これからは、遠慮なく安倍晋三を「軍国主義者」と呼ぶことにしよう
安倍晋三の「ハドソン研究所」(米の保守系シンクタンク)主催会合での演説要旨についての報道は、時事通信が詳しい。その中の一節が、以下のとおり。
「本年、わが政府は11年ぶりに防衛費を増額した。すぐそばの隣国に、軍事支出が少なくとも日本の2倍で、米国に次いで世界2位という国がある。毎年10%以上の伸びを20年以上続けている。私の政府が防衛予算をいくら増額したかというと、たったの0.8%にすぎない。従って、もし私を右翼の軍国主義者と呼びたいのであれば、どうぞ呼んでいただきたい」
「軍国主義」の定義については、広辞苑の記載がよく引用される。「国の政治・経済・法律・教育などの政策・組織を戦争のために準備し、軍備力による対外発展を重視し、戦争で国威を高めようとする立場。ミリタリズム」
言葉について、私的な定義をすることに意味はない。広辞苑の穏当な定義に拠って、大きな間違いはないだろう。とすれば、「軍国主義者」とは、「国の政治・経済・法律・教育などの政策・組織を戦争のために準備し、軍備力による対外発展を重視し、戦争で国威を高めようとする立場に立つ人。ミリタリスト」ということになる。まさしく、安倍晋三にぴったりではないか。
彼は、憲法9条の平和主義を目の仇としている。「自衛のための最小限の実力」の保持では満足せず、地球の裏側にいってまで武力行使のできる国防軍を渇望している。集団的自衛権の行使容認をたくらみ、先制的自衛権や殴り込み部隊である海兵隊機能を提案している。軍国神社靖国に公式参拝して祖父の盟友であった戦犯の霊に額ずくことを公約している。軍法会議の創設を提案している。戒厳令の復活を狙っている。さらに、武器輸出三原則を清算し、教育基本法を変え、歴史教科書を塗り替え、従軍慰安婦の存在を否定し、軍服をまとって戦車や軍用機に乗ってはしゃいで見せている。軍国主義者としての資格に欠けるところはない。
また彼は、国粋主義者であり、近隣への差別主義者であり、天皇崇拝者であって、要するに典型的な、ありふれた「右翼」でもある。
彼の頭の中では、「軍国主義者」の定義は、「防衛予算を増額した国の代表」をいうものであるごとくだが、そのような「独自の私的な定義」は無視して差し支えない。おそらく、彼一人に、予算の編成を任せれば、防衛予算は倍増し福祉予算は半減するだろう。安倍が軍国主義者であることと、防衛予算の増減は必ずしも連結しない。
とはいうものの、「軍国主義者」とは、口にするのに憚らざるをえない最大級の悪罵である。いかに、安倍が定義にピタリの軍国主義者であっても、名指しして「あなたは軍国主義者だ」ということには躊躇せざるをえない。
ところが、本人から「もし私を右翼の軍国主義者と呼びたいのであれば、どうぞ呼んでいただきたい」と、わざわざの申し出である。これに応えて、これからは、遠慮や躊躇を捨てて、安倍晋三を「右翼の軍国主義者」と呼ぶことにしよう。
ただ、悪口として投げつけるだけでは芸がない。彼のたくらみの一つ一つを吟味して、それが「右翼の軍国主義者」故の発想から出たものである所以を明らかにすることが大切だと思う。
論語にもある。「文質(ぶんしつ)彬彬(ひんひん)として然る後に君子なり」と。
これを翻訳すれば、「安倍を軍国主義者だと言葉だけで攻撃してもダメ。安倍の政策の一つ一つの軍国主義的性格を明確にして実質で批判しなさい。それが理性ある主権者国民の正しい安倍批判の在り方ですよ」。孔子もうまいことを言う。
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「我が家の庭はレストラン」
ラジオで、「柿もぎをはじめました」というたよりが紹介されていた。ああもうそんな季節かと聞いていると、「ちょっと色づいた青柿です」といっている。柿渋をとるのかと思っていると、「サル対策で、他の作物を荒らしに出てこないように、柿が熟す前に落としてしまうんです」とのこと。たわわに実る柿の木の風景は山村ではもう見られない。
山村だけではない。静岡市の真ん中の静岡県庁にニホンザルが現れて、警察や職員を尻目にかけて、ベランダや庇を縦横に駆け巡って未だ捕まっていない。利口そうにこちらを伺うサルの写真を見れば、「ペンギンだって82日間逃げたんだからガンバレ」と無責任な声援を送りたくなる。山に食べるものが少ないのだろうか。
折り紙作家の布施知子さんの「ひまなし山暮らし」(筑摩書房 1996年)を紹介しよう。布施さんは長野県で「山暮らし」をしている。「オニヤンマが悠然と茶の間に入ってきて、ギロリとあたりを睨み、また悠然と出て行く。おおっ!オオスズメバチが軍艦のように入ってきた。ちょっと逃げていよう。壁に軽い頭突きを数度、ようやく出ていった。あっ、オシッコした。オシッコするとオオスズメバチは速度を急に早めて、ブーンと松林に消えた。」こんな羨ましい暮らしだ。
その中の「秋 柿の木」から。「凍みと凍みっ解けを何度もくりかえして白っぽくなった皮がたるんできた1月の中頃から、柿の木は賑わいをみせはじめる。主はひいさまー1羽のヒヨドリである。ひいさまの柿の実に対する執着は、けなげといっていいほどだ。じぶんがいるとき、なんぴとといえども相伴は許さない。翼をふるわせ、嘴を開き、あっちへ行け! さがれ!のポーズをする。小間鳥(カラ類、エナガ、コゲラ、メジロはよく一緒に団体で来るので、小間物屋にかけて小間鳥と呼んでいる)はなにしろ団体なので、ひいさまはご威光を知らしめ、警告を発するに大忙しとなる。小間鳥たちは警告に席を譲るものの、心底恐れ入ったようには見えない。うるさいのが来たからちょっとどいた、という感じである。そして2,3分、実や枝をつついていたかと思うと、来たときと同じように、団体でまたどこかへ行ってしまう。あっさりしたものだ。ひいさまはヤレヤレと食べはじめるが、落ち着かない様子でキョロキョロしている。いつもキョロキョロしている。因果なものだ」
うちの庭にもスモモの木があるが、実がなっていた頃は(昨年あたりから不思議なことにピタリと実がつかなくなってしまった)、同じ情景がくり広げられた。まず、さすがサルは来ないが、ハクビシンが夜ごと現れた。ピカリピカリと目を光らせて、器用に細い枝先まで登っていって、いちばん熟れたおいしいやつを選んで食べる。それもうまいところだけ一口。かわいくない。
朝になると、ヒヨドリのお出ましとなる。うちに来るのは「姫」じゃなくて、「野郎」。ピーピーと鳴きわめいて、メジロやシジュウカラを追い払う。そして、上品につついてひとつだけ、遠慮深くいただくということは、絶対しない。ヒヨドリのつつき回した後を、可愛らしく食べるメジロやシジュウカラがいとおしくなるのは人情。スモモとミカンの実がなくなる頃には、椿の花が咲き始める。鳥たちは椿の花粉の中に全身をうずめて、動くうぐいす餅のように粉まみれとなって遊ぶ。私もどんなにおいしいものかと舐めてみたが、花粉はただ苦いだけ。
こうして、我が家の小さな庭は、秋から冬の間、お客さんの絶えない賑やかなレストランとなる。ハクビシンはただの恩知らずだが、小鳥たちはお礼を残していく。春になるといろいろな実生が芽をだして、お楽しみクイズを提供してくれる。
(2013年9月27日)