澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

大相撲 牛に寄られて あとがない

闘牛も女人禁制とは知らなかった。毎日新聞によれば、新潟県長岡市の「山古志牛の角突き」(闘牛)、「闘牛場の土俵は、角突き前に酒と塩で清めた時から女人禁制とされていた」という。この「女人禁制」がなくなった。

角突きを終えた牛の健闘を称えるため、オーナーが自分の牛を闘牛場を周回するのが「牛の引き回し」。しかし、清めた土俵に女性オーナーは立つことができない。この「伝統」に、一人の女性オーナーが異議の声を上げ、主催者である山古志闘牛会が真摯に耳を傾けた。

昨日(5月4日)、「松井富栄会長が会員らに解禁を提案。大きな拍手で承認された。松井会長は『山古志の角突きは牛を大事にする。男性でも女性でも牛を大切にしてくれる人たちと、角突きという習俗をこれからも育てていきたい』と話した。」と報じられている。

この「山古志牛の角突き」は、国の重要無形民俗文化財に指定されているものという。その角突きの土俵で、さっそく女性による「牛の引き回し」が実現した。地元紙も好意的に報道している。

ところで、牛ならぬ本家の大相撲の方は、こんなにスッキリとは行かない。公益財団法人日本相撲協会が、ホームページに「女性差別問題」に関する釈明の理事長談話を掲載した。「協会からのお知らせ」と題するもので、先月(4月)28日付である。
http://www.sumo.or.jp/IrohaKyokaiInformation/detail?id=268

大要は、
(1)「舞鶴市での不適切な対応について」謝罪し、
(2)「宝塚市長に土俵下からのあいさつをお願いしたことについて」釈明し、
(3)「ちびっこ相撲で女子の参加のご遠慮をお願いしたことについて」再検討する、
というもの。

とにもかくにも、ダンマリを決めこまず、説明責任を果たそうという姿勢には好感が持てる。今後も続けて協会の考え方を外部に発信していただきたい。オールド相撲ファンの一人として、そう思う。

とはいうものの、この理事長釈明の説得力は極めて弱い。全編「女性差別の意図はないことにご理解を」という趣旨だが理解は難しい。客観的に差別していることが明らかなのに、その合理性について納得させるものとなっていないからだ。もしかしたら、理事長自身が形だけの抵抗をしてみせて、世論に圧された形で性差別を払拭したいと考えているのかも知れない。そんな深謀遠慮さえ感じさせる内容なのだ。

協会は、まずこういう。

?(1)舞鶴市での不適切な対応について
?京都府舞鶴市で行った巡業では、救命のため客席から駆けつけてくださった看護師の方をはじめ女性の方々に向けて、行司が大変不適切な場内アナウンスを繰り返しました。改めて深くおわび申し上げます。

しかし、こうも言うのだ。

?大相撲は、女性を土俵に上げないことを伝統としてきましたが、緊急時、非常時は例外です。人の命にかかわる状況は例外中の例外です。不適切なアナウンスをしたのは若い行司でした。命にかかわる状況で的確な対応ができなかったのは、私はじめ日本相撲協会幹部の日ごろの指導が足りていなかったせいです。深く反省しております。

これでは、「緊急時、非常時、人の命にかかわる状況などの例外」の場合には、女性を土俵に上げてもやむを得ないが、それ以外では「女性を土俵に上げない伝統を守る」という、伝統墨守宣言と読まざるを得ない。女性差別に関する根本的な考察も反省もまったくなされていない。

また協会はこう言う。

(2)宝塚市長に土俵下からのあいさつをお願いしたことについて
?兵庫県宝塚市で行った巡業では、宝塚市の中川智子市長に、土俵下に設けたお立ち台からのあいさつをお願いしました。市長にご不快な思いをさせ、誠に申し訳なく恐縮しております。

そして、これに続けてこう言っている。

??? あいさつや表彰などのセレモニーでも、女性を土俵に上げない伝統の例外にしないのはなぜなのか、協会が公益財団法人となった今、私どもには、その理由を改めて説明する責任があると考えます。

自らの説明責任を認めていることは、立派な姿勢と言わねばならない。また、問題を「あいさつや表彰などのセレモニーでも、女性を土俵に上げない」ことと絞っているのも、そのとおりだ。女性を力士として登録させないことや、男性力士と同じく、女性力士を認めよとなどというレベルでの女性差別を問題にしているのではない。当面問題になっているのは「あいさつや表彰などのセレモニー」での性差別だけなのだ。

協会は「セレモニーで女性を土俵に上げない」理由を3点挙げている。
 第1に、相撲はもともと神事を起源としていること、
 第2に、大相撲の伝統文化を守りたいこと、
 第3に、大相撲の土俵は男が上がる神聖な戦いの場、鍛錬の場であること。

これだけでは分からない。もっと詳しい説明があるだろうと思って次を読むことになるのだが、理解は容易でない。

まず第1の「神事起源」説。協会自らがこう言っている。

「『神事』という言葉は神道を思い起こさせます。そのため、『協会は女性を不浄とみていた神道の昔の考え方を女人禁制の根拠としている』といった解釈が語られることがありますが、これは誤解であります。」

ここで語られていることは、「神道は女性を不浄としているが、協会も同じ考え方というのは誤解だ」という弁明だけ。相撲が神事であることが、なにゆえ「セレモニーにおいても女性を土俵に上げてはならないという理由になっているのか」その説明として語られているところはない。

さらに続けて、協会はこう言う。

「大相撲にとっての神事とは、農作物の豊作を願い感謝するといった、素朴な庶民信仰であって習俗に近いものです。大相撲の土俵では『土俵祭(神様をお迎えする儀式)、神送りの儀』など神道式祈願を執り行っています。しかし、力士や親方ら協会員は当然のことながら信教に関して自由であり、協会は宗教におおらかであると思います。歴代の理事長や理事が神事を持ち出しながらも女性差別の意図を一貫して強く否定してきたのは、こうした背景があったからです。」

ここで強調されているのは、「相撲協会は信教の自由を尊重し、神道や神事を力士や親方らに押しつけることはしていない」ということ。してみると、第1の「女性差別神事起源説」は、差別合理化の根拠としては主張されていないということのようだ。

第2の「女性差別伝統文化」説は、「これまでそのような理由が語られていた」というだけで、現在もこれを固執するとはされていないし、その内容の説明もない。

これに較べて、第3の「土俵は力士らにとっては男が上がる神聖な戦いの場、鍛錬の場」説」には紙幅がとられている。が、まったく女性を土俵に乗せない理由の説明にはなっていない。もう一度確認しておこう、問題は「あいさつや表彰などのセレモニー」での性差別である。戦いの真っ最中に、あるいは鍛錬に精進しているときに、「戦いや鍛錬に無関係な者の闖入はならない」というのなら、論理としては分かる。しかし、「戦いは終わり、鍛錬も行われていない場」としてのセレモニーとしての土俵である。男性であれば、老人でも、子どもでも、外国人でも、また相撲界とは無関係な知事や市長や議員も土俵に上がって差し支えないのに、女性は一切お断りという理由の説明にはなっていない。

協会の説明は、「多くの親方たちの胸の中心にあったのは、第3の『神聖な戦い、鍛錬の場』という思いではなかったかと思います。」という言い回しで、第3説を「『神聖な戦い、鍛錬の場』という思い」と言い直している。

しかし文面からは、「戦いの場、鍛錬の場」としての土俵に意味はなく、むしろ「男が上がる神聖な」土俵に意味あるとしか理解しようがない。結局は、「男がだけが上がるべき神聖な」場としての土俵に、女性は上がる資格をもたないと言っているのだ。

??? 昭和53年5月に、当時の労働省の森山真弓・婦人少年局長からこの問題について尋ねられた伊勢ノ海理事(柏戸)は、「けっして女性差別ではありません。そう受け取られているとしたら大変な誤解です。土俵は力士にとって神聖な闘いの場、鍛錬の場。力士は裸にまわしを締めて土俵に上がる。そういう大相撲の力士には男しかなれない。大相撲の土俵には男しか上がることがなかった。そうした大相撲の伝統を守りたいのです」と説明いたしました。

こんな説明で、あの森山真弓が納得したはずはない。セレモニーでも、女性が土俵に上がれない理由の説明にはなっていないからだ。伊勢ノ海が言っているのは、「大相撲の土俵には男しか上がることがなかった。そうした大相撲の伝統を守りたい」と言っているだけなのだ。繰り返すが、子どもでも、年寄りでも、外国人でも、議員でも市長でも、男性なら土俵に上ってけっこう。同じ年齢、職業、立場でも、女性はお断り。これが差別でなくてなんであろうか。

伊勢ノ海理事(柏戸)やその亜流には、こう言わなくてはならない。「あなたの考え方が女性差別そのものなのです。もし、そうでないと本気でお考えなら、それこそが大変な誤解なのです。考えを改めてもらわねばなりません。神聖な場所には、女性は立ち入り禁止というその考え方をです」

また、内閣官房長官となった森山真弓に、出羽海(佐田の山)はこう言ったという。

「女性が不浄だなんて思ってもいません。土俵は力士が命をかける場所ということです」

これも、通らない理屈だ。「力士が命をかける場所」だから、男性の立ち入りは差し支えないが女性はダメだというのだ。現役時代の柏戸も佐田の山も、私は好きな力士だったが、およそものを考えての発言だとは思えない。伝統・文化・慣わしという実体のないものに寄りかかろうとしているだけなのだ。

現理事長(八角)は、「土俵は男が必死に戦う場であるという約束ごとは力士たちにとっては当たり前のことになっており、その結果として、土俵は男だけの世界であり、女性が土俵に上がることはないという慣わしが受け継がれてきたように思います。」と自信なさげに結論めいたことを言っている。「必死に闘う場としての土俵は男だけの世界」という「慣わし」を容認しているのだ。

但し、理事長は、「この問題につきましては、私どもに時間を与えていただきたくお願い申し上げます。」「外部の方々のご意見をうかがうなどして検討したいと考えます。」と再検討の含みを残している。この柔軟な姿勢に期待したいと思う。

(3)ちびっこ相撲で女子の参加のご遠慮をお願いしたことについて
宝塚市、静岡市などの巡業で、ちびっこ相撲への女子の参加をご遠慮いただくようお願いいたしました。これは、女児の顔面に怪我あることなどを慮り、「また高学年の女子が相手になると、どう体をぶつけていいのかわからないと戸惑う声もあった」から。「けがをしない安全なちびっこ相撲を考えて、再開をめざします。合わせて、女子の参加についても再検討いたします。」という。

これも、再考の結果を期待したいと思う。

私は、物心ついたころからの相撲フアンである。伝統の四本柱を取り去り、尺貫法をメートル法に切り替え、物言いにビデオ判定を取り入れ、外国人力士を平等に扱うなどの改革を見てきた。伝統なんて乗り越えて振り返ればたいしたものではない。山古志村闘牛会は容易に乗り越えたではないか。今どき、「女人禁制」とか、「神聖な男の世界」などとは、感覚がずれているとしか思えない。

相撲協会に比較して、山古志村闘牛会の方が、はるかに鋭く時代の空気を読んでいる。セクハラ問題が政治と社会を揺るがしている今、相撲協会の対応の遅滞は、致命傷になりかねない。

もし女人禁制を続けるのなら、「公益財団」を返上して、純粋に私的な興行団体となればよい。そうなれば、社会もそのように遇するだろう。大相撲、徳俵に足がかかっている。もう、あとがない。
(2018年5月5日)

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