(2022年5月21日)
山口県阿武町の4830万円「誤送金」事件。容疑者は誤入金があった4月8日から19日までに、34回にわたって当該口座から計約4633万円を出金。振込先は決済代行会社3社で、このうち27回の計約3592万円が1社に集中。4月12日には300万円と400万円が別の会社にそれぞれ送金された。…県警によると、容疑者は「オンラインカジノに使った」と供述している、と報道されている。
「オンラインカジノ」とは、インターネットを通じての賭博である。「自宅に居ながらにして、簡単にギャンブルを楽しむことができます。お金を儲けることもできます」「パソコンとインターネット環境さえあれば、海外のカジノサイトで直接プレイをすることが可能です」「もちろんお金を賭けて勝負をしますし、勝てば配当も獲得できます」という甘い誘引が、インターネットに並んでいる。こんなもの、野放しにしてよいはずはない。
あらためて、賭博の害悪、賭博の反社会性を深刻なものと受けとめざるを得ない。公営の博打場を作ろうなどという自民や維新の「犯罪性」を追及しなければならない。IRを作らせはならない。そして、オンラインカジノを取り締まらねばならない。
安倍晋三の守護神と言われた黒川弘務東京高検検事長。番記者との賭マージャン報道を切っ掛けに賭博罪で告発され、略式起訴されて有罪(罰金20万円)となった。検察組織ナンバー2で検事総長に最も近いとされた人物も、可罰的違法性がないなどと無罪を争わなかった。賭博罪の犯罪性・可罰性は明白である。
刑法185条が、「賭博をした者は、50万円以下の罰金又は科料に処する。ただし、一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは、この限りでない。」とし、同186条1項が「常習として賭博をした者は、3年以下の懲役に処する」と定める。法定刑はさして高くはないが、賭博は正真正銘の犯罪なのだ
賭博罪の構成要件行為は「賭博をする」ことである。賭博とは、改正前の刑法の条文では、「偶然ノ輸贏ニ関シ財物ヲ以テ博戯又ハ賭事ヲ為シタル者ハ」とされていた。随分難しい熟語を使っているが、「輸贏」とは「負けと勝ち」のこと、「勝敗」「勝負」と言っても同じことである。「偶然で決まる勝負によって、カネやモノの遣り取りをする」ことが賭博である。相互に合意の上でのこととは言え、他人のカネを我がカネとし、他人の物を我が物とし、他人の不幸をもって我が幸せとする、人倫に反する反社会的行為といってよい。
偶然の要素は少しでもあればよいとされているので、賭博の手口はサイコロ賭博やルーレットに限られない。カネやモノを賭ければ、囲碁・将棋・麻雀、相撲も野球もゴルフもジャンケンも、全てが賭博になり得る。もちろん、「一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときはこの限りでない」が。
賭博の蔓延は大きな社会的害悪である。社会的な害悪という所以は、これに参加する多くの人に射幸心を煽り、健全な労働意欲を失わしめるからである。さらには、多数市民をギャンブル依存症に陥らせ、その家族にも大きな苦しみを与える。
安倍政権は賭博という犯罪行為を大規模に奨励することでの経済振興策を思い立った。これがIRである。多くの人の不幸を不可避とする「経済振興」の愚策。批判が集中する中で、維新の大阪と、長崎のみがこの愚策に乗った。とりわけ、大阪の強引さが際立っている。
いま、国民世論がIRという賭場の犯罪性を糾弾している。これ以上の不幸の源泉をはびこらせてはならない。もし、今「夢洲」(大阪市此花区)に、IRができていたら、阿武町の容疑者はそこに町のカネを注ぎ込んだに違いない。公営賭場だから、犯罪ににはならなくても実質的な反社会性がなくなるわけではないのだ。
オンライン賭博も同様である。賭博の害悪は胴元がどこの誰であるかに関わらない。胴元が国内にあるか国外にあるのか、あるいは違法か合法かに関わりなく、賭博行為は犯罪である。
インターネットでする賭博は、国内のパソコンへの入力で完結する。その先の胴元が、国内にあろうが国外にあろうが、あるいは違法か合法かに関わりなく、賭博行為は明らかに犯罪である。オンラインカジノでの起訴件数は過去2件しかないようであるが、これを野放しにしていては、賭博罪を創設した意味がなくなる。社会的害悪の蔓延を防止し得ない。
阿武町の詐欺容疑者は、30回ものオンラインカジノへの賭博を繰り返していたようである。金額も大きい。明らかに常習賭博である。国民注視のせっかくの機会である。容疑者を常習賭博として起訴のうえ、公判を通じて「オンラインカジノ参加は刑法上の賭博行為であり、犯罪行為である」ことを明確にされるよう検察当局に期待したい。
(2022年5月20日)
ニューズウィーク日本語オンライン版に、興味深い記事が続いている。昨日の記事の表題は、「ついにロシア国営TV『わが軍は苦戦』 プロパガンダ信じた国民が受けた衝撃」というもの。原題は、「Russian People Surprised to Find Out Ukraine War Not Going Well on State TV」。ウクライナでの戦況が、「Not Going Well」であることが、「State TV」で公然と語られているというのだ。このことに、「Russian People」が「Surprised」というのだが、我々も驚かざるをえない。
戦況の悪化は銃後の社会の空気を変え、政治状況をも変えかねない。そのような事態を避けるための報道統制なのだが、もはや覆うべくもない戦況の劣勢が明らかで報道統制困難となりつつあるのだ。プーチン政権、実は見かけほど強くはない。あらゆる面での破綻が見え初めている。さして長くは持たないのではないか。
これまでは愛国心むき出しに戦果を強調してきたのが、ロシアの国営テレビだったはず。それが、遠慮なく「ロシア軍の状況は悪化する」との見通しを述べるようになっている。「大本営発表はウソだった」「王様は実は裸なのだ」というのだから、その衝撃が小さかろうはずはない。
「国営TV局『ロシア1』のトークショーでは、番組司会者のウラジミール・ソロヴィヨフが兵站への不満をぶちまけた。『我々の兵に何かを届けるのは事実上不可能では。この不満は100回も述べてきた』『ドンバス地方に何かを持ち込みたいなら、(西部)リヴィウのウクライナ税関を通す方がまだ早い』」
ソロヴィヨフはこれまでプーチン政権のプロパガンダを積極的に担ってきた人物。デイリー・メール(英)紙は「プーチンの最も有名な操り人形のひとつ」であるソロヴィヨフが軍部を「公然と批判しはじめた」と報じた。
同紙は続けてこう言っている。「ウクライナ政府転覆をねらう『特別軍事作戦』に数日間を見込んでいたところ、突入から2ヶ月以上が経つ。プーチンの太鼓持ちたちでさえ、進展のなさに言い訳が尽きたようだ。」
番組出演者らは口々に、兵士たちが「去年の装備(もはや旧式となった装備)」で戦地に送り出されていると述べ、近代化が遅れるロシア軍の状況を憂慮した。
これに対して、ある視聴者は「去年の装備をもたされ、去年の戦争に、去年の思考と信念をもった指導者によって送り出される。あなた方の華麗な失敗に祝福を。ウクライナに栄光あれ」とのコメントを残した。
戦地での局所的な問題だけでなく、ロシアには国家として長期化する戦線を支えるだけの経済力が残っていないのではないかとの指摘も国内から出はじめている。軍事評論家のコンスタンティン・シヴコフ氏はTV出演を通じ、「我々の現行の市場経済は、我々の軍の需要に耐えることができない」との分析を示した。
豪ニュースメディアの『news.com.au』はこうした一連の批判劇を動画で取り上げ、「ウラジミール・プーチンのくぐつメディアがついにプーチンに背を向けた」と報じた。「プーチンのプロパガンダ機関らが、ロシア軍の状況をおおっぴらに批判しはじめた」とし、軍部への不満が表面化していると指摘しているという。
さらに話題になっているのは、軍事アナリストのミハイル・キョーダリョノクによる発言。「ロシア1」は、プーチン大統領によるウクライナ侵攻について愛国的なトーンで報道を行っているが、キョーダリョノクは同チャンネルの番組「60ミニッツ」の中で、ロシア軍には物資も兵力も不足していることから、兵を総動員しても戦況が大きく好転することはないとの予測を語った。「我々には、(前線への投入に備える)予備隊がないのだ」と氏は述べている。
彼は防空司令官から軍事評論家に転身し、2020年には「祖国貢献勲章」を受賞した人物。「事実上、全世界が我々に反対している」と、ロシアが国際社会で孤立していることを認め、さらに、重要なのはウクライナ軍が「最後の一人になるまで戦う」意思を持っていることだとし、ロシア軍は士気の高いウクライナ軍を相手に、厳しい戦いに直面することになるだろうと述べた。
ウクライナ政府は、100万人を動員して、西側諸国から供与を受けた武器で武装させることができると述べ、ロシア軍にとっての状況は「率直に言って悪化するだろう」と指摘した。
また彼は5月の初め「ロシア1」に出演した際に、ロシア国民を総動員しても、大した戦果は挙げられないと述べ、その理由として、ロシアが保有する時代遅れの兵器では、NATOが(ウクライナに)供与した兵器には太刀打ちできないからだと指摘してもいた。
戦況の悪化が正確に国民に伝わり、しかも挽回が無理だとなれば、若者の命を無駄に捨てるなという世論が起こることになる。「ロシアの社会の空気を変え、政治状況をも変えかねない」という事態が始まりつつあることを予感させる。
(2022年5月19日)
昭和天皇(裕仁)は、皇太子時代に欧州5か国を歴訪の途上沖縄に立ち寄ってはいる。が、摂政・天皇の時代を通じて一度も沖縄訪問の機会を得なかった。戦前も戦中も、そして40年を越える長い戦後も、一度として沖縄の土を踏んでいない。おそらく、戦後の彼は沖縄県民に対する後ろめたさを感じ続けていたからであろう。端的に言えば、会わせる顔がないと思っていたに違いない。あるいは、沖縄で露骨に民衆からの抗議を受ける醜態を避けたいとする政治的な配慮からであったかも知れない。
だから、「沖縄 : 戦後50年の歩み 激動の写真記録」(沖縄県作成・1995年)には裕仁は一切出て来ない。代わって顔を出しているのは、その長男明仁である。それも、ほんの少しでしかない。
「記録」の306ページに、「沖縄海洋博覧会」の項がある。海洋博の「会場全景」という大きな写真に添えて、やや小さな明仁の写真。「海洋博名誉総裁の開会を宣告する皇太子(現天皇)。1975年7月19日」という簡潔な解説。過剰な敬語のないのが清々しい。
そして、次のページに、「皇太子火炎ビン襲撃事件」のごく小さな写真。「幸いにも皇太子ご夫妻を含め怪我人はなく、混乱は最小限にとどめられた」と解説されている。これ以外に、皇族に関連する記載はない。
明仁ではなく裕仁が訪沖していれば、どんな展開になっただろうかと思わないでもない。裕仁と沖縄との関係については、曰わく因縁がある。天皇(裕仁)は、本土防衛の時間を稼ぐために沖縄を捨て石にした。天皇の軍隊は沖縄県民を守らず、あまつさえ自決を強要したり、スパイ容疑での惨殺までした。そして、新憲法ができた後にも、天皇(裕仁)は主権者意識そのままに、いわゆる「天皇・沖縄メッセージ」で、沖縄をアメリカ政府に売り渡した。沖縄県民の怨みと怒りを一身に浴びて当然なのだ。
彼にも人間的な感情はあっただろう、忸怩たる思いで戦後を過ごしたに違いない、などと思ったのは甘かったようだ。それが、近年公開された 「拝謁記」で明らかになっている。「拝謁記」とは、初代宮内庁長官田島道治が書き残した、天皇(裕仁)との会話の詳細な記録。その内容の着目点が、朝日・毎日などの中央紙と、沖縄の新聞とがまったく異なるという。
福山市在住のジャーナリストが、K・サトルのペンネームで、書き続けている「アリの一言」というブログがある。その2019年8月22日付け記事が「『拝謁記』で本土メディアが無視した裕仁の本音」という表題で、このことを鋭くしている。K・サトル氏に敬意を表しつつ、その一部を引用する。
『琉球新報、沖縄タイムスが注目したのは「拝謁記」の次の個所でした。
「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一應尤(いちおうもっとも)と思ふ理由もあらうが全体の為二之がいいと分かれば一部の犠牲は巳(や)むを得ぬと考える事」「誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払ハねばならぬ」(1953年11月24日の発言)
琉球新報は「一部の犠牲やむ得ぬ 昭和天皇 米軍基地で言及 53年、反対運動批判も」の見出しで、リードにこう書きました。
「昭和天皇は1953年の拝謁で、基地の存在が国全体のためにいいとなれば一部の犠牲はやむを得ないとの認識を示していたことが分かった。専門家は、共産主義の脅威に対する防波堤として、米国による琉球諸島の軍事占領を望んだ47年の『天皇メッセージと同じ路線だ』と指摘。沖縄戦の戦争責任や沖縄の米国統治について『反省していたかは疑問だ』と述べた」
朝日新聞、毎日新聞は記事中でも「拝謁記要旨」でも、この部分には触れていません。同じネタ(裕仁の発言)であるにもかかわらず本土メディアと沖縄県紙で際立った違いが表れました。これはいったい何を意味しているでしょうか。
米軍基地によって生じる「やむを得ぬ」「犠牲」を被る「一部」とはどこか。基地が集中している沖縄であることは明らかです。裕仁はそれを「沖縄の」とは言わず「一部の」と言ったのです。これが沖縄に「犠牲」を押し付ける発言であることは、沖縄のメディア、沖縄の人々にとっては鋭い痛みを伴って直感されます。だから琉球新報も沖縄タイムスも1面トップで大きく報じました。ところが本土紙(読売、産経は論外)はそれをスルーしました。裕仁の発言の意味が分からなかったのか、分かっていて無視したのか。いずれにしても、ここに沖縄の基地問題・沖縄差別に対する本土(メディア、市民)の鈍感性・差別性が象徴的に表れていると言えるのではないでしょうか。
裕仁の「沖縄(天皇)メッセージ」(1947年9月)を世に知らしめた進藤栄一筑波大名誉教授はこう指摘しています。
「『天皇メッセージ』は、天皇が進んで沖縄を米国に差し出す内容だった。『一部の犠牲はやむを得ない』という天皇の言葉にも表れているように、戦前から続く“捨て石”の発想は変わっていない」(20日付琉球新報)
「拝謁記」には、戦争責任を回避する裕仁の弁解発言が多く含まれていますが、同時に裕仁の本音、実態も少なからず表れています。「一部の犠牲」発言は、「本土防衛」(さらに言えば「国体」=天皇制護持)のために沖縄を犠牲にすることをなんとも思わない裕仁の本音・実像がかはっきり表れています。』
まったくそのとおりだと思う。これに付け加えるべき何ものもない。あらためて今、沖縄を考えるべきときに、戦前も戦後も「沖縄を捨て石にした」天皇(裕仁)の実像を見極めたい。
(2022年5月18日)
復帰前の沖縄に本土の人々の目が冷ややかだったかといえば、必ずしもそうではない。1958年夏の甲子園(第40回記念大会)に、戦後初めての沖縄代表チームとして首里高校が出場したときの同校への国民的な声援は大きく暖かいものだった。開会式では同校の仲宗根主将が選手宣誓を行っている。首里高は1回戦で敦賀高校(福井)に3対0で敗れるが、その後の「甲子園の土」のエピソードで、再びの話題となる。
「沖縄 : 戦後50年の歩み 激動の写真記録」(沖縄県作成・1995年)の203ページに、この試合後「甲子園の土」をビニール袋に詰めている選手5人の大きな写真が掲載されている。そのキャプションが次のとおり。
「首里高校が沖縄から初の甲子園出場。持ち帰ろうとした記念の土は、植物検疫法違反を理由に海中に投棄された。1958年8月」
この記述だと、「植物検疫法違反を理由とする海中投棄」を指示したのが、日本側なのかアメリカ側なのか、よく分からない。この間の事情を「ハフポスト」が次のように要領よく解説している。
「首里高ナインの数人がビニール袋に詰めて甲子園の土を船で持ち帰ったが、那覇港で彼らを待っていたのは冷たい仕打ちだった。アメリカの法律では甲子園の土は「外国の土」ということで、植物検疫法に抵触して持ち込み不可能だったのだ。
沖縄はアメリカ統治下にあったから、検疫の検査を受けなければならなかった。検疫では「外国の土は持ち込んではならない」という規定があり、球児たちが大事に持ち帰った甲子園の土は外国の土だから検疫法違反と言うことで没収され、那覇港の海に棄てられてしまったのだ。」
このニュースは大きな反響を呼んだ。あらためて、引き裂かれた沖縄の深刻な悲劇として強く印象づけられた。日本航空の客室乗務員が甲子園の小石を集めて首里高校に贈るなどのエピソードが続いた。
「土の代わりに、せめて…」との思いを込めて。絹の布を敷いて小石を入れたガラス張りの箱が、58年9月上旬に空路で届けられた。その後、学校の敷地内に二つの石碑が建てられた。小石がはめられた「友愛の碑」と「甲子園出場記念の碑」。それから60年以上、そして本土復帰50年の今も、変わらずに息づいている(時事)。
この「甲子園の土・投棄事件」は、沖縄返還運動の気運を大いに高める事件となった。その後、沖縄代表高が甲子園に出てくると、大きな声援に包まれる時代が続いた。相手校やその関係者にとっては、なんともやりにくい雰囲気。
私がそれを実感として語れるのは、私の母校がその首里高校と甲子園で対戦しているからだ。1963年の春の選抜大会である。その1回戦で、私の母校が対戦した相手が、2度目の甲子園出場となった首里高校だった。私は、この試合を甲子園の母校応援席の一隅で観戦している。
私の母校は大阪府富田林市にあるから通常はホームの雰囲気なのだが、このときは完全にアウエイだった。球場全体が首里の応援団なのだ。
寒い日だった。しかも、途中からナイターになった。首里の選手には気の毒なコンディション。それゆえか、試合は8対0。観戦の印象では点数以上の大差だった。何しろ、投手戸田善紀(後にプロ入り。阪急から中日)の奪三振が21を数えた。首里のヒットは1本だけ。それでも、観客の声援は首里高に大きかった。
前年の春に、私は高校を卒業している。母校の中心選手は、私が3年の時の一年生。小さな学校でたいていの選手とは知り合いだったが、私も心中では、首里高を応援していた。ウチのチームは、武士の情けというものを知らんのかね、と。
首里高側の記事はこうである。
「1963年(昭和38年)の春の選抜。泊港(那覇)から出航し鹿児島へ渡り、鹿児島から夜行列車で大阪入り。沖縄を出発してから3日目にたどり着いた甲子園で待ち受けていたのは、強豪のPL学園だった。
抽選会でいきなり甲子園の常連校を引き当てた宮里さん(主将)は、自分自身で『あじゃー、へんなくじを引きやがって』と思ったという。
チームは硬さのとれないまま強豪PLと対戦する。相手投手は、後に阪急ブレーブスに入団した戸田。『当時としては球は速かった。打席に立ってバットで捕らえきれるという感覚はなかった。ファールするのが精一杯』と21個の三振を喫する。
『結局、野球をしたんじゃなくて、あそこにユニフォームを着て立っていただけなんだよ』と当時を振り返る宮里さん。」
その年の夏の大会で、首里は初めて本土チームを破って一勝を挙げる。この試合にも全国が沸いた。それから9年後に復帰が実現し、復帰から50年が経過した。復帰後、沖縄は野球の強豪チームを輩出し、全国優勝の数も重ねた。しかし、今あの時代の沖縄のチームへの応援の声はない。おそらくは、政治や経済においても。
(2022年5月17日)
昨日紹介した、「沖縄 : 戦後50年の歩み 激動の写真記録」(1995年・沖縄県発行)の圧巻は、第1章・第1節「沖縄戦」である。
貴重な戦場写真が生々しい。その中に、「住民虐殺」という禍々しい小見出しの数ページがある。沖縄の住民を虐殺したのは米軍ではない。「友軍」と表示されている日本軍だった。目を背けざるを得ない集団自殺の凄惨な写真に、次のような解説記事がある。
「国を守るという大義は、日本軍に様々な暴挙を許した。戦況が悪化していく中、追い詰められ孤立した日本軍は、住民に対して戦争への参加や自決を強要しただけでなく、スパイ容疑による虐殺や避難壕からの追い出し、食料強奪等を行った」
「久米島虐殺事件
米軍は本島南部を占領した後の6月26日、那覇の西方約90kmに位置する久米島の攻略を開始した。当時久米島には米軍施設はほとんどなく、わずかに海軍兵士約30人が通信業務に従事していた。米軍上陸後山中に身を隠した日本軍は米軍と接触した島の住民に次々とスパイ容疑を掛け、6月末から終戦後の8月20日までに、5件22人を他の住民への見せしめとして惨殺した。上陸した米軍の死者として降伏勧告状を届けた郵便局員や食料を求めて米軍キャンプに出入りした朝鮮人の一家など、いずれも無抵抗の住民を一方的なスパイ容疑で殺害したものである。日本軍は住民に食料を供出させながら山中を逃げ回った挙句、9月7日久米島守備隊長以下全員が無傷のまま米軍に降伏し島を後にした。久米島の住民に危害を加えたのは米軍ではなく日本軍であった」
沖縄の無念が伝わってくる。そして、その次のページに、以下の生々しい手記が掲載されている。
真壁では千人壕というのがあって、そこに入りました。
…(略)…
それから千人壕からちょっと離れた壕に移りましたが
そこは民間も友軍もごちゃごちゃになっていました
大きくて何百人も入れるので随分大勢の人がいました
友軍よりは民間の人がずっと多かったんですが
そこで大変なことを見ました
四つか五つかになっていたと思いますが
男の子がおりました
その子は親がいないと言って泣いていました。
子供は入り口の方にいましたが
壕の上には穴が開いていました。
そしたら友軍の兵隊が
この子の泣き声が聞こえる、
泣き声が聞こえたら私たちも大変である、
この子をどうするか親はいないのか…
と言いました。
兵隊の声に誰も返事する人はいません。
それで兵隊たちが中に入って行ったんです。
少し明るかったんですね。
上に穴が開いていたから連れて行って
三角な布を引き抜いて細くして、
またしめて殺しました。
民間の人がそれを見てみんな泣いていました。
首をしめるのは現に見ましたが
怖かったもんですから
最後まで見ることはできませんでした。
中城村儀間とよ(当時19歳)
日本軍は、「沖縄住民を守らない」ではなく、「沖縄住民を虐殺した」のだ。沖縄ではなく本土防衛を任務とした日本軍は、住民を犠牲にしても軍と兵隊を守ろうとしたのだ。
沖縄県民の日本軍についてのこの記憶は、そのまま戦後の自衛隊に対する忌避の感情につながった。復帰直後の解説記事に、「1972年10月自衛隊那覇駐屯地が誕生」とあり、次いで、那覇市役所の入り口と思しき場所の横断幕とビラ配布状況についての興味深い写真が掲載されている。
そのキャプションは、「1972年12月から翌73年2月にかけ、自衛隊配備に対する抗議行動の一つとして、革新自治体は自衛隊員の住民登録を拒否した」とある。残念ながら、横断幕の文字が完全には読めない。隠れた文字を補うと、以下のとおりである。
「米軍を強化し、米軍の安全を守る自衛隊・自衛隊員を那覇市から追放しましょう」「私たち那覇市民は、廃墟と化した那覇市を営々と再建してきました。軍靴で再び踏み荒らされないように、反自衛隊闘争を発展させましょう」「自治労 那覇市職労」
横断幕に書かれたこの一文が、日本で唯一の凄惨な地上戦を経験した沖縄県民の軍隊という存在に対する感情をよく表している。
(2022年5月16日)
私の手許に、B4版で500ページに近い重量感十分の写真記録集がある。おそらくは3?の重さ、内容もずっしりとこの上なく重い。
「沖縄 : 戦後50年の歩み 激動の写真記録」という、1995年に沖縄県が編纂し発行したもの。毎年6月23日には開いて読むことにしている。
構成は、序章を「大琉球の時代」とし、本章は下記のとおりである。
第1章 廃墟のなかから
第2章 基地の中の沖縄
第3章 ドルと高等弁務官の時代
第4章 ベトナム戦争と復帰運動
第5章 アメリカ世からヤマト世へ
第6章 21世紀に向けて
416ページ以後が資料編で、衣・食・住・教育・スポーツ・芸能・美術・女性…たばこ・泡盛・映画等々、興味は尽きない。
いうまでもなく、「第5章 アメリカ世からヤマト世へ」が、1972年5月の「本土復帰」の記述の表題である。この「世」は「ゆ」と読まねばならない。「アメリカ世(ゆ)は、アメリカ支配の『世の中』」あるいは『時代』を表す。この表題の付け方が意味深なのだ。「本土復帰」とは言わない。「復帰」も「返還」も、もちろん「祖国」の語もない。「アメリカ世からヤマト世へ」は、読み方によっては、「沖縄の支配者がアメリカからヤマトに替わっただけ」「他者の沖縄支配であることに変わりはない」と主張しているように読めなくもない。
この第5章第1節の解説には、「世替わり」と小見出しが付けられている。その冒頭部分が下記のとおりである。
「世替わり」の日、1972年5月15日午前零時には、汽笛が鳴り車からは一斉にクラクションが響いた。抗議と歓迎の交錯した複雑な県民感情の中、「世替り」は訪れた。27年間の米軍支配に終止符を打ったこの日は、県全体が大雨になり「県民要求を無視した返還に天も怒った」と評する人、「歓喜の涙」と5.15を迎えた人など世論は分かれた。1945年の敗戦以来、県民の圧倒的多数が望んでいたはずの復帰なのに、素直に喜べない気にさせたのは何と言っても返還の内容であった。
1969年11月22日、佐藤ニクソン会談で72年沖縄返還を合意、共同声明を発表。71年6月17日、マイヤー駐日大使と愛知外相が返還協定に調印。72年1月8日、佐藤ニクソン会談で沖縄返還を72年5月15日と決定するなど、沖縄の復帰スケジュールは決まったのに、その中身は県民の要求する即時無条件返還ではなかった。
日米間で合意したのは、「72年・核抜き・本土並み」という触れ込みだったが、その公約も実体の伴わないものだった。復帰後も米軍基地の自由使用が認められたことがその証拠であろう。全国の75%を占める米軍専用基地はベトナム戦争の泥沼化に連れて強化こそすれ、撤去には結びつかなかった。政府の公約した「本土並み」が虚像だったと実感した県民は多かったはずである。「第三の琉球処分」と言われても仕方のない返還のあり方だったと言える。だが基地の存続を希望した人たちがいたことも否定し得ない事実である。
新生沖縄が誕生したその日は、賛否の声を反映したかのように祝賀と抗議の大会が相次いだ。保守的な人たちは復帰祝賀県民大会を、革新的な人々は5・15を「屈辱の日」として、決議大会とデモ行進を決行、県内を二分した。
この日をもって、復帰運動のシンボルとして扱われた「日の丸」が逆に「軍国主義」の象徴ととらえられたのは歴史の皮肉であった。
これが、50年前の5月15日「沖縄の本土復帰」をめぐる県民意識であった。「革新的な人々は5・15を『屈辱の日』と捉えた」という厳しい表現が眼に突き刺さる。それゆえに、その日以来「日の丸」の意味づけが変わったのだ。「復帰運動のシンボル」から、「軍国主義の象徴」に。そして50年、今もなお「日の丸」は「軍国主義の象徴」であり続けている。
(2022年5月15日)
本日、沖縄本土復帰50周年である。50年前と同様に、沖縄は雨だったという。雨が降る中の宜野湾と東京とを結だ「記念式典」が開かれた。内容のない、印象の薄い盛り上がらない儀式だった。「記念式典」とはいったい何だろう。いったい何を、どのように記念しようというのだろうか。
琉球新報は、「雨の中『沖縄を返せ』 50年前、基地従業員も願った復帰」とのタイトルで、元「全軍労」の専従役員(83)の回想を掲載している。
「1972年5月15日の与儀公園で、降りしきる雨の音に対抗するように、復帰運動の象徴となっていた歌(『沖縄を返せ』)を大声で歌っていた」「あの日から50年。米軍絡みの事件・事故は絶えず、沖縄の差別的な扱いも続いている」「今も変わらないじゃないか」
毎日は、本日の式典の取材記事。「『記念式典を粉砕するぞ』 飛び交う怒声、会場近くで抗議 沖縄」という見出し。会場の周辺では、「岸田は帰れ!」と叫ばれ、「辺野古新基地 直ちに中止せよ!」の横断幕や「違法工事止めろ」のプラカードが並び、背に「熊本県警察」の警官隊と抗議団がにらみ合った。「新基地 民意はNO」のプラカードを持っていた女性(73)=那覇市=は「復帰した50年前はまだ期待があったが、今は自衛隊配備も進み状況はより悪くなっている」と憤った、と報じている。
50年前、「本土復帰」は沖縄の悲願であり、復帰後のその期待は大きかった。今、沖縄県民は、その期待と現実との落差に、落胆を隠せないのだ。
この復帰への沖縄の期待については、私自身が肌で感じている。1966年末、復帰前の沖縄に1か月余の滞在を経験した。滞在しただけでなく、那覇の多くの市民と会話する機会を得た。当時、私は東大文学部社会学科の大学4年生。友人は皆就職が決まっていた頃に、留年必至の身で敢えてした沖縄行。そのときの強烈な沖縄体験の印象を忘れない。
貧乏学生だった私に、長旅のできる余裕はなかった。当時私が在籍していた大学と琉球大学と朝日と地元紙とが共同でした大規模な社会調査の面接調査員としてのアルバイトでの長期滞在。初めてのパスポートを手に、行き帰りともに長い船旅だった。右側通行の車に戸惑いつつ、那覇北部の一街区を受け持って、毎日調査対象となった住民宅を訪問して、面接での聴き取り調査をした。
自ずから、沖縄戦の話が出て来る。米軍基地への不満が話題となる、沖縄の歌や踊りや神話なども聞かされた。方言も教えてもらった。何と有意義な楽しいアルバイトだったろう。
その中で強く感じたのは、「異民族支配」への拒絶感と、「平和で自由で豊かな本土」への復帰の願望であった。「本土復帰」は、明るい展望で語られていた。「日の丸」復帰運動のシンボルであった時代のことである。
「即時・無条件・全面返還」のスローガンを掲げた復帰運動の昂揚を経て、72年5月15日沖縄の本土復帰は実現した。「鉄の嵐」を経験した沖縄の人びとが真に求めたものは、平和憲法がその条文のとおりに生き生きと根付いた本土への復帰だったろう。基地のない平和な沖縄を取り戻すことであったはず。しかし、現実は、本土の沖縄化とさえ言われた「核疑惑付き・基地付き返還」となった。それ以来、再びの闘いが始まって今日に至っている。
その後に明らかとなった、主権者気取りの天皇(裕仁)の「沖縄メッセージ」に、私は激怒した。私も東北の蝦夷の末裔として実感する。権力の中枢は、常に平然と辺境を犠牲にする。沖縄も、中央政府に侵略され、捨て石にされ、さらに切り捨てられた。その非道な仕打ちに、天皇(裕仁)の個性が大きな役割を果たしている。とんでもない人物なのだ。
沖縄本島の北端、はるかに本土を望む辺戸岬に屹立する「祖国復帰闘争碑」。その碑文を読み直す。その文章に込められた想いに胸が痛くなる。
吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなし遂げた 大衆の乾杯の声だ
打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
?鉄の暴風?やみ平和の訪れを信じた沖縄県民は
米軍占領に引き続き 1952年4月28日
サンフランシスコ「平和」条約第3条により
屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
米国の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた
われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬された
しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ
全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
27度線を断つ小舟は船出し
舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
今踏まえている 土こそ
辺戸区民の真心によって成る冲天の大焚火の大地なのだ
1972年5月15日 おきなわの祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
しかるが故に この碑は
喜びを表明するためにあるのでもなく
ましてや勝利を記念するためにあるのでもない
闘いをふり返り 大衆が信じ合い
自らの力を確め合い決意を新たにし合うためにこそあり
人類が 永遠に生存し
生きとし生けるものが 自然の摂理の下に
生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある
(2022年5月14日)
平和の問題を論じるときに、「外国の軍隊から攻め込まれたらどうする」と言い募る向きがある。「攻め込まれたときには、防衛の軍事力が必要だろう」という含みを持つ質問。かつては、ソ連が「攻め込む外国」として想定され、次いで北朝鮮、そして中国に移り、いままたウクライナに侵攻したロシアも加えられている。
この問に端的に答えれば、「攻め込まれたら、時既に遅しだ。どうしようもない」と答えざるを得ない。もしかしたら、侵略者に抵抗の方法はあるのかも知れないが、想定するに値しない。当然のことながら、「どうすれば、攻め込むことも、攻め込まれることもない、国際平和を築くことができるか」「戦争の原因を取り除く外交努力はいかにあるべきか」と問うべきで、問の建て方がまちがっているのだ。
しかし、そう言われても納得せずに、「それでも、攻め込まれたら」「外交が失敗して攻め込まれたら」「さあ、どうする、どうする」と繰り返して言い募る人もいるだろう。そういう人には、「ミサイルが飛んできてそれを防げる原発はない。世界に1基もない」という言葉を噛みしめてもらいたい。
山口壮原子力防災相(兼環境相)の昨日の閣議後会見での発言である。この問題での国政の最高責任者が、ミサイルからの原発の防衛は「これからもできない」と言明しているのだ。
日本には、54基の原発がある。攻め込んだ外国軍隊からの攻撃を防ぐ手立ては今もできないし、これからも無理なのだ。この一つでも攻撃されればいったいどうなるか。これについては、同じ山口壮原子力防災相の3月11日閣議後会見での下記の発言がある。
「日本の原発の安全規制は他国からの武力攻撃などを想定していない」「(ミサイルなどの攻撃を受けた場合の被害想定について)チェルノブイリの時よりも、もっとすさまじい。町が消えていくような話だ」(朝日)
ロシア軍がウクライナの原発を攻撃した事態を受け、自民党や自治体などから原発の防衛力強化を求める意見が出ている。全国知事会は3月、ミサイル攻撃に対し自衛隊の迎撃態勢に万全を期すよう要請をした。が、担当相として甘い見通しを語ることはできないのだ。
また、同日の会見で、山口防災相は、「原子力規制委員会による安全審査では、原発への他国からの武力攻撃を想定していない。(仮に原発が武力攻撃を受けた場合には)そういうこと(武力攻撃)を認めるようなことで、やりだしたら話はもう大変だ」とした上で、「今ある枠組みで、どう対応するのかを検討する」と語っている(朝日)。要するに、原発に対する武力攻撃への対応など、しようもないということなのだ。
原発への武力攻撃については、原子力規制委の更田豊志委員長が3月9日、衆院経済産業委員会で「審査等において想定していないので、対策として要求していない」と答弁。武力攻撃を受けた場合には、「放射性物質が攻撃自体によってまき散らされてしまう。現在の設備で避けられるものとは考えていない。(中央制御室が)占拠された場合は、どのような事態も避けられるものではない」などと語っていた。更田氏の発言について、山口氏は「同じ意見だ」と述べている。(朝日)
原発だけではない。太平洋沿岸に連なるコンビナートへの攻撃も、防ぎようはない。戦争が始まってしまえば、国土や国民の防衛など絵空事とならざるをえない。では、仮想敵国の軍事侵攻を事前に防止する軍備を整えるか。あるいは、先制攻撃を敢行するか。いずれも、とうていリアリティあることではない。
「ミサイル攻撃を避けるために敵基地攻撃も先制攻撃も必要」といえば、相手国に日本に対する侵攻の口実を与えることにもなろう。平和を大切にする諸国民や国際世論とともに、常に敵を作らず、戦争を起こすことのない外交努力を重ねること、それ以外に国民の生活を守る術はない。敵基地攻撃能力の整備やら、軍備増強やら、核武装などもってのほかというしかない。
(2022年5月13日)
本日の毎日新聞朝刊・トップに「配給所 屈辱の露国歌」という大きな主見出し。これに「避難 命懸けのマリウポリ」という横見出しが付けられている。
この記事は、マリウポリから西に200キロのサポロジェでの毎日記者による取材記事。取材対象は、マリウポリの住民だった母子。4月10日にロシア軍占領下のマリウポリから徒歩で脱出し、1か月近くの逃避行を続けてサポロジェで保護されたという。マリウポリへの砲撃と、露軍占領下の街の様子が生々しく語られている。その街の様子として次の一節がある。
「露軍による占領後、ロシア側が開いた人道支援物資の配給所へ何度か足を運んだ。午前11時の開始を目がけ、腹をすかせた人々が早朝から列を作る。屈辱的だったのは、配給時にロシア国歌が流されることだった。『(露軍の攻撃で)家も日常生活も失った中で、悔しくて涙が出た』と唇をかみ締めた。」
このマリウポリの女性にとってロシア国歌を聴かされることは、「悔しくて涙が出る」ほどの屈辱なのだ。その歌は、ロシアという国家の存在と、その国家による理不尽な支配を誇示するものなのだ。
特定のデザインの旗が国旗となり、特定の歌詞とメロディーの曲が国歌となる。国旗国歌は、特定の国家のシンボルとなって、国家の存在に代わる意味づけを持つ。
チャイコフスキーの序曲『1812年』では、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の旋律をもって侵略軍の激しい咆哮とし、やがてこれを撃退して祖国に平和が戻ったことを高らかな唱ってロシア帝国国歌が奏でられる。
また、映画「カサブランカ」には、独仏の「歌合わせ」の有名な場面がある。酒場でドイツ兵たちが「ラインの守り」を高唱していると、レジスタンスのリーダーが客たちと歌う「ラ・マルセイエーズ」に圧倒されて、かき消されてしまう。
旗も歌(あるいは曲)も、ときにその意味するところは大きい。マリウポリの街のロシア国歌は、この街の主人がロシアであることを我がもの顔に語っているのだ。
同様に、卒業式での「国旗・国歌」への、起立・斉唱は国家への忠誠の象徴的行為である。「日の丸」への叩頭・「君が代」の高唱は、「日の丸・君が代」と一体となった神権天皇制や軍国主義の歴史受容の象徴的行為にほかならない。
少なくとも、そのような理解は、思想・良心の自由として保障されなければならない。ロシア国歌を聴かざるを得ないことが、「悔しくて涙が出る」ほどの精神的苦痛であるなら、国旗・国歌(日の丸・君が代)を受容しがたい人に、起立・斉唱を強制することも同様の苦痛を伴う行為なのだ。精神的自由の根幹に関わる問題として、そのような強制は許されない。
あらためて、象徴(シンボル)というものに対峙する精神のあり方について、理解を得たいと思う。聖なる画像を踏まざるを得ない信仰者の心の痛みを。他国の国旗国歌であろうと、自国の国旗国歌(日の丸君が代)であろうと、その思想や良心において受容しがたいものを強制される精神の苦痛を。
「愛国心涵養のために国旗国歌(日の丸君が代)の掲揚斉唱が必要」などという暴言は、個人を尊重する憲法原則の最も忌むべき謬論である。
(2022年5月12日)
憂鬱である。まさかと思っていた戦争が勃発した。核兵器廃絶どころか、戦術核の使用がチラつかされる恐ろしさ。中国には強権政治が横行し、その改善の萌しも見えない。ウィグルや香港の情勢に胸が痛む。ミャンマーのクーデターは結局成功してしまうのか。そして、なんということだろう、フィリピンに「マルコス政権」の悪夢。日本の国内では、右翼・歴史修正主義者やポピュリストたちが我がもの顔ではないか。
私は、生来が楽観主義者である。だから、歴史を見る姿勢は「進歩史観」の立場であった。私がいう「歴史の進歩」とは、全ての人に自由と平等と豊かさを実現する方向への「進歩」である。行きつ戻りつのジグザグはあるにせよ、他者との共生の知恵ある人類である。その人類の社会が進歩し発展する方向に向かわないはずはない。全ての人にとって生きるに値する社会を形成する方向に「進歩」していくだろう。そういう楽観である。
私がイメージする進歩の指標軸は3本、人権・民主主義・平和である。この3本は、関連しながらも独立している。
「人権」擁護の進歩とは、公権力や社会的・経済的強者に対峙した個人の尊厳が花開いていくだろうということ。
「民主主義」の進歩とは、独裁や専制から、民主制・共和制への移行である。
そして「平和」の進歩。戦争の原因を排除し、戦争を違法化し、軍縮を進め、やがては武器をなくする。
ところがこの頃、本当に歴史は進歩するのだろうか、人類は進歩する知恵を持っているのだろうか。もしかしたら、退歩して亡びてしまうのではないか。そう、考え込まざるを得ない。
本日の朝日の社説が、「フィリピン 強権を引き継ぐ危うさ」と表題したもので、その中に、「勝ち取ったはずの民主主義が後退し、権威主義的な体制に変質する。東南アジアで憂慮すべき動きが広がっている。」という一節がある。憂慮すべき事態は、東南アジアにとどまらない。
歴史の進歩に抗しているのは、プーチンだけではない。天安門事件以後の中国こそ本家というべきであろう。もちろん、これまでのアメリカの諸悪の積み重ねも見逃してはならない。軍事クーデターを経たタイやミャンマー、そして一党支配のベトナム・カンボジア・ラオス。さらにそれらに加えてのフィリピンの新事態なのだ。
大統領選挙で圧勝したのが、フェルディナンド・マルコス。かつて独裁体制を恣にした悪名高い故フェルディナンド・エドラリン・マルコスと、その妻で3000足の靴を残したことで有名になったイメルダの長男である。
同国の大統領府を「マラカニアン宮殿」と呼ぶ。まだ生存しているイメルダは、同宮殿に『凱旋』することになると報じられている。そして、36年前に残していった自分の靴を取り戻すことになるのだろう。
独裁者マルコスは、1965年から20年余り政権を維持した。戒厳令を布告し、民主化を求める活動家らを容赦なく弾圧した。戒厳令のもとで1万人以上の市民が殺害・拷問などの被害を受けたとされる。アムネスティ・インターナショナルは、3200人以上が殺害されたと発表している。
この独裁者夫妻の不正蓄財は凄まじい。後に最高裁判所は「推計50億?100億ドル(約6600億?1兆3100億円)」と認定しているという。この、絵に描いたような独裁政権が、圧政に耐えかねた民衆によるデモによって倒された。歴史が進歩を見せた一コマである。ところが、再び「マルコス大統領」が誕生する。しかも、副大統領が、あの野蛮なドゥテルテ前大統領の長女なのだ。これは、悪夢以外のなにものでもない。
これがクーデターによる軍事独裁政権の誕生であれば、問題は分かり易い。しかし、新大統領は選挙という民主主義の手続によってその正統性を獲得しているのだ。この問題はより複雑で深刻である。いったい民主主義とはなんだろうか。
今回選挙では、マルコスの選挙運動手法に大きな問題がある。自分に批判的なメディアの取材には一切応じず、候補者討論会にも参加しなかった。もっぱら一方通行のSNSでの発信による選挙運動であったという。そのような候補者を国民は選任したのだ。
国民の主権者としての意識が成熟しなければ、民主主義は形骸化するばかり。歴史の進歩とは、実は、人の意識の進歩なのだ。人が進歩することに、楽観的でいられるか。平和も民主主義も自由も平等も、百年河清を待たねばならないのだろうか。憂鬱は続きそうだ。