澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

元号の押しつけは許さない。明日(10月22日)、「新天皇就任式」当日の講演会のお知らせ。

祝日とされた明日(10月22日)、新天皇を高御座に見上げて臣民どもが、テンノーヘイカ、バンザイ」という時代錯誤も甚だしい滑稽劇を演じる。この国には、いまだに臣民が棲息しているのだ。その臣民の群の先頭で音頭をとるのが、臣・安倍晋三。なるほど、行政を司る地位にある者をいまだに「大臣」というわけだ。この国が、神の国であり、天皇の国であることを可視化して、広く知らしめようという魂胆。

もちろん、安倍晋三が、天皇を崇敬しているわけでも、神道を信仰しているわけでもない。彼は、天皇(統仁・睦仁)を「玉」として、政敵と取り合った維新時長州派の末裔である。天皇という存在の政治的な利用方法を意識し、心得ている。保守派の為政者にとって、ナショナリズムはこの上なく便利な政治の手段。天皇は日本型ナショナリズム発揚に欠かせない小道具なのだ。

いささかなりとも主権者としての自覚をもつ者は、10月22日を天皇制に無批判な姿勢で無為に過ごしてはならない。10月22日には、主権者としての自覚を確認することで、何とか一矢を報いたい。

ところで、天皇制を支える小道具は、いくつもある。元号・祝日・「日の丸・君が代」・叙位叙勲・恩赦・賜杯・天皇賞・恩賜公園……等々。

国民の日常生活に、最も密接に定着しているのは元号であろう。10月22日、「即位礼正殿の儀」のバカバカしさに異議ある方には、下記の講演会はいかがだろうか。

下記のURLをクリックしていただきたい。

10.22西暦併用を求める会講演会チラシ(表)

講師の一人が、私である。私の報告のタイトルは、「安倍商店大売り出しの『新元号』は欠陥商品である」というもの。

チラシには下記のように記載されている。

「講師の澤藤統一郎さんは元日弁連消費者委員長、元日本民主法律家協会事務局長を歴任、田中宏さんは長らく在日外国人の問題に取り組んできました。
ご一緒に元号の問題を考えましょう!参加費500円です。
西暦併用を求める会講演会
2019年10月22日(火)18:30?21:00
(開場18:00)
文京区民センタ?【2A会議室】文京区本郷4-15-14
お問い合わせ「西暦併用を求める会」:事務局TEL:090-8808-5000(藤田高景)TEL:080-1052-7714(稲正樹)seirekiheiyo@gmail.com

「西暦併用を求める会」主催だが、すべての公文書は西暦表記に!」という「急進的」スローガンを立てている。

言うまでもなく、元号を語るとは天皇制を語ること。私の言わんとするところは、元号という紀年法の欠陥性である。消費者事件としての製品の欠陥は、単に性能劣悪というだけのことではなく有害であることを意味する。

元号は、消費期限が短く、しかも使用可能地域の限定性故に不便極まりないというだけでなく、民主主義社会に明らかに有害である。元号の欠陥性は、無理矢理に天皇制と結びつけられたその本質にある。だから、紀年法としての欠陥が必然的に国民主権への有害性に結びついている。安倍商店がこの欠陥商品の販売に躍起になるのは、むしろその欠陥故なのだ。そんな問題意識をお話ししたい。

(2019年10月21日)

共済協同組合に、グローバル保険企業の魔の手が。

私にも、顧問先の企業や団体がある。なんとなく気が合うところということだ。開業医共済協同組合が、その一つ。本日は、その第10回総代会。

これまで、総代会の都度、ブログに記事を書いてきた。下記のとおりである。

保険業界に抗う「開業医共済協同組合」の発展を願う。
https://article9.jp/wordpress/?p=5807(2015年10月25日)

まず恒産を確保して、しかる後に恒心を発揮しよう
https://article9.jp/wordpress/?p=7476(2016年9月25日)

当協同組合の発展に祝意を、そして協同組合運動の発展に期待を。????????                    https://article9.jp/wordpress/?p=9374 (2017年10月23日)

競争原理ではなく、協同・連帯の精神をこそ ― 開業医共済協同組合祝賀会で
https://article9.jp/wordpress/?p=11328(2018年10月23日)

このタイトルをご覧いただけば、なぜ気が合うというのかお分かりいただけるだろう。私は、協同組合運動の発展を願う立場だ。企業の競争原理ではなく、社会の協同・連帯の精神が大切だと思っているからである。そして、私自身も、小規模自営業者として、共済事業の大切さがよく分かるからでもある。

この団体は開業医を組合員として組合員間の共済事業を目的とした中小企業協同組合法に基づく事業協同組合である。会員数はおよそ2000名。保団連の事業の一部門が独立した形で発足したが、その総代会も第10回を迎えた。役員諸氏の献身性に支えられて、事業は極めて健全に順調に進展していることを喜びたい。

この組合は、新自由主義的な企業万能主義に反対の立場を明確にしている。かつて、共済は保険業とは無関係に種々の相互扶助制度として社会のそこここにあった。ところが、2005年の保険業法の「改正」が、これら共済制度のすべてを保険業法の網の目に入れて規制対象とした。名目は、「共済」を隠れ蓑にしたインチキ保険商品の横行から消費者を守るためということである。しかし、当組合はそうは見ていない。グローバリゼーションとして押し寄せたアメリカの保険企業の日本展開が、日本の相互扶助制度としての共済システムを企業展開の邪魔者と見ての圧力の結果だとの理解である。TPPやFTAに対する警戒は、農業漁業だけではない。共済にも及んでいるのだ。

営利事業としての民間保険会社の「休業保険商品」の保険料が高額になるのは理の当然である。資本出資者への配当も、会社役員・職員の人件費も、広告宣伝費のコストも避けられない。一方、当組合の役員は、これまでのところ常勤役員以外はすべて無報酬だ。資本への配当は無用。宣伝コストも微々たるもの。ところが、アメリカの保険企業にはこのことが面白くない。これを「不当な参入障壁」として、「平等化」を求めるという。

新自由主義とは、実は「自由」を本質とするものではない。巨大企業の行動の自由に対する規制には飽くまで撤廃・緩和を要求するが、巨大企業に邪魔者となる競争の「自由」は目障りとして新たな規制を創設するものなのだ。

本年度(2019年度・第11期)基本方針のタイトルが、「開業医の生活と経営を守り、協同組合の理念に基づく共済制度の発展を」というもの。その第1項に次の一文(抜粋)がある。

「1.当組合は、国民医療向上のために、国民の協同の力で、共済制度の解体を狙うアメリカと日本の金融資本の横暴を阻止し、何よりも人間として平和と自由を希求するものである。その立場を侵そうとする政治の動きに警鐘を鳴らし、開業医の経営と生活を守り、協同の理念を広げる当組合と制度の発展に尽力する。」

「アメリカと日本の金融資本の横暴」とは、実は非常に具体的で差し迫った問題なのだ。

在日米国商工会議所(ACCJ)が「共済等と金融庁監管下の保険会社の間に平等な競争環境の確立を」との意見書を公表している。

そのホームページへの記載が以下のとおり。
https://www.accj.or.jp/viewpoints.html?lang=ja
この意見書は「2020年7月まで有効」とされている。

同会議所は、米国政府の米国通商代表部(USTR)と密接に連携しており、その意見書は米国政府の対日要求といえる。しかも、在日米国商工会議所(ACCJ)の筆頭副会頭が、アフラックから出ている。共済を潰して、その市場を保険企業に、なかんずくアフラックに明け渡せという露骨な要求なのだ。農業分野と同様、安倍政権はこの要求に「ノー」と言えない。

総代会議案書は、「安倍内閣に圧倒的影響力を持っている同会議所によるこの意見書は、JA共済をはじめ、全労済、コープ共済、県民共済、都民共済、中小企業共済すべてについて、保険会社との平等な競争条件が確立されるまでは、共済の事業拡大及び新市場への参入は許さるべきでないと主張している」と指摘している。

彼らにとっては、個人保険分野(年金保険を除く)において約30%のシェアを占めている各種共済が、目障りなのだ。しかし、共済と保険とは元来が、「似て非なるもの」であり、同じテーブルで扱うなどは論外である。わが国の全ての共済制度を維持・発展させるためにも共済団体が一つになって運動していくことが急務となっている。

本日の総代会で確認されたものが、共済団体のすべてが、アメリカの巨大保険企業と対峙せざるを得ない事態であるという認識。「共済制度の解体を狙うアメリカと日本の金融資本の横暴を阻止し、何よりも人間として平和と自由を希求するものである。」というスローガンは切実なもの。農民・漁民だけではなく、共済組合もグローバリゼイションと闘わざるを得ないのだ。

開業医共済協同組合、これからが正念場である。
(2019年10月20日)

五條天神のタヌキが言った。「天皇制にバカされちゃいけないよ」と。

雨上がりの土曜日の朝の散歩。思いがけなくも、五條天神の境内でタヌキに出会った。上野公園でタヌキ、私には初めての経験。アライグマでもハクビシンでもない、紛れもなきタヌキ一匹。もっとも、野性味に欠けること甚だしい。観光客のカメラに怯えることなく、しばらく目の前をノソノソと歩いて茂みに消えた。ご近所に声を掛けると、4匹のタヌキの家族が棲みついているのだという。「かわいいものですよ」と、聞かされた。なるほど確かにかわいい。しかし、相手はタヌキである。ダマされることのないように気をつけたい。

その五條天神の掲示板には、「今月の生命の言葉」として、本居宣長の次の和歌(のようなもの)が掲示されている。

 高御座(たかみくら) 天(あま)つ日嗣(ひつぎ)と
 日の御子の 受け伝へます
 道は斯の道

 大学者の歌なのだから、おそらくは深遠な哲学が込められているに違いない。うかつにもそんな思い込みから畏れいって読み込むと、何かしらの意味が感得されるのかもしれない。しかし、そんな思い込みが、既にバカされているのだと知らねばならない。タヌキにではなく、天皇制というイデオロギー操作装置にである。

畏れいることなく普通に読めば、まことにつまらない敬語の羅列。何の感興も湧くべくもない。宣長は、天皇なり皇道なりのコマーシャルメッセージのつもりなのだろうが、それにしてもできはよくない。

これは神なる天皇を賛美する信仰の歌である。拙劣ではあっても、「道は斯の道」だけで分かりあえる同じ信仰を持つ者だけに通用するフレーズ。理性を持ち、天皇を神と思わぬ普通の感性をもつ人には、高御座も天つ日嗣も日の御子も、興趣を惹くものではあり得ない。むしろ、その押しつけがましさに辟易するばかり。

ただ、なかなかにはっきりそうは言いにくい雰囲気が,この社会に充ち満ちている。天皇制という政治の小道具の便利さを享受したいとする保守勢力がそう仕向けている。いかに荒唐無稽でも、神話に基づく天皇制の権威の維持が大切なのだ。多くの人が、これに敢えて抗うことを避けていることがおおきな問題ではないか。批判を控えているうちに、ますます批判が難しくなる。天皇神話にバカされた振りを余儀なくされることにもなりかねない。

神社の掲示板には、併せてこんな予定が告知されている。
【十月二十二日】「即位礼当日賢所大前の儀」・「即位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀」「即位礼正殿の儀」・「祝賀御列の儀(パレード)」

そして、「即位礼正殿の儀」について、こんな解説がなされている。

 天皇陛下が御即位を国の内外に宣明される儀式を「即位礼正殿の儀」と言います。
宮殿の中庭に色とりどり大小様々な旛(ばん)と呼ばれる旗が左右に列立した内側中央に一対の万歳旛(ばんざいばん)が立てられます。この旛は即位礼でのみ用いられ、神話に由来する五匹の鮎と酒壺が描かれ、大きく「萬歳」の文字が刺繍されており、陛下の御代が幾久しく続くことへの祈りが込められております。
 正殿向かって右「梅の間」より天皇陛下は立纓(りゅうえい)の冠に黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)の御装束をお召しになり「高御座」にお昇りになられます。皇后陛下は御髪を大垂髪(おおすべらかし)に結い上げて五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)をお召しになり御帳台(みちょうだい)にお昇りになられます。即位を内外に宣明する陛下のお言葉を賜り、国民の代表として総理大臣がお祝いの寿詞を述べ、参列者全員で万歳を三唱し、陛下の御即位に奉祝の誠を捧げます。

 何と大仰な、何と時代錯誤な、何と空疎な、そして何と国民主権にふさわしからぬ、政教分離違反の儀式。

この大仰さに畏れいってはならない。五條天神のタヌキが、確かに言っていた。
 「この国家総がかりのダマシにくらべれば、私のダマシなどは、ホンの子どもダマシだ」と。
(2019年10月19日)

DHC・吉田嘉明、DHCスラップ「反撃」訴訟判決に控訴 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第163弾

 お知らせしたとおり、10月4日にDHC反撃訴訟の判決が言い渡され、私(澤藤)が勝訴した。本日(10月18日)が控訴期限。私の側は控訴しなかったが、DHC・吉田嘉明の側が控訴した。これから、控訴審が始まる。DHC・吉田嘉明が控訴人となり、私(澤藤)が被控訴人となる。

 普通、控訴審の期間は長くかからない。私が被告になった、「DHCスラップ訴訟」も、口頭弁論期日は1回開かれただけで、即日結審となった。皆様に、もう少しのご支援をお願いしたい。

もう一度、事案と判決の内容を整理しておきたい。

私が、当ブログに吉田嘉明を批判する記事を掲載した。DHC・吉田嘉明が、その記事によって名誉を毀損されたとして、私を被告とする損害賠償請求訴訟を提起した。この訴訟が、「DHCスラップ訴訟」(あるいは「前件訴訟」)である。
そのDHCスラップ訴訟では、一審・控訴審そして最高裁への上訴のフルコースで、私が勝訴して確定した。

しかし、私はそれだけでは納得できなかった。私は、DHC・吉田嘉明の私に対する訴訟は、社会的な強者が、自分(吉田嘉明)に対する批判を封殺する目的で提訴した典型的なスラップ訴訟として違法であることを理由に、損害賠償請求訴訟を提起した。これが「DHCスラップ『反撃』訴訟」である。

その一審で私が勝訴し、敗訴のDHC・吉田嘉明が、一審判決に不服として東京高裁に控訴した、というのが現段階である。

私が一貫して主張しているものが、表現の自由である。仮に、DHC・吉田嘉明のこんな訴訟がまかり通ることになれば、民主主義社会を支える表現の自由が枯死してしまう。私こそが表現の自由の旗を持ち、DHC・吉田嘉明がこれに敵対する者なのだ。

しかし、当然のことながら、「表現の自由」が常に他の憲法価値に優越するわけではない。
Aの表現がBの社会的評価を貶めるとき、「Aの表現の自由」と「Bの人格権」とが衝突して調整を要することになる。Bが自らの人格権を違法に侵害されたとして損害賠償請求の訴えを提起すれば、Aに違法性阻却要件具備の挙証責任が課されて審理されるのが現在の訴訟実務。
その訴訟でBが結果として敗訴しても、直ちに不当な訴えを提起したことにはならない。結果として負けた訴訟が、すべてスラップということではない。社会の正義の感覚とは相容れない司法の壁に跳ね返されて、勝つべくして勝てない訴訟はたくさんある。これを違法・不当な訴訟とは言わない。

では、どのような場合に、Bの提訴が不当・違法な訴訟となるのか。どのような状況で、どのような要件を具備した場合に、スラップと呼ぶべき違法な訴訟として、提訴自体を不法行為に問うことができるのか。まだ、必ずしも明確な基準が設定されているとは言いがたい。

つまり、「結果としては勝てなかったが、争う価値ありという提訴」と、「そのような提訴自体が違法となる提訴」をどこで分けるべきかは微妙な問題が残されている。しかし、DHC・吉田嘉明の私に対する提訴の違法性は、そのような微妙な境界事例ではない。歴としたスラップ、明々白々な違法提訴なのだ。そのことを反映して、DHCスラップ『反撃』訴訟一審判決は、逡巡のあとのない、迷いのない判断を示している。

裁判所の判断の枠組みは、民事訴訟裁判制度の趣旨目的に照らして、著しく相当性を欠く場合にあたるか否かというものである。

判決の論理の出発点は、次の最高裁判例である。

「訴えの提起は,提訴者が当該訴訟において主張した権利又は法律関係が事実的,法律的根拠を欠くものである上,同人が,そのことを知りながら,又は通常人であれば容易にそのことを知り得たといえるのにあえて訴えを提起したなど,裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に限り,相手方に対する違法行為になるものというべきである(最高裁判所・1988(昭和63)年1月26日第三小法廷判決)。

その上で、大要次のように判断する。

「DHC・吉田嘉明が澤藤に対して訴えを提起し、損害賠償請求の根拠としたブログは合計5本あるが、そのいずれについても、客観的に請求の根拠を欠くだけでなく、DHC・吉田嘉明はそのことを知っていたか、あるいは通常人であれば容易にそのことを知り得たといえる。にもかかわらず、DHC・吉田嘉明は、敢えて訴えを提起したもので、これは裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に当たり、提訴自体が澤藤に対する違法行為になる」

噛み砕いて言えば、こんなものである。
「澤藤ブログが、DHC・吉田嘉明の耳には痛く面白くないとしても、裁判をしてもどうせ勝てっこない。しかも、勝てっこないことは分かっていたはず。仮にそのことが分かっていなかったとしても、普通の人なら容易にが分かったはずなのだから、そんな提訴はしてはいけない。してはいけない提訴をしたことは澤藤に対する違法行為として、損害賠償の責任を負わねばならない」ということでもある。

問題となっている提訴が、以下の「Aを前提に、B1かB2」であれば、違法となるということである。
A「客観的に勝てない」
B1「提訴者が、勝てないことを知っている」
B2「常識的に勝てないことが分かるはず」

つまり、これがスラップ勝利の方程式。
A+(B1orB2)=スラップ

吉田の澤藤に対する提訴が、A「客観的に勝てない」ものであることは、既に答が出ている。吉田嘉明の訴えは全面的に請求棄却で確定しているからだ。残るは、B1「提訴者が勝てないことを知っている」、あるいはB2「常識的に勝てないことが分かるはず」と言えるか。判決は、迷いを見せずに、これを肯定する。この判定過程が、この判決の神髄。当該判示部分の冒頭を抜き書きする。

原告澤藤ブログ(5本)は,本件(吉田嘉明の週刊新潮)手記ないし本件朝日新聞記事に記載されている事実を前提に、他の情報を付加することなく、原告が考える政治と金銭との健全な関係の観点から、本件(8億円)貸付について、被告吉田の内心の推察を試みつつ批判を加えようとするものと読み取ることができる。そうすると、原告ブログは、本件手記ないし本件朝日新聞記事に記載されている事実を元にした社会的な評価や推論であることが理解可能である記述部分や,人の内心に係る一般的な行為の動機の問題である記述部分からなり、被告吉田の本件(8億円)貸付の動機についての事実の摘示を含むものと解することはできないのであり、このことは、一般の読者において同様の理解が容易というべきである

控訴しても、この結論が変わるはずはない。付帯控訴によって、賠償金の増額はあり得る。その控訴審の進行は、当ブロクで詳細に報告したい。引き続きのご支援をお願いいたします。
(2019年10月18日)

中国よ、大国の風格はどこに。

風格という言葉がある。その意味するところの説明は難しいが、なんとなく分からないではない。山岳や巨樹・古木の中には、確かに風格を感じさせるものがある。遺跡や建造物についても同様である。自ずと畏敬の念を呼び起こす雰囲気。今は既に絶滅してお目にかかることはないが、昔は風格のある人物が存在していたともいう。

人間集団にも風格はありうる。ある種の企業の独特の社風に風格を感じ取ることある。デマやヘイトやスラップをもっぱらとする企業には、望むべくもないことだが。

そして、大国には、中小規模の国にはない風格があってしかるべきである。大国の自信と余裕から、大らかで寛大な風格が自ずから滲み出ることになる。

今、大国アメリカの国連の分担金滞納が話題となっている。そのため国連は、深刻な財政危機にあり、「11月の人件費をまかなえない恐れがある」と事務総長が訴える事態となっている。けちくさいトランプの小細工。堂々たる大国のやることではない。世界から、尊敬も信用も得られない、風格なきトランプのアメリカ。

もう一つの大国、中国も同様である。いま、中国は総がかりで、NBA(全米プロバスケットボール協会)と対峙している。そのまなじり決したやり方には、大国の風格のカケラもない。これでは、世界から尊敬も信用も得られまい。風格なき習近平の中国。

問題の発端は、10月4日の一通のツイートである。NBAに所属するヒューストン・ロケッツのゼネラルマネジャーであるダリル・モーリーが「香港と共に立ち上がろう」と書かれた画像をツイッターに投稿した。中国に対する批判の言論ではない。香港と共に立ち上がろう」である。これが中国の逆鱗に触れた。大きな中国がこの一通のツイートに噛みついたのだ。何という、鷹揚さにも寛大さにも欠けた対応。余裕も自信もないことをさらけ出しているではないか。

もちろん、このツイートはNBAの公式コメントではない。ヒューストン・ロケッツのツイートですらない。あくまで、ダリル・モーリー個人の見解であることは明らかだ。NBAが責任をもつ筋合いはない。常識的には。

中国メディアの反発に対して、NBAはどう言うべきであっただろうか。
「民主主義社会の普遍的理念として表現の自由がある。NBAは表現の自由を尊重し発言者を擁護する」と言うべきであったろう。おそらくは、そう言いたかったに違いない。それでこそ、「自由の国」の「自由の精神」を貫徹することになる。しかし、そうは言えなかった。アメリカは、「自由の国」であるだけでなく、「カネが支配する国」,すなわち「資本の原理が貫徹する国」でもある。表現の自由という理念よりも、儲けのチャンスを逃してはならないとする現実的な要請を優先せざるを得ない。

結局、NBAは自らは関与していないという言い訳の声明を発表しただけでなく、英語と中国語で謝罪した。

NBAにとって、中国は数十億ドルの市場だという(「ニューズ・ウィーク」)。この巨大市場を失いたくはないというNBAの現実感覚が、表現の自由擁護を追いやったのだ。

恐るべきは、巨大市場を擁する中国である。バスケットボールに限らない。スポーツ一般にも限らない。すべての経済分野で、巨大市場を武器とする中国の傍若無人が、まかり通っていることが報じられている。

米中ともに、大国の風格を欠くことにおいて兄たり難く弟たり難し。とりわけ、ナショナリズムをふりかざす中国の格好の悪さが際立っている。

国際的な批判が必要である。私も、ダリル・モーリーに倣って声を上げよう。
「香港と共に立ち上がろう」と。
(2019年10月17日)

NHKへの抗議と激励の「アピール行動」10月18日(金)中止

(急ぎのお知らせ) 明日10月18日、17時から予定していた「NHK前アピール行動」は雨天の予報を受け、中止となりました。 目下、呼びかけ人の間で、近々に、同じ趣旨で代わりの企画を行う相談をしています。明日中には決定してお知らせします。 たびたびの予定変更ですが運動はしっかり続けますので,よろしくお願いします。

徴用工訴訟韓国大法院判決から間もなく1年

本日は、日本民主法律家協会の理事会。その席で、川上詩朗弁護士による1時間余の講演を拝聴した。タイトルは、「日韓関係を解決する道すじは? ? 韓国人徴用工問題・慰安婦問題を読み説きながら」というもの。詳細なレジメとパワポを駆使したパワフルでみごとな解説。情熱に溢れた語り口にも好感がもてた。

あの、徴用工訴訟韓国大法院判決が、2018年10月30日のこと。その直後に、私も自分なりの受け止め方を下記のブログに、書き留めておいた。

徴用工訴訟・韓国大法院判決に、真摯で正確な理解を
https://article9.jp/wordpress/?p=11369 (2018年11月1日)

徴用工訴訟・韓国大法院判決に真摯で正確な理解を(その2)
https://article9.jp/wordpress/?p=11376 (2018年11月2日)

相当の長文。読み通すのはなかなかに骨が折れる。川上講演も参考に、改めてそのポイントをまとめておきたい。

当時私は、「この判決に対する日本社会の世論が条件反射的に反発しあるいは動揺している事態をたいへん危ういものと思わざるを得ない。政権や右派勢力がことさらに騒ぎ立てるのは異とするに足りないが、日本社会の少なからぬ部分が対韓世論硬化の動きに乗じられていることには警戒を要する。まずは、同判決を正確に理解することが必要だと思う。それが、『真摯な理解を』というタイトルの所以である。判決は、けっして奇矯でも、反日世論迎合でもない。法論理として、筋が通っており、条理にかなっていることも理解しなけばならない。」と書いた。1年後の今、同じ思いを、深刻に反芻している。

10月30日韓国大法院の徴用工判決で認容されたものは、原告である元徴用工の、被告新日鉄住金に対する「強制動員慰謝料請求権」である。日本企業の朝鮮人徴用工に対する非人道的な取り扱いを不法行為として、精神的損害(慰謝料)の賠償を命じたものである

同事件において、被告新日鉄住金側は,こう抗弁した。
「原告の請求権は日韓請求権協定(1965年)の締結によってすべて消滅した」
この抗弁の成否、つまり、「日韓請求権協定で原告らの損害賠償請求権が消滅したと見ることができるか否か」これが、判決における核心的争点と位置づけられている。

この核心的争点における被告新日鉄の抗弁の根拠は、同請求権協定2条第1項「両締約国及びその国民間の請求権に関する問題が…完全かつ最終的に解決されたことになるということを確認する」、及び同条3項「一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対する全ての請求権として同日以前に発生した事由に起因するものに関しては、如何なる主張もできないことにする」との文言が、原告ら元徴用工の被告企業に対する一切の請求権を含むものであって、「解決済み」で、「如何なる主張もできないことになっている」ということにある。

しかし、この被告の抗弁を大法院は斥けた。その理由を、多数意見は「協定交渉の経過に鑑みて、原告の被告会社に対する『強制動員慰謝料請求権』は、協定2条1項の『両締約国の国民間の請求権』には含まれない」とし、だから同条約締結によって原告の請求権は消滅していない、との判断を示した。その判断は一般的な文言解釈と協定締結までの交渉経過を根拠とするもので、論理としては分かり易い。

この多数意見とは反対に、請求権協定における「両締約国の国民間の請求権」には、本件の「強制動員慰謝料請求権」も含まれる、とする5名の個別意見がある。

そのうちの2人は、「だから、協定締結の効果として、韓国国内で強制動員による損害賠償請求権を訴として行使することも制限される」「結論として、原判決を破棄して原審に差し戻す」という意見。要するに、原告敗訴を結論とする見解。

残る3人の意見が興味深い。結論から言えば、「強制動員慰謝料請求権」も、「完全かつ最終的に解決された請求権に含まれる」ものではあるが、「解決された」という意味は、国家間の問題としてだけのことで、国家間の権利は放棄されているものの、「個人が持つ請求権は、この放棄の限りにあらず」ということなのだ。多数意見と理由を異にはするが、この3人の裁判官の結論は上告棄却で、多数意見と原告徴用工勝訴の結論は同じものとなる。

大法院広報の「報道資料」は、この3裁判官意見を以下のように紹介している。

「原告らの損害賠償請求権は請求権協定の対象に含まれると解するべきである。ただし原告ら個人の請求権自体が請求権協定によって当然消滅すると解することはできず、請求権協定により、その請求権に関する大韓民国の外交的保護権のみが放棄されたに過ぎない。したがって原告らは依然として大韓民国において被告に対して訴によって権利を行使することができる。」

この3裁判官見解では、「請求権協定の締結によって『外交的保護権』は放棄された」が、「原告ら個人の被告企業に対する『請求権自体』は、請求権協定によって消滅していない」ということになっている。だから、韓国内での裁判による権利行使は可能という結論なのだ。実は、この見解、日本側の公式見解と同じなのである。日本政府も日本の最高裁も、日韓請求権協定と同種の条約によって、個人の請求権は消滅していないことを確認している。

日韓請求権協定によって、国家間の権利義務の問題は解決した。だから、個人の『外交保護権』は失われ、国家が個人請求権問題を交渉のテーブルに載せることもできなくなった。しかし、個人請求権は消滅していない。これが、日韓両政府・両裁判所の共通の見解である。

個人の権利者がその請求権を裁判所で行使した場合、これを認容するか否かは、当該国の司法権の判断次第である。他国の政府がこれに容喙するのは、越権というしかない。

「請求権協定には、外交的保護権の放棄にとどまらず「個人請求権」の消滅について日韓両国政府の意思の合致があったと見るだけの十分かつ明確な根拠がない。」「国家と個人が別個の法的主体であるという近代法の原理は、国際法上も受け入れられているが、権利の『放棄』は、その権利者の意思を厳格に解釈しなければならないという法律行為の解釈の一般原則によるとき、個人の権利を国家が代わりに放棄する場合には、これをさらに厳格に解釈すべきである。」「請求権協定では『放棄(waive)』という用語が使用されていない。」

さらに重要なのは、以下の日本側の意思についての指摘である。

「当時の日本は請求権協定により個人請求権が消滅するのではなく国の外交的保護権のみ放棄されると解する立場であったことが明らかである。」「日本は請求権協定直後、日本国内で大韓民国国民の日本国及びその国民に対する権利を消滅させる内容の財産権措置法を制定・施行した。このような措置は、請求権協定だけでは大韓民国国民個人の請求権が消滅していないことを前提とするとき、初めて理解できる。」

実はこの点は、日本政府がこれまで国会答弁などで公式に繰り返し表明してきたことなのだ。ことは、韓国・ソ連・中国との関係において、日本政府自身が繰り返し言明してきたことなのだ。徴用工訴訟・韓国大法院判決を法的に批判することは、少なくも日本政府のなし得るところではない。22万人と言われる強制動員された徴用工。過去の日本がいかに大規模に、苛酷で非人道的な振る舞いを隣国の人々にしたのか。まず、その訴えに真摯に耳を傾けることを行わない限り、公正な解決はあり得ない。

韓国を非難する意見の中には、「個人請求権が消滅しないとしても、その請求権の行使は日本の政府や企業に向けられるべきではなく、韓国政府が責任を負うべきではないか。それが、日韓請求権協定の「完全かつ最終的に解決されたことになる」の意味するところ」という俗論がある。しかし、前述のとおり、「請求権協定には、外交的保護権の放棄にとどまらず『個人請求権』の消滅について日韓両国政府の意思の合致があったと見るだけの十分かつ明確な根拠がない」というほかない。とすれば、当該の徴用工が、加害企業に対して有する損害賠償請求権の行使が妨げられてよいはずはない。

政府も企業も肝に銘じなければならない。戦争も植民地支配も、けっしてペイしないものであることを。ツケは必ず回ってくる。それは、けっして安いものではあり得ないのだ。
(2019年10月16日)

第50回司法制度研究集会「今、あらめて、司法と裁判官の独立を考える」─ 司法の危機の時代から50年─

第50回司法制度研究集会へのお誘い

 司法制度研究集会は、今年第50回を迎えます。
50年前の1969年は、自衛隊の違憲性を問う長沼ナイキ基地訴訟が提起され、担当の福島重雄裁判官に対する裁判干渉の書簡が平賀健太札幌地裁所長から渡される「平賀書簡事件」が起こり、政治権力と最高裁が一体となって、憲法を守ろうとする全国の裁判官を攻撃する「司法の危機」と呼ばれる一連の出来事が始まった年でもありました。

あれから50年。いまの司法はどうなっているでしょうか。「司法の危機」の影響は形を変えながら根強く残ってはいないでしょうか。昨年の司法制度研究集会は、「国策に加担する司法」を告発しましたが、司法・裁判官は独立して職権を行使し、立憲主義・人権の砦の役割、戦争の惨禍を二度と繰り返させない役割を果たしているでしょうか。その役割を果たさせるために、法律家は何をすべきでしょうか。

第50回の節目にあたり、司法の問題を皆で考えていく出発点にすることを願い、これまで日本民主法律家協会が主催してきた集会を、今年は、法律家3団体と全司法労働組合の共催で行うこととし、準備を重ねてきました。
50年前を知る弁護士から若手の弁護士、元裁判官、研究者など、多彩な報告者・発言者から多面的な問題提起をしていただきます。ぜひご参加下さい。共に考えましょう。

日 時■2019年11月23日(祝・土)午後1時?6時
会 場■東京・永田町 全国町村会館ホールA・B
参加費■資料代1000円(修習生・学生500円)

主 催■自由法曹団/青年法律家協会弁学合同部会/全司法労働組合/日本民主法律家協会
連絡先■日本民主法律家協会(TEL:03-5367-5430 FAX:03-5367-5431)

 ■基調報告:その1
   長沼事件から50年・我々はいま、何をなすべきか
                           新井 章 弁護士

 ■特別報告
   司法の危機の時代── 何があったのか
                          鷲野忠雄 弁護士

 ■基調報告:その2
   司法の可能性と限界と──司法に役割を果たさせるために
                         井戸謙一 弁護士

 ■特別発言
  岡口裁判官問題から考える裁判官の独立と市民的自由
                          島田 広 弁護士

  刑事法の視点から最近の最高裁を批判する
                    白取祐司 神奈川大学教授

  問われる最高裁の思考様式──行政法の観点から
????????????????????????????????????????          晴山一穂 専修大学名誉教授

報告者と報告内容の紹介

※新井章 弁護士 1954年弁護士登録(8期)。砂川・百里・恵庭・長沼など、憲法9条を巡る重要な訴訟を担当し、長沼訴訟を提起した直後に、担当裁判官の福島重雄さんが地裁所長から裁判干渉されるという平賀事件を経験。当時の社会的・歴史的背景を振り返りながら、戦後日本の軍事政策に対する国民の闘いと憲法訴訟の意義、司法の危機をもたらしたもの、そして今後の法律家がいかに行動すべきかを語っていただきます。

※鷲野忠雄 弁護士 1964年弁護士登録(16期)。「司法の危機」の時代、青法協事務局長としてまさに激動の情勢に対応された上、1971年創立された「司法の独立と民主主義を守る国民連絡会議」の事務局長として司法の独立のための国民運動に大きく貢献されました。「何があったのか」を「今」に繋がる史実として、伝えていただきます。

※井戸謙一 弁護士 1979年裁判官任官、2011年退官、弁護士登録(31期)。裁判官時代、原発差止、住基ネット差止、議員定数不均衡違憲判決等を担当し、弁護士登録後は、原発差止・再稼働禁止、刑事再審事件(湖東事件)等で大きな成果をあげておられます。裁判所の内・外で真摯に事件に取り組んできた立場から、「司法の危機」後の裁判官の意識、いまの裁判所・裁判官の状況、裁判官を動かすものは何か、等々について語っていただきます。

※島田 広 弁護士 1998年弁護士登録(50期)。2018年、東京高裁の岡口基―裁判官がツイッターヘの投稿を理由に東京高裁、最高裁から懲戒処分を受けた件で、「裁判官の表現の自由の尊重を求める弁護士共同アピール」のとりまとめをされました。岡目事件に取り組んだ問題意識、裁判官の独立・市民的自由について、ご発言をいただきます。

※白取祐司 神奈川大学教授 最近、1・2審の判断を覆して大崎事件の再審開始決定を破棄自判したり、死刑囚がハムレットの一節を記した便箋台紙の廃棄処分を適法とするなど、異例・異常とも言える最高裁の判断が続いています。刑事法の研究者として、こうした最高裁の判断・姿勢を批判的に分析していただきます。

※晴山一穂 専修大学名誉教授 行政法・公務員法をご専門とする研究者の立場から、最高裁がいかに権力側の立場を尊重する姿勢に立っているかという問題意識、これとの関係で、安倍内閣による最高裁裁判官の選任についても批判的に論じていただきます。

例年のとおり、質疑・応答・討論の時間も設けられています。ぜひ、ご参加ください。
(2019年10月15日)

N国・立花さん、いったん口にしたスラップの提訴。ぜひおやりなさい。

私は、根は親切なタチだ。多少は、お節介でもある。だから、このブログでも、何人かの人には親切心から、「おやめなさい」と言ってきた。

しかし、私が万人に親切であるわけはない。相手によっては、不親切心からの思惑あって「おやめなさい」と言うこともあれば、うまく行かないことを見越して「ぜひおやりなさい」とけしかけることだってある。

ところで、N国の立花孝志さん。あなたは、10月4日の記者会見で、小西洋之参院議員に対する民事訴訟の提訴を宣言された。小西さんの立花批判発言を名誉毀損として損害賠償請求の提訴をすると明言された。記者会見とは国民の代表への語りかけの場。あなたは、国民への約束をされた。政治家に二言はあるまじきこと。このスラップまだ提訴になっていないようだが、どうなさったか。ぜひ、おやりなさい。早くおやりなさい。躊躇していてはなりません。グズグズしているのは、あなたらしくない。

あれから10日も経っている。一度口にしたことは速やかに実行しましょう。そうでないと、政治家失格。いや、社会人失格。「埼玉補選出馬準備で忙しい」なんて言い訳は止めましょう。あなたらしくもない。名誉毀損損害賠償請求の訴状を書くのは簡単なこと。だれにだって書ける。立花さん、あなただって自分で書ける。自分で書くのが面倒なら、どんな弁護士にでも依頼さえすればよい。訴状だけならたやすく書ける。あなたは、埼玉補選に専念しておいてよいのだ。

私は、2014年4月8日、当ブログに「政治資金の動きはガラス張りでなければならない」という、DHC・吉田嘉明批判の記事を書いた。そうしたら、DHC・吉田嘉明は4月16日に私を名誉毀損で提訴した。吉田嘉明かDHCの誰かが、そのブログを最初に読んだのは、どう考えても4月9日以降のこと。とすれば、提訴を決意し弁護士に相談して依頼し、弁護士が受任して訴状を書いて提出するまで、一週間という期間でしかなかった。

しかも、この一週間は、DHCの顧問弁護士(今村憲)が、多くの吉田嘉明批判言論から、「確実に勝訴の見込みがあると判断」される事案をセレクトする作業期間を含んでいる。その一週間に、私のDHC・吉田嘉明批判のブログも「確実に勝訴の見込みがあると判断」されて、提訴対象とされたのだ。

あなたの場合の時系列を確認しておこう。
まずは、あなたのユーチューブ発言があった。

「人間の天敵はいないから、結局人間が人間を殺さざるを得ないのが戦争だと思ってる」「ある意味ものすごい大ざっぱに言うと、そういうあほみたいに子どもを産む民族はとりあえず虐殺しよう、みたいな。やる気はないけど、それを目指したら、結局そういうことになるのかな」「うちで飼っている猫とあまり変わらない人いっぱいいますよ。そういう人はご飯をあげたら繁殖するんですよ、言い方悪いけど、いっぱい子供産むんですよ、やることないから。避妊に対する知識もないし」「人種差別やめようとは思ったことない」「差別やいじめは神様が作った摂理だから、本能に対して逆らうことになるでしょ。だって誰かを差別したり、誰かをいじめることによって自分が安心できるっていう、人間持っている本来の摂理なので、それが本当に正しいのかって言うのはすごく疑問がある」

以上のあなたの発言批判を小西さんが、ツイッターに書き込んだ。これが9月27日のこと。

空前絶後の暴言。
憲法、国連憲章の全否定に等しい。
参議院規則第207条では、「議員は、議院の品位を重んじなければならない。」と明記されている。
この規則への違反は、憲法58条により懲罰処分、すなわち、除名(議席はく奪)も可能だ。
参議院の与野党の責任が問われている。

なるほど、参議院規則には、下記の各条文がある。小西さんのツイッターによるあなたへの批判の意見は、荒唐無稽なものではない。

第207条 議員は、議院の品位を重んじなければならない。
第245条 議院を騒がし又は議院の体面を汚し、その情状が特に重い者に対しては、登院を停止し、又は除名することができる。

この批判を不服とするあなたは、「小西さんに対話を求めたが応じなかった」として、10月3日に「小西氏の国会事務所を動画撮影しながら突撃した」と報じられている。

そして、翌4日の記者会見での提訴発言となった。この日程なら、小西さんを被告とする訴状を準備して、会見場で配布することもできたはず。まさか、やる気もないのに、口だけ発言ではなかったのでしょうね。そして、念のため。今さら、提訴は止めたなんて言わないでしょうね。

あなたは、同じ会見で「(小西さんが)謝罪すれば別だが、徹底的にやる」と豪語した旨報じられています。まさか、小西さんがあなたに謝罪することがあるなど、本心でお考えではないですよね。あなたは、「(議員会館での)撮影禁止は知っていたが、わざと問題のある行為をすることで先方に逃げられないようにしている」と述べたそうですがね。実は、逃げられなくなったのはあなたの方なんですよ。もう、退路はない。徹底的にやらざるを得ないのですよ。

あなたの発言は、憲法の理念に照らして、また国連憲章に照らして、社会の良識に照らして、到底看過し得ない。あなたは国会議員の任に堪えない。

10月2日の毎日社説が、的確にあなたを批判している。
「今度は『虐殺』という暴言 これ以上許してはならぬ」
https://mainichi.jp/articles/20191002/ddm/005/070/122000c

「国会は直ちに厳しく対処すべきである。そうでないと日本はこうした暴言を容認していると国際社会から見なされかねない。」

これが良識というもの。

「議院の品位を重んじなければならないとする参議院規則に違反し、除名も可能だ」という、この小西議員の発言は、真っ当な表現の自由の行使として、違法となる疑念は露ほどもない。

立花さん。この発言を不服として批判するのは、それが小西議員への人格攻撃や事実に基づかない誹謗中傷に至らぬ限りは、あなたの表現の自由に属することだ。しかし、提訴という手段で、小西議員に応訴の負担をかけるのは、スラップとして違法となる。結局あなたは、損害賠償の責めを負わねばならない。

小西議員の発言に違法の要素はなく、あなたの提訴がまったく勝ち目のないことは、明々白々というべきだ。にもかかわらず敢えてするあなたの提訴は、嫌がらせ以外の何ものでもない典型的なスラップ訴訟。民事訴訟制度の趣旨目的を大きく逸脱した提訴となる。

だから、立花さん。「もう参議院議員は辞めたのだから、小西さんへの提訴も取り止めた」などと、言い訳をしてはいけない。あなたは、いままた、参議院議員を目指しているではないか。

だから、N国の久保田学・立川市議が、フリーライターちだい氏を名誉毀損で訴えた、あのスラップ訴訟と同様に、立花さん、あなたはスラップ訴訟を提訴して完敗するしかない。そして、その反訴でも潔く負けていただきたい。そうして、スラップの汚さ、スラップの害悪、さらにはスラップ提起が自らに跳ね返ってくるリスクを世に知らしめることが、せめてものあなたの政治家としての社会への貢献になるのではないか。

だから、重ねて申しあげる。立花さん、小西議員に対するスラップを、ぜひおやりなさい。早急におやりなさい。躊躇することはありませんよ。善は急げ、不善も急げ、というではありませんか。
(2019年10月14日)

あの台風のなか、上野公園の路上生活者は?

昨日(9月11日)は、巨大な台風19号の襲来に、丸一日身構えていた。なすすべもなく、ひたすらに身を固くしていただけのこと。ようやく大過なく一夜が明けて、東京は抜けるような青空。まだ風は強いが、透きとおった空気に陽光がまぶしい。

被災地の皆様には申し訳ないが、まことに、野分の朝こそをかしけれ、の風情。東大本郷キャンパスの銀杏並木は、通路に散り敷いたギンナンの山。臭いがきつい。うっかり履むと足の裏の臭いがどこまでもついてくる。落ちたギンナンに履を納れてはいけない。スズカケや、タイワンモクゲンジの実も散乱している。なんとももったいない。

不忍池では、華のない蓮の葉ばかりが風に揺れている。漢語でハスを「荷」というそうだ。してみれば、「荷風」とは、今日のようなハスの葉裏を翻すさわやかな風だろうか。それとも、蓮の異名の清香を運ぶほのかなそよ風か。

ところで今朝は、路上生活者諸氏の姿が見あたらない。昨夜の雨と風を,どこでどのようにして凌いだのだろうか。避難所で安眠できただろうか。気になるところだが、毎日(デジタル)にこんな記事があった。

路上生活者、台風19号の避難所入れず 台東区「住所ないから」

台風19号の被害が拡大した12日、東京都台東区が、路上生活者などで区内の住所を提示できない人を避難所で受け入れていなかったことが、同区などへの取材で明らかになった。

台東区によると、台風19号の接近に伴って11日午後5時半以降、区内4カ所に自主避難所を開設。12日にこのうちの区立忍岡小の避難所を訪れた2人に対し、「住所がない」という理由で受け入れを拒否したという。

区災害対策課によると、自主避難所は区民対象に開設。避難者には入所時に住所や氏名を記入してもらう。12日に訪れた2人が「住所がない」と説明したため、受け入れられないと伝えたという。同課は「区民が今後来るかもしれない状況だったため、区民を優先した」と説明する。

この対応に、貧困者の支援団体などからは「路上生活者の締め出しだ」という批判が上がっているという。

一般社団法人「あじいる」代表の今川篤子さんによると12日、複数の路上生活者から「避難所に行ったが断られた」という訴えを直接聞いたという。今川さんらが忍岡小を訪れて区職員に確認したところ「住所のない人は利用させないようにと指示を受けた」と回答したという。

区広報課田畑俊典課長補佐は「結果として支援から漏れてしまったのは事実で、今回の対応に多くの批判もいただいている。住所のない人の命ををどう守るか。他の自治体などを参考に支援のあり方を検討していきたい」と話した。

あの嵐のさなかのできごと。こんな会話があったのではなかろうか。

「この避難所で、雨風をしのぎたいのですが」
「あなた、お住まいはどちらですか」
「お住まいって…。ちゃんとしたお住まいがないから、一晩だけでも…」
「ここは台東区民のための施設ですから、区内にお住まいでなくてはね」
「普段は台東区上野公園で暮らしていますが、それじゃだめでしょうか」
「住民登録がなくっちゃね」
「……」

行政としては、この状況においては、手続や形式よりも、まずは誰であれ、生身の人を尊重すべきであったろう。

「『人命』より『住民票』? ホームレス避難所拒否で見えた自治体の大きな課題」というタイトルで、本日13時40分配信の〈AERA dot.〉が、津久井進弁護士(兵庫県西宮市)のコメントを引用している。

「災害救助法では、事務取扱要領で現在地救助の原則を定めています。住民ではなくても、その人がいる現在地の自治体が対応するのが大原則。また、人命最優先を定めた災害対策基本法にも違反する。あり得ない対応です」

「災害対策が進んでいると自負していた東京都でさえ、基本原則が理解されていない現場があることが露呈した。法律の趣旨原則に通じていない自治体が次なる大災害に対処できるのか、極めて強い不安を覚えます。同時に、法律が複雑なうえ、災害救助法は1947(昭和22)年に制定された古い法律です。国も、さらなる法整備を進める必要があるでしょう」

路上生活はこの上なく厳しい。ネットを検索したら、下記のURLを見つけた。形式主義で避難受け入れを拒否する人ばかりではなく、路上生活者に手を伸ばそうと、懸命に努力している立派な人もいるのだ。何もできない自分を恥じつつも、この社会、けっして捨てたものでもないとホッとしている。

寝る場所がないとき:東京の無料宿泊施設情報
https://bigissue.or.jp/action/guide/tokyo_shelter/
(2019年10月13日)

いま読むべき「戦前不敬発言大全」のお薦め

 

私の手許に、「戦前不敬発言大全」という分厚い一冊がある。この本の副題が長い。「落書き・ビラ・投書・怪文書で見る、反天皇制・反皇室・反ヒロヒト的言説」というのだ。戦前の体制側記録である「特高月報」「思想旬報」「憲兵隊記録」「社会運動の記録」などからの「不敬発言」集である。それに、コラムや解説記事が行き届いている。どこからどう読み始めても、興味深い記事ばかり。なによりも、読み易さが身上。

長い前書きの冒頭に、「特高警察、憲兵、そして現代の公安および体制の犠牲になった人々に本書を捧げる」とある。今年(2019年)6月1日発行。天皇交代直後の今だから、天皇をめぐる表現に萎縮あることを感じざるを得ない今だから、大いに読まれるべき一冊だと思う。戦前を回顧し、言論の不自由が何をもたらしたかを再確認しなければならない。

戦前の日本には、不敬罪というものがあり、国民の不敬言動が広く取り締まられた。そのため、取締対象となった不敬言動が記録として残された。この不敬言動、並べてみると、なかなかに壮観である。人は、忖度のみにて生くるものにあらず。権力の思いのままにはならぬものなのだ。

当時の日本は、国家神道(すなわち、「天皇教」)という急拵えの新興宗教体系を国家存立の基礎とも主柱ともする脆弱な宗教国家であった。その新興宗教体系の中心をなすものは、現人神としての天皇の神聖性という作られた信仰であった。

天皇とは神の子孫であるとともに、自らも神という聖なる存在である。天皇がこの国を統治する正当性の根拠は、神代の昔に、最高神アマテラスが定めたことなのだから、疑う余地はない。その神の定めに従って、この国の民のすべては、神なる天皇に臣従する立場にある。神である天皇を戴く神国日本は、他国に優越する優れた国で、神の加護の下にある…。こんなことを、大真面目に説いていたのだ。

天皇教国家は、学校教育と軍隊教育とを通じて、神なる天皇の神聖性という信仰を臣民の精神に刷り込み、「思想の善導」をはかった。が、その限界は明らかである。「思想の善導」に服さない非国民が確実に存在し、非国民への対策が必要だった。

その対策の一つが、メディアの統制であり、他の一つが、天皇の神聖性を否定する国民の言動に対する刑罰権の発動による取り締まりであった。この天皇の神聖性擁護の言動取締りが、不敬罪である。心底、天皇を敬せずともよいが、天皇に不敬の言動は厳格に取り締まる、というわけである。

初めて刑法典をひもとく人には驚くべきことに違いないないが、現行の刑法典は1907(明治40)年に制定されたものである。加除添削を重ね、ひらがな化、口語化などを経ているが、骨格は100年以上の昔のままである。

その刑法は2編からなる。第1編が「総則」であり、第2編が「罪。総論と各論に当たる。第2編の「罪」とは、何が刑罰権発動の要件としての犯罪になるのか、その構成要件を明確にして条文化したものである。この第2編「罪」が、第1章から第40章まであって、侵害される法益の種類や行為態様によって犯罪が分類されている。

たとえば、第26章「殺人の罪」には、「第199条(殺人罪)」「第200条(尊属殺人)削除」「第201条(殺人予備)」「第202条(自殺関与及び同意殺人罪)」「第203条(未遂罪)」と、分かり易い条文が並んである。

「殺人の罪」が第26章として、では第1章は何か。言わずと知れた、「皇室ニ對スル罪」である。もちろん、戦後すぐ(1947年)に削除されたもので、今はない。

我々が今なお、日々使っている刑法。その第2編第1章に、削除以前には下記の4か条があった。

第1章? 皇室ニ對スル罪
第73条 《天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ》危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者死刑ニ處ス

第74条 《天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ》不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ處ス 《神宮又ハ皇陵ニ対シ》不敬ノ行為アリタル者亦同シ

第75条 《皇族ニ對シ》危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ處シ 危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期懲役ニ處ス

第76条 《皇族ニ對シ》不敬ノ行為アリタル者ハ二月以上四年以下ノ懲役ニ處ス

上記第73条が、戦前制定された刑法各論のトップ、言わば「1丁目1番地」に位置する犯罪であった。これが、悪名高い「大逆罪」である。読みにくいが,ぜひよくお読みいただきたい。天皇や皇后に対する殺人罪ではない。「危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル」ことが犯罪行為とされている。「危害を加えようとした」だけで、「死刑ニ處ス」である。法定刑にそれ以外の選択はない。

上記の第74条と76条が、不敬罪である。不敬行為の客体は、天皇・皇族・神宮・皇稜。そして、不敬ノ行為とは「天皇等の尊厳を害する一切の行為」を指すとされた。演説から、私語から、ビラから、トイレの落書きまで、不敬言動は多岐に渡る。これを取り締まった特高もたいへんだった。

この書の著者は?井ホアン。自らを「不逞鮮人」をもじって「太いハーフ」という人。早川タダノリ氏のデビュー当時、その若さに驚いたものだが、?井ホアンは1994年生まれ、早川氏よりもさらに20年若い。

「高校時代より反権力・反表現規制活動を行う中、その過程で戦前の庶民の不敬・反戦言動について知り、そのパワフルさと奥深さに痺れて収集と情報発信を開始」という。

その奥深さとは、「天皇の批判を投書や怪文書でコッソリ表明」「犠牲を顧みる一般市民の非英雄的反体制的言論活動」という視点。本の宣伝に引用されている、不敬言辞は、たとえば以下のようなものだが、本を読めば、実にバラエティに富んだものであることがよく分かる。著者が、「痺れて収集と情報発信を開始」したのももっともなのだ。

■「皇太子殿下も機関の後継者というだけで別に変ったものでない」
■「俺も総理大臣にして見ろ、もっと上手にやって見せる」
■「俺は日本の国に生れた有難味がない、日本に生れた事が情無く思う」
■「実力のある者をドシドシ天皇にすべきだ」
■「生めよ殖せよ陛下の様に」
■「早く米国の領地にしてほしい」
■「天皇陛下はユダヤ財閥の傀儡だぞ」
■「日本の軍隊が他国へ攻め込んでそれで正義と言うのは変ではないか」
■「個人あってこそ国家があるので個人が立行かぬ様になっては国家もその存立を失う」

実はこの本。「戦前ホンネ発言大全」の1。同じ著者が同2を同時に発行している。こちらは「戦前反戦発言大全」である。「落書き・ビラ・投書・怪文書で見る反軍・反帝・反資本主義的言説」という副題。

「両巻合わせて合計1184ページ 約1000の発言を収録!」という惹句で、「不敬発言大全」の表紙には昭和天皇(裕仁)、「反戦発言大全」の表紙には東条英機の写真が掲載されている。

?井ホアン(著/文) 発行:パブリブ
両巻とも、価格 2,500円+税 初版年月日2019年6月1日
http://publibjp.com/wordpress/wp-content/uploads/2019/04/戦前ホンネ発言大全FAXDM.jpg

世の空気に,しなやかに抵抗の叛骨ぶりが、好もしくも頼もしい。

(2019年10月12日)

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