澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「維新の八悪」?維新に投票してはならないこれだけの理由

このようにお考えの方は案外多いのではないだろうか。
「自民は嫌いだ。カネに汚い。大企業と大金持ちの味方だ。アメリカベッタリで、戦争の臭いがする。とりわけ安倍はアブナイ」「公明党は安倍自民の下駄の雪。結局は、アブナイ路線の補完勢力ではないか。だから、到底公明党には投票する気になれない」「自公を避けて、一時は民主に期待したのだ。ところが大きく裏切られてしまった。今さら、民主党でもあるまい」「とすれば、第三極にやらせてみるしか選択肢がないんじゃない?」

「第三極といっても、みんなの党がみっともなくつぶれて、その片割れが維新に合流している。結局維新の党しか投票先はないことになる」「維新を信用しているわけじゃない。しかし、未知の魅力にかけてみるという選択肢はあると思う」「維新の選挙演説を聴いていると、大阪では『身を切る改革』というのをやっているようだ。それを全国で、あるいは国政でやってもらったらいいんじゃないの?」

トンデモナイ。維新こそは、安倍自民の外からの補完勢力。改憲を、前から引っ張り、後から押している。しかも、徹底した新自由主義の弱い者イジメに徹したアブナイ集団。こんなところへ大事な一票を投じてはならない。
大阪維新が、世論の風向きを眺めながら、鉛筆を舐め舐め「維新八策」などを書いたり消したりしていた当時は、政策の上では中身のない空っぽ政党に過ぎなかった。それが今は、安倍路線との結びつきを深め、新自由主義と軍事大国化を目ざす勢力として明確になってきている。しかも、この政党はコンプライアンス意識にきわめて乏しい。社会に喝采を得られると思えば、敵を作って徹底していじめようとする。常套とする手口がきわめて危険な政党なのだ。

維新に投票してはならない理由を8項目にまとめてみた。もっと本質的な維新の反民主主義的性格を掘り下げてみたいところだが、とりあえずは分かり易いところでの指摘である。これを「維新八悪」と言おう。あるいは「八難」でもよい。「色の白いは七難隠す。隠すに隠せぬ維新の八難」である。

(1) 維新は、安倍改憲路線の親密なパートナーである。
維新と安倍政権とは、改憲策動に関して秋波を送りあう親密な間柄となっている。橋下徹が、「憲法改正について出来ることは何でもする。ぜひ実現してほしい」と語って首相に全面的に擦り寄り、安倍が大阪都構想に協力する姿勢を示す関係となっている。これまでは、「あやしい仲」だったのが、いまや人目をはばからない「公然たる仲」となり、安倍壊憲政権の補完勢力として、公明とならぶ重要な存在なのだ。
今通常国会でも、安倍政権の「応援団」の性格を鮮明にしている。衆院予算委員会で、松浪健太幹事長代行が「憲法改正で、国の形が国民の手で変わっていくんだと示していきたい」「総理は憲法改正を早くやるべきだとは思わないのか」と改憲をけしかけた質問までしている。維新は、改憲発議の尖兵の役割を負うことになるだろう。
また、維新の議員が「大事なことは、この予算委員会、国会に集まっているわれわれが力をあわせてアベノミクスを成功させることだ」とまで言っている。第三極どころか、自民の別働隊、しかも閣外で右寄りの別働隊と知らねばならない。

(2) 維新は、甚だしく遵法精神に欠ける。
選挙の都度、維新の違反は目に余る。特に2012年12月総選挙では、公職選挙法違反の「買収」容疑で逮捕された8人中6人が「日本維新の会」陣営だった。そのなかに、大阪7区の上西小百合陣営の運動員、愛媛4区の桜内文城陣営の運動員、大阪9区に出馬し初当選した足立康史陣営の運動員3人が含まれている。
維新の違法は、思想調査アンケート問題、刺青調査拒否に対する懲戒処分、組合事務所使用不許可事件等々枚挙に暇がない。こんな体質の政党は他にはない。
週刊新潮の最新号(4月16日号)に維新に集う人々のスキャンダル一覧が掲載されている。標題が、「橋下チルドレン不祥事一覧」というもの。衆院議員から市会議員まで16件の議員不祥事と、10件の公募区長・校長・教育長の不祥事。こんな政党を信用できようはずがない。

(3) 維新は言ってることとやってることが大きく異なる。
政党が「身を切る改革」をいうときの第一歩は、政党助成金の廃止でなければならない。維新は、けっしてそのことは口にしない。税金から政治資金を貰っておいての「身を切る改革」は筋が通らない。そればかりか、橋下徹大阪市長は自分の後援会幹部の息子を特別秘書として採用し、大坂市の税金で給与を払っている。この特別秘書は実は仕事らしい仕事をしていない。市長が、自らの後援会幹部の息子を税金で養っているという疑惑を解明すべく、大阪市民が監査請求をし、現在住民訴訟が大阪地裁に係属している。やがて、判決の形でその全貌が明らかになるだろう。

(4) 維新の政策は弱い者イジメの手法に貫かれている。
維新の常套手口は、イジメである。イジメの対象を探し、周囲にイジメに参加するよう煽動する。イジメに参加したものは、カタルシスを味わって維新の支持者となる。
イジメの対象は、権力者や財界ではない。庶民の妬みの相手が選ばれる。これまでのところ、教員であり、公務員であり、労働組合である。そのバッシングの成果として、経費を節約したとしたと誇っている。バッシングに参加した庶民は、カタルシスは得たかも知れないが、結局は自分の権利や賃金の水準をも、低下させているのだ。

(5) 維新の教育政策は強権的な国家主義である。
維新の教育政策は、民間校長の「君が代口元チェック」に象徴される。
驚くべき国家主義、強権主義、管理主義である。ファシズムに通じるハシズムが話題となったが、維新という集団の本質的な恐ろしさが、君が代斉唱の口元チェックに表れている。口元チェックの次は、心の中までの服従を求めることになるだろう。

(6) 維新は労働運動弾圧政党である。
維新の党の足立康史衆院議員は厚生労働委員会で質問に立ち、元私設秘書から未払いの残業代700万円を請求されたことを明かし『払うことはできない。私たち政治家の事務所は、残業代をきっちりと労働基準法に沿って払えるような態勢かと問題提起したい』と述べ、未払いを正当化した。彼は『私は24時間365日仕事をする。そういう中、秘書だけ法に沿って残業代を支払うことはできない』と持論を展開。元秘書からの請求に対しては『ふざけるなと思う』と強弁。
維新は、労働者に対してかくのごとく冷たい。労働者の権利主張に対しての「フザケルナ」という圧殺の姿勢が、維新の本質である。もちろん、労働組合弾圧もこの政党のお家芸である。

(7) 維新はカジノ大好き政党である。
新自由主義のしからしむるところ。維新は、カジノ大好き政党である。大阪で維新を勝たせれば大阪にカジノが生まれる公算が高い。賭博は社会に害毒を流すものとして犯罪である。物を作らず、価値を生まず、ギャンブル依存症の中毒症状と諸々の不幸のみを生じさせる。この選挙で維新を勝たせて、ギャンブル禍の社会にしてはならない。

(8) 維新にはまっとうな人材がいない
「国会サボり事件」で大阪維新の会を除名になった上西小百合衆議院議員、秘書への残業代不払い宣言の足立議員、パワハラ辞職の中原教育長、そして橋下徹市長が、公募で採用した11人の『民間人校長』。そのうち6人が保護者へのセクハラなど問題を起こし、市民から批判をあびることになっている。ラインで仲間はずれにされたとかで女子中学生を恫喝した山本景大阪府会議員。飲酒運転で接触事故を起こしながらそのまま逃走した西井勝元堺市議会議員などなど。著名な人材には事欠かない。やはり、類は友を呼ぶ結果というべきだろう。お粗末極まる人々。本当にこれが政党なのか、疑わざるを得ない。

あなたの大事な一票。ドブに捨てるならまだしも、将来はあなたに襲いかかりかねない危険な野獣を太らせる一票としてはならない。
(2015年4月10日)

平和を望む者は、自・公両党に投票してはならない

統一地方選挙前半戦の投票日(4月12日)が近づいている。各道府県や政令指定都市の個別地域課題が争点となっていることは当然だが、色濃く国政を問う選挙ともなっている。改憲(壊憲)色を強めた安倍政権に対する信任投票という性格を払拭できない。いま、自・公両政党へ投票することは、平和を危うくする方向に国を動かすことだ。あなたが平和を望むのであれば、自・公両党に投票してはならない。

我が国民は、今次の戦争での敗戦を痛苦の悔恨の念をもって省み、「再び戦争の惨禍を繰り返してはならない」「戦争の被害者にも加害者にもけっしてなるまい」と誓いを立てた。その誓いは、自らに対するものでもあり、また侵略戦争や植民地主義の被害者となった近隣諸国の民衆に対するものでもあった。

敗戦の反省の仕方には二通りある。一つは、戦争をしたことではなく負けたことだけを反省の対象とすること。そしてもう一つは、勝敗に関わりなく戦争したこと自体を反省することである。

前者の反省の仕方では、「次の戦争ではけっして負けてはならない」とする軍事大国路線の選択となり、後者の反省は平和主義をもたらす。我が国は、非武装の徹底した平和主義を国是とし、そのような国民の総意を憲法に書き込んだ。こうして戦後の70年間、国民は平和憲法を擁護して戦争をすることなく過ごしてきた。国民自らの不再戦の誓いと、平和憲法の恩恵である。

ところが、それが今危うい。安倍晋三という極右の政治家が首相となって以来、碌なことはない。今や、憲法の平和主義の保持が危ういと心配せざるを得ない。「できれば憲法の条文を変えたい」。「それができなくても、法律を変えてしまえば同じこと」。「法律を変えることができなくとも、行政が憲法の解釈を変えてしまえばこっちのものだ」というのが、安倍晋三一味のやり口なのだ。

憲法9条は、武力の行使を一切禁止している。私たちのこの国は、いかなる場合にも対外紛争を武力による威嚇あるいは武力の行使によって解決することはしない。そのような選択肢を自ら封じているのだ。その智恵と方針の遵守が我が国の平和を70年間保ってきたのだ。その大方針を転換して、「戦争という選択肢をもちたい」と安倍政権は明らかに言っているのだ。

憲法9条の平和主義は傷だらけだと言われる。そのとおりではあろう。しかし、傷は負っていてもけっして致命傷には至ってない。憲法9条はまだ生きている。まだまだ、有効に軍国主義者たちの前に立ちはだかっている。戦争のできるような国にしたい安倍一味にとって、9条はまだまだ手強い不倶戴天の敵であり、打倒の目標なのだ。

戦争という手段を選択肢としてもちうる国にするためには、明文の改憲をおこなって9条を変えることが正攻法である。しかし、これはあまりにハードルが高い。もっと手っ取り早い簡便な方法として、憲法はそのままに、憲法をないがしろにする法律を作ってしまえという乱暴な手法がある。いわゆる「立法改憲」である。

その最たるものが、集団的自衛権の行使を容認する安保法制に関する諸立法である。首相の私的諮問機関という「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)の報告後の自公摺り合わせを経て、昨年7月1日「集団的自衛権行使容認の閣議決定」に至った。そして、今度はその立法化である。3月20日に与党協議が整い、必要な法案は統一地方選終了後に国会に提出の予定とされる。

キーワードは「切れ目のない安全保障」である。安倍政権は、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備」を謳っている。これは、とりもなおさず、いつでも、どこでも、何が起こっても、武力の行使による対処を可能とするということにほかならない。

敗戦の惨禍というあまりに高価な代償をもって購った憲法9条の平和主義を、シームレスに捨て去ろうということなのだ。これまでは、日本は軍隊を持てないというお約束は、タテマエにもせよ大切にされてきた。自衛隊は軍隊ではなく、飽くまで専守防衛に徹した自衛のための実力組織であって、海外で武力行為をすることはまったく想定されてはおらず、専守防衛を超える装備や編成はもたないものとされてきた。これを安倍晋三は、挑戦的に「我が軍」と言ってのけた。驕慢も甚だしい。

集団的自衛権行使容認だけではない。教育の国家管理化、マスコミ統制のための特定秘密保護法の制定。靖国神社参拝、憲法改正草案と憲法改正国民投票法の整備…。

「戦後レジームを打破」して、「日本を取り戻そう」、というのが安倍政権の基本スローガンである。戦後レジームとは、現行の憲法秩序のことにまちがいない。安倍一味は日本国憲法が大嫌いなのだ。もちろん、平和主義も国民主権も人権の尊重も、である。そして、彼が取り戻そうというのは、一君万民・富国強兵の戦前の国内秩序であり、八紘一宇・五族共和・東洋平和の国際秩序としか考えようがない。

安倍自民党への投票は、平和を失う一票となりかねない。あなたが平和を望むのなら、国の内外に大きな不幸をもたらし、自らの首を絞める愚かな投票をしてはならない。

この安倍自民に「どこまでも付いていきます、下駄の雪」となっているのが公明党である。安倍自民の悪業の共犯者となってこれを支えている公明党に投票することも同様なのだ。

権力につるんで甘い汁を吸っている者はいざ知らず、庶民は、自・公両党に投票してはならない。自分の首を絞める愚をおかしてはならない。
(2015年4月9日)

「学び舎」版教科書「慰安婦」記述の受難ー検定基準が不当だ

4月6日に公表された中学校教科書の検定結果において、もっとも注目を集めたのは、「学び舎」版の「慰安婦」問題の記述である。学び舎は、現場の教員などが中心になって組織した「子どもと学ぶ歴史教科書の会」が設立した出版社。今回が初めての検定申請となった。

学び舎版はいったん不合格とされ、再提出版が合格となった。合格とはなったが、不本意に大幅削除されてのこと。その結果、傷だらけにもせよ、4年ぶりに教科書に「慰安婦」問題の記述が復活した。その評価について、韓国の2紙(日本語版)が、やや異なった評価をしている。その2紙の抜粋と、教科書ネット21の俵義文氏の談話の一部をご紹介したい。

まずは、ハンギョレ新聞(4月6日)である。
「慰安婦叙述を復活させた『学び舎』教科書」「中学校教科書に4年ぶりに記述」という、肯定的な見出しになっている。
http://japan.hani.co.kr/arti/international/20225.html

「暗い条件の中でも意味ある変化はあった。子供たちに正しい歴史を教えようと前・現職の歴史教師たちが集まって作った『子供と学ぶ歴史教科書の会』が設立した出版社『学び舎』は、今回検定を通過した教科書で、2011年以後中学校教科書からは消えた慰安婦関連記述を4年ぶりに復活させた。
ハンギョレが入手した学び舎の『社会』(歴史分野)検定通過本の281ページ「人権侵害を問い直す」には「1990年、韓国のキム・ハクスンさんの証言が契機となって、日本政府は戦時の女性に対する暴力と人権侵害に対して調査を行った。そして1993年に謝罪と反省の意を示す政府見解を発表した」と記述された。自身が日本軍慰安婦だったことを初めて明らかにしたキム・ハクスンさんの勇気ある証言を通じて、日本政府が1993年に慰安婦動員過程の強制性と日本軍の介入を認めた「河野談話」が誕生した事実を明確に示しているわけだ。同じページには「朝鮮半島で慰安婦の募集・移送などは概して本人の意志に反してなされた」という河野談話の主要内容も引用されている。…この教科書はまた、日本の植民支配と侵略に抵抗した韓国民衆の主体的な動きに焦点を合わせるなど、民衆史的観点の執筆を試みた。
 …中学校教科書に慰安婦記述が初めてされたのは1993年の河野談話が発表された後に出た1997年度検定教科書からだ。当時は7種の歴史教科書の全てに関連記述が含まれていたが、2002年には3種、2006年には2種に減り、2011年検定では全て消えた。今回文部省は、学び舎の初回原稿を一度不合格処理した後、「強制連行を直接示す資料は発見されなかった」という日本政府の見解を併記する条件で慰安婦関連記述を許容した。」

次は、朝鮮日報(4月6日付)である。
「教科書:文科省、学び舎の慰安婦記載を大幅削除」という記事。こちらは明らかに否定的な評価。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/04/07/2015040700897.html

「6日、日本の文部科学省による検定をパスした歴史教科書の中には、現役の教師たちが中心になって立ち上げた出版社『学び舎』が作成した教科書もある。
本紙が取材した韓日両国の教科書専門家たちによると、この出版社は当初、旧日本軍の慰安婦に関する内容を約2ページにわたって詳しく記載していたが、教科書検定の過程で不合格の判定を受けたという。
検定をパスする前、この出版社が文部科学省に提出した原本には、元慰安婦の故・金学順(キム・ハクスン)さんの証言が別のページで紹介されていた。金さんが日本政府に謝罪と補償を求めたという内容も盛り込まれていた。韓服(韓国の伝統衣装)姿の朝鮮の少女が日本軍に連行される場面を描いた、故キム・スンドクさんの絵も掲載されていた。東アジア各地に設置された慰安所の地図とともに『慰安婦たちは自らの意思に反して連れていかれた』という河野談話の内容も詳しく紹介されていた。また、国連人権委員会や米国議会で慰安婦問題が取り上げられたという最近の状況についても記述されていた。ところが、一度不合格の判定を受けた学び舎が、検定合格のため再び文部科学省に提出した原稿では結局、このような内容は大幅に削除された。金学順さんの証言やキム・スンドクさんの絵はなくなり、慰安所の地図も消えた。それだけでなく、日本の戦争責任を軽減しようとする日本政府の見解も反映された。河野談話を紹介した内容に続けて『日本軍や官憲による強制連行を直接示す資料は発見されていない』という説明が追加されたのだ。この時点で、慰安婦問題に関する分量は当初の半分程度に削減された。今回検定に合格した日本の中学校用歴史教科書で、慰安婦問題について記述したのは、学び舎の教科書だけだった。」

そして、俵義文さん(子どもと教科書全国ネット21事務局長)が、4月6日付の談話を発表している。社会科教科書に限定して今回の検定についての問題点を指摘するもので、「2015年度中学校教科書の検定について 政府の見解を一方的に教科書に強制する検定制度は廃止すべきである」というタイトル。まだホームページには掲載されていない。最大の問題点として、「新検定基準にもとづき政府見解を教科書に強要する検定」のあり方が指摘されている。

学び舎版が不合格となった際に、「欠陥」と指摘された記述は以下のとおりだったという。
「『朝鮮・台湾の若い女性たちのなかには、「慰安婦」として戦地に送りこまれた人たちがいた。女性たちは、日本軍とともに移動させられて、自分の意思で行動できなかった』という記述と、『日本政府も「慰安所」の設置と運営に軍が関与していたことを認め、お詫びと反省の意を表し』たこと、政府は『賠償は国家間で解決済みで』『個人への補償は行わない』としていること、そのため『女性のためのアジア平和国民基金』を発足させたこと、この問題は『国連の人権委員会やアメリカ議会などでも取り上げられ、戦争中の女性への暴力の責任が問われるようになって』いることなどの客観的事実を述べた記述である。

その『指摘事由』は『政府の統一的な見解に基づいた記述がされていない』ということであり、文科省の説明によれば、ここでいう『政府の統一的な見解』とは、『河野談話』発表までに政府が発見した資料の中には『軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった』とする辻元清美議員への答弁書(平成19年3月16日閣議決定)と、クマラスワミ報告書について『重大な懸念を示す観点から留保を付す旨表明している』とする片山さつき議員への答弁書(平成24年9月11日閣議決定)であるという。

…政府見解のみが唯一の正しい結論であるとして、政府見解のみを教科書に書かせ、それのみを子どもたちに教え込もうとすることは、民主主義社会ではあり得ない暴挙であり、愚行である。検定によって「慰安婦」記述が削除されたことが明らかになれば、国際社会からも激しい批判をあびることは必定である。このような検定行為はただちに撤回すべきである。」

「政府見解と異なることは教科書には書くな」「政府見解をそのとおりに教科書に書け」。これでは、国定教科書の復活ではないか。教育が教育行政からの不当な支配に服してはならないことは、改悪された教育基本法16条にも明記されている。これこそ教育法体系の根幹を貫く大原則である。それが、教科書検定の名で、ないがしろにされているのだ。
(2015年4月8日)

中学生の君たちに訴えますー教科書を鵜呑みにすることは危険です

中学生の皆さん。君たちは、明日の主権者です。もうすぐ、この社会を背負って立つことになります。今の国や社会のありかたには私たち大人が責任を持たねばなりませんが、バトンタッチは間近です。君たちが責任を持たなければならない時代がすぐそこにやってきます。

この世に生まれたすべての人が人として平等に尊重され、誰もがのびやかに自由に暮らすことのできる国。貧困や暴力に苦しむ人のいない暖かく明るい社会。障がいや病気や家族の不幸があっても、社会全体が困っている人に手を差し伸べるやさしい世の中。そして、国境を越えて、人々が仲良く暮らせる平和な世界。私たち、今の大人が目ざして果たせなかった、そのような輝く未来をつくることができるのは君たちなのです。

君たちは、その輝く未来をつくるために学んでいます。学校は、そのような学びの場としてとても重要です。そこではこれまでの多くの人々が長い年月をかけて確認してきた「真理」や「真実」の基礎を効率よく君たちに伝えようとしています。

君たちは、学校で「真理」「真実」を学ぶだけでなく、今の社会のよいものとよくないものとを区別してよいものを選びとる能力、さらに自分の考えでよりよいものをつくり出す能力を身につけなくてはなりません。それは、自分自身で、ものを見、ものを考え、自分の意見を持ち、自分の意見を堂々と語り、自分の意見のとおりに行動する力です。これは、簡単に身につくことではありません。しかし、とても大切で必要なことなのです。

学校とは、真理を学ぶとともに、自分でものを考え判断し行動する能力を身につけるところ。このことはけっして当たり前のことではありません。1945年の敗戦まで、学校とは真理を教えるところではなく、国家が都合がよいことを教える場所でした。自分でものを考え判断し行動する能力ではなく、国家が教えることを疑わずに従う態度を身につけるよう教えられたのです。一言で言えば、国家が望むような国民(当時は国民ではなく「臣民」と言いました)をつくりあげるための場所だったのです。

当時、日本の主人公は国民ではなく天皇でした。天皇は神であり、神の子孫であるとされたのです。日本は天皇をいただく特別の神の国であると、学校の先生が授業で、大真面目にそう教えたのです。

その頃の教科書は国がつくりました。これを国定教科書と言います。全国の小学校・中学校が、国がつくった同じ教科書を使って、国に都合のよいことを教え込んだのです。真理や真実よりは、国に都合よい考え方でできあがった教科書でした。

敗戦後、日本は国民が主人公の国として生まれ変わりました。教育についての考え方も世界の常識に基づいたものに変わります。「国が教育の内容を決めてはならない」「学校が生徒に教える内容に国が口出ししてはならない」そういう原則を確認しました。戦前の間違いを繰り返してはならないと、国定教科書は廃止されました。こうして、教科書は、出版社が自由に発行することができるようになったのです。

ところが、だんだんと政府は教科書の内容に口出ししてきました。いま、政府を動かしている人々にとって不都合な内容の教科書は書き直しを命じられ、これに応じないときは許可しないとされているのです。次第に、教科書のあり方は国定教科書時代にどんどん近づいて、とりわけ来年から使われる中学校の教科書の内容には批判の声が高くなっています。

いまや、教科書の記載内容が、真理や真実で貫かれているのか、疑うことが必要になっています。かつて、日本の多くの人が国定教科書で洗脳されたように、来年から新しくなる教科書が君たちを洗脳しようとしているのではないか、よく考えなければなりません。

たとえば、どこの国に属するかについて争いのある竹島や尖閣諸島について、「日本固有の領土であると教科書に記述せよ」というのが政府の方針です。多くの教科書出版会社は、悩みながらもこれに従わないわけにはいかなくなっています。

国際的な紛争で、相手方に言い分がないことなどはありません。しかも、領土問題は、こじれれば国際紛争に発展しかねません。お互いが、相手国の言い分にも、耳を傾けなければならない微妙な問題と言わねばなりません。日本の言い分だけが絶対に正しいと断定する教科書の記載は、中国や韓国を刺激することになるでしょう。

日本と同じく第2次大戦の敗戦国だったドイツは、歴史教科書を作成するについて、フランスやポーランドなど戦争被害を与えた近隣諸国の意見を取り入れて作成し、現在では、ドイツ・フランス共通歴史教科書が作成されています。

日本はドイツと違って、侵略戦争を仕掛けたこと、植民地支配をしたことについて、被害国の国民に対する謝罪や反省が不十分との批判が絶えません。この度の教科書作成はさらに、近隣諸国の批判の声を大きくしかねないと心配になります。

教科書に基づいて勉強しないわけにはいきませんが、教科書には真実が書いてあるはずなどと思い込むことは早計です。今の教科書作りには、大きな批判があることをよく知ってください。そして、日本だけが正しいという思い込みを捨てて、相手の言い分にも耳を傾け、何が正しいのかを自分の頭で考える力をぜひ身につけていただきたいと思います。

私たち大人の力が足りないばかりに、中学生の君たちに問題のある教科書しか提供できないことをお詫びするしかありません。それでも君たちには、何が正しいかを見抜く力を身につけて、輝く未来をつくっていただきたいのです。
(2015年4月7日)

「上から目線に怒り」という翁長知事発言は、沖縄受難の歴史が語らせたものだ

沖縄は、近代以後唯一地上戦の舞台となった日本の国土である。70年前の今ころ、沖縄は「鉄の嵐」が吹きすさぶ戦場であった。

近代日本の一連の対外戦争はすべて侵略戦争であったから、戦場は常に「外地」にあった。日本人にとって、戦地とは遠い「外地」のことであり、男は海を越えて戦地に出征し、女と子どもは内地で銃後を守った。

ところが、太平洋戦争の末期、本土の都市や軍事施設が空襲や艦砲射撃を受けるようになり、ついに沖縄が凄惨な戦地となった。まったく勝ち目のない戦争。時間を稼いで本土への米軍の進攻を遅らせることだけが目的の絶望的な戦場。沖縄は本土の捨て石とされたのだ。

1945年3月26日、米軍は慶良間諸島の座間味島に上陸する。日本軍の指示による住民の集団自決の悲劇があったとされるのはこのときだ。本年3月2日の当ブログで紹介した松村包一さんの詩が次のように呟いている。

  集団自決せよとは
  誰も命令しなかった??という
  が 生きて虜囚の辱めを受けるなと
  手榴弾を配った奴はいる

そして、4月1日早朝、米軍は沖縄本島読谷村の楚辺海岸に上陸する。この日、日本軍沖縄守備隊の反撃はなく、その日の内に米軍は読谷、嘉手納の両飛行場を制圧する。以来、米軍は南北両方向に進攻を開始し沖縄全土が戦場と化した。6月23日に日本軍の組織的抵抗が終息するまで、沖縄の地形が変わるほどの苛烈な戦いが続いて、3か月間での死者数は20万人余におよんだ。知られている、ひめゆり部隊や健児隊の悲劇は、そのほんの一部に過ぎない。

沖縄県平和祈念資料館のホームページに、「平和の礎」に刻銘された戦死者の総数と国(県)別の内訳について次の記載がある。
「平成25年6月23日現在の241,227名(の内訳)は次のようになっています。沖縄県149,291名、県外77,364名、米国 14,009名、英国 82名、台湾 34名、大韓民国 365名、朝鮮民主主義人民共和国82名です。」

生身の人間の命を統計上の数字と化してはならない。戦死者数24万余。これだけの数の痛み・恐れ・悲しみ、そして絶望の末の死という悲劇があったのだ。

翁長・菅会談がおこなわれた4月5日は70年前小磯国昭内閣が政権を投げ出した日に当たる。4月7日に急遽鈴木貫太郎内閣が成立し、この内閣が降伏を決意することになる。小磯は陸軍大将、鈴木は海軍大将、ともに最高級の軍人であった。

鈴木は、後継首班指名の重臣会議では主戦論を力説している。戦後、彼はこれを陸軍を欺くためのカムフラージュだというが真偽のほどは分からない。沖縄で、20万の命が失われているそのとき、最高責任者である天皇とその重臣たちの関心は、沖縄県民の命ではなく、天皇制護持のみにあった。主戦論も和平論も、国体護持にどちらが有益かという観点から述べられたものである。

1944年7月、3万の死者を出したサイパン玉砕を契機に東条英機内閣が辞職した。以来、誰の目にも日本の敗戦は必至であった。しかし、天皇とその部下たちが戦争終結を決断できなかったのは、何よりも国体の護持にこだわったからである。

近衛奏上文が下記のごとく述べているとおり、支配層は敗戦よりも戦後の民主化に恐怖を感じていた。近衛の早期和平論は、その方が国体護持に有利だからというものである。
「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。敗戦は我が国体の瑕瑾たるべきも、…敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体の護持の建前より最も憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座候」

国体護持に保証を得る時間を稼ぐために、沖縄は捨て石とされ無辜の住民が殺害された。終戦が半年早ければ、あるいは1945年の年頭から本気で降伏交渉を開始していれば、東京大空襲の無残な被害も、沖縄地上戦の惨劇も、広島と長崎の悲劇も防げたのである。

その責任を負うべきは、まずは天皇であり、その側近である。このことを曖昧にしてはならないが、沖縄を犠牲にして焦土化をまぬがれた本土の国民も応分の責任と負い目を感じなければならない。

太平洋戦争を遡って、沖縄の受難の歴史は島津侵攻から始まる。さらに武力を背景とした明治政府の琉球処分があって、戦前の差別と抑圧がある。沖縄地上戦の悲劇のあとには占領の悲劇が続く。このときも、昭和天皇(裕仁)のGHQ宛て「天皇メッセージ」によって沖縄占領が継続され、米軍の土地取り上げと基地被害が深刻化する。そして、1972年の本土復帰は基地付き核付きのものとなって現在に至っている。

沖縄の本土に対する怒りは察するにあまりある。「上からの目線で『粛々』ということばを使えば使うほど、沖縄県民の心は離れ、怒りは増幅していく」という、昨日(4月5日)の翁長知事の発言は、よほど腹に据えかねてのこと。これは、長い沖縄県民の受難の歴史が、知事の口を借り語らせたものと知るべきだ。心して聞かねばならない。

沖縄の痛みは日本国民の痛み。沖縄の平和は日本の平和だ。新基地建設を拒否する毅然たる沖縄の態度に心からの拍手で、連帯の気持を表したい。
(2015年4月6日)

「辺野古新基地建設は絶対不可能」の翁長発言に同感

本日(4月5日)午前、翁長沖縄県知事と菅官房長官は、辺野古新基地建設問題に関して、およそ1時間にわたって会談した。菅さんは沖縄基地負担軽減担当相として会談に臨んだつもりだったかも知れない。

双方とも、ほぼ予想されたとおりの発言内容。政府側が粛々と新基地建設工事を進める方針を説明する一方、県側は新基地建設に反対の考えを改めて訴え断念を求めた。もっとも、翁長知事の新基地建設反対の断固たる態度は、予想を上回るものという印象だ。これに気圧されたか、官房長官は、辺野古新基地建設反対が沖縄の民意だという翁長発言に反論はしなかった。メディアを通じての国民へのアピール効果という点では、翁長側が圧倒したといってよいだろう。

翁長発言として報道されているところは次のようなもの。
「今日まで沖縄県がみずから基地を提供したことはない」「『粛々』という言葉が、かつての沖縄の自治は神話だと言った(米軍統治下の)キャラウェイ高等弁務官の言葉と重なり、問答無用と感じる」「上からの目線で『粛々』ということばを使えば使うほど、沖縄県民の心は離れ、怒りは増幅していく」「辺野古の新基地は絶対に建設することができないと確信している」「建設は絶対不可能だ。頓挫で起こる事態は全て政府の責任だ」「(自分が当選した昨年11月の知事選の)争点は、辺野古の埋め立てに関する承認への審判だった。圧倒的な(沖縄県民のノーという)考えが示された」

また翁長知事は、「安倍総理との面談の手配をお願いしたい。辺野古の建設を中止し、しっかりと話し合って基地問題を解決していただきたい」と首相との面談も求めたという。辺野古の新基地建設断念だけでなく、普天間を含む沖縄の基地問題の「解決」を求めての要請である。

さらに会談後、翁長知事は記者団に対し、「きょうは平行線だったが、言いたいことは申し上げた。きょうの会談を取っかかりとして大切にしなければならない。これから沖縄の主張はしやすくなったと思う」「基地問題で後退することは全くない。私は『辺野古に基地が絶対できないように、県の行政手続きのなかであらゆる手段を使う』と言っている」と述べている。まさしく、肚をくくった言ではないか。

私は、知事の「辺野古の新基地建設は絶対に不可能」という言を新鮮な思いで聞いた。知事が県民世論を代表して、新基地建設不可能というのだ。そのとおりに違いない。住民の圧倒的な反感の中で孤立する軍事基地がその機能を発揮することができるだろうか。アメリカ政府は、これほどの県民世論を圧殺してまで新基地建設を必要としているのだろうか。

仮に、辺野古新基地を敢えて強行すれば、米軍と自衛隊とは県民世論から大きな指弾を受けるだけのことではないか。実は、昨年(2014年)1月の名護市長選挙、11月の知事選挙と、12月の総選挙とは、沖縄県民にとっては辺野古新基地建設可否の住民投票であった。県民の意思は投票結果として既に明確になっている。

辺野古を抱える名護市民の意思だけではない。沖縄県民の意思も、普天間を抱える宜野湾市の市民の意思も、圧倒的に辺野古新基地建設ノーの投票結果に表れている。

法技術的な問題は実は些細なことに過ぎない。圧倒的な沖縄の民意が示された今、これに従うべきが民主主義国家の政府のあるべき姿勢であろう。タイミングよく、安倍訪米が間近である。安倍首相は、オバマ大統領に向かってこう言わねばならない。

「実は、日本は民意で動くことを国是としています。選挙の結果、沖縄の民意が『辺野古新基地建設ノー』と明瞭に示されました。民主主義国家としてこれを尊重せざるを得ないのです。ですから、辺野古新基地建設は断念いたしました。ご了承ください」

翁長知事に続いて、安倍首相も、そのように肚をくくらなければならない。
(2015年4月5日)

安倍政権は、耳を澄まして沖縄の声を聞け

嗚呼 沖縄よ
うるまの島よ

幾世代ものいくさゆを経し
悲劇の島よ

いまだに新たな傷癒ゆることなき
怒りの島よ

しかして、美ら海に浮かぶ
ニライカナイのこの島

終わりなき闘いのその末に、
美しの世を我が手にすることを疑わぬ
逞しき人々の
嗚呼 沖縄よ

 **************************************************************************
明日(4月5日)の午前中に「翁長・菅会談」がおこなわれる。その席で、翁長知事はこう言いたいと語っている。

「知事選で県内移設反対を公約した翁長氏は、『沖縄県は自ら基地を差し出したことは一度もない。戦争のどさくさに銃剣とブルドーザーで接収されたのが全てだ。基地返還を多くの国民に理解してほしい』と語った。また、知事選や名護市長選、衆院選の沖縄4小選挙区でいずれも県内移設反対派が勝利したことを挙げ、移設反対が沖縄の『民意』だと訴えた」(毎日)

これを意識して、菅長官は沖縄の選挙を「基地の賛否の結果ではない」と反論している。
「菅義偉官房長官は3日の記者会見で、翁長雄志沖縄県知事が米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設阻止が『民意』だと訴えていることに反論した。菅氏は『(知事選などの)選挙結果は基地賛成、反対の結果ではないと思う。振興策、世代など色々なことが総合されて結果が出る』と語った」(朝日)
事実を曲げること甚だしく、無茶苦茶というほかはない。こんな発言が飛び出すようでは、政権も末期の症状ではないか。

この菅発言は、沖縄の民意をいたく刺激した。琉球新報・沖縄タイムスの両紙とも、本日の社説でこの問題を取り上げた。しかも、このうえない痛烈な批判の論調となっている。やるかたなき憤懣の噴出をようやく理性で抑えたという激しさである。「新基地建設が最大の争点となった名護市長選や知事選、衆院選で建設反対の候補が全て勝利した。これで建設反対の『民意』が示された」というのが、地元沖縄の常識、むしろ真実・真理と言っても過言でない。なんとしてもこれを否定したいのが安倍政権。地元は、「どうして政府は分からないのか、分かろうとしないのか」その無念さのボルテージが極めて高いのだ。私の解説など抜きにして、両紙の社説抜粋をお読みいただきたい。

琉球新報社説はこう言っている。
「耳を疑うとはこのことだ。
菅義偉官房長官が、米軍普天間飛行場の辺野古移設について『反対する人もいれば、逆に一日も早く解決してほしいという多くの民意もある』と述べた。翁長雄志知事が『民意を理解していただく』と述べたことへの反論である。
菅氏から『民意』を尊重するかのような発言を聞くとは思いもよらなかった。選挙で選ばれた人との面会を避け続け、反対の声を無視して新基地建設を強行してきた人物が民意を持ち出すとは、どういう了見か。
よろしい。それではどちらの民意が多いか比べてみよう。
県民は昨年、明瞭に意思を示した。辺野古の地元の名護市長選と市議選、知事選でいずれも辺野古反対派が勝利した。衆院選では名護市を含む3区だけでなく、普天間の地元である宜野湾市を含む2区も反対派が大勝した。当の宜野湾市でも6千票の大差だ。選挙という選挙でことごとく示した結果を民意と言わずして何と言うか。
政府が辺野古の海底掘削を始めた昨年8月の世論調査では『移設を中止すべきだ』が8割を超えた。『そのまま進めるべきだ』は2割にとどまる。そもそも、かつて県民世論調査で辺野古反対が5割を切ったことなど一度もない。
選挙結果も世論調査も無視する内閣がことさらに賛成の民意を言い立てている。自らに反対の声は無視し、賛成の声を過大評価するさまは、『針小棒大』『牽強付会』と呼ぶしかあるまい。
菅氏は知事選後も衆院選後も『粛々と移設作業を進める』と述べた。県が掘削作業停止を指示した際には『この期に及んで』とも述べた。沖縄がどんな民意を示しても、どんな異議申し立てをしても、『問答無用』と言うに等しい。
…およそ非論理的な発言の数々は滑稽ですらある。これ以上、詭弁を続けるのはやめてもらいたい」
これが、沖縄の怒りだ。心して耳を傾けたい。

沖縄タイムス社説の一部も抜粋しておこう。「菅氏きょう来県・作業中止し対話進めよ」というタイトル。
「菅氏の一連の発言にちらつくのは、政権のおごりと、都合のいい解釈である。
辺野古移設に賛成の声が一定数あるのは否定しないが、忘れてはならないのは、昨年の名護市長選、県知事選、衆院選で示された『新基地ノー』の圧倒的民意である。
特に知事選では現職候補に10万票近い大差をつけるなど、これまでにない住民意識の変化を明確にした。その民意のうねりが、衆院選県内4選挙区の全てで移設反対派を勝利させたのである。
移設反対だけではなく『総合的な政策で選ばれる』とする菅氏の主張は、あきれて検討にも値しない。政治的な誠実さや謙虚さも感じられない。
もう一つのフレーズ『辺野古が唯一の選択肢』という言い方も、海兵隊の沖縄駐留の必要性が専門家によって否定される今となっては、本土が嫌がるから沖縄に置くことの言い換えと受け取れる。
安倍晋三首相が好んで使う『この道しかない』という言葉…を政権は恐らく辺野古推進の哲学にしている。なぜ辺野古なのか、県外はどうなったのか。詳しい説明がないまま、県の頭越しに現行案を決め『唯一の選択肢』や『危険性の除去』を脅し文句のように繰り返している。
選択肢のない政策はない。国と県が今後も協議を継続するのであれば、辺野古での海上作業を一時中断し、対話の環境を整えるべきである。」

ここで指摘されているのは、「圧倒的民意」を無視した「政権のおごり」であり、「都合のいい解釈」「あきれて検討にも値しない」「誠実さや謙虚さも感じられない」「脅し文句のように繰り返す」お粗末な政権の姿勢である。「転換すべき選択肢のない政策はありえない」という指摘にも謙虚に耳を傾けなければならない。

今、全沖縄が固唾を飲んで明日の会談に注目している。安倍政権が、辺野古新基地建設を強行するのか、それとも沖縄の民意を汲んで真摯な協議のうえ、政策転換に応じるのか。沖縄問題は、安保法制問題の要をなす。だからこの問題は、全国の統一地方選の勝敗に大きく影響を与える。沖縄だけでなく全国も注目しているのだ。
(2015年4月4日)

国は、いったん工事を中止して、沖縄県と話し合え

辺野古新基地建設工事をめぐって、翁長沖縄県知事と菅官房長官とが会談の予定となった。4月5日午前中になるものと報じられている。仲良く話し合いで問題を解決しましょうなどというものではない。それぞれの思惑を秘めての「会談パフォーマンス」である。会談の席を舞台のアピール合戦でもあろう。

誰が見ても、安倍政権の沖縄イジメのイメージが定着している。しかも、統一地方選挙の真っ最中。政権の側は、現状を打開しなければならないとの思いから、何らかのアクションを起こさざるをえない。だから、会談の申し入れは官房長官側からとなった。これは当然のこと。

「官邸は岩礁破砕許可の取り消しをめぐり県と政府が対立したことで、政府への世論の批判が強まってきたことを警戒する」「翁長氏との面会をめぐり与党内からも政府の対応を疑問視する声が出始め、首相官邸は『6月の慰霊の日まで引っ張れば、国会論戦がもたない』(政府高官)と早期の会談が必要との判断に傾いた」(沖縄タイムス)という状況判断は肯けるところ。にもかかわらず、官房長官側は高姿勢を崩していない。何らかの具体的な妥協案をもって会談に臨むとは到底思えない。

メディアは、「菅官房長官は、普天間基地の危険性の除去などに向けた唯一の解決策だとして理解を求める方針」「普天間基地の危険性を除去するとともに、沖縄の基地負担を軽減するためには、名護市辺野古への移設計画が唯一の解決策だとして、理解を求める方針」と伝えている。この会談を舞台に、「国は沖縄をいじめてなどいない。沖縄の負担を軽減する唯一の策を講じているのだ」というアピールをしようというわけだ。

一方、当然のことだが、翁長知事側も一歩も引く様子はない。「(政府には)沖縄県の民意にしっかりと耳を傾けてもらいたいという気持ちで臨む」「多くの県民の負託を受けた知事として、辺野古に新基地は作らせないという公約の実現に向けて全力で取り組む私の考えを、政府にしっかり説明したい」という高い調子だ。

双方とも相手方を説得できるとは思っていない。いや、相手方が納得するはずはないと分かっている。それでも、天下注視の舞台において、メデイアを通じて国民に語りかけようというのだ。知事側は「新基地建設反対がオール沖縄の総意である」と訴え、官房長官側は「普天間基地の返還のためには辺野古への移設しか方法がない」「沖縄全体とすれば基地の負担は減ることになる」と語ることになる。それぞれが、国民の理解と支持を得ようということなのだ。

双方とも、沖縄県民だけでなく日本全土の国民を聴衆と想定して語ることになるが、知事側が県民世論を、政府側が本土の世論を、より強く意識するだろうことは否めない。従って官房長官のセリフには、「日本全体にとって抑止力はどうしても必要だ。地理的条件から、沖縄に基地の負担をお願いせざるをえない」というホンネがにじみ出てくるだろう。本土のために沖縄の犠牲を求めるおなじみのパターン。強者に好都合の「大所高所論」なのだ。

かくして、「軍事によらない平和を希求する」沖縄県民世論と、「軍事的抑止力に支えられて初めて我が国の平和が維持される」という本土政府との「温度差」が露わにならざるを得ない。

実は、ここが分水嶺だ。菅官房長官は「普天間飛行場の危険除去について知事はどう考えているのか、そういうことを含めて議論をしたいと思います」という姿勢。基地の「移転」だけが頭にあって、「撤去」「削減」という選択肢は、まったく考えられていないのだ。菅官房長官は「沖縄基地負担軽減担当大臣」を兼ねているが、「負担軽減担当相が負担を押しつけにくるだけだ」との至言を沖縄タイムスが伝えている。

私は提案したい。政府が世論に配慮して、口先だけでなく真摯に話し合いの席に着こうというのであれば、その旨を行動で表すことが必要だ。そのためには、辺野古沖のボーリング工事を一時中止して、県側の岩礁破砕許可条件遵守の有無についての調査を見守らなくてはならない。右手で工事を進捗させながらの左手で握手をしようなどとは、本来あり得ない不真面目な姿勢というほかはない。粛々と、実は疾っ疾と、あるいは着々と工事を進捗させながらの交渉は、既成事実作りを目論んでの時間稼ぎでしかない。沖縄県側の調査の進展を粛々と見守りつつの会談であって初めて、本気になって妥協点を探る交渉当事者の姿勢というべきであろう。

それ以外に、政権側が「沖縄イジメはやめよ」という世論に応えるすべはない。工事をいったん中止することによって初めて、政権の側がこの問題で世論の支持を獲得できるものと知るべきである。
(2015年4月3日)

法とは、チョウ(沖縄)を縛り、カブトムシ(国)には破られるものなのか。

法とは蜘蛛の巣のようなものだ。チョウはつかまり、カブトムシは突き破る。

うろ覚えだが、チェコの諺だと聞いた憶えがある。うまいことをいうものだ。どこの国でも、これが庶民の実感であったろう。もちろん真実を衝いている。

庶民の感覚ではこういうことだ。法は権力者がつくる。民衆を取り締まることによって支配の秩序を形づくるために。法は支配の道具なのだ。だから弱い立場の庶民は、法につかまり、法に裁かれて、法に恨みを遺すことになる。法は権力者がつくった蜘蛛の巣で、庶民をチョウとして絡め取るのだ。結局のところ、法は庶民の敵対物にほかならない。遵法精神とは、権力者に都合のよいだけのイデオロギーに過ぎないではないか。

これとは対照的に、法をつくる強者の側はカブトムシだ。法に絡め取られることはない。法を無視し、法をないがしろにして、法に縛られることがない。

近代立憲主義とは、この伝統的な庶民の法に対するイメージを逆転させるものとして成立した。法体系の元締めに位置する憲法とは、最強者である権力を縛るためにある。日本国憲法99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」に、この憲法を尊重し擁護する義務を負わせている。天皇と、国務大臣(行政)、国会議員(立法)、裁判官(司法)の三権の担い手を列挙して、これに対する命令をしているのだ。

この憲法の理念を単なるタテマエにしてしまっては近代立憲主義国家は崩壊しかねない。抜きがたい法に対する庶民のイメージを克服することなくして民主主義国家の健全な発展はありえない。カブトムシもチョウも等しく法に服さねばならない。いや、むしろカブトムシの側に法は厳格に適用されねばならないことが、実例として示されなければならない。

ところで、法律の多くも、憲法に基づいて国の権力行使の横暴から国民の権利を守るためにある。その典型の一つが、行政不服審査法である。

行政不服審査法第1条1項は、「この法律の趣旨」を定める。その骨格は、「国民に対して広く行政庁に対する不服申立てのみちを開くことによつて、簡易迅速な手続による国民の権利利益の救済を図る…ことを目的とする」というもの。

国民の権利利益をまっとうするためには、行政の横暴を許してはならない。そのための行政不服審査手続が法定されている。ここで想定されているのは、国民対行政の対峙の図式である。

国民はチョウではない。行政に絡めとられた場合には不服申立の権利が保障されている。沖縄県の水産行政に関する行為によって住民の権利ないし利益が侵害された場合には、住民が審査請求という形式で農水大臣宛に不服申立をおこなうことを法は想定している。たとえば、沖縄県知事が漁民に対して付与していた漁業の許可を取り消したとする。漁民がこれを違法として争う場合には、農林水産大臣宛に審査請求手続をすることになる。岩礁の破砕許可についても同様で、審査請求は国民が起こすものと想定されている。

ところが、この度の防衛局から農水大臣宛の審査請求は法が想定するものとは著しくことなっている。まず、沖縄県から防衛局に対する辺野古沖埋立工事の停止指示が出されて、これに対して、国(防衛局)が沖縄県の行為に不服ありとして、国(農水相)に審査請求をした。国民が行使することを想定される権利を国が主張しているから非常に問題がわかりにくいものとなっている。国民の権利を擁護するとは、行政の横暴を抑制することと表裏の関係にある。行政とは内閣が司るところであり究極的には、主体は国である。沖縄県よりも強い立場にある国が、国民と同じ立場で権利主張をし、農水大臣への審査請求を申し立てる構図。沖縄県の指示に不服として、審査請求の申請人が防衛局長であり、審査請求の申立先が農林水産大臣ということになっている。

防衛省から農水省に対してする審査請求なのだ。この2者のトップはいずれも閣議の一員という関係。同じ穴のムジナと言われてもやむを得ない。こうなれば、沖縄県はチョウに過ぎず、防衛局(=農水相)がカブトムシであることが見えてくる。国民の権利擁護の構造が消え失せて、「それ見ろ。やはり法はチョウだけをとらえて、カブトムシはつかまえない」「これが、法運用の実態なのさ」と言われかねない。

政権は、手続的な正義を大切にしなければならない。李下において冠を正してはならないのだ。沖縄県に敬意を表して、まずは工事を停止し、協議のテーブルに着くべきであろう。
沖縄県への敬意とは、沖縄県民の辺野古新基地建設ノーという選挙に表れた圧倒的民意への敬意でもある。民意の尊重は、民主々義の基本のキではないか。国は、沖縄の民意が前知事の時代とは大きく変わったことを受容しなければならない。みっともなく形式主義を貫ぬこうとすれば、国民から「やはり法とは蜘蛛の巣のようなものだ。チョウは縛っても、カブトムシには突き破られる」と見すかされるだけではないか。
(2015年4月2日)

「沖縄さん」の未来を切り開くために

1月が行き、2月は逃げ、3月が去った。明けて本日は既に卯月4月。東京はソメイヨシノが散り始め。そぞろ気が急く。
当ブログは3年目に突入した。その第1日目。少し方針を転向したい。「書きたいことを遠慮なく書く」姿勢で2年を過ごしたが、「読んでもらえるように書く」ことを心掛けたいと思う。長すぎず、くどすぎないように注意し、読んで面白いと思っていただけるブログにする努力をしてみたい。できるだけ…、ということにしかならないかもしれないが。

そのような試みの手はじめに、沖縄の問題を取り上げたい。
昨年(2014年)10月19日の「沖縄タイムス」に掲載された石川亮太記者のたとえ話「『沖縄さん』の未来はいかに」が、あちこちに引用されて話題となっている。ざっと、こんな話だ。

「小学校のクラスで山登り遠足があり、担任の先生を先頭にクラスメートたちが身軽に山を登る。最後尾から歩くのは体の小さい『沖縄さん』だ。沖縄さんはクラスメートの荷物を山ほどかかえ、見るからに苦しそう。全身でずっしりと重さを感じ、周りの自然や景色、おしゃべりを楽しむ余裕はない。

沖縄さんが『みんなで分けあって持ちませんか』と先生やクラスメートにお願いするのは反抗だろうか。『お金をあげるから我慢して』『栄養剤を与えるから頑張って』『利き腕の右腕が重いなら、場所を左腕に変えて持って』と諭すのが先生の役目だろうか。持ちたくないから見て見ぬふりをするのが友情だろうか。

…沖縄さんは自ら望んでいないけんかに巻き込まれ、満身創痍で山登りを始めた。「念のために」と、雨具や虫よけ剤、襲われる可能性があるのか、効果があるの かも分からない熊やイノシシ、ハブ対策などの道具もたくさん持たされている。
重い荷物を持たされたまま、ここまでなんとか登ってきた沖縄さん。この先の道のりも同じ苦しさを一人で背負わなければならないか。先生任せにしている管理職に直接、窮状を訴える手はない か。」

この記事は、2014年沖縄県知事選前のもの。
「沖縄さんの未来を占う11月16日投開票の知事選まで1カ月を切った。埋め立て工事に向けた作業が現地で進められる中、県民の意思を示すことになる大事な選挙。有権者に『投票せねば』と思わせる紙面作りに努めたい。」と結ばれている。

11月知事選でも、12月総選挙でも、沖縄さんの意思は明確に示された。「このままではつぶれてしまう。なんとかして欲しい」と悲鳴を上げたのだ。しかし、クラスメートの態度は相変わらずだ。先生に至っては、「生意気なことをいうんじゃない」と新たな脅しを始めるありさま。いったいこの先どうなるのやら。まことにおぼつかない。

このクラスは47人の編成だが、満身創痍で山登りを始めた点は、広島君も長崎さんもよく似た事情。最近は福島さんもたいへんな大怪我をしている。沖縄さんが他と異なるのは、クラス編成以来たった一人の転校生だということ。1972年の転校以来、沖縄さんだけが他のクラスメートとは違う扱いを受けてきた。一人で背負わされたクラスメートの荷物は明らかに重すぎる。沖縄さんがその重さに喘いでいるのに、他のクラスメートは知らんふり。けっして、沖縄さんの荷物を肩代わりしようなどとは言わない。「そんな荷物、本当は要らないんだ。捨てちゃえよ」とアドバイスする者もない。

これは、集団によるイジメだ。沖縄ハラスメントだ。タチの悪いことには、先生が率先してイジメの先頭に立っていることだ。先生にお願いしても解決にはならない。『しょうがないのよ。大切な荷物なんだから』『我慢しなさい。我慢するのがよい子なのに、反抗的で可愛くないわね』『荷物が重いったって、まだ左腕が空いているじゃないの。そこで持てばいいじゃない』なんて言われるだけ。

しかも、沖縄さんが持たされている荷物の中には、たいへんな危険物が紛れているらしい。とても安心してはおられない。

沖縄さんは、最近腹をくくった。はっきりものを言わねばならない。「もう、いじめられるのはごめんだ」「これ以上の重い荷物を持たされるのはイヤだ」「先生、もう、これ以上私の抱える荷物を増やすのはやめてください」。きっぱりと口にすることにした。これは、けっこう反響が大きい。さすがに先生は、このまま放ってはおけない、なんとかしなければならないと思い始めてはきたようだ。それでも、クラスメートの姿勢は相変わらず冷ややかだ。このまま事態が改善しない場合、どうなることだろう。

イジメを解決するもっとも現実的な方法は転校である。沖縄さんも、転校を考えてみてはどうだろうか。冷たい先生と、イジメ加担の46人のクラスメートの集団から抜け出すのだ。その上で、一人で勉強すればよい。いや、勉強などは、もう続けても打ち切ってもよい。そして、元のイジメ仲間やそのボスとなっている先生と、対等な立場でお付き合いを始めればよい。

イジメの学級から籍を抜いてしまえば、荷物を背負うか背負わぬか、「熊やイノシシ、ハブ対策などの道具」が必要か否か、全部沖縄さんが自分で判断できるようになる。今のままでは、何もかも中途半端。こんな先生とクラスメートと付き合ったところで何一つとしてよいことがない。転校した途端に、イジメ集団の「我が軍」が襲いかかってる心配は…、まあ、ありえないだろう。

そもそも、一緒に山登りなどは不必要だ。登らねばならない場合には、それぞれがテンデンコに登ればよい。今のままなら、クラスにとどまっているメリットは小さく、デメリットは限りなく大きい。沖縄さんは、本気になって、転校の覚悟をしその準備をはじめることだ。そうすれば、先生は大いに慌てることだろう。そこから、解決の道が開けてくる…かも知れない。
(2015年4月1日)

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