澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

都教委は、国連機関からの複数勧告を真摯に受けとめ、「10・23通達」を撤回せよ。

(2022年11月16日)
 東京都内の公立校教職員のすべてが、卒業式や入学式において、国歌斉唱の式次第の際には、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」という職務命令を受ける。違反者には懲戒処分が科せられる。懲戒処分には、諸々の不利益が附随して生じる。個人の尊厳や自由、多様な考え方の尊重を軽視し、国家が重要で愛国心を育む教育が重要とする、時代錯誤の教育を象徴する風景である。

 もちろん、昔からこうであったわけではない。とりわけ、都立高校は、「都立の自由」を誇っていた。卒業式には、日の丸も君が代もなかった。ごく一部の「ヘンな校長」が、式次第に「国歌斉唱」を盛り込むことはあっても、大部分の教職員が起立斉唱をすることはなかった。強制などは思いもよらぬこと。

 この事態を一変させたのが、「10・23通達」である。日の丸・君が代に対する起立斉唱を強制し、違反者には懲戒処分を科すとするもの。これを強行したのは、右翼にして国家主義者の、石原慎太郎という知事だった。石原は既に亡い。しかし、「10・23通達」は生き続けて今日に至っている。何とかして、東京都の教育に自由を取り戻さねばならない。

 その手立ての一つとして、国際機関への訴えが、今、功を奏しつつある。国連の機関が、人権後進国の日本に「日の丸・君が代強制」の是正を勧告しているのだ。

 一昨日(11月14日)の午後、《「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議》と、《アイム’89東京教育労働者組合》は、合同で東京都教育委員会(教育長)に申し入れを行う機会を得た。冒頭に、私が以下のように申し入れの趣旨を述べた。

 「セアート第14会期最終報告」ならびに「自由権規約委員会第7回 対日審査総括所見」に基づく申入を行います。

 まず、「申し入れの趣旨」を申しあげます。
 「東京都教育委員会は、国際機関の是正勧告を真摯に受け止め、直ちに10・23通達を廃し、国歌の起立斉唱の強制をやめることを求めます」

 「申し入れの理由」をお聞きいただきたい。
 教員に対する国歌起立斉唱の強制に対し、2つの国際機関が是正を求める勧告を行っています。いずれも、形式上は国に対する勧告ですが、実質は都教委宛のものです。都教委が、国際機関から、叱責を受けているのです。

 セアート(ILO/ュネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会)第13会期最終報告は、東京都で教員に対して行われている国旗の起立斉唱の強制が市民的権利を侵害しているとして、是正を求める勧告を行った。これに対し、日本政府及び東京都教育委員会は、是正をしないまま、起立斉唱の強制を続けている。

 セアートは2021年10月第14回委員会において、再度の勧告を行うことを採択し、2022年6月にはILOがこの勧告を承認・公表した。

 セアートは、第14会期最終報告において、「加盟国が全員一致で採択した規範的文書という地位は、1966年勧告に重要な政治的道徳的迫力を与えている。」とし、教員の地位勧告の重要性を示している。そして、加盟国でありながら、国歌起立斉唱の強制を是正しない日本政府に対し、強制の是正に向けた具体的措置をとることを求めたのです。

 さらに、11月3日には国連自由権規約委員会第7回対日審査総括所見が出されています。
  「締約国(日本)は、思想及び良心の自由の効果的な行使を保障し、また、規約第18条により許容される、限定的に解釈される制限事由を超えて当該自由を制限することのあるいかなる行動も控えるべきである。締約国は、自国の法令及び実務を規約第18条に適合させるべきである。」と明言しています。

 その過程の2022年10月14日自由権規約第7回審査において、スペインのゴメス委員から日本政府代表に、要旨以下の質問が出されています。
  「2003年以降、東京都教育委員会は毎年都立学校の教員が国旗掲揚の際、起立し国歌を斉唱することを通達している。起立斉唱しなかった484人の教員に対して処罰が科される。 規約18条で保障されている思想・良心の自由とどのような整合性があるのか伺いたい。」

 以上のとおり、東京都教育委員会が行っている、国旗起立国歌斉唱の強制について2つの国際機関から3度の是正勧告が出されています。東京都教育委員会は、これらの国際勧告を真摯に受け止め、直ちに10・23通達を廃し、国歌の起立斉唱の強制をやめなければなりません。そのことを厳重に申し入れます。

国連人権委員会、学校行事における「日の丸・君が代」強制に是正勧告!

(2022年11月4日)
 セアート(ILO-UNESCO合同専門家委員会)に続いて、国連人権委員会も、学校行事における国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の是正勧告を出した。これは、画期的なことである。

 各国の人権状況を審査している国連人権委員会(United Nations Human Rights Committee 「自由権規約委員会」とも呼ばれる)が、定期審査の結果を踏まえての各国に対する「最終見解」(勧告)を公表している。日本政府に対しては、昨日(11月3日)付けでの勧告が出されている。話題になっているのは、もっぱら入管行政の非人道性への指摘であるが、勧告は多方面にわたっている。あらためて、我が国の人権後進性を嘆かざるを得ない。もっとも、下には下があり、中国やロシア、北朝鮮などよりはずっとマシではあるのだが…。

 多方面にわたる日本の人権侵害状況の問題の中に、学校儀式における国旗国歌への敬意表明強制がきちんとしたかたちで取りあげられている。この勧告獲得に努力を重ねてきた関係者が歓声を上げている。世界には、真っ当な意見が通じるのだ。

 日本も批准している国際自由権規約(B規約)18条には、思想・良心・信教の自由の保障が明記されている。その保障された自由の制約を合理化する事由は、厳格に制限されている。

 この点について、勧告は、国旗国歌強制の人権侵害を問題視して、「許容されうる厳格な制限を超えて、思想良心の自由を制約しうるあらゆる行為を中止しなければならない」とする。さらに、「また、締約国は自国の法律及び運用を規約18条に適合するものとしなければならない」と明言している。愛国心を煽る日本の教育行政のみならず、最高最判例も、国連人権委員会から、「国際基準を遵守せよ」とその姿勢の転換を迫られているのだ。これは、大事件ではないか。

 国連人権委員会は、国連総会で採択された「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(自由権規約)28条に基づき、同規約の実施を監督するために設置され、1976年から活動を開始している。4年任期の18名の委員から構成され、通常年に3回、3週間ずつの会期を開く。規約締約各国は、規約第40条に基づき、5年ごとに同委員会へ定期報告書を提出する義務がある。委員会はこの各政府からの報告書と各国のNGOからのカウンター意見を踏まえて、規約の履行状況、即ちその国の人権状況を審査する。その上で各締約国に対し「最終見解」と題する文書により、懸念事項及び勧告を提示する。今回の日本国政府に対する「最終見解」は、7回目となる。

 ところで、自由権規約第18条【思想・良心及び宗教の自由(Article 18)は以下のとおりである。

 「すべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有する。この権利には、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由並びに、単独で又は他の者と共同して及び公に又は私的に、礼拝、 儀式、行事及び教導によつてその宗教又は信念を表明する自由を含む。
 何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。
 宗教又は信念を表明する自由については、法律で定める制限であつて公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課することができる。」

 これを踏まえた、今回の「最終見解」第38・39パラグラフの仮訳は以下のとおりである。

第38項 委員会は、締約国において思想・良心の自由が制約されているとの報告に憂慮の意を表明する。また、学校儀式において、教員が国旗に向かって起立し国歌を斉唱しないという、式を妨害することのない消極的な行為によって、最長6ヵ月の停職処分を受けた教員もいることを憂慮している。さらに委員会は、式典の間、生徒学生らを強制的に起立させているという報告に憂慮している。(18条)

第39項 締約国は、本件規約18条に従って、思想及び良心の自由の行使を十分に保障し、許容されうる厳格な制限を超えて、思想良心の自由の制約となるあらゆる行為を控えなければならない。また、締約国は自国の法令及び運用を規約18条に適合するものとしなければならない。

  1. The Committee notes with concern the reports of restrictions of freedom of thoughtand conscience in the State party. It is concerned that as a result of passive, non-disruptiveacts of non-compliance of teachers to stand and face the flag and sing the national anthem atschool ceremonies, some have received punishment of up to six months suspension of duties.
    Furthermore, the Committee is concerned of the alleged application of force to compel
    students to stand during ceremonies (art. 18).
  2. The State party should guarantee the effective exercise of freedom of thought and conscience and refrain from any action that may restrict it beyond the narrowly
    17 CCPR/C/JPN/CO/6, para. 23.
    CCPR/C/JPN/CO/7
    construed restrictions permitted under article 18 of the Covenant. It should bring its legislation and practices into conformity with article 18 of the Covenant.

本日は悪名高き「10・23通達」発出の日

(2022年10月23日)
 本日は、私にとっての特別な日。いや私だけではなく、憲法や人権や真っ当な教育を考える人々にとって、忘れてはならない忌まわしい日。毎年、この日がめぐってくると、当時の自分の記憶をあらため、闘う気持ちを新たにする。

 19年前のこの日、東京都教育委員会が「日の丸・君が代」の強制を教育現場に持ち込んだ。悪名高い「10・23通達」の発出である。東京都教育委員会とは、石原慎太郎教育委員会と言って間違いない。この通達は、極右の政治家による国家主義的教育介入なのだ。以来、卒業式・入学式などの学校儀式における国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明が全教職員に強制されて現在に至っている。

 「10・23通達」の形式は、東京都内の公立校の全ての校長に宛てた命令である。各校長に所管の教職員に対して、入学式・卒業式等の儀式的行事において、「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」よう職務命令を発令せよ、職務命令違反には処分がともなうことを周知徹底せよ、というものである。実質的に、知事が校長を介して、都内の全公立校の教職員に起立斉唱命令を発したに等しい。この事態は、教育法体系が想定するところではない。

 あの当時、元気だった次弟の言葉を思い出す。「都民がアホや。石原慎太郎なんかを知事にするからや。石原に投票するセンスが信じられん」。そりゃそのとおりだ。私もそう思った。こんなバカげたことは石原慎太郎が知事なればこその事態、石原が知事の座から去れば、「10・23通達」は撤回されるだろう、としか考えられなかった。

 しかし、今や石原慎太郎は知事の座になく、悪名高い横山洋吉教育長もその任にない。石原の盟友として当時の教育委員を務めた米長邦雄や鳥海巌は他界した。当時の教育委員は内舘牧子を最後にすべて入れ替わっている。教育庁(教育委員会事務局)の幹部職員も一人として、当時の在籍者はない。しかし、「10・23通達」は亡霊の如く、いまだにその存在を誇示し続け、教育現場を支配している。

 この間、いくつもの訴訟が提起され、「10・23通達」ないしはこれに基づく職務命令の効力、職務命令違反を理由とする懲戒処分の違法性が争われてきた。この訴えを受けた最高裁が、
 秩序ではなく人権の側に立っていれば、
 国家ではなく個人の尊厳を尊重すれば、
 教育に対する行政権力の介入を許さないとする立場を貫けば、
 思想・良心・信教の自由こそが近代憲法の根源的価値だと理解してくれさえすれば、
 真面目な教員の教員としての良心を鞭打ってはならないと考えさえすれば、
 そして、憲法学の教科書が教える厳格な人権制約の理論を実践さえすれば、
「10・23通達」違憲の判決を出していたはずなのだ。
そうすれば、東京の教育現場は、今のように沈滞したものとなってはいなかった。まったく様相を異にし、活気ある教育現場となっていたはずなのだ。

 19年目の10月23日となった本日、関係17団体の共催で、恒例の「学校に自由と人権を!10・23集会」が開催された。メインの企画は、小澤隆一さんの講演「憲法9条の危機に抗して」。教育の危機は、戦争の危機につながるのだ。本日の私の気持ちを、下記の集会アピールが代弁してくれている。

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?10・23通達発出から19年にあたって? 
 「学校に自由と人権を!10・23集会」アピール

 東京都教育委員会(都教委)が卒業式・入学式などで「日の丸・君が代」を強制する10・23通達(2003年)を発出してから19年経ちました。これまで「君が代」斉唱時の不起立・不伴奏等を理由に延べ484名もの教職員が処分されています。10・23通達と前代未聞の大量処分は、東京の異常な教育行政の象徴です。

 小池都放下で都教委は、卒入学式で不起立を理由とした処分の強行などこれまでの命令と処分の権力的教育行政を続けています。新型コロナ感染拡大の最中の今年の卒業式は、昨年に続き、式を短縮しても、式次第に「国歌斉唱」を入れ生徒・教職員を起立させ、CDで「君が代」を大音量で流し、「起立」を命じ、まさに「君が代」のための卒業式という異常さが改めて浮き彫りになりました。
 岸田政権は、安倍・菅政権を継承し、参議院選挙の結果を受けて、憲法改悪の動きを一層加速し、ロシアのウクライナ侵略に便乗し、敵基地攻撃能力の保有、防衛費2倍化の検討など「戦争する国」へと暴走しています。何としても憲法改悪を止めるために、草の根から、大きな闘いを構築しなければなりません。
 また、小中学校の「道徳」の教科化、高校の科目「公共」、教科書の記述への露骨な政治介入等、教育の政治支配と愛国心教育による「お国のために命を投げ出す」子どもづくりが狙われています。

 最高裁判決は、職務命令は思想・良心の自由を「間接的に制約」するが「違憲とはいえない」として戒告処分を容認する一方、減給処分・停職処分を取り消し、機械的な累積加重処分に歯止めをかけました。
 一連の最高裁判決とその後の確定した東京地裁・東京高裁の判決により、10・23通達関連裁判の処分取り消しの総数は、77件・66名にのぼります。

 これまで都教委は、違法な処分をしたことを反省し謝罪するどころか、減給処分を取り消された現職の都立学校教員を再処分(戒告処分)するという暴挙を行いました。また、2013年3月の卒業式以降、最高裁判決に反し、不起立4回以上の特別支援学校、都立高校の教職員を減給処分にしています。また、被処分者に対する「再発防止研修」を質量ともに強化し、抵抗を根絶やしにしようとしています。

 しかし、これらの攻撃に屈することなく、従来の最高裁判決の枠組みを突破し、戒告を含む全ての処分及び再処分の取り消しを求め、東京「君が代」裁判五次訴訟が東京地裁で闘われています。粘り強く闘う原告団を支え共に闘います。
 破処分者・原告らは、19年間、都教委の攻撃に屈せず、東京の学校に憲法・人権・民主主義・教育の自由をよみがえらせるために、法廷内外で、学校現場で、粘り強く闘いを継続しています。多数の市民、教職員、卒業生、保護者がともに闘っています。

 本日、10・23通達関連訴訟団・元訴訟団が大同団結し、「目の丸・君が代」強制に反対し、「憲法を変えさせず、誰も戦場に送らせない」運動を広げるために、「学校に自由と人権を!10・23集会」を開催しました。
 集会に参加した私たちは、広範な教職員、保護者、労働者、市民の皆さんに「日の丸・君が代」強制と都教委の教育破壊を許さず、共に手を携えて闘うことを呼びかけます。何よりも「子どもたちを再び戦場に送らない」ために!

2022年10月23日


   「学校に自由と人権を!10・23集会」参加者一同 

国葬での弔意強制も、学校での国旗国歌の強制も、国家主義というカルトのなせる業なのだ。

(2022年10月15日)
 赤旗一面の下段に「潮流」という連載コラムが掲載されている。朝日の「天声人語」や、毎日新聞の「余録」に当たる、赤旗の看板である。

 本日の「潮流」が、「日の丸・君が代」強制問題を取りあげてくれた。なるほど、タイムリーなのだ。

 書き出しはこうである。
 「反対の声が大きく広がるもとで強行された安倍晋三元首相の「国葬」。「弔意」を強制し、憲法が保障する思想・良心の自由を侵害する政府の行為はもう一つの「強制」を思い出させます。教育現場における「日の丸・君が代」の強制です」

 安倍国葬を経て、特定政治家への弔意の強制をあってはならないとする国民的合意が形成されたと言ってよい。では、「日の丸・君が代」への敬意の強制はどうか、というタイムリーな問題提起。

 実は、いずれも個人の価値感に任せられるべき領域の問題なのだ。国家が、国民に特定の価値観を押し付けてはならない。安倍晋三に対する弔意は近親者や政治的立場を同じくする人々には自然なことでも、それ以外の人々には他人事である。飽くまで個人の心情が尊重されるべきで、国家が弔意を表明せよといういう筋合いはない。国旗・国歌(日の丸・君が代)についても同様に、国家は、国民個人の国家観や歴史観に寛容でなければならない。国家中心主義の立場から、愛国心を押し付けたり、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明すべきことを強制するなど、もってのほかなのだ。

 このことを「潮流」は、「国旗・国歌に対する態度はそれぞれの考えにもとづいて自由に判断するべきなのに、教職員には卒業式・入学式などで起立・斉唱することが強要されています。東京都では起立・斉唱の職務命令に従わなかったなどとして約20年間にのべ約500人が処分されました」と述べている。そのとおりなのだ。

 そして、もう一つタイムリーな出来事を紹介している。「先日、この問題をめぐって強制に反対する市民らが文部科学省と交渉しました。ILO(国際労働機関)とユネスコ(国連教育科学文化機関)が日本政府に出した勧告を実施することを求めたものです」。よくぞ取りあげてくれた。

 「ILOとユネスコの勧告は『起立や斉唱を静かに拒否することは…教員の権利に含まれる』とした上で、卒業式などの『式典に関する規則』について教員団体と対話する機会を設けることを求めています。『国旗掲揚・国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるような』合意をつくることが目的です」

 よくぞ、内容がお分かり。まるで、私が起案したみたい。

「しかし、日本政府は勧告を事実上、無視したままです。市民らとの交渉でも文科省は終始、消極的な姿勢だったといいます。教職員の思想・良心の自由が奪われた学校で、子どもたちが本当の意味で憲法や自由について学べるのか。政府は国際的にも問題が指摘されていることを真摯に受け止めて、直ちに勧告に沿った対応をするべきです」

  さすがによくできた練れた文章。文科大臣にも、東京都知事にも、大阪府知事にも、そして東京都と大阪府の各教育委員にもよく読ませたい。

 ところで、弔意の強制と国旗国歌の強制、カルト(ないしはセクト)をキーワードとすると共通点が見えてくる。

 フランスの反セクト法(2001年)では、「著しい、あるいは繰り返される心理的・身体的圧力、若しくはその判断力を侵害する技術により生じた心理的・身体的な隷属状態」に乗じて、「その無知あるいは脆弱な状態を不当に濫用する行為」が処罰対象とされるという。日本では考えられないところだが。

 この条文だと国旗国歌の強制は、カルトのやることだ。東京都教育委員会も、香港を蹂躙した中国共産党も、反セクト法では犯罪者たりうる。国家主義者が権力を握ると、愛国心の高揚だの、国旗国歌の強制だのをしたくてならないのだ。

 個人よりも国家大事とする倒錯した心理が、愛国主義であり国家主義である。全体主義と言ってもよい。国葬だからとして被葬者への弔意を強制するのも、学校儀式で国旗国歌を強制するのも、国家主義というカルトのなせる業なのだ。

「日の丸・君が代」強制問題・セアート勧告報告

(2022年10月7日)
 弁護士の澤藤です。「障害者権利条約・第1回日本審査の報告集会」に発言の機会を与えていただき、ありがとうございます。

 私の報告は、公立学校での「国旗国歌(日の丸君が代)強制問題」についてのものです。障害者権利条約や性教育に関するものではありません。本日のメインテーマから外れた付録の発言。ですが、教育問題として、また国連の勧告を現場に生かそうという運動として密接に関連しています。

 この件についての国連から勧告は、ILOとユネスコが合同で作った専門家委員会・セアートの勧告を、ILOとユネスコがそれぞれ正式に採択したものです。1919年に最初の勧告が出ましたが、日本政府(文科省)に誠実に履行する態度がありません。このことをセアートに報告して、今年になって再勧告が出ています。

 実は、この再勧告の実施を求める2度目の対文科省交渉を先ほど終えたばかりです。障害者権利条約に関するこの報告集会が15時始まりですが、同じ参議院議員会館の別室で13時から、「『日の丸・君が代』ILO/ユネスコ勧告実施市民会議」と「アイム89東京教育労組」の合同申し入れでの交渉が行われました。

 一言でいえば、文科省の消極姿勢には失望せざるを得ません。本日の文科省交渉を通じての実感は、国連からの勧告をもらっただけでは、絵に描いた餅に過ぎないということ。本当に腹の足しになる食える餅にするためには、当事者を中心に、市民運動が起きなければならないということです。メディアや政治家の皆様にも汗をかいていただかなくてはなりません。

 石原都政下の都教委が悪名高き「10・23通達」を発出して以来、もうすぐ19年です。以来、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」という職務命令と闘い続けてきました。最初にこの問題を法的に考えたときに、こう思いました。

 あの旗と歌を、「国旗・国歌」とみれば、日本という国家の象徴であり、権力機構の象徴でもあります。主権在民の原則を掲げる今の時代に、主権者である国民に対して、国家の象徴である国旗国歌への敬意表明を強制できるはずはありません。

 憲法上なによりも大切なものは、個人の尊厳です。国家は、個人の人権擁護のために、主権者によって便宜作られたものに過ぎません。その国家が、主権者に対して、「国家を愛せよ」「国家に敬意を表明せよ」などと言えるはずはない。それは、倒錯であり、法の下克上でもあります。

 また、あの旗と歌を、「日の丸・君が代」とみれば、日本国憲法が意識的に排斥した大日本帝国憲法体制の象徴というほかはありません。天皇主権・国家主義・軍国主義・侵略主義・排外主義の歴史にまみれた旗と歌。侵略戦争と植民地支配のシンボルとしてあまりに深く馴染んでしまった旗と歌。これを受け入れがたいとすべきが真っ当な精神というべきで、日の丸・君が代への敬意表明を強制できるはずはありません。明らかに、憲法19条の思想・良心を蹂躙する暴挙ではないか。

 この件については、不起立に対する懲戒処分の取消を求めるかたちで多くの訴訟が重ねられ、多くの判決が出ています。結論を申しあげれば、残念ながら日の丸・君が代強制を違憲とする最高裁判決を勝ち取ることはできていません。しかし、何度不起立を重ねても、戒告はとかく、戒告を超える減給・停職は、重きに失する処分として違法で取り消されています。教員側も都教委側も勝ちきれていない状況が続いているのです。そのような膠着状態の中で、セアート勧告が出たのです。

 国連という世界の良識による、「教員の国旗国歌強制の拒否も、市民的不服従として許されるべきだ」「現場に混乱をもたらさない態様での思想・良心の自由は保護されなければならない」という勧告は、大いに私たちの闘いを励ますものとなっています。

 ご承知のとおり、安保理だけが国連ではありません。国連はいくつもの専門機関を擁して、多様な人権課題に精力的に取り組んでいます。労働分野では、ILO(国際労働機関)が世界標準の労働者の権利を確認し、その実現に大きな実績を上げてきました。また、おなじみのユネスコ(国際教育科学文化機関)が、教育分野で旺盛な活動を展開しています。

 その両機関の活動領域の重なるところ、労働問題でもあり教育問題でもある分野、あるいは教育労働者(教職員)に固有の問題については、ILOとユネスコの合同委員会が作られて、その権利擁護を担当しています。この合同委員会が「セアート(CEART)」です。日本語に置き換えると「ILO・ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会」だそうです。名前が長ったらしく面倒なので、「セアート」と呼んでいます。

 2019年3月セアートは、その第13回会期で日本の教職員に対する「日の丸・君が代強制」問題を取りあげました。その最終報告書の結論として次の内容があります。

110.合同委員会(セアート)は、ILO理事会とユネスコ執行委員会が日本政府に対して次のことを促すよう勧告する。
(a) 愛国的な式典に関する規則に関して教員団体と対話する機会を設けること。このような対話は、そのような式典に関する教員の義務について合意することを目的とし、また国旗掲揚および国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるようなものとする。
(b) 消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒手続について教員団体と対話する機会を設けること。

 「消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける」べきだとするのが、最も重要な勧告のキモだと思います。その目的実現のために、「関係者は誠実に話し合え」と勧告しているのです。

 この勧告は、形式的には文科省に対して、実質的には都教委に対して発出されたものですが、文科省も都教委もほぼこれを無視しました。この国は、国連から人権後進国であることを指摘され是正の勧告を受けながら、これに誠実な対応をしようとしません。居直りと言おうか、開き直りというべきか。不誠実極まりないのです。人権を無視し国連を軽視すること、中国やロシア、北朝鮮並みではありませんか。実に情けない。

 日本の政府や都教委は、できることならこの勧告・再勧告を、「勧告に過ぎない。法的拘束力がない」として、無視しようとしてます。明らかに、自分たちの立場を弾劾する不都合な内容だからです。しかし、これが、世界標準なのです。誠実に対応しないことは、日本政府の恥の上塗りをすることになります。

 教職員側は、この日本政府の怠慢をセアートに報告。2021年10月第14期セアートは、あらためての再勧告案を採択。2022年6月、ILOとユネスコはこれを正式に承認しました。そのセアート再勧告の結論となる重要部分は次のようなものです。

173. 合同委員会は、ILO理事会とユネスコ執行委員会に対し、日本政府が以下のことを行うよう促すことを勧告する。
(a) 本申立に関して、意見の相違と1966年勧告の理解の相違を乗り越える目的で、必要に応じ政府および地方レベルで、教員団体との労使対話に資する環境を作る。
(b) 教員団体と協力し、本申立に関連する合同委員会の見解や勧告の日本語版を作成する。
(c) 本申立に関して1966年勧告の原則がどうしたら最大限に適用され促進されるか、この日本語版と併せ、適切な指導を地方当局と共有する。
(d) 懲戒のしくみや方針、および愛国的式典に関する規則に関する勧告を含め、本申立に関して合同委員会が行ったこれまでの勧告に十分に配慮する。
(e) 上に挙げたこれまでの勧告に関する努力を合同委員会に逐次知らせる。

 13期と14期の2期にわたる勧告となりました。日本の政府には誠実に対応する責務があります。

 どうやら私たちは、人権後進国に住んでいるのだと考えなければならない様子です。一人ひとりの思想・良心の自由よりは、愛国が大切だという、国家優先主義でもあるこの国。せめて、開き直らずに、誠実に国連機関が言う「国際基準」に耳を傾けていただきたいと思うのです。

学校は、日本国憲法がめざす平和で民主的なこの国の主権者を育てる役割を担っている。

(2022年9月12日)
 本日、東京「君が代」裁判・第5次訴訟の第6回ロ頭弁論期日。
 まだ準備書面交換による応酬が続いているが、次回(11月24日午後4時)には主張の段階が終わって、立証の段階にはいる目途が付きそうな状況。
 形式的な手続の後に、原告15人のなかのお一人が、口頭で約10分間の意見陳述をした。満席の法廷に切実な訴えの声がよく響いた。その全文を掲載しておきたい。

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原告意見陳述要旨

原告 (K高校定時制)

 私は、2017年春の卒業式に卒業生の担任として出席し、「国歌斉唱」時に起立しなかったことで戒告処分とされました。「10・23通達」が出されてから3度目の処分でした。
 最初の処分を受けた2004年4月の入学式の当日は、腸から出血し、自分はどうなってしまうのだろうと思いました。その後も、卒業式や入学式が近づくと気分が落ち込み、体調に異変が生じました。2度目の処分を受けた卒業式のときは、「君が代」が始まったときに激しい背中の痛みを覚え、自分はどうしても立てないのだと観念して着席しました。
 2016年4月にK高校定時制に異動し、3学年の担任になりました。定時制は通常4年間で卒業しますが、3年間で卒業できる制度があり、私はその年度の卒業式に担任として出席しました。卒業式が近づくと何度も校長室に呼ばれました。職務命令にも処分にも苦しみますが、なぜ「君が代」のときに立てないのかを説明することは、それよりもさらに苦痛です。

 私は、かつて勤めていた私学での経験から「君が代」を歌えなくなりました。
 その学校は神道を理念とした女子高で、入学式の前日には、近所の神社でお祓いを受けることになっていました。
 しかし、毎年、数人の新入生が神社の参拝を拒みました。この儀式は入学の前提とされていたため、神社参拝をできない生徒は入学を取り消されるのです。生徒が4月に入ってから入学する高校を失うという深刻な事態を目にしながら、私にはなす術もありませんでした。
 入学した生徒にも難関が待っています。体育館の壇上の神棚の上には常時「日の丸」が掲げられ、入学式・卒業式はもとより、元旦の拝賀式をはじめとして、天長節、紀元節などの儀式の都度、「君が代」を歌わせられます。それだけでなく、毎朝の朝礼では祝詞をあげて、明治天皇御製の歌を歌わせられます。そこでの神様は天皇、“現人神”でした。別の神様や宗教を信仰する生徒たちは、何かと抵抗しました。それを抑えて、素直に祝詞をあげ、歌を歌うよう“指導”するのが私たち教員の仕事でした。加えて、「良妻賢母教育」の名のもとに髪型や制服の着方などの生活指導も「取り締まり」と言った方がいいような仕方で行われました。こんな関わり方をしていて、生徒と心を通わせることなどできません。教師になった喜びとは無縁でした。
 強制されている生徒たちは、毎日嫌な思いをしていたでしょう。でも、自身の内面に根拠も必要性も感じないことを、生徒たちに強いている私も苦痛でした。「お給料をもらっているから仕方がない」と、自分に言い聞かせる日々を過ごすうち、“頭痛と出血で立っているのもやっと”という状態になりました。医師からは、転職するしか治す方法はないと言われ、都立高校の採用試験を受けました。

 こうして、ようやくストレスから解放されて18年余り。私学での悪夢を忘れていた私を、再び過去に引き戻したのが「10・23通達」でした。入学式・卒業式の式場で「君が代」の伴奏が響き渡ると、いやおうなくあの私学の体育館の光景が脳裏に浮かび、身動きができなくなりました。それが初めての不起立でした。
 約10年をかけた、処分取り消しを求める東京「君が代」裁判一次訴訟の結果、最高裁判決で戒告処分が容認された一方、減給処分は「重きに過ぎる」ことを理由に裁量権の逸脱・濫用として取り消されました。
 また、この問題の解決に向けてすべての関係者が真摯かつ速やかに努力するよう求める補足意見が付されました。
 これを見て、話し合いができるのではないかと期待し、私たち原告団は、毎年、都教委に話し合いの場を待ってくれるよう、要請を続けてきました。しかし、都教委は今日まで一向に応じてくれません。
 2019年には、ILO/ユネスコから、この問題の解決に向けて、式典の在り方や懲戒処分の決め方について、教員団体との対話を求める勧告が出されました。それでも、未だに都教委は話し合いを拒否し続けています。今年、ILO/ユネスコは、先の勧告の実施が遅々として進まないとの認識の下、「地方当局向けの適切な注釈や指導も併せて行うことを勧告する」という、より踏み込んだ再勧告を公表しました。かつて最高裁判事として、“起立斉唱の職務命令は違憲・違法”という反対意見を書いた宮川光治弁護士は、この報に触れて「日本はいまだに国際基準から外れることをしていて、恥ずかしい」と述べています。

 現在、私は再任用教員として勤務していますが、2017年に戒告処分を受けたことを理由に“年金支給開始年齢に達したら任用しない”と予告されています。しかし、再任用は単年度ごとに「従前の勤務実績等に基づく能力実証を経た上で採用する」という制度です。何年も先の合否を告げること自体が制度の趣旨に反しています。再任用打切りの事前告知を受けた定年時、私の業績評価は最高位の「A」でしたが、選考課の職員は「業績評価は再任用選考とは関係ない」「あなたが裁判で勝てば、それなりに対応します」と言い放っています。裁判所の判決という強制力が働かない限り、彼処分者は排除するということです。
 1歳上の原告の川村さんは、私と同様「再任用打切りの事前告知」を受けていましたが、この春、ついに再任用不合格とされました。しかも、彼女は「再任用職員採用選考」の通知に明記されている面接すら受けておらず、適正な手続きを経て合否が判定されたとは到底考えられません。さらに、秋に申し込んだ産休代替などの臨時的任用職員の要項が2月になって突如変更され、処分歴を書く欄が設けられた新たな申込書を提出させられました。これは、処分された教員を狙い撃ちにしたものという他はありません。
 ご理解いただきたいのは、「戒告という最も軽い処分」の重さです。処分を受けて6年も7年も経っても不利益が続き、最終的には戒告を理由に誠を切られるのです。こうした処遇は、他の教職員に対する見せしめの効果を発揮しています。私たちが裁判をしなければならないのは、他に手段がないからなのです。

 「10・23通達」は、都教委の意に沿わない教員を排除する装置として、導入されました。それまで、都立高校の運営は合議でなされてきましたが、命令と処分という運営手法に変えられたのです。都教委にしても、校長にしても、あるいは一般の教員にしても、上に立つには楽でしょう。しかしそれはもはや、子どもを育てる教育の場ではなく、管理と選別の機関でしかありません。今では、学校教育に関わるあらゆることの決定のしかたに、上意下達の体制が浸透しています。「10・23通達」に続いて、職員会議での挙手採決を禁止する通達が出されました。校長の一存で方針が決定され、私たちはただそれを実行するだけの存在になりました。この体制しか知らない世代の教員がすでに過半数を超えた今では、議論すらありません。公論が封じられた学校で、疑問も不満も封じ込められています。

 本来学校は、日本国憲法がめざす平和で民主的なこの国の、主権者となるにふさわしい人間を育てる役割を担っています。そのために、目の前の生徒に何か必要か、どうすればいいのかを考え、行動することが教員の責務ではないでしょうか。それとも、唯々諾々と、不当な職務命令にも従わなければならないのでしょうか。
 都立高校の教育が「10・23通達」の呪縛から解放され、本来の教育を取り戻せるよう、裁判官の皆様の、勇気ある判断を、心から期待いたします。

「日の丸だけは我慢できない。日の丸を掲げた日本軍は、夫を息子を娘を殺した」

(2022年8月27日)
 本日午後、「『日の丸・君が代』不当処分撤回を求める被処分者の会」の総会。
 石原慎太郎都政下の悪名高い「10・23通達」発出以来、もうすぐ19年になる。石原慎太郎も今は鬼籍にある。思えば、なんと長い闘いを続けてきたものか。

 この間いくつもの裁判を重ねて、今は処分取消の第5次訴訟を東京地裁で闘っている。今日の総会には、この間の闘いの中心にいた人々が集まった。憲法を大切に思い、教育の理念を曲げてはならないと自覚した人々である。

 日の丸・君が代の捉え方は多様であり、運動参加者でもけっして一色ではない。だが、この旗と歌とが、かつての侵略戦争と残虐な加害責任の象徴であったことの認識は、共通のものだとは言えよう。朝鮮で、中国で、シンガポールで、ビルマで、仏領インドシナで、フィリピンで…。この旗と歌に鼓舞された天皇の軍隊が、暴虐の限りを尽くした。

週刊金曜日の最新(8月26日)号の巻頭に崔善愛さんが、「日の丸の加害責任」について書いている。全国平和教育シンポジウムでの栗原貞子の講演を引用してのもの。ちょうど50年前1972年の9月、日中国交回復のために田中角栄が北京を訪れた際の、「日の丸」に関するエピソードの紹介である。

 「田中角栄訪中の北京空港で大日章旗が引きおろされる事件が起きた。一人の高齢女性が捕まった。彼女は涙もふかず訴えたと言う。
 『国交回復は結構だが、あの日の丸だけは我慢できない。あの時、日本軍は夫を息子を娘を殺し、私は一人ぼっちとなった。それからの苦しみと悲しみは筆舌に尽くせない。どうか日の丸だけは……』と。
 この憎しみはアジア諸国民の日の丸館の一つの典型ではないでしょうか
 続けて栗原さんはこのように話した
 〈マスコミ始め国民が侵略戦争のシンボルだった日の丸君が代の犯罪性に沈黙し、大勢に順応しているとき、平和教育の中でこのことを教えるのは困難であります。国民の精神的支柱として再び日の丸・君が代・教育勅語を復活させる一方で、被爆国をとなえ、原爆の悲惨を訴えても、「ああ広島」と世界の人々は共感してくれません〉
 栗原貞子の思想を私は深く噛み締める」

 富国強兵・尽忠報国をスローガンに侵略戦争に明け暮れた天皇制国家。その野蛮な国家と分かちがたく結びついた「日の丸・君が代」である。戦後、日本国憲法制定後もなお、加害者としての戦争責任の自覚なく、自らの手で戦争犯罪者を処罰することもなかった我が国であり、国民である。

 本当に侵略戦争を反省し、我が国は生まれ変わったのだという主張をするなら、旧体制とあまりに深く結びついた「日の丸・君が代」を廃棄すべきであった。だが、これを捨てなかったことは、ことさらに「無反省」を誇示するものと受けとめられたであったろう。

 その思いが、北京での戦争被害女性をして、『「日の丸」だけは許せない。あの戦争のとき、「日の丸」を掲げた日本の侵略軍は、戦闘員でもない夫を殺し、息子を殺し、娘を殺し、私は一人ぼっちとなった。それからの苦しみと悲しみは筆舌に尽くせない。私の人生の不幸は「日の丸」によってもたらされた。どうか「日の丸」だけは、私の見えるところに持ちこまないで……』と言わせたのだ。 

 「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱せよ」という職務命令には服しがたいという教員は、この国に再び侵略戦争を起こさせてはならない。そのような兵士を育てる教育であってはならないと自覚した教員である。

 そのような教員の良心が、鞭打たれていることを知っていただきたい。

都教委は、学校への「半旗掲揚依頼」を拒絶する防波堤でなければならない。

(2022年8月7日)
 昨日(8月6日)の東京新聞朝刊トップ記事が、「都教委も半旗掲揚依頼 安倍元首相葬儀 都立255校に文書送信」の大見出し。のみならず、22面と23面の「こちら特報部」に詳細な関連記事。その見出しを連ねてみる。

《安倍氏葬儀に都教委が半旗依頼 「政治的中立に反する行為」背景は?》
《弔意の「強制」 日の丸・君が代問題と同根》
《「教員、生徒たちへの刷り込み心配」》
《「特定の政党を支持してはならない」 教育基本法に明記しているのに》
《教育行政への侵食 安倍政権下で進行》

ネット記事では、もう少し見出しが増える。
《複数校が掲げる》
《都の担当者「強制したつもりはない」》
《政治的中立求める教育基本法に反する恐れ》
《東京以外にも相次ぎ判明》
《国の関与を疑う声も》
《「不当な支配」国が都合よく解釈し、介入》

https://www.tokyo-np.co.jp/article/194182
https://www.tokyo-np.co.jp/article/194189

 一面トップの記事のリードは以下のとおり
 「東京都教育委員会が先月12日の安倍晋三元首相の葬儀に合わせ、半旗を掲揚するよう求める文書を都立学校全255校に送り、現実に複数校がこれに応じて半旗を掲揚して学校として安倍氏に対する弔意を表明していた掲揚していたことが分かった。専門家は「政治的中立を求める教育基本法に反する恐れがある」と指摘。同様の依頼は川崎、福岡市などでも判明している。」

 「特報部」のリードは以下のとおり。

 「首都・東京の教育委員会が、安倍晋三元首相の葬儀の日に半旗掲揚を求めていたことが判明した。教育基本法の「政治的中立」に反する恐れを専門家は指摘するが、少なくとも全国7自治体の教委も同様の要請を行っていた。「弔意は強制していない」と口をそろえる様子から浮かぶのは、子どもや教師の権利に無頓着な教育行政の姿だ。こんな状態で、世論を二分する「国葬」を行って大丈夫なのか。

 以上の見出しとリードで、この記事の言わんとするところは十分に通じる。教育の本質に切り込んだ報道として高く評価しなければならない。東京新聞に敬意を表したい。蛇足ながら、東京新聞の見出しをつなげてみるとこんなところだ。

 安倍晋三の葬儀というまったくの私的な行事に合わせて、東京都教育委員会が全都立学校に半旗を掲揚するよう依頼の通知を発し、現実にこれに従って複数の学校が半旗を掲げて安倍に対する弔意を表明したことが分かった。
 安倍晋三と言えば、特定政党の特定政治主張に旗幟鮮明な復古主義政治家である。このような毀誉褒貶激しい政治家の私的な葬儀に学校が公的に弔意を表するのは、本来的に教育に要請されている政治的中立性に明らかに反する違法な行為である。教育基本法14条2項が「学校は特定の政党を支持してはならない」と明記しているのにどうしてこんなことになってしまっているのだろうか。

 この都教委による学校現場に対する要請は、当局は否定しているが、事実上の「弔意の強制」にほかならない。生徒・教員の思想・良心の自由をないがしろにしている点で、同じ都教委が生徒・教員に、国家への敬意表明を強制し続けている「日の丸・君が代」問題と、同根と言わねばならない。

 このような「教育行政が教育を侵食する本来あってはならない現象」は、安倍政権下で進行してきたもので、現場の教員は、あたかも安倍氏やその政治路線が正しいものであるような、学校という教育装置を違法に使っての生徒たちへの刷り込みの効果を心配している。

 もとより教育は特定政治勢力によって支配されてはならず政治一般から独立しなければならない。また、教育が特定の政党や政治家を支持したり支援するようなことは絶対にしてはならない。そのことは、教育基本法に明記されているのに、教育は本来のあり方から、大きくねじ曲げらた現状にある。これは、政治が教育行政に大きく侵食してきた結果であって、このことは安倍政権下で進行してきた憂うべき現象である。同様のことが、都教委にとどまらず全国で生じているということから、国の関与を疑う声もある。教育基本法によって禁じられている「不当な支配」を、国が都合よく解釈して、「政治が行政に介入し、行政が教育に介入する」ということが常態化してしまっているのではないか。

何が最大の問題か。
 通夜があった7月11日に都総務局が作った「事務連絡」は、半旗掲揚について「特段の配慮をお願いしたい」とし、11、12日の掲揚を依頼したものだという。これが、教育庁を含む各部署にメールで送られ、教育庁(都教委事務局)が都立高校や特別支援学校に転送した。
 このことについて、都教委の担当者は「事務連絡を転送しただけで、掲揚するかは各校の校長に任せた。弔意を強制したつもりはない」と言う。この都教委の弁解に最大の問題点が表れている。いったい何が問題なのか、都教委はまったく分かっていないようなのだ。

 教育委員会は自らが教育に介入することは厳に慎まなければならないというだけではない。その重要な任務として、教育を支配し介入しようという外部勢力からの防波堤となって教育を擁護しなければならない。

 都の総務局が安倍の葬儀に半旗をという発想も批判されなければならないが、教育庁の特殊性を考慮せずに他と同様のメールを送信したことは不見識甚だしい。そして、これを各学校に転送した都教委は、明らかに任務違反である。これに従った校長の責任も厳しく問われなければならない。なんとまあ、この世には、忖度がはびこったものか。その元兇は、安倍晋三なのだが。

私たちは、人権後進国に住んでいる。行政は国連機関が説く国際スタンダードに耳を傾けていただきたい。

(2022年8月4日)
 本日、第一衆議院議員会館の会議室で、「日の丸・君が代」強制問題についての、対文科省交渉が行われた。テーマは、セアート第14会期最終報告における勧告の取り扱い。予め提出していた質問事項に対する回答を求め、これを糺すという交渉内容。

 このブログに以前にも書いたが、国連はいくつもの専門機関を擁して、多様な人権課題に精力的に取り組んでいる。労働分野では、ILO(国際労働機関)が世界標準の労働者の権利を確認し、その実現に大きな実績を上げてきた。また、おなじみのユネスコ(国際教育科学文化機関)が、教育分野で旺盛な活動を展開している。

 その両機関の活動領域の重なるところ、労働問題でもあり教育問題でもある分野、あるいは教育労働者(教職員)に固有の問題については、ILOとユネスコの合同委員会が作られて、その権利擁護を担当している。この合同委員会が「セアート(CEART)」である。日本語に置き換えると「ILO・ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会」という。名前が長ったらしく面倒なので、以下は「セアート」と呼ぶ。

 2019年3月セアートは、その第13回会期で日本の教職員に対する「日の丸・君が代強制」問題を取りあげた。その最終報告書の結論として次の内容がある。

110.合同委員会(セアート)は、ILO理事会とユネスコ執行委員会が日本政府に対して次のことを促すよう勧告する。
(a) 愛国的な式典に関する規則に関して教員団体と対話する機会を設けること。このような対話は、そのような式典に関する教員の義務について合意することを目的とし、また国旗掲揚および国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるようなものとする。
(b) 消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒手続について教員団体と対話する機会を設けること。

 この勧告は、形式的には文科省に対して、実質的には都教委に対して発出されたものだが、文科省も都教委もほぼこれを無視した。この国は、国連から人権後進国であることを指摘され是正の勧告を受けながら、これに誠実な対応をしようとしない。居直りと言おうか、開き直りというべきか。不誠実極まりない。

 教職員側は、この日本政府の怠慢をセアートに報告。2021年10月第13期セアートは、あらためての再勧告案を採択。2022年6月ILOとユネスコはこれを正式に承認した。そのセアート再勧告の結論となる重要部分を抜粋する。

173. 合同委員会は、ILO理事会とユネスコ執行委員会に対し、日本政府が以下のことを行うよう促すことを勧告する。
(a) 本申立に関して、意見の相違と1966年勧告の理解の相違を乗り越える目的で、必要に応じ政府および地方レベルで、教員団体との労使対話に資する環境を作る。
(b) 教員団体と協力し、本申立に関連する合同委員会の見解や勧告の日本語版を作成する。
(c) 本申立に関して1966年勧告の原則がどうしたら最大限に適用され促進されるか、この日本語版と併せ、適切な指導を地方当局と共有する。
(d) 懲戒のしくみや方針、および愛国的式典に関する規則に関する勧告を含め、本申立に関して合同委員会が行ったこれまでの勧告に十分に配慮する。
(e) 上に挙げたこれまでの勧告に関する努力を合同委員会に逐次知らせる。

 13期と14期の2期にわたる勧告。日本国には誠実に対応する責務がある。さあ、文科省どうする? この件に関して、末松信介文部科学大臣に宛てた教職員組合と市民運動体の質問書の内容は以下のとおりである。

問1 日本語訳に関して
(1) 我々は第14会期最終報告パラグラフ169、パラグラフ173(b)を尊重し、文部科学省とともに第13会期、第14会期最終報告の日本語訳を作成したいと考えている。日本語訳を我々と共同で行うことに関して、貴省の考えを伺う。

(2) 2022年6月29日の「東京新聞」朝刊(こちら特報部)によれば、取材を受けた文部科学省初等中等教育企画課の小林寛和氏は「日本語訳を作るかどうかも含め、対応を検討している」と回答している。検討した結果を明らかにされたい。

(3) 最終報告の日本語訳をどのような手順で進めていくか、貴省の考えを伺う。
我々は当方が訳した日本語版を提示する用意があるので、それを土台にして、貴省から訳に同意できない部分を示していただき、両者で意見交換しながら共通の日本語訳を完成させるという形で進めたいと考えているが、貴省の考えを伺う。

問2 地方教育委員会への送付に関して
(1) 第14会期最終報告は東京都・大阪府・大阪市に送付済みか。他の地方公共団体へは送付済か。いずれかの地方公共団体に送付していた場合、それは英語版、日本語版のどちらか。又は両方か。
また、最終報告とともに送付した文書などがあれば、明らかにされたい。

(2) 文部科学省は第14会期最終報告パラグラフ172及び173(c)を尊重して、最終報告を適切に理解できるような注釈を作成して地方公共団体と共有するか。

(3) セアートは東京都や大阪府・市に限らず、地方公共団体と共有するように勧告している。
貴省は今後、地方公共団体の担当部署との間で、なんらかの形で最終報告を共有することを考えているのか。その計画を明らかにされたい。

(4) 「世界人権宣言」「市民的及び政治的権利に関する国際規約」を踏まえたセアートの判断を尊重して、「教員の地位に関する勧告」パラグラフ80に反する起立斉唱の強制を是正するように、地方公共団体に対して指導・助言を行うか。

 文部科学省からの担当官の回答を逐一叙述する必要はない。全て「検討中」だという。質問は、『問1 日本語訳に関して』と、『問2 地方教育委員会への送付』だけに限った簡明なものである。これに対しての回答が全て「検討中」だというのだ。「いったい、いつまで検討しようというのか」「いつになったら回答が得られるのか」という更問には、「答えられない」を繰り返す。「日本語訳作成という単純な作業を行うのに、いったい何をどう検討しているのか」という問には、「日本語訳の作成が各省庁や自治体にどのような影響を及ぼすことになるのか、十分に検討が必要だと考えている」という。場合によっては、ネグレクトもあり得るという開き直り。

 なるほど、確かに私たちは人権後進国に住んでいるのだ。一人ひとりの思想・良心の自由よりは、愛国が大切だという、国家優先主義でもあるこの国。文科省よ、せめて、開き直らずに、誠実に国連機関が言う「国際基準」に耳を傾けていただきたい。

「ILO/ユネスコ再勧告実現! 7.24 集会」閉会の辞

(2022年7月24日)
 「『日の丸・君が代』ILO/ユネスコ勧告実施市民会議」主催「再勧告実現! 7.24 集会」の閉会のご挨拶を申しあげます。

 本日は、まことに盛り沢山で、中身の濃い、充実した集会でした。たくさんの知らないことを教わりました。いくつもの考え方のヒントもいただきました。とても意義の深い有益な集会だったと思います。しかし、有益だったということは、「こうすればよい」「こうすればこのような成果を得ることができる」という安直なノウハウや結論を得たということではありません。むしろ、問題は、この国の権力構造や、民主主義の成熟度や人権意識、そして司法の体質などにも関わる極めて重い課題であることの再確認を要するとの思い強くしました。

 もちろん、私たちは、日本の政治を変えなければ何も勝ち取ることはできないという立場はとりません。今目の前にある権利侵害や不合理の解決のために全力を尽くしますが、教育現場での国旗国歌強制問題の根の深さを再認識せざるを得ません。

 「10・23通達」発出以来、もうすぐ19年です。もう18年も裁判を継続して「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」という職務命令と闘い続けてきました。最初にこの問題を法的に考えたときに、こう思いました。

 あの旗と歌を、国旗・国歌とみれば、日本という国家の象徴であり、権力機構の象徴でもあります。主権在民の原則を掲げる今の時代に、主権者である国民に対して、国家の象徴である国旗国歌への敬意表明を強制できるはずはありません。
 また、あの旗と歌を、「日の丸・君が代」とみれば、日本国憲法が意識的に排斥した大日本帝国憲法体制の象徴というほかはありません。天皇主権・国家主義・軍国主義・侵略主義・排外主義の歴史にまみれた旗と歌。これを受け入れがたいとすべきが真っ当な精神というべきで、日の丸・君が代への敬意表明を強制できるはずはありません。明らかに、憲法19条の思想・良心を蹂躙する暴挙だ。

 これに対して、都教委やそれにつながる国家主義陣営はどう反論したか。「国民一般に対する国旗国歌(日の丸君が代)の強制と、公務員に対する強制とは別だ。教育公務員はさらに別だ」というのです。

 この論争、緒戦では勝利しました。いわゆる予防訴訟における、2006年9月21日東京地裁「難波判決」です。しかしその直後に最高裁ピアノ判決が出て、以来私たちは憲法論のレベルでは敗訴が続いています。かろうじて、裁量権の逸脱濫用論で勝つにとどまっています。戒告を超える減給・停職は、重きに失する処分として違法で取り消されています。教員側も都教委側も勝ちきれていない状況が続いているのです。
 
 こういうときに、国連という世界の良識が、「教員の国旗国歌強制の拒否も、市民的不服従として許されるべきだ」「現場に混乱をもたらさない態様での思想・良心の自由は保護されなければならない」という勧告は、大いに私たちの闘いを励ますものとなっています。

 日本の政府や都教委は、できることならこの勧告・再勧告を、「勧告に過ぎない。拘束力がない」として、無視しようとしてます。明らかに、自分たちの立場を弾劾する不都合な内容だからです。しかし、これが、世界標準なのです。誠実に対応しないことは、日本の恥を嵩めることになります。私たちは、世論を喚起して都教委や政府に、常識的で真っ当な対応を求めたいと思います。

 本日の集会の成果を生かして、これから多様な努力を積み重ねなければなりませんが、まず目前に文科省交渉があります。
 8月4日、来週の木曜日15時から、
 衆院第1議員会館 地下第4会議室
にご参集ください。
  
 貴重な発言をしていただいたご基調講演の勝野正章(東京大学)さん、阿部浩己(明治学院大学)さん、鼎談の阿部浩己さん、寺中誠(東京経済大学)さん、前田 朗(東京造形大学名誉教授)さん、特別講演の岡田正則(早稲田大学)さん。そして、現場からのご報告の皆様方に、感謝申しあげます。

 コロナ禍を押してご参集いただいた皆様ありがとうございました。そして、この集会準備に携わられた多くの皆様方に、厚く御礼を申しあげて、閉会の挨拶といたします。


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郵便振替口座 番号 00170?0?768037 
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