昨日(12月20日)、「負けるな北星!の会」が、札幌市内でシンポジウム「報道の自由、大学の自治を考える?北星問題の根底にあるもの」を開催した。大学関係者や弁護士だけでなく、市民参加者350名を得て盛会だったとのこと。
この集会では植村隆さんが、「慰安婦捏造」という事実無根の批判に反論の報告を行った。週刊金曜日・月刊創・世界・東京新聞・ニューヨークタイムズ・文芸春秋と、ようやく植村さん側の理路整然たる主張が出揃ったところである。これに加えての、公開の集会での植村さん自身の発言はインパクトが大きい。
これまでの植村さんには、「目立つことをすれば、北星学園に迷惑を掛ける」という遠慮があったように見受けられる。しかし、北星が雇用継続の態度を明確にした今、北星とともに理不尽な脅迫や暴力と闘う以外に道はない。毅然とした姿勢の北星学園と植村さん、その両者に対して精一杯の支援を継続したい。
私たち支援の弁護士は、11月7日北星学園に対する2通の脅迫状発送者を威力業務妨害で札幌地検に告発した。この告発の効果には大きいものがあったと報告を受けている。しかし、これで学園の業務への妨害がなくなったわけではない。業務妨害行為を掣肘して学園の平穏を取り戻すために、引き続く法的措置が必要と考えざるをえない。思いを同じくする人たちが、インターネットにおける北星バッシングの酷さに憤って告発を企図し、私たち弁護士がこれに呼応して代理人を買って出た。
被告発人は本名や住所は不詳だが、「たかすぎしんさく」と称する人物。告発事案は、同被告発人の北星学園に対する「電凸・ユーチューブ投稿」を「虚偽の風説を流布した」行為態様の「業務妨害」とするもの。
核になる告発人は他大学の教員を中心とした有志だが、告発人には多くの市民参加が望ましい。元来が一人北星が受けている圧力を、市民が肩代わりして分散し分担しようという発想からの告発運動である。
緊急のことだが、このブログをお読みのあなたも、ぜひ告発人として委任状を提出していただけないだろうか。
下記の「負けるな北星!の会」ホームページに、「告発人に賛同のお願い」「委任状」と「告発状(案)」が掲載されている。「告発人に賛同のお願い」をよくお読みの上、プリントアウトした委任状に署名捺印して掲記の「送り先」に郵送をお願いしたい。
http://makerunakai.blogspot.jp/2014/12/blog-post_16.html
「電凸告発委任のお願い」の内容要旨は以下のとおり。
「電話とネットを使って北星学園大学を攻撃した「たかすぎしんさく」と称する人物を告発する、そのための「委任」のお願いです。その告発人から委任を受けて弁護士が責任を引き受けて、札幌地検に告発することになります。
その目的は大きく次の2点です。
(1) 北星学園大学の負担を分散して軽減すること
(2) 跳梁するネット右翼の言論に対抗すること
賛同される方は、委任状に署名、押印して、その原本を指定の「送り先」まで郵送してください。」
告発人の名前は告発先の札幌地検には明示されるが、それ以外に公表されることはない。代理人弁護士は、道内外の弁護士で200人以上となる見通し。
一応の締め切りを12月24日到着までとするが、24日には間に合わなくなったとしてもお願いしたい。
なお、「たかすぎしんさく」の電凸ユーチューブは、電凸告発の予告をした途端に非公開となって、今は閲覧できない。どのような内容であったかは、告発状に詳細なのでこれをお読みいただきたい。
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この世には、表もあれば裏もある。日の当たるところで真っ当に暮らす者ばかりではなく、もっぱら陰でうごめく者もある。表の世界の論理で、裏の社会を批判するのは野暮というもの。表の世界の住人にとって、裏のできごとは見て見ぬふりをし、触らず関わらず、敬して遠ざくのが賢いやり方、それが謂わば常識となっている。
この常識は、裏の世界が裏だけで完結している限りにおいて妥当する。裏の世界が、その分を越えて表の世界に足を踏み入れるようになった途端に、裏の世界の「常識」は通用しなくなることを知らねばならない。裏の世界の言動も、表の陽の光を当てられれば、表の世界のマナーもルールもわきまえねばならないことを、裏の人間は骨身に沁みて学ばねばならない。
これまで関心なく無視してきたいわゆるネトウヨの世界。北星学園バッシング問題に関わったことから、無関係では済ませられなくなった。私を含む「電凸告発」弁護士グループに関するネトウヨ記事を仲間が抽出していくつも転送してくれた。典型は次のようなもの。
この弁護士連中も犯罪者だな
殺せ
そもそもこの弁護士らの素性を公表せんかい!
こういう告発をする弁護士には、
日本国民がきゃつらを提訴することも可能だろう
職件乱用でやりたい放題のアカ弁護士を訴えて
弁護士資格を剥奪したれや!
そうだ!この弁護士達を懲戒請求するのはどうよ?
確か橋下も言っていたよな。
不満があるなら弁護士に対して懲戒請求すれば良いってさ
匿名に隠れてしか発言のできない卑劣漢たちの放言である。自分は匿名性の防壁に隠れて他への攻撃を専らにすることを、卑怯、陰険、奸佞と言わねばならない。この自らの姿勢について恥じるところのないところが情けなく救いがない。
私の印象に過ぎないのかも知れないが、「右翼」には彼らなりの美学も正義感もあったはずではないか。とりわけ、弱者を痛めつけたり、卑怯未練に振る舞うことを恥とする倫理の感覚を持っていたのではないか。ネトウヨには、そのような倫理の持ち合わせはないのだろうか。とすれば、いったいネトウヨとは何なのだ。
(2014年12月21日)
トリクル(trickle)という英単語は、「トリクルダウン」という「はやりの経済用語」に接するまで知らなかった。「水滴」、「しずく」、「細流」くらいの意味のようだ。富裕者階層と貧困者階層から成る格差社会では、「富裕者層がより富めば、やがては貧困者層にも、「水滴」程度のおこぼれがしたたってくる」というのが、「トリクルダウン理論」。なにも理論というほどの大層なものではない。富裕者層とこれを代弁する者たちの願望であり、自己弁護でもある論法。その金持ちの自己弁護論法が事実に基づいてようやく否定されようとしている。
以下は東京新聞12月13日「筆洗」欄の記事。みごとなまでの明晰な解説となっている。
「『金持ちをより豊かにすれば、貧しき人々も潤う』。サッチャーさんや米国のレーガン大統領は1980年代、そういう考えで市場原理主義に沿った規制緩和や富裕層への減税などを進めた。いわゆる「トリクルダウン(したたりおちる)」効果を信じてのことだ▼その結果どうなったか。経済協力開発機構(OECD)は今週の火曜日、『多くの国で過去30年間で所得格差が最大となった。格差拡大は各国の経済成長を損なっている』との最新の分析を発表した▼推計によれば、格差拡大のために成長率はここ20年間で米国で6%、日本で5・6%押し下げられた。つまり金持ちはより豊かになったはずなのに、貧しき人は貧しいままで、経済全体の活力もそがれてきたというのだ。欧米有力紙はこの分析を大きく伝え、英紙ガーディアンは一面トップでこう断じた。<OECDはきょう、トリクルダウンという考え方を捨て去った>…」
「ガーディアンが一面トップで『OECDはトリクルダウンという考え方を捨て去った』」といったのだから、大ニュースではないか。その割りには日本のメディアでは大きく扱われていない。そのなかで、毎日新聞12月17日(水曜日)の「水説」において、中村秀明(論説副委員長)がOECD報告を引用して「逆トリクルダウン効果」を論じている。
本来しずくは上から下へ自然にこぼれ落ちるもの。しかし、現実の経済現象としては、そのようなおこぼれは30年待っても結局起こらなかった。ならば、政治や行政の力で所得の再配分機能を発揮させ、トリクルダウンを強制的に実現させてしまおう。実は、そうすることによって、富者の富が確保され、さらに増加することにもなるという解説。この「貧しい層への配慮が富裕層にも見返りとなってもたらされる」ことが、「逆トリクルダウン効果」として語られている。
経済協力開発機構(OECD)による報告書「所得格差と経済成長」を引用しての「水説」の要点を抜粋しておこう。
「1980年代に上位1割の金持ち層は最下層1割の人々の平均7倍の所得を得ていたが、2011年には9・5倍に拡大した。国別では、北欧などは低くデンマークは5・3倍。一方で英国は9・6倍で米国は16・5倍だった。最もひどいのはメキシコの30倍である。日本は10年の数値で10・7倍となっている。
格差の拡大は、経済成長にどう作用したのだろう。報告書は、90?10年の成長率について、米国では格差が拡大しなかった場合に比べると累積6・7%落ち込み、英国は9%近く、メキシコは10%低下したと推計した。日本では成長率を6%押し下げたとみている。格差が成長の足かせになる。発展途上の国だけでなく、成熟した国にも言えることだという。
日本や欧米では『自由な競争こそが経済に活力を生み成長をもたらす』という考えが強い。だが、報告書が言いたいのは違う。『不平等の解消を目指す政策は社会をより豊かにする可能性を持つ』という発想の転換である。
その政策に必要な財源は金持ち層への税率引き上げでまかなえばいい、と単純明快だ。『富裕層の税負担能力は以前より高まっている』と分析する。成長の果実はいずれ金持ち層にも及び、課税強化も成長の妨げにはならない。貧しい層への配慮が富裕層にも見返りとなってもたらされる「逆トリクルダウン」効果である。」
さらに、本日(12月20日)の毎日に浜矩子が、中村「水説」を受けた記事を書いている。「危機の真相:『くだりと のぼりと さかのぼり』 トリクルはいずこに?」というもの。経済論文という臭みを感じさせずに、さすがに上手な読み物となっている。
浜の解説でのキーワードは、自身の造語である「トリクルアップ」だ。「格差社会における下から上への富の吸い上げ」という現象のことではない。格差を放置しておくと、結局は富の集積の条件が破壊されて富者へのツケが回ってくる。この富者へのマイナス効果に着目して「トリクルアップの経済学」と言っている。
要点は下記のごとし。
「中村さんの『逆トリクルダウン効果』と筆者の『トリクルアップの経済学』は、少々違う。筆者が『トリクルアップの経済学』を思いついたのは、貧乏人をないがしろにしていると、やがてそのツケが金持ちにも回っていくぞ、という感覚から。弱い者いじめばかりしていると、巡り巡って強き者にも、その先細り効果がジワジワと及んでいく。そういうことがあるのではないか。
プラス効果の逆トリクルダウンに着目するのか。マイナス効果のトリクルアップを問題視するのか。この辺には、性格の違いが影響しているだろうと思う。明らかに、筆者の発想の方がクソ意地が悪い。弱い者いじめには天罰が下るぞ。そんな具合に脅しにかかっている。中村さんは、弱者に優しくすると、強者にも恩恵がありますよと言っている。
マイナス効果のトリクルアップは重大問題だと思う。一将功成って万骨枯ることは、許し難いことだ。だが、実をいえば、万骨枯れてしまえば、結局のところ、一将もまた功成り難しだ。」
以下のような上手な説明もなされている。
「底辺の弱さは、ジワジワとてっぺんの方にも浸透してゆく。足腰をないがしろにする経済は、足腰の弱さによって滅びる。いかほど大きな者といえども、小さき者たちの支えと需要が無ければ生きていけない。土台のもろさは、着実に頂上にトリクルアップする。ところが、頂上のにぎわいが土台までトリクルダウンする保証はどこにもない。」
「トリクルダウン」すると期待されてきたものは、おこぼれの「富」である。浜の説明による「トリクルアップ」するものは、富ではなく「ツケ」であり、「土台の脆さ」である。要するに、格差を生み出し維持してきた構造そのものが、富者の地位を脅かし攻撃することになるということなのだ。
一昔前なら、これを弁証法的唯物論適用の好例として説明することになるのだろう。あるいは資本主義の根本的矛盾の表れとして、また窮乏化理論の具体例として。中村の「水説」も浜の「危機の真相」も、資本主義の危機を回避する弥縫策を語っていることになる。しかし、どちらかといえば、中村は富者にやさしく説教を垂れ、浜は富者に向かって「悔い改めざる限り地獄に落ちるぞ」と威嚇している趣がある。もう一歩進めて、貧者の側への語りかけが欲しい。その地位を改善する方策についてでも、あるいは経済構造そのものの変革についてでも。
(2014年12月20日)
東北新幹線の車窓からの冬晴れの富士がこのうえない目の愉しみ。大宮を過ぎてしばらくは、冠雪のその姿がことのほか大きく美しかった。残念ながら盛岡は雪景色。岩手山は盛岡の町を覆う雪雲のなかに隠れて見えなかった。その雪雲の下の盛岡の某所で、三陸沿岸の各地から集まった「浜の一揆」の首謀者たちの密議が行われた。
かつての一揆の謀議はどのように行われたのだろうか。密告者の耳や目をおもんばかって、厳重な秘密会だったに違いない。どのように連絡を取りあい、どんな場所で会合をもったのだろうか。その苦労がしのばれる。今、我々の「浜の一揆」に格別の秘密はない。この作戦会議を地元のメディアに公開してもいっこうに差し支えない。この真剣で活発な討議の様子を行政にも、浜の有力者にも見せてやりたい。
サケは岩手沿岸漁業の基幹魚種である。そのサケを一般漁民は捕獲することができない。うっかりサケを捕獲すると「密漁」となり、県条例で「6月以下の懲役若しくは10万円以下の罰金に処せられる。刑罰を科せられるだけでなく、漁業許可の取り消しから漁船・漁具の没収にまで及ぶ制裁が用意されている。だから、網にサケがかかれば、もったいなくも海に捨てなければならない。これほど厳重に、一般漁民はサケ漁から閉め出されているのだ。
サケを獲っているのはもっぱら「漁協」と「浜の有力者」である。漁法はケタ違いに大規模な定置網漁。漁協が必ずしも漁民の利益のための組織となっていない実態があり、浜の有力者が不当に利益をむさぼっているボス支配の現実がある。
震災・津波の被害のあと、三陸沿岸漁業の復興の過程で、この浜の現状は漁民にとって耐えがたいものとなり、「漁民にサケを獲らせよ」という浜の一揆の要求になり、運動になった。この「浜の一揆」は三陸復興における大事件である。地域経済上の問題でもあり、民主主義の問題でもある。地元メディアが、もっと関心を寄せてしかるべきではないか。
今、岩手県知事宛に、俺たちにもさけを獲らせろと、「固定式刺し網によるサケ漁の許可」を求めている小型船舶所有漁民が101人。近々、もう少しその人数は増えることになる。人数がそろったところでどうするか、今日はその作戦会議なのだ。
私が口火を切って、いろいろと意見が交わされる。
「どうも県の担当課には緊迫感が感じられない。相変わらず、漁民が陳情や請願を繰り返しているとでも思っているのではないか。行政不服審査法に基づく審査請求から行政訴訟提起への行動に踏み出したのだということをよく理解しているのだろうか」
「それは、分かっているようだ。担当課長は『裁判はなんとか避けたい』とは言っている。『それなら許可を出せばよいことだ』と返答すると、『それでは、漁連が納得しない。なんとか、漁連が納得するような方法を考えてくれ』と言う」
「県は、けっして我々の要求が間違っているとか、できないことだとは言わない。漁連と話し合ってくれというだけなのだ。でも、それは行政にあるまじき逃げの姿勢でしかない。県は態度を決めなければならない」
「仮に行政が不許可なら裁判で争おうというこれまでの方針でよいと思う」
「ただ、裁判をすること自体が目的ではない。サケを捕れて、生計が立つようにすることが目的なのだから、早期にその目的を実現する方法があれば、その方がよい」
「『最終手段としては裁判を』という基本はしっかりと確認しながら、行政との交渉で要求が通るものなら、それも考慮の余地はあるのではないか」
「裁判では、県知事の不許可決定が違法として取り消されるか否かの二者択一しかない。しかし、県との交渉であればいろんな案を検討して、どこかに落ち着けることも可能だ」
「これまで要求してきた、TAC(漁獲総量規制)とIQ(個別漁獲量割当)を具体化して政策要求とすることはどうだろうか」
「判決に代わる落としどころとして『岩手版IQ』を漁民自身が提案し、これを実現するとなれば、画期的なことではないか」
「漁業の将来を考え、水産資源保護をもっとも真剣に考えているのは行政でも漁連でもなく私たちだ。けっして乱獲にならないような自主規制によって、漁業の永続を考えてのIQ提案なのだ」
「たとえば、TACはとりあえず過去3年の漁獲量の平均として定める。固定式刺し網にはその漁獲高の20%を割り当てる。」
「固定式刺し網と限定せず、延縄でも刺し網でも、小型漁船漁民に20%で良いのではないか」
「そうすると大型定置の取り分は、これまでの100%から80%に減ることになるだろうか」
「実際には減らないのではないだろうか。固定式刺し網の漁期を秋に限定するのは一案ではないか。この時期、サケは水温の低い沖のやや深いところを回流していて定置にはかからない。この時期に沖合の小規模の固定式刺し網漁は、岸に近い大型の定置網漁と競合しないはずだ」
「相互扶助という観点から『IQ』よりは『ITQ』(譲渡性あるIQ)の方が魅力がある。漁師が病気になって漁に出られないときは一時的にその権利を譲って凌ぐようにできればありがたい」
「病気だけでなく『漁運』というものもある。たまたま不漁の時に、他の好漁の人に枠を融通できれば便利だ」
「譲ることができる相手は、同じ小型船舶の漁民ということに限定しておかないと、大きな資本に買荒らされることになりかねない。歯止めをしっかりしておこう」
「そのような案を具体化し、請求人団として、代理人の弁護士を先頭に県との交渉をしよう。その際には、きちんとマスコミにもレクチャーをしておこう」
「一人くらいは、本気で漁業の問題を取材する記者も現れるのではないか」
「そこまでやって県がだめだというのなら、裁判をすればよいことだ。その腹はもう固まっている」
意見はまだまだ続いた。充実した3時間の議論。田野畑村から押し出した、かの三閉伊一揆のあのときの謀議の雰囲気もこのようだったのではなかろうか。
(2014年12月19日)
「北星学園大学の植村隆さん雇用継続の決定について、各紙がそれぞれの社風で記事を書いている。東京新聞と北海道新聞がほぼ同じ内容。見出しに、「『脅迫に負けるな』支援受け」「市民の力の勝利」と文字が躍る。
この二つの見出しが事態を端的に物語っている。せめぎ合いは「卑劣な脅迫者」と「真っ当な市民」との間のものだった。最初は脅迫者側が優勢に見えたが、「脅迫に負けるな」という市民の声が大きなうねりになって結実し、「市民の力の勝利」に至ったのだ。このことの意味は極めて大きい。
道新に(東京にも)次のような感動的な一文がある。「これは市民の力の勝利だ」と述べた北星学園大学教員の名言である。
「今回、確信した。民主主義は政治家や学者によって守られるものではない。市民が納得のいかないことに声を上げ、議論をし、自らも説明責任を果たすことでしか、実現しない」
この度は、市民の側が成功体験を積み上げ自信をもった。
同じ道新に(東京にも)、次のコメントが紹介されている。
「結城洋一郎小樽商大名誉教授の話 北星大が脅迫に屈すると『あいつを気に入らないから辞めさせろ』と、あらゆる組織で同じことが起きかねない。今回の誇りある決断は、そうした風潮を抑止する。」「警察は警備を強化し、脅迫などの捜査を進めるべきだ。愉快犯であっても、厳しい態度を示すべきだ。」
不当な連中に間違った成功体験を経験させてはならないのだ。
朝日は、精神科医香山リカさんのコメントを掲載している。
「この間、…間接的に脅迫を肯定するかのような議論が、ネットを中心に一部で見られたのは大変残念だった。万一、また学問の自由や大学の自治を侵害する卑劣な行為が起きた場合、大学内部で対処せず、今回のように情報公開し、外部の支援者がスクラムを組んで大学を守る方法が有効ではないか。その意味でよい先例になったと思う。」
実に的確な指摘だと思う。(1)卑劣な行為起きた場合内部だけの問題としない。(2)情報公開し外部に訴える。(3)外部の支援者がスクラムを組んで卑劣な行為を糾弾する。香山さんは、今回の教訓をこのように定式化して、「よい先例になった」と評価しているのだ。
敢えてもう一つ付け加えるとすれば、(4)外部の犯罪行為には躊躇なく警察や検察の手を借りて取締りを依頼しよう。告訴や告発を躊躇することは、業務妨害や、脅迫・強要・名誉毀損・侮辱犯に間違ったメッセージを送ってしまうことになりかねない。北星への卑劣な脅迫者たちは、「これくらいのことはたいしたことはない」「俺たちの立場は政権や社会に支持されている」「こんなことに警察が手出しすることはないだろう」と思い込んでいたのではないか。
私が今回使った「成功体験」という言葉は、北大教授の町村泰貴さんのブログから借用したもの。便利で使いやすい言葉だ。この人のブログからは、教えられることが多い。
町村さんは、11月5日付のブログで、「北星学園大学は脅迫に屈することを選ぶ模様」と嘆いている。そのなかに、「このような形で脅迫に屈すれば、脅迫者たちの成功体験が次の脅迫を呼ぶことであろう。」という一文がある。指摘のとおり、彼らに「成功体験」をさせてはならないのだ。
町村さんは、さらにこう続けている。
「学問と言論の自由は、当然ながら、世間の反発を買うような内容の言動も含めて、その自由が保障される必要がある。もちろん内容面についての批判を受けることは甘受しなければならないのだが、それを超えて、辞職しろとか、自決しろとか、そのような脅迫を甘受する必要はないのであり、そのような脅迫は原則として取り締まりの対象となるべきである。
そして脅迫に対しては、大学は脅迫者に対する刑事告発や民事責任追及といった方法をもって対抗し、かつそれが危害を加えられるおそれに至れば、警備にコストがかかるかもしれない。そのコストは、本来脅迫者たちから損害賠償として取り立てるべき筋のお金である。」
ここまでが民事訴訟法学者の言である。この示唆を受けて、あとは実務法律家が語らなければならない。「大学が、脅迫者に対する刑事告発や民事責任追及といった方法をもって対抗する」には弁護士の助力を必要とする。道の内外を問わず、多くの弁護士が北星の役に立とうと身構えている。
町村ブログの重要な示唆は民事訴訟提起の勧めである。刑事告訴や告発も辞さないというだけでなく、民事訴訟も考慮せよというのが町村教授提案ではないか。なるほど、考えてみれば、大学が警備費用など余計な出費を負担する筋合いはないのだ。この損害は、脅迫に加わった多数加害者たちの共同不法行為として構成することが可能ではないか。住所氏名が判明した脅迫行為加担者には、警備費用などのコスト分を損害として賠償請求訴訟の提起が十分に可能である。共同不法行為が成立する以上は人数割りで損害が按分されるのではない。共同不法行為加担者の一人ひとりが、損害の全額を賠償する責任を持つことになる(民法719条)のだ。この際、いくつかの実例を作っておくことが、後々のために有益ではないだろうか。
その町村さんが昨日のブログでこう書いている。
「おりしも、パキスタンではあのマララさんを襲ったグループが学校を襲って100人以上もの死者を出した事件が今日報じられている。思想も過激さも大きく異る二つのケースだが、子どもを攻撃対象とする卑劣さにおいて北星学園大学脅迫犯とパキスタンの過激派とは同根だ。こうした連中を助長し、のさばらせ、共感したりすることは有害だ。
逆に、脅迫には屈しないということを選んだ北星学園大学に、心からのリスペクトを送りたい。」
まったく同感である。
(2014年12月18日)
北海道は今日は猛吹雪とのこと。そのなかで、北星学園にだけは暖かい陽が射し、さわやかな風が吹いたようだ。言論の自由と大学の自治を蹂躙しようとした卑劣な排外主義の横暴に歯止めがかけられたのだ。
まずは、北星学園理事長と学長連名の本日付下記声明を熟読いただきたい。苦悩しつつも、理性ある社会の連帯の声に励まされながら建学の理念を貫いた、その真摯な決意を読み取ることができる。
http://www.hokusei.ac.jp/images/pdf/2014_1217.pdf
まずは、北星学園の皆さんに敬意を表しなければならない。そして、この成果獲得の過程に満ちている多くの教訓を確認しなければならない。そしてまた、これですべてが解決したわけではない。このステップを確信として、さらに大きな支援の輪を広げなくてはならないと思う。
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元朝日新聞記者である植村隆氏は、23年前に2通の従軍慰安婦問題報道の記事を書いたとして故ないバッシングの対象とされてきた。二つの記事はいずれも立派なもので、これを非難するのは「理由なく難癖をつける」に等しい。にもかかわらず、同氏に対するバッシングは、本人のみならず家族に及び、さらにその矛先は勤務先の北星学園大学に向けられた。
本年の5月以後、心ない者の扇動に乗せられた卑劣きわまりない脅迫・強要・業務妨害の電話やメールが一斉に北星学園に押し寄せた。「大学への脅迫や抗議は5月?11月半ばだけでも2千近くに上った」(道新)という。この事態は、今の時代の空気を象徴するものとして、凝視しなくてはならない。排外主義の空気がこうまで色濃くなっているという背筋が寒くなる現実があるのだ。
攻撃の標的として確かに学校は弱い。北星学園は、大学生だけでなく中高一貫の女子校を抱えている。本当に安全を守れるのか、保護者を安心させることができるのか。トラブルのある学校への進学希望者が減るのではないか、いたずら電話などに完璧な対処ができるのか、心配は尽きない。職員にも大きなストレスがかかっている。現実に警備費用の負担が大きくのしかかっているとも聞こえてくる。経営の観点だけからなら結論は単純だ。一人の非常勤講師の雇用継続を拒否した方が合理的な判断であることは間違いない。
しかし、その北星学園は最終的に毅然とした判断に至った。本日植村氏の雇用契約を来年度も継続するむねを正式に発表した。経営ではなく敢えて理念にしたがった選択をしたのだ。
その経過は、北海道新聞に手際よくまとめられている。
「同大は当初、学生や受験生の安全を優先して、雇用を打ち切る方針で検討していた。しかし、大学を運営する学校法人の理事会などで、『雇用打ち切りはキリスト教を基礎とした建学精神に反する』と反対意見が多く出された。
また市民グループ『負けるな北星!の会』が発足し、全国の弁護士380人が脅迫状事件で容疑者不詳のまま札幌地検に告発するなど、支援の動きが国内外に広がった。札幌弁護士会が『民主主義に関わる』として協力を申し出たこともあり、大学は講師の契約更新に必要な安全確保ができると判断したとみられる」
本日の学長声明では、「暴力と脅迫を許さない動きが大きく広がり、そのことについての社会的合意が広く形成されつつあり、それが卑劣な行為に対して一定の抑止力になりつつあるように思われます」と言っている。極めて率直に正直に、「北星学園ひとりの力だけでは、この事態を乗り越えられない」「多くの人の励ましを得て、この社会の声の力強い後押しがあるなら乗り越えられるだろう」というのだ。
私たちは、もっともっと支援の輪を広げ、力強い応援をしなければならない。
言うまでもないことだが、大学運営の業務の平穏は守られなければならない。この業務平穏を妨害することは犯罪である。私たちは、2度目の告発を準備中で、今度は早期の起訴にまで持ち込みたいと考えている。
北星学園に対する「電凸」を「虚偽の風説の流布による業務妨害」(刑法233条)とするもので、近々札幌地検に告発状を提出する予定。電凸という用語は私も今回初めて知ったが、これは今やネット社会の住民のいやがらせ常套手段。これを防遏する意味が大きい。
卑劣な攻撃から平穏な学園を防衛するためには、さらなる刑事告訴や告発、場合によっては民事の損害賠償も考えねばならない。それが、社会の責任であり、人権と社会正義の擁護を使命とする実務法律家の使命でもある。これを徹底してこそ、民主主義的秩序を擁護することが可能となる。
あらためて背筋が凍る思いがする。もし、北星学園が暴力と脅迫に屈して逆の結論を出していたとしたら…。暴力と脅迫はさらにエスカレートし、至るところで跋扈しかねない。非理性的な排外主義の社会的圧力が、言論の自由や学問の自由、大学の自治を蹂躙しかねない。かろうじて、そうはならなかった。その意味で、今日は良い日だったのだ。吹雪荒れる日ではあっても…。
(2014年12月17日)
この度の選挙結果。まずは議席の配分に注目せざるを得ない。安倍自民党が単独で獲得した議席数が291(福岡1区当選者追加公認を含む)、極右の「次世代」が2、江田・橋下の維新が41。以上の積極的改憲派の議席総数は334となって、衆議院3分の2ライン(317議席)を大きく上回っている。これに自民と連立を組む公明の議席31を足せば365。改憲容認勢力の衆院議席占有率は77%にもなった。すくなとも衆議院に関する限り、96条改憲発議の要件は整った。すでに危険水域である。これがあと4年続くと考えると、憂鬱このうえない。
現に、選挙期間中は経済問題だけを争点に押し出し、「アベノミクス選挙だ」「この道しかない」と叫んでいた安倍晋三は、選挙が終わるや掌を返したように改憲・集団的自衛権・安保法制に言及をはじめた。
「安倍晋三首相(自民党総裁)は15日、衆院選を受け、自民党本部で記者会見した。自民、公明両党で憲法改正の発議に必要な3分の2(317議席)以上を確保したことを踏まえ、『最も重要なことは国民投票で過半数の支持を得なければならない。国民の理解と支持を深め、広げていくために、自民党総裁として努力したい』と述べ、憲法改正に重ねて意欲を示した。」「7月に閣議決定した集団的自衛権の行使容認を含む安全保障法制の整備について『しっかり公約にも明記し、街頭でも必要性を訴えた』と語り、有権者の理解を得られたとの認識を強調。『支持をいただいたわけだから、実行していくのは政権としての使命だ』と述べ、来年の通常国会で関連法案の成立を期す考えを強調した。」(毎日)と報道されている。「そりゃないだろう」と怒るべきか、あるいは「ああ、やっぱりね」と嘆じるべきだろうか。
とはいえ、選挙結果は議席数だけで評価すべきものではない。民意の所在を推し量るには、各政党が獲得した得票数の増減が重要である。そのような視点で選挙結果を眺めると、少し違った景色が見えてくる。
最近10年の民意の動きは、大雑把には、次のように言えると思う。
自民党政権の新自由主義的施策は経済格差と貧困を生みだし、それゆえの自民党の長期低落傾向が進行した。2005年総選挙は郵政選挙としてオールド保守の最後の輝きであって、格差や貧困の蔓延が社会の安定性を欠くまでにいたって人心はいったん自公政権を見限った。その結果が圧倒的な民意となって、前々回2009年夏の45回総選挙に結実し、「コンクリートから人へ」のスローガンを掲げた民主党を政権の座に押し上げた。ところが、政権の座についた民主党はその期待に応えることができなかった。期待が大きかっただけに民意の落胆と反動は大きく、前回2012年46回総選挙は民主党の惨敗となり、安倍自民の再登場を許した。しかし、このとき民主党から自民への票の回帰はない。前回12年46回総選挙以後今回14年選挙まで、安倍政権は選挙民を納得させるだけの何ごともなしえていない。それでも、今回、自民党は前回票を減らすことなく維持して、議席数微減にとどめた。
有権者の投票行動は、小泉劇場を舞台とした郵政選挙(2005年)で自民党に走り、一転してマニフェスト選挙(2009年)で民主党に向かい、前回の自爆解散による総選挙(2012年)で実は自民党には戻らず、第三極(維新とみんな)に吸収された。前回以降の第三極離合集散を経て、前回の第三極票がどうなったか。それが、今回選挙の最大の着目点であろう。
前回12年選挙の第三極得票数は、
維新の会 1226万
みんなの党 525万
計 1751万票である。
これに、日本未来の党の342万を加えれば、2000万票を超す。自民を批判しつつ民主をも見限った人々の受け皿としての第三極に投じられた票数がざっと2000万だったのだ。
今回は、みんなの党はなくなって「第三極」の得票(比例)は下記のごとくとなった。合計1082万票。
維新 838万票(前回「維新」と比較して400万減)
次世代 141万票
生活 103万票
結局、「第三極」の合計得票数は、2000万から1000万票に半減した。前回第三極に投票しながら今回はここから離れた1000万票の行く先は、(1)棄権と、(2)共産党であって、民主にも自民にも殆ど動いていない、と推察される。
自民は、前回比で比例票は100万増やしているが、小選挙区では20万ほど減らしている。前回並みに票を維持したと評してよい。
比例票 前回1660万→今回1760万 100万増
小選挙区票 前回2560万→今回2550万 10万減
民主党票の増減は以下のとおりである。
比例票 前回960万→今回980万 20万増
小選挙区票 前回1360万→今回1190万 170万減
以上のとおり、自民も民主も、得票数は前回と大差ない。公明も、社民も同様である。ひとり共産党だけが、以下のとおり票を伸ばしている。
比例票 前回369万→今回606万 237万増
小選挙区票 前回470万→今回704万 234万増
第三極が減らした1000万票は、前回比での棄権票増加分700万と、共産党の得票増加分の合計にほぼ見合う。議席配分はともかく、有権者の投票行動だけを見た場合には、自・公・民がそれぞれようやく現状を維持したなかで、共産党だけが一人勝ちだったと言ってよいと思う。
念のため、自民党の過去4回の比例得票数の推移を見てみよう。
2100万票(44回)→1900万票(45回)→1660万票(46回)→1770万票(47回)と、低落傾向にまだ歯止めはかかっていない。
公明の比例得票数の推移も同様である。
873万票(44回)→805万票(45回)→712万票(46回)→731万票(46回)
結局、自公政権は見かけほどに強くはないのだ。この点の見定めが肝要である。今、自公は小選挙区制の恩恵で政権を樹立し維持している。しかし、投票率の低下と共産党票の伸びは、政権の基盤が脆弱であることを物語っている。
そしてもう一つ、今回の選挙結果は、自公政権の補完物としての第三極の受け皿機能が半減して、共産党がそれに取って代わりつつあることを物語っている。
集団的自衛権も、特定秘密保護法も、憲法改正も、防衛・外交・沖縄新基地建設も、税制・雇用・社会保障の制度改悪も、原発再稼働もTPPも、そして教育再生も、自公政権の政策は、国民に真の利益をもたらすものではない。公然たる新自由主義政党である維新も同様。そのように多くの国民が自覚しつつある。
それにしても諸悪の根源は小選挙区制である。この点の制度改革は喫緊の課題となっいる。それと同時に、各小選挙区における改憲阻止勢力を糾合した選挙共闘の体制作りもである。そのような課題を意識しつつも、今回の選挙結果に表れた民意の動向の積極面に、近い将来の変化の可能性を見るべきであろう。
(2014年12月16日)
またまたの師走選挙の惨憺たる結果が重苦しい。自民の議席が291、公明35という数字が恨めしい。維新41も面白くない。これらの数字が、日本国憲法の運命への暗雲となっている。言うまでもなく、憲法の危機は平和の危機であり、人権と民主主義の危機でもある。
共同通信が次の記事を配信している。「共同通信社は15日、衆院選当選者(475人)のうち、立候補者アンケートで回答を寄せていた458人について回答内容を分析した。憲法改正に賛成との回答は84.9%に当たる389人で、改憲の国会発議に必要な3分の2(317)を大きく上回っていることが分かった。集団的自衛権の行使容認には『どちらかといえば』を含め計69.4%が賛成した。」
もっとも、同記事は、「共同通信社が衆院選に合わせて実施した全国電話世論調査(トレンド調査)では改憲反対が賛成を上回っており、国民の意識とは異なる可能性もある。」とつながっている。
絶望ばかりの状況ではないが、ひょっとするとあの忌まわしい時代の再到来…と危惧せざるを得ない。あの時代にも、旧憲法や治安維持法、国防保安法体制のなかで、気骨の政治家もあり、ジャーナリストもいた。しかし、議会の権威が失墜し、ジャーナリストの口も封じられた。そこから軍国主義、日本型ファシズムの芽が伸び広がった。
今回選挙では、民意が議会政治そのものを見限ったのではないかというあらたな危機感をもたざるを得ない。多くの有権者が、政治そのものあるいは民主主義の有効性を信用しなくなったのではないか。投票率の低下がそのことを物語っている。
実際、今回ほど白けた雰囲気の総選挙を知らない。有権者は、政治に期待があれば勇躍して投票所に足を運ぶ。2009年の「マニフェスト選挙」が好例である。このとき、投票率は69.28%であった。7000万人の有権者が投票をして、第1党の座を占めた民主党は、比例代表で3000万、小選挙区で3350万票を獲得した。民意が動いたことを実感させられた。
ところが、今回の投票率は「戦後最低」の52.66%である。実は、戦前の衆議院議員総選挙の投票率はけっこう高い。戦前戦後を通じての47回の総選挙での最低なのだ。これが白けた雰囲気の原因だ。前々回09年選挙に比較して2000万に近い人が投票を拒否したことになる。その結果、奇妙なことが起こっている。
09年選挙は民主党大勝・自民党惨敗の選挙として記憶されている。ところが、今回14年選挙における自民党獲得票数は、09年選挙の得票数に及ばないのだ。信じられないような本当のはなし。
09年自民党比例得票数 1881万票
14年自民党比例得票数 1766万票
09年自民党小選挙区得票数 2730万票
14年自民党小選挙区得票数 2546万票
自民党は5年前の得票数を回復していない。他党よりも、「票の減り方が少なかったから今回は勝てた」ということなのだ。これで「勝てた」「民意を得た」などと本当に言えるのだろうか。
この投票率の低下は、支配勢力の思う壺ではなかろう。もしかしたら支配勢力にとっても予定コースを外れた深刻な危機的状況なのかも知れない。
もう一つのテーマに触れておきたい。本日の東京新聞夕刊の一面トップの見出しが、「衆院小選挙区ー自民、得票48%議席75%」というもの。
記事の内容は、「小選挙区では、自民党の得票率(有効投票総数に占める自民党候補全員の総得票)は約48%で、議席占有率は約75%。自民党は、小選挙区に投票した人の二人に一人に満たない得票で、四分の三の議席を獲得した計算。
一選挙区から一人を選ぶ小選挙区制は『死に票』が多く、民意が正確に反映されにくい特色があるが、今回もその傾向が現れた。」というもの。
本来、議会とは民意を正確に映す鏡でなくてはならない。自民党は、下駄を履かせられた見せかけの多数であり第1党に過ぎない。この点においても、この度の総選挙において本当に安倍自民が国民の信任を得たと言えるのか疑問なしとしない。
安倍政権に驕る資格はない。
(2014年12月15日)
本日(12月14日)の毎日「今週の本棚」(書評欄)トップに、将基面貴巳著「言論抑圧ー矢内原事件の構図」(「中公新書」907円)が紹介されている。書評執筆者は北大の中島岳志。紹介する書物のテーマがもつ今日性についての強い問題意識が熱く語られ、それゆえに迫力ある書評となっている。
冒頭から問題意識が明確に表示されている。
「慰安婦報道に携わった元朝日新聞記者・植村隆氏へのバッシングが続いている。植村氏は、赴任予定だった神戸松蔭女子学院大学から教授ポストの辞退に追い込まれ、現在は非常勤講師を務める北星学園大学で雇い止めの瀬戸際に立たされている。現政権は脅迫への積極的な批判や対策に乗り出さず、一方で朝日新聞叩きに加勢する。」
この状況が「いつかきた道」を想起させるのだ。
「右派からの苛烈な攻撃と過剰反応する大学。そして、権力からのプレッシャー。歴史を想起すれば、1930年代に相次いだ言論抑圧事件が脳裏をよぎる。」
1937年に東京帝国大学経済学部を追われた矢内原忠雄を取り巻く背景事情は、まさしく現在進行する北星学園大学の植村隆のそれと瓜二つなのだ。
80年前の事件では、紆余曲折の末、結局は文部大臣の圧力に屈した帝大総長の即決によって矢内原は大学を追われる。矢内原は最終講義を次の言葉で締めくくったという。「身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する。諸君はそのような人間にならないように…」
中島は、書評を次のとおりの熱い言葉で締めくくっている。
「本書は約80年前の事件を取り上げながら、現代日本を突き刺している。我々は歴史を振り返ることで『いま』を客体化し、立っている場所を確認しなければならない。必読の書だ。」
この「必読の書」は、今年9月下旬に発刊されたもの。植村・北星学園バッシング事件応援のために生まれてきたような書。矢内原事件とは異なり、植村・北星学園の事件は未決着だ。「バッシングにマケルナ!」の声援が日増しに大きくなっている。中島に呼応して、多くの人が、それぞれの持ち場でその影響力を駆使して、この事件を語ってもらいたい。書く場があれば書いていただきたい。元々が根拠をもたない攻撃なのだ。多くの人の言論の集積で、必ずやこの攻撃を食い止めることができるに違いない。
私も自分のできることとして、下記のとおりこの件についてブログを書いている。
12月10日https://article9.jp/wordpress/?p=3991
植村隆の「慰安婦問題」反撃手記に共感
12月3日https://article9.jp/wordpress/?p=3958
ニューヨークタイムズに、右翼による「朝日・植村バッシング」の記事
11月29日https://article9.jp/wordpress/?p=3925
「試されているのは一人ひとりの当事者意識と覚悟」?北星学園「応援」を自らの課題に
11月15日https://article9.jp/wordpress/?p=3858
「負けるな北星!」 学内公聴会発言者に敬意を表明する
嬉しいことに、読者からの反応がある。若い友人からいただいた12月10日ブログへの感想を、2例引用しておきたい。
「12月10日の植村隆さんの手記を紹介するブログを読んで涙が止まりませんでした。植村バッシングの本質を鋭くついている点や手記最後の部分への共感など、本当に植村さんの言いたいことを代弁して下さっていて、うれしく思います。
『文藝春秋』編集部の前文はいやらしい書き方ですが、本質的批判ではないと私は受け止めています。アリバイ作りというか、『文藝春秋』は植村さんの手記を載せる以上、右翼からのバッシングを恐れてあのような前文を書かざるを得なかったのでしょう。違う意味での『委縮』だと思います。
それでも、植村さんの主張が、保守系雑誌にきちんと載ったことの意義は大きいと思っております。
これからもよろしくお願いいたします。」
「12月10日の澤藤さんのブログで植村隆さんの手記が発表されたことを知って、さっそく図書館でコピーして読みました。この手記は非常に重要ですね。
この手記は、事件について教えてくれるばかりでなく、現在のわれわれの社会の政治的言論の異様な状態──自由な発言と議論と批判を排除して、嘘と隠蔽と根回しとイメージを操作することによって集団の合意を形成しようとし、自分と異なる意見にたいしては反論するのではなく圧力をかけることによって黙らせようとする──を理解するための重要な鍵をいくつか与えてくれるように思います。
植村さんの手記を読むと、この事件が、脅迫電話や脅迫状や『電凸』を仕掛けたネトウヨだけが犯した犯罪ではないことに気づかされます。
1991年8月10日の植村さんの最初の記事から2014年の植村宅や北星学園に対する嫌がらせまで、この事件を紡いでいった一つ一つの鎖の輪のなかに登場する諸個人──西岡力は中でももちろん重大ですが、その他にも、朝日新聞東京本社からはじまって、慰安婦問題を大きく取り上げようとしなかった大手新聞各社、雇用契約を一方的に破棄した神戸松蔭女子大学の幹部、本人取材をスルーした読売新聞記者、盗撮したフラッシュ女性記者、ネットで中傷を繰り広げた者たち、その中傷に屈して雇い止めを望んだ北星学園大学の一部のひとたち、謝罪会見を準備した朝日新聞本社の幹部とそれを指揮し会見を実際に行なった木村社長にいたるまで──これら諸個人の判断と行動の一つ一つの積み重なりが、この事件を構成しているのだということに気づかされます。
もし、これら諸個人の一人一人が、正しく判断し、真実を言う勇気をもっていたら、この事件は起らなかったのではないかと思います。
組織や集団において責任ある地位にいる諸個人、その人たちの不見識と無責任と怯懦が、そして、そのような人々を組織や集団のトップに押し上げるような組織運営のシステムが、今日の言論の危機を招いているのではないでしょうか。
有権者に、判断のための情報と議論をする時間を与えず、イメージだけを与えて、自分たちが勝てるうちに総選挙をやってしまおうとする安倍首相のやりかたが、ナオミ・クラインが『ショックドクトリン』と批判したまさにその手法です。また、一国の首相がフェイスブックで個人のコメントに噛みつくような世の中では、勇気も見識もない跳ねっ返りが、気にくわない相手を匿名で恫喝するのも当然のことのように思えてきます。
このようなモラルと言論空間の変容は、政治、経済、社会の変容と結びついてもいるわけで、そちらの方も別の機会に考えてみたいと思います。
いずれにしても、澤藤さんが12月10日の憲法日記で書いていらっしゃるように、この現実に起きている恐るべき悪夢について、『今何が起こっているのか、何がその原因なのか、そしてどうすればこの状況を克服できるのか。理性と良識ある者の衆知と力を結集しなければならない』という言葉に賛同します。
今日の恐るべき政治の主導者たちが、毎日のように昼夜を問わず料亭やホテルや別荘や研究所に集まって悪知恵と悪だくみに磨きをかけているのに対して、それを打ち破ろうとする者たちがなかなか彼らに勝てないのは、そして野党や市民運動が脆弱なのも、知恵を出し合って一緒に議論したり探究したりしていないからではないでしょうか(もしかしたら、すぐれた研究はたくさんあるのに、僕が勉強していないだけなのかもしれませんが)。それにしても、この現状を打開するための知の探究は、一人でできるものでははないし、また、一人ですべきものでもないように思います。
またお目にかかってお話ししましょう。寒さの折り、お体を大切になさってください。」
植村手記を我がこととして読む人がおり、また、植村手記を現代の病理を象徴する重要な事件として真剣に読み解こうとする人がいる。植村・北星学園が孤立した状況は確実に克服されつつある。
私は、この問題についてのブログを発信し続けよう。そして、弁護士としてできることを追求する。さしあたっては、仲間と語らって、ネットにアップされた典型的な悪質いやがら事案を刑事事件として立件させることに努力する。
(2014年12月14日)
12月13日、世界に「南京アトロシティ」(大虐殺)として知られた事件が勃発した日。そして、今年は明日に第47回総選挙の投票日を控えた日となった。
77年前の1937年7月に北京郊外盧溝橋での日中軍の衝突は、たちまち中国全土への戦線拡大となった。同年11月19日、日本軍は占領地の上海から当時の首都南京を目指して進軍を開始した。
この南京攻略作戦は、中支那方面軍司令官の松井石根(陸軍大将・東京裁判でA級戦犯として死刑)が参謀本部の統制に従わずにしたものとされ、無理な作戦計画が糧秣の現地調達方針となって、進軍の途中での略奪や暴行などが頻発したとされる。
その進軍の到達地首都南京開城が12月13日。城内外が、その後3か月にわたるアトロシティの舞台となった。日本軍は、逃げ遅れた中国兵や子ども・女性を含む一般市民を虐殺し、強姦、略奪、放火などを行った。加害・被害の規模や詳細は推定するしかないが、死者数「十数万以上、それも20万人近いかあるいはそれ以上」(笠原十九司著『南京事件』岩波新書)と推測されている。
「南京アトロシティ」は、当時現地にいたジャーナリストや民間外国人から発信されて世界を震撼させた。しかし、情報管理下にあったわが国の国民がこれを知ったのは、戦後東京裁判においてのことである。その東京裁判では、老幼婦女子を含む非戦闘員・捕虜11万5000人が殺害されたとし、南京軍事法廷(1946年に国民党政府によって開かれた戦犯裁判)は30万人が殺されたとしている。
小学館「昭和の歴史・日中全面戦争」(藤原彰)に、次の記述がある。
「当時の外務省東亜局長石射猪太郎の回想録には、『南京アトロシティ』という節を設け、現地の日本人外交官からの報告にもとづき、局長自身、陸軍省軍務局長にたいして、また広田外相から杉山陸将にたいして、日本軍の残虐行為について警告したと書かれている。実数は不明だが、膨大な件数の日本軍による残虐行為が行われ、世界の世論をわきたたせたことは、明らかな事実なのである。」
「それはまさに、日本の歴史にとって一大汚点であるとともに、中国民衆の心のなかに、永久に消すことのできぬ怒りと恨みを残していることを、日本人はけっして忘れてはならない。」「この南京大虐殺、特に中国女性に対する陵辱行為は、中国民衆の対日敵愾心をわきたたせ、中国の対日抵抗戦力の源泉ともなった。」
もって、肝に銘すべきである。
日本国憲法は、過ぐる大戦における戦争の惨禍への深刻な反省から生まれた。戦争の惨禍とは、自国民の被害だけを指すものではなく、近隣諸国民衆の被害をも含むものと解さなければならない。日本国民は、決して戦争に負けたことを反省したのではない。無謀な戦争を反省して、この次は国力を増強して用意周到な準備の下、頼りになる同盟国と組んでの戦勝を決意したのでもない。戦争そのものを非人道的なものとしてなくす決意をしたのだ。だから、日本国民の戦争被害だけではなく、加害の事実にも真摯に向き合わねばならない。
日本人にとって、戦争被害の典型が広島・長崎の原爆であり、沖縄の地上戦であり、東京大空襲であろう。加害の典型が、占領地での南京アトロシティであり、731部隊・平頂山事件・捕虜虐待であり、また従軍慰安婦であろう。
幸いに、日本の戦争被害について、これを「でっち上げだ」という声は聞かない。にもかかわらず、安倍政権誕生以来、戦争における加害の事実を否定しようとする歴史修正主義者の跋扈が目に余る。自国に不都合なものであっても歴史的真実から目を背けてはならない。
歴史修正主義は、必然的に日本国憲法への敵対的な姿勢となる。あの戦争についての反省を拒否することは、憲法の成り立ちを否定し、とりわけ国際協調と平和主義を否定することになるのだ。
安倍政権がまさしくその立場である。これに鼓舞され追随して、ヘイトスピーチの横行があり、朝日バッシングがある。北星学園への卑劣な脅迫や一連のいやがらせもこれにつながるものである。
ことは、保守か革新かのレベルではないように見える。歴史に真摯に向き合うか否かは、保革の分水嶺ではない。加害の戦争責任を認める立場は、むしろ保守本流の立場であったはずではないか。
明日の投票日に、是非とも危険な安倍自民とこれへの追随勢力に、国民のノーの審判をしていただきたいものと思う。「この道しかない」と、あの忌まわしい「いつかきた道」に再び連れ込まれることのないように。
(2014年12月13日)
私自身が被告となっている「DHCスラップ訴訟」の次回口頭弁論期日の日程が間近になってまいりました。法廷傍聴と報告集会のご案内を申し上げます。
12月24日(水)午前11時? 口頭弁論
東京地裁631号法廷(霞ヶ関の裁判所庁舎6階南側)
同日11時30分? 報告集会
場所は東京弁護士会室508号室(弁護士会館5階)
今回の法廷では、前回期日での裁判長からの指示に基づいて、被告が準備書面を陳述することになります。まず、裁判所から求められた準備書面の内容は以下のとおりです。
☆前々回(9月17日)の期日に、裁判長は原被告の双方に対して「主張対照表」のフォーマットへの書き込みを指示しました。「現在、東京地裁での名誉毀損訴訟の審理においては、通常このような対照表を作成するかたちで行っていますので」とのコメントを付してのことでした。
☆ところで、名誉毀損訴訟の事案類型は、「事実摘示型」と「論評型」の2類型に大別されます。「事実摘示型」は、特定の人物の「社会的評価を低下させる事実」を摘示(曝露)するタイプの言論を違法と主張するもの。「論評型」は、既知の事実を前提とした批判(評価)の言論を違法と主張するもの。各々の判断枠組みが異なります。この対照表のフォーマットは、「事実摘示型」の審理に親和性をもつもののように思われるものとなっています。
☆これまで原告は、私のブログの文言を寸断して、「あれも事実の摘示」「これも事実の摘示」と言ってきました。これに対して、被告は「事実の摘示ではない」「全ては、原告吉田が週刊誌に告白した事実と社会的に周知されている事実から合理的に推論した意見ないし論評である」と反論してきました。
ちなみに、事実摘示型の言論は原則として違法とされ、違法性を阻却される要件が充足されるかという観点で審理が進行します。違法性阻却事由は、(1)当該の言論が公共に係るもので、(2)もっぱら公益をはかる目的でなされ、(3)かつ、その内容が真実である(あるいは真実であると信じるについて相当の理由がある)場合とされます。
「(1)公共性、(2)公益性、そして(3)真実性(ないし相当性)」の3要件と定式化されているものです。この3要件を充たして初めて、他人の名誉を毀損し、社会的評価を低下させる言論が違法ではなくなって許容されるという枠組みなのです。
これに対して、論評型では、「事実について述べることとは違って、意見や見解を述べることは自由」という原則をもって処理されます。問題とされている言論の真実性や真実相当性が問題となる余地はなく、「人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱」していない限りは違法性がないと判断されることになります。
名誉毀損事件の圧倒的多数は事実摘示型です。芸能人やスポーツ選手のスキャンダル報道がその典型。特ダネ・スクープと言われるすっぱ抜き報道も事実摘示です。本件で、私が週刊新潮の記事以前に「DHC吉田から、渡辺喜美に8億円の金が密かに渡っていていた」とすっぱ抜けば紛れもない「事実摘示型」。その摘示事実が真実であることの立証が最大の問題となるところ。しかし、8億円授受の事実をすっぱ抜いたのは吉田自身ではありませんか。私は、その事実に基づいてごく常識的な意見を言ったに過ぎません。私の言論は、既知の事実を前提とする論評なのですから、表現内容の真実性や相当性を問題にする余地はありません。原告が私のブログを名誉毀損だと主張すれば、典型的な「論評型」の訴訟となるわけです。
この「事実摘示型」「論評型」との分類は、決して形式論理に基づくものではなく、憲法21条の表現の自由を重視しつつ、表現によって名誉を侵害される人の人格的価値の尊重とのバランスをどうとるべきかという観点から生まれてきた審理方法なのです。
☆原告は、何が何でも私の言論を封じることが目的ですから、従前の通りにこの主張対照表に「あれも事実の摘示」「これも事実の摘示」と書き込みました。これに対して、被告は「すべては原告吉田自身が週刊誌に告白した事実から合理的に推論した論評である」と書き込みました。結局は、対照表の作成にさしたる意味はなかったことになります。
☆前回(11月12日)の法廷では、裁判長はさらに、被告に対して「論評が前提とする事実を、『吉田が週刊誌に告白した事実』というだけではなく、もっと特定していただきたい」というものとなりました。裁判所の求めているところや、裁判所の考え方などを明確化するためのやり取りをかなり長時間続けて、裁判所の基本的な枠組みについての考え方が、常識的なものと確認できたので、被告弁護団はその指示に従うことを了解しました。
☆もっとも、被告本人の私には、裁判所の訴訟指揮に釈然としないものが残ります。本件は、企業経営者が8億円もの巨額のカネを政党の党首に注ぎこんだことに対する批判の言論です。その行為は、民主主義の政治過程を金の力で歪めてはならないとの観点から批判し、社会に警告を発したものです。しかも、その企業経営者は、サプリメントや化粧品の製造販売の事業を営み、常々厚生行政や消費者行政に服する立場にあって、その行政による監督の厳格さに不平不満を募らせていた人物なのです。しかも、本来このような政治に注ぎこまれるカネについては、本来公開されて批判の対象としなければならないとするのが政治資金規正法の基本理念。原告吉田の行為は、渡辺喜美の行為とともに批判されて当然というのではなく、それ自体強い批判を必要とするものと信じて疑いません。
☆もし仮に、私のブログに掲載された言論が、いささかでも違法ということになれば、およそ政治的な言論は成り立たなくなります。同種のスラップ訴訟が頻発することとなるでしょう。これを恐れたジャーナリズム総萎縮の事態が出来することとならざるを得ません。批判の言論は封じられ、おべんちゃらの言論だけが横行します。それは、憲法21条が画に描いた餅になることを意味しています。まがまがしい民主主義衰退の未来図以外の何ものでもありません。
☆次回期日に陳述予定の被告準備書面(4)は、そのような基本視点から、本件を飽くまで論評型として審理するよう迫る内容となっています。具体的には、報告集会で弁護団から詳しく解説されることになります。
どうぞ、法廷傍聴と報告集会にお越しください。
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別件のご報告です。
私と同じ弁護士ブロガーで、私と同様にDHC・吉田の8億円拠出をブログで批判して、私と同じ日(本年4月16日)にDHCと吉田から名誉毀損損害賠償請求の提訴を受けた人がいます。提訴の請求金額は2000万円。当初の私に対する請求金額と同額です。その方の係属部は東京地裁民事第30部。そして、その人の場合は、「サクサクと審理を進め、早期に勝訴判決を獲得」という方針で、証拠調べ期日を設けることなく、10月16日に早くも結審しました。結審3か月後の15年1月15日に判決言い渡しが予定となっています。この判決に注目せざるを得ません。
また、DHCと吉田は「8億円授受事件」の批判的報道に関して、2件の仮処分命令申立を行っています。いずれも、東京地裁民事9部(保全事件専門部)で却下され、さらに東京高裁の抗告審でも敗訴しています。つまり計4回の決定がDHC吉田の主張を一蹴しているのです。彼らの濫訴は明らかといってよいと思います。
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『DHCスラップ訴訟』ご報告
《経過》(問題とされたのは下記ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」)
ブログ 3月31日 「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
4月 2日 「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
4月 8日 政治資金の動きはガラス張りでなければならない
参照 https://article9.jp/wordpress/?cat=12 『DHCスラップ訴訟』関連記事
4月16日 原告ら提訴(原告代理人 山田昭・今村憲・木村祐太)
係属は民事24部合議A係 石栗正子裁判長
事件番号平成26年(ワ)第9408号
5月16日 訴状送達(2000万円の損害賠償請求+謝罪要求)
6月11日 第1回期日(被告欠席・答弁書擬制陳述)
6月12日 弁護団予備会議(参加者17名・大型弁護団結成の方針を確認)
7月11日 進行協議(第1回期日の持ち方について協議)
この席で原告訴訟代理人から請求拡張予定の発言
7月13日 ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない・第1弾」
第1弾?第4弾 「いけません 口封じ目的の濫訴」「万国のブロガー団結せよ」「言っちゃった カネで政治を買ってると」「弁護士が被告になって」(7月13?16日) 現在30弾まで
7月16日 原告準備書面1 第1弾?第3弾に対して「損害拡大」の警告
7月22日 弁護団発足集会(弁護団体制確認・右崎先生提言)
8月13日 被告準備書面(1) ・委任状・意見陳述要旨提出。
8月20日 10時30分 705号法廷 第2回(実質第1回)弁論期日。
被告本人・弁護団長意見陳述。
11時? 東弁508号室で報告集会(北健一氏・田島先生ご報告)
8月29日 原告 請求の拡張(6000万円の請求に増額) 準備書面2提出
新たに下記の2ブログ記事が名誉毀損だとされる。
7月13日の「第1弾」と、8月8日「第15弾」
9月12日 DHCから(株)テーミスに対する訴え(35部)取り下げ。
9月16日 被告準備書面(2) 提出
9月17日 10時30分 705号法廷 第3回(実質第2回)弁論期日。
11時? 東弁507号室で報告集会(スラップ被害者の報告)
10月28日 原告準備書面3 主張対照表(原告主張部分)提出
11月10日 被告準備書面(3) 主張対照表(被告主張部分)提出
11月12日 10時? 631号法廷 第4回(実質第3回)口頭弁論
11時? 第一東京弁護士会講堂で報告集会(三宅勝久氏報告)
12月24日 11時? 631号法廷 第5回(実質第4回)口頭弁論
11時30分? 東弁508号室で報告集会兼弁護団会議
※ 弁護団・経過報告(光前弁護団長)
※ 意見交換
テーマ1 審理の進行について
本日までの審理の経過をどう見るか。
今後の主張をどう組み立てるか。
テーマ2 反訴の可否とタイミングをどうするか。
テーマ3 今後の立証をどうするか。
テーマ4 DHCスラップ他事件との連携をどうするか。
テーマ5 マスコミにどう訴え、どう取材してもらうか
《この事件をどうとらえるか》
*政治的言論に対する封殺訴訟である。
*言論内容は「政治とカネ」をめぐる論評 「カネで政治を買う」ことへの批判
*具体的には、サプリメント規制緩和(機能表示規制緩和問題)を求めるもの
*言論妨害の主体は、権力ではなく、経済的社会的強者
*言論妨害態様が、高額損害賠償請求訴訟の提訴(濫訴)となっている。
*ブログというツールが国民を表現の自由の権利主体とする⇒これを育てたい
*強者が訴権を濫用することの問題点
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『DHCスラップ訴訟』応訴にご支援を
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東京東信用金庫 四谷支店
普通預金 3546719
名義 許さぬ会 代表者佐藤むつみ
(カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)
(2014年12月12日)