澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

菅さんよ、もすこしシャキッとしておくれ。

(2021年7月28日)
 昨日(7月27日・火)のコロナ新規感染確認者数が衝撃的だった。東京2848人、全国7629人である。神奈川758、大阪741という人数にも驚かざるを得ない。正直、背筋が寒くなる。かけっこだの、ボール投げなどに興じているときではあるまい。

 4連休明けという特殊な事情はあるのかも知れないが、東京の7日間平均は1732.6人で前週の149.4%だという。一週間ごとに5割増。これは恐ろしい。来週の火曜日、8月3日には東京は4000人を超え、全国では1万人を超えることを示唆している。他にも原因はあろうが、オリンピックの開催が裏目に出たことは間違いない。

 この事態に最高責任者である菅義偉、さぞや肝を冷やしているだろうと思いきや、さにあらず。まるで他人ごと。どこ吹く風の趣き。前任者もそうだったが、下々の心情が分からない。分かろうともしないのだ。

 首相官邸のホームページに、昨日の「東京都の新規感染者数が過去最多となったこと等についての会見」が掲載されている。その全文を掲出して、これにコメントさせていただく。
https://www.kantei.go.jp/jp/99_suga/statement/2021/0727kaiken.html

 「先ほど関係閣僚で会談いたしました。東京都で新規感染者が、今言われましたように過去最高ということで、また全国的にも増え続けております。」

 菅さんよ。真っ先に、「専門家の皆様」の意見を聞かなきゃならないんじゃないの。今回は都合が悪いからスルーなのかね。そして、《新規感染者過去最高》とサラリと言ってるが、その危機感が伝わってこない。この事態を招いたについての責任の重みが感じられない。国民の命を預かる者としての自覚に欠けているよ。

 「東京都によれば、感染者のうち65歳以上の高齢者の割合というのは2パーセント台ということです。そして、30代以下が約7割を占めているということであります。一方40代、50代の方の中で入院が増えており、デルタ株の割合も急速に増加しており、まずは4連休を含めて、人流も含めて分析していくことにしました。」

 そんなことは、誰もが分かっている。菅さんよ、まずはこの事態の深刻さを国民に理解してもらい、その原因を指摘し、具体的な対策を国民に語りかけて協力を求める、それがあなたの仕事だろう。はあ? 「これから分析をしていく」? これまで何にもしてこなかったってわけ?

 「さらに、各自治体と連携しながら、強い警戒感をもって感染防止に当たっていく。そして、重症化リスクを7割減らす新たな治療薬を、政府で確保しておりますので、この薬について、これから徹底して使用していくことも確認いたしました。」

 菅さんよ、あんたの話は頼りない。「各自治体と連携しながら、強い警戒感をもって感染防止に当たっていく」って、これまでもやって来たことだろう。それでもこれまでの感染防止策のどこに穴があったのか、これからどうあらためるのか、もっと具体性のある話を聞きたいんだよ。これじゃ、まったくだめだろう。

 菅さんよ、あなたがこの事態で語るべきは感染防止策だったが、それについては語ることなく、語ったのは治療薬についてであった。7月19日に特別承認となった抗体カクテル療法のことではあろうが、あなたの説明はワクチン同様、具体性・透明性を欠くこと甚だしい。しかも、「治療薬は確保したから、国民は安心してよい」と聞こえる。危機意識が伝わってこないんだ。

 「いずれにしろ、こうした状況の中で、改めて国民の皆さんにおかれましては、不要不急の外出は避けていただいて、オリンピック・パラリンピックについてはテレビ等で観戦してほしいと思っています。」

 何というおざなりな、通り一遍で紋切りの、心に響かぬ呼びかけ。聖火リレーにこだわり、ブルーインパルスを飛ばして密を作ったのはいったい誰なんだ。子どもたちをオリパラに動員しようとしているのは誰なのか。外出せざるを得ない多くの人の存在について本当に知らないのではないだろうか。 

「(北海道からのまん延防止等重点措置の適用要請について)
 まず、酒類の提供、そうしたこと、やるべきことをしっかりやってほしいと思っています。」

 北海道の皆さん、これが菅義偉政権の北海道に対する姿勢だということを肝に銘じましょう。道民の生活や思いに寄り添うところが、カケラもない。

「(オリンピックをこのまま続けるのかについて)
 まず、車の制限であるとか、テレワーク、そして正に、皆さんのおかげさまによりまして、人流は減少していますので、そうした心配はないと思っています。」

 「オリンピックをこのまま続けるのか」という質問に対する「そうした心配はないと思っています。」って、そりゃいったい何なのだ。IOCや東京都が、「オリンピックをこのまま続ける心配はない」ということなら分かるけど、菅さんよ、あんたの頭の中は「オリンピックを続けられるかどうかの心配」しかないんじゃないの。

 それに菅さんよ、「人流の減少」はそりゃないよ。そりゃ明らかなウソだろう。安倍晋三の嘘には、慣れて驚かなくなったが、あんたも相当なウソつきなんだ。この4連休、イヤな言葉だが、「人流」の増加が話題になっていたではないか。首相たる者(だったよね)が、報道を否定して「人流」の減少をいうのだ。根拠を示さなければダメだろう。

「(「黒い雨」訴訟の談話について)
 まずは今回の裁判の判決に対して、政府の対応を決めさせていただきました。また長崎については、その後の裁判等の行方もありますので、そうしたことをまず見守っていきたいと思っています。」

 菅さん、動機はともかく、これはあなたの英断だ。よいことだってできるじゃないの。よいことすれば、気持がよいでしよう。この気持を忘れないで。
 やっぱり、政権の支持率は低い方がよいよね。いつも選挙間近というのもよい。つまりは権力が世論を気にせざるを得ない状況が重要なんだ。菅さんよ、無理に上告させていたら、内閣支持率は20%を割り、次の選挙では自民党惨敗だよ。
 まずは、広島の被曝者救済だが、次は長崎だ。そして、ビキニ水爆実験の被曝者も、3・11フクシマ原発事故の被曝者も救済しなけりゃね。

「(オリンピックを中止する選択肢はあるのかについて)
 人流も減っていますし、そこはありません。」

 またまたご冗談の「人流の減少」。自信をもって言えば言うほど、引っ込み付かなくなるんだよ。反面教師・安倍晋三から学んでいないのかね。

 なお、本日発表の感染確認者数は、東京で3177人、そして全国では9576人。もう、運動会などやってる場合じゃないだろう。

人類が新型コロナウイルスに打ち負かされた証しとしての東京五輪中止宣言

(2021年3月15日)
余、コロナ蔓延の猖獗に際して、世界の大勢と日本国の現状とに鑑み、非常の措置を以って事態を収拾せんと欲し、ここに忠良なる汝ら一般国民に告ぐ。

余は、日本国と国民の名において、新型コロナウイルスとの闘いにこれ以上打つ手のないことを世界各国に対し率直に明らかにして敗北を宣するとともに、その敗北の証しとして東京五輪を返上する旨通告せしめたり。

そもそも、日本国民に対して健康で文化的な生活を保障し、世界各国の人民との共存共栄をはかることは、余の一貫した重要政策としてきたところ。新型コロナに対する殲滅の戦いもまた、実に日本国の自存と国民の繁栄を願ってのことで、望むべくんば「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証しとしての完全な形での東京五輪開催」こそが余の昨日までの努力傾注の目標であった。

しかるにコロナとの交戰すでに1年と3か月になんなんとして、これを撲滅することを得ず、一億国民各々と医療従事者が最善を尽せるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず、しかのみならず敵コロナは頻りに新たな変異株となって無辜の国民を殺傷に及ぶ。

余はこの事態においても、これまでは東京五輪の開催にこだわり続けてきた。五輪の成功こそが唯一の政権浮揚策であり、東京五輪の開催失敗は解散の時期を失し、追い込まれ解散による2021年総選挙の与党大敗を招きかねないからである。

しかし、このまま東京五輪開催実現前提でコロナとの交戦を継続すれば、ついに日本と日本国民に取り返しのつかない災厄を招来するのみならず、延いては人類の文明をも破却することが予測されるに至った。

とすれば、これまでコロナ蔓延対策の明らかな障碍と認識されていた東京五輪を返上せざるを得ない。これは自明の理である。「人類が新型コロナウイルスに打ち負かされた証しとしての東京五輪中止」と揶揄されようとも、やむを得ざるところ。

そして、他には既に打つべき手もなければ、非常事態宣言を解除して成り行きに任せるに如くはなしとの判断。是れが、余の敗北宣言の所以なり。

余は時運の趨くところ、堪えがきを堪え、忍びがたきを忍び、以って万世のために東京五輪を返上せんとする。汝ら一般国民、余のために泣け。そして余の意を体せよ。

署名  捺印

東京オリンピック憲章(最新改訂版) ー 政権浮揚と国威発揚と金儲けとを求めて

(2021年3月6日)

 東京2021オリンピズムの根本原則

1 東京オリンピズムは、政権浮揚と国威発揚とカネのすべてのレベルを、かつ高め、かつバランスよく結合させることを目指す、我が国の国民精神総動員とスポーツの政治利用の哲学である。スポーツを、政治と経済とに融合させ、より巧妙な民衆支配の方法と、より大きな儲け方とを創造し探求するものでもある。東京オリンピズムを成功に導く民衆の生き方は、政治的、経済的、社会的に、伝統的秩序と権威に従順で支配者の提示する倫理規範を尊重し、東京五輪主催者の提供するスポーツ観戦に没我し感動することが望まれる。

2 東京オリンピズムの直接の目的は、時の菅義偉政権と小池百合子都政の数々の不祥事を国民・都民の眼から覆い隠し忘却させることで政治的安定をもたらすとともに、この社会の基本的な支配構造である資本主義の欠陥を民衆の熱狂をもって糊塗することで、現体制の尊厳の保持と市場原理の調和のとれた発展に、スポーツを役立てることである。

3 東京オリンピック・ムーブメントは、オリンピズムの政治的かつ経済的な価値に鼓舞された国家と資本とによる協調の取れた組織的、普遍的、恒久的活動である。その活動を推し進める領袖は「とにかく開催」「7月に開幕しないと信じる理由は何もない。だからプランBはない」「ワクチンが間に合わなくともオリンピックの開催は可能」と述べて中止や再延期の可能性を否定する、野蛮・無謀・無責任のトーマス・バッハである。その領袖の下での周到な準備活動は5大陸にまたがるが、東京の偉大な競技大会に世界中の選手が集まるとき、頂点に達する。そのシンボルは、「カネ」と「不正」と「権力」と「環境破壊」と「反知性」の、5つの結び合う輪である。

4 スポーツイベントを経済的な利潤獲得手段とすることは、侵してはならない神聖な権利の1つである。また、政治的な国民統合の手段とし、あるいは対外的な国威発揚手段として利用することも同様である。
すべての個人は、権力機構としての組織委員会のいかなる種類の差別も甘受して、東京オリンピックの成功のために心身ともに動員されなければならない。そのためには、盲目的従順、権威主義的心情、自己犠牲の精神とともに忖度と迎合の姿勢が求められる。

5 東京オリンピック・ムーブメントは、その成功のために、大和魂と必勝の精神を最大限動員する。とりわけ、権力と金力には卑屈となり、長幼の序と男女の別を弁え、国民一丸となって竹槍を持ち、早朝宮城に向かって遙拝し、「鬼畜コロナには決して負けない!」「東京オリンピックは必ず開催するぞ!」「中止も再延期も考えない!」「無観客もないぞー!」「天佑は我にあり!」と唱和する。断じて行えば鬼神もこれを避く。大和魂は、コロナに打ち克って、五族協和・八紘一宇の東京オリンピック開催に道を拓く。

そのとき必ずや妙なる鐘が鳴り、人類が新型コロナに打ち克った証しとしての東京オリパラが成就する。

「コロナだから、やむなく中止」という消極論ではなく、「五輪への本質的批判」としての積極的中止論を。

(2021年3月5日)
昨日(3月4日)の当ブログを読み返してみた。最終行が「声を上げよう。『東京オリパラは、早急に中止せよ』『政府も自治体もコロナ対策に専念せよ』」と結論を述べている。これが、なんとなく物足りない。

読みようによっては、「東京オリパラ自体は本来素晴らしい意義をもったイベントなのだが、今コロナ禍という特別の事態では、国民の健康保持や公衆衛生を優先せざるを得ない。残念だが、オリパラは開催中止として、コロナ禍対応に注力しなければならない」と意味をとられかねない。もちろん、これは誤読・誤解である。

オリパラ中止へ多くの人の賛同を得るには、以上の文脈でもよいのだろうが、そのように受け取られるのは、私の本意ではない。私は、コロナ禍なくとも、東京オリパラの開催自体に積極的に反対である。「アスリートにはリスペクトを惜しまないし、その無念さには同情するが、今の事態でのオリンピックはコロナ蔓延に拍車をかけることになる」「世論調査で、多くの人がコロナ禍を理由に東京オリパラ開催は無理だと言っている」、だから開催反対という及び腰の消極的反対論では不十分だと思う。国家・国民を総動員しようというこのイベントの本質に切り込んで、積極的反対論を展開しなければならないと思う。

以下は、最近の当ブログの記事。「五輪ファシズム」をキーワードに、積極的オリンピック反対論を展開し、「東京五輪を中止せよ」「北京冬季五輪も中止を」と声をあげている。こちらが私の本意。

鵜飼哲「五輪ファシズム」論に賛同の拍手を送る(2021年2月14日)
article9.jp/wordpress/?p=16323

聖火リレーは「五輪ファシズム」の象徴(2021年2月17日)
https://article9.jp/wordpress/?p=16341

政治的な国民精神総動員システムとしてのオリパラを「五輪ファシズム」と呼ぶとすれば、経済面で大資本の収奪を可能とするオリパラの機能を「祝賀資本主義」と呼ぶ。「惨事便乗型資本主義」からの着想で生まれたという「祝賀資本主義」。『週刊金曜日』2月26日号の特集「五輪はオワコン」の中の一編。鈴木直文「オリンピックに経済効果なし」が、この点を、短く、読み易く、手際よくまとめている。

鈴木直文論稿は、積極・消極の東京五輪中止論の区別を意識してこう言っている。「今回の東京大会は、あまりにもお粗末で醜悪な舞台裏の状況がかなり溢れ出てきていますが、それでもまだオリンピックそのものの構造的問題への批判というよりは、新型コロナウイルス感染拡大への懸念から中止、または最延期するべきであるという意見が多いようです。」

「オリンピックそのものの構造的問題への批判」として、鈴木が論じるのが、「祝賀資本主義」である。下記が核心部分である。

「際限なく膨張した開催費用の用のほとんどは税金です。納税者は長年にわたり多大な負担を強いられるが、大企業とIOCはその利益を独占するのです。
 米国の政治社会学者ジュールズ・ボイコフはこの原理を「祝賀資本主義」と呼び、これが、20世紀後半以降のオリンピックの歴史を通じて肥大してきたと言っています。招致をめぐる政治的意思決定の舞台裏が大衆の目にふれることはなく、表では官民が一体となったプロモーションでお祭り気分を盛り上げる。そして、大衆が世界的なスポーツの祭典に酔っているうちに、実はさまざまな形で公共の資産が民間の大企業へと移転される構造がっくられます。」

政治的には「五輪ファシズム」、経済的には「祝賀資本主義」。これこそが、五輪に対する構造的批判と言えよう。

なお、週刊金曜日2月26日号特集「五輪はオワコン」に掲載された下記4本の論稿は、いずれも積極的反対論を展開しており、教わることが多い。

本間龍(インタビュー) 「五輪は『負けてやめられなくなったパチンコ』」「莫大な税金の無駄遣い」「沈黙するメディア」「投資ビジネスの五輪」

鈴木直文 「オリンピックに経済効果なし」「都市経済は成長せず、貧富の差が拡大する」

來田享子 「差別を克服し未来を開くという五輪の意義を知って招致したか」「ジェンダー平等目指す五輪の方針と逆行」「五輪の歴史に汚点残したバッハ会長」

武田砂鉄 「五輪は中止すべき。以上」

武田砂鉄執筆記事の中に、「2013年9月、2020五輪の開催都市が東京に決まった瞬間の安倍晋三氏、森喜朗氏ほか」という、今となっては恥ずかしい限りの例のバンザイの写真が掲載され、みごとなキャプションが添えられている。

 体を痛めている人が
 路肩に倒れている。
 その人に向けて
 「俺たち、これからカラオケに
 行くんで、歌声を聞いて
 元気になってくださいよ」と
 告げる人たち

民主主義が試練に曝されている。強権国家への誘惑に絡めとられてはならない。

(2021年2月1日)
2度目の緊急事態宣言のさなかに1月が過ぎて、今日からは2月。例年春を待ち望むころだが、今年はまた格別。1月8日発出の緊急事態宣言の明けはどうやら3月以降にずれ込む模様。重苦しい日が続く。

ダイヤモンド・プリンセス号が『初春の東南アジア大航海16日間』周航の終盤に那覇に寄港したのが、昨年(2020年)の今日。このとき、1月25日に香港で同船から下船した香港人男性(80才)の船内感染が確認されている。2月3日、同船が横浜港に着いてから騒然たる事態となった。あれから1年なのだ。

この1年、コロナ・パンデミックは世界の民主主義に試練を与え続けてきた。コロナと闘うためには民主主義という手続は非効率で余りに無力ではないか、という攻撃に今も曝されている。権力を集中した権威主義的な政権こそが、コロナ禍と有効に闘う能力をもち成果をあげているとの主張と、民主主義擁護の主張とがせめぎあいを続けている。

このことは、人類史的な課題というべきであろう。歴史の本流は、滔々たる専制から民主制への大河を形成しているが、時折の逆流の存在も否定し得ない。近くは1930年代に、少なからぬ国が民主主義を投げ捨てて全体主義に走った。国家間の緊張関係が高まる中、個人の人権や自由などと生温いことを言ってはおられない。この非常時には、民族の団結、権力の集中こそが最重要事である、という主張が幅を利かせた。戦争に勝てる強力な国家あっての個人ではないか、というわけだ。我が国のスローガンでは、「富国強兵」「滅私奉公」である。

民主主義とは、国民の政治参加を公理として、政治権力の正統性の根拠を国民の意思におく思想であるが、これにとどまらない。人権擁護を目的とする政治過程の理念でもある。民主主義の政治は、国民一人ひとりの人権、即ち国民の人格の尊厳を至高の価値としてこれを擁護しようとする。人権を損なってはならないのだから、強大な権力は危険視され、権力も権限も分散しなければならない。権力の国民に対する支配の徹底を是とせず、国民に対する過度な支配の徹底を避けなければならないと指向する。

国民に対する過度な支配の徹底を避けるためには、国民の政治参加と政権批判の言論の保障が不可欠である。結局民主主義とは、国民の政治参加によって形成された権力を分立・分散させ、国民からの政治批判を保障して、強力な権力を抑制する制度であり運用である。ジェファーソンが定式化したとおり、「政府に対する信頼は常に専制の源泉である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる」。

ところが、コロナ禍の中、国民が民主主義を投げ捨てて、強権政治を待望する時代が既に始まっているのではないかという見解がある。もちろん、主としては中国を念頭においてのことではあるが、必ずしも中国に限らない。各国に、そのような誘惑が満ちている。権力者にはもちろん、国民の側にも。

典型的にはこんなことだ。権威ある無謬の領袖あるいは政党という権力を信頼し、その指示に任せて従うことが最も効果的にコロナと闘う方法だ。この権力を批判したり貶めたりすることは「利敵」行為として非難されねばならない。権力は、強く大きいほど有効な闘いが可能だ。ならば、できるだけの武器を与えるべきである。国民のプライバシー擁護など贅沢なことを言ってはおられない。中国に限らず、西欧の各国も強制力を伴うコロナ対策の徹底を打ち出しているではないか。

日本の権力も国民も、強制力使用の誘惑にかられている。闘う相手は、いま「鬼畜米英」や「暴支膺懲」に代わって、コロナ・パンデミックとなった。闘う相手は変われども闘い方の基本構造にはさしたる変わりはない。コロナとの戦いには勝たねばならない。そのために責任を負う政府には武器が必要だ。その武器を与えよ。この要求が、昨年の「新型インフルエンザ特措法」の改正であり、今国会に上程されている、「新型インフルエンザ特措法」「感染症法」の改正案である。

自民党と立憲民主党との協議の結果法案修正の合意が成立し、2月3日には、この修正合意で法案は成立の予定だと報じられている。最も問題とされた、刑事罰(懲役・罰金)条項は削除され、幾つかの評価すべき修正点はある。しかし、過料(行政罰)は残されている。緊急事態宣言前に実施する「まん延防止等重点措置」の問題も解消していない。これで、一件落着としてはならない。不必要な強制措置は、断固として拒絶しなければならない。ことは、民主主義の本質に関わる問題である。

ところで、「改憲問題対策法律家6団体連絡会」は、2021年1月20日「新型インフルエンザ等対策特措法等の一部を改正する法律案に反対する声明」を発表した。そして、本日刑事罰解消で問題解決としてはならないという趣旨で、「特措法等改正案の罰則規定の削除を求める法律家団体の緊急声明」を追加的に発表した。

「改憲問題対策法律家6団体」とは、社会文化法律センター(共同代表理事 宮里邦雄)、自由法曹団(団長 吉田健一)、青年法律家協会弁護士学者合同部会(議長 上野格)、日本国際法律家協会(会長 大熊政一)、日本反核法律家協会(会長 大久保賢一)、日本民主法律家協会(理事長 新倉修)。その全文は、日民協の下記URLを開いてご覧いただきたい。
https://jdla.jp/shiryou/seimei/210120-2.pdf

https://jdla.jp/shiryou/seimei/210201.pdf

両声明の「結語」だけを、引用しておきたい。

2021年1月20日 声明 「結語」
これらの多くの疑問を置き去りにしたまま、刑罰や過料(行政罰)によって国民を威嚇し、新型コロナウイルス感染症を抑え込もうとする本改正案は、上記のとおり、そもそも立法事実としてのエビデンスを欠き、目的と手段の合理的関連性も疑わしく、重大な人権侵害を招く危険があり、結局、国民との間に新型コロナウイルス感染症についての理解を深め、政府と国民の間に強固な信頼関係を構築することで当面する危機を乗り越えようという民主主義・立憲主義の理念に反するというべきである。
政府のこれまでの新型コロナウイルス感染症対策の失政の責任もうやむやにし、また、昨年の緊急事態宣言の検証も反省もないまま、感染拡大の責任を国民に転嫁して、刑罰や過料を科すような政府発表の改正案については、断固として反対であることを、ここに表明する。

2021年2月1日 声明 「結語」
以上のとおり、罰則による強権的な手段を用いて私権を制限することは、そもそも立法事実を欠き違憲の疑いがあるうえ、行政権力の市民生活への過度の介入をもたらすなど、憲法上重大な問題をはらむ。行政罰(過料)にしても、過料の金額を修正しても、問題の本質は変わらない。
以上より、罰則規定はすべて削除することを強く求める。
なお、改正法案は、罰則規定の問題のほかにも、「まん延防止等重点措置」の発動要件を政令で定めるとしていること、国会による統制が規定されていないことなど問題が多く、十分な審議と修正が必要であって、附帯決議等で拙速に法案を成立させることは絶対にあってはならないことを付言する。

<デタラメだぞ>ツィートに見える、河野太郎の扇動者としての危険性。

(2021年1月23日)
<うあー、NHK、勝手にワクチン接種のスケジュールを作らないでくれ。デタラメだぞ>

これが、河野太郎(行革担当相)の1月20日朝のツイートだという。ツイートとは言え、国会議員の国民に対するメッセージである。この乱暴なものの言い方には驚くしかない。しかも、新ワクチン担当大臣が、公共放送NHKのワクチン接種報道に<デタラメだぞ>というのだから穏やかでない。

河野太郎は、NHKのどんな放送内容を、<勝手で、デタラメ>と言ったのだろうか。興味をもってそのツィッターを検索してみてまた驚いた。<うあー、NHK、勝手にワクチン接種のスケジュールを作らないでくれ。デタラメだぞ>が、全文である。NHKが、いつ放送した、どのような報道内容の、どこがどうデタラメなのか、何の説明もない。NHKの報道を訂正して真実を国民に伝えようという真摯さはカケラほども見受けられず、NHKに無責任な悪罵を投げつけているだけとしか評しようがない。口をとんがらした、幼稚園児の口ゲンカを想起させる。

その動機に思い当たる節がないわけではない。毎日の記事が、上手にまとめている。

 「河野氏とNHKには因縁がある。NHKは昨年(2020年)5月6日、防衛省が陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の秋田市内への配備を事実上断念したと報じた。ところが、当時、防衛相だった河野氏は翌7日に「フェイクニュース。朝からフェイクニュースだと伝えているのに、夜のニュースでも平気で流す。先方にも失礼だ」とツイートした。この時もNHK批判が相次いだが、その後、事態は次第にNHKの報じた方向に傾き、河野氏は6月15日に自ら配備停止を表明している。」

同じ、毎日の記事(「ファクトチェック 本当にデタラメなのか 河野太郎行革相が批判したNHKワクチン報道を検証した」)によると、河野の<デタラメ>批判の対象は、どうやら一般人に対するワクチン接種の時期をめぐるNHKの報道内容のようなのだ。

「NHKは、20日朝の「おはよう日本」の中で、「早ければ5月ごろから一般の人への接種を開始する案も出ている」と伝えた。この部分は午前6時4分と午前7時7分の2回、全く同じ内容が放送されていた。河野氏の「デタラメ」ツイートは2回目の放送直後の午前7時8分。反射的にツイートした可能性がある。」

毎日記事は、「厚生労働省の公表資料に類似スケジュールが出ていた」「主要メディアが軒並みNHKと同様の報道をしている」ことを説得的に説明している。しかし、仮にそのような資料や同様の報道がなかったとしても、それなりの取材に基づく報道を<デタラメ>とは言えまい。しかも、NHKの報道は決してスケジュールを断定するものではない。

事態を傍目で眺めれば、河野は「オレの承認していないことを勝手に報道するな」と恫喝しているだけのことである。いや、恫喝は不正確かも知れない。駄々を捏ねている、というのが適切な表現であろうか。NHKや、同じ報道をしたメディアには、いささかの萎縮もあってはならないと思う。

河野は、自らが権力の側にあるという自覚と、その自覚に基づく謙虚さに欠けている。メディアへの統制の危険に無頓着なこの政治家、未熟で危険と指摘せざるを得ない。これ以上、権力の中枢に近づかせてはならない。

さらに問題なのは、この「〈デタラメ〉・ツィート」に対する社会の反応である。「このツイートは9万回以上リツイートされ、23万の「いいね」がついている。リプライ(返信)にはNHK批判と河野氏批判がせめぎ合っている。」という。これは、身震いするほど恐ろしいことではないか。ネットの世界には、こんな愚かなツイートを真に受けて、NHK批判に飛躍する多くの、煽動されやすい人々が現実に存在するのだ。

毎日が報じている例では、<えぇ…国民から受信料徴収して間違った情報流してるんですかNHKは…><受信料徴収してる『公共放送』 大臣がTwitterで情報発信しなければデタラメだと気付けず情報混乱しますよね…>などという反応。NHKが、何を、どう間違えたかの特定もないままの付和雷同。これが河野太郎支持者たちなのだ。

われわれは、トランプのTwitterによる情報発信を冷ややかに眺めてきた。トランプのツィートは、〈理由もなくメディアのニュースをフェイクと断じ〉、実は〈自らがフェイクを発信するもの〉だった。そのトランプの発信に無条件に耳を傾け、これを信じることによって、トランプを支えた人々の存在が、フェイク・ツィートを可能にした。

あれは、対岸の火事ではない。侮って批判を怠ると、我が国にもトランプ亜流を誕生させることになりかねない。河野太郎も、要警戒の一人である。もっとも、毎日が次のような理性にもとづく適切な批判のリプライを紹介していることに、救われた思いである。

 <(NHKの報道は)きちんと厚生労働省の発表を踏まえての報道です。ご自身が厚生労働省の発表を把握していなかったからのご発言ではないでしょうか。しっかり各省庁の動向を把握された上で、公人としてデラタメ発言はデタラメでしたと謝罪するか、Twitterをお取り消しされた方がよいと思います>

なお河野は、1月23日までに、デタラメでしたとの謝罪も、Twitterの取り消しも、実行していない。

通常国会冒頭の菅義偉トンデモ施政方針演説

(2021年1月19日)
各紙世論調査における内閣支持率が軒並み急落している。とりわけ、一昨日(1月17日)発表の毎日新聞調査「菅内閣を支持しない・57%」という数字が衝撃である。こうなると、菅義偉が何を言っても国民の耳に届かない。耳に届いても心には響かない。さぞかし辛い立場だろう。それでもめげた表情を見せないのは、強靱な精神力と称賛すべきか、厚い面の皮と感嘆すべきか、はたまた単なる鈍感と揶揄すべきか。

そんな状況下で、昨日(1月18日)第204通常国会が開会となり、本日の各紙朝刊には菅内閣総理大臣施政方針演説が掲載されている。

もちろん、総じて評判が悪い。いや、最悪と言ってよい。各紙の社説、以下のタイトルである。

朝日社説 施政方針演説 首相の覚悟が見えない
毎日社説 菅首相の施政方針演説 不安に全く応えていない
東京社説 首相施政方針 危機克服の決意見えぬ
道新社説 首相の施政方針 コロナ対策 方向見えぬ
福井論説 菅首相の施政方針演説 「安心」「希望」には程遠い
信濃毎日 施政方針演説 対話する姿勢に欠ける
神戸社説 施政方針演説/空虚に響く「安心と希望」
中國社説 首相の施政方針演説 国民に言葉が響いたか
熊本日日 施政方針演説 展望見えず心に届かない
沖縄タイムス [施政方針演説]これでは心に響かない

施政方針演説の内容について私にはこう聞こえたという2個所を摘記しておきたい。

(国民の負担と引き換えに、命と健康を守り抜く)
国民の命と健康を守り抜きます。まずは「安心」を取り戻すため、世界で猛威をふるい、我が国でも前政権の無為無策から深刻な状況にある新型コロナウィルス感染症を一日も早く収束させます。
しかし、その実現のためには、それ相応の国民への負担をお願いする政策が必要となるというのが私の政治信条です。国民は決してただ乗りはできません。負担に耐えていただかなくてはなりません。その必要性を国民に説明し、理解してもらわなければならない。それなくして、新型コロナウィルス感染症の収束はないものと覚悟が必要なのです。つまり、命と健康は負担と引き換えだとご承知おき願います。

(国民監視と管理のためのデジタル改革)
この秋、国民全ての監視と管理の徹底を目指してデジタル庁が始動します。
デジタル庁の創設は、学術会議会員任命拒否とならぶ菅政権の強権的政治改革の象徴であります。デジタル庁は、組織の縦割りを排して、全国民のプライバシー剥奪のための強力な権能と厖大な予算を持った司令塔として、国全体の権威主義社会化を主導します。今後5年間で自治体のシステムも統一、標準化を進め、業務の効率化と全住民の個人情報国家取得を徹底してまいります。
是が非でもマイナンバーカードの普及に務め、マイナポイントの期限も半年間延長します。この3月には健康保険証との一体化をスタートし、4年後には運転免許証との一体化を開始します。これで、国民のプライバシーの大半は国家権力が入手可能と考えています。
行政機関が保有する法人などの登録データをシステム上の、いわゆるベースレジストリとして整備し、政権に協力的な大企業と一体となって、政府は国民の、企業はその従業員や消費者の支配に不可欠なデータの利活用を進めてまいります。
教育のデジタル化も一挙に進めます。小中学生に一人一台のIT端末を揃え、9000人のデジタル専門家がサポートします。子どもたちの希望や発達段階に応じたオンライン教育を早期に実行することで、国民をデジタルによる支配構造に慣れさせ、抵抗感なく支配に服従する心情を育成してまいります。
あらゆる手続が役所に行かなくてもオンラインでできる、引っ越した場合の住所変更がワンストップでできる、そうした仕組みを宣伝することで、国民には政府に対するあらゆる情報の提供についての違和感を払拭させ、何よりも主権者としての矜持の覚醒を防止いたします。
高齢者や障害者、デジタルツールに不慣れな方々もしっかりサポートし、誰をも、デジタル化の支配の仕組みの中に組み込む社会をつくり上げてまいります。
民間企業においても、社内ソフトウェアから生産、流通、販売に至るまで、企業全体で取り組むデジタル投資を支援し、政府の力で企業の従業員支配を促進するとともに、きめ細かな国民統合のためにその情報を政府において一元化いたします。
さらに、身近な情報通信の利用環境を、国民監視と管理の目線に立って変えていきます。携帯電話料金については、大手が相次いで、従来の半額以下となる大容量プランを発表し、本格的な競争に向けて、大きな節目を迎えました。
国民は、身近な利益には近視眼的な敏感さをもっていますから、このような小さな利益を供与することで容易に政府に対する信頼を醸成することが可能と考えています。携帯料金を値下げする程度のことで、国民監視と管理のシステムの設定が可能なのですから気楽なものではありますが、飽くまで気を引き締めて、完璧な国民統治のための監視・管理社会の構築に邁進する所存です。

最新世論調査にみる、民意の菅政権離れ。

(2021年1月11日)
一朝有事の際には、一国の政治的指導者の求心力が格段に強まる。典型的には戦時の国民が、強力なリーダーシップを求めるからだ。指導者と国民とは、一丸とならなければ敗戦の憂き目をみることになるという共通の心理のもと、蜜月の関係となる。

戦時に限らず、災害の克服が一国の重要課題となるとき、同じことが起きる。無用な足の引っ張り合いや内部抗争はやめて、政府と国民一体となって効率的に課題を克服しなければならないとする圧力が生じる。こういうときの政府批判者や非協力者は、「非国民」と非難される。

だから、戦時も有事も自然災害も、為政者にとっては、権力拡大のチャンスとしてほくそ笑むべき事態である。新型コロナ蔓延も、その恰好のチャンス。安倍晋三の国政私物化政権を見限った国民の支持を再構築するために、なんと美味しいお膳立て。そう、菅義偉はほくそ笑んだに違いない。実際、台湾やニュージーランドを筆頭に、多くの国の有能な指導者が政治的求心力の高揚に成功している。

ところが、どうだ。菅義偉、このチャンスを生かせていない。いや、こんなチャンスに大きな失敗をやらかしている。政治指導者にとっての「チャンス」は、実は国民にとっては、生きるか死ぬか、生活や生業を継続できるか否かの切実な瀬戸際である。リーダーの舵取りの失敗は、厳しい批判とならざるを得ない。

最新(1月9・10日調査)のJNN(TBS系)世論調査において、「内閣支持と不支持が逆転 コロナ対応で軒並み厳しい評価」との結論が出た。菅内閣、政権支持率を浮揚して、求心力高揚のチャンスに大失態である。この政権の前途は多難だ。国民からの強い批判がもう始まっている。

 菅内閣の支持率は先月より14.3ポイント下落して41.0%となり、支持と不支持が逆転しました。政府の新型コロナ対応にも厳しい評価が出ています。

 菅内閣を支持できるという人は、先月の調査結果より14.3ポイント減って41.0%でした。一方、支持できないという人は14.8ポイント増加し55.9%と、支持と不支持が初めて逆転しました。

 新型コロナウイルスの感染防止に向けた政府のこれまでの取り組みについて聞いたところ「評価しない」が63%と、「評価する」を上回っています。

 政府が1都3県に緊急事態宣言を出したことについて聞きました。
 宣言発表を「評価する」人は65%、「評価しない」人は30%でしたが、タイミングについて尋ねたところ、「遅すぎる」が83%に達しました。

 新型コロナ特措法の改正について聞きました。
 飲食店などが時短要請に応じない場合に罰則を設けることの是非を尋ねたところ、「賛成」は35%、「反対」は55%でした。

 今年夏に予定される東京オリンピック・パラリンピックについて、「開催できると思う」と答えた人は13%、「開催できると思わない」と答えた人は81%でした。

 「桜を見る会」の前夜祭をめぐる事件で、これまでの安倍前総理の説明に「納得できる」と答えた人は12%にとどまり、「納得できない」が80%にのぼりました。

最後の3問が興味深い。コロナの蔓延を押さえ込むために特措法の緊急事態宣言に罰則を盛り込むことは、憲法を改正して政権の恣意を許す緊急事態条項創設への地ならしにほかならない。油断はできないが、反対世論が過半数であることに安堵の思いである。

東京五輪について「開催できると思わない」が81%(!)。これは、衝撃の数字だ。「金食い虫の五輪は早々とやめて、コロナ対策に専念せよ」が世論なのだ。政権がこれを軽視すると、取り返しのつかないことになる。

そして、世論は安倍晋三の旧悪について手厳しい。安倍晋三の「桜・前夜祭」のカネの流れについての認識如何は「総理の犯罪」の成否に関わる。その説明「納得できない」が80%(!)。これまた、世論の健全さを物語っている。なお、共同通信の同時期の調査も、ほぼ同じ傾向となっている。

衆院解散・総選挙の日程を間近にした今の時期、コロナの渦中でのアベ・スガ政権への国民の審判の厳しさは想像以上である。

「ノーベル賞・本庶佑教授 『医療は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」

(2021年1月5日)
毎日新聞デジタルの本日付のインビュー記事のタイトルである。私はノーベル賞の権威を認めない。だから、ノーベル賞受賞者の言をありがたがる心もちは皆無である。が、この人、臆するところなく、言うべきことをきちんと口にしている。なるほど、読み応え十分である。その、本庶さんの語るところを抜粋してみる。

僕は、医療を守り、安全な社会を作ることでしか経済は回復しないと考えます。政府はこの順番を間違えています。人々が安心して活動できてはじめて、自然と経済活動が活性化するはずです。政府は観光業を救おうと需要喚起策「GoToキャンペーン」を昨年の夏に始めましたが、検査を求めても受けられないようでは、旅行する気にはなかなかならないのではないでしょうか。

(コロナの流行を抑えるには)検査をしっかりやる体制が必要だと考えます。入国時の防疫体制も重要です。ワクチンでコロナの流行がいきなりなくなるわけではありません。政府は「検査をやり過ぎると医療が崩壊する」と言って相変わらず検査数を抑え込んでいます。旅行業界や飲食店はGoToで支援しようとするのに、医療従事者や医療機関にはどんな支援があったのでしょうか。看護師不足や患者の受診控えによる医療機関の経営悪化の問題。「医療は大切」と言葉では言いますが、具体的に何をしてきたのでしょう。政府予算の中で、医療提供体制の強化策は経済対策と比べて極めて微々たるものです。国民の安全、安心に関係することをなぜしっかりやらないのでしょうか。医療の逼迫は人為的に引き起こされている面があると言わざるを得ません。

少なくとも「感染しているかも」と思ったら即座に検査を受けられる体制を作るべきで、早期の検査はコロナ感染の広がりを防ぐ予防手段なのです。日本のクラスター(感染者集団)対策ですが、あくまでコロナが発生した後の処理で、コロナの感染が拡大するのを予防することはできません。予防的観点からの広範な検査体制の確立と陽性者の隔離が必要なのです。また、検査に資金を投じた方が社会的還元は大きいと考えます。政治の最大の使命は国民が安心して生活できることのはず。それによって経済が活性化していくわけで、現在はそれができていない。根本的な問題だと思います。

崩壊が取り沙汰されている医療提供体制は、感染症に対してもっと備えておくべきです。たとえ新型コロナが収束しても、新しい感染症のリスクは常にあるからです。司令塔不在の厚生労働省、医療従事者の犠牲によって成り立つ国民皆保険制度、それぞれの改革にきっちり取り組むべきでしょう。

本庶発言の白眉は、「政府は『医療は大切』と言葉では言いますが、具体的に何をしてきたのでしょう」という重い一言。思い当たるし、具体性があるから、厳しいものになっているのだ。

毎日も、このフレーズをタイトルにとって、「『医療は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」とアピールした。これは、広範囲に応用が利く。『医療』を他の言葉に置き換えることがいくらでも可能なのだ。

「『学問の自由は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか
「『教育は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『人命は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『真実は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『説明責任は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『憲法は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『公平な選挙制度は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『福祉は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『貧困の撲滅は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『表現の自由は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『政教分離は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『平和は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『司法の独立は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『歴史の真実を見つめることは大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『デマやヘイトの一掃は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『国民の豊かな生活こそが大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」

「『公文書の管理は何より大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」

政府は何もしてこなかった。ただただ、総理大臣のオトモダチを優遇し、国民には自助努力を求めてきただけではないか。

コロナが突きつける問 ?「国家は何のためにあるのか」

(2021年1月2日)
めでたくもないコロナ禍の正月。年末までに解雇された人が8万と報じられたが、そんな数ではあるまい。暗数は計り知れない。一方、株価の上昇は止まらない。なんというグロテスクな社会。あらためて、この国の歪み、とりわけ貧困・格差の拡大が浮き彫りになっている。

暮れから年の始めが、まことに寒い。この寒さの中での、路上生活者がイヤでも目につく。心が痛むが、痛んでも何もなしえない。積極的に具体的な支援活動をしている人々に敬意を払いつつ、なにがしかのカンパをする程度。

コロナ禍のさなかに、安倍晋三が政権を投げ出して菅義偉承継政権が発足した。その新政権の最初のメッセージが、冷たい「自助」であった。貧困と格差にあえぐ国民に対して、「自助努力」を要請したのだ。明らかに、「貧困は自己責任」という思想を前提としてのものである。

国家とは何か、何をなすべきか。今痛切に問われている。
国家はその権力によって、社会秩序を維持している。権力が維持している社会秩序とは、富の配分の不公正を容認するものである。一方に少数の富裕層を、他方に少なくない貧困層の存在を必然とする富の偏在を容認する社会秩序と言い換えてもよい。富の偏在の容認を利益とする階層は、権力を支持しその庇護を受けていることになる。

しかし、貧困と格差が容認しえぬまでに顕在化すると、権力の基盤は脆弱化する。権力の庇護を受けている富裕層の地位も不安定とならざるをえない。そこで国家は、その事態を回避して、現行秩序を維持するために、貧困や格差の顕在化を防止する手段を必要とする。

また、貧困や格差を克服すべきことは、理性ある国民の恒常的な要求である。富裕層の利益擁護を第一とする国家も、一定の譲歩はせざるを得ない。

ここに、社会福祉制度存在の理由がある。が、その制度の内容も運用も、常にせめぎ合いの渦中にある。財界・富裕層は可能な限り負担を嫌った姿勢をしめす。公権力も基本的には同じだ。しかし、貧困・格差の顕在化が誰の目にも社会の矛盾として映ってくると、事態は変わらざるを得ない。今、コロナ禍は、そのことを突きつけているのではないか。

本来、国家は国民への福祉を実現するためにこそある。今こそ、国庫からの大胆な財政支出が必要であり、その財源はこれまで国家からの庇護のもと、たっぷりと恩恵に与っていた財界・富裕層が負担すべきが当然である。富の再配分のありかたの再設定が必要なのだ。

生活保護申請者にあきらめさせ申請撤回させることを「水際作戦」と呼んできた担当窓口の姿勢も変わらざるを得ない。

この暮れ、厚労省が「生活保護は国民の権利です」と言い始めた。
「コロナ禍で迎える初めての年末年始に生活困窮者の増加が心配されるなか、厚生労働省が生活保護の積極的な利用を促す異例の呼びかけを始めた。「生活保護の申請は国民の権利です」「ためらわずにご相談ください」といったメッセージをウェブサイトに掲載し、申請を促している。」「厚労省は22日から「生活保護を申請したい方へ」と題したページを掲載し、申請を希望する人に最寄りの福祉事務所への相談を呼びかけている。」(朝日)

結構なことだが、これだけでは足りない。相も変わらぬ「自助努力」要請路線では、人々が納得することはない。昔なら、民衆の一揆・打ち壊しの実力行使が勃発するところ。幸い、われわれは、表現の自由の権利をもち、投票行動で政権を変えることもできる。

今年は、総選挙の年である。無反省な政権に大きな打撃を与えたいものである。

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