昨日(2月7日)の毎日・「経済観測」という小さな連載コラムに、宮本太郎中央大教授が「『ピケティ・ブーム』に求められる視点」と題して寄稿している。
「最後のカリスマ」宮本顕治の息子は政治学者だが、さすがに経済学にも詳しい。短い文章だが、教えられるし考えさせられる。
「各国の格差拡大を歴史的かつ理論的に論じたピケティ・パリ経済学校教授の『21世紀の資本』が世界的ベストセラーとなり、先ごろ来日した教授は、あちこちでひっぱりだこだったようである。輸出企業などの高収益が、格差や貧困の是正につながらない日本の現実が背景にある。」というのが前置きでもあり、現状認識と現状批判でもある。
続けて、ピケティの提言がこう簡潔にまとめられている。
「資本課税を含めた累進的税制による再分配強化、これがピケティ教授の処方箋である。」
ここからが本論で、ピケティとは別の角度からのものの見方と、格差是正の対応策に言及している。
「ただし忘れてはならないのは、日本がこれまで格差を相対的に抑えてきた仕組みは、再分配による福祉給付ではなかった、ということである。終身雇用や公共事業、業界保護などで、皆が仕事に就いて一定の所得を得ることができたことが、この国の安定を支えてきた。だがこうした仕組みは、成長を阻害する既得権益として、否定的に評価され解体されてきた。」
宮本の指摘は、かつて日本が「格差を相対的に抑えてきた仕組み」は、資産や所得の再分配ではなく、再分配以前の所得獲得における相対的平等性だったという。この平等性確保の中核にあった雇用創出と雇用安定の仕組みが、新自由主義的潮流の席巻とともに「否定的に評価され解体されてきた」のは周知のとおり。
ここで指摘されていることは、格差や貧困を抑える仕組みは2種類あるということ。資産や所得の事後的再分配による格差是正だけでなく、その前段の不平等の源泉である所得格差そのものの是正への留意が語られている。前者は、政治あるいは行政のレベルでおこなわれるが、後者は企業の労働現場が舞台となる。
宮本は、次のように紹介している。
「米エール大のハッカー教授は、こうした仕組みを『当初分配』(プレ・ディストリビューション)と呼び、格差の拡大を防ぐ上では、むしろ再分配より重要と主張する。皆が働ける条件が確保されず、社会が二極分解しているなら、再分配への合意も生まれないと言う。」
私は、ハッカー教授をまったく知らない。「当初分配」(プレ・ディストリビューション)という用語も初めて教えられた。だが、取り立てて目新しい考え方ではあるまい。むしろ、「社会をさまざまに解釈するだけなく、大切なのは社会を変革すること」という立場に魅力を感じてマルクス経済学を(表面なりとも)学んだ立場からは、資本と労働との「当初分配」の現場こそが格差や貧困を生み出す根源である。ここで格差が是正できるなら、それこそが本筋。
「当初分配」における不平等こそが格差や貧困の根源である。ここで、労働者の所得を増やし、しかも労働者全体の雇用創出を目指すことは、むしろ古典的な課題で、当初配分を所与のものとして、所得や資産の「再分配」という事後的弥縫策の方が、「目新しい」施策ということではないか。
宮本は日本の「当初分配」のあり方として、以下のように言う。
「もちろん、日本の旧来の仕組みでよいということではない。これからの当初分配は、男性稼ぎ主だけではなく老若男女が対象でなければならない。政治家による保護ではなく、地域で真に必要な公共事業や介護・医療での雇用などが確保される必要がある。こうした雇用機会を広げることを一定のコストがかかる『分配』ととらえるところが、当初分配論の特徴だ。地方創生とも直接に関わる提起である。」
ここらあたりは宮顕の息子の言ではない。経済合理性では生まれない雇用を政策的にコストをかけても創出することが「当初分配」のごとくである。「当初」といいつつも、実はそのコストは、事後の「再分配」としてのものなのだ。
宮本の結論はこうだ。
「ピケティ教授とハッカー教授の主張は対立するものではなく、日本に再分配の拡充は必要だ。けれども、まず当初分配をという提起は傾聴に値する。」
「まず当初分配における格差是正と公平を」という主張に異論のあろうはずはない。この点の強調のないピケティ批判には賛成だ。
だが、「当初分配」の概念を「政策的な雇用創出や安定」に閉じ込めてはならない。何よりも、労働者自身の闘いによる労働所得の増額が必要である。労働組合運動の昂揚による賃金の増額が何よりも重要であり、これを支える諸制度の充実や運用の適正も必要だ。
整備されるべきは、まともな最低賃金制度の創設であり、不当労働行為制度の厳格な活用であり、労働基本行政の厳格な実践であり、行政だけでなくマスメディアや教育機関も連携したブラック企業の追放であり、労働基本権についての実践的教育の徹底であり、フェアトレード運動の実践等々である。
そのような「初期分配」の不公正是正の実践の上に、ピケティのいう所得や資産の再分配が実施されるべきだろう。いずれにせよ、このような格差や貧困是正の論議を巻き起こしたことにおいて、ピケティの業績は極めて大きいと思う。
(2015年2月8日)
NHKの籾井勝人会長がまたまた話題を提供している。この人に抜きがたく刻印されたイメージどおりの、「期待を裏切らない」発言によってである。余りに露骨で拙劣な政権ベッタリの籾井発言に接して、安倍首相のメディア対策人事が成功しているとは到底思えない。これは政権側から見ても大失敗の人事ではないか。
言うまでもなく、真実を伝えてこそのメディアでありジャーナリズムである。真実を不都合として妨害する力を持つ者は、第1に政治権力、第2に経済的富力、そして第3に多数派の社会的圧力である。
これらの諸力から毅然と独立し対峙する存在であってはじめて、メディアとしての存在価値がある。何よりも、報道の自由とは権力から憎まれ、経済的富者から疎まれ、社会の多数派から歓迎されない、そのような事実や見解を報道する自由なのだ。
権力にへつらい、シッポを振って恥じないこのような人物。ジャーナリストとしての矜持を持たないこんな男を、よくぞ見つけてきてNHKのトップに据えたものだ。救いは、ジャーナリストらしい格好すらできないことだが…。
一昨日(2月5日)の籾井発言の内容は、昨日の朝日に詳しく、本日(2月7日)朝日だけが「NHK会長 向き合う先は視聴者だ」と題して社説に取り上げている。朝日のその姿勢に拍手を送りたい。
ああ朝日よ、君に告ぐ。君、萎縮したまふことなかれ。籾井が何を言おうとも、他紙の攻撃激しくも、君の誇りは傷つかじ。この世ひとりの君ならで、ああまた誰をたのむべき。君、萎縮したまふことなかれ。
本日の朝日社説の冒頭を引用したい。さすがに、読みやすい良く練られた達意の文章となっている。
「NHKの籾井勝人会長が、おとといの記者会見で、公共放送のトップとして、また見過ごすことのできない発言をした。
戦後70年で『従軍慰安婦問題』を取り上げる可能性を問われ、こう答えたのだ。
『正式に政府のスタンスというのがよくまだ見えない。そういう意味において、いま取り上げて我々が放送するのが妥当かどうか、慎重に考えなければいけない。夏にかけてどういう政府のきちっとした方針が分かるのか、このへんがポイントだろう』
まるで、NHKの番組の内容や、放送に関する判断を『政府の方針』が左右するかのような言い方だ。
就任会見で『政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない』と発言し、批判を招いて1年余。籾井会長は相変わらず、NHKとはどういうものか理解していないように見える。
当たり前のことだが、NHKは政府の広報機関ではない。視聴者の受信料で運営する公共放送だ。公共放送は、政府と一定の距離を置いているからこそ、権力をチェックする報道機関としての役割を果たすことができる。番組に多様な考え方を反映させて、より良い社会を作ることに貢献できる。そして、政府見解の代弁者でないからこそ、放送局として国内外で信頼を得ることができるのだ。
政府の立場がどうであれ、社会には多様な考え方がある。公共放送は、そうした広がりのある、大きな社会のためにある。だからみんなで受信料を負担し、支えているのだ。公共放送が顔を向けるべきは政府ではない。視聴者だ。」
昨日の「会見詳報」には、次のような発言も収録されている。
問 去年、朝日新聞の誤報問題で従軍慰安婦が脚光を浴びたが、従軍慰安婦問題を戦後70年の節目で取り上げる可能性は
籾井 なかなか難しい質問ですが、やはり従軍慰安婦の問題というのは正式に政府のスタンスというのがよくまだ見えませんよね。そういう意味において、やはり今これを取り上げてですね、我々が放送するということが本当に妥当かどうかということは本当に慎重に考えなければいけないと思っております。そういう意味で本当に夏にかけてどういう政府のきちっとした方針が分かるのか、この辺がポイントだろうと思います。
問 先ほどの従軍慰安婦問題で、正式に政府のスタンスがよく見えないとおっしゃった。現時点では河野談話があり、現政府も踏襲すると言っている。それでも政府のスタンスがよく見えないというのは、河野談話について変わるべきだとか変わりうるとか言うことでおっしゃってるんでしょうか
籾井 その手の質問にはお答えを控えさせていただきます。
問 「よく見えない」という認識は……
籾井 あの、どんな質問もお答えできかねます。
問 それはどうしてですか
籾井 しゃべったら、書いて大騒動になるじゃないですか。
問 大騒動になるようなお考えをお持ちなのですか
籾井 ありません。そんな挑発的な質問はやめてくださいよ。
この人の頭の中では、NHKとは「政府のスタンス」に従う伝声管でしかないのだ。そのような戦前のあり方を反省しての放送法であり、あらたな公共放送機関としての新生NHKであったはずではないか。
いま、先日亡くなられた奥平康弘氏の、表現の自由に関する論文を読み返している。そのなかに、戦前の放送規制のあり方に関して次のような叙述がある。やや長いが、是非お読みいただきたい。
「わが国放送事業が、1924年、社団法人東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局の設立免許とともにはじまったのは、周知のとおりである。監督庁たる逓信省はその内規、放送用私設無線電話監督事務処理細則(1924(大13)年2月作製、のちしばしぱ改正した)および各放送局施設許可付帯命令書などにより、放送番組内容の詳細な事前検閲権を確保し・所轄逓信局長の監督に服せしめるものとした。のちまもなく、既存三法人を解散させ、日本放送協会を成立せしめたが、放送番組に関する公権力的検閲の大綱は変化しない。1930年全面改正された監督事務処理細則によれば、
(1) 放送種目及び放送内容は社会教育上適当と認めるものに重きを置くこと
(2) 放送内容中経済財界に関する事項については慎重なる考慮を払うここと
(3) 講演・演芸等の委嘱又は雇傭に依る放送は人選を慎重調査し特に外国人を選ぶときは十分に注意すること、などが命ぜられている。
また、大体において新聞紙法・出版法に準拠して、放送番組の禁止・削除・訂正の各事項が列挙されている。これらの諸点につき、逓信局の事前のチェックをうけることもちろんだが、それだけでは不十分というわけか、つぎのようなフェイル・セイフの制度がとられている。
すなわち、各放送には監督者たる放送主任者を配置せしめなけれぱならず、この放送主任者席には「常時放送を監督し得る装置と瞬時に放送を遮断し得る装置をなさしめ、逓信局との直通電話もこの席に設くること」これである。
逓信省は、所轄逓信局を経由して、そのときどきの具体的な禁止事項・注意事項を通達し、たえまない指導監督をおこなっていたが、準戦時体制に入ると、ここでも番組統制権は、他のマス・メディア統制権とともに、内閣情報局の集中掌握するところとなる。」(有斐閣「表現の自由??理論と歴史」『戦前の言論・出版統制』。初出は「ジュリスト」378号・1967年)
同論文で、出版・新聞・放送・演劇・演芸等の表現活動に対する戦前の統制を概観して、氏は最後をこう結んでいる。
「戦前の出版警察を考究して脳裡から離れないのは、日本人はよくも長いこと、こんな非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しい権力を我慢してきたものだという一事である。わたくしには、この秘密をわたくしなりに解明をしてみないかぎり、現行憲法が表現の自由を保障しているということに安心立命することができないように思える。」
「奥平先生に、まったく同感」では済まない。述べられていることが過去のことではなく、現在の問題でもあるのだから。籾井のごときがNHKの会長を続けるこの事態は、まさしく「日本人はよくも、こんな非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しい権力を我慢していられるものだ」というに値する。こんな人物をトップにいただくNHK、こんなトップを任命する安倍政権の「非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しさ」に我慢してはおられない。安心立命など到底できようはずもない。
(2015年2月7日)
毎日の「万能川柳」欄の充実ぶりはたいしたものだが、欠点は「遅い」こと。選考に手間取るのだろうが、投句から掲載までの期間が長く、句によっては鮮度が落ちてしまう。その点、「朝日川柳」の鮮度は高い。
本日の掲載句中に、鮮度命の以下のものが見える。
壮士かと思えばわしらの安倍首相 (埼玉県 椎橋重雄)
好きですね「私が最高責任者」 (神奈川 桑山俊昭)
知っていて蛮勇奮い歴訪し (東京都 大和田淳雄)
川柳子の明言はないが、「蛮勇奮って歴訪中」の「壮士風言動」が、日本人2人の命を奪うことになったのではないか。「わしらの安倍首相」の「最高責任者」としての言動のあり方が厳しく問われねばならない。
首相官邸のホームページに、「1月17日 『日エジプト経済合同委員会合』における安倍首相の政策スピーチ」の動画がアップされている。スピーチ全文も起こされて掲載されている。
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0117speech.html
標題からもわかるとおり、経済人を引き連れての中東歴訪であり、経済的な交流を主目的とする会合でのスピーチである。かなりの長文だが、言わずもがなの「壮士風の蛮勇」をひけらかしたのは、下記の部分である。
「今回私は、「中庸が最善(ハイルル・ウムーリ・アウサトハー)」というこの地域の先人の方々の叡智に注目しています。「ハイルル・ウムーリ・アウサトハー」、伝統を大切にし、中庸を重んじる点で、日本と中東には、生き方の根本に脈々と通じるものがあります。
この叡智がなぜ今脚光を浴びるべきだと考えるのか。それは、現下の中東地域を取り巻く過激主義の伸張や秩序の動揺に対する危機感からであります。中東の安定は、世界にとって、もちろん日本にとって、言うまでもなく平和と繁栄の土台です。テロや大量破壊兵器を当地で広がるに任せたら、国際社会に与える損失は計り知れません。
…
イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します」
ISILを1度ならず2度までも名指しして、「ISILと闘う周辺各国への支援をお約束」と明言した。しかも、「現下の中東地域を取り巻く過激主義の伸張や秩序の動揺に対する危機感」表明に繋げてのことだ。明らかに、ISIL敵対当事者への支援宣言であり、有志連合への積極加担のアピールである。
安倍スピーチは、国際武力紛争の一方当事者を「過激主義・テロ勢力」と決め付けたうえで、「これと闘う」対立当事国側へと明示しての支援の約束である。日本国憲法の平和主義・国際協調主義から許されものか、まずこの点の吟味が必要である。国論が沸騰するときにこそ、冷静でなければならない。
さらに、政府は、1月17日当時、後藤さんが拘束され身代金の要求があったことまで知っていた。
「岸田文雄外相は5日の参院予算委で『(後藤さんの)奥様から(昨年)12月3日、犯行グループからメール接触があったと連絡を受けた。11月1日、後藤さんが行方不明になったと連絡をいただいた後、緊密に連絡をとった」と語った(朝日)。
この状況における中東歴訪の強行であり、紛争当事国となっている各国への経済支援をぶち上げ、明確にイスラム国と闘う国への人道支援を約束したのだ。この壮士風発言が、イスラム国側をいたく刺激したであろうことは推測に難くない。
首相は「私の責任でスピーチを決定した」として、「(自身の)判断について正しかったかどうかを含め検証していく」と答えてはいる。
問題は、特定秘密保護法の存在である。
「『イスラム国』から後藤さんの妻へのメールの内容や、日本政府とヨルダン政府の交渉の内容なども明らかになっていない。首相は4日の衆院予算委で『一切言わないという条件で情報提供を受けている。特定秘密に指定されていれば、そのルールの中で対応していくことに尽きる』と述べ、公開できない情報もあるとの考えを示した。」(朝日)という。
早くも、特定秘密保護法がその期待された役割を果たすことになりそうだ。こんな文脈になるのだと思われる。
「最高責任者としての自分の責任を糊塗する意図は毛頭ない」「しかし、ことは防衛・外交に深く関わることで、責任追求に誠実に対応しようとした場合に、特定秘密保護に抵触することは十分に考えられる」「その場合には、特定秘密保護法のルールにしたがって対応するしかない。これが法治国家の当然のあり方だ」「当然のことだが、その場合にいかなる秘密に抵触しているのかについては一切あきらかにできない。それが、法に基づいて行政を司る者の責務である」
かくして、安倍首相の責任追及は闇に葬られることになりかねないのだ。それこそが、特定秘密保護法に期待された狙いのひとつの実現のかたちである。
セールスは重視人命は軽視
国民を煙と闇の果てに捨て
責任を秘密のベールで包み込み
間に合ったこの日のための秘密法
(2015年2月6日)
本日(2月5日)午後、衆院本会議で、「日本人殺害脅迫事件に関する非難決議」が成立した。決議の全文は以下の通り。
「今般、シリアにおいて、ISIL(アイシル、イスラム国)が2名の邦人に対し非道、卑劣極まりないテロ行為を行ったことを強く非難する。
このようなテロ行為は、いかなる理由や目的によっても正当化されない。わが国およびわが国国民は、テロリズムを断固として非難するとともに、決してテロを許さない姿勢を今後も堅持することをここに表明する。
わが国は、中東・アフリカ諸国に対する人道支援を拡充し、国連安全保障理事会決議に基づいて、テロの脅威に直面する国際社会との連携を強め、これに対する取り組みを一層強化するよう、政府に要請する。
さらに、政府に対し、国内はもとより、海外の在留邦人の安全確保に万全の対策を講ずるよう要請する。
最後に、本件事案に対するわが国の対応を通じて、ヨルダンをはじめとする関係各国がわが国に対して強い連帯を示し、解放に向けて協力してくれたことに対し、深く感謝の意を表明する。
右決議する。」
決議の内容を噛み砕けば、(1)今回の邦人2名の殺害を非難し、(2)テロを許さないとする国民意思を表明し、(3)人道支援を拡充して国際社会との連携を強化すると言い、(4)政府に邦人の安全対策を要請し、(5)ヨルダンに感謝の意を表明する、というもの。
この内容で間違っているはずはない。安倍首相のごとくに、「テロリストたちを絶対に許さない。その罪を償わせる」などと、感情的に息巻いているわけではない。全会一致もむべなるかな、とも思う。そして、明日(2月6日)は参院でも同様の決議採択の予定とのことだ。
しかし、どうしてもなんとなくしっくりしない。問題の複雑さに十分対応し切れていない紋切型の言葉の羅列の虚しさは明らかだ。しかし、それだけではない。どこかに引っかかるものを感じる。日本国憲法9条の精神に照らして、これでよいのだろうか。もっと違った姿勢、違った言葉が出て来るべきではないのか。議員の中で、一人くらいは、敢えて異を唱える人がいてもよいのではないか。そんな気持がわだかまり、澱となって消えない。
イスラム国が無辜の日本人二人に対してした所為は野蛮きわまりない。残虐非道と言ってもよい。何らかの制裁措置が必要と思いたくもなる。だから、「わが国およびわが国国民は、テロリズムを断固として非難するとともに、決してテロを許さない姿勢を今後も堅持することをここに表明する」と言いたくもなり、「わが国は、中東・アフリカ諸国に対する人道支援を拡充し、…テロの脅威に直面する国際社会との連携を強め」たいとの気持にもなる。しかし、本当にそれで問題の解決になるのだろうか、そう問いかけるもう一方の気持ちもある。
本日(2月5日)東京新聞朝刊の一面に、「殺りくの連鎖やめてー後藤さん兄が訴え」という記事がある。
「イスラム教スンニ派の過激派組織『イスラム国』を名乗るグループによるヨルダン軍パイロットの『殺害』と、ヨルダン当局による死刑囚の刑執行が明らかになった4日、イスラム国に殺害されたとみられる後藤健二さん(47)の兄純一さん(55)は、共同通信の取材に『殺りくの応酬、連鎖は絶対にやめてほしい。平和を願って活動していた健二の死が無駄になる』と語った」というもの。
同じ東京新聞の9面には、「『イスラム国』ヨルダン参加非難」「空爆への報復強調ーパイロットの殺害映像公開」「ヨルダン 対決姿勢強化」という、キナくさい見出しが躍っている。
同紙によれば、「自国軍パイロットの殺害映像公開に対する措置として、ヨルダン政府は4日、治安閣議を開き、イスラム国に対する攻撃を強化する方針を決めた」という。「殺害されたパイロットの出身地カラクでは、3日、街中に集まった市民らが、ヨルダンの国旗を手に、『イスラム国に死を』『復讐を』と叫びながら、既に暗くなった街の中を行進した」と報じられている。焼殺という残虐非道な行為にに対抗するその気持としてもっとも、と思わせるものがある。
しかし他方、イスラム国側からすれば、有志連合の空爆こそが残虐非道の行為であり、有志連合に加わったヨルダンは憎むべき「十字軍参加国」なのだ。「ヨルダン軍パイロットを焼殺したとされる映像には、空爆で怪我をした子どもたちの写真や泣き声なども流された」という。空爆による被害の場面を見せつけられれば、イスラム国の言い分ももっともだとの思いも湧いてこよう。
米軍は、空爆によって、これまで6000人のイスラム国戦闘員を殺害したと発表している。しかし、人口密集した都市への爆撃が戦闘員だけにピンポイントでおこなわれたとは考えられない。非戦闘員や子どもを含む一般市民にも多数の犠牲者が出ていることだろう。この報復の連鎖による、悲惨な被害の拡大を制止することこそが、いま、もっとも必要なことではないか。
これまで、武力の行使によって幾億人もが非業の死を遂げた。その非業の死の数だけの復讐の誓いがなされたに違いない。しかし、報復の連鎖は無限に続くことになりかねない。この報復の連鎖を断ちきろうというのが日本国憲法の精神であり、その9条が憲法制定権者の意思として日本国の為政者に一切の武力の行使を禁止しているのだ。
だから、国会の決議は、「我が国及び国民は、決してテロを許さない姿勢を今後も堅持する」という断固たる意思の表明よりは、「9条の精神に則って、殺りくの応酬、連鎖は絶対にやめなければ゜ならない」「平和を願って活動していた者の死を無駄にしてはならない」という基調のものにして欲しかったと思う。断固たる態度や、勇ましい言葉は不要なのだ。
(2015年2月5日)
本日の [産経・正論]欄に、「『和諧』を良しとする日本を誇る」という一文が掲載されている。著者は平川祐弘という相当のお歳の比較文化史家。東京大学名誉教授とのこと。「正論」の常連執筆者の一人である。
もちろん国民誰にも表現の自由は保障されている。だから、目くじら立てるほどのこともないではないか、と言われればそのとおり。が、この人のトンデモ憲法論に幻惑される被害が発生せぬよう、最低限の反論が必要と思われる。
1年ほど前に、彼は、「新しい憲法について国民的な議論を高めたい。比較文化史家として私も提案させていただく」として、やはり「正論」に寄稿している。「『和を以って貴しとなす』。この聖徳太子の言葉を私は日本憲法の前文に掲げたい。‥このような憲法改正には文句のつけようがないだろう」「憲法はそのように日本の歴史と文化に根ざす前文であり本文でありたい」との内容。今回の寄稿はその焼き直し。
よく知られているとおり、自民党改憲草案の前文には、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概をもって自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」と書き込まれている。ここでの「和を尊び」は、現実に存在する権力や経済力による支配と被支配の対立構造、あるいは社会的な貧困や格差を隠蔽し糊塗する役割を担っている。
そもそも、十七か条の冒頭に位置する「以和爲貴」は、「無忤爲宗(逆らうことなきを旨とせよ)」や、「承詔必謹」とセットをなしている。「和」とは、対等者間の調和ではなく、「天皇を頂点に戴く権力構造の階層的秩序」と理解するほかはない。本気になって「憲法に『以和爲貴』を書き込もう」と言っているとすれば、甚だしい時代錯誤。近代立憲主義も現代立憲主義も、いや法の支配も、法治主義すらも理解していない人の言としか思えない。
その平川さんが本日の「正論」で靖国の祭神について述べている。未整理の文章で論旨不明瞭といわざるを得ないが、結論だけが「…だから日本は素晴らしい」というもの。どんな結論でもけっこうだが、靖国について「敵味方を超えて行われる鎮魂」と言っている点で、反論しておかねばならない。
平川さんの文章は、平将門を祭神とする神田明神への参拝の隆昌から説き起こされている。そして、次のように展開する。
「祟ると崇めるとは字も似るが、祟りが怖ろしいから崇めたのだ。だが、そんな荒ぶる御霊が鎮魂慰撫されて今では利生の神(平将門を指す)、学問の神(菅原道真を指す)として尊崇される。神道では善人も悪人も神になる。本居宣長は「善神にこひねぎ…悪神をも和め祭る」と『直毘霊』で説いた。鎮魂は正邪や敵味方の別を超えて行われてこそ意味がある」。ここまでの文意は明瞭で、敢えて異を唱えるほどのこともない。
その次からが突然の転調となる。
「読売新聞の渡辺恒雄氏は宗教的感受性が私と違うらしく、絞首刑に処された人の分祀を口にした。私は『死人を区別していいのか』と感じる。解決の目途も立たぬまま大陸に戦線を拡大した昭和日本の軍部は愚かだと思うが、だからといって政治を慰霊の場に持ち込むのは非礼だ。靖国神社は日本軍国主義の問題と決めてかかる人が国内外にいるが、そうした狭い視野で考えていいことか」
文意を繋げると、「神道では善人も悪人も神になる」のだから、「絞首刑に処された東條英樹以下の悪人も神になった」。「分祀とは神に区別を設けること」なのだから、「いかなる悪人であろうとも神になった死人を区別することはよくない」。こう言いたいのだと推測するよりほかはない。なお、それまでの説明と、「靖国神社」「日本軍国主義」「狭い視野」とは関連不明としか評しようがない。
文意がわかりにくいのは、論者が世の常識とは違うことを言っているからなのだ。
日本人の伝統的な死生観が「怨親平等」という言葉に表される死者の平等にあったことはよく知られている。例えば、蒙古襲来の際の犠牲者を、日本の民衆は敵味方の区別なく手厚く葬った。その象徴として円覚寺の存在が語られる。
この日本的伝統を真っ向から否定して死者の差別を公然化したのが、招魂社であり、靖国神社である。維新期の西南雄藩連合は、自軍を皇軍(すめらみいくさ)として、荒ぶる寇(あらぶるあだ)である賊軍との戰に斃れた自軍の戦死者だけを祀った。要するに、徹底した死者の差別であり、魂の差別である。ここには怨親平等のヒューマニズムはかけらもない。政治的な思惑から、天皇への忠誠故の死者を褒めそやし、未来永劫賊軍の死者を侮辱さえしたのである。
戊辰戦争の最大の山場は会津戦争であった。官軍の死者の遺体はこの地に埋葬され、「天皇のために闘った、忠義の若者たちがいたことを後世に伝えるために」石碑が建てられた。一方、賊軍側3000の戦死者には、埋葬自体が禁じられた。死体はみな、狐や狸や野鳥に食われ腐敗して見るも無惨な状態になった。(「明治戊辰殉難者之霊奉祀の由来」・高橋哲哉「靖国問題」による)
この天皇への味方か敵かを峻別し、死者をも徹底して差別することが靖国の思想である。明治維新が、国政運営にこのうえない便利な道具として神権天皇制を拵え上げたその一環として、靖国神社は天皇制政府の軍事におけるイデオロギー装置となった。天皇へ忠誠を尽くして死ぬことを徹底して美化し、その反対に天皇に敵対することを徹底して貶める、死の意味づけにおける差別の体系と言ってよい。この魂の差別については、既に古典と言ってよい「慰霊と招魂」(村上重良・岩波新書)に詳しい。
戊辰戦争で賊軍とされた奥羽越列藩同盟の戦死者も、西南戦争で敗れた西郷軍も、未来永劫靖国の祭神の敵として靖国神社に合祀されることはない。この内戦における死者への差別は、皇軍が対外戦争をするようになってからは排外主義の精神的基盤ともなり、また戦死者を「天皇への忠義を尽くしての戦死」か「しからざる(捕虜や逃亡兵としての)死」かに差別することにもなった。
平川「正論」が、日本人の伝統に反してまで徹底した「死者の差別」をしている靖国神社を引き合いに、祭神の平等、死者の平等を説くから、話がこんがらかってしまうのだ。
(2015年2月4日)
本日(2月3日)付で、北星学園大学(札幌)が「本学に届いた脅迫状と一般入学試験の実施について」という以下の学長声明を発表している。
「昨日2日、本学に対するあらたな脅迫状が届きました。2月6日から実施される本学の一般入試会場とその周辺において本学関係者に危害を加えるといったきわめて悪質な内容であり、直ちに管轄の警察署に被害届を提出し、受理され、捜査中です。
本学に対するこのような卑劣な行為は許されるものではありません。
本学としましては、受験生の皆さんが安心して入学試験に臨めるように全学態勢で警備に取り組むことといたしました。また、所轄警察に対し警備強化を要請するとともに、専門の警備会社による警備を依頼したところです。
受験生、保護者及び関係者の皆さまには、‥‥事情をご理解賜りますよう、何卒よろしくお願いいたします。
なお、本学の基本的立場については、昨年9月30日付け「本学学生及び保護者の皆さまへ」にて公表させていただいております。大学の自治を侵害する、このような卑劣な行為によって、受験生並びに学生をはじめ本学にかかわる全ての方々の平穏・安全が脅かされることがないことを強く願っています」
卑劣な攻撃の標的となった大学の苦悩がにじみ出ている。毅然とした姿勢を堅持しつつも、それゆえの苦慮が伝わってくる。改めて、闇の奥で手書きの脅迫状を認めて投函した卑劣漢に怒りを禁じ得ない。
道新の報道は次のとおりである。
「従軍慰安婦問題の報道に関わった朝日新聞元記者が非常勤講師を務める北星学園大(札幌市厚別区)に、6?8日に行われる一般入試の際に受験生や教職員に危害を加えるとの内容の手紙が届いていたことが3日、分かった。札幌厚別署は威力業務妨害の疑いで調べている。
同署によると、手紙は2日、北星大の学長宛てに郵送で届き、手書きだったという。これまで送られた5通のうち一部はパソコンで印字されていた。一般入試の会場などと場所を特定した上で、受験生や教職員に危害を加えるとの内容が書かれていた。差出人の名はなく、消印は1月31日付だった。」
誰もが、平穏で安全な生活を享受する権利を持っている。危害を加えられることなど想定することなく日常生活を送っている。姿を見せない卑劣漢からの無法な脅迫に対して真っ当な生活者は対抗のすべを持たない。この社会は犯罪に脆弱なのだ。卑劣な犯罪者はその最も脆弱な部分を狙って脅しをかけているのだ。
匿名の犯罪者は増長している。「学生を痛めつけてやる」「ガスボンベを爆発させる」(昨年5月29日脅迫状)、「火薬爆弾だ。開けたら吹っ飛ぶぞ」(昨年7月28日)、「爆破してやる」(昨年9月12日電話)、「学生の家の何軒かから出荷(火)する」(本年1月8日脅迫状)。そして入試直前の今回。これは、愉快犯の類ではなく、偏狭なナショナリズムを正義と盲信する輩の犯罪なのだ。正義の盲信という点では、国際テロリスト集団と酷似している。
朝日の報道を日本国を貶める国辱と決め付け、朝日バッシングに猛進する大きな勢力がある。その勢力の末端か周辺に、このような卑劣な犯罪者群が存在する。ネットで蠢動し、一部がリアルな脅迫行為に及ぶ。朝日バッシング勢力は、補完しあう種々の役割分担の協働によって社会的影響力を保持している現実がある。
北星学園への脅迫行為は、政治的な信条如何にかかわらず、社会を挙げてこれを摘発し根絶しなければならない。まずは、共犯関係にあることを疑われる立場にある、朝日バッシング扇動の「メディア」や「ジャーナリスト」、「研究者」が、犯罪者に偏狭な正義を吹き込んでいる者の責任として、本気になってこれを止めさせるよう声を上げなければならない。沈黙していれば、犯罪者と同類と見なされることになるのだから。
たとえば次のようにだ。
「同志よ、北星学園に対する脅迫を止めよ」「朝日に対するバッシングは、あくまで言論による世論喚起として行おうではないか」「脅迫など犯罪にわたる行為は、われわれの採るべき手段ではない」「同志の中に脅迫や威力業務妨害や名誉毀損、侮辱などの犯罪に及ぶ者があれば、世間はわれわれ全体を犯罪者集団と見なす恐れがある」「われわれが言論戦において理論的に劣勢だから実力行使に及ばざるを得ないと邪推されることにもなろう」「それでなくても、われわれは暴力を容認する集団とのあらぬ誤解を受けている」「敵対する勢力に、これが朝日バッシング勢力の本質だ、などと言わせてはならない」「国際テロリスト集団のごとく恐怖をばらまくことで社会的な影響を拡大しようとしていると言わせてもならない」「同志よ。君の志操の高潔と純粋さには称賛を惜しまない。しかし、脅迫や威力業務妨害の行為は、われわれの大義にとって障碍にしかならないことをよく理解していただきたい」「だから、同志よ。北星学園に対する一切の脅迫と業務妨害を中止せよ」
(2015年2月3日)
早春は弁護士会選挙の季節。今週金曜日2月6日が、私の所属する東京弁護士会の会長・副会長・監事・常議員各選挙の投票日となっている。日本最大のマンモス単位会7000人の選挙。いま、その選挙運動がたけなわである。例年のとおり、選挙公報に目を通してみる。
弁護士会の役員たらんとする者、弁護士会運営の理念を語らねばならない。その理念とは、弁護士の使命である人権擁護をいかにして実現せしめるかを中心に据えたものでなくてはならない。現実の社会のあり方や政権の動向から遊離して人権擁護実現の課題はありえない。だから、弁護士会選挙の公約やスローガンは、現実の社会や政権と切り結ぶものとならざるを得ない。
主流会派から今回会長選に立候補している候補者のメインスローガンは、「頼りがいのある弁護士会を」というもの。弁護士にとっての頼りがいではなく、「市民にとって頼りがいのある弁護士会を」という内容である。
選挙公報で彼は次のように語っている。
「…目を国政に転じてみると、立憲主義と恒久平和主義が危機にさらされています。また市民の中には高齢者や障がいのある人などまだまだ弁護士へのアクセスが困難な方がいます。弁護士・弁護士会に期待される、憲法の基本原理を守り、さまざまな人権を擁護する活動は、このような困難な中でも若手会員の参加を得て継続・強化してゆく必要があります」
「基本的人権の擁護は、弁護士の使命です。これまで弁護士会は再審無罪事件の支援など、歴史的に数多くの社会的弱者の人権救済や、人権擁護に資する立法活動に携わってきました。この伝統を受け継ぎ、多分野の人権擁護活動に継続的に取り組んでいきます。特に戦争はあらゆる意味で多くの犠牲者を出す国家の人権侵害です。その危険を除くことも重要な弁護士の使命です。また昨今の人種差別を煽るヘイトスピーチによる人権侵害の救済にも取り組みます」
「集団的自衛権行使容認反対と憲法改正問題」との標題で次の公約もある。
「昨年の閣議決定による集団的自衛権の行使容認は認めることができません。手続き的に立憲主義に反するものであり、恒久平和主義とも相容れません。この閣議決定に基づく関連諸法の改正に対して憲法の基本原理を維持する立場から対応します。また、恒久平和主義を根底から変えようとする憲法改正の動きに対しては断固として反対いたします」
会内の保守的穏健派の良識が表明されていると見てよいだろう。
これに対立して「革新派」候補が立候補している。反権力・反政権の旗幟が鮮明である。「盗聴を容認する日弁連を東弁から変えよう」「 改憲と戦争を阻止する行動に立ち上がろう」などがメインスローガン。
彼は、情勢認識から語る。「再び世界戦争が惹き起こされようとしています。フランスの銃撃・人質殺害事件と、それに対する各国政府の「反テロ戦争」宣言は、そのことを強く危惧させます。銃撃事件の実行者は、それを「イスラム国」に対するフランスの空爆に対する報復・反撃と言っています。結局、アメリカを中心とし、フランス、イギリス、ドイツその他の国が行った中東地域の石油支配をめぐる争奪戦に起因するものであることは間違いありません。
日本も、「集団的自衛権行使」を容認する7.1閣議決定以来、こうした欧米各国に遅れまいとして突き進んでいます。安倍首相は、新たに「存立事態」などという概念を創り出し、「自衛」の名のもとに、日本の軍隊を世界のどこにでも送り込めるようにするため、今通常国会で法整備をすることを言明し、8月15日には「戦後70年談話」を発表し、日本国憲法体制を転覆するつもりです。
戦争は、それによって利益を挙げる一部の富裕層が起こすものであり、民衆にとっては、相手国の民衆との殺し合いを国家から強要され、失うものばかりで益するものは何もありません。
「政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起ることのないようにする」と誓った私たちは、この国の圧倒的多数を占めている労働者民衆とともに力をあわせて、政府の改憲・戦争政策と治安強化立法の制定を阻止することが、今どうしても必要です。私は、東弁会長としてその先頭に立ちます。」
「圧倒的多数を占めている労働者民衆とともに力をあわせて、政府の改憲・戦争政策と治安強化立法の制定を阻止することが、今どうしても必要」だという認識が、革新派たる所以。個別政策テーマでは、刑事司法のあり方に過半の紙幅を割いて、日弁連の妥協的姿勢を厳しく叱正している。
この対向関係が弁護士選挙の基本パターンといってよい。定員6名に7名が立候補した副会長選挙でも大方がこの基本パターンに属する。保守中道的な姿勢で在野精神と反権力を語るか、革新的に明確な政権批判運動へのコミットを口にするか、なのだ。
ところが、副会長候補者の一人だけが、まったく色合いを異にする「マニフェスト」を掲げている。弁護士や弁護士会の理念を語るところがない。むしろ、理念を払拭することをもって、「新たなる弁護士会の幕開け」「『新』世代が起ち上がる、時が来た」という。64期・36歳だという。
彼のいう「弁護士会の変革」とは、「弁護士をサラリーマン化し、弁護士会を会社化すること」にほかならない。公益活動から手を引いて、徹底して会財政をスリム化して、会費を半減しようという。さらに、「任意加入制でよいではないか。弁護士会から受ける利益よりも参加することの負担が大きい人には、弁護士会に参加しない権利も認められるべきです」という。一昔前までは、恥ずかしくてとても公の場では言えないことを、あっけらかんと言ってのけている。彼のいう「新たなる弁護士会の幕開け」は、「恐るべき弁護士会の幕開け」にほかならない。
政治信条が保守であろうと革新であろうと、拠って立つ基盤が財界であろうと労働者であろうと、弁護士は弁護士である。弁護士が弁護士である所以は、在野性にある。権力に縛られることがなく、仲間以外の誰からも監督も指導も受けることはない。その意味では、弁護士会は公的存在でありながら、監督官庁からの指揮監督を受けない国内唯一の組織である。弁護士の懲戒権を弁護士会が有していることの意義を軽んじてはならない。
「あっけらかんマニフェスト」の文中に、こんな言がある。
「現在、弁護士会は強制加入の団体です。しかし、既存の弁護士会には高すぎる会費の問題や政治性の高い活動を行っていることなど強制加入の団体にふさわしくない点があります。懲戒や公益活動についても裁判所や行政の関与で代替可能であり、弁護士会が自ら行う必要はありません」「所得の二極化が進んでいると言われている現状では、若手弁護士は、弁護士会に所属する意味を見出すことができません」「会員利益にならない活動、公益上必要不可欠でない活動、強制加入団体にそぐわない過度に政治的な活動について廃止・縮小を検討し、会費や会務活動の無駄を省きます」
彼が、積極的に何かの課題に取り組むという言及は皆無である。刑事司法制度についても、民事司法制度についても関心があるようには見受けられない。関心は、ただひとつ、弁護士自身が喰っていけるようにせよ、ということ。
なるほど、弁護士会の人権活動や公益活動を費用の無駄と考え、弁護士自治に関心なく、稼ぎに汲々としている若手弁護士が群をなして存在しているのだ。志のない弁護士たち、会社員と同じノリで法律事務所に就職したとの意識の弁護士たち。こんな弁護士が増えつつあることは、保守政権や財界にとっては、確かに「希望の幕開け」といってよい。彼らは、つべこべ言わずに、ひたすら高額の稼ぎを求めて、強者の利益のために働くことを恥と思わない弁護士となるのだろうから。
歌を忘れたカナリヤのごとく、公益性も志も忘れた「資格だけの弁護士群」の拡大は、由々しき問題だと思う。国民から「後ろの山に棄てましょか」とされかねない。いま、人権や平和などの憲法理念の有力な担い手としての弁護士層の役割を頼もしいと思う立場からは、志を失った弁護士の将来像を思うとき、暗澹たる気分とならざるをえない。
(2015年2月2日)
昨日(1月31日)、元ドイツ連邦大統領のリヒャルト・フォン・ワイツゼッカーが亡くなった。われわれには、ドイツの大統領という存在がなかなか理解しにくい。任期5年の国家元首として、党派性の薄い立場だという。血筋ではなく、国民を代表するにふさわしい良識と知性を体現することをもって国家と国民統合の象徴としての機能を期待されているのだ。要するに、尊敬される言動が任務の内容ということではないか。これはたいへんなことだ。ワイツゼッカーといい、ガウクといい、それに相応しい人物と国民の信頼は厚いという。安倍だの麻生だのの類とは大違い。これは、残念ではあるが、ドイツ国民と日本国民の良識と知性の差でもあることを認めざるを得ない。
ワイツゼッカーが「荒れ野の40年」と題して連邦議会で演説をしたのは、ドイツ敗戦から40周年となる1985年5月8日。その10年後の8月に日本で戦後50周年の村山談話の発表となり、60周年では小泉談話が続いた。そして今年8月、余計なことに安倍談話が出るという。
安倍談話は、村山談話と対比されるだけでなく、ワイツゼッカーとも比較されることになる。良識と知性の格差は覆うべくもない。国恥となりかねないのだから、やめた方が賢明ではないか。
ワイツゼッカーの名演説は、大きな波紋を巻き起こした。「過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目となる」という一節が現代の名文句として有名となった。歴史を直視し、自らが犯した罪と真摯に向き合うことで、はじめて近隣諸国との真の「和解」が可能となるという文脈。これは、同じ全体主義国家として敗戦した日本にとっての優れたお手本以外のなにものでもない。
この名演説、意外に長文である。それに、決定訳を知らない。本日の毎日新聞に、要旨が掲載されているが、これすら相当に長い。文章としてもおさまりがよくない。思いきって、我流にスクリプトして、心にとどめ置きたい。
そして、「ドイツ国民」を「日本国民」に、「ユダヤ人」を、「中国人や朝鮮人」に読み替えて、正確に歴史を記憶するところから、間違った歴史を真に終わらせる方法を考えたいものと思う。
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私たちは、この日(敗戦記念日)に向き合う必要がある。この日はドイツにとってお祝いの日ではない。多くのドイツ人は祖国のため戦うのをよしとした。だがそれは犯罪的な政権の非人間的な目的に寄与するものだった。この日はドイツの間違った歴史の終わりの日だ。
この日は記憶の日でもある。記憶とはそれが自分の内部の一部となるように正直に、純粋に思い出すことだ。私たちは独裁政権によって殺されたすべての人、特に強制収容所で殺された600万人のユダヤ人を記憶する。命を失ったドイツ国民や兵士、祖国を追われたドイツ人を記憶する。ロマ民族や同性愛者、宗教・政治上の理由で殺された人を記憶する。死者の苦しみや、傷つき、強制的に断種され、逃走し、空襲の夜を過ごした苦しみを記憶する。
どの国も戦争や暴力に罪深い間違いを犯した歴史から自由になれない。罪は少数の者に主導されたが、ドイツ人一人一人はユダヤ人の苦難に共感できたはずだ。良心を曲げ、現実を見ず、沈黙していた。
先人は重い遺産を残した。私たち全員が過去に対する責任を負わされている。それは過去を乗り越えることではないし、過去は変えられない。過去に目を閉ざす者は、現在も見えなくなる。非人間的な行いを記憶しない者は、また(非人間的な考えに)汚染される恐れがある。和解は記憶なしにはあり得ないことを理解すべきだ。
若者は当時のことに責任はない。だが歴史から生み出されるものに責任はある。若者に呼びかける。憎しみや敵意に陥らず、共生することを学び、自由を尊び、平和のために努力しよう。
(2015年2月1日)