私が、アベです。「アベ政治を許さない」って、全国津々浦々に回状をまわされている、お尋ね者同然の、あのアベ。
参院選が近くなったのに、最近何もかもうまく行かない。手詰まり状態でね。出るのは愚痴と溜息ばかり。ホントにどうしちゃったんだろう。唯一の慰めは、ダブル選挙をやろうとして思いとどまったこと。こんな状態で総選挙も一緒にやっていれば、オウンゴールで地獄に落ちかねないところだった。その点は不幸中の幸い。まあ、致命傷にはならなさそうだ。
見え透いているって評判は悪いけど、今度の選挙は「経済政策を問う選挙」「道半ばのアベノミクスへの支持を求める選挙」と訴えている。「憲法改正の是非を問う選挙」とも、「改憲発議の議席を求める選挙」とも言ってない。それなのに、「アベの本心は改憲だ」「与党に議席を与えたら平和憲法が危うくなる」って大合唱だ。それがまんざら嘘でもなく、当たっているから始末に悪い。
一番心配なのは、アベノミクスの評判が悪いこと。そりゃそうだろう。もう、3年半にもなるんだ。ダマシダマシひっぱって時間を稼いできたけど、ボロ隠しもそろそろ限界だろう。選挙直前の世論調査で、軒並みアベノミクスの評判が悪い。「アホノミクス」とか、アベノ「ミス」クとか、うまいこと言うもんだと私が感心していてはしょうがない。
毎日新聞が、今日(6月20日)の朝刊で、最新の全国世論調査の結果を発表している。安倍内閣の支持率は5月の前回調査から7ポイント減の42%、不支持率は6ポイント増の39%。まあ、この程度は想定内だ。ところが、安倍政権の経済政策「アベノミクス」を「見直すべきだ」という回答が61%で、「さらに進めるべきだ」の23%を大きく上回っている。これはショックじゃないか。経済政策選択選挙とこちらが設定した土俵で勝ち目がないことになるんだから。
さらに、問題は地方だ。今朝(6月20日)発表の福島民報と福島テレビの県内世論調査の結果では、「安倍晋三首相が進める経済政策「アベノミクス」について「評価しない」は51.2%となった一方、「評価する」は19.7%で全体の2割弱だった。」。しかも、「安倍内閣支持」は34.6%で、「支持しない」は47.2%という恐るべき数字。おいおい、これでは参院選挙は惨敗ではないか。
実際、最近手詰まりでうまく行かない。基本は、私が信奉する大国主義・軍国主義・新自由主義の改憲路線が、国民の意識と大きく乖離しているということなんだ。国民は、右翼の軍国主義者はキライなの。そのことは、前から分かっているんだけど、これまではなんとか右へ右へと国民をひっぱってくるのに成功してきた。もう少しで、憲法改正まで漕ぎつけることもできそうだったのに。どうすれば国民を欺しおおせるか。私だって真剣に考えているんだ。
こういうときは、アタマを切り替える。経済政策がうまく行かないのも、貧困や格差も、地方の疲弊も、原発再稼働も、沖縄問題も、福祉や教育の財源を調達できないこともTPPも、そして政治とカネの問題も、すべてはアベ政権の政策が悪いからではない、と割り切ること。責任転嫁は私の得意技だ。
経済の指標って、どうにでもいじって操作することができるんだよね。これがダマシのテクニック。手品のタネ。ちょっとでもよい面があれば、針小棒大にアベノミクスの成果だと言い立てる。それでもごまかせないときは、「民主党政権時代の負の遺産が、まだ払拭できていない」と民主党のせいにする。あるいは、「リーマン級の世界経済のデプレッションが原因」と責任転嫁する。これまでは、こうやつて切り抜けてきた。
でも、今一番頭が痛いのは、野党の選挙共闘。しかも、市民の後押しがついている。これには、これまでのマニュアルでは対応しかねる。実にやっかいだ。こいつが悩みの根源だ。
私が政治戦術において師と仰ぐのは、もちろんヒトラーさ。あの戦術を学ぶべきだとするのは、ひとり麻生さんだけではない。ヒトラーの戦術の成功は、例のニーメラーの言葉として定式化されているように思う。要するに各個撃破だ。ユダヤ人、共産主義者、社会民主主義者、労働運動、自由主義者、宗教家…。それぞれが、順次各個に撃破されて、ナチスの独裁が完成した。宗教弾圧を受けた牧師ニーメラーが自分のこととして立ち上がったときには、時既に遅しだったというわけだ。実に、各個撃破こそが、歴史から学ぶべき見事な教訓。これをわがこととして使いこなさなければならない。
ところが今、市民と野党が共同して政権に襲いかかっている。共産主義者も、社会民主主義者も、労働運動も、自由主義者も、宗教家もだ。女性運動も、若者も、学者も弁護士もではないか。表にには出て来ないが、在日もだろう。みんな一緒に束になってのことだ。各個撃破戦術が通じなければ、アベ政権の危機と言わざるを得ない。冷や汗が出て来る。こんなときには、基本に還ろう。彼らの共闘をぶちこわすための基本だ。そのキホンのキが、いうまでもなく反共攻撃。実はこれも、私の得意技。
基本原理は、ヘイトスピーチとおんなじだね。「キョーサントー」と「ニッキョーソ」という言葉を、いかにも醜悪なもののように繰り返す。「野党の共通政策は、まるでキョーサントーの政策そのものではありませんか」「まさか、そこまでキョーサントーと一緒に行動できるはずはない」「どこまで、キョーサントーと運命共同体になろうと言うのでしょうか」「あなたもキョーサントーですか」「どうした。ニッキョーソ、ニッキョーソ」
キョーサントーとは、悪魔の教えの信奉者ではありませんか。世の中には、まだまだキョーサントーとレッテルを貼られることを恐れる人たちがいる。それなら、そのことを最大限に利用するのが、政治家である私のやり方。共産主義が何であるか、日本共産党がどんな綱領や政策をもっているか、そんなことは問題ではありません。キョーサントーとレッテルを貼られてもいいのかい、という脅しの楔の打ち込み方。これが、「野合批判」の本質。
私には、臨機応変という才覚はない。だからもっぱら、ワンパターンの反共演説となる。動画で繰り返されるから、ワンパターンがみっともないと言われるが、しょうがない。
最近のワンパターンは、「私は子供の時、お母さんからあまり他人の悪口を言ってはいけない。こう言われました。あまり野党のことを批判したくありませんが、分かりやすくするために少し批判させてください」と野合批判をする。「気をつけよう、甘い言葉と民進党」「民進党には、もれなく共産党がついてくる」を、繰り返す。
あの口の悪い日刊ゲンダイが、「口撃するほど票が逃げる 安倍首相の“反共”ネガキャン演説」と大きく報じている。「立法府の長である総理大臣」を夕刊紙が批判するなんて、民主主義の世の中で許されることなのだろうか。しかも、こんなにあくどい筆致。
「安倍首相が参院選の全国遊説で「野合批判」を強めている。とりわけ目立つのは共産党に対する“口撃”だ。安倍首相は国会質疑でいつも共産議員にコテンパンにやり込められている。だから「共産憎し」に力が入るのだろう。」「また共産批判だよ。ウンザリだね」「安倍首相の演説パターンはこうだ。最初に候補者を紹介した後、アベノミクスの“果実”とかいうインチキ数字を並べ立て、最後は野合批判で締めくくる。決まって批判の矛先は共産だ。」ああ、本当のところまったくそのとおり。やっぱりよく見られているんだな。
問題は、有権者の中に戦前からある「天子様に楯突く不敬・不届きな共産党」のイメージがどのくらい残っているのか。共産党員に対する差別意識に乗りかかることが吉と出るか、凶と出るか。実は、私にも確信はない。
日刊ゲンダイは、「安倍首相の頭の中には、一昔前の有権者の共産アレルギーの印象が強く残っているのだろう。それで調子に乗ってネガキャン“口撃”を続けているワケだが、効果は全く期待できない。」「有権者はちゃんと理解していますよ。若い世代なんて、アレルギーどころかシンパシーを感じている人の方が多いくらいです(野党クラブ担当記者)」などと言っているが、じゃあ、反共攻撃以外になにか効果のあるやり方があるかね。
私の反共ワンパターン。品がない。低次元の誹謗中傷。まともな政策論争になっていない。悪評は知っているよ。でも、志位さんだって相当なものだ。産経新聞が紹介する志位演説の最後はこうだよ。
「自公とその補完勢力を少数に追い込めば、参院選であっても安倍政権は総辞職になる。もうあの顔を見なくてもよくなる」と締めくくった。
「もうあの顔を見なくてもよくなる」って。こっちだって、「もうあの顔は見たくない」ね。
(2016年6月20日)
本日(6月19日)那覇で、米軍属(元海兵隊員)女性暴行殺人事件に抗議する県民大集会が開催された。集会名は、「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾! 被害者を追悼し、沖縄から海兵隊の撤退を求める県民大会」(主催・辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議)。参加者数は6万5千人。県民の怒りと悲しみの思いの強さを示すこの集会。集会参加者の訴えは直接には日米両政府に向けられた形だが、本土の私たちにも鋭く「沖縄をこのままにしておいてよいのか」と問いかけている。
1995年の複数米兵による少女暴行事件を受けて開かれた県民総決起大会は、8万5千人規模の大集会だった。今回は、自民・公明・おおさか維新の3党は参加していない。その意味では、文字通りの「オール沖縄」の集会とは言えないかも知れない。
しかし、今圧倒的な県民世論は、仲井眞前知事の辺野古埋立承認に怒り、翁長県政を支えて政府と対峙している。県議選では、自民・公明・維新の3党を相手に翁長県政支持を確認した。そして、いよいよ参議院選挙の闘いが間近だ。自・公・維まで参加の「オール沖縄」では闘う相手方を見失わせることになるのではないか。
政府与党の下部組織であり、改憲勢力でもある自・公と、それに擦り寄る維新の大会不参加は、自らの孤立化を際立たせたもの。この3党不参加での、6万5千人の集会規模は、あらためて大きな意味のあるものと思う。
集会では、被害女性の死を悼んで黙祷のあと、被害女性の父親が寄せたメッセージが読み上げられた。
「米軍人、軍属による事件・事故が多い中、私の娘も被害者の一人となりました。次の被害者を出さないためにも、全基地撤去、辺野古新基地建設に反対。県民が一つになれば可能だと思っています」
あいさつに立った翁長知事は「(95年の大会の際に)二度と繰り返さないと誓いながら、政治の仕組みを変えることができなかった。知事として痛恨の極みであり、大変申し訳ない」と述べた、と報じられている。
若者たちも登壇し、「米軍基地を取り除くことでしか問題は解決しない」などと主張した。最後に採択された大会決議は、繰り返される米軍関係の犯罪や事故に対する県民の怒りと悲しみは限界を超えていると指摘。日米両政府が事件のたびに繰り返す「綱紀粛正」「再発防止」には実効性がないと反発し、県民の人権と命を守るためには、在沖海兵隊の撤退のほか、県内移設によらない米軍普天間飛行場の閉鎖・撤去、遺族らへの謝罪や補償、日米地位協定の抜本的改定、を求める決議が採択された。
先に(5月26日)、県議会でも「在沖海兵隊の撤退を求める抗議決議」が「全会一致」で可決された際にも、自民党議員は議場から退席して採決に加わらなかった。今回の県民集会でも同じことが繰り返されたことになり、自・公はさらに孤立と矛盾を深めたといえよう。
沖縄の怒りと悲しみが渦巻く大集会が行われている頃、東京で「思想史の会」というグループの研究会が開かれ、誘われて参加した。
報告は次のタイトルの2題。
「明仁天皇と昭和天皇」
「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」
各1時間余の報告のあとに、原武史放送大学教授のコメントがあって、質疑と意見交換があった。
最初の報告の中で、昭和天皇(裕仁)の日本国憲法や(旧)安保条約制定過程への積極関与の経過が語られ、とりわけ昭和天皇の超憲法的行動として「沖縄メッセージ」が次のように紹介された。
☆昭和天皇は新憲法施行後も、閣僚の上奏など非公開の場では政治的発言を続けてきた。いくつかの例を挙げれば…。
・1947年5月、マッカーサーとの第4回会見。「日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表であるアメリカが、そのイニシアティブを執ることを要する」。
・1947年7月、芦田均外相に、「日本としては結局アメリカと同調すべきで、ソ連との協力は難しい」
・1948年3月、芦田首相に、「共産党に対しては何とか手を打つことが必要と思うが」
☆時には、政府を介さずにアメリカにメッセージを送ることも。1947年9月にはGHQの政治顧問に対し、共産主義の脅威とそれに連動する国内勢力が事変を起こす危険に備え、アメリカが沖縄・琉球列島の軍事占領を続けることを希望する。それも、25年や50年、あるいはもっと長期にわたって祖借するという形がよいのではないか、と申し入れた。
私見だが、当時の天皇(裕仁)には、既に施行(47年5月)されていた新憲法に従わねばならないという規範意識は希薄で、皇統と皇位の維持しか脳裏になかった。そのために、言わば保身を動機として、沖縄を売り渡すという身勝手なことを敢えてしたのだ。その裕仁の保身が、69年後の今日の沖縄県民の大集会につながっている。
おそらくは、そのような負い目からだろう。昭和天皇(裕仁)は、戦後各地を巡幸したが沖縄だけには足を運ばなかった。「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」のレポートで、彼の「思はざる病となりぬ沖縄をたずねて果たさんつとめありしを」(1987年)という歌があることを知った。気にはしていたのだ。
父に代わって、現天皇(明仁)は妻を伴って、皇太子時代に5回、天皇となってから5回、計10回の沖縄訪問をして、その都度歌を詠み、琉歌までものしている。多くは沖縄戦の鎮魂の歌であり、それ以外は沖縄の自然や固有の風物・文化にかかわるもの。主題は限定され、現在も続く実質的な異民族支配や基地にあえぐ現実の沖縄が詠まれることはない。
この天皇の沖縄へのメッセージを在沖の歌人たちはどう受け止めたか。報告者は11首の歌を披露している。たとえば、次のような激しさの歌。
・日本人(きみ)たちの祈りは要らない君たちは沖縄(ここ)へは来るな日本(そこ)で祈りなさい(中里幸伸)
・戦争の責めただされず裕仁の長き昭和もついに終わりぬ(神里義弘)
・おのが視野のアジア昏れゆき南海に没せし父よ撃て天皇を(新城貞夫)
今日6月19日県民大集会も、根底に、沖縄の人びとのこの激しい憤りと悲しみがあってのこと。かつては天皇の国に支配され、天皇への忠誠故に鉄の嵐の悲惨に遭遇し、そして天皇によって米国に売り渡され、異民族支配が今も続く沖縄。
傍観者としてではなく、今日の集会の人びとの怒りを受け止めねばならないと思う。
(2016年6月19日)
辺野古新基地建設に関しての沖縄県と国との紛争。3月4日における訴訟上の「(暫定)和解」に続く法的手続として注目されていた、「国地方係争処理委員会」の審査申立事件において、昨日(6月17日)予想外の結論が出た。
「アメリカ軍普天間基地の移設計画を巡って、国と地方の争いを調停する『国地方係争処理委員会』は、名護市辺野古沖の埋め立て承認の取り消しを撤回するよう、国が出した是正の指示について、違法かどうか判断しないとする結論をまとめました。」(NHK)というのだ。
辺野古・大浦湾の埋立承認問題で、沖縄県と国とが鋭く対立する以前には、一般には、ほとんど知られた存在ではなかった国地方係争処理委員会(委員長・小早川光郎成蹊大学法科大学院教授、外4名)。地方自治法250条の7第1項「総務省に、国地方係争処理委員会を置く」にもとづいて設けられている。その権限は、同条2項で「委員会は、普通地方公共団体に対する国又は都道府県の関与のうち国の行政機関が行うものに関する審査の申出につき、この法律の規定によりその権限に属させられた事項を処理する。」とある。
具体的に、委員会は何をどのように処理することができるか。
法250条の13は、(自治体から国に対して、国の関与に関する審査の申出)ができるとしている。
「250条の13第1項 普通地方公共団体の長その他の執行機関は、その担任する事務に関する国の関与のうち是正の要求、許可の拒否その他の処分その他公権力の行使に当たるものに不服があるときは、委員会に対し、当該国の関与を行つた国の行政庁を相手方として、文書で、審査の申出をすることができる。」
沖縄県知事(翁長雄志)は、この規定に基づいて、国の行政庁(国土交通大臣)を相手方とする審査申し出をして受理された。3月14日のことである。
沖縄県からの「審査申出の趣旨」は、以下のとおりである。
「相手方国土交通大臣が沖縄県に対して平成28年3月16日付国水政第102号「公有水面埋立法に基づく埋立承認の取消処分の取消しについて(指示)」をもって行った地方自治法第245条の7第1項に基づく是正の指示について、相手方国土交通大臣はこれを取り消すべきである
との勧告を求める。」
経過を把握していなければ、一読しての理解は困難ではなかろうか。理解のために言葉を補えば、こんなところだろうか。
「平成28年3月16日付国水政第102号」という日付と文書のナンバリングで特定された、「国土交通大臣が沖縄県に対してした是正指示」を取り消すように、委員会から大臣に勧告してもらいたい、というのが骨格である。
その〈国から県への是正指示〉の内容とは、『公有水面埋立法に基づく(仲井眞前知事がした国への)埋立承認について、(翁長現知事がした埋立承認の)取消処分について、これを取消すようにという(国土交通大臣の県に対する)指示』である。この是正の指示について、相手方国土交通大臣はこれを取り消すべきであるという、係争委の勧告を求めている。
なお、申立年月日よりも、是正指示の日付があとになっているのは、当初は3月7日付で出された是正指示だったが、理由の付記がないと不備を指摘されて国土交通大臣が指示を出し直したからである。
この件での相手方国土交通大臣の答弁書における、申出の趣旨に対する答弁は以下のとおりとなっている。
「相手方(国土交通大臣)の審査申出人(沖縄県知事)に対する平成28年3月16日付けの是正の指示(以下「本件指示」という。)が違法でないとの判断を求める。」
本件指示をめぐって、沖縄県側は「違法な指示として、国はこれを取り消すべきである」との判断を、国側は「違法でない」との判断を、各々が求めた。そして、審理期間の90日が経過して審査を終えた。
審査の結果としての判断の示し方は、法250条の14第1項に次のように定められている。
「委員会は、自治事務に関する国の関与について前条第一項の規定による審査の申出があつた場合においては、審査を行い、
相手方である国の行政庁の行つた国の関与が違法でなく、かつ、普通地方公共団体の自主性及び自立性を尊重する観点から不当でないと認めるときは、理由を付してその旨を当該審査の申出をした普通地方公共団体の長その他の執行機関及び当該国の行政庁に通知するとともに、これを公表し、
当該国の行政庁の行つた国の関与が違法又は普通地方公共団体の自主性及び自立性を尊重する観点から不当であると認めるときは、当該国の行政庁に対し、理由を付し、かつ、期間を示して、必要な措置を講ずべきことを勧告するとともに、当該勧告の内容を当該普通地方公共団体の長その他の執行機関に通知し、かつ、これを公表しなければならない。」
つまり、
本件指示が違法でも不当でもない場合には、その旨を通知し公表し、
本件指示が違法あるいは不当な場合は、必要な勧告をする、
というのだ。違法・不当について判断しないという選択肢は、明記されていない。
にもかかわらず、委員会は、敢えて「本件指示の違法・不当について判断しない」とする結論を出した。この点について、NHKはこう報じている。
「委員会はこの申し出について協議した結果、『国と沖縄県との間で共通の基盤づくりが不十分な状態のもと、委員会として国の是正指示が違法かどうか判断することは、国と地方とのあるべき関係からみて望ましくない』などとして、違法かどうか判断しないとする結論をまとめました。
そのうえで委員会として『国と沖縄県は、普天間飛行場の返還という共通の目標の実現に向けて真摯に協議し、双方がそれぞれ納得できる結果を導き出す努力をすることが問題の解決に向けて最善の道だという見解に達した』としています。
小早川光郎委員長は、記者会見で『国地方係争処理委員会の制度は、国の関与の適否を委員が判断して当事者に伝えることで、国と地方の対立を適正に解決するという趣旨の制度だ。今回のケースでは、そうした対応をしても、決して両当事者にとってプラスになるわけではない。法律の規定に明文化されていない答えを出すときに、それしか有益な対応がありえない場合は、非常に例外的な措置だが、法解釈上はあるのだろうと考えて、きょうのような決定をした』と述べました。」
この結論を受けての国側の対応は、居丈高だ。
「中谷防衛大臣は、防衛省で記者団に対し『国による是正の指示が違法だとは認めなかったので、是正の指示は有効だ。仮に沖縄県が結論に不服があれば、和解条項に基づき、1週間以内に是正の指示の取り消し訴訟を提起することになると承知している』と述べました。そのうえで、中谷大臣は『日米同盟の抑止力維持と普天間飛行場の危険性の除去を考えれば、名護市辺野古への移設が唯一の解決策だ。国と沖縄県は和解条項に従って協議を行うことになるので、常に誠意を持って、政府の取り組みについてご理解いただけるよう努力していく』と述べました。」(NHK)
国側は、「本件指示が違法でないとの判断を求め」たにも拘わらずそのような判断は得られなかったのだ。「違法だという県側の主張は認められなかった」のだから、「県側で、取り消し訴訟を提起すべきだ」というのは、一般論としては間違いでないとしても、この局面では苦しい言い分。飽くまで一方的な主張に過ぎない。
注目されていた沖縄県側の対応は、本日(18日)次のように報じられている。
「米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の同県名護市辺野古への移設問題で、翁長雄志知事は18日、国の第三者機関『国地方係争処理委員会』が17日に示した審査結果を不服とせず、提訴しない考えを示した。翁長知事は『委員会の判断を尊重し、問題解決に向けた実質的な協議をすることを期待する』と会見で述べた。」(朝日)
係争委は、消極的に本件指示の違法性を判断しないというだけでなく、より積極的に「普天間飛行場の返還という共通の目標の実現に向けて双方が真摯に協議を尽くすべき」だとしているのだから、県の対応に理があるというべきだろう。
なお、本日の赤旗に次の報道がある。
「決定文では、今回の法的争いの本質が辺野古新基地建設という「施策の是非」をめぐる両者の対立に端を発したものであり、『議論を深める共通の基盤づくりが不十分な状態のまま、一連の手続きが行われてきたことが、紛争の本質的な要因だ』と指摘。現在の状態を『国と地方のあるべき関係から乖離している』と断じ、『このままであれば、紛争は今後も継続する可能性が高い』と警告しました。」
係争委はなかなか味なことをした、というのが私の感想。大岡裁きの味、である。第三者委員会とは言いながらも、国に不利な結論は出しがたい。さりとて、法理や世論を無視することもできない。違法・不当についての判断を控えて、真摯な協議を尽くせというのは、ぎりぎり可能な良心的対応というべきではないか。これが情に適った大人の智恵としての判断なのかも知れない。
協議に期限は付されていない。国と県との真摯な協議が続く限り、埋立工事の再開はできない。話し合いの落ち着きどころは、世論の動向次第だ。明日(6月19日)は、「オール沖縄会議」が主催する元米海兵隊員の女性暴行殺害事件に抗議する「県民大集会」が開催される。そして、間もなく参院選となる。その結果が、大きく協議の成りゆきに影響することになるだろう。意外に、この大岡裁きが、沖縄にとって有益にはたらくことになるのではなかろうか。
(2016年6月18日)
先日(6月12日)明治大学で行われた「圧殺の海 第2章 『辺野古』」の試写会で、上映前に景山あさ子氏とともに監督を務めた藤本幸久氏の挨拶があった。
彼は、師と仰ぐ土本典昭(水俣のドキュメントで名高い)の「記録なければ事実なし」という言葉を引いて、「辺野古」を撮影した覚悟を語った。「辺野古で起きている事実を余すところなく記録しておかなければ、この伝えなければならない事実がなかったに等しいことになってしまう」といった。「記録なければ事実なし」は、事実を記録することの重さを語った名言というべきだろう。
しかし、ここで言う記録は、飽くまでも事実に忠実な「正確な記録」であることを前提としている。事実と記録は必ずしも一致しない。場合によっては、記録を操作することによって事実とされるものが変えられることもある。
ジョージオーエルの「1984年」の世界では、国民に記録が禁止され真理省だけが記録の権利を独占する。真理省の役人である物語の主人公は、歴史記録の改竄を日常業務としているという設定。「記録の改竄」は、「事実の改竄」であり「歴史の改ざん」なのだ。記録への敬意と尊重は、事実や歴史の真実を尊重する姿勢の反映にほかならない。ご都合主義の歴史修正主義者は、記録の改竄に頓着するところがない。
ご都合主義の歴史修正主義者とは、もちろん、安倍晋三を指してのこと。先月(5月)16日の衆院予算委員会の会議録が訂正されたという。民進党山尾志桜里議員の質問に対する首相答弁の中の、自分を「立法府の長」とした、例の発言である。
「首相は5月16日の予算委で、保育士の処遇改善法案の審議入りを求めた民進党の山尾志桜里政調会長に対し『議会の運営を少し勉強した方がいい。私は立法府の長だ』『立法府と行政府は別の権威だ』などと発言した。その後、政府は『単なる言い間違いであることは明白だ』とする政府答弁書を5月27日の持ち回り閣議で決定した。」(6月10日・毎日)という。これは本来「改竄」というべきものとして見逃せない。
5月19日、東京新聞「こちら特報部」の記事によれば、首相の「立法府の長」発言は、次のようなものであった。
「16日の衆院予算委員会。山尾志桜里議員(民進)が、待機児童や保育士給与問題の積極的な審議を首相に求めた。首相は答弁席に着くなり『ええ、山尾委員はですね、議会の運営ということについて、少し勉強していただいた方がいいと思います』とけん制。
次に『私は立法府、立法府の長であります』と明言したうえ、『国会は国権の最高機関として誇りを持って、行政府とは別の権威として、どのように審議をしていくか各党各会派で議論している』と述べた。」
この文字起こしの一連の文章に、論理の破綻がない。文章の内容は真ではなく偽(誤り)だが、文意の筋は通っている。明らかな表示の錯誤(言い間違え)とは断定しがたい。彼は、本当に、自分を「立法府の長」と思い込んでいたのではないか。あるいは現在もそう思っているのではないのだろうか。少なくとも、意識下にそのような思いがあるに違いない。
「私は、政権与党である自民党の党首だ。自民党は、選挙に大勝して両院ともに最大の議員を擁して立法権を牛耳っている。事実上、私が立法府の長ではないか。」
心理学の用語に、フロイディアン・スリップ(フロイト的失言)というものがある。意識下の本心や願望が失言として表れることをいう。安倍晋三の『私は立法府、立法府の長であります』が失言だったとすれば、フロイディアン・スリップとして、彼の三権分立無視・独裁願望の心理を考察する貴重な手掛かりであり、その議事記録は極めて重要な資料といわねばならない。あるいは、緊急事態における全権の把握を夢みているのかも知れない。
しかも、東京新聞の記事によれば、安倍の「立法府の長」発言は初めてのことではなく、少なくとも、3度目だという。
「首相は先月(4月)18日の衆院TPP(環太平洋連携協定)特別委でも、同じような発言をしている。下地幹郎議員(おおさか維新の会)が、国会議員の歳費を削減し、熊本地震の支援に充ててはどうかと提案、見解を問うた。
首相は『議員歳費は、まさに国会議員の権利にかかわる話でございますから、立法府の長である私はそれについてコメントすることは差し控えたい』と発言。直後、周囲から「行政府、行政府」と指摘され、『あ、行政府ですか。失礼、ちょっと』と言ったが、言い直すことなく、行政府の歳費削減について話した。
実はもう一つ例がある。首相は第一次安倍政権の2007年5月にも、参院憲法調査特別委で『私が立法府の長』と述べ、委員から『あなたは行政府の長』とたしなめられている。」
会議録の大幅な改竄については、昨年(2015年)9月の、参議院安保特別委員会の強行採決時の「聴取不能」という速記録原記載が、大幅に書き換えられたことが記憶に新しい。この点については、ぜひ下記ブログをご覧いただきたい。
「本日速記記念日に『速記録改竄』への抗議」
https://article9.jp/wordpress/?p=5819 (2015年10月28日)
選挙運動収支報告書や選挙運動費用収支報告書の記載は、訂正を許さないものではない。しかし、訂正前の記載がどういうものであったかを必ず正確に確認できるように残して、いつ、どのように訂正されたか、経過が分かるようになっている。だから、訂正によって事実を隠蔽することはできない。
多くの政治家や立候補者が、「訂正すれば問題はない」と頬被りしている現実があるが、実は報告書の訂正という行為は、犯罪を自ら確認する行為なのだ。しかも、たいへん目を引く行為でもある。もちろん虚偽記載罪が、訂正によって治癒されることはない。
国会審議の会議録も、絶対に訂正を許すべきではないとまでは言わないが、少なくとも訂正の前後の対比と経過がよく分かるようにすべきだ。訂正の経過さえよく分かっておれば、後世安倍の答弁集を読むものが呟くだろう。
「このあたりから、相当におかしくなっていたんだ。やっぱり、尋常ではない。」
訂正の経過が分からなければ、「2016年5月までは、なんの問題もなかったようだ」と記録を繙く者に誤解を与えることになる。真実の記録が大切な所以である。
(2016年6月17日)
本日(6月16日)、日本記者クラブを会場とした、公開討論「テレビ報道と放送法―何が争点なのか」を会場の片隅で聴いた。この公開討論は、「放送法遵守を求める視聴者の会」なるものの主張をめぐって、同会と「放送メディアの自由と自律を考える研究者有志」との討論という形のもの。
「視聴者の会」は、一見明らかにアベ政治の応援団。もっと端的に言えば、政権の手先の役割を担っている。これまで3度この会の名で、「私たちは違法な報道を見逃しません」という「監視の目」を大写しにした例の新聞広告を出した。昨年(2015年)11月、読売と産経に各1度。そして、今年(2016年)2月13日に再び産経に。この3度目の広告には、呼びかけ人だけでなく、賛同者の名が掲載された。変わり映えのしない狭い右派人脈の名が連ねられている。
このような団体との公開討論に意味があるのか疑問なしとしないところだが、「研究者有志」側の醍醐聰さんの事前の呼びかけは、「高市総務大臣の『電波停止発言』や報道の自由、自律、放送メディアの影響力(権力性)などをめぐってさまざま議論が交わされている。これらの点について異なる意見を持つ言論人が公開で討論をする企画が以下のとおり実現することになった。」というもの。
仲間内の議論だけで済ませるのではなく、「異なる意見を持つ者との議論こそが重要」「そのような議論を通じてこそ自分の見解が検証され」「議論が深まる」と言われてみればそのとおりだが、「あまりにも異なる意見をもつ者との議論」が成り立つのだろうか、実りある議論となるのだろうか。
パネラーは、3人対3人。
<放送メディアの自由と自律を考える研究者有志>側は、
砂川 浩慶(立教大学教授/メディア総合研究所所長)
岩崎 貞明(放送レポート編集長)
醍醐 聰(東京大学名誉教授)
<放送法遵守を求める視聴者の会>
ケント・ギルバート(米カルフォルニア州 弁護士、タレント)
上念 司(経済評論家)
小川 榮太郎(文芸評論家、視聴者の会事務局長)
視聴者の会側が求める「放送法遵守」とは、同法4条1項の以下の各号のこと。
第4条1項 放送事業者は、国内放送…の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
会に言わせると、既存テレビ局の放送は、この二号と四号に反して、特定のバイアスをもった政治的なプロパガンダとなっているという。常識的にとても首肯できる主張ではないが、その根拠として持ち出されているのが、特定秘密保護法や安保法制の法案審議段階での各番組の「両論(賛成・反対)放送時間比較」。
秒単位で測ってみたら、圧倒的に反対論の時間が多かった。これを総合すると、
特定秘密保護法案の審議に関する報道では、[賛成 26%][反対74%]
安保法制の審議に関する報道では、[賛成 11%][反対89%]
ほら、こんなに偏っているでしょう、というわけである。今日の討論会でも、「1対9はおかしいでしょう」と、執拗に繰り返された。
この検証をしたのは、「一般社団法人日本平和学研究所」という組織。社団法人で、「平和学」を専門とする研究機関なら権威があろうかと思わせるが、ネットを検索するとこの組織は、
登記年月日:平成27年10月15日
役員:代表理事 小川榮太郎
理事 長谷川三千子
というもの。なお、いうまでもなく一般社団法人の設立は届出だけで可能である。
視聴者の会の事務局長を務める小川榮太郎とは何者か。そのことについて、「リテラ」というネットニュース記者の会場発言が印象的だった。私は初めて知ったことだが、「リテラ」の記事を引用する。
http://lite-ra.com/2015/12/post-1827.html
「同団体(視聴者の会)と安倍首相との関係。鍵を握っているのは「視聴者の会」の事務局長を務める小川榮太郎氏だ。『視聴者の会』を立ち上げ、実質的に仕切っている人物で、同会がテレビの報道内容の調査を委託した『一般社団法人日本平和学研究所』の代表も小川氏が務めている。
その小川氏は、自民党総裁選直前の2012年9月、『約束の日 安倍晋三試論』(幻冬舎)という“安倍礼賛本”を出版、デビューしており、この本がベストセラーになったことが、安倍首相復権の第一歩につながったとされている。
ところが、この「視聴者の会」の首謀者の著書を、安倍首相の資金管理団体である晋和会が“爆買い”していたことがわかったのだ。
この事実を報じたのは、「しんぶん赤旗」日曜版(12月13日号)。同紙によると2012年10月に丸善書店丸の内本店で900冊、11月に紀伊国屋書店でも900冊購入していたという。
〈「晋和会」の12年分の政治資金収支報告書には、書籍代として支出先に大手書店の名前がずらり。収支報告書に添付された領収書を見ると、小川氏の『約束の日』を少なくとも2380冊、計374万8500円購入していることが分かりました。〉(同紙より)
本サイト(「リテラ」)でも晋和会の収支報告書を検証したところ、赤旗が報じたよりももっと大量に小川氏の『約束の日』を購入している可能性があることがわかった。同書が発売された2012年9月から12月にかけての収支報告書にはこんな巨額の書籍購入記録がずらりと並んでいた。(中略)
その総額は実に700万円以上! しかも、興味深いのは安倍首相が版元の幻冬舎だけでなく、紀伊国屋書店はじめ複数書店で大量購入していることだ。
支持者に配るためというなら、版元から直接購入すればいいだけの話。それをわざわざ都内の各書店を回って、買い漁っているのは、ようするに、買い占めによって同書をベストセラーにするという作戦だったのだろう。(以下略)」
この事実を念頭に、視聴者の会の主張を聞くとその評価はがらりと変わることになる。つまりは、表向きの主張(知る権利の擁護)とホンネ(アベ応援目的)との乖離が見えてくる。ホンネはマスメディアの安倍批判を牽制しようということとみれば、表向きの主張はご都合主義のきれいごとに過ぎないのだ。
しかし、醍醐さんは、視聴者の会の表向きの主張に真っ向から丁寧に付き合う。主張の背景にあるもので相手を攻撃しない。こんな相手でも、その人格を認めて意見交換を行うことに価値ありという立場なのだ。多分天性のものもあろうし、学生を教えてきた職業的な真摯さが板についていることもあるのだろう。まずは、相手の言い分にじっくり耳を傾けようという姿勢。真似ができない。
政権の応援団として、政権批判の言論を牽制しようという彼らも、民主主義や自由主義、表現の自由を否定しない。むしろ、自分たちこそ、その理念の体現者だという。だから、危ういながらも、議論の出発点としての共通の土台はある。醍醐さんが設定したのは「知る権利」だった。
メデイアの表現の自由とは、国民の知る権利に奉仕するためにある。国民は、メディアが伝える事実やその事実に付随する見解・評価を咀嚼して自らが判断し、主権者としての自らの意見を形成する。
特定秘密保護法や戦争法の法案など、国や国民の命運に関わる重要法案の審議において、メデイアが国民に伝達すべきは、圧倒的に優勢な権力側が提供する情報ではない。これに賛成する意見の垂れ流しでも形式的な賛否の平等でもない。メディア本来の役割は、政府提案の内容や根拠や背景を徹底して吟味しその問題点や、政府案の欠陥をえぐり出して国民に提示することである。そうして初めて、国民は自己の判断に資する情報や評価に接しえたことになる。断じて賛否の時間的なバランスが大切なのではない。どだい、「視聴者の会」がいう賛否の色分けも曖昧なもので、納得できるものではない。
時間で測定した形式的平等に固執し、「賛否の時間比が、1対9」と繰り返す視聴者の会側の3人は、私には政権擁護派の愚論としか聞こえない。メデイアの現状を知る国民に影響力あるとは思えないのだ。しかし、もしかしたら、彼らは俗耳に入りやすいことを計算した巧妙な議論を展開しているのかもしれない。とすれば、愚論と切って捨てることでは問題の解決にならない。その場合には、丁寧に学生と交流し学生を諭す醍醐さん流の正攻法が唯一の有効策なのかも知れない。
(2016年6月16日)
弁護士の澤藤から、研修センター総務課長に要望と抗議とを申し入れる。
本日、国歌斉唱の職務命令に従わなかったとして懲戒処分を受け、心ならずも処分に伴う再発防止研修の受講を強制されている教員は、自分の思いを口に出せない立場にある。代わって私が、東京都教育委員会と研修センターに、その思いを申しあげるので聞いていただきたい。それだけでなく、私は、当該の教員が担任している特別支援学校小学部3年生のクラスの子どもたちを代弁する立場においても、研修センターに抗議をしたい。
まず最初に、私たちの基本的な立場を確認しておきたい。国旗国歌の強制とこれに従わないことを理由とする懲戒処分は違憲違法だ。本日研修受講の教員に課せられている減給処分は、最高裁判例の立場からも重きに失するものとして裁量権の逸脱濫用としても違法だ。この処分自体の違法に重ねて、これに付随する「服務事故再発防止研修」の受講強制は、さらに重ねて「思想・良心の自由」と「教育の自由」を踏みにじるものといわねばならない。
その上で、本日の研修命令の、日程の理不尽について抗議をしたい。本来本日の研修は所属校研修として、教員が勤務する学校で行われるはずのものだった。それが突然に場所を変え、研修センターに呼び出しての研修受講となった。しかも、その日程が本人に告知されたのが6月6日。当然のことながら教員の本日の授業の日程はびっしり詰まっている。急な呼出は、どうしても授業に差し支える。日程を変更して欲しいとの要請はニベもなく拒絶された。せめて時間をずらして、授業終了後にしてもらいたいというささやかな要請すら拒絶された。今日の授業には、校外での社会科見学の日程もあり、子どもたちは楽しみにしていた。このように、子どもたちの授業を受ける権利を一顧だにしない、およそ教育的配慮とは無縁な東京都教育委員会と研修センターの姿勢に怒りをもって抗議する。
子どもたちから教育を受ける権利を奪い、教員の本務である教育への専念の機会を剥奪して、いったい何のための研修なのか。あなた方のこの日程設定は、教育行政が教育に介入するものとして、いや教育行政が教育の機会を奪うものとして違法といわざるを得ない。仮に、行政に甘い裁判所がかろうじて違法ではないとしても、明らかに不適切ではないか。誰がどう考えても、「違法ではなくとも、不適切」。何よりも大切なこととして最優先させるべきは、子どもたちの教育を受ける権利を全うすることである。その子どもたちの授業を受ける権利をないがしろにして、教員の研修の意味がどこにあるというのか。
本来研修とは、非違行為あった者に対して、その人の良心を呼び覚まし、自覚を促して、再び同様の行為を繰り返さぬように、決意させることではないか。その観点からは、差別発言を繰り返した石原慎太郎、巨額の裏金を受けとった猪瀬直樹、公私混同甚だしい舛添要一、このような歴代の都知事にこそ、研修受講がふさわしい。
しかし、自己の良心の声に耳を傾け、良心に基づく行動をした教員に対して、いったいどのような研修の必要があるというのか。結局は、教員の良心に鞭打ち、思想の転向を強要すること、もっと端的には嫌がらせとイジメだけが、「再発防止研修」の趣旨であり目的ではないか。私は、憲法や教育法体系の理念を踏まえ、人間の尊厳と教育をもてあそぶ都教委と研修センターに、満身の怒りを込めて抗議する。
最後に、本日研修を担当する職員の諸君に申しあげておきたい。
2004年の再発防止研修に関する執行停止申立事件における東京地方裁判所決定は、こう言っている。
「くり返し同一内容の研修を受けさせ、自己の非を認めさせようとするなど、公務員個人の内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与える程度に至るものであれば、そのような研修や研修命令は合理的に許容される範囲を超えるものとして違憲違法の問題を生じる可能性があるといわなければならない」
この決定の説示は、司法からの、都教委や研修センターへの警告として受け止めて再確認いただきたい。本日の研修内容は「自己の非を認めさせよようとする」ものであってはならない。いささかも、教員の思想や良心の自由に立ち入って、憲法上の基本権を侵害するものであってはならない。弁護団からも、このことを厳重に警告して、本日の要請とする。
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緊急の研修センター抗議行動。総務課長に申し入れをし、受講のために入構する受講者を激励した直後に、集会参加者間に「舛添要一辞表提出の意向」というニュースが飛びかった。
「またまた、都知事選挙か」「いったい誰が革新側の候補者としてふさわしいだろうか」「納得できる人じゃなくちゃね」「出たがりやさんはゴメン」「今度は勝てる候補者を」「清新なイメージの人でなくては」「猪瀬・舛添・田母神などとよく似た問題を抱えている人はダメ」「前回選挙の『革新』候補も、舛添同様に『選挙運動収支報告書を訂正すれば済む』だものね」。
(2016年6月15日)
おや先生、こんなところでお久しぶり。
やあ澤藤君。すっかりご無沙汰だな。
事務所、この近くになったんですか。
そうなんだよ。長年住み慣れたあの事務所一帯が再開発で、この近所に引越なんだ。
相変わらず河川管理やダムの問題に専念ですか。
いや、最近はもっぱら原発でね。新しいことを勉強しなければならないんでたいへんだよ。ところで、きみDHCからのスラップ訴訟。あれは、もう勝負あったんだろう。
控訴審判決で終わりだと思っていたんですが、上告受理申立をされて、最高裁の不受理決定を待っているところです。
もう、だいじょうぶだろう。万が一にもひっくり返ることはない。それにしても災難だったね。今はもうスラップ対応で忙しいということはないんだろう。
そうですね。もっぱら「日の丸・君が代」強制反対ですよ。今日も、すぐ近くの原告団の事務所で弁護団会議。
その事件、もうずいぶん前からじゃないか。まだ解決つかないのかね。
…だけどね、憲法上の理屈はともかく、ありゃあ、国旗国歌法の国会審議では、首相も文部大臣も強制はしないって、はっきり言ってようやく成立になったんじゃんないか。どうして処分なんか出ているんだい。
あの国会答弁は、正確には「一般国民には強制しない」ということで、教育公務員についてはなんの約束もしていないというんですよ。だから、生徒や父母には強制はしないが、生徒に率先垂範して手本になるべき教員には強制ができるという理屈。実際、強制の根拠は国旗国歌法ではなくて、学習指導要領とされています。法律でも省令でもなく、文部大臣告示という法形式。法的拘束力があるかどうかは極めて曖昧。
じゃ、なにかね。教員は国民ではないというわけか。国会審議のときから、教員に強制することは既定の方針だったのか。あの答弁はペテンで、私なんかは欺されていたっていうわけだ。
おっしゃるとおりですよ。国会答弁の「強制はない」は、誰も本気にしていなくて、その後その心配のとおりになったということですね。
私は、終戦時国民学校1年生だ。教科書に墨を塗った年代で、日の丸も君が代は、生理的に受け付けない。小中高から大学まで、日の丸や君が代とは無縁に過ごしてきた。強制されるなんてことは、考えられない。
卒業のあとには、「日の丸・君が代」で不愉快な思いをしたことはありませんか。
そういえば、こんな経験がある。ずいぶん前のことだが、労音が東欧のどこだかの国の楽団を招いて音楽会を開いた。たまたまそこに出席していたら、両国の友好を祈念する趣旨でだろう、双方の国の国歌を演奏した。で、主催者が国歌を演奏するからご起立願います、というんだ。私も、労音の企画だし、エチケットでもあるから、起立だけはしようかと思った。ところが、意思に反して、体がいうことを聞かない。結局、どうしても立てなかった。
それが、国民学校世代なんでしょうかね。似たような体験があります。私が盛岡で開業した当時岩手弁護士会の会長だった先輩弁護士が、多分先生と同期。年齢は少し上かも知れません。やはり国民学校世代ですね。その方が入院してお見舞いに行きました。そのとき、こんなことを言われましたね。
『澤藤君、キミは靖國の訴訟を担当して、天皇の戦争責任について発言している。これまで黙って聞いてきたが、キミの意見は正しいようで底が浅い。観念的なんだ。腹に落ちない。胸に響かない。われわれの年代は、黙っていても天皇に対する怨みの情念は重く深い。私は、口にこそ出さないが、絶対に彼を許さない。その気持ちの重さは、多分キミたちには解らない』
普段政治的意見を言う人ではなく、革新的なイメージは一切ない人。その人から、そう言われたことに驚きました。
なるほど。それは、分かるような気がする。
DHCスラップ訴訟も、「日の丸・君が代」強制拒否訴訟も、ご支援よろしくお願いしますよ。
分かった。しっかりがんばってくれたまえ。
先生も、原発訴訟がんばって。
じゃあ。
さよなら。
梅雨の晴れ間、うららかなある日のお昼どき。路上の立ち話でございました。
(2016年6月14日)
ご近所の皆さま、ご通行中の皆さま。少しの時間、耳をお貸しください。
来週の水曜日6月22日が第24回参議院議員選挙の公示日、そして7月10日が投票日です。今回の参院選は、いつにも増して重要な選挙といわねばなりません。とりわけ、憲法の命運にとって決定的な選挙といわざるを得ません。憲法の命運は、この国と国民の命運でもあります。参院選の結果が、この国のあり方を決定づけると言ってけっして大袈裟ではありません。
私たちは、「本郷湯島九条の会」の会員として、憲法擁護という一点から、皆さまに訴えます。今度の選挙では、憲法を守る政党、改憲阻止を公約とする候補者へのご支援をお願いいたします。憲法改正をたくらんでいる自民党にはけっして投票をしてはなりません。それは、99%の市民にとっては、自分の首を絞めることになるからです。自民党と連立与党を作っている公明党への投票も同じこと。そして、自民党への摺り寄りの姿勢を露骨に示している「おおさか維新」にも貴重な一票を投ずることのないよう、心から訴えます。
このたびの参院選で問われているものは、何よりも立憲主義の回復です。安倍政権と、自民・公明の与党は、憲法にもとづく国の運営、憲法にもとづく政治という、近代社会・近代国家の大原則を打ち捨てました。恐るべき憲法破壊の罪状と指摘せざるを得ません。
2014年7月1日、安倍内閣は、集団的自衛権行使を容認する閣議決定を行いました。日本が侵略されていなくとも、親しい国の要請で、海外で武力行使ができるというのです。これまで、歴代の自民党内閣が憲法違反としていたことを、あっさりと合憲としてしまいました。憲法に縛られるのはイヤだ。不都合な憲法の条文は解釈を変えてしまえ、というのです。これが、立憲主義の放棄。そして、戦争法を上程して成立を強行したことは、記憶に新しいところ。
戦争法を廃止して、立憲主義を取り戻す、これが今回参院選の課題です。
次に、明文改憲阻止という課題があります。今度の選挙は、安倍自民党の憲法改正の姿勢に、国民のノーを突きつける選挙です。
自民党は、2016年参院選の政策パンフレットを作成しています。26頁に及ぶ政策の最後の最後、26ページ目のおしまいに、「国民合意の上に憲法改正」とわずか10行が掲載されています。意味のある文章はわずか3行「衆議院・参議院の憲法審査会における議論を進め、各党との連携を図り、あわせて国民の合意形成に努め、憲法改正を目指します」とだけ言っています。まるで、積極的な改憲の意図はないごとくではありませんか。
しかし、これはウソです。これまでの政権の言動から見て、明らかに改憲の意図を隠した、有権者騙しの戦術といわねばなりません。嘘つきの安倍政権に欺されてはなりません。
第2次安倍政権が発足以来、今度が3度目の国政選挙になります。2013年7月の前回参院選では、安倍政権は、まだボロの出ていなかったアベノミクスの「三本の矢」の成果を強調して、自民党が大勝しました。選挙に勝って政権は何をしたか。言論の自由を踏みにじる特定秘密保護法だったではありませんか。2014年末の衆院選では、政権は「景気回復、この道しかない」とアピールして、選挙では勝ちました。そのあとに待っていたのが、戦争法の上程と数にものを言わせた成立の強行ではありませんか。
選挙の争点になるのを意識的に避けながら、安保政策を大転換させる布石を打ってきたといっていい。
国論を二分する重要な憲法上の課題を、選挙前にきちんと説明することなく、議席を掠めとったあとで、本当にやりたいことをやってのける。こうして、日本の有権者は2度欺されました。3度欺されてはなりません。自民党や公明党に、選挙で勝たせてはならないのです。
今度の選挙は、自民党は破綻したアベノミクスを取り繕って、経済政策を争う選挙としています。しかし、選挙結果が、自民・公明の与党と、与党摺り寄りの「おおさか維新」を合わせて、参院の改憲発議に必要な3分の2以上の議席を確保すれば、安倍政権は一路憲法改正に邁進することになります。そのようなことを許してはなりません。
昨年の戦争法反対の国民運動の盛り上がりの中で、危険な安倍政権に対抗するために、市民から「野党は共闘」の声があがりました。今、多くの市民の声が後押しして、参院選での野党共闘が実現しつつあります。
立憲主義を投げ捨て、さらには明文改憲をたくらむ政権与党と、これに対抗して立憲主義と民主義を取り戻し、改憲を阻止しようという野党共闘の対決の構図が明確になっています。選挙の勝敗を決めるのは、32ある一人区。その一人区の全部で安倍改憲を許さない立場で一致した、民進・共産・社民・生活の4野党が、統一候補者を決めました。与党と野党は、改憲をめぐる土俵の上で、がっぷり四つに組んだのです。
「憲法改正の必要はない」というのが、今やあらゆる世論調査で圧倒的な国民の声となっています。自公の改憲路線は、けっして世論が支持しているわけではありません。しかし、これまでは、野党がバラバラで自公連合に個別撃破を許してきたということです。今度は、一人区の全部で共闘ができたのですから、けっして前回参院選のように自公の大勝とはなりません。
今回参院選では、初めて18歳からの有権者が参加した選挙になります。文部科学省と総務省が作成した選挙を考えるための副教材が全高校生に配布されているということです。そこには、「民主政治とは話し合いの政治であり、最終的には多数決で合意を形成する」としながら、「ただし、多数決が有効に生かされるためには、多様な意見が出し尽くされ、少数意見が正しいものであれば、できるだけ吸収するというものでなければなりません」と記されていることが話題になっています。数の暴力は民主主義とは無縁なもの。議席を与えれば、少数意見を圧殺し改憲を強行する安倍自民と与党ではありませんか。ぜひとも、憲法の擁護につながる野党の側にご支持をお願いいたします。そのことが、立憲主義・民主主義を取り戻し、平和と生活を守ることになるのですから。
(2016年6月13日)
明治大学で行われた、「圧殺の海 第2章 『辺野古』先行上映」(試写会)を観てきた。そして、沖縄の現実を切りとった映像の迫力に圧倒された。
怒号と叫喚の107分間。見続けるのが息苦しい。しかし、目をそらしてはならない。これが、マスコミ報道では知ることのできない沖縄の現実なのだ。沖縄や基地問題に関心をもつ者のすべてが、この映画を見つめて沖縄の現実を知らなければならない。映画が聞かせる怒号は、理不尽な権力行使への沖縄の民衆の怒りのほとばしりであり、叫喚は権力の暴力を受けた者の呻き声である。
辺野古新基地建設を強行する強大な権力の圧倒的な意志。その巨象に立ち向かう蟻の群のごとき抗議行動。抗議に立ち上がる者の前に、立ちはだかる実力部隊は、沖縄県警だけではない。警視庁の機動隊であり、海上保安庁であり、そして米軍である。五分の魂が圧倒的な権力と切り結んでいる様が映し出される。
なんとしても基地を作らせまいと体を張って抵抗する人びとと、これを制圧しようとする機動隊や海保とのせめぎあいが、生々しく映像化されている。翁長知事誕生の2014年11月から暫定和解成立によって工事が休止した16年3月で終わらず、先月(16年5月)まで18か月の記録。毎日撮り続けて、総撮影時間は1200時間にもなると説明があった。6人のカメラマンが現場に張り付いてのことというが、よくぞここまでと思わせる接近しての危険を顧みない撮影ぶりである。
政治や訴訟の推移と関連しつつも、現場の運動が独自の論理で動いていることがよく分かる。抵抗する人びとの悲鳴にも似た痛切な言葉が、胸に突き刺さる。
「お願いだから、沖縄を壊さないで。」
「ここは、私たちの海だ。あなたたちは帰れ。」
「何が公暴(公務妨害罪)だ。暴力で俺たちの故郷を奪ったのはそっちじゃないか」
「あなた方だって、自分の故郷をこんなに壊されたら怒るでしょうが」
「私たちは平和を求めている。あなた方も戦争はいやでしょう」
「沖縄全体が反対しているんだ。なぜ沖縄の声を聞かないんだ」
案内のチラシには、こう書いてあった。
「翁長知事誕生から18ヶ月、24時間体制で現場に張り付き撮影を続けた辺野古・抵抗の記録『辺野古』が完成した。沖縄県民は、どうたたかってきたのか。国が沖縄県を訴えた代執行訴訟は、2016年3月に和解となるが、その後の辺野古は・・・。
劇場公開に先立ち映画の上映とシンポジウムを開催します。」
「辺野古で、大浦湾で、キャンプシュワブゲート前で、県庁で、6人のカメラマンが撮影した映像は1000時間を越える。抗議船やカヌーを海上保安官に転覆させられても、海へ出つづける人びと、セルラースタジアムを埋め尽くす県民、権限を行使し国に抵抗する知事、水曜日、木曜日と工事をさせない日を増やすゲート前の座り込み、米兵のレイプを許さないゲート前の2千5百人。テレビでは見えない辺野古・抵抗の最前線。」
なんの誇張もない。映像の迫力は、文字情報では表せない。
沖縄・辺野古問題は、目前の参院選の重要テーマの一つである。この映画を話題にすることの意義は大きい。
沖縄の基地問題は、日本国憲法体制と日米安保体制とのせめぎあいの衝突点にある。平和や独立を語るときに避けて通れない。それだけではない。今や、辺野古新基地建設は、安倍政権の強権的暴走を象徴するものとなっている。
公有水面埋立法は、国が起業者として公有水面を埋め立てる際には、県知事の承認を必要としている。仲井眞知事は、知事選の選挙公約を投げ捨てて、沖縄防衛局の埋立申請に承認を与えた。しかし、それゆえに県民世論は、仲井眞を放逐し、圧倒的な支持をもって翁長県政を誕生させた。周知のとおり、翁長知事は慎重な手続を経て、前知事の承認を取り消した。
このことの重さを安倍政権は一顧だにしない。「粛々と工事を進める」というのみ。沖縄の民意、その民意に支えられた新たな知事の判断を尊重すべきが当然ではないか。こんなときこそ、「新たな判断」というべきなのだ。
「粛々と進められる工事」に抗議する人びとに対する容赦ない制圧の強行が、この「圧殺の海 第2章 『辺野古』」に活写されているのだ。
この映画のパンフレット(1000円)が、映画に劣らず迫力に富み、読むに値する内容となっている。
このドキュメントの「主役」ともいうべき、辺野古ゲート前抗議行動のリーダー・山城博治のロングインタビューが7頁にわたって掲載されている。その中の一部を抜粋する。
大衆運動って、つぶされるまで粘り強くやるって心理がどこかあります。勝てないだろう、だけど押し切られるまではがんばるという。今、辺野古の状況見たら、そうはならないね。勝たなきやならない。勝って、国の様々なやり方で押しやろうとする物事に対して、勇気を、元気を辺野古から与えていく、がんばれば何とかなるという元気を与える責務が今、あると感じています。
政府が作った法案が、沖縄で実行されるという関係です。私自身の課題は、実行される沖縄で歯止めをかける、東京のみなさんは東京で歯止めをかける。私たちは、実行される位置に居るから、基地を、戦争の道具を止める。ここで頑張ると当然、全国に広がる。
民主主義を問い、地方自治を問う。平和を問う。辺野古を窓口として、見える日本の今のあり様。だから、全国からやってくる。この交流は大きいと思う。一日、多いときには百人を超える県外の人たちが来る。延べ何千、何万の人たちになってる。その広がりが、今、全国で、辺野古、辺野古、がんばろうの声になってる。十年前では考えられなかった。
翁長さん、県の弁護団、法廷でのぎりぎりのたたかい、行政としての駆使できる手法のぎりぎりのたたかい、現場でのたたかい、それから全国と連携をするたたかい。そういう事を積み重ねれば、この基地は出来ない。
また、自らも逮捕された経験をもつ芥川書作家・目取真俊が「海のたたかい」と題して寄稿している。これも示唆に富むもの。その一部を引用する。
「県知事選挙や衆議院議員選挙のたびに政府・沖縄防衛局は、長期間にわたり工事を止めざるを得なかった。彼らが恐れたのは、海保の暴力的弾圧が県民の反発を呼び、選挙にマイナスの影響を与えることだった。
実際、2014年の夏に辺野古側の浅瀬で行われたボーリング調査では、海保の拘束で負傷者が続出した。カヌーから強引に引き上げてGB(ゴムボート)の床に叩きつけ、カヌーメンバーに頚椎捻挫のケガを負わせた。船に乗り込んで船長の手首を捻挫させたり、カヌーメンバーのその様子はメディアで報じられただけでなく、写真や動画がインターネットで拡散され、海保に対する批判が高まった。安倍晋三政権が沖縄に振る舞っている強権的な姿勢が、海保の暴力という形で可視化され、有権者の投票行動に影響を与えかねない事態となった。それ故に政府・沖縄防衛局は、選挙前に海底ボーリング調査を中断せざるを得なかったのである。
もし、カヌーや船団による海上行動が行われていなかったらどうだったか。行われていたにしても、海保の弾圧を恐れてフロートを越えず、形だけの抗議ですませていたらどうだったか。海保とカヌー、抗議船がぶつかることもなく、メディアに報じられることもほとんどなかっただろう。それこそ調査は「粛々と」進められたはずだ。」
沖縄県が申し立てた第三者機関「国地方係争処理委員会」での審査の結論は、審査期間90日以内と定められていることから、遅くとも6月21日には出ることになる。6月22日参院選公示日の直前である。果たして、どのような判断になるのか、大いに注目されるところ。仮に沖縄県に不満の残る判断であれば、新たな提訴となる。6月25日からの映画『辺野古』の東京上映は、参院選投票日(7月10日)直前のまたとないタイミングである。
この映画は、既に、那覇市牧志の桜坂劇場で上映中であり、昨日(6月11日)からは大阪十三のシアターセブン劇場で、そして6月25日からは東京上映(ポレポレ東中野)が始まる。東京上映は8週間のロングラン企画だという。
http://america-banzai.blogspot.jp/2016_06_01_archive.html
なお、予告編をユーチューブで見ることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=KlTVZxBG1cs&feature=youtu.be
映画に関する問合せ先は下記のとおり。
森の映画社札幌編集室
〒004-0004札幌市厚別区厚別東4-8-17-12 2F
影山あさ子事務所気付
電話・Fax 011-206-4570
メール:morinoeigasha@gmail.com(森の映画社)
(2016年6月12日)
この道はいつか來た道、
ああ、さうだよ、
軍靴が固めたあの道だよ。
あの顔はいつか見た顔、
ああ、さうだよ。
ほら、あの戦犯の孫だよ。
この道はいつか來た道、
ああ、さうだよ。
日の丸で還らぬ人を見送ったよ。
あの雲もいつか見た雲、
ああ、さうだよ。
広島・長崎・沖縄の悲しい雲だよ。
この言葉もいつか聞いたね、
ああ、さうだよ。
「いつかきたこの道しかない」とね。
この道の先はこわいね。
ああ、さうだよ。
いつかきた道の先は、いつか見たあの悲劇なんだよ。
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改憲のうたを しんぞうがうたうよ
平和も 民主も 押しつけだ
たたかいのうたを しんぞうがうたうよ
まけるな ひるむな 血を流せ
イージスの上に、オスプレイがゆれるよ
カデナだ ヘノコだ てっぺきだ
ミサイルのボタンに しんぞうのゆびがかかるよ
おそうか おすまいか 心躍らせて
しんぞうの夢のなか 9条はなくなる
一億総反対で目が覚める
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アベノミクスの、ア、イ、ウ、エ、オ。
イイ目を見るのは、ウエばかり。
カネ繰り、キン欠、カ、キ、ク、ケ、コ。
苦しい景気は 困りもの。
財布はしっかり、サ、シ、ス、セ、ソ。
掏るのは政府か総理さま。
立ちましょ選挙で、タ、チ、ツ、テ、ト。
つないだ手と手とが、暮らしを守る。
何をぬかすか、ナ、ニ、ヌ、ネ、ノ。
寝ごとは醒めては言わないの。
鳩に豆やる、ハ、ヒ、フ、ヘ、ホ。
ひい、ふう、みい。ヘリの方へはほらおしまい。
まいどまいどの、マ、ミ、ム、メ、モ。
見向きもされず無視されて、めそめそするのはもうやめた。
焼石に水、ヤ、イ、ユ、エ、ヨ。
湯水の如くカネ注ぎ込むのはもうええよ。
来年こそはと、ラ、リ、ル、レ、ロ。
蓮花の花が咲くころも、景況レベルはロー止まり。
わい、わい、わっしょい。ワヰウヱヲ。
アベノミクスをぶっ飛ばせ。
(2016年6月11日)