(2023年1月11日)
昨日の赤旗「学問・文化」欄に、京都の浅岡美恵弁護士の『世界で広がる気候訴訟』と題した寄稿が掲載されている。「地球温暖化を止めたい」「国の怠慢ただす市民と司法」という副題が付いている。
これまで日本の弁護士たちは、日本国憲法を拠りどころとして、さまざまな分野の訴訟に取り組んできた。一例を挙げれば、「平和訴訟」「基地訴訟」「戦後補償訴訟」「生存権訴訟」「労働訴訟」「政教分離訴訟」「教育権訴訟」「原発訴訟」「ジェンダー訴訟」「メディア訴訟」「消費者主権訴訟」「株主オンブズマン訴訟」等々。そして、分野を横断する「政策形成訴訟」の遂行を意識してもきた。
しかし、浅岡さん指摘のとおり、我が国ではこれまでのところ「気候訴訟」は話題にもなっていない。「公害訴訟」「環境訴訟」の経験と伝統は脈々とあるにもかかわらずである。
浅岡論文は世界の事情をこう解説している。
「地球温暖化を止めたい。政府の対策では間に合わない。市民のそんな思いを託した気候訴訟が世界の注目を集めています。市民や NGO が政府や企業に対して《温室効果ガスの削減目標の引き上げや適応策の強化を求めるもの》《石炭火力やガス田採掘を止めさせようとするもの》《自然の中での先住民の暮らしを守ろうとするも》《グリーンウォッシュと言われる企業の欺瞞的な広告に対する訴訟》などです。
2015年以降に特に増加し、昨年までに1200件を超え、欧州や米国だけでなく、ラテンアメリカ、オーストラリアやアジア諸国などにも広がっています。気候の危機が広く認識され、この10年の取り組みが危険な気候危機の回避に決定的に重要とされていることが、若者の訴訟提起を後押ししています。」
ところが日本では、まったく事情が異なる。
「日本では神戸製鋼の石炭火力発電所についての訴訟で、原告側には訴える権利も認められなかった(21年大阪地裁判決、22年同高裁判決)」
浅岡論文は、オランダやアイルランド、そしてフランス、ベルギー、チェコ、パキスタン、コロンビア、ブラジル、ドイツなど海外の画期的な重要判決を紹介している。その多くは、多量の温室効果ガス排出を続ける企業と国策に削減を命じるものである。紹介される判例を素晴らしいと思う。羨ましいとも思う。しかし、我が国では非常に難しい。
難しい理由は、大きくは二通りある。実体法上の問題と、訴訟法上の問題である。
実体法上の問題とは、国家や公的機関、あるいは企業に、気候変動を予防すべき具体的な法的義務が必要だということである。具体的な法的義務がなければ、その履行を求める訴訟も、義務の不履行を違法とする損害賠償請求も困難と言わざるを得ない。憲法だけからこのような義務を紡ぎ出すのは、至難の業なのだ。
訴訟法上の問題とは、《裁判を起こせるのは、自分の権利が侵害された、あるいは侵害されそうになっている人に限られる》ということ。国や企業に違法があったとしても、その違法が自分の権利に関わるという人でなければ、裁判は起こせない。
仮に明らかな違憲・違法な事実があったとしても、その違法によって自分の権利を侵害された、あるいは侵害されそうな人でなければ訴訟は提起できない。民事訴訟であれ、行政訴訟であれ、原告個人の権利に関わるものでなければ、適法な訴訟とはならず、訴えは却下即ち門前払いとなる。
三権分立についての普通の考え方は次のようなものである。国会が国権の最高機関であり、議院内閣制のもと国会の多数派が作る内閣が行政権を行使する。つまり、国会と内閣は、民主主義の理念で構成され運営される。司法は、その構成も運営も民主主義的な理念によるものではない。司法を貫くものは人権尊重の理念であって、当然のことながら多数決原理によって左右されない。司法は、人権侵害を救済する場面では立法や行政に優越するが、人権に関わらない問題には口出しをしない。それが司法をめぐる三権のバランスの取り方である。
浅岡論文には、こうある。
「2019年12月、オランダ最高裁は、気候変動による被害は現実の重大な切迫した人権の侵害であり、原告ら国民を気候変動の被害から守るために、政府に温室効果ガスの削減目標を引き上げるよう命じました」
しかもその理由中で、「世界でコンセンサスとなつている水準の削減は、法的義務」としたという。
「世界では、この判決に触発された訴訟がで提起され、アイルランド最高裁判所は20年7月に対策計画に具体性実行性が欠けているとし、同月、フランスの国務院も22年3月までに対策の強化を命じましたベルギーやチェコ共和国、パキスタンやコロンビア、ブラジルなどでも、国に対し適応対策や森林保護の対策強化を命じる判決が出ています」
浅岡さんが言うとおり、「日本の裁判所はこれまでのところ政策によって対応されるべき問題として判断を避けてい」る。人権の問題として把握していない。飽くまで選挙を通じて国会で処すべき、民主主義の課題という位置づけなのだ。 この壁をオランダ最高裁は易々と飛び越えて、「国民全体の人権の問題」とした。そのとたんに、気候変動問題については国会ではなく、裁判所がヘゲモニーを握って政策決定することになった。これも、一つのあり方ではあろう。浅岡論文の最後はこう結ばれている。
「司法も世界に目を向け、私たちや子供たち、将来世代を破壊的な気候災害から守るために、科学の指摘を受け止め、生命や自由を守る司法の使命を思い起こす必要があります」
(2023年1月10日)
本郷・湯島の皆様、こちらは「九条の会」です。年は新たまりましたが、目出度くはありません。お年玉の代わりに、大軍拡大増税というのですから。その皺寄せは、福祉や教育の予算を削減となるでしょう。物価は上がる、賃金も年金も追いつかない。コロナの勢いは止まらない。安心して暮らせません。
そして、何よりも平和が危うい。今、ウクライナでは現実に、砲弾が飛び、ミサイルの攻撃が行われています。おびただしい人が死に、血が流されています。人類は、何と愚かなことを繰り返していることでしょうか。日本にとっても、他人事ではありません。
この事態に最も重い責任を負うべきは、言うまでもなくロシアのプーチンです。皆さん、そのプーチンの年頭所感をお聞きになりましたか。彼は、ウクライナへの侵略者でありながら、国民には「祖国防衛のための軍事行動だ」というのです。「祖国の防衛はすべての国民の神聖な義務である」、「祖国の防衛は、次の世代の国民への神聖な義務である」などと。
今ロシアがウクライナで行っている軍事行動は、明らかに侵略戦争と言わねばなりません。それを彼は、「祖国防衛行動」と言っています。これが権力者の常です。「侵略戦争」を「自衛のためのやむを得ない軍事行動」と言うのです。自国は常に正しい被害者で、国境を越えて出兵しても「やむを得ない自衛の行動」だという。そうしなければ攻め込まれるのだから、と。まるで、「自衛のための敵基地攻撃能力論」ではありませんか。
皆さん、欺されてはなりません。悪徳商法の甘い言葉にも、統一教会やその同類のカルトが語る因縁話や献金勧誘にも。そして、最もタチの悪い政権のウソにもです。
かつて、日本の国民の全てが欺されました。天皇が神であるとか、日本が神国であるとか、戦争すればカミカゼが吹いて日本は必ず勝つとか。荒唐無稽な嘘っぱちにダマされての戦争で、310万もの命が奪われました。それだけではなく、2000万ものアジアの人を天皇の軍隊が殺しました。もう、再び欺されてはなりません。
軍事予算を倍増し軍備を拡大し敵基地攻撃能力を誇示することで、中国やロシアや北朝鮮との平和が作れるでしょうか。戦争になってもよいということなのでしょうか。岸田内閣には、安全保障政策の大転換を勝手に決めるなと、声を上げようではありませんか。
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岸田政権にだまされるな
「本郷湯島九条の会」石井 彰
新年初の「本郷湯島九条の会」の昼街宣は、北西の風5mのなかで、8人の方々によっておこないました。温度は10度近くありましたが、風が冷たいひとときになりました。
マイクは、岸田文雄政権による戦後安全保障政策の大転換を訴え、「欲しがりません、勝つまでは」、「神風が吹く」といわれた戦前と同じように国にだまされてはいけない、と訴えました。
いまアメリカの軍事戦略にそって岸田政権は、安全保障法制という戦争法で「集団的自衛権の行使」に基づいて、「敵基地攻撃能力保有論」を国民に迫っています。敵基地攻撃能力を持つことをアメリカに誓約した政府は、軍事費を国内総生産GDPの2%にすると言いだし、2023年から27までの5年間で43兆円の軍事費にします。これはアメリカ、中国に次ぐ世界第3位の軍事大国になることになります。これが政府の言う「専守防衛」の真実です。「自分の国は自分で守る」と岸田文雄首相は言いますが、政府がアメリカに誓約したのは、アメリカのおこなう戦争に付き従い、その先兵として「敵を先制攻撃」するというものです。それは暮らしと経済の破壊をもたらすことは必至です。
さらに日米安全保障条約第5条で、「共同防衛」という名の日本の自衛隊がアメリカ軍の指揮下で先兵の役割を果たすことになります。
今こそ、日本国憲法第9条を守り、アジアへ世界へ発信するために日本の役割はあります。
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[プラスター]★先制攻撃の敵基地攻撃能力保有はやめろ、★国にだまされるな、★岸田文雄首相にだまされるな、★国民が苦難を強いられているのに軍拡を進める岸田は止めろ、★軍事費を増額するというなら国民に信を問え、★岸田文雄政権は退陣しろ、★新型コロナに対してちゃんと対策を立てろ。
(2023年1月9日)
宗教専門紙「中外日報」1月5日号に、野田正彰さん(精神病理学者)が寄稿している。『プーチンのロシアと宗教』という標題。短い論文だが、時宜にかなった手応えのある問題提起。
そのまとめの1文が、「私たちは戦後の日本国憲法で、その内実をあまり討論もせず、政教分離の原則と言ってきたが、政治と宗教は深いところで結びついている。今回の統一教会と自民党の癒着問題は、宗教とは何か、考える重要な契機である。ロシアがたどった道、ウクライナ戦争も、政治と宗教が深くからみあっている」と問題を投げかけるもの。ロシアの事情を批判的に学んで、日本の現状をよく考えよという示唆なのだ。
精神科医である野田さんは、1980年代中ごろ、統一教会の洗脳システムによって常時サタンの幻覚に脅えるようになった信者を、患者として治療する機会があった(論考「霊感商法と現代人の心」・『泡だつ妄想共同体―宗教精神病理学からみた日本人の信仰心』93年春秋社に所収)という。
その経験から、統一教会の動向に関心をもつようになった。とりわけ、ゴルバチョフ財団に多額の寄付をして、権力の中枢との密接な関係を築いてから、市民への布教を進めた統一教会の戦略に関心をもち、何度か現地に赴いての調査もしたそうだ。従って、ソ連崩壊後のロシアの宗教事情に詳しい。ロシアでは、「日本や韓国から侵入してきた統一教会やオウム真理教の被害者家族なども面接」をしているという。その野田さんの論考の骨格は以下のとおり。
「1917年11月の『十月革命』でソヴィエト政府樹立を宣言した…ソ連共産党がロシア帝国の最大の悪と考えたのは、帝制(ロマノフ王朝)であり、その文化イデオロギーである東方キリスト教(ロシア正教)であった。ソ連共産党は宗教をレーニン主義の敵とみなした。
ソ連共産党は宗教なるものを全否定したのだが、ここで宗教と考えていたのはロシア正教だった。ロシア帝国、農奴制と皇帝、ロシアの文化に深く浸透し精神的支えになっているロシア正教。彼ら(共産党)はロシア正教を禁止し、神父を追放処刑し、教会を没収解体していった。だが永く続いた文化の表に現象するものは破壊できても、その無形の思想を破壊するのは難しい。新しい制度や造形を創れば創るほど、どこかで前の文化が原型となって模倣されてしまう。廃仏毀釈の後の国家神道の形成も似ている。」
「結局、ロシア正教を全否定したロシア共産党だったが、否定の先にあったのはロシア正教の影絵をたどる道であった。90年代のロシア、ウクライナ、バルト三国など、ソ連解体から諸宗教への勃興へ、私は調査を続けながら、ロシア共産主義がいかに宗教(ロシア正教)に似ているか、考えていた。」
野田さんによれば、ソ連共産党は「党という大教団を作り、各地に委員会という教会を作り、荘厳な祭典(メーデー、戦勝記念日など)を繰り返したこと」「異端の粛清と正統イデオロギーの確定がセットになって反復されたこと」において、結局は、ロシア正教の影絵をたどる道を歩んだ。だから、ソ連崩壊後はロシア正教の復活となったというのだ。
「これほども精神を支配してきた共産主義というキリスト教擬似宗教が消えた跡に、真空に吸いこまれる粉塵のごとく諸宗教が吸引されていた。ロシア共産党の二本の柱、KGBと軍。その強固な柱であるKGB育ちのプーチンは、チェチェン人への謀略によって権力を握った後、迷うことなくロシア正教のさらなる復興を進め、新しく選ばれたキリル総主教との関係を強めてきた。真空になったロシア社会から、塵を払いのけて伝統の巨大な柱、ロシア正教を支援していったのである。」
この野田論考は、読み方によっては恐ろしい暗示である。我が国の敗戦と戦後民主主義社会における宗教事情ないしは政教分離の内実を再検討すれば、国家神道の再興もあり得ると警鐘を鳴らすものではないか。
《敗戦によって誕生した新生日本は、政教分離を宣言し国家と宗教との癒着を全否定したのだが、ここで宗教と考えられていたのは、天皇とその祖先神を国家の神とする国家神道(=天皇教)だった。国家神道は臣民に刷り込まれ、中央集権的な軍国主義体制下の国民意識を支配し、政治・軍事・教育・文化・メディアに浸透して、国民一人ひとりの精神的支柱にもなっていた。
新生日本は、天皇主権を国民主権に転換し、天皇の軍の総帥としての地位を剥奪し、天皇の宗教的権威も神聖性も法的に否定した。併せて、国家主義を脱して、個人主義・自由主義を憲法の根幹に据えた。さらに、戦後民主主義は、政教分離を宣言して国教を禁止し、神官の公務員たる地位を剥奪し、あらゆる神社への公的資金の投入を禁じた。ひとえに、旧天皇制への回帰の歯止めとして、である。
だが永く続いた文化の表に現象するものは破壊も改変もできようが、その根底にある無形の思想までも消滅させることは難しい。新しい制度や造形を創れば創るほど、どこかで前の文化が原型となって模倣されてしまう。絶対主義的天皇制の制度を廃止しながら、象徴天皇制を残した中途半端な戦後民主主義においては、その危険は一層大きい》
《かつて、これほどにも国民の精神を支配してきた国家神道=天皇教である。戦後民主主義というイデオロギーが攻撃され、危うくなったときには、形を変えた『天皇教』が復活するれを払拭できない。その素地は実は十分に醸成されており、真空になった日本社会から、塵を払いのけて伝統の巨大な柱、天皇教即ち国家神道が立ち上がる危険に警戒しなけれぱならない》
(2023年1月8日)
もっぱら統一教会の主張を代弁している「世界日報」。その本日付の【社説】が、「安倍氏暗殺半年 揺らぐ民主主義の根幹」というタイトル。「軽視される信教の自由」「テロは決して許されぬ」という二つの小見出しが付いている。統一教会の言う「民主主義の根幹」とはいったい何のことだろうか、それが今どう「揺らい」でいるというのか。若干の興味をもって目を通したのだが、何とも説得力のある論考にはなっていない。
あるべきタイトルは、「安倍氏暗殺半年 揺らぐ自民党政治への信頼」あるいは、「暴かれつつある安倍政治と反社会的宗教との癒着」というべきであろう。小見出しは、「軽視される信教の自由の限界」「明らかとなったマインドコントロールの恐怖」「信者家庭の子にもたらされた苛酷な人生」あたりが適当か。「テロは決して許されぬ」だけは当然の事理。同種事件の連鎖を許してはならない。しかし、これをテロと言ってよいものか、必ずしも明らかではない。
統一教会・勝共連合・世界日報側が、銃撃された安倍晋三を悼めば悼むほど、惜しめば惜しむほど、自民党、とりわけその最右派である安倍派には迷惑なことになる。「統一教会とは大して親密な関係ではありません」と、何とか世論の批判をかわしたいのが安倍後継勢力。その心情に構うことなく擦り寄って来られるのだから。
しかし、統一教会側からすれば黙ってはおられまい。手のひらを返したような自民党や清和会の連れない態度には憮然たる思いがあって当然であろう。その面白くないという心情の吐露を汲み取る以外に、この社説の読むべきところはない。
それでもせっかくの論考。以下に赤字で引用して、黒字で私の感想を記しておきたい。
「安倍晋三元首相が奈良市で凶弾に倒れてから半年が経過した。史上最長政権を担った元首相が、選挙の遊説中に銃撃され死亡するという民主主義の根幹を揺るがす前代未聞の事件であったにもかかわらず、その本質が忘れられつつある。
そればかりか、テロリストが意図した通りの展開となっているのは憂慮すべき事態だ。」
この書き出しの文章は、安倍国葬提案理由の二番煎じでインパクトに欠ける。そもそも安倍晋三と民主主義が不釣り合いだった。そして何よりも、犯人自身が捜査機関に語った銃撃の動機は、統一教会への恨みであって、安倍晋三は韓鶴子の言わば身代わりなのだ。その意味では、本件は政治的テロ行為ではない。この事件の本質は、反社会的な宗教に洗脳された信者家族の悲惨さにある。そして、《多くの人を不幸にする宗教が、信教の自由の美名のもとに、被害を拡大し続けて行くことを許容してよいのか》が問われている。それが、今進行している事態の「本質」ではないか。これを「民主主義の根幹を揺るがす」とは、無内容も甚だしい。
「奈良市は銃撃現場を車道にし、慰霊碑などの構造物は造らない方針という。かつて同様にテロによって暗殺された原敬、浜口雄幸両元首相の東京駅の遭難現場には、それを示す印が床に嵌め込まれ、近くに説明板が置かれている。世界の平和と秩序維持に貢献し、国葬儀の際には多くの国民が献花の長い列を作って死を悼んだ安倍氏の遭難現場に、その痕跡すら残さないというのは理解に苦しむ。安倍氏のレガシーを認めたくない人々への迎合としか思われない。事件は民主主義への重大な挑戦であった。それを何事もなかったかのようにするのは、民主主義を守ろうという意思の欠如を示すものに他ならない。」
奈良市の措置に賛否の意見あるのは結構だが、大上段に「民主主義を守ろうという意思の欠如を示すものに他ならない」という断定はトンチンカンも甚だしい。この一文は、統一教会が安倍政治をかくも全面的に肯定し、安倍の死をかくも惜しむことによって、その政治的立場の一体性を示す貴重な資料として意味がある。
安倍晋三を、政治テロによって暗殺された原敬、浜口雄幸、あるいは犬養毅、高橋是清らと同列に置くことはできない。安倍は政敵に暗殺されたのでも、彼の政治信条を理由に暗殺されたのでもない。反社会的カルトとの癒着を嫌われて銃撃の義性となった。そのことをも考慮に入れての奈良市の対応である。にもかかわらず、「安倍氏のレガシーを認めたくない人々への迎合としか思われない」は、噴飯物と言うしかない。
「殺人容疑で送検された山上徹也容疑者が、母親が入信している世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への恨みから、同教団と関わりのあった安倍氏を襲撃したとの供述内容が報じられたことで、人々の関心は旧統一教会問題に向かった。
その後のメディアの魔女狩り的報道で、岸田文雄首相は事件の全容や旧統一教会の実態が明らかにされる前に、早々と自民党と教団との絶縁を宣言した。これによって、政治が宗教の影響を受けることは悪であるかのような、戦後の日本に潜在してきた政教分離の誤った解釈を蔓延(まんえん)させてしまった。メディアに引きずられ、問題の本質を見誤った判断と言わざるを得ない。」
この前段はそのとおりだが、後段には看過できないいくつもの言い回しがある。統一教会への批判を「魔女狩り的報道」とレッテルを貼ることの意図は明らかで、こんなことで批判の言論に萎縮があってはならない。「政治が宗教の影響を受けることは悪であるかのような」は、あたかも「政治が宗教の影響を受けることは悪ではないような」主張である。議論を拡散せずに絞れば、「少なくとも、政治が統一教会のごとき反社会的なカルトから影響を受けることはけっして放置してはならない」と言うべきである。これに続く、「戦後の日本に潜在してきた政教分離の誤った解釈を蔓延させてしまった」は、だれにも意味不明、理解できない。おそらくは、社説を起案した本人にも何を言っているのか分からないだろう。
「事件が旧統一教会の献金に絡むものであったことから、法人などによる悪質な寄付などの勧誘行為を禁じる被害者救済新法が拙速に成立し、施行された。被害者の救済に一定の効果は期待できるが、憲法で保障された信教や内心の自由を軽視する傾向が強まったことは今後に問題を残した。この動きは地方議会にも波及し、憲法違反の疑いの濃い決議が採択されている。」
以上から汲みとることができるのは、「宗教批判はけしからん、だから、統一教会批判をしてはならない」という、単純で無邪気だが、乱暴な非「論理」。宗教を批判することはタブーではない。ましてや、具体的な事実に基づく統一教会批判や、それと癒着した安倍政治の批判に躊躇があってはならない。
「さらに社会的に問題があるとの理由で、政府は同教団の解散命令請求を視野に入れ、宗教法人法に基づいた質問権を初めて行使した。正当な理由なしに解散命令を請求するのは、宗教弾圧につながる深刻な問題だ。」
「正当な理由なしに解散命令請求することが深刻な問題」であることは当然のこと。しかし、統一教会による甚大な被害は、民事・刑事の多数の判決に明らかとなっている。霊感商法も、多額の寄付勧誘も、合同結婚式も、養子斡旋も、すべてはこれ以上の被害拡大防止のために「解散を命ずべき正当な理由の存在」を明らかにしていると言うべきではないか。「宗教弾圧」という言葉の陰に隠れ通すことはもはやできない。
「何よりこれらの流れは、安倍氏を殺害し教団への恨みを晴らそうとした容疑者の狙い通りの展開である。メディアは容疑者の行為を『もちろん非難されるべきだが』
と断りながら、旧統一教会叩きを繰り返した。そこからは『いかなる理由があってもテロは許さない』という強いメッセージが伝わってこない。」
これは、論点外しである。詭弁と言ってもよい。被疑者の刑事罰を免責してよいはずはない。弁護権を確保しつつも、刑事訴訟手続は厳正に行われなければならない。その刑事手続の進行とは別に、事件をきっかけにあらためて世に問われているのが、カルトと政治の癒着の実態である。【社説】には、この問題の議論を封殺し、論点をずらして世論の批判を避けようとの姑息な詭弁が透けて見える。
「山上容疑者の鑑定留置が10日で終わることを機に、奈良地検は殺人罪で起訴するとみられるが、テロ殺人であることを忘れるべきではない。信教、内心の自由、そして暴力の否定は民主主義の根幹である。それをこれ以上揺るがせてはならない。」
この結論もよく分からない。「暴力の否定」に異論あろうはずはないが、そのことを「統一教会批判阻止」と結びつけようという論旨が、この社説の全体を訳の分からぬものとしているのだ。
(2023年1月7日)
人が自分自身の考えや意見をもつことは、実は幻想に過ぎないのではないか。これが自分の意見だと思いこんでいるもの、自分が選び取ったと思いこんでいる普遍性をもった思想も、実のところ、誰かから刷り込まれたものに過ぎないのではないのか。
自分の精神の核になるものが、他からの意図的な働きかけで形作られているのかも知れないということは、自分とは何であるのかという根源的な問に関わる恐ろしさをもっている。
他からの強制や意図的な働きかけに安易になびくことを排して、揺るがぬ自分自身でありたい。自律した自分自身の意見をもちたい。そのために大事なことは、まずは権力や社会の多数派とは反対の位置に身を置くことだと考えてきた。権力を疑え、権力につながる一切に抵抗せよ、社会的同調圧力に抗え、という姿勢を堅持することだ。
そのように意識して初めて、大勢に流されぬ自覚した自分を確立できることになる。「そりゃ当たり前だ。何も力んで言うほどのこともなかろう」と思っていただけたらありがたい。
本日の毎日新聞朝刊2面のコラム「土記」に、「一切を棄つるの覚悟」というタイトルで、その実践者に触れた記事を興味深く読んだ。筆者は伊藤智永(専門編集委員)、時流の大勢に流されなかった実践者とは石橋湛山である。
その書き出しがよい。「世論の大勢にサオささない。多数派の「常識」を疑う。一般記事と違うコラムの役目だろう」。これに、「権力から距離を置き」あるいは「権力に抵抗しても」と加えれば満点となるところ。
戦前・戦中を通し頑固に自由主義の論陣を張った経済ジャーナリスト、石橋湛山(戦後、首相)は、世間から「理路整然と間違ったことを言う始末の悪い男」とうあきれられたという。
彼が、ワシントン軍縮会議直前の1921(大正10)年、経済雑誌「東洋経済新報」に匿名で書いた社説「一切を棄つるの覚悟」には驚かされる。
「(米国からのワシントン会議呼びかけで)先手を取られた日本は、列国を驚かす大覚悟で臨まなければ失敗する。植民地の朝鮮、台湾、樺太(サハリン)を棄てよ。中国、旧満州(現中国東北部)、シベリアから兵を引け。明治以来の日本が勝ち得た何もかも棄ててかかれば、奪われるものはない。
世評はこれを空想的平和主義の空論と冷笑するか。…しかし、わが軍備は脅威ではない、侵略しないというが、いつの世もそれで軍拡競争は起きる。植民地経営に実利はない。民族自立は歴史の流れ。世界に先んじて本土だけの国に戻り、世界中から信頼される貿易立国として繁栄しよう。
コラムはこう言う。「それでもあざけり、ののしり、黙殺した政府と国民が20年後、太平洋戦争を始める。死者310万人、沖縄戦、本土空襲、原爆投下の末に『一切を棄つる』日本となって、湛山が予言した経済大国を実現したのは周知の通り」
あの時代に、権力にも圧倒的な国民世論にもなびかず臆せず、自分自身であり続け、これだけのことを言ってのけた石橋湛山には敬意を表するしかない。
このコラム、最後がまたよい。
「湛山なら今、何を書くか。軍拡増税反対、ウクライナ即時停戦、日朝国交正常化、中国首脳訪日、天皇訪韓、日露平和条約締結。八方から怒声を浴びること必定。」というのだ。
「天皇訪韓」だけは抜き、「改憲阻止、核禁条約批准、全方位平和外交、野党の連携、学術会議の自律性堅持、原発再稼働反対」を加えれば、ほぼ満点だと思うのだが。そして今、湛山が苦労した時代ではない。けっして八方の全てから怒声を浴びることにはならないはずではないか。
(2023年1月6日)
統一教会問題の根は深い。深刻に教訓とすべきは、人の精神はけっして強靱ではないということである。周到にプログラムされたマインドコントロール技術は有効なのだ。自律的な判断で信仰を選択しているつもりが、気が付けば洗脳の被害者となる。その被害者が、次の被害者を生む洗脳行為に加担させられる。こうした連鎖反応が、社会を蝕むことになる。
そのことを「統一協会 マインド・コントロールのすべて」(郷路征記著・花伝社)が丁寧に教えてくれる。その書物のカバーに「人はどのようにして文鮮明の奴隷となるのか?」という刺激的なキャッチが心に響く。これは、「かつて臣民はどのようにして、天皇のために死ぬるを誉れと教え込まれたか?」と同じ構造の問ではないか。
明治維新後に生まれた新興宗教である天皇教というカルトは、その成立当初から政治権力と結びついていた。その周到にプログラムされたマインドコントロール技術によって、自律的な判断で信仰を選択しているつもりの国民が、それとは気が付かないうちに洗脳の被害者となった。その被害者が、さらに次の被害者を生む洗脳行為に加担させられる。こうした連鎖反応が、一国の国民全部を蝕むことになって、国を破滅に導いた。
天皇教の教祖にして現人神と祭り上げられた人物が、睦仁であり、嘉仁であり、裕仁だった。これが、ちょうど文鮮明・韓鶴子の役どころにあたる。天皇教は、皇祖皇宗の指し示すとおり、我が民族のみ貴しとする非合理な八紘一宇を説き、カミカゼが吹くとして侵略戦争に狂奔し、臣民に天皇のために死ね、と教えた。これが天皇教の重要な一部をなす靖国の思想である。
こうして、77年前までの日本は、天皇カルトが全国の全局面に蔓延し、一国の国民の精神を支配したカルトの国であった。学校と軍隊が主たるその布教所となり、教員が熱心な布教師となった。そして、権力に操られた新聞・出版メディアとNHKが、一般国民への天皇カルトの果敢な宣伝隊となった。
本日の赤旗の報道で初めて知った。統一教会では、漠然と「宗教2世」とは言わないらしい。親の入信前に生まれた子どもを「信仰2世」と言い、集団結婚した両親から生まれた子どもを「祝福2世」と言うのだそうだ。その数、前者が3万人、後者が5万人だという。
「統一協会は入信後に集団結婚した両親から生まれた「祝福2世」を“神の子”として特別に位置付けています。他方、親の入信前に生まれていた子どもは「信仰2世」として信者1世と同じ扱いをします。ただ、どちらの2世も家庭への高額献金や集団結婚の強要といった被害は共通しています。
協会関連資料や関係者によると、これらの反社会的行為を嫌って協会活動から離れる2世も多いといいます。
このため統一協会は2世を連れ戻すため必死になっています。すべての信者家庭が2世の協会復帰に「命を懸けなければなりません」と強調。「家庭連合に対して完全に背を向け、関わりを一切断っている2世だとしても、捜し出して導かなければなりません」と命じています。」
統一教会も必死になって組織防衛に活動しているのだ。
しかし、この8万人の一人ひとりに深刻な悩みがあるに違いない。宗教1世と併せれば、20万人にもなるのだろうか。このカルトが、ここまで蔓延してきたことは驚くべきことではないか。しかし、天皇カルトが洗脳した1億人に較べれば、まだ規模は小さいとも言えそうである。そして、危険な天皇カルトはまだ退治され切っていない。
先の郷路君の著作の一節に、「マインドコントロールによって他人に操作されることを防ぐ道は、マインドコントロールについての知識を持つことである」という、名言がある。なるほどと思う。国家権力や社会的な同調圧力による国民精神の支配から自律した精神を防衛するためにも広く通じることと言えよう。それが、日本の近代史を学ぶという意味なのだと思う。
(2023年1月5日)
昨日、1月4日が世の「仕事始め」。首相である岸田文雄も、この日仕事を始めた。その一年の最初の仕事が伊勢神宮参拝という違憲行為。年頭の記者会見を伊勢市で行うという、何ともグロテスクな時代錯誤。
いま、統一教会のマインドコントロール被害をめぐって、「政教分離とは何か」、「信教の自由の本質をどう見るのか」、「統一教会加害の社会心理学的背景は何であるのか」という真摯な論議が巻きおこっている。そのさなかでの天皇の祖先神を祀る神社への年頭参拝の無神経。戦前の天皇教は、日本国民1億をマインドコントロールすることに成功した。その残滓をどう克服するかが、マインドコントロールから解き放たれた戦後民主主義の最大の課題であったはず。にもかかわらずの天皇教本殿への首相参拝である。意識的か無意識か、政権トップが憲法の理念を尊重しようという姿勢に著しく欠けるのだ。この国の立憲主義は、まことに危うい。
その点では、立憲民主党・泉健太も負けてはいない。何と、元日には乃木神社の写真をツィッターに掲載したのだ。これに対する当然の批判に、感情的な反発をして物議を醸している。
彼の1月3日ツィッターはこう言う。
「『乃木神社に参拝したら軍国主義に追従すると批判されても仕方ない』とか、もう酷いもんだ。そうした考えの方がよっぽど危険。私は過去の歴史に学ぶし、教訓にもする。乃木神社創建の経緯もある程度は知っている。でも当然だが、軍国主義者ではない。本当に失礼な話。」
彼が、歴史を学ぶ姿勢をもっているとは思えない。よく似た論理を繰り返し、聞かされてきた。中曽根や、小泉や、安倍晋三や高市が、下記のように言ってたことと変わりはない。要は、政治家としての民主主義的な感度が問われているのだ。
「『靖国神社に参拝したら軍国主義に追従すると批判されても仕方ない』とか、もう酷いもんだ。そうした考えの方がよっぽど危険。私は過去の歴史に学ぶし、教訓にもする。靖国神社創建の経緯もある程度は知っている。でも当然だが、軍国主義者ではない。本当に失礼な話。」
前川喜平が、冷静にこう批判している。「明治天皇に殉死した長州閥の軍人を神と崇める行為。無自覚なのか意図的なのか知らないが、これにより失う支持者は、得られる支持者より多いだろう。」
乃木は、天皇制の時代に忠君愛国の手本となった軍人。君国のために多数の部下に「死ね」と命じた愚将の典型。これを神として祀る神社への参拝は、極右や安倍晋三崇拝者にのみふさわしい。およそ、平和や、民主主義や人権を口にする人が足を運ぶところではない。
1月4日朝の泉ツィッターには、さらに驚かざるを得ない。
「本日は伊勢神宮参拝と年頭記者会見の予定です。『皇室の弥栄』『国家安泰』『五穀豊穣』を祈願するとともに、やはり全国民皆様の』平和」と「生活向上」が大切。そのために一層働くことを誓ってまいります」
岸田に張り合って、泉も伊勢参拝なのだ。その上で、まず『皇室の弥栄』『国家安泰』を祈願するという。この人何を学んできた人なのだろうか。いまだに、天皇教のマインドコントロールに縛られたままのお人のようである。
もう一つ、1月4日毎日朝刊の古賀攻(専門編集委員)コラム「水説」に驚いた。『憲法1条を顧みぬ国』という表題なのだ。内容は、天皇の血統が絶えることを憂慮して対策を講ずるべきだという趣旨である。天下の毎日の編集委員がこう言い、毎日が恥ずかしげもなく紙面に掲載する、その現実を嘆かざるを得ない。
憲法第1条は、こう述べている。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権 の存する日本国民の総意に基く。」
この憲法第1条は、天皇を主語にしてはいるが、国民主権宣言条項である。天皇主権を否定し、天皇の地位は主権者国民が認める限りのものに過ぎないと明示する。国民主権の欠如を『憲法1条を顧みぬ国』と愁うるのは分かる。が、「このままだと皇室は確実に核家族化し、将来の天皇を身近に支える皇族がいなくなってしまう」と嘆いてみせる前に、日本の民主主義や人権のあり方をこそ嘆くべきだろう。
このコラムの書き出しはこうである。
「3年ぶりの新年一般参賀に姿を見せた皇族が<少ない>と思ったのは気のせいで、実際には愛子さまと眞子さんの入れ替わりだけだという。こちらが心配性になっているせいかもしれない。」
つまらぬことを心配しているというにとどまらない。愛子『さま』と眞子『さん』の使い分けがばかばかしい。
世襲という制度は忌むべきものである。人は平等であるという文明社会の公理に反する。克服すべき人間不平等時代の野蛮な遺物である。社会は、政治家の世襲については批判する。資産家の二代目三代目も軽蔑する。しかし、世襲制度の本家は皇室であろう。皇室や皇族の世襲をこそ批判しなければならない。
このコラムは、最後をこう締めくくっている。
「憲法1条は、天皇を国および国民統合の象徴、その地位を「主権の存する国民の総意に基づく」と定める。憲法秩序の骨格なのに、(皇位継承の安定化措置を提言する)17年前の首相演説はうやむやになり、国会が求めた報告も放置したまま。それで済ませる感覚が不思議でならない」
私はこう思う。天皇を「憲法秩序の骨格」と言ってのける感覚の論説委員がいまだに存在し、大新聞がそのような論説を掲載することが、不思議でならない。
伊勢神宮・乃木神社・天皇は、国家神道・軍国主義・権威主義・世襲制に貫かれている。いずれも御しやすい国民精神を涵養するためのマインドコントロールの小道具、大道具にほかならない。そして今、これを批判しないマスメディアに支えられている。
(2023年1月4日)
暗いニュースばかりが続く。本日、読売に「北朝鮮、李容浩元外相を処刑か…在英国大使館勤務経験の外務省関係者らも」という記事。この人、北朝鮮の核問題を巡る6か国協議の首席代表だった。北朝鮮を代表する米国通の外交官として知られ、米トランプ前政権との非核化交渉にもあたった人物だという。それがなぜ粛正。
「昨年夏から秋頃」だというこの人の処刑と前後して、いずれも英国大使館勤務経験の外務省関係者4〜5人も相次ぎ処刑されたとの情報もあるという。粛清理由か明らかではないだけに、野蛮な権力の不気味さや恐怖が募る。人の命を大切にしない国は本当に恐い。
野蛮さではイラン政府も負けてはいない。「ヒジャブ」抗議デモ参加者や連帯の意思表明者を逮捕するだけではなく、次々と死刑を宣告し執行している。しかも、クレーンに吊しての公開絞首刑だ。いたましいことこの上ない。政権批判を抑え込むための徹底した弾圧だが、人々に政権への怨念を募らせることにならざるを得ない。この事態に、命を掛けて抵抗運動に立ち上がる人々の姿勢に胸が熱くなる。
ロシアが占領するウクライナ東部ドネツク州マキイウカで1日未明に、ロシア軍臨時兵舎がウクライナにミサイル攻撃された件について、ロシア国防省は当初63人死亡と発表していたのを、4日朝、少なくとも89人が死亡と再発表し、複数のロシア兵が携帯電話を使用していたから、攻撃目標とされたとの見方を示した。ウクライナの戦果に、思わず快哉を叫びたくなる自分の気持ちが恐い。動員されたロシアに同情せざるを得ない。
そのロシアについて、本日の毎日夕刊に、「今年の『10大リスク』ロシア首位 『世界で最も危険なならず者国家』 米調査会社報告書」という記事。
国際政治のリスク分析を行う米調査会社「ユーラシア・グループ」は3日、今年の「10大リスク」をまとめた報告書を発表した。首位にウクライナ侵攻を続けるロシアを挙げ、「世界で最も危険なならず者国家になる」と指摘。核兵器による威嚇を強め、サイバー攻撃などを通じた「非対称戦争」に転じると予測している。
報告書は、欧米の武器供与を受けたウクライナの防衛力を前に「(ロシアには)戦争に勝つための有力な軍事的な選択肢は残されていない」と指摘。欧米を不安定化させるため、ロシア系ハッカーによる政府や企業へのサイバー攻撃、インフラの破壊工作、偽情報の拡散を通じた選挙妨害などを強めると予測した。何よりも核兵器使用の恐怖は拭いようがない。やはり、プーチンのロシアは恐ろしいのだ。
今年の『10大リスク』の2位は、中国共産党総書記として異例の3期目に入った習近平。昨年の「10大リスク」のトップは、中国の「ゼロコロナ」政策の失敗だったという。習近平、今年はプーチンに後塵を拝したことになった。それでもなお、権力集中を「極限」まで進める彼にはチェック機能が働かず、「重大な間違い」を犯すリスクが高いと指摘され。「現代の皇帝」が下す決定によって、公衆衛生や経済、外交の3分野でリスクがあると説明されている。
北朝鮮・イラン・ロシア・中国だけでない、ミャンマーも、アフガニスタンも、…。民主主義のない国が、人命をないがしろにする。民主主義のない国が世界の平和の脅威となる。民主主義のない国、報道の自由のない国ほど恐ろしい。そこでは、抑制の効かない権力の横暴が暴走するのだから。
(2023年1月3日)
あらたまの年のはじめである。正月にふさわしく、格調高く明るい希望を語りたい。…とは思えども、なかなかそうはならない。結局は本日も、格調もなく楽しくもない話題を取りあげることになる。
「世界日報」が、12月31日付けで「22年の日本 保守の後退と民主主義の危機」と題する【社説】を書いている。統一教会の立場を代弁するものだが、自民党と安倍晋三を持ち上げつつも、関係断絶宣告されたことへの怨みを述べて、自民党にすがりつき抱きつこうとする姿勢を露わにしている。自業自得とは言え、自民党にとっては迷惑この上ない「深情け」であろう。
【社説】は、「7月8日、奈良市で起きた安倍晋三元首相暗殺は、日本の保守政治を大きく後退させ、民主主義をかつてない危機にさらすことになった」と断じる。しかし、「日本の保守政治を大きく後退させた」のは、安倍晋三銃撃それ自体ではない。安倍銃撃の動機として明るみに出た『統一教会と安倍・自民党との長年にわたる醜悪な癒着の実態』なのである。問題をすり替えてはいけない。
隠されていた保守政治の大きな汚点がようやく語られるようになって、実は、虚飾のイメージで国民の信頼と政権与党の地位を騙し取っていた自民党が、等身大の正体を現したというだけのことなのだ。「民主主義をかつてない危機にさらすことになった」は、見当外れも甚だしい。安倍晋三と自民党の正体が露見して、支持率が下がるのは「民主主義が健全に機能している証左」以外のなにものでもない。
また、【社説】は「脅かされる信教の自由」の小見出しで、「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への恨みが動機であったとの容疑者の供述が警察から流されると、マスメディアの関心は旧統一教会叩(たた)きに集中した。一方的な中世の「魔女狩り」を思わせる報道によって形成された世論を意識して、岸田文雄首相は自民党と教団との関係断絶を宣言した」とも言う。
私は、「日本の報道は信頼するに値する」とも、「世論は常に正しい」とも思ってはいない。むしろ、日本の報道は権力や政権与党に甘く、その報道に誘導された日本の世論は適正な自民党や安倍晋三批判をなし得ないことを残念に思ってきた。その私の目からは、統一教会に対するメディアや世論の批判が『一方的な中世の魔女狩り』を思わせるものとはとうてい思えない。
さらに、【社説】は、「(岸田首相の)旧統一教会との絶縁宣言は、日本政治をワイドショー政治に堕としめるものである」とも言う。悔しさや怨みだけは伝わってくる。「今までさんざん利用しておいて、具合が悪いとなったらポイ捨てか」と言わんところは分からぬでもない。が、悲しいかな。この一文には、人を説得し、人に訴える何物もない。
【社説】は、安倍晋三を天まで持ち上げている。「『日本を取り戻す』を目標に、国家の安寧と民族の誇り回復のために活発に行動してきた安倍氏がいなくなったことで、保守政治は大きな柱を失った」「安倍氏亡き後、誰が日本を取り戻す主体となるのか、大きな課題である」という。なるほど、安倍晋三と統一教会、思想的には気の合った双子みたいな間柄。かくも一体、かくも紐帯が強いのだ。
そして、【社説】は本音を語る。「国会でも信教の自由の重みに対する認識を欠いた発言が、平然と飛び交うようになっているのは憂慮すべき状況だ」「政府は同教団への解散命令請求を視野に質問権を初めて行使したが、信教の自由をないがしろにすれば民主主義の基盤を揺るがす。日本を中国のような全体主義国家に転落させてはならない」と。
要するに、これまで統一教会には安倍晋三という強力な後ろ盾があった。安倍亡き後も、細田、下村、萩生田等々の頼むに足りるコアな同志的関係の政治家がいる。その支持をつなぎ止めておきたいのだ。そのための呪文が「シンキョウノジユウ」である。「シンキョウノジユウは民主主義の基盤である。だから、統一教会のシンキョウノジユウを貶める言動は、民主主義の基盤を揺るがす」という「論理」ないしは「屁理屈」。
全ての基本権は尊重されないが限界を有している。ヘイトスピーチは表現の自由(憲法21条)の限界を超えて許容されない。裁判を受ける権利(32条)の限界を超えたスラップの提訴は違法となる。信教の自由も、他の基本権に優越する特別の地位をもっているものではない。他者の基本権と衝突する局面での調整において限界を有する。
人の弱みに付け込んだ霊感商法の勧誘、非常識な高額寄附の要請、真意に基づいたと言えない婚姻の斡旋、未成年の子供の人権への配慮のない養子縁組…。どれもが、信教の自由の限界を超えたものとして違法たりうる。その指摘は、けっして「」民主主義の基盤を揺るがす」ものではなく、「中国のような全体主義国家への転落」を意味するものでもない。人権を大切に思う人々が、統一教会の所業を黙過してはならない。
(2023年1月2日)
新年にふさわしい明るい話題ではない。それでも、野蛮な大国の現実について警鐘を鳴らし続けねばならない。
我々は、香港についての報道を通じて、野蛮と文明との角逐を垣間見ている。残念ながら、そこでは野蛮が文明を圧倒しているのだ。野蛮とは、剥き出しの暴力に支えられた権力である。そして、文明とは『法の支配』や『権力分立』によって権力を統御し人権を擁護しようという制度と運用を指す。疑う余地なく、この意味での文明あってこそ人身の自由があり、思想の自由・表現の自由の謳歌がある。
暮れの各紙が、「中国、香港最高裁判断覆す」「国安法違反、外国弁護士の参加巡り」という見出しで、香港発の共同通信記事を報じている。
「中国の全国人民代表大会(全人代)常務委員会は(12月)30日、香港国家安全維持法(国安法)違反事件の被告の弁護人を外国の弁護士が務めることができるかどうかを巡り、香港政府トップの行政長官の許可が必要だとの解釈を示し、香港最高裁の判断を事実上覆した。許可がない場合は、香港国家安全維持委員会の決定が必要だとした。
同法違反罪に問われた民主派香港紙、蘋果日報(リンゴ日報=廃刊)創業者、黎智英氏の裁判で、香港最高裁が香港当局の主張を退け英国の弁護士の参加を認める判断を示していた。司法の独立性が後退したとの懸念がさらに高まりそうだ」
黎智英は中国共産党によって表現の自由を蹂躙されて、この上なく声価の?かった新聞(蘋果日報)の発行停止に追い込まれた。それに伴い、中国共産党によって財産権を侵害され、営業の自由を蹂躙された。さらには、不当に逮捕され、人身の自由を蹂躙された。そして今、彼は中国共産党によって刑事被告人としての弁護人選任権までが侵害されているのだ。恐るべし、野蛮な権力。
以前にも指摘したことがあるが、黎智英が英国の弁護士を弁護人として選任したのは香港の刑事訴訟法がそれを許容する制度になっているからだ。ところが、香港司法当局(日本での法務省に当たるのだろう)は、これにイチャモンを付けて、香港籍の弁護人への変更を申し立てた。その理由は、「(国安法上の)『外国勢力との結託による国家安全危害共謀罪』で起訴された被告人の弁護人を、海外で働く外国人が担当するのは国安法の立法趣旨に反し不適当」だというのだ。無罪の推定も、弁護権の保障も念頭にない、まったく無茶な権力側の発想。
さすがに、香港の高裁と最高裁はいずれも司法当局の訴えを退ける判断を下した。ところが、ここで奥の手が出てくる。香港の最高裁の判断は、全人代常務委員会の胸先三寸でひっくり返されることになった。これが、一党独裁のグロテスク。
「非理法権天」という、出所定かならぬ駄言がある。楠木正成が報じたとの伝承され、戦艦大和のマストに掲げられた幟にも書いてあったそうだが、《非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たぬ》という文意だという。この中で、《法は権に勝たず》だけが意味のある内容、もちろん権力をもつ者にとっての意味である。
元来、法は権力を抑制し掣肘するためにある。「王権といえども法の下になければならない」のだ。実力に支えられた権力が、正義や理性の体系である法に縛られ従うことで文明社会の秩序が保たれる。これが《法の支配》の理念であって、《法は常に権力に勝つ》べき立場にある。これを、《法は所詮紙片に書かれた文字の羅列に過ぎない、実力装置に支えられた権力に勝ち目はない》というのは、野蛮な世界の認識なのだ。
一党独裁とは、共産党に敵対する政党の存在を許さないというだけのものではなく、徹底した国家権力の集中を意味するのだ。一国二制度の下、ごく最近まで香港には常識的な三権分立の制度が確立していた。中国が香港の自由を蹂躙したとき、香港の教科書から「三権分立」の文字が消えた。同時に香港の人権と民主主義も失われた。
三権分立の核をなすものは、司法権の独立である。法の支配において、最終的に法の解釈を確定する権限は司法にある。が、この常識は中国では通じない。香港の司法の独立は、中国共産党の支配にまったく歯が立たないのだ。
それを見せつけたのが、今回の《黎智英弁護人選任権否認事件》である。「香港の司法は、中国共産党という権力に勝てず」が立証された。
かくて香港の《文明》は、南北朝時代あるいは近代天皇制権力時代と同じ《野蛮》に敗れたのだ。