澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその19

宇都宮側の「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」に対する反論の続きである。「見解」は、第1節から第5節までで成っているが、本日は、第4・第5節への反論。

「見解」の第4節「供託金300万円の借入れについて」に記載の金銭貸借は、まったく法的な問題ではない。私の妻が供託金300万円を用立て、かなり遅れて返済してもらった経緯を述べた。この間の経緯について、私は何の違法も指摘していない。宇都宮君の革新共闘候補者としての適格性の存否に関する判断材料のひとつとして、お伝えするに値する情報と考えて提供したまでのこと。宇都宮君を清貧な弁護士と積極評価されるもよし。何の判断材料にもならないと切り捨ててもよい。揶揄も侮蔑の表現もない。道義的に非難をしたつもりもない。もう一度、下記のブログをよくお読みいただきたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=1767

なお、このシリーズ「その6」に、宇都宮君の随行員であった私の息子・大河が下記の関連するエピソードを綴っている。これも併せてお読みいただくようお願いしたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=1776

概要は以下のとおりである。
「同窓会
 宇都宮さんの同窓会にも同伴した。東大駒場の文?(法学部進学)のクラス会だった。…その場で誰かが、「立候補に当たっての供託金はどうしたんだ?借りたのか?」という軽口が飛んだ。宇都宮さんは、それに「自分で用意した」と答えていた。自ら用意すると一旦は言いながら、結局用意できずに、他人から借りた事情を知っている私の前で、なぜそのような嘘を述べるのか、理解に苦しんだ。
 その上、その場で旧友に対し、供託金が高すぎて負担が大きいとの持論を繰り返し述べていた。供託金が高いことを問題視するならば、自分で用意できないほど高いのだと率直に語った方が、かわいげがあったのではないだろうか。」

「見解」の第5節「運動員買収との主張について」は、およそ具体性を欠くもので、私の指摘を否定するものとなっていない。私は、事実関係を詳らかにしうる立場にない。私が指摘できるのは、「疑惑」のレベルでしかない。疑惑を解明して黒白を明瞭にする資料は、すべて宇都宮君や岩波書店の側にある。疑惑を指摘されたのだから、手許の資料を駆使して、疑惑を晴らす努力があってしかるべきだ。しかし、「見解」は、指摘された疑惑について解明しようとの真摯さに欠ける。

私が主として問題にしているのは、宇都宮君を候補者として推薦する政党や団体・個人の側に生じるリスクである。清廉潔白を看板にしている政党や市民団体が、本当に宇都宮君を推すことができるのか。支持や推薦した側のクリーンなイメージを傷つけてしまうのではないか。そのことを心配しての「疑惑」の指摘なのだ。当然のことながら、「疑惑」は私が指摘したから生じたというものではない。外形事実としては誰の目にも明らかなことなのだ。

まずは、「熊谷伸一郎さんが、フルタイムで選対事務局長の任務に就きながら、その間岩波書店から、従前同様の給与の支払いを受けていたのではないかという疑惑」についてである。やや煩瑣ではあるが、私の指摘を再掲して、「見解」が反論をなしえているかを吟味いただきたい。

「岩波書店に、(徳洲会やUE社と)同様の疑惑がある。もちろん、調査の権限をもっていない私の指摘に過ぎないのだから、疑惑にとどまる。だが、けっして根拠のない疑惑ではない。熊谷さんは、上司の岡本厚さん(現岩波書店社長)とともに、宇都宮選対の運営委員のメンバーだった。熊谷さんが短期決戦フルタイムの選対事務局長の任務を引き受けるには、当然のことながら上司である岡本厚さんの、積極的な支持があってのこと。選対事務局長としての任務を遂行するために、岩波からの便宜の供与があったことの推認が可能な環境を前提にしてのこと。常識的に、岩波から熊谷事務局長に対して、積極的な選対事務遂行の指示があったものと考えられる。

昨年の2月、私の疑惑の指摘に対して、熊谷さんは、『私は有給休暇をとっていましたから。それに、ウチはフレックス(タイム)制ですから』と言っている。これだけの言では徳洲会やUE社の言い訳と変わるところがない。また、言外に、給与の支払いは受けていたことを認めたものと理解される。

真実、彼が事務局長として任務を負っていた全期間について有給休暇を取得していたのであれば、何の問題もない。しかし、それは到底信じがたい。では、フレックスタイム制の適用が弁明となるかといえば、それも無理だろう。コアタイムやフレキシブルタイムをどう設定しようと、岩波での所定時間の勤務は必要となる。フルタイムでの選挙運動事務局長職を務めながら、通常のとおりの給与の支払いを受けていれば、運動員買収(対向犯として、岩波と熊谷さんの両方に)の容疑濃厚といわねばならない。

根本的な問題は、熊谷さんが携わっていた雑誌の編集者としての職務も、選対事務局長の任務も、到底片手間ではできないということにある。両方を同時にこなすことなど、できるはずがない。彼が選対事務局長の任務について、選挙の準備期間から選挙の後始末までの間、岩波から給与を受領していたとするなら、それに対応する編集者としての労働の提供がなければならならない。それを全うしていて、選対事務局長が務まるはずはないのだ。それとも、勤務の片手間で選対事務局長の任務をこなしていたというのだろうか。それなら、事務局長人事はまことに不適切なものだったことになる。

どのような有給休暇取得状況であったか、また具体的にどのようなフレックスタイム制であったのか、さらに選挙期間中どのような岩波への出勤状況であったのか、どのように業務をこなしていたのか、知りたいと思う。労働協約、就業規則、労働契約書などを明示していただきたい。徳洲会やUE社には追及厳しく、岩波には甘くというダブルスタンダードはとるべきではないのだから」
(「その16」http://article9.jp/wordpress/?p=1832

「見解」の主たる反論は、私の指摘には「何の根拠も示されていない」ということにある。その上で、「(熊谷)事務局長は休暇を取得しない日には勤務も行なっていた。そのような対応をしたという応答を得ている」という。宇都宮君が都知事になったとして、徳洲会や猪瀬の違法行為に対する追及はこの程度で終わることになるのだろう。こんなに露骨に身内に甘い体質では到底ダメだ。「そのような対応をしたという応答を得ている」などと言うふやけた調査で済ませる都知事候補を推薦することなどできようはずがない。

私は、宇都宮選対に違法行為があった場合のリスクを問題にしている。疑惑が立証された場合に、宇都宮君を推薦した政党や市民団体のクリーンなイメージに大きく傷がつくことになる。また、有権者に対する責任の問題も出て来る。「見解」は、説得的に疑惑はあり得ないとする論証をしなければならない。疑惑を指摘され、それを否定しようとする以上は、「疑惑のないこと」の立証責任を負担しているのだ。にもかかわらず、「見解」のこの投げやりな姿勢、自信のなさはどうしたことか。

「見解」は、「熊谷さんについて『入社3年目』と記載されているが誤りであり、実際には2007年に入社している」という。この点はおそらく私の誤りだと思うので、『入社5年目』と訂正する。ほかにも、細部で具体的な間違いがあれば、指摘に耳を傾けたい。

「見解」は、「そもそも公選法が規定する『選挙期間』とは告示日以降の17日間に限定されるため、事務局長が『選挙運動にボランティアとして参加』していたのは17日間を超えることはありえない」という。信じがたい稚拙な論理のすり替え。こんな小細工が却って疑惑を深める。その上、法解釈としても明らかに間違っている。

私は有給休暇の取得実態を問題にしている。いったい、熊谷さんには、当時何日分の有給休暇が残っていて、選対事務局長としてフルタイム稼働したほぼ1か月間に何日を消化したのだろうか。選対事務局長としてフルタイム稼働中の有給休暇の取得実態を問題にしているのに、敢えて選挙期間の17日間に限定して問題を考察しなければならない道理はない。そのように限定する予防的な姿勢が、「1か月全期間を問題にされては都合が悪い」という疑惑を生むことになる。

また、法的にも、運動員買収罪の成立は選挙期間中の17日間に限定されるという主張は明らかな間違いである。宇都宮陣営の弁護士がこんなことを言えば、徳洲会もUE社も大喜びだろう。

私は、公職選挙法221条1項1号違反を指摘している。買収の対象となる行為は、選挙運動の定義よりはるかに広い。また、買収・供応の犯罪は、選挙期間中に限定して成立するものではない。同条の文言からも、犯罪成立の時期について何の言及もなく選挙期間に限定されるものではない。立候補届出前の運動員の行為に対する対価の支払いにつき、本罪が成立するとした最高裁判例(1955年7月22日)もある。

「見解」は、「週末や休日を含めれば十分に有給休暇で対応できる範囲内であり、また事務局長は休暇を取得しない日には勤務も行なっていた」と言うが、これは明らかな誤謬の法解釈を前提とした不十分な調査の結論である。これで、疑惑が解消になるとは、起案者自身も考えているはずはない。

「見解」の起案者は、再度の調査をなすべきである。
そして、具体的にどのような有給休暇取得状況であったか、また岩波にはフレックスタイム制が存在するのか、存在するとしてどのようなフレックスタイム制であったのか、熊谷さんにはいつからどのようなフレックスタイム制が適用になっていたのか、さらに事務局就任以後の全期間についてどのような岩波への出勤状況であったのか、どのように岩波の業務をこなしていたのか。資料を添えて、明確にしなければならない。そうでなければ疑惑を解消したとは到底言えない。

さらに、「選対からの度重ねての要請により…任務を引き受けた」という「見解」の指摘が見逃せない。「法的見解」とされているから敢えて述べるが、岩波書店の熊谷さんへの運動員買収の疑惑は、「事務局長就任の動機が選対からの要請によるものであったか否か」とはまったく無関係である。選対が運動員買収を要請した事実のあろうはずのないことはさて措くとして、「見解」は何を論じているのかを見失っている。再三言っているとおり、私が指摘し問題にしているのは、公職選挙法上の犯罪成立の疑惑と、疑惑が立証された場合の種々のリスクなのである。「会社員などの政治参加という観点からも問題」などという立法論のレベルでの論争でも、市民感情における可非難性の有無の問題でもない。現行公選法に照らして、犯罪成立のおそれの有無を論じているのだ。「見解」の揺れる視座は、犯罪不成立と言い切ることに自信のないことを表白している。

「澤藤氏は事実と証拠に基づかない私憤に基づく憶測から事務局長らの名誉を毀損する主張を繰り返している」などと言うようでは、法的見解における弁明の放棄と解さざるを得ない。

最後が宇都宮君ご自身の運動員買収疑惑だ。私が疑惑の根拠とするところはずいぶん書いてきたが、疑惑のきっかけは次のとおりだ。

「宇都宮君が発言した。その発言内容を明確に記憶している。
『えー澤藤さん。岩波が問題なら、ボクだっておんなじだ。ボクも、事務所の事務員を選対に派遣して選挙運動をお願いしたんだから』
これには驚いた。本当は、続けて発問したかった。いったい何人を派遣した? 誰を? いつからいつまで? 選挙運動って具体的にどんな仕事だったの? 賃金はいくら払ったの? 勤怠管理はどうしたの?…。しかし、制されて私は黙った。これ以上、彼らを刺激したら、大河(わたしの息子)と、とばっちりを受けたTさんの権利救済(名誉回復)の道は途絶えてしまうと考えてしまったからだ。」(「その10」)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその10

「見解」が弁明として述べるところは、まことに乏しい。わずかに次のとおりである。
「法律事務所事務員は、熊谷事務局長と同様に、有給休暇によりボランティアとして参加したものであり、宇都宮氏に公職選挙法等の違反があるとの主張も全く理由がない」
これを読んで、疑惑の解明になっていると考える人がいるだろうか。宇都宮君の熱心な支持者であればなおのこと、これで納得できようはずはない。

もう一度繰り返さざるを得ない。
「宇都宮君は、選対要員としていったい何人の事務職員を派遣した? 誰を? いつからいつまで? 選対での選挙運動って具体的にどんな仕事だったの? 賃金は平常の通りに支払ったの? 勤怠管理はどうしたの? 各職員について派遣当時有給休暇は何日残っていた? 選対勤務のために何日有給休暇を取得したの?」

「見解」の起案者は、いったいどんな調査をしたのだろう。宇都宮君が私に喋った「ボクも、事務所の事務員を選対に派遣して選挙運動をお願いした」という発言の存否や真偽をどのように確認したのだろうか。それとも、一切の調査の必要はないと考えたのだろうか。

「宇都宮選挙が、公職選挙法の厳しい制限のもと、市民選挙としてきわめてクリーンに行なわれた事実を私憤に基づいて中傷誹謗するものとなっていることは、きわめて遺憾である」という文章が空しい。これは、政治文書であって、「法的見解」ではない。「私憤」「中傷誹謗」などという言葉を、「法的見解」に出している点において、反論不能を自白しているに等しい。

どう考えても弁明は無理だ。疑惑は晴れない。疑惑が晴れない限りは、クリーンイメージを大切にする政党や市民団体、個人が宇都宮君を推すことはできないはず。やはり、宇都宮君、立候補はおやめなさい。
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            「授業してたのに処分事件」完全勝訴確定
被処分者の会・東京「君が代」裁判原告団から新年にふさわしい明るい報告があった。
「授業してたのに処分」事件について、昨年12月19日言い渡しの東京地裁判決に、都教委が控訴を断念して勝訴が確定した。
控訴期限は1月6日だったが、都教委は控訴をあきらめた。「控訴するな」と強く要請をした立ち場からは、まことに晴れやかな気持。

「都教委が控訴しても地裁判決を覆すことは、絶対できない」「もし、控訴したら1回結審で控訴棄却にしてみせる」「恥の上塗りはやめた方が良い」「税金の無駄遣いではないか」という気迫の勝利だ。

私たちは都教委に要求する。直ちに、控訴を断念したことを明らかにして違法な処分を行ったことを都民に告知せよ。都教委は違法な処分を行ったことを福嶋常光さんに謝罪せよ。早急に名誉回復・権利回復の措置をとれ。違法な処分を行った責任の所在を明らかにして、再発防止策を講じよ。

これまでの法廷闘争は無駄ではなかった。法廷闘争と運動の力との結合の成果として、いささか感慨深い。

(2014年1月8日)

宇都宮健児君立候補はおやめなさいーその18

昨日に続いて、「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」に対する反論。

もう一度、読み直して印象を拭えないのは、この「見解」には、一片の反省もないことである。私の渾身の指摘を本当に全面否定でよいのか。省みて不十分なところは、潔く認めて反省すべきがよかろう。この「見解」の姿勢のごとき頑な無反省の姿勢では、再度の宇都宮選挙があった場合には、同じ轍を踏むことになる。

何人かの親しい人から「『私憤論』には踏み込まない方が良かろう」という忠告をいただいている。「法律論ではないところで、足を掬われる」「『なんだ私憤なのか』というだけで、人が耳を傾けてくれなくなる」「『見解』の狙いはそこにあるのだから、慎重に」というもの。ありがたい忠告なのだが、私にはどうしても避けて通れない。

私は、弁護士とは、他人の私憤に寄り添う職業だと思っている。とりわけ弱い立場にある人の私憤に、である。それぞれの人が、この世の理不尽に私憤をたぎらせている。その私憤をどのように昇華させるのか、その人に寄り添って知恵を絞り、汗をかくのが弁護士としてのあるべき姿ではないか。私憤を切り捨てては、弁護士の職務を全うすることができない。少なくとも、弱者の側に立とうとする弁護士のすることではない。私は、宇都宮君への批判の動機が、私憤であることを隠さない、恥じることもない。この私憤は、必ずや共感・共鳴を得ることができると考えているからだ。

さて、「見解」は、「3 選挙運動の為に使用する労務者の報酬の支払い」において、かなりきわどい論理を展開している。徳洲会やUE社が喜びそうな理屈だ。

この節の根幹は、「澤藤氏は、『公職選挙法の定めでは、選挙運動は無償(ボランティア)であることを原則としています。』…との一方的な思い込みに基づく論理を主張している」というところにある。「法的見解」を書いた三弁護士は、「選挙運動は無償であるべきだという原則」が間違いであるかのごとく主張する。しかし、これは明らかに三弁護士の方が、公選法の理解を大きく間違えているのだ。

「見解」の内容を正しいと信頼して読む読者は、「公職選挙法の定めでは、選挙運動は無償(ボランティア)であることを原則としています」という澤藤の指摘が間違っているかと錯覚することだろう。「公職選挙法の定めには、選挙運動は無償(ボランティア)であることの原則などはないのだ」と、思いこむはず。しかし、誤解してはいけない。公職選挙法の定めでは、明らかに「選挙運動は無償(ボランティア)であることとが原則」なのだ。「見解」の立場は大きな間違いなのだ。

公職選挙法の条文の中に、麗々しく「選挙運動は無償(ボランティア)であることの原則」がその文字通りの表現で記載されているわけではない。しかし、公職選挙法の選挙運動についての定めの構造を読み込めば、「選挙運動は無償」の原則が貫かれていることが明白なのだ。

やや面倒だが、次の判決文をお読みいただきたい。
すこし以前のものだが、次のように、格調高く理念を述べている判決がある。
「民主政治に不可欠な選挙は、国民が国家や地方の重要な施策の決定に参画すべき代表者を選出する手段であるから、選挙運動は自発的に応援すべきものであって、手弁当で自己の信じる人を出すということに至って初めて理想的なものといえる。公選法第221条は右の理想に基づき選挙運動者に対する報酬の支給に対し、厳罰をもって臨んでいるのである」(東京地裁、1964年1月29日判決)

また、主流をなす判決として次のものを挙げることができる。
「公職選挙法第197条の2は『選挙運動に従事する者』と、『選挙運動のために使用する労務者』を区別し、前者に対しては…実費弁償のみを支給することができるとし、後者に対しては実費弁償ばかりでなく報酬をも支給することができるとしているのであるが、これは、選挙運動が本来奉仕的な性質のものであるべきだとの建前から、これを原則とし、ただ… 選挙運動のために単なる機械的労務に服する使用人であるいわゆる労務者に対しては、無償の奉仕を期待しがたいところから、これに対し報酬を支給することを認めたものと解される」(1972年3月27日東京高裁判決)

この法理は、確立されたものとして下級審判決に受継されている。ごく最近の判決例として、下記の神戸地裁尼崎支部(合議事件)2012年3月5日公選法違反被告事件の判決理由中の一節を引用する。

「公職選挙法は、選挙運動が本来奉仕的な性質のものであるべきだとの建前から、原則として無報酬とされる『選挙運動者』と、無償の奉仕を期待しがたいところから、報酬支給を認めた『選挙運動のために使用する労務者』を区別しているところ、これは人による区別であると解されるから、『選挙運動者』がたまたま選挙運動のための労務を行ったからといって、当該部分に対して報酬を支払うことは原則として許されないものと解するべきである」

以上に明らかなとおり、法も判例も、「選挙運動(者)」と、「選挙運動のために使用する労務(者)」を厳格に区別している。そのうえで、「選挙運動(者)」は原則無償とし、「選挙運動ではない、選挙運動のために使用する労務(者)」には、定められた範囲での報酬の支払いを認めている。つまりは、「労務(者)」は、「選挙運動(者)」ではない。「選挙運動は無償(ボランティア)であることの原則」が貫かれているのだ。「法的見解」を書いた三弁護士は、この無償性の原則をどうしても認めたくないのだ。潔癖性に欠けると指摘せざるを得ない

では、「無償を原則とする選挙運動」とは何であるか。そして、「選挙運動ではない労務」とは何か。

最高裁判例は「選挙運動とは、特定の公職の選挙につき、特定の立候補者又は立候補予定者のため投票を得又は得させる目的をもって、直接間接に必要かつ有利な周旋、勧誘その他諸般の行為をすること」という。この定義が、1963年10月22日決定以来定着したものとして繰り返されている。「直接間接に必要かつ有利な周旋、勧誘その他諸般の行為をすること」であるから、極めて広い。この極めて広く定義されている「選挙運動」が無償でなされなければならない。

ウグイス嬢を「選挙運動者に当たる」とした著名な最高裁判決(1978年1月26日判決)を紹介した「判例タイムズ」(№366)は、「公職選挙法によると選挙運動は無償で行われるのが原則であって、報酬を受領すると供与罪、受供与罪が成立する」と解説している。

同判決は、「『選挙運動のための労務』とは、選挙運動に当たらない行為を言い」と、両者を厳格に区別している。その上で、連呼行為をしたウグイス嬢を選挙運動者に該当し、197条の2にいう「選挙運動のために使用する労務者」には該当しないと結論づけた。その結果、ウグイス嬢(車上運動員)に報酬を支払った陣営幹部の有罪が確定した。当然ウグイス嬢にも受供与罪が成立することになるが、判例には被告人として出てこない。起訴猶予とされたものであろう。なお、周知のとおり、この判決のあと法改正があって、ウグイス嬢については「選挙運動者ではあるが、上限を設けた報酬の支払いが認められる」取扱いとなった。

判例上、一応「選挙運動」の定義は確立し、「労務」はその外の範疇にあることとはなった。しかし、現実にはその境界は必ずしも明確ではない。「選挙運動のために使用する労務者」を定義した判決として、次のものがある。

「『選挙運動のために使用する労務者』とは、自己の判断によって候補者の当選又は落選に影響あるかを認定し方針を決定することなく単純に選挙運動者の手足となりその命ずるままに肉体的な労働又は機械的な事務に従事する者をいい、しからざる者はすべて『選挙運動に従事する者』である」

「電話の取次ぎ、封筒の宛名書き、ポスター等選挙関係書類の発送、謄写版印刷のごときは機械的事務といえよう。しかし、各都道府県興行組合の要請や都合を照合し、遊説計画立案会議に列席してメモをとり、あるいは被告人Kが欠席した場合には同被告人に会議内容を伝えたりすること、遊説日程の連絡、宿舎手配の依頼、配車指図、選挙事務所設置移転の指示、標札標旗の移送指示、ポスター掲示依頼等をすることなどは、たとえそれが被告人KやMの指示によったものとしても、ことがらの性質上、自己の判断を交える余地とその必要のある行動である」として、このような「選挙運動」に報酬を支払ったことをもって、運動員買収が成立するとして、労務者報酬の名目で金銭を供与した側も受領した側も有罪となった。(東京地裁、1964年1月29日判決)

なお、「選挙運動者」と「選挙運動のために使用する労務者」とは、人による区別であると解されている。『選挙運動者』がたまたま選挙運動のための労務を行ったからといって当該部分に対して報酬を支払うことは許されない。また、「選挙運動」と「機械的労務」との混在がある場合には労務に対する一切の報酬を支払ってはならない。

念のために、付記しておきたい。「運動員として事前に登録されていれば、一日1万円の人件費を払って選挙活動(ビラまき・候補者と練り歩きなど)ができることになっています」という見解があるようだ。つまりは、「届出さえしておけば、選挙運動者にも報酬を支払うことができる」という理解だが、完全に誤っている。選挙運動(員)であるか否かは、実際に行う仕事の内容によるもので、届出の有無は無関係である。ビラまき・候補者と練り歩きなどは、典型的な選挙運動に当たり、報酬を支払えば、運動買収に当たる。法の解釈の誤解は弁解にならない。選挙運動はあくまで無償が原則である。

以上で、「見解」の「選挙運動は無償(ボランティア)原則否定論」への批判は十分であろう。上原公子選対本部長、服部泉出納責任者、その他の「労務者」(あるいは「事務員」)に対する報酬の支払いは、すべて洗い直さざるを得ないことがお分かりだろう。ことは、上原公子一人について「訂正すれば済むこと」ではないのだ。「見解」の作成者は責任をもって、早急に訂正をされたい。なお、昨日記載し忘れたが、公選法191条は、支出に伴う領収証の保存期間を3年と明記している。上原・服部、その他の「報酬領収証」は、「記載ミス」だったとして、訂正後の報告内容に沿う領収証がないとの言い訳はできないことを、十分に弁えておいていただきたい。

公開情報にアクセスするのは、市民の権利でもあり責務でもある。
「記載ミスを訂正すれば済む問題」なのだそうだから、訂正はすぐになされるだろう。
はたしてどう訂正されたか、東京都選管に閲覧に行こう。もし、緊急に「記載ミスの訂正」すらできないようなら、宇都宮君、やっぱり立候補はおやめなさい。
(2014年1月7日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその17

本日、「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」(1月5日付)という文書が、「人にやさしい東京をつくる会」のホームページに掲載になった。一読して驚いた。私は本格的な論戦のきっかけになるだろうと構えていたが、まったくの拍子抜け。よもや、お名前を出している3人の弁護士は、これで「反論」になっているとはお考えではあるまい。この「見解」で、宇都宮君を都知事に推薦することに問題ないと有権者に納得を得られるものとお考えになっているはずはない。

私は、「見解」が、もっと本格的に私に反論することによって、宇都宮君や選対の正当性を擁護する姿勢を見せるのだろうと思っていた。しかし、精いっぱいでこの程度しか言えないのだ。宇都宮君、やっぱり君はアウトだ。

「見解」の内容は全面的な反論になっていないし、なによりも具体性を欠く。「見解」の起案者は、調査ができる立ち場にあり、証拠資料に接することも関係者から事情を聞くこともできるのだ。にもかかわらず、具体性のある反論がまったくできていない。およそ、説得力を欠く、「逃げ」の文章でしかない。

宇都宮君、君は徳洲会や猪瀬の責任を追求すると言っているが、徳洲会や猪瀬がこの「法的見解」程度の弁明をすれば、違法性はないものと納得して責任追及をあきらめようというのか。私の具体的な指摘に対して、こんな抽象的なレベルでの「反論」しかできないのでは、君が徳洲会や猪瀬疑惑を追及することなどできっこない。早々に立候補の表明は撤回して、別の候補者を推薦すべきだ。

私の「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」シリーズは、2013年12月21日から年を越して毎日続いている。本日が第17回となった。しかし、君が立候補を断念するまでまだまだ続く。社会に知ってもらうべき情報も、私の言いたいことも、まだまだ尽きない。

私は、真剣勝負の決意で渾身の叫びを上げている。もとより、自分が傷つくことは覚悟のうえだ。自分の恥や弱みをさらし、おまえも宇都宮と同罪ではないかとの批判を受けることも、利敵行為ではないかとの指摘も、すべて覚悟の上での宇都宮君と宇都宮選対・「人にやさしい東京をつくる会」への批判を始めたのだ。とりわけ、「民主的な運動の世界では生きていけなくなるぞ」あるいは「生きていけなくしてやるぞ」という恫喝に、絶対屈してはならないと覚悟を決めての「宣戦布告」だ。不当な泣き寝入りを強いる世界に生きることなど何の未練もない。幸い、私は、どんな権威にも頭を下げることなく、生きていける立ち場にある。どのようなレッテルを貼られようと、「弱者のツール」としてのこのブログの発信を続けることを再度宣言する。

「見解」は、私が「『宣戦布告』の動機の半分は私憤です」と言っていることを捉えて、「私憤に立脚する同氏の主張が恣意的なものであることはこの点からも容易に察せられる」と言う。しかも、この「非法律的論点」について、不自然なまでの紙幅を割いている。これが、何か私の主張に対する「法的な」批判となっているとお考えなのだろうか。「私憤」と「主張が恣意的」とは無関係。主張そのものに対する批判が困難なので「私憤」を持ち出したに過ぎない。

私のこれまでの文章に目を通せばお分かりいただけるとおり、私は弁護士として発言しているのではない。私の家族のプライドを傷つけ、私自身をもだまし討ちした、宇都宮君と宇都宮選対に対して、不当な仕打ちの被害者として自らの怒りを隠さずに発言している。人間としての尊厳を侵害された者として叫んでいるのだ。このことを「私憤」と表現した。代理人として、請求原因の要件事実を積み上げるという無機質な書面を書いているのではない。私の心の底からの怒りをぶつけている。そのことが、宇都宮君と選対の薄汚さを執拗に綿密に暴くことの原動力になっている。

この世の不当な仕打ちは、すべて被害者のプライドを傷つけ、「私憤」を生じせしめる。「私憤」とは、国家的怒りでも社会的怒りでもない、個人の内面の深部における「人間としての尊厳を侵害されたことに対する憤りの感情」。この私的な深い憤りの感情こそが、この世の不当な仕打ちを是正して、すべての不合理を正そうとする行動の原動力となる。

教室の中でのいじめの被害感情は私憤である。ブラック企業での不当解雇による怒りは私憤である。公害被害も消費者被害も個別の被害者に目を向ければ、必ず「私憤」に行きつく。銃剣とブルドーザーで家屋や農地を奪われた嘆きも私憤。オスプレイ騒音による精神的被害も私憤。原発事故で故郷を奪われた人々の心の痛みも私憤。植民地被害も、原爆被害も、空襲被害も、あらゆる差別の被害感情は「私憤」ではないか。私は、このような私憤こそが、不当な仕打ちを粘り強く克服するエネルギーの源泉として貴重なものだと信じている。不当な仕打ちには、もっともっと怒らねばならない。怒りは共感を呼ぶ。その被害者の怒りを揶揄し、憤ることを不当として、「私憤だから、あなたの主張は恣意的なもの」と決めつけることは、不当な仕打ちの全面的擁護論。泣き寝入り強要論ではないか。不正義極まる。

論理からしておかしい。反論するなら、不当な加害行為がなかったことに重点を置けばよろしい。あるいは、きちんと被害者の怒りの根拠を把握して、その根拠のないことを説明すべきであろう。「私憤」の二文字で、問題をそらし、ごまかそうとするこの論法は「法的見解」に値しない。

「見解」は、私の具体的な公選法違反の指摘に対して、ほとんど何の反論もなしえていない。とりわけ注目すべきは、「上原さんらの上記10万円の実費弁償が選挙運動費用収支報告書に誤って『労務費』と記載されていることは事実である」と認めていることである。さすがに、この点だけは無視できないのだ。

しかし「見解」は、「この記載ミスを訂正すれば済む問題である」と、ことさらに軽く言ってのける。これまで、保守系から散々に聞かされてきたこと。「訂正すれば、それで済むのか」とは、徳洲会や猪瀬、あるいは石原宏高らが、受けてきた批判である。宇都宮君は同じ批判を甘受せざるをえない。

さらに、である。「見解」には、具体的にどう訂正するとの記載がない。実は、嘘を繕うことはかなり難しいのだ。選挙費用の支出に関してはすべて領収証の徴収が義務づけられている(公選法188条)。そして、選挙運動費用収支報告書への写しの添付も義務づけられている(公選法189条)。どのような領収証を、選挙管理委員会に提出しようというのだろうか。

以前書いたとおり、上原公子選対本部長も服部泉出納責任者も、「選挙報酬として」と明記した自署押印のある領収証を作成して、各10万円を受けとっている。選挙収支報告書に、「選挙報酬として」と書けば、あまりに露骨な選挙違反(運動員買収)に当たるので、「労務者報酬」と記載したのだ。このカムフラージュはかなり悪質と言わねばならない。指摘されて、書き直せば問題ないという感覚が、さらなる批判の対象となるだろう。「訂正すればいいんだろう」「どうせ自分がやったことではない」という宇都宮君の姿勢が、遵法精神と責任感の欠如をよく表している。

現実にどう訂正するのか、拝見しよう。書き直すとして、いったいどう書き直そうというのだろうか。支出区分を「選挙運動」として報酬を受けている者は29人にのぼる。そのすべてを書き直そうというのか。一部だけなのか。添付の領収証は間違ったものとして廃棄しようというのか。書き直しに伴う領収証はどう調達しようというのか。

宇都宮君、やっぱり取り繕いは無理だ。ますます、おかしくなる。だから、立候補はおやめなさい。
(2014年1月6日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその16

昨日の続き。徳洲会事件とは何であったか。2013年9月18日付の中日新聞の記事を引用する。
「医療法人「徳洲会」グループが昨年12月の衆院選で、自民党の徳田毅衆院議員(42)=鹿児島2区=の選挙運動のために、全国から多数の職員を現地に派遣し、報酬を支払っていた疑いが強まり、東京地検特捜部は17日、公選法違反(買収)の疑いで東京都千代田区の徳洲会東京本部などを家宅捜索し、強制捜査に乗り出した。
 関係者によると、グループの系列病院に勤める医師や看護師、事務職員ら数百人が現地に派遣され、衆院が解散した昨年11月16日から投開票前日の12月15日まで、鹿児島市内や指宿(いぶすき)市、奄美市などで戸別訪問やポスター張りなどの選挙運動に従事。職員は欠勤扱いとなり給与は減額されたが、ボーナスを上乗せするなどして穴埋めする形で、事実上の報酬を支払ったとみられる。」

「石原宏高・UE社」事件も同様である。朝日の2013年3月16日付の記事。
「自民党の石原宏高衆院議員(48)=東京3区=が昨年の衆院選の際に、大手遊技機メーカー「ユニバーサルエンターテインメント」(本社・東京、UE社)の社員3人に選挙運動をさせた問題で、朝日新聞は、UE社内で作成された「3人は通常勤務扱いとし、残業代を支給する」などの記載がある内部文書を入手した。石原議員は疑惑発覚後、「有給休暇中のボランティアだった」として公職選挙法違反(運動員買収)の疑いを否定しているが、説明と矛盾する内容だ。」「『原則として通常勤務扱いで対応する』『選挙事務所にて残業(超過勤務)等が発生した場合には、残業代を支給する』などの記載がある。」

いずれも、「公職選挙法違反(運動員買収)疑い」の事件。徳洲会やUE社が選挙運動に派遣した職員に対して、給与を支払っていたことが運動員買収に当たる。それなりのカムフラージュを施したのだが、偽装のメッキが剥がれ落ちてのこと。

岩波書店と熊谷伸一郎事務局長にも、同様の疑惑がある。選対事務局長として、フルタイムで任務に就きながら、岩波から従前同様の給与の支払いを受けていたのではないかという疑惑。

もちろん、調査の権限をもっていない私の指摘に過ぎないのだから、疑惑にとどまる。だが、けっして根拠のない疑惑ではない。熊谷さんは、上司の岡本厚さん(現岩波書店社長)とともに、宇都宮選対の運営委員のメンバーだった。熊谷さんが短期決戦フルタイムの選対事務局長の任務を引き受けるには、当然のことながら上司である岡本厚さんの、積極的な支持があってのこと。選対事務局長としての任務を遂行するために、岩波からの便宜の供与があったことを推認が可能な環境を前提にしてのこと。常識的に、岩波から熊谷事務局長に対して、積極的な選対事務遂行の指示があったものと考えられる。

昨年の2月、私の疑惑の指摘に対して、熊谷さんは、「私は有給休暇をとっていましたから。それに、ウチはフレックス(タイム)制ですから」と言っている。これだけの言では徳洲会やUE社の言い訳と変わるところがない。また、言外に、給与の支払いは受けていたことを認めたものと理解される。

真実、彼が事務局長として任務を負っていた全期間について有給休暇を取得していたのであれば、何の問題もない。しかし、それは到底信じがたい。では、フレックスタイム制の適用が弁明となるかといえば、それも無理だろう。コアタイムやフレキシブルタイムをどう設定しようと、岩波での所定時間の勤務は必要となる。フルタイムでの選挙運動事務局長職を務めながら、通常のとおりの給与の支払いを受けていれば、運動員買収(対向犯として、岩波と熊谷さんの両方に)の容疑濃厚といわねばならない。

根本的な問題は、熊谷さんが携わっていた雑誌の編集者としての職務も、選対事務局長の任務も、到底片手間ではできないということにある。両方を同時にこなすことなど、できるはずがない。彼が選対事務局長の任務について、選挙の準備期間から選挙の後始末までの間、岩波から給与を受領していたとするなら、それに対応する編集者としての労働の提供がなければならならない。それを全うしていて、選対事務局長が務まるはずはないのだ。それとも、勤務の片手間で選対事務局長の任務をこなしていたというのだろうか。それなら、事務局長人事はまことに適性を欠いたものだったことになる。

どのような有給休暇取得状況であったか、また具体的にどのようなフレックスタイム制であったのか、さらに選挙期間中どのような岩波への出勤状況であったのか、どのように業務をこなしていたのか、知りたいと思う。労働協約、就業規則、労働契約書などを明示していただきたい。徳洲会やUE社には追及厳しく、岩波には甘くというダブルスタンダードはとるべきではないのだから。

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もうひとつの事実の指摘。こちらは古典的な「供応」である。「飲ませ、喰わせ」の件。そして、若干の「ばらまき」。

前回東京都知事選の投開票が2012年12月16日(日)。その翌週の日曜日。宇都宮選挙に関わった人々の選挙後の「慰労会」がおこなわれた。同月23日(日)午後5時開会、場所は四谷三丁目の中華料理屋「日興苑」。宇都宮選対事務所のあったビルの1階。費用は「一人3500円?(料理・お酒の追加あれば追加料金)」と告知されていた。

自費で飲み食いを楽しむことに、何の問題もあろうはずはない。しかし、飲み食いの料金(あるいはその一部)を会の財政(実質的に選挙カンパ)から捻出するとなれば、道義的な問題が出て来る。選挙に絡んでの支出となれば、選挙期間中であろうとも事前でも事後でも、公職選挙法上の犯罪成否の問題を考えなければならない。

インターネット公開されている「人にやさしい東京をつくる会」収支報告書によれば、2012年12月23日に「会食会 206,500円」の支出がある。支出先は、「中華料理 日興苑」。断定はできないが、「一人3500円」の会費を集めて、その余の「(料理・お酒の追加あれば追加料金)」分を「会」が補填したのであろう。選挙カンパを飲み食いに支出したのだ。

私はこの「慰労会」に参加していないし、後日運営委員会に当日の様子の報告はなかった。だから参加人数も知らないし、参加者からいくらの飲食費を徴収したのかも知らない。仮に、参加者が50人とすれば一人当たり4000円の「お・も・て・な・し」をしたことになる。参加者100人とすれば一人当たり2000円である。選挙終了後に、市民のカンパから、選挙運動者の飲み食いに、これだけの金額の「供応接待」に当たる支出がなされている。驚ろかざるを得ない。

道義的に大きな問題であることは明らかだ。有権者や運動員への「飲ませ・喰わせ」は昔のこと、今どきは保守陣営もやらない。それを宇都宮陣営は堂々とやった。「会」の収支報告に掲載しているのだから間違いはない。「そんなことを指摘するのが怪しからん」は筋が通らない。「人にやさしい東京をつくる会」主催の慰労会での「飲ませ・喰わせ」(会費の補助支出)の事実の存在が問題なのだ。

20万円余の「飲み・食い」費用の支出は、典型的な「供応接待」にあたる。「慰労会」参加者の中には、選挙運動員もあり、運動員ではない有権者もいたはずである。運動員でない有権者に対する供応は、「当選を得しめる目的をもつて、選挙人に対し供応接待をしたとき」(公職選挙法221条1項1号)に当たり、最高刑懲役3年となる。運動員に対する供応は、上記の「選挙人」を「選挙運動者」に読み替えることになる。投票買収と運動買収の違いに対応する「選挙運動員供応」である。

この供応の行為主体、つまり誰が決裁して支払ったのかは私は知らない。行為主体が、候補者自身であるか、選挙運動の総括主催者であるか、あるいは出納責任者である場合には、法定刑は「懲役4年」(公職選挙法221条3項1?3号)となる。

選対運営の実態に鑑みれば、上原公子選対本部長よりは、熊谷伸一郎事務局長(岩波)が選挙運動の総括主催者となる可能性が高いと思う。この宴会には、事務局長だけではなく、宇都宮君も、中山武敏君(「人にやさしい東京をつくる会」代表)も出席していた。誰がどのような立ち場で支出をしたにせよ、事後供応は成立する。

選挙犯罪のほぼすべてが「目的犯」である。本件の場合も、選挙運動期間終了後の供応が「当選を得しめる目的をもつて」のものと言えるかが、一応は問題となる。しかし、選挙運動規制が選挙運動期間中だけに課せられるものではなく、事前運動も、事後運動も禁じられていることは常識と言ってよいだろう。本件は、典型的な事後買収(供応)に当たるのだ。

この事後買収(供応)が成立する点については、1969(昭和44)年1月23日の最高裁判例を引用できる。判決要旨は、「選挙運動を総括主宰した者が選挙運動をしたことに対する報酬として、金銭の供与を受けた場合には、たとえその時期が選挙の終了後であっても、公職選挙法221条3項の適用がある」と紹介されている。

その一審判決は「選挙運動期間中から選挙後にかけて、総括主宰者が複数の選挙運動者に対して、報酬・費用としての金銭供与を行った」という事案について、「その全部について、221条1項に該当する」ことを認定している。この判断は、控訴棄却、上告棄却で確定している。選挙運動期間経過後の供応も、明らかにアウトなのだ。

なお、さすがに、この支出は、選挙運動費用収支報告書には計上されていない。「人にやさしい東京をつくる会」の政治活動上の支出となっている。選挙運動費用収支報告書作成者に、「選挙運動の支出として計上してはまずい」という判断はあったものと思われる。「選挙運動としての飲み食いは違法だが、政治活動上の支出として政治活動報告書への飲み食いの記載なら問題はない」とでも、本気になって考えたのであろうか。

ひと言、申し述べておきたい。この慰労会に参加した人は、おそらくは「お・も・て・な・し」を受けたことを知らないだろう。まさか、「足りない分は会の財政から出しておきます」などというアナウンスがあったはずはない。とすれば、慰労会参加者に供応を受けたについての故意を欠くことになろう。参加者には、犯罪の成立はないものと考えられる。

なぜ、こんなことが起きたか、私はカンパが集まりすぎたのが、原因のひとつだと思っている。「人にやさしい東京をつくる会」へのカンパと、直接選挙運動会計へのカンパとを合計すると4000万円を超える。「会」24年分の繰越金は520万円とされている。資金が潤沢で、「20万円くらいはたいした金額ではない」という感覚になっていたのではないだろうか。その感覚が、選対本部長や出納責任者を初めとする選挙運動員に対する報酬の支払いにもなったのだろう。

それだけではない。どういう基準でか、この「慰労会」の席上、選対事務局長から、何名もの各選挙運動員に対して、封筒に入った現金(1万円?3万円ほど)が配られたという。その交付にともなって、いずれも「選挙報酬として」という、遡った日付の領収証が作成され、選挙運動費用収支報告書には「労務者報酬」として計上された。報告書に見合う領収証が添付されている。

突然、現金を配られた運動員は困惑したであろう。押し付けられて、迷惑千万だった人もいただろう。やむなく、その全額を寄付する形で、事実上受領を拒否した方もいたと聞いている。見方によっては、事務局長が会の金を分配することによって、人脈を作る手段としていたのではないだろうか。

この「慰労会」の席には、宇都宮君も出席している。事務局長から相談があって、会からの20万円支払いの会計処理に関与している可能性を否定しえない。それでなくても、宇都宮君の選対の供応接待の疑惑である。宇都宮選対のコンプライアンスに大きな問題があったのだ。宇都宮君、きみが徳洲会や猪瀬疑惑追及の先頭に立てる訳はないだろう。
だから宇都宮君、立候補はおやめなさい。
(2014年1月5日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその15

これまでのブログで、私は具体的理由を挙げて、宇都宮君の候補者としての能力の不足と、「人にやさしくない」体質について述べてきた。宇都宮君の人格を誹謗したり中傷することを目的としてではなく、すべては東京都の有権者に、彼を都知事選の候補者として推薦できるかについて、情報を提供するという観点からの指摘である。宇都宮君の能力の不足も、求められる資質も、あくまで「都知事選の革新共闘の候補者として」求められる水準に照らしてのものである。判断のための、貴重な情報の提供だと信じている。

さらに私は、宇都宮君自身と、宇都宮君が責任をもたざるを得ない宇都宮選対の公選法違反疑惑についても指摘した。口火を切ってから2週間となるが、まだ反論に接していない。漏れ聞こえてくるところでは、宇都宮陣営では「澤藤の指摘の内容は大したことではない」「そもそも澤藤が責任をもつべきことなのに違法行為の指摘は怪しからん」ということのよう。このような対応に、私は、やや焦りを感じる。もう少し、正確に事態の深刻さを認識していただきたい。

私は、当不当のレベルではなく、違法のレベルの問題点として、3件の指摘をしている。具体的に公職選挙法の条文を引用して、犯罪に該当する疑惑があると指摘した。これを「大したことはない」というのだろうか。

まさかとは思うが…、もしかしたら…、「猪瀬の違法疑惑の問題は返還したと言っても5000万円の金銭の授受だった。これに対して、澤藤が指摘した上原公子選対本部長が受領した選挙運動報酬額はわずか10万円。大したことではない」などとお考えではなかろうか。

念のためだが、次の新聞記事をご覧いただきたい。産経の2010年9月11日のもの。見出しは「田村陣営の女性秘書 高知区検が略式起訴 参院選選挙違反」本文は以下のとおりである。

「高知区検は10日、電話で選挙運動した高知大の男子学生(23)に報酬約1万3千円を支払ったとして、7月の参院選高知選挙区で落選したTK氏陣営の女性秘書(59)を公選法違反(買収)罪で 高知簡裁に略式起訴した。簡裁は同日、罰金20万円の略式命令を出し、秘書は即日納付した。
 男子学生は同法違反(被買収)容疑で書類送検されたが、区検は違法性が低いとして起訴猶予処分とした。
 区検などによると、TK氏の陣営は選挙運動のアルバイト求人を高知大に出し、男子学生は求人票をみて応募したという。」

舞台は前々回の参院選。運動員買収罪で有罪となったのは、自民党現職で落選した候補者の秘書。買収金として渡した金額は1万3000円である。それで罰金20万円となった。1万3000円をもらったアルバイト大学生は、送検され、起訴猶予処分となった。起訴猶予処分とは、犯罪成立の嫌疑は十分だが、検察官の裁量で不起訴とすることを指す。警察と検察は、自民党陣営にもかくも厳しい。1万3000円授受の容疑があれば、有罪となりうるのだ。

問題は、起訴・有罪よりは、強制捜査の恐さである。上記の記事だけでは、どのように捜査があったかはよく分からないが、逮捕者が出ても驚くに値しない。選挙事務所ないしはTK元議員の政治事務所に家宅捜索がはいっても少しもおかしくはない。事件と明らかに無関係なものの差押えには抗議するとしても、「不当弾圧だ」と拳を上げる訳にはいかないだろう。ルール違反は、TK陣営の側にあるのだから。

同じことは、本件でも起こりうる。運動員買収罪の被疑者は、おそらく選対事務局長。被買収罪の被疑者は上原さんを含む29人。1万3000円をもらったアルバイト大学生は起訴猶予となったが、上原さんらが起訴猶予で済む保証はない。そして、強制捜査もありうる。宇都宮君の事務所への捜索もありうるのだ。

「大したことはない」では済まされないと認識しなければならない。宇都宮君の立候補を推薦するには、そのようなリスクを引き受ける覚悟が必要なことを知らねばならない。

次は、2010年7月30日の朝日の記事(抜粋)をご覧いただきたい。同じ参院選における民主党NK候補(民主)についての選挙違反報道記事。これは、宇都宮君自身の違反(容疑)に最も類似した事例。

「11日投開票された参院選の比例区に民主党公認で立候補し、落選したNK容疑者(65)=東京都 渋谷区=らが、経営する不動産会社「A」(同港区)の社員に選挙運動の報酬を約束したとして、警視庁は28日、NK容疑者を公選法違反(運動員買収)の疑いで逮捕したと発表した。
 捜査二課によると、NK容疑者らは公示日の6月24日ごろ、Aの社員7人に、電話で有権者に 投票を依頼することへの報酬として、通常の給与に相当する額の金を払う約束をした疑いがある。同容疑者は容疑を否認しているという。」

NK氏は、逮捕され、勾留され、起訴され、保釈され、保釈が取り消され…、とたいへんな経験をした挙げ句、一審有罪、二審有罪、最高裁まで争って有罪が確定した。もちろん弁護側にも言い分があった。しかし、懲役2年、執行猶予4年となった。なお、供与を約束された報酬金額は7人合計で70万2664円であった。平均して、ひとり当たり10万円ほど。

おそらく、この記事における犯罪容疑は、解説なしには理解できないのではないだろうか。NK氏は、自分が経営する会社の社員7人を自分の選挙の運動員として動員した。選挙運動をさせるからには、勤務実態を欠くことになって、会社からの給与は支払えない。もし支払えば、給与相当分の支払いが運動員買収金の授受となる。

だから、NK氏は、その7人を欠勤扱いにして、その分の給与の支払いをカットした。これだけなら、7人が敬愛する社長のために無償で選挙運動に参加したという美談がのこるだけで、公選法違反にはならない。

ところが、警察や検察の主張によれば、裏があった。表向きは無給としたが、実は、賃金カット分を補填する約束があったというのだ。「通常の給与に相当する額の金を払う約束をした疑いがある」というのは、そのような意味だ。結局はこの金は支払われなかったが、それでも「約束をした」ことで犯罪が成立する。NK氏は、「選挙運動報酬約束罪」で有罪となった。気の毒なのは7人の社員。約束があったとされた金はもらえず、対向犯としてこちらも犯罪(運動員被買収約束)が成立することになった。が、幸いにして起訴猶予処分となったようだ。命令されていやいややらざるを得ない立ち場であることが斟酌されたと思われる。社長のため、頑張って選挙運動をやるという姿勢で賃金補填の約束をしていたら、起訴されていたかも知れない。

本件では、候補者である宇都宮君がNK氏にあたる。東京市民法律事務所が 不動産会社「A」、法律事務所の事務員さんが「A」の社員に相当する。そして、NK氏事件と同様に、東京市民法律事務所の事務員さんが選対に派遣されて選挙運動を行っていた疑惑があるのだ。少なくとも、その外形的な事実は否定し得ない。これが典型的な候補者自身の運動員買収行為なのだ。

はたして、この疑惑を「大したことがない」と、有権者に説明できるだろうか。この疑惑に目をつぶって、政党が宇都宮君を推薦することができるだろうか。

宇都宮君は、都知事になったら徳洲会事件や猪瀬疑惑を追及するという。その言や良しである。共産党以外の都議会各党派は、猪瀬辞任と同時に百条委員会設置を断念した。はたして宇都宮君は、都民の世論を糾合して百条委員会再設置運動の先頭に立てるだろうか。おそらくは、自分の疑惑の火消しに汲々とするしかないことになるだろう。もしかしたら、自分自身の責任追及についての百条委員会の設置を覚悟しなければならない。

「そもそも澤藤が責任をもつべき立ち場であったにかかわらず、違法行為の指摘は怪しからん」というのは、批判者の気持として分からなくはない。しかし、内部告発ないしは公益通報者という者は、そのような批判を覚悟してものを言っている。「だまし討ち」以後、もう仲間内の議論は通じない。なによりも、問題は宇都宮君の公選法違反疑惑それ自体にあるのだ。けっして、その指摘にあるのではない。
だから、宇都宮君、立候補はおやめなさい。

なお、明日は、新たな「疑惑」について、言及したい。
(2014年1月4日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその14

のんびりと正月休みを楽しんでいるさなかに、複数の記者が我が家を訪ねてきた。私が携わっている「日の丸・君が代」問題や、消費者訴訟、医療過誤事件、あるいは改憲問題についての取材であれば喜んで時間を割きたいところ。が、都知事選についての取材ということで、お断りした。記者の熱意には頭が下がるが、都知事選について、ここしばらくは取材を受けるつもりはない。

私は、必要と考えた情報は、すべてこのブログに公表する。このブログに出ていない情報を個別の取材に応じて明らかにすることはない。少なくとも、今の時点ではその原則を貫く。だから記者さん、お越しいただいても電話をいただいても、このブログの内容以上に、お答えすることはございません。もし、記事を書かれるなら、ブログに記載の内容をできるだけ正確に引用していただくようにお願いします。

私は、原則として、宇都宮君再立候補問題については、このブログだけで発言をするが、唯一の例外が、1月19日午後1時30分からの「活憲左派集会」(文京シビックセンター3階会議室A)での10分間の特別発言。なお、当初は15分の予定だったが、吉田万三さんの発言も並ぶこととなって、私の持ち時間は10分間となった。私も万三さんも、質疑は受けつけないという事前のお約束。

マスコミの取材は受けないと決めた理由について、少し触れておきたい。

随行員としての任務外し事件のあと、私の息子・大河から上原公子選対本部長宛に、事件の経過の確認を求める「求釈明書」が何通か発信されている。その文中に、「一寸の虫にも五分の魂がある」というくだりがある。私はそれを読んで、誰を敵にまわそうとも、息子の側に立つことを決意した。

五分の魂を踏みにじられたとき、泣き寝入りしてはならない。人間の尊厳をかけて、叫び声をあげなければならない。また、傍観していてもならない。ましてや、それが自分の家族であればなおさらのこと。加害者が、国家権力であろうと、安倍自民であろうと、石原・猪瀬都政であろうと、ブラック企業であろうと、またブラック選対であろうとも、である。

私は、本件を「私怨・私憤」に過ぎないという見解や、「大所高所・大局」に立つべきだという、世に溢れる俗論を絶対に承服しない。それは、弱者に泣き寝入りを強いる強者の論理であり、いじめの被害者にすべての責任を転嫁するいじめる側の論理である。加害者と傍観者を、ともに免責し正当化する論理でもあるのだから。

しかし、国家権力や、ブラック企業を相手に声を上げる場合と、宇都宮選対を相手にする場合とでは、闘い方の違いはあろう。被害があったときには、多くの人に訴えかけて、加害者を糾弾する行動に立ち上がる仲間を作ることが闘いかたの基本だ。しかし、宇都宮君と宇都宮選対に対する「宣戦布告」では、単純にそうであってよいのかという問題の微妙さを意識せざるを得ない。私は、「たった1人の闘い」「筆1本(ブログだけを手段とした)だけの闘い」を決意した。この闘いに味方を募って誰をも巻き込むことをしない。闘う相手を拡げない。これを原則として大切にしたい。

だから、慎重に筆を自制したブログでの発信が、闘う手段として適当だと考えている。記者に挑発されて、うっかりと、「誰をも巻き込まない」「闘う相手を拡げない」原則を自ら破ることを恐れている。よほどの事情の変更がない限り、ブログ以外の場で、この件を語ることはない。

私を取材に訪れた記者は、当然に宇都宮君や選対関係者にも取材するだろう。私のブログもよくお読みいただき、是非、正確なよい記事を書いていただきたいと思う。

ところで、宇都宮君の方は、積極的に取材に応じているようだ。ネットで検索をしていたら、IWJの岩上安身さんが宇都宮君の立候補に関連したインタビューをしていることを知った。岩上安身さんは、そこで私のブログでの選対の選挙違反指摘を意識した質問をしている。要約として、次のようなやり取りがあったということだ。IWJのオフィシャルなテープ起こしではないようだが、複数のブログに掲載されているので、おそらくはほぼ正確なものと思う。

「問:熊谷さんの件について。有給休暇が取れるはずがないのに、実際取っていたのか?
答:本人に聞かないと分からないが、彼は仕事も一部やりながら、昼間は選挙運動、選挙始まるまでは、政治運動をやっていた。少なくても言われている様な事はない。彼は、仕事もちゃんとこなしながら、有給も使いながらやっていた。
「問:上原さんの件について。無給(ボランティア)でやるのが選挙であるが、上原さんにお金が支払われていた事が確認できる。これが公選法違反にあたるのではないか。
答:この点は実際に選対本部長をやられていて、その間の交通費などの実費の補填はしていたと聞いている。金額にして10万円。労務費になっていたが、収支報告書の訂正をする。
問:労務費は適正では無かったと。それは修正すると。
答:公選法違反については、公選法専門の弁護士団の公式見解をまとめて、来週の6日には発表出来る。そういう対応をしている。」

このインタビュー記事を見る限り、宇都宮君は私の指摘を無視せずに、何らかの対応が必要だという認識には至っているようだ。それは良しとして、次のことを指摘しておきたい。

「選挙運動収支報告書の訂正」をせざるを得なくなっている事態の深刻さの認識が決定的に不足しているのではないか。候補者が、自分の選対の公的な収支報告書の記載の不備を認めて訂正せざるを得ないと言っているのだ。そのみっともなさを自覚しなければならない。「訂正すればいいんだろう」「自分がやったことではない」という彼の姿勢が、遵法精神と責任感の欠如をよく表している。

実は、この問題は本来訂正になじむものではない。住所の記載の誤記訂正や、数字の書き間違いの訂正などとは自ずから異なる。上原公子選対本部長も服部泉出納責任者も、「選挙報酬として」と明記した自署押印のある領収証を作成して、各10万円を受けとっている。選挙収支報告書に、「選挙報酬として」と書けば、あまりに露骨な選挙違反(運動員買収)に当たるので、「労務者報酬」と記載したのだ。このカムフラージュは悪質と言わねばならない。指摘されて、書き直せば問題ないという感覚が、さらなる批判の対象となるだろう。

この選挙運動費用収支報告書には、平成24年12月28日付けで、「この報告書は公職選挙法の規定に従って作成したものであって、真実に相違ありません」という「出納責任者服部泉」の署名押印がある。訂正となれば、その責任が問われることになる。

書き直すとして、いったいどう書き直そうというのだろうか。支出区分を「選挙運動」として報酬を受けている者は29人にのぼる。そのすべてを書き直そうというのか。一部だけなのか。添付の領収証は間違ったものとして廃棄しようというのか。本来添付が必要な新規の領収証はどうしようというのか。

さらに、本当に実費分の支払いならよいのかという問題がある。宇都宮選挙には多くのボランティアが参加した。そのボランティアは手弁当・交通費その他の実費も自分持ちだった。誰もが、それを当たり前と思っていた。ところが、選挙運動に参加者の中の特定グループの人には、交通費その他の実費の支給がなされていたということなのだ。それで良いのだろうか。選対本部長の廉潔性が問われている。

宇都宮君自身の運動員買収問題や、熊谷事務局長の運動員被買収の問題について、「人にやさしい東京をつくる会」内部で具体的な指摘がなされたのは、選挙後2か月余経った2013年2月28日のこと。それから、10か月を経た時点で、明快な説明をすることができていない。「本人(熊谷事務局長)に聞かないと分からない」「公選法違反については、専門弁護士団の公式見解をまとめて、1月6日には発表出来る」ということなのだ。

私自身が弁護士で選対メンバーの一員として、選対のコンプライアンスに責任がなかったとは言わない。繰り返し申しあげているとおり、自らの不明や無能を恥じいるばかりだ。だが、どのように金が入り、どのように金が使われたか、その収支の管理にはまったくタッチしていない。具体的な報告に接することも皆無だった。選挙運動収支報告書の作成への弁護士の関与はまったくなかった。

改めて関係書類に目を通してみた。私が、上原公子選対本部長の選挙運動報酬受領を知ったのは、2013年4月11日のことである。私は、石原宏高の選挙違反を問題として、その選挙運動収支報告書を閲覧に都選管に足を運び、ついでに宇都宮陣営の報告書も閲覧して驚いた。これが発端。同日開示請求をして4月26日に写しを入手した。関係領収証については、別途6月3日に情報公開請求をして6月17日に開示決定を得、20日にその写しを入手している。

選対本部長が本来もらってはならない選挙報酬を労務者として受領していることは、「人にやさしい東京をつくる会」の代表である中山君には、一再ならず電話で伝えた。そして、中山君にも書類の閲覧を勧めた。もちろん、このことは中山君も知らなかった。同君が実際に収支報告書を閲覧したかどうかは知らない。

具体的に知らなかったとはいえ、私も責任を感じないわけにはいかない。宇都宮君も、候補者として責任を感じなければならない。私は今回選挙に関わらない。宇都宮君、君も立候補はおやめなさい。
(2014年1月3日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその13

正月。天気晴朗にして風が心地よい。海岸で凧揚げに興じた。中国・浙江省の製で大型のトビの形。青い空を背景に、翼を広げ風を切ってのびのびと宙を舞う、その姿がすがすがしい。今年、かくありたいものと思う。

さて、正月らしく、原則に戻ってものを考えてみたい。

宇都宮選対の一連の事件は、徹頭徹尾民主主義の問題なのだ。
事件の発端が問答無用の私の息子の任務外し。ここから始まった事件の結末が問答無用の私の解任劇。宇都宮君がどのようにとり繕おうとも、この事実は動かしがたい。いずれも問答無用で、うるさい組織への批判者を切って捨てたものだ。これが、宇都宮君とその選対の手口。これは、民主主義の許さざるところ。民主主義を大切に思う人なら、到底この事態を看過しえない。宇都宮君を革新陣営の共闘候補としてふさわしいとは、よもや考えまい。

民主主義とは、成員の話し合いに基づいて組織や集団の意思決定をする手続きだ。面倒ではあっても、話し合いが尽くされて後に初めて集団の方針が定まる。だから、民主主義社会においては、話し合いのための発言の自由が全成員に保障されなければならない。とりわけ、権限や権威を持つ者への批判の発言が保障されなければならない。うるさい批判者を組織から排除するなどは、民主主義を破壊する手口と指弾されなければならない。宇都宮君と宇都宮選対がやったことは、まさに民主主義破壊の行為なのだ。

民主主義成立の基礎となる話し合いを成立させることは、成員に自由な発言の権利を人権として認めることでもある。だから、民主主義社会においては、「言論の自由」が常に人権のカタログの筆頭に上げられる。宇都宮君と宇都宮選対は、この「言論の自由」を封殺したのだ。このような人物が、都知事選の候補者としてふさわしくないことは、自明ではないか。

宇都宮選対は、市民に開かれた市民選対を自称していた。閉鎖された部分社会ではなく、市民社会の共通ルールが妥当しなければならない。ここでは、民主主義も人権も、花開かなければならない。いわば、宇都宮君が当選した暁に実現すべき社会のモデルを、実験的に社会に示しているのだ。その選対の現実が、民主主義の破壊だった。宇都宮陣営の選挙公約である「四つの柱」は実に立派なものだ。しかし、宇都宮君と宇都宮選対は、この公約とは無縁な実態をさらけ出した。到底、再度の都知事選候補者たりえない。

宇都宮選対は、広くすべての市民に開かれたボランティア組織として出発したはず。「四つの柱」に賛同する市民が、その自発性に基づいて参加している。すべての参加者に、民主主義社会の原則のとおりに、対等平等な立ち場が保障されなければならない。ここには、支配・被支配、命令・服従、上意下達の関係はあり得ない。つまりは、権力という怪物が出て来る幕は本来的にないはずのだ。ところが、自分を権力者と錯覚した選対本部長や選対事務局長が、本来はあり得ない権力を振りかざした。ボランティア活動者に任務からの排除を「命令」したのだ。宇都宮君やその取り巻きはこれを是認した。宇都宮君も宇都宮選対も、民主主義の原則を弁えた行動をとることができなかった。市民選挙の主宰者としてふさわしくない。そのような人物を都知事選の候補者として認めることはできない。

宇都宮選対の選対本部長と事務局長とは、対等な一選挙運動参加者として振る舞わずに、「小さな権力者」として振る舞った。これがそもそもの間違いなのだ。わたしは、民主々義と権力の問題を考え続けてきた。民主々義は、所与の権力をコントロールする技術として語られることがあるが、けっしてそれにとどまらない。民主々義の手続原理は権力の存在を前提とせず、複数人間が共通の行動を決定するに際しての普遍的な原理として尊重されなければならない。そして、権力を形成する際には民主々義が最も有効に働かなければならない。平等な成員からの明示的な権力形成についての合意と、特定の者への権力の負託が必要なのだ。それなくして、権力の形成はあり得ない。

自律的な発意によって市民選対に参加した者が、選対本部長や事務局長に、明示的に権力を負託したなどということはありえない。役割の分担はあっても、あくまで提案と納得の関係でしかなく、問答無用の命令の権限などあるはずがない。選対本部長と事務局長の「権力」「命令権限」は、愚かな錯覚に過ぎない。

錯覚であろうとも、無法な実力に過ぎないものであろうとも、振りかざされた「小さな権力」に対しては、格別の批判の言論の権利が保障されなければならない。成員の「権力」に対する批判は、成員相互間の意見交換の自由とは別の次元の重要性を持ったものとして、意識的にその権利保障がなされなければならない。宇都宮君と宇都宮選対には、この理がわからない。「小さな権力」の横暴を許して、これに対する批判の言論を封殺したのだ。

「小さな権力」に対する批判が意識的に必要だという理由は二つある。一つは、批判を受けない権力は往々にして間違う。批判を受けない権力は間違いを是正できない。組織が、可及的に正しい方針を決定するためには「権力」に対する批判が不可欠なのだ。

もう一つは、成員の権力者批判は事実上困難だからだ。権力を持つ者が、ドスのきいた声で「おまえには批判の自由があるぞ。さあ、言ってみろ」と言われても、批判の発言ができるはずはない。権力を持つ者は、意識的に成員の批判に寛容でなくてはならない。これが、民主々義の大原則。

にもかかわらず、批判者を問答無用で切って捨てるこの宇都宮君や選対のやり方は、民主主義の原則を蹂躙することこの上ない。正確には、むちゃくちゃと言うほかはない。彼がしたことは、取り返しのつかない、言論封殺という、民主主義圧殺行為なのだ。

だから、もしあなたが「民主主義は大切だ」「民主主義は擁護に値する手続き原則だ」と思われるのなら、宇都宮君を支持してはならない。反対に、もしあなたが「民主主義のようなまだるっこい手続きは犬に食われてしまえ」「権力を批判する言論の自由なんぞを認めてしまっては、決められる政治が成り立たない」と言う立場であれば、話は別だ。宇都宮君を支持するがよかろう。

私たちは、保守陣営の言論封殺には血相を変えて批判をする。しかし、身内の言論封殺には甘くはないか。身近な集団における「小さな権力」の批判には臆病ではないだろうか。とりわけ、美辞麗句で持ち上げられた、「民主陣営」内の候補者について、批判をはばかる風潮がないだろうか。このダブルスタンダードは、結局のところ、より大きな権力に対する批判の矛先を鈍らせてしまう。

あなたも試されている。宇都宮君を推すことは、民主主義者の本来よくするところではない。日本国憲法を擁護する立ち場の人が、宇都宮君を推薦することはできない。宇都宮君は、よくよく反省の上、立候補をおやめになるがよかろう。
(2014年1月2日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその12

世の習いにしたがって、新年のご挨拶を申し上げます。
 明けましておめでとうございます。
 今年もどうぞよろしくお願いします。

とはいうものの、さして目出度い正月ではない。
特定秘密保護法、靖国神社参拝などで、大きな批判を受けて支持率を下げながらも、安倍自民の暴走は止まりそうにない。2月9日都知事選は、これに一矢報いるチャンスであるが、まだ宇都宮君は立候補断念に至ってはいないようだ。

本日の「しんぶん赤旗」7面に、大きく宇都宮君の紹介記事が掲載されている。その見出しを拾えば、「安倍政権の暴走ストップ」「暮らし第一清潔な都政に」「希望を持てる東京へ」そして、小さく「猪瀬疑惑の解明」となっている。赤旗自身の解説記事欄には、知事選の意義を「国の悪政の防波堤に」「福祉優先に転換を」とされている。

まことにそのとおりだ。諸手を挙げて大賛成。ぜひ、そのような選挙を闘い抜いて、そのスローガンが結実する都政の実現を心から願う。「安倍政権の暴走ストップ」を「石原後継の暴走ストップ」と書き換えさえすれば、前回選挙の私の思いそのままである。家族総出で宇都宮君を応援した。その結果が、猪瀬圧勝と宇都宮惨敗であった。それだけでなく、宇都宮君自身の「人にやさしくない」本性と、コンプライアンスの欠如を知った。

「安倍政権の暴走ストップ」は、私の心から願うところ。しかし、宇都宮君にはその力がない。単に選挙に勝つ見込みがないと言っているのではない。宇都宮君を候補者とした選挙では、その選挙を「安倍政権の暴走ストップ」の大きな運動とすることも、大きな運動のきっかけとすることもできない。

「暮らし第一清潔な都政に」も、誰もが願うこと。しかし、宇都宮君には、「清潔」を語る資格がない。君の道義性を欠いた汚い手口や、約束を反故にして平気な気質、そしてコンプライアンス欠如の姿勢には、目に余るものがある。むしろ、彼には大きなリスクがある。政党や市民団体が彼を推すことには、その大きなリスクを引き受けることの覚悟が必要だ。

再三申し上げているとおり、コンプライアンスの欠如には、宇都宮君だけでなく、選対に結集した各弁護士の責任も大きい。もちろん、私が責任を免れることもできない。自分の不明を恥じてお詫びする。そのうえで、私ができることは、こうして事実を明らかにして革新陣営の今後の選挙に警鐘を鳴らすこと、そして、私も含めて、前回選挙に深く関わったものは今回の選挙に関わるべきではないことを進言することだと思っている。

赤旗の記事の中には、党としての宇都宮君への支持表明の記事はない。慎重に避けている印象だ。前回宇都宮君支持を表明した政治勢力のうち、宇都宮君の支持を表明したものはない。よくお考えいただきたい。本当に、推すに値する候補者なのか。推して大丈夫な候補者なのかを。

問答無用で人を切るブラック選対である。問答無用でメンバーを騙し討ちにする「人にやさしい東京をつくる会」である。切られた痛みを訴える運動員の権利救済(名誉回復)を放置し、1年後に放り出した宇都宮君である。かれに、ブラック企業対策などできようか。弱者に優しい都政を期待できようか。宇都宮君と一緒に、ブラック企業批判など笑止の沙汰ではないか。

宇都宮陣営の選挙違反疑惑を自ら解明し摘発することのできない宇都宮君である。自分自身の選挙違反疑惑も抱えている。このような候補者と一緒に、「清潔な都政」を目指すというのは自己矛盾でしかない。「猪瀬疑惑」追及の以前に、「宇都宮疑惑」の追及の声があがるはず。宇都宮君には、徹底した猪瀬追及はできない。

本日の「毎日」社説が読み応えある。「民主主義という木 枝葉を豊かに茂らそう」というもの。その中の一節を引用する。

「民主主義とは、納得と合意を求める手続きだ。いつでも、誰でも、自由に意見を言える国。少数意見が、権柄ずくの政治に押しつぶされない国。それを大事にするのが、民主主義のまっとうさ、である。」

「『統治する側』が自分たちの『正義』に同調する人を味方とし、政府の政策に同意できない人を、反対派のレッテルを貼って排除するようなら、そんな国は一見『強い国』に見えて、実はもろくて弱い、やせ細った国だ。」

ここでは「国」が語られているが、あらゆる組織、あらゆる集団にあてはまる。私は、この社説の「統治する側」を「宇都宮君とその選対」に置き換えて読み込んで、我が意を得たりと、新春の笑みをこぼしている。

2014年の年頭。新しい時代を切り拓きたいと思う。なによりも、個の確立が必要だ。特定秘密保護法反対運動の中で確認したはずだ。束ねられた国民が国の主人公ではない。一人ひとりの個人こそが、民主主義政治過程の主人公だ。「政策に同意できない人を、反対派のレッテルを貼って排除するようなら」、それは民主々義の風上にも置けない。

宇都宮君、君は敢えてそれをやってのけた。しかも、騙し討ちの手口で、だ。だから君は、革新統一の候補者としてふさわしくない。

だから、ご忠告申し上げる。宇都宮君、都知事選への立候補はおやめなさい。
(2014年1月1日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさい?その11

大晦日である。4月1日に開設した当ブログ「憲法日記」は、1日の休載もなく年を越すこととなった。引越前の日民協ホームページ間借り時代の3か月間と併せて、この1年、それなりの水準の、「読んでいただくに値するもの」を書き続けてきたつもりだ。ひとえに、昨年総選挙の「自民圧勝」に危機感を覚えての、私なりに精いっぱいの改憲阻止の意思表示であり、運動への参加である。

「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」シリーズは、そのうちのわずか11回に過ぎない。とはいえ、私の渾身の覚悟の表現である。私は、このシリーズでこれまで「憲法日記」に綴ってきた問題意識と無縁の些事を発言しているのではない。宇都宮君や選対メンバーだけに呼び掛けている訳でもない。憲法の理念を実現するための実践はどうあるべきかを考え訴えている。そして、宇都宮君が一日も早く立候補を断念して、もっと適格な革新統一の候補選定が進行することを願ってやまない。

今年を締めくくる今日、宇都宮君に立候補断念を求める理由と、私が宇都宮君に立候補断念を呼び掛ける意味についてこれまで述べてきたことを整理しておきたい。新たな事実の摘示や本格的な意見の叙述は新年にまわすことにする。当然のことながら、「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」シリーズは、同君の立候補断念の確認まで、年を越しても続くことになる。

彼が、今回の都知事選に、革新統一(あるいは革新共闘)候補者としてふさわしくない理由を4点にまとめて確認しておく。

(1)宇都宮君は都知事選候補者としての資質・能力に著しく欠け、まったく勝ち目のない候補者である。
(2)宇都宮君は、弱者の立場に寄り添おうという誠実さに欠けている。だから、「勝てないとしても推すべき候補」との評価もなしえない。
(3)彼は、薄汚い「騙し討ち」の姑息な手口を辞さない。清廉潔白、正々堂々でなくてはならない革新統一候補者として、ふさわしくない。
(4)前回選挙において、彼と彼の取り巻きのした行為には公職選挙法違反の違法(犯罪行為)の疑惑があって推薦者にも責任が及ぶことになる。

(1) 前回の96万余票の宇都宮君の得票を「善戦」と評価する向きがあるが、正確に「大敗」「惨敗」と言わねばならない。共闘候補としての相乗効果をまったく生かせず、支持政党の基礎票の合計数さえ得票できなかった原因には、候補者の選択の誤りが大きかった。彼には、有権者を惹きつける魅力がない。論争力もない。しかも、前回惨敗のイメージが余りに強い。勝てる見込みがないというレベルではなく、およそ最初から勝負にならないことが分かりきった候補者なのだ。どんな立派な政策を旗印にしたところで、陣営の勢いも元気も出るはずがない。
 今、本気で彼を素晴らしい候補者だとは言う者はさすがに見あたらない。しかし、「彼しか立候補者がいないのだからしょうがない」「立つことを決めたら推すしかないだろう」という雰囲気。そんな候補者でよいのか。しかも、彼の立候補の不自然な唐突さは、他の革新陣営からの立候補者選任の動きに先手を打って、牽制する形で行われている。到底、宇都宮君が革新統一の候補者として適格であるはずがない。

(2) 宇都宮君は、弱者の立場に寄り添おうという誠実さに欠けている。そもそも彼を人権派弁護士と呼ぶべきではない。だから、「勝てないとしても推すべき候補」との評価もなしえない。
弱者の側から権利侵害の訴えがあったときには、まず「被害者」の側に寄り添って、その言い分に十分に耳を傾けなければならない。それが人権派たる者の基本姿勢。そのうえで、「加害者」の側の言い分を批判的に検討して、解決策を探らなければならない。前回選挙の最終盤で生じた、二人のボランティア運動員に対する「随行員任務外し」の訴えには、真摯に耳を傾けるべきが当然であった。しかし、宇都宮君は、その訴えを真摯に聞こうとはしなかった。「せめて企業に不祥事があった際に設けられる第三者委員会なみの、公正な三面構造を作って自分たちの訴えを聞いて欲しい」という当事者の要求すら、彼は斥けた。そして、公衆の面前で「このまま放置しません。何とかします」と約束しながら、結局問題を1年間放置して何の解決もせずに放り出した。
彼は、「二人を切ったのは選対がやったことで、自分は知らない」という姿勢のようだが、自分の選対だという自覚に欠ける。また、事後の権利救済(名誉回復)の訴えには解決を約束し、責任をもつ立ち場にあった。彼も、「秘書が」「妻が」「事務局長が」と言い逃れする人物と同列なのだろうか。

(3) 12月19日の夕方に20日午後9時からの会議を設定して、議題は伏せておいて、口裏を合わせた運営会議メンバーによって、事実上の澤藤解任決議の「騙し討ち」をしたことは、既に詳細にお知らせした。これに対する各自の評価において倫理性が問われている。こんな道義に欠けた候補者を推薦できるのだろうか。
彼がやってのけた薄汚い「騙し討ち」の姑息な手口は、清廉潔白、正々堂々でなくてはならない革新統一候補者として、まったくふさわしくない。道義性に問題のある候補者の推薦は、推薦する政党・政治勢力・市民団体、各個人の責任を生じる。推薦者自身の道義性が問われることになる。

(4) 前回選挙において、彼と彼の取り巻きのした行為には下記の公職選挙法違反の違法(犯罪行為)の疑惑がある。仮に彼が当選した場合には、今度こそ百条委員会が成立して、その追及の場で脂汗をかかなければならない危険な立ち場にある。このような疑惑を抱えた候補者を、天下の公党や、まっとうな労組、民主団体が責任をもって推薦できるだろうか。
その1は、宇都宮君自身の「運動員買収」疑惑。具体的内容は、自分が経営する法律事務所の事務職員を選対に派遣して給与を支給しながら選挙運動をさせた行為の違法の疑惑。
その2は、総括責任者(おそらくは選対事務局長)の選対本部長ら選挙運動員に対する「運動員買収」と、選対本部長ら選挙運動員の「被買収」疑惑。これは、外形的には選挙運動収支報告書と添付の領収書で明らかとなっている。
その3は、選対事務局長が勤務先からの給与を受領しながら、選挙運動を行っていた運動員「被買収」疑惑。
今回宇都宮候補を推薦する団体・個人にとっては、候補者や選対の違法行為の疑惑の存在は、決定的な推薦障害事由となるはず。道義的に問題というだけでなく、このような違法の疑惑を具体的に指摘されてなお推薦すれば、推薦者自身の有権者への責任が生じることになる。そのようなリスクを引き受けてでも宇都宮君を推薦する必要があるとは到底考えがたい。
宇都宮君は、その2、その3の疑惑については、「自分は知らない」、「事務局長が…」「選対本部長が…」というのだろうか。それも、みっともない話しだが、その1の疑惑については他に転嫁しての言い逃れはできない。

ところで、私の覚悟のブログに対して、理解を示してくれる人が多数いることはまことに心強い。しかし、予想されたとおりに批判の意見も当然にある。私は、その批判の意見を一蹴しようとは思わない。真剣に議論するに値する問題点を含んでいると思う。

まず、批判のパターンとして「大所・高所」論がある。「随行員の任務外しなど、大したことではない。もっと大所高所に立って、革新統一の選挙の成功に尽力すべきだ」というもの。

「大所・高所」論とは、弱者の権利救済をネグレクトし、泣き寝入りを強いることを合理化する論理だと私は思う。将の論理であって、兵の論理ではない。体制の側の論理であって、弱者の側の論理ではない。「大所高所」論には、個別の権利侵害に対する怒りで対抗しなければならないと思う。

よく似たものに、「利敵行為論」がある。「そんな内輪の争いをしていると、保守派に漁夫の利を得しめることになる」というもの。
不思議なことに、こんなことを口にする人々は、権利侵害をした「加害者側」にはものを言わない。必ず、弱い立場の「被害者」側に向かって、泣き寝入りを強いるのだ。これにも、反論しなければならないと思う。なによりも、「争い」という捉え方が間違っている。問題は、「争いがあること」ではない。「権利侵害があったのかどうか」なのだ。

「宇都宮君が立候補決意までの批判ならよい。しかし、立候補を決めたからには、もう批判をよして、彼を推すべきだ」という立論もあるようだ。これは、開戦以前のインターナショナリズムが、開戦とともにナショナリズムに転向した、あの敗北の思想だ。非常事態だからという「大政翼賛思想」でもある。また、自民党改憲草案にある「緊急事態には人権制約もやむを得ない」という、あの挙国一致の論理だ。

とにもかくにも「共闘の形を大切にしよう」という立論もあるようだ。弱者の権利侵害の訴えに耳を傾けようとしない候補者を推しての「共闘」に、何の価値があるというのだろうか。内実を伴わない形だけの共闘は、将来に繋がるものはない。

さらに、「私怨論」というべき批判がある。私が、自分の息子のことだから、怒っているのだという指摘だが、これが「批判」になり得ているのだろうか。不当な権利侵害があれば、被害者側に「私怨」「私憤」が生じるのは当然だ。「私怨」論は、傍観者の自己正当化の理屈でしかないだろう。「大所高所」論に対応するには、「私怨」「私憤」重視論である。私は、人権侵害を批判するには、被害者の「私怨」「私憤」に共感する感性が必要だと思う。これについては、自分でも考えを整理しつつ、おいおい記事にしてみたい。

これまでも繰り返したとおり、私の関心は「個の確立」と「個の確立を阻むもの」との対立構造とその克服にある。個の確立の敵は、国家権力だけではない。多重の階層をなしている集団、あるいはその多数派も個を圧迫する。その各階層の各集団に成立する「小さな権力」への抵抗なくしては、個の確立はない。

詳細は、越年してからのものとしたい。このブログの「おやめなさいシリーズ」は、まだまだ続く。だから、宇都宮君、都知事選への立候補はおやめなさい。
(2013/12/31)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその10

宇都宮君と「人にやさしい東京をつくる会」のだまし討ちでみごとに討ち取られ、リベンジの「宣戦布告」をしてから10日が経った。「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」のシリーズも、今日が「その10」である。

私は、10日前に、「自ら反みて直くんば、千万人と雖も吾往かん」(孟子)という、やや高揚した気分でルビコンを渡った。これまで付き合ってきた仲間からの孤立無援も、あるいは袋叩きも覚悟したうえでのこと。しかし、10日経って、「ルビコン」の対岸の景色もさして変わらぬことを知って、少し大袈裟だったかと苦笑している。

私がこのような形で、ルビコンを渡る決断をしたについては、河添誠さん(首都圏青年ユニオン)の発言に負うところが大きい。

彼は、12月20日の、だまし討ち決議をした会議の席(「人にやさしい東京をつくる会・運営会議」)で、私にこう言っている。
「澤藤さん、あなたはいいよ。しかし、息子さんのことを本当に考えたことがあるのか。これから先、運動の世界で生きていこうと思ったら、そんなこと(会と宇都宮君の責任の徹底追及)をやってどうなると思う。よく考えた方が良い」

「それは恫喝か」「いや忠告です」「君がそのように言えば、君の人格が、君の言葉を恫喝にしてしまう。私には恫喝としか聞こえない」。これが最後の会話。私は、このときに、ルビコンを渡らねばならないと決意した。

河添誠さんの類似の発言は以前にもあった。総合して、彼の発言内容を、私はこう忖度した。
「ここに出席している運営会議のメンバーは、みんなそれぞれの革新的な政党や政治勢力あるいは民主運動、さらには民主的なメディアまでを背負っているのだ。その大きな革新・リベラル勢力の結集体として、『やさしい会』があり、宇都宮選対がある。この会や選対に刃向かった場合には、革新・リベラル勢力全体を敵に回すことになる。そうすれば、あなたもあなたの息子も、この世界では大手を振っての活動できなくなる。あなたは老い先短いから、もう活動ができなくなってもよかろうが、将来ある身のあなたの息子さんについてはそれでよいとは言えないはずだ。息子のためを思って、会に刃向かうような愚かなことをしない方が良い。それでも、やるというなら、こちらも総力をあげて対抗して、思い知らせてやることになる」

発言者は河添誠さんただひとり。しかし、その場で彼をたしなめる者はなかった。私が感得したのは、議長を務めた宇都宮君を初めとするその他の出席者全員の暗黙の了解。そうか、そんな「会」なら、そんな宇都宮選対なら、私も覚悟を固めて徹底してやらなければならない。腰の引けていた私だったが、ようやくこれで決意ができた。はやり言葉で言えば、このときにようやく「倍返し」を決意した。

宇都宮君は、12月28日の「出馬意向表明記者会見」で、「今度はリベンジだ。倍返しで200万票を目指す」と言ったと聞く。しかし、倍返しの使い方を完全に間違えている。ドラマ「半沢直樹」が視聴率を上げ「社会現象」にまでなったのは、企業社会において不当な圧力に忍従を強いられているサラリーマン階層の共感を得たからだ。「倍返し」とは、サラリーマンだけでなく、この社会で不合理に鬱屈している弱者が夢みる、空想の抵抗の構図。こうあって欲しいというその願望の結実なのだ。だから、「倍返し」「リベンジ」を君が口にするとしらける。私こそ、君に、いや君が象徴した「運動の世界の不合理」に、「倍返しでリベンジ」をしなければならない。

従業員の人間としての矜持を圧殺するのがブラック企業だ。その伝で言えば、ブラック官庁、ブラック病院、ブラック学校、ブラック教室…、至るところにブラック集団がある。宇都宮選対はブラック選対であり、さしずめ悪口雑言を得意とする河添誠さんはその労務担当という役回りだった。

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私は、騙し討ちは嫌いだ。騙し討ちされるのが不愉快極まることは当然として、騙し討ちすることも性に合わない。私が、このブログで述べていることは、突然に言い始めたことではなく、事前に宇都宮君や選対メンバーには伝えてあることばかり。とりわけ、会の代表である中山武敏君には、電話で何度も伝えている。しかし、結局は、彼らが私の指摘を重大視することなく、何の対応をすることもなかった。

昨日お伝えした宇都宮君自身の選挙違反(運動員買収)の事実については、選挙が終わってしばらく、私は知らなかった。このことを私が知ったのは、岩波書店と熊谷伸一郎選対事務局長との関係を問題にしようとした際に、偶然宇都宮君自身から聞かされてのこと。

今年の2月のある夜。宇都宮君の法律事務所の一室で、会合があった。その席上、私は、熊谷伸一郎(岩波書店従業員)事務局長に質問した。

「あなたは、1か月も選対に詰めていたが、岩波からは有給休暇を取っていたのか」

既にこの頃は、私と他のメンバーとの亀裂は大きくなっていた。彼は、警戒してすぐには回答しようとしなかった。
「どうして、そんなことを聞くんですか」

私は、こう言った。
「たとえば、東電が自分の社員を猪瀬陣営の選挙運動に派遣して働かせたとする。有給休暇を取っての純粋なボランティアならともかく、給料を支払っての派遣であれば、まさに企業ぐるみ選挙。私たちは黙っていないだろう。それが味方の陣営であれば、あるいは岩波であれば許されると言うことにはならない」

このとき血相を変えんばかりの勢いで私を制したのが、高田健(許すな!憲法改悪・市民連絡会)さん。
「澤藤さん、そんなことを言うものじゃない。岩波と熊谷さんには、私たちがお願いして事務局長を引き受けてもらったんじゃないですか。その辺のところは、澤藤さんもご承知のはず。今ごろそんなことを言っちゃいけない」

助け船に勢いを得て、熊谷伸一郎事務局長(岩波)は「大丈夫ですよ。私は有給休暇をとっていましたから。それに、ウチはフレックス制ですから」と言っている。

思いがけずに、このとき続いて宇都宮君が発言した。その発言内容を明確に記憶している。
「えー澤藤さん。岩波が問題なら、ボクだっておんなじだ。ボクも、事務所の事務員を選対に派遣して選挙運動をお願いしたんだから」

これには驚いた。本当は、続けて発問したかった。いったい何人を派遣した? 誰を? いつからいつまで? 選挙運動って具体的にどんな仕事だったの? 賃金はいくら払ったの? 勤怠管理はどうしたの?…。しかし、制されて私は黙った。これ以上、彼らを刺激したら、大河(わたしの息子)と、とばっちりを受けたTさんの権利救済(名誉回復)の道は途絶えてしまうと考えてしまったからだ。

もちろん、私は、岩波書店従業員の熊谷伸一郎事務局長が、有給休暇をとって選挙運動にボランティアとして参加したとは考えていない。入社3年目の従業員が、あの時期にまるまる1か月の有給休暇が取れたはずはないからだ。また、彼が、真に有給休暇をとっていたとすれば、フレックス制に言及する必要はない。自ら有給休暇を取ってはいなかったことを自白したに等しい。なお、請負制の個人業者であればともかく、フレックスタイム制の従業員であったことが、公職選挙法違反を免責することにはならない。岡本厚岩波書店現社長も、選対メンバーのひとりである。熊谷伸一郎事務局長に便宜が図られたのであろうと考えている。

以上の経過のとおり、宇都宮君の選挙違反の事実は、彼自身の口から語られたもの。おそらくは、違法性の意識はなかったのだろう。しかし、この件での違法性の意識の欠如が故意の欠缺の理由にも責任阻却事由ともならない。犯罪の成立には何の影響も及ぼさない。

また、違法性の意識の可能性の存在は否定のしようもなく、疑うべくもない。宇都宮君は法律家だし、日弁連の会長までした身だ。法律を知りませんでした、というみっともない言い訳が通用するはずもない。

しかも、宇都宮君、君は革新統一の要の立場に立とうとしている。そのためには、極めて高い水準でのコンプライアンスの徹底が求められるのだ。君は既にその資格を失っている。

なによりも私は、選挙運動に派遣された君の法律事務所の事務員の方を気の毒に思う。君は、きちんと謝罪をしただろうか。彼/彼女らは、君の指示に従うしか術のない弱い立ち場だ。君は、その人たちに公選法違反の行為を指示したのだ。事務員の方には、君の指示を拒否する期待可能性がなく、犯罪が成立することにはならないだろう。また、捜査機関の君に対する訴追の可能性はともかく、事務員の方たちに及ぶ現実性はない。是非、そう説明してあげていただきたい。わたしの息子に対してしたような「忘恩」の態度ではなく、人への優しさを示していただきたい。

君が、再びの立候補をすれば、問題は再燃する。いろんな人に迷惑がかかる。それだけでなく、君の廉潔性の欠如は、到底革新統一候補にふさわしくない。だから、宇都宮健児君、都知事選への立候補はおやめなさい。
(2013年12月30日)
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「宇都宮君立候補をおやめなさい」の件に関して、宇都宮君の立候補断念を確認するまで、私はこのブログだけで発言を続ける。ブログ以外の場所で発言するつもりはない。
今のところ、唯一の例外が下記の集会。主催者の強い要請があって、15分間時間厳守の「特別発言」をすることになった。これも、主催者の要請があって、当ブログに企画の広告を掲載する。
                    記
「活憲左派の共同行動をめざす会」発足記念集会
時 2014年1月19日午後1時30分開会
所 文京シビックセンター(後楽園)3階 A会議室

記念講演:伊藤誠さん  「日本経済はどうなるか?」
特別発言:澤藤統一郎 15分
参加費  700円

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