DHCと吉田嘉明氏を反訴被告とするDHCスラップ反撃訴訟
反訴被告本人・吉田嘉明氏の尋問が決定しました。
次回法廷は4月19日(金)午後1時30分?
東京地裁415号法廷(東京地裁・4階)
本件の主役・吉田嘉明氏の本人尋問が行われます。
皆様、ぜひ傍聴にお越しください。
どなたでもなんの手続も不要で傍聴できます。
「DHCスラップ反撃訴訟」についての本日の法廷で、ついに吉田嘉明の本人尋問採用が決まった。裁判所は、反訴原告側から申請のあった反訴原告本人(澤藤)と反訴被告本人兼反訴被告DHC代表者(吉田嘉明)、および反訴被告側から申請のあったDHC従業員(U氏)の3名を採用することを決定した。尋問期日は、4月19日(金)午後1時30分から。場所は415号法廷を予定。但し、尋問の順序や時間などの細目については、2月7日(木)に進行協議期日を入れて、詰めることとした。まずは、目出度い。これで、勝訴への大きな一歩の前進ができたと思う。
DHCと吉田嘉明が、私(澤藤)を被告として6000万円を支払えとの訴訟提起したのが「DHCスラップ訴訟」。当然のこととしてこの訴訟は最高裁の上告受理申立不受理決定で私の勝訴が確定した。しかし、それで問題解決とはならないし、解決としてはならない。こんなムチャクチャな裁判を掛けて言論妨害をした人物になんの制裁もないで済ますことはできない。済ませてはならない。それでは、表現の自由が泣くことになるだろう。憲法も涙する。
表現の自由を救うために、憲法に笑顔を取り戻すために、今、スラップに対する反撃訴訟が進行中である。つまり言論抑圧の意図をもった恫喝訴訟の提起自体が不法行為を構成するのだから、損害を賠償せよという攻守ところを替えての反撃訴訟である。もっとも、DHC・吉田側の請求額が6000万円であったのに対して、私の請求額は660万円というささやかなものだが。
この事件の主役・吉田嘉明(反訴被告本人兼反訴被告DHC代表者)の尋問を正式に申請したのが、2018年10月5日。異例の、やや長文にわたる「反訴被告吉田の尋問の必要性」の記述を付してのこと。もちろん、私(澤藤)の尋問も併せて申請している。私と吉田嘉明の双方について、尋問採用されたいと書面を出したのだ。
これに対して、反訴被告側の代理人(今村憲弁護士)は、同月19日付で「意見書」を提出した。吉田嘉明の尋問は必要がないというだけでなく、反訴原告(澤藤)の尋問も必要がないという趣旨。おやおや、せっかく法廷で信じるところを述べる機会ではないか。堂々と法廷に立てばよいのに。
同月26日の法廷で裁判所は反訴被告(DHC・吉田嘉明)側に再考を促した。しかるべき人証の申請を考えてはどうかというアドバイスである。
裁判所から再考を促されて、反訴被告ら代理人(今村憲弁護士)は、12月7日付でDHCの従業員(総務部長)のU氏を証人申請し、その陳述書も提出した。
反訴原告側は1月8日付で、長文の「被告の証拠申請に関する意見書」を提出した。U氏の証人採否に特段の意見はないが、その採否の如何にかかわらず吉田嘉明の本人尋問は本件の審理のために必要不可欠である、との趣旨。この意見書が説得力をもつものだった。結局、裁判所(東京地裁民事1部・合議係)は、吉田嘉明・澤藤・U氏、3人の尋問採用を決定した。
通例、人証(証人や当事者)は、各当事者がそれぞれの味方となる人物を申請する。しかし本件では、反訴原告は、敢えて敵性の人証となる吉田嘉明を申請した。DHC・吉田嘉明から私や、他の吉田嘉明批判者に対する巨額賠償請求の提訴が、どのような意図や動機をもってなされたか、その立証のためにぜひとも必要なのだ。
本件6000万円スラップ提訴についての違法性有無の判断には、提訴に言論抑圧の意図や動機があったか否か、つまり主観的な要素が重要な役割を担っている。その主観的な意図や動機を語ることができるのは、吉田嘉明本人を措いて他にない。公正な審理と判決とは、吉田嘉明の本人審問を抜きにしてはあり得ない。
ことの初めは2014年の3月。吉田嘉明が週刊新潮に手記を掲載したことである。この手記には驚いた。吉田嘉明は、政治家渡辺喜美に裏金8億円を渡していたということを、臆面もなく自ら滔々と述べているのだ。当然のことながら、吉田嘉明は、多くの人からの批判に曝された。私も当ブログで、「政治が金によって動かされてはならない」とする至極真っ当な批判をした。このような批判の言論が封じられてはならない。
ところが、吉田嘉明は突然に私を提訴した。最初は2000万円の請求だった。私が、このDHC・吉田嘉明の提訴は違法なスラップ訴訟だとブログで批判し始めた途端に、2000万円の請求は6000万円に跳ね上がった。吉田嘉明の提訴の目的が、言論の抑制にあったことは明らかではないか。
このスラップは、もともとが勝訴の見込みのない提訴なのだから、最高裁まで争った挙げ句に、私(澤藤)の勝訴で確定した。しかし、勝つには勝ったものの、やりっ放し・やられっ放しだ。吉田嘉明のやり得、私のやられ損のままだ。メチャクチャな裁判をかけておいてDHC・吉田嘉明は、なんの制裁も受けていない。こんな不法が放置されてよかろうはずはない。スラップ常習のDHC・吉田嘉明に対しては、「スラップ提訴が違法だから損害を賠償せよ」「スラップは却って高くつくぞ」ときちんと思い知らせなければならない。そのための「反撃訴訟」が今継続中である。この訴訟は、債務不存在確認請求の形で、DHC・吉田嘉明の側から起こされた。今は、債務不存在確認請求訴訟に対する反訴という形で、スラップを違法とする反撃訴訟が闘われている。反訴原告が私(澤藤)、反訴被告がDHCと吉田嘉明の二人となっている。
この反撃訴訟、本日の吉田嘉明採用で、公正な審理と勝訴判決に一歩近づいた。こいつは春から、縁起がよいわい。
(2019年1月11日)
東京都教育委員会は、自由も人権も憲法も民主義も知らない。もちろん、思想・良心・信仰の自由のなんたるかも知らない。その侵害を受けている人の苦悩を知ろうともしない。都教委が心得ているのは、国家至上主義強制の技術だけ。200年前のキリシタン迫害の幕府の役人、あるいは100年前の天皇制警察や憲兵隊と心情において大差ない。都教委恐るべしなのだ。
たまたま石原慎太郎という極右政治家が都知事となって、分身のオトモダチを教委に送り込んだ結果の極端な右偏向と考えていたが、どうやらそれだけではなさそうだ。ポスト石原の今も、なんの変化もない。小池百合子知事のナショナリストぶり、ヘイト感覚も相当なものなのだ。
都教委の国家主義姿勢の象徴が、「10・23通達」である。卒業式や入学式式では、会場正面の国旗に正対して起立し国歌を斉唱せよというもの。これを懲戒処分をもって強制し続けているのだ。キリシタンに対する踏み絵と同じこと。信仰を貫こうとすれば、迫害を甘受しなければならない。信仰を捨てれば、自責の念に苛まれることになる。いま、首都東京の公立学校の教職員のすべてがこのジレンマの中に置かれている。
かつて、都立高校は「都立の自由」を誇りにした。誇るべき「自由」の場には国旗も国歌も存在しなかった。国旗国歌あるいは「日の丸・君が代」という国家象徴の存在を許容することは、「都立の自由」にとっての恥辱以外のなにものでもなかったのだ。
事情が変わってくるのは、1989年学習指導要領の国旗国歌条項改定からだ。1999年国旗国歌法制定によってさらに事態はおかしくなった。都立高校にも広く国旗国歌が跋扈する事態となった。それでもさすがに強制はなかった。校長や副校長によって、式の参列者に「起立・斉唱は強制されるものではない」という、「内心の自由の告知」もされた。教育現場にいささかの良心の存在が許容されていたと言えよう。
この教育現場の良心を抹殺したのが、2003年石原慎太郎都政2期目のことである。悪名高い10・23通達が国旗国歌への敬意表明を強制し、違反者には容赦ない懲戒処分を濫発した。この異常事態をもたらしたのは、極右の政治家石原慎太郎と、その腹心として東京都の教育委員となった米長邦雄(棋士)、鳥海巌(丸紅出身)、内舘牧子(脚本家)、横山洋吉(都官僚)らの異常な教育委員人事である。
処分は当初から累積加重が予定され、教員の思想や良心を徹底して弾圧するものとして仕組まれていた。不起立回数が増えれば確実に職を失うという恐怖の中で、多くの教員がやむを得ず強制に服してきたが、明らかに教育の場に面従腹背の異常な事態が継続しているのだ。
2004年1月以来、この国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の違憲性をめぐる訴訟が繰り返され今も続いている。違憲違法を主張する教員側は最高裁での違憲判決を勝ち得ていない。しかし、都教委側も敗北を喫している。最高裁は、処分を違憲とは言えないとした。しかし、同時に処分は抑制的でなければならず、原則として戒告にとどめるべきだとして、減給以上の処分を軒並み取り消している。
最高裁第1小法廷2012年1月16日判決は、「不起立行為等に対する懲戒において戒告を超えて減給の処分を選択することが許容されるのは、学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情が認められる場合であることを要すると解すべきである」という。「日の丸・君が代」強制が違憲とは認めないものの、都教委の横暴は許さない判断。
現在、処分取消の第4次訴訟が最高裁事件として係属している。すべての処分の違憲・無効を争うとともに、懲戒処分4回目・5回目のQ教諭の件が大きな問題となっている。
同教諭は、自分の信念に基づいて静かに着席していただけで、他に教育者としてなんの落ち度もない。これに対して、都教委は戒告を超えて減給(10分の1・1か月)を科したのだ。当然のごとく、1審も2審も、Q教諭の勝訴となった。東京地裁も東京高裁も、両減給処分を取り消した。ところが、都教委は往生際が悪い。これを最高裁に上告受理申立をしている。よもや最高裁で勝訴判決が逆転するはずはないが、原告団と弁護団は、これに対する精一杯の対応に追われている。
Qさんが起立できなかったのは、自身の生き方や教員としての思想・良心に真摯に向き合った結果としての、やむを得ない選択であった。形式的に職務命令違反にあたるとしても、その理由・動機は決して非難されるものではない。Qさんの声に耳を傾けていただきたい。
『君が代』斉唱時に、『日の丸』に向かって起立し、それらに敬意を表すという所作は、私にとっては、かつての日本によるアジアに対する侵略戦争や植民地支配のシンボルでもある歌や旗に敬意を示すということであり、私の歴史観に照らして、それらの歌や旗に敬意を示すということは、平和に生きる権利を否定し民族差別を肯定する行為なのです。したがって、私にとって、『君が代』斉唱時に起立斉唱することは、単なる『慣例上の儀礼的所作』ではありません。
東京都教育委員会は『教師が生徒に対して起立斉唱する姿を見せること、範を示すことが大切である。』と言います。しかし、本来なら反対すべき、と考えている『日の丸』や『君が代』に対して、私が起立斉唱することで敬意を表す姿を生徒に見せることは、私自身の教員としての良心が痛むのです。
私が起立斉唱すれば、生徒に対しての『日の丸』や『君が代』強制に、私自身も加担することになってしまいます。そのことは、私にとっては、自分自身の教育の理念に反する、大変に辛いことなのです。どうしても命令には従うことができないのです。
私の教員としての良心は、児童生徒に一方的な価値観をすり込んではならない。そして児童生徒の前で教員が恥じるような行為を行ってはならないというふうに考えています。日の丸や君が代に対して、生徒の前で私が敬意を表することによって児童生徒はそれらに敬意を表明することが絶対的に正しいものだというふうに理解します。そのことは一方的な価値観をすり込むことであって、私の教員としての良心がゆるしません。
Qさんは、個人の思想・信条(歴史観)とともに、自身の教員としての良心に基づいて、生徒に対して一方的な価値観を教授することはできないとする立場から、起立斉唱することができなかったのだ。都教委は、この思想も捨てよ、良心も曲げよというのである。
そして、今当面の最重要問題は、不起立の回数が増えたら、具体的には4回目・5回目の不起立となれば、「戒告を超えて減給の処分を選択することが許容される相当性を基礎付ける具体的な事情が認められる場合」に該当するかが問われている。
これに関するQさん自身の解答は次のとおりである。
私の思想・良心は1個のものです。その1個の思想・良心が、私に「日の丸・君が代」に対する起立斉唱はしてはならないと命じています。私自身は、この思想・良心を変えてはならないと考えていますし、憲法が保障する思想・良心の自由とは、私の思想・良心を変えるよう強要されないことではないでしようか。
卒業式や入学式のたびに、悩みながらも勇気を奮い起こして、思想・良心の自由を行使することになります。私が私である限り、同じ状況で同様の職務命令が出されれば、やむを得ず不起立ということになってしまうのです。
私自身に命令に従って起立せよと言うのは、思想を捨てろ、転向しろという、そういった意味になると考えています。
Qさんとしては、思想・信条を転向又は放棄しない限り、処分は免れないのであって、このような自らの歴史観や教師の良心に対する真摯な思いから起立できないQさんに対して、懲戒処分を加重することは、その思想・良心に対して過度な制約を科すこととなる。これが、現代における踏み絵の実態にほかならない。
(2019年1月10日)
DHCとは、今の世に珍にして奇なる存在。
デマとヘイトとスラップの三拍子を兼ね備えた、三冠王企業。
そのデマとヘイトを象徴するのが、「ニュース女子」放送事件
頃もよし、辺野古大浦湾埋立問題が天下の関心を集めるさなかに
「終わっていないぞ! DHC『ニュース女子』問題2周年!」
「沖縄ヘイトを許さない集い」のご案内
メインの講演は、安田浩一さん
「ニュース女子」沖縄デマは形を変えて拡散中
辛淑玉さんの DHC「ニュース女子」裁判報告も。
主催 沖縄への偏見をあおる放送を許さない市民有志
2019年1月12日(土)18:00?20:30
文京区民センター 2A
文京区民センターは、都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、または東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5分。
地図→http://www.yu-cho-f.jp/wp-content/uploads/kumin_map.pdf
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音楽会や観劇の際には、たくさんの同種催しの宣伝物をもらうことになる。いずれも、カラフルで気の利いたデザイン。いつの間にか、どの市民運動の集会に参加しても、多くの集会案内チラシが配布されるようになった。東京中で、こんなにも市民集会が多いのかと心強い。しかも、最近の集会案内のチラシがカラフルで立派になったのには感心する。中には企業の宣伝と見まがうばかりのものもある。
先日文京区民センターで開かれた文京革新懇主催の集会に参加したところ、やはり多くのチラシをいただいた。そのなかに、いかにも昔ながらの、見映えのしない単色のチラシ。却って、それが目を引いた。
そのチラシで、1月12日(土)の「沖縄ヘイトを許さない集い」を知った。
テーマは沖縄ヘイトである。しかも、辺野古新基地建設反対運動に関わること。そのテーマで、安田浩一さんが語る「DHCのデマとヘイト」。これは興味津々。即座に、日程を手帳に入れた。そして、多くの人にこの集会にご参加いただきたいと思う。
この集会の主催は、「沖縄への偏見をあおる放送を許さない市民有志」。この「市民団体」、あるいは「市民運動」は、以前から名前だけは知っていた。この団体がつくった2種類のタグはいつも身につけている。気の利いたもので、気に入っている。
その一つが、「DHC 私は買いません」というもの。もう一つが、「D(デマと)H(ヘイトの)C(カンパニー)」。よくできている。面白い。
以下は、この団体がつくった、別のビラからの引用。
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テレビで偽ニュース? ウソでしょ!
(ウソはダメ! ヘイトはダメ!)
東京MXテレビ『ニュース女子』をゆるさない。
DHCシアター(現DHCテレビ)などが制作し、2017年1月2日に東京MXテレビが放送した情報バラエティー番組『ニュース女子』は、一切裏付け取材を行わずにつくられた偽ニュースでした。番組内では沖縄で米軍基地建設に反対する人たちが誹謗中傷され、差別と排外主義があおられました。
私たち「沖縄への偏見をあおる放送をゆるさない市民有志」は、地上波テレビで沖縄へのデマやヘイト(差別をあおる憎悪表現)がばらまかれたことを深刻に受け止めています。そして、なぜこのような偽ニュースがつくられたのか、背景に何があるのか、沖縄や外国籍の人たちをおとしめる偽ニュースが二度とテレビで放送されないためにはどうすればいいのかを考え続けています。
あなたも私たちと一緒に「ニュース女子」問題を考えませんか?
見過ごせない問題が起こるたびに、このような自発的な運動が起こることが、好ましくもあり、頼もしくもある。機敏さや手際のよさでは、ノウハウをもった既存の組織が優れているだろうが、「市民・有志」の立ち上がりには新鮮な響きがあり、裾野の広がりが感じられる。
誘い合って、この集会に参加しませんか。私もスラップ糺弾の立場からこの集会に参加したい。そして、デマ・ヘイト・スラップの「アンチヒーロー・DHC」を、反省させ「改心」させるにはどうすればよいか、思いをめぐらせたい。
(2019年1月9日)
DHCと吉田嘉明を反訴被告とするDHCスラップ反撃訴訟
次回法廷は1月11日(金)午前11時00分
東京地裁415号法廷(東京地裁・4階)
吉田嘉明本人尋問採否決定の法廷です。ぜひ傍聴にお越しください。
どなたでもなんの手続も要らずに傍聴できます。
DHCと吉田嘉明が、私(澤藤)を被告として6000万円を支払えと訴訟提起したのが「DHCスラップ訴訟」。まず初めが、私の至極真っ当なブログでの言論にいちゃもん付けての2000万円の請求だった。私が、このDHC・吉田嘉明の提訴は違法なスラップ訴訟だとブログで批判し始めた途端に、2000万円の請求は、6000万円に跳ね上がった。提訴の目的が、言論の抑制にあったことは明らかではないか。
このスラップ訴訟は当然のことながら空振りに終わった。もともとが勝訴の見込みのない裁判なのだから、最高裁まで争った挙げ句に、私(澤藤)の勝訴で確定した。しかし、勝つには勝ったものの、やりっ放し・やられっ放しだ。吉田嘉明のやり得、私のやられ損のままだ。メチャクチャな裁判をかけておいてDHC・吉田嘉明は、なんの制裁も受けていない。こんな不法が放置されてよかろうはずはない。スラップ常習のDHC・吉田嘉明に対しては、「スラップ提訴が違法だから損害を賠償せよ」「スラップは却って高くつくぞ」ときちんと思い知らせなければならない。そのための「反撃訴訟」が今継続中である。この訴訟は、債務不存在確認請求の形で、DHC・吉田嘉明の側から起こされた。今は、それに対する反訴が闘われている。反訴原告が私(澤藤)、反訴被告がDHCと吉田嘉明の二人。
反訴原告と被告、双方の一応の主張を終えて、反訴原告(澤藤)側は、当事者本人両名(私と吉田嘉明)の尋問を申請している。これに対して、反訴被告(DHC・吉田嘉明)側は、吉田嘉明の本人尋問を申請せずに、DHCの社員を証人申請した。その証人の採否はさしたる問題ではない。吉田嘉明の本人尋問の採用なくしてこの裁判の公正な審理はなく、納得しうる判決には至らない。
今週金曜日(1月11日)に迫った次回口頭弁論期日には、ぜひとも、吉田嘉明の本人尋問採用があってしかるべきである。
本件6000万円スラップ提訴についての違法性有無の判断には、提訴に言論抑圧の意図や動機があったか否か、つまり主観的な要素が重要な役割をもっている。その主観的な意図や動機を語ることができるのは、吉田嘉明本人を措いて他にない。公正な審理と判決とは、吉田嘉明の本人審問を抜きにしてはあり得ない。
このことについては、下記ブログを参照されたい。
吉田嘉明よ、卑怯・未練・怯懦と言われることを甘受するのか ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第141弾
https://article9.jp/wordpress/?p=11733
吉田嘉明尋問採用決定は次回(19年1月11日)法廷に持ちこし ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第139弾
https://article9.jp/wordpress/?p=11338
明日・10月26日(金)の法廷で、吉田嘉明尋問採用の予定 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第138弾
https://article9.jp/wordpress/?p=11335
以下に、裁判所に提出した反訴原告の意見要旨を抜粋する。
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☆U氏(証人申請されているDHC従業員)は反訴被告吉田の提訴意思決定に関して証言適格を欠く
DHCのみならず、吉田嘉明個人も本件反訴の被告である。反訴被告吉田嘉明個人の不法行為の成否においては、吉田嘉明自身のスラップ訴訟提起の意思決定過程が決定的な重要性をもつ。吉田嘉明が、どのような情報を収集し、どのような人と相談し、何のために、何を目的として、どのような基準に基づいて提訴意思を決定したのか。その吉田嘉明個人の意思決定過程には、DHCの従業員であるU氏は一切関与していないし、関与すべき立場にもない。
同氏の陳述書には、吉田嘉明の個人的な意思決定に関与したことをうかがわせる記載もなければ、吉田個人から相談を受ける立場にあった可能性があるような記載すら全くない。
U氏は、DHCのスラップ提訴に関して、方針決定後に具体的な事務の一部を担ったに過ぎない。U氏のみの尋問では、吉田嘉明個人の意思決定の過程は全く明らかにならない。
☆ U氏はスラップ訴訟提訴の動機に関しての証人適格性を欠く
U氏に対する尋問で、DHC内部での事務遂行の一部が明らかになることは否定し得ない。本件スラップ提起当時、U氏がどのような肩書きや立場であったのか明らかにされていない不自然さはあるものの、同陳述書の記載からは、本件スラップ提起に関して何らかの事務を担ったことは認められる。
しかし、U氏は、DHC代表者である吉田嘉明の既に決せられた意を汲み、その具体化の事務を担ったに過ぎず、DHCの提訴意思決定の経過に関与していないことが明らかである。
U氏は、取締役でもなく、会社としての意思決定に参加できる法的立場にはない。せいぜい、意思決定の材料となる資料作成に関与しうるにすぎない。
従って、本件訴訟の最重要争点である、本件スラップ提訴の動機認定に関しては、U氏は証人としての適格性を欠くものと言わざるを得ない。
☆ 反訴被告本人兼反訴被告代表者本人吉田尋問の積極的必要性
個人としての反訴被告吉田の意思決定過程を明確にするには、吉田嘉明本人の尋問以外に直接証拠はない。
また、DHCの意思決定過程についても、吉田嘉明は代表取締役(反訴被告代表者本人)として意思決定に参画したのであるから、その経緯に関して供述できることも明らかである。
反訴被告本人兼DHC代表者である吉田嘉明本人の尋問によって、本件反訴において争いのある事実を全て明らかにすることができる。
本件におけるベストエビデンスとは、反訴被告本人兼反訴被告代表者本人吉田の尋問にほかならない。
☆ 以上の通り、U氏の尋問は、重要でもなく必要でもないが、訴訟遂行に有害でもないので、採用に反対はしない。しかし、U氏のみを採用し、反訴被告本人兼DHC代表者である吉田嘉明の尋問を実施しないとすると、反訴被告吉田個人及びDHC代表者本人の意思決定過程とその動機は全く明らかにできないことになり、本件反訴において最重要な争点となっている事実の存否を明らかにすることはできない。
以上のとおり、本件反訴において、反訴被告吉田嘉明本人(兼DHC代表者本人)の本人尋問は必要不可欠である。
(2019年1月8日)
文科省のすなる道徳教育。不要だとは思うが、やるならこんなものであるべきではないか。その骨格の素案をものしてみた。志のある方に、書き足し書き改めて、立派な完成版を作っていただきたい。
1 一番大切なのは自分自身であることを確認しょう。
この世に生を受けた者の誰にも、自分というかけがえのない貴重な存在があります。痛いのも、つらいのも、嬉しいのも、悲しいのも、それを感じるのは自分自身です。考えるのも、しゃべるのも、人を愛するのも、愛されるのも自分以外のなにものでもありません。誰にとっても、一番大切なものは、この自分自身です。自分の命、自分の身体、自分の精神、自分の自由。このかけがえのない自分を大切にしましょう。自分が大切であるという、自然に持っているはずのこの気持ちを素直に肯定すること。ここがすべての出発点です。
自分を大切に思うことが、よりよく生きようという意欲の出発点であり、自分が生きる舞台としての、自然環境や社会環境をよりよくしようという積極性の根源となります。
2 社会と向き合う基本的姿勢
大切な自分ですが、自分という存在は例外なく弱いものです。孤立しては生きてゆくことさえできません。人は、社会という群をつくって、その群の中で生きていくしかありません。社会は自分のまわりに幾重にも存在し、無数の対人関係を作り出しています。生きるとは結局社会と向き合うことにほかなりません。
自分という個人と社会との向きあい方には、2面があります。ひとつは、既にできあがっている現実の社会の中で、この社会に自分を適合させて生きていくことであります。受働的な向きあい方と言ってよいとおもいます。もう一つは、個人が社会にはたらきかけて、自分の理想とする社会に近づけようとする、能働的な向きあい方です。
人は現実の社会に適応する能力なしに生きていくことはできません。その意味では、受働的な向きあい方を否定することはできません。しかし、すべての人が受働的な生き方ばかりをしていたのでは、社会の理想は失われ進歩がなくなってしまいます。自分にとって、またすべての人にとってよりよい社会を作っていく能働的努力は欠かすことができません。また人は、理想を求める積極的な生き方をすることで生き甲斐のある生を営むことができる存在でもあるのです。
3 自分と他の個人との関係
社会は無数の個人からなります。自分という存在は、社会の中で無数の自分以外の個人と直接・間接に接触することになります。他者としての個人も、それぞれに自分を大切に思っているかけがえのない存在です。それぞれの個性を持った互いに尊重すべき人格をもっています。その個人の人格は、すべて尊重しなければなりません。お互いに、自分が大切だという思いを尊重すること、それが社会の基本ルールです。
社会は歴史的に変化してきました。かつては、人間を性や血統や門地や人種で、貴賤を分けて差別することを当然とした時代もありました。王や皇帝を特別な人と見たり、他の民族を劣等と見ることを常識とした社会もありました。しかし、今やそのような差別には何の合理性もないことが世界の共通の認識になっています。人は人であることにおいて、人格として平等です。これが社会の公理となっていることを繰りかえし確認しなければなりません。
男性も女性も人格として平等、言うまでもないことです。大人も子どもも老人も、身障者も健常者も、富める者も貧しい者も同じように尊重されなければなりません。人種や国籍や民族や宗教や、出身の地域や職業によって、人が人格的に差別されてはなりません。特定の血統を貴種として王侯貴族としたり、万世一系の神話によって皇位を承継するなどは、古代社会の信仰と因習の残滓に過ぎません。文明社会では、およそあり得ない恥ずべきことなのです。形だけにせよ天皇制を認めている日本国憲法は、文明に反する旧社会の遺物を抱えていることになります。すべての人は平等である、この常識こそが市民社会の共通認識でなければなりません。
4 この世の不正義には、はばかることなく怒ろう。
すべての人を平等な人格として認め合うこと。すべての人の人格が同じように尊重されること。それが社会における正義の基本です。不正義とは、人を理由なく差別することであり、人に対する人格の尊厳を否定することです。
人類の文明は、あらゆる差別を不正義とする段階に到達しましたが、現実にある差別を克服し得てはいません。女性差別、身障者差別、人種・国籍・民族・宗教による差別は厳然として存在します。また、公権力や社会的強者による弱い立場にある人への人格否定の行為も絶えません。
血統による差別である天皇制の不正義は、最も分かり易い不当な差別です。高貴な血を認めるから、他方に下賤が観念されるになるのです。本来、こんなものがあってよいはずはありません。人は皆平等なのですから。
現実のこの社会には、天皇制ほどには分かり易くない不正義・不公正がいくつもあります。その最大のものは、経済的格差と貧困です。
現在の経済システムは必然的に大きな格差を生む構造をもっています。人の財産や収入における極端な格差が現実のものとなっています。その結果、社会の一方に貧困にあえぐ人がいて、もう一方に贅沢を楽しむ人がいます。このような富の偏在を許容する社会は、公正とはいえません。また、この社会では利潤追求のための手段としての不公正や、権力の横暴がまかり通ってもいます。このような不公正に、怒る感性の涵養が社会の進歩の原動力として必要です。
5 強者に対する抵抗を美徳として身につけよう。同時に、面従腹背の小技をも身につけよう。
社会と能動的に向き合うとは、現実にある社会の不公正に怒り、これを正していく努力をすることです。しかし、その不公正は現在の社会の強者が作り出したものですから、能動的な生き方とは本質的に現実の社会の強者と対峙することを意味します。
不公正の源であるこの社会の強者とは、政治的強者としての公権力であり、経済的強者としての資本家であり、社会的強者としての多数派にほかなりません。
不正義・不公正に怒ることは、強者への抵抗を決意することにつながります。厳しいことですが、強者にまつろわず、へつらわずに抵抗の姿勢を保つこと。自分の尊厳と、公正な社会のための抵抗が、市民道徳として身につけなければならない課題ではないでしようか。
さりとて、社会のあらゆる場面で怒り抵抗の姿勢を維持していくことは容易ではありません。また、危険も大きいことです。時には、したたかに妥協する術も心得ておかなければなりません。これぞ面従腹背の術です。妥協してはならぬ場とテーマを見極めることこそ、学ばねばならないことです。
こうして、自己の尊厳を第一義としつつ、住みやすいよりよい社会の実現に向けた基本姿勢をもつこと。その精神を育成することこそが、現代社会のあるべき市民の道徳だと思うのです。
(2019年1月7日)
今朝(1月6日)の毎日新聞1面に、「りそな『核製造企業への融資禁止』 国内大手銀初の宣言」という記事。おや、「りそな」が、そんなに立派な金融機関だとは知らなかった。以前、DHCと比較してワコールを賞讃したことがあった。本日は、DHCと比較するのも失礼かと思うが、りそなホールディングス(HD)のCSR活動に敬意を表したい。りそなが融資禁止の対象としているのは、核製造企業だけではない。CSR(企業の社会的責任)を徹底しようという試みなのだ。
まずは、毎日記事の抜粋である。
りそなホールディングス(HD)は、核兵器を開発・製造・所持する企業に対して融資を行わない方針を定め、公表した。該当企業には一切の融資を行わないと宣言したもので、こうした取り組みは国内の大手銀行では初めて。2017年7月に核兵器禁止条約が国連で採択され、欧州を中心に投融資を禁止する銀行や機関投資家が広がっており、国内でも同様の動きが出てくるか注目される。
具体的には、核兵器・化学兵器・生物兵器や対人地雷・クラスター弾などの製造企業▽人身売買や児童労働、強制労働への関与が認められる企業▽環境に重大な負の影響を及ぼすおそれのある開発プロジェクト――などへの融資を行わないと明記。融資先の社会・環境へ配慮した活動を支援するとした。
私の問題意識はこんな具合だ。
資本主義とは、本来が利潤追求至上主義を容認する経済システムである。個別企業が、競争に勝ち残り利潤を最大化するためには、チャンスさえあれば儲かることならなんにでも手を出すことになる。そして、直接利潤につながらない無駄なコストは冗費として削減せざるを得ない。
見えざる神の手が市場を予定調和に導くというのはウソも甚だしい。資本の利潤追求の衝動と市場原理に任せておけば、労働者の搾取は限りなく進行し、消費者の安全も、環境も損なわれる。資本主義原理の外からの規制が必要なのだ。大切なのは、企業でも市場でもなく、社会の構成員である民衆の利益なのだ。いったい、どうすれば、民衆の利益のために、社会が企業を統制することができるだろうか。
核兵器やその部品を作る会社なら儲かるだろう。公的融資も受けているはずだ。そんな企業への融資は回収の安全性が高い。利潤追求原則から言えば、望ましい融資先ではある。しかし、核兵器に対する世論の厳しさを考慮すると、核兵器産業に対する融資は、強い社会的指弾を受けることになりかねない。明らかに企業ブランドにはマイナスイメージだ。長い目では、融資機関の企業利益にならないとの判断とならざるを得ない。
本格的には、法と行政による権力的規制という手段が控えているが、世論の指摘や消費者の運動によって、非権力的な企業行動の誘導が可能なのだ。ブランドのプラスイメージ獲得のためのCSR。社会はこれに応えなければならない。
念のために、りそなホールディングス(HD)のホームページを開いてみて、驚いた。そのCSR(企業の社会的責任)コーナーの充実ぶりにである。
https://www.resona-gr.co.jp/holdings/csr/index.html
まずは、社長のトップメッセージの中に次の一文がある。
「国連で採択されたSDGs(持続可能な開発目標)の達成に向け、「2030年SDGs達成に向けたコミットメント(Resona Sustainability Challenge 2030)」を11月に公表しました。SDGs達成に向け、環境・社会課題をテーマとしたお客さまとの建設的な対話の推進をはじめとする6つのコミットメントに取り組み、活力あふれる地域社会の実現に貢献してまいります。」
この真面目さが素晴らしい。在日ヘイトを垂れ流すDHC会長メッセージとは、天と地ほどの落差だ。SDGsが何度も出て来る。SDGsは17の具体的な目標として知られるが、それは「貧困をなくす」「飢餓をゼロに」から始まって、「人や国の不平等をなくそう」「ジェンダーの平等」「平和と公正をすべての人に」などが掲げられている。りそなホールディングスは、そのすべての課題に具体的な取り組みを示している。SDGsセミナー「中小企業のためのSDGs入門」を開催しました、という報告もある。
そして、こんな企業の行動宣言がある。
りそなWAY(りそなグループ行動宣言)
社会と「りそな」
「りそな」は社会とのつながりを大切にします。
「りそな」が存在する意義を多くの人々に認めていただけるよう努力します。
広く社会のルールを遵守します。
良き企業市民として地域社会に貢献します。
従業員と「りそな」
「りそな」は従業員の人間性を大切にします。
「りそな」の一員であることに誇りを持って働ける職場を創ります。
創造性や変革に挑戦する姿勢を重んじます。従業員一人ひとりの人間性を尊重し、能力や成果を公正に評価します。
さらに、CSR(企業の社会的責任)コーナーは、項目だけを拾えば、次の具合だ。
CSRに関する考え方
経営理念、行動宣言とCSR方針の関係
2030年SDGs達成に向けたコミットメント
社会的責任投融資に向けた取り組み
重点課題(マテリアリティ)の特定
CSR目標・実績
国際的なイニシアチブへの参加
日本版スチュワードシップ・コードの受入れ
CSRへの取組み
コーポレートガバナンス
コンプライアンス
消費者課題/お客さまサービス
コミュニティ
環境
ダイバーシティ
人権
こんな企業なら応援したくなるではないか。
これと比較する目で、DHCのホームページを眺めてみよう。
https://top.dhc.co.jp/company/jp/
両社の比較は、月とスッポン、提灯と釣り鐘。
DHCのホームページには、みごとなまでに何にもない。IRも、企業倫理も、CSRもまったくないのだ。今や、吉田嘉明会長の露骨な在日差別メッセージもなくなっている。あるのは商品宣伝だけ。儲け以外にはなんの関心もないというこの徹底ぶり。
メディアも世論も消費者も、ワコールや「りそな」を賞讃するだけでは不十分ではないか。デマとヘイトとスラップのDHCを徹底して批判することが必要だ。賞讃と批判が両々相俟って、社会に親和的な企業を育成し、反社会的な企業を淘汰することが可能になる。とりわけ、消費者のDHC製品不買の行動が、デマやヘイトやスラップをなくすることに大きな力となる。DHC製品を買わないというだけで、よりよい社会をつくることに寄与できるのだ。
なお、下記の「社員による会社評価ランキング」という興味深いサイトを見つけた。
ランキングは、各社社員のクチコミによるものだという。DHC社員からのクチコミ報告数は1125件とされている。
https://www.vorkers.com/a0910000002XwSf/ranking/
DHCは、日用品・化粧品部門659社中「総合評価ランキング」では640位となっている。また、「(社内の)風通しの良さランキング」では、659社中の659位、つまり最下位なのである。その厳密な正確性は分からないが、DHCが「りそな」のような、「広く社会のルールを遵守します」「良き企業市民として地域社会に貢献します」「従業員の人間性を大切にします」との姿勢をもっていないことを如実に示している。社会も、消費者も、従業員も、デマとヘイトの企業は弾劾すべきなのだ。
(2019年1月6日)
皆様、安倍晋三でございます。明けましておめでとうございます。
内閣総理大臣としての年頭記者会見に当たり、天皇陛下と皇族の方々、そして国民の皆様にも謹んで新年のご挨拶を申しあげます。
平成31年、平成最後となる新年の仕事始めとして、先ほど伊勢神宮を参拝し、皇室の弥栄と我が国の安寧、発展をお祈りいたしました。国民主権とは申しますが、なんといっても、我が国の国柄からすれば、国家あっての国民であり、皇室あっての国家ではありませんか。ことの順序として、まずは皇室の弥栄をお祈り申しあげ、次いで国家の安寧・発展を願った次第です。国民の幸せは、特に祈念いたしませんでしたが、それは皇室の弥栄と、国家の安寧・発展に付録としてくっいてくるものですから、安倍内閣が国民の福利を無視するものというような印象操作の発言は慎んでいただくようお願いいたします。
今年は、ほぼ200年ぶりに天皇の生前退位によって皇位継承が行われる歴史的な年であります。その年頭に、皇室の祖先神をお祀りされている伊勢神宮を参拝いたしますと、神鎮まりいます境内の凜とした空気に、いつにも増して身の引き締まる思いであります。
今年も、美しく強い国を取り戻すために、内閣総理大臣としてしっかりとことをなそうと決意を新たにした次第です。いうまでもなく、国の理想を語るものは憲法でございます。何よりも必要な喫緊の課題と憲法改正を位置づけなくてはなりません。皇室を戴く我が民族の歴史と文化にふさわしい憲法を実現しなければ、美しく強い国を取り戻すことはできないのです
しかし、皆さん。ご存じのとおり、この国には「美しく強い国を取り戻す」という自明な正しい目的を理解できない「あんな人々」が少なくありません。憲法改正を喫緊の課題と考えない、非国民同然の「あんな人々」に負けるわけにはいかないのです。
今年の干支にちなんで、改憲に猪突猛進とまいりたいところですが、「急いては事を仕損じる」ともいうではありませんか。いのししの動きは、自由自在。障害物があれば左右によけたり、ひらりとターンすることができる。意外と身のこなしがしなやかな動物だそうであります。私も本年は、いのししのようなスピード感としなやかさを兼ね備えながら、ときには寝たふりもして「あんな人々」を欺いて、憲法改正に邁進いたします。もとより、ウソとごまかしは、私の最も得意とするところですから、これを存分に駆使したい。亥年の年頭に当たって、そう決意しています。
ですから、街頭で日の丸や旭日旗を振る右翼の各位、匿名に隠れてヘイトを垂れ流すネトウヨの諸君、そして改憲陣営・歴史修正主義派、反中嫌韓の皆様には、現政権に相変わらぬ御理解と御支援を賜りますよう、よろしくお願いいたします。
さて、今年5月1日には皇太子殿下が御即位され、改元が行われます。新しい元号は、これまでは先帝の死後に新帝が決定し公表する慣わしとなってきました。しかし、今回もこれを貫こうとすれば、国民生活への多大な混乱が生じます。実は国民生活の混乱などは些事でどうでもよいことなのですが、大きな混乱を機に元号不使用の国民世論が爆発的に増えることが予想され、そのことが看過し得ません。
政治を与る者として痛感するのは、天皇制とは便利なものだということです。ナショナリズムの中核にあって、国民の統合を支え、何の根拠もなく国民の情緒的一体感をつくってくれる。天皇が被災地へ行って、被災者に慰めの言葉をかけてくれると、補償や復興の実現なくても政治の失敗に対する怨嗟の声が上がることを防止してくれる。対策を安上がりにすることもできるのです。
かつて、靖国神社について、その最大の存在理由は「最も安上がりな戦没将兵の遺族対策にある」と言われていたそうです。「もったいないことに、天皇陛下様が、戦死したウチの息子のためにお祈りしてくれる」という遺族臣民の心情あってこそ、戦没将兵の遺族補償を安価に切り捨てることができたのです。臨時大祭のたびに、時の天皇は必ず親拝されましたが、その経済効果は莫大なものであったわけであります。今の天皇陛下の被災地訪問も、同様の経済効果を有しているものとして、ありがたくてなりません。
そのように天皇制が機能するのも、国民が天皇制を支持している限りのことです。国民から冷たい目で見られる天皇、国民から見離された天皇制は、惨めな存在となるだけでなく、政権にとって何の利用価値もないものとならざるを得ません。存在の必然性を欠く天皇制を維持するのですから、あの手この手の工夫が必要ですが、その最大級の手立てが、元号です。年の数え方を天皇の在位に合わせて、いつもいつも国民に天皇の存在を意識させる優れものにほかなりません。
この元号を、国民生活に不便なものとすれば、一斉に国民の元号使用は遠のいてしまいます。それは象徴天皇制の危機であり、政権が便利な道具を失うことでもあるのです。だから、国民生活への影響を最小限に抑える観点から、即位に先立って4月1日に新元号を発表する考えです。「1か月前では遅すぎる。もっと早期に新元号の発表を」という声の強いことは承知しています。もちろん、元号廃止の声があることも。しかし、それでは、私の固有の支持基盤である保守層が納得しないのです。このあたりが、ぎりぎりのところ。私も苦しいのです。その辺のところをご了解ください。
なお、最後に申しあげますが、私の仕事始めは伊勢神宮参拝から、そして年頭記者会見はこの伊勢の地で行うことが、恒例でございます。これを、宗教団体や一部偏向した市民団体が、「政教分離に反する」「憲法違反だ」と抗議することも恒例となっています。彼らの主張は、こんなところです。戦前、国家と神道の癒着がもたらした国家神道なるものが、天皇を神とし、日本を神国とする誤った狂信をもたらした。その独善的な狂信が近隣諸国への侵略戦争や植民地主義の精神的土台ともなって、結局は国を滅ぼした。また、国民に筆舌に尽くしがたい惨禍をもたらした。だから、現行日本国憲法は、国家と宗教との間に厚く高い壁を築いて、再びの癒着を禁じた。それが政教分離だ、と。おそらく、それが正しいことだから、やっかいだとは思うのです。
しかし、皆さん、日本は皇室あっての日本ではありませんか。憲法あっての日本ではない。厳格に憲法を守ることで、皇室の尊厳を損なうようなことがあれば、憲法をこそ変えなければならないと考えるべきではありませんか。
それだけではありません。世論も近隣諸国も、私が靖国神社に参拝することには、大騒ぎで反対しますが、伊勢参拝に騒ぐのはごく一部の原理主義者だけではありませんか。確かに、靖国神社は、戦争に関わる軍国神社と言われればそのとおりです。しかし、この伊勢神宮の平和なたたずまいをご覧いただけば、靖国神社との違いは明白ではありませんか。
昭和天皇も、靖国神社については、次のような御製を遺しておられます。
この年のこの日にもまた靖国の 宮しろのことにうれひはふかし
これは、昭和天皇が、靖国にA級戦犯が合祀されたことについて「うれひはふかし」とおっしゃったものとされています。昭和天皇も、靖国神社に参拝することには、大いに問題があるとお考えだった。しかし、伊勢神宮については、「うれひはふかし」と言ってはいません。それなら、なんの問題もありません。要するに、私は、反対の声が強くなければ憲法など歯牙にもかけないのです。
年頭に、内閣総理大臣が皇室の祖先神に詣でて、皇室の弥栄と国家の繁栄を祈る。万世一系連綿と皇統の続く単一民族の国家日本の歴史と文化に鑑みて当然のことではありませんか。これが違憲なら違憲で結構。今年も、日本国憲法よりは民族の歴史を重んじる姿勢を貫く決意を重ねて申しあげて、年頭のご挨拶といたします。
(2019年1月5日)
話題の韓国映画「共犯者たち」。今日(1月4日)ようやく観る機会を得ての感想を記しておきたい。
そのドキュメンタリーの迫力に圧倒された。隣国でのこの大きな出来事について、あまりに無知だったことを悔いている。韓国の社会に対する親近感を新たにするとともに、権力の横暴と闘う多くの人々に敬意を表したい。そして、もっと大きな劇場で、もっと多くの人々に観てもらえないかと思う。
映画の内容は、李明博・朴槿恵と続いた保守政権による、テレビ放送への露骨な権力的介入と、それに抗して闘う記者たちの実録である。「共犯者たち」とは、李明博・朴槿恵という「主犯」の意を体して、これに追随した各テレビ局(KBS、MBC)の首脳たちを指す。彼らは、政権の意を受けて社長や副社長などに天下りし、あるいはその地位に抜擢された。この「共犯者たち」は政権の意向のとおりに、報道の内容を曲げ、抵抗する硬骨の記者たちを解雇した。報道の自由を守れ、という放送局従業員労組のいくつもの大きなストライキがあり、そのストライキの責任者が相次いで解雇された。被解雇者は200人以上にもなったという。
解雇されたひとりである崔承浩(チェ・スンホ)が、自ら監督となり、自らの闘いを撮影したドキュメントがこの映画。全編に怒りのエネルギーが満ちている。
この映画を観る日本人は、日本の政権によるメディア介入の構造との余りの酷似に驚き、日本の放送界に重ねてこの映画を観ざるを得ない。もちろん、主犯は安倍晋三である。そして、共犯はNHKの首脳たち。とりわけ、官邸と意を通じていると指さされている人物。
韓国で起こった政権による言論介入の事態は、当然に日本でも起こりうる。そのとき、「私は、私たちは、あんな風に闘えるだろうか…」。そう、ジャーナリストのひとりがコメントを寄せている。ジャーナリストだけではない。平和や人権、民主主義のために、政権の横暴と対峙しなければならないと思うすべての人の課題だ。「あんな風に」闘わねばならないと思う。
惜しむらくは、日本の観衆には韓国のテレビ放送事情がよく呑みこめない。そのため、目まぐるしく展開する事態の理解に消化不良の感が残る。
幸い、2018年12月25日朝日のWEBRONZAに、朴晟済(パク・ソンジェ)氏が、この間の事情を分かり易く解説している。その一部を抜粋して紹介させていただく。
https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2018121100003.html
なお、同氏はMBCの記者。2012年労組委員長時代に170日間ストライキで解雇され、17年末に復職して、現在はMBC報道局長の任にある。
韓国の地上波放送局のうち、ニュースを報じるのは3社である。日本のNHKと似ている第1公営放送KBSと第2公営放送MBC、民放SBSである。このうちKBSとMBCは、政府と国会で推薦する人たちが理事会を構成するように法律で定められている。当然、半数以上の理事たちが青瓦台(大統領府)と与党の推薦を受けて任命される。このように構成された理事会が社長と経営陣を選出する。
金泳三、李明博、朴槿恵など権威主義的な保守政党の大統領在任中は、青瓦台が意図した人物がKBSとMBCの社長に任命されるのが当然の慣行だった。韓国ではこのように政府与党が決めて送り込まれる社長を「落下傘」と呼ぶ。保守政権時代のテレビニュースは、政権に親和的であると同時に、「朝中東」(「朝鮮日報」「中央日報」「東亜日報」の保守3紙)の論調と大きく変わらない保守的な色合いを帯びたものであった。
反対に、金大中、盧武鉉と現在の文在寅など1980年代の野党出身の?相対的に?進歩志向の大統領在任中には、放送局は権力の影響から比較的自由な社長を得ることができた。3人とも生涯を民主化と人権のために生きてきた政治家だったので、言論の自由に対する認識と理解も格別だった。この時期の放送局理事会は、青瓦台や政府与党の顔色をそれほど窺うことなく社長を選出してきた。そうして選出された社長は、記者やプロデューサーにも取材と報道の自由を十分に保障してもくれた。
2007年12月、李明博候補が大統領に当選し、韓国の放送界は激変を経験することになる。李明博大統領とハンナラ党は、KBSとMBCの報道の論調に対し、深刻な不満を持っていた。とくにMBCのニュースと時事番組には、「実権を握ったら黙っていない」というような発言を公然と言ってはばからなかった。08年春、BSE(牛海綿状脳症)に感染した危険がある米国産牛肉の輸入を許可した政府を批判するMBC時事番組「PD手帳」(PDはプロデューサーの意)が放映され、李明博政権を糾弾する大規模なろうそく集会がはじまった。大統領は政権初期に支持率が10%台に急落するという切迫した危機にさらされる。
李明博政権が危機突破のために選んだカードは、過去の独裁政権が行ったように放送を掌握することだった。まず検察を動員して「PD手帳」製作陣を逮捕し、名誉毀損罪を適用して裁判所に引き渡した。そして、KBSとMBCの社長を解任してしまい、大統領と親密な関係にあったジャーナリストらを落下傘社長として送り込んだ。
こうして、李明博政権・朴槿恵政権の約9年にわたるメディアへの介入、これに迎合するKBSやMBC上層部と、これに抗う記者たちの闘争が始まる。
いま、この映画を作った崔承浩(チェ・スンホ)は、MBCの社長に迎えられている。しかし、映画は困難な闘いのさなかで終わっている。
最終盤、解雇された仲間の記者が癌だと知って、チェ・スンホが見舞いに行く場面がある。田舎の粗末な家に住む彼にチェが質問をする。「苦しい中で何年も闘ってきた意義をどう考えている?」。これに、彼が真剣な面もちで答える。「困難なときに、沈黙しなかったこと。それが闘ったことの意義」。思わず涙が出そうになった。
そうだ、人は、苦しくとも、口を開かねばならないときがある。困難と知りつつも、闘わねばならないことがある。それが譲れない自分の生き方であり、自らの矜持を守ることなのだ。怯懦をよしとせず、報道の自由のために闘った人々のすがすがしさに、拍手を送りたい。
(2019年1月4日)
本日(1月3日)の各紙社説のうち、産経と毎日が天皇代替わりのテーマを取りあげている。極右路線で経営危機を乗り切ろうという産経の相変わらずの復古主義の論調には、今さら驚くこともない。言わば、「犬が人に噛みついた」程度のこと。仮に産経が国民主権原理から天皇を論じることになれば、「人が犬に噛みついた」大ニュースとして注目を集めることになるに違いないのだが。
産経主張の表題が、「御代替わり 感謝と敬愛で寿ぎたい 皇統の男系継承確かなものに」という時代がかった大袈裟なもの。産経はこれまでも「御代」「御代替わり」なる語彙をたびたび使用してきた。恐るべき時代錯誤の感覚である。そして恐るべき臣民根性の発露。
産経は、「天皇陛下が、皇太子殿下へ皇位を譲られる歴史的な年を迎えた。立憲君主である天皇の譲位は、日本の国と国民にとっての重要事である。」という。これはまさしく信仰の世界の呪文に過ぎない。天皇教という信仰を同じくする者の間でだけ通用する呪文。その信者以外には、まったく通じる言葉ではない。
天皇の代替わりとは、「天皇」という公務員職の担当者が交代するだけのこと。しかも何の国政に関する権能も持ってはならないとされている天皇の地位である。その地位にある者の交代が、「歴史的な」「重要事」ということは、日本国憲法の基本理念の理解を欠くことを表白するものにほかならない。
また、産経は、「長くお務めに精励されてきた上皇への感謝の念と、新しい天皇(第126代)への敬愛と期待の念を持ちながら、国民こぞって御代(みよ)替わりを寿(ことほ)ぎたい。」ともいう。
こういう、「感謝」「敬愛」「寿ぎたい」などの押しつけは、迷惑千万このうえない。このようなメディアの言説は、天皇にまつろわぬ人々を「非国民」として断罪した集団ヒステリーの時代を彷彿とさせる。
産経の論調の中で看過できないのは、「新天皇が国家国民の安寧や五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る大嘗祭(だいじょうさい)を、天皇の私事とみなす議論が一部にある。これは「祈り」という天皇の本質を損なう考えといえる。大嘗祭が私事として行われたことは一度もない。」というくだり。
産経に限らず、「天皇の本質は『祈り』である」などと言ってはならない。それこそ、憲法が厳格に禁じたところなのだ。かつて天皇は、神の末裔であるとともに最高祭司でもあった。天子とは、天皇の宗教的権威に着目した呼称である。大日本帝国憲法は、天皇の宗教的権威を積極的に認めて、これを天皇主権の根拠とした。国民主権を宣言した日本国憲法は、天皇からいっさいの政治的権能を剥奪しただけでなく、その宗教的権威を認めてはならないことを明定した。それが政教分離の本質である。天皇は公に祈ってはならない。国民国家のために祈るなどは、天皇の越権行為であり、違憲行為なのだ。家内の行事として、私的に祈る以上のことをしてはならない。
毎日の社説には正直のところ驚いた。あらためて、「象徴天皇制の有害性恐るべし」の感を深くせざるを得ない。産経の主張は看過しても、毎日のこのような論調を看過してはならない。積極的批判の必要性を痛感する。
毎日社説の表題は、「次の扉へ ポスト平成の年に 象徴の意義を確かめ合う」というもの。天皇は国民が選挙によって選任する対象ではない。次の選挙で取り替えることも、弾劾裁判もリコールの制度もない。そのような天皇の存在に積極的な意味を与えてはならない。「象徴」とは、存在するだけで積極的な意味も内容もない地位を表しているに過ぎない。「平成からポスト平成へ」で何も変わることはないし、変わってはならない。「次の扉へ」などと、なにかが変わるような国民心理の誘導をしてはならない。
「戦後しばらくは、民主主義と天皇制との併存について疑問視する声が相当程度あった。だが、陛下は国民主権の憲法を重んじて行動し、天皇と国民の関係に、戦前の暗い記憶が影響を与えることのないよう努めた。平成は民主主義と天皇制が調和した時代といえる」
これが、毎日社説のメインテーマであり最も罪深い世論の誘導である。産経のような一見バカげた論調ではないだけに影響力を無視し得ない。
毎日は、次のように時代を区分して、天皇制と国民の関係を整理して見せた。
1 戦前 天皇制と国民との関係は暗い時代
2 戦後しばらく 民主主義と天皇制との併存が疑問視された時代
3 平成 民主主義と天皇制が調和した時代
しかも、毎日は、「天皇が戦前の暗い記憶が影響を与えることのないよう努めた」と評価する。
私には、「民主主義と天皇制」とは対立し矛盾するのみで、その両者が調和することは到底あり得ないと思われる。ましてや能動的に行動する象徴天皇においてをや、である。民主主義とは、自立した主権者の存在があってなり立つ政治制度ではないか。天皇の存在は、主権者の自立の精神を阻害する最大の敵対物にほかならない。
主権者の精神的自立を直接妨げるものが権威主義である。権威を批判しこれに逆らう生き方は困難であり、安易に権威を認めて権威に寄り掛かることこそが安楽な生き方である。したがって権威の存在する社会では個人の精神的自立が容易ではない。天皇の存在自体が権威であって、天皇を受容する精神が権威主義そのものである。天皇とは、この社会において敬語の使用が強制され、天皇への批判が封じられる。そのような天皇という権威の存在は、民主主義にとって一利もなく、百害あるのみと言わねばならない。「天皇制と調和する民主主義」とは、まがい物の民主主義でしかない。
(2019年1月3日)
未来を口にすることなく過去をのみ語るのは、まぎれもなく老いの徴候である。しかし、何かしら昔の記憶を書き残しておくことも、無駄ではなかろうと思う。正月くらい、昔話もゆるされよう。
もう死語になったのかも知れないが、「労働弁護士」という言葉があった。略して「労弁」である。私が弁護士を志した学生のころ、伝え聞く「労弁」は神聖な存在だった。「労弁」(労働弁護士)とは、「労働者側で労働訴訟に携わる弁護士」という平板な理解を超えて、「労働者階級の解放闘争に寄り添い、階級闘争に献身的に寄与する専門家集団」という響きを持っていた。
労働弁護士ともなれば、富貴栄達とは縁が無く、求道者のごとくひたすら身を捨てて、労働者階級のために尽くさなければならない。まことしやかに、そんなふうにささやかれていた。
私は、現実の労働弁護士と邂逅する機会をもたぬまま修習を終え、東京南部(蒲田)で労働弁護士となった。さすがに、自分の立場を神秘めいたものとは毛頭考えなかったが、理念型としての労働弁護士像は捨てきれず胸に秘めていたように思う。
その労働弁護士としての仕事は、実に多彩で楽しかった。これは自分の天職だと思った。ときは70年代の初め。安保闘争や学園闘争の余韻さめやらぬころ。総評を支持基盤とする日本社会党が、常に自民党の半数の議席を獲得して、議会内に「改憲を許さぬ3分の1の壁」をつくっていた。72年の総選挙では日本共産党が38名の当選者を出している。東京・京都・大阪・愛知に革新知事が生まれてもいた。国労や日教組を先頭とする、官公労が労働運動をリードし、民間の労組もこれに続いていた。春闘華やかなりし往時である。
今にして思うのだ。労働弁護士の神聖性のイメージは、労働運動に対する敬意に伴うものであったのだ。労働運動の未来は明るかった。その運動の発展は、議会も法も変えて、明るい未来をつくるに違いない。労働弁護士は、その偉大な事業の遂行に奉仕するものとしての反射的な敬意を獲得していたのではなかったか。
そんな時世の1971年春闘から労使対決の現場に投げ込まれた。ストの現場にも、ロックアウトの現場にも出かけた。どこに行っても黙って見ているわけにはいかない。どこの現場でも、まずは企業側に向かってなにがしかのことをしゃべらなければならない。「我々は、憲法と労組法に定められた争議権を行使している。これに介入することは、不当労働行為として許されない」「ピケは許された争議行為だ。争議に伴う防衛的な実力行使は当然に合法である。些細な行為を違法とする会社側こそ違法なのだ」「先制的ロックアウトは違法である。すみやかに、解除しなければ全額の賃金を請求することになる。」…。
そして、現場の労働者に向かって、連帯と励ましの挨拶をする。私の記憶では、先輩弁護士の後にくっついて、その背後でしゃべったことはない。それこそ、即戦力としていきなり現場に投入されたのだ。
修習の時代には、労働弁護士の働く場は、裁判所と労働委員会だろうと思っていたが、実際には大まちがいだった。労組結成のための学習会の講師活動をいくつも経験した。組合活動家が用意した舞台に乗っての講義だが、身の引き締まる思いだった。組合結成となれば、会社側の労務担当から、どんなイヤガラセがあるかも知れない。そのとき、どうすべきか。法はどこまで守ってくれるのか。その知識があれば、自信をもって組合を結成し、役員を引き受けることかできる。学者は、もっと素晴らしい講義ができるだろう。しかし、いざというときに法的援助をしてくれる弁護士の実践的な話しは、大きな励ましとなるのだ。
問題によっては、団体交渉にも出席した。鮮明な記憶があるのは、BA(英国航空)がまだBOACと称していた時代。法的に面倒な問題があって、団体交渉出席を依頼された。これは面白い。支社がはいっている日比谷のビルの一室での団体交渉に出席した。
怪訝そうな顔をしている支社長に、最初は準備していた英語で何とか自己紹介をしてみた。「私は、組合から依頼を受けた自由法曹団に所属する弁護士である。」「自由法曹団とは資本の横暴に苦しむ労働者や、異民族の不当な支配に憤る国民の利益を擁護するための法律家団体である」と言った。そしたら、正面の支店長が「I agree with you.」(「あなたの言うとおり」)と言われて驚いた。実は驚くことはなく、「ああそうかい」くらいのニュアンスだったのかも知れない。
通訳入りの団体交渉で、「労組法6条は、『労働組合の委任を受けた者は、交渉する権限を有する。』と定めています。私は、組合から正式に委任を受けた者ですから、弁護士との団体交渉は認めないと言えば、団交拒否の不当労働行為になります」とも言ったが、会社側の姿勢は極めて紳士的なものだった。
春闘のたびに、国労からの要請で、ストの拠点に泊まり込んだ。これも得がたい経験だった。蒲田駅は、国鉄(京浜東北)と私鉄(東急電鉄)の結節点。もちろん、私鉄労働者には争議権があるが、国鉄労働者にはないこととされている。そして毎年の春闘では、争議権のある東急(私鉄労連)ではストはなく、争議権を認められない国鉄労組がストを打つ。私たちは、国鉄労働者の心意気に感動し、毎年支援に出かけた。職場集会には参加したが、混乱に巻き込まれた記憶はない。
太田は町工場の街であり、多くの町工場に全金(全国金属労働組合)の分会ができていた。糀谷・下丸子・羽田などに、地域支部があって春闘の折には、労組の赤旗が林立した。ときに、組合の幹部と激励にまわった。分会の集会で、オルグが演説でこう言う。「今やベア(基本給のベースアップ)1万円は最低の要求だ。1万円のベアもできない会社には、労働者を傭う資格はない。そんな会社はつぶれてしまえ」。これに現場が拍手する。そういう雰囲気だった。
いくつもの組合の、いくつもの解雇事件や、不当労働行為事件、組合間差別事件を担当した。付き合いのあった組合はすべて民間労働者のもので、国労からの要請でスト支援に行くことを除けば、官公労との関係はなかった。
最も付き合いの深かった単産と言えば、民航労連(民間航空労働組合連合)である。私はひそかに、「一つの単産と一つの法律事務所がかくも緊密に連携している例は他にないのではないか」と思っていた。当時私は相当量の酒を嗜んだ。組合の役員とはよく飲んで、「労働運動は酒場から」の格言を実行していた。
その頃、労働組合こそが社会進歩の正規部隊で、労働運動の昂揚こそが社会進歩の原動力だと信じて疑わなかった。平和も民主主義も人権も、これを快く思わぬ支配勢力の横暴と闘ってこそ勝ち取られる。その闘いの中心勢力こそが労働組合である。労働者は団結し連帯して闘うことによって、自らを解放して平和も民主主義も人権も勝ち取ることになる。労働弁護士は労働者の組織と運動の側にいて、その大きな事業の手伝いをするのだ。
それが今、労組組合の組織率が低迷し、労働運動がかつての権威を有していないことがさびしくてならない。改憲阻止も、平和運動も、脱原発も、政教分離も、格差と貧困の解消も、そして野党共闘や、歴史修正主義批判も、天皇制の跳梁阻止も、正規部隊たる労働運動が中心となって推し進めるべきではないのか。
資本主義ある限り、労働組合・労働運動の存在は必然である。労働運動が活性化し輝いてこそ、明日が開ける。その日の近からんことを祈る思いである。
以上が、元労働弁護士の正月の繰り言である。
(2019年1月2日)