
ゲルミス氏は寄稿で、「金が絡んでいる」との総領事の指摘は、「私と編集者、FAZ紙全体に対する侮辱だ」と指摘。ゲルミス氏は「私は中国に行ったことも、ビザを申請したこともない」とも記している。
当事者たちに、現地で直接取材した。昨年8月28日、FAZ本社を訪れたのは坂本秀之・在フランクフルト総領事。対応したのは、ゲルミス氏の上司に当たるペーター・シュトゥルム・アジア担当エディター(56)だった。
シュトゥルム氏によると、同紙に政府関係者が直接抗議に訪れたのは、北朝鮮の政府関係者以来だったという。シュトゥルム氏は「坂本総領事の独語は流暢だった」と話す。総領事は中国のビザ取得が目的だったのだろうと指摘したうえで、「中国からの賄賂が背後にあると思える」と発言したという。シュトゥルム氏は「私は彼に何度も確認した。聞き違いはあり得ない」と話す。
現在勤務する独北部ハンブルクで取材に応じたゲルミス氏は、「海外メディアへの外務省の攻撃は昨年あたりから、完全に異質なものになった。大好きな日本をけなしたと思われたくなかったので躊躇したが、安倍政権への最後のメッセージと思って筆をとった」と話した。
ゲルミス氏が、機関誌に寄稿したのは「日本政府の圧力に耐えた体験を書いてほしい」と、特派員協会の他国の記者に頼まれたからだ。その後、記事への反応を見ると、好意的なものが多かったが、「身の危険」をほのめかす匿名の中傷も少なからずあったという。「日本は民主主義国家なのに歴史について自由に議論できない空気があるのだろうか」と語る。
シュトゥルム氏もこう話した。「我々は決して反日ではない。友好国の政府がおそらく良いとは思えない方向に進みつつあるのを懸念しているから批判するのだ。安倍政権がなぜ、ドイツや外国メディアから批判されるのか、この議論をきっかけに少しでも自分自身を考えてもらいたい」
もう一つは「日本大使館、識者の人選に注文」というもの。記事のコメンテーターへのクレームという話題だ。
米主要紙の東京特派員は、慰安婦問題に関する記事で引用した識者(コメンテーター)について、在米日本大使館幹部から人選を細かく批判する電子メールを受け取った。同特派員は「各国で長年特派員をしているが、その国の政府からこの人を取材すべきだとか、取材すべきでないとか言われたのは初めて。二度と同じことをしないよう抗議した」と話したという。
外務省が嫌ったコメンテーターとは、中野晃一・上智大教授であり、代わって外務省国際報道官室幹部が政権御用達として秦郁彦を推薦するメールを送信しているという。このメール全文までは報道されていないが、メールの存在と内容は外務省が認めているという。
はたして日本に、権力の干渉を受けることなく表現する自由は健在なのだろうか。
おなじみになった、「国境なき記者団」の「世界報道の自由度ランキング 2015」では、日本は180カ国(地域)中の61位である。かつては11位と高位にランクされた時代もあったが、安倍政権になって以来急速に評価を下げ、「先進諸国」中の最下位に甘んじている。アジアでは、台湾(51位)、モンゴル(54位)、韓国(60位)の後塵を拝しする立場。この日本の自由度ランキングは、安倍政権が続いている限りのことだが、来年さらに顕著に順位を落とすことが確実である。
なお、このランキングでは北朝鮮が179位である。ドイツ有力紙の編集者が、日本の総領事の行為について「政府関係者からの直接抗議は北朝鮮以来」と言っているのは示唆に富む。安倍政権は、北朝鮮に比肩されているのだ。
この事態は、安倍政権の末期症状として見るべきなのか、あるいは恐るべき言論弾圧時代の幕開けなのか。憂国の情に堪えない。
(2015年4月28日)
「俳人・9条の会 新緑の集い」にお招きを受けて、報告した。テーマは、9条ではなく「『思想の自由』と『表現の自由』の今ー権力と社会的圧力に抗して」というもの。準備の過程で、なるほどこのテーマであれば私こそ語るにふさわしい、と考えるようになった。
「日の丸・君が代」強制と靖国問題とで思想・良心・信仰の自由の問題に触れ、DHCスラップ訴訟で表現の自由を語った。いずれも、私自身が関わる問題である。聞いてもらわずにはおられない。
精神生活の基礎を形づくるものとして、思想は自由である。人が人であるために、自分が自分であるために、憲法によって保障される以前から、思想は本来的に自由なのだ。
思想のほとばしりである言論も本来的に自由でなくてはならない。表現の自由を侵害するものは、公権力と社会的圧力である。公権力は法的強制をもって言論を封じ、社会多数派はその同調圧力で個人の言論を封じる。
フォーマルには、社会的多数者の意思が権力の意思となり、国や自治体が言論を規制する。インフォーマルには、社会的多数派の圧力が、個人の言論を萎縮させ、非権力的に言論を抑制する。
個人の言論が、多数者の意思によって圧迫を受けてはならない。表現の自由とは、本来的に少数者の権利であって、多くの人にとって不愉快で耳障りな表現こそが権利として保障されなければならない。民主々義社会では、多数派が権力を構成するのだから、社会的な圧力は容易に公権力による規制に転化する。だからこそ、権力が憎む表現、多数が眉をしかめる表現の自由が権利として守られねばならない。
社会的な言論抑圧のレベルでは、
多数派の意思→圧力→少数派の萎縮→多数派の増長→圧力の強化→さらなる萎縮
という負のスパイラルを警戒しなければならない。言論の萎縮は、さらなる圧力をもたらし、さらなる後退を余儀なくさせる。
社会的多数派の耳に心地よくない言論とは、政権に対する批判、与党勢力に対する批判、天皇や皇族の言動に対する批判、「日の丸・君が代」強制への批判、ナショナリズムへの批判、最高裁の判決に対する批判、ノーベル賞の権威などに対する批判等々の言論である。このような権力や権威に対する批判の言論の自由が保障されなければならない。
そして、ダブルスタンダードなく、反体制内権力や革新内部の多数派にも批判が必要だ。たとえば、選挙をカネで歪める動きについて、保守派だけを批判するのは片手落ち、革新陣営の選挙違反にも遠慮のない批判の言論が保障されなければならない。それなくしては緊張感を欠くこととなり、革新陣営の腐敗が免れないことになる。いかなる組織にも、運動にも、下から上への批判が不可欠なのだ。
このようなときであればこそ、表現者は萎縮してはならない。自主規制して言論を躊躇してはならない。社会的圧力に抗して、遠慮することなく、いうべきことをはっきりと言わねばならない。でないと、今日の言論の保障は、明日には期待できなくなるかも知れないのだから。
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懇親会にまでご招待いただきありがとうございます。本席では、天皇の発言が話題となっていますので、この点についてもう少しお話しさせてください。
私は、本来人間は平等だという常識的な考えもっていますから、天皇という貴種が存在するなどとは思いもよりません。天皇を特別な存在とし、血筋故に貴いとか、文化的伝統を受け継いだ尊敬すべき人格だとかという虚構を一切認めません。
「象徴天皇は憲法的存在だから認めてもよいのではないか」という議論は当然になり立ちます。制度としては天皇の存在を認めざるを得ません。しかし、天皇が象徴であることから、天皇をこのように処遇すべきだという、法的な効果は何もないのです。「象徴」とは、権限や権能を持たないことを意味するだけの用語に過ぎません。天皇の存在を可能な限り希薄なものとして扱うこと、最終的にはフェイドアウトに至らしめること、それが国民主権原理の憲法に最も整合的な正しい理解だと私は思っています。
「象徴天皇は、存在しても特に害はないのではないか」というご意見もあろうかと思います。しかし、私は違う意見です。今なお、象徴天皇は危険な存在だと思うのです。その危険は、国民の天皇への親近感があればあるほど、増せば増すほどなのです。国民に慕われる天皇であればこそ、為政者にとって利用価値は高まろうというものです。
先ほど、高屋窓秋という俳人のご紹介の中で、嫌いなものは「奴隷制」というお話しがありました。奴隷制とは、人を肉体的に隷属させるだけでなく、精神的な独立を奪い、その人の人格的主体性まで抹殺してしまいます。
奴隷根性という嫌な言葉があります。奴隷が、奴隷主に精神的に服従してしまった状態を指します。客観的には人権を蹂躙され過酷な収奪をされているにかかわらず、ほんの少しのご主人の思いやりや温情に感動するのです。「なんとご慈悲深いご主人様」というわけです。奴隷同士が、お互いに、「自分のご主人様の方が立派」と張り合ったりもすることになります。
旧憲法下の、天皇と臣民は、よく似た関係にありました。天皇は、臣民を忠良なる赤子として憐れみ、臣民は慈悲深い天皇をいただく幸せを教え込まれたのです。これを「臣民根性」と言いましょう。明治維新以来、70年余にわたって刷り込まれた臣民根性は、主権者となったはずの日本国民からまだ抜けきっていないと判断せざるを得ません。
天皇制とは、日本国民を個人として自立させない枷として作用してきました。臣民根性の完全な払拭なくして、日本国民は主権者意識を獲得できない。天皇制の呪縛を断ち切ってはじめて、個人の主体性を回復できる、私はそう考えています。
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本日の私の報告の中で、「権力を信頼することは権力を腐敗させること、権力には猜疑の目をもっての批判が不可欠だ。それあってこそ、健全な権力を維持することができる」「この理は、たとえ民主勢力が政権を取っても、あるいはいかなる民主的な政府が成立したとしても変わらない」というくだりがあった。
これに対して、「本当に民主的な政府にも、批判が必要なのか」という質問があって、時間切れとなった。一応、追加して触れておきたい。
完全に「民主的な政府」となどというものはありえない。より民主的な政府を目ざさなければならない。また、いかなる権力も、権力が成立した瞬間から腐敗の進行を始める。従って、ある政府を、より民主的にするためにも、腐敗を防止するためにも、民衆の忌憚のない批判が絶対に必要なのだ。選挙は大きな国民の政府への批判の機会であるが、これだけに限られない。日常的な批判の言論が実質的に保障されなければならない。
国民の批判を実質的に保障するとは、権力運用の透明性が確保されていなければならず、権力が批判に寛容でこれを受容し生かす制度を完備していなければならない。
そこまでしても権力が腐敗を免れれることができるか、おそらくは無理だろう。そのときには、政権交代の受け皿が用意されていなければならない。こうしたサイクルで、民主主義は命永らえていくのではないだろうか。
(2015年4月26日)