憲法と落語(その3) ― 「天狗裁き」は、〈沈黙の自由〉を語っている。
『天狗裁き』は、実によくできた面白い噺。奇想天外なこのストーリーを考え出した才能には脱帽するばかり。志ん生が得意とする演目という印象だが、実は典型的な上方話で、今も上方で語られているという。
寝ていた八五郎が女房に揺り起こされる。
「おまえさん、どんな夢を見ていたんだい?」
「夢なんか見ちゃいないよ」
「いいや見ていた。女房に隠し事をするのかい」
「ほんとうに見ていないんだってば」
「見たけど言いたくないんだろう。なんて人だ」
夫婦喧嘩に長屋の隣人が割って入る。
「まあまあ、ここは俺に任せて」
「ところで八五郎。どんな夢を見ていたんだい?」
「いやだな、夢なんか見ちゃいないんだよ」
「女房には話せなくても、兄弟分のオレになら話せるだろう」
「見てないものは話せないじゃないか」
「何だこの野郎、どうしても話せないっていうのか」
押し問答から喧嘩に。大家が仲裁に入る。
「ところで八五郎。大家になら話せるだろう。どんな夢を見ていたんだ?」
「困ったな大家さん、ほんとうに夢なんか見てないんだ」
「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然。親に隠しごとをするのか」
「なんと言われても、見てねえ夢の話しはできない」
「そこまで言うんなら、奉行所に訴え出てしゃべらしてやる」
「これ、八五郎。どんな夢を見た? 奉行になら話せるであろう」
「夢なんか見てないんだ。話しようがないじゃありませんか」
「不届きな奴。お前は奉行が恐くないのか」
「お奉行様は恐い。天狗様の次に恐い」
「ならばこの件、天狗に裁かせよう」
哀れ、八五郎。縛り上げられて山奥の木のてっぺんに吊るされてしまう。現れたのは大天狗。
「八五郎。ここでなら、だれに聞かれる心配もない。ワシだけに、どんな夢を見たか話してみよ」
「困ったな。ほんとうに夢を見ていないんだから話しようがありません」
「この期に及んで隠しごとをするとは怪しからん。八つ裂きにしてやる」
八五郎は絶体絶命。
うなされた八五郎は女房に揺り起こされる。
「お前さん、どんな夢を見ていたんだい?」
噺が最初に戻る、きれいな「回りオチ」を意識しての筋立て。志ん生のCDを聞くと、こうなっていない。女房が「お眠りよ。縁起のよい夢を見て運をつかみな」「お眠りってば」で始まる。終わり方も違う。天狗に脅された熊五郎(志ん生の噺での主人公)は、天狗を欺して羽団扇を取りあげ空中遊泳する。そればかりか、長者の娘を助けてその家の婿に収まる…、ところで目が覚める。「夢だったか」。
「夢オチ」だが、「回りオチ」にはなっていない。志ん生は、オチのかたちにこだわらなかったのだろう。庶民の「夢」の話し、少しは明るく楽しい夢のサービスをしてくれたのかもしれない。
さて、この噺。笑ってばかりもいられない。外からは窺い知ることができないのが人の内心。その窺い知ることができない他人の内心を知りたいのが人情というもの。家族や友人が好奇心から教えてくれという程度ならともかく、社会的な強者や権力者が内心を明かせと強制するとなると、ことは重大である。
この噺でしゃべれと言われたのは「夢」だったが、権力者が最も知りたいのは、人の内心にある思想であり信仰である。橋下徹や野村修也がアンケートで回答を強制したのは、労働組合活動歴や政治家の応援への参加歴だった。どんな内容であれ、人は自分の内心をさらけ出す義務はない。だれにも、内心の探知を拒否する権利がある。思想・良心の自由の重要な一側面として、「沈黙の自由」が保障されているのだ。自分の精神の主人は自分以外にあり得ないのだから、当然と言えば当然のこと。
「夢」だって、人に話したくなる夢ばかりではない。話したくないものは話さなくてもよい。究極は、犯罪を犯したことを知られたくはない。その自白を拒否する自由も保障されている。犯罪に限らず、自分を不利に陥らせることについて、「自己負罪免責特権」が認められている。人格の尊厳がなによりも大切だからだ。
だから、八五郎。本当は夢を見ていたによ、いないにせよ。夢のことはしゃべらないでよい。「どんな夢を見たか話せ。話さなければ縛り上げて木に吊す」などと強要してはならない。「しゃべらないと処罰するぞ、処罰されたくなければしゃべれ」は沈黙の自由の侵害である。「踏み絵を踏め。踏まなければ処罰するぞ」「起立・斉唱して国旗国歌に敬意を表明せよ。でなけば処分するぞ」も、同様である。
八五郎の時代と今と。権力の建前は大きく変わった。しかし、権力の実態は果たしてどれだけ変わっただろうか。奉行と裁判所と、実はこちらも旧態依然ではないだろうか。
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昨日(9月6日)早朝、最高震度7の激震が北海道胆振地方を襲った。関西での台風被害報道に引き続く震災報道。次第に明らかになってくる自然の猛威と被害の甚大さに唖然とするばかり。深甚のお見舞いと復興を祈念申し上げたい。
阪神・中越・三陸・熊本・大阪、そして今回は北海道。日本中、どこで起きても不思議のない震災被害。その対策のための防災予算措置は微々たるものだという。防衛予算5兆円超とはなんと勿体ない。イージス・アショアもオスプレイも、辺野古の新基地も、思いやり予算も要らない。地震や台風への万全の備えのためにこそ、国家予算を使うべきだろう。災害対策の費用は、防衛費と違って、けっして無駄金にも捨て金にもならないのだから。
(2018年9月7日)