澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

安倍「慰霊外交」のオモワク。

7月になった。今年の元日にブログを再開して以来半年。間借りしていた日民協のホームページから独立して3か月。毎日更新を続けてきた。現実化しつつある「改憲の危機感」に駆られてのこと。自力で可能な抵抗の試みである。

このブログの設定も維持もまったく費用はかからない。だれにでもできる、社会への発信手段としてこれで十分だ。飾りもなく、衒いもない、シンプルなこのブログのスタイルは、だんだんと気に入っている。

「憲法日記」として、読むに値するものとなっているのでないだろうか。自分なりに快調に飛ばしているという思いがある。

まず、テーマに困ることはない。むしろ、ありすぎて困るほどだ。
「石川や浜の真砂は尽きるとも、世に憲法問題のタネは尽きまじ」なのだ。
そして、何でも書ける。だれにも、何の遠慮も要らない。精神衛生的には絶好調である。

一次情報に接する機会あれば、できるだけ提供するように心掛けている。二次情報をネタにしたものでも、その取扱いの切り口には自分らしさを出すようにしている。素人の感想文では読むに値しない。さりとて、研究者の論文では読ませるものとならない。読むに値し、読ませる内容で、継続したいと思っている。

しかし、問題はいくつかある。まず、長文に過ぎるという苦情がある。「文章の長さだけで、辟易する」「読んでもらいたければ短く収めること」そう言われるのが悩みのタネ。さて、どうするか。ここが思案のしどころである。

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ときどき、まったく知らないことを教えられて、「さすが記者」と感心することがある。その一例。6月28日の毎日・「金言」(金曜日の言)というコラムに西川恵編集委員が次のように指摘している。

「この半年、安倍晋三首相は精力的な首脳外交を展開しているが、目を引くのは外国訪問で「慰霊」を意識的に日程に組み込んでいると思われる点である。首相の日々を新聞で拾うと、13カ国のうち5力国で、無名戦士の墓や追悼記念碑に献花し、黙とうする儀式に臨んでいる」「米ワシントンのアーリントン墓地(2月)を皮切りに、露モスクワ(4月)、トルコ・アンカラ(5月)、ミャンマー・ヤンゴン(同)、ポーランド・ワルシャワ(6月16日)。これほど「慰霊」を行っている首相は過去いないのではないか」

この指摘は、同首相の靖国神社参拝の布石との疑念を生じさせる。「外国では当たり前のこと。我が国でも」と言う口実にもなるし、相互主義の名のもと、外国の首脳をともなっての靖国参拝を目論んでいるのではないかという「邪推」もせざるを得ない。

しかし、西川記者は次のエピソードを紹介している。
「西独(当時)を訪問したレーガン米大統領が、同国のコール首相の求めでルクセンブルクに近い国境の独軍将兵らの墓に詣でたことがある(85年)。ところが直前にナチス親衛隊員が合まれていることが分かり、米世論が反対し、米上下両院も墓参反対を決議した。同大統領はユダヤ人の強制収容所も訪問し、墓参も短縮してバランスをとった。こうしたリスクをとった外国首脳を私は他に知らない。」

つまりは、A級戦犯を合祀したままでは、外国首脳の靖国参拝は困難なのだ。「A級戦犯が合祀されている靖国神社への参拝は、過去の戦争の正当化だ」との批判に曝されることになり、「1978年、靖国神社がA級戦犯を合祀して以降、来日する外国首脳は議論の多い同神社に足を踏み入れるのを避けている」ことにならざるを得ない。

しかし、「安倍のリスク」は、経済ばかりではない。中・韓・米・英・蘭などとは異なる、我が国による戦争犯罪被害とは無縁の国の首脳をともなっての参拝の強行はありうるのではないか。また、安倍自身が外国での慰霊を積み重ねて、自国では戦没者慰霊をせぬことの不自然さを演出しようとしているのではないか。油断をすると、危険極まりないことになる。

西川記者は、ドイツの例などに倣って、日本でも、外国首脳が戦没者を慰霊する仮の場所を設けるべきと提案して、「慰霊の非対称解消を」唱道する。たとえば千鳥ヶ淵墓苑を、そのような「外国首脳が戦没者を慰霊する仮の場所」とする具体的な提案である。この提案が「靖国派」から大きな反発を受けることは必定だが、それだけではない。おそらくは「反靖国派」からも、疑問符を突きつけられることになろう。

靖国問題の本質は、A級戦犯合祀にあるのではない。靖国神社という宗教性にあるのですらない。国家が戦没者の魂の管理を独占するところにある、という考え方が広範にある。A級戦犯分祀によっても、靖国神社という宗教性の払拭によっても、国家の名による戦没者の魂の管理の独占がある限り、「靖国問題」の真の解決はない。
(2013年7月1日)

日本国憲法から有権者へのお願い

私は日本国憲法。日本国民を親として66年前に誕生し、国民に育まれて今日に至った。幸いにして、これまで身体髪膚の毀傷なく、親への不幸はない。

しかし、私は、必ずしも国民全てから等しく愛され慈しまれてきたわけではない。一部の人からは、蛇蝎のごとく嫌われ、公然と悪口を言われてもきた。そのことは私の宿命であり、私にとっては覚悟のこと。私のもっとも重要な役割は、一部の人の権力や富や権勢を抑制することにあるのだから、この世で権力や富や権勢に近い人ほど、私を疎ましいと思うことは当然なのだ。だから、私を嫌う人がいればこその私の存在価値である。だれからも等しく歓迎される私であっては、私が私でなくなってしまう。

私は、恒久の平和を宣言している。多くの国民は、これを歓迎している。だが、戦争を歓迎する国民もけっして少なくない。古来戦争は、一部の人に莫大な富をもたらした。過剰な権力欲や名誉欲をもつ者にとってはこの上ないチャンスである。激情に駆られた民衆が敵国への憎悪をたぎらせて戦争を支持したのはつい先頃のことだったではないか。いま、あからさまには戦争を欲すると言えない。「武力なくしては近隣諸国になめられる」「いざというときのために武力の備えをしておかねば外交もうまく行かない」という口実で、私は攻撃されている。

私は、なによりも個人の尊厳を重んじ、国民の人権を保障することを宣言している。これも多くの国民が歓迎しているところだが、「個人よりは国家」「自由よりも秩序」を重んじるべきだ、と叫ぶ人もけっして少なくはない。「権利を主張するばかりで義務を重んじないことが怪しからん」、と私は攻撃を受けている。

天皇を軽んじすぎる。日本の歴史・文化・伝統に配慮が足りない。家族の価値を軽視している。自助努力を重視せよ。憲法改正の要件が厳格に過ぎる。‥いくつもの批判や非難がなされている。批判や非難を自由に言えることは、私が認めていること。存分に、私が保障する表現の自由を享受していただきたい。

とはいうものの、その私も選挙の度に考えこむ。長く、この国で政権を取ってきた自民党という政党は、私を嫌う勢力の中心に位置する。結党以来一貫して「自主憲法制定」を党是としてきた。私自身が定める憲法改正手続によってではなく、私とは無関係のまったく別の新たな憲法を作ろうというのだ。2010年の新綱領でも、憲法改正ではなく「新憲法の制定」が目標として謳われている。そして昨年、この政党は到底私が容認し得ない、「憲法改正草案」を公表している。この政権政党が両議院において3分の2を超えることになったら、私の運命はどうなるのだろうか。

私は、多元的な価値を容認する立ち場で一貫している。その立ち場こそが、人類の叡智が到達した普遍性をもつ公理であると宣言している。しかし、この普遍性を攻撃する立ち場から私にレッドカードを突きつけられるようになったら、これは大事件だ。取り返しのつかないことになる。

かつて、私を大切に思う国民の意思は、国会内に、日本社会党を中心とした「3分の1の壁」を築いた。そのためもあって、自民党も本格的な改憲の動きに出ることは長くあきらめていた。ところが、今、その壁はあとかたもない。そして、自民党も変わった。なによりも、私を邪魔にし、私を追い落とそうと執念を燃やす人物を総裁とし、首相としたのだ。その名を安倍晋三という。

いつの選挙も重要である。重要でない国政選挙などあろうはずもない。しかし、7月4日公示21日投票の今回参院選は、私の運命を占う意味で、格別の重要性をもつものとなっている。昨年12月16日総選挙の結果、衆議院は既に自民党が294議席を獲得し、連立政権を組む友党公明と併せて325議席となった。この2党で、3分の2(320議席)を超えている。それだけではない。維新という極右政党が54議席をもっている。公明を上回る勢力だ。みんなの党という積極改憲派も、18議席。このような、衆院の改憲派優勢下での参院選なのだ。私の心配も杞憂でないことがお分かりいただけよう。

価値中立であるはずの私が選挙を語ることはおかしい。そう、自分ながら思わないわけではない。しかし、既に緊急事態である。私にも「自衛権」「正当防衛権」を認めていただきたい。人権や、民主々義や、平和を大切にする人々に訴えたい。私の退場を求める自民党とその同盟者には投票を差し控えていただきたい。維新や、「みんな」という明確な改憲諸党にもである。

投票前には、是非とも各党の憲法政策をよくお読みいただきたい。改憲阻止・憲法擁護を明確にしている政党への投票をお願いしたい。民主党は明確な改憲政党ではないが、しっかりした改憲阻止政党でもない。かつては論憲を言い、創憲とも言った。今は「未来志向の憲法を構想する」と言っており、その中身は不明確である。

自民党の改憲主張と対極をなすのが日本共産党である。憲法論争も、自共対決となっている。現行憲法のあらゆる条項を厳格に守るとの姿勢において、共産党の態度は揺るぎなく一貫している。私を守るのか、換えてしまうのか。政党レベルでは、共産党と自民党が、太い対決軸をつくっている。自民の改憲策動が本格化すれば、対抗関係にある共産党の議席が伸びる、得票数が伸びる、選挙結果がこのようになれば、改憲の策動に大きなブレーキがかかることになる。はからずも、現時点では、私の命運は共産党の消長とともにある。

日本共産党が、唯物弁証法の哲学を持つとか、コミュニズムの未来社会を構想しているとか、そのようなことへの賛否はさて措いてよい。私は、私の命運を懸けて、改憲阻止の一点で、信頼に値する共産党の健闘に期待したい。
(2013年6月30日)

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