本日(2月1日)、久しぶりの最高裁庁舎。何度行っても、重苦しい雰囲気。訪ねて楽しいところではない。この雰囲気に慣れることはできそうにない。それでも出かけたのは、東京「君が代」裁判・4次訴訟が係属しているからだ。
東京「君が代」裁判は、都内公立校教職員が「日の丸・君が代」強制による懲戒処分を争う集団訴訟である。都教委は「日の丸・君が代」強制が大好きなのだ。タチの悪いことに、それが正しいことだと思い込んでいること。戦前の特高や思想検事も、「陛下に刃向かう」非国民や不逞鮮人を懲らしめることは正しいことだと本気で思い込んで職務に精励したのだ。
いま、都教委が正しいと思い込んでいることは、生徒・児童の全員が「日の丸」に向かって直立し不動の姿勢で口を揃えて「君が代」を唱うこと。卒業式・入学式は、このように厳粛な式典でなくてはならないという思い込み。教師は、そのように児童生徒をしつけなければならない、という思い込み。
全員が一糸乱れぬ行動をすることが素晴らしいことだという思い込みを、全体主義という。日本人である以上は日の丸・君が代に敬意を表する心性を持たなくてはならないという思い込みを国家主義という。そして、お上が決めたことには逆らずしたがうべきだという思い込みが権威主義である。これが、右翼の心象における原風景。その全体主義・国家主義・権威主義が、国民多くのものになったとき、いよいよ軍国主義の出番となる。
この「日の丸・君が代」強制を始めたのは、石原慎太郎という極右・レイシストの政治家。民主主義や人権にとっての不幸は、このような人物を東京都知事にしたことにある。
2003年10月23日、都教委は悪名高き「10・23通達」を発して、都内公立校の全校長に命じた。管轄下の全教職員に対して、卒業式・入学式に際しては、「日の丸・君が代」に起立・斉唱するよう職務命令を出せ、というのだ。以来、都内の全校でこの信じがたい職務命令が実行され続けてきている。
世は、多様性の時代ではないか。「日の丸・君が代」大好き人間がいてもよい。しかし、すべての人に強要することはできない。それが、憲法に書き込まれた「思想・良心の自由の保障」である。問われているのは、思想・良心の自由と、秩序との衡量。「日の丸・君が代」大好きとは、秩序大切の思い込みなのだ。
「10・23通達」は、当然に多くの教職員からの反発を招き、現場の混乱は今なお続いている。以来、多くの処分がなされ、多くの訴訟が重ねれてきた。この訴訟もその一つ。
地方公務員法上の懲戒処分は、重い方から、《解雇》《停職》《減給》《戒告》の4種がある。14名の原告(教員)が、19件の処分の取消を求めて争った。処分の内訳は以下のとおり。
《停職6月》 1名 1件
《減給10分の1・6月》 2名 2件
《減給10分の1・1月》 3名 4件
《戒告処分》 9名 12件
計 14名 19件
1審の係属部は民事第11部(佐々木宗啓裁判長)。2017年9月15日の判決は、減給以上の全処分(6名についての7件)を取り消した。しかし、一方同判決は戒告処分(9名についての12件)については、いずれも違憲違法との主張を否定して処分を取り消さなかった。
裁判所の判断は、「君が代斉唱時に不起立を貫いた者が戒告を受けるのはやむを得ない。しかし、減給以上の懲戒処分はいくらなんでも重すぎる、懲戒権の逸脱濫用として取り消す」とした。
都教委は、敗訴の判決で取り消された処分7件のうち、5件については控訴をあきらめた。そして、残る2件についてだけ控訴した。このけん、2件ともQ教員である。
Qさんが取消を求めた懲戒処分は、以下のとおり5件ある。
1回目不起立 戒告
?2回目不起立 戒告
?3回目不起立 戒告
?4回目不起立 減給10分1・1月
?5回目不起立 減給10分1・1月
都教委は、「不起立と処分を3回も重ねのだ。4回目以後は減給にしてよいだろう」という考え。これが正しい教育の在り方だと思い込んでいるのだ。しかし、2018年4月18日の控訴審判決も、都教委の控訴を退けた。それでも、都教委はあきらめない。飽くまで争う姿勢を見せることが大切だとの思い込みがあるのだろう。もしかしたら、最高裁への同志的親近感を懐いているのも知れない。最高裁に上告受理申立をしたのだ。最高裁なら分かってくれるはず。きっと何とかしてくれるという思い込み。
4次訴訟関連で、当方(教員側)は、憲法論で上告申立をし、判例違反と法令解釈の誤りとで上告受理申立をしているが、都教委もQさんに対する減給処分にこだわって上告受理申立をした。だから、今、4次訴訟関連では3件の事件が最高裁に係属中。
そのQさんの件に関する都教委の上告受理申立には、当方は2018年9月11日付で、答弁書を提出している。本日、弁護団の弁護士3名が最高裁を訪れ、担当書記官と面会して、本日付答弁書補充書を提出した。
郵送でも良し、ともかく窓口にポンと提出でもよいのだが、「内容をかいつまんで口頭説明したい。できれば、担当調査官(判事)に面会したい」と申し込んでの、答弁書持参の訪問。
応対の書記官は、たいへん丁寧な態度で、「ご説明を受けたことは調査官にお伝えいたします」「重ねて、調査官面会の希望があったこともお伝えします」とのことだった。すくなも、当方の熱意は伝わったのではないか。
当方の説明は、「補充書」の目次を示してのもの。
本件の相手方(Qさん)は、「自らの思想・良心の命じるところに従って不当な制裁を甘受するか」、あるいは「処分を免れるために心ならずも思想・良心を曲げてこの強制に服して起立・斉唱するか」の、どちらにしても苛酷な選択を強いられることになった。本来は違憲の判断であるべきだが、せめて公権力行使の裁量権逸脱・濫用論の活用をもって妥当な解決をはからねばならない。思想・良心にもとづく真摯な不起立に対しては、そもそも懲戒権行使の効果を認めるべきではないが、少なくとも、実害を伴う処分を科すべきではない。このことが、「2012年判決」(2012年1月16日第1小法廷判決)が示した、裁量権逸脱・濫用論の実質的理由であり、同判決の神髄をなす判断である。
以上の裁量権逸脱・濫用論は、不起立の回数や、過去の処分歴の回数によって、処分量定の変化はあり得ないということになる。
相手方教員の思想・良心は一つである。この一つ思想・良心を何度叩いても、同じ結果とならざるをえない。思想・良心の内容を変えることはできない。むしろ、不起立の回数で、処分量定を加重するやり口は、思想や良心を鞭打って、転向を迫ることにほかならない。最高裁判例はこのような転向強要を戒めているものである。
都教委の上告受理申立は、すみやかに不受理とすべきである。
(2019年2月1日)
赤池誠章という参議院議員がいる。自民党の文部科学部会長。文部科学省の陰に隠れて前川喜平攻撃をしたことで、人に知られるようになった。極右の教育を行う日本航空総合専門学校長を務めていたことでも、私のブログに取りあげたことがある。
前川さん 負けるな 民意はここにあり
https://article9.jp/wordpress/?p=10101
またまた極右教育機関に、「ただ同然の国有地払い下げ」
https://article9.jp/wordpress/?p=9740
「『日々勉強!結果に責任!』を信条とする赤池まさあきです。国家国民のために全身全霊を尽くす覚悟をもって取組んでおります。」というのがこの人のキャッチフレーズ。「国家国民」という言葉使いに、国家主義者であることがあらわれている。だからであろう、「日の丸・君が代」への執着が強い。下記のブログの一節を、原文のママ引用させていただく。
https://blogos.com/blogger/akaike_masaaki/article/
日の丸は、聖徳大使の「日出ずる国」という国名の謂れ通り、太陽を象ったもので、簡素で明確に我が国柄を表しています。既に戦国時代の武将の旗印などにも用いられ、江戸時代には将軍家の船印として使用されて定着していました。長い歴史の中で、慣習法として定着してきた国家「日の丸」や国歌「君が代」は、戦後になって軍国主義の象徴として一部で批判されてきました。平成元年に、学習指導要領に明記されて、学校の入学式や卒業式には義務付けられ、平成11年には明文法化されました。
短い文章の中に間違いが盛り沢山。さすが、自民党文科部会長。今後は是非とも、「日々勉強!結果に責任!」を。以下、勉強のお手伝い。
「聖徳大使」は、聖徳太子の間違いなんでしょうね。大使役は小野妹子でしたから。こんな間違い、聖徳太子に失礼ではありませんか。
「日出ずる」は、民族派ならきちんと「日出づる」と書かなくちゃ。また、「日出づる国」という国名は隋書東夷傳には出てきません。「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)ですから、「日出づる処」でしかありません。なお、念のためですが、「云々」は、ウンヌンと読みます。くれぐれも、デンデンとはお読みにならぬよう。
戦国時代の武将の旗印に使われていたことが、国旗として定着していた根拠というんですか? 将軍家の船印として使用されていたから慣習法的に国旗? はて、面妖な。
国家「日の丸」は、国旗「日の丸」の間違いですね。「国家」も「国旗」も「日の丸」も、あまり大切には思っていらっしゃらないから、こんな間違いになるのでは。少し心配ですね。
戦後になって軍国主義の象徴として一部で批判されてきました。という記載だけはそのとおりですね。もっとも、「一部で」を、「多くの良識ある人々から」「戦争の辛酸を2度と繰り返してはならないと決意した主権者から」などとすれば、より正確ですね。
「平成元年に、学習指導要領に明記されて、学校の入学式や卒業式には義務付けられ、」「平成11年には明文法化されました。」には驚きました。まるで、法が、全国民に国旗・国歌(日の丸・君が代)の義務付けを認めているかのごとき書きっぷり。大まちがいです。改定学習指導要領も、国旗国歌法も、「日の丸・君が代」の義務付けなんてしていません。法が義務付けしてはいないのに、職務命令で教員に義務付けできるのか、それが裁判で激しく争われているのです。
赤池さん。多様性の時代ではありませんか。人種も、民族も、宗教も、LGBTも、そして何よりも思想や良心のありかたについても、多様な立場が共存しなければならないことを、認めていただけませんか。
あなたのように、「日の丸・君が代」大好き人間がいてもよい。でも、人の思想はいろいろなのです。どうして国民すべてに、「日の丸・君が代」を「義務付けたい」とおっしゃるのでしょうかね。
赤池さん、あなたの立論には憲法が出てこない。「日の丸・君が代」の強制を憲法に照らしてどうお考えですか。思想・良心の自由の保障や、信仰の自由の保障、あるいは教育の自由の保障とどう関わっているのか、関心がおありではないのでしょうか。それとも、都合が悪いから言及は避けている、ということでしようか。
赤池さん。一つ、提案があります。国会議員はお辞めになって、本気で「日々勉強!」に励んでみてはいかがでしょうか。国語も、歴史も、憲法も。そして、教育とは何であるかについても。きっと、前川喜平さんが親切に基本から手ほどきしてくれますよ。そして、次に立候補するなら、教育の神髄や日本国憲法の理念を学んだ後にしてはどうでしょうか。もっとも、そのときには、自民党からの立候補はあり得ないと思いますがね。
(2019年1月30日)
千代田区の私立正則学園高校の教員約20人が1月8日朝ストライキを実施したことが大きな話題となっている。今の時代、ストライキが珍しい。教員のストライキは、なおさら珍しい。報道が大きい。インパクトが大きいのだ。
本来、ストライキとは組合側の要求獲得の手段として、企業の生産に支障をきたすことを目的とする。当然のことながら、組合員も賃金カットを覚悟せざるを得ないが、肉を切らせて骨を断たねばならない。もっとも、現実には「骨を断つ」まで行く例は稀であるが、ストライキが企業活動に支障を及ぼすものでなくては、企業側からの譲歩を引き出す手段としての有効性がないことになる。
正則学園高校の教員ストは、みごとなものだと思う。これだけメディアの耳目を集めただけで成功している。おそらくは事前の通知が徹底していたのだろう。寒さの中のストは絵にもなり、学園側に打撃は大きかったと推察される。報道によれば、「ストライキは早朝のみで授業への影響はなかった」というのだから、賃金カットは最小で、最大効果を上げ得たのではないだろうか。何しろ、教員に対する待遇の酷さのアピールには大成功だったのだから。理事長の悪役イメージも定着した。
教員の要求は、「長時間労働の是正」がメインだったようだが、世論にアピールしたのは、「始業前にほぼ毎日行われている午前7時前の理事長へのあいさつの廃止」そのため、この学校の教員は早朝6時半の出勤となるという。この理事長への挨拶をして退室する際には、神棚に向かって「二礼 二拍手 一礼」をするというアナクロぶり。
組合からの下記ツイッターを見ることができる。
本日、私学教員ユニオン(総合サポートユニオン私学教員支部)は、正則学園高校に団体交渉を申し入れました。月に100時間を超える長時間労働で多くの教員が体調を崩しています。その一因が早朝六時半?始まる理事長への挨拶儀式です。そこで、私たちは理事長への挨拶儀式のストライキを通告しました。
なるほど、これが今どきのストライキのスタイルなのだ。
「私学教員ユニオン」の下記ホームページが参考になる。
http://shigaku-u.jp/
団体交渉と争議の結果を続いて発信してもらいたいと思う。そして、多くの労働組合に、争議の権利あることを思い起こしていただくよう期待したい。
なお、このストが、教員によって、学校で学生に見える形で行われたことに触れておきたい。私は、このストライキそのものが、生きた立派な教育だと思う。
「教育とは、教師と生徒との全人格的接触による営為である」とはよく言われる。学校現場における争議の実行は、まさしく教師がその全人格的生き方を生徒にさらけ出していることだ。生徒は、争議の背景、事前の交渉や準備、ストライキの態様や、それに対する学園側の対応、父母や社会の反応を心に刻みつけるだろう。
生徒は、「権利の擁護のためにはストライキもできるのだ」「堂々とストライキをして恥じるところはないのだ」と学ぶだろう。それだけでなく、ストライキに参加する教員としない教員とを見比べることにもなる。自分はどうすべきか、考えざるをえない。
精神科医の野田正彰さんの著書に、「子どもが見ている背中―良心と抵抗の教育」がある。教師の背中は、つねに子どもに見られている。その生き方に疚しいとこはないか、言行が一貫しているかどうか、常に子どもの目が問うている。日の丸・君が代に対する起立斉唱や、「君が代」伴奏を強制された教師がどういう態度をとるか、教師の背中が子どもから見られているという表題なのだ。
また、東京「君が代」裁判・第4次訴訟で、減給処分取消を求めている現職教員は法廷でこう語っている。
?「東京都教育委員会は『教師が生徒に対して起立斉唱する姿を見せること、範を示すことが大切である。』と言います。しかし、侵略戦争や植民地支配の歴史を背負った『日の丸』や『君が代』に対して、私が起立斉唱することで敬意を表す姿を生徒に見せることは、私自身の教員としての良心が許さないのです。」
「私が起立斉唱すれば、生徒に対しての『日の丸』や『君が代』強制に、私自身も加担することになってしまいます。そのことは、私にとっては、自分自身の教育の理念に反する、大変に辛いことなのです。どうしても命令には従うことができないのです。」
「私の教員としての良心は、児童生徒に一方的な価値観をすり込んではならない。そして児童生徒の前で教員が恥じるような行為を行ってはならないというふうに考えています。日の丸や君が代に対して、生徒の前で私が敬意を表することによって児童生徒はそれらに敬意を表明することが絶対的に正しいものだというふうに理解します。そのことは一方的な価値観をすり込むことであって、私の教員としての良心がゆるしません。」
真面目な教師こそ、悩みに悩んだ末に、辛くても苦しくても、自分の信念を貫くことになる。ストライキを貫徹した教員も「君が代」不起立の教員も、立派な教育者だ。
(2019年1月16日)
東京都教育委員会は、自由も人権も憲法も民主義も知らない。もちろん、思想・良心・信仰の自由のなんたるかも知らない。その侵害を受けている人の苦悩を知ろうともしない。都教委が心得ているのは、国家至上主義強制の技術だけ。200年前のキリシタン迫害の幕府の役人、あるいは100年前の天皇制警察や憲兵隊と心情において大差ない。都教委恐るべしなのだ。
たまたま石原慎太郎という極右政治家が都知事となって、分身のオトモダチを教委に送り込んだ結果の極端な右偏向と考えていたが、どうやらそれだけではなさそうだ。ポスト石原の今も、なんの変化もない。小池百合子知事のナショナリストぶり、ヘイト感覚も相当なものなのだ。
都教委の国家主義姿勢の象徴が、「10・23通達」である。卒業式や入学式式では、会場正面の国旗に正対して起立し国歌を斉唱せよというもの。これを懲戒処分をもって強制し続けているのだ。キリシタンに対する踏み絵と同じこと。信仰を貫こうとすれば、迫害を甘受しなければならない。信仰を捨てれば、自責の念に苛まれることになる。いま、首都東京の公立学校の教職員のすべてがこのジレンマの中に置かれている。
かつて、都立高校は「都立の自由」を誇りにした。誇るべき「自由」の場には国旗も国歌も存在しなかった。国旗国歌あるいは「日の丸・君が代」という国家象徴の存在を許容することは、「都立の自由」にとっての恥辱以外のなにものでもなかったのだ。
事情が変わってくるのは、1989年学習指導要領の国旗国歌条項改定からだ。1999年国旗国歌法制定によってさらに事態はおかしくなった。都立高校にも広く国旗国歌が跋扈する事態となった。それでもさすがに強制はなかった。校長や副校長によって、式の参列者に「起立・斉唱は強制されるものではない」という、「内心の自由の告知」もされた。教育現場にいささかの良心の存在が許容されていたと言えよう。
この教育現場の良心を抹殺したのが、2003年石原慎太郎都政2期目のことである。悪名高い10・23通達が国旗国歌への敬意表明を強制し、違反者には容赦ない懲戒処分を濫発した。この異常事態をもたらしたのは、極右の政治家石原慎太郎と、その腹心として東京都の教育委員となった米長邦雄(棋士)、鳥海巌(丸紅出身)、内舘牧子(脚本家)、横山洋吉(都官僚)らの異常な教育委員人事である。
処分は当初から累積加重が予定され、教員の思想や良心を徹底して弾圧するものとして仕組まれていた。不起立回数が増えれば確実に職を失うという恐怖の中で、多くの教員がやむを得ず強制に服してきたが、明らかに教育の場に面従腹背の異常な事態が継続しているのだ。
2004年1月以来、この国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の違憲性をめぐる訴訟が繰り返され今も続いている。違憲違法を主張する教員側は最高裁での違憲判決を勝ち得ていない。しかし、都教委側も敗北を喫している。最高裁は、処分を違憲とは言えないとした。しかし、同時に処分は抑制的でなければならず、原則として戒告にとどめるべきだとして、減給以上の処分を軒並み取り消している。
最高裁第1小法廷2012年1月16日判決は、「不起立行為等に対する懲戒において戒告を超えて減給の処分を選択することが許容されるのは、学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情が認められる場合であることを要すると解すべきである」という。「日の丸・君が代」強制が違憲とは認めないものの、都教委の横暴は許さない判断。
現在、処分取消の第4次訴訟が最高裁事件として係属している。すべての処分の違憲・無効を争うとともに、懲戒処分4回目・5回目のQ教諭の件が大きな問題となっている。
同教諭は、自分の信念に基づいて静かに着席していただけで、他に教育者としてなんの落ち度もない。これに対して、都教委は戒告を超えて減給(10分の1・1か月)を科したのだ。当然のごとく、1審も2審も、Q教諭の勝訴となった。東京地裁も東京高裁も、両減給処分を取り消した。ところが、都教委は往生際が悪い。これを最高裁に上告受理申立をしている。よもや最高裁で勝訴判決が逆転するはずはないが、原告団と弁護団は、これに対する精一杯の対応に追われている。
Qさんが起立できなかったのは、自身の生き方や教員としての思想・良心に真摯に向き合った結果としての、やむを得ない選択であった。形式的に職務命令違反にあたるとしても、その理由・動機は決して非難されるものではない。Qさんの声に耳を傾けていただきたい。
『君が代』斉唱時に、『日の丸』に向かって起立し、それらに敬意を表すという所作は、私にとっては、かつての日本によるアジアに対する侵略戦争や植民地支配のシンボルでもある歌や旗に敬意を示すということであり、私の歴史観に照らして、それらの歌や旗に敬意を示すということは、平和に生きる権利を否定し民族差別を肯定する行為なのです。したがって、私にとって、『君が代』斉唱時に起立斉唱することは、単なる『慣例上の儀礼的所作』ではありません。
東京都教育委員会は『教師が生徒に対して起立斉唱する姿を見せること、範を示すことが大切である。』と言います。しかし、本来なら反対すべき、と考えている『日の丸』や『君が代』に対して、私が起立斉唱することで敬意を表す姿を生徒に見せることは、私自身の教員としての良心が痛むのです。
私が起立斉唱すれば、生徒に対しての『日の丸』や『君が代』強制に、私自身も加担することになってしまいます。そのことは、私にとっては、自分自身の教育の理念に反する、大変に辛いことなのです。どうしても命令には従うことができないのです。
私の教員としての良心は、児童生徒に一方的な価値観をすり込んではならない。そして児童生徒の前で教員が恥じるような行為を行ってはならないというふうに考えています。日の丸や君が代に対して、生徒の前で私が敬意を表することによって児童生徒はそれらに敬意を表明することが絶対的に正しいものだというふうに理解します。そのことは一方的な価値観をすり込むことであって、私の教員としての良心がゆるしません。
Qさんは、個人の思想・信条(歴史観)とともに、自身の教員としての良心に基づいて、生徒に対して一方的な価値観を教授することはできないとする立場から、起立斉唱することができなかったのだ。都教委は、この思想も捨てよ、良心も曲げよというのである。
そして、今当面の最重要問題は、不起立の回数が増えたら、具体的には4回目・5回目の不起立となれば、「戒告を超えて減給の処分を選択することが許容される相当性を基礎付ける具体的な事情が認められる場合」に該当するかが問われている。
これに関するQさん自身の解答は次のとおりである。
私の思想・良心は1個のものです。その1個の思想・良心が、私に「日の丸・君が代」に対する起立斉唱はしてはならないと命じています。私自身は、この思想・良心を変えてはならないと考えていますし、憲法が保障する思想・良心の自由とは、私の思想・良心を変えるよう強要されないことではないでしようか。
卒業式や入学式のたびに、悩みながらも勇気を奮い起こして、思想・良心の自由を行使することになります。私が私である限り、同じ状況で同様の職務命令が出されれば、やむを得ず不起立ということになってしまうのです。
私自身に命令に従って起立せよと言うのは、思想を捨てろ、転向しろという、そういった意味になると考えています。
Qさんとしては、思想・信条を転向又は放棄しない限り、処分は免れないのであって、このような自らの歴史観や教師の良心に対する真摯な思いから起立できないQさんに対して、懲戒処分を加重することは、その思想・良心に対して過度な制約を科すこととなる。これが、現代における踏み絵の実態にほかならない。
(2019年1月10日)
1868年10月23日、150年前の今日。「明治改元の詔」なるものが出たのだという。「それがどうした?」「だからなんだ?」「改元が目出度いか?」と言いたいところだが、政府は8月10日の閣議で、政府主催の記念式典を行うことを決定。本日(10月23日)永田町の憲政記念館で「明治150年式典」が開催された。安倍政権は、明治150年を祝賀しようという。ならば、われわれは「天皇専制と戦争の近代史」を思い起こす日にしようではないか。
2003年10月23日、15年前の今日。都内公立学校の全教職員に、学校儀式における「日の丸・君が代」への起立・斉唱をを強制する「10・23通達」が発出された。当時の都知事は石原慎太郎。以来、不起立・不斉唱での懲戒処分件数は、延べ483件に上っている。都内の公立校に、思想・良心の自由はない。教育現場は荒廃している。今日は、学校現場における思想・良心の自由獲得の重大さを思い起こすべき日でもある。
100年前の今日、制度が変わったわけではない。法が制定されたのでもない。先代天皇(孝明)の死亡の日ですらない。それまでの慶應が、幾つかの候補(一説に7案)の内から、明治と決められたというだけの日。しかも、当時は旧暦で(慶応4年)9月8日だった。そして、改元の効果は、その年の旧暦1月1日に遡るとされた。10月23日に、いったい何の意味があるのか分からない。
問題は、何ゆえ明治150年が記念に値するのか。国費を投じて式典まで行う必要があるのか、ということ。
この点、8月時点で菅義偉官房長官は、「明治以降のわが国の歩みを振り返り、未来を切り開く契機としたい」と述べたにとどまる。「明治以降のわが国の歩みを振り返り」と「未来を切り開く契機」との関係がさっぱり分からない。
「明治以降のわが国の歩みを振り返りますと、天皇を国民統合の中心と戴いて国威を発揚してまいりました輝かしい時代であったと申せましょう。この我が国固有の歴史に誇りをもって、国の未来を切り開く契機にいたしたい」なのだろうか。
あるいは、「明治以降のわが国の歩みを振り返りますと、その前半は天皇制官僚と軍国主義者との横暴が猖獗を極めた専制と戦争の時代でありました。また、その後半は、専制や戦争あるいは差別を克服しようとして道半ばの時代と言わねばなりません。総じて、150年を徹底して反省することをもって、これからのくにの未来を切り開く契機にしなければなりません」ということなのだろうか。
同様のことは、「明治100年」の際にも問われた。このとき(1868年10月23日)にも政府主催の記念式典が開催された。会場は北の丸公園の日本武道館、天皇・皇后(先代)も出席してのこと。今回の式典は盛り上がりに欠ける。天皇(明仁)の出席もなかった。
ところで、本日の赤旗第2面。下記の記事が掲載されている。「明治150年記念式典・出席せず」「小池氏・趣旨に同意できない」という見出し。
小池晃書記局長は22日の記者会見で、23日に開かれる政府主催の「明治150年記念式典」について問われ、「明治150年の前半は侵略と植民地支配の負の歴史です。それと戦後を一緒にして150年をまるごと肯定する立場に、わが党は立たない」として、式典に参加しないと表明しました。
小池氏は、「閣僚の『教育勅語』容認発言のように戦前を美化したり、9条改憲によって『戦争をする国』に向かおうという安倍首相の意向が背景にある」と強調し、「式典の趣旨そのものに同意できない」と述べました。
産経が、これを記事にしている。「共産、明治150年式典欠席へ」「前半は負の歴史」という見出し。
共産党の小池晃書記局長は22日の記者会見で、東京・憲政記念館で23日開かれる明治改元150年記念式典に同党として欠席すると表明した。「150年の前半は、侵略戦争と植民地支配に向かった負の歴史がある。明治以降を丸ごと祝い、肯定するような行事に参加できない」と語った。
関係者によると、会場には国会議員向けの席が用意される予定。小池氏は式典について「教育勅語の礼賛や、憲法9条改定により戦争する国造りを進めようという安倍晋三首相の強い意思が働いている」と指摘した。
この「改元150年記念式典出席拒否」には全面的に賛同の意を表したい。「儀礼的なものに過ぎないから」「国会議員だからやむを得ない」「大所高所に立つことが大切で、目をつぶれる些細なことだから」「他の野党との連携上、やむを得ない」などといわずに、きっぱりと出席を拒否したことを評価したい。
明日(10月24日)が臨時国会の開会式。望むべくは、玉座の天皇が議場の国民代表を見下して「開会の辞」を述べるという、国民主権に屈辱的な、あの儀式への参加もきっぱりと拒否してもらいたいところ。
東京新聞(こちら特報部・2018年10月17日)は、「150年祝う政府式典 反対集会23日に同日開催 『明治礼賛』に異議あり」を特集している。下記のとおり、立派な姿勢だ。
「明治150年」を記念する政府の式典が23日、東京都内で開かれる。近代国家の礎を築いた栄光の時代をたたえる趣旨だが、同じ日、アジア侵略につながった負の歴史を批判する団体も反対集会を開く。平等を説きながら差別をなくせなかった時代を礼賛するとして、沖縄の人々やアイヌ民族も複雑な思いを抱く。改憲に前のめりの安倍政権で迎える節目は、どんな意味を持つのか。
10月21日、「10・23通達」抗議の集会が開催されている。明治150年、その前半は暗黒の時代だった。後半も人権や民主主義にとってけっして明るいばかりの時代ではないことを「10・23通達」による「日の丸・君が代」強制の実態が教えている。常に、権力に対する抗議が必要なのだ。
日の丸・君が代の強制を合理化してはならない。「儀礼的なものに過ぎないから」「教員だからやむを得ない」「大所高所に立つことが大切で、目をつぶれる些細なこと」「世論状況でやむを得ない」などといわずに、きっぱりと「日の丸・君が代」強制に抗議の声を上げていただきたい。
**************************************************************************
下記は、本日付赤旗の「主張」。「明治150年・近代日本の歩み検証する視点」というタイトル。さすがに赤旗、この論説は、行き届いた正論である。赤旗とは無縁な人のために、全文を紹介しておきたい。
「上からは明治だなどというけれど 治明〈おさまるめい〉と下からは読む」―徳川幕府が倒れて明治新政府ができたとき、東京と改称された江戸の民衆はこんな狂歌をよんだと伝えられています。
150年前の1868年、旧幕府側と薩摩・長州両藩を中心とする新政府軍との間で戊辰戦争が始まり、新政府は「五箇条の誓文」を公布し、江戸城が無血開城されました。そして、年号が慶応から明治に改元されました。
特異な一面的礼賛の姿勢
きょう政府は都内で「明治150年記念式典」を開催します。1868年10月23日に明治改元があったことを記念し「明治以降の我が国の歩みを振り返り、これからの未来を切り開く契機とする」(菅義偉官房長官)との触れ込みです。安倍晋三政権は2年前から「明治150年」キャンペーンを展開してきました。
首相自身、今年の年頭所感で「明治日本の新たな国創りは、植民地支配の波がアジアに押し寄せる、その大きな危機感と共に、スタートしました」「近代化を一気に推し進める。その原動力となったのは、一人ひとりの日本人」と強調しました。きわめて一面的な「明治」礼賛です。戦前と戦後の違いを無視した時代錯誤の危険な歴史観がにじんでいます。
明治維新によって身分制が改められるなど、政治変革の激動のもとで急速な近代化が進んだのは事実です。しかし、明治政府がおこなったのは「富国強兵」「殖産興業」の名のもとに、資本主義化を推進し、労働者や農民から搾取と収奪をすすめることでした。
それと並行して、欧米列強に対抗するために徴兵令(1873年)を公布し、台湾出兵(74年)や江華島事件(75年)などアジアへの侵略の歩みを進めました。また、蝦夷地(えぞち)を「開拓」してアイヌ民族を差別し、琉球処分を強行して沖縄を一方的に支配下に組み込みました。国民の政治参加を求めた自由民権運動は抑え込まれました。
明治政府がうちたてたのは、大日本帝国憲法(1889年)のもとで、国を統治する全権限を天皇が握る専制政治でした。そのうえ教育勅語(90年)を制定し、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」―つまり“国家危急の時は天皇のために命をささげよ”と国民に強要しました。
戦前の日本共産党幹部で1934年に獄死した野呂栄太郎は、著書『日本資本主義発達史』(30年刊行)で、明治維新を「資本家と資本家的地主とを支配者たる地位につかしむるための強力的社会変革」と指摘し、それによって生まれた政治権力を「絶対的専制政治」と明快に特徴づけています。
明治政府は、日清・日露戦争を経て台湾や朝鮮半島を植民地化しました。昭和に入り1931年から中国への侵略戦争を開始、45年の敗戦までにアジア2000万人以上、日本国民310万人以上の犠牲をもたらしたのです。
根本に侵略戦争の肯定が
「明治150年」キャンペーンは、安倍政権が「日本会議」など過去の侵略戦争を肯定・美化し、歴史を偽造する勢力によって構成され、支えられていることと深く結びついています。過去の戦争の反省に根ざした日本国憲法の精神にたち、近代日本の歩みを検証することが強く求められています。
(2018年10月23日)
「人はパンのみにて生くるものにあらず」は、古今を通じての出色の名言。
マタイ伝の文語訳では、「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」となっているそうだが、これは凡人の一文。後半を切り捨てることによって、名言となった。
「人」の対語は、禽獣である。禽獣にとっては、生きるための糧を得ることが、生きることのすべてである。しかし、人はパンを糧にした肉体の維持でこと足れりとはならない。人が人たるには、そして自分が自分たるには、固有の精神生活が不可欠なのだ。
人の精神生活は本来的に極めて多様である。極めて多様な精神生活のあり方が、人の多様な個性を形作る。人それぞれに関心の対象も趣味も嗜好も異なる。思想も信仰も感性もさまざまである。歴史の知恵は、社会も国家も、可能な限り人の精神生活の多様性に寛容でなくてはならないことを教えている。
おそらく、「奴隷とはパンのみにて生くることを余儀なくされた者」である。奴隷には、パンを糧にした肉体の維持のみが保障され、精神生活の自由の保障がない。この点において、禽獣ないしは獣畜と同様の扱いである。したがって、奴隷は人でありながら人でない。人として扱われない人ということになる。
人の精神生活の基礎には自尊の心情がある。また、極めて多様な他人の精神生活に寛容であるためには、他の人の人格の尊厳を認めなくてはならない。寛容とは、人を差別せず、すべての人の人格の尊厳を認めるということである。
すべての人は、等しく人格の尊厳を有しているのだ。これが、この社会の公理である。人格の尊厳を否定する最も極端な行為が殺人である。他人を傷害し欺し盗むことも他人の人格の尊厳を損なう罪悪である。同様に人を差別することは、差別された人の人格の尊厳を損なう点において罪悪にほかならない。
人種・民族・性・心身の障害によって、また出自によって人を差別することは、人の先天的な属性によって、人格の尊厳を傷つける罪悪である。信仰や思想による差別も、深刻に人格の尊厳を損なう罪悪である。
差別の痛みは、常に差別される少数派にある。多数派の同調圧力が少数派の人権をないがしろにする。多数派には、少数派の思想や信仰を侵害することのないよう配慮が求められる。
さて、ここから具体的な問題について触れておきたい。
少数派に対する思想差別とは、多くの場合多数派の社会的同調圧力が少数派の人格を侵害するものであるが、社会的同調圧力が政治権力と結びつくときには、深刻な事態となる。ナショナリズムに関する思想問題がその典型といえよう。
最も警戒すべきは、愛国心の押しつけである。国民国家の多数派は、社会的同調圧力によって全国民に愛国心を強要するだけでなく、政治権力をもって愛国の行動を強制する衝動をもっている。愛国派は、無邪気ににも「愛国こそ正義」と信じて疑わないからである。
「日の丸・君が代」の強制は、そのようなナショナリズムの負の側面が強く表れたものである。これは、愚かというだけではなく、文明に反する野蛮な権力の行為というほかはない。
「人はパンのみにて生くるものにあらず」とは、すべての人に侵しがたい精神生活の尊厳が必要であることを喝破している。それゆえに名言なのだ。「日の丸・君が代」を受容しがたいという思想信条や信仰を有する人に、「起立せよ・斉唱せよ」と強制する為政者は、この名言を肝に銘じて反省しなければならない。
**************************************************************************
明日(2018年10月21日(日))は、日本軍国主義による「学徒出陣」の日。また、「国際反戦デー」の日。「子どもたちを再び戦場に送らない」決意を新たにする日。この日に、「学校に自由と人権を!10・21集会」が開催される。
時 13時15分開場 13時30分開会
所 千代田区立日比谷図書文化館(日比谷公園内 日比谷野外音楽堂隣)
講演「経済を壊死させる下心政治?さらば闇軍団?」
浜矩子(同志社大学教授・経済学・アベノミクス批判)
講談「三面記事の由来」(明治の反戦ジャーナリストの物語)
甲斐淳二さん(社会人講談師・香織倶楽部所属)
特別報告「『君が代』訴訟と憲法」
加藤文也弁護士(東京「君が代」裁判弁護団)
(2018年10月20日)
アメリカではなく、オーストラリア国歌の斉唱拒否が話題となっている。拒否者が9歳の女児だということと、これに保守派の政治家が大仰に噛みついたことで、大きなニュースになった。いろんなことを考えさせられるし、考えなければならない。
知らなかったが、オーストラリア国歌の題名は、『Advance Australia Fair (アドヴァンス・オーストラリア・フェア)』というのだそうだ。「進め 美しきオーストラリア」などと訳されるようだ。中国国歌の「前進!前進!前進!進!」を想起させる。一般に、国家は「Advance」や「前進!」が大好きなのだ。
ネットで、幾つかの訳詞を見ることができる。以下はその一つ。
オーストラリアの同胞たちよ
喜ぼうではないか 我々は若くて自由だ
苦労して手に入れた黄金の地と富
海に囲まれた我が国に与えられた
美しく豊富で貴重な自然の恵み
歴史の中でとこしえに歩まん
進め 美しきオーストラリアよ!
喜びのメロディにのせて歌おう
進め 美しきオーストラリアよ!
輝きを放つ南十字星の下で
我が国の名を世界中に知らしめるため
我々は誠実に努力を続けよう
海を渡りて来たりし者達のため
限りなく広がる平原を分かち合おう
勇気を持ちて団結しよう
進め 美しきオーストラリアよ!
喜びのメロディにのせて歌おう
進め 美しきオーストラリアよ!
この訳詞の印象として直接には、自国第一主義も、排外主義も、独善も、宗教色も、王も君主も出てこない。原詩のニュアンスは私にはよく分からないが、国歌の歌詞としては平凡で無難な内容に思える。しかし、この歌詞に問題ありとして、斉唱を拒否された。9歳の少女によって。「問題あり」との指摘を念頭にこの歌詞を読み直すと、なるほど、大いに問題はありそうだ。
CNNが国際ニュースとして配信した記事のヘッドラインは、「国歌斉唱の起立拒んだ9歳女児、政治家が集中非難 オーストラリア」というもの。リードは次のとおり。
「オーストラリア東部クィーンズランド州の公立学校に通う9歳の女子児童が、先住民に敬意を表して国歌斉唱時の起立を拒み、大物政治家らの集中非難を浴びている」
渦中の生徒、ハーパー・ニールセンさん(9)はCNN系列局ナインニュースの取材に対し、「オーストラリア先住民に対して礼を欠くとの考えから、国歌斉唱の際に起立しなかった」と説明したという。同国の国歌「アドバンス・オーストラリア・フェア」には、「オーストラリア国民よ、皆で喜ぼう、我々は若く、自由なのだから」という一節がある。この点を、ニールセンさんは、「我々は若い、という一節は、私たちより前に5万年もこの地にいた先住民のオーストラリア人(アボリジニ)を完全に無視している」と訴えている。また、「国歌のアドバンス(「前進」)は白人のこと」だとも。
過激な発言で知られる右派のポーリン・ハンソン上院議員は、12日にビデオ声明を発表し、学校が子どもたちを「洗脳している」と主張。ニールセンさんを学校から「追い出せ」とかみついた。クィーンズランド州の影の内閣の教育大臣でもある自由国民のジャロッド・ブリージー議員は、ニールセンさんを「悪がき」呼ばわりし、両親にも矛先を向けた。また、トニー・アボット元首相はシドニーのラジオ局2GBに対して11日、「国歌斉唱の際に起立するのはマナーの良さと礼儀の表れ」とコメントしたという。
こうした批判に対し、父のマーク・ニールセンさんは、娘の行動を「非常に勇敢」と評価。学校長と面談したが、まだ合意には至っていないと話している。
9月12日のAFP記事で事実関係を補う。ハーパー・ニールセンさん(9)は先週、国歌「進め、美しのオーストラリア(Advance Australia Fair)」斉唱の際に起立を拒否し処罰された、という。
この一件が12日に地元メディアで報じられた後、ハーパーさんは豪ABC放送に対し「最初にこの曲が書かれたとき、『進め、美しのオーストラリア』の意味は、オーストラリアの白人よ進めという意味でした」「それに『私たちは若い』という歌詞は、私たちよりも前からここにいたオーストラリアの先住民を完全に無視しています」と語った。
クイーンズランド州の教育局によると、学校長は別の抗議方法がないかを話し合うために、ハーパーさんおよび両親と面談したという。同局の報道官は「学校は児童の希望を尊重しており、ホールの外に出るか、国歌が流れている間は歌わずにいるといった別の方法を提案した」と述べた。
国歌に対するハーパーさんの態度は、米ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)の選手たちが膝をついて行った抗議同様、オーストラリアで最も著名な保守派の人物らをいら立たせている。
豪ラグビー代表の元コーチで、ラジオの過激なディスクジョッキーに転身したアラン・ジョーンズ氏は、「規則」に異論があるならば、ハーパーさんの両親には学校をやめるよう言うべきだと発言。
また、こうした論争を呼ぶ問題に乗じて発言し、キャリアを築いてきた政治家のポーリーン・ハンソン氏(64)はハーパーさんを「ガキ」呼ばわりし、「ここに洗脳された子どもがいる。こういう子には尻に蹴りを入れてやろう」と語る動画をフェイスブックに投稿した。
ポーリーン・ハンソンなるお粗末な「政治家」に問いたい。
ハーパーさんを「洗脳された子ども」と決め付ける根拠を聞かせてもらいたい。どうして、国旗に敬礼する子どもには「洗脳された」と言わないのかも。あなたが、国旗国歌に敬意を表明しなければならないとする理由も教えてもらいたい。そして、あなたがニールセンさんを学校から「追い出せ」と叫ぶ権利の根拠についても。さらには、先住民差別を不当とする価値判断よりも、国歌に敬意を表明する愛国心の高揚が優越するという理由についも。
実は、あなたの方こそ、洗脳されて寛容さを失っているのではないか。愛国心とは本当に道徳上の徳目なのか。国家とは、こんなにも硬直に人の考え方を縛ってよいものなのか。すべての価値に絶対的な優劣の序列はなく、価値の多様性を認め合うことこそが民主主義社会の基本原則ではなかったか。
保守派のデスクジョッキーだというアラン・ジョーンズにも聞きたい。
「規則に異論があるならば、学校をやめろ」とは、聞き捨てならない。人と規則とどちらが大事なのか。どんな不当な規則にも異論を述べてはならないのか。どんな不当な規則も人を縛るのか。起立して国歌を斉唱せよという規則の合理性は、いったいどこにあるのか。人種差別する国家は敬意を表するに値する存在なのか。そもそもこの国歌がいう「We」とは、だれを指しだれを除外しているのか。だれであれ、真面目に考えての結論が「起立・斉唱の拒否」であれば、規則に異論を言うべきが当然でと思わないか。オーストラリアとは、それをも許さない非寛容な社会なのか。
私はハーパー・ニールセンさんに脱帽し、敬意を表する。先住民に対する差別の存在を国歌の歌詞に読みとった、その共感能力と鋭敏さとに。そしてなによりも、差別を許さないとする信念を貫き通すその毅然とした姿勢に。
形式的な愛国よりも、差別を許せないとすることが遙かに重要だとするあなたの価値判断を私は支持する。そして、あなたの姿勢に学びたいと思う。
**********************************************************************
いまこそウソとごまかしの「安倍政治」に終止符を! 賛同署名のお願い。
https://article9.jp/wordpress/?p=11058
安倍政治に即刻の終止符を求める人々の熱い言葉の数々。
https://article9.jp/wordpress/?p=11073
ネット署名にご協力を。そして、是非とも拡散をお願いします。
9月10日に開始して、賛同者は本日(14日)6000筆を上回っています。
署名は、下記URLからお願いいたします。
https://bit.ly/2MpH0qW
(2018年9月14日・連続更新1993日)
『天狗裁き』は、実によくできた面白い噺。奇想天外なこのストーリーを考え出した才能には脱帽するばかり。志ん生が得意とする演目という印象だが、実は典型的な上方話で、今も上方で語られているという。
寝ていた八五郎が女房に揺り起こされる。
「おまえさん、どんな夢を見ていたんだい?」
「夢なんか見ちゃいないよ」
「いいや見ていた。女房に隠し事をするのかい」
「ほんとうに見ていないんだってば」
「見たけど言いたくないんだろう。なんて人だ」
夫婦喧嘩に長屋の隣人が割って入る。
「まあまあ、ここは俺に任せて」
「ところで八五郎。どんな夢を見ていたんだい?」
「いやだな、夢なんか見ちゃいないんだよ」
「女房には話せなくても、兄弟分のオレになら話せるだろう」
「見てないものは話せないじゃないか」
「何だこの野郎、どうしても話せないっていうのか」
押し問答から喧嘩に。大家が仲裁に入る。
「ところで八五郎。大家になら話せるだろう。どんな夢を見ていたんだ?」
「困ったな大家さん、ほんとうに夢なんか見てないんだ」
「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然。親に隠しごとをするのか」
「なんと言われても、見てねえ夢の話しはできない」
「そこまで言うんなら、奉行所に訴え出てしゃべらしてやる」
「これ、八五郎。どんな夢を見た? 奉行になら話せるであろう」
「夢なんか見てないんだ。話しようがないじゃありませんか」
「不届きな奴。お前は奉行が恐くないのか」
「お奉行様は恐い。天狗様の次に恐い」
「ならばこの件、天狗に裁かせよう」
哀れ、八五郎。縛り上げられて山奥の木のてっぺんに吊るされてしまう。現れたのは大天狗。
「八五郎。ここでなら、だれに聞かれる心配もない。ワシだけに、どんな夢を見たか話してみよ」
「困ったな。ほんとうに夢を見ていないんだから話しようがありません」
「この期に及んで隠しごとをするとは怪しからん。八つ裂きにしてやる」
八五郎は絶体絶命。
うなされた八五郎は女房に揺り起こされる。
「お前さん、どんな夢を見ていたんだい?」
噺が最初に戻る、きれいな「回りオチ」を意識しての筋立て。志ん生のCDを聞くと、こうなっていない。女房が「お眠りよ。縁起のよい夢を見て運をつかみな」「お眠りってば」で始まる。終わり方も違う。天狗に脅された熊五郎(志ん生の噺での主人公)は、天狗を欺して羽団扇を取りあげ空中遊泳する。そればかりか、長者の娘を助けてその家の婿に収まる…、ところで目が覚める。「夢だったか」。
「夢オチ」だが、「回りオチ」にはなっていない。志ん生は、オチのかたちにこだわらなかったのだろう。庶民の「夢」の話し、少しは明るく楽しい夢のサービスをしてくれたのかもしれない。
さて、この噺。笑ってばかりもいられない。外からは窺い知ることができないのが人の内心。その窺い知ることができない他人の内心を知りたいのが人情というもの。家族や友人が好奇心から教えてくれという程度ならともかく、社会的な強者や権力者が内心を明かせと強制するとなると、ことは重大である。
この噺でしゃべれと言われたのは「夢」だったが、権力者が最も知りたいのは、人の内心にある思想であり信仰である。橋下徹や野村修也がアンケートで回答を強制したのは、労働組合活動歴や政治家の応援への参加歴だった。どんな内容であれ、人は自分の内心をさらけ出す義務はない。だれにも、内心の探知を拒否する権利がある。思想・良心の自由の重要な一側面として、「沈黙の自由」が保障されているのだ。自分の精神の主人は自分以外にあり得ないのだから、当然と言えば当然のこと。
「夢」だって、人に話したくなる夢ばかりではない。話したくないものは話さなくてもよい。究極は、犯罪を犯したことを知られたくはない。その自白を拒否する自由も保障されている。犯罪に限らず、自分を不利に陥らせることについて、「自己負罪免責特権」が認められている。人格の尊厳がなによりも大切だからだ。
だから、八五郎。本当は夢を見ていたによ、いないにせよ。夢のことはしゃべらないでよい。「どんな夢を見たか話せ。話さなければ縛り上げて木に吊す」などと強要してはならない。「しゃべらないと処罰するぞ、処罰されたくなければしゃべれ」は沈黙の自由の侵害である。「踏み絵を踏め。踏まなければ処罰するぞ」「起立・斉唱して国旗国歌に敬意を表明せよ。でなけば処分するぞ」も、同様である。
八五郎の時代と今と。権力の建前は大きく変わった。しかし、権力の実態は果たしてどれだけ変わっただろうか。奉行と裁判所と、実はこちらも旧態依然ではないだろうか。
**************************************************************************
昨日(9月6日)早朝、最高震度7の激震が北海道胆振地方を襲った。関西での台風被害報道に引き続く震災報道。次第に明らかになってくる自然の猛威と被害の甚大さに唖然とするばかり。深甚のお見舞いと復興を祈念申し上げたい。
阪神・中越・三陸・熊本・大阪、そして今回は北海道。日本中、どこで起きても不思議のない震災被害。その対策のための防災予算措置は微々たるものだという。防衛予算5兆円超とはなんと勿体ない。イージス・アショアもオスプレイも、辺野古の新基地も、思いやり予算も要らない。地震や台風への万全の備えのためにこそ、国家予算を使うべきだろう。災害対策の費用は、防衛費と違って、けっして無駄金にも捨て金にもならないのだから。
(2018年9月7日)
これは快挙だ。米スポーツ用品大手のナイキが、新広告キャンペーンのイメージキャラクターに、渦中のNFL選手コリン・キャパニックを起用した。キャパニックといえば、米国の黒人差別に抗議して国家への敬意表明を拒否したスーパースター。国歌斉唱中に起立せず、片膝を付く姿勢(Take a Knee)をとり続けた叛骨の人。その影響力から、俗物トランプとその取り巻きのバッシングを一身に受けて、一歩も引かない人物。今や二つに分かれたアメリカの、理性の半面を象徴する立場となった。
このキャパニックを指して、「国旗を侮辱した人がいた時に、『あのバカ者をフィールドから降ろせ。あいつはクビだ! あいつはクビだ!』とNFLのオーナーが言うのを聞きたいと思わないか?」と演説したのが、ドナルド・トランプという保守派のポピュリスト。アメリカの暗愚の半面を象徴する人物。
アメリカは広い。懐は深い。愚かなトランプ支持者だけがアメリカではないのだ。キャパニックやこれを支持するナイキが、もう一面の別のアメリカを構成している。ナイキのキャパニック起用は、この二つのアメリカが衝突するテーマ。それだけに、ナイキの並々ならぬ決意が窺える。
今回ナイキが発表したキャンペーンの画像では、大写しのキャパニックの顔写真に、“Believe in something, even if it means sacrificing everything”というメッセージが添えられている。我流で、「信じよう。たとえ全てを失っても守るべきものがあることを」と訳してみた。そのsomethingとは、自らの信念に忠実であることの価値、あるいは人種や民族や宗教や言語の差異を超えて人はすべて平等であるという信念、であろう。国家や社会の圧力に屈することなく、たとえ非難を受け、職を失っても、自己の信念に忠実であれという刺激的メッセージ。このキャパニックとナイキの心意気を素晴らしいと思う。
消費者とは、品質と価格だけで商品選択をする存在ではない。少なくも、自覚的な賢い消費者は、市場での商品選択を通じて、社会をよりよいものとする努力をすべきなのだ。ナイキが、人種や民族の平等の価値を意識的に自らのブランドとしているのであれば、人間の平等の実現に賛意を表する消費者は、ナイキの商品を積極的に選択しなければならない。
一方、その正反対に民族差別を公言して恥じない経営体であるDHC・吉田嘉明などの商品を買ってはならない。DHC商品を買うことは、社会の差別を容認し助長する恥ずべき行為なのだ。もちろん、DHCの問題性は差別だけではない。デマとヘイトとスラップとで3拍子揃った反社会性、これに政治家への裏金問題を加えればグランドスラム。「買ってはいけないDHC」「良い子は買わないDHC」なのだ。
ところで、キャパニックの行為は、国家に対する敬意表明の拒否であり抗議でもある。キャパニックの信ずるものは、人の平等という前国家的な価値である。白人も有色人種も同じ尊厳をもつ人間として、国家から平等に扱われなければならない。ところが、米国という国家は、この価値を貶めているものとして敬意を表明するに値しないのだ。極めてわかりやすい。
これに対して、キャパニックの行為を非難する者たちの理由や根拠は分かりにくい。敢えて言えば、国家というものの神聖性というしかない。国家とは、人種差別をしようが、他国を侵略しようと、国家であるだけで神聖であって国民はこれに敬意を表明することが当然で、国家への抗議などもってのほかなのだ。これは、一神教の神に対する信仰以外のなにものでもない。
キャパニックの行為を非難するアメリカの半分は、国家の神聖性という信仰をもっているのだ。トランプを初めとする多くの人々の、知性と理性を投げ捨てた、暗愚な精神に棲み着いた信仰。そう、かつての大日本帝国の時代に、天皇を神として、ご真影や「日の丸・君が代」に、盲目的な敬意の表明を強制したあの時代のごとくに。
日米とも、今なお国家至上主義の信仰と闘っている、理性の人々がいる。星条旗に抗議する人々、「日の丸・君が代」起立斉唱の強制を受け容れない人々に、深く敬意を表する。彼らは、「it means sacrificing everything」を覚悟して、「Believe in something」の姿勢を貫いているのだ。
(2018年9月6日)
昨日(8月4日)の朝日に、樋口英明・元福井地裁裁判長のインタビュー。大飯原発訴訟の1審を担当して差し止め認容の判決を出した人。大きな見出しが、「原発は危険、判決の信念」「規準を超える地震『来ない』根拠なし 再稼働認めぬ判断」。そして、「行政の裁量逸脱 司法の介入やむを得ない」。よくできた良質のインタビューで、多々考えさせられる。
「裁判官は弁明せず」が美徳とされる。しかし、「弁明せず」は場合によっては無責任を意味する。行政に説明責任が求められているのと同様に、裁判官にも批判を恐れずに自分の判決について発言することを求めたい。それこそ裁判官の責任のとりかたではないか。独善や人事権者に追従の判決を改善することにもつながるだろう。同裁判官は既に退官しており、「大飯原発訴訟の控訴審判決が出て確定したので、インタビューに応じました」としている。
このインタビュー記事、ネットでも読むことができる。(もっとも、見出しが少しちがっているようだが)。https://www.asahi.com/articles/DA3S13620670.html
リードは以下のとおり。「福島の原発事故後では初めて、運転差し止めを命じた関西電力大飯原発3、4号機をめぐる2014年の福井地裁判決。しかし、控訴審で名古屋高裁金沢支部は7月、一審判決を取り消し、住民の請求を棄却する逆転判決をした。一審で裁判長を務め、昨年8月に退官した樋口英明さん(65)に、判決に込めた思いを聞いた。」
原発の危険性のとらえ方が随所に語られている。
「私が一審判決で指摘した点について具体的に反論してくれ、こんなに安全だったのかと私を納得させてくれる判決なら、逆転判決であっても歓迎します。しかし、今回の控訴審判決の内容を見ると『新規制基準に従っているから心配ない』というもので、全く中身がない。不安は募るばかりです」
「(日本の原発の現状は)小さな船で太平洋にこぎ出している状況に等しいと思います。運がよければ助かるかもしれませんが、そうでなければ日本全体が大変なことになります。一国を賭け事の対象とするようなことは許されるはずがありません」
「(再稼働を認めぬ方向に心証が傾いたのは)過去10年間に4カ所の原発所在地で、原発の耐震設計の根幹となる基準地震動(想定する最大の揺れ)を超える地震が5回も発生したことを知った時ですね。…争点は強い地震が来るか来ないかという点にあり、どちらも強い地震に原発が耐えられないことを前提に議論しているのです。そのこと自体が驚きでした」
「わが国で地震の予知に成功したことは、一度もありません。」「将来の最大の揺れを予測する算式は、仮説に過ぎません。それを原発の耐震性の決定に用いることは許されません」「なにしろ大飯原発の(基準地震動)700ガルというのは、私が住んでいる家に対して住宅メーカーが保証している3400ガルに比べてもはるかに小さい値なんですよ。原発は私の家より地震に弱い」
原発差し止め訴訟の現状に関して、次のような注目すべき発言もある。
――「3・11」後、原発の運転差し止めを命じる判決、仮処分は樋口さんの2件を含め4件です。
「少なすぎます。裁判官が原発の生(なま)の危険性に正面から向き合えば、差し止めの判断が出るはずです。裁判官教育の際に『裁判官は絶大な権限を与えられているので、その行使については謙虚かつ抑制的であれ』と教えられることが、必要以上に裁判官を萎縮させている面があると思います」
――(「裁判所組織は最高裁を頂点とした一枚岩で政権に迎合しているといった、単純な図式は間違い」という発言を承けて)ただ、樋口さんの後任の裁判長を含め、高浜原発の決定に対する異議審を担当した裁判官は3人とも最高裁事務総局付きを経験した「エリート裁判官」。樋口さんが出した運転差し止めの仮処分を取り消しました。
「2人までは偶然で説明できますが、3人とも事務総局経験者というのは珍しいと思います。人事の意味はよくわかりませんが、何らかの示唆を受けて赴任した可能性はあると思います。ある裁判官が原発立地県の地裁に異動する際に、上司から『裁判官がこうした事件の判断に必要な高い専門技術性は持っていないことはわかっているだろうね』と言われた、という話を聞いたことがあります」
――国のエネルギー政策に関しては、国民から選挙で選ばれた国会や内閣が決めるべきで、裁判所が決めるのはおかしいという意見もあります。
「今回の控訴審判決も、『その当否を巡る判断は司法の役割を超えるものであり、立法府や行政府による政治的な判断に委ねられるべき事柄』と述べています。私は本来、行政の裁量権を重視する立場ですが、原発の危険性を顧みずに運転を認めるのは、裁量権の範囲をはるかに逸脱しています。そういう場合、司法が介入することもやむを得ません」
ところで、このインタビュー記事には「愛国心」が出て来る。次のような使い方で。
――「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である」の文にも驚きました。
「これを書かせたのは、自分で言うのもなんですが『愛国心』だと思っています。判決当時、私はネット上で『左翼裁判官』などと批判されましたが、本当の保守は原発に反対すべきだと思います」
ここに出て来るキーワードは、「愛国心」と「左翼裁判官」と「本当の保守」。
国策である原発推進に楯突く判決を書くような者には、「左翼裁判官」とレッテルを貼られる現実があることが語られている。しかし、樋口は、自分にこの判決を書かせたのは「愛国心」だという。左翼的心情からではなく、ということは国家性悪説とでもいう立場からの判決ではなく、自分の内なる「愛国心」が判決と判決書きにおける表現の動機だったのだという。
その判決部分は、「たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが、国富の喪失であると当裁判所は考えている。」というもの。これが「愛国心判決」ないしは、「愛国心的判決説示」というわけだ。
樋口の「本当の保守は原発に反対すべきだと思います」は、「愛国心」とは本来が保守のもの。国富喪失の危険ある原発には、愛国心あるものは反対せよ、本当の保守(愛国心を大切にする立場?)なら当然に反対すべきだというのだ。
個人の自由と民主主義と平和こそが、強靱で豊かな国の姿だ。これを歪める国旗・国歌(日の丸・君が代)強制への反対こそが愛国心のしからしめるところ。「本当の保守は国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制に反対すべきだと思います」ともいうべきであろう。
(2018年8月5日)