大戦時、日米はどのように相手国民を侮蔑しあったか
名著「敗北を抱きしめて」の著者、ジョン・ダワーの近著「忘却のしかた、記憶のしかた」(本年8月刊)が評判となっている。著者がこれまでに発表した11編の論文集だが、さすがによくできている。安倍自民党政権が、きな臭い雰囲気を漂わせている今、精読するに値する。
とりわけ、第2章の「二つの文化における 人種、言語、戦争ーアジアにおける第二次世界大戦」を興味深く読んだ。大戦中に、米日両国のそれぞれの国民が、どのように敵国人を憎悪する感情に支配されていたか、いかに敵国民を侮蔑する言動に及んでいたかを克明に叙述している。
「敵を非人間化することは、戦闘中の人間にとっては望ましいことだ。それは人を殺すことへの良心の呵責や迷いを消し去り、そう理由付けることによって自己保身にも寄与する。『つまるところ、敵は同時におまえを非人間化し、殺そうとしているのだ』」両国とも、そのように敵を非人間化した。
著者によれば、米英の側の「日本人への人種差別の認識」は五つのカテゴリーにまとめられるが、その第一が「日本人は人間以下」というものだったという。そして、「ほとんど例外なく、アメリカ人は日本人が比類ないほど邪悪であるという考えにとりつかれていた」。たとえば、「ピューリッツァー賞の歴史部門で2度受賞したアラン・ネヴィンスは、『おそらく、われわれの全歴史において、日本人ほど嫌われた敵はいなかった』と述べた」「ハリウッド映画はおきまりのように、ナチスと一緒に善良なドイツ人も描いたが、『善良な日本人』を描くことはほとんどなかった」などという。
このような米兵の認識が、日本兵を殺すことに抵抗感をなくした。彼らは、「まるで郷里で鹿狩りをするように、しゃがみ込むジャップに銃の照準器を合わせた。」
「日本人は害虫だった。もっと行きわたったイメージは、日本人が類人猿やサル、『黄疸になったヒヒ』というものだ。」「アジアにおける戦争は、振り返っていまだに衝撃を受けるほど非人間的な軽蔑語をひろめた」という。
但し、著者によれば、「戦争がそうした形容を大量にうんだのではない。こうした蔑視の言葉は深くヨーロッパ人、アメリカ人の意識に埋め込まれたもので、戦争は弾みを付けてそれを解きはなったに過ぎない」とされる。この点の指摘は重要である。
一方、日本人は、「米英の敵に言及するときには、鬼や悪魔に目を向けた」「『鬼畜米英』は白人の敵にたいするもっともなじんだ蔑称だった」「視覚芸術において、米英人の描写は、民話や民間信仰に登場する鬼や悪魔そっくりに描かれた」「戦時の日本人において、鬼は単なる『人間以下』や、『凶暴な獣類』のイメージではあらわせない敵の比喩としてはたらいた」
「決定的な局面でイメージと行為が結びつくと、鬼も猿も害虫も、同じように機能した。そうしたイメージのすべてが、敵を非人間化することによって、殺戮をたやすくさせた。」「米海兵隊員が、自らを『ネズミ駆除人』と呼んだ硫黄島は、日本の公式ニュース映画では、『米国の悪魔を畜殺するにふさわしい場所』と描写された」
両国民とも、正義は我が方にあり自国民は穏和で優れた存在とし、敵国民は侮蔑するに値するという。選民思想と差別感情とは対になって凄まじく、敵国民殲滅を正当化する論理にまで行きつく。
この論文が考えさせるところは、戦時だけに限定して問題を語っていないことである。戦後の、両国の思惑や軋轢に垣間見られる相互の不信や差別意識に言及して、問題が終わったものではなく、状況次第でいつでも繰り返されうることを示唆しているのだ。
1970年代に、アメリカが相対的に没落する一方日本が経済大国化したとき、「アメリカのレトリックにおいて、人間以下の類人猿は『肉食エコノミックアニマル』として復活し」、「日本人の方でもしばしばアメリカによる悪魔のような日本たたきを非難して、‥日本の達成は『大和民族』の同質性や純血のおかげだとした」
こうして、論文は、根源的な選民思想や差別感情について、「時の移ろいにつれ、慣用語は変わっていくが、完全に消滅することはない」と悲観的に結ばれている。
著者の姿勢の客観性が印象的である。とりわけ、米国民の敵国日本人にたいする差別意識と憎悪の凄まじさを徹底して暴き出している。東京大空襲も広島も長崎も、その差別と憎悪の延長上にあるのだ。そして、神話を根拠とする日本の選民思想や、アジア諸国にたいする差別意識の指摘においても容赦をしない。
人種差別表現の公然化は、その社会が戦争への発火点に近い危険領域にあることを物語っている。そして、国民・民族としての優越意識や、他民族・他人種への差別意識は、戦争終了とともに簡単になくなるものではない。社会に沈潜した澱となって、常に危険な存在となりうるのだ。常に意識し、常に警戒して、ナショナリステックな言動を抑え込まなければならない。
意識的にこれに火をつけようというのがヘイトスピーチである。あさはかなレイシストの言動ではあるが、明らかに彼らは、安倍政権の鼓舞と許容のメッセージに躍っている。昨年暮れの総選挙投票日の前日、自民党最後の打ち上げは秋葉原駅頭だった。駅前広場を埋めつくした、日章旗と旭日旗の林立には、肌に粟立つ思いを禁じ得なかった。安倍極右勢力の総選挙勝利は、レイシストたちに、「嫌中・嫌韓は時の流れ」「何をやっても大丈夫」というメッセージと認識されているのだ。
日米の交戦時に、お互い敵国民に対してどのような差別語で侮蔑しあったか。そのことを忘却してはならない。そして、その重い記憶を常に賢く活かさねばならない。日中も同様、日韓もだ。忘却は、あの忌まわしい体験を再来させかねない。再確認しよう。すべての人の尊厳を認めることが、平和の礎である。差別感情の扇動こそが、戦争の危険を招き寄せるのだ。
(2013年10月10日)