「敗戦」か、「終戦」か
流石の猛暑にも陰りが見えて秋の気配。セミの声がコオロギに変わった。8月もそろそろ終わり。
ところで、68年前の8月に、日本は「敗戦」したのか、「終戦」を迎えたのか。8月15日は「敗戦の日」か、それとも「終戦の日」か。「終戦記念日」か、「敗戦を記憶にとどめる日」なのか。以前からその選択に迷っていた。迷うことにたいした意味があるとも思わず、決めかねてもいた。決めかねながらも、次第に「終戦派」に与するようになってきた。
戦争に疲弊した国民の実感からは、ようやく戦争の辛苦から逃れ得た「終戦」であったろうと思う。自分の母の語り口からその感は強い。太平洋戦争だけでも4年近く、「満州事変」からだと足かけ15年である。ようやくにして「戦争は終わった」と庶民は思ったことだろう。もうこれで、空襲もない、灯火管制もない。戦地の家族も帰還できる、というホッとした感じ。だから「終戦」。
これに対して、「終戦」は戦争責任を糊塗するための意図的なネーミングだという論難が昔からある。「退却」を「転進」と言い換えたと同様に、「終戦」とはこっぴどい負け方を隠蔽するための造語なのだから、事実を正確に見据えて「敗戦」というべきだというもの。危うく戦死を免れ、親しい人を戦争に失って、怒りの気持押さえがたく、戦争責任の追及に意識的だった人の実感であったろう。
「敗戦」は、無謀にも負けることが必然であった戦争を始めた者の責任を明らかにせよ、という論理に親和的である。「終戦」よりも、負け戦故の辛酸への怒りが感じられる。「こんな戦争を始めた奴は誰だ」という怒りの声を出すときは、「敗戦」がふさわしい。
しかし、戦争の悲惨は「敗者」の側にだけあるのではない。堀田善衛が上海で見たという「惨勝」という落書きは、勝者の側の惨禍を物語っている。「負けた戦争」の悲惨ではなく、勝敗を問わない戦争それ自体がもたらす悲惨さを語らねばならない。そして、問うべきは「敗戦」の責任ではなく、戦争そのものについて、始めたこと、長引かせたこと、敵味方を問わず無益に人の命を奪ったことの責任ではないか。ならば、戦争の終結は、敢えて「敗戦」とする必要はなく、「終戦」でよいのではないか。
「敗戦の日」「敗戦を記憶する日」には、勝敗へのこだわりが感じられる。「今回は負けたが、次は必ず勝つぞ」というニュアンスがないだろうか。一方、「終戦」は、すべての戦争をこれでお終いにする、という積極的な含意を持ちうる。
ところで、例の村山内閣総理大臣談話の正確な標題は、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」である。公式英語版では、”On the occasion of the 50th anniversary of the war’s end”である。「終戦」(war’s end)であって、「敗戦」(defeat in the war)ではない。
ところが、本文には、「敗戦後」「敗戦の日から」という用語が各1箇所あって、「終戦後」「終戦の日から」という用語法はない。標題とのチグハグが、あるといえばある。
本日の「毎日」夕刊「特集ワイド」谷野作太郎・元駐中国大使に聞く(下)にその経緯が解説されている。同氏は、村山談話の作成に深く関わった人。以下の引用のとおり。
「村山談話」という言い方が定着してしまったので、あれは、一部では社会党委員長である村山富市さんが個人的所感を述べたものに過ぎないという受け止め方があります。しかし、あの談話は閣議を通した談話ですから「戦後50年に際しての日本国総理大臣談話」というべきものです。もっとも村山首相の下にあった内閣だからこそ、あのような「談話」ができたというのも事実でしょう。
当時の内閣は、自民、社会、さきがけの3党連立内閣。自民党内には「歴史」について一家言のある閣僚方がいらっしゃいました。この方々には野坂浩賢官房長官自ら事前に話をされたようです。日本遺族会会長だった橋本龍太郎元首相(当時は通産相)には村山首相自ら話をされました。その結果、談話原案では2カ所で「敗戦」「終戦」と書き分けてあったのを「敗戦」にそろえてはどうかというご意見を橋本元首相からいただき、その通りにしました。
後で橋本元首相は「遺族会の大多数の人たちは、自分たちの夫、兄弟、父親は無謀な戦争に駆り立てられて亡くなった犠牲者だと思っている。だから『敗戦』でいいんだ。ただ、今日の日本の平和と繁栄はこの人たちの犠牲の上にあるということを忘れてはいけない」とお話しになっていました。(引用終わり)
これだけの解説では、橋本の真意はよく伝わってこない。しかし、当時、遺族は「敗戦」という言葉を嫌っていたのではなかったかと思う。橋本は、敢えて「敗戦」という言葉を使うことによって、「無謀な戦争の犠牲者となった」という戦死の意味を整理して見せたのだ。
橋本のその言は評価するにやぶさかではない。しかし、私は、宗旨を変えずに、これからも「終戦」派で行こう。
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「教科書訴訟」と「はだしのゲン」
戦後しばらくは、文部省の姿勢は至極真っ当であった。侵略戦争の不正義をみとめ、反省と不戦の決意を教育の方針としていた。
1946年の文部省『新教育指針』は、「満州事変以来の日本は、内に民主主義に反する政治や経済を行ったと同時に、外に国際民主主義の原則に反する行動をとった。・・かうした態度がやがて太平洋戦争の原因ともなったのであって、われわれは今後再びこのやうなあやまちをおかさないやうにしなければならない」と分かりやすく述べている。
同年の国定日本史教科書『くにのあゆみ』には「国民は長い間の戦争で大へんな苦しみをしました。軍部が国民をおさえて、無理な戦争をしたことが、このふしあわせをおこしたのであります」と明快である。
47年の文部省著作『あたらしい憲法のはなし』には、「戦争は人間をほろぼすことです、世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません」と、戦争への批判が横溢している。
さらに、49年の文部省著作『民主主義』には、「世界人類に大きな悩みと、苦痛と、衝撃とを与えた第二次大戦については、ドイツとならんで日本が最も大きな責任を負わなければならない」として、日本の「責任」を当然のものとしている。
ところが、1953年池田ロバートソン会談以降、戦争に関する文部省の公式見解は180度の転換をとげることになる。家永三郎著の高等学校教科書「新日本史」が検定で不合格となったのは1963年である。そのとき、不合格理由の口頭告知をした文部省の教科書調査官は、家永に「(戦争の叙述が)全体として暗すぎる」と述べている。「暗い」と具体的に指摘されたのは、「本土空襲」「原子爆弾とそのために焼け野原となった広島」「戦争の惨禍」などの一連の図版であった。まさしく、「はだしのゲン」の世界である。
また、この不合格処分の取り消しを求める第一次家永訴訟において、被告国側はこう主張している。「家永教科書には『戦争は聖戦として美化され』『日本軍の残虐行為』『無謀な戦争』等の字句が見えるが、これらは第二次大戦におけるわが国の立場や行為を一方的に批判するものであって、戦争の渦中にあったわが国の立場や行為を生徒に適切に理解させるものとは認められない」
文部省だけでなく、一般国民の戦争観にも変化があった。家永は、「のどもと過ぎれば熱さを忘れる、という退化の傾向が顕著になっている。とくに若者の間には、どこと戦ったのか、どっちが勝ったのか、というあきれた質問まで出る事態となっている。太平洋戦争の再認識のためにこの著書を著した」と述べている。
戦争のできる国の再現を望む勢力は、意識的に、過去の戦争の美化をもくろむ。戦争の悲惨さを糊塗しよう、戦争の責任の所在を語ることを止めよう、あの戦争はやむを得なかった、戦争を担った人を顕彰しよう、皇軍に戦争犯罪はなかった…、と主張する。国も、時の政権も、保守政党も、右翼勢力も、軍需産業も、そしてポピュリストたちも。
それにしても、何度繰り返さなければならないのか。「戦争は、自存自衛のためやむを得なかったのだ」「日本軍の行った残虐行為はなかった」「慰安婦問題はなかった」。「多少あったとしても、どこの国もやっていたこと」。「我が軍を貶めるのは自虐」「一方的な押しつけ」だ。
さらに、これに加わるのが、戦争の残虐さを名目に、子どもたちから戦争の事実を遠ざけること。本心は、我が国将兵の行った戦争犯罪を隠蔽したいのだし、戦争そのものの残虐性を隠したいのだが、描写が「残虐」で「暴力的」で、「子どもの健やかな成長に適切ではない」とカムフラージュする。
松江市教育委員会の「はだしのゲン」かくしは、悲惨な戦争の現実隠しだし、日本軍の責任隠しなのだ。当時の国策による「非国民」弾圧隠しでもある。
幸いに、早急かつ広範な抗議の声の効果によって、書籍隠しの指示は撤回されたが、各地にはまだまだ問題が残っている。実教出版の日本史教科書が、「日の丸掲揚・君が代斉唱」の強制に触れたことから、「教育委員会の指導と相容れない」として、「不採用」となっている。ここにも、教科書をめぐって真実を恐れる公権力の不当な行使がある。
「はだしのゲン」の作者である中沢啓治さんは、生前「戦争はきれいなものではない。いかに平和が大切かゲンを読んでかみしめてもらえればうれしい」と言っている。家永さんも「戦争についての理解は、学校教育での歴史の取り扱い方や、テレビ・映画・劇画その他のマスメディアを通じての戦争の表現に規定される・・何といっても一番重大なのは、学校教育で戦争をどのように教えるかという点であろう」と言っている。教科書を含むあらゆるメディアにおいて、戦争を語ることを萎縮させてはならない。
故中沢啓治さんと家永三郎さんが天国で、「がんばれ、公正な教科書」「がんばれ、はだしのゲン」とエールの交歓をしているに違いない。
(2013年8月28日)