普段は絶対に読まない「週刊文春」を今日だけは買って読んだ。
もちろん、このタイトルに惹かれてのことだ。「甘利明大臣(事務所)に賄賂1200万円を渡した(実名告発)」「口利きの見返りに大臣室で現金授受。現場写真・音声 公開!」。なるほど、確かに「衝撃告発」であり、「政界激震スクープ」だ。
何より驚いたのは、グラビアの「現金授受現場写真」。昨年(2015年)10月19日、大和市内の喫茶店で、「甘利事務所所長が現金に思わずニンマリ」の写真が表情豊かに大きく紙面を飾っている。ニンマリの主は、甘利大臣の清島健一(公設)秘書だという。そして、「私はこのお金を甘利大臣に渡しました」という、「私」と甘利大臣のツーショット写真。その際、大臣に手渡されたという「このお金」50万円の「ピン札」写真が添えられている。後々のためとして、ナンバーが分かるようにコピーされたものだ。文春編集部としては、周到な取材で、満を持して記事にしたことがよく分かる。
役者がすばらしい。被告発者は「経済再生兼TPP担当大臣」である。第一次安倍内閣以来の首相の僚友。閣内でも別格の重みをもつ人物。安倍政権への政治的衝撃は大きい。そのタイミングがすばらしい。TPP大筋合意ができたとされて調印式が目前のこの時期。辞めるに辞められない。さりとて辞めずに居座れば政権を破壊しかねない。さらに、告発者がすばらしい。これだけの用意周到な証拠の集積を以て、肚を決めての「実名告発」。
山東昭子が、この件に関連して「政治家自身も身をたださなければならないが、(週刊文春に)告発した事業者のあり方も『ゲスの極み』。まさに『両成敗』という感じでたださなければならない」と述べた、と報じられている。発言者である山東本人のゲスの本性を露呈しているだけではなく、自民党としての周章狼狽振りをよく表しているものではないか。
この「政界激震スクープ」記事。事実関係の叙述はきわめて詳細で具体的、リアリティに富んでいる。また、裏付けの取材も怠りない。何よりも、甘利自身が否定し切れていない。常識的に、この告発は本物といえよう。
甘利が事実を否定できないのは、告発者が周到に集積し保管してきたという「証拠」の内容をはかりかねているからであろう。軽々に事実を否認した場合に、証拠を突きつけられて、さらに深く傷がつくことを考慮せざるを得ないのだ。
結局、本日の段階でなし得ることとしては時間稼ぎが精一杯。「今後調査をした上で国民の皆さんに疑惑を持たれることないように説明責任を果たしていく」と答えたそうだ。「今後調査」とは、いったい誰について何を調査しようというのだろう。
まずは、甘利大臣自身の疑惑が具体的に問われている。たとえば、2013年11月14日のこと。「うちの社長が、桐の箱に入ったとらやの羊羹と一緒に紙袋の中に、封筒に入れた現金五十万円を添えて、『これはお礼です』と言って甘利大臣に手渡しました。紙袋を受け取ると、清島所長が大臣に何か耳打ちしていました。すると、甘利氏は『あぁ』と言って五十万円の入った封筒を取り出し、スーツの内ポケットにしまったのです。」とされているのだ。自分の調査は簡単だろう。
次は、ふたりの秘書の調査。一晩かかるほどのことはなかろう。「すべては秘書の所為」として逃げ切る算段をどうつけるかの相談とて、さほどの時間を要するはずはない。むしろ、潔く事実を認めたうえで、「自首」をお勧めする。今の段階なら「自首」成立の公算が高い。時を失して、捜査機関が疑惑の心証を固めると自首は成立しなくなる。
犯罪成立の疑惑は、政治資金規正法違反とあっせん利得処罰法違反である。甘利やその秘書の行為は刑法上の収賄行為に当たるとするにはハードルが高いが、政治家と秘書の「口利き行為」は、あっせん利得処罰法上の犯罪となり得る。同法は、第1条で政治家(国会議員)の、第2条で政治家秘書の、あっせん行為に関して財産上の利益を収受することを犯罪としている。
同法第1条(公職者あっせん利得)の構成要件は以下のとおりである。
(犯罪主体) 衆議院議員、参議院議員又は地方公共団体の議会の議員若しくは長(以下「公職にある者」という。)が、
(犯罪行為) 国若しくは地方公共団体が締結する売買、貸借、請負その他の契約又は特定の者に対する行政庁の処分に関し、
請託を受けて、
その権限に基づく影響力を行使して公務員にその職務上の行為をさせるように、又はさせないようにあっせんをすること又はしたことにつき、
その報酬として財産上の利益を収受したときは、
(刑罰)三年以下の懲役に処する。
また、同条2項は、「公職にある者が、国又は地方公共団体が資本金の二分の一以上を出資している法人が締結する売買、貸借、請負その他の契約に関し、請託を受けて、その権限に基づく影響力を行使して当該法人の役員又は職員にその職務上の行為をさせるように、又はさせないようにあっせんをすること又はしたことにつき、その報酬として財産上の利益を収受したときも、前項と同様とする。」と定めている。
要件の該当性は、よく吟味しなければならないが、疑惑としては十分であり、政治的道義にもとる汚い行為であることは争いようもない。もし、口利きの報酬として金を交付させ、実際には何もしていなかったとしたら、場合によっては詐欺の疑惑にまで発展しかねない。
山東昭子のゲスの極み発言に関連して思う。独禁法には、法違反の制裁に関してリニエンシーという制度がある。談合、カルテルなどの不正に関わった企業であっても、公正取引委員会の調査開始前(場合によっては後にでも)に不正を自己申告すれば、課徴金の減免あるいは刑事告発の免除がなされるというもの。もちろん、闇に隠れた談合行為の摘発を直接の目的とし、ひいては談合をしにくくするという目的による。
贈収賄についても、このような制度が考えられないだろうか。贈賄者と収賄者とは対抗犯の関係に立ち、一蓮托生の運命共同体となる。お互いに沈黙しかばい合うことの利益を共通にする。しかし、当事者どちらかの覚悟を決めた事実暴露による立件は、政治の浄化、公務に対する国民の信頼を高めることになる。今回の「告発」も、政界に深く沈殿している澱の浄化に寄与するものとして、告発者側の処罰には慎重でよいのではないか。十分に情状を酌量してしかるべきだと思う。
ところで、週刊文春の記事の中に、甘利が告発者側に送ったという色紙の写真が掲載されている。「『得意淡然 失意泰然』経済再生大臣甘利明」というもの。今回ばかりは、失意にして茫然となってもらわねばならない。でなければ、いつまでも、政治とカネにまつわる不祥事を払拭することはできない。
(2016年1月21日)
私が当ブログでDHCの吉田嘉明を批判したポイントは、次の4点にある。なお、この4点は、当ブログの記載が吉田とDHCの名誉を毀損したという表現のポイントでもある。
(1)「政治とカネの問題」ー吉田が資金規正法を僣脱する巨額の「裏金」を政治家に提供して「カネの力で政治を買おうとした」こと。
(2)「規制緩和問題」ー経営者の立場でありながら自らの事業に対する主務官庁の規制を「煩わしい」と広言し、行政規制からの経営の自由を求めて政治に介入したこと。
(3)「消費者問題」ー口に入れるサプリメントと肌に塗る化粧品を製造販売する事業者が、行政規制を煩わしいとする行動原理を持っていれば、消費者被害を起こさざるを得ない。
(4)「スラップ訴訟の提起」ー自分への批判を嫌忌して、批判の言論を封殺するための高額損害賠償請求訴訟の提起は民事訴訟存在の趣旨を逸脱するものとして許せない。
以上の(1)は民主主義政治過程の根幹をなす問題、(2)は政治や行政とは何かという本質を問う問題、(3)は国民の生存権の基盤に関わる問題だが、この3テーマは一連の問題となっている。吉田は、行政規制を嫌って規制緩和を求め、その手段として「カネで政治を買おうとした」。そのことによる被害者は、行政規制で健康被害から守られている消費者である。そして、(4)が独立した、司法の役割を問う問題として、いずれも重要な問題提起なのだ。
「週刊新潮」2014年4月3日号に掲載された吉田嘉明の「独占手記」では、DHCが「サプリは業界1位の売り上げを誇る」という編集者のコメントに続く部分で、吉田自身がこう言っている。
「私の経営する会社は、主に化粧品とサプリメントを取り扱っています。その主務官庁は厚労省です。厚労省の規制チェックは他の省庁と比べても特別煩わしく、何やかやと縛りをかけてきます。天下りを一人も受け入れていない弊社のような会社には特別厳しいのかと勘ぐったりするくらいです。いずれにせよ、50年近くリアルな経営に従事してきた私から見れば、厚労省に限らず、官僚たちが手を出せば出すほど、日本の産業はおかしくなっているように思います。つまり、霞ヶ関、官僚機構の打破こそが、今の日本に求められる改革であり、それを託せる人こそが、私の求める政治家でした」
「サプリは業界1位の売り上げを誇る」経営者が、自らの事業に対する主務官庁の規制を「煩わしい」と広言しているのである。これは、驚くべきことというよりは、恐るべきことと言わねばならない。彼の行動原理の原点、彼の政治への介入の目的は、主務官庁の「煩わしい規制」の緩和を求めてのこととの独白なのだから。
事業者が、主務官庁からの規制を「煩わしい」として、この規制から逃れようとすれば、何が起こるか。昨日(1月19日)の二つの社説が、説得的に解説している。
まずは、「廃棄カツ横流し 信頼の土台が揺らぐ」とする東京新聞社説。
「“ごみ”が“食べ物”に逆戻り?。こんな手品が、なぜまかり通るのか。安いのはうれしい、でもいつも正しいとは限らない。私たちは、大切な日々の命の糧を、正しく選んでいるのだろうか。
『消費者をばかにするにもほどがある』。街角のこの一言が、すべてを語っているようだ。食品の偽装は後を絶たない。高級料亭(廃業)が、客の食べ残しを調理し直して別の客に供していたことがある。有名和菓子店が、余った商品を冷解凍し、“まき直し”と称する新たな包装を施し、製造年月日を偽って売っていたのにも驚いた。
しかし今度は、よりによってごみである。異物が混入し、捨てざるを得ない大量の残さ、つまり危険なごみが、ごみ処理業者を通じて「食品」として横流しされていた。“ごみ”を買わされ、食べさせられた買い手の怒りは、察するにあまりある。
「CoCo壱番屋」の冷凍カツ以外にも、本来廃棄されるべき多くの食材が「商品」として流されていた形跡があるという。食品流通の安全や食の信頼そのものの土台が揺らぐ事件である。」
「消費者としては、表示を信用するしかない。だが、“激安”には“激安”になるわけがあるというのも、もう一つの教訓だ。不正に振り回されることがないように、食べ物という特別な商品の選択の仕方を少し考えたい。」
「食べ物という特別な商品」には、生産・流通・消費の過程を市場原理に任せておけばよいとはならない。食の安全と、安全な食の安定供給は、政治と行政の責任であり、多くの取締法規が消費者の健康を守っている。決して、「厚労省に限らず、官僚たちが手を出せば出すほど、日本の産業はおかしくなっている」とは言えず、「霞ヶ関、官僚機構の打破による規制緩和こそが、今の日本に求められる改革」とは事業者のホンネではあろうが、消費者の立場とは相容れない。
「冷凍カツ」についても「サプリメント」についても、消費者は口に入れるモノとしてのその安全を知ることができない。消費者は、安全の保障を行政規制に求め、事業者が誠実に行政規制を尊重することを期待しているのだ。ところが、このような規制を「煩わしい」と言ってのける事業者は、徹底して糾弾しなければならない。
もう一つは、朝日の社説「夜行バス事故 生かされなかった教訓」というもの。
「ここまで法令違反が積み重なっていたことにあぜんとする。15人が亡くなった長野県での夜行バス事故である。バス会社の運行管理のずさんさが次々と明らかになってきた。過去の事故の教訓はなぜ生かされなかったのか。人命第一という当然の大原則を、業界全体が肝に銘じるべきだ。」
「運転手の体調を出発前に確認しない▽にもかかわらず、書類に体調管理の済み印を押した▽運転手に健康診断を受けさせない▽休憩のタイミングなどを運行指示書に記さない――。こんな違反がなかば常態化していた。命を預かっているという自覚が欠けているというほかない。国交省や警察は、厳しく対応すべきだ。」
「4年前に起きた関越道での夜行バスによる46人死傷事故を機に、国交省はバス会社が満たすべき安全基準を厳しくした。同時に、安値を求める消費者心理に一定のブレーキをかけるために運賃の下限額も定めた。安全のためには相応のカネがかかるという前提だった。しかし今回の事故は、この仕組みが「ザル化」している実態を浮き彫りにした。」
「規制緩和で、貸し切りバス事業者はこの十数年で1・5倍の約4500社に増えた。運賃が下限割れしていても、バスを遊ばせているよりはましといった感覚もあるという。そうした問題を防ぐはずの国交省の監査は、手が回りきっていない。予算や人員規模に限界があるとしても、チェック機能がゆるい問題は明らかだ。」
「ずさんなバス運行を野放しにしない。官民、ユーザーをあげた真剣な方策が必要である。」
この社説には、「行政規制の徹底が乗員の安全を守っていること」「規制緩和が、行政のチェック機能を低下させて、消費者の生命の危険をももたらしていること」の問題意識が露わになっている。
もう一度、吉田の手記の一文を思い起こそう。
「私の経営する会社は、主に化粧品とサプリメントを取り扱っています。その主務官庁は厚労省です。厚労省の規制チェックは他の省庁と比べても特別煩わしく、何やかやと縛りをかけてきます。」「厚労省に限らず、官僚たちが手を出せば出すほど、日本の産業はおかしくなっているように思います。」「霞ヶ関、官僚機構の打破こそが、今の日本に求められる改革であり、それを託せる人こそが、私の求める政治家でした」
こういう事業者の見解は、消費者の側からは「恐るべき独白」として批判されて当然なのだ。批判を封じようとしてのスラップ訴訟などは、逆ギレも甚だしいというほかはない。
(2016年1月20日)
1月28日の「DHCスラップ訴訟」控訴審判決が近づきました。私自身が被告とされ、いまは被控訴人となっている名誉毀損損害賠償請求訴訟の判決です。
この日、東京高裁第2民事部(柴田寛之裁判長)が、判決を言い渡します。
時刻は、午後3時。
法廷は、東京高裁822号法廷(庁舎8階)。
司法記者クラブで、5時からの記者会見が予定されています。
関心のある方は、ぜひ傍聴にお越しください。
ただし、これまで毎回欠かさず行ってきた報告集会は省略いたします。これに代えて、近くの待合室で簡単なご報告を申しあげ、希望者には直ちに判決書きを送付いたしますので、メールアドレスかファクス番号を登録してください。
報告集会を行わないことの原因は判決日の指定が早過ぎたことにあります。裁判所は、判決期日の指定に当事者の都合を聞きません。出廷の必要がないとされているからです。こんなに急な日程では、場所の確保ができません。しかも、当日は在京の三会とも弁護士会の役員選挙期間中とあって、会議室は全部選挙事務のために塞がっています。日比谷公園内の日比谷文化図書館の会議室もとっくに満室。それに、こんなに近い期日指定ですと、弁護団に所属する弁護士の日程確保もなかなかにままなりません。私も、3時半から別の裁判の予定がはいっています。ご了解ください。
なお、少し日をおいて、十分な準備のもとに、スラップ訴訟撲滅を目指すシンポジウムを開きたいと思います。ご期待ください。
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株式会社DHCと吉田嘉明(DHC会長)の両名が、当ブログでの私の吉田嘉明批判の記事を気に入らぬとして、私を被告として6000万円の損害賠償請求の裁判を起こした。正確に言えば、当初の提訴における請求額は2000万円だった。怒った私が、これを許されざる「スラップ訴訟」として、提訴自体を違法・不当と弾劾を開始した。要するに、「黙れ」と言われた私が「黙るものか」と反撃したのだ。そしたら、2000万円の請求額が、3倍の6000万円に増額された。「『黙るものか』とは怪しからん」というわけだ。なんという無茶苦茶な輩。なんという無茶苦茶な提訴。
スラップの訳語は定着していないが、「恫喝訴訟」「いやがらせ裁判」「萎縮効果期待提訴」「トンデモ裁判」「無理筋裁判」…。裁判には印紙代も弁護士費用もかかる。普通は、この費用負担が濫訴の歯止めとなるのだが、金に糸目をつけないという連中には、濫訴の歯止めがきかない。スラップ防止には、何らかの制裁措置にもとづく、別の歯止めが必要だ。たとえば、高額の相手方弁護士費用の負担をさせるとか、スラップ常連弁護士の懲戒などを考えなければならない。この判決が確定したあとに、私はこの件について具体的な問題提起をしていこうと思う。
昨年(2015年)9月2日に東京地裁民事第24部(阪本勝裁判長)で、一審判決が言い渡された。当然ののことながら、私の全面勝訴。全面敗訴となったDHC・吉田は、これを不服として控訴し、その控訴審判決の言い渡し日が1月28日なのだ。
一審判決後の経過は以下のとおりである。
2015年 9月 2日 一審判決言渡し(原告全面敗訴)
9月15日 控訴状提出
11月 2日 控訴理由書提出
11月11日 被控訴人に理由書送達
12月17日 控訴答弁書提出
12月24日 控訴審第1回口頭弁論・結審
2016年 1月28日 控訴審判決言い渡し(予定)
1回結審のうえ、年末年始をはさんで1か月後の判決言い渡し期日の指定。常識的には、一審判決の事実整理や判断をそのまま認めての控訴棄却判決が予想されるところ。自分が訴訟代理人として受任した事件であれば、依頼者に「この経過なら、再度の勝訴間違いなしです。ゆっくりと、よいお正月を」と説明するところだ。しかし、当事者の心情としては、現実に勝訴の判決を手に入れるまでは心穏やかではいられない。
なお、原判決は、DHC・吉田が不服とした私のブログの記述は、いずれも原告らの社会的評価を低下させるものとして名誉毀損に当たるとした。その上で、いずれの言論にも違法性はないことを明確に認めて全部の請求を棄却したのだ。
言論の自由とは、「誰の名誉も毀損しない当たり障りのない言論」についてのものではない。誰をも不愉快にしない言論の表現が自由なのは当たり前、こんなものは権利の名に値しない。DHC・吉田が名誉を毀損されて苦々しく思うことを前提としてなお、この両者を批判する言論の権利が私にあり、DHC・吉田は私の批判を甘受しなければならないのだ。原判決は、この理を明快に認めたのだ。
原判決は、「(澤藤の)本件各記述は,いずれも意見ないし論評の表明であり,公共の利害に関する事実に係り,その目的が専ら公益を図ることにあって,その前提事実の重要な部分について真実であることの証明がされており,前提事実と意見ないし論評との間に論理的関連性も認められ,人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものということはできない」。だから、DHC・吉田の名誉を毀損しても違法性を欠く、として不法行為の成立を否定した。
おそらくは、控訴審判決も同じ判断になるだろう。
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ところで、控訴審以来、被控訴人(私)の弁護団に加入いただいた徳岡宏一朗さんが、ご自分のブログで、私の訴訟とブログとに、エールを送ってくれた。「万国のブロガー団結せよ」への呼応である。
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/108c767ee6becadef779a59b8e2ac5f5
徳岡さんのブログは、ビジュアルなセンスに溢れている。多くの読者に読んでもらおうというサービス精神が、多くの読者層に支持されて、著名ブログに成長している。そのブログからの応援メッセージが、なんとも心強い限り。
ありがとう、徳岡さん。そして、一審以来一貫して支援していただいた弁護団の皆さま、多数の傍聴支援の皆さま。あらためて、感謝申し上げます。
(2016年1月19日)
宜野湾市長選が昨日(1月17日)告示。2016年の政治の帰趨を占う政治戦が始まった。選挙期間は僅かに一週間の短期決戦。「官邸勢力」と「オール沖縄」との対決。オール沖縄側に勢いがあるものの、決して楽な闘いではない。
いうまでもなく、争点は「普天間・辺野古」問題である。「官邸」を背景とする現職は「普天間返還の早期実現」というシンプルな訴え。これに対する「翁長県政」側の「市政奪還」を目指す側は、「新基地建設なき返還」「基地のたらい回しは許さない」というもの。はるかに次元の高い政治性と倫理性を訴えているのだ。
普天間基地の早期撤去は、宜野湾市民の共通の願いである。この「世界一危険な米軍基地」は、市民に騒音被害と治安の悪化と経済発展の阻害をもたらしている。しかも、最近持ち込まれた「ウィドウメーカー」の異名を持つオスプレイ群の一刻も早い撤退は誰もが望むところ。
しかし、「この危険と騒音と治安の悪化と、さらには自然破壊とを名護市に押しつけてよいのか」「さらに沖縄の危険を増すことになる辺野古新基地建設を許してよいのか」という問題に直面せざるを得ない。また、「政府に協力することで、本当に普天間の早期実現が可能となるのか」「オール沖縄の分断策に政府や米軍から付け込まれることになりはしないか」という問題もある。
昨日の志村恵一郎陣営の出陣式には、翁長知事を先頭に、城間幹子那覇市長や西原、北谷、読谷、中城、北中城の近隣5町村の首長らも勢ぞろいしたという。文字どおり、「オール沖縄・翁長県政」対「政府・与党代理勢力」の対決構図。それ故の全国的な注目政治戦となっている。
ところで、現職市長の佐喜真淳なる人物については、よく知らない。
この人の人物像については、1月14日付「日刊ゲンダイ」が、「園児が教育勅語を唱和…宜野湾市長が出席した大会の異様」という記事を書いて話題となっている。短い記事なので、全文を引用する。
「今月24日に投開票される沖縄県宜野湾市長選。現職で与党推薦の佐喜真淳氏(51)の再選を阻めば辺野古移設の歯止めになることから、全国的な注目度も高い。もっとも、それ以前にこんな人物を再選したら、宜野湾市民は常識を疑われることになりそうだ。
2年前に宜野湾市民会館で開催された『沖縄県祖国復帰42周年記念大会』の動画がネット上で流れており、これに佐喜真市長も出席しているのだが、『まるで北朝鮮みたい』と突っ込まれるほどヒドイ内容なのだ。
オープニングでは地元保育園の園児が日の丸のワッペンをつけた体操着姿で登場。猿回しの猿というか、北のマスゲームように『逆立ち歩き』『跳び箱』をさせられ、それが終わると、全員で〈立派な日本人となるように、心から念願するものであります!〉と『教育勅語』を一斉唱和させられるのだ。
それが終わると日本最大の右翼組織「日本会議」の中地昌平・沖縄県本部会長が開会宣言し、宮崎政久衆院議員といった面々が『日本人の誇り』について熱弁を奮う。この異様な大会の“トリ”を務めたのが佐喜真市長であり、やはり『日本人としての誇りを多くの人に伝えていきたい』と締めくくった。
佐喜真市長が日本会議のメンバーかどうかは知らないが、善悪の判断がつかない園児に教育勅語を暗唱させ、一斉唱和させるなんて戦前そのものではないか。」
「日本会議」のホームページで、「体操演技と教育勅語奉唱(わかめ保育園の園児26名)」と紹介された子どもたちの、「口語版・教育勅語」奉読の場面を見ることができる。この動画を見て戦慄せざるを得ない。「わかめ保育園の園児」たちが、回らぬ舌で、「朕」を「ワタシ」と読み替え、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ天壌無窮の皇運を扶翼すべし」を、「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません」と、口を揃えて言わされている様子が傷ましい。これは、「戦時や緊急事態における国民の心得」ではないか。こんなことを、沖縄戦の悲惨な記憶生々しい沖縄でまわりの大人たちがやらせている。その大人の中に、現地の現職市長が参加しているのだ。確かに、戦前の日本や北朝鮮の教育を思い起こさせる、恐るべき図である。
https://www.nipponkaigi.org/activity/archives/6683
日刊ゲンダイが、「ヒドイ内容」で、「こんな人物を再選したら、宜野湾市民は常識を疑われることになりそうだ」というとおり。いやはや、こんな人物を市長にしてはならない。宜野湾市であろうとなかろうと、である。
口語版・教育勅語はいくつかある。わかめ保育園の元ネタは「国民道徳協会訳」のバージョン。明治神宮のホームページなどで読むことができる。意訳に過ぎ、天皇への忠誠心強調が薄れているようにも思われる。しかし、口語訳になると、教育勅語は俄然生々しい。とりわけ、幼児の口から発せられると、背筋が寒くなる。これが、かつて一億総洗脳教育の教材とされたものだ。参考のために、26人の園児が暗記した全文を掲載しておきたい。
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
(2016年1月18日)
本日の赤旗・社会面の以下の記事に目が留まった。
「共産党2氏質問 一転掲載」「特別委の委員長謝罪」「『政権批判』と拒否 市民が批判 北海道 釧路議会広報」の見出し。
記事の内容は以下のとおり。
「北海道釧路市議会は15日、会派代表者会議と議会広報特別委員会を相次いで開き、日本共産党の松永俊雄、梅津則行両氏の質問を『不適切だ』などとして議会広報に掲載しないとしてきた態度を改め、掲載することを決定し、金安潤子広報特別委員長は2人の議員に公式に謝罪しました。
掲載が決まった両氏の質問は、昨年12月議会で行われたもので、松永氏は、蝦名大也市長の政治資金の報告漏れを指摘。梅津氏は、政権批判を口実にした道教委による組合活動への不当な介入問題について、市教委の見解をただしていました。
広報特別委員会は、梅津氏が質問で触れた『アベ政治を許さない』の文言が『政権批判であり、議会広報になじまない』として、松永氏の質問とともに掲載を拒否。市民から『検閲だ』『政治に対してモノを言えなくなる』など強い批判があがっていました。
日本共産党釧根地区委員会の村上和繁委員長(釧路市議)は『議会多数派が多数を力に強行しようとした暴挙が、市民世論と運動、日本共産党の反撃で完全敗北した。勝利した最大の力は、市民の反対の声、マスコミや識者からの厳しい批判だ』とコメント。引き続き市議会で奮闘する決意を表明しました。」
赤旗以外に記事はないものかとネットを探したら、毎日新聞・北海道版の本日(1月17日)朝刊にも、ほぼ同内容の次の記事が掲載されたという。
「北海道・釧路市議会広報 共産市議の質問 一転掲載へ」「市民から批判意見 多数寄せられ」
「北海道釧路市議会の共産党市議2人の質問が『特定政党への批判にあたる』などとして議会広報への掲載が拒否された問題で、同市議会は15日、一転して掲載を認めることを決めた。
この問題を巡っては、議会の不掲載決定を受け、共産市議らが抗議の意味を込めて広報の持ちスペースを空欄にすると主張。市民からも議会の対応を批判する意見が多数寄せられたことから、各会派代表者会議が決断した。不掲載を主導した議会広報特別委員会の金安潤子委員長は『混乱を招き責任を感じている。2人におわびする』と述べた。
掲載を拒否されていたのは、道高校教職員組合が組合員に配布した『アベ政治を許さない』と書かれたクリアファイルに関する市教育委員会の対応をただした質問と、蝦名大也市長の資産公開での記載漏れを指摘した質問。昨年12月の議会で質問した後、今月29日に発行される広報2月号への掲載を求めていたが、広報特別委が不掲載を決めた。
市議会には13日までに不掲載を批判する意見がファクスやメールで37件寄せられた。賛成意見は1件もなかったという。共産市議の質問欄が空白のまま広報が発行された場合、さらに批判が高まることが予想されていた。
不掲載決定が撤回されたことについて、共産党市議団の松永俊雄団長は『自由であるべき質問を多数決で抑えつけるのは許されることではない。市議会が本来の姿を取り戻した』と評価した。」
これはよいニュースだ。
アベ政権が醸しだす時代の雰囲気に迎合する、「忖度」と「萎縮」の蔓延が目に余る。釧路市議会も、アベ政権や自公与党だけでなく、アベ一強への擦り寄りを世論が許すとの読み違いがあったのだ。不掲載を主導した議会広報特別委員会の金安潤子委員長の所属会派は自民党。定数28のうち、自民党の議席が7、公明が4である。共産の議席は4。多勢に無勢は否めない。しかし、正論が、傲慢アベ政権の釧路版を許さなかった。痛快事というべきではないか。
昨年の12月17日付で、日本共産党釧路市議会議員団(松永俊雄団長)が、釧路市議会議長(月田光明)に宛てて次の申し入れをしている。
「議会だより」のルールを尊重した公正・公平な編集を求める申入書
市議会のようすをつたえる「議会だより」2月号編集にあたり、わが党の梅津則行議員の「アベ政治を許さない」と書かれたクリアファイル問題と、松永俊雄議員の市長の政治資金借入、資産公開訂正の問題の本会議質問をともに不掲載とする方針を示していることは、これまでの釧路市議会のルールを踏みにじるものであり、とうてい容認できるものではありません。
「アベ政治を許さない」は、流行語大賞にもノミネートされ安保関連法案をめぐる運動のなかでひろく知られた表現であり、それのどこが「議会だより」になじまないのか、理解に苦しむものです。
一方、市長の政治資金借入は市長が市議会で陳謝、資産公開を訂正すると明言し新聞などでも報道されました。いずれも、市議会としては当然の議論であり、これまでのルールを踏みにじり当人の意志を無視して不掲載とすることなど許されません。
議会は「言論の府」であり、自由な議論を制限することなどあってはなりません。これは誰もが認める道理であり、何人も否定できない原則です。議会広報委員長、議長が提起している不掲載との方針はこの原則を投げ捨てるばかりでなく、まるで「検閲」のような理不尽極まりないものといわなければなりません。
よって議長におかれては、「議会だより」編集にあたって2つの本会議質問を不掲載とする方針をあらため、これまでのルール通り両議員の質問を掲載するよう公平に取り扱うことを強く求めます。
この正論にはいかんとも反論しがたいものがある。にもかかわらず、議会内「忖度派」がもっともこだわったのが、「アベ政治を許さない」のクリアファイル。そしてもう一つが「市長の政治資金借入、資産公開訂正の問題」。政権トップと、市政のトップに対する批判を封じようというトンデモナイ振る舞い。こんなことが、可能だと思っている人物が議員になり、委員長にもなり、議会がそれを許しているのだ。
共産党が果敢に抗議をしたことは当然として、決め手になったのは、「不掲載を批判する意見がファクスやメールで37件寄せられた。賛成意見は1件もなかった」(毎日)という市民の批判であったようだ。「多数決がなんでもできるわけではない」「議会内での多数も、実は市民世論の中での少数」という教訓の実例として意義のある、明るいニュース。
昨日の毎日新聞報道「岸井成格氏 『スペシャルコメンテーター』就任へ TBS」も明るいニュースと言ってよいのだろう。
「TBSは15日、報道番組『NEWS23』や『サンデーモーニング』に出演している岸井成格氏(71)=毎日新聞特別編集委員=が、『スペシャルコメンテーター』に就任すると発表した。4月1日付。
TBSによると、スペシャルコメンテーターは同局との専属契約で、番組の垣根を越えてさまざまな報道・情報番組に出演し、ニュースについて解説や論評をする。就任は岸井氏が初めて。『サンデーモーニング』などの報道番組に引き続き出演し、選挙特番などにも幅広く出演する。4月にリニューアルするNEWS23には、コメンテーターとして随時登場するという。
岸井氏は、毎日新聞で政治部長、論説委員長、主筆などを歴任。スペシャルコメンテーター就任について「報道の第一線で発信を続けていくことになった。その責任・使命の重さを自覚し、決意を新たにしていく」とコメントした。」
「市民団体が11月中旬の読売新聞と産経新聞に、9月16日放送の『NEWS23』で『(安保関連法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ』とした岸井氏発言を、「(放送法の)重大な違反行為」とする意見広告を出した。TBSは、岸井氏が番組内で見解を示すことについて『これまでも多くの視聴者に受け入れられており定着している』としており、今回の契約については『意見広告の前から話し合ってきた。岸井氏の発言とは全く関係ない』と説明している。」
こちらは、「忖度」や「萎縮」の域を大きく超えた、アベ政治応援団による言論弾圧のお先棒である。ナチスも、天皇制政府も、戦争遂行のために人心を掌握し統制する労苦を厭わなかった。上からの統制に下からの呼応があって、戦時体制を支えるファシズムが形づくられた。アベ政治への擦り寄りや、アベ政治批判の言論への弾圧に、一つ一つの闘いが重要なのだと、改めて思う。
(2016年1月17日)
新聞投書欄は百花繚乱の趣き。多種多様で玉石混淆なところが面白い。時に、短い文章で深く共感する投書に出会うことがある。例えば、1月14日毎日新聞投書欄の「首相発言に闘志が湧いてくる」(会社員岡島芳彦)。「闘志が湧いてくる」が素晴らしい。多くの読む人を励ます内容となっているではないか。
「安倍晋三首相が年頭の記者会見などで、今夏の参院選で憲法改正を訴えると発言している。首相は、具体的に憲法のどこをどのように改正するのかという点までは言及してはいないようだが、特定秘密保護法で国民の知る権利を制限し、気に入らない報道には見境なく介入し、安全保障法制で憲法9条を骨抜きにした政府与党が目指す憲法がどのようなものかは、おおよそ察しがつく。」
「憲法改正を訴えるとは言うものの、具体的に憲法のどこをどのように改正するのかということは言わない」。この指摘は実は重要ではないか。「どこをどのように改正する」ことを言わずに、「どこでもよい。とにもかくにも、憲法を変える」という発言は、無責任でオカシイのだ。アベは、憲法の条文にも理念にも、頭から尻尾まですべてに反対なのだ。できることなら、日本国憲法を総否定することで「戦後レジームから脱却」し、大日本帝国憲法と同じ条文に変えることによって「日本を取り戻そう」としているのだ。しかし、それは望んでもできることではない。小ずるいアベは、次善の策として「どこでもよい。少しでも変えることのできるところから、憲法を変えていこう」と虎視眈々というわけなのだ。
これまでアベ政権のやってきたことは、何から何まで非立憲で反民主、そして反平和主義、人権軽視の最悪政治。この政権と与党が目指す改正憲法が、リベラルで民主的で平和を指向するものであるはずがない。そのダーティーな内容は、誰にも「おおよそ察しが」つこうというもの。
「80年ほど前、ドイツでは、ベルサイユ体制からの脱却をスローガンに掲げ、大規模な公共事業で失業者数を減らすことに成功したナチスが、熱狂的な支持を得て合法的にワイマール憲法を葬り去ったが、その手口を学ぶべきだったのは、安倍首相よりもむしろ我々国民の方だったのかもしれない。」
おっしゃるとおりだ。日本国民は、いまやナチスが政権を取ったその手口をよく学び心に刻まなければならない。「ベルサイユ体制からの脱却」とは、ドイツを取り囲む戦勝国への敵意を剥き出しに、報復をなし遂げることにほかならない。アベの歴史修正主義の信条にぴったりではないか。
ナチスは大規模な公共事業で失業者数を劇的に減らすことに成功したのだ。取り上げたユダヤ人の財産の配分という実益も小さくなかった。こうして、ドイツ国民は熱狂的にナチスを支持した。かつての臣民が、熱狂して天皇と軍部を支持した如くにである。そして、3度の選挙と国会放火という謀略で、全権委任法を成立されることによって、ワイマール憲法を葬り去った。この手口は、アベノミクスで国民の集団的自衛権を取り付け、緊急事態条項を憲法に入れることによって憲法の構造を変えてしまうことによって、模倣が可能となる。われわれは、ドイツの歴史に学んでその轍を踏むことのないよう国民全体が賢くならねばならない。
「首相は先日、『批判を受ければ受けるほど闘志が湧いてくる』と発言していたが、私は『戦後レジームからの脱却』『憲法改正』という首相の発言を闘けば聞くほど、闘志が湧いてくる。」
よくぞ、言ってくれた。アベが改憲の闘志を湧かすなら、国民の側はそれにもまして改憲阻止の闘志を燃やそう。立憲主義、民主主義、平和主義、そして人権尊重の日本を創るために、アベとその取り巻きに負けない闘志を燃やし続けよう。
さて、闘志を燃やして、どう行動に移すか。投書子は、毎日新聞に投稿した。どんな場でも、黙っていないで「改憲阻止」「反アベ政治」を口に出そう。文章に綴ろう。果敢に人に伝えよう。集会にも足を運ぼう。そして、明日からは宜野湾市長選挙だ。八王子市長選もある。全国からの選挙支援の具体的方法はいくつもある。闘志さえあれば。
(2016年1月16日)
昨日(1月14日)の「浜の一揆訴訟」の第1回口頭弁論には、三陸沿岸に散らばっている原告100人のうち約40人が参加した。法廷の前と後に集会が行われたが、その要求の切実さ、真剣さにはたじろがざるを得ない。岩手県の水産行政は、この人々の真剣さをどれだけ受け止めているだろうか。
法廷では、原告を代表して瀧澤英喜さんが、以下のとおりの堂々の陳述をした。
「大船渡市三陸町越喜来の瀧澤英喜です。
私たち、岩手県沿岸全域の小型漁船漁業者は、東日本大震災の津波で船・漁具・住まいなど大きな被害を受けました。生活の再建と漁業の再開、地域の復興のために、日々努力しています。
私の自宅は海抜50mのところにあるので、震災で家屋敷は無事でした。しかし、船3艘と倉庫・養殖施設・資材が全部被害を受けました。
このような中でも船をつくり、漁具を入手して、漁を再開しています。今はホタテ養殖を通年、そして季節ごとのカゴ漁をやっています。私たちの仲間は、同じようにカゴ漁や刺し網などをやっています。春先はイサダ、5月はシラス、夏場はタコ、1月はタラ刺網など、季節ごとにとれるものが違います。
毎年苦労するのは9月から11月です。獲れる魚が激減する時期です。唯一たよりになるのがサケです。サケのように、値段がしっかりしていて、量もとれるものをやれれば、漁業者の意欲につながります。
ところが、岩手県では「定置網漁」「延縄漁」以外でサケをとることが許可されていません。
禁止される前は、県内でも多くの小型漁船漁業者がサケを刺網でとっていました。今でも、青森県・宮城県ではとっています。私も、すぐ近くが宮城県のため、宮城の漁師たちがサケを獲っているのをいつも目にしてきています。
刺網でのサケ漁が禁止になって4?5年は、延縄でサケをとる漁師がたくさんいました。当初はある程度の漁があったのですが、だんだん、とれる量が少なくなってしまいました。燃料代や労力を考えると、延縄でサケをとるのでは、経営的にあいません。現在は、県内では延縄でのサケ漁はほとんどありません。「刺し網でサケを獲れれば」という声は小型漁船漁業者にとって長年の悲願でした。
うっかり刺網でサケを捕獲すると「密漁」となり、県条例で「6ヶ月以下の懲役、若しくは10万円以下の罰金」に処せられます。漁業許可の取り消しから漁船・漁具の没収まで及ぶ制裁も用意されています。ですから、網にサケがかかれば、もったいなくても海に捨てなければなりません。捨てれば不法投棄となります。実質的に、ほかの魚種をねらった刺網漁もできません。宮城ではサケがとれれば大漁旗をたてて喜ぶのですが、岩手では、サケがとれれば泣く。こんな状況です。
特に東日本大震災以降、小型漁船漁業者にとって「船はできたが魚をとれない」という切実な問題となっています。
震災のあと、海の状況が変わってしまい、以前ほど魚がとれなくなっています。現状では、「赤字」か、「ギリギリ赤字にならない程度」の経営内容がほとんどです。それ以上の新しいことをやる資金がまったくありません。もしサケ刺網漁をやれれば、一定の収入が期待できます。その収入をもとに、別の魚種・漁法に手をつけることができます。
サケをとれれば、後継者が続けて行く展望も持てます。数少ない若手ががんばってやっていますが、このままでは、とても家族を養っていけません。後継者がいる家でも、家に置いて良かったのか、悩みながらやっているのが実際です。
沿岸の地域・経済を支えてきたのは漁業です。とりわけ小型漁船漁業者がいるからこそ、浜の環境・資源が守られます。被災地の復興は、小型漁船漁業の再生にかかっています。浜のことですから、大漁・不漁があるのは漁師も覚悟のうえです。しかし、漁をできないというのはあまりにもひどい。こんなのは岩手県だけです。県は「希望郷いわて」を掲げていますが、いまの岩手の浜には希望がありません。
豊かな漁業の再生と、希望ある未来のために、サケ刺網漁の許可を心から求めます。」
報告集会ではいくつもの印象的な発言があった。
「サケがとれるかどうかは死活問題だし、今のままでは後継者が育たない。どうして、行政はわれわれの声に耳を傾けてくれないのだろうか。」「昔はわれわれもサケを獲っていた。突然とれなくなったのは平成2年からだ。」「いまでも県境を越えた宮城の漁民が目の前で、固定式刺し網でサケを獲っているではないか。どうして岩手だけが定置網に独占させ、漁民が目の前のサケを捕れないのか」「大規模に定置網をやっているのは浜の有力者と漁協だ。有力者の定置網漁は論外として、漁協ならよいとはならない。」「定置網漁自営を始めたことも、稚魚の放流事業も、漁民全体の利益のためとして始められたはず。それが、漁協存続のための自営定置となり、放流事業となってしまっている。漁民の生活や後継者問題よりも漁協の存続が大事という発想が間違っていると思う」
私も、ときどきはものを考える。帰りの車内で、これはかなり根の深い問題なのではないかと思い至った。普遍性の高いイデオロギー論争のテーマと言ってよいのではなかろうか。
岩手県水産行政の一般漁民に対するサケ漁禁止の措置。岩手県側の言い分にまったく理のないはずはない。幕末の南部藩にも、天皇制政府にも、その政策には当然にそれなりの「理」があった。その「理」と、岩手県水産行政の「理」とどう違うのだろうか。
私は現在の県政の方針を、南部藩政の御触にたとえてきた。定めし、高札にこう書いてあるのだ。「今般領内沿岸のサケ漁の儀は、藩が格別に特許を与えた者以外には一律に禁止する」「これまで漁民でサケを獲って生計を立てる者があったと聞くが、今後漁民がサケを獲ることまかりならぬ」「密漁は厳しく詮議し、禁を犯したる者の漁船漁具を取り上げ、入牢6月を申しつくるものなり」
これに対する漁民の抵抗だから、「浜の一揆」なのだ。
しかし、当時の藩政も「理」のないお触れを出すはずはない。すべてのお触れにも高札にも、それなりの「理」はあったのだ。まずは「藩の利益=領民全体の利益」という「公益」論の「理」が考えられる。
漁民にサケを獲らせては、貴重なサケ資源が私益にむさぼられることになるのみ。サケは公が管理してこそ、領民全体が潤うことになる。サケ漁獲の利益が直接には漁民に配分されることにはならないが、藩が潤うことはやがて下々にトリクルダウンするのだ。年貢や賦役の軽減にもつながる。これこそ、ご政道の公平というものだ、という「理」である。
天皇制政府も、個人の私益を捨てて公益のために奉仕するよう説いた。その究極が、「命を捨てよ国のため、等しく神と祀られて、御代をぞ安く守るべき」という靖國の精神である。滅私奉公が美徳とされ、「君のため国のため」「お国のため」に個人の私益追求は悪徳とされた。個人にサケを獲らせるのではなく、公がサケ漁を独占することに違和感のない時代であった。
また、現況こそがあるべき秩序だという「理」があろう。「存在するものは合理的である」とは、常に聞かされてきたフレーズだ。現状がこうなっているのは、それなりの合理的な理由と必然性があってのこと。軽々に現状を変えるべきではない。これは、現状の政策の矛盾を見たくない、見ようともしない者の常套句だ。もちろん、現状で利益に与っている者にとっては、その「利」を「理」の形にカムフラージュしているだけのことではあるが。
藩政や明治憲法の時代とは違うという反論は、当然にありうる。一つは、漁協は民主的な漁民の自治組織なのだから漁協の漁獲独占には合理性がある、というもの。この論法、原告たちには鼻先であしらわれて、まったく通じない。よく考えると、この理屈、個人よりも家が大切。社員よりも会社が大事。住民よりも自治体が。国民よりも国家に価値あり。という論法と軌を一にするものではないか。個人の漁を漁協が取り上げ、漁協存続のためのサケ漁独占となっているのが現状なのだ。漁協栄えて漁民亡ぶの本末転倒の図なのである。
また、現状こそが民主的に構成された秩序なのだという「理」もあろう。まずは行政は地方自治制度のもと民意に支えられている。その民主的に選出された知事による行政、しかも民主的な議会によるチェックもなされている。その行政が決めたことである。なんの間違いがあろうか。そういう気分が、地元メデイアの中にもあるように見受けられる。そのような社会だから、漁民が苦労を強いられているに違いない。
(2016年1月15日)
審理の冒頭に、原告ら100名の訴訟代理人として、訴状の要旨を陳述し、若干の意見と要望を申し上げます。
1 本件は、三陸沿岸の漁民らが原告となって被告岩手県知事に対して、サケ採捕の許可を求める訴えです。
決して無制限にサケを採らせろと要求しているのではなく、それぞれの小型漁船一隻について年間10トンの漁獲量を上限と設定した許可を求め、これに対する不許可処分を不服としてその処分の取り消しと許可の義務付けとを求めているものです。
2 訴状をご覧いただければお分かりのとおり、本件の請求原因はきわめてシンプルなもので、第1から第4の4節で成り立っています。
そのうちの請求原因「第1 本件許可申請と不許可処分」は、提訴にいたる手続の経緯と、取消を求める対象の処分を特定する記載です。原告ら漁民がサケ採捕許可の申請をして申請が不許可となったこと。その不許可の理由が、「平成14年に本県が定めた固定式刺し網漁業の許可等の取扱方針」に該当しないからだというだけのことであること。そして、原告らは本件各処分に付記された不服申立方法の教示にしたがって農林水産大臣に対する審査請求をし、審査請求があった日の翌日から起算して3か月を経過して裁決がなかったこと。以上の各事実を主張し、これについて被告の争うところはありません。
3 請求原因「第2 原告らの本件各許可申請の正当性と切実性」は事情です。原告らの要求の正当性と切実性を知っていただくための叙述ですが、主要事実ではありません。
4 請求原因「第3 本件各処分の違法事由」で、本件各処分を違法とする根拠を述べています。違法事由には、手続的違法と実体的な違法との両者があります。
手続的違法とは、付記すべき理由記載の不備です。本件各処分に付記された不許可の理由は、まったく形式的なもので、しかも単なる根拠法規の摘記に過ぎません。これでは理由を付記したことになり得ません。
いったい何のために理由の付記が求められるのか。この点について、訴状で引用した2011年6月7日最高裁判決において、田原睦夫裁判官の詳細な補足意見が参考になります。同裁判官は通説的見解を次のように整理しています。
「? 不利益処分に理由付記を要するのは,処分庁の判断の慎重,合理性を担保して,その恣意を抑制するとともに,処分の理由を相手方に知らせることにより,相手方の不服申立てに便宜を与えることにある。その理由の記載を欠く場合には,実体法上その処分の適法性が肯定されると否とにかかわらず,当該処分自体が違法となり,原則としてその取消事由となる
? 理由付記の程度は,処分の性質,理由付記を命じた法律の趣旨・目的に照らして決せられる。
? 処分理由は,その記載自体から明らかでなければならず,単なる根拠法規の摘記は,理由記載に当たらない。
? 理由付記は,相手方に処分の理由を示すことにとどまらず,処分の公正さを担保するものであるから,相手方がその理由を推知できるか否かにかかわらず,第三者においてもその記載自体からその処分理由が明らかとなるものでなければならない。」
一見して明らかなとおり、本件各処分通知書(甲1・甲2)は、不許可の実質的理由を提示していません。要するに、「自分たちで許可しないことと決めたのだ」という形式的理由だけがあって、なぜそのように決めたのかという求められている理由については、まったく触れるところがないのです。
これでは、「処分庁の判断の慎重,合理性を担保して,その恣意を抑制する」ことにも、「処分の理由を相手方に知らせることにより,相手方の不服申立てに便宜を与えること」にも、「処分の公正さを担保する」ことにもならないではありませんか。また、「単なる根拠法規の摘記は,理由記載に当たらない。」という指摘を噛みしめなければなりません。被告答弁書の弁明にもかかわらず、理由付記不備の違法は明らかだと考えます。
5 さらに、実体的違法事由があります。
ここで指摘しておきたいのは、挙証責任の問題です。原告らは、岩手県漁業調整規則にもとづく県知事の許可申請をしています。この場合知事の許可の可否に関する規定は、同規則第23条1項です。
ここには、「知事は、次の各号のいずれかに該当する場合は、漁業の許可をしない」との文言になっています。このことは、「知事は、次の各号のいずれかに該当する場合以外には、漁業の許可をしなければならない」ことを意味します。限定列挙された不許可事由のない限り、許可決定が原則なのです。もとより「許可」は行政裁量には馴染まないのです。
限定列挙された不許可事由の中で、問題となり得るのは、第1項第3号「漁業調整又は水産資源の保護培養のため必要があると認める場合」のみです。
つまりは、「漁業調整又は水産資源の保護培養のため必要がある」場合についてだけ知事は適法な不許可処分ができることになります。「漁業調整又は水産資源の保護培養のため必要がある」ことは、飽くまで被告知事の側で主張挙証の責めを負うことになります。その立証に成功しなければ、被告の敗訴は免れないところなのです。
ですから、この訴訟において被告知事は、自らが行っている水産行政の妥当性、合理性、合法性を堂々と主張しなければなりません。なぜ、原告ら漁民に固定式刺し網漁でのサケの採捕を禁じているのか。限りあるサケ資源を大規模な定置網漁の事業者だけに独占させて、零細漁民には配分しようとはしないのか。そのことについての行政としての説明責任を果たさなければなりません。答弁書を見る限り、そのような姿勢がまったくみられないことを残念というほかはありません。
6 原告に挙証責任のあることではありませんが、本件において「漁業調整の必要」が許可障害事由になるとは到底考えられないところです。
有限な水産資源利用における漁業者間の利益配分の合理的な調整とは、「漁業の民主化を図ることを目的とする」という漁業法第1条の目的規定に則って理解されなければなりません。大規模定置網事業者の利益を擁護するために零細な一般漁民のサケ漁を禁止することが、法が想定する「漁業調整」に該当するはずはないのです。
また、「水産資源の保護培養」の必要も許可障害事由とはなりえません。本件申請を許可することが、サケ資源の枯渇を生じたり、サケの保護培養に支障をきたすことはおよそ考えられないのです。原告らは自主的に自らの漁獲量の上限を設定しての許可を求めています。後継者を確保し漁業の持続性を最も切実に望んでいるのが、ほかならぬ原告らであることをお考えください。
7 そして、請求原因「第4 処分を義務づける理由」は、処分取消の請求原因として主張したことがそのまま、許可義務づけの根拠となるものです。むしろ、本件申請を許可することが積極的に漁業法ならびに岩手県漁業調整規則の理念に合致するものというべきだと確信するものです。
貴裁判所には、以上の理念と法の枠組みに留意のうえ、本件の審理を進行していただくようお願いいたします。
(2016年1月14日)
この正月、あなたは初詣に出かけただろうか。そして、神社にお賽銭を上げてはいないか。本来賽銭とは「祈願成就の際にお礼の意をもって神に奉る金銭のうち少額のもの」(「神道の基礎知識と基礎問題」小野祖教)なのだそうだ。つまりは、神と参拝者との間の「祈願契約」関係においては、神の側に祈願成就の先履行義務があり、賽銭奉納はあと払いという考え方。しかし、今日の善男善女はそうは考えていない。祈願成就には、先払いでお賽銭の奉納が必要というのが常識的感覚だろう。
だからあなたは神社に詣でて、家内安全・無病息災・就活成功・リストラ回避・国際平和・野党協力・アベ政権打倒・改憲阻止等々を祈願して、願いごとの成就を待たずにその場で、先払いのお賽銭を神に捧げたのだと思う。ところが、あなたは神に捧げたつもりでも、神に金銭を受領する能力はない。もちろん、その金銭を使う能力もない。では、あなたの捧げたお賽銭は、誰がどのように使うことになるのか。外からは見えないが、そのうちの幾分かは確実に憲法改正運動の資金にまわったと推察される。アベ・ビリケン(非立憲)政治の存続につながる運動の支援に使われるのだ。決して、改憲阻止のための資金にはまわらないことを心得ねばならない。
神社新報の年頭論説を同紙のホームページで読むことができる。
http://www.jinja.co.jp/news/news_008544.html
これをお読みいただけば、多くの人の神社や神社本庁、そして神職神官に対するイメージが大きく変容することと思う。もしかしたら、神や神道そのものに対しても見方が変わるかも知れない。神社とは、宗教団体であるよりは政治団体なのだ。少なくとも、偏頗なイデオロギー集団である。こんなところに、初詣だの七五三だの、お参りはよしたがよい。お賽銭など決してくれてやってはならないと思う。
神社新報は、もともとが神社本庁の機関紙として発足したもの。そのホームページでは、「本紙が、神社本庁の機関紙でありながら、別の組織として存在することの意義について、…全国の神社関係者は改めて本庁設立当時に立ち返り、思ひを致すべきであらう。」という。「日本の神社人神道人たるの自覚」を訴えるその意義は、部外者にはよく分からないが、神社新報が神社本庁の機関紙ないし広報紙であることだけはよく分かる。
その神社新報年頭論説(2016年1月11日付)には、神社本庁の「国際情勢認識」と「国内政治状況認識」そして、「政治方針」が述べられている。原文に小見出しはないが、私が小見出しを付けて抜粋してみる。
「国際情勢認識ー世界は物騒で不安定だ」
広く世界に目を向ければ、これまでの既存の国際秩序を覆し、新たな勢力配分を要求して世界の平和と安定を脅かす国や出来事が後を絶たない。このやうな物騒で不安定な国際状況の下では、いづれの国も身構へざるを得なくなる。
ロシアは一昨年、ウクライナのクリミアを強引に併合した。EU諸国とは人と経済の面で制裁戦が続いてをり、日本もこれに関はってゐる。また共産党支配の中国の勢力拡大は、アジア共通の脅威だ。有無を言はさず南沙諸島を自国のものとして軍事拠点化し、その勢ひは東シナ海にも及び、わが国の海上輸送路を脅かしつつある。
中東では、過激派組織ISがイラクとシリアにまたがる地域を支配し、仏露英米などと戦争状態が継続。世界各地で無差別テロを引き起こし、日本もその標的とされてゐる。
そのシリアでは百万人を超える難民が発生してをり、受け入れが大きな問題となってゐる。かうした世界の変動と不安定化は、軍事超大国の米国が「世界の警察官」としての役割否定を宣言したことから始まってゐるのである。
「国内政治状況認識ーまともな安倍内閣、非常識な民主党・共産党」
国際社会では、力の強弱のバランスが崩れたとき、平和も崩れるといふのが常識だ。昨年、安倍内閣が一連の平和安全法制を構築し、日米安保の協力深化によってわが国の生存と安全をより確かなものにしようとしたのも、かういった国際情勢を見据ゑてのことだ。「戦争法」反対などと叫び、いまだに憲法違反を口実に廃棄を目指すなどと主張してゐる民主党や共産党は、もっとまともな国際常識に基づき変動する世界の厳しい現実を直視すべきではないか。
「政治方針ー悲願の憲法改正実現のために安倍自民党の大躍進を」
今夏の参院選がこれからのわが国の進路を決定づける極めて大事なものとなる。それは我々の目指す憲法改正の条項や内容が、どの程度まで実現可能となるのかにも繋がってくるからである。憲法改正の早期実現のためには、何としても安倍首相の自民党に大躍進を果たしてもらひ、他の改憲指向政党とあはせて三分の二の議席に少しでも近づける努力をしてもらはねばならない。
また次の参院選からは、改憲に際しての国民投票と同様に、十八歳からの若い人たちが投票に参加する。この若者たちに政治に関心を向けさせ、憲法改正の必要性と大事さを分かり易く説いて導く工夫も重要だ。我々は昨年十一月の武道館での一万人大会の成功で弾みをつけた憲法改正の国民運動を引き続き強化拡大し、所期の目標達成に全力を注がねばならない。
これはまともな宗教団体の年頭の辞ではない。極右政党か右翼団体、あるいはアベ自民党下部組織の言ではないか。私は、国家神道とは、天皇制と神道との人為的結合システムだと理解してきた。明治政府によって、神道が利用されたという図式を考えていたのだ。だから、天皇制との関係を遮断すれば、神道は純粋な宗教に戻るのではないかと考えてきた。
だが、どうやらそれは間違っているようだ。神社本庁に参集する8万と言われる全国の神社と神職たちは、根っからの国粋主義者の如くである。アベ政治とまことにウマが合うようなのだ。やや大人げない気もするが、こんな神社への参拝はやめよう、縁起物を買ったり、賽銭を上げるなど金輪際すべきではない。憲法を大切に思う立場からは。
(2016年1月13日)
刈部直の「丸山眞男?リベラリストの肖像」(岩波新書)は丸山眞男が論じたところをコンパクトに紹介している。多くの人にとって、直接に丸山の著作の一部を読むよりは、刈部の新書を読む方が、丸山をはるかによく理解できるのではないだろうか。その丸山眞男論は多様な問題点を投げかけているが、そのなかの一つとして、「個人を根本から支え勇気の源泉となる思想」という問題提起がある。
「ノンポリ」学生だった丸山眞男だが、治安維持法違反容疑で特高警察に捉えられ、元富士署で尋問を受けた経験をもつ。1933年4月旧制高校3年生の時のこと。1か月前に多喜二が虐殺されている、その時代のことだ。丸山だけでなく、クラス40人のうち8人が在学中の逮捕を経験しているという。
丸山は、このとき「俺はだらしない人間だ。いざとなると、平常、読書力などを誇っていたのが、ちっとも自分の支えになっていない」と、大きな挫折感を覚えたことを回想している。大した考えもなく講演会に足を運び、うかつにも逮捕されてしまうことで、国家権力の発する暴力を、突然に体感することになった。留置場で涙を流してしまったことは、そうしたこれまでの自分が、実は浮薄きわまりない、たしかな核を欠いた人間であることを、重く自覚させたのである。その思いは、「本物」の思想犯でありながら、むしろそうであるがゆえ同じ房内で毅然としていた戸谷敏之(一中・一高で一級上の学生、放校となる)に涙を見られた、恥の感覚とも重なっていた。権力による弾圧という運命に屈し、不安に怯えてしまう自分が、ここにいる。これに対して、外からどのような苦難にさらされようとも、誇りを保ち平然としていられる主体性を、どうすれば心の内に確立できるのか。これを意識しはじめたのが、十九歳の青年丸山における、自我の目ざめと言ってもよいだろう。
この点で丸山に手本となる感銘を与えたのが、マルクス主義者ではなく、自由主義者・河合栄治郎と、ドイツ社会民主党のオットー・ウェルスであったというのが興味深い。
丸山は(旧制)大学一、二年と河合栄治郎の講義を聴き、経済学部の親睦組織「経友会」が開いた「自由主義批判講演会」での討論で、河合が左右からのリベラリズム批判の論客に対して、毅然と応戦する姿を目にしている。そして、総合雑誌にファシズム批判を書き続け、二・二六事件に際しても、『帝国大学新聞』と『中央公論』に論説をよせ、「ファッシスト青年将校」たちを放置してきた軍部当局の責任をきびしく追及した河合について、その評価を百八十度変えることになった。丸山は、西欧近代のリベラリズムが唱えてきた、自由や人権の理念への強い帰依が、個人を根本から支え、どんな圧力にも屈しない勇気を与える例に接し、深い感銘をうけていたのである。
一九三三年三月、ドイツの帝国議会で、首相アドルフ・ヒトラーに立法の大権を譲りわたす全権委任法が審議されていた。これに対して、議事堂の外も傍聴席も、ナチ党員がとりまき、罵声がとびかう中で、社会民主党の議員、オットー・ウェルスが、青ざめながら敢然と異を唱えたのである。その演説を、丸山は大学時代にドイツ語の原文で読み、のちまでその言葉を記億に刻みつけることになる。
丸山の座談会における回想が紹介されている。
「『この歴史的瞬間において、私は自由と平和と正義の理念への帰依を告白する』。『いかなる授権法もこの永遠にして不壊なる理念を破壊することはできない……』。そのあとに、『全国で迫害されている勇敢な同志に挨拶を送る』云々とつづくんです。』ここで彼(ウェルス)はいかなる歴史的現実も永遠不壊の理念を破壊しえない、という信仰告白をしている。この瞬間での自由と社会主義への帰依は、歴史的現実へのもたれかかりからは絶対に出てこないし、学問的結論でもない。ギリギリのところでは「原理」というのはそういうものでしょう。」
国家権力が極大化し、抵抗者が暴力によって抹殺されてゆく危機にあって、あえてその理念が「永遠にして不壊」であることを強調し、それに対する帰依を宣言しながら、世の大勢に抗したのである。この演説を読んでいらい、「歴史をこえた何ものかへの帰依なしに、個人が「周囲」の動向に抗して立ちつづけられるだろうか」という問題が、頭を離れなくなったという。この回想の言葉は、丸山自身の信仰告白でもあろう。
時代の変化はあるにしても、人聞が人間として、社会を営もうとするかぎり、決して失なってはならない原理。そうした理念への帰依こそが、個人が「歴史的現実」に対して、一人で抗してゆく強靭さをもたらすのである。…そうした問題関心はむしろ、ウェルスの演説にふれることで、はっきりと抱かれるようになったのではないか。
河合栄治郎に関して、「自由や人権の理念への強い帰依が、個人を根本から支え、どんな圧力にも屈しない勇気を与える例」とし、ウェルスについては、「自由と平和と正義」を「永遠不壊の理念」あるいは「決して失なってはならない原理」として、それへの帰依が語られている。
おそらく日本国憲法は、そのような「永遠不壊の理念」を内包しているものと読み取るべきであろう。日本国憲法を学ぶとは、そのような「永遠不壊の理念」を血肉化することなのだ。
(2016年1月12日)