(2021年10月12日)
私は4人兄弟の長男で、下に妹・弟・弟と続いている。その次弟が、この夏突然に亡くなった。本日が2回目の月命日となる。肺がんを患い、小康を得たとの連絡だったが間質性肺炎が進行して死因となった。今年(2021年)の8月12日夕刻のこと。無念でならず、喪失感が大きい。
次弟・明は、その名のとおり、子どもの頃から周囲を明るくする快活な性格だった。京都大学経済学部を卒業後、毎日新聞の記者となり、山口や佐賀や小倉などの支局に勤務した。文章は達者で、自分から「軟派の澤藤と虚名が立っているんだよ」などと言っていた。
労働組合運動にも熱心で、西部本社の委員長も務め、小倉から東京本社までの新幹線往復を重ねた時期もあった。定年を待たずに退職し、その後は福岡県の苅田に住んでいた。
私が、DHC・吉田嘉明から、6000万円請求のスラップをかけられたときは、心配してくれた。私は、弟妹に配慮すべき立場だったが、この時ばかりは配慮される側になった。弟妹の様子を見て、あのとき父母が存命だったら、その心痛はいかばかりであったろうとも思った。
そして、DHCスラップ訴訟の勝訴には喜んでくれた。私の勝訴が確定したあと、明からメッセージが届いた。訴訟の経過をまとめた文集をつくるという連絡への返事のメールに添付されていたもの。このメッセッージは嬉しかった。
◎メッセージ(2017年1月16日)澤藤明(福岡県苅田町在住)
「豊かな髪よ 再び
旦那さん、髪の量が豊かですネ。羨ましい限りですよ」。散髪屋に行くたびに、決まってこう褒められる。
「子供の頃からよく言われましたネ。他に自慢することとてないけれど、髪の量と男振りはね…。こればっかりは、親から授かったもので感謝しているのですよ」。
鏡に映った顔を確かめながら、決まってこう答えることにしている。そして決まって、元被告、兄・統一郎のあまり豊かとはいえない頭髪の顔が浮かんでくる。
兄も若い頃は、フサフサしていた。私の二歳下の弟がよくこんな事を言っていた。
「親戚にハゲは一人もいない。癌で死んだという話も聞かない。俺はハゲにも癌にもならない。兄貴たちも安心していていい」。そんなものなのかと思っていた。
ところが兄は、四十歳を超えたころから頂上の方から薄くなり始めた。母が言った。「なんで統一郎だけが…。明も気を付けなさいよ」
通説では、男性ホルモンの過多が薄毛につながるという。その男性ホルモンは、闘争心が旺盛で、仕事がエネルギッシュなほど豊富に分泌されるらしい。
兄の仕事ぶりについては「季刊・フラタニティ」(ロゴス刊)に現在連載中の「私が関わった裁判闘争」でその一端を知ることができる。また毎日欠かすことなく発信し続けている「憲法日記」からも知ることができる。
これだけ闘争心をもってエネルギッシュに仕事をしていれば、いくら髪の豊富な家系に連なるといえども、その恩恵にあずかることは困難だと誰もが納得できるのではなかろうか。
薄毛が進行し始めた事を嘆いた母も泉下で、むしろ「男の勲章」と思ってくれているような気がする。
その兄が、六十歳代半ばで今度は癌を患った。肺の患部摘出手術が済んだ直後に、いきなり「今千葉の癌センターにいる」と電話してきた時には驚いた。
「うちの家系は、癌とは無縁」のはずではなかったのか。なぜ、酒も煙草も嗜まない兄が癌の病に襲われたのか、少し理不尽で腑に落ちない。しかし術後の経過は順調で既に完治している。
思えば幼いころから「長男として、妹・弟を思いやらねば」というような雰囲気を感じさせる兄であった。
薄毛にも癌にもなってくれて一家の苦難を全て引き受けてくれたのであろう。
DHCからのスラップ訴訟も、誰かが買って出て受けなければならない苦難を統一郎が引き受けた。そして多くの弁護士の支援で勝った。そんな運命的な巡り合わせのような気がする。
今まで経験したことの無い「被告の座」にまで立ったのだから、ある意味では「私が関わった裁判闘争」の中でも出色の勝利といえるのでは。
今後は仕事を出来るだけ減らし、願わくば再びフサフサの髪の毛を取り戻さん事を!」
8月15日、行橋で行われた告別式で私はこのメッセージを読み上げたが、涙が止まらず、最後までは読めなかった。
(2021年10月11日)
「南日本新聞」は鹿児島県の地方紙。発行部数は25万部を超えるそうだ。九州の地方紙としては西日本新聞に次ぐ規模だという。そのデジタル版の昨日(10月10 日)11:03の記事を知人から紹介された。おそらくは、本日の朝刊記事になっているのだろう。
https://373news.com/_news/photo.php?storyid=144583&mediaid=1&topicid=299&page=1
タイトルが長文である。「教室で直された兵隊さんへの手紙。『元気にお帰りを』が『立派な死に方を』に。国民を死へ誘導した教育。今思えば『洗脳』としか言いようがない〈証言 語り継ぐ戦争〉」というもの。
内容は、87才女性の戦時の学校生活を回想した貴重な証言。「兵隊さんに、立派な死に方を」といえば靖国問題だ。教育や靖国や戦争に関心を持つ者にとっては見過ごせない記事。このような戦争体験を語り継ぐ努力をしている地方紙に敬意を表したい。
証言者は、霧島市隼人町の小野郁子さん(87)。「戦争中の学校教育を『死ぬための教育だった』と振り返る」と記事にある。
最初に、今年戦後76年目の夏に詠んだという、この人の2句が紹介されている。
「少年の日の夢何処(いずこ)敗戦忌」
「死のみちを説きし学舎(まなびや)敗戦忌」
「死のみちを説きし学舎」という言い回しに、ドキリとさせられる。
以下、記事の引用である。
「43年4月、家族で(鹿児島県内)牧園町の安楽に引っ越した。中津川国民学校に転校。4年生だった。
44年からは町内の全ての国民学校に軍隊が配置され、教室が宿舎になった。中津川には北海道部隊と運搬用の馬、「農兵隊」という小学校を卒業したくらいの少年の一団がやって来た。九州に敵が上陸する時に備えた戦力の位置づけだった、と戦後になって聞いた。
当時、私たちの一日は次のように始まった。ご真影と教育勅語を安置する奉安殿前に整列。まず皇居の方角に、次に奉安殿に向かって最敬礼。その後、校長先生が「靖国神社に祭られるような死に方をしよう」といった話をした。似たような言葉を、日に3度は聞いた。
授業らしい授業はほとんど無くなっていたが、教室でみんなと戦地の兵隊さんに手紙を書いた日のことをよく覚えている。
「国のためにいっしょうけんめい戦って、元気でお帰りください」という文を「天皇陛下のために勇ましく戦って、靖国神社に祭られるようなりっぱな死にかたをしてください。会いに行きます」と書き直すよう指導された。どんな死に方か分からなかったが、言われるがまま書き直した。今思えば「洗脳」としか言いようがない。
国民を死へと誘導した教育の中心に、靖国神社があったのは事実だ。平和の実現のために選ばれたはずの政治家が靖国神社に参拝する姿を見ると、「もっと歴史を知ってほしい」と憤りを感じる。
授業の代わりに割り当てられていたのが、食料増産のための開墾や、戦死者や出征の留守宅の奉仕作業だった。真夏のアワ畑の雑草取りのきつさは言葉にできない。
農作業中に敵のグラマンに襲われたことが記憶するだけで3回ある。44年の夏が最初だった。犬飼滝の上にある和気神社右手の学校実習地で、サツマイモ畑の草取りをしていた。午前10時ごろ、見張り役の児童が「敵機襲来」と叫んだ。顔を上げると、犬飼滝の東の空にグラマン1機が見えた。
機銃掃射が繰り返され、私は畑の脇の小さな杉の根元に頭を突っ込んで、ただただ震えていた。近くの旧国道を通り掛かった女性が即死し、はらわたが飛び散った。その道は、後に高校の通学路に。血の跡が残るシラス土手の脇を通るたび胸が痛くなった。
軍歌を歌わなくてよくなり、自由に好きな絵が描けるようになった時、改めて戦争が終わったと実感した。」
特殊な立場にある人の特殊な体験ではない。おそらくは、当時日本中の国民学校の学校生活がこうだったのだろう。「死のみちを説きし学舎」だったのだ。
「生きろ」「生きぬけ」「生きて帰れ」という呼びかけは、人間としての真っ当な気持の発露である。が、10才の国民学校4年生に教えられたことは、「国家のために死ね」「天皇のために勇ましく戦って、靖国神社に祭られるようなりっぱな死にかたを」という、「死のみち」であった。
国民を死へと誘導した教育の中心に、天皇があり靖国神社があった。恐るべきことに、「今思えば「洗脳」としか言いようがない教育」が半ば以上は成功していた。「天皇のために死ぬことが立派なことだ」と本気で思っていた国民が少なからずいたのだ。天皇も靖国も、敗戦とともに本来はなくなって当然の存在だったが、生き延びた。そして、さらに恐るべきことは、あの深刻な洗脳の後遺症が、いまだに完全には払拭されていないことなのだ。
(2021年10月10日)
私は弁護士として消費者問題に取り組み、悪徳商法と闘ってきた。そして、長年思い続けてきた。どうして人は、こんなにも簡単に、悪徳商法に騙されて甚大な被害を受けるのだろう。その思いは、どうして人は、こんなにも簡単に、政権の嘘に騙され甚大な被害を受け続けるのだろう、という思いと重なる。
悪徳商法は、決して大事なお金を強奪することはない。「私を信用してお金を預けてくだされば、きっと倍にもしてお返しいたします。約束は必ず守ります。あなたのために誠心誠意はたらく、私を信頼してください」。こう言われて、納得ずくで大事な金を渡すのだ。この点、政権もまったく同じだ。
悪徳商法は、手を変え品を変え、目先を変えて、繰り返し消費者を襲ってくる。騙す方も必死だ。なるほどそれなら儲かりそうだというスキームを構築し、いかにも誠実そうな態度を装う。このサプリを飲むと若返ります、必ず利きます。この化粧品を付けると美しくなります。必ず効果ありますという、あのまやかし商法の「必ず儲かります」バージョン。
政権もよく似ている。決して大事な票を強奪することはない。「私を信用して政治をお任せくだされば、きっと素晴らしい社会を作ります。約束は必ず守ります。あなたのために誠心誠意はたらく、私を信頼してください」。こう言われて、納得ずくで大事な票を奪うのだ。
アベに騙され、アベ後継のスガに騙され、もう騙されまいぞと利口になった国民の目の前に、今度は目先を変えた岸田政権だ。「人の言うことを聞くことが特技です」とは、目先ならぬ耳先を変えてのセールス。もう、騙されるのはこりごりだ。
岸田の看板は「新しい資本主義」で、その中身は「成長と分配の好循環」だ。これはあくまで包装で実際何を売ろうとしているのかは分からない。真剣に聞けば聞くほど分からなくなる。それでいて、アベやスガとは違って、「約束は必ず守ります。あなたのために誠心誠意はたらく、私を信頼してください」。こう言われてもねえ。易々と、大事な票をやるわけにはいかない。
「成長と分配の好循環」というだけでは、「お任せいただければ、うまく経済まわしますよ、と言っているだけ。何をどうしようというのか、具体策が見えないから、悪徳商法と同じなのだ。
「成長と分配の好循環」の意味が、「まず成長、しかる後に分配」なら、格差と貧困を生み出してきたアベノミクスと変わらない。「まず分配で、しかる後に分配がもたらす成長を」というのなら新味があるし期待もできよう。
では、分配をどうするのか。その具体策がなければ、口先ばっかり、看板倒れ、包装だけの悪徳商法と変わりがない。
この点について、一昨日(10月8日)の所信表明演説なんと言ったか。総論は、美しいのだ。
「新自由主義的な政策については、富めるものと、富まざるものとの深刻な分断を生んだ、といった弊害が指摘されています。世界では、健全な民主主義の中核である中間層を守り、気候変動などの地球規模の危機に備え、企業と政府が大胆な投資をしていく。そうした、新しい時代の資本主義経済を模索する動きが始まっています。今こそ、我が国も、新しい資本主義を起動し、実現していこうではありませんか。」
これは下記のように読むべきなのだ。
「アベノミクスは典型的な新自由主義経済政策でした。その結果、富めるものと、富まざるものとの深刻な分断を生み、社会の閉塞感を高める弊害が顕著になりました。さすがに世界では、この間健全な民主主義の中核である中間層を守り、気候変動などの地球規模の危機に備え、企業と政府が大胆な投資をしていく。そうした、新しい時代の資本主義経済を模索する動きが始まっています。長く続いたアベ・スガ政権の失政で、日本経済は大きく世界に遅れ、一部の者に富が集中して社会の健全さが失われつつあります。今こそ、我が国も、アベノミクスの呪縛から脱皮して新しい資本主義を起動し、実現していこうではありませんか。」
ところが、「分配戦略」の具体策がない。所信表明演説では、4つの柱が語られた。
「第一の柱は、働く人への分配機能の強化」「第二の柱は、中間層の拡大、そして少子化対策」「第三の柱は、看護、介護、保育などの現場で働いている方々の収入を増やしていくこと」、そして「第四の柱は、公的分配を担う財政の単年度主義の弊害是正」だという。いったいなんだ、そりゃ。
本気で分厚い中間層の拡大を目指して所得の再分配をしようというのなら、まずは抜本的な税制改革だろう。消費税は撤廃するか、少なくとも半減しなければならない。税収不足は法人税を増税せよ、所得税の累進率を高めよ。そして、富裕税を創設せよ。金融所得に対する分離課税もやめて富める者の不労所得への課税を強化せよ。不公平を是正するのに、何の遠慮も要るものか。そうすれば、「親ガチャ」などという言葉もなくなる。
ところが、岸田はやるべきことをやらない。小出しに「森友事件の再調査をやります」と言って、引っ込める。「金融所得課税もやるやる」と言って、「当面触れない」と引っ込めた。
やるやる詐欺、羊頭狗肉商法、誠心誠意を装う悪徳商法ではないか。くれぐれも美しい総論に惑わされまい。具体策を見極めよう。大事な票を掠めとられぬようにくれぐれもご用心。
(2021年10月9日)
NHKを被告とする情報公開請求訴訟に関連して、「NHK情報公開・個人情報保護センター」との文書のやり取りが頻繁である。私どもの窓口は醍醐聰さんで、同センターから醍醐さん宛の文書が入ってくるが、この日付が元号を使わず、すべて西暦表示であることを興味深く眺めていた。
迂闊にも気付かなかったが、この西暦表示は、情報公開センターだけではない。NHKの内部文書は、すべて西暦表示に切り替わっているようである。少なくも、経営委員会関係の文書も、理事会の文書も、すべて西暦表示に統一されている。
情報公開請求で開示された文書の一つに、「監査委員会監査実施要綱」という細則がある。その改正の経過が、「平成28年7月26日」の次が、「2020年1月1日」なのだ。この間のどこかで、元号表示から西暦表示への切り替えが行われている。
この切り替えはいつだったのだろうか。推理すれば、最もあり得るところは元号の替わり目を避けるタイミングではないかということ。元号の替わり目は2019年における、「平成31年4月⇒令和1年5月」という中途半端な時期。だとすると、同年の3月末日で平成という元号の使用をやめて、新年度の始まる4月から西暦表示にしたのではないか。つまり、「平成30年度の末日である平成31年3月末日」までを元号表示とし、その翌日つまり、「2019年度の最初の日である2019年4月1日」から西暦表示を始めたのだろう。
こう見当を付けて調べて見たら、ドンピシャリだった。NHKの最高意思決定機関である経営委員会も、これに附随する監査委員会も、NHKの理事会も、すべての文書議事録は、2019年4月1日以降は西暦表示に統一されている。このことは、あまり話題になっていないが、注目すべき出来事だと思う。
つまり、NHKは少なくとも内部の事務文書では、平成から令和という元号に切り替える煩わしさを避けて、令和は使わないことにしたのだ。
この切り替えの時期の経営委員会議事録も、理事会議録も、西暦表示への切り替えについて語るところはない。ひっそりと切り替えたという印象。おそらく、この変更は周到に練られ準備されてのことだろう。この決断はNHKのビジネスの効率化に役だったものと思われる。
もっとも、NHKは放送ではいまだに元号を使っている様子なのだが、追々と西暦表示に変わって行くことになるだろう。
ところで、情報公開文書の中に、西暦表示に関して次のような興味深い文書がある。
「 確 認 書
2020年4月1日から2021年3月31日までの、日本放送協会の経営委員会委員としての職務執行について、「経営委員会委員の服務に関する準則」に定められた内容を理解し、それに基づき行動したことを報告します。
第6粂(機密保持)については、経営委員会委員の職を退いた後もこれに基づき行動します。」
定型文書の書式が西暦表示であり、これに森下俊三以下の経営委員が年月日を記入して、署名している。経営委員は12名だが、開示されたものは期をまたがって入れ替わった委員を含む14名。森下俊三以下13名が素直に、署名の日を西暦表示にしていることが、印象的。
中で、「令和3年4月6日」と元号表記にこだわっている人がたった一人、おそらくは、その思想の発露と思われる、長谷川三千子委員である。
(2021年10月8日)
確かに言いましたよ。「私・岸田文雄の特技は、人の話をしっかり聞くこと」とね。だってね。これまでの総理が、ひどかったものね。ほとんど人の言うことに聞く耳もたない総理が続いた9年間。その結果、国民からそっぽを向かれたんだから、こういうしかないでしよう。政治の要諦は、「信なくば立たず」ですよ。
そして、おっしゃるとおり、人の言うこと聞かない総理のしでかした事件の象徴が森友学園事件でしたね。総理夫妻の責任を揉み消す仕事を押し付けられて、善良な公務員が自殺にまで追い込まれたんじゃないかと、国民の多くが疑念をもっている。このままでは、国民の信頼を得られず、自民党は崩壊しかねません。
「多くの皆さんが政治に国民の声が届かない、あるいは政治が信じられないと切実な声を上げておられました」。こんな事態ですから、国民の声を聞きますよと言わざるを得ないじゃないですか。で、耳を傾けたら、当然に森友事件の徹底解明を求める再調査をせよという国民の声が聞こえて来ますよね。だから私は、総裁選立候補直後に、「国民の声に耳を傾けます」「森友事件の再調査をやります」と確かに言いました。
でもね。安倍さんが怒ったんですよ。多分、「森友事件を蒸し返して再調査などするのなら、総裁にはしないぞ」「仮に総裁になったとしても、徹底して潰してやるぞ」ということでしょうね。そりゃあそうでしょうね。あの人のことだから。
だから私は、方針を変えました。ほら、よく言うでしょう。「君子は豹変す」とか、「過ちては即ち改むるにはばかること勿れ」とか。私は君子ですから、再調査はもうしないってことにしたんですよ。「私・岸田文雄の本当の特技は、安倍さんのお話をしっかり聞くこと」なんですから。
おかげで、目出度く、私は総裁になり、総理にもなれた。そうしたら、赤木雅子さんからの直筆のお手紙ですよ。「財務省の公文書改ざん問題の再調査をしてください」というわけ。これにはコマッタ。きっと、安倍さんだと良心の呵責って感じないんでしょうけど、私はそんな鉄面皮じゃあないから困ってしまう。
赤木を立てれば安倍立たず、安倍を立てれば世論が立たない。さあ、どうする、どうする。どうしましょうかね。
その手紙は、「私の話を聞いてください」で始まるんですよ。そして、「夫は、亡くなる前に改ざんや書き換えをやるべきではないと本省に訴えています。それにどのように返事があったのかまだわかっていません」と続く。「夫が正しいことをしたこと、それに対して財務省がどのような対応をしたのか調査してください」というのが主旨だ。「正しいことが正しいと言えない社会はおかしいと思います。岸田総理大臣なら分かってくださると思います」とも書いてある。
それに、記者会見では、「岸田さんって聞くのが得意、それが長所なんですよね」「だから、きっと私の声も届くはずだし、聞いてくださる感覚があったので、岸田さんに届けるのが一番いいと思いました」「元々は再調査に前向きで素敵な方だと信じています」と説明している。断りにくいよね、これ。
やっぱり、再調査やることにして、世論を味方に付けるのが得策かな。そしたら、安倍さん怒るだろうな。でも、圧倒的な世論を味方にすれば、安倍さんも恐くはない。ここは、勝負に出てみようかな。安倍さんが怒鳴り込んできたらなんて言おうか。
「私の特技は安倍さんの話をしっかり聞くことですが、実は聞くだけのことで、聞いたあとことは特技ではないんです」。こう言ったら、お終いだろうな。
せめてこう言おうか。「安倍さん、森友問題については、本当に信頼できる第三者を選任した外部委員だけで、徹底した再調査をします。で゜すから、安倍さんの身の潔白は徹底して明らかになるはずです。安心してください」とね。あ、安倍さん、真っ青になっちゃった。もしかしたら、そのことが一番イヤなのかも知れない…。
(2021年10月7日)
「非核市民宣言運動・ヨコスカ」という運動体がある。その月刊の機関誌が「たより」という。堂々20ページの立派なもの。最近号が、「たより323」である。ほぼ30年続いているということだ。
その「あとがき」にこう書いてある。「求む!定期購読」「『たより』を定期購読しませんか?」「格調高い論文はありませんが、運動する人の息づかいを伝えようとするニュースです。」「年間購読は郵送料込みで2000円。毎月発行の24頁。ぜひお読みください。」
非核市民宣言運動・ヨコスカ
横須賀市本町3?14 山本ビル2F
046-825?0157 FAXも同じです。
ホームページは以下のとおり。
http://itsuharu-world.la.coocan.jp/
なお、この「たより」の巻末に、主宰者の新倉裕史さんが、逗子の『無言のデモ』への参加の記事を書いている。このデモの雰囲気が、文句なく素晴らしいと思う。なお、21年8月8日のことだそうだ。添えられた写真には『米軍基地撤去・池子の森全面返還を』の横断幕が写っている。
「30数年ぶりに参加した逗子『無言のデモ』は
なんと574回目だった」
篠田健三さんから、「今月のデモは2人だった」と聞いたとき、反射的に「来月必ず行きます」と言ってしまった。その時の篠田さんの返事が、今も忘れられない。
「いいよ、来なくて(笑)。2人だから目立つんだから…」。
当時横須賀の月例デモはひと桁が続いていて、「2人」は人ごとではなかった。だからの「必ず行きます」。篠田さんの「来なくていいよ」に、うなった。
その逗子の「無言のデモ」に、30年ぶり(いや35年ぶりか)に参加した。玉栄さんのインタビューで、「無言のデモ」が今も続いていることを知り、台風の大雨の中、JR逗子駅に向かった。
11時集合。駅前にそれらしき人。近づくと「逗子定例デモ574回」のプラカード。やがて玉栄さんも加わり総勢6名。
11時15分、出発直前に警官2名が駆けつけて、「無言のデモ」は県道42号を東逗子まで南下する。
2人の警官は「無言のデモ」の前と後についた。
県道24号線は一車線だから、6人を追い抜く車は、上り車線に膨らんで追い抜く。6人の後に複数の車が並ぶと、後方の警官が、20mほど前を行く警官に、通過させる台数と車のナンバーを無線で伝える。前方の警官が上りの車を止めると、後方の警官は「規制解除」と言いながら、後ろに並んだ車に、6人を追い越すように指示する。 たった2人で、上下線の車をさばきながら、車道のデモを確保する手際の良さから、デモヘの「敬意」が伝わってくる。
「たいへんですね」
6人のすぐ後方についた警官に声をかける。
「ええ、雨の日はとくに気を使います」
春からデモ警備の担当になったという警官は、話しながらも警棒を振り、後続の車に指示を出し続ける。
デモコースの途中に京急逗子線の踏切があって、赤い列車が6人の前を走る。
京急は毎年沿線写真を募集している。応募作品はどれも独自のアングルを探し出し、京急線の魅力を表現する。
「デモと京急」
は、まだ誰も作品化していないぞ、と思いながらシャッターを切る 「無言のデモ」は随分早足だった。途中で1人が合流して7人どなり、ほぽ30分で東逗子駅に到着した。
「今日は雨だから、ちょっと早足になりました。いつもはもっとゆっくりです」と聞いて安心する(笑)。
デモが終了すると、双方から「ありがとうございました」。
いつものことらしい。一緒に歩いた私も同じ気持ちだ。
解敵地でお話を聞く。
「ひとり、という時はありましたが、中止したことは一度もありません」 「コロナでも逗子署と相談して、無言だし、参加者も少ないから、まあいいでしょうということで、休みなしでずっと続けています」
スタート時から参加されている方はいらっしやいますか。
「いません」
デモ申請を担当されている方は、「僕は中学生でした」。
コロナ禍でも、「無言」と「少人数」が思わぬ力を発揮した。
スタート時のひとが「いない」と伺って、考えた。それって、スタート時のひとがいなくてもデモは続く、ということだよね。ずぶ濡れになったが、心は充分に温まる、「無言のデモ」だった。
(2021年10月6日)
「WiLL」という月刊誌がある。常連の執筆陣は、櫻井よしこ・阿比留瑠比・藤井厳喜・石原慎太郎・上念司・石平・ケントギルバード・高橋洋一・山口敬之など。かつては、小川栄太郎も。この執筆陣を見れば、どんな雑誌と説明するまでもない。21年10月号には、安倍晋三も寄稿している。そういう傾向の雑誌。
フリージャーナリストの安田純平さんが「WiLL」の出版元である「ワック株式会社」(東京)を被告として、損害賠償請求訴訟を提起していた。「WiLL」に掲載の記事で名誉を毀損されたので慰謝料を支払えという訴え。請求額は330万円だった。
訴えの内容は、《ワック社は2018年に発行した「WiLL」に、安田さんが15年から3年以上拘束されたことについて「中東でよく行われている人質ビジネスでは?と邪推してしまう」との記事を掲載し、虚偽の事実を摘示して安田さんの名誉を毀損した》というもの。
報道によれば、本日の判決は、この記事が「身代金名目で金銭を得る側に安田さんが加担していたことを黙示的に示した」と解釈したうえ、安田さんの名誉を毀損したと認めた。その上で、損害賠償として33万円の支払を命じたという。
33万円の内訳は、判決の認めた慰謝料(精神的損害額)額が30万円で、その30万円の支払を得るための弁護士費用3万円の認容であろう。
ワック側には、「身代金名目で金銭を得る側に安田さんが加担していた」ことの真実性を立証するか、少なくとも真実であると信じたことについての相当の事情の存在を立証しなければならない。これに関して、判決は「安田さんの会見以外に取材した様子はない」と判断したという。
「WiLL」という月刊誌記事の信頼性がこの程度ということを世に明らかにした点で、この判決の意義は小さくない。しかし、問題は認容額である。わずかに、33万円。
安田さん自身が、「被告は真実性の説明すら放棄しており妥当な判決だが、賠償金額が低すぎるため誹謗中傷に対する抑止効果が望めない点で残念と言わざるを得ない」とコメントしている。そのとおりだと思う。
弁護士を依頼し、本業への差し支えを覚悟で手間暇をかけての訴訟追行活動が必要である。その上でようやく勝ち得た判決の認容額が33万円。これでは、ワックにに対する制裁として不十分で執筆姿勢の改善にインセンティブを与えない。むしろ、同種の裁判を提起する意欲を減殺させることにしかならない。
実は同じ裁判官が、今年の春(3月10日)、同じような判決を書いている。原告が朝日新聞社、被告が小川栄太郎と飛鳥新社。やはり、名誉毀損損害賠償請求訴訟だが、こちらの請求金額は5000万円と大きい。
小川栄太郎の著書「徹底検証『森友・加計事件』 朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪」の記述で名誉や信用を傷つけられたとして、朝日新聞社が小川氏と出版元の飛鳥新社を訴えたもの。
同書は、森友学園への国有地売却問題や加計学園の獣医学部新設問題をめぐる朝日の報道を批判する内容で、2017年に発売された。判決は、「どちらも安倍(晋三前首相)の関与などないことを知りながらひたすら『安倍叩(たた)き』のみを目的として、疑惑を『創作』した」▽加計問題は「全編仕掛けと捏造(ねつぞう)で意図的に作り出された虚報」▽「『総理の意向』でないことが分かってしまう部分を全て隠蔽して報道し続けた」▽「朝日新聞とNHKとの幹部職員が絡む組織的な情報操作」という記述や著書のタイトルなど、計14カ所は「真実性が認められない」と判断。「報道機関としての名誉と信用を直接的に毀損する内容だ」と認めた。(朝日の報道による)
また判決は、名誉毀損言論と特定した15か所の記事の内1か所は、名誉毀損言論とならない(朝日の名誉や信用を低下させる記述ではない)とされたが、残る14か所については、「報道機関としての名誉と信用を直接的に毀損する内容だ」と認めたうえで、「真実性が認められない」と判断したわけだ。
森友・加計事件報道をリードしてきた朝日にしてみれば、この訴訟は掛け値なしに重要なものだったろう。判決は、責任論については立派なものだが、やはり損害額の認定が200万円では、僅少に過ぎる。被告らは、安堵したのではないだろうか。
問題の記述は相当に悪質である。センセーショナルに事実に基づかぬ記事を書いて書籍の売上げを伸ばし、訴えられても損害賠償が少なければ、これをコストに見込んだビジネスモデルも成立しうるのだ。このような虚偽報道を許さぬ損害賠償の認容額が必要である。
判決を受けての小川榮太郎のコメントが「極めてスキャンダラスで異常な判断だ。裁判所が個別の表現に踏み込むのは司法の暴力だ」というもの。不思議なことをおっしゃる。誰の目にも、スキャンダラスにも、異常な判断にも見えようはずはない。裁判所が必要な名誉毀損の判断を行うことは、司法の暴力ではなく、司法の職責というほかはないのだから。
(2021年10月5日)
本日から、「ノーベル賞週間」だとか。ノーベル賞とオリンピック、なんとなくよく似ている。「ノーベル賞」の権威を認めるべきだろうか。受賞者に敬意を払うべきだろうか。オリンピックの権威や、メダリストへの敬意とよく似た設問。当然のことだが、すべて、「NO!」である。
私には、特に傾倒する人物もないし、座右の書もない。しかし、なんとなく身近にゴロゴロして何度となく手にする書物がないわけではない。そのうちの一冊が、山田風太郎の「人間臨終図鑑」。これが面白い。多くの人の死を描くことで、その人の生きかたを浮かび上がらせようという、相当にねじれた人物論の集積。
その中に、63歳で亡くなったアルフレッド・ノーベルの有名な逸話が載っている。彼の死の数年前、兄リュドビックが急死したとき、新聞は兄弟を取り違えて、アルフレッドの死亡記事を出す。「死の商人、死す。可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物」
毎日新聞の記事によれば、「石油業を営んだ兄ルドビグとノーベル本人を取り違えた訃報記事が、フランスの国立図書館に残っている。フィガロ紙は88年4月15日付で『人類に貢献した人だとは伝えにくい人物が(仏南部)カンヌで死亡した。ダイナマイトの発明者、スウェーデン人のノーベル氏』と報じた。同紙は翌日、『パリ在住のノーベル氏は健在』との訂正記事も掲載した。」という。
細部のことはともかく、彼は、生前に自分の死亡記事を読むという稀有な経験をし、しかも『死の商人』と自分の人生を総括されたことにショックを受けた。死後の汚名を嫌ったノーベルが、平和に貢献したと評価されたい思いから、ノーベル賞を創設する。これが定説となっている。
「死の商人」という記事にショックを受けたのが本当かどうかは知らない。ノーベルは父の代からの根っからの武器製造業者であった。ノーベルの父は、爆発物、機雷の製造で大成功し、クリミア戦争で兵器を増産して大儲けをした人物。戦争終結後にはかたむいた兵器工場を兄が再建し、さらにアルフレッドが若くしてダイナマイトを発明して巨万の富を手にする。果たして、ノーベルに、死の商人と呼ばれることに後ろめたさを感じるだけの感性があっただろうか。
ダイナマイトは鉱物採掘や建設・土木工事にも多用されるようになるが、元はと言えば兵器工場で開発され生産を始められたもの。ノーベル賞の財源は、まぎれもなく「死の商人」による「死の商売」が築いた財産によるものなのだ。
ノーベル賞基金の由来だけでなく、あの授賞式に象徴されるスノビッシュな雰囲気が気に入らない。スェーデンの王室が、したり顔でしゃしゃり出てくるのも面白くない。何よりも、ノーベル賞が科学や科学者の業績をランク付け権威付けしているそのこと自体が受け容れがたい。
本日(5日)、岸田文雄首相は、真鍋淑郎・米プリンストン大上席気象研究員のノーベル物理学賞の受賞決定に関し「日本国民として誇りに思う」とする談話を発表した。「受賞を心からお喜び申し上げるとともに、真鍋氏の業績に心から敬意を表する」と祝意を示したという。政権の権威付けやら人気取りにも、愛国心の高揚にも、ノーベル賞は利用されているのだ。
泉下のノーベルは、きっとこう呟いているに違いない。
「私なんぞ、とてもとても『死の商人』と呼ばれるほどの者ではございません。核爆弾の発明や、ICBMの開発、AI戦闘ロボットや戦闘ドローンの大量製造、コンピューター技術の兵器化、化学兵器の増産化など、各国の総力を挙げての大量殺戮兵器開発競争を見せつけられては、まことにお恥ずかしい限り」と。
(2021年10月4日)
新政権が発足しましたね。甘利明新内閣。先ほど総理代行の岸田文雄が、記者会見をやっていましたよ。けどね、代行が主役を気取ってはいけない。やはり、代行は代行でしかないね。アマリに格が違う。アキラかに存在感の差。
なんたって、甘利明こそは、生まれ変わることのできない自民党の象徴ですものね。安倍政権の数々の不祥事を断ち切れない腐れ縁グループの代表格のお一人。利権にまみれた薄汚い保守政治の残りかす。本来、政治家として生き残っていられるはずのない御仁。何を間違って、また、表舞台に出てきたのでしょうかね。
甘利明と言えば、「政治とカネ」疑惑の最右翼。そして、丁寧に説明しますと言ってせず、そのことを追及されると、「もう、しました」とウソをつく。このやり方が、安倍晋三にそっくり。安倍亜流の甘利。類は友を呼ぶとも、邪は悪を呼ぶ、ともいうのは本当なのですね。
今日、甘利明が岸田文雄について言ってたそうですね。「心優しい思いやりのある人」だって。そうでしょう。あっせん利得罪のあの甘利をですよ、説明するするでスルリと逃げた人物をですよ、説明責任は果たしたなんてウソをつく政治家をですよ、よくも思いきって登用したのですから、心優しいのですよ。岸田は安倍や麻生・甘利の言うことは耳を傾けてよく聞くんですよ。そして、甘利や萩生田や高市らに心優しい思いやりを見せてポストに就ける人。どっちを向いているんでしょうね。誰のために何をしようというのでしょうかね。
岸田によると総選挙は前倒し、化けの皮の剥がれない内、身体検査の不備が見えないうちにやってしまおうということですね。当然のことながら、ボロを見せざるを得ない予算委員会などやらないで、逃げるが勝ちという作戦。甘利の参考人招致なんかやられたらたいへん。ボロ隠し解散ですよ。野党との論戦から逃げたということ。
それにしても驚きましたね、毎日の記事。見出しが、「『事実上の甘利内閣』 歓喜する電力業界」というものですからね。電力業界は、「エネルギー政策に通じた人が多く登用されている。やりやすい」と歓迎の声が上がっているんだとか。
業界の歓迎は、まずは甘利明の復権だとか。何しろ、甘利といえば、「原子力ムラのドン」なのだそうですね。この4月に結成された、「原発の建て替えや新増設を訴える自民党の議員連盟」でも最高顧問に就いているんですね。そして、「甘利氏の一番弟子」と言われる山際大志も経済再生担当相で入閣。さらに、政調会長に就任の高市早苗ですよ。これも原発推進派として知られるひと。だから、
ながらへば またこのごろや しのばれむ
憂しと見し世ぞ 今は恋しき
だと言いますね。こと原発、エネルギー政策では、菅政権の方がまだマシだった、グリーン重視の菅政権が懐かしい。ということだそうですよ。
この歌のように、もしかしたら、「甘利・岸田の時代はまだマシだった、あの頃が懐かしい」なんてことにならないように、しっかりと政治を見つめ直そうではありませんか。
(2021年10月3日)
真贋の判断は難しい。「偽版画事件」の摘発が話題となっている。逮捕された容疑者は「プロ中のプロ」で、出回った贋作は真作と遜色のない精巧な作りという報道が関心を呼んでいる。そもそも版画の真贋とは何だろうか。
9月28日に逮捕され送検されたのは、業界で信頼が厚い「次世代のエース」とまで言われる画商(大阪)と、40年を超えるキャリアを持つ腕利きの作家(奈良)であるという。2人は2017年1月から19年1月の間、東山魁夷の偽の版画を計7点作って親族らが持つ著作権者の権利を侵害した疑いがあるとされる。被疑事実は詐欺ではないのだ。これは意味深。
警視庁は、東山魁夷のほか、平山郁夫、片岡球子らの版画を約80点押収し、このうち約30点を贋作と確認したという。業界団体も専門機関に鑑定を依頼し、2人が流通させたとみられる日本画家3人の贋作を約130点確認したと報じられている。
逮捕された作家は有能で知られ、画家や遺族からの依頼を受けて版画を制作してきたという。業界団体の幹部は「真作と同じやり方で作るのだから、画商でも判別は難しい」と言ってるそうだ。実は、この作家がつくった10枚の作品の内、6枚は真作として捌かれ、残りの4枚は摘発されれば贋作となる運命におかれる。真作と贋作、作品の出来具合に差異はないようなのだ。
昔、松本清張の「真贋の森」を興味深く読んだ。古美術の鑑定という営みが権威主義の上に成り立っている愚劣がテーマだと理解した。美術品だけではなく、この世には権威主義の上に成り立っている偽物が横溢しているのだという寓話とも読める。今回の版画の真贋判定も、権威の判定に委ねられてのこと。
真作であることは、「お墨付き」や「折り紙」「箱書き」で担保されるタテマエだが、「お墨付き」や「折り紙」の真贋の判定がさらに難しい。昨今は、美術品にICタグを付け、デジタル証明書を作ったりスマートフォンで内容を確認したりすることが始まっているそうだが、ICタグの偽物も、デジタル証明書の偽造も必ず出回る。それ以上の難問として、いま、真贋とはなんぞやという根本的な定義が問われている。
岸田新政権が、明日に発足する。その真贋も話題となっている。一皮めくれば、実は「第3次安倍政権」だというわけだ。新しい岸田の顔で国民の関心を引いてはいるが、経済政策も、外交・安保も、政治姿勢も、何のことはない、安倍政権の旧態に変わらない。あの悪夢の安倍政権時代の度重なる不祥事を検証しようともせず、むしろ隠蔽し温存しようというのが岸田新政権である。
主権者国民は、政権の真贋を見抜く目をもたねばならない。いつまでも政治家に欺されていてはならない。また、政治の真贋を判定するという鑑定人の権威に欺されてもならない。愚劣な権威主義を捨てて、政権の偽物ぶりを見据えよう。