韓国の朴槿恵大統領批判の運動がすさまじい。印象的なのは、デモ参加者の数だけではなく、抗議行動の整然さである。過激に走って暴徒化するなどの行動は見えない。これなら、老若男女誰もが参加可能だ。韓国の民衆の成熟度と政権の未熟さのコントラストが際立っている。これでは、政権はもたないだろう。
韓国の現政権は出だし順調に見えたが、その未熟さで今瓦解しようとしている。さて、注目のトランプ次期政権だが、発足以前から前途は多難である。これも、任期のまっとうを待たずに瓦解するのではないか。滑り出す前から順調ならざる予感。
問題は、2点ある。まず何よりも、多民族・多人種・価値多元のアメリカを否定して大統領選に勝利したトランプである。国民の亀裂ではなく、統合に意を用いなければならないことが当然なのに、この人の直情径行はそれができないのだ。彼に大統領選勝利をもたらした、その彼の性格が結局は国民の分断を煽ることなって、政権の維持が困難となることが予想される。
本日伝えられた下記の事件は、将来の不安を予測させる象徴的なできごとである。
やや、微妙な問題なので、CNNの報道をそのまま全文を転載する。
ドナルド・トランプ次期大統領は19日、ニューヨークで上演中のミュージカル「ハミルトン」のキャストらに対してツイッター上で謝罪を要求した。前夜の舞台でキャストの1人が、観劇に訪れたマイク・ペンス次期副大統領にステージ上から呼び掛け、「米国の価値観を守って」と訴えたことが「嫌がらせ」に当たるとの見方からだ。
「ハミルトン」は米建国の父の1人、アレクサンダー・ハミルトンの生涯を描いたミュージカル。ヒップホップの歌と踊り、そして出演者のほとんどが非白人という配役が話題を呼んでいる大ヒット作だ。
その客席に19日、ペンス氏が姿を見せた。終演後のカーテンコールでキャストの1人、ブランドン・ディクソンさんはペンス氏に歓迎の言葉を述べた後、人権擁護に関する新政権の意向に懸念を抱いていると発言。「あなたがこの作品に感化されて米国の価値観を守り、私たち全員のために力を尽くしてくださることを願っています。私たち全員のために」と語り掛けた。観客からは大きな拍手と歓声が上がった。
これに対してトランプ氏は19日朝、ペンス氏がキャストから「無礼」な「嫌がらせ」を受けたとツイートし、謝罪を求めた。
ディクソンさんはツイッター上でトランプ氏に向け、「会話は嫌がらせではありません。ペンス氏が耳を傾けてくださったことに感謝しています」と返した。
ペンス氏が劇場に入った時、客席からは少数の拍手と同時にブーイングが起きていた。ディクソンさんはカーテンコールで、ブーイングをしないよう観客に呼び掛けた。
「ハミルトン」の広報担当者によると、ペンス氏は終演後、会場から出ようとしていたが、立ち止まってディクソンさんの言葉に耳を傾けたという。
朝日デジタルは、ほぼ同旨を報道しているが、次の記事が目を惹く。
「トランプ氏はこれまでも、自分への批判などに敏感に反応し、ツイッターなどを通して反撃をしてきた。大統領になることが決まってからも、行動パターンは変わらないようだ。」
朝日が報じるトランプの送信内容に関する記事は以下のとおり。
「19日朝になって、トランプ氏はツイッターで『私たちの素晴らしい将来の副大統領が、ハミルトンの俳優によってハラスメントを受けた。これは起きてはならない』『劇場は常に安全で特別な場所でなければならない。ハミルトンの俳優たちはとても失礼だった。謝れ!』と発信し、痛烈に批判した。
なんとも、大人げない政治家がいたものだ。これが次期大統領である。世界中がその行動を注視していることが分かっているのに、一俳優に「謝れ!」というのだ。しかも、CNNや朝日の報道のとおりであれば、俳優側に非礼はなく、トランプの激昂ぶりは尋常でない。
ペンスの対応ぶりは、単に彼の無能を表している。この素晴らしい舞台設定の機会を生かして、どうしてこう言えなかったのか。
「ディクソンさん。そして観客の皆さん。なんのご心配にも及びませんよ。次期トランプ政権は、必ず米国の価値観を守ります。肌の色や母語を異にしても、国民誰もが幸せとなる国を目指して全力を尽くすことを約束いたします。ですから、皆さん。これから発足するトランプ政権を暖かくご支援ください」と。
こう言わなかったトランプ陣営幹部の無能さが、今後の心配のタネのひとつ。しかし、トランプの言動は、無能ということではおさまらない。最悪のオウンゴールだ。将棋に「バカ詰め」というものがある。通常の詰め将棋は、どうすれば相手の玉を王手の連続で詰めるかを考える。最善手の連続が要求される。バカ詰めは、どうしたら最悪手の連続で最短で自分の玉が詰まされるかを考えるゲームなのだ。言わばオウンゴールの連続手を考えるのだ。
トランプのやったことは、この「バカ詰め」に等しい。挽回の機会はあつたのに、最悪手を連続して、俳優と観劇者だけでなく、CNNの視聴者やアメリカ世論に、「このトランプという男、差別と排外主義の政策を本気でやりかねない」というイメージを深く刻印した。
第2点は、政治とビジネスの混同、そして私物化である。
日刊ゲンダイの記事を引用する。
就任前の異例のトランプ・安倍会談。ドナルド・トランプがそこに、娘・イバンカとその夫・ジャレッド・クシュナーを同席させたことに、米国内で「政治の私物化」だと批判が上がっている。米経済誌「フォーチュン」(電子版)が18日伝えた。
イバンカはトランプが経営する不動産会社の副社長。会談に同席したことで、安倍首相が同社を優遇しかねず、国益と個人的な利益が相反する恐れが指摘されている。
イバンカ夫妻が機密情報に接する権限を持っていないことも問題視されているという。
一方、トランプは新政権の3人の人事を発表。司法長官にジェフ・セッションズ上院議員、中央情報局(CIA)長官にマイク・ポンペオ下院議員、国家安全保障担当の大統領補佐官にマイケル・フリン元国防情報局長官を指名する。いずれも、共和党内の反発をよそに、早期にトランプ支持を表明したことから、“論功行賞”とみられている。
加えて3人ともガチガチのタカ派。セッションズは人種差別発言で裁判官の任命を拒否されたことがある。フリンは「イスラム教徒を恐れるのは理にかなう」とツイートしている。この人選では、米国内の反トランプデモがますます激化しそうだ。
いま、米国内の反トランプデモは、新政権の土台を揺るがすほどのものではない。しかし、以上の2点は、トランプには修復不可能で、直情径行ツィートも、身内優遇も政権内非宥和も、これから「ますます激化しそう」ではないか。政権発足前に早くも危機の予感。これは珍しい政権と言わねばならない。
(2016年11月20日)
川柳こそは、庶民の文芸である。句形以外になんの作法もお約束もない。「俳句はかく解しかく味わう」(虚子)という著作はあっても、「川柳はかく解しかく味わう」はない。誰もが、なんの制約もなく自由に作れる。自由に解釈すればよい。時流に迎合の句も川柳ではあるが、庶民の文芸であるからには反骨の精神あってこその川柳。
朝日川柳欄は、時事ネタに強い。ここ数日のアベ・トランプ会談ネタ。さすがである。「得々と解説するは野暮と知り」であるので、コメントはやめて、同工異曲の一句を付けてみた。
まず確認あなた狸でぼく狐(宮城県 猪又義記)
「まず敬意虎に尾を振るキツネかな」
ハウアーユーそんな程度のことでした(神奈川県 吉井信之)
「ハウアーユーそんな程度に公費出し」
さまでして地球の裏に駆けつける(宮城県 河村麦丸)
「遺伝子に参勤交代朝貢癖」
駆けつけて警護するんだTPP(東京都 三神直)
「かいもなく煙と消えそなTPP」
何となく気が合いそうに見え怖し(埼玉県 忍足ミツ子)
「差別と排外の価値観を同じくし」
この二人強き昔を恋しがり(神奈川県 大坪智)
「強がるは弱き本性隠すため」
なお、駆けつけ警護ネタでは。
武器使用 相手も武器を使用する(東京都 後藤克好)
「武器使用血も流れます死にもする」
操りの案山子(かかし)が似合う稲田かな(神奈川県 高山哲夫)
「つけマツゲみだれ髪異様な閲兵式」
毎日の万能川柳には、時事ネタが少ない。それでも、最近はアベネタが結構多くなっている。こちらも結構ぴりっと辛い。最近の数句。
投書欄見てたら誤字か安倍総統 神戸 酒みちる
「さもあらん立法府の長だもの」
あの人は話が長く語彙不足 宝塚 忠公
「英霊の御霊に捧ぐ誠なり」
米英も政治家てのは変な人 倉敷 中路修平
「変な人政権握って迷惑人」
能力はないが権力ある不思議 大阪 佐伯弘史
「無能者に権力与える民主主義」
官邸にとっちゃ騒音民の声 神奈川 荒川淳
「トランプタワーの二人防音でハーワーユー」
総裁の任期延長やな予感 町田 岡良
「まず憲法の延長確認せい」
戦争を心配してる万柳欄 龍ケ崎 おまめ
「万柳欄?戦争?心配?わしゃ知らん」
国民の皆さんという大雑把 浜松 よんぼ
「皆さんにいつも私は員数外」
自治会長まずは組閣をすると云う 東京 小把瑠都
「クラス会自治会並みのアベ政権」
ついでに、あと幾つか自作を。
「川柳子愚かな総理で秀句詠み」
「アベ総理毎日時事ネタ提供し」なのである。
しかし、川柳子には言っておきたい。
「よいネタと煽るべからずアベ暴走」
さらにおまけ。
「トランプの娘と婿は知る秘密」
「日本人総理と通訳だけが知り」
「アメリカはファミリービジネスカントリー」
「新王朝発足北朝鮮と合衆国」
最後に今日にちなんだ一句。
「立憲主義の月命日や19日」である。
(2016年11月19日)
一昨日(11月16日)、むさしの憲法市民フォーラムが主催する、「シンポジウム 今、言論、表現の自由のために」に聴衆の一人として参加した。会場は、武蔵境のスイングホール。パネラーが、植村隆、醍醐聰、神原元の3名であるからには、どうしても行かねばならない。
参加者の熱気がパネラーの熱意を呼び、充実した集会となった。事前の集会のコンセプトが練られた集会ではなかった。ところが、却ってその未整理の混沌が、力強い問題提起となった。今日の言論状況を、浮き彫りにする結果となって、考えさせられる素材の提供を受けたと思う。
植村さんは、「言論弾圧・歴史修正主義と闘うジャーナリスト」として、「植村バッシング」の経過を報告した。植村バッシングのえげつなさについての被害者本人ならではの説明のあと、一連のバッシングの目的を、「改憲をたくらむ歴史修正主義者たちによる『リベラル朝日』を萎縮させ、慰安婦問題をタブー化させる攻撃」とまとめた。それゆえ、絶対に屈することができないとも。
醍醐さんは、「メディア(NHK)の自由・自立と使命をめぐる論点」として、NHKの政権翼賛メディアに堕している実態を告発した。本来権力に対する監視の役割をレーゾンデートルとするはずのメディアが、「準」国策報道機関の域を超えて、「純」国策報道機関となっている。政権浮揚に手を貸して国民(視聴者)を裏切っている実態を、民放報道と比較した幾つもの具体例を挙げた。
また、神原さんは、「なぜ、いまヘイトスピーチなのか」として、その禍々しい実態をレポートした。安倍政権の成立とともにヘイトスピーチ、ヘイトクライムが跋扈してきたことの報告が印象的だった。
集会のメインタイトルが、「今、言論、表現の自由のために」である。通常、公権力の規制に抗しての「言論、表現の自由」は、民衆にとって、あるいは国民大多数にとって価値ある望ましいものである。だから、「言論・表現の現状」の問題性は、「言論・表現の自由の寡少」として語られる。
しかし、東京地裁・札幌地裁に係属している2件の「植村訴訟」では、櫻井よしこや西岡力ら被告右翼側が、憲法21条の表現の自由を援用している。また、ヘイトスピーチ・ヘイトデモをもっぱらにしている在特会すらも、自らの行動の正当性を「表現の自由」で粉飾している。NHKの対政権擦り寄り姿勢も、「報道の自由」「編集権の裁量」の美名で糊塗されかねない。
植村バッシングの言論も、民族差別の表現も、政権と一体になったNHKの報道等々についての問題性は、「言論・表現の自由の寡少」が問題ではなく、「言論・表現の自由の濫用」状況にいかに歯止めをかけ得るかとして問われなければならない。
この点を醍醐さんは、「従来言論の自由は、『公権力』対『メディア・市民』という対抗関係でとらえられ、メディアの国家の干渉からの自由が、市民の利益にかなうものと受けとめられてきた。しかし、メディアと市民は必ずしも、利害を同一にするとは限らない。また、市民対市民の中傷誹謗の言論の問題も無視し得ない。それぞれに様相が複雑化している」とした上で、「言論の自由は、それ自体が目的ではなく、真理に近づく熟議を可能とする前提として価値がある」「言論の自由は権力者によってだけではなく、偏狭な排他主義、『世間』『組織』の同調圧力によっても、脅かされる」と発言した。これは、真理に近づく熟議を可能とする前提としての言論でなくてはその自由を擁護すべき価値はないとの含意であろうし、公権力に対する警戒だけでなく、偏狭な排他主義からなる身近な世間の同調圧力となっている言論をも警戒せよ、との警鐘でもある。
また、神原さんは、1930年代ドイツにおけるケルゼンやラートブルフの論説を引いて、民主主義や自由を否定する言論に対しては、寛容を以て遇するのではなく、果敢に闘わざるを得ない、と述べた。
渦中にいる人たちの焦慮が伝わってくる。ヴォルテールの名言と伝えられる「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけても守る」などと言っておられる事態ではないということだ。
好例がヘイトデモであり、植村バッシングである。ヘイトデモの暴力性は、ようやく社会の共通認識となってきたが、これが言論の域にとどまるものとしても、差別の表現に寛容であれなどと言ってはおられない。人間の尊厳を攻撃し貶める言論には果敢に闘わざるを得ない。
植村バッシングも基本は同じ。こちらはもっと手が込んでいて、悪質と言えよう。産経や文春、西岡、桜井らの言論は、それぞれの役割を補完しつつ一体をなしている。実は、産経や文春、西岡、桜井らは氷山の一角の頂点をなす存在で、その下部には水面下深く、巨大な匿名集団が存在している。産経や文春、西岡、桜井ら頂点の存在は、暗い水面下に沈潜する氷塊の司令塔であり、煽動部隊である。産経や文春、西岡、桜井らの煽動によって、百鬼夜行の如く、匿名に隠れたネトウヨたちが蠢動する。攻撃されたのは、植村ひとりではない。勤務先の北星大学をターゲットにして、抗議の電話やファクスが集中した。複数の脅迫状も送られてきた。家族をネットに晒して、卑劣な攻撃をされた。産経や文春、西岡、桜井らは、自分たちの「言論」が及ぼす、暴力や脅迫や、威力による業務への支障や、それによる当事者の恐怖の効果を計算しつつ発言できるのだ。少なくとも、自分の言論において名指しした人物に及ぼす具体的影響について予見可能だし、予見義務もある。
実は、このようないびつな言論空間の中で、非対称の言論・表現が交換されている。この現実を捨象して、抽象的に表現の自由一般を語って、敵対する表現にも寛容であれ、などと述べることは、粗暴な強者の側に屈服することにほかならない。
植村さんが、あの時点で敢然と提訴したことは、たたかう姿勢を見せたことだ。裁判を基軸に、朝日バッシングと歴史修正主義に対抗する運動が盛り上がりを見せて、確実に成果をあげている。
今日(11月18日)、たまたまご近所の集会所で植村さんを招いての「メディアバッシングと報道の自由を考える集い」があった。出席の多くはジャーナリストの皆さん。
植村さんの講演のあと、「植村さんの姿勢に励まされた」「植村さんを支えて最後まで闘いたい」とのジャーナリストの発言が続いた。
闘う相手は、産経や文春、西岡、桜井だけではない。政権も含む巨大なもの。もしかしたら時代の潮流そのものというべきものなのかも知れない。そして、闘いは、訴訟の場における法的問題にとどまらない。歴史修正主義や差別の言論への批判に、躊躇があってはならない。メディアバッシングを許し、反権力・反多数派の報道の自由を形骸化させてしまっては、取り返しのつかないことになる。それこそ、真理に近づく熟議が、不可逆的に不可能となりかねないのだから。
(2016年11月18日)
よう。オレのファストネームはドナルドだ。ドンと呼んでくれ。
では、ワタクシはシンゾーですから、シンとでも。
オレがドンで、あんたがシン。意味深でいいじゃないか。今後はずっとこれでいこう。
ドンとシンの友情。結構でございます。
あんたとは、ウマが合いそうだ。ドイツやフランスの首脳は、結構うるさいことを言って面白くない。礼儀に欠けるんだな。あんただけが、私に批判めいたことを一切言わないのが、気に入った。
それはもう、ワタクシは身の程をよくわきまえていますから。
メルケルも、オランドも、メイも、みんなヒラリーとおんなじ気取り屋だ。オバマも、オレをバカにしている。あんただけだよ、オレと同類という雰囲気をもっているのは。
そりゃそのとおりです。ワタクシもオバマとは肌が合わない。オバマはワタクシのことは「右翼の軍国主義者」という目で見ていますから。
オレは、「偉大なアメリカを取り戻す」というのがスローガン。
ワタクシは、「戦後民主々義を脱却して日本を取り戻す」。よく似ているのは偶然でしょうか。
お互い、支持勢力が極右の排外主義者。差別のホンネもそっくりだ。民主主義とか人権が大嫌いなところも、よく似ている。
それだけじゃありません。反知性のレッテルがよく似ているし、選挙の前とあとでは、正反対のことを言って平気なことも一緒。お友だちや身内を平気で登用することまで似た者同士。こういうのを、価値観を同じくするって言うんでしょうね。
オレが、次期大統領に決まって以来、全米が湧いているぜ。これまでしおたれていた白人が、ようやく男らしさを取り戻して、ヒスパニックや黒人に威勢を張り始めた。クー・クラックス・クランも眠りから覚めたようだし、ヨーロッパのネオ・ナチ連中も、勢いづいている。
さすがに大きなドンの影響力。でも、ワタクシだって負けてはいませんよ。ワタクシが総理になって以来、日本の差別主義者は勇気百倍、在日に対するヘイトスピーチ・ヘイトデモでの弱い者イジメに懸命です。やっぱり、彼ら右翼は分かるんですね。右翼を支持し差別を推進している、ワタクシの心の内が。
そうだよ、トップの心もちひとつで、国中が変わる。なんてったってアメリカ・ファーストだ。アメリカっていうのは、白人ってことだ。ヒスパニックもムスリムも黒人も「アメリカ」じゃなくて、よそ者だ。民主党の連中は、こんな簡単なことをはっきり言えないから、選挙に勝てない。
日本でもがんばって、在日だけでなく沖縄を差別しています。先日は、内地の機動隊が現地のデモ隊に、「土人」と差別語を浴びせて侮辱しています。鶴保庸介という沖縄・北方担当大臣が、現地の沖縄県民の側に立たずに、土人発言をした内地の機動隊員の擁護に回っています。大臣も、機動隊も、右翼も、ワタクシの気持を忖度してくれています。
ところで聞きたかったのは、あんたの「積極的平和主義」ってやつ。平和主義なんて、あんた嫌いだろう。一人前の男が口にすることじゃない。でも、国民の多くは平和主義が好きだ。そこで「積極的」を付けると、言葉は平和主義だけど、内容は武力行使容認なんだ。このからくりでどこまで国民をだませる?
国民騙しのテクニックは、ワタクシが先輩ですからお教えします。問題は、TPPですよ。以前はTPP反対で、「ぶれない自民党」と言ってました。「反対だけど、アメリカや近隣諸国が望む以上は、聖域を護りつつの交渉参加はやむを得ない」と言って舵を切りました。今では自民党は強行採決までしてTPPを通そうとしています。もちろん、すべてはアメリカへの義理立てでのことです。そんなことをお考えいただき、もう選挙は済んだことですから、TPPについては、候補者としての発言と、行政の責任者としての発言は分けていただきたいところ。
あんた、そりゃ駄目だ。TPP離脱は、オレの公約の目玉だ。他のことはとかく、この公約はアメリカ・ファーストと結びついているんだ。どうしても骨抜きにはできない。
とは言ってもですね。そもそも、自由貿易の伸展は歴史の流れでございまして、貴国の利益にもなることですから、ここは相互主義の立場から譲歩をお願いしたのです。
なんだと。あんたはオレに説教しようというのか。
いいえ、とんでもない。お願いしているだけで。
なら、お断り。こちらは、アメリカ・ファーストの旗は降ろせない。アメリカ・ファーストとは、日本も敵ということだ。
それは上等でございます。こちらも、ジャパン・ファーストの旗は降ろせない。ジャパン・ファーストとは、アメリカが敵ということでございます。
そういえば、お互いが排外主義のナショナリストだ。そもそも利害が一致するはずはないんだ。我が合衆国には、「黄禍」という言葉が伝統としてある。
こちらも一緒でございます。表面は取り繕っても、排外主義者同士が親密になれるはずはございません。我が日本には、「鬼畜米英」という言葉が伝統としてあります。
「リメンバー・パールハーバー」だ。
東京を焼き、広島・長崎に原爆を落としたのはアメリカじゃないか。
今日のところは、決裂はまずい。表面だけは取り繕っておこう。「両者は、日米関係の緊密化こそが、両国の利益のみならず、世界の平和や経済発展にとって、死活的な重要事であることを相互に確認した」くらいの発表で、お茶を濁しておこう。それでいいな。しんきくさいシンよ。
「親密に、将来の夢と希望を語り合った」とか。今日のところだけはね。どんくさいドンよ。
(2016年11月17日)
池田眞規さんが亡くなられた。11月13日のこと。本日(11月16日)が通夜。明日告別式がある。享年88。つい最近まで、そんなお歳とは見えない壮健な活躍ぶりだった。そして常に明るく、周囲を励ます人でもあった。今は、ご冥福を祈るばかり。
以前、事務局長・会長を務めた日本反核法律家協会の機関誌、「反核法律家」に「人生こぼれ話」を連載しておられた。昨年秋号に、その第6話「忘れっぽい人間に原爆の記憶の継承は大丈夫でしょうか?」が掲載されている。
その冒頭の文章が次のとおり。
「個々の『人の死』は相続によって継承されます。しかし、『人類の死』には相続はありません。核兵器を造った少数の人間、戦争の開始を決定した少数の人間、戦争の開始を阻止しなかった多数の人間、これらの人間の仕業の総仕上げが核戦争です。
核戦争になると『人の種』は地球上から消えてなくなります。その結果に至るすべてが人間の仕業である以上、人間の判断で『核兵器も戦争もない世界』を実現することは可能なはずです。だがそれは容易ではありません。何故なら、原爆被害の忘却、核による巨大な利得、核大国米国の軍事基地など、大きな障害があるからです。」
この文章は、続いて親鸞と浄土真宗の歴史を教訓として、「闘い続けることによる原爆の記憶の承継」を論じている。本論はともかく、『個々の人の死』と『人類の死』とを対比して、前者の扱いが、あまりに淡泊な印象を受ける。この頃、眞規さんは既に「自分の死」を予期し、受容していたのだろうか。自分の死は受容しえても、『原水爆による人類の死』を受け容れがたいとする池田さんの思いを、私も相続し継承しなければらないと思う。
眞規さんとの最初の出会いは、私が司法修習生になったばかりのころ。同期で作る青年法律家協会の企画として、何人かの先輩弁護士を呼んで、弁護士の生きがいやあり方などを語ってもらった。その中の一人として、まだ弁護士になって日の浅い眞規さんがいた。
長沼や百里の経験を聞きたいとしてお呼びしたものだが、その点のお話しの印象はない。眞規さんは、あの独特の語り口で、冒頭にこう言った。「弁護士とは、資本という汚物にたかるギンバエである」。どぎつい言い方が印象的だが、弁護士の卵たちに対して、「弁護士としての理念をもて」「理念なき弁護士は、自ずと資本の手先になりさがる」「弁護士という存在は客観的にそういうものだ」「意識的に自分を律することなければ、流されてしまうぞ」という警告と受けとめた。その後、私も弁護士となって、眞規さんの後輩として「プライド捨てたギンバエ」にはならぬよう、気をつけながら歩み始めた。
私が弁護士になって20年目。1991年に湾岸戦争が起きた。日本政府(海部内閣)は、戦地に掃海部隊を派遣し、90億ドル(1兆2000億円)の戦費を支出しようとした。平和的生存権と納税者基本権を根拠に、これを差し止めようと「ピースナウ・市民平和訴訟」と名付けた集団訴訟が実現した。東京では1100人を超える人々が原告となり、80名ほどの弁護団が結成された。私が弁護団事務局長を務め、団長は正式に置かなかったが、明らかに眞規さんが「団長格」だった。
東京地裁に訴状提出後、担当裁判長(後に最高裁裁判官となった涌井紀夫判事)から 「訴状に貼付すべき印紙が不足しているのではないか。原告弁護団の手数料計算方法に疑義がある」という指摘を受けた。裁判所の考え方を文書で示していただきたいと要望したところ、ファクスが届いた。これがなんとも素敵なものだった。
本件の係争にかかる経済的利益を差し止め対象の支出金額である1兆2000億円とし、これを訴額として1人あたりの手数料を算出して、 原告の人数を乗ずるという算定をすべきだという。
驚くなかれ、この算定方法では訴状に貼付すべき印紙額は3兆4000億円(当時の司法総予算の15年分)になる。 最高額の印紙(10万円)で貼付して、東京ドームの天井にも貼りきれない。
私と眞規さんとで、手を叩いて喜んだ。さっそく記者会見を開き、これは当時格好の話題となった。それまで、この訴訟に目もくれなかったすべてのマスメディアが、俄然注目し社説を書いた。天声人語も、余録も取り上げた。
その時の眞規さんの思い出はそれだけではない。眞規さんは、自ら書証の整理担当をかって出た。第1回期日以前に、1000点を超える甲号証を整理して提出している。本来なら事務局長の私の仕事なのだが、眞規さんの仕事にのめり込む姿勢に驚いた記憶が鮮明である。
もう一つ。下記は「法と民主主義」2003年11月号に掲載された、佐藤むつみ編集長の「とっておきの一枚」という連続インタビュー、池田眞規さんの巻である。「楽しきコスモポリタン 憲法九条を連れて」と標題されている。
ご供養に、この記事を引用させていただく。
池田先生は弁護士になって四〇年。この一〇年が一番充実した楽しい仕事が出来たという。弁護士になるまで病気をしたり風早八十二先生の事務所を手伝っていたりちょっと寄り道をして、一八期、七五才になる。ここ二〇年、先生は全然年を取らず髪も真っ黒。アジア集団安全保障共同体構想を語る時、コスタリカのことを語る時、ほとばしる思いが凛々と伝わってくる。独特のテンポののんびりとした口調にだまされてはいけない。人を食ったような語り口は昔のNHKの子ども番組「チロリン村とクルミの木」の渋柿じいさんみたいだ。素朴な土のにおいが濃厚にする。
私の事務所は東京四谷、池田先生とは同じご町内。時々ばったりとお会いする。これがただじゃすまない。コスタリカに行く前の日に会った時など「コスタリカはすごいよ。あんたも行きなさい。あんな小さな国が戦争放棄してるんだ。俺たちも学ばなくちゃ。」と遠足に行く前の子どもみたいである。うれしいな、うれしいな。アジア集団安全保障構想の話しの時は悲劇だった。遅れた昼食を取っているとそこに現れた池田先生「ふっふっ」と私のテーブルにくる。「朝鮮半島と日本と中国が共同体を作る。みんな非核宣言をする。俺は昔からこう言ってたんだ。あんたはどう思う。」私はご飯が食べたいの。どう思うって言われたってね。いい加減に聞いていると「あんたもう俺の話を聞きたくなくなったな」とギロリと威嚇する。これで嫌われたかなと思っていたら本人はすっかり忘れている。
池田眞規先生は一九二八年に韓国の大邱で生まれ釜山で育った。兄一人姉三人の末の次男坊である。父佐忠は天草出身の事業家で釜山の港湾建設事業を取り仕切っていた。豪放磊落な自由人で目端の利く面白い人物だった。メキシコから石油を輸入しようとしたり、蔚山(ウルサン)と山口県の油谷町に港を作り新航路開発事業を計画したり、何とも闊達である。山本五十六連合艦隊司令官とお友達で、真珠湾攻撃の前日、旗艦長門から山本が書いた書を送ってもらたりしている。
マキちゃんは小さいとき引っ込み思案の少年で、たまにしか会わない父親に恥ずかしくてあいさつもできなかった。中学四年終戦間近の三月、マキちゃんは明治大学付属の専門学校造船科に進むために最後の関釜連絡船に乗って上京。東京は大空襲で焼け野原だった。八月玉音放送を聞く。何のことだかわからなかった。教授が泣くのをみて負けたんだと思った。翌日丸の内の交通公社で釜山行きの切符を手に入れマキちゃんはさっさと学校をやめ釜山に帰ってしまう。仙崎から出る船に予科練の制服借りて復員兵になりすまして乗船、無事帰宅。「まさちゃんが帰ってきた」みんなびっくりした。
マキちゃん一七才。コルト六連発を尻ポケットに突込んで毎日デモをみたり、引揚日本人の世話会長だった父親の仕事を手伝ったりしていた。一一月父親がCIAにつかまる。アメリカ軍にワイロを渡して日本人を守ってくれと接待した容疑。二四時間以内の追放命令、身の回りのものをリックにつめてすぐに引き揚げ船に乗った。油谷町の広大な土地でマキちゃんは農業でもしようと思っていた。ところが「バカでも入れる学校がある」と従兄弟から勧められ「まさ、行ってこい」の父の一声でマキ青年は熊本語学専門学校に入学。そこでマキ青年は東洋哲学の俊英玉城康四郎先生に出会い、哲学を学ぶ。一年結核で休み四年かかって専門学校を卒業、また従兄弟に勧められ九州大学に進学することとなる。
五〇年マキ青年は九州大学法学部に入学する。入学したらあまりに授業がつまらなくてやめようかと思ったが、法律学科から政治学科に移り何とか留まった。そしてマキ青年は左翼の洗礼を受け学生運動に邁進する。ところが結核が再発、中野の組合病院で手術を受けることになる。大学は取れていた単位で五三年に卒業した。父親も死亡し経済的にも大変な療養生活だったが、マキ青年はどんなときにも落ち込まない。今もそうである。ものにこだわらない楽天性は父親譲りである。
病院を退院した時、風早事務所で事務員を募集しているから行ってみたらと進められる。行ってみると風早先生は九州大学の恩師具島兼三郎先生の師であった。人生の巡り合わせは不思議なもの。池田青年に「君は弁護士になってわしの手伝いをしろ」と風早先生の命。風早事務所で弁護修習、六六年から弁護士となる。風早事務所の大番頭として約一五年間、勤める。
弁護士になると、何も知らずにうっかりと「地獄の百里弁護団」に入り、事務局を押しつけられ、これを二〇年勤める。訴訟活動はもちろん大衆的裁判闘争の運動を引っ張る要でもあった。池田先生は「生きた憲法九条の平和の思想」を百里の農民の地をはう戦いのなかで血肉とする。土の匂いはここから生まれたのかも知れない。
百里裁判と平行して、日本被団協に押しかけて、「被爆者の望むことは、何でもやります」と誓うそそっかしさ。原爆を裁く国民法廷運動も楽しくやり、一九八九年には国際反核法律家協会のハーグでの創立総会に参加。日本での反核法律家運動にも関わるようになる。九一年に国際反核法律家協会(IALANA)の呼びかけで始まった「世界法廷運動」が日本では国民的な大運動となり、九六年国際司法裁判所のすばらしい「勧告的意見」に結実。九九年ハーグ市民社会会議に参加し、その平和アピールでは公正な世界秩序のための第一原則として「各国議会は、日本国憲法第九条のような、政府が戦争を禁止する決議を採択すべき」とまで言わしめたのである。
しかし国内では憲法九条は改悪の危機。二〇〇〇年池田先生らは軍隊を捨てた国コスタリカに出かけるのである。名カメラマン池田先生が撮った軍隊廃止を宣言した亡フィゲーレス大統領夫人のカレン女史の写真がある。とてもいい。先生とカレン女史との関係がそこに出ている。日本にお客様を呼ぶとき池田先生は成田に迎えに行き日本にいる間中一緒に行動する。そして成田まで送る。この熱い心を「幸せはささやかなるを極上とする」妻ゆきさんがかたわらで支えているのである。
「ボクは人にいつも恵まれるの。すばらしい人が現れて運動を支えてくれる。すごいよ」
池田眞規
1928年 韓国大邱に生まれる
1953年 九州大学法学部卒業
1966年 弁護士登録・百里裁判・被爆者運動に没頭。
1990年 日本反核法律家協会初代事務局長。
2016年 逝去(惜しまれつつ)
(2016年11月16日)
国も自治体も関与しないイベントがどのように行われても、違法でない限り、誰からも文句を付けられる筋合いはない。イベントに関わる者の完全な自由だ。だが、国や自治体の便益を受け、国費や自治体の費用が注ぎ込まれるとなれば話は変わってくる。主権者は、国や自治体の財政面に関わる問題として、ものを言わざるを得ない。ものを言うべき権利があるというだけでなく、ものをいうべき責務がある。看過し、躊躇し、沈黙することは、消極的な同意を意味する。大いにものを言わざるべからず。
財政面における主権者を「納税者」と表現して、「納税者基本権」を構想したのが、今は亡き北野弘久さん。私が事務局長の時代に、日民協の理事長だった方。
「納税者基本権」とは、徴税の対象としての狭い意味の納税者の、税金納付の局面での権利だけを意味するものではない。担税の仕組みや租税の使途(支出)についても、納税者一人ひとりが物申し違憲違法を是正すべきことを人権として把握する構想である。
国や自治体の財政支出は、民主主義的な原理で構成された行政が行う。この民主主義原理に、人権原理をもって対抗し補完しようとするもの。国民一人ひとりが、納税者として、国や自治体の違憲違法な財政を是正する権利を有するという。
この納税者基本権という思考の枠組みは、国民の防衛費の負担についても、政党助成金の国民負担についても、また消費税という逆累進の税制を考えるうえで有益だが、オリンピック・パラリンピックの国民の負担を考える際においても、是非とも有効に活用したい。
あらためて言う。「納税者ファースト」以外の考え方はあり得ない。アスリート自身が「アスリートファースト」を口にすることは、僭越も甚だしい。JOCもIOCもえらそうな口をきける立場にない。そして、政治家は常に「ラスト」でなければならない。
昨日のことだ。ラストであるべき政治家が、えらそうな口を利いている。
「東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長は14日、さいたま市内で講演し、競技会場見直しについて『アスリートファーストでまとめたものをきちっとやってきた。スポーツやオリンピック、今までの約束事をご存じのない方が来てガチャッと壊した』と小池百合子・東京都知事を批判した。」「『組織委員会は無責任な団体だとか、好きなことをおっしゃっている』と不満をぶちまけた。また、ボート・カヌー会場を巡る動きを『(小池氏が)何も勉強しないで、かわいそうに(宮城県の)村井嘉浩知事は踊らされちゃった』と皮肉った」(朝日)と報じられている。
また、アスリートの僭越ぶりも目に余る。
「東京五輪のバレーボール会場の見直し案をめぐり、日本バレーボール協会などは8日、記者会見を開き、従来の計画通り『有明アリーナ』(東京都)の新設を求めた。元五輪選手らとともに東京都の小池百合子知事あての嘆願書も提出した。」「都内であった会見には、元五輪選手ら16人が出席。」「『東京五輪では、女子も男子も、その体育館(『有明アリーナ』)で記憶に残るような死闘を繰り広げることをお約束したい』と述べた。」
「バレーボールをめぐっては既存の『横浜アリーナ』(横浜市)を活用する案も浮上している。」「東京都の調査チームが1日にまとめた報告書では、有明アリーナの新設にかかる整備費は、従来の404億円から370億円前後に削減できると試算。一方、横浜アリーナの活用案は、観客席の仮設による増設工事なども7億円で済むとし、コスト面でメリットがあるとされた。」(以上、朝日)という報道の中での、アスリート側の巻き返しである。なんとも、はや。
億の単位、さらには兆の単位の財政支出に納税者は鈍感になってはいないだろうか。健全な庶民感覚を取り戻さねばならない。そして、主権者として、納税者として厳格に、税金の使途に目を光らせ、大いにものを言おう。なんたって、「納税者ファースト」なのだから。
(2016年11月15日)
NHKとの受信契約締結を拒否した男性を被告として、NHKが受信料の支払いを求めた訴訟が上告審に係属中である。その事件の審理が大法廷に回付されたことで話題となっている。訴訟の焦点は、契約成立の時期をめぐる争いと報じられているが、問題はそれだけではあるまい。もっと基本的な問題があるはずだ。
この事件では、視聴者側の契約締結の意思表示はない。それでも強気のNHKの主張は、「受信契約の『申込書』を視聴者に送った時点で自動的に契約が成立する」「視聴者が承諾しなくても、放送法に基づいて支払いの義務が生じる」というもの。
もっとも、「この事件の一審・東京地裁判決は『申込書を送っても、承諾しなければ契約は成立しない』と判断。『判決が男性に承諾を命じた時点で契約が成立する』と結論づけ、二審も支持した。他の訴訟の判決でも同様の考え方が主流だ。」(日経)と報じられている。
NHKが、契約未締結の視聴者を被告として、裁判所に「受信契約承諾の意思表示を求める訴訟」を提起し、これに勝訴すればその時点で受信契約が成立する。これが、一審判決の構成。これを前提にすれば、NHKは、契約未締結者の一人ひとりにこのような提訴をしなればならず、煩わしさを覚悟しなければならない。しかし、その覚悟さえあれば、訴訟によって契約未締結者との契約を成立せしめることができることになる。
どうしてそんなことができるのか。NHKと視聴者との関係を規律しているのが、放送法第64条1項。〈受信契約及び受信料〉という標題が付けられた、やや奇妙な条文である。
分かり易く、同条1項本文を整理するとこうなる。
「NHKテレビ放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、NHKとの間において、その放送の受信についての契約をしなければならない。」
一応は、「NHKテレビを受信することのできる受像器を設置した者」に対する契約締結を命じる内容とは読める。しかし、この「しなければならない」は、「したものと見なす」ではない。「しなければならない」の強制手段について触れるところはなく、視聴者がこの規定に従わなかった場合の効果はまったく記載されていない。「契約をしなければならない」にもかかわらず、契約をしなかった場合はどうなるのだろうか。
この64条の規定が裁判規範として法的拘束力をもつものか、それとも訓示規定に過ぎないか。それは定かではない。そもそも、法が「契約締結」を命じうるかが、問われなければならない。
「やや奇妙」というのは、本来契約は自由だからである。契約を締結するかしないか、誰とどのような内容の契約を締結するか、すべて自由であることが想定されている。契約の方式や内容については弱者保護の政策的理由から種々の規制がある。また大量の契約を斉一的に取り扱う必要からも、約款における「契約自由の原則」は変容している。とはいえ、契約締結それ自体を命じる法の条文には、「ナニこれ?」という違和感を禁じ得ない。本当に、放送法64条を裁判規範と理解し、その効果として契約締結を認めうるのだろうか。
国民に義務を課することが可能かと問われている場面である。裁判規範としての法的効果が明示されていない条文を、解釈で補って、これを根拠に義務を課することには慎重でなくてはならない。
また、受信料を契約上の債務とした放送法の趣旨を吟味しなければならない。放送法は、戦前のNHKが権力と一体化したメディアとして戦争や植民地支配そして思想の統制に果たした役割への徹底した批判と反省に立脚して制定されたものと理解しなければならない。
NHKを常に国民の批判に曝されたものとし、国民の負託に応えるべく自覚を継続するに適合した制度として、契約による受信料支払いの制度を構築したものと考えるべきである。契約は、飽くまで自由である。64条は訓示規定と読むべきである。視聴者各自がNHKのあり方に納得し容認して、各自のその意思に基づいて、NHKを支えるべく契約締結に至ることを想定しているというべきである。
あるいは、NHKが、放送法1条や4条に記載された公共放送としてのあり方に適合していることを当然の前提として、放送法64条があると読まねばならない。
このように解して初めて、国民が支えるNHKであり、国民の批判に謙虚に耳を傾けるNHKとなる。軽々に、「64条の効果として、裁判所は判決で契約締結を命じうる」としてはならない。
(2016年11月14日)
2003年10月、東京都の石原教育行政が、悪名高い「10・23通達」を発令して以来、予防訴訟を皮切りに、都(教委)を被告とする数多くの訴訟が提起されました。その訴訟の支援を軸として、日の丸・君が代への起立斉唱の強制に象徴される「教育の自由剥奪」に反対する運動が組み立てられています。
多くの「10・23通達」関係訴訟支援運動を糾合する組織として結成されたものが、「教育の自由裁判をすすめる会」。その<共同代表>が、下記の9人です。
市川須美子(獨協大学、日本教育法学会会長)
大田 尭(東京大学名誉教授)
尾山 宏(東京・教育の自由裁判弁護団長)
小森陽一(東京大学大学院教授)
斎藤貴男(ジャーナリスト)
醍醐 聰(東京大学名誉教授)
俵 義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)
野田正彰(関西学院大学教授)
堀尾輝久(東京大学名誉教授)
訴訟を担当する者の一人として、物心両面において訴訟を支えていただいていることに厚く感謝申しあげます。
その「会」の定期総会も回を重ねて今年は第12回。下記の要領で開催されます。
日 時 12 月3 日(土) 13:30 ?
会 場 東京・渋谷区立勤労福祉会館(渋谷駅下車徒歩7 分)
第1部 総会行事
弁護団挨拶 加藤 文也弁護士
原告団報告
すすめる会活動報告・方針 人事等
第2部 記念講演
講 師 木村 草太(首都大学東京教授)
「君が代不起立問題の視点―なぜ式典で国歌を斉唱するのか?」
会は、「どなたでもご参加いただけます。」「会員以外の方も大歓迎です!」と呼びかけています。是非、木村草太さんの記念講演に耳を傾けてください。
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ところで、共同代表のお一人である醍醐聰さんが、定期総会にメッセージを送られ、これをご自分のブログに掲載されています。タイトルが、「『国家の干渉からの自由』を超えて『国家への干渉の自由』を」というもの。いつもながら、示唆に富む内容だと思います。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d56e.html正確には、ブログで醍醐さんのメッセージの全文をお読みいただくとして、タイトルと3本の小見出しをつなぐことで、大意と問題提起の把握は可能です。
☆『国家の干渉からの自由』を超えて『国家への干渉の自由』を
☆「内心の自由」は個人の尊厳を守る最後の砦
☆意見の違いは「認め合う」だけでよいのか?
☆「日の丸・君が代」強制に対する「攻めの運動」を
今、運動のスローガンとなっている「思想・良心の自由」擁護とは、外的な行為とは切り離された「内心レベルの自由」を権力の侵害から護ること。これは、個人の尊厳を守る最後の砦ではあるが、いま、これだけではなくもっと能動的な「攻めの運動」の必要があるのではないか。社会や権力に、各個人の意見の相違を認めさせるだけにとどまらず、活発に表明された意見の交換を通じて、公権力の政策を変更するよう働きかける権利を確立することを目的とすべきではないだろうか。つまり、獲得すべき目標は、『国家の干渉からの自由』を超えて『国家への干渉の自由』であるべきと問題提起したい。
弁護団の一員として訴訟実務を担っている立場から、この問題を受け止めて、以下のとおり、多少の釈明を申しあげます。
13年前この事件に取り組んで以来、「教育の自由」と「精神的自由」の二つの分野の問題として考え続けてきました。「教育の自由」は制度の問題です。憲法26条(国民の教育を受ける権利)に支えられ、教育基本法に明記されている、教育行政は教育の内容に不当な支配を及ぼしてはならない、とする大原則。そして「精神的自由」は、19条(思想・良心の自由)、20条(信仰の自由)、そして21条(表現の自由)の内心のあり方とその表現の人権問題です。
「君が代」不起立を、19条違反の問題として構成するか。21条問題として把握するか。実務的な感覚からすれば、ハードル低い19条問題とすることは当然でした。19条で保障された各人の思想・良心が外部に表出したものが表現ですから、21条で保障された表現行為は必ず他者と関わりを持ちます。それだけに、19条よりは21条の保障の意味が大きく、要件のハードルが高くなります。
憲法の標準的な教科書には、19条の権利保障は絶対的なもので制約はできないとするものが多いのですが、これは19条の権利性を厳格に内心に限定していささかの外部的行為も伴わないことを前提としてのことです。「君が代」不起立は、受動的なものではありますが、「不起立」という不作為の外部的行為を伴います。しかし、これは21条の表現の自由の問題ではない。19条の思想・良心の保障に不可避的に付随する態様のもので、これも19条の絶対的な権利保障の範疇に入るものとして考えるべきだと主張したのです。これが、アンコをごく薄い皮一重で包み込んだ「薄皮まんじゅう」をイメージしての「薄皮まんじゅう理論」。アンコが「(内面の)思想・良心」、その自由を護るために不可欠の薄皮一枚が「不起立」という受動的な身体的所作。薄皮一枚を被せたところで、アンコはアンコ。これを被せた途端に19条の権利性が失われるのは不合理きわまるという理屈です。
不起立を、積極的に思想や良心を外部に表出する表現行為と構成すれば、たちまちに他の法的な価値、生徒やその父母や行政裁量などとの調整の問題が生じてきます。憲法の用語で言えば「公共の福祉」による制約の問題です。
「内心の自由」とそれを表現する「外的行為の自由」は、ご指摘のとおり、本来切断のしようがありません。11月11日のブログで紹介した、クリスチャンである原告のお一人が、こう言っています。
「人の心と身体は一体のものです。信仰者にとって、踏み絵を踏むことは、心が張り裂けることです。心と切り離して体だけが聖像を踏んでいるなどと割り切ることはできません。身体が聖像を踏めば、心が血を流し、心が病気になってしまうのです。」「「君が代」を唱うために、「日の丸」に向かって起立することも、踏み絵と同じことなのです。」
人の心と身体を切り離して、「『起立・斉唱・ピアノ伴奏』という『外部的行為』は、どのような思想・良心をもとうとも、その内容とは関わりなく、誰にもできるはず」というのが、都教委の「理屈」となっています。「起立して斉唱する」という、日の丸・君が代への敬意表明の身体的動作は、挨拶や会釈と同じ程度のものという感覚なのです。
醍醐さんのメッセージの中に、「『沈黙する自由』は人間としての尊厳を守る最後の砦」という一文があります。まことにそのとおりなのですが、今、教育公務員について問題にされているのは、「不起立の自由」の有無です。積極的に抗議する自由ではなく、意見を述べる自由ですらなく、権力の作為命令に人間としての尊厳をかけての抵抗が権利として認められるか否かのぎりぎりの瀬戸際。
これが教育の場での現実です。明日の主権者を育てる教育現場のうそ寒いこの実態をご理解いただき、まずは「公権力の干渉からの自由」を確立することに集中し、その成果の上に、さらなる「国家への干渉の自由」獲得を展望したいと思います。そのための息の長い運動に引き続いてのご支援をよろしくお願いします。
(2016年11月13日)
敬愛するドナルド・トランプ次期大統領閣下。
貴国の従属的同盟国の総理・アベでございます。
大統領選の結果判明のその瞬間まで、私ども官邸は閣下を当選の見込みない泡沫と決めこんで、貴国の次期大統領はヒラリー・クリントン氏と予定した行動をとっておりました。これは、ワタクシの無能な部下の愚行とご寛恕いただきたく、非礼をお詫びするための拝謁の機会を得たくご連絡するとともに、併せて厳粛に属国並みの忠誠を誓約申しあげます。
思えば、ワタクシと閣下とは、人種差別の心情や反知性の粗暴な人格において、また反リベラルの右翼思想においても、排外的なナショナリストとしても、似た者同士と申しあげてよろしいかと存じ、僭越ではありますが、頗る親近感をいだいております。ホンネのところで、これほどぴったりと価値観を共有する同盟国の首脳は他にないとの思いを強くしているところでございます。
閣下同様ワタクシも、従来の保守・中道政権が国民から飽きられたことを奇貨として、右翼を基盤に政権を獲得したのでございます。政権の支持基盤が極端に右傾化しましたから、ワタクシもリベラル派からは悪評噴出して「私の首相ではない」「私たちの政権ではない」「アベ政治を許さない」と悪評さくさく、反発は今なお根強いところでございます。とりわけ、ワタクシの政権になって以来、ヘイトスピーチ・ヘイトデモ・ヘイトクライムが、社会に蔓延いたしました。これも、閣下の場合と兄弟相和するものとして、親近感を強くする所以のひとつなのでございます。
そのような思いから、属国の身をかえりみず、多少はお役に立つべきことを申しあげたいと存じます。
今、閣下は、合衆国大統領への就任を目前として頗る緊張のご様子とお見受けいたします。しかし、ナニ、ご心配には及びません。ワタクシごときに日本国首相が務まるのです。文字通り浅学非才、人格低劣、政治的見識皆無。単なる「右翼の軍国主義者」に過ぎないワタクシにおいてです。閣下に大統領職が務まらぬはずはありません。政策の立案・実行は、すべてしかるべき官僚が行うのですから、御輿の上の木偶人形が緊張したり心配したりの必要はございません。トップというものは、しゃべって物議を醸す生身よりは、しゃべらぬ木偶の方がずっとマシなのでございます。
ただ、これだけはやっかいです。閣下の支持基盤の中核は右翼ないし極右です。激しい人種差別の感情に駆られた排外主義者が貴政権の最も熱狂的な支持者となっています。この支持者の熱狂に応えたいのが、閣下の真意ではあろうと忖度申しあげますが、実はそれがなかなかやっかいなこと。「公約を破るのか」「選挙民を欺したのか」「おまえには何枚舌があるのか」という非難を覚悟で、この右翼勢力を宥めなければなりません。ここがたいへんに難しいところ。
ワタクシも靖国派や日本会議や、諸々の極右勢力の支援によって政権に就きました。この勢力の要望こそがワタクシの政治信条のホンネなのです。ですから、直ぐにでも9条改憲を実現したい。天皇の元首化をはかりたい。全国民に国旗国歌尊重を強制したい。核武装もしたい。沖縄を押さえつけて米軍基地の拡充を実現したい。「神武は実在した」「南京事件は幻だ」という教科書を津々浦々に普及したい。NHKを官邸の広報チャンネルとして純化したい。全閣僚の堂々の靖国神社参拝を実現したい。…願望は、やまやまですができないのです。第1次アベ内閣当時、ワタクシは権力の座にあればなんでもできると思っていまして、憲法改正の序章と位置づけた教育基本法改正には手を付けましたが、それも不十分なままで、結局はそれまで。それ以上のことはできなかったのです。結局は選挙に負けて、前代未聞のみっともないありさまで政権を放棄しました。是非、その轍を踏まれることのないよう、ワタクシを反面教師としてご用心ください。
ところで、問題は日米軍事同盟です。閣下は、選挙期間中日米軍事同盟の片務性を大いに問題にし、「アメリカが日本を守ってやっているのに、日本はそのコストを払っていない」「コストの全額を払わないなら米軍は撤退する」「日本は、核兵器でも何でも持って自国を守るべきだ」と繰り返して来られました。
失礼ながら、閣下が日米軍事同盟やガイドライン、そして沖縄を中心とする目下の基地問題にどれだけ通暁しておられるのか懸念なしとはしませんが、おっしゃっていることには一理あると感服しています。
とりわけ、日本の核武装の問題。日本国民の核アレルギーにはなかなかに根の深いものがあり、残念ながら直ぐには実現する見通しは薄いと考えざるをえません。しかし、これまでの貴国大統領とはまったく立場を異にし、我が国に核武装を促すとは、さすがに見上げた見識。閣下とワタクシとで、日本の民衆の核アアレルギー解消を目標とする「新日米同盟関係」を打ち立てることにご賛同いただけたら幸甚に存じます。
おっしゃるとおり、中国のみならず北朝鮮までが核をもっている北東アジアの軍事環境下で、日本が核に関して丸腰では軍事バランスを欠いて平和が危ういと言わざるを得ません。日本をめぐる国際環境が核開発を許すのなら、幸いに日本はプルトニゥム保有大国です。一部は貴国の要請に応じて返還したとは言え、未だに核弾頭5000発分と見積もられているプルトニゥムは他の用途なく、処理に困っておるところでございます。潜在的核保有国と言われる我が国が、核武装することにさしたる時間は要しません。核爆弾の運搬技術は種子島で実験を重ね、既に軍産学協調の成果として完成の域に達していますから北朝鮮に対して核優位に立つことはいともたやすいこと。
これこそ、新しい核の抑止力に基づく平和を切り開く、「トランプーアベ親密外交新時代」。是非とも国民の核アレルギーの払拭を通じての核抑止力均衡に基づく積極的平和の実現に向かってともに努力を重ねていこうと、かように愚考いたしております。
誠惶誠恐頓首々々謹言
(2016年11月12日)
本日(11月11日)、東京都(教育委員会)を被告とする「東京『君が代』裁判」4次訴訟の原告本人尋問。前回10月14日と同様に、午前9時55分から午後4時30分まで。起立斉唱命令に違反として懲戒処分を受け、その取消を求める教員6名が胸を張ってその思いの丈を語った。
前回の7人に続いて、本日で合計13人の原告尋問が終了した。閉廷後の報告集会で、原告団の世話人のお一人は、これを「13人がタスキをつないで、最後のアンカーまで走り抜いた」と駅伝にたとえた。私はオーケストラにたとえたい。それぞれが、個性的な演奏をしながら、全体が美しいハーモニーを響かせた。素晴らしい法廷だった。
「国旗・国歌」、あるいは「日の丸・君が代」に敬意の表明を強制されて受け入れがたいとするそれぞれの教員の理由は各々異なって多彩である。本日法廷に立った原告6名は、それぞれの教育実践を語り、生徒に寄り添ったよりよい教師であろうとすれば、何よりも生徒を中心とした教育の場を作らねばならならず、「国旗国歌」あるいは「日の丸・君が代」を主人公とするごとき儀式を受け容れることが出来ないことを語った。
また、自らの歴史観、倫理観を語り、公権力が国家主義的価値観を全生徒と教職員に強制して、多様な価値観の共存を容認しない思想統制の不当を訴えた。
6人のうち、2人が信仰をもつ者(いずれもキリスト教徒)で、信仰者であることを公表し、信仰ゆえに国歌斉唱時に起立できないとした。
ひとりの原告はこう語っている。
自分は、35年の教員生活で、君が代斉唱時に起立したことは一度もない。自分の信仰が許さないからだ。自分には、「日の丸」はアマテラスという国家神道のシンボルみえるし、「君が代」は神なる天皇の永遠性を願う祝祭歌と思える。
ところが、やむにやまれぬ理由から、卒業式の予行の際に一度だけ、起立してしまったことがある。それが9年前のことだが、「いまだに心の傷となって癒えていない」「このことを思い出すと、いまも涙が出て平静ではいられない」という。
「神に背いてしまったという心の痛み」「自分の精神生活の土台となっている信仰を自ら裏切ったという自責の念」は、自分でも予想しなかったほど、苦しいものだったという。そして、「私はどうしても「日の丸」に向かって「君が代」を斉唱するための起立はできません。体を壊すほどの苦痛となることを実感した」と述べた。
その上で、裁判所にこう訴えた。
「人の心と身体は一体のものです。信仰者にとって、踏み絵を踏むことは、心が張り裂けることです。心と切り離して体だけが聖像を踏んでいるなどと割り切ることはできません。身体から心を切り離そうとしても、できないのです。身体が聖像を踏めば、心が血を流し、心が病気になってしまうのです。
「君が代」を唱うために、「日の丸」に向かって起立することも、踏み絵と同じことなのです。キリスト者にとっては、これは自分の信仰とは異なる宗教的儀礼の所作を強制されることなのです。踏み絵と同様に、どうしてもできないということをご理解いただきたいと思います。」
また、次のような質問と回答があった。
問 最高裁判決は、「卒業式等における起立斉唱等の行為は、一般的、客観的に見て、儀式的行事における儀礼的所作であるから、これを強制しても直ちに思想や良心を侵害することにはならない」と言っています。キリスト者として、あなたはこの最高裁の考え方をどう思いますか。
答 儀式的行事における儀礼的所作だから、宗教とも思想良心とも無関係というのは、間違っていると思います。宗教は儀式や儀礼的所作と大いに関係します。先ほど申しあげたとおり、「日の丸」に向かって起立し、「君が代」を斉唱する行為は、宗教的な意味を持つ儀式での儀礼的所作だと思います。
これは、示唆に富むところが大きく深い。宗教と儀式・儀礼は切り離せないものではないか。「儀礼的所作だから宗教性がない」などと言えないことは自明ではないか。キリスト者である原告から見れば、「日の丸」も「君が代」も国家神道のシンボルであって、その強制は、都教委の思惑如何にかかわらず、キリスト者である原告の信仰や宗教的信念を圧迫し侵害している。
宗教は、何ゆえに儀式や儀礼と結びついたのか。身体的な所作が、精神の内面に及ぼす影響あればこそである。それぞれの宗教に、それぞれ特有の礼拝の方式があり、特有の身体的な所作による宗教行事がある。宗教結社ができてからは、特有の宗教的なシンボルとしてのハタやウタが作られ、集団的な儀式や儀礼を共同することによって、共通の信仰を確認し合うことになった。
このことは、実は宗教に限らない。政治結社や思想団体にも、あるいは軍隊や国家の統治にも通底するものである。ナチスは、ヒトラーへの個人崇拝や第三帝国に対する忠誠心を涵養する手段として、非宗教的な儀式的行事を繰り返した。マスゲームや合唱や聖火行列や制服着用や独特のポーズ等々の身体的な所作を共通にすることが、集団的一体感や忠誠心を高揚させる手段として意識的に使われた。
日の丸・君が代、また然りであって、その役割は戦前戦後を通じて基本的に変わらない。とりわけ、集団的な式典において、「日の丸」を掲揚して全員でこれに正対し、「君が代」を合唱する行為は、信仰を持つ者にとっては明らかな宗教的儀式における宗教的儀礼としての集団的な所作である。その宗教性を捨象しても、「起立・斉唱」という身体的な所作を集団的に強制することによって、日の丸・君が代が象徴するものへの帰依や忠誠の心情を強制することにほかならない。
また、宗教者に対する「日の丸・君が代」強制は、神戸高専剣道受講強制事件の構造と酷似している。
この事件では、学校側は「生徒に剣道の授業を受けさせることが、特定の宗教性を持つ行為の強制とは考えられない」と主張した。しかし、「自分の信仰は人と争う技を身につける授業の受講を許さない」という生徒との関係においては、剣道の受講を強制してはならないと最高裁が認めたのだ。
「「君が代」を唱うために、「日の丸」に向かって起立することも、踏み絵と同じことなのです。キリスト者にとっては、これは自分の信仰とは異なる宗教的儀礼の所作を強制されることなのです。踏み絵と同様に、どうしてもできないということをご理解いただきたいと思います。」という原告の心の叫びに、最高裁はもう一度耳を傾けなければならない。
なお、同じ原告はこうも言っている。
「卒業式は最後の授業です。そして、門出です。生徒を主人公として、さまざまな工夫の積み重ねがされてきました。それを「10・23通達」が破壊しました。通達後、学校の主人公は、一人ひとりの生徒ではなく、日の丸・君が代になってしまいました。つまりは国家が主人公ということです。」
「そのことを象徴する、こんな事例がありますか。ある養護学校で、筋ジストロフィー症の生徒の呼吸器に不具合が生じて、「君が代」斉唱時に緊急を知らせる「ピーピー」というアラームが鳴ったという事件がありました。看護師が走り寄ってかがみこんで処置をしている最中に、副校長がそばに来て『起立しなさい』と命じたのです。『大丈夫ですか』と生徒を気遣うのではなく、『起立しなさい』なのです。「10・23通達」以前には、まったく考えられなかったことです。生徒の命よりも、君が代を大事にするという恐ろしいことになったと思いました。」
分かり易い。これが今の都教委の姿勢だ。「10・23通達」の精神の表れなのだ。
(2016年11月11日)