澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

元号は「日本のアイデンティティー」だろうか

横浜市鶴見区にお住まいのI・S様、本日の東京新聞「発言」欄に、あなたの「日本の歴史 元号が象徴」という元号使用に愛着のご意見を拝読いたしました。これに対する私なりの感想を述べさせていただきます。やや不躾になるかも知れませんが、ご寛容にお願いいたします。

貴見は、西暦表記への統一を求める投稿について「本欄9月21日付『併用は不便 元号廃止を』のご意見を拝読した。なかなか含蓄のある意見だが、全面的に賛同はできない」と、ご自分の立ち場を明瞭にしていらっしゃいます。

そのうえで、「私の思考経路は常に元号でなされているが、別に戸惑うこともなく不便でもない。」「西暦、元号の併用に特別問題はないと思う。」「ただ、ハッキリ言えるのは、元号は日本独自の歴史を象徴し、日本のアイデンティティーのよりどころだということである。」とされています。

お気持ちは良く理解できます。「大正生まれ」の私の父も、おそらく同様の意見だったと思います。また、「西暦使用は怪しからん」とはおっしゃらず、「西暦と元号の併用でよいではないか」あるいは、「時と場合で使い分ければよいではないか」という柔軟な姿勢には好もしさを感じます。

しかし、「元号は日本独自の歴史を象徴するもの」とのご認識と、「元号は日本のアイデンティティーのよりどころだ」というご意見には、私なりの違和感を禁じ得ません。

その違和感の根源のひとつは、ある特定の個人の死亡という偶然の事情によって、時代を画して表記するという不自然さにあります。天皇が死亡すると、次の天皇が直ちに即位します。「国王は死んだ。国王万歳」は君主政の常ですが、日本の場合その人間の死という偶然が、新しく元号を付された時代の初年となるのです。自分の生きている時代の歴年の数え方を、見ず知らずで私とは何の関係もない一人の自然人の死亡の時をもってすることを不自然と感じざるを得ないのです。

さらに、根源的には、自分の人生や家族、社会の歴史の数え方を、天皇の在位と結びつけられることへの違和感です。こちらは、違和感というよりは嫌悪感というのが正直なところ。仮に、元号使用を義務づけられ強制されたら、精神的な苦痛を感じざるを得ません。

私は、天皇制を価値あるものとは認めません。人が、家柄や生まれによって、貴賤の別があることを容認しません。唯一の例外としてであっても、天皇の高貴を絶対に認めません。そして、古代や中世、近世まではともかく、近代以降の天皇制は極めて有害なものと考えています。そして、そのような考えの持ち主である私もこの国、あるいはこの社会の一員として生きる資格があるものと信じて疑いません。

昔、「メブカドネザル大王の治世5年目」とか、「トトメス?世の在位3年目」という歴年の数え方がありました。このような権力者の名称を付した歴年の使用は、その権力者への服従を表しました。元号の使用は、現在なお「昭和天皇在位18年に私は生まれた」「今年は平成天皇治世25年目である」というのとまったく同じことです。これは、不自然であり滑稽だというだけでなく、国民に天皇制についての意識を刷り込むための、あわよくば天皇制への従順さをつくり出すための小道具として、有害だと思うのです。

元号の制度は、歴史的には中国に始まり、中国文化圏の諸国がこれに倣って真似をしたものです。もともとは、天帝の子である天子が時を支配するという古代中国の宗教思想の表れとされています。元号は頻繁に改廃されましたが、明治維新後に「一世一元」とされました。以来、天皇の代替わりと元号の制定とがセットになりました。けっして古来の習俗でも、伝統でもなく、薩長閥政府が人民統治の道具として拵えあげた発明品に過ぎません。

明治維新から敗戦まで、あるいは大日本帝国憲法時代には、天皇は統治権の総覧者であり、現人神として天子でもありましたから、その権威をもって元号を制定することは当然とされました。また、臣民が、政治的には天皇に服属の証しとして、また宗教的な権威に服する立ち場から、天皇が定める元号を使用することに、大きな無理はなかったと思われます。

しかし、時代は変わりました。日本国憲法では国民が主権者です。厳格な政教分離の定めのとおり、天皇の宗教的権威は意識的に排除するのが憲法の基本的立ち場です。ですから、元号の存続には原理的に無理があると言わざるを得ません。慣習としてしばらくは生き残っても、国民の主権者意識の成熟とともに、消えゆくべき運命にあると考えられます。このことに、危機感を持った保守勢力が1979年に元号法を制定しました。もちろん、国民こぞっての立法とはなりませんでした。

ちなみに、現行元号法は、
第1項: 元号は、政令で定める。
第2項: 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
というだけの、もっとも条文が短い法律です。

昨年4月、自由民主党は「日本国憲法改正草案」を発表しました。その第4条に元号の定めがあって、「元号は法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する」となっています。元号を憲法事項にして、簡単に改廃できないようにしたい。それが、日本の右翼的な人々の考え方です。

その憲法改正草案は、日本を「天皇を戴く国家」として、天皇制と深く結びつく「日の丸・君が代」を国旗・国歌として国民にその尊重を義務づけるとともに、一世一元の元号も憲法事項とする、天皇中心の国家主義てんこ盛りの内容となっています。このような、右翼ないしは保守的な憲法改正案は、「元号は日本のアイデンティティー」とおっしゃる多くの人の感性に支えられてのものと言わねばなりません。

ところで、I・S様に伺いたいのです。「日本のアイデンティティー」とはいったい何でしょうか。天皇・「日の丸・君が代」・元号というのが、日本あるいは日本人のアイデンティティーなのでしょうか。これを受け入れがたいとする私のような者は、非国民でしょうか。

私自身は、「日本人としての」アイデンティティーをまったく必要としていません。個人としての自分を中心として、家族・地域社会・日本・アジア・世界と幾重にもひろがりをもつ社会の中で、日本という単位が特別に重要なものという思いはありません。

仮に、アイデンティティーを探すとしても、天皇制やこれに繋がるものを「日本のアイデンティティー」とするのは、あまりに偏狭で、余りに貧しくはないでしょうか。むしろ、日本の自然や風土、四季のうつろい、そしてこれを詠じた日本語や古典の数々。こんなところなら、異論はないのですが‥。

重要なことは、日本という社会の単位が、国家という権力機構を形成していることです。時の権力者にとって、天皇や「日の丸・君が代」、あるいは元号などを国民統合の手段とすることが、便利この上ないはずです。元号を日本国民のアイデンティティーと考えてくれる人々が多くいることが、時の権力者にとってありがたいことと言わねばなりません。このような多くの人の感性がどのように生まれてきたのか。そして、どのように利用される危険をもっているのか、十分に吟味しなければならないと思うのです。

いずれにせよ、忌憚のない意見を交換することが大切だと思います。失礼はお許しください。

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  『死の灰のセールスマン 安倍首相』その2
「原子力協定」は核関連技術の平和利用や第三国への情報流出防止を約束する2国間協定で、これを結ばないと原発の輸出入はできない。日本はすでに13か国、1国際機関(欧州原子力共同体・EU27か国)、実質的に40か国と締結している。そして現在、安倍政権は経済発展著しいインドとの協定締結に躍起になっている。インドは2020年までに原発を18基建設予定で、総額9兆円の市場だからだ。それだけでなく、高速鉄道や地下鉄などの未整備インフラの宝の山でもある。

ところが、その宝の山インドには、世界各国の原発セールスマンが二の足を踏むような大きな障害が立ちはだかっている。
まず、インドは核拡散防止条約(NPT)に未加盟のまま核実験を行い、100個もの核弾頭を保持している。日本が目の敵にしている北朝鮮と同じく、危険な核保有国だ。原発が稼働すれば、インドの核開発に手を貸すことになる。核軍縮や廃絶を願う立場からも、インドへの原発輸出は許されることではない。しかし、2007年に経済的政治的理由から、アメリカがインドと原子力協定を結んでしまったので、「我が日本も追随」という流れになっている。道義の問題にも、ダブルスタンダードとの批判にもほっかむりだ。

しかし、世界の原発企業が二の足を踏んでいる本当の理由は別のところにある。他の国とは異なりインドには原発事故の際には原発メーカーに賠償責任を負わせる法律があるからだ。
インドでは1984年にボパール化学工場で有毒ガスが漏出し、25000人もの死者を出した大惨事が起こった。経営主体のアメリカのカーバイト社の責任を問う裁判は未だに決着がついていない。これを教訓に「汚染者負担の原則」を採用して、原発事故が起これば、原子炉メーカーに責任を問える法律が成立した。

10月5日の各紙は「東芝傘下のアメリカ原子力大手ウェスチングハウス・エレクトリック社(WH)がインドでの原発新設の契約を結んだ」と報じている。皆の知りたいところは、インド原子力損害賠償法の扱いがどうなったかということ。地元メディアは「インド側が請求権を放棄するなど賠償法の運用を緩めて米国側と譲歩した」と報じたが、インド政府高官は「米国に対して何の譲歩もしていない」と言い、インド原発公社は「交渉は進行中で、コメントできない」と言っている。合意内容は闇の中だ。将来明らかになることはあるのだろうか。原発建設に反対している、インドの住民の不信や不安はいかばかりかと思う。

ここまでは将来起こりうる問題だが、三菱重工がサザン・カリフォルニア・エジソン社から受けている賠償請求は現実の問題で、注目を浴びている(本年7月24日の当ブログを参照されたい)。
昨年1月、エジソン社のサンオノフレ原発(米カリフォルニア州)3号機で蒸気発生器の配管が破損し、微量の放射性物質が漏出して、運転停止となった。米原子力規制委員会(NRC)はただちに稼働を禁止した。定期点検中の2号機の蒸気発生器にも15000カ所の摩耗が見つかり、こちらも稼働禁止になった。

(ここからはアメリカで取材を続けたジャーナリストの堀潤さんのブログからの引用)。
再稼働させようとする電力会社の労組、再稼働反対の住民運動があるなか、NRCは1年以上、再稼働申請を審査し、中立的な姿勢で公聴会を重ねた。公聴会には毎回1000人以上の人が参加し、活発な議論がなされた。NRCは神戸の三菱重工の事業所まで調査し、「三菱重工とエジソン社が設計上の不具合を事前に把握しながら、十分な改良をしなかった」という報告書を出した。それを受けて、エジソン社は今年6月2,3号機の廃炉を決定した。

エジソン社は蒸気発生器が適切に設計されていなかった、迅速な修理もなされなかったとして、メーカーの三菱重工に損害賠償請求した。三菱重工側は契約上の責任上限額1億3700万ドルは認めるが、それを超える代替燃料費や廃炉費用は争うとしている。損害額がどこまで膨らむかは、雲を掴むようで、話がまとまらなければ、地獄のような訴訟が続くことになる。

この推移は「欧米の先進国への原発輸出は契約がはっきりしていて、賠償の範囲もきちんと決められているはず」という常識は通用しないことを示している。とすれば、今回、三菱重工が契約したトルコではどうなるのだろうか。また、契約が闇の中で、免責の法律が存在するインドではどうなるのだろうか。安倍政権が後押しして成立させた「原発輸出」が大事故を起こしたとき、日本政府にまったく関係ないと知らんぷりできるとは到底考えられない。

フクシマ事故直後の、2011年5月27日、衆議院経済産業委員会で、日本共産党の吉井議員は、福島第1原発で事故を起こした原子炉製造メーカーの製造者としての責任について取り上げている。事故を起こした1号機は米ゼネラル・エレクトリック(GE)が作り、2号機以降もGEと東芝などが作ったことを指摘して、「東電とともにGEの製造者責任も問うべきだ」と迫った。それに対し、外務省の武藤義哉審議官は「88年の現協定では旧協定(アメリカの要求で米国側が提供した核燃料などの使用などによる損害については免責条項が含まれていた1958年発行の日米原子力協定)の免責規定は継続されていない」という答弁をした。であるならば、GEなどに対して免責規定はなく、フクシマの被害者は製造物責任を追及することができるはずである。

立場を変えれば、原発事故が起こった場合、トルコやインドの被害者から日本メーカーに対する製造者としての責任追及もあり得るということだ。そのときには、死の灰のセールスマン・安倍晋三の責任も免れない。首相としてのセールスの責任は、何らかの形で日本が負わざるを得ないことになろう。
(2013年10月8日)

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Published in 火曜日, 10月 8th, 2013, at 22:17, and filed under 未分類.

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